都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20250530
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2025/05/30 (Fri) 09:39:01
BOBBY WOMACK /♪ IT'S ALL OVER NOW
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250530
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2025/05/30 (Fri) 09:42:00
DIONNE WARWICK /♪ WALK ON BY
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250530
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2025/05/30 (Fri) 09:42:53
DANGER MOUSE & DANIELE LUPPI FEAT.NORAH JONES /♪ BLACK
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250530
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2025/05/30 (Fri) 09:44:48
CLIFF RICHARD /♪ WE DON'T TALK ANYMORE
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250530
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2025/05/30 (Fri) 09:45:38
JOHN LENNON /♪ WELL...(BABY PLEASE DON'T GO)
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250530
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2025/05/30 (Fri) 09:46:32
BOB SEGER & THE SILVER BULLET BAND /♪ NIGHT MOVES
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250530
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2025/05/30 (Fri) 09:47:32
JOHNNY THUNDERS /♪ YOU CAN'T PUT YOUR ARMS AROUND A MEMORY
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2025/05/30 (Fri) 09:51:04
ANNE MURRAY /♪ JUST ANOTHER WOMAN IN LOVE
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2025/05/30 (Fri) 09:51:54
PATTI LABELLE /♪ I NEVER STOPPED LOVING YOU
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2025/05/30 (Fri) 09:52:49
LITTLE RIVER BAND /♪ TAKE IT EASY ON ME
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2025/05/30 (Fri) 09:53:41
AARON NEVILLE /♪ PLEASE REMEMBER ME
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2025/05/30 (Fri) 09:54:31
BROOK BENTON /♪ RAINY NIGHT IN GEORGIA
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250530
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2025/05/30 (Fri) 09:56:09
RANDY CRAWFORD /♪ HOLD ON,BE STRONG
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2025/05/30 (Fri) 09:57:01
BILLY OCEAN /♪ THERE'LL BE SAD SONGS(TO MAKE YOU CRY)
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今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:39:04
Manfred Mann/♪ Do Wah Diddy Diddy
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:39:57
FUN FACTORY /♪ DOH WAH DIDDY
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:40:53
SLASH FEAT.FERGIE & CYPRESS HILL /♪ PARADISE CITY
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2025/05/29 (Thu) 13:41:49
Guns N' Roses/♪ PARADISE CITY
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:44:09
Prince & The Revolution/♪ LET'S GO CRAZY
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:45:06
JIMI HENDRIX /♪ Voodoo Chile
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:46:07
GIL EVANS & HIS ORCHESTRA /♪ VOODOO CHILE
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:47:07
Booker T. & The MG's /♪ Green Onions
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:48:02
MAXI PRIEST FEAT.SHAGGY /♪ THAT GIRL
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:49:04
AROUND THE WAY /♪ REALLY INTO YOU
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:49:56
Grover Washington, Jr feat. Bill Withers/♪ Just the Two of Us
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:50:51
Michael Jackson/♪ Human Nature
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:51:58
SWV /♪ RIGHT HERE&HUMAN NATURE
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:56:38
Procol Harum/♪ A WHITER SHADE OF PALE
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250529 - ラジオの友 URL
2025/05/29 (Thu) 13:57:42
SARAH BRIGHTMAN /♪ A WHITER SHADE OF PALE
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 05:52:08
◆◇◆其の一:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
日本の人口減少に少子高齢化が問題視され既に20年余り経つ。
この間、この問題が解決するどころか、年々に悪化の一途を辿(たど)っている。
人間の社会構造は人間がコントロールできるのかも知れないが、地球の生態系をコントロールできるのは地球のみしか出来ないのかも知れない。
人間も地球の生き物である。
その生態系は地球に委ねられていると考えれば、人口減少に少子高齢化もその一環の現象と捉(とら)えれば理解できる。
とは言っても、歳(とし)を重ねる事に身近に感じる高齢者の実態と実感。
ザックリとした統計だが、その数字を見ると納得する部分もある。
2023年の日本の平均寿命は、男性は81歳で女性は87歳と言われる。
1人の高齢者を支える現役世代の数を年代別に示すと、1960年は12人、2000年は3人、2020年は2人、2060年は1.3人となる。
1人の医師が担当する高齢者の患者の数を年代別に示すと、2000年は4人、2020年は2人、2040年は1.5人となる。
この統計が示す様に、日本の近い将来は高齢者で溢れかえるのか?
現在の80代は1945年の終戦後に生まれ、まだまだ食糧不足の上に自然食で育っている為に、基礎体力がしっかりとしており、それに相まって医療の発展も長寿に貢献している。
ただ、高度経済成長期の食生活の変化により、医療の発展とは裏腹に、化学食品添加物を多く摂取している60代以降の世代は長生き出来ないと言われる。
もしかしたら、今の20代はインスタント食品やジャンクフードの多量摂取により、50代で寿命を迎えるかもしれない。
それでなくとも、日本人の2人に1人が癌(ガン)を患い、7人に1人が認知症を発症する。
しかも抗がん治療には、薬物による認知機能の低下も見られる。
現代の日本人は、高齢者になればこの何方(どちら)かを患う事を意味する。
高齢に伴い認知機能が低下して、車の運転の可否も解らず乗ってどこかに行き、小学生の列に突っ込み尊い幼い命を奪う事は、他人事ではなくなっている。
『車が無いと日常生活が送れない!』と戯言(たわごと)をほざいても、その後に犯した大罪から逃れる事はできない。
自分だけは大丈夫ではない。
自分が一番に危ないと思った方が良い。
BILL CHAMPLIN /♪ FLY WITH ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 05:53:10
◆◇◆其の二:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
“人生100年時代”や“長寿の祝い”と持て囃(はや)す高齢化社会。
長生きは本当にめでたく良い事ばかりなのか?
中には病気知らずで健康体の高齢者も居るだろう。
80代でも元気よく労働に励(はげ)む高齢者も見かける。
ただ、大きな総合病院に行けば、日本の人口構造の歪(いびつ)さを目の当たりにする。
1ヶ月余り入院すれば、それがより実感できる。
近い将来の自分自身の姿が、その病室にはある。
一般的に高齢者は1人では日常生活が送れず介護が必要になるが、病気の症状に合わせた住宅と年金収入では足りない医療費が重くのしかかってくる。
問題は、死期もタイミングを逃すと、生き地獄の現実に、死ぬ恐怖よりも苦しむ事になる。
家族や病院などは『早く逝去してくれ!』と思ったとしても、言葉として口から発する事は出来ない。
生死の問題は、己(おのれ)の問題でもある。
年齢に関係なく、自分自身がいつも覚悟を決めておく必要がある。
小脇差(こわきざし)で責任を取って、いつでも切腹できる様にしている戦国時代の武士のように。
では、500年余り前の戦国時代の寿命事情はどうだったのか?
ATLANTA RHYTHM SECTION /♪ SO IN TO YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 05:54:08
◆◇◆其の三:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
戦国時代の武士のほとんどは、戦(いくさ)により命を落としている。
ただ、武将になると合戦では後方の陣営で陣頭指揮を執(と)るだけなので、“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと/今川)や“肥前の熊”と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)は例外として、基本的には戦(いくさ)で命を落とす事は無い。
有名な戦国武将は何歳まで生きたのか?
“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)は1521年〜1573年の52歳で、病気により死去している。
“越後の龍”と呼ばれた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は1530年〜1578年の48歳で、病気により死去している。
三英傑(さんえいけつ)の織田信長(おだのぶなが/織田)は1534年〜1582年の48歳で、謀反(むほん)により死去している。
三英傑(さんえいけつ)の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は1537年〜1598年の61歳で、病気により死去している。
三英傑(さんえいけつ)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は1543年〜1616年の73歳で、老衰に近い病気により死去している。
織田信長(おだのぶなが/織田)は例外として、ほとんどの武将は畳の上で逝去する事ができている。
当時としては、武田信玄(たけだしんげん/武田)や上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の50代前後が平均的な寿命で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)や徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は長生きの方だろう。
そんな戦国時代でも、現代の平均寿命もしくはそれ以上に長生きした武士が存在する。
しかも、高齢でも引退せずに、生涯現役で戦地に立ち続けている。
500年余り前の歴史で確たる証拠は無いが、現代まで語り継がれるにはそれ相当の事実があり、その武士の伝説が夢と希望を与え続けてきた証(あかし)と言えよう。
SEAWIND /♪ LOVE HIM,LOVE HER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 05:55:15
◆◇◆其の四:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
●大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)●
美濃国(岐阜県)の斎藤氏に仕える武士の家系に生まれた大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、1508年〜1604年の96歳まで生涯現役を貫いた武士である。
美濃国(岐阜県)の守護の土岐氏と守護代の斎藤氏に仕える武士の長井新左衛門尉(ながいしんさえもんのじょう)こと松波庄五郎(まつなみしょうごろう/土岐→斎藤)や、息子で“蝮(マムシ)の道三”と呼ばれた長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)に仕える大嶋光宗(おおしまみつむね/斎藤)を父親に持つ大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)。
しかし、大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)が10歳の頃に、父親の大嶋光宗(おおしまみつむね/斎藤)が1518年に起こった合戦で討死し、親族に預けられる。
少年の大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は肩身の狭い生活を強(し)いられ、この時の逆境をバネに武芸に励んだと言われる。
当時の合戦の主流武器だった弓の技能を鍛錬(たんれん)し、いつしか“弓取り名人”と呼ばれる腕前になっていた。
13歳の初陣(ういじん)で多くの敵兵を弓で射抜く武功も挙げている。
大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)の弓の射芸は、敵陣の鉄砲隊をも矢で射抜いたり、木の影に隠れた敵兵を矢が木を貫き兵士の首を射抜いたと言われる。
斎藤軍にも、敵軍にも“弓取り名人”として名を馳せた大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)に対して、斎藤軍の“槍の名手”と言われる武士が嫉妬心から挑発してきた。
斎藤軍の武士…『雲八殿は弓の名手と聞くが、合戦の主体は槍隊で御座いますよ。 戦(いくさ)では槍を扱かえて一人前の武士と言えますぞぉ!』
大島雲八…『槍!?』
戦国時代の合戦では、槍隊が前線に出て戦い、勝敗の要は弓矢隊が担っていた。
因(ちな)みに槍は先端で突くのではなく、敵兵を叩いて跳ね除ける武術だった。
この“槍の名手”の武士の言葉から大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、合戦を弓から槍に持ち替えて戦い抜き、3年間で“槍の名手”の武士より多くの武功を挙げた。
大島雲八…『う〜〜ん、やはり私は槍よりも弓のが向いておる。 お主もそうは思わんかぁ?』
斎藤軍の武士…『ウッグググッ〜』
そんな大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、“蝮(マムシ)の道三”と呼ばれた長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の息子の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)や、その息子の一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)に仕えていた。
ところが、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)が美濃国(岐阜県)に侵攻し、領主の一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)が合戦に敗北し、更に家臣の竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)の調略により、美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)から追放された。
これらにより大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は牢人(無職侍)となる。
GLENN JONES /♪ I'VE BEEN SEARCHIN'(NOBODY LIKE YOU)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 05:56:23
◆◇◆其の五:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
ただ、“弓取り名人”と呼ばれる大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)の腕前は、東海地方の武将には知れ渡っていた。
そこに目を付けたのが美濃国(岐阜県)を領域にした尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)である。
織田信長…『其方(そなた)の弓の腕前は天下に轟いておる。 是非、織田軍の弓大将としてお力添えを頂きたい。』
大島雲八…『こんな老兵に有難きお言葉です。』
この時の大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は既に60代を超えていた。
西国侵攻による織田軍の弓大将に就いた大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の期待通り、いや、それ以上の武功を挙げ続けた。
織田信長…『其方(そなた)の弓の腕前は知っておったが、その知る以上の射芸に感服致す。 その弓の矢は白雲も穿(うがつ)つ様な働きにより、此(こ)れからは雲八(うんぱち)と名乗るがよい。』
大島雲八…『有難き幸せで御座います。』
しかし、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)してしまう。
この時、大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)に居た。
織田信長(おだのぶなが/織田)の死去は安土城(あづちじょう/近江八幡)にも直ぐ知らされ、明智軍の襲来を察知した大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は家族と共に美濃国(岐阜県)に逃亡した。
その際、道中には多くの落武者狩りが潜伏(せんぷく)していたが、大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は落武者狩りを討ち取り美濃国(岐阜県)の陣営に辿り着いた。
THUNDERCAT FEAT.MICHEAL MCDONALD & KENNY LOGGINS /♪ SHOW YOU THE WAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 05:57:26
◆◇◆其の六:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後、大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に嘆願され、織田軍と同様に豊臣軍でも弓大将に就いた。
豊臣秀吉…『其方(そなた)の弓の腕前は天下に轟いておる。 是非、豊臣軍の弓大将としてお力添えを頂きたい。』
大島雲八…『こんな老兵に有難きお言葉です。』
この時の大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は既に70代を超えていた。
天下統一による豊臣軍の弓大将に就いた大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の期待通り、いや、それ以上の武功を挙げ続けた。
豊臣秀吉…『其方(そなた)の弓の腕前は知っておったが、その知る以上の射芸に感服致す。 その弓の矢は白雲も穿(うがつ)つ様な働きにより領域を1万1200石の加増に致すぞ。』
大島雲八…『有難き幸せで御座います。』
しかし、1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて主君の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去する。
THE JAZZMASTERS /♪ WALKIN' TO FREEDOM
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 05:58:29
◆◇◆其の七:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に嘆願され、織田軍や豊臣軍と同様に徳川軍でも弓大将に就いた。
徳川家康…『其方(そなた)の弓の腕前は天下に轟いておる。 是非、徳川軍の弓大将としてお力添えを頂きたい。』
大島雲八…『こんな老兵に有難きお言葉です。』
その後の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は東軍に就いて勝利に導いた。
この時の大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は93歳で、当然に両軍の最高齢である。
大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)には息子が4人おり、それぞれが東軍と西軍に別れて戦った。
東軍に就いたのが大島光成(おおしまみつなり/斎藤→織田→豊臣→徳川)と大島光政(おおしまみつまさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)である。
西軍に就いたのが大島光俊(おおしまみつとし/斎藤→織田→豊臣→徳川)と大島光朝(おおしまみつとも/斎藤→織田→豊臣→徳川)である。
敗北した西軍の武士と同様に処罰を受けるところだが、大島光俊(おおしまみつとし/斎藤→織田→豊臣→徳川)と大島光朝(おおしまみつとも/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、東軍で武功まで挙げた大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)の影響力により、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西軍に就いた息子2人をお咎(とが)めなしの無罪放免とした。
天下統一による徳川軍の弓大将に就いた大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の期待通り、いや、それ以上の武功を挙げ続けた。
徳川家康…『其方(そなた)の弓の腕前は知っておったが、その知る以上の射芸に感服致す。 その弓の矢は白雲も穿(うがつ)つ様な働きにより鷹の褒美を与え、領域を1万8000石の加増に致すぞ。』
大島雲八…『有難き幸せで御座います。』
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)を相当に気に入り、居城する駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう)にも招聘(しょうへい)している。
特に大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)の長寿に興味津々(きょうみしんしん)だったと言う。
徳川家康…『その雲八殿のめでたき長寿、どの様に健康管理と体力作りをしておるのですか?』
大島雲八…『そうですねぇ〜 戦術に対しての好奇心と、射術に対して飽くなき鍛錬(たんれん)でしょうか?』
徳川家康…『うむぅ〜 雲八殿が言うと重みが違う。 素晴らしきお言葉ですぞぉ!』
大島雲八…『此方(こちら)こそ勿体(もったい)ないお言葉で御座います。』
その後の1604年の96歳にて、大島雲八(おおしまうんぱち)こと大島光義(おおしまみつよし/斎藤→織田→豊臣→徳川)は永きに渡る戦国の人生に幕を閉じる。
CHUCK MANGIONE /♪ GIVE IT ALL YOU GOT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 05:59:27
◆◇◆其の八:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
●日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)●
美濃国(岐阜県)の斎藤氏に仕える武士の家系に生まれた日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は、1518年〜1602年の84歳まで生涯現役を貫き、壮絶な最期(さいご)を遂げた武士である。
美濃国(岐阜県)の守護の土岐氏と守護代の斎藤氏に仕える武士の長井新左衛門尉(ながいしんさえもんのじょう)こと松波庄五郎(まつなみしょうごろう/土岐→斎藤)や、息子で“蝮(マムシ)の道三”と呼ばれた長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)に仕える家臣の日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)。
ただ父親の長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)と息子の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)の親子同士による斎藤氏の紛争にて、1556年に起こった「長良川の戦」(ながらがわのたたかい)で日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は息子の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)の軍勢に就いて、長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)と婿殿(むこどの)の織田信長(おだのぶなが/織田)の軍勢と対戦した。
この親子対立により、一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)は、長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の息子で兄弟でもある斎藤孫四郎(さいとうまごしろう/斎藤)と斎藤喜平次(さいとうきへいじ/斎藤)を、稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)に呼び寄せて日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)に命じて斬殺している。
この「長良川の戦」(ながらがわのたたかい)により父親の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)は討死し、勝利した息子の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)に就いた日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は、これ以降、敵陣の織田信長(おだのぶなが/織田)とは因縁の相手となる。
一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)は、同盟国だった尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)とは袂(たもと)を分かち対立する事になるが、1561年に稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)で病死する。
一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)の家督を引き継いだのが息子の一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)で、日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)はそのまま家臣として斎藤軍に尽力する。
ところが、この世代交代の隙を突いた織田信長(おだのぶなが/織田)が、1567年に美濃国(岐阜県)の攻略に動き、敗北した一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)は美濃国(岐阜県)から追放され逃亡し、越前国(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)の元に身を寄せる。
1573年に織田信長(おだのぶなが/織田)が越前国(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)を討伐した際に、その戦乱で一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)は討死した。
これにて事実上、美濃国(岐阜県)の戦国大名だった斎藤氏は滅亡する。
主君を失った日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は牢人(無職侍)となる。
OWL CITY /♪ FIREFLIES
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:00:27
◆◇◆其の九:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
1573年に牢人(無職侍)となった日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は、駿河国(静岡県)に行き今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の家臣に就く。
今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は、「日本三大奇襲戦」と呼ばれる1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて織田信長(おだのぶなが/織田)に攻撃され討死した今川義元(いまがわよしもと/今川)の息子である。
