都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20251027
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2025/10/27 (Mon) 09:32:11
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251027
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2025/10/27 (Mon) 09:33:09
Depeche Mode /♪ A Question of Time
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2025/10/27 (Mon) 09:34:50
THE CURE /♪ THE END OF THE WORLD
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2025/10/27 (Mon) 09:35:41
The Cover Girls /♪ My Heart Skips a Beat
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2025/10/27 (Mon) 09:36:44
NEW KIDS ON THE BLOCK /♪ HANGIN' TOUGH
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2025/10/27 (Mon) 09:37:37
SCRITTI POLITTI /♪ SMALL TALK
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2025/10/27 (Mon) 09:39:21
STEVE WINWOOD /♪ SPLIT DECISION
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2025/10/27 (Mon) 09:40:19
HANOI ROCKS /♪ UNTIL I GET YOU
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2025/10/27 (Mon) 09:41:19
GARLAND JEFFREYS /♪ THE ANSWER
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2025/10/27 (Mon) 09:43:05
BRUCE HORNSBY & THE RANGE /♪ ACROSS THE RIVER
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2025/10/27 (Mon) 09:44:01
BONNIE RAITT /♪ NICK OF TIME
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2025/10/27 (Mon) 09:44:55
GLORIA ESTEFAN /♪ HEAVEN'S WHAT I FEEL
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2025/10/27 (Mon) 09:45:47
GLORIA ESTEFAN & MIAMI SOUND MACHINE /♪ CAN'T STAY AWAY FROM YOU
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2025/10/27 (Mon) 09:46:44
FREDDIE JACKSON /♪ YOU AND I GOT A THANG
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2025/10/27 (Mon) 09:47:35
BOY MEETS GIRL /♪ IS ANYBODY OUT THERE IN LOVE
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2025/10/27 (Mon) 09:48:34
REGINA BELLE /♪ MAKE IT LIKE IT WAS
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今日の1枚、お薦めレコード/20251026 - ラジオの友 URL
2025/10/26 (Sun) 10:05:54
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251026 - ラジオの友 URL
2025/10/26 (Sun) 10:07:57
Paul Anka/♪ Put Your Head On My Shoulder
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251026 - ラジオの友 URL
2025/10/26 (Sun) 10:11:46
ロイオービソンの♪オープリティウーマンです。
1990年に公開された映画の「プリティウーマン」で使用されました。
この頃の若い時分(じぶん)、人生なんの役にも立たない非現実的なトレンディードラマやラブソングばかりに浸っていた“恋愛バカ”が、今の使い物にならない50代です。
現代の若い世代は、それを反面教師として捉えて、中身のある事柄に興味を示して習得し、限られた人生の時間を有意義に使って下さい。
男と女の恋愛ゲームは25歳までに卒業し、地に足の着いた人生を歩みましょう。
そして、小さな事でもいいから、20代で模索し、30代で構築し、40代で実践し、50代で応用するのが理想です。
人生100年時代と言っているが、その生涯の充実度と完成度は30代でほぼ決まります。
Roy Orbison/♪ OH PRETTY WOMAN
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2025/10/26 (Sun) 10:13:02
VAN HALEN /♪ (OH)PRETTY WOMAN
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251026 - ラジオの友 URL
2025/10/26 (Sun) 10:14:00
GARY MOORE /♪ OH PRETTY WOMAN
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2025/10/26 (Sun) 10:14:57
JOHN LENNON /♪ BE-BOP-A-LULA
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2025/10/26 (Sun) 10:15:57
Gene Vincent & His Blue Caps/♪ BE-BOP-A-LULA
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2025/10/26 (Sun) 10:19:22
Donna Summer/♪ STATE OF INDEPENDENCE
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2025/10/26 (Sun) 10:20:17
Jon & Vangelis /♪ STATE OF INDEPENDENCE
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2025/10/26 (Sun) 10:21:12
MYRRA MALMBERG /♪ ETERNAL FLAME
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2025/10/26 (Sun) 10:22:03
The Bangles/♪ ETERNAL FLAME
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2025/10/26 (Sun) 10:22:59
Bee Gees /♪ HOW DEEP IS YOUR LOVE
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2025/10/26 (Sun) 10:24:00
PORTRAIT /♪ HOW DEEP IS YOUR LOVE
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2025/10/26 (Sun) 10:24:58
MASTA ACE INCORPORATED /♪ THE I.N.C.RIDE
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2025/10/26 (Sun) 10:25:54
The Isley Brothers /♪ For the Love of You, Pts. 1 & 2
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2025/10/25 (Sat) 08:43:55
EVERCLEAR /♪ EVERYTHING TO EVERYONE
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2025/10/25 (Sat) 08:48:01
JOSH KELLY /♪ 20 MILES TO GEORGIA
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2025/10/25 (Sat) 08:50:15
EVERCLEAR /♪ BROWN EYED GIRL
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2025/10/25 (Sat) 08:51:14
ALABAMA SHAKES /♪ I AIN'T THE SAME
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2025/10/25 (Sat) 08:52:08
JAMES BAY FEAT.JON BATISTE /♪ SUNSHINE IN THE ROOM
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2025/10/25 (Sat) 08:53:04
G.LOVE FEAT.RON ARTIS /♪ DIGGIN' ROOTS
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2025/10/25 (Sat) 08:53:57
G.LOVE & SPECIAL SAUCE /♪ MAKING AMENDS
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2025/10/25 (Sat) 08:55:54
WILL YOUNG /♪ LEAVE RIGHT NOW
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2025/10/25 (Sat) 08:57:42
EDDIE MONEY /♪ ENDLESS NIGHTS
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2025/10/25 (Sat) 08:58:35
SHED SEVEN /♪ Going For Gold
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今日の1枚、お薦めレコード/20251024 - ラジオの友 URL
2025/10/24 (Fri) 16:56:17
SHAGGY FEAT.RAYVON /♪ NICE AND LOVELY
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2025/10/24 (Fri) 16:59:08
BEASTIE BOYS FEAT.SANTIGOLD /♪ DON'T PLAY NO GAME THAT I CAN'T WIN
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2025/10/24 (Fri) 17:01:13
SHABBA RANKS FEAT.JOHNNY GILL /♪ SLOW AND SEXY
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2025/10/24 (Fri) 17:07:07
Errol Thompson /♪ Hole in My Bucket
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2025/10/24 (Fri) 17:08:02
ANTHONY HAