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今日の1枚、お薦めレコード/20261006 - ラジオの友 URL

2026/10/06 (Tue) 14:03:04

THE CHEMICAL BROTHERS FEAT.Q-TIP /♪ GO

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2026/10/06 (Tue) 14:04:03

ALEX GAUDINO FEAT.CRYSTAL WATERS /♪ DESTINATION CALABRIA

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2026/10/06 (Tue) 14:05:00

ROB'N'RAZ /♪ IN COMMAND

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2026/10/06 (Tue) 14:05:53

ROBIN S. /♪ SHOW ME LOVE

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2026/10/06 (Tue) 14:06:45

LANGE FEAT.SKYE /♪ DRIFTING AWAY

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2026/10/06 (Tue) 14:07:54

DUKE /♪ SO IN LOVE WITH YOU

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2026/10/06 (Tue) 14:08:42

SAFRI DUO MEETS AYLA /♪ SUNRISE

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2026/10/06 (Tue) 14:09:39

VILLEBILLIES /♪ LOVE IS KINDA CRAZY

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2026/10/06 (Tue) 14:10:29

FPI PROJECT /♪ I CAN FEEL

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2026/10/06 (Tue) 14:11:21

JOSS STONE /♪ YOU HAD ME

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2026/10/06 (Tue) 14:12:13

OSCAR JEROME /♪ GRAVITATE

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2026/10/06 (Tue) 14:13:03

FULL FLAVA •HAZEL FERNANDES /♪ RESCUE ME

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2026/10/06 (Tue) 14:13:56

DIONNE FARRIS /♪ DON'T EVER TOUCH ME

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2026/10/06 (Tue) 14:14:52

THE NXTBEATS /♪ DREAM OF A WONDOW

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2026/10/06 (Tue) 14:15:44

BONOBO /♪ ROSEWOOD

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2026/10/06 (Tue) 14:16:40

ENIGMA /♪ AGE OF LONELINESS

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2026/10/06 (Tue) 14:17:28

MALAKI & LUCY McWILLIAMS /♪ FAIR PLAY

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2026/10/06 (Tue) 14:18:21

CARGO /♪ FOR THE LIGHT

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2026/10/05 (Mon) 07:11:54

STRAY CATS /♪ MYSTERY TRAIN KEPT A ROLLIN'

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2026/10/05 (Mon) 07:13:03

RASPBERRIES /♪ GO ALL THE WAY

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2026/10/05 (Mon) 07:14:16

THE ALL-AMERICAN REJECTS /♪ SWING,SWING

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2026/10/05 (Mon) 07:15:12

KID ROCK /♪ YOU NEVER MET A MOTHERF*** QUITE LIKE ME

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2026/10/05 (Mon) 07:16:07

PEARL JAM /♪ EVEN FLOW

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2026/10/05 (Mon) 07:17:00

CLOUDBERRY JAM /♪ IF YOU LEAVE ME NOW

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2026/10/05 (Mon) 07:17:59

MOLLY HAMMAR,JULIE BERGAN & AWA /♪ GET TO KNOW ME FIRST

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2026/10/05 (Mon) 07:19:11

LORDE /♪ YELLOW FLICKER BEAT

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2026/10/05 (Mon) 07:20:16

ERIC CARMEN /♪ IT HURTS TOO MUCH

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2026/10/05 (Mon) 07:21:15

ROBBIE WILLIAMS /♪ SUPREME

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2026/10/05 (Mon) 07:22:09

GLEE CAST /♪ LUCKY

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2026/10/05 (Mon) 07:23:13

BRAD /♪ THE DAY BRINGS

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2026/10/05 (Mon) 07:24:08

YONLAPA /♪ INSOMNIA

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2026/10/05 (Mon) 07:25:08

MOBY /♪ DREAM ABOUT ME

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2026/10/05 (Mon) 07:26:08

SEPTEMBER 67 /♪ WHAT'S WRONG WITH ALICE

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2026/10/05 (Mon) 07:27:11

MOBY WITH DAMIEN JURADO /♪ ALMOST HOME

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2026/10/05 (Mon) 07:28:13

WILSON PHILLIPS /♪ GET TOGETHER

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2026/10/05 (Mon) 07:29:10

AARON NEVILLE /♪ WILD FLOWER

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2026/10/05 (Mon) 07:30:13

NEIL DIAMOND /♪ HELLO AGAIN

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2026/10/05 (Mon) 07:31:19

TAKE 6 /♪ YOU CAN NEVER ASK TOO MUCH (OF LOVE)

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2026/10/01 (Thu) 13:20:34

◆◇◆大人のジャズはよろしゅうおすぅなぁ〜◆◇◆

Duke Ellington /♪ TAKE THE 'A' TRAIN

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2026/10/01 (Thu) 13:21:51

CHET BAKER SEXTET /♪ DOT'S GROOVY

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2026/10/01 (Thu) 13:22:51

Jim Rotondi & Dena DeRose /♪ BLUE GARDENIA

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2026/10/01 (Thu) 13:24:02

MILES DAVIS /♪ PETITS MACHINS(LITTLE STUFF)

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2026/10/01 (Thu) 13:24:56

RODNEY WHITAKER /♪ SLOE GIN FIZZ

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2026/10/01 (Thu) 13:25:53

SULLIVAN FORTNER /♪ QUE DIABLOS

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2026/10/01 (Thu) 13:26:51

REIS DEMUTH WILTGEN /♪ WHERE THE HEART BEATS

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2026/10/01 (Thu) 13:27:48

BEN WOLFE /♪ ANY TIME AFTER NOW

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2026/10/01 (Thu) 13:28:46

ZACCAI CURTIS /♪ SONOLUMINESCENCE

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2026/10/01 (Thu) 13:29:44

ANITA ELLIS /♪ THE WORLD IS IN MY ARMS

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2026/10/01 (Thu) 13:30:42

CHARLES CHEN /♪ LAVERNE WALK

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2026/10/01 (Thu) 13:31:34

JOEY ALEXANDER /♪ AVERSION

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2026/10/01 (Thu) 13:32:33

DAN WEST BIG BAND /♪ TELL ME A BEDTIME STORY

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2026/10/01 (Thu) 13:33:31

AARON SACHS SEXTET /♪ KINGFISH

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2026/10/01 (Thu) 13:34:35

THE SWEDISH MODERN JAZZ GROUP /♪ CURBITS

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2026/10/01 (Thu) 13:35:38

JOHN PIZZARELLI /♪ THE BEST IS YET TO COME

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2026/10/01 (Thu) 13:37:10

GABRIELLE CAVASSA /♪ BOSSY NOVA

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2026/10/01 (Thu) 13:38:03

YORON ISRAEL /♪ YOU'RE MY ALTER EGO

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2026/09/26 (Sat) 15:03:05

◆◇◆其の百七十五:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

1515年に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)にて、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)の息子の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が誕生する。

それから時が流れ、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、父親の北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍に従軍し、1535年に扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)との合戦で勝利し初陣(ういじん)を果たす。

1541年に、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が死去すると、息子で伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督を引き継いだ。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が死去した事により、伊勢北条氏の勢力拡大に不満を抱いていた関東地方の武将や国衆(くにしゅう)が、当主に就任して間もない伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が統治する領国に
に侵攻を開始した。

この時期の幾多(いくた)の合戦で獅子奮迅(ししふんじん)する伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な戦国武将へと成長していく。

1541年に、甲斐国(山梨県)でも事変が起こっていた。

戦国武将の武田信虎(たけだのぶとら/武田)が、娘の定恵院(じょうけいいん/武田→今川)を嫁(とつ)がせた今川義元(いまがわよしもと/今川)の家族に会いに、駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)へ行っている時だった。

駿府館(すんぷやかた)にて婿殿の今川義元(いまがわよしもと/今川)、愛娘(まなむすめ)の定恵院(じょうけいいん/武田→今川)、その孫の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)と家族水入らずで絆(きずな)を深め、武田信虎(たけだのぶとら/武田)はご満悦で甲斐国(山梨県)へ帰国の途(と)に就く。

その筈(はず)だったが、何と息子の武田信玄(たけだしんげん/武田)の謀反(むほん)により甲斐国(山梨県)から追放されてしまう。

甲斐国(山梨県)の関所で足止めされた武田信虎(たけだのぶとら/武田)は、再び駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)に舞い戻り、ここを生活の拠点にする事となる。

家督を引き継いだ武田信玄(たけだしんげん/武田)、その右腕となる弟の武田信繁(たけだのぶしげ/武田)により、甲斐国(山梨県)の武田軍は戦略転換する。

これにより、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、対立から和睦へと進み「甲相同盟」(こうそうどうめい)を締結する。

ただ、この世代交代に虎視眈々と狙いを定めていたのが駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)である。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の領地に進軍を開始し、さらに先代からの同盟国でもある甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)に援軍要請する。

これには締結したばかりの「甲相同盟」(こうそうどうめい)があるため武田信玄(たけだしんげん/武田)も困り果てたが、結局、昔馴染みの今川義元(いまがわよしもと/今川)を選び、甲斐国(山梨県)から出陣した武田軍は駿河国(静岡県)の今川軍に合流して伊勢北条軍を攻撃する。

戦(いくさ)上手の今川義元(いまがわよしもと/今川)は、この上にまだ策略を講じており、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)に関東北部から伊勢北条軍を攻撃する様に援軍要請していた。

これには伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は2軍に分かれるため戦況不利となり、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)に両軍共に和睦交渉を依頼する。

武田信玄(たけだしんげん/武田)はこれを了承して、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)、北関東の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)かつ扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の和睦に成功させた。

これにより今川義元(いまがわよしもと/今川)は、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)から以前に侵略された富士川の東部を奪還する。

これを1546年に起こった第二次の「河東の乱」(かとうのらん)と呼ぶ。

BROOKE COMBE /♪ THIS TOWN

◆ラジオの友◆

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2026/09/26 (Sat) 15:04:06

◆◇◆其の百七十六:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

1546年に起こった第二次の「河東の乱」(かとうのらん)にて、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が領国奪還をするなら、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)も同じ様に考える。

上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)とは、上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)の息子で代々に続く扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の関東管領(かんとうかんれい)を引き継ぎ、武蔵国(埼玉県)の比企(ひき)に建つ平山城(ひらやまじろ)の松山城(まつやまじょう/比企)を拠点としていた。

武蔵国(埼玉県)にある川越城(かわごえじょう)を、どうしても奪還(だっかん)は、元は扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の居城で、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)に簒奪(さんだつ)されていた。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)だった太田資清(おおたすけきよ/扇谷)と息子の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)が築城した名門城と言われる川越城(かわごえじょう)を、どうしても奪還(だっかん)したい。

そう考えた上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)は、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ鉢形城(はちがたじょう/寄居)と上野国(こうずけ/群馬県)の藤岡に建つ平井城(ひらいじょう/藤岡)を拠点としていた山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)と、下総国(しもうさ/茨城県)の古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)に援軍要請をして了解を得る。

こうして組成されたのが総計10万人の上杉足利軍で、これに対して相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる8千人の伊勢北条軍とは圧倒的な兵力差がある。

武蔵国(埼玉県)の川越城(かわごえじょう)には城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)が率いる3千人の伊勢北条軍河越隊が籠城し、それを上杉足利軍8万人が包囲している。

北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)とは、北条為昌(ほうじょうためまさ/伊勢北条)の養子で、河越城(かわごえじょう/川越)を拠点に武蔵国(埼玉県)を統治していた。

そこに援軍として駆け付けた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍が到着するも、討ち入る隙間も無いくらいに上杉足利軍の武士が川越城(かわごえじょう)の周囲を包囲していた。

北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、先(ま)ず小数兵で上杉足利軍に対して攻撃を仕掛け、相手が反撃に出たら直(す)ぐに敗走させる驕兵の計(きょうへいのけい)の戦法を取る。

これにより、上杉足利軍に対して伊勢北条軍は軟弱と思わせ油断をさせる。

更に1538年に関東管領(かんとうかんれい)となった伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)と、古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)との友好関係を持ち出し和睦交渉する。

これは伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の真義の和睦ではなく、足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)が『北条氏康が泣き付いてきた。』と思わせる為の偽降の計(ぎこうのけい)の戦略である。

最後の一手は、油断している上杉足利軍に対して、寝ぼけ半分で戦意喪失している夜間に攻撃を仕掛ける夜襲である。

この戦略をどうしても川越城(かわごえじょう)の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)に伝えなければならない。

そこで北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)の弟で、“関東で一番の美少年”と呼ばれる北条綱房(ほうじょうつなふさ/伊勢北条)が女装をして、上杉足利軍の武士の目を欺(あざむ)き川越城(かわごえじょう)に潜入する事を試(こころ)みる。

この北条綱房(ほうじょうつなふさ/伊勢北条)の女装が的中し、潜入した川越城(かわごえじょう)の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)に夜襲を仕掛ける事を伝える。

この時に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、夜間に音がしない様に伊勢北条軍の武士は兜と甲冑を脱いで軽装にして、味方同士が判別できる様に白装束を身にまとわせた。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は、夜間になると上杉足利軍の本陣に目掛けて一気に攻め込み、総大将で扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)を討ち取る。

これにより上杉足利軍8万人は総崩れとなり、蜘蛛の子散らす様に四方八方に敗走した。

これを1546年に起こった「日本三大奇襲戦」の1つの「河越夜戦」(かわごえやせん)と呼ぶ。

その後、北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)を捕縛(ほばく)して幽閉する。

また、武蔵国(埼玉県)の深谷城(ふかやじょう)の城主に就いていた上杉憲賢(うえすぎのりかた/山内→深谷)や、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ平山城(ひらやまじろ)の花園城(はなぞのじょう/寄居)の城代に就いていた上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)の家臣の藤田康邦(ふじたやすくに/山内→伊勢北条)は、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に帰属(きぞく)した。

更に、坂東(ばんどう/関東)八州の武士一団となる武蔵七党(むさししちとう)で、武蔵国(埼玉県)の児玉(こだま)に建つ山城(やまじろ)の御嶽城(みたけじょう/児玉)の城主で、安保氏(あぼうじ/阿保氏)12代目の当主の安保泰広(あんぼやすひろ/安保)も、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)との交戦で敗北した。

これにより室町幕府の出先機関である鎌倉府や、鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ古河公方(こがくぼう)の200年余りの歴史に幕を閉じる。

HEATHER SMALL /♪ HOLDING ON

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2026/09/26 (Sat) 15:05:08

◆◇◆其の百七十七:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

関東一帯で圧倒的な軍事力を有(ゆう)した伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)だが、ここで地盤固めに動く。

駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の呼び掛けにより、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)も交えて和睦交渉が持ち上がる。

今川義元(いまがわよしもと/今川)の家臣で僧侶でもある太原雪斎(たいげんせっさい/今川)の用意周到な段取により、駿河国(静岡県)の富士山麓にある善徳寺(ぜんとくじ)で三国会談が開催され、此処(ここ)にて甲斐国(山梨県)と相模国(神奈川県)と駿河国(静岡県)は同盟する事に承諾した。

これを1554年に締結された「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)と呼ぶ。

この「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)で、お互いが背中合せとなり鉄壁の要塞が構築される。

甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、北側の信濃国(長野県)へ侵攻を開始する。

相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、東側の関東一帯の平定に注力する。

駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)は、三河国(愛知県)の松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/徳川)を従えて西側の京都への上洛を試みる。

これ程までに理に適(かな)った「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)はなかったが、あの2人が表舞台に現れる事で事態が一変する。

先ず1人は、越後国(新潟県)の戦国武将の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)である。

そして、もう1人は、尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが/織田)である。

1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)の後、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は攻撃の手を緩めず、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)の上杉軍山内隊を追撃していた。

1558年に、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍の猛追に対して、上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)が率いる上杉軍山内隊は堪(こら)えきれず越後上杉氏の地縁を頼る。

上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)は越後国(新潟県)まで逃亡し、戦国武将である“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に救援要請をする。

元々はお寺の僧侶だった上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、救いの民から『頼まれたら断れない。』慈悲深い性格の持ち主で、更(さら)に、驍猛(ぎょうもう)な戦国武将と呼ばれた長尾為景(ながおためかげ/長尾)からの父親譲りの戦闘能力も兼ね備えている。

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は“天下無敵の僧兵”と呼ばれ、自分自身も北方を守護する毘沙門天(びしゃもんてん)の化身として信じて疑わなかった。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の関東管領(かんとうかんれい)でもある上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)の高貴な官職に忖度(そんたく)して救援したのではなく、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、ただ純粋に“救いを求める1人の民”として手を差し伸べた。

越後国(新潟県)で軍備を整えた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍越後隊は、南下しながら弾丸侵攻を開始する。

その勢いに圧倒される伊勢北条軍の関東武士団は、神々(こうごう)しい上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を崇拝する様に次々と寝返っていく。

武蔵国(埼玉県)の比企(ひき)に建つ平山城(ひらやまじろ)の松山城(まつやまじょう/比企)の城主の上田朝直(うえだともなお/扇谷→伊勢北条)は、「河越夜戦」(かわごえやせん)の戦後に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に帰属(きぞく)していたが、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に従属(じゅうぞく)した。

武蔵国(埼玉県)の行田(ぎょうだ)に建つ周辺が沼に囲まれた平城(ひらじろ)の忍城(おしじょう/行田)の城主の成田長泰(なりたながやす/上杉→ 伊勢北条 → 上杉→ 伊勢北条)も、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に従属(じゅうぞく)した。

武蔵国(埼玉県)の平城(ひらじろ)の羽生城(はにゅうじょう)と上野国(こうずけ/群馬県)の館林城(たてばやしじょう)の城主で、坂東(ばんどう/関東)八州の国人(こくじん)の広田直繁(ひろたなおしげ/木戸→広田)と弟の木戸忠朝(きどただとも/木戸)も、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に従属(じゅうぞく)した。

武蔵国(埼玉県)に建つ平城(ひらじろ)の岩槻城(いわつきじょう/さいたま)と常陸国(ひたち/茨城県)の片野城(かたのじょう/石岡)の城主で、知楽斎道可(ちらくさいどうか)こと太田資頼(おおたすけより/扇谷→伊勢北条)の息子の太田資正(おおたすけまさ/扇谷→伊勢北条→上杉→佐竹)も、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に従属(じゅうぞく)した。

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍越後隊は、あっという間に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が篭城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を包囲する。

城下町にも火を放ち、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍越後隊は小田原城(おだわらじょう)の周辺に布陣する。

しかし、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)はお昼のお弁当を食べた後に、越後国(新潟県)に撤退する。

これを1560年に起こった「小田原城の戦」と呼ぶ。

翌年の1561年に、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は再び相模国(神奈川県)に来て、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)との養子縁組を果たして長尾景虎(ながおかげとら/長尾)から上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と改名し、関東管領(かんとうかんれい)の要職も引き継ぐ。

一方、「小田原城の戦」の最中(さなか)、日本中を震撼(しんかん)させた事変が起こる。

京都への上洛を目論み西側に進軍をしていた駿河国(静岡県)の戦国武将の今川義元(いまがわよしもと/今川)が率いる2万5千人の軍隊に対して、尾張国(愛知県)の知多郡にある桶狭間山にて、尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる2千人の軍隊が交戦して、総大将の今川義元(いまがわよしもと/今川)を討ち取った。

これを1560年に起こった「桶狭間の戦」と呼ぶ。

HALIE LOREN /♪ KEEP ON (LET'S DRINK THE GOOD WINE)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260926 - ラジオの友 URL

2026/09/26 (Sat) 15:06:08

◆◇◆其の百七十八:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)で、今川義元(いまがわよしもと/今川)が織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取りられ死去した。

此(こ)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の死去と、1553年〜1564年までの「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍との合戦で苦戦した事に起因して、武田信玄(たけだしんげん/武田)は戦略の方向転換をした。

先ずは甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と提携して、駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の当主に就いた今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の領国に侵攻する事を紐帯(ちゅうたい)した。

三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西側から遠江国(静岡県)を制圧し占領し、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は北側から駿河国(静岡県)を制圧し占領する事を取り決めた。

この狡猾(こうかつ)な武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を庇護(ひご)して援護した。

こうして「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)した。

その前後に、武蔵国(埼玉県)の深谷城(ふかやじょう)の城主で、上杉憲賢(うえすぎのりかた/山内→深谷)の息子の上杉憲盛(うえすぎのりもり/山内→深谷)は、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)から上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)へ帰属(きぞく)したが、1563年に再び伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に臣従(しんじゅう)した。

一方で、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ花園城(はなぞのじょう/寄居)と鉢形城(はちがたじょう/寄居)の城主の、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の息子で、藤田康邦(ふじたやすくに/山内→伊勢北条)の養子に入っていた藤田氏邦(ふじたうじくに)こと北条氏邦(ほうじょううじくに/伊勢北条→藤田→豊臣)は、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とした“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)の軍事支援を受けた。

これを機に、藤田氏邦(ふじたうじくに)こと北条氏邦(ほうじょううじくに/伊勢北条→藤田→豊臣)が率いる北条軍藤田隊は、武蔵国(埼玉県)の秩父(ちちぶ)の山間部に建つ日尾城(ひおじょう/秩父)と高松城 (たかまつじょう/秩父)を侵攻して落城させた。

一方で1563年に、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に恭順(きょうじゅん)した武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)の城主の成田長泰(なりたながやす/上杉→ 伊勢北条 → 上杉→ 伊勢北条)と、その家臣で武蔵国(埼玉県)の加須(かぞ)に建つ騎西城(きさいじょう/加須)の城主の小田朝興(おだともおき/成田→小田)は、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍越後隊の侵攻を受けて敗北した。

この時期に、上総国(かずさ/千葉県)を統治していた里見義堯(さとみよしたか/小弓)の領国に、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍を侵攻させた。

里見義堯(さとみよしたか/小弓)が率いる里見軍の激しい抵抗に遭い苦戦するも、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は甚大な被害に遭いながらも勝利した。

これにて里見義堯(さとみよしたか/小弓)が率いる里見軍は、安房国(あわ/千葉県)に退陣した。

これを1564年に起こった第二次の「国府台合戦」(こうのだいかっせん)と呼ぶ。

この後に、太田資正(おおたすけまさ/扇谷→伊勢北条→上杉→佐竹)の息子の太田氏資(おおたうじすけ/扇谷→伊勢北条)は、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に寝返り、父親の太田資正(おおたすけまさ/扇谷→伊勢北条→上杉→佐竹)と弟の太田政景(おおたまさかげ)こと梶原政景(かじわらまさかげ/扇谷→伊勢北条→上杉→佐竹→徳川)を武蔵国(埼玉県)に建つ岩槻城(いわつきじょう/さいたま)から追放し城主に就任した。

1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻して制圧した。

これに呼応(こおう)して三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、遠江国(静岡県)に侵攻して制圧した。

こうして今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は敗走して、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が居城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に身を寄せた。

続いて武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)に侵攻を開始した。

これに危機感を覚えた“相模の獅子”と呼ばれる伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)は、犬猿の仲だった“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と1569年に「越相同盟」(えつそうどうめい)を締結した。

この「越相同盟」(えつそうどうめい)の証として、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)の息子で、相模国(神奈川県)の箱根に建つ伊勢北条氏の菩提寺の早雲寺(そううんじ/臨済宗)の僧侶だった北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)が、1570年に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子に入った。

武蔵国(埼玉県)に寄居(よりい)に建つ花園城(はなぞのじょう/寄居)と鉢形城(はちがたじょう/寄居)の城主の藤田氏邦(ふじたうじくに)こと北条氏邦(ほうじょううじくに/伊勢北条→藤田→豊臣)と、武蔵国(埼玉県)の児玉(こだま)に建つ御嶽城(みたけじょう/児玉)の城主の平沢政実(ひらさわまさざね)こと長井政実(ながいまさざね/山内→伊勢北条→武田→上杉)は、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)から軍事支援を受けた。

また、武蔵国(埼玉県)の深谷城(ふかやじょう)の城主の上杉憲盛(うえすぎのりもり/山内→深谷)や、広田直繁(ひろたなおしげ/木戸→広田)の弟で、武蔵国(埼玉県)の羽生城(はにゅうじょう)の城主の木戸忠朝(きどただとも/木戸)と息子の木戸重朝(きどしげとも/木戸)も、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)から軍事支援を受けた。

同年の1571年に、“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が死去し、世代交代により伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が家督継承した。

伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と和睦した事により、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)との「越相同盟」(えつそうどうめい)は瓦解(がかい)した。

AMY MACDONALD /♪ LA

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260926 - ラジオの友 URL

2026/09/26 (Sat) 15:07:02

◆◇◆其の百七十九:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)にて、武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、遠江国(とおとうみ/静岡県)に侵攻して徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍と交戦し勝利した。

しかし、1573年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去する。

武田氏の16代目当主だった武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去した事により、息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)が17代目当主に就任した。

武田氏の当主と就いた武田勝頼(たけだかつより/武田)は重鎮家臣の意見を無視して、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が連合する織田徳川軍に侵攻を開始する。

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、三河国(愛知県)の長篠(ながしの)と設楽原(したらがはら)の戦地で、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍と織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

戦況は織田徳川軍鉄砲隊の三段構えによる銃撃で武田軍騎馬隊は壊滅し、武田勝頼(たけだかつより/武田)の陣営に対して“徳川四天王”と呼ばれる酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)による奇襲で陣形は崩壊した。

この合戦で武田軍の重鎮家臣は、ほとんどが討死し惨敗した。

1578年に越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が死去すると、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で家督争いが起こる。

越後国(新潟県)の上杉氏によるお家騒動だったが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏や甲斐国(山梨県)の武田氏まで巻き込む大騒乱となってしまった。

先ず上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は直参家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)などと共に、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に陣営を設けて篭城した。

一方の上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、春日山城(かすがやまじょう/上越)の城下町に設けた関東管領(かんとうかんれい)の役所となる御館(おたて)に陣営を設けた。

この時に軍事力と政治力を発揮したのが上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で、兄弟の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)に援軍要請している。

更に相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は講和成立を条件に、甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に侵攻する様に示唆(しさ)した。

これにより甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は北上して、越後国(新潟県)の領域まで進軍した。

ところが、この隙に遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍が、当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)が不在の甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)に侵攻してきた。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討伐している場合でなくなり、更に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)から講和を持ち掛けられ承諾してしまう。

こうして武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は、甲斐国(山梨県)に帰還してしまう。

此(こ)れに激怒した伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)から伊勢北条軍を出陣させたが、季節は冬で豪雪の越後国(新潟県)に居座る冬将軍に行く手を阻(はば)まれる。

こうして御館(おたて)の陣営で孤立無縁となった上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、妻の清円院(せいえんいん/上杉)の薦めで相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)まで逃亡を図る。

この間に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の軍隊による総攻撃で、御館(おたて)の陣営は炎上して、上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)の妻の清円院(せいえんいん/上杉)と息子の上杉道満丸(うえすぎどうまんまる/上杉)は1579年に死去する。

しかも逃亡した上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)も、家臣の裏切りにより自決した。

この時の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の遺恨(いこん)が、武田勝頼(たけだかつより/武田)の人生の結末まで後を引いた。

これを1578年に起こった「御館の乱」(おたてのらん)と呼ぶ。

10,000 MANIACS /♪ TROUBLE ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260926 - ラジオの友 URL

2026/09/26 (Sat) 15:08:13

◆◇◆其の百八十:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

1581年に伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は名目上の隠居をし、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督継承者に就任する。

しかし、実権は伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が掌握しており、二頭政治により伊勢北条氏の家中は判断と決断が二分化されて混迷をきたす。

1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始されると、怒涛の勢いで長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍が、信濃国(長野県)から甲斐国(山梨県)へと侵攻してきた。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は擁護(ようご)してもらう為に、“武田二十四将”(たけだにじゅうししょう)に選ばれる小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が城主を務める甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に向かう。

ただ既に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は織田軍に寝返っており、最期(さいご)を知った武田勝頼(たけだかつより/武田)は自決し、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏は滅亡した。

この時に北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、勢力拡大を続ける織田信長(おだのぶなが/織田)に帰属(きぞく)する事を決定した。

ところが3ヶ月後に、京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

そして中国攻めを実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

こうして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

この頃に関東地方では、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が、亡き織田信長(おだのぶなが/織田)との連盟を破棄して滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊に侵攻を開始した。

1582年に起こった「神流川の戦」(かんながわのたたかい)にて、武蔵国(埼玉県)の賀美(かみ/児玉)で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍と滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊が合戦を繰り広げた。

この「神流川の戦」(かんながわのたたかい)で、滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊は、戦況が不利と判断して関東地方から撤退した。

これにより武田氏の領国だった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は、統治者の居ない空白地帯となる。

この時に滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊が占領していた上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう/利根)を真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は奪還(だっかん)した。

1582年に起こった「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)にて、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)かつ息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)と、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と、三河国(愛知県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)により、武田氏の領国だった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の空白地帯の争奪戦が始まる。

この三つ巴(ともえ)の勢力は勝敗が付かず、その間に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一の覇道(はどう)を突き進んだ。

MAURA O'CONNELL /♪ ISN'T IT ALWAYS LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260926 - ラジオの友 URL

2026/09/26 (Sat) 15:09:29

◆◇◆其の百八十一:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

この時期に、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が城主を務める上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう/利根)と、重鎮家臣の鈴木主水(すずきもんど)こと鈴木重則(すずきしげのり/真田)が城代を務める名胡桃城(なぐるみじょう/利根)を巡り、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の家臣が紛争を起こす。

これが1587年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が関東と奥羽に発布した“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に対して宣戦布告した。

これは豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の奸計(かんけい)により、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐する為の詭弁(きべん)とも言われている。

更に、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の重鎮家臣の鈴木主水(すずきもんど)こと鈴木重則(すずきしげのり/真田)が自決する。

これを1589年に起こった「名胡桃事件」(なぐるみじけん)と呼ぶ。

こうして1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍が、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐する為に侵攻を開始した。

越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍上杉隊と、加賀国(石川県)の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が率いる豊臣軍前田隊が、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ鉢形城(はちがたじょう/寄居)に篭城する藤田氏邦(ふじたうじくに)こと北条氏邦(ほうじょううじくに/伊勢北条→藤田→豊臣)が率いる伊勢北条軍藤田隊に侵攻した。

豊臣軍上杉隊と豊臣軍前田隊の猛攻撃に遭い、藤田氏邦(ふじたうじくに)こと北条氏邦(ほうじょううじくに/伊勢北条→藤田→豊臣)は降伏して開城し、その後に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の陪臣(ばいしん)に就いた。

豊臣軍の攻勢により、武蔵国(埼玉県)の比企(ひき)に建つ松山城(まつやまじょう/比企)と、川越(かわごえ)に建つ川越城(かわごえじょう)も落城した。

ただ、武蔵国(埼玉県)の行田(ぎょうだ)に建つ沼に囲まれた忍城(おしじょう/行田)では、城代に就いていた成田長泰(なりたながやす/上杉→ 伊勢北条 → 上杉→ 伊勢北条)の弟の成田泰季(なりたやすすえ/成田)と、成田長泰(なりたながやす/上杉→ 伊勢北条 → 上杉→ 伊勢北条)の娘の甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)が篭城して防衛に徹した戦術により、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる豊臣軍石田隊は大苦戦し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が得意とする“水攻め”を講じるも、逆に甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)は忍川(おしかわ)の堤防を決壊させて豊臣軍石田隊を水没させた。

この武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)の交戦だけは、知勇兼備(ちゆうけんび)な甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)の詭計百出(きけいひゃくしゅつ)による戦術で、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる豊臣軍石田隊は敗北している。

一方で、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、連日の厳格な軍議の小田原評定(おだわらひょうじょう)により、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)や重鎮家臣は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍との合戦に備えて綿密な戦略を策定していた。

そして相模湾から陽が昇ると、相模国(神奈川県)に築城された全長9kmの総構(そうがまえ)が囲む難攻不落の小田原城(おだわらじょう)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍に四方八方を完全に包囲されていた。

更に小田原城(おだわらじょう)の南西部に位置する石垣山(いしがきやま)には、昨日まで無かった石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)の一夜城(いちやじょう)が築城されていた。

この戦況で現実を直視した伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏する事を決断する。

しかし伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、難攻不落の小田原城(おだわらじょう)が落城しないと言う希望的観測(きぼうてきかんそく)と、傑出(けっしゅつ)した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を侮(あなど)り徹底抗戦を決断する。

この伊勢北条氏の二頭政治の決断が、重鎮家臣や武将に混迷を引き起こす事になる。

ただ、降伏の交渉人として天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が小田原城(おだわらじょう)に送り込まれ、この時に伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、自らの切腹と引き換えに家臣や武将の助命嘆願をした。

これを聞いた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の武将としての智勇(ちゆう)に感銘し、威令(いれい)した降伏条件はこの逆だった。

息子の北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は助命して紀伊国(和歌山県)も高野山(こうやさん)に配流(はいる)とし、最後まで抵抗した父親の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は切腹を命じた。

こうして相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と一部の家臣が自決し、北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は開城して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に明け渡した。

これにより豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、主君で亡き織田信長(おだのぶなが/織田)の念願だった天下統一を達成する。

ただ、1591年に北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)も死去する。

MEGAN MORONEY /♪ MEDICINE

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ZOLITA /♪ BLOODSTREAM

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LEANN RIMES /♪ SUDDENLY

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MEIKO /♪ BOYS WITH GIRLFRIENDS

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MACY GRAY /♪ SHE AIN'T RIGHT FOR YOU

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BLACK PRAIRIE /♪ NOWHERE,MASSACHUSETTS

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2026/09/26 (Sat) 15:15:14

LAURA NYRO /♪ SEXY MAMA

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TORI AMOS /♪ STRANGE

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LANA DEL REY /♪ CHEMTRAILS OVER THE COUNTRY CLUB

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2026/09/26 (Sat) 15:17:59

ELISA /♪ QUANDO NEVICA

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2026/09/26 (Sat) 15:18:59

CORINNE BAILEY RAE /♪ BREATHLESS

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2026/09/26 (Sat) 15:19:56

TONI BRAXTON /♪ SNOWFLAKES OF LOVE

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■当サイトを閲覧するにあたり/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 12:00:56

閲覧者の義務として、このサイト内に掲載されている音楽の5曲以上をお好きなラジオ局にリクエストして下さい。

もし、リクエスト曲が掛かれば幸福度がアップします。

今日のラッキーソングはこれだっ!

ペドロ&カプリシャス/♪ ジョニィへの伝言

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今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:00:33

◆◇◆其の百五十六:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

父親を自害に追い込まれた5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)は、その原因を作った当人の息子の上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)を相当に恨んでおり、その怨念は家宰(かさい)の長尾景仲(ながおかげなか/山内)や、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉顕房(うえすぎあきふさ/扇谷)と太田資清(おおたすけきよ/扇谷)にも向けられた。

5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の足利軍は鎌倉の西側にある江ノ島に布陣し、これを山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の連合した上杉軍が進撃した。

戦況は、両軍は東側に移動して由比ヶ浜で合戦が行われ、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)が率いる足利軍が勝利した。

これを1450年に起こった「江ノ島合戦」と呼ぶ。

上杉軍は敗退し鎌倉から逃亡するも、周辺で布陣して攻撃の構えを見せていた。

「江ノ島合戦」に勝利したとはいえ、生きた心地のしない5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)は室町幕府に対して、関東管領(かんとうかんれい)を影で操る家宰(かさい)の長尾景仲(ながおかげなか/山内)と太田資清(おおたすけきよ/扇谷)を排除する様に要請する。

室町幕府の征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)と三管領(さんかんれい)の畠山持国(はたけやまもちくに/室町)は、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の要請を聞き入れ、家宰(かさい)の長尾景仲(ながおかげなか/山内)と太田資清(おおたすけきよ/扇谷)の排除を承認した。

ところが室町幕府の三管領(さんかんれい)が、細川勝元(ほそかわかつもと/室町→東軍)に交代される。

しかも細川勝元(ほそかわかつもと/室町→東軍)は、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)とは仲違いしており、関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)とは肝胆相照(かんたんあいて)らす関係だったため、家宰(かさい)の長尾景仲(ながおかげなか/山内)と太田資清(おおたすけきよ/扇谷)に対して畠山持国(はたけやまもちくに/室町)が決めた排除を撤回した。

更に、今後は室町幕府に要請がある場合は、関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)に全て通すようにと通達を出した。

これにより5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)と関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)の立場が逆転し、鎌倉府の関係が崩壊し始める。

1455年に大事変が起こる。

今度は、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)が、詭計(きけい)を用いて上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)を斬殺した。

父親の上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)の忠言を聞き入れず、上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)は20代で亡くなる。

更に、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)が率いる足利軍は、越後国(新潟県)と信濃国(長野県)の守護大名で越後上杉氏の上杉房定(うえすぎふささだ/越後)と家宰(かさい)の長尾景仲(ながおかげなか/山内)と太田資清(おおたすけきよ/扇谷)が率いる上杉軍に侵攻して、深谷(ふかや)の岡部原(おかべのはら)にて合戦が繰り広げられた。

戦況は足利軍が勝利した。

これを1456年に起こった「岡部原の戦」(おかべのはらのたたかい)と呼ぶ。

これが1454年に起こり1483年までの28年間も続いた「享徳の乱」(きょうとくのらん)の始まりでもある。

TRANSVISION VAMP /♪ THE ONLY ONE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:01:32

◆◇◆其の百五十七:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

主君を暗殺された山内上杉氏(やまうちうえすぎし)は武蔵国(埼玉県)の本庄(ほんじょう)に建つ平山城(ひらやまじろ)の五十子陣(いかっこじん/本庄)に陣営を設けて、同志を抹殺された扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)は武蔵国(埼玉県)の川越城(かわごえじょう)に陣営を設けて、再び同族連合を組んで上杉軍として進撃を開始する。

足利軍と上杉軍の合戦は、相模国(神奈川県)の平塚周辺で繰り広げられた。

これを1454年に起こった「島河原の戦」(しまがわらのたたかい)と呼ぶ。

そして戦地は広域となり、武蔵国(東京都)の府中周辺の多摩川で、足利軍と上杉軍の合戦は繰り広げられた。

これを1455年に起こった「分倍河原の戦」(ぶばいがわらのたたかい)と呼ぶ。

どちらも5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の足利軍が勝利し、同族連合の上杉軍は敗走している。

この戦(いくさ)で多くの上杉軍の上杉氏や兵士が討死し、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家督でもある上杉顕房(うえすぎあきふさ/扇谷)も自害している。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家督は、上杉顕房(うえすぎあきふさ/扇谷)の父親で隠居していた上杉持朝(うえすぎもちとも/扇谷)が復帰して就任した。

犬懸上杉氏(いぬがけうえすぎし)から参戦していた上杉憲秋(うえすぎのりあき/犬懸)も自害し、その地は武蔵国(東京都)の日野に“高幡不動尊”(上杉堂)として今も残っている。

敗走した同族連合の上杉軍は、北上して下野国(しもつけ/栃木県)の国境にある常陸国(ひたち/茨城県)の小栗城(おぐりじょう)に居城した。

勢力拡大する5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の足利軍は、下総国(しもうさ/茨城県)の古河(こが)に布陣する。

この時から、実質的に古河公方(こがくぼう)となる。

MISSING PERSONS /♪ ROCK AND ROLL SUSPENSION

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:02:29

◆◇◆其の百五十八:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

1455年に「享徳の乱」(きょうとくのらん)が勃発した要因の1つでもある5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)による上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)の暗殺で、鎌倉府の関東管領(かんとうかんれい)かつ山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督が空席となった。

これにより室町幕府の征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)は、上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)の息子で、暗殺された上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)の兄弟の、上杉房顕(うえすぎふさあき/室町→山内)を関東管領(かんとうかんれい)かつ山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督に就任させた。

次に室町幕府が手を打ったのが、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)を討伐する事である。

本来は征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)を先代に持つ、同じ親族である筈(はず)の室町幕府の征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)と、鎌倉府の5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)は肝胆相照(かんたんあいて)らす関係であるべきだが、世の中、権力を握るとそうは上手くはいかない。

そこで室町幕府の命令により、越後国(新潟県)の上杉氏、信濃国(長野県)と甲斐国(山梨県)の小笠原氏、駿河国(静岡県)の今川氏が、古河城(こがじょう)に居城する5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)に攻撃を仕掛ける。

ただ、この時に信濃国(長野県)と甲斐国(山梨県)の小笠原氏だけは、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)に賛同していたので攻撃を保留していた。

まず、駿河国(静岡県)の今川軍が、相模国(神奈川県)の鎌倉府を攻略して占領する。

北部の越後国(新潟県)から進軍する越後上杉軍は、古河城(こがじょう)の一方手前の武蔵国(埼玉県)の本庄(ほんじょう)に建つ平山城(ひらやまじろ)の五十子陣(いかっこじん/本庄)で布陣する。

元々、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)と相模国(神奈川県)は、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の勢力基盤なので、古河城(こがじょう)に居城する5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の足利軍は身動きが取れなくなる。

こうして5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)は古河城(こがじょう)を御所として、古河公方(こがくぼう)と呼ばれる様になった。

これにより利根川を挟んで西側が同族連合の上杉軍が布陣する五十子陣(いかっこじん/本庄)、東側が5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の足利軍が布陣する陣営となる。

KEITH SWEAT /♪ SOMETHING JUST AIN'T RIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:03:28

◆◇◆其の百五十九:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

こうなると、駿河国(静岡県)の今川軍が占領する相模国(神奈川県)の鎌倉府には、鎌倉公方(かまくらくぼう)が事実上に空席となる。

そこで室町幕府は、抹殺された征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)の息子で、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)の兄弟でもある足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)を就任させるため京都から鎌倉に送り込む。

そのお供に家臣の渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)が同行している。

足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)と渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)は、京都から東海道を渡り歩き、ようやく伊豆国(静岡県)の三島周辺までやって来た。

ただ足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)と渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)は、伊豆国(静岡県)の環境が気に入り滞在する事にした。

この調子で、伊豆の温泉旅館にて1泊が2泊、そこから10泊に・・・

この様な理由で伊豆国(静岡県)の韮山(にらやま)周辺に足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の堀越御所が建設して、そこで堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれる様になった。

家臣で温泉仲間の渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)は、関東探題(かんとうたんだい)に就任する。

この時点で堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)と関東探題(かんとうたんだい)の渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)には、鎌倉府と言う文字は既(すで)に無い。

これが堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)と、関東探題(かんとうたんだい)の渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)の実態である。

一方で京都の室町幕府では、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)が、鎌倉府の状況の報告を待っているが梨の礫(なしのつぶて)である。

伊豆国(静岡県)の韮山(にらやま)周辺に建設された堀越御所で、政治運営を実施していた堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)と、関東探題(かんとうたんだい)の渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)だが、次第に京都から何をしに来ているのか分からない集団として、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)に疎(うと)まれる様になる。

いっこうに鎌倉に入らない堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)に対して、室町幕府の征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)も見切りを付けて、関東探題(かんとうたんだい)の渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)に対して京都に帰還する様に命じる。

この頃、京都の室町幕府でも、三管領(さんかんれい)の斯波氏で家督が不在という緊急事態が発生しており、その斯波氏の養子に渋川義鏡(しぶかわよしかね/室町→堀越)の息子の斯波義廉(しばよしかど/室町→西軍)が引継ぐ事案が持ち上がっていた事情もある。

Sananda Maitrey/♪ DO YOU LOVE ME LIKE YOU SAY?

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:04:29

◆◇◆其の百六十:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

此処(ここ)で関東管領(かんとうかんれい)と家宰(かさい)について整理しましょう。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督は上杉房顕(うえすぎふさあき/室町→山内)で、家宰(かさい)は長尾景仲(ながおかげなか/山内)です。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家督は上杉持朝(うえすぎもちとも/扇谷)で、家宰(かさい)は太田資清(おおたすけきよ/扇谷)である。

これが寿命や隠居で世代交代が実施された。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督は上杉房顕(うえすぎふさあき/山内)の養子の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)で、家宰(かさい)は長尾景仲(ながおかげなか/山内)の息子の長尾景信(ながおかげのぶ/山内)である。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家督は上杉持朝(うえすぎもちとも/扇谷)の孫の上杉政真(うえすぎまさざね/扇谷)で、家宰(かさい)は太田資清(おおたすけきよ/扇谷)の息子の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)である。

家宰(かさい)は上手く継承できたが、関東管領(かんとうかんれい)についてはちょっと複雑に事が運んだ。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉房顕(うえすぎふさあき/山内)は後継者が居なかったため、越後上杉氏である上杉房定(うえすぎふささだ/越後)の息子の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)を養子と出しており、これには当初、父親が難色(なんしょく)を示していた。

この状況下で動いたのが室町幕府の征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)と三管領(さんかんれい)の細川勝元(ほそかわかつもと/室町→東軍)で、結局、上杉房定(うえすぎふささだ/越後)が折れて承諾した。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)は上杉持朝(うえすぎもちとも/扇谷)の息子で家督だった上杉顕房(うえすぎあきふさ/扇谷)が、1455年に起こった「分倍河原の戦」(ぶばいがわらのたたかい)で、武蔵国(東京都)の府中周辺の多摩川で敗戦し自害していたため、次の世代が孫の上杉政真(うえすぎまさざね/扇谷)となり就任した。

GEORGIO /♪ LOVERS LANE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:05:24

◆◇◆其の百六十一:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

ここで京都では、1467年に起こり1477年まで続いた「応仁の乱」が勃発し、室町幕府も関東の政権運営に介入している場合ではなくなった。

そんな最中(さなか)、また山内上杉氏(やまうちうえすぎし)に不幸が訪れ、家宰(かさい)に就任したばかりの長尾景信(ながおかげのぶ/山内)が亡くなる。

そのため、早急に家宰(かさい)の後継者を決めなければならないが、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家臣から、長尾景信(ながおかげのぶ/山内)の息子の長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)ではなく、長尾景仲(ながおかげなか/山内)の息子かつ長尾景信(ながおかげのぶ/山内)の弟の長尾忠景(ながおただかげ/山内)を就任させる。

要は長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)の叔父にあたる長尾忠景(ながおただかげ/山内)が家宰(かさい)に就いた。

武蔵国(埼玉県)の本庄(ほんじょう)に建つ五十子陣(いかっこじん/本庄)にて、陣営を設けて布陣する同族連合の上杉軍の内部混乱に乗じて、下総国(しもうさ/茨城県)の古河城(こがじょう)に布陣する5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の足利軍が攻撃を仕掛ける。

この戦乱で、何と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家督を引継いだばかりの上杉政真(うえすぎまさざね/扇谷)が討死する。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)では、上杉持朝(うえすぎもちとも/扇谷)の息子かつ上杉顕房(うえすぎあきふさ/扇谷)の兄弟の、上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)を家督に就任させる。

要は討死した上杉政真(うえすぎまさざね/扇谷)の叔父にあたる、上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)が家督に就いた。

この扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の軟弱基盤を支えたのが、家宰(かさい)の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)である。

京都の室町幕府は「応仁の乱」の勃発で、京都市中は戦乱で大混乱していた。

関東の鎌倉府は「享徳の乱」(きょうとくのらん)の勃発で、坂東(ばんどう/関東)八州は戦乱で大混乱していた。

John Mellencamp /♪ HURTS SO GOOD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:06:22

◆◇◆其の百六十二:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

こんな紛糾(ふんきゅう)した状況下で、さらに問題を引き起こす不届者が現れた。

それが長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)である。

要は『山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家宰(かさい)に就任する権利があるのは、叔父の長尾忠景(ながおただかげ/山内)ではなく、長尾景信(ながおかげのぶ/山内)の嫡男(ちゃくなん)の自分である。』と言うのが、長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)の主張である。

長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)は景春軍を組成し、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ平山城(ひらやまじろ)の鉢形城(はちがたじょう/寄居)に陣営を設けて布陣した。

一方で、武蔵国(埼玉県)の本庄(ほんじょう)に建つ五十子陣(いかっこじん/本庄)に、長尾忠景(ながおただかげ/山内)などが陣営を設けて布陣する同族連合の上杉軍に敵対した。

これを1476年に起こった「長尾景春の乱」(ながおかげはるのらん)と呼ぶ。

長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)の新長尾軍は、五十子陣(いかっこじん/本庄)の上杉軍を攻撃し敗退させ陣営を占拠する。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)と弟の太田資忠(おおたすけただ/扇谷)が率いる上杉軍太田隊が武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)から出陣し、五十子陣(いかっこじん/本庄)に布陣する長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)の景春軍を攻撃して敗退させる。

敗北し逃亡した長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)の景春軍は鉢形城(はちがたじょう/寄居)に帰還する。

こうして上杉軍の内紛で一進一退を繰り広げていたが、忘れてならないのが「享徳の乱」(きょうとくのらん)の主因でもある5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の足利軍である。

そんな5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)に対して、長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)が率いる景春軍が救援要請をする。

1455年に起こった「享徳の乱」(きょうとくのらん)は混迷(こんめい)を極めて、敵味方の見分けも困難となり、30年近くを経て戦乱の大義が失われている事に、ようやく誰もが気付いたのである。

こうなると講和交渉を即断即決(そくだんそっけつ)し、室町幕府と5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)は和睦する。

更に、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)と上杉軍も和睦する。

最後に、上杉軍が長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)の景春軍を制圧し敗退させる。

此(こ)れにより長きに渡った「享徳の乱」(きょうとくのらん)は、一先(ま)ず区切りを付ける。

DAN HARTMAN /♪ I CAN DREAM ABOUT YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:07:24

◆◇◆其の百六十三:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

最後の総仕上げは伊豆国(静岡県)に居る堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の扱いである。

講和が締結された事により堀越公方(ほりごえくぼう)の必要性が失われた。

ただ、堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)は『伊豆に生涯を捧げたい。』と主張し、それと同じくして室町幕府も『京都に帰って来なくてよい。』と主張し同調した。

一方、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)は『京都に帰ってくれ。』と主張し、同じく山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の関東管領(かんとうかんれい)も『京都に帰って下さい。』と主張し同調した。

その結果、室町幕府から堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)は、伊豆国(静岡県)の領主に任命される。

誰からも必要とされない堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)は、室町時代一番の寂しい男になってしまった・・・

京都の室町幕府でも1477年に「応仁の乱」は一先(ひとま)ず終結していたが、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町)の息子で征夷大将軍9代目の足利義尚(あしかがよしひさ/室町→東軍)が、1489年に近江国(滋賀県)の“鈎の陣”(まがりのじん)で酒乱により死去する。

その次に足利義視(あしかがよしみ/室町→東軍→西軍)の息子で征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)が就任する。

ところが、「応仁の乱」にて兄の征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町)と三管領(さんかんれい)の細川氏などに、酷い仕打ちを受けた足利義視(あしかがよしみ/室町→東軍→西軍)と息子で征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)は、その時の遺恨(いこん)により復習に走る。

征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町)は1490年に死去し、妻の日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)と、細川勝元(ほそかわかつもと/室町→東軍)の息子で三管領(さんかんれい)の細川政元(ほそかわまさもと/室町→東軍)に対して、奸計(かんけい)により屋敷を焼き討ちにし迫害を繰り返す。

その迫害の最中(さなか)に足利義視(あしかがよしみ/室町→東軍→西軍)は、1491年に死去した。

これに対して反撃に出た日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)と細川政元(ほそかわまさもと/室町→東軍)は、征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)を追放し、征夷大将軍11代目に足利義澄(あしかがよしずみ/室町)を就任させた。

これを1493年に起こった「明応の政変」(めいおうのせいへん)と呼ぶ。

征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)とは、堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の息子である。

THOMPSON TWINS /♪ LAY YOUR HANDS ON ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:08:27

◆◇◆其の百六十四:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

関東の鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)を中心に、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)、家宰(かさい)の長尾氏と太田氏を巻き込んだ1455年〜1483年の28年間に及んだ「享徳の乱」(きょうとくのらん)が終結し、これで坂東(ばんどう/関東)八州に天下泰平(てんかたいへい)が訪れると誰もが信じていた。

しかし今度は、肝胆相照(かんたんあいて)らす関係だった山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)が、お互いの領国問題で対立し始めたのである。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)は、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ平山城(ひらやまじろ)の鉢形城(はちがたじょう/寄居)に陣営を設けて布陣した。

この時の家督は上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)で関東管領(かんとうかんれい)にも就任しており、越後上杉氏の上杉房定(うえすぎふささだ/越後)の息子かつ上杉房顕(うえすぎふさあき/山内)の養子である。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)は、武蔵国(埼玉県)の川越(かわごえ)に建つ平山城(ひらやまじろ)の川越城(かわごえじょう)に陣営を設けて布陣した。

この時の家督は上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)で、上杉持朝(うえすぎもちとも/扇谷)の息子かつ上杉顕房(うえすぎあきふさ/扇谷)の兄弟である。

更に、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)を堂々と表から支えていたのが、文武両道(ぶんぶりょうどう)に深謀遠慮(しんぼうえんりょ)な武将で家宰(かさい)の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)である。

この太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)を警戒したのが、主君の立場でもある上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)である。

そこで、上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)は自邸の屋敷に太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)を招請(しょうせい)する。

上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)は詭計(きけい)を講じて、太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)を浴室で斬殺した。

これを1486年に起こった「太田道灌暗殺事件」(おおたどうかんあんさつじけん)と呼ぶ。

主君の上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)に暗殺された太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)の家臣は、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)から出奔(しゅっぽん)し、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の臣従(しんじゅう)となった。

これにより山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の対立が深刻となる。

これを1487年に起こった「長享の乱」(ちょうきょうのらん)と呼ぶ。

TOAD THE WET SPROCKET /♪ ONE WIND BLOWS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:09:28

◆◇◆其の百六十五:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

この時期に室町幕府の官僚に就いていたのが、あの北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/伊勢北条)である。

後に伊豆国(静岡県)と相模国(神奈川県)の領主となる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、元は備中国(岡山県)の伊勢平氏の流れを汲(く)み、室町幕府では財務を担当する政所(まんどころ)に就いていた。

「明応の政変」(めいおうのせいへん)が起こる少し前の1476年に、駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)を拠点とする守護大名の今川義忠(いまがわよしただ/斯波)が戦場で討死した。

こうして家督継承から権力闘争が勃発し、今川義忠(いまがわよしただ/斯波)と北川殿(きたがわどの)の息子の今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)と、直参家臣だった小鹿範満(こじかのりみつ/今川)が対立した。

小鹿範満(こじかのりみつ/今川)は、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)を味方に付けて、駿河国(静岡県)の領国の簒奪(さんだつ)を目論んでいた。

此(こ)れに対して北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の姉である北川殿(きたがわどの)は、京都の弟に援軍要請し、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)に遠征する事を決定した。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍は、京都から駿河国(静岡県)を目指して東海道を東へ進軍させた。

そして1487年、虚勢(きょせい)を張っている小鹿範満(こじかのりみつ/今川)が率いる小鹿軍を討伐した。

今回の戦(いくさ)では、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)も関東で内紛があり、駿河国(静岡県)に援軍を派遣する余裕がなく、更に太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)も1486年に主君に暗殺されていた。

そして敗北した小鹿範満(こじかのりみつ/今川)は討死する。

これで駿河国(静岡県)の今川氏の家督は今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)が就任し、母親の北川殿(きたがわどの)も感極まった。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍は、駿河国(静岡県)から京都を目指して東海道を西へ帰還した。

BABYBIRD /♪ CANDY GIRL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:10:20

◆◇◆其の百六十六:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

1491年に、伊豆国(静岡県)の堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)が死去し、家督継承問題が起こる。

通常は、鎌倉公方(かまくらくぼう)や古河公方(こがくぼう)では、家督継承者は嫡男(ちゃくなん)が引継ぐ為に、慣例に従い堀越公方(ほりごえくぼう)も足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の息子の足利潤童子(あしかがじゅんどうじ/堀越)が引継ぐ事になる。

ところが、この裁定に異議を唱える者が現れる。

もう1人の息子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)である。

確かに足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)も、堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の息子だが、それは側室との子供だった。

堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の妻は円満院(えんまいん/室町→堀越)で、その息子が征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)と堀越公方(ほりごえくぼう)2代目の足利潤童子(あしかがじゅんどうじ/堀越)となる。

しかし、悪辣(あくらつ)や狼藉(ろうぜき)で乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)な足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)は、堀越公方(ほりごえくぼう)2代目の足利潤童子(あしかがじゅんどうじ/堀越)と、その母親の円満院(えんまいん/室町→堀越)を斬殺したのである。

これは征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)の母親を、弑(しい)した事を意味する。

これにより室町幕府は、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)に、堀越公方(ほりごえくぼう)3代目の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)の討伐を命じる。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍は、京都から伊豆国(静岡県)を目指して東海道を東へ進軍させた。

堀越公方(ほりごえくぼう)3代目の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)も、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)に援軍を要請して抗戦したが、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の前には歯が立たず、伊豆半島を南下して落ち延びる。

これにより堀越御所は崩落し、堀越公方(ほりごえくぼう)も消滅する事になる。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、今回の戦(いくさ)では京都に帰還せず、この地に留まり伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)を拠点とする。

これを1493年に起こった「伊豆討入」(いずうちいり)と呼ぶ。

damn yankees/♪ High Enough

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:11:18

◆◇◆其の百六十七:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

1486年に起こった「太田道灌暗殺事件」(おおたどうかんあんさつじけん)にて、主君の上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)に斬殺された家宰(かさい)の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)を失った扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)は、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)を味方に付けて、さらに長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)も取り込んだ。

長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)とは、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家宰(かさい)だった長尾景信(ながおかげのぶ/山内)の息子で、1476年に起こった「長尾景春の乱」(ながおかげはるのらん)にて山内上杉氏(やまうちうえすぎし)を出奔(しゅっぽん)し、足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の臣従(しんじゅう)となっていた。

息子の太田道灌(おおたどうかん/扇谷)を暗殺された父親の太田資清(おおたすけきよ/扇谷)は、逃亡した長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)が居城する武蔵国(埼玉県)の児玉(こだま)に建つ山城(やまじろ)の御嶽城(みたけじょう/児玉)を侵攻して落城させた。

更に逃亡を続けた長尾景春(ながおかげはる/山内→古河)は、武蔵国(埼玉県)の秩父(ちちぶ)に建つ山城(やまじろ)の日野城(ひのじょう)こと熊倉城(くまくらじょう/秩父)に入城したが、此処(ここ)も太田資清(おおたすけきよ/扇谷)に侵攻され落城した。

一方、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)では、関東管領(かんとうかんれい)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)と、実家の越後上杉氏から兄弟の上杉定昌(うえすぎさだまさ/越後)が援軍として参戦した。

幾度(いくど)と武蔵国(埼玉県)で合戦が行われるが、決定的な勝敗は付かず、膠着(こうちゃく)状態だった。

ここに5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の息子の2代目古河公方(こがくぼう)の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)と、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)に加勢する。

2代目古河公方(こがくぼう)の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)と北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の後ろ盾を得た、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)が率いる扇谷軍は勢いを増し、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ鉢形城(はちがたじょう/寄居)で布陣する山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)が率いる山内軍を攻撃する。

ところが何と、進撃を開始し馬に乗って川を渡っていた上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)が落馬して、この世を去る。

この上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)の死去は、暗殺された太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)の怨念とも言われている。

総大将を失った扇谷軍は撤退し、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)も伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)に帰還する。

更に、甲斐国(山梨県)の武田氏に囲われていた堀越公方(ほりごえくぼう)3代目の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)の武田軍堀越隊が、伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)に居城する北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)を攻撃する。

この攻防で北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は勝利し伊豆国(静岡県)を平定して、敗北した足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)は自害した。

WOMACK & WOMACK /♪ GOOD TIMES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:12:11

◆◇◆其の百六十八:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

この勢いに乗り北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の拠点だった相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を手に入れる事を考える。

当時の小田原城(おだわらじょう)の城主は大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)で、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は豪華な貢ぎ物(みつぎもの)を送るなどして友好関係を築く。

1495年に北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、詭計(きけい)を実行する。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)の領土に入る事を嘆願(たんがん)した。

理由は、伊豆の山で鹿狩りをしていたら、その鹿が逃げてしまい、大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)の領土の箱根山辺りに逃げ込み、鹿を探すために大人数で相模国(神奈川県)の領国に入る事であった。

この理由を聞いた大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)は快諾した。

これにより北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、変装した伊勢軍を相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に送り込む。

さらに1000頭の牛を用意し、角(つの)に火を着けた松明(たいまつ)を括(くく)り付け、火牛の計(かぎゅうのけい)を講じて夜間に小田原城(おだわらじょう)に向かって突撃させました。

これに驚いた大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)と家臣達は、敵陣の夜襲と勘違いして一目散(いちもくさん)に逃げ出した。

こうして北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、戦わずして小田原城(おだわらじょう)を占拠したのです。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の領土でもある相模国(神奈川県)の平定を目論んでいる間に、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)では上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)と越後上杉氏の上杉定昌(うえすぎさだまさ/越後)が率いる山内軍が進撃を開始する。

以前の戦(いくさ)で総大将かつ家督の上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)が落馬して死去したため、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の新大将かつ家督は上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)が引継いだ。

上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)とは、上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)の養子に入った甥にあたる。

ただし、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の弱体化は否(いな)めない。

武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ鉢形城(はちがたじょう/寄居)に布陣する山内軍が、そんな扇谷軍が布陣する武蔵国(埼玉県)の川越城(かわごえじょう)と武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に総攻撃を仕掛けて落城させる。

これにより扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)が率いる扇谷軍の敗北が決定的となり、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)と越後上杉氏の上杉定昌(うえすぎさだまさ/越後)が率いる山内軍が勝利する。

1505年に、これにて「長享の乱」(ちょうきょうのらん)は終結する。

EPHRAIM LEWIS /♪ DROWNING IN YOUR EYES

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:13:10

◆◇◆其の百六十九:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家督である上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)は敗戦責任を感じて隠居し、上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)が引継いだ。

上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)とは、上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)の養子に入り、上杉氏の親族ではあるが、どこから来たのかよく分かっていない。

この頃になると家督継承も何でもありとなっており、世襲(せしゅう)の体(たい)を成していないのが現状である。

これで坂東(ばんどう/関東)八州に、天下泰平(てんかたいへい)が訪れると誰もが信じていた。

しかし今度は、古河公方(こがくぼう)や山内上杉氏(やまうちうえすぎし)など関東一円で権力闘争が勃発する。

これを1506年に起こった「永正の乱」(えいしょうのらん)と呼ぶ。

この頃になると、鎌倉府から古河御所に拠点を移した5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)は、1489年に古河公方(こがくぼう)2代目を息子の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)に引継いでいた。

ところが、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)と、その息子の足利高基(あしかがたかもと/古河)の親子が対立し始める。

武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ鉢形城(はちがたじょう/寄居)を拠点とする山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)の仲裁によりなんとか平穏を保つ。

その恩義から古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)は、自分のもう1人の息子を上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)へ養子に出し、それが上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)となる。

ただ、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)の、さらにもう1人の息子の足利義明(あしかがよしあき/古河)が離反し、古河城(こがじょう)では3つの勢力が対立する事になる。

この後に足利義明(あしかがよしあき/古河)は、下総国(しもうさ/千葉県)の千葉生実(ちばいくみ)に建つ小弓城(おゆみじょう)を拠点とし、小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれる。

こうして、兄弟で古河公方(こがくぼう)3代目の足利高基(あしかがたかもと/古河)と長きに渡り対立する事となる。

IMMATURE /♪ I'M NOT A FOOL

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:14:07

◆◇◆其の百七十:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

更に、越後国(新潟県)の越後上杉氏でも内紛が起こる。

守護大名の上杉房定(うえすぎふささだ/越後)だが、実権は家臣で守護代の長尾能景(ながおよしかげ/上杉)が握っていた。

長尾能景(ながおよしかげ/上杉)とは、長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の祖父である。

そんな時、守護大名の上杉房定(うえすぎふささだ/越後)が死去して、家督を決める必要が出てきた。

長男の上杉定昌(うえすぎさだまさ/越後)は父親より先に死去している。

次男の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)は、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の養子に入り関東管領(かんとうかんれい)に就任している。

そこで、残る三男の上杉房能(うえすぎふさよし/越後)が越後上杉氏の家督を引継いだ。

ところが今度は、守護代の長尾能景(ながおよしかげ/上杉)が、越中国(富山県)での戦乱で討死してしまう。

その息子の長尾為景(ながおためかげ/長尾)が家督を引継いだ。

長尾為景(ながおためかげ/長尾)とは、長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の父親である。

この頃になると、戦国時代の“下克上”(げこくじょう)の真っ只中にある。

その時流に乗る様に守護代の長尾為景(ながおためかげ/長尾)は、現役の守護大名だった上杉房能(うえすぎふさよし/越後)を抹殺してしまう。

そして越後国(新潟県)の守護大名に、上条上杉氏(じょうじょううえすぎし)の上杉定実(うえすぎさだざね/上条→越後)を就任させる。

越後国(新潟県)の守護大名である上杉房能(うえすぎふさよし/越後)を殺(あや)められ、これに激昂(げきこう)のが兄弟でもある山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)である。

上野国(こうずけ/群馬県)の渋川に建つ白井城(しらいじょう)を拠点としていた上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)は、“越後長尾討伐”にあたり武蔵国(東京都)の江戸城で隠居していた扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)に、白井城(しらいじょう)で布陣してもらう様に頼む。

これで関東情勢を上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)が担う事で、上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)は山内軍を率いて越後国(新潟県)に向かう。

これに対して越後国(新潟県)の守護代の長尾為景(ながおためかげ/長尾)は、伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)に居城している北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)に援軍要請をして快諾を得る。

1509年に北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍は、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)が留守となった武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)を攻撃する。

しかし、扇谷軍も手薄な兵力ながら奮闘し、そこに山内軍も援軍として加勢したので、初代戦国武将と言われる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍を退けた。

そんな時に越後国(新潟県)から伝書が送達される。

CAROLE BAYER SAGER /♪ STRONGER THAN BEFORE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:15:04

◆◇◆其の百七十一:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

弟の上杉房能(うえすぎふさよし/越後)を斬殺した長尾為景(ながおためかげ/長尾)を討つため“越後長尾討伐”の進軍をしていた上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)が返り討ちに遭い討死する。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督かつ関東管領(かんとうかんれい)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)が亡くなった事で、後継者問題が突如(とつじょ)湧いてきた。

後継者候補は2人いる。

古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)の息子で、上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)の養子に入った上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)。

同じく上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)の養子に入った上杉憲房(うえすぎのりふさ/山内)。

ただし、上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)の遺言により後継者は上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)に決まっていた。

これに反発したのが上杉憲房(うえすぎのりふさ/山内)で、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)と対立している息子の足利高基(あしかがたかもと/古河)を味方に付けて攻撃を仕掛ける。

1510年、上野国(こうずけ/群馬県)の渋川に建つ白井城(しらいじょう)に布陣していた上杉憲房(うえすぎのりふさ/山内)の上野山内軍は、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)に建つ鉢形城(はちがたじょう/寄居)に布陣していた上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)の武蔵山内軍を攻撃して敗退させる。

上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)は逃亡して下総国(しもうさ/茨城県)にある古河城(こがじょう)に逃げ込む。

これにより山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督かつ関東管領(かんとうかんれい)は上杉憲房(うえすぎのりふさ/山内)が就任する。

さらに上野山内軍は攻撃の手は緩める事なく、足利高基(あしかがたかもと/古河)と連合して下総国(しもうさ/茨城県)に建つ古河城(こがじょう)を攻撃し、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)と上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)は逃亡し行方知れずとなる。

これにより古河公方(こがくぼう)3代目は足利高基(あしかがたかもと/古河)が就任する。

この関東の内乱の隙に、伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)を拠点とした北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、相模国(神奈川県)を平定するも、その後の1519年に死去する。

ここから相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が、坂東(ばんどう/関東)八州にて勢力拡大を図る。

BRENDA RUSSELL /♪ MATTERS OF THE HEART

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:15:54

◆◇◆其の百七十二:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

『勝って兜(かぶと)の緒(お)を締めよ!』

この名句を残したのが相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)である。

戦国時代を幕開けさせた北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の息子として、1487年に伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)にて伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は誕生した。

1518年に父親の北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が隠居に伴い、伊勢氏の家督継承者として伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が就任した。

ただこの頃は、まだ伊勢北条氏を名乗っていなかった為に、正確な氏姓(しせい)は伊勢氏綱(いせうじつな)である。

1523年に伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は、これら鎌倉幕府や室町幕府の執権による組織構図に倣(なら)って、室町幕府の征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)かつ古河公方(こがくぼう)3代目の足利高基(あしかがたかもと/古河)に仕える執権という意味を込めて北条氏を名乗る様になった。

ただし、これに異議を唱えたのが、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)である。

鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)であれ、下総国(しもうさ/茨城県)の古河公方(こがくぼう)であれ、代々に渡り関東管領(かんとうかんれい)は上杉氏が執権を担っていたからである。

更にその下には家宰(かさい)の長尾氏と太田氏も控えている。

ただ、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家臣だった太田道灌(おおたどうかん/扇谷)の親族で、知楽斎道可(ちらくさいどうか)こと太田資頼(おおたすけより/扇谷→伊勢北条)と2人の息子の太田資顕(おおたすけあき/扇谷→伊勢北条)と太田資正(おおたすけまさ/扇谷→伊勢北条→上杉→佐竹)は、寝返り伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)の家臣に就き、武蔵国(埼玉県)に建つ平城(ひらじろ)の岩槻城(いわつきじょう/さいたま)と平城(ひらじろ)の蕨城(わらびじょう)に侵攻して落城させた。

確かにこの頃は、室町幕府も鎌倉府も崩壊寸前で、組織としての体(たい)は成していない。

伊勢氏も一応は、室町幕府の政所(まんどころ)を担う備中国(岡山県)の伊勢平氏の系統の名門家ではあるが、伊豆国(静岡県)の北条氏とは地縁血縁の関係は全くなく、完全なる赤の他人である。

これにより、伊勢北条氏と上杉氏の仲が悪くなる。

Carl Anderson/♪ I CAN'T STOP THE RAIN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:16:48

◆◇◆其の百七十三:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

では、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が置かれている立場はどうだったのか?

先(ま)ず、相模国(神奈川県)の北側の甲斐国(山梨県)を拠点とする戦国武将の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と領国の争いで敵対している。

武田信虎(たけだのぶとら/武田)とは、あの“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)の父親である。

次に相模国(神奈川県)の西側の駿河国(静岡県)には“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる戦国武将の今川義元(いまがわよしもと/今川)と領国の争いで敵対している。

今川義元(いまがわよしもと/今川)の父親である今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)は、今川義忠(いまがわよしただ/斯波)と北川殿(きたがわどの/今川)の息子であり、北川殿(きたがわどの/今川)は北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の姉である。

と言う事は、今川氏と伊勢北条氏は親戚筋で友好関係にあったが、これを今川義元(いまがわよしもと/今川)が方向転換して甲斐国(山梨県)の武田氏と協力関係を築いていく。

更(さら)に相模国(神奈川県)の北東側の関東一帯は山内上杉氏(やまうちうえすぎし)および扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)と北条氏改名問題で敵対している。

尚(なお)も日本海側の越後国(新潟県)には下克上(げこくじょう)にて越後上杉氏を壊滅させた驍猛(ぎょうもう)と呼ばれる戦国武将の長尾為景(ながおためかげ/長尾)が控えている。

長尾為景(ながおためかげ/長尾)とは、あの“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の父親である。

四方八方に強敵だらけである。

ならば先手必勝、即断実行。

先に動いたのは相模国(神奈川県)の伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍だった。

駿河国(静岡県)を流れる富士川の東側まで侵攻し、抗戦する今川義元(いまがわよしもと/今川)が率いる今川軍を討ち破り領国を拡大させる。

これを1537年に起こった第一次の「河東の乱」(かとうのらん)と呼ぶ。

駿河国(静岡県)の東部領地を取られた今川義元(いまがわよしもと/今川)は、甲斐国(山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)に援軍を要請する。

しかし、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は攻めてきた両軍を壊滅させ、更(さら)に北東部に進軍させて扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の居城とする武蔵国(埼玉県)の川越城(かわごえじょう)を奪取(だっしゅ)する。

同年の1537年に、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が武蔵国(埼玉県)の川越城(かわごえじょう)を占拠した時には、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の当主だった上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)が既に病死していた事も勝利の要因である。

これにより伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を中心に、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)や駿河国(静岡県)東部の領国を手中に収める。

LIZA MINNELLI AND DONNA SUMMER /♪ DOES HE LOVE YOU?