この時点の駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)が統治する今川軍には、西方に三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、東方に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が虎視眈々と領国侵攻を狙っている。
圧倒的な不利な状況の今川軍でも、日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)の主君の選定を見ると、どうしても織田信長(おだのぶなが/織田)に感服(かんぷく)したくないのが解る。
結局、1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)の侵攻により駿河国(静岡県)を攻略され、今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)に逃亡した。
その後の1569年に、今度は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の侵攻により遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)を攻略されて今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は降伏した。
これにて事実上、駿河国(静岡県)の戦国大名としての今川氏は滅亡する。
主君を失った日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は牢人(無職侍)となる。
1573年に牢人(無職侍)となった日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)に行き浅井長政(あざいながまさ/浅井)の家臣に就く。
この時は既に織田信長(おだのぶなが/織田)と敵対関係にあった義弟の浅井長政(あざいながまさ/浅井)の浅井軍でも、日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)の主君の選定を見ると、どうしても織田信長(おだのぶなが/織田)に従属(じゅうぞく)したくないのが解る。
しかし、日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は浅井軍にて暴行事件を起こして、激怒した主君の浅井長政(あざいながまさ/浅井)に追放された。
浅井長政…『お前みたいな乱暴者は出て行けぇ〜!』
日根野弘就…『上等だぁ! こんな所は出て行ってやるぜぇ! 織田軍に攻撃されて滅亡してしまえっ!』
その直ぐ後に、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)に居城する浅井長政(あざいながまさ/浅井)は、義兄の織田信長(おだのぶなが/織田)の総攻撃により討死した。
これにて事実上、近江国(滋賀県)の戦国大名だった浅井氏は滅亡する。
浅井軍を追放されていた日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は伊勢国(三重県)に行き、ここでも織田信長(おだのぶなが/織田)と敵対する長島一向一揆(ながしまいっこういっき)に参加していた。
ただ、1574年に織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍との激戦により長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は鎮圧されて敗北した。
再び日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は牢人(無職侍)となり、この時は既に56歳で戦国武士としては高齢に差し掛かっていた。
SYREETA /♪ KEEP HIM LIKE HE IS
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:01:25
◆◇◆其の十:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
美濃国(岐阜県)からの確執(かくしつ)があり思う所もあるが、日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は時代の寵児(ちょうじ)でもある織田信長(おだのぶなが/織田)に仕えて家臣となる。
ただ、織田軍に10年余り仕えた1582年に「本能寺の変」(ほんのうじのへん)が起こり、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が死去する。
織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後、直参家臣だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が織田軍を引継ぎ、日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)もそのまま家臣として仕える。
その後の合戦で武功を挙げて活躍するが、気性が荒く横暴な日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は豊臣軍でも暴行事件を起こし、激怒した主君の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に追放された。
豊臣秀吉…『お前みたいな乱暴者は出て行けぇ〜!』
日根野弘就…『上等だぁ! こんな所は出て行ってやるぜぇ! 徳川軍に攻撃されて滅亡してしまえっ!』
ただ、この時は既に60歳を超えていた日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は、ほぼ豊臣政権が天下統一をしており他に雇ってくれる武将も見当たらない為に、反省して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の許しを請(こ)い豊臣軍に舞い戻ってきた。
日根野弘就…『先般はどうもすみませんでした。 横暴な態度を改め二度と暴行事件を起こさない事を誓い、心の底から反省しております。』
豊臣秀吉…『弘就殿、もう70歳近い歳(とし)なんだから、頼みますよぉ!』
しかし、“三つ子の魂、百まで”とはよく言ったもので、生まれ付きの性格は治せるものではない。
豊臣秀吉…『お前みたいな乱暴者は出て行けぇ〜!』
日根野弘就…『上等だぁ! こんな所は出て行ってやるぜぇ! 徳川軍に攻撃されて滅亡してしまえっ!』
豊臣軍では、何度か追放と復帰を繰り返した日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)である。
そんな豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)も1598年の61歳で、この世を去る。
この時、日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は既に80歳で、戦国武士としては後期高齢者になっていた。
KIARA /♪ THE BEST OF ME
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:02:35
◆◇◆其の十一:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、豊臣政権では西方の石田三成(いしだみつなり/豊臣)と、東方の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が対立していた。
この時、80歳を超えた日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は、何方(どちら)に加担する事なく中立の立場を示していた。
ただ実際は西方の石田三成(いしだみつなり/豊臣)の陣営と、幾度(いくど)と書状を遣(や)り取りしている。
日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)の息子の日根野高吉(ひねのたかよし/斎藤→今川→織田→豊臣→徳川)と、孫の日根野吉明(ひねのよしあきら/豊臣→徳川)は東方の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に就いていた。
そんな時の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)だったが、事もあろうか内通していた石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍が敗北し、東軍の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西軍に加担した武将を尽(ことごと)く処罰した。
これに危機感を覚えたのが日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)である。
合戦に参加した武将だけでなく、その家族なども処罰されお家潰しも受けている。
西軍と内通していた事が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の東軍に発覚すれば、重い処罰は免れないのは確実である。
日根野弘就(ひねのひろなり/斎藤→今川→織田→豊臣)は自邸の屋敷に保管している西軍と遣(や)り取りした書状を、庭先で燃やして隠蔽工作した。
息子の日根野高吉(ひねのたかよし/斎藤→今川→織田→豊臣→徳川)は東軍に就いたものの「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の最中(さなか)に病死しており、孫の日根野吉明(ひねのよしあきら/豊臣→徳川)が日根野氏の家督を継承している。
そんな日根野氏の懸念を取り除かなければならない。
敗北した西軍と内通していた日根野高吉(ひねのたかよし/斎藤→今川→織田→豊臣→徳川)は、日根野氏を守る為に責任を取って自決する事を決める。
家臣に介錯(かいしゃく)を頼み、自邸の屋敷にて切腹を決意する日根野高吉(ひねのたかよし/斎藤→今川→織田→豊臣→徳川)である。
ズブッ ズブッズブッ
日根野高吉…『ウグッ! うっ、うん!? あっ! まだ、書状が残っておるわぁい!』
家臣…『えっ!?』
日根野高吉…『すまぬがぁ、介錯(かいしゃく)は中止じゃ!』
家臣…『ええっ!? はぁ、腹が、腹が裂けて内臓が出ていますがぁ!』
日根野高吉…『こうしてはおれぇん! 急いで書状を燃やさねばぁ!』
腹が裂けて血塗れの日根野高吉(ひねのたかよし/斎藤→今川→織田→豊臣→徳川)は、屋敷の収納庫を引っ掻(か)きまわし西軍と遣(や)り取りした最後の書状を、庭先で燃やして最終隠蔽工作した。
日根野高吉…『ふぅ〜 何とか書状の全部を処分できたわぁい。 良かった、良かった、アッハハハハ〜』
家臣…『笑っている場合じゃないですよぉ! お腹から内臓が出て血塗れですよぉ!』
日根野高吉(ひねのたかよし/斎藤→今川→織田→豊臣→徳川)は、切腹したその日は応急処置で過ごす事ができたが、次の日に痛み出して1602年の84歳で逝去した。
因(ちな)みに日根野高吉(ひねのたかよし/斎藤→今川→織田→豊臣→徳川)が鉄砲の弾を避ける為に考案した丸い鉢(はち)のような形の兜(かぶと)は日根野頭形(ひねのずなり)と名付けられ、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)や井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)などが愛用したと言われる。
数奇な運命を辿った戦国武士の日根野高吉(ひねのたかよし/斎藤→今川→織田→豊臣→徳川)だが、日本の歴史に衝撃を与えるに十分な最期(さいご)だったと言える。
JAMES TAYLOR /♪ HER TOWN TOO
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:03:39
◆◇◆其の十二:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
●真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)と稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)●
甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とした戦国大名の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と、その息子で“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)に仕え、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)を居城に武田軍の家臣として活躍し“武田二十四将”に数えられる真田幸綱(さなだゆきつな/武田)が居た。
その息子の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)も、戦術や調略に長(た)けた戦国武将であった。
真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)には2人の息子が居り、長男が真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)、次男が真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)で、この名前は武田信玄(たけだしんげん/武田)の弟の武田信繁(たけだのぶしげ/武田)から頂戴(ちょうだい)している。
その長男の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、戦国の乱世で親子兄弟と敵対する境遇に置かれ、江戸幕府では信濃国(長野県)の上田藩と松代藩(まつしろはん/長野)の藩主に就任して、1566年〜1658年の92歳まで現役を通した稀有(けう)な武将である。
ただ、めでたい長寿とは裏腹に、“ザ・戦国”を地(じ)で行く永きに渡る生涯だった。
一方、1573年に“徳川四天王”と呼ばれる年に本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の娘として誕生した稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)は、幼少期から剣術に励み、その容姿の美しさから“輝く姫”(かぐや姫)と呼ばれていた。
ある日、城下町の郊外を散歩していた稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)は、雑木林から飛び出してきた猪(イノシシ)に遭遇した。
猪突猛進(ちょとつもうしん)する猪(イノシシ)の先には子供達が遊んでいる。
危険を察知した稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)は脇差(わきざし)の太刀(たち)を抜き、突進する猪(イノシシ)を一刀両断した。
これが本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の娘の稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)の、“戦国最強の女武士”として歩み始める第一歩の伝説である。
甲斐国(山梨県)では、“天下布武”を掲げる織田信長(おだのぶなが/織田)と敵対していた武田信玄(たけだしんげん/武田)が1573年に病死する。
その武田氏の家督を継承した武田勝頼(たけだかつより/武田)も、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)で織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍に敗北した。
その後に織田徳川軍による1582年に起こった「甲州征伐」(こうしゅうせいばつ)にて、武田勝頼(たけだかつより/武田)は自害に追い込まれて源氏名門家の武田氏は滅亡した。
主君を失った父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)をはじめ、息子の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)など武田軍の家臣は牢人(無職侍)の危機に陥った。
そこで父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が決断したのが、時代の寵児(ちょうじ)だった織田信長(おだのぶなが/織田)に臣従(しんじゅう)する事だった。
ただその後、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で横難横死(おうなんおうし)する。
再び主君を失った真田軍は、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と、戦国の動乱に合わせて主君を変更していった。
DAVID SOUL /♪ DON'T GIVE UP ON US
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:04:43
◆◇◆其の十三:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
ただ、父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と相性が合わず仲違いする。
そんな1585年に起こった「第1次上田合戦」にて、真田軍の軍勢2000人に対して徳川軍の軍勢7000人が信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)を包囲した。
この時、真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は砥石城(といしじょう/戸石城)に布陣した。
上田城(うえだじょう)から北東方に建つ砥石城(といしじょう/戸石城)は難攻不落の山城で、1550年に城主の村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が篭城し、敵陣であの武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が侵攻するも落とせずに敗北した「砥石崩れ」(といしくずれ)が有名である。
この「第1次上田合戦」も父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の戦術と知略により、大群勢の徳川軍を圧倒して勝利する。
ただ、天下統一を目前にした豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が統治する豊臣政権では、大名同士の紛争を禁止した1585年〜1587年に発令した“惣無事令”(そうぶじれい)により、父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が率いる真田軍は、関東地方を統治する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の軍門に臣従(しんじゅう)する事となる。
主君となった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の知略や武力を身を持って感じており、謀反(むほん)の芽を摘む為に政略結婚を推し進めた。
“徳川四天王”と呼ばれる本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の娘の稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)と、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の息子の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)が1587年に婚姻する運びとなった。
信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)を居城とする真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)に嫁いだ稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)は、徳川軍の系統と言う事もあり義父の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)から嫌われて、真田軍の家臣からも冷遇を受ける。
肩身の狭い思いをする稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)に対して、夫の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は気遣って最大限に抱擁(ほうよう)した。
GRAYSON HUGH /♪ BRING IT ALL BACK
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:05:45
◆◇◆其の十四:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
1590年に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に篭城する伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)を自決させ、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を降伏させた「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて事実上の日本統一を果たした豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は天下人となる。
同年の1590年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の関東への領地移転の転封(てんぽう)により、本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)は上総国(かずさ/千葉県)の大多喜城(おおたきじょう/夷隅)の領主となった。
その後の1598年に、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は死去する。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、豊臣政権では西方の石田三成(いしだみつなり/豊臣)と、東方の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が対立していた。
この時、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の家臣だった真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は離反して、次男の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)と共に西方の石田三成(いしだみつなり/豊臣)に参画した。
一方、長男の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、妻が本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の娘の稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)と言う事もあり、そのまま東方の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に就かせた。
こうして東西の陣営が衝突しても真田家が生き残れる様に、父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は画策した。
1600年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、反発の姿勢を見せる陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)に居城する上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)を侵攻する為に、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)などの徳川軍を率いて東国に進軍した「会津征伐」(あいづせいばつ)を実施する。
この時に長男の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊に所属していた。
妻の稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)は、真田氏の領域だった上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう)に入り女城主として守護した。
そこへ参戦する為に行軍していた真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が率いる真田軍が現れ、沼田城(ぬまたじょう)の開門を要求した。
真田昌幸…『真田軍の昌幸だが、誰か居らぬかぁ〜』
小松姫…『あっ、義父様! こんな所までどうなされたのですか?』
対応したのは鎧兜(よろいかぶと)を装着した稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)だった。
真田昌幸…『おおっ〜 姫よぉ! 孫の顔が見たくてのぉ〜 参陣途中に立ち寄ったのじゃ。 城門を開けてはくれぬかぁ。』
小松姫…『たとえ義父様でもお断り致します。 今は東西と別れた大きな戦中、家族でも敵陣を城内に入れる訳にはなりませぬ!』
真田昌幸…『さすがは“戦国最強の女武士”と呼ばれるだけの事はある。 姫よぉ、息子の事を頼んだぞぉ!』
小松姫…『義父様も、御命だけは大事にして御達者で過ごして下さい。』
こうして真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が率いる真田軍は沼田城(ぬまたじょう)を後にした。
そして西国で石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍が挙兵し、美濃国(岐阜県)で起こったのが「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)である。
東国に居た徳川軍は西方に引き返し、東海道を徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍1号隊、中山道(なかせんどう)を徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊が進行した。
その中山道(なかせんどう)の道中で通過する西軍の信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)を、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と“徳川四天王”と呼ばれる榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)は攻撃する事を決定した。
地域の勝手を知る真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)に対して、難攻不落の砥石城(といしじょう/戸石城)を攻撃する様に軍令が下る。
しかし、その砥石城(といしじょう/戸石城)には、弟の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が布陣する。
戦国時代は親子兄弟で争う事は珍しくなかったが、天下統一された後では闘争の感覚も違っていた。
兄の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は弟の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)に対して、家族の無駄な争いは避けて砥石城(といしじょう/戸石城)の開城要請を実施する。
これに対して弟の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)も承諾し、砥石城(といしじょう/戸石城)は徳川軍2号隊に対して開城された。
ところが父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が布陣する上田城(うえだじょう)では、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の軍勢が真田軍の調略や戦術に翻弄(ほんろう)され苦戦していた。
結局、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から早急に西国へ進軍する様に伝令(でんれい)が送達され、信濃国(長野県)の戦地から離れる事になった徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊は実質的に敗北となる。
これを「第2次上田合戦」と呼ぶ。
LOGGINS & MESSINA /♪ PEACE OF MIND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:06:48
◆◇◆其の十五:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
先行して東海地方に入った徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍1号隊は、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)を攻略した福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)や黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)の軍勢と合流し10万人余り東軍となった。
そして西方に進軍して石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる8万人余りの西軍と、美濃国(岐阜県)の関ヶ原の戦地で激戦を繰り広げる。
合戦は半日程度で終決し、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)は東軍の勝利に終わる。
この合戦に間に合わなかったのが徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊であり、これら類(たぐい)で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は激怒したと言う。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後、勝利した東軍の総大将の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、西軍に属した武将の懲罰を実施した。
その中には「第2次上田合戦」にて徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊に勝利していた父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と弟の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)も含まれていた。
この2人に対して徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は死罪を言い渡した。
東軍に就いた兄の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、主君でもある徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対して家族の助命嘆願を切望した。
しかし、父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の戦術と調略により煮え湯を飲まされてきた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)としては、今後も不安材料となる真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)を生かす事は出来なかった。
しかし、ここで力添えしたのが“徳川四天王”と呼ばれる本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)と、娘の稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)である。
真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)の義父でもある本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の助命嘆願の直談判により、さすがの徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も死罪は撤回して、紀伊国(和歌山県)の高野山(こうやさん)の近くにある九度山(くどやま)に配流(はいる)となった。
1603年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は朝廷から征夷大将軍1代目に任命され、武蔵国(東京都)に江戸幕府を開設した。
九度山(くどやま)で生活する父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と弟の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)の為に、真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は江戸幕府に対して赦免(しゃめん)嘆願を続けた。
妻の稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)は日々の生活を質素倹約して資金を工面(くめん)し、九度山(くどやま)の義父に生活費の仕送りをしていた。
その稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)の献身的な姿勢から、義父の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は感謝の手紙を送っていた。
その後の1611年に父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が流刑先の九度山(くどやま)で死去する。
息子の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、家族葬だけでも催したいと江戸幕府にお伺いをたてる。
しかし、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)に対する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の心象の悪さから江戸幕府の官僚は忖度(そんたく)し、葬儀の開催を許可しなかった。
そして真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)に取って、再び心痛する出来事が起こる。
豊臣家の滅亡を狙った徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)による1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」にて、弟の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が紀伊国(和歌山県)の九度山(くどやま)から逃亡して、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に布陣する豊臣軍に参画したのである。
この時、真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は体調不良で徳川軍に参戦はしていないが、2人の息子の真田信吉(さなだのぶよし/徳川)と真田信政(さなだのぶまさ/徳川)が戦地に赴(おもむ)いた。
戦況は徳川軍の勝利に終わり、豊臣氏は滅亡して、豊臣軍として参戦し真田丸の砦(とりで)を築いて奮闘した真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)も最後は討死した。
CECILIO & KAPONO /♪ ABOUT YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:07:47
◆◇◆其の十六:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう)に居住していた大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、1616年に当時としては長寿の73歳で死去し、三英傑(さんえいけつ)の中では一番の長生きである。
その頃、江戸幕府での真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、信濃国(長野県)の上田藩の藩主を務めていた。
1619年に妻の稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)が体調を崩して床に伏せる様になる。
小松姫…『信之様、最後の妥協(だきょう)を申し上げます。 京都に居られる小野お通の方を上田にお呼びになっても宜しいですこと。』
真田信之…『ええっ!? なぁ、なんで知っているの!?』
小松姫…『信之様が密かに京都の女性と文通を交わしている事など、とうの昔に知っていましたわぁ。』
真田信之…『そうだったのかぁ。』
小野お通(おのおつう/歌人)とは、京都に住む真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)の文通の友で、後々に息子の真田信政(さなだのぶまさ/徳川)の側室となる女性である。
1620年に稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)は、病気が悪化して47歳でこの世を去る。
その後、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の威令(いれい)により、1622年に真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は同じ信濃国(長野県)の松代藩(まつしろはん/長野)へ13万石の加増による領地移転の転封(てんぽう)となる。
この時、真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は56歳で、藩主としてまだまだ現役である。
1623年に徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)が征夷大将軍3代目に就任する。
1632年に征夷大将軍2代目だった徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が死去する。
この時、真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は66歳で、藩主としてまだまだ現役である。
1651年に征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)が死去し、まだ10歳の徳川家綱(とくがわいえつな/徳川)が征夷大将軍4代目に就任する。
この時、真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は85歳で、藩主としてまだまだ現役である。
ただ、この間にも真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、江戸幕府に対して何度も隠居願いを出し続けている。
しかし、江戸幕府は真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)の領国統治の能力の高さと領民の人望の厚さから、なかなか引退はさせてくれなかった。
1656年にようやく隠居が認められて、息子の真田信政(さなだのぶまさ/徳川)が松代藩(まつしろはん/長野)の藩主を引き継いだ。
もう1人の息子の真田信吉(さなだのぶよし/徳川)は、上野国(こうずけ/群馬県)の沼田藩(ぬまたはん)の藩主となっていた。
この時、真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は90歳で、穏やかで心安らぐ隠居生活を始める。
その2年後の1658年に、真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は92歳で永きに渡る武士の生涯に幕を閉じる。
もはや仙人の様な真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)の死去は、江戸幕府だけでなく信濃国(長野県)の松代藩(まつしろはん/長野)の多くの領民も悲しんだと言う。
MAXINE NIGHTINGALE /♪ LEAD ME ON
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:08:46
◆◇◆其の十七:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
●立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)と立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)●
1500年代の戦国時代、西国の九州では“三者鼎立”(さんしゃていりつ)が成立した豊後国(ぶんご/大分県)の大友氏、肥前国(佐賀県)の龍造寺氏、薩摩国(鹿児島県)の島津氏による“九州三国志”の幕が開けた。
この3家でも力があったのは、豊後国(ぶんご/大分県)の“豊後の王” と呼ばれた戦国大名の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)と、薩摩国(鹿児島県)の島津氏の中興の祖(ちゅうこうのそ)と呼ばれた戦国武将の島津忠良(しまづただよし/島津)で、そこに割って入ったのが肥前国(佐賀県)の“肥前の熊”と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)である。
その“豊後の王” と呼ばれる大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)には、大友氏の三家老と言われる優秀な重鎮家臣の戸次鑑連(べっきあきつら)こと立花道雪(たちばなどうせつ/大友)と吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)と臼杵鑑速(うすきあきはや/大友)が支えていた。
そして大友軍の脅威を知らしめたのが、戸次鑑連(べっきあきつら)こと立花道雪(たちばなどうせつ/大友)の雷神(らいじん)、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の風神(ふうじん)と呼ばれる忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の武将である。
高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)とは、吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)の息子であり高橋氏に養子に入っていた。
その息子に立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)と高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居る。
高橋氏の家督を引継ぐ長男で嫡男(ちゃくなん)の立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の氏名(うじな)が立花氏なのは、少年期に立花道雪(たちばなどうせつ/大友)の養子に入っているからである。
戦国時代から江戸時代まで生き抜いた立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、1567年〜1643年の76歳まで現役を通した“西国無双”(さいごくむそう)と呼ばれ武将だが、その生涯は波乱に満ちている。
豊後国(ぶんご/大分県)で生まれた立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、大友軍の風神(ふうじん)と呼ばれる高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)に文武を教え込まれた。
1569年に立花道雪(たちばなどうせつ/大友)が56歳の時に、娘の立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)が誕生し、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の後々の伴侶(はんりょ)となる。
名前の由来(ゆらい)は『常に控え目で慎(つつし)み、周囲に気配りできる女性。』との意味が込められている。
立花道雪(たちばなどうせつ/大友)には男子の嫡男(ちゃくなん)が居なかった為に、1576年の7歳の時に立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は立花氏の家督を継承し、筑前国(福岡県)の立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)の女城主に就任した。
ただ、主君の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)から反対の声が挙がった。
大友宗麟…『道雪殿よぉ、男子が居なければ養子を取って家督を譲ればよいのではないかぁ? 何も娘を城主にする事もなかろうに!』
立花道雪…『いやいや宗麟殿よぉ、この子は見た目は女子だが、男子に劣らぬ武将に仕立て上げるで御座るよぉ!』
立花誾千代…『うぅ〜〜』⦅余計な事は言うなぁ!⦆
大友宗麟…『いやぁ〜 しかしだねぇ〜』
立花道雪…『いやぁ、立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)の城主は、誾千代以外に考えられぬぅ!』
立花誾千代…『うぅ〜〜 うぅ〜〜』⦅主君だからと言って、お前は余計な事は言うなぁ!⦆
大友宗麟…『うっ、うん、仕方ないなぁ〜 じゃあ、そうするか。』
こうして立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)が立花氏の家督を継承し、立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)には前代未聞の筑前国(福岡県)の女城主が誕生した。
1581年、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が14歳の時に、大友軍の雷神(らいじん)と呼ばれる立花道雪(たちばなどうせつ/大友)から、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)へ息子を養子に欲しいと嘆願される。
通常、養子縁組は長男で嫡男(ちゃくなん)の家督継承者は行かないものだが、この時は次男の高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)ではなく、長男の立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が指名された。
これらの理由は定かではないが、父親の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)も義父の戸次鑑連(べっきあきつら)こと立花道雪(たちばなどうせつ/大友)も養子に入っている事から、格式ある藤原氏の庶流(しょりゅう)で大友氏の系統の武家の戸次氏(べっきうじ)を重んじたのかも知れない。
当初は高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)もお断りしていたのだが、同じ軍友で尊敬もしていた立花道雪(たちばなどうせつ/大友)の頼みを承諾した。
立花家に入る時、父親の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)は、息子の立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)に高橋氏に伝わる家宝である太刀(たち)の備前長光(びぜんながみつ)を持参させた。
高橋紹運…『立花道雪殿は武将としても、文化人としても、才能溢れる素晴らしいお方だ。 しっかりと文武を学ぶと良い。』
立花宗茂…『はい、父上。』
高橋紹運…『これは高橋家に伝わる名刀の備前長光(びぜんながみつ)だ。 立花家にこの太刀(たち)を持っていけ。』
立花宗茂…『高橋家の名に恥じぬ様に鍛錬(たんれん)します。』
高橋紹運…『もし、高橋家と立花家が争う事になれば、お前は立花家の武将として、その太刀(たち)で私を斬れ!』
立花宗茂…『えっ!? ・・・』
戦国武将としての威厳を教える一幕(ひとまく)である。
家督継承者として立花家に入った立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、義父の立花道雪(たちばなどうせつ/大友)に文武を教え込まれ、特に剣術への鍛錬(たんれん)は厳しいものがあった。
この立花家の屋敷には立花道雪(たちばなどうせつ/大友)の娘で元は家督継承者の筑前国(福岡県)の立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)の女城主でもある立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)が居り、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の2歳年下で義理の妹にあたる。
横から割り込んで立花氏の家督を継承した立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)に対して、立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は敵意を剥(む)き出しにした。
しかし、血の繋がらない義理の妹の為に、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)と結婚する運びとなった。
年も近い事から、13歳の立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は15歳の立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)に突っ掛かってきたと言う。
この関係は夫婦と言うよりも、ライバル的な友達か兄弟に近いかもしれない。
夫婦仲は不明だが子供も誕生せず、後々に別居している為に、熱愛とは程遠い事は判別できる。
SAY SHE SHE /♪ SAME THINGS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:09:46
◆◇◆其の十八:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
この時期の主君である大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)は九州や中国の武将を相手に奮戦していた。
九州では薩摩国(鹿児島県)の島津忠良(しまづただよし/島津)や息子の島津貴久(しまづたかひさ/島津)、それに肥前国(佐賀県)の“肥前の熊”と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)の“九州三国志”の三つ巴が交戦する。
海の向こうの中国地方では安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)や、長門国(山口県)の大内義長(おおうちよしなが/大友→大内)が九州の進出を虎視眈々と狙っている。
こんな緊迫した状態でも大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)は、周囲から“豊後の王” と持て囃(はや)されて慢心(まんしん)と傲慢(ごうまん)が目立つ様になる。
ちょうど、この頃にキリスト教の洗礼を受けてドンフランシスコ(洗礼名)と名乗る。
この主君の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)を諌(いさ)めていたのが重鎮家臣の立花道雪(たちばなどうせつ/大友)である。
ただ、キリスト教にのめり込み武士の魂すら感じられず、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の没落していく姿を見て、多くの家臣が大友氏から離反していった。
さらに主君の戦闘意識の低下で一萬田鑑実(いちまたあきざね/大友)と高橋鑑種(たかはしあきたね/大友→毛利)の兄弟は、安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)や日向国(ひむか/宮崎県)の武将である秋月種実(あきづきたねざね/大内→毛利→島津)を頼り反乱を起こす。
この時に大友軍の陣頭指揮を執(と)ったのが重鎮家臣の立花道雪(たちばなどうせつ/大友)である。
この戦乱で立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)も初陣(ういじん)を果たし、武功(ぶこう)も挙げている。
日向国(ひむか/宮崎県)の武将の秋月種実(あきづきたねざね/大内→毛利→島津)などの合戦では、義父の立花道雪(たちばなどうせつ/大友)と共に立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、1582年に筑前国(福岡県)の早良城(さわらじょう/福岡)に侵攻して落城させた。
1583年には、筑前国(福岡県)の宗像大社(むなかたたいしゃ)の大宮司(だいぐうじ)で、蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう/宗像)の城主だった宗像氏貞(むなかたうじさだ/宗像)の居城の許斐山城(このみやまじょう/宗像)も落城させている。
そして、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)は3万人の豊後軍を結成して、日向国(ひむか/宮崎県)に拠点を置く島津氏輩下の武将を討伐した。
さらに、日向国(ひむか/宮崎県)を完全に伊東義祐(いとうよしすけ/伊東)の領国とする為に、豊後軍を派遣して領国統治を始める。
この頃、薩摩国(鹿児島県)では当主の島津貴久(しまづたかひさ/島津)が1571年に病気で死去しており、その息子の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)、そして島津家久(しまづいえひさ/島津)と島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)の島津四兄弟の時代に入っていた。
この大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の動きに、やはり薩摩国(鹿児島県)の島津氏の当主である島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)も動き出した。
そして、日向国(ひむか/宮崎県)に流れる小丸川(おまるがわ)こと高城川(たかぎがわ/木城)を挟んで、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が率いる豊後軍と島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が率いる薩摩軍が陣を構えて対峙した。
こうした中で合戦は始まり、序盤は豊後軍が戦況有利に運んだが、中盤で薩摩軍が豊後軍を包囲して攻撃を仕掛け、終盤で情勢不利となった豊後軍が高城川(たかぎがわ/木城)を渡って撤退しようとしたら川が増水しており多くの武士が流され溺死した。
この戦(いくさ)で、軍師の角隈石宗(つのくませきそう/大友)をはじめ多くの武将が討死した。
これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる薩摩軍の勝利が決まる。
これを1578年に起こった「耳川の戦」(みみかわのたたかい)と呼ぶ。
この大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の大敗で、九州各地の多くの武将が大友氏から離反していった。
豊後国(ぶんご/大分県)のドンフランシスコ(洗礼名)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が弱体化する臭いを嗅ぎつけると、肥前国(佐賀県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)は一気に拡大路線へと突き進む。
これにより龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)の領国は、豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)と筑前国(福岡県)と筑後国(福岡県)と肥前国(佐賀県・長崎県)、そして対馬島(つしまとう/長崎)と壱岐島(いきのしま/長崎)の“五州二島”(一部統治含む)となった。
ただ、龍造寺軍を離反した有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 → 島津)は島津氏に就き、これに激怒した龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)は“有馬晴信討伐”に動いた。
そして島原半島の西側に面した沖田畷(おきたなわて)の北側に布陣する龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)が率いる肥前軍は3万人の大軍、南側に布陣する有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 → 島津)が率いる島原軍と島津家久(しまづいえひさ/島津)が率いる薩摩軍を合わせた6000人の小軍が対峙する事になる。
この合戦では島津氏のお家芸でもある“釣り野伏せ”(つりのぶせ)で肥前軍を誘き寄せて、ある一定の位置にまで来た時に隠れていた伏兵の鉄砲(火縄銃)で総攻撃を浴びせ、肥前軍の総大将の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)は斬首され討死した。
これを1584年に起こった「沖田畷の戦」(おきたなわてのたたかい)と呼ぶ。
“三者鼎立”(さんしゃていりつ)を呈(てい)して、“九州三国志”の一角を担う肥前国(佐賀県)の“肥前の熊”と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)が死去すると、そのパワーバランスが崩れ始める。
九州は豊後国(ぶんご/大分県)の戦国大名の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)と、薩摩国(鹿児島県)の戦国武将の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の2強の構図となる。
当時、弱体化していた大友軍の窮地を救ったのが立花道雪(たちばなどうせつ/大友)の雷神(らいじん)と高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の風神(ふうじん)と呼ばれる勇猛果敢(ゆうもうかかん)の武将である。
この時、70歳を超え足が弱っていた立花道雪(たちばなどうせつ/大友)は4人の若武者が担いだ御輿(おこし)に乗り、立花氏の宝刀(ほうとう)の雷切(らいきり)と備前清光(びぜんきよみつ)を傍(かたわら)に置いて敵陣に突進して斬り込んだと言う。
大友軍は龍造寺氏の領国だった筑後国(福岡県)に侵攻し制圧し、没落の危機にあった大友氏は勢力を盛り返した。
ただ、この筑後国(福岡県)に侵攻する中で、1585年に布陣する陣営で立花道雪(たちばなどうせつ/大友)は病気で死去する。
そして、畿内(きない/関西)をはじめ本州では、織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後の織田軍を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一の為に、日本各地に勢力を伸ばしていた。
時勢の流れを見て豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)は、早々に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して服従(ふくじゅう)する意思を表明した。
もう一方の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が統治する豊臣政権に対して対抗意志を示した。
この時、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)、島津家久(しまづいえひさ/島津)、島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)の島津四兄弟の意見は微妙にズレていたと言う。
WEATHER REPORT /♪ A REMARK YOU MADE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:10:53
◆◇◆其の十九:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
1586年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の九州征伐が決定された。
九州の二大攻防は先(ま)ず、薩摩国(鹿児島県)の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が統括する島津四兄弟が率いる島津軍が動いた。
南九州の薩摩国(鹿児島県)から肥後国(熊本県)の西側ルートを進軍する島津軍1号隊は、総大将の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)が3万人の軍隊を率いた。
日向国(ひむか/宮崎県)の東側ルートを進軍する島津軍2号隊は、宮之城家(みやのじょうけ)の島津忠長(しまづただたけ/島津)が2万人の軍隊を率いて、両軍共に豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が控える豊臣軍大友隊を攻める作戦である。
先に北九州に到着した島津軍1号隊は、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の重鎮家臣の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が居城する筑前国(福岡県)の岩屋城(いわやじょう/太宰府)を包囲する。
高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)とは、吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)の息子で高橋氏に養子に入り、岩屋城(いわやじょう/太宰府)の城主となった人物である。
この時の軍勢は島津軍1号隊の3万人に対して、豊臣軍高橋隊は700人余り。
決戦前から勝敗は目に見えている。
当然に武将の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)も降伏するかと思いきや、徹底抗戦の構えを見せる。
岩屋城(いわやじょう/太宰府)の西側に建つ宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)には、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子の高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居城する。
岩屋城(いわやじょう/太宰府)の北側に建つ立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)には、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子で立花道雪(たちばなどうせつ/大友)へ養子に入っていた立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が居城する。
筑前国(福岡県)全域で見れば、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が統治する鉄壁の要塞となっていた。
この時の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)は、岩屋城(いわやじょう/太宰府)に居城する家臣達に、こう述べて鼓舞(こぶ)した。
高橋紹運…『ここで降伏するのは簡単だ。 ただ、たとえ大軍相手とて、武士なら戦わねばならない時がある。 それが今だっ! ここで交戦すれば15日は保(も)つだろう。 そうすれば島津軍も豊後国(ぶんご/大分県)への侵攻が遅れ、そうしている内に、本土から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍が到着する。 皆の博多武士団の底力を見せてやれぇ!』
岩屋城の武士…『おっ〜〜!』
これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が指揮する島津軍1号隊は岩屋城(いわやじょう/太宰府)に対して一斉攻撃を仕掛けるが、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が指揮する豊臣軍高橋隊の抵抗は激しく、なかなか落城できない。