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260925 - ラジオの友 URL

2026/09/25 (Fri) 01:17:41

◆◇◆其の百七十四:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

そんな時に伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)の元へ、下総国(しもうさ/茨城県)の古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)から緊急救援が入る。

下総国(しもうさ/千葉県)の千葉小弓を拠点とする小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)との長年の対立で、北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)への援軍要請の依頼である。

小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)とは、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)の息子かつ古河公方(こがくぼう)3代目の足利高基(あしかがたかもと/古河)の兄弟で、足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)からすれば叔父である。

古河公方(こがくぼう)2代目と3代目、小弓公方(おゆみくぼう)の3者は、全員が仲違いして対立していた。

そんな室町幕府の将軍家の系統からの直々(じきじき)の要請である。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)にとっては好機でもあり、即断即決で相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)や武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)から伊勢北条軍を向かわせた。

江戸川を挟んで西側の武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)には伊勢北条軍が布陣し、東側の下総国(しもうさ/千葉県)の市川にある国府台城(こうのだいじょう)に小弓足利軍が布陣した。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)と息子で後の伊勢北条氏3代目となる北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が大将となり伊勢北条軍を牽引した。

一方、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)が大将となり小弓足利軍を牽引し、援軍で地元の有力武将である里見義堯(さとみよしたか/小弓)が率いる里見軍を参戦していた。

戦(いくさ)が始まると、伊勢北条軍は江戸川を渡り小弓足利軍の本陣である国府台城(こうのだいじょう)に進撃する。

里見軍の里見義堯(さとみよしたか/小弓)は、川の中で動きが鈍くなった伊勢北条軍を攻撃する様に足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)に進言するが、小弓公方(おゆみくぼう)はこれを拒否する。

伊勢北条軍が江戸川を渡り切ったところで、小弓足利軍が総攻撃を仕掛け壊滅させると意気込む。

これを聞いて『小弓足利軍の負け戦(いくさ)だ。』と悟り、里見義堯(さとみよしたか/小弓)は里見軍を退陣させる。

結果、小弓足利軍の国府台城(こうのだいじょう)は伊勢北条軍の猛攻撃に遭い、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)は討死する。

これを1538年に起こった第一次の「国府台合戦」(こうのだいかっせん)と呼ぶ。

この第一次の「国府台合戦」(こうのだいかっせん)にて、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)が討死した事に、古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)は、代々に渡り上杉氏が引き継いできた関東管領(かんとうかんれい)を、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)に与えてしまう。

1541年に、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が死去すると、息子で伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督を引き継いだ。

Gloria Loring & Carl Anderson/♪ Friends & Lovers

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2026/09/24 (Thu) 17:41:11

LETTUCE /♪ LETTSANITY

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2026/09/24 (Thu) 17:42:06

CAMEO /♪ RIGOR MORTIS

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2026/09/24 (Thu) 17:42:58

BUTCHER BROWN /♪ CABBAGE(DEF)

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2026/09/24 (Thu) 17:43:51

GRAHAM CENTRAL STATION /♪ CRAZY CHICKEN

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2026/09/24 (Thu) 17:44:44

THE DYNAMIC SUPERIORS /♪ NOWHERE TO RUN(PART 1)

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2026/09/24 (Thu) 17:45:42

THE BAR-KAYS /♪ TOO HOT TO STOP

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2026/09/24 (Thu) 17:46:33

PRIMAL SCREAM/♪ FUNKY JAM

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2026/09/24 (Thu) 17:47:30

THE SUPREMES /♪ EARLY MORNING LOVE

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2026/09/24 (Thu) 17:48:31

DAVID SHIRE & JAMES DI PASQUALE /♪ BOOKS AND BASKETBALL(MONTAGE)

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2026/09/24 (Thu) 17:49:27

CURTIS MAYFIELD /♪ ONLY YOU BABE

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2026/09/24 (Thu) 17:50:21

AL GREEN /♪ LO AND BEHOLD

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2026/09/24 (Thu) 17:51:16

CURTIS MAYFIELD /♪ SOMETHING TO BELIEVE IN

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2026/09/24 (Thu) 17:52:13

THE ISLEY BROTHERS /♪ HERE WE GO AGAIN PART 1

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2026/09/24 (Thu) 17:53:14

AL GREEN /♪ L-O-V-E (LOVE)

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2026/09/24 (Thu) 17:54:07

CURTIS MAYFIELD /♪ WHEN SEASONS CHANGE

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2026/09/24 (Thu) 17:55:22

STAPLE SINGERS /♪ DROWN YOURSELF

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2026/09/24 (Thu) 17:56:19

OZONE /♪ MIGHTY-MIGHTY

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2026/09/24 (Thu) 17:57:14

GERALD LEVERT /♪ WEAR IT OUT

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2026/09/20 (Sun) 21:53:25

◆◇◆其の百三十七:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

1338年に征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)により室町幕府が開設された。

其処(そこ)から110年余り時が流れ、室町幕府は成熟期に入り、足利将軍と三管領(さんかんれい)の畠山氏と斯波氏と細川氏が、政治運営を担っていた。

一方で関東地方には、出先機関の相模国(神奈川県)の鎌倉府は、鎌倉公方(かまくらくぼう)と関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)が、政治運営を担っていた。

この時期は相模国(神奈川県)の鎌倉府にて、足利氏の鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ古河公方(こがくぼう)ときどき小弓公方(おゆみくぼう)と、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)および扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)が権力闘争を繰り広げた、1455年〜1483年の28年間に及ぶ「享徳の乱」(きょうとくのらん)が勃発していた。

此処(ここ)に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点としていた伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)と“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が、関東地方で勢力拡大の覇道を突き進んでいた。

坂東(ばんどう/関東)八州の大名や武将は、この権力闘争に巻き込まれていく。

特に上野国(こうずけ/群馬県)は、武蔵国(埼玉県)、下野国(しもつけ/栃木県)、越後国(新潟県)、信濃国(長野県)と接しており、領地拡大を目論む武将により、多くの交戦が繰り広げられた。

その為に上野国(こうずけ/群馬県)の山岳地帯には、多数の城郭や砦が築かれている。

その城郭には、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)を拠点としていた真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が、上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう/利根)と名胡桃城(なぐるみじょう/利根)と岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)の城主も努めていた。

この中の名胡桃城(なぐるみじょう/利根)は、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の家臣の鈴木主水(すずきもんど)こと鈴木重則(すずきしげのり/真田)が城代に就任した。

その名胡桃城(なぐるみじょう/利根)が、大きな事変を巻き起こす要因となる。

DRAGPIPE /♪ SIMPLE MINDED

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2026/09/20 (Sun) 21:54:44

◆◇◆其の百三十八:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

1581年に伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は名目上の隠居をし、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督継承者に就任する。

しかし、実権は伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が掌握しており、二頭政治により伊勢北条氏の家中は判断と決断が二分化されて混迷をきたす。

1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始されると、怒涛の勢いで長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍が、信濃国(長野県)から甲斐国(山梨県)へと侵攻してきた。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は擁護(ようご)してもらう為に、“武田二十四将”(たけだにじゅうししょう)に選ばれる小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が城主を務める甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に向かう。

ただ既に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は織田軍に寝返っており、最期(さいご)を知った武田勝頼(たけだかつより/武田)は自決し、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏は滅亡した。

この時に北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、勢力拡大を続ける織田信長(おだのぶなが/織田)に帰属(きぞく)する事を決定した。

ところが3ヶ月後に、京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

そして中国攻めを実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

こうして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

この頃に関東地方では、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が、亡き織田信長(おだのぶなが/織田)との連盟を破棄して滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊に侵攻を開始した。

1582年に起こった「神流川の戦」(かんながわのたたかい)にて、武蔵国(埼玉県)の賀美(かみ/児玉)で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍と滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊が合戦を繰り広げた。

この「神流川の戦」(かんながわのたたかい)で、滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊は、戦況が不利と判断して関東地方から撤退した。

これにより武田氏の領国だった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は、統治者の居ない空白地帯となる。

この時に滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊が占領していた上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう/利根)を真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は奪還(だっかん)した。

1582年に起こった「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)にて、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)かつ息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)と、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と、三河国(愛知県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)により、武田氏の領国だった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の空白地帯の争奪戦が始まる。

この三つ巴(ともえ)の勢力は勝敗が付かず、その間に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一の覇道(はどう)を突き進んだ。

CRAVING THEO /♪ STOMP

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2026/09/20 (Sun) 21:55:48

◆◇◆其の百三十九:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

この時期に、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が城主を務める上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう/利根)と、重鎮家臣の鈴木主水(すずきもんど)こと鈴木重則(すずきしげのり/真田)が城代を務める名胡桃城(なぐるみじょう/利根)を巡り、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の家臣が紛争を起こす。

これが1587年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が関東と奥羽に発布した“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に対して宣戦布告した。

これは豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の奸計(かんけい)により、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐する為の詭弁(きべん)とも言われている。

1589年に起こった「名胡桃事件」(なぐるみじけん)にて、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の重鎮家臣の鈴木主水(すずきもんど)こと鈴木重則(すずきしげのり/真田)が自決する。

こうして1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍が、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐する為に侵攻を開始した。

相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、連日の厳格な軍議の小田原評定(おだわらひょうじょう)により、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)や重鎮家臣は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍との合戦に備えて綿密な戦略を策定していた。

そして相模湾から陽が昇ると、相模国(神奈川県)に築城された全長9kmの総構(そうがまえ)が囲む難攻不落の小田原城(おだわらじょう)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍に四方八方を完全に包囲されていた。

更に小田原城(おだわらじょう)の南西部に位置する石垣山(いしがきやま)には、昨日まで無かった石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)の一夜城(いちやじょう)が築城されていた。

この戦況で現実を直視した伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏する事を決断する。

しかし伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、難攻不落の小田原城(おだわらじょう)が落城しないと言う希望的観測(きぼうてきかんそく)と、傑出(けっしゅつ)した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を侮(あなど)り徹底抗戦を決断する。

この伊勢北条氏の二頭政治の決断が、重鎮家臣や武将に混迷を引き起こす事になる。

ただ、降伏の交渉人として天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が小田原城(おだわらじょう)に送り込まれ、この時に伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、自らの切腹と引き換えに家臣や武将の助命嘆願をした。

これを聞いた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の武将としての智勇(ちゆう)に感銘し、威令(いれい)した降伏条件はこの逆だった。

息子の北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は助命して紀伊国(和歌山県)も高野山(こうやさん)に配流(はいる)とし、最後まで抵抗した父親の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は切腹を命じた。

こうして相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と一部の家臣が自決し、北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は開城して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に明け渡した。

これにより豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、主君で亡き織田信長(おだのぶなが/織田)の念願だった天下統一を達成する。

ただ、1591年に北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)も死去する。

こうして貴顕(きけん)で名族(めいぞく)な伊勢北条氏は滅亡する。

P.O.D. /♪ ADDICTED

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2026/09/20 (Sun) 21:57:20

◆◇◆其の百四十:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

坂東(ばんどう/関東)八州の武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)は、東京都と神奈川県の一部と埼玉県の広域が領国である。

現在は、首都の東京都や神奈川県横浜市と川崎市が、巨大都市として政治と経済と人口を牽引している。

ただ、この都市構造は明治期からの150年余りの出来事で、それ以前は武蔵台地に広がる埼玉県が中心地だった。

そんな埼玉県は人口が728万人で、仁愛(じんあい)と隆盛(りゅうせい)が溢れる土地柄により、昵懇(じっこん)の埼玉県民は肝胆相照(かんたんあいて)らしている。

天下泰平(てんかたいへい)の埼玉県に属する自治体は、東京都に近接する和光市と蕨市(わらびし)とさいたま市と所沢市と入間市(いるまし)と飯能市(はんのうし)と狭山市と川越市など、首都の東京都に近い事から大きな市街地で構成する行政が多い。

千葉県に近接する草加市と越谷市と春日部市などがある。

茨城県に近接する久喜市(くきし)と加須市(かぞし)がある。

栃木県も少しだけ近接している。

群馬県に近接する行田市と熊谷市と深谷市(ふかやし)などがある。

長野県も少しだけ近接している。

山梨県に近接する秩父市がある。

平穏無事 (へいおんぶじ)な埼玉県の県庁所在地はさいたま市で、人口は135万人となり、日本では政令指定都市にも選定されている。

そんなさいたま市は、2001年に浦和市と大宮市と与野市が合併した大都市で、2005年には岩槻市(いわつきし)を編入した。

大都会のさいたま市の中心地はJR大宮駅で、東北新幹線と秋田新幹線と山形新幹線に上越新幹線と北陸新幹線の全てのホームが併設されている。

JR大宮駅の周辺には、百貨店の高島屋とそごうがあり、専門店のルミネと丸井も若者に人気がある。

有名な主要施設は、コンサートホールのさいたまスーパーアリーナや、日本一の鉄道車両を展示する鉄道博物館と、経済界の交流場となる総合コンベンション施設の大宮ソニックシティと、世界の豪奢(ごうしゃ)で華美(かび)な美術品や芸術品を展示し建築家の黒川紀章(くろかわきしょう/建築士)が設計した埼玉県立近代美術館がある。

そして忘れてはならないのが、JR大宮駅から北東部に鎮座する武蔵一宮(むさしいちのみや)の氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)である。

THE UNION UNDERGROUND /♪ SOUTH TEXAS DEATHRIDE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 21:58:33

◆◇◆其の百四十一:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

武蔵国(埼玉県)の中心地に鎮座する武蔵一宮(むさしいちのみや)の氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)は、坂東(ばんどう/関東)八州をはじめ日本各地の国民に信仰され、関東人の78%が一度は参詣(さんけい)している。

その要因として、出雲国(島根県)の出雲族(裏天皇)の系統である万夫不当(ばんぷふとう)の須佐之男命(スサノオ)が主祭神である事が挙げられる。

この日本列島にて、ゴミの分別を無視する狼藉(ろうぜき)で悪辣(あくらつ)な悪逆無道(あくぎゃくむどう)の匹夫(ひっぷ)は、間違いなく屈強(くっきょう)で梟雄(きょうゆう)な須佐之男命(スサノオ)に、本人はおろか子々孫々(ししそんぞん)まで身体をバラバラに斬り刻まれるであろう。

そんな武蔵一宮(むさしいちのみや)の氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の魅力を少し深掘りしてみよう。

氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の概要は、全国280社の総本宮で、氷川とは出雲国(島根県)の斐伊川(ひいがわ)が由来(ゆらい)で、武蔵一宮(むさしいちのみや)は一番格式が高く、大いなる宮居(みやい)で大宮と呼ばれる様になった。

起源は、紀元前500年頃に第5代天皇の孝昭天皇(こうしょうてんのう)がヤマト政権を担った縄文時代に創建された。

天災地変(てんさいちへん)を鎮圧する為に、祭事(さいじ)により心良を清めて神様と対面し感謝を捧げ、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)を守護する神社として設けられた。

氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の境内までは、中山道(なかせんどう)から日本一長い2kmの参道が真っ直ぐ伸び、一の鳥居(いちのとりい)と明治神宮から移築した二の鳥居(にのとりい)を潜り、門前に三の鳥居(さんのとりい)が設けられている。

参道の茶屋で名物の“きしめん”を食べるのが流儀である。

主祭神は出雲族(裏天皇)の3柱が祀られる。

1:須佐之男命(スサノオ)は、伊耶那岐神(イザナギ)から生まれた神。

2:櫛名田比売(クシナダヒメ)は、須佐之男命(スサノオ)の出雲国(島根県)の妻である。

3:大国主(オオクニヌシ)こと大穴牟遅神(オオナムチ)は、出雲大社(いずもたいしゃ)の主祀である。

氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の周辺は、弥生時代に稲作文化が伝来し、武蔵台地の周辺には多くの湖沼(こしょう)があり、水の恵みにより沃野千里(よくやせんり)な土地柄で、平穏無事 (へいおんぶじ)な村落に併せて肥沃な田畑が広がっていた。

主な出来事では、第12代天皇の景行天皇(けいこうてんのう)の息子の倭建御子(ヤマトタケルノミコ)が、“東夷鎮定”(とういちんてい)に参詣(さんけい)し御祈願し、鎌倉幕府の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と、室町幕府の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と、江戸幕府の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の征夷大将軍1代目が参詣(さんけい)している。

近年は出雲族(裏天皇)の氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)ではあるが、第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)は3度の行幸(ぎょうこう)を実施し、その御縁で皇室から毎年8月に勅使(ちょくし)が往訪(おうほう)する様になり、天皇や皇族の勅祭社(ちょくさいしゃ)に選定されている。

BREED 77 /♪ WORLD'S ON FIRE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 21:59:36

◆◇◆其の百四十二:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

武蔵国(埼玉県)の広大な敷地に設けられた武蔵一宮(むさしいちのみや)の氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の境内の主な施設を診てみよう。

■武蔵一宮(むさしいちのみや)の氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の施設■

[1]天満神社(てんまじんじゃ)

平安京(へいあんきょう)の朝廷にて、右大臣として第59代天皇の宇多天皇(うだてんのう/朝廷)に仕えて、文章博士(もんじょうはかせ)や蔵人頭(くろうどとう)に就任した菅原道真(すがわらみちざね/公家)が主祭神である。

[2]勅使斎館(ちょくしさいかん)

皇室の勅使(ちょくし)が穢(けが)れを落とし身を清める潔斎(けっさい)し格式ある身なりの装束(しょうぞく)をお召しになる施設である。

[3]三の鳥居(さんのとりい)

中山道(なかせんどう)から日本一長い2kmの参道が真っ直ぐ伸び、一の鳥居(いちのとりい)と二の鳥居(にのとりい)を潜り、三の鳥居(さんのとりい)が氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の門前となる。

[4]神楽殿(かぐらでん)

神楽(かぐら)や猿楽(さるがく)など舞踊(ぶよう)を演ずる社殿である。

[5]奉納酒樽(ほうのうさかだる)

埼玉県酒造組合より薦樽(こもだる)が奉納され、神亀(しんかめ)や天覧山(てんらんざん)や秩父錦(ちちぶにしき)の人気銘柄が並ぶ。

[6]天津神社(あまつじんじゃ)

小人ほどの背丈で薬の神様の少名毘古那神(スクナビコナノカミ)と、大国主(オオクニヌシ)こと大穴牟遅神(オオナムチ)が主祭神である。

[7]六社(ろくしゃ)

日本各地に創建された高邁(こうまい)な神社の分社が設けられている。

①:住吉神社(すみよしじんじゃ)は、摂津国(大阪府)の住吉大社(すみよしたいしゃ)の分社で、墨江之三前大神(すみのえのみまへのおほかみ/住吉三神)が主祭神

②:神明神社(しんめいじんじゃ)は、伊勢国(三重県)の伊勢神宮(いせじんぐう)の内宮(ないくう)の分社で、天照大御神(アマテラス)が主祭神

③:山祇神社(やまつみじんじゃ)は、伊予国(愛媛県)の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ/今治)の分社で、大山祇命(オオヤマヅミノミコト)が主祭神

④:愛宕神社(あたごじんじゃ)は、武蔵国(東京都)の愛宕神社(あたごじんじゃ)の分社で、迦具土命(カグツチノミコト)が主祭神

⑤:雷神社(いかづちじんじゃ)は、建御雷之男神(タケミカヅチノヲノカミ)が主祭神

⑥:石上神社(いそのかみじんじゃ)は、大和国(奈良県)の石上神宮(いそのかみじんぐう/天理)の分社で、布都御魂(フツノミタマ)が主祭神

[8]さざれ石(さざれいし)

国歌の♪君が代に歌われるさざれ石(さざれいし)となり、国歌発祥の地と云われる岐阜県揖斐郡春日村の山中から掘削した。

[9]戦艦武蔵の碑(せんかんむさしのいしぶみ)

1941年12月に起こった「太平洋戦争」こと「大東亜戦争」にて、1944年10月にフィリピン沖のシブヤン海に沈没した大型軍艦の戦艦武蔵(せんかんむさし)は、艦内に氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の分社が祀られていた。

[10]松尾神社(まつおじんじゃ)

山背国(やましろ/京都府)の松尾大社(まつのおたいしゃ/西京)の主祭神として祀られる酒造や日本酒の神様の大山咋命(オオヤマクイノミコト)が主祭神である。

[11]稲荷神社(いなりじんじゃ)

山背国(やましろ/京都府)の伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)の主祭神として祀られる、女神で稲荷神(いなりしん)の宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)が主祭神である。

[12]手水舎(おみずしゃ)

手水鉢(ちょうずばち)にて、参詣(さんけい)の前に手洗いで身を清める。

[13]神池(しんいけ)

朱色の神橋(しんばし)が架かる龍神が主の大池である。

[14]宗像神社(むなかたじんじゃ)

弁財天(べんざいてん)とも呼び、祠(ほこら)の裏手の穴には青大将(アオダイショウ/蛇)が棲む。

須佐之男命(スサノオ)の剣から誕生した玄界灘の3女神で、宗像大社(むなかたたいしゃ)の沖津宮(おきつのみや)に祀る沖ノ島の多紀理毘売命(タキリビメ)と、中津宮(なかつのみや)に祀る大島の多岐都比売命(タギツヒメ)と、辺津宮(おきつのみや)に祀る田島の市寸島比売命(イチキシマヒメ)が主祭神である。

[15]楼門(ろうもん)

昭和期に建造され、八咫烏(ヤタガラス)こと賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)が主祭神の上賀茂神社と下鴨神社の楼門(ろうもん)を踏襲(とうしゅう)している。

[16]拝殿(はいでん)

参拝者が参詣(さんけい)したり、祭祀(さいし)が御祈祷する社殿である。

[17]本殿(ほんでん)

主祭神が祀られる社殿で、参拝者は立ち入る事は禁忌(きんき)とされる。

[18]祈祷殿(きとうでん)

参拝者の依頼で祭祀(さいし)が御祈祷する社殿である。

[19]祓殿(はらいでん)

穢(けが)れを清める修祓(しゅばつ)する社殿である。

[20]神輿舎(しんよしゃ)

神輿(みこし)などの収納庫である。

[21]門客人神社(もんきゃくじんじんじゃ)

櫛名田比売(クシナダヒメ)の父親の足摩乳命(アシナヅチノミコト)と母親の手摩乳命(テナヅチノミコト)が主祭神で、東国の土着神の荒覇吐(アラハバキ)が元は主祭神であった。

[22]御嶽神社(おんたけじんじゃ)

小人ほどの背丈で薬の神様の少名毘古那神(スクナビコナノカミ)と大国主(オオクニヌシ)こと大穴牟遅神(オオナムチ)が主祭神である。

[23]神饌所(しんせんじょ)

神様に御供物をする神饌(しんせん)の社殿である。

[24]蛇の池(へびのいけ)

湧水により池ができ氷川神社(ひかわじんじゃ/大宮)の起源となる。

蛇は水の神様で、須佐之男命(スサノオ)は海を統治する神様に任命されたが、それを粗略(そりゃく)に扱い姉の天照大御神(アマテラス)に、葦原中国(あしはらのなかつくに/地上界)の出雲国(島根県)のに落とされて八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する事になる。

EARSHOT /♪ CLOSER

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:00:43

◆◇◆其の百四十三:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

埼玉県の西部に位置する秩父市は、東京都と山梨県と長野県と新潟県に近接する雄大な山岳地帯に囲まれた町である。

標高2483mの三宝山(さんぽうざん)を筆頭に、2469mの木賊山(とくさやま)や2465mの甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)が連なる。

また、2017mの三峰山(みつみねさん)と、1723mの両神山(りょうかみさん)と、1304mの武甲山(ぶこうざん)は、秩父三山(ちちぶさんざん)と呼ばれる。

埼玉県秩父市の山岳地帯には、三峰山(みつみねさん)の標高1100mに創建された三峯神社(みつみねじんじゃ/秩父)や、497mの宝登山(ほどさん)の麓に宝登山神社こと寳登山神社(ほどさんじんじゃ/長瀞)が創建され、山に宿る神様を崇拝する山岳信仰の聖地とも言われている。

特に狭山市長瀞町(ながとろまち)は60%が山岳地帯で、雄大な自然に囲まれた環境が人気を博しており、神様の洗礼を受けて身を清める為に観光客が急増している。

宝登山(ほどさん)の山頂に登れば、武甲山(ぶこうざん)をはじめ前面に広がる壮観(そうかん)な山脈に心奪われる。

展望台にて、山を模(かたど)った御結(おむす)びを食するのが、宝登山(ほどさん)の神様に対する礼儀である。

また、長瀞町(ながとろまち)を流れる荒川には、天然の岩盤でできた岩畳(いわだたみ)と、岩壁の秩父赤壁(ちちぶせきへき)が、壮大な地球の創造に敬服(けいふく)する。