時折(ときおり)、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は降伏勧告するも、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)は断固拒否して岩屋城(いわやじょう/太宰府)から叫んだ。
高橋紹運…『主家が隆盛(りゅうせい)しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀(まれ)である。 貴方自身の主君が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか? 武家に生まれた者として恩義、仁義を忘れるものは鳥獣以下である。』
そして合戦から13日が経とうとした時に、最期を悟った大将の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)と残った武士は集団自決して、この戦(いくさ)は幕引きとなった。
これを1586年に起こった「岩屋城の戦」(いわやじょうのたたかい)と呼ぶ。
次に島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍1号隊は、立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居城する西側の宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)を攻撃した。
この総攻撃に立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)は降伏し、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)に命だけは助けられた。
続いて立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が居城する立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)に侵攻した島津軍1号隊だが、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の降伏勧告に対して、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は投降する素振りを見せる“詐降の計略”(さこうのけいりゃく)を展開して、豊臣軍の援軍が到着するまでの時間稼ぎをする。
そして安芸国(あき/広島県)から毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が率いる豊臣軍毛利隊が立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)に進軍して来た。
これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の島津軍1号隊は作戦変更し、狙いを豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)に絞る。
この時間経過により、等々(とうとう)島津四兄弟が恐れていた事が起こる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる20万人の豊臣軍本隊が、筑前国(福岡県)の博多湾に上陸したのである。
薩摩国(鹿児島県)の島津軍は、この大群勢の豊臣軍に対して対抗姿勢を見せるも、防衛線をドンドンと突破された。
この好機に立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は反撃に出て、島津軍に占領された岩屋城(いわやじょう/太宰府)と宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)を奪還している。
もう、こうなると島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の島津軍に為(な)す術(すべ)はない。
最後まで徹底抗戦を主張した島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)を説得した島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)との和平交渉に挑む。
薩摩国(鹿児島県)に流れる川内川(せんだいがわ)の近くに建つ泰平寺(たいへいじ/薩摩川内)に本陣を構えていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元へ、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)は頭を丸めて僧侶の衣装に身を包み出家覚悟の姿で訪れた。
その島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の決意を直(す)ぐに悟(さと)った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、早々に和睦を成立させると、薩摩国(鹿児島県)と大隅国(おおすみ/鹿児島県)の領国は引き続き島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が当主の島津氏が統治する事を約束する。
この九州征伐で活躍した立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の武勇は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の耳に入り目に止まった。
CHRIS WALKER /♪ GIVING YOU ALL MY LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 06:11:47
◆◇◆其の二十:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
九州平定した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、領国の大名を選定する九州国分(きゅうしゅうくにわけ)を実施する。
豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)は天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が統治した。
豊後国(ぶんご/大分県)はそのまま大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が統治した。
筑前国(福岡県)は毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が統治した。
筑後国(福岡県)は大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の家臣だった立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が統治した。
肥前国(佐賀県・長崎県)はそのまま龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ/龍造寺→豊臣)と家臣の鍋島直茂(なべしまなおしげ/龍造寺→豊臣→徳川)が統治した。
肥後国(熊本県)は織田信長(おだのぶなが/織田)から仕える佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が統治した。
日向国(ひむか/宮崎県)と大隅国(おおすみ/鹿児島県)と薩摩国(鹿児島県)はそのまま島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)に決定した。
ただ、肥後国(熊本県)はその後に1587年に起こった「肥後国人一揆」(ひごこくじんいっき)により、鎮静化に手間取った国主の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が責任を取らされて自害した為に、北部を加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、南部を小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)が領主となった。
そして、豊臣政権の最後の仕上げとなる1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は主君の織田信長(おだのぶなが/織田)からの念願だった天下統一を果たす。
この時も立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は獅子奮迅(ししふんじん)な武将としての器量を見せる。
これを見た豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)をこう評した。
豊臣秀吉…『東の本多忠勝殿、西の立花宗茂殿、東西無双である!』
立花宗茂…『有難き幸せで御座います。』
因(ちな)みに本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)とは、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)の時代から支える“徳川四天王”と呼ばれる直参家臣である。
1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”では、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は九州武将として朝鮮半島に渡り戦地の前線に出て活躍し、数々の武功を挙げている。
しかも、窮地(きゅうち)に追いやられた加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)や小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)などを救済している。
その時、あまりの激戦の末、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の太刀(たち)が変形し鞘(さや)に収まらなかったと言う。
この立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が朝鮮半島の戦地へ遠征に行っている間、妻の立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は筑後国(福岡県)の柳川城(やながわじょう)を守護していた。
そんな時、肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)に陣営を設けていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、“九州で一番の美女”と呼ばれる立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)の噂(うわさ)を聞き付けて、名護屋城(なごやじょう/唐津)まで呼び寄せた。
主君の威令(いれい)とあって無碍(むげ)に断る訳にもいかず、立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は名護屋城(なごやじょう/唐津)まで赴(おもむ)いた。
石田三成…『秀吉殿、もう直ぐ立花誾千代殿が参ります。』
豊臣秀吉…『そうか、そうか、来たらわしぃの寝室に通すのだぞぉ!』
石田三成…『御意(ぎょい)!』⦅このおっさんも好き者だなぁ〜 人の嫁だぞぉ!⦆
豊臣秀吉…『えっと〜 フカフカの布団はOKっと、ティッシュも枕元に置いてっと、わしぃは無精子じゃから避妊具は必要ないかぁ! イッヒヒ〜』
名護屋城(なごやじょう/唐津)の寝室で伽(とぎ)の準備をしているところに、立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)が参った。
立花誾千代…『秀吉殿、お待たせ致しました。』
豊臣秀吉…『イッ、イイッ〜!?』
女好きの豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の魂胆(こんたん)は百も承知で、立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は鎧兜(よろいかぶと)を装着し、脇差(わきざし)には太刀(たち)が2本ぶら下がり、右手には3m余りの槍が握られていた。
立花誾千代…『秀吉殿、どうなされたぁ? 今は戦乱の時ですぞぉ! 武将の妻でも武装するのは当然です!』
豊臣秀吉…『そぉ、そうだなぁ、さすがは“西国無双”(さいごくむそう)の立花宗茂殿の嫁である。 アッハハハハ〜 ハァ〜ア〜』
立花誾千代…『ウフフフ〜』
その後の1598年に、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は死去する。
これにより“第5次朝鮮出兵”は中止となり、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)をはじめ多くの武将は日本へ帰国した。
CHAMPAIGN /♪ HOW 'BOUT US
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250528 - ラジオの友 URL
2025/05/28 (Wed) 21:16:29
◆◇◆其の二十一:戦国時代に学ぶ超高齢化社会◆◇◆
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、豊臣政権では西方の石田三成(いしだみつなり/豊臣)と、東方の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が対立していた。
そんな東西の緊張関係が崩れて、1600年に「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)が起こる。
この時、英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な武将として名高い立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)に対して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は破格の褒美を示して東軍に引き入れる画策をした。
この時、妻の立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)や重鎮家臣は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の戦況の優位性から東軍に就く様に説得していた。
ところが忠義に厚い2人の父親譲りの立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、西軍に就く事を決定する。
立花宗茂…『ここで東軍に参戦するのは簡単だ。 ただ、たとえ大軍相手とて、武士なら戦わねばならない時がある。 それが今だっ! ここで強者の徳川家康殿に恭順(きょうじゅん)すれば、豊臣秀吉殿への忠義が廃(すた)る。 皆の九州武士団の底力を見せてやれぇ!』
しかし、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が率いた軍勢は、美濃国(岐阜県)の関ヶ原の戦地には赴(おもむ)く事なく、近江国(滋賀県)の大津城(おおつじょう)へ侵攻したのみだった。
戦況は半日足らずで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の東軍の勝利に終わり、敗北した西軍の立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は船で九州へ退いた。
その船に同じく西軍に就いた島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)も乗船していた。
島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)は、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の父親の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)を死に追い遣(や)った敵将である。
関ヶ原の敗戦で衰弱していた島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)を、父の仇打(かたきう)ちする事もできたが、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は島津軍の護衛をして薩摩国(鹿児島県)まで無事に帰還させている。
ただ、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)が終決しても、東軍に就いた九州の武将が西軍の領国に侵攻していた。
そんな東軍の武将には、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)をはじめ、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)や鍋島直茂(なべしまなおしげ/龍造寺→豊臣→徳川)など武勇や知略に長けた強者(つわもの)が揃っていた。
ただ、肥後国(熊本県)の加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が筑後国(福岡県)の柳川城(やながわじょう)に進軍する際に、その道中に立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)が居住しており、その名高き女武将の恐れから加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)は遠回りをして柳川城(やながわじょう)に向かっている。
また、海上から進行してきた鍋島直茂(なべしまなおしげ/龍造寺→豊臣→徳川)が率いる鍋島水軍も、立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は群勢を率いて撃退している。
しかし、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は筑後国(福岡県)の柳川城(やながわじょう)に篭城して抗戦するも、最後は無駄な抵抗を止めて降伏した。
この時、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)は薩摩国(鹿児島県)から援軍を送るも間に合わなかった。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後、勝利した東軍の総大将の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、西軍に属した武将の懲罰を実施した。
当然に敗戦の武将となった立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、筑後国(福岡県)の領国を領地没収の改易(かいえき)され牢人(無職侍)となった。
ただ、この時に武将として名高い立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)や前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)などが家臣として招聘(しょうへい)したが、その誘いを立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は全て断っている。
そんな“九州で一番の美女”で“西国最強の女武将”と呼ばれた立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)だが、1602年に病気で死去した。
別居していた夫婦ではあるが、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が筑後国(福岡県)を領地没収の改易(かいえき)され牢人(無職侍)となってから、立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は亡くなるまで近くの神社に1日も欠かさず領国復帰の参拝を続けたと言う。
そして、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)も、愛妻の立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)を弔う為に、筑後国(福岡県)の柳川(やながわ)に良清寺(りょうせいじ/浄土宗)を建立(こんりゅう)した。
これが無駄な言葉や行動は不要な、戦国最強の夫婦の絆(きずな)である。
1603年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は朝廷から征夷大将軍1代目に任命され江戸幕府の開設した。
この時、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は数人の家臣を引き連れて、京都や江戸に移住している。
しかし、牢人(無職侍)の立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は生活に困窮(こんきゅう)しており、家臣に食べさせてもらっている状態だった。
そんな貧困な立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の情報を知った“徳川四天王”と呼ばれた本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に掛け合い江戸幕府の大名として招聘(しょうへい)した。
1606年に陸奥国(むつ/福島県)の棚倉藩(たなぐらはん/白川)で1万石の領土を与えられた。
豊臣家の滅亡を狙った徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)による1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」では、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が再び豊臣軍に加勢する事を恐れた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、引き留めに躍起(やっき)になったと言う。
ただ、当人の立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)はそんな気は無く、徳川軍の参謀として参加したのみだった。
この時、豊臣軍の戦術や動向を見抜き、総大将の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が出陣しない事も言い当てている。
1620年に、江戸幕府の信任を厚くした立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は九州の筑後国(福岡県)の領地を与えられ、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で西軍の武将が昔の領国に復帰できたのは立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)だけである。
そこから1637年に起こった「島原天草の乱」では、70歳になる立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は松平信綱(まつだいらのぶつな/徳川)が率いる幕府軍に従軍した。
この戦地でも武勇を見せ付け、島原天草一向一揆の夜襲を予言したり、肥前国(長崎県)の原城(はらじょう/南島原)に攻撃する際は先陣を請け負い、総攻撃を開始して島原天草一向一揆は全滅する。
その後、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)はようやく隠居して、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)などと共に征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の御伽衆(おとぎしゅう)となり、昔の合戦の話しを聞かせたと言う。
そして1643年の76歳で“西国無双”(さいごくむそう)と呼ばれた武将の生涯に幕を降ろし、その枕元には父親の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)から授かった高橋氏に伝わる家宝である太刀(たち)の備前長光(びぜんながみつ)が添えてあった。
BOBBY CALDWELL /♪ STAY WITH ME
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2025/05/27 (Tue) 09:07:03
SEAN PAUL /♪ JUKIN' PUNNY
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2025/05/27 (Tue) 09:09:39
SEAN PAUL FEAT.KEYSHIA COLE /♪ (WHEN YOU GONNA)GIVE IT UP TO ME
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2025/05/27 (Tue) 09:10:39
SEAN PAUL FEAT.DEEBIE NOVA /♪ INTERNATIONAL AFFAIR
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2025/05/27 (Tue) 09:11:37
JAMIROQUAI /♪ DRIFTING ALONG
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2025/05/27 (Tue) 09:13:32
BOB MARLEY & THE WAILERS /♪ THEM BELLY FULL (BUT WE HUNGRY)
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2025/05/27 (Tue) 09:14:26
BANX & RANX & JP COOPER /♪ FIRE
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2025/05/27 (Tue) 09:16:24
GARLAND JEFFREYS /♪ MURDER JUBILEE
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2025/05/27 (Tue) 09:17:52
SPEARHEAD /♪ REBEL MUSIC (3 O'CLOCK ROADBLOCK)
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2025/05/27 (Tue) 09:18:50
SHAGGY FEAT.STING /♪ TIL A MAWNIN
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2025/05/27 (Tue) 09:20:53
TOMMY JAMES & THE SHONDELLS /♪ CRYSTAL BLUE PERSUASION
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2025/05/27 (Tue) 09:21:51
ACE OF BASE /♪ ALL THAT SHE WANTS
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2025/05/27 (Tue) 09:22:51
FLO RIDA & WALKER HAYES /♪ HIGH HEELS
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UB40/♪ THE WAY YOU DO THE THINGS YOU DO
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UB40/♪ (I Can't Help) Falling In Love With You
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不思議ちゃん第15弾!
でわぁ、いってみよぉう!!
THE PIPETTES /♪ YOUR KISSES ARE WASTED ON ME
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2025/05/26 (Mon) 08:48:21
BASEMENT JAXX /♪ TAKE ME BACK TO YOUR HOUSE
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2025/05/26 (Mon) 08:49:17
PJ HARVEY & JOHN PARISH /♪ BLACK HEARTED LOVE
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2025/05/26 (Mon) 08:53:11
AVRIL LAVIGNE /♪ KEEP HOLDING ON
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2025/05/26 (Mon) 08:55:52
PENELOPE HOUSTON /♪ SWEETHEART
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2025/05/26 (Mon) 08:56:42
KACEY MUSGRAVES /♪ ARM'S LENGTH
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2025/05/26 (Mon) 08:57:39
LANA DEL REY /♪ VIDEO GAMES
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250526 - ラジオの友 URL
2025/05/26 (Mon) 08:58:36
DELANEY JANE /♪ SOMEWHERE ELSE
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2025/05/26 (Mon) 08:59:26
REGINA SPEKTOR /♪ LAUGHING WITH
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今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:22:37
◆◇◆其の五十八:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
長門国(山口県)の関門海峡で長州藩は、アメリカとフランスおよびイギリスとオランダの軍艦に総攻撃を受けて大敗した1863年から1864年に行われた「下関戦争」こと「馬関戦争」(ばかんせんそう)で、“欧米列強”(おうべいれっきょう)に敵(かな)わない事を思い知らされた。
ただ、長州藩の内部には1858年の「安政の大獄」(あんせいのたいごく)で処刑された吉田松陰(よしだしょういん/長州)の意思を引継ぐ松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生が何人も居た。
吉田松陰(よしだしょういん/長州)が唱えた“尊王攘夷”(そんのうじょうい)に“王政復古”(おうせいふっこ)を連呼して奮起させる幕末過激派が政権奪取の機会を伺う。
長州藩の幕末過激派となった桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)と久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)は、同志でもある筑後国(福岡県)の久留米藩の藩士で幕末過激派の真木和泉(まきいずみ)こと真木保臣(まきやすおみ/久留米)と会合を開いて“尊王倒幕”(そんのうとうばく)を企てる。
ただ、天皇を尊(とうと)ぶ“尊王”(そんのう)と掲げているも、実態にそぐわない自己中心的組織ではある。
その為、京都の朝廷や孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)も、長州藩や土佐藩の幕末過激派の目に余る残忍な素行を危惧(きぐ)していた。
さらに長州藩や土佐藩の幕末過激派は“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を盾に使い、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)を先頭にした軍隊の出兵の親征(しんせい)を企てる。
内容は、京都から南に下って大和国(奈良県)の橿原(かしはら)に行き、第1代天皇の神武天皇(じんむてんのう)が祀られている橿原神宮で勝戦祈願するものだった。
この“大和路行幸計画”(やまとじぎょうこうけいかく)に驚いた孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)。
そこで朝廷の中川宮(なかがわのみや)こと久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう/朝廷)は、公卿(くぎょう)の三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)と長州藩や土佐藩を京都御所から追放する事を決める。
中川宮(なかがわのみや)こと久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう/朝廷)は、伏見宮の家系で伊勢神宮祭主や神宮皇學館(じんぐうこうがっかん)の創設者である。
中川宮(なかがわのみや)こと久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう/朝廷)は、会津藩で京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)に天皇護衛の依頼をするが、会津藩だけでは兵力が足りない。
そこで孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の勅命(ちょくめい)により、薩摩藩の執権の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)と息子で12代目藩主の島津忠義(しまずただよし/薩摩)に、長州藩や土佐藩の幕末過激派を排除する様に命じた。
これにより会津藩と薩摩藩の“会薩同盟”(かいさつどうめい)が締結された。
1863年8月18日、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の勅命(ちょくめい)と、中川宮(なかがわのみや)こと久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう/朝廷)の画策により、会津藩と薩摩藩が京都御所を護衛する事になる。
会津藩と薩摩藩の“会薩同盟”(かいさつどうめい)は京都御所の全ての門を閉鎖し、アリンコ1匹も入れない様にした。
これには長州藩や土佐藩の幕末過激派も手が出せない。
仕方なく軍隊を撤退させた。
この反乱処分として朝廷と江戸幕府は、幕末過激派の公卿(くぎょう)の三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)を含む公家7人、それに長州藩と土佐藩を京都から追放した。
この京都から長門国(山口県)の萩などに身を寄せた三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)ら公家7人の都落ちは、「七卿落ち」(しちきょうおち)と言われる。
これを1863年に起こった「八月十八日の政変」と呼ぶ。
FUN FACTORY /♪ I WANNA B WITH U
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:23:22
◆◇◆其の五十九:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
幕末過激派の主要メンバーを排除したところで、“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を唱える京都に居る公家や武士、それに町人までは全て排除できない。
夜の京都では木屋町の女給付き呑み屋など強引な客引きが横行し、1人で歩けないほど治安は悪化していた。
黒服…『お兄さん、いかがでっかぁ! 3000円ポッキリで飲み放題でっせぇ! ウチの店はプルンプルンの可愛い子が揃ってますでぇ!』
お客…『ほんまぁ〜 ほなぁ入るかぁ。』
そこで陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の9代目藩主だった京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は、江戸幕府の護衛部隊でもある浪士組(ろうしぐみ)を再組織した新撰組を結成する。
新撰組の局長は武蔵国(東京都)の多摩郡(調布)の農家出身の近藤勇(こんどういさみ/新撰組)、副長は武蔵国(東京都)の多摩郡(日野)の農家出身の土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)で、共に青年期から剣術を習い武士に憧れを抱いていた。
そして組長には陸奥国(むつ/福島県)の白河藩の藩士で剣術模範の沖田総司(おきたそうじ/新撰組)が就任した。
新撰組とは、元々は征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が、江戸城(えどじょう)から京都御所に上洛する為の護衛をする組織を結成し浪士組(ろうしぐみ)とした。
浪士組(ろうしぐみ)には武士だけでなく、志高い一般人も含まれ、350人の軍勢となった。
この浪士組(ろうしぐみ)の発案者は、出羽国(でわ/山形県)の庄内藩(鶴岡)の藩士だった清河八郎(きよかわはちろう/庄内)である。
孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)と徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が会合するのに際して、選抜された浪士組(ろうしぐみ)も京都に入り、四条大宮から西側にある壬生寺(みぶでら)に布陣した。
このため壬生浪士(みぶろうし)とも呼ばれる。
ところが、浪士組(ろうしぐみ)の発案者でもある清河八郎(きよかわはちろう/庄内)がここに来て、とんでもない事を言い出した。
清河八郎…『俺、実は“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を支持してるから、天皇には従うけど、幕府の仕事はしないよぉ。』
そう言い残して江戸に帰ってしまった。
京都に残った浪士組(ろうしぐみ)はリーダーを失い、組織の結束力が揺らぎ始めた。
この事態に目を付けたのが京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)である。
主人(あるじ)を失い翻弄(ほんろう)する浪士組(ろうしぐみ)を、会津藩の管轄に取り入れた。
この時の浪士組(ろうしぐみ)は2班に分かれており、常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩の浪士だった芹沢鴨(せりざわかも/水戸)の芹沢組と、近藤勇(こんどういさみ/新撰組)の近藤組だった。
しかし、この芹沢鴨(せりざわかも/水戸)は江戸幕府への忠誠心の欠片(かけら)も無く、京都で商家から強奪したり商人からお金を恐喝したりと、悪名高さだけが際立ってくる。
この為、京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は、近藤勇(こんどういさみ/新撰組)に“芹沢鴨討伐”を命じる。
結果、芹沢鴨(せりざわかも/水戸)はお酒を飲んで泥酔しているところを、近藤勇(こんどういさみ/新撰組)が率いる近藤組に斬殺された。
この後の浪士組(ろうしぐみ)の活躍により、結束力と志(こころざし)の高い新撰組に刷新される。
新撰組が京都の町廻横目(まちまわりよこめ)を担うと、幕末過激派は段々と鳴りを潜めていった。
TIGGY /♪ HOOKED ON A FEELING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:24:03
◆◇◆其の六十:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
この頃は既(すで)に“公武合体”(こうぶがったい)も“尊王攘夷”(そんのうじょうい)も言葉が1人歩きして、日本の政権運営には何の意味も持っていなかった。
そこで朝廷と江戸幕府は京都の二条城(にじょうじょう)で会議を開催する。
これを「参与会議」または「京都評定」(きょうとひょうじょう)と呼ぶ。
主席者は、朝廷から孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)、将軍後見職の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、政事総裁職で福井藩の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)、京都守護職(きょうとしゅごしょく)で会津藩の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、薩摩藩の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)、土佐藩の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)、宇和島藩の伊達宗城(だてむねなり/江戸)である。
この会議では、今後の日本は外国に対して開国か鎖国かで論争が繰り広げられた。
その最もな重要案件は、江戸城(えどじょう)に一番近い“横浜港開港問題”だった。
孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の異国排除の意向に忖度(そんたく)して、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)と松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は鎖国を主張する。
一方、20世紀を見据えた貿易拡大を目論むワールドワイドなビジネスマンの島津久光(しまずひさみつ/薩摩)は開国を主張する。
これにより意見は平行線を辿(たど)り、お互いが相容(あいい)れないまま、この「参与会議」または「京都評定」(きょうとひょうじょう)は2ヶ月で解散した。
この会議の後、一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、会津藩の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、桑名藩の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)は、京都で政権運営する“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)を樹立させる。
松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)とは、尾張徳川家の徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)と松平容保(まつだいらかたもり/江戸)の弟で、伊勢国(三重県)の桑名藩の藩主と京都所司代(きょうとしょしだい)を務める。
この動乱する日本に、流刑先から西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が帰って来た。
島津久光(しまずひさみつ/薩摩)とソリが合わず沖永良部島(おきのえらぶじま)へ島流しに遭っていたが、“竹馬の友”の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)の働き掛けや、12代目藩主の島津忠義(しまずただよし/薩摩)の許諾もあり、西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の薩摩藩の復帰が許された。
薩摩藩をはじめ薩摩国(鹿児島県)全体の雰囲気が『ウェルカム、タカモリ!』だった為、さすがの島津久光(しまずひさみつ/薩摩)も認めざるを得なかった。
ROXETTE /♪ SHE'S GOT NOYHING ON(BUT THE RADIO)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:24:54
◆◇◆其の六十一:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
京都御所から締め出された長州藩や土佐藩の幕末過激派に不穏な動きを察知した京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は、新撰組に京都の町廻横目(まちまわりよこめ)を強化する様に命じる。
そこで新撰組は、三条木屋町で幕末過激派とつながのある怪しい商店の噂を耳にする。
場所は四条通と河原町通の交差点から北東側に入った好立地の店子(たなこ)。
早速、店子(たなこ)のご主人でもある枡屋喜右衛門(ますやきえもん/商人)に壬生寺(みぶでら)の本陣まで御足労を願い出る。
謀反人(むほんにん)として疑わしき枡屋喜右衛門(ますやきえもん/商人)を縄で縛り上げて天井から吊るした。
極悪な拷問により緊縛(きんばく)な亀甲縛りで吊るされ、身体の各所に縄がグイグイと喰い込む枡屋喜右衛門(ますやきえもん/商人)が悲鳴をあげる。
その極悪な拷問により枡屋喜右衛門(ますやきえもん/商人)と名乗るが本名は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)と言い、近々、長州藩や土佐藩の幕末過激派が風の強い日に京都に火を放ち炎上させて、朝廷の公家や江戸幕府の役人を斬殺し、その隙に孝明天皇を誘拐して長門国(山口県)の萩(はぎ)まで連行する計画を白状(はくじょう)した。
近藤勇(こんどういさみ/新撰組)は直様(すぐさま)に、京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)と、京都所司代(きょうとしょしだい)の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)に報告する。
松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は、早急に長州藩や土佐藩の幕末過激派の隠れ家(アジト)を探すように指示する。
新撰組は四条通と東大路通の三叉路(T字路)にある八坂神社の近くの祇園町会所を本陣とした。
そこから局長の近藤勇(こんどういさみ/新撰組)や組長の沖田総司(おきたそうじ/新撰組)の1号部隊と、副長の土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)の2号部隊に分かれて、祇園から河原町、四条から三条を捜索する。
近藤勇(こんどういさみ/新撰組)は以前から目星を付けていた、三条大橋の西側にある長州藩が御用達(ごようたし)にしている旅館の池田屋に、人の出入りが多い事を察知する。
池田屋に集結する長州藩や土佐藩の幕末過激派に、近藤勇(こんどういさみ/新撰組)や沖田総司(おきたそうじ/新撰組)の1号部隊が突入した。
近藤勇…『御用改(ごようあらため)である! 刃向かう者は容赦なく斬る!』
池田屋では新撰組と幕末過激派の大立ち回りの殺陣(たて)による激闘が繰り広げられ、斬られた“志士”(しし)の階段落ちも見られた。
土方歳三…『待たせたな!』
そこに現れたのが土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)の2号部隊で、この加勢により幕末過激派の“志士”(しし)は敗走する事になる。
その同志を置いて敗走した者の中には、後々に“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれる桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)も含まれていたと言われる。
京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)と京都所司代(きょうとしょしだい)の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)が率いる3000人の軍勢が到着した時には、新撰組が長州藩や土佐藩の幕末過激派をほぼ壊滅させた後だった。
この池田屋襲撃事件により、新撰組の快挙は京都だけでなく、日本全国に知れ渡る事となる。
これを1864年に起こった「池田屋事件」(いけだやじけん)と呼ぶ。
JEFFREY OSBORNE /♪ DON'T STOP
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:25:30
◆◇◆其の六十二:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
この池田屋襲撃により同志が討死した長州藩の幕末過激派は報復計画を企てる。
先(ま)ず、長州藩の三家老と呼ばれる益田親施(ますだちかのぶ/長州)、福原元僴(ふくばらもとたけ/長州)、国司親相(くにしちかすけ/長州)が、新撰組を裏で操る“会津征伐”の計画を練る。
そして、長州藩の久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)や遊撃隊総督の来島又兵衛(きじままたべえ/長州)、筑後国(福岡県)の久留米藩の藩士で幕末過激派の真木和泉(まきいずみ)こと真木保臣(まきやすおみ/久留米)も参加して、報復相手の会津藩で京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)や新撰組を襲撃する為に軍備を整えていた。
長門国(山口県)の萩城(はぎじょう)を出陣した会津征伐隊は山城国(京都府)に入り、益田親施(ますだちかのぶ/長州)と久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)と真木和泉(まきいずみ)こと真木保臣(まきやすおみ/久留米)の軍隊は山崎天王山に布陣した。
続いて、国司親相(くにしちかすけ/長州)の軍隊は嵯峨の天竜寺(てんりゅうじ)に布陣、福原元僴(ふくばらもとたけ/長州)は伏見の長州藩屋敷に布陣し、3拠点から京都御所を占領して攻勢を掛ける計画だった。
ただ、この報復情報は江戸幕府や朝廷にも漏れており長州討伐軍を結成して、京都御所を護衛する為に陸奥国(むつ/福島県)の会津藩、越前国(福井県)の福井藩、美濃国(岐阜県)の大垣藩、伊勢国(三重県)の桑名藩、それに薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩が参加して、北側は今出川通、西側は烏丸通、南側は丸太町通、東側は河原町通の一帯に軍隊を配備した。
さらに徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就任して、京都御所の護衛を担当した。
対するのは長州藩の会津征伐隊のみで、勝敗は言うまでもなく明らかである。
最終的に京都御所の西側中央に構える蛤御門(はまぐりごもん)に会津征伐隊が集結して、長州討伐軍と激闘を繰り広げた。
ただ、会津征伐隊の敗戦が色濃くなると、最期を悟った“志士”(しし)が次々と自決していく。
その中には、久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)も含まれ、藩士の寺島忠三郎(てらしまちゅうざぶろう/長州)と刺し違えで自害した。
戦場の京都御所から逃亡した真木和泉(まきいずみ)こと真木保臣(まきやすおみ/久留米)は山崎天王山で自害した。
しかも、事もあろうか会津征伐隊は京都御所に大砲を撃ち込んでいる。
当然だが長州藩は、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)には心象が悪く、朝廷の公家には心証が悪くなった。
この合戦で火の手が京都を覆い尽くし、3日間も燃え続けたと言う。
これを1864年に起こった「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)こと「禁門の変」(きんもんのへん)と呼ぶ。
FOREIGNER /♪ COLD AS ICE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:26:10
◆◇◆其の六十三:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
天皇が住まう京都御所を攻撃し、平安の京都を延焼させた長州藩は、朝廷だけでなく、日本全国から朝敵(ちょうてき)の賊軍と見なされる様になった。
この京都丸焼けに激怒した朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、長州藩の13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)と、後々に14代目藩主となる毛利元徳(もうりもとのり/江戸→維新)の義父子に対して、官位階級を剥奪(はくだつ)する勅命(ちょくめい)を出す。
江戸幕府でも征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)から、長州藩の藩主としての大名を罷免(ひめん)して全ての権限を無効とした。
さらに孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、江戸幕府に対して“長州藩征伐”の勅命(ちょくめい)を出した。
これを受けて征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)は、尾張徳川家の徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)を総督(そうとく)に、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)を総参謀(そうさんぼう)に任命した。
幕府軍は15万人の軍隊を率いて、先(ま)ずは大坂城(おおさかじょう)で布陣する。
ただ、徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)と西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、戦国時代じゃあるまいし、今更(いまさら)合戦などする気は毛頭(もうとう)なかった。
ここで一旦、幕末の相関図を整理しよう。
朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、京都で活動する“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)の一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、会津藩の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、桑名藩の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)と連携して仲が良い。
一方、450km離れた江戸城(えどじょう)に居る江戸幕府の征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)や幕閣は、国政運営の蚊帳(かや)の外で疎外感があり、“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)を疎(うと)ましく思い仲が悪い。
こんな政権状況の中で、長州討伐軍のトップとなる徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)と西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)も、命を掛けて心込めるほど真剣ではない。
西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は布陣する大坂城(おおさかじょう)を抜け出して道頓堀に繰り出していた。
そこで偶然にも江戸幕府の役人でもある海軍卿(かいぐんきょう)や陸軍総裁を歴任した勝海舟(かつかいしゅう/江戸)と出会う。
そこで西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は勝海舟(かつかいしゅう/江戸)から、日本に必要なのは対外国政策で国内の覇権争いをしている場合ではなく、江戸幕府には外国に対抗できる免疫も組織力も無い事を聞かされる。
この勝海舟(かつかいしゅう/江戸)の言葉で心入れ替えた西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、周防国(すおう/山口県)の岩国藩の1代目藩主で毛利氏の系統にあたる吉川経幹(きっかわつねまさ/岩国)と会談して、長州藩の降伏を要求する。
孫子の兵法の『戦わずして、勝つ!』である。
次に長門国(山口県)の萩城(はぎじょう)に出向き、奇兵隊(きへいたい)の隊長だった高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)を説得して長州藩の降伏を決定させた。
さらに長州藩は、会津征伐隊を率いて「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)こと「禁門の変」(きんもんのへん)を引き起こした三家老の、益田親施(ますだちかのぶ/長州)、福原元僴(ふくばらもとたけ/長州)、国司親相(くにしちかすけ/長州)を、戦争責任として切腹させて介錯(かいしゃく)した。
これにより長州藩の13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)は、江戸幕府に謝罪文を送付して、“長州藩征伐”は取り下げられた。
これを1864年に起こった「第1次長州征討」と呼ぶ。
MIDNIGHT STAR /♪ WET MY WHISTLE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:26:46
◆◇◆其の六十四:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
一方の長州藩は、この“長州藩征伐”に加えて1863年から続いている「下関戦争」こと「馬関戦争」(ばかんせんそう)が終結していない状態だった為、内情はボロボロになっていた。
長州藩の内部でも分裂が起こっていた。
抗戦派(正義派)は“尊王倒幕”(そんのうとうばく)や“王政復古”(おうせいふっこ)を唱える幕末過激派の流れを汲(く)む。
家老の周布政之助(すふまさのすけ/長州)を筆頭に、リーダーの高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)、伊藤博文(いとうひろふみ/長州)、井上馨(いのうえかおる/長州)、「池田屋事件」で新撰組から逃亡していた桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)で、吉田松陰(よしだしょういん/長州)が開設した松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生が中心となった。
一方、恭順派(俗論派)は江戸幕府に再び臣従(しんじゅう)して“公武合体”(こうぶがったい)を唱える。
家老で阿川毛利氏の毛利親彦(もうりちかひこ/長州)を筆頭に、椋梨藤太(むくなしとうた/長州)や中川宇右衛門(なかがわうえもん/長州)が居た。
朝敵(ちょうてき)の烙印(らくいん)を押された長州藩では、恭順派(俗論派)の権限が強くなり、数々の不祥事の責任追求で、抗戦派(正義派)の周布政之助(すふまさのすけ/長州)を切腹させて介錯(かいしゃく)した。
恭順派(俗論派)が勢力を伸ばす長州藩だった為、抗戦派(正義派)のリーダーだった高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)は筑前国(福岡県)の博多に身を隠していた。
ただ、闘争心だけは消える事はなく、渦巻く関門海峡を泳いで渡り、再び下関に上陸した。
そこで抗戦派(正義派)の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)や井上馨(いのうえかおる/長州)の協力を得て、さらに、1863年に起こった「八月十八日の政変」で京都から長門国(山口県)の萩(はぎ)に都落ちした「七卿落ち」(しちきょうおち)と呼ばれる三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)ら公家7人の援助もあり、長州藩の恭順派(俗論派)に対して反撃に出る。
先(ま)ずは下関会所を襲撃して、長門国(山口県)の全域でクーデター(暴力革命)を起こした。
これを1864年に起こった「功山寺挙兵」(こうざんじきょへい)と呼ぶ。
この高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)の挙兵に、奇兵隊(きへいたい)の隊長だった山県狂介(やまがたきょうすけ)こと山縣有朋(やまがたありとも/長州)も賛同する。
この抗戦派(正義派)の勢いに、恭順派(俗論派)だった13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)と後々に14代目藩主となる毛利元徳(もうりもとのり/江戸→維新)の義父子も、方針を抗戦派(正義派)に変更して恭順派(俗論派)の討伐を言い出す始末だった。
ATLANTIC STARR /♪ SILVER SHADOW
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:27:22
◆◇◆其の六十五:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
長州藩の内紛が落ち着いたところで、1863年から1864年に行われた「下関戦争」こと「馬関戦争」(ばかんせんそう)の戦後処理が行われた。
アメリカとフランスおよびイギリスとオランダの4国への停戦交渉は、イギリスに留学経験のある海外事情に詳しい伊藤博文(いとうひろふみ/長州)と井上馨(いのうえかおる/長州)が担当して、関門海峡の自由な航行(こうこう)や長州藩の賠償金支払で話しをまとめる。
ただし、今の長州藩は抗戦派(正義派)のゲリラ部隊でもあり、松下村塾(しょうかそんじゅく)で吉田松陰(よしだしょういん/長州)の影響を受けた門下生と言う事も忘れてはならない。
高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)と桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)が中心となり、伊藤博文(いとうひろふみ/長州)と井上馨(いのうえかおる/長州)が補佐役で参加し、周防国(すおう/山口県)の吉敷郡(湯田温泉)の出身で医師や軍事家だった大村益次郎(おおむらますじろう/学者)もメンバーに加わって新組織の維新闘争派を結成した。
この維新闘争派の大義は“尊王倒幕”(そんのうとうばく)かつ“王政復古”(おうせいふっこ)の強固である。
再び長州藩が不穏な動きをしている情報は、武蔵国(東京都)の江戸幕府や京都の“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)にも入った。
その為、京都の二条城(にじょうじょう)で“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)と松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、それに薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)が、“長州藩処分対応”についての会合を開催した。
“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)としては江戸幕府にとって危険分子の長州藩は、領地没収の改易(かいえき)した上で壊滅させる意向だった。
一方の薩摩藩としては、長州藩とは和睦して穏便に済ませたい意向を示した。
両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、解決にはほど遠かった。
そんな時である。
摂津国(兵庫県)の神戸港の沖合に、アメリカとフランスおよびイギリスとオランダの軍艦が何隻も停泊している。
4国連合の要求は“神戸港開港”だった。
直様(すぐさま)に徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、大坂城(おおさかじょう)にて4国連合の担当者と会談を開催した。
1792年に根室港へロシア船が入港し、使節(しせつ)のアダムラクスマン(ロシア軍人)が江戸幕府の老中の松平定信(まつだいらさだのぶ/田安→江戸)に日本との交易を希望していた当時から、実は江戸幕府としては開国路線だった。
ところが朝廷や孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の異国排除の意向に押されて鎖国してきた経緯がある。
それを念頭に徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、4国連合の担当者に江戸幕府の立場を伝えて、後日、より善(よ)い返事が出来る様に約束する。
その後、京都御所の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の元に出向き、真(しん)の“日本の開国”を説得する。
孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)も、世界の現実と日本の置かれている立場を理解して、“神戸港開港”の勅許(ちょきょ)を出した。
事実上、ここで“日本の開国”が決まる。
この成果は、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)の類稀(たぐいま)れなる政治力と交渉力と言える。
Gina G /♪ FRESH!