此処(ここ)に往訪(おうほう)したら、長瀞ライン下りに乗船し、鮎(あゆ)の塩焼きを食するのが流儀である。

そして埼玉県秩父市の中心市街地である西武電鉄の西武秩父駅、もしくは秩父鉄道の御花畑駅か狭山駅の駅前に伸びる番場通り商店街(ばんばどおりしょうてんがい)は、時計の針が止まったレトロな街並みが人気を博して、年間に530万人の観光客が来訪する。

特にSNSの普及で20代女子が急増しており、関東地方に居住する20代〜40代の女性の83%は秩父市に訪れている。

観光客は食べ歩きや買い物など、各々の楽しみ方で満喫して、直様(すぐさま)にSNSで情報を発信して番場通り商店街(ばんばどおりしょうてんがい)の魅力を拡散している。

番場通り商店街(ばんばどおりしょうてんがい)で特に人気なのが、昭和初期の建築物を活用した小池煙草店(こいけたばこてん)のカフェとホテルや、創業100年になるオムライスとクリームソーダが名物のパリー食堂である。

また、創業大正5年の精肉店の安田屋では、出来立てのコロッケやメンツカツが美味で人気あり、秩父神社(ちちぶじんじゃ)の真向かいにあるパン屋のちちぶベーカリーでベーグルを買って、安田屋のコロッケやメンツカツを挟んで食べるのが、厚生労働省が認定する本物(ホンモノ)の食通(しょくつう)や美食家(びしょくか)と制定されている。

要は、日本全国の何処(どこ)にでもあるナショナルチェーンの大して美味しくもない料理を食べて、動画サイトなどで蘊蓄(うんちく)を披露している、お笑い芸人など鼠輩(そはい)な有名人の偽物(ニセモノ)との差別化を図っている。

こうした本物(ホンモノ)の観光客が集う狭山市の番場通り商店街(ばんばどおりしょうてんがい)の本来の役目は、知知夫国(ちちぶのくに)の創建に深く関わりのある秩父神社(ちちぶじんじゃ)の参道である。

埼玉県狭山市の魅力を知見(ちけん)するには、先ずは秩父神社(ちちぶじんじゃ)の造詣(ぞうけい)を深める必要がある。

SHALLOW SIDE /♪ REBEL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:01:40

◆◇◆其の百四十四:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

武蔵国(埼玉県)の西部に位置する秩父神社(ちちぶじんじゃ)は、倭国(日本)の古代から信仰されてきた由緒(ゆいしょ)ある神社である。

その概要は、秩父神社(ちちぶじんじゃ)は、武蔵国(埼玉県)の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)とも呼ばれ、社殿には豪奢(ごうしゃ)で華美(かび)な彫刻が施されている。

武蔵国(埼玉県)の西部に連なる山岳地帯に創建された三峯神社(みつみねじんじゃ/秩父)と宝登山神社こと寳登山神社(ほどさんじんじゃ/長瀞)と共に秩父三社と呼ばれる。

起源は、紀元前100年頃に、第10代天皇の崇神天皇(すじんてんのう)がヤマト政権を担った古墳時代に創建 知知夫国(ちちぶのくに)の1代目の国造(くにのみやつこ)に勅命(ちょくめい)された八意思兼命(ヤゴコロオモイカネネノミコト)の子孫である知知夫彦命(チチブヒコノミコト)が祖神をお祀りし、武蔵国(埼玉県)が創建される以前の知知夫国(ちちぶのくに)の総鎮守(そうちんじゅ)を務めた。

境内には、1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍の侵攻により、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点としていた伊勢北条氏が滅亡し、三河国(愛知県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)を拠点としていた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が、関東一帯へ領地移転の転封(てんぽう)となり、その後の1592年に武蔵国(埼玉県)の秩父神社(ちちぶじんじゃ)へ本殿(ほんでん)を寄進(きしん)した。

本殿(ほんでん)には、全面に“虎”の彫刻が施され、三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)にて寅年、寅の日、虎の刻に誕生した竹千代(たけちよ)こと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に由来(ゆらい)している。

北側には“北辰の梟”(ほくしんのフクロウ)の彫刻が施され、身体は南向きだが顔は北を向き、これは知恵の神様の天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が妙見菩薩(みょうけんぼさつ)の同一神である事から、秩父神社(ちちぶじんじゃ)でも北極星や北斗七星を神格化した妙見菩薩(みょうけんぼさつ)や天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を祀り、開運や厄除けを願う妙見信仰(みょうけんしんこう)を採用している。

東側には“つなぎの龍”の彫刻が施され、秩父神社(ちちぶじんじゃ)の近隣にある天ヶ池(あまがいけ)の主である龍が荒れ狂った際に、“つなぎの龍”の下部に水溜りが出来る事から、彫刻の龍を鎖(くさり)で縛り付けたところ、天ヶ池(あまがいけ)の龍が大人しくなった伝説がある。

南側には“子育ての虎”の彫刻が施され、全面に施された虎の中で1匹だけ豹柄(ひょうがら)となっており、安土桃山時代の絵師で“唐獅子図”や“洛中洛外図”を手掛けた狩野永徳(かのうえいとく/絵師)の流派の影響と言われる。

西側には“お元気三猿”の彫刻が施され、下野国(しもつけ/栃木県)の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)で有名な“三猿”(さんざる)の彫刻の『見ざる、言わざる、聞かざる。』に相反して、“お元気三猿”の彫刻は『よく見て、よく聞いて、よく話す。』となっており、善行(ぜんこう)を浸透させる意味が込められる。

“つなぎの龍”と“子育ての虎”の彫刻は、足利氏の家臣の系統で、下野国(しもつけ/栃木県)の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の彫刻を製作した工匠(こうしょう)の左甚五郎(ひだりじんごろう/彫刻家)が手掛けた。

境内を流れる柞の禊川(ははそのみそぎがわ)は、京都の下鴨神社の境内を流れる楢の小川(ならのおがわ)を踏襲(とうしゅう)している。

“薗田稲太郎頌徳碑”(そねだいねたろうしょうとくひ)は、1935年頃の秩父神社(ちちぶじんじゃ)の宮司(ぐうじ)に就いた薗田稲太郎(そねだいねたろう)の記念碑として、大鳥居(おおとりい)の横に設けられた。

“高野佐三郎頌徳碑”(たかのささぶろうしょうとくひ)は、秩父郡大宮郷の髙野氏の御子息の剣聖である高野佐三郎(たかのささぶろう)が、秩父神社(ちちぶじんじゃ)の井戸で産湯を浸かった御縁で設けられた。

“秩父宮妃歌碑”(ちちぶのみやひかひ)は、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)の妻の松平節子(まつだいらせつこ)こと雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひせつこ)が詠んだ和歌や短歌を刻んだ記念碑である。

松平節子(まつだいらせつこ)こと雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひせつこ)の父方の祖父が、征夷大将軍15代目の徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)の弟で京都守護職(きょうとしゅごしょく)に就任した、陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の9代目藩主の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)である。

主祭神は4柱が祀られる。

1:天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、造化三神(ぞうかさんしん)の1柱で宇宙の根源を司る神様である。

2:八意思兼命(ヤゴコロオモイカネネノミコト)は、知恵や知識の神様である。

3:知知夫彦命(チチブヒコノミコト)は、八意思兼命(ヤゴコロオモイカネネノミコト)の子孫で、知知夫国(ちちぶのくに)の総鎮守(そうちんじゅ)を務めた神様である。

4:秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)は、第123代天皇の大正天皇(たいしょうてんのう/朝廷)の息子で、第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)の弟に当たり、埼玉県をはじめ秩父の山岳地帯へ頻繁に登山に訪れていた事から合祀(ごうし)された。

主な出来事では、第59代天皇の宇多天皇(うだてんのう/朝廷)の息子の第60代天皇の醍醐天皇(だいごてんのう/朝廷)は、923年に“東夷鎮定”(とういちんてい)にて相模国(神奈川県)の豪族を討伐する様に綸旨(りんじ)を発布した。

これに応えたのが、第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)の曾孫(ひまご)に当たり、桓武平氏の祖となり上野国(こうずけ/群馬県)の国司(こくし)に就任していた高望王(たかもちおう/朝廷)こと平高望(たいらたかもち/朝廷)の息子で、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)の鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に就任していた平良文(たいらよしふみ/朝廷)である。

平良文(たいらよしふみ/朝廷)が率いる平氏軍は、相模国(神奈川県)の豪族に猛攻撃を仕掛けて壊滅させた。

931年に起こった「染谷川の戦」(そめやがわのたたかい)にて、平良文(たいらよしふみ/朝廷)は甥の平将門(たいらまさかど/朝廷→下総)と共に、平高望(たいらたかもち/朝廷)の息子で平良文(たいらよしふみ/朝廷)の兄弟の平国香(たいらくにか/朝廷)と、上野国(こうずけ/群馬県)の高崎で合戦を繰り広げて勝利した。

しかし、940年に起こった「平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)こと「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)にて、平将門(たいらまさかど/朝廷→下総)は朝廷軍に敗北して討死する。

その後に妙見信仰(みょうけんしんこう)の平良文(たいらよしふみ/朝廷)は、秩父平氏の祖となり秩父神社(ちちぶじんじゃ)と深い関わりを持つ。

因みに、平氏の秩父氏(ちちぶうじ)の系統の本庄氏(ほんじょううじ)で、戦国武将である本庄房長(ほんじょうふさなが/上杉)は、越後国(新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)などを輩出した上条上杉氏(じょうじょううえすぎし)の家臣である。

近年は、毎年12月3日に実施される例祭の“秩父夜祭”は、山城国(京都府)の京都で催される“祇園祭”と、飛騨国(岐阜県)の高山で催される“飛騨高山祭”と共に、日本三大曳山祭(にほんさんだいひきやままつり)と呼ばれる。

“秩父夜祭”を含めて“山鉾屋台行事”(やまほこやたいぎょうじ)は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界無形文化遺産に登録されている。

RATT /♪ BODY TALK

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:02:33

◆◇◆其の百四十五:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

秩父市の市街地に建つ秩父神社(ちちぶじんじゃ)は、西武電鉄や秩父鉄道の駅から徒歩圏内にあり、自動車ではなく公共交通機関で来訪するのが鉄則である。

秩父神社(ちちぶじんじゃ)は番場通り商店街(ばんばどおりしょうてんがい)と共に往訪(おうほう)すると、より一層の本物(ホンモノ)に対する感情が成熟する。

■秩父神社(ちちぶじんじゃ)の施設■

[1]大鳥居(おおとりい)

朱雀(すざく)が守護する境内の入口に設けられた石造の鳥居である。

[2]神馬舎(しんめしゃ)

神馬(しんめ)を飼育する厩(うまや)である。

[3]手水舎(おみずしゃ)

手水鉢(ちょうずばち)で手洗いして身を清める。

[4]神楽殿(かぐらでん)

神楽(かぐら)や猿楽(さるがく)など舞踊(ぶよう)を演ずる社殿である。

[5]西門(にしもん)

白虎(びゃっこ)が守護する境内の西側の入口である。

[6]社務所(しゃむしょ)

神社の事務管理棟である。

[7]神門(しんもん)

聖域の入口である。

[8]東照宮(とうしょうぐう)

下野国(しもつけ/栃木県)に祀られる徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)こと東照大権現(とうしょうだいごんげん)が主祭神である。

[9]天満天神宮(てんまてんじんぐう)

山城国(京都府)の平安京(へいあんきょう)の朝廷にて、右大臣として第59代天皇の宇多天皇(うだてんのう/朝廷)に仕えた文章博士(もんじょうはかせ)や蔵人頭(くろうどとう)に就任した菅原道真(すがわらみちざね/公家)が主祭神である。

[10]枉津日社(まがつひしゃ)

災厄(さいやく)の神様である禍津日神(マガツヒノカミ)が主祭神である。

[11]納札所(のうさつじょ) 

御札や御守りを返納する施設である。

[12]白虎門(びゃっこもん)

白虎(びゃっこ)が守護する神門(しんもん)の西側の入口である。

[13]柞稲荷神社(ははそいなりじんじゃ)

商売繁盛の神様である倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)が主祭神である。

[14]神降石(じんこうせき)

神様が降臨する石で、成長している事から生石(いきいし)と呼ばれる。

[15]諏訪神社(すわじんじゃ)

風水守護や旅行安全の神様で、信濃国(長野県)に祀られる建御名方神(タケミナカタノカミ)と八坂刀賣神(ヤサカドメノカミ)が主祭神である。

[16]諏訪社御柱(すわしゃおんばしら) 

7年に一度の寅年(とらどし)と申年(さるどし)に行われる神事の柱である。

[17]日御碕宮(ひのみさきぐう)

悪疫(あくえき)退散の神様で、出雲国(島根県)に祀られる須佐之男命(スサノオ)が主祭神である。

[18]神饌所(しんせんじょ)

神様に御供物をする神饌(しんせん)の社殿である。

[19]豊受大神宮(とようけだいじんぐう)

五穀豊穣の神様で、伊勢国(三重県)の伊勢神宮(いせじんぐう)の外宮(げくう)に祀られる豊宇気毘売神(トヨウケビメ)が主祭神である。

[20]拝殿(はいでん)

参拝者が参詣(さんけい)したり、祭祀(さいし)が御祈祷する社殿である。

[21]幣殿(へいでん)

拝殿(はいでん)と本殿(ほんでん)を繋ぐ建物で、幣帛(へいはく)や神饌(しんせん)など神様に供物を捧げる社殿である。

[22]本殿(ほんでん)

主祭神が祀られる社殿で、参拝者は立ち入る事は禁忌(きんき)とされる。

北側の“北辰の梟”(ほくしんのフクロウ)と東側の“つなぎの龍”と南側の“子育ての虎”と西側の“お元気三猿”の彫刻が施されている。

[23]天神地祇社(てんじんちぎしゃ)

知恵の神様である八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)に敬仰(けいぎょう)し、日本全国の一宮に祀られる75座の神様が集合して主祭神として祀られる。

[24]儀式殿(ぎしきでん)

厄除やお宮参りや七五三などの祈願を行う施設である。

[25]東門(ひがしもん)

青龍(せいりゅう)が守護する境内の東側の入口である。

[26]柞祖霊社(ははそそれいしゃ)

秩父神社(ちちぶじんじゃ)の境内の外に設けられた祖霊社(それいしゃ)で、神葬祭(しんそうさい)で奉斎(ほうさい)された方々の御霊(みたま)を祀る。

[27]乾の井戸(いぬいのいど)

武甲山(ぶこうざん)の伏流水(ふくりゅうすい/御神水)が源泉で、渇水時でも枯れない井戸である。

[28]柞の杜(ははそのもり) 

秩父神社(ちちぶじんじゃ)の北部に、柞(ははそ)と呼ばれるドングリがなる木のコナラやクヌギなどの森林である。

RATT /♪ CITY TO CITY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:03:26

◆◇◆其の百四十六:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

埼玉県の西中部に位置する寄居町(よりいまち)は、世代を超えて支持されるシンガーソングライターの馬場俊英(ばばとしひで/歌手)さんの出身地である。

その御縁で馬場俊英(ばばとしひで/歌手)さんは、寄居町(よりいまち)の故郷大使に就任している。

この寄居町(よりいまち)をはじめ埼玉県の西部はミカンの産地としても有名で、太陽の光を浴びたミカンで製造されたミカンジュースが名物となっている。

馬場俊英(ばばとしひで/歌手)さんが、寄居町(よりいまち)で故郷ライブを開催する時は、必ずミカンジュースを飲用して気分を高揚させると言う。

そして、ライブ後には寄居駅(よりいえき)から少し歩いて国道沿いにあるラーメン屋の“うさぎ”に立ち寄る。

実は、このラーメン屋の“うさぎ”が、馬場俊英(ばばとしひで/歌手)さんの音楽のルーツであり、あの名曲が生まれた所以(ゆえん)でもある。

ラーメン屋の“うさぎ”は、一切の化学調味料を配合していない煮干と昆布を主軸にした出汁(だし)の魚介類系ラーメンが名物である。

その為に高齢者から子供まで、安心して食せる。

逆に言えば、油ギトギト系や大盛り系のラーメンを食べ続ければ、間違いなく10年以内に重篤(じゅうとく)に陥る病気を発症するだろう。

この様な粗悪(そあく)で低劣(ていれつ)な料理に慣れ親しめば味覚障害が起こり、本物(ホンモノ)の食材の味が解らず、何から誕生しているのか不明な偽物(ニセモノ)の料理しか受け付けなくなる。

日本は古代から地球上にしか存在しない天然の食材や旬となる季節の食材を摂取してきた。

これは先人の知恵と伝統に基づいており、決して食材を軽んじてはならない。

そんな寄居町(よりいまち)だが、室町時代の後期に築城された鉢形城(はちがたじょう/寄居)が建っていた。

現在は建物の無い跡地でしかないが、遺構が保存される荒川沿いの平山城(ひらやまじろ)だった事は体感できる。

寄居町(よりいまち)の周辺には、多くのお城が築城されている。

これは武蔵国(埼玉県)の西部が、越後国(新潟県)や上野国(こうずけ/群馬県)や甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)などの領国に近接している事が要因である。

戦国時代では、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とした“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)や、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とした“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)も、頻繁に武蔵国(埼玉県)へ侵攻している。

こうした立地の要因が、武蔵国(埼玉県)が“坂東武士”の聖地として育んだ。

PAPA ROACH /♪ I ALMOST TOLD YOU THAT I LOVED YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:04:29

◆◇◆其の百四十七:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

武士と言えば大規模な合戦を繰り広げる戦国時代を思い浮かべるが、それ以前の時代から武士は存在していた。

特に武蔵国(埼玉県)をはじめ坂東(ばんどう/関東)八州は、大和国(奈良県)の平城京(へいじょうきょう)や山城国(京都府)の平安京(へいあんきょう)の朝廷に従わない奥州の“蝦夷(えみし)討伐”の為に、何度も時の天皇の勅命(ちょくめい)により、武士団が組成されて東国に侵攻している。

特に武士が頭角を現したのは、平安時代末期から鎌倉時代初期の平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)や源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の頃からである。

では、この時期の武蔵国(埼玉県)の東国武士を深掘りしてみよう。

平安時代末期に、桓武平氏の秩父平氏の系統である河越氏が、武蔵国(埼玉県)の入間(いるま)の川越館(かわごえやかた)を拠点に領土を統治していた。

東国に所縁(ゆかり)のある源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の家臣だった河越重頼(かわごえしげより/秩父平氏)は、荘園の河越荘(かわごえそう)の荘官(しょうかん)に就任していた。

河越重頼(かわごえしげより/秩父平氏)の妻は、河越尼(かわごえのあま/比企→秩父平氏)である。

河越尼(かわごえのあま/比企→秩父平氏)とは、武蔵国(埼玉県)の藤原氏の系統の比企氏(ひきうじ)で、鎌倉幕府の征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の乳母を務めた比企尼(ひきのあま/藤原→鎌倉)の次女で、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の乳母を務めていた。

その河越重頼(かわごえしげより/秩父平氏)と河越尼(かわごえのあま/比企→秩父平氏)の娘が郷御前(さとごぜん/秩父平氏→源氏)であり、源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)の妻に嫁ぐ。

この時期の前後にも、武蔵国(埼玉県)に所縁(ゆかり)がある武将や御家人が飛躍している。

桓武平氏の秩父平氏の系統で、武蔵国(埼玉県)の深谷(ふかや)の畠山荘を拠点とした畠山氏は、河越氏の庶流(しょりゅう)の系統である。

京都では平安京(へいあんきょう)の朝廷にて、第74代天皇の鳥羽天皇(とばてんのう/朝廷)の2人の息子とされている、第75代天皇の崇徳天皇(すとくてんのう/朝廷)こと崇徳上皇(すとくじょうこう/朝廷→上皇)と、今様(いまよう)こと第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷→天皇)が、政権闘争に発展した1156年に起こった「保元の乱」(ほうげんのらん)と1160年に起こった「平治の乱」(へいじのらん)より以前の、東国の時勢は領国の闘争で戦乱が続いていた。

この戦況にて、河内源氏の源為義(みなもとためよし/朝廷→上皇)と、息子の源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)と源為朝(みなもとためとも/朝廷→上皇)と源義賢(みなもとよしかた/源氏)は、坂東(ばんどう/関東)八州を拠点に勢力拡大の為に、親子兄弟であろうと対立していた。

この時に源為義(みなもとためよし/朝廷→上皇)の家臣に就いていたのが、武蔵国(埼玉県)の武将の畠山重能(はたけやましげよし/源氏)である。

1152年に、源義賢(みなもとよしかた/源氏)が、兄の源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)に暗殺される。

この時に源義賢(みなもとよしかた/源氏)の幼少の息子で、後々に河内源氏の系統の信濃源氏や朝日将軍に就いた木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)も、兄の源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)による一族の粛清(しゅくせい)の対象となった。

そんな木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)を庇護(ひご)して助命したのが、源義賢(みなもとよしかた/源氏)の家臣の藤原氏北家(ほっけ)の利仁流の斎藤氏で、武蔵国(埼玉県)の熊谷の武将である“弓矢の名手”と呼ばれた斎藤実盛(さいとうさねもり/源氏→平氏)と、武蔵国(埼玉県)の深谷(ふかや)の武将である畠山重能(はたけやましげよし/源氏)だった。

FINGER ELEVEN /♪ TOGETHER RIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:05:23

◆◇◆其の百四十八:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

其(そ)れから時は流れて、1180年〜1185年に起こった「源平合戦」(げんぺいかっせん)こと「治承寿永の乱」(じしょうじゅえいのらん)が勃発した。

摂津国(兵庫県)の福原京(ふくはらきょう)を拠点とする平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)が率いる平家軍と、伊豆国(静岡県)の韮山(にらやま)を拠点とする源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の息子の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が率いる源氏軍が、東海から西日本の広域で合戦を繰り広げた。

摂津国(兵庫県)の海岸と山間部に挟まれた須磨(すま)にて、源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)が率いる源氏軍義経隊は、山間部の崖地から駆け降りる鵯越(ひよどりごえ)を実施し、平家軍の陣営に奇襲を仕掛けて敗走させた。

この時に源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)が率いる源氏軍義経隊に従軍していたのが、畠山重能(はたけやましげよし/源氏)の息子の畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)だった。

他の武士は馬に跨(またが)り崖地を降ったが、畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)は愛馬が骨折などで大怪我する事を懸念して、自らの怪力で愛馬を背負って崖地を降りたと言う。

これを1184年に起こった「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)と呼ぶ。

この合戦にて、伊勢平氏の平忠盛(たいらただもり/朝廷→平氏)の孫で、平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)の甥に当たる平敦盛(たいらあつもり/平氏)は、平家軍の陣営から海岸部に逃走した。

其処(そこ)に源氏軍義経隊に従軍していた武蔵国(埼玉県)の武将である熊谷直実(くまがいなおざね/源氏→僧侶)が追撃してきた。

熊谷直実(くまがいなおざね/源氏→僧侶)とは、桓武平氏の系統の熊谷氏(くまがいうじ)で、熊谷氏(くまがいうじ)の祖となる熊谷直貞(くまがいなおさだ/熊谷)の息子で、武蔵国(埼玉県)の熊谷(くまがや)を拠点としていた。

熊谷直実(くまがいなおざね/源氏→僧侶)は、平敦盛(たいらあつもり/平氏)の兜(かぶと)や甲冑(かっちゅう)を診て高貴な武将と判断する。

海中に逃げ込もうとする平敦盛(たいらあつもり/平氏)に対して、武士として交戦する様に辛辣(しんらつ)な言葉を浴びせて扇動(せんどう)し、刀を抜いて手合いした。

当然だが、驍猛(ぎょうもう)な武辺者(ぶへんもの)の熊谷直実(くまがいなおざね/源氏→僧侶)は、平敦盛(たいらあつもり/平氏)を抑え込む。

ところが兜(かぶと)のした顔は、自分の息子の熊谷直家(くまがいなおいえ/鎌倉)と同年代程の青年で、平敦盛(たいらあつもり/平氏)を斬首するのを躊躇(ためら)った。