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:28:09
◆◇◆其の六十六:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
江戸幕府と“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)が、アメリカとフランスおよびイギリスとオランダの4国連合を対処している間に、“犬猿の仲”と言われるくらい仲が悪かった薩摩藩と長州藩は急接近していた。
それを仲介したのが坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と土佐国(高知県)の安芸郡(北川)の出身で維新闘争派だった中岡慎太郎(なかおかしんたろう/商人)である。
長州藩は江戸幕府から港を封鎖され交易できない状態だった為、外国からの武器調達が不可能だった。
一方、薩摩藩の薩摩国(鹿児島県)は、例年にない冷害で農作物が凶作となり穀物が実らず、お米が足りない状態だった。
ここに目を付けた坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)は、お米はあるが武器の無い長州藩と、武器は輸入できるがお米が無い薩摩藩の仲を取り持つ事で友好関係を結ばせる。
殺傷能力の高い最新鋭の鉄砲や大砲などの武器の調達は、肥前国(長崎県)の長崎で総合商社の亀山社中(かめやましゃちゅう)を創業した坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)がブローカー(仲介役)となり、スコットランドの企業家のトーマスグラバー(商人)から購入した。
この生きる為の食物と殺す為の武器の流通により、殺す為の武器を手に入れた長州藩、生きる為の食物を手に入れた薩摩藩、生活する為のお金を手に入れた亀山社中(かめやましゃちゅう)の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と企業家のトーマスグラバー(商人)は、全ての三方がハッピーとなった。
“売手よし、買手よし、世間よしの三方よし”とする近江商人とは程遠いが、当時の世界情勢からすれば当然の措置である。
その後、長州藩と薩摩藩の関係は大きく発展していく。
坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)などの仲介により、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)が、京都の薩摩藩屋敷で会合を開催した。
薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、江戸幕府の“長州藩処分対応”について長州藩から謝罪する様に指南する。
一方、長州藩の木戸孝允(きどたかとし/長州)は、会津征伐隊を率いて「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)こと「禁門の変」(きんもんのへん)を引き起こした三家老の、益田親施(ますだちかのぶ/長州)、福原元僴(ふくばらもとたけ/長州)、国司親相(くにしちかすけ/長州)を、戦争責任として切腹させて介錯(かいしゃく)した事で謝罪は済んでいると主張した。
両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、友好関係の同盟にはほど遠かった。
ここで遅れてやって来たのが坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)で、意固地(いこじ)な2人を見てこう切り出す。
坂本龍馬…『今の日本に必要ながぁは、対外国政策で、国内の覇権争いをしちゅー場合じゃなか、はっきり言うてぇ政権運営する“江戸幕府”には外国に対抗できる免疫も組織力も、無かぁとです!』
西郷隆盛…『うん!? 何処(どこ)かで聞いた事がある台詞(セリフ)でごわぁすなぁ?』
木戸孝允…『俺、龍馬君の言葉に感動したから、薩摩藩と友好関係の同盟を結ぶ事を決めたわぁ!』
坂本龍馬…『日本(にっぽん)の夜明けは近いぜぇよ!』
これにより薩摩藩と長州藩は提携する事に合意する。
ただ提携内容は、《朝敵(ちょうてき)と見なされた長州藩の信頼回復》と《「第2次長州征討」での薩摩藩の対応》くらいだった。
これを1866年に締結された「薩長同盟」(さっちょうどうめい)と呼ぶ。
TYLER COLLINS /♪ GILS NIGHT OUT(SOUL IV SEOUL BITE)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:28:46
◆◇◆其の六十七:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
1866年に京都の薩摩藩屋敷で薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と長州藩の木戸孝允(きどたかとし/長州)は、今後の日本の将来が変わる要因となった「薩長同盟」を締結した。
この事は、当然に武蔵国(東京都)の江戸幕府も、京都の“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)も知る由(よし)もない。
その頃、土佐国(高知県)の土佐藩を脱藩した坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)が不穏な動きをしているとして、江戸幕府や“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)に目を付けられていた。
そして、山城国(京都府)の伏見にある旅館の寺田屋にて、常宿(じょうやど)にしていた坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)が宿泊していたところ、伏見奉行所の役人が乗り込んで来た。
寺田屋の女中をしていたお龍(おりょう)こと楢崎龍(ならさきりょう/町人)は入浴中に気付き、裸のままで坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)に伝えに行き、御用の難を逃れた。
逃げる際に多少の傷を負った坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)は、大手筋から西側に行った濠川(ほりかわ)沿いの材木置場で身を隠して、お龍(おりょう)こと楢崎龍(ならさきりょう/町人)の手配で伏見から脱出する事ができた。
これを1866年に起こった「第2次寺田屋事件」こと「坂本龍馬襲撃事件」と呼ぶ。
この時に寺田屋の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)が宿泊していた部屋から、薩摩藩と長州藩の「薩長同盟」を記(しる)した書類が残されており、これによりの江戸幕府と“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)が知る事となる。
ただ一説には、江戸幕府の役人に見つかる様に、坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)がわざと部屋に残した確信犯とも言われている。
武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)では、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)と勘定奉行(かんじょうぶぎょう)の小栗忠順(おぐりただまさ/江戸)などが、江戸幕府の大名を廃止して軍備制度を構築する画策を話し合っていた。
この時期に入ると政権改革の大義名分となった“公武合体”(こうぶがったい)や“尊王攘夷”(そんのうじょうい)の言葉は、何の意味も持たなくなる。
単なる覇権争いの様相でしかない。
TAYLOR DAYNE /♪ DON'T RUSH ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:29:22
◆◇◆其の六十八:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)や征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)と良好な関係を築いている。
一方、「薩長同盟」を締結した薩摩藩と長州藩は、武力増強して維新闘争派を拡大させている。
そんな時に長州藩は、下関港を封鎖して関門海峡を船が航海できない様にした。
これにより日本海から来る廻船が瀬戸内海や太平洋に入れなくなり、“天下の台所”と呼ばれる大坂では食料品などの物資が届かなくなった。
大坂はお米などが不足し物価が高騰して、一揆や打壊しが多発した。
この事態に朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、江戸幕府に対して2度目の“長州藩征伐”の勅命(ちょくめい)を出した。
それに伴い徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)は、京都の“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)に押されて存在感が薄かった事もあり、江戸城(えどじょう)から自ら10万人の幕府軍を率いて大坂城(おおさかじょう)に向かう。
対する長州藩では、維新闘争派の高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)が薩摩藩から購入した殺傷能力の高い最新式の武器を配備して抵抗した。
長州藩の維新闘争派に参加していた軍略家でもある大村益次郎(おおむらますじろう/学者)は、奇兵隊(きへいたい)など4000人の兵士を周防国(すおう/山口県)や長門国(山口県)の各所に配備して応戦する。
1600年の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)以降に、まともに合戦を経験した事ない幕府軍は、ここで大敗する。
苦戦を強いられる幕府軍の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)は、大坂城(おおさかじょう)で徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)など重鎮家臣を交えて作戦会議を開いていた。
その会議で念頭にあったのが、ここ大坂城(おおさかじょう)にて神君(しんくん/徳川家康)が豊臣軍に大勝した1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」である。
徳川家茂…『う〜ん、250年前の「関ヶ原の戦」や「大坂の陣」の様に、見事に勝利したいものじゃのぉ〜』
徳川慶喜…『あの時の合戦は弓矢と槍が主力武器で、飛び道具はせいぜい火縄銃だろ。 今はアームストロング砲や機関銃だぜぇ、状況がまるで違う。』
徳川家茂…『そう言えば「関ヶ原の戦」でも相手は毛利家じゃな、何か因縁を感じるわぁい。』
徳川慶喜…『あの時に毛利家が代々に治めていた安芸国(あき/広島県)を中心とした西日本の領国を、領地削減の減封(げんぽう)と領地移転の転封(てんぽう)にして、長門国(山口県)の1国になった経緯があるからなぁ〜』
徳川家茂…『わしぃら徳川家は、毛利家に呪い殺されるかもしれないな。』
徳川慶喜…『そうかもな、アハッハッハッハッハッ〜』
翌日、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)は大坂城(おおさかじょう)で死去した。
“長州藩征伐”を指揮する大将の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)を失った幕府軍を今後どうするか、“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)の一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、会津藩の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、桑名藩の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)は緊急会合を開いた。
徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は長州藩との和睦を主張したが、松平容保(まつだいらかたもり/江戸)と松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)の兄弟は長州藩と徹底抗戦を主張した。
両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、“長州藩征伐”の解決にはほど遠かった。
そこで徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は強制的に和睦を決定する。
これにより幕府軍は解散して、“長州藩征伐”は終了する。
これを1866年に起こった「第2次長州征討」と呼ぶ。
MIKI HOWARD /♪ RELEASE ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:29:59
◆◇◆其の六十九:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が死去した事により、この流れで将軍継承できる物は1人しか居ない。
征夷大将軍15代目に就任した徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)とは、徳川御三家の水戸徳川家の系統で、常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩の9代目藩主だった徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)の息子だが、征夷大将軍14代目の後継者問題で1858年に起こった「将軍継嗣問題」(しょうぐんけいしもんだい)の時に、紀州徳川家の一橋家の養子に入り一橋派となった。
徳川宗家と紀州徳川家以外に初めて将軍職に就いた水戸徳川家だが、皮肉にも最後の将軍となる。
征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、江戸幕府にフランス式の軍備を取り入れて強化していく。
これを1687年に実施した「慶応の改革」(けいおうのかいかく)と呼ぶ。
その頃、海の上では船の甲板で坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と土佐国(高知県)の土佐藩の藩士だった後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)が日本の将来について話し合っていた。
そこで坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)の口から飛び出したのが、新しい日本にする為の方策となる“船中八策”(せんちゅうはっさく)で、その中に朝廷に政権を返上する「大政奉還」(たいせいほうかん)が含まれていた。
この革新的なアイデアを聞いた後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)は土佐国(高知県)に戻り、土佐藩の15代目藩主の山内容堂(やまうちようどう)こと山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)に、坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)の“船中八策”(せんちゅうはっさく)の「大政奉還」(たいせいほうかん)を伝える。
そんな中で1866年の年末に第121代天皇の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)が崩御(ほうぎょ)した。
1846年に即位(そくい)して20年間、日本鎖国の異国対応と江戸幕府の内部崩壊を全身で被(こうむ)った天皇でもあった。
1867年に孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の息子で、第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)が16歳で即位(そくい)する。
明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の側近に、祖父の中山忠能(なかやまただやす/朝廷)と公卿(くぎょう)の三条実愛(さんじょうさねなる/朝廷)が就いた。
中山忠能(なかやまただやす/朝廷)とは、明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の母親の中山慶子(なかやまよしこ/朝廷)の父親である。
さらに朝廷工作で薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)が、公家の岩倉具視(いわくらともみ/朝廷)に接近して維新闘争派に取り込んだ。
一方、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)に続き、同志の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)を失った征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は深い悲しみと共に、政権運営へのダメージも大きかった。
そこで徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、アメリカとフランスおよびイギリスとオランダと友好関係を築いて、4国が要求する“神戸港開港”に向けて話しを進める。
この時に大坂城(おおさかじょう)で謁見(えっけん)した4国の使節団は、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)の印象を『今までの徳川将軍とは違い、礼儀正しく文武両道の優れた人物であり、全面的に支援する。』と語っている。
孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)亡き後、福井藩の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)、薩摩藩の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)、土佐藩の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)、宇和島藩の伊達宗城(だてむねなり/江戸)が京都に集結して会合を開き、今後の対応を検討した。
会合の議題は“神戸港開港”と“長州藩処分対応”だった。
江戸幕府の征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、危険分子の長州藩を領地没収の改易(かいえき)にした上で壊滅させる意向を示している。
一方の薩摩藩としては、長州藩とは和睦して穏便に済ませたい意向を示した。
両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、解決にはほど遠かった。
これを1867年に開催された“四侯会議”(しこうかいぎ)と呼ぶ。
と言うよりも、この時点で江戸幕府も薩摩藩も話合いで解決できるとは、本気で思っていない。
これにより薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」の条文により、協力し合って江戸幕府に対抗する事を誓う。
その第1弾が、京都に居る明治天皇(めいじてんのう/朝廷)を拉致(らち)して、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩か周防国(すおう/山口県)の長州藩に監禁(かんきん)して、世の中の混乱に乗じて徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)が居城している大坂城(おおさかじょう)の総攻撃する計画を企てた。
こんな最悪な状況下で、待ったをかける人物が現れた。
坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と土佐国(高知県)の土佐藩の藩士だった後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)である。
坂本龍馬…『今の日本に必要ながぁは、対外国政策で、国内の覇権争いをしちゅー場合じゃなか、はっきり言うてぇおまぁんらに、政権運営も外国に対抗できる免疫も組織力も、無かぁとです!』
西郷隆盛…『龍馬君よぉ、もう、日本の為ではないでごわぁす、自尊心(プライド)の対立たぁいっ!』
木戸孝允…『もう、後には引けない所まで来ているからな。』
坂本龍馬…『日本(にっぽん)の夜明けはヤバいぜぇよ!』
この危険な状態により、後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)は土佐藩の15代目藩主である山内容堂(やまうちようどう)こと山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)に、征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)に対して、坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)の発案でもある“船中八策”(せんちゅうはっさく)の「大政奉還」(たいせいほうかん)を進言する様に嘆願する。
これを受けて山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)は徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)に事の説明をした。
薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、『どうせ徳川慶喜は「大政奉還」はできやしない。』と高(たか)を括(くく)り、薩摩藩と長州藩の維新闘争派は合戦の準備に取り掛かる。
朝廷の三条実愛(さんじょうさねなる/朝廷)は明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の名前を借りて、薩摩藩と長州藩に対して“尊王倒幕”(そんのうとうばく)の勅命(ちょくめい)を出した。
ところが・・・
CHERRELLE WITH ALEXANDER O'NEAL /♪ SATURDAY LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:30:39
◆◇◆其の七十:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の予想に反して、京都の二条城(にじょうじょう)にて征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)が「大政奉還」(たいせいほうかん)を宣言して、日本の政権運営を朝廷に返上した。
これにて江戸幕府は日本新政府に残務引継ぎした後に、江戸時代として265年続いた歴史に幕を閉じる。
これを1867年に起こった「大政奉還」(たいせいほうかん)と呼ぶ。
これにより戦争機運を高めていた薩摩藩と長州藩の維新闘争派は、対する江戸幕府が消滅した事で矛先を見失った。
ここで、今まで誰よりも精力的に活動してきた維新闘争派で長州藩の抗戦派(正義派)のリーダーでもある高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)が、「大政奉還」(たいせいほうかん)を見届けるかの様に病死してしまう。
しかし、「大政奉還」(たいせいほうかん)したからと言って江戸幕府が直(す)ぐに消滅して、朝廷による新組織がスタートできる訳ではない。
残務処理として江戸幕府は残っている。
何なら今までの状況と、何ら変わりわない。
これに危機感を募らせた薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と長州藩の木戸孝允(きどたかとし/長州)は過激思想を強めていく。
人間から野獣への変貌である。
ここから維新闘争派は、明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の側近で祖父の中山忠能(なかやまただやす/朝廷)を“尊王倒幕”(そんのうとうばく)の思想操作(マインドコントロール)をして取り込む。
京都御所で朝廷の公家や維新闘争派の“志士”(しし)で会合を開き、明治天皇(めいじてんのう/朝廷)による日本新政府の組織を固める。
明治天皇(めいじてんのう/朝廷)は、江戸幕府を廃止して朝廷による新しい政権運営を担う日本新政府の樹立を宣言した。
かつ、天地の神々に誓う五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)を示した。
これを1867年に発令された「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)と呼ぶ。
「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)の主な概要は3項目である。
①:朝廷の代わりに政権運営を担う江戸幕府、天皇の代わりに政治を司る摂政(せっしょう)、天皇の政治を補佐する関白(かんぱく)を廃止する。
②:日本新政府では総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、参与(さんよ)の3職を設けて政府運営を担う。
③:公卿(くぎょう)、貴族、官人(かんにん)や士農工商など身分制度を廃止して、日本国民として全ての人が平等の立場を保つ。
この後、日本新政府による初会議が京都御所にて開催された。
会議の論点はただ2つで、江戸幕府の円滑(スムーズ)な組織継承と、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)など徳川家の官位階級の剥奪(はくだつ)と財産や領土の没収する辞官納地(じかんのうち)である。
公家の岩倉具視(いわくらともみ/朝廷)や薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)は、今までの悪政から徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)を日本新政府に参加させない方針を主張した。
一方、土佐藩の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)は、今までの功績から徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)を日本新政府に参加させる方針を主張した。
両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、論点の問題解決にはほど遠かった。
ここで薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の一言で、会議の出席者全員が凍りついた。
西郷隆盛…『反対する者はただ1人、短刀1本あれば問題は解決する。』
これで薩摩藩と長州藩が主導する政権運営の流れが出来上がった。
これを「小御所会議」(こごしょかいぎ)と呼ぶ。
SCRITTI POLITTI /♪ HYPNOTIZE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:31:13
◆◇◆其の七十一:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
その頃の同じ京都にて、四条通にほど近い河原町通沿いにある醤油屋の近江屋で、海援隊(かいえんたい)の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と陸援隊(りくえんたい)の中岡慎太郎(なかおかしんたろう/商人)が日本の将来について話し合っていた。
坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)は「第2次寺田屋事件」こと「坂本龍馬襲撃事件」以来、常宿(じょうやど)を伏見の寺田屋から近江屋の2階に変更していた。
そこに現れた複数人の影の軍団。
あっという間に坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう/商人)は斬殺された。
これを1867年に起こった「近江屋事件」(おうみやじけん)と呼ぶ。
この時期に名古屋をはじめ江戸や京都では、町人によるドンチャン騒ぎの“ええじゃないか”が大流行して、これは薩摩藩と長州藩が江戸幕府による統治をさらに弱体化させる為に仕掛けた罠と言われる。
江戸城下町では江戸幕府の評判を落とす為に、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が指示して維新闘争派の藩士の強盗や放火、それに武士や町人の惨殺を繰り返していた。
この状況下での江戸城(えどじょう)では、暴徒と化した薩摩藩の維新闘争派への対応が話合われていた。
既(すで)に政権運営を朝廷に返上している為、日本新政府に対応を依頼すると主張する恭順派(俗論派)。
一方、江戸幕府は崩壊したとはいえ、戦国時代を生き抜いてきた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の末裔、悪党に対しては徹底抗戦を主張する抗戦派(正義派)。
両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、薩摩藩対応解決にはほど遠かった。
恭順派(俗論派)には、幕末政権に奔走した徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、役人の勝海舟(かつかいしゅう/江戸)など。
それに女性方の、薩摩藩の島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)の養女となり征夷大将軍13代目の徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)の御台所(みだいどころ)で篤姫(あつひめ)こと天璋院(てんしょういん/薩摩→江戸)、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の妹で征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)の妻の和宮(かずのみや)こと親子内親王(ちかこないしんのう/朝廷→徳川)も平和解決を願っていた。
抗戦派(正義派)には陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の9代目藩主で京都守護職(きょうとしゅごしょく)かつ新撰組の創設者でもある松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、その弟で伊勢国(三重県)の桑名藩の藩主で京都所司代(きょうとしょしだい)の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)など。
江戸幕府の役人で後々に蝦夷共和国(えぞきょうわこく/北海道)の総裁となる榎本武揚(えのもとたけあき/江戸)、新撰組の局長の近藤勇(こんどういさみ/新撰組)や副長の土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)など。
因(ちな)みに榎本武揚(えのもとたけあき/江戸)の父親の榎本武規(えのもとたけのり/江戸)は、“大日本沿海輿地全図”(だいにほんえんかいよちぜんず)を製作した伊能忠敬(いのうただたか/商人)の弟子である。
この派閥が今後の情勢に大きく影響する。
BREATHE /♪ SAY A PRAYER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:31:50
◆◇◆其の七十二:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
薩摩藩と長州藩の維新闘争派は、反撃して来る様に徹底的に江戸幕府の拠点となる江戸などを挑発する。
外国から輸入した最新鋭の武器でどれだけ皆殺しに出来るかの、試し撃ちを待ち侘(わ)びている。
維新闘争派は既(すで)に戦場の野獣と化した維新軍に変わっていた。
日本新政府の維新軍は、菊花と日月が描かれた皇旗の“錦の御旗”(にしきのみはた)を掲げて、京都から北陸道、中山道(なかせんどう)、東海道を進軍して江戸に向かい、沿道の街や町人に日本新政府が樹立した事を歌を唄いながら知らせた。
維新軍士…『♪宮さん 宮さん お馬の前に ヒラヒラするのは なんじゃいな〜』
維新軍士…『♪トコトンヤレ〜 トンヤレナ〜』
維新軍士…『♪あれは朝敵征伐せよと “錦の御旗”(にしきのみはた)じゃ 知らないか〜』
維新軍士…『♪トコトンヤレ〜 トンヤレナ〜』(♪トンヤレ節)
この挑発に乗ってしまったのが徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)である。
ここから始まる戦争を「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)と呼ぶ。
徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は大坂城(おおさかじょう)に入城して“維新軍征伐”を決定する。
大坂城(おおさかじょう)から京街道を上って進軍する幕府軍を、山城国(京都府)の鳥羽街道に薩摩藩、伏見街道に長州藩の維新軍が布陣した。
伏見の城南宮(じょうなんぐう)から桂川の一帯で戦闘が繰り広げられた。
軍力差から合戦は維新軍の勝利に終わる。
これを「鳥羽伏見の戦」と呼ぶ。
この辺りの地名で赤池があるが、今でも伏見区民は、維新軍の兵士が幕府軍の兵士を大量虐殺して、近くの池が血で赤く染まった事に由来(ゆらい)していると信じてる。
大坂城(おおさかじょう)で布陣していた徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、城を脱出して海から船で江戸に逃亡した。
その後、江戸幕府の役人だった勝海舟(かつかいしゅう/江戸)と薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が、江戸の薩摩藩屋敷にて会談を開き、日本新政府への江戸城(えどじょう)の明渡しを決定する。
これを「江戸城無血開城」と呼ぶ。
それでも抵抗する江戸幕府の残存者は、江戸城(えどじょう)の北東側にある不忍池(しのばずのいけ)周辺で布陣して抵抗した為、長州藩の軍師と言われる大村益次郎(おおむらますじろう/学者)が率いる維新軍により、幕府軍は大量殺戮された。
これを「上野戦争」と呼ぶ。
そこから生き残った幕府軍は北上して、徳川家の聖地と言われる陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)で篭城し、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)と越後国(新潟県)の全域の諸大名の援軍もあり、“奥羽越列藩同盟”(おううえつれっぱんどうめい)を結成して9代目藩主の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)が率いる幕府軍は維新軍に抵抗した。
ただ、最新鋭の武器には勝てず敗北する。
この時、鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)の北東側にそびえる飯盛山(いいもりやま)では、維新軍に追い込まれた10代の少年兵の白虎隊(びゃっこたい)が集団自決している。
これを「会津戦争」(東北戦争)と呼ぶ。
この頃に新撰組の局長の近藤勇(こんどういさみ/新撰組)は、維新軍に捕獲されて斬首されて、その首級(しゅきゅう)は京都の三条河原で晒し首(さらしくび)となった。
そして、少人数となった幕府軍は津軽海峡を渡り、蝦夷国(えぞ/北海道)の箱館(函館)にある五稜郭(ごりょうかく)に布陣した。
この時に榎本武揚(えのもとたけあき/江戸)は、新国家の蝦夷共和国(えぞきょうわこく/北海道)の設立を宣言して総裁に就いた。
その側近に新撰組の副長の土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)が就いた。
ただ、北の大地にも維新軍が押し寄せて、太刀(たち)1本で最後まで抵抗した土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)は、維新軍の兵士が放った最新鋭のライフル銃の銃弾に倒れた。
抵抗すれば勝てない、生き残れないと分かっていても、亡き主君や同志の為に、忠義を尽くして美しく散っていく侍魂(さむらいだましい)。
正(まさ)に日本最後の武士であった。
これを「箱館(函館)戦争」と呼ぶ。
そしてここまでが1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)と呼ぶ。
これにより江戸幕府は名実共に消滅した。
NICK HEYWARD /♪ TELL ME WHY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:32:33
◆◇◆其の七十三:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
江戸幕府は絶対的な権力で徳川家が江戸城(えどじょう)で政権運営を担っていたとは言え、日本列島で見ると地方の藩主である大名も、それなりに力を蓄えている。
先(ま)ず、明治政府は地方藩の大名が統治する領土を国に返還する“上知令”(あげちれい)の様な政策を実施した。
地方は国の領地となり藩から県と改名し、三大都市の東京、京都、大阪は府とした。
地方藩主の大名は隠居してもらい、地方の県には明治維新の有力役人を送り込み知事に就任させた。
これを1871年に実施した“廃藩置県”(はいはんちけん)と呼ぶ。
この“廃藩置県”(はいはんちけん)に最も反発した大名が、薩摩国(鹿児島県)の国父様(こくふさま)と呼ばれた島津久光(しまずひさみつ/薩摩)である。
大名としての実権を明治政府に奪われた島津久光(しまずひさみつ/薩摩)は、腹いせに日本最大級の“納涼!鹿児島花火大会”を実施した。
ドカァ〜ン ドカァ〜ン
島津久光…『西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)めぇ、此奴(こやつ)らは絶対に許さんっ! 酒だっ、酒、酒を買(こ)うてぇこんかぁ〜〜い!』
ヒュ〜〜 ドカァ〜ン
鹿児島県民…『たぁ〜まやぁ〜〜』
明治政府の初仕事は、世界情勢を掌握(しょうあく)するため海外視察を実施した。
選ばれた岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、“文明文化視察”と“不平等条約の改定”を目的に、アメリカやヨーロッパなどの諸外国に1871年から渡航した。
メンバーは、キャプテンの岩倉具視(いわくらともみ/朝廷)、大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)、木戸孝允(きどたかとし/長州)、伊藤博文(いとうひろふみ/長州)などである。
その間、日本の政権運営を任されたのがお留守番組の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)、江頭新平(えとうしんぺい/佐賀)、板垣退助(いたがきたいすけ/土佐)などである。
海外から帰国した岩倉使節団(いわくらしせつだん)のメンバーは、お留守番組が勝手に政策を決定していた事に激怒した。
特に朝鮮半島を征服する征韓論(せいかんろん)を唱える西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)や板垣退助(いたがきたいすけ/土佐)と、殖産整備など内需拡大を唱える大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)や木戸孝允(きどたかとし/長州)と対立していった。
海外進出の征韓派は、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の藩士で“維新の三傑”(いしんのさんけつ)の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)、土佐国(高知県)の土佐藩の藩士で後々に“自由民権運動”を唱える板垣退助(いたがきたいすけ/土佐)、同じく土佐藩の藩士で商人でもあった後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)、肥前国(佐賀県)の佐賀藩の藩士の江頭新平(えとうしんぺい/佐賀)である。
国内強化の内治派は、京都の公家だった岩倉具視(いわくらともみ/朝廷)、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の藩士で“維新の三傑”(いしんのさんけつ)の元祖の内閣総理大臣と呼ばれた大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)、長門国(山口県)の長州藩の藩士で“維新の三傑”(いしんのさんけつ)の桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)、同じく長州藩の藩士で松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生で後々に初代の内閣総理大臣に就任する伊藤博文(いとうひろふみ/長州)、肥前国(佐賀県)の佐賀藩の藩士の大隈重信(おおくましげのぶ/佐賀)である。
政策の意見が平行線を辿り、この事から西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)、江頭新平(えとうしんぺい/佐賀)、板垣退助(いたがきたいすけ/土佐)などは明治政府を辞任する。
明治維新のカリスマだった西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の辞任により、薩摩国(鹿児島県)の藩士を中心に政局を辞任する者が次々と現れる。
その後、佐賀県に帰郷した江頭新平(えとうしんぺい/佐賀)は、明治政府に不満を持つ江戸幕府だった士族を集結させて反乱を起こした。
ただ、政府軍の進撃により鎮圧され、江頭新平(えとうしんぺい/佐賀)など佐賀反乱軍の首謀者は捕獲される。
これを1874年に起こった「佐賀の乱」と呼ぶ。
明治政府の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)は、江頭新平(えとうしんぺい/佐賀)を直(す)ぐに斬首して、裏切り者の見せしめのため晒し首(さらしくび)にした。
BENJAMIN ORR /♪ STAY THE NIGHT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:33:10
◆◇◆其の七十四:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
一方、鹿児島県にUターン就職した西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、農業や狩猟をしながら“田舎暮らし”を満喫していた。
西郷隆盛…『欲深い人間と関わるよりも、優しくも厳しい自然を相手している方が、心が休まるでごわす。』
ところが、西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)を慕(した)う周囲が、そうはさせてくれなかった。
鹿児島県で西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が開設した私学校の門下生が、明治政府に対して反乱を計画していた。
その首謀者は長州藩にも移藩した事のある中村半次郎(なかむらはんじろう)こと桐野利秋(きりのとしあき/薩摩)で、“人斬りの半次郎”と呼ばれていた。
この動きに対して明治政府の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)は鹿児島県に間者(かんじゃ/スパイ)を送り込んだ。
さらに鹿児島県内にあった明治政府の武器弾薬の製造工場から武器設備等を持ち出したが、それを私学校の門下生に見つかった。
桐野利秋(きりのとしあき/薩摩)の前に連行された間者(かんじゃ/スパイ)は、明治政府の極秘作戦を口にした。
間者(スパイ)…『ここだけの話、実は西郷隆盛殿の暗殺も依頼されてまぁんねぇん。』
桐野利秋…『なぁ、何(なん)やぁてぇ!? かつては同友だった大久保利通殿が、西郷隆盛先生を暗殺やぁてぇ!?』
これにより九州反逆同盟隊が結成され、九州は熊本県の勇士とも連携して、明治政府に対して反乱を計画する。
この九州反逆同盟隊の総大将に西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が就任した。
この九州の反乱に対して、明治政府も大阪府に本陣を構えて総大将に大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)が就任し、長門国(山口県)の長州藩の藩士で後々に2度の内閣総理大臣に就任した山県狂介(やまがたきょうすけ)こと山縣有朋(やまがたありとも/長州)と、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の藩士で西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の親族でもある川村純義(かわむらすみよし/薩摩)が補佐した。
大坂城(おおさかじょう)には4万5000人の政府軍が集結して九州に進軍を開始した。
九州では鹿児島県から進軍した1万3000人の九州反逆同盟隊が、明治政府の九州鎮台(きゅうしゅうちんだい)として利用していた熊本県の熊本城(くまもとじょう)に向かった。
この時、九州反逆同盟隊の桐野利秋(きりのとしあき/薩摩)は、戦(いくさ)に不慣れな明治政府の役人が篭城する熊本城(くまもとじょう)など、直ぐに陥落できると思っていたが、これが思った以上に手強かった。
そうしている内に、福岡県の博多と小倉から政府軍が進軍してきており、さらに熊本県の海域からも軍艦で侵攻していた。
ここで一旦、九州反逆同盟隊は熊本城(くまもとじょう)攻略を止めて、熊本の植木一帯で政府軍と激戦を繰り広げた。
これを「田原坂の戦」(たばるざかのたたかい)と呼ぶ。
戦況が危うくなった九州反逆同盟隊は宮崎県に移動した。
ただ、ここにも政府軍が侵攻し可愛岳(えのだけ/延岡)で四方八方に包囲され、流石(さすが)の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)も『もうダメでごわすかぁ!』と覚悟したが、九州反逆同盟隊の底力で可愛嶽突破(えのたけとっぱ)を敢行(かんこう)する。
これが見事に成功して、九州反逆同盟隊は再び鹿児島県に帰郷(ききょう)する。
そして鶴丸城(つるまるじょう/鹿児島城)があった城山に布陣したが、政府軍に完全に包囲された後に総攻撃を受けて、九州反逆同盟隊の兵士は次々と討死した。
総大将に西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)も銃弾を浴びて、最後は桐野利秋(きりのとしあき/薩摩)の従兄弟の別府晋介(べっぷしんすけ/薩摩)に介錯(かいしゃく)を頼み切腹した。
西郷隆盛…『もう、ここらでよかぁ。』
別府晋介…『御免なったもんし。』(お許しください)
バサッ バサッバサッ
西郷隆盛…『ウグッ。』
ゴロン
こうして明治維新の立役者と言われた西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、49歳で人生の幕を閉じる。
これを「城山の戦」(しろやまのたたかい)と呼ぶ。
そしてこれが日本国内で最後の合戦となった1877年に起こった「西南戦争」と呼ぶ。
その翌年の1878年には大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)が暗殺され、その地が紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があった江戸幕府を象徴する紀尾井町(きおいちょう)だったのが皮肉である。
F.R.DAVID /♪ WORDS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:33:52
◆◇◆其の七十五:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
明治維新を成し遂げた“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれた西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)、大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)、桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)が亡くなり、土佐国(高知県)の海をこよなく愛した海援隊の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)の存在も、日本国民の記憶から薄れていく速い流れ時代。
そんな日本で国会が開設されて、長州藩で抗戦派(正義派)の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)が、1887年に初代の内閣総理大臣に就任した。
欧米列強(おうべいれっきょう)に倣(なら)い、“自由”と“平等”の資本主義を掲げた日本国家を形成しようとした。
ところが、アジア大陸を植民地にする悪弊(あくへい)まで感化(かんか)され、明治政府は右に倣(なら)えとなってしまった。
朝鮮半島では朝鮮国民の日本に対しての反乱が起こっており、1882年の「壬午事変」(じんごくじへん)、1884年の「甲申事変」(こうしんじへん)と続いた。
1889年に日本の憲法を制定した「憲法発布の式典」を実施し、“大日本帝国憲法”が発布された。
明治末期の日本を取り巻く環境は、ユーラシア大陸北部のロシア、中国大陸の清(しん)、朝鮮半島の大韓帝国を交え、アジアを中心とした世界的な領土侵攻が激しさを増していた。
要は植民地支配である。
日本もヨーロッパ諸国からの侵攻を恐れつつ、欧米列強(おうべいれっきょう)と肩を並べる為に富国強兵を推進して強大国家を形勢させる為に、清(しん)の満州や大韓帝国への侵攻を伺(うかが)っていた。
その為に1894年に起こった「日清戦争」で日本軍は勝利して、清(しん)と大韓帝国は日本に対して感服(かんぷく)の意を示す。
ただ、この侵攻にロシアなどの他国が黙っておらず口を挟んできた為に、日本は清(しん)と大韓帝国の統治権を放棄したが、そのロシアが中国大陸の清(しん)に侵攻し始めた。
これに怒った日本軍はロシアを相手に、1904年に「日露戦争」を勃発させた。
この戦争で日本軍は勝利したが、アメリカが介入し戦後処理が執(と)り行われる。
これにより事実上、清(しん)の満州と大韓帝国は日本の占有権が優位に運ぶ環境が整ってきた。
JEREMY JORDAN /♪ TRY MY LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:34:30
◆◇◆其の七十六:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
明治政府が外国相手に「日清戦争」と「日露戦争」に勝利したとは言え、日本国内は景気が悪化しており国民の不満が高まっていた。
明治政府は、その不満分子のエネルギーを国内から国外に矛先(ほこさき)を変えたのが、1910年に実施した「韓国併合」である。
先(ま)ず日本は、朝鮮半島の大韓帝国に的(まと)を絞り強硬な交渉を押し付けていく。
“日韓議定書”で、大韓帝国は他国の意見は聞き捨て日本の政治的助言のみを受け入れ、日本軍が朝鮮半島を自由に往来できる内容を締結させた。
1904年に“第1次日韓協約”を締結し、日本は大韓帝国を保護国として、外交権と財政権に介入した。
これをアメリカ、イギリス、ロシアの大国が認可している。
1905年に“第2次日韓協約”を締結し、日本の元内閣総理大臣の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)と大韓帝国の皇帝の高宗(コジョン/朝鮮)が交渉を進めて、日本の政治圧力と日本軍の軍備圧力で大韓帝国が日本の保護国になる事を高宗(コジョン/朝鮮)に認めさせた。
それに伴い漢城府(かんじょうふ/ソウル)に韓国総督府(かんこくそうとくふ)を設置して、初代総督に伊藤博文(いとうひろふみ/長州)が就任した。
ただ、大韓帝国の国民も、軍隊も、政治家も、もちろん高宗(コジョン/朝鮮)も、日本の強引な国交措置に不満を抱(いだ)き、オランダのハーグで実施されていた万国平和会議で、高宗(コジョン/朝鮮)が世界に向けて日本による支配の救済を訴えた。
ところが世界各国は“第1次日韓協約”にて認可していたので、この高宗(コジョン/朝鮮)を無視してしまう。
これを1907年に起こった「ハーグ密使事件」と呼ぶ。
この大韓帝国の高宗(コジョン/朝鮮)による謀反(むほん)に激怒した日本は、さらに抑圧を強めていく。
1907年に“第3次日韓協約”を締結し、大韓帝国の内政権にまで掌握(しょうあく)し、日本の実質的な支配を開始した。
高宗(コジョン/朝鮮)は責任を取らされ皇帝を辞任し、息子の純宗(スンジョン/朝鮮)が皇位を譲位(じょうい)した。
ただ、国同士の書面による条約締結も、大韓帝国の国民にも、軍隊にも、政治家にも、単なる紙切れの戯言(たわごと)に過ぎず、心の中までは支配できない。
大韓帝国の漢城府(かんじょうふ/ソウル)をはじめ、各地で反乱が勃発する。
これに嫌気を刺した総督の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)は、辞任して日本に帰ってしまう。
その後の1909年、伊藤博文(いとうひろふみ/長州)は中国大陸に渡り、清(しん)のハルビンの駅で列車を待っていたところに、大韓帝国の政治革命家だった安重根(アンジュングン/朝鮮)に銃撃されて暗殺された。
安重根…『此(こ)の間(かん)の遺恨(いこん)、覚えたるか?』
バッン バッンバッン
伊藤博文…『ギャ〜〜 やられた〜〜 なぁ、何故(なぜ)に世界のナベアツ(桂三度/渡辺あつむ)が私を襲撃したのかぁ〜?』
バタン
安重根…『3の倍数でアホォになります。 1、2、サァ〜〜ン!』
この伊藤博文(いとうひろふみ/長州)暗殺事件をきっかけに、皮肉にも日本は大韓帝国に対して更(さら)に圧力を強める。
大韓帝国の皇帝の純宗(スンジョン/朝鮮)は、日本の第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)に大韓帝国の統治権を譲渡した。
日本政府は、国名の大韓帝国を朝鮮、首都の漢城府(かんじょうふ/ソウル)を京城府(けいじょうふ/ソウル)の名称に改めた。
そして朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)を設置し、初代総督に寺内正毅(てらうちまさたけ/長州)が就任し、後々に第18代の内閣総理大臣に就任する人物である。
これにより日本が大韓帝国を植民地化した事を世界的に周知させる。
これを1910年に実施した「韓国併合」と呼ぶ。
古墳時代に九州より進軍した“第1次朝鮮出兵”から1400年の時を経て、“第6次朝鮮出兵”により実現した「韓国併合」による日本の植民地化である。
これにより“反日感情”が生まれたと言うが、日本の“朝鮮出兵”は古墳時代から実施している。
VALENSIA /♪ NATHALIE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250525 - ラジオの友 URL
2025/05/25 (Sun) 10:35:08
◆◇◆其の七十七:世界のオトモダチ、外国からコンニチワ◆◇◆
第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の崩御(ほうぎょ)により、1868年に始まった明治政府は1912年に大正政府となる。
明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の息子の第123代天皇の大正天皇(たいしょうてんのう/朝廷)が1912年に即位(そくい)した。
同じ年の1912年からの中国大陸は清(しん)から中華民国となる。
この頃に毛沢東(もうたくとう/共産党)や蒋介石(しょうかいせき/国民党)が活躍する。
その2年後の1914年にイギリスとフランスとロシアに対してドイツとオーストリアが争った「第1次世界大戦」が勃発する。
大正天皇(たいしょうてんのう/朝廷)の崩御(ほうぎょ)により、1926年に昭和政府となる。
大正天皇(たいしょうてんのう/朝廷)の息子の第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/朝廷)が1926年に即位(そくい)する。
1937年に「日中戦争」が勃発する。
絶世の美女の李香蘭(りこうらん/山口淑子)が♪蘇州夜曲(そしゅうやきょく)を大ヒットさせるも、日本軍事戦略上では中国人だが、実は日本人だった。
その2年後の1939年にイギリスとフランスとソビエトとアメリカに対してドイツとイタリアと日本が争った「第2次世界大戦」が勃発する。
この大戦に参入した日本軍は、勝ったの負けたの一喜一憂しながら“地獄の沼”に自ら嵌(はま)っていく。
1941年12月8日、日本が世界を相手に宣戦布告した日である。
日本軍の世界大戦の立ち位置は、強靭な軍力と不屈の兵力から優位にあった。
がっ、アメリカとの国力と軍力はドンドンと引き離され、日本はいずれ戦争は負けるとの結果が出された。
これに危機感を覚えた新潟県長岡市の出身で連合艦隊司令長官の山本五十六(やまもといそろく/海軍)は、軍力差の無い今のうちにアメリカを屈服させ、日本で採掘できない石油を確保しようと思う様になる。
そこで目を付けたのが、東南アジアのオランダ領だったインドネシアの油田だった。
そしてもう1つの目的は、アメリカ軍を痛い目に遭わせ兵士の士気を低下させる事にある。
ここから始まったのが「南方作戦」と「真珠湾攻撃」である。
軍司令部…『ヒノデハヤマガタトス。』(開戦日は12月8日だ。)
この暗号により日本軍は、東南アジアに侵攻を開始する。
アメリカ、イギリス、フランスが植民地支配している東南アジアに多数の軍艦で進軍する。
香港、マレー半島のシンガポール、フィリピンと突き進み、次々と制圧していく。
最後に目的のインドネシアにも侵攻し、オランダが白旗を挙げて撤退して、重要拠点の油田も確保した。
これを1941年に起こった「南方作戦」と呼ぶ。
それと同時進行していたのが太平洋への侵攻である。
目的地はアメリカ領のハワイにあるパールハーバー(真珠湾)の軍事基地。
このパールハーバー(真珠湾)への奇襲作戦は、訓練地を地形が似ていた鹿児島県の錦江湾(きんこうわん/鹿児島湾)で実施された。
この時に浅い海中でも使用できる魚雷も開発した。
そして、その時が来た。
山本五十六…『新高山登1208。』(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ/開戦日は12月8日だ。)
この暗号により日本軍は、アメリカ領のハワイにあるパールハーバー(真珠湾)に侵攻を開始する。
日本軍は幾つもの空軍の戦闘機を出撃させて、何も知らされていないパールハーバー(真珠湾)の軍事基地を奇襲した。
アメリカ軍の戦艦や空母が撃沈され、港の軍事施設は炎上する。
パールハーバー(真珠湾)の軍事基地は壊滅した。
しかし、戦争とは言え世界条約で取決めされていた“開戦通知”がアメリカ軍に届いていなかった。
この卑怯な騙し討ちにアメリカ全土は激怒する。
そして第32代アメリカ大統領のルーズベルトは日本に対して報復を誓う。
ルーズベルト…『リメンバー、パールハーバー。』(真珠湾を忘れるな!)