しかし、貴顕(きけん)な平氏の平敦盛(たいらあつもり/平氏)は、武士の常套(じょうとう)として斬首を渇望(かつぼう)した。

他の源氏軍義経隊が海岸部に侵攻してきた為に、平敦盛(たいらあつもり/平氏)は他の源氏武士に斬首されるなら、英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)の熊谷直家(くまがいなおいえ/鎌倉)に命を預けたいと言い残し、その想いを汲(く)みして斬首された。

亡き平敦盛(たいらあつもり/平氏)の甲冑(かっちゅう)から笛の“小枝”(さえだ)が落ち、熊谷直家(くまがいなおいえ/鎌倉)は、この動乱の戦地で美しい音色を響かせていたのが平敦盛(たいらあつもり/平氏)が奏でていたと知り、人格高潔(じんかくこうけつ)な武将だった事を噛み締める。

この傷心が起因で熊谷直家(くまがいなおいえ/鎌倉)は、武将を引退して出家し僧侶になる事を決断する。

熊谷氏(くまがいうじ)の家督を息子で、後々に鎌倉幕府の御家人に就く熊谷直家(くまがいなおいえ/鎌倉)に継承させた。

その後に熊谷直家(くまがいなおいえ/鎌倉)は、浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖の法然(ほうねん/浄土宗)の弟子に入り、法名の法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)として仏門に精進して、1195年に武蔵国(埼玉県)の熊谷寺(ゆうこくじ/浄土宗)を建立(こんりゅう)した。

そして「源平合戦」(げんぺいかっせん)こと「治承寿永の乱」(じしょうじゅえいのらん)は長門国(山口県)の関門海峡にて、源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)と源範頼(みなもとのりよし/源氏)と梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)が率いる源氏軍の猛攻撃により、亡き平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)の息子の平宗盛(たいらむねもり/平氏)と平知盛(たいらとももり/平氏)が率いる平家軍は惨敗し壊滅した。

これを1185年に起こった「壇ノ浦の戦」(だんのうらのたたかい)と呼ぶ。

The Poor /♪ TELL SOMEONE WHO CARES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:06:18

◆◇◆其の百四十九:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷→天皇)の詭計(きけい)により、兄の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と弟の源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)が、鎌倉幕府の政策の相違から仲違いした。

1185年に兄の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、弟の源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)の討伐の為に、日本各地に守護と地頭を設けて、これが実質的に鎌倉幕府の開設に当たる。

追い詰められた弟の源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)は、妻の郷御前(さとごぜん/秩父平氏→源氏)と共に、青年期に過ごした陸奥国(むつ/岩手県)の平泉の奥州藤原氏を頼った。

この時は第3代奥州藤原氏の藤原秀衡(ふじわらひでひら/奥州藤原氏)が、源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)を擁護(ようご)してくれた。

ただ、1187年に第3代奥州藤原氏の藤原秀衡(ふじわらひでひら/奥州藤原氏)が死去し、第4代奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)が家督を引き継ぐと状況は一変した。

相模国(神奈川県)の鎌倉幕府の拠点である大倉御所(おおくらごしょ)から、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が率いる鎌倉軍が、陸奥国(むつ/岩手県)の平泉へ侵攻を開始したのである。

これに驚愕した第4代奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)は、即断即決で征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に服従(ふくじゅう)し、源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)に対して奸計(かんけい)を講じた。

1189年に、窮地に陥った源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)と郷御前(さとごぜん/秩父平氏→源氏)は自決した。

しかし、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の戦略は此処(ここ)で終わらず、第4代奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)を討伐して奥州藤原氏を滅亡させた。

更に郷御前(さとごぜん/秩父平氏→源氏)の実家の河越重頼(かわごえしげより/秩父平氏)の一族も粛清(しゅくせい)し壊滅させた。

唯一に、河越重頼(かわごえしげより/秩父平氏)の息子の河越重時(かわごえしげとき/秩父平氏→鎌倉)と河越泰重(かわごえやすしげ/秩父平氏→鎌倉)などは助命された。

その後に、河越重時(かわごえしげとき/秩父平氏→鎌倉)は、鎌倉幕府の御家人として仕えて、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)と執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)の家臣に就いた。

河越泰重(かわごえやすしげ/秩父平氏→鎌倉)も、鎌倉幕府の御家人として仕えて、執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)の家臣に就き、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)の在庁官人(ざいちょうかんじん)の武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんごうしき)に就任した。

河越泰重(かわごえやすしげ/秩父平氏→鎌倉)の息子の河越経重(かわごえつねしげ/鎌倉)は、鎌倉幕府の御家人として仕えて、執権5代目の北条時頼(ほうじょうときより/鎌倉)の家臣に就任した。

LEAP /♪ PLAY DEAD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:07:09

◆◇◆其の百五十:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

相模国(神奈川県)の鎌倉にて、大倉御所(おおくらごしょ)で鎌倉幕府の政権運営を担う源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)により、本格的に武士が日本の政治を司る時代が幕開けした。

1192年に、第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷→天皇)こと後白河法皇(ごしらかわほうおう)が薨御(こうぎょ)した機に、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は京都の朝廷から征夷大将軍1代目に任命される。

鎌倉幕府の征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を、後見人として支えたのが比企氏(ひきうじ)である。

比企氏(ひきうじ)は、奥州藤原氏の先祖で“天下一の弓取り名人”と呼ばれた俵藤太(たわらとうた)こと藤原秀郷(ふじわらひでさと/公家)の末裔で、武蔵国(埼玉県)の比企(ひき)を拠点とした。

幼少期の征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、比企能員(ひきよしかず/藤原→鎌倉)の養母である比企尼(ひきのあま/藤原→鎌倉)が乳母に就いていた。

弟の源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)との仲違いで、兄の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)により、河越重頼(かわごえしげより/秩父平氏)の一族も粛清(しゅくせい)された。

但し、河越重頼(かわごえしげより/秩父平氏)の妻は河越尼(かわごえのあま/比企→秩父平氏)で、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の乳母を務めた比企尼(ひきのあま/藤原→鎌倉)の次女に当たり、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の乳母を務めていた。

こうして征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、幼少期から比企能員(ひきよしかず/藤原→鎌倉)の屋敷で養育された。

1199年に征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が落馬して死去した為に、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が家督を引き継いだ。

しかし、源氏の御曹司(おんぞうし)として過保護に育った征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)に、日本全国を統治する鎌倉幕府の政権を運営する事は不可能なのは周知の通りだった。

其処(そこ)で鎌倉幕府は、明察(めいさつ)で聡明(そうめい)な偉人を抜粋した13人の合議制の評定衆(ひょうじょうしゅう)で、政権運営を担う事が決議された。

その代表者は、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が伊豆国(静岡県)に配流(はいる)された時から支えてきた執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)と執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)が掌握した。

ただ、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、育ての親でもある比企能員(ひきよしかず/藤原→鎌倉)を敬仰(けいぎょう)し信任していた。

しかし、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は冤罪(えんざい)により、伊豆国(静岡県)に配流(はいる)して幽閉し、1202年に執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)が手配した刺客(しかく)により暗殺した。

こうして13人の合議制の評定衆(ひょうじょうしゅう)の中で、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)と比企能員(ひきよしかず/藤原→鎌倉)は対立した。

先ず執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)は奸計(かんけい)により、比企能員(ひきよしかず/藤原→鎌倉)を長久の計(ちょうきゅうのけい)を講じて欺瞞(ぎまん)により追い込んでいく。

こうして比企能員(ひきよしかず/藤原→鎌倉)や息子の比企余一兵衛尉(ひきよいちひょうえのじょう/鎌倉)などの一族は、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の粛清(しゅくせい)により斬殺され、武蔵国(埼玉県)の比企氏(ひきうじ)は滅亡した。

これを1203年に起こった「比企能員の変」(ひきよしかずのへん)と呼ぶ。

THE DATSUNS /♪ HARMONIC GENERATOR

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:08:02

◆◇◆其の百五十一:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

この時期になると13人の合議制は形骸化(けいがいか)し、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)と執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)が、鎌倉幕府の政権運営を掌握していた。

1202年に、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が死去した事により、1203年に征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の息子の征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)が就任した。

こうして執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)は、平安時代の藤原氏を模範として他氏排斥(たしはいせき)を加速させていく。

比企能員(ひきよしかず/藤原→鎌倉)の次に標的となったのが、鎌倉幕府の御家人で侍所(さむらいどころ)から信任が厚かった、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の家臣で“坂東武士の鏡”と呼ばれた畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)だった。

智勇(ちゆう)で善行(ぜんこう)な忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)は、鎌倉幕府の御家人の支持が高く、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)に採って邪魔な存在である。

こうして執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)は奸計(かんけい)により、畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)を長久の計(ちょうきゅうのけい)を講じて欺瞞(ぎまん)により追い込んでいく。

こうして畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)の一族は、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の粛清(しゅくせい)により斬殺され、武蔵国(埼玉県)の畠山氏は滅亡した。

これを1205年に起こった「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)と呼ぶ。

但し、鎌倉幕府の大名としての畠山氏は滅亡したが、庶家(しょけ)の畠山氏は存続していた。

足利義康(あしかがよしやす)こと源義康(みなもとよしやす/朝廷)の息子の足利義兼(あしかがよしかね/鎌倉)は、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)の娘の北条時子(ほうじょうときこ/平氏→鎌倉)を妻に娶り、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)からの家臣として鎌倉幕府の御家人として飛躍した。

その足利義兼(あしかがよしかね/鎌倉)の息子の足利義純(あしかがよしずみ)こと畠山義純(はたけやまよしずみ/鎌倉)は、畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)の妻の後夫(こうふ)となり、後々の室町幕府の三管領(さんかんれい)の祖となった。

ただ、足利義兼(あしかがよしかね/鎌倉)の妻の北条時子(ほうじょうときこ/平氏→鎌倉)は、下野国(しもつけ/栃木県)の足利荘にて、1196年に“蛭子伝説”(ひるこでんせつ)で自害している。

その後に、成長して青年になった征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)と、鎌倉幕府の実権を掌握していた執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)が、政権運営に伴い対立する様になる。

其処(そこ)で、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)の息子で、執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)と北条時房(ほうじょうときふさ/平氏→鎌倉)は奸計(かんけい)により、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)を長久の計(ちょうきゅうのけい)を講じて欺瞞(ぎまん)により追い込んでいく。

1219年に相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)にて、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の息子の公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)を扇動(せんどう)して、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)を暗殺させた。

Rancid /♪ THE WARS END

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:08:49

◆◇◆其の百五十二:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

其(そ)れから時が流れた室町時代に、武蔵国(埼玉県)の国人(こくじん)に就任した河越直重(かわごえただしげ/室町)は、室町幕府の征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の家臣に就いていた。

しかし、室町幕府の内紛が勃発し、和泉国(大阪府)と紀伊国(和歌山県)の守護で、関東執事(かんとうしつじ)に就任していた畠山国清(はたけやまくにきよ/室町)が、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の息子で1代目鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利基氏(あしかがもとうじ/鎌倉)と対立した。

この時に河越直重(かわごえただしげ/室町)は、1代目鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利基氏(あしかがもとうじ/鎌倉)に加勢し、畠山国清(はたけやまくにきよ/室町)は敗北して討死した。

ただ、1368年に主君の上杉房顕(うえすぎふさあき/室町→山内)に、河越直重(かわごえただしげ/室町)は相模国(神奈川県)の守護を解任され、反乱を起こすも敗北し伊勢国(三重県)に逃亡した。

こうして守護大名として、400年余り続いた権門勢家(けんもんせいか)の河越氏は滅亡する事になる。

幾年(いくとせ)が過ぎて、室町幕府が崩壊する要因となる1467年〜1477年の11年間も続いた「応仁の乱」(おうにんのらん)が勃発する。

室町幕府の三管領(さんかんれい)に選任される畠山氏の系統で、河内国(大阪府)と紀伊国(和歌山県)と山城国(京都府)と越中国(富山県)の守護大名に就任していた畠山持国(はたけやまもちくに/室町)が、室町幕府では“恐怖政治”を実施した“くじ引き将軍” と呼ばれる征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)により、畠山氏の家督を更迭された。

そして、畠山持国(はたけやまもちくに/室町)の弟の畠山持永(はたけやまもちなが/室町)が、畠山氏の家督に就任した。

しかし、1441年に征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)が、家臣の赤松入道(あかまつにゅうどう)こと赤松満祐(あかまつみつすけ/室町)に暗殺される。

此(こ)れにより畠山持国(はたけやまもちくに/室町)は復帰し、畠山氏の一族に対して畠山持永(はたけやまもちなが/室町)の討伐を威令(いれい)する。

こうして、畠山持国(はたけやまもちくに/室町)の弟の畠山持富(はたけやまもちとみ/室町)は、畠山氏の家督継承の内紛により、兄弟の畠山持永(はたけやまもちなが/室町)を斬殺した。

ただ、此処(ここ)で畠山氏の家督継承に、室町幕府の介入があり、此れにより内紛が起こり「応仁の乱」(おうにんのらん)の火種が発火した。

畠山氏の家督継承に貢献した、畠山持富(はたけやまもちとみ/室町)が1452年に死去した。

そんな畠山持国(はたけやまもちくに/室町)も1455年に死去した。

畠山持国(はたけやまもちくに/畠山)の息子の畠山義就(はたけやまよしなり/室町→西軍)が家督を継承する。

此(こ)れ対して、畠山持富(はたけやまもちとみ/室町)の息子の、畠山弥三郎(はたけやまやさぶろう/室町)こと畠山政久(はたけやままさひさ/室町)と畠山政長(はたけやまながまさ/室町→東軍)が反発する。

ただ、畠山弥三郎(はたけやまやさぶろう/室町)こと畠山政久(はたけやままさひさ/室町)は1459年に死去した。

TWISTED SISTER /♪ I WANNA ROCK

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260920 - ラジオの友 URL

2026/09/20 (Sun) 22:09:42

◆◇◆其の百五十三:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

こうして畠山義就(はたけやまよしなり/室町→西軍)と畠山政長(はたけやまながまさ/室町→東軍)が対立した。

此れが1467年〜1477年の11年間も継続して、京都市中を焦土と化し荒廃させた「応仁の乱」(おうにんのらん)の始まりである。

山名宗全(やまなそうぜん/室町→西軍)を総大将に、足利義視(あしかがよしみ/室町→東軍→西軍)や畠山義就(はたけやまよしなり/室町→西軍)などが西軍を組成し西陣に布陣した。

細川勝元(ほそかわかつもと/室町→東軍)を総大将に、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)や畠山政長(はたけやまながまさ/室町→東軍)などが東軍を組成し東陣に布陣した。

この「応仁の乱」(おうにんのらん)を終結に導いたのは、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)の妻の日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)である。

しかし、「応仁の乱」(おうにんのらん)の起因となった畠山義就(はたけやまよしなり/室町→西軍)と畠山政長(はたけやまながまさ/室町→東軍)が対立は継続していた。

山城国(京都府)の宇治にて、畠山義就(はたけやまよしなり/室町→西軍)が率いる西軍畠山隊と、畠山政長(はたけやまながまさ/室町→東軍)が率いる東軍畠山隊が、合戦を繰り広げる。

此れに怒り心頭に発したのが、戦闘により村落や田畑が壊滅させられた宇治の国人(こくじん)や村民だった。

こうして山城国(京都府)の宇治で一揆が勃発して、畠山義就(はたけやまよしなり/室町→西軍)が率いる西軍畠山隊と、畠山政長(はたけやまながまさ/室町→東軍)が率いる東軍畠山隊は、その狂気に怖気(おじけ)ついて退陣して合戦は終結した。

これを1485年の「山城国一揆」(やましろのくにいっき)と呼ぶ。

この後に室町幕府の権威は失墜し、将軍の足利氏と三管領(さんかんれい)の畠山氏と斯波氏と細川氏も、戦国時代の幕開けと共に守護代などの家臣による下克上(げこくじょう)にて、斜陽(しゃよう)する権力は凋落(ちょうらく)の一途を辿る。

こうして戦国時代(安土桃山時代)から江戸時代に掛けて、桓武平氏の秩父平氏の系統で、武蔵国(埼玉県)の深谷(ふかや)の畠山荘を拠点としていた畠山氏は、その存在は陰に隠れて目立つ事はなかった。

BAD COMPANY /♪ MAN NEEDS WOMAN

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2026/09/20 (Sun) 22:10:37

◆◇◆其の百五十四:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

畿内(きない/関西)を統治する室町幕府では、将軍の足利氏が実権を握り、それを補佐する三管領(さんかんれい)の畠山氏、斯波氏、細川氏で構成されていました。

一方、関東を統治する鎌倉府では、鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利氏が実権を握り、それを補佐する関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏で構成されていました。

さらに関東管領(かんとうかんれい)にも補佐役の家宰(かさい)が就いていました。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家宰(かさい)は長尾氏と、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)は太田氏です。

この頃、京都の室町幕府と鎌倉の鎌倉府は対立し、日本列島が西日本と東日本の2つの国に分裂している状況だった。

更に鎌倉府の内部でも、鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利氏と関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏も対立し、そこに家宰(かさい)の長尾氏と太田氏が巻き込まれていく感じだ。

これにより様々な立場の人が争う戦(いくさ)に発展していく。

これを1454年に起こり1483年までの28年間も続いた「享徳の乱」(きょうとくのらん)と呼ぶ。

この期間に京都の室町幕府でも、1467年に起こり1477年までの11年間も続いた「応仁の乱」が勃発している。

この頃の室町幕府は征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)が“恐怖政治”と言われる政権運営をしていた。

鎌倉府は鎌倉公方(かまくらくぼう)4代目の足利持氏(あしかがもちうじ/鎌倉)が政権運営をしていた。

それを補佐する関東管領(かんとうかんれい)は山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)だった。

この3者の関係は、鎌倉公方(かまくらくぼう)4代目の足利持氏(あしかがもちうじ/鎌倉)は上司で、関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)は部下だが、仲違いする間柄(あいだがら)だった。

征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)は上司で、鎌倉公方(かまくらくぼう)4代目の足利持氏(あしかがもちうじ/鎌倉)は部下だが、仲違いする間柄(あいだがら)だった。

そこで、京都の征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)と鎌倉の関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)が手を結び、鎌倉公方(かまくらくぼう)4代目の足利持氏(あしかがもちうじ/鎌倉)に対して奸計(かんけい)を仕掛けた。

この行為により鎌倉公方(かまくらくぼう)4代目の足利持氏(あしかがもちうじ/鎌倉)は自害する。

上司の切腹に慚愧(ざんぎ)した上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)は関東管領(かんとうかんれい)を辞職し、子供達にも『金輪際(こんりんざい)、室町幕府かつ鎌倉府に一切関わるなっ!』と家訓を残した。

これを1438年に起こった「永享の乱」(えいきょうのらん)と呼ぶ。

一方、征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)もその後、部下で播磨国(はりま/兵庫県)の武将の赤松満祐(あかまつみつすけ/室町)と赤松教康(あかまつのりやす/室町)の親子に抹殺されている。

これを1441年に起こった「嘉吉の乱」(かきつのらん)と呼ぶ。

CHEAP TRICK /♪ GIRLFRIENDS

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2026/09/20 (Sun) 22:11:32

◆◇◆其の百五十五:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●武蔵国(埼玉県)の自慢話し

これにより鎌倉府では、鎌倉公方(かまくらくぼう)と関東管領(かんとうかんれい)が空席となり大混乱をきたす。

鎌倉公方(かまくらくぼう)は、奸計(かんけい)により自害した4代目鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ/公方)の息子の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)が、5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)に就任した。

関東管領(かんとうかんれい)は上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)の息子を後継者にするのが慣例だが、父親が『金輪際(こんりんざい)、室町幕府かつ鎌倉府に一切関わるなっ!』と家訓を残している。

更には上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)は山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督を息子ではなく、弟で越後国(新潟県)の上条上杉氏(じょうじょううえすぎし)の当主だった上杉清方(うえすぎきよかた/上条→ 山内)に引き継がせる。

この流れからすれば関東管領(かんとうかんれい)も、上杉清方(うえすぎきよかた/上条→ 山内)が就任するかと思いきや、何と亡くなってしまう。

結局、室町幕府と鎌倉府の政治工作により、上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)の息子の上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)が関東管領(かんとうかんれい)に就任する事になる。

これに激怒したのが父親の上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)で、上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)と親子の縁を切ってしまった。

室町幕府は征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)が家臣に暗殺されたため、その息子の足利義勝(あしかがよしかつ/室町)が征夷大将軍7代目に就任した。

但し、征夷大将軍7代目の足利義勝(あしかがよしかつ/室町)は将軍就任直後の10歳程度で亡くなったので、征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)のもう1人の息子の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)が征夷大将軍8代目に就任した。

三管領(さんかんれい)は畠山持国(はたけやまもちくに/室町)が就いていた。

鎌倉府では、鎌倉公方(かまくらくぼう)4代目の足利持氏(あしかがもちうじ/公方)が奸計(かんけい)により自害したため、その息子の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)が5代目に就任した。

関東管領(かんとうかんれい)は山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲実(うえすぎのりざね/山内)が弑(しい)した責任で辞任した為に、その息子の上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)が就任し、家宰(かさい)は武蔵国(埼玉県)の加須(かぞ)に建つ平城(ひらじろ)の騎西城(きさいじょう/加須)を拠点とする長尾景仲(ながおかげなか/山内)が就いていた。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)では上杉持朝(うえすぎもちとも/扇谷)の息子の上杉顕房(うえすぎあきふさ/扇谷)が就任しており、家宰(かさい)は太田資清(おおたすけきよ/扇谷)が就いていた。

LOSTPROPHETS /♪ LAST TRAIN HOME

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2026/09/18 (Fri) 07:27:28

菊池ひみこ/♪ DUCKY DUCKY

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2026/09/18 (Fri) 07:28:33

JUNGLE /♪ SUNSHINE

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2026/09/18 (Fri) 07:29:30

MATT DUSK /♪ BACK IN TOWN

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2026/09/18 (Fri) 07:30:20

ROBERT PALMER /♪ PRIDE

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2026/09/18 (Fri) 07:31:13

LOS LOBOS /♪ THE NEIGHBORHOOD

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The Hot Club of Cowtown/♪ SLEEP

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2026/09/18 (Fri) 07:32:58

SANTANA /♪ GUAJIRA

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2026/09/18 (Fri) 07:33:59

NO STRINGS SEXTET /♪ LOVE MAKES THE WORLD GO

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2026/09/18 (Fri) 07:34:48

JANE BIRKIN /♪ LA GADOUE

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2026/09/18 (Fri) 07:35:45

RAY LAMONTAGNE /♪ YOU ARE THE BEST THING

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2026/09/18 (Fri) 07:36:41

GREGORY PORTER /♪ MISTER HOLLAND

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2026/09/18 (Fri) 07:37:34

ZAZ /♪ COMMETU VOUDRAS

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2026/09/18 (Fri) 07:38:26

MEL CARTER /♪ HOLD ME,THRILL ME,KISS ME

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2026/09/18 (Fri) 07:39:19

NO STRINGS SEXTET /♪ LOOK NO FURTHER

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2026/09/18 (Fri) 07:40:11

THE NEW ROTARY CONNECTION /♪ HEY LOVE

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2026/09/18 (Fri) 07:41:04

LARA FABIAN /♪ J'Y CROIS ENCORE

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2026/09/18 (Fri) 07:41:52

STROMAE /♪ L'ENFER

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2026/09/18 (Fri) 07:42:43

PORTER ROBINSON /♪ SEA OF VOICES

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2026/09/17 (Thu) 23:52:11

◆◇◆其の百二十:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

北関東に位置する群馬県は、山岳地帯に囲まれた自然が豊かで沃野千里(よくやせんり)な土地柄である。

ただ、多くの崇高(すうこう)な神様が宿る古色蒼然(こしょくそうぜん)な環境から、人間が居住する鉄とコンクリートの市街地に目を向けると、不思議な構成に気付く。

群馬県を流れる利根川を挟んで、北部の前橋市と南部の高崎市だが、経済規模や鉄道網から当然に県庁所在地は高崎市と思いきや、実は前橋市である。

少し比較すると、前橋市の人口は32万人余りで、鉄道網はJR在来線と上毛電鉄(じょうもうでんてつ)が通り、江戸幕府では前橋藩が置かれ、前橋城(まえばしじょう/厩橋城)が築城された。

一方で、高崎市の人口は36万人余りで、鉄道網はJR在来線と上越新幹線と北陸新幹線に上信電鉄(じょうしんでんてつ)が通り、江戸幕府では高崎藩が置かれ、高崎城(たかさきじょう/和田城)が築城された。

どう診ても、群馬県の県庁所在地は高崎市が選定されるべきである。

実は此(こ)れには理由があり、時計の針を159年ほど戻す。

江戸幕府が消滅して、1867年に発令された「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)にて、第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)による皇親政治(こうしんせいじ)が実施される明治期の勃興期(ぼっこうき)では、日本では近代文明の開花の時代でもあった。

官僚に就いた西郷吉之助(さいごうきちのすけ)こと西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)や桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)が統治する明治政府により、1871年の「廃藩置県」(はいはんちけん)が実施された。

この時期の1876年に、群馬県の県庁所在地は高崎市が選定されている。

ところが明治政府が政権運営を担う日本では、軍国主義の時流に乗っていき、戦争にて挙国一致(きょこくいっち)と尽忠報国(じんちゅうほうこく)と堅忍持久(けんにんじきゅう)の政策を国民に示した。

群馬県の県庁がある高崎城(たかさきじょう/和田城)の敷地は、肥大化した日本軍の実権により占領された。

肩身の狭い思いをする群馬県の県庁は移転を決議し、こうして1881年に前橋城(まえばしじょう/厩橋城)の敷地に県庁を設ける。

この時に尽力したのが前橋商人で、多額の移転費用を寄付している。

その後に日本は明治政府の先導により、1894年に起こった「日清戦争」や、1904年に起こった「日露戦争」に突入していった。

JIM WEIDER AND THE HONKY TONK GURUS /♪ LITTLE MISS LOVER

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/17 (Thu) 23:55:30

◆◇◆其の百二十一:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

ただ、時計の針を690年ほど戻すと、もう少し深みのある対立構造が視えてくる。

関東北部に位置する上野国(こうずけ/群馬県)は、武蔵国(埼玉県)と、下野国(しもつけ/栃木県)と、出羽国(でわ/山形県)こと羽前(うぜん/山形県)と、越後国(新潟県)と、信濃国(長野県)に接する広大な領国で形成されていた。

その為に鎌倉時代から戦国時代に掛けて、近隣の多くの武将による合戦が起きている。

その代表格が鎌倉時代末期から室町時代初期に活躍した、上野国(こうずけ/群馬県)と新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と下野国(しもつけ/栃木県)の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)である。

共に河内源氏の八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)を先祖に持ち、新田氏の祖は上野国(こうずけ/群馬県)の新田荘に拠点を構え、足利氏の祖は下野国(しもつけ/栃木県)の足利荘に拠点を構えた。

渡良瀬川(わたらせがわ)を挟んで、南部の上野国(こうずけ/群馬県)と新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と、北部の下野国(しもつけ/栃木県)の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、切っても切れない紐帯(ちゅうたい)の関係と言える。

そんな上野国(こうずけ/群馬県)と新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)を掘り下げて視てみよう。

平安時代に陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/山形県)の“蝦夷(えみし)討伐”の為に、京都から進軍してきた鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に就任した源頼義(みなもとよりよし/朝廷)と、息子の八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)は、平安京の朝廷による伝令(でんれい)を達成する。

その後に八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)は、平安京の朝廷から冷遇され、河内源氏の子孫に遺言を残して無念の死を遂げた。

源義家…『この恨みはらさでおくべきかっ! 我より7代目の子孫は、必ず天下を取れっ!』

八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)の遺言を引き継いだ息子の源義国(みなもとよしくに/朝廷)は、子孫に権門勢家(けんもんせいか)の河内源氏の家訓として心に刻む。

その息子の新田氏の祖となる新田義重(にったよししげ)こと源義重(みなもとよししげ /朝廷)も、上野国(こうずけ/群馬県)の新田荘を拠点として、河内源氏の系統の新田氏の家訓として子孫に伝承した。

其処(そこ)から時は流れた鎌倉時代末期に、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、先祖である八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)の遺言と、河内源氏の系統の新田氏の家訓を胸に抱き、文武の鍛錬に精進した。

因みに、上野国(こうずけ/群馬県)の太田の得川郷(とくがわごう/徳川郷)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の先祖である松平氏の出身地で、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と同じ河内源氏の系統である。

JEFFERSON STARSHIP /♪ JANE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:12:34

◆◇◆其の百二十二:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

1324年、鎌倉幕府の末期。

第14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は“酒”と“女”、そして“闘犬”にしか興味がなく、政治政策には無関心で鎌倉幕府の中枢機関は腐敗が露呈していた。

側近の長崎高綱(ながさきたかつな/鎌倉)と長崎高資(ながさきたかすけ/鎌倉)の親子も、その権力を欲しいままに横暴を繰り返していた。

第14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)の家臣でもある三河国(愛知県)の武将の刈谷宣嗣(かりやのぶつぐ/鎌倉)は、上層部からの指令にに大わらわ。

その中には上野国(群馬県)の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉)と側近の船田義昌(ふなだよしまさ/鎌倉)、それに下野国(栃木県)の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉)も大番役(おおばんやく)として鎌倉幕府の機関に従事していた。

この時期に新田義貞(にったよしさだ/鎌倉)は、鎌倉幕府の武将である安東聖秀(あんどうせいしゅう/鎌倉)の娘と結婚した。

一方、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉)は、北条氏(ほうじょううじ)で鎌倉幕府の第16代執権となる赤橋守時(あかはしもりとき/鎌倉)の妹の赤橋登子(あかはしとうし)と結婚し、1330年に息子の足利義詮(あしかがよしあきら/鎌倉)が誕生した。

共に清和源氏の源義家(みなもとよしいえ)の子孫であり、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉)は源義重(みなもとよししげ)の流れ、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉)は源義康(みなもとよしやす)の流れとなる。

ただ共の門地家柄(もんちいえがら)は、鎌倉幕府の枢軸に就いていた貴顕(きけん)で名族(めいぞく)の足利氏に対して、上野国(群馬県)の領主で御家人の新田氏は格下に見られていた。

その頃、京都では“大覚寺統”(だいかくじとう/南朝)である第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)や朝廷が、鎌倉幕府に対して不満が募っていた。

1221年に起こった第82代天皇だった後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)など朝廷軍による鎌倉幕府に対する反乱の「承久の乱」(じょうきゅうのらん)により、京都は五条近くに朝廷を監視する機能の六波羅探題(ろくはらたんだい)を設けていた。

鎌倉幕府は天皇継承に対しても口を挟み、第88代天皇の後嵯峨天皇(ごさがてんのう/朝廷)が崩御(ほうぎょ)した1272年以降より“持明院統”(じみょういんとう/北朝)と“大覚寺統”(だいかくじとう/南朝)の天皇を交互に即位させていた。

鎌倉幕府の抑圧による長年の鬱積(うっせき)により、朝廷側の公家や武家から反発する者も現れた。

先ずは鎌倉幕府や六波羅探題(ろくはらたんだい)に対して、第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は倒幕義勇軍を組成した。

しかし、これが六波羅探題(ろくはらたんだい)に知れる事となり、逆に鎌倉軍六波羅隊の侵攻で倒幕義勇軍は敗北した。

これを1324年に起こった「正中の変」(しょうちゅうのへん)と呼ぶ。

RASCAL FLATTS /♪ SUMMER NIGHTS

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:13:25

◆◇◆其の百二十三:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

後日、第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)かつ朝廷と、鎌倉幕府は和睦する。

しかし、第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は“倒幕”を諦め切れずに、密かに勇士を募っていた。

しかし、これが六波羅探題(ろくはらたんだい)に知れる事となり、これにより赤橋家(あかはしけ)で第16代執権の北条守時(ほうじょうもりとき/鎌倉)は、将軍の南条高直(なんじょうたかなお/鎌倉)に命じて鎌倉軍を京都に侵攻させる。

鎌倉より南条高直(なんじょうたかなお/鎌倉)が率いる鎌倉軍が押し寄せる事に危機感を抱いた第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は、“三種の神器”を持参して山城国(京都府)と大和国(奈良県)の国境にある笠置山(かさぎやま/相楽)に避難した。

比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)では、護良親王(もりながしんのう/朝廷)と宗良親王(むねながしんのう/朝廷)が軍備を整えて朝廷軍として鎌倉軍と対峙した。

この戦(いくさ)は朝廷軍の勝利に終わる。

これを1331年に起こった「元弘の乱」(げんこうのらん)と呼ぶ。

この頃、世間では「東海道大地震」や「富士山大噴火」など天変地異(てんぺんちい)が多発しており、世の動乱を予感させていた。

第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)を主軸とした朝廷軍は、更なる躍進のため全国の武将に“倒幕”を呼び掛ける。

そして第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は就寝中にこんな夢を見た。

夢の中に童子(どうじ)が現れ、こう告げた。

童子…『南枝(なんし)の下のみが御身(おんみ)を置くに安泰(あんたい)な場所である。』

『南に枝の良く伸びた木』即(すなわ)ち楠木(くすのき)である。

こうして第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は、河内国(大阪府)の武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)かつ弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)と運命的な出逢いを果たす。

鎌倉幕府の朝廷に対する攻撃は緩まる事なく続いていた。

河内国(大阪府)の金剛山(こんごうさん/大阪南・奈良)に下赤坂城(しもあかさかじょう/千早赤坂)や千早城(ちはやじょう/千早赤坂)を築いた朝廷軍の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍楠木隊は抗戦の構えを見せた。

それに対して鎌倉軍は10万人規模の軍隊を畿内(きない)に進行させていた。

戦況は、多勢に無勢で圧倒的に不利だった楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍が、山間部の戦場を活かして知略と戦術で勝利する。

BRYAN FERRY /♪ GODDESS OF LOVE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:14:22

◆◇◆其の百二十四:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

この体たらくな鎌倉軍に対して、鎌倉幕府の第14代執権だった北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は憤懣(ふんまん)と焦燥(しょうそう)を見せる。

そして、鎌倉幕府は朝廷に対して、更なる制圧を仕掛けた。

第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は公卿(くぎょう)の万里藤房(までふじふさ/朝廷)と万里秀房(まですえふさ/朝廷)と共に“三種の神器”を持参して笠置山(かさぎやま/相楽)を脱出した。

ただ、鎌倉軍に見つかり捕らえられ、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は隠岐島(島根県)に配流(はいる)される。

この時に再び、河内国(大阪府)の金剛山(こんごうさん/大阪南・奈良)に下赤坂城(しもあかさかじょう/千早赤坂)や千早城(ちはやじょう/千早赤坂)を築いた朝廷軍の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍楠木隊は抗戦の構えを見せた。

鎌倉幕府の第14代執権だった北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は、畿内(きない)の朝廷の動きに憤懣(ふんまん)と焦燥(しょうそう)を見せる。

鎌倉から30万人の鎌倉軍を送り込み、六波羅探題(ろくはらたんだい)の50万人の鎌倉軍六波羅隊と併せて80万人もの大軍で朝廷軍を侵攻する。

鎌倉軍は、河内国(大阪府)の金剛山(こんごうさん/大阪南・奈良)に築かれた上赤坂城(かみあかさかじょう/千早赤坂)を攻め落とし、楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる1000人余りの朝廷軍楠木隊が本陣を構える千早城(ちはやじょう/千早赤坂)に攻撃を仕掛ける。

難攻不落の山城の千早城(ちはやじょう/千早赤坂)では、“岩落し”や“丸太落し”に“熱湯掛け”や“糞尿掛け”により鎌倉軍は苦戦する。

戦況は、多勢に無勢で圧倒的に不利だった楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍楠木隊が、山間部の戦場を活かして知略と戦術で勝利する。

楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)が率いる朝廷軍楠木隊の善戦が全国に知れ渡り、各地の武将による“倒幕”の機運が高まる。

GARY BARLOW /♪ LOVE WON'T WAIT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:15:11

◆◇◆其の百二十五:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

その頃、上野国(群馬県)の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)の兄弟は、鎌倉幕府の冷遇に耐え切れず鎌倉軍から軍隊を撤退していた。

この態度に鎌倉幕府は黒沼彦四郎(くろぬまひこしろう/鎌倉)を、上野国(群馬県)の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の屋敷まで派遣し、『参戦しなければ軍資金を上納しろ。』と取立てに来た。

この対応に腹を立てた新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、黒沼彦四郎(くろぬまひこしろう/鎌倉)を斬首する。

これにより新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、後には引けなくなる。

これに対して鎌倉幕府は、桜田貞国(さくらださだくに/鎌倉)を総大将に2000人の鎌倉軍で、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)を進撃する。

武蔵国(埼玉県)の所沢にある入間川周辺の小手指原(こてさしがはら)で、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる新田軍と、桜田貞国(さくらださだくに/鎌倉)が率いる鎌倉軍は対峙する。

戦況は、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる新田軍が勝利する。

これを1333年に起こった「小手指原の戦」(こてさしがはらのたたかい)と呼ぶ。

鎌倉幕府では新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)への対応を協議し、金沢貞将(かなざわさだまさ/鎌倉)は脅威に感じていたが、長崎高資(ながさきたかすけ/鎌倉)は“田舎武士”と侮(あなど)っていた。

第14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は、弟の北条泰家(ほうじょうやすいえ/鎌倉)に総大将を任せて1万人の鎌倉軍で進撃させた。

武蔵国(東京都)の府中にある多摩川周辺の分倍河原(ぶんばいがわら)にて、北条泰家(ほうじょうやすいえ/鎌倉)が率いる鎌倉軍と、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる新田軍は対峙する。

一度目の合戦では北条泰家(ほうじょうやすいえ/鎌倉)が率いる鎌倉軍が勝利し、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる新田軍は武蔵国(埼玉県)の狭山まで敗走する。

しかし、ここに相模国(神奈川県)の三浦半島の武将で鎌倉軍でもある三浦義勝(みうらよしかつ/鎌倉→朝廷)が来訪し、鎌倉幕府を寝返り新田軍に加勢する事を伝える。

新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と三浦義勝(みうらよしかつ/鎌倉→朝廷)が率いる新田軍は、分倍河原(ぶんばいがわら)に布陣する北条泰家(ほうじょうやすいえ/鎌倉)が率いる鎌倉軍を攻撃し撃ち負かす。

これにより北条泰家(ほうじょうやすいえ/鎌倉)が率いる鎌倉軍は、相模国(神奈川県)の鎌倉に敗走する。

鎌倉幕府の第14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる新田軍を脅威に感じ、家臣に対して鎌倉市中の防御を命じる。

TRAFFIC /♪ PAPER SUN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:15:59

◆◇◆其の百二十六:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

その頃、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)では、北方長官の北条仲時(ほうじょうなかとき/鎌倉)と南方長官の北条時益(ほうじょうときます/鎌倉)が情勢不利と見て鎌倉幕府に救済要請する。

下野国(栃木県)の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)は、鎌倉幕府の限界を見定め自ら“倒幕”を企て寝返り、六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻撃し占領する。

この攻撃により六波羅探題(ろくはらたんだい)の北方長官の北条仲時(ほうじょうなかとき/鎌倉)は自害し、南方長官の北条時益(ほうじょうときます/鎌倉)は討死する。

これと同時に足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、相模国(神奈川県)の鎌倉に残された妻の赤橋登子(あかはしとうし)と息子の足利義詮(あしかがよしあきら/鎌倉→室町)を、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)に救済を依頼した。

新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)も快諾し2人の救済に成功した。

新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)の兄弟、家臣の船田義昌(ふなだよしまさ/鎌倉→朝廷)らが率いる新田軍は、鎌倉幕府への進撃を始める。

その戦(いくさ)に足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の息子の足利義詮(あしかがよしあきら/鎌倉→室町)も新田軍として参戦した。

三方を山、南を海に囲まれた鎌倉は、難攻不落の“自然の要塞”や“谷七郷”(やつしちごう)と言われていた。

鎌倉市中に行くには、北側の“巨福呂坂”(こぶくろさか)、北西側の“化粧坂”(けわいさか)、西側の“極楽寺坂”(ごくらくじさか)の3街道しか進入できない。

東側の“名越切通”(なごえきりどおし)と西側の“大仏切通”(だいぶつきりどおし)があるのみ。

南側は相模湾が広がり、由比ヶ浜から西に向かい七里ヶ浜の稲村ヶ崎となる。

PAOLO NUTINI /♪ COMING UP EASY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:16:50

◆◇◆其の百二十七:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

鎌倉軍と新田軍の対峙は以下の通りである。

北側の“巨福呂坂”(こぶくろさか)には、赤橋守時(あかはしもりとき/鎌倉)が率いる鎌倉軍と、堀口貞満(ほりぐちさだみつ/朝廷)が率いる新田軍。

北西側の“化粧坂”(けわいさか)には、金沢貞将(かなざわさだまさ/鎌倉)が率いる鎌倉軍と、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と江田行義(えだゆきよし/朝廷)が率いる新田軍。

西側の“極楽寺坂”(ごくらくじさか)には、大仏家(おさらぎけ)の北条貞直(ほうじょうさだなお/鎌倉)が率いる鎌倉軍と、大館宗氏(おおだてむねうじ/朝廷)が率いる新田軍。

北側の“巨福呂坂”(こぶくろさか)と北西側の“化粧坂”(けわいさか)では新田軍が善戦し、赤橋守時(あかはしもりとき/鎌倉)は自決した。

しかも、赤橋守時(あかはしもりとき/鎌倉)は最後まで気持ちは複雑で、妹の赤橋登子(あかはしとうし)の夫が鎌倉幕府と敵対する足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)で、甥の足利義詮(あしかがよしあきら/鎌倉→室町)が新田軍に参戦していた。

一方、西側の“極楽寺坂”(ごくらくじさか)では、新田軍は苦戦して大館宗氏(おおだてむねうじ/朝廷)が討死した。

しかし、難攻不落な鎌倉幕府の拠点までの進軍は、自然の要塞で困難を極めた。

これを打破するため、相模湾の地形や潮の満ち引きに詳しい地元民の矢島五郎丸(やじまごろうまる)の助言をもらう。

この助言により稲村ヶ崎の潮が引く日時が判明し、その時を狙って海から鎌倉市中に進撃する事を決める。

新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は海の神に“黄金の太刀”(おうごんのたち)を捧げ、稲村ヶ崎の海の潮を引かせた。

新田義貞…『南無八幡大菩薩、龍神もお聞き下され。 我れ新田義貞は帝(みかど)にお味方し、只今より鎌倉幕府かつ北条一族を討つため攻撃を致します。 臣(しん)が忠義に鑑(かんが)み、海の潮を万里の外へ引いて、我が軍隊の道をお開き下さい。』

これを告げた後、“黄金の太刀””(おうごんのたち)を稲村ヶ崎の海に投げ入れる。

そうするとなんとも不思議に、暴風が止み、海の潮が見る見るうちに引いていった。

沖合に停泊していた鎌倉軍の船も流されていく。

これにより稲村ヶ崎の海沿いから、鎌倉市中に進軍する事ができた。

これを新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の「龍神伝説」(りゅうじんでんせつ)と呼ぶ。

この時に現れた龍神は、鎌倉時代前期の「源平合戦」(げんぺいがっせん)の後に、源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)と愛妾(あいしょう)の静御前(しずかごぜん/源氏)の間に誕生した息子を、鎌倉幕府の征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が、相模湾の海に沈めた2人の赤子(あかご)の化身と言われる。

西側の“極楽寺坂”(ごくらくじさか)を防御していた大仏家(おさらぎけ)の北条貞直(ほうじょうさだなお/鎌倉)と金沢貞将(かなざわさだまさ/鎌倉)が率いる鎌倉軍に対して、陸からは弟の新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)が進撃し、海からは新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が攻撃し、挟み討ちにして鎌倉軍を一気に攻め落とした。

これにより大仏家(おさらぎけ)の北条貞直(ほうじょうさだなお/鎌倉)と金沢貞将(かなざわさだまさ/鎌倉)は討死した。

一方、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の義父で鎌倉幕府の武将だった安東聖秀(あんどうせいしゅう/鎌倉)を救済するため、直参家臣の船田義昌(ふなだよしまさ/鎌倉→朝廷)が向かうが、安東聖秀(あんどうせいしゅう/鎌倉)は『武士の定め。』として自決する。

第14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)など北条一族と家臣は菩提寺の東勝寺(とうしょうじ)に逃げ込むも、新田軍に追い込まれて北条一族の283人とその家臣の数百人が自害した。

1333年、鎌倉幕府は崩壊し148年の歴史に幕を閉じる。

PUDDLE OF MUDD /♪ SHE HATES ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:17:43

◆◇◆其の百二十八:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

日本を代表する“剣聖”(けんせい)と言えば、常陸国(ひたち/茨城県)の塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)と、そして上野国(こうずけ/群馬県)の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)ではないだろうか。

上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)とは、下総国(しもうさ/千葉県・茨城県)で活躍し、“天真正伝香取神道流”(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を流派とする剣術士の上泉時秀 (かみいずみときひで/剣術士)を祖父に持ち、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主に就き、“鹿島新當流”(かしましんとうりゅう)を流派とする剣術士の上泉秀継(かみいずみひでつぐ/剣術士)を父親に持つ、一族が剣豪の家庭に育った剣術士である。

上野国(こうずけ/群馬県)の上泉氏は、室町幕府の将軍の足利氏と三管領(さんかんれい)の畠山氏、斯波氏、細川氏に、そして七頭(しちとう)の山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏(きょうごくうじ)、土岐氏、上杉氏、伊勢氏で構成され、この氏家の中で京都奉行を担う四職(ししき)の山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏(きょうごくうじ)が選任されていたが、その中の三河国(愛知県)の一色氏の系統である。

戦国時代には上野国(こうずけ/群馬県)の勢多(せた/前橋)を拠点に、上泉氏は上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主に就任していた。

上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の人生は、前半が上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主に就任し武将として活動し、後半が武士を辞任して剣術士として生きる道を選び、新陰流の流祖となり“剣聖”(けんせい)と呼ばれるまでになる。

上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が20代の頃、陰流の流祖の愛洲久忠移香斎(あいすいこうさい)こと愛洲久忠(あいすひさただ/剣術士)が上泉城(かみいずみじょう/前橋)に訪問した。

その時に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は愛洲久忠移香斎(あいすいこうさい)こと愛洲久忠(あいすひさただ/剣術士)と仕合をする事になる。

この仕合で愛洲久忠移香斎(あいすいこうさい)こと愛洲久忠(あいすひさただ/剣術士)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の剣術の腕前に感銘を受けて、陰流の秘伝書や愛刀を譲渡している。

この縁で愛洲久忠移香斎(あいすいこうさい)こと愛洲久忠(あいすひさただ/剣術士)が上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の師範となる。

TAYLOR HICKS /♪ WHAT'S RIGHT IS RIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:18:35

◆◇◆其の百二十九:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

この時期の関東地方は、室町幕府の出先機関である相模国(神奈川県)の鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)と、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)が、1455年〜1483年までの28年間に渡り権力闘争を繰り広げた「享徳の乱」(きょうとくのらん)で荒廃し無秩序化していた。

そんな剣術としての腕前がある上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)ではあるが、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主と言う顔も持つ。

この“下克上”(げこくじょう)が台頭する戦国時代の動乱に巻き込まれていく。

伊豆国(静岡県)の韮山(にらやま)を拠点にしていた北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の城主で扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家臣だった大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)に対して調略を企て、1495年に小田原城(おだわらじょう)を奪取(だっしゅ)した。

追い出された大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)は自らの粗末(そまつ)や羞恥(しゅうち)により自害し、その家督は息子の大森泰頼(おおもりやすより/扇谷)が引き継いだ。

そして、大森泰頼(おおもりやすより/扇谷)は娘を、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主だった上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に嫁がせて再起を図る。

相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の城主に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が就任した。

この伊勢北条氏の関東地方での勢力拡大に危機感を抱いたのが、関東管領(かんとうかんれい)に就任していた山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)と、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)である。

常陸国(ひたち/茨城県)を拠点としていた古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)に協力を要請して、8万人の上杉軍を組成して伊勢北条氏の討伐に動く。

一方の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)も1万人の伊勢北条軍を組成するが、軍勢に圧倒的な差があり不利である。