これを1941年に起こった「真珠湾攻撃」と呼ぶ。
この日本軍の無謀な原因による悲劇の結果が、アメリカ軍による広島と長崎への原爆投下である。
1945年8月15日まで続いた「太平洋戦争」で被害に遭ったのは何も人間だけでは無い。
犬、猫、馬、昆虫、草木の植物、そう、この地球が戦争の物言わぬ被害者である。
ここまで来ると、人間の善悪の問題では無い。
世界を観ても古代から人間は、“略奪”(りゃくだつ)と“殺戮”(さつりく)を繰り返してきた歴史がある。
神様と実際に出会った事があったり、神様の御加護がある者からしたら、そんな感情は芽生える事は無く、まず、やらない行為である。
キリスト教しかり、仏教しかり、神道(しんとう)しかり、長年に渡り神様がどう観ていたのか考えれば、答えは簡単に解る筈(はず)だが。
天界での歴史の代償は千年単位である。
この間、地球上の生き物がいくら反省しても、神様は許してはくれない。
外国人と仲良くして世界の平和は良いけど、江戸時代以降の人間が犯してきた実態で、平気で黄泉の国(よみのくに/天国)に成仏できると信じて疑わない人間に開いた口が塞がらない。
TAG /♪ THE BETTER PART OF ME
◆ラジオの友◆
【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 17:05:00
これで堂々と“いしん”を掛けてパワハラ宣言!
兵庫県民のご支持あっての公約成果です。
“ハラスメント”(不快行為)とは、悪霊や怨霊が取り憑いて心身や精神を歪(ゆが)められ、地獄に堕(お)ちていく人間が本来に持ったポテンシャルです。
忠臣蔵でお馴染みの集団リンチ殺人浪士を輩出した兵庫県赤穂市も“誹謗中傷”を促進して参ります。
綺麗事だけでは済まされない人間の本性を、ここ兵庫県から暴いていきます!
22世紀の未来に向けて、これからも兵庫県は陰湿な“虐待”や“差別”など、兵庫県民一丸となって“いしん”を掛けてドンドンと推し進めます。
【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 17:05:50
子供、こども、コドモって言えば、何でも許されると思っているお頭(つむ)の弱い大人達へ。
子供をダシにして“いしん”を込めて来場を促す卑劣な根性。
江戸時代から続く、10代の娘を遊郭に売り飛ばす大人の感覚と何ら変わりはない。
そんな愚(く)だらない人造物が無くとも、自然が広がる大地と天の恵みさえあれば、子供は愛情いっぱいにスクスクと育ちますよ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 23:53:37
先日、近隣にある河川の遊歩道で目撃した衝撃的な光景を嘘偽(うそいつわ)りなく記述しよう。
その遊歩道には70代くらいのお爺さんが散歩しており、時折、河川を眺めていた。
その川には鴨(カモ)や鷺(サギ)などの鳥がよく集まっており、そのお爺さんも鳥を見ている様子だった。
その次の瞬間、川岸に落ちている大きめの石を拾い上げると、川で水遊びしている鳥に目掛けてぶつけているではないか!
はっきり言って、ショッキングな出来事である。
川辺の鳥たちも驚いて飛んで行ってしまった。
ただ、これも人間の側面である。
誰も見ていないところで犯罪行為に手を染める。
人間が定めた法律の線引きにより逮捕されるかされないかで分別されるが、地球規模で観れば同じ人種には違いない。
実は、この様な光景を見たのは2回目である。
前回もお爺さんだったが、それは河川に住み着いたヌーちゃん(ヌートリア)で、2匹の子供が川岸の草場で遊んでいるところに、お爺さんがヌーちゃん(ヌートリア)を目掛けて石を何度もぶつけていた。
ただ、お爺さんのコントロールでは、すばしっこいヌーちゃん(ヌートリア)に命中する筈もなく、草中の住処(すみか)に消えて行った。
この2人のお爺さんの真意は解らないが、ただ、正義をかざして害的動物を駆除しているつもりなのか?
こう言う感覚の人種は多い。
確かに自分にとって不必要なモノや理解できないコトなどを排除する気持ちは、大なり小なり誰にでもある。
ならば、天界の神様により、この宇宙、この地球の害的動物でもある人間を、正義をかざして駆除して地獄に堕とす事の大義や正義も認められる事になる。
因みに小動物に石をぶつけていた2人のお爺さんに対して、天界の神様に『あの老害2人は地獄堕ちで決定です。』と伝えておいた。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/11 (Fri) 22:40:27
2025年1月25日に大阪府東大阪市の生駒山で発覚したバラバラ殺人事件では、遺体の一部が大阪市中央区日本橋の廃墟マンションにも遺棄され、犯行動機や犯人の挙動など不可解な点が多い。
2025年3月22日に大阪市福島区福島の堂島川の遊歩道で発覚したバラバラ死体遺棄事件でも、なぜに直ぐに発覚されそうな都会に、一部遺体を放棄したのか不可解な点が多い。
これらの事から今回は、アメリカからFBIの元特別捜査官のジェームスリチャードが緊急来日し、FBIで導入されているプロファイリングを活用して、犯行現場から導き出した犯人像を証言してもらった。
ジェームスリチャード…『私には犯人の声が聞こえるし、その姿も視(み)えます。』
ジェームスリチャード…『猟奇的な犯行現場から推測すると犯人は男性もしくは女性で、20代〜40代もしくは50代〜80代、無職もしくは社会人でしょう。』
ジェームスリチャード…『犯行現場が大阪と言う事もあり、非常に地理感がある為に西日本に在住している者と言えるが、近年ではインターネットにより地域の情報を簡単に取得できる為に、東日本に在住している可能性もある。』
ジェームスリチャード…『間違いなく犯人は、次は●●●で犯行に及ぶでしょう。 特に●●●は要注意して下さい。 ●●●が●●●になる可能性も否定できませんが、最善策として●●●が有効です。』
ジェームスリチャード…『シリアルキラー(猟奇的殺人鬼)はその街に1人いれば、同類が必ず100人以上は存在している。 大阪では決して1人で夜道を歩いたり、部屋内で過ごさないで下さい。 次に狙われるのは、あなたかも知れません。』
ジェームスリチャード…『犯人を今一歩まで追い詰めたが、あと少しの所で取り逃してしまった。 ただ、次回は必ず追い詰めて逮捕に至る自信はある!』
この様にFBIの元特別捜査官のジェームスリチャードは述べて、無念さをにじませてアメリカに帰国して行った。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/19 (Sat) 02:27:24
2025年4月15日、和歌山県知事が大阪関西万博に出席した直後に死去しました。
輝く“命”もいつかは消える事を、大阪関西万博は“いしん”を掛けて一番に大切な事を教えてくれている。
“死”は皆な平等に訪れる。
若くてもこうなる前に、身辺整理と終活はしておいた方が良い。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/26 (Sat) 21:42:35
2025年4月24日、大阪関西万博の会場で、体調不良を訴えた60代の女性が搬送先の病院で死去した。
この実態について開催者は、個々の病状をはじめ生死を公表するつもりは無いとしている。
この開催者の姿勢については、日本の仏教においての禅問答が関わっている。
この世の人は必ず死を迎えるのか、それとも永命できるのかの生死是如何(しょうじこれいかん)があり、輝く“命”とて、いずれは消えて無くなるのが大宇宙の真理と仏教は解(と)く。
御釈迦様(仏陀)が悟った、生命は必ず滅び無くなる是生滅法(ぜしょうめっぽう)にちなんだ教えである。
開催者の姿勢も、こうした日本独自の教えの中で、限りある“命”をテーマにした大阪関西万博のコンセプトに沿った対応と言えよう。
たとえ埋立地で有毒ガスを吸い込んで“命”を落としたとしても、それは“寿命”であり“運命”でもある事を学ぶ事ができる。
限りある“命”と“時間”は有効に使い、やりたい事があるなら家族や仕事を捨ててでも、今直ぐにやるべきである。
あっという間に“人生”は終わってしまう。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん URL
2025/05/04 (Sun) 21:21:42
神奈川県警察署の皆さまへ。
『そこは止(や)めてぇ!』の本心は、『もっとそこを攻めてぇ!』の言い換えです。
もっと男女の恋心を勉強しましょう。
このままだと、チェリーポリス(童貞警察)と言う称号が与えられますよ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/05/21 (Wed) 08:07:32
国家を担う議員しててぇ、こぉんなん言うのも何ですがぁ〜
お米は買(こ)うた事おまへぇんが、女はよぉう買(こ)うてぇまっせぇ!
街角の立ちんぼを買(こ)うた女が、今の嫁はぁんでぇすねぇん。
国の仕事いうのは昔から、お米も、お金も、売女(ばいた)も、家に集まってきますぅんやぁ。
その現世の欲望に塗(ま)れた付けを、一族みんなで地獄に行って支払うよってからにぃ、堪忍(かんにん)してやぁ〜
わてぇら風紀を乱す議員は、日本の神様の天照大御神(アマテラス)に、ごっつ嫌われてますぅさかいなぁ〜
備蓄米を囲って国民を兵糧攻めにして抹殺(まっさつ)する国賊(こくぞく)やぁから、そりゃアカンわぁな!
日本中の神様の逆鱗(げきりん)に触れ、公序良俗(こうじょりょうぞく)に反した先祖子孫の一族みんなで地獄に堕(お)ちよぉるわなぁ。
今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:29:01
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
和菓子一筋、頑(かたく)なに拘(こだ)る味への想い。
創業150年の伝統を誇る和菓子屋の月華堂。
粋(いき)で無口で和菓子職人さんが、長年に渡り受け継がれる味と伝統を守り続ける。
この街で愛されて続けて150年。
名物の栗饅頭(くりまんじゅう)や葛饅頭(くずまんじゅう)、それに水羊羹(みずようかん)を御賞味下さい。
和菓子屋の月華堂へ、是非、お越し下さい。
COSMO'S MIDNIGHT FEAT.FRANC MOODY /♪ FANTASY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:30:00
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
味で評判、安さで太鼓判!!
お財布に優しい、この価格。
味と安さと雰囲気で勝負!!
種類が豊富で、どれも美味しい。
飲めや歌えの大宴会。
居酒屋のジャングル大将へ是非、お越し下さい。
DE NOVO DAHL /♪ SHOUT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:30:55
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
美しくなりたい女性の夢が一歩近づいた!
女性の若さと美しさは、素肌にあります。
西田式オゾン電子イオン美顔器は、オゾンスチーマーの蒸気にオゾンを含ませて、美しい素肌に仕上げるオゾン美顔器です。
この程、当社の医療研究所がイオン化電子分解に成功し、電解カルシウムで効果を実感いただけます!
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販売代理店のゴージャス徳大寺の美容係員が、都合の良い日にお伺い致します。
MEGHAN TRAINOR & T-PAIN /♪ BEEN LIKE THIS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:31:49
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
有栖川電気商会では、電気の事なら何でもご相談承ります。
お客様に行き届いたサービスと技術でご奉仕します。
家電品の修理から販売や、住宅から店舗までの電気工事を承っております。
電話1本ですぐにお伺いします。
電気コンサルタントの事なら有栖川電気商会へ、是非、お任せください。
LOS UMBRELLOS /♪ NO TENGO DINERO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:32:49
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
今、ニットファッションが変わる。
カラフルで個性的なバリエーションが、私を楽しくさせる。
ヨーロピアンスタイルからアバンギャルドなニューウェーブまで、私好みのニットが手作りできます。
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高級手編物、手芸品の事なら毛糸のラム&ラブに、是非、お越しください。
SQUEEZER /♪ BLUE JEANS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:33:52
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
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期間中、全店あげての全品半額でご奉仕。
只今、業務拡大につきエリアマネージャーや店長候補など正社員も大募集!
私達と一緒に働いて成功し、人生の勝ち組になろう!
TWICE /♪ SPARKLE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:34:49
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
オフィスは最新鋭革命の時代に入った。
オフィスコンピューター、ファクシミリ、ワードプロセッサーなど最新技術の電子計算機をネットワークする。
オフィスはオートメーションにより、より効率に、より快適に進化する。
8ビットの新しい時代。
AI(人工知能)の活用によりIT(情報技術)の進化で、大幅に増設したワードプロセッサーのキーパンチャーを大募集!!
エレクトロニクスのパイオニア。
電子機器の事ならスペースフェニックスへ、ぜひ、ご相談ください。
BANKS /♪ HOLDING BACK
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:35:48
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
今、話題の高級クラブの恋愛スランプ。
飲み放題、歌い放題で2時間3000円ポッキリ価格!!
スタンバイOK!
さあ歌おう、ドンドン飲もう!
連日、豪華な舞踊ショーをお楽しみ頂けます。
大盛況につきピチピチギャルのホステスさんも大幅増員中!
ミッドナイトラブ、いい事あるかも?
くつろぎのオアシス、触れ合いサロンの恋愛スランプ。
ボディコンガールがお待ちしております。
来てねぇ!
UFFIE /♪ MC'S CAN KISS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:36:43
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
良い品は一目で分かります。
職人が拘(こだわ)り抜いた手作りハムの自信作。
青空高原の元、自社牧場で育てた豚もノビノビと育っています。
トンちゃんハムの自家工場で精肉し、今、熟成の時を迎えて、本場の風味をお届けします。
ここに逸品誕生しました。
トンちゃんハム、是非、お買い求め下さい。
WILLOW SMITH FEAT.NICKI MINAJ /♪ FIREBALL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:37:38
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
熊本県で愛されて23年。
あなたの街に信用を築く地元企業。
熊本工務店がお届けする新しい自信作。
島根県の丘陵地にニュータウンのヤマタノオロチヒルズ(八岐大蛇高級住宅街)を造成中。
宍道湖(しんじこ)や出雲大社から車で1時間圏内の好立地。
ヤマタノオロチヒルズ(八岐大蛇高級住宅街)にニューモデルハウスを展示し、専門係員による現地説明も実施いたします。
是非、週末は住宅展示場にご見学ください。
DOJA CAT /♪ SAY SO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:38:33
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
今日の貴女は美しい。
貴女を飾るファッショナブルなシューズ。
小粋にお洒落しましょう。
ミス、ミセスの貴女を素敵に演出します。
一流ブランド品を皆様に合ったシューズをお届けします。
嬉しい季節、素足の履き心地、夏のサンダル勢揃い。
シューズショップの靴の野良猫ギャルへ、是非、お越し下さい。
JESSIE JAMES /♪ WANTED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:39:30
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
良い商品を誠意と技術でご奉仕する真心サービス。
閑院家電販売センターでは、トリニトロンカラーテレビ、ベータマックスとVHSのビデオデッキ、高級ステレオセット、FM/AMワイドチューナー内蔵ラジオWカセットデッキなどなど、明るい店内には新製品がズラリ揃っております。
ご予算に合わせてお選び下さい。
お宅の電気商品の調子はいかがですか?
小さいお店で真心は大きい、暮らしに豊かさをお届けします。
アフターサービスもバッチリな閑院家電販売センターへ、お気軽にお立ち寄りください。
MOTHER MOTHER /♪ BODY OF YEARS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:40:29
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
アウトレットの安さ伝説が、ここに始まる。
現品限りの大特価の掘り出し市。
訳アリ、傷モノ、毎日、続々入荷。
さあ、今すぐに急げ!
活(い)き牛さん、豚さん、鳥さんが勢揃い。
お肉の事なら精肉店のミートボーイ。
IGGY AZALEA FEAT.JENNIFER HUDSON /♪ TROUBLE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:41:23
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
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FIG DISH /♪ COME ON
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:42:18
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
豪快で爽快にデッカく食べよう!
今年もやります、あしたも食堂の食彩祭!!
ビール、日本酒、焼酎、ウイスキーが飲み放題。
雉鍋(きじなべ)、しゃぶしゃぶ、溶岩焼き、皿鉢料理(さわちりょうり)などお好きな料理が食べ放題。
季節の味覚をズラリと揃えたシーズングルメフェア。
ご家族、お友達などと季節の味をご堪能ください。
ワールドレストランのあしたも食堂。
皆さまのご来店、お待ちしております。
VAMPIRE WEEKEND /♪ A-PUNK
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:43:18
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
確かな環境、確かな土地。
それが越前お市の方団地。
サスペンス劇場でお馴染みの東尋坊(とうじんぼう)を見下ろす将来を考えた理想の住宅地。
今年こそマイホームの夢を実現しましょう。
快適で理想な分譲地を、他にも各崖地にご用意しております。
好評判の越前お市の方団地、いよいよ分譲開始!
魅了する土地、いい区画はお早めに!
宅地の総合開発の事なら北陸不動産にお任せ下さい。
VAMPIRE WEEKEND /♪ PRAVDA
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:44:35
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
竹林の奥深くに佇(たたず)む割烹料理の嵯峨路(さがじ)。
専属の板前が包丁と腕を磨いて厨房に立ち続けているのが美味への証(あかし)。
この町に愛されて2年の割烹料理の嵯峨路(さがじ)。
和食一筋で料理の腕前に限界は無し!
近年はエキゾチックな中近東料理やファンタジックなインド料理も加わりボリュームアップ。
ご家族、ご宴会にもご利用ください。
是非、割烹料理の嵯峨路(さがじ)をご贔屓に。
THE SMASHING PUMPKINS /♪ THIRTY THREE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250520 - ラジオの友 URL
2025/05/20 (Tue) 19:45:33
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
昨今の物価高と不況により、和菓子屋の月華堂では年内で閉店する事が決まりました。
和菓子屋の月華堂をはじめグループ全店の閉店セール開催中!!
グループ全店の全品を売切れ御免の80%オフでご奉仕!
150年間、お客様に愛された伝統の味。
最後までこの伝統の味をお届けします。
長年、和菓子屋の月華堂をご贔屓にして頂き、有難う御座いました。
ALEC BENJAMIN /♪ PICK ME
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:14:39
◆◇◆大人のジャズはよろしゅうおすぅなぁ〜◆◇◆
BIX BEIDERBECKE & HIS GANG /♪ ROYAL GARDEN BLUES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:17:08
Janis Siegel /♪ THAT'S NOT MY STYLE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:17:59
POSI-TONE SWINGTET /♪ MAL'S TOTEM
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:18:52
NICK HEMPTON & CORY WEEDS /♪ LAST TRAIN FROM OVERBROOK
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:19:47
上原ひろみ&HIROMI'S SONICWONDER /♪ OUT THERE:Strollin'
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:20:36
GREGORY PORTER /♪ MERRY GO ROUND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:21:25
BLOSSOM DEARIE /♪ THEY SAY IT'S SPRING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:22:16
WILLIE MORRIS /♪ THE FOLKS WHO LIVE DOWN THE HILL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:23:55
JOSE JAMES /♪ SPIRITS UP ABOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:24:44
POSI-TONE SWINGTET /♪ FREE TIME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:25:35
PETROS KLAMPANIS /♪ WHEN I KNOW THE ANSWER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:26:24
CHRIS BOTTI /♪ BEWITCHED,BOTHERED AND BEWILDERED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:28:12
CHICK COREA & RETURN TO FOREVER /♪ YOU'RE EVERYTHING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250519 - ラジオの友 URL
2025/05/19 (Mon) 22:31:04
KENDRICK LAMAR FEAT.BETH GIBBONS OF PORTISHEAD /♪ Mother I Sober
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:27:07
HEAVY D & THE BOYZ /♪ NUTTIN' BUT LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:29:13
SALT'N'PEPA /♪ GET UP EVERYBODY GET UP
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:31:58
GANG STARR /♪ TAKE IT PERSONAL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:33:47
50 CENT /♪ HUSTLER'S AMBITION
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:38:03
Pras Michel /♪ HAVEN'T FOUND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:39:45
CHANCE THE RAPPER & DJ PREMIER /♪ TOGETHER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:41:46
MARY GRIFFIN /♪ JUST NO OTHER WAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:42:37
GABRIELLE /♪ FORGET ABOUT THE WORLD
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:43:44
AFTER 7 /♪ DAMN THING CALLED LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:44:38
SHAI /♪ I DON'T WANNA BE ALONE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:45:34
PEABO BRYSON /♪ CLOSER THAN CLOSE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250517 - ラジオの友 URL
2025/05/17 (Sat) 17:46:32
LISA FISCHER /♪ HOW CAN I EASE THE PAIN
◆ラジオの友◆