そこで伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、御家芸の調略と戦術により、武蔵国(埼玉県)の河越城(かわごえじょう)に本陣を構えていた上杉軍に奇襲を仕掛けて勝利する。

これを1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)と呼び、「日本三大奇襲戦」の1つに数えられる。

この上杉氏の家臣だった上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、伊勢北条氏との抗争に巻き込まれていく。

FEIST /♪ THE BAD IN EACH OTHER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:19:32

◆◇◆其の百三十:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

この時期の東日本の勢力図は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とする“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)と、駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の守護代を務めた“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる今川義元(いまがわよしもと/今川)の戦国武将が、三つ巴(みつどもえ)の抗争で領土拡大を目論んでいた。

鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利氏や関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏など、蚊帳(かや)の外である。

そんな戦況での「河越夜戦」(かわごえやせん)に敗北した関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)は、その後にも家臣などが上杉氏から離反するなどし、1552年に越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を頼り逃亡した。

主君が不在となった上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)を拠点とする上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家臣で同じ領国の上野国(こうずけ/群馬県)の箕輪城(みのわじょう)の城主だった長野業正(ながのなりまさ/上杉)に仕える事となる。

長野軍に加勢した上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)や甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)との交戦で奮闘し、“長野家十六槍”と呼ばれる様になる。

そして合戦の先陣争いで覇者となり長野業正(ながのなりまさ/上杉)から“上野国一本槍”の感謝状が贈られた。

しかし、1561年に主君の長野業正(ながのなりまさ/上杉)が死去し、家督を息子の長野業盛(ながのなりもり/上杉)が引継いだ。

弱体化が懸念された長野軍を想い、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と連携する道を選び、福島氏の系統で北条為昌(ほうじょうためまさ/伊勢北条)の養子に入っていた北条綱成(ほうじょうつなしげ/福島→伊勢北条)の娘を後妻に娶(めと)る。

そして息子で嫡男(ちゃくなん)の上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)を、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に人質として差出す。

しかし、長野業正(ながのなりまさ/上杉)が死去した事を好機と捉えた甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる2万人の武田軍が、1566年に上野国(こうずけ/群馬県)の箕輪城(みのわじょう)へ侵攻を開始した。

守護する城主の長野業盛(ながのなりもり/上杉)は敗北し、箕輪城(みのわじょう)の落城と共に自決した。

参戦した上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)も奮闘したが多勢に無勢でどうにもならず、箕輪城(みのわじょう)から逃亡して上野国(こうずけ/群馬県)の柄杓山城(ひしゃくやまじょう/桐生)の城主だった桐生助綱(きりゅうすけつな/足利)の所に身を寄せた。

その後、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の武勇伝を聞いていた武田信玄(たけだしんげん/武田)は、直参家臣として招聘(しょうへい)した。

しかし、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、この武田信玄(たけだしんげん/武田)の要請を断り、武士の身分を捨てて剣術士としての道を選択した。

上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の“信”の名前は、この頃に武田信玄(たけだしんげん/武田)が自分の“信”を与えたと言う。

KELLY CLARKSON /♪ ALREADY GONE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:20:35

◆◇◆其の百三十一:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

1564年に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、戦乱の世を鎮める人を活かす剣の“活人剣”(かつにんけん)の極意を求める剣術の修行に旅立った。

西国に向かった上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の剣術を習得していた伊勢国(三重県)の国司だった剣豪の北畠具教(きたばたけとものり/公家)を訪問した。

剣術を披露した上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に対して、その精妙(せいみょう)な技量に驚いた北畠具教(きたばたけとものり/公家)は御手合わせをする事すら出来なかったと言う。

そこから大和国(奈良県)に入り、法相宗(ほっそうしゅう)の総本山でもある興福寺(こうふくじ)の宝蔵院(ほうぞういん)の院主に就いていた胤舜(いんしゅん/僧兵)を訪問した。

奈良法師(ならほうし)の胤舜(いんしゅん/僧兵)は槍(やり)の名手で名高く、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)を生み出し、大和国(奈良県)の僧兵をまとめる存在だった。

上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は胤舜(いんしゅん/僧兵)と仕合をする事になったが、その時に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が握っていた刀は、細長く切った竹を束ね皮袋を被(かぶ)せた袋竹刀(ふくろしない)だった。

胤舜(いんしゅん/僧兵)がこの袋竹刀(ふくろしない)について、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に質問を投げ掛けた。

胤舜…『木刀ではなく、手に握っているその竹を束ねた物は何か?』

上泉信綱…『この袋竹刀(ふくろしない)は相手を打ち込んでも致死(ちし)に至る事はない為に、手加減を為(せ)ずに仕合が出来る。』

仕合が始まると、袋竹刀(ふくろしない)で攻撃する上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に太刀打ちする事が出来ず、胤舜(いんしゅん/僧兵)は完敗した。

この上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が考案した袋竹刀(ふくろしない)が、今でも剣道の竹刀(しない)に使用されている。

SUGARLAND /♪ STAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:21:30

◆◇◆其の百三十二:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

宝蔵院(ほうぞういん)の胤舜(いんしゅん/僧兵)が敗北した事を聞き付けた、剣豪の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に果たし状を送付する。

柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)とは、大和国(奈良県)の春日山より東方の山岳地帯にある柳生庄(やぎゅうしょう)を領域とする菅原氏(すがわらうじ)の系統の柳生氏(やぎゅううじ)で、剣術士として柳生流の流祖でもある。

果たし状を受け取った上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)と会って仕合をする事になる。

そして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の構えを観て、こう述べる。

上泉信綱…『お主の構えなら、太刀(たち)は必要ない。 この手でお主の太刀(たち)を奪い取って仕合は決する。』

そう言った次の瞬間、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が握り構える太刀(たち)を奪い取った。

柳生宗厳…『なっ、何が起こったのだぁ!?』

この技法は“無刀取り”(むとうどり)と呼ばれる。

続いて上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、弟子の疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)と御手合わせをする事を薦める。

疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)とは、加賀国(石川県)の武士で、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の門下生であり甥でもあり、疋田陰流剣術の流祖となる。

仕合は3本勝負だったが、この3本とも疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)が勝利し、呆気(あっけ)なく敗北した柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は力量の違いから感服し、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の弟子となった。

こうして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は領土の柳生庄(やぎゅうしょう)に、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)を招聘(しょうへい)して滞在してもらう事になった。

BECK /♪ EVERLASTING NOTHING

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:22:22

◆◇◆其の百三十三:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

その頃、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の息子の上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の家臣となっていた。

1564年に東方に侵攻する伊勢北条軍と下総国(しもうさ/千葉県)の国府台城(こうのだいしろ/市川)で防衛する里見軍が交戦した国府台合戦(こうのだいかっせん)で、伊勢北条軍は勝利するも参戦した上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)は討死した。

息子が下総国(しもうさ/千葉県)にて戦死した一報は、大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)で剣術を伝授する上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の耳にも入った。

今直ぐにでも息子の亡骸(なきがら)に逢いに、関東に帰郷したい気持ちはあったが、師範の上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は修行に励む門下生を置いては行けなかった。

ある程度の技量を積んだ柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)に対して、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は『武器や武具を身に着けなくとも、相手を倒す“無刀取り”(むとうどり)を習得する事。』と課題を与える。

そして、1564年に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)を旅立ち京都に向かう。

京都では旧知の間柄だった山科言継(やましなときつぐ/公家)の元に身を寄せる。

山科言継(やましなときつぐ/公家)とは、藤原氏北家(ほっけ)の四条家の系統で、朝廷の公卿(くぎょう)であり、1527年〜1576年の49年間を綴(つづ)った日記の“言継卿記”(ときつぐきょうき)が残されており、その記述に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の名が多く登場している。

京都に滞在している時に、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)から孫の上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)が訪ねてきた。

そして祖父の上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に、上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)は父親の上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)の最期(さいご)の戦いを伝え聞かせた。

その時、息子の最期(さいご)を聞いた上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、父親として流れる涙を抑え切れなかった。

AMY SHARK FEAT.KEITH URBAN /♪ LOVE SONGS AIN'T FOR US

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:23:19

◆◇◆其の百三十四:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

肥後国(熊本県)の八代(やつしろ)の相良氏の家臣だった丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)は、畿内(きない/関西)に剣豪の上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が滞在している事を聞き付け、1558年に京都へ上洛した。

丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)とは、肥後国(熊本県)の八代(やつしろ)の剣術士で、タイ捨流(たいしゃりゅう)の流祖となる。

上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の門下生となった丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)は、厳しい修行を積んで技量を高め、“伊勢守門下四天王”の1人になるまで上達する。

京都に滞在している上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、“剣豪将軍”と呼ばれ最期(さいご)は“二条御所の薔薇”として美しく散った征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の耳に入る。

そして足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)を招聘(しょうへい)した。

この時、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、弟子の丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)を相手に演武を披露した。

この剣術の凄さを観た足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に対して“兵法新陰流軍法軍配天下第一”の称号を付与した。

1571年に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、朝廷に赴(おもむ)き内裏(だいり)にて第106代天皇の正親町天皇(おおぎまちてんのう/朝廷)に拝謁(はいえつ)した。

此処(ここ)でも天覧演武を披露して、その技量の高さに感服した正親町天皇(おおぎまちてんのう/朝廷)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に対して官位相当制の従四位を勅与(ちょくよ)し、さらに天皇が愛用していた御前机まで贈呈している。

従四位と言えば藤原氏の庶流(しょりゅう)など貴族の位で、武家でも織田信長(おだのぶなが/織田)などの武将しか与えられていない。

将軍と天皇に認められた剣術士は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の他には居ない。

THE STREETS /♪ DRY YOUR EYES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:24:11

◆◇◆其の百三十五:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

京都での巡業を終えた上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、再び大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)に戻った。

そして、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)に課した武器や武具を身に着けなくとも、相手を倒す“無刀取り”(むとうどり)の成果を見に来た。

上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)と柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、道場で仕合をする事となる。

この御手合わせで、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の技量が格段に向上している事を上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は悟る。

さらに柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、自己流に改良された“無刀取り”(むとうどり)も披露した。

これにて上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)に対して新陰流の印可(いんか)を与えた。

こうして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の柳生一族(やぎゅういちぞく)が柳生新陰流を継承して行く事となる。

この伝統が“将軍家御流儀”として、江戸幕府の徳川家へと伝えられていく。

WILL YOUNG /♪ DANIEL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:25:02

◆◇◆其の百三十六:坂東(ばんどう/関東)八州、お国自慢◆◇◆

●上野国(こうずけ/群馬県)の自慢話し

柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)を柳生新陰流の師範として、後方で上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は新陰流の普及の為に尽力する。

大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)と京都を拠点に、剣術を教えに日本各地へ赴(おもむ)いた。

孫の上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)も、剣術の技量が向上した為に武者修行の満願を与える。

1571年に剣術の伝授をやり終えた上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、息子の上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)が眠る上野国(こうずけ/群馬県)の勢多(せた/前橋)に帰郷する。

そして1577年に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、長きに渡る人生の修行の旅を終える。

その後、孫の上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点にする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に仕える。

しかし、1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後に天下統一を果たすべく豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる20万人余りの豊臣軍に、8万人余りの伊勢北条軍が守護する小田原城(おだわらじょう)は包囲され、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は敗戦責任により自決し、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は降伏して小田原城(おだわらじょう)を明け渡した。

伊勢北条氏の滅亡で家臣だった上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)も牢人(無職侍)となった。

ところが1600年に、陸奥国(むつ/福島県)の会津を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)から、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)による「会津征伐」(あいづせいばつ)の対応で、上杉軍の兵士増強の為に上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)は加勢を依頼され承諾する。

実際には「会津征伐」(あいづせいばつ)は中止となったが、その余波から羽前(うぜん/山形県)の山形城(やまがたじょう)を拠点とする最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と交戦する「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)が起こる。

この“北の関ヶ原”と呼ばれた合戦にて、上杉軍に参戦した上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)は「長谷堂城の戦」(はせどうじょうのたたかい)で討死し、戦況も上杉軍の敗北で終わる。

しかし上泉氏の子孫は、羽前(うぜん/山形県)の米沢藩の藩主となった上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に仕え、江戸時代には代々に渡り上杉氏の家臣として上泉氏も継承されていった。

VAN MORRISON /♪ I'M TIRED JOEY BOY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260917 - ラジオの友 URL

2026/09/18 (Fri) 07:25:57

◆◇◆まるでその場に居たような言い方のインターネットのコメント歴史家◆◇◆

●お題:世界中を魅了する日本刀(にほんとう)、笑顔型の太刀(たち)、への字型の刀(かたな)

21世紀の世界中では、侍(サムライ)と共に人気が高いのが日本刀(にほんとう)である。

世界の各国に日本刀(にほんとう)の収集家が居り、武具(ぶぐ)市場では数百万円〜数千万円で取引され、名刀になると数億円規模に達する事もある。

また、日本刀(にほんとう)を主体とした日本のアニメも大人気で、ヨーロッパのポーランドや中東のイエメンなどにも熱狂的なファンが多い。

特に、剣術士を主人公にした「赤胴鈴之助」(あかどうすずのすけ/少年剣士)は、コスチュームプレイ(コスプレ)の衣装やグッズが、日本から輸出され貿易黒字に貢献している。

世界の地球人を魅了する日本刀(にほんとう)には、太刀(たち)と刀(かたな)の2種類がある。

その違いは、太刀(たち)は笑顔型の曲線で騎馬戦で使用し、刀(かたな)はへの字型の曲線で地上戦に使用する。

一般的な日本刀(にほんとう)は、刃長(はちょう)が70cm余りで、重量は刀身(とうしん)だけで700g前後あり、鞘(さや)や柄(つか)などを含めると1.5kg前後ある。

日本刀(にほんとう)には、刀匠(とうしょう)が鍛冶(かじ)する五大産地の五箇伝(ごかでん)が伝承されている。

備前国(岡山県)は、良質な砂鉄が採掘でき、瀬戸内海に面した長船(おさふね)などは、日本で最も太刀(たち)と刀(かたな)が製造され、日本刀(にほんとう)の聖地と呼ばれる。

山城国(京都府)は、都(みやこ)や朝廷が置かれていた事から、太刀(たち)と刀(かたな)は戦闘用ではなく、豪奢(ごうしゃ)で華美(かび)な美術品が特徴である。

大和国(奈良県)は、寺院の奈良法師(ならほうし)と呼ばれる僧兵が使用する、堅固で丈夫な太刀(たち)と刀(かたな)が特徴である。

美濃国(岐阜県)は、関(せき)を一帯とした地域は良質な砂鉄や土が採掘され、切れ味の良い太刀(たち)と刀(かたな)が製造された。

相模国(神奈川県)は、鎌倉幕府の御家人や東国武士が使用する実戦に特化した太刀(たち)と刀(かたな)が製造された。

そんな日本刀(にほんとう)の使い手も、戦国時代の前後には多く輩出している。

常陸国(ひたち/茨城県)の鹿島城(かしまじょう)の鹿島氏の家臣だった松本政信(まつもとまさのぶ/剣術士)は、鹿島神流の流祖である。

吉川覚賢(よしかわあきかた/宮司→剣術士)の息子で、塚原安幹(つかはらやすもと/塚原→剣術士)の養子に入った吉川朝孝(よしかわともたか)こと塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、松本政信(まつもとまさのぶ/剣術士)の門下生で鹿島流から卜伝流を編み出し、“剣聖”(けんせい)や“生涯無敵”と呼ばれた。

室町幕府の一色氏の系統で、上野国(こうずけ/群馬県)の勢多(せた/前橋)を拠点に上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主に就任していた上泉秀継(かみいずみひでつぐ/剣術士)の息子で、上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、松本政信(まつもとまさのぶ/剣術士)の門下生で新陰流の流祖となり、“剣聖”(けんせい)と呼ばれ、戦乱の世を鎮める人を活かす剣の“活人剣”(かつにんけん)を伝授した。

大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)を拠点に柳生城(やぎゅうじょう)の城主に就任していた柳生家厳(やぎゅういえよし/柳生)の息子で、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の門下生で柳生新陰流の流祖となる。

播磨国(はりま/兵庫県)の剣術士の新免無二(しんめんむに/赤松→剣術士)の息子で、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は、二天一流(にてんいちりゅう)の流祖となり、大地の“地之巻”と流体の“水之巻”と情熱の“火之巻”と成長の“風之巻”と空虚の“空之巻”の全五巻から構成される“五輪書”を執筆した。

豊前国(ぶぜん/福岡県)の田川の豪族である佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は、岩流(がんりゅう)の流祖となり、越前国(福井県)の一乗滝(いちじょうだき)で“燕返し”を生み出すも、長門国(山口県)の巌流島(がんりゅうじま)で宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と対決し討死した。

また、此(こ)れら“剣聖”(けんせい)からご教授を受けた剣豪(けんごう)の武将も多くいた。

伊勢国(三重県)の国司である剣豪(けんごう)の北畠具教(きたばたけとものり/公家)や、“剣豪将軍”と呼ばれ最期(さいご)は“二条御所の薔薇”として美しく散った征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)などである。

そんな1.5kg前後ある日本刀(にほんとう)を、片手で扱える女武士も存在していた。

信濃国(長野県)の木曽の武将である中原兼遠(なかはらかねとお/木曽)の娘で、女将軍と呼ばれた巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)は、河内源氏の系統の信濃源氏で朝日将軍と呼ばれた木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の侍女(じじょ)となり護衛した。

“徳川四天王”と呼ばれる本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の娘で、信濃国(長野県)の上田藩と松代藩(まつしろはん/長野)の藩主に就任した真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)の妻の、“戦国最強の女武士”や“輝く姫”と呼ばれた稲姫(いなひめ)こと小松姫(こまつひめ/徳川)は、上総国(千葉県)の大多喜城(おおたきじょう/夷隅)の城下町に多くの伝説を残している。

武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)の城主に就任していた成田氏長(なりたうじなが/上杉→ 伊勢北条 →豊臣)の娘で、豊臣軍の石田三成(いしだみつなり/豊臣)を完膚(かんぷ)なきまで討ち負かした甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)は、父親が離縁(離婚)した母親は由良成繁(ゆらなりしげ/横瀬)の娘で、祖母を合わせて3代に渡り武道の達人である。

豊後国(ぶんご/大分県)の大友氏の三家老である戸次鑑連(べっきあきつら)こと立花道雪(たちばなどうせつ/大友)の娘で、“西国無双”(さいごくむそう)と呼ばれる立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の妻の、“九州で一番の美女”と呼ばれた立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)は、威風堂々(いふうどうどう)とする甲冑姿に怖気(おじけ)ついた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を畏怖(いふ)させた。

此(こ)れらから判る通り、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に大敗し、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)で篭城する浅井長政(あざいながまさ/浅井)は切腹を決断するもの、その介錯人(かいしゃくにん)にお姫様育ちの“小牧山の美女”と呼ばれた妻のお市の方(おいちのかた/織田→浅井)が選任され、1.5kg前後ある日本刀(にほんとう)を振り上げて斬首する事は不可能である。

その困難さを例えるなら、暴風雨が吹き荒れる大型台風が直撃する中で、讃岐国(香川県)にて1185年に起こった「屋島の戦」(やしまのたたかい)で、海上に浮かべた平家軍の船上の扇の的を、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の家臣である那須与一(なすよいち/源氏)が、馬に跨(またが)り海中から射抜く様なものである。

最後になるが、最も日本刀(にほんとう)が似合う将軍の征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)に畏敬の念(いけいのねん)を表して、“♪武士は美しく散る”をみんなで歌おう。

足利義輝…『♪京の都に〜 名も知れず〜 生きている〜 民(たみ)ならば〜 ただ飯(めし)を〜 食べながら〜 屁(へ)をこけば〜 いいけれど〜』

足利義輝…『♪私は武士の 定(さだめ)に生まれた〜 華(はな)やかに〜 激しく 生きろと〜 生まれた〜』

足利義輝…『♪武士は 武士は 気高(けだだ)く〜 生きいて〜 武士は 武士は 美しく 散る〜』(♪武士は美しく散る)

●コメント歴史家

①:この日本は、日本刀(にほんとう)を使用した文化を継承すべきで、東京都荒川区南千住の小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)や東京都品川区の鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)を復活させて、スマートフォンを弄(いじ)りながら自動車を運転する悪辣(あくらつ)で不義(ふぎ)な暴虐非道(ぼうぎゃくひどう)の輩(やから)を、酷刑(こっけい)に処して斬首し梟首(きょうしゅ)にすべきである。

②:長門国(山口県)の関門海峡に浮かぶ巌流島(がんりゅうじま)にて、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)の対決は、かなり“盛って”います。 しかも宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は遅刻せず、約束の時間より早めに到着しました。

③:武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)の甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)と、豊後国(ぶんご/大分県)の“西国無双”(さいごくむそう)と呼ばれる立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)の妻の立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)の逸話(いつわ)が凄すぎて、“キャラ立ち”が際立っている。

④:木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)“の正体を言うわぁ”、歴史書では猛悪非道(もうあくひどう)で冷酷非情(れいこくひじょう)に描かれているが、本当は眼光炯々(がんこうけいけい)で権謀術数(けんぼうじゅっすう)な天賦(てんぶ)の武将で、巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)との逸話(いつわ)は仁恩(じんおん)に溢れ心打たれる。

⑤:義理兄の織田信長(おだのぶなが/織田)を裏切った結果、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)に篭城する浅井長政(あざいながまさ/浅井)の“詰んだ感”が居た堪(たま)れない。 尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)や小牧山城(こまきやまじょう)で育った、箸(はし)より重い物を持った事のないお姫様のお市の方(おいちのかた/織田→浅井)が、日本刀(にほんとう)を振りかざし愛する夫を斬首するとは、正気の沙汰(さた)ではない。

⑥:この日本は、日本刀(にほんとう)を使用した文化を継承すべきで、大阪市中央区千日前の千日刑場(せんにちけいじょう)や大阪市都島区都島中通の野江刑場(のえけいじょう)を復活させて、五穀豊穣の神様の大気都比売命(オオゲツヒメ)からの恵みでもある料理を食べ残す愚昧(ぐまい)で粗野(そや)な乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)の輩(やから)を、酷刑(こっけい)に処して斬首し梟首(きょうしゅ)にすべきである。

⑦:柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)と言えば、その息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)、孫の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)を主人公にした、テレビドラマの「柳生一族の陰謀」(やぎゅういちぞくのいんぼう)しか思い浮かばない。 『ハァ〜〜』でお馴染みの千葉真一(ちばしんいち/俳優)が主役でカッコよかった。 結局は日本のテレビは令和期であろうと時代劇“しか勝たん”。

⑧:“もう全部言うわぁ”、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)を暗殺した黒幕は、大和国(奈良県)の生駒山の信貴山城(しぎさんじょう/平群)を拠点とした名器の平蜘蛛茶釜(ひらぐもちゃがま)と共に爆死した松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)です。 皇族の菩提寺でもある華厳宗(けごんしゅう)の総本山の東大寺(とうだいじ)や、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ/華厳宗)の大仏さまなど奈良一帯(南都焼き討ち)を全焼させています。

⑨:伊勢国(三重県)の桑名に拠点を置く刀工(とうこう)により製造された妖刀(ようとう)の村正(むらまさ)は、「徳川家に祟る妖刀(ようとう)」とも呼ばれ、この手の日本刀(にほんとう)を調べると“沼にはまる”。

⑩:確かに、日本刀(にほんとう)を使用した文化を継承する事は重要で、尊大不遜(そんだいふそん)な日本人の為の法律ではなく、夙夜憂嘆(しゅくやゆうたん)の日本国の為の法律であるべきですね。 例えば、政府の経済政策は日本人が豊かになる必要はなく、日本国が豊かになれば良いだけの話しと同じである。 その為には逸脱(いつだつ)の人種には斬首や晒し首(さらしくび)も必要不可欠である。 近年は犯罪目的で来日する愚拙(ぐせつ)で奸邪(かんじゃ)な浅学非才(せんがくひさい)の外国人が急増しているが、日本が伝統としている日本刀(にほんとう)にて斬首し晒し首(さらしくび)が現代でも実施されていると知れば、驚愕(きょうがく)して憂慮(ゆうりょ)し、日本には絶対に渡航しないでしょうね。

この教養の無い無責任な言葉使いが、歴史を創ってきたかと思うと考え深い。

NEIL YOUNG /♪ SUCH A WOMAN

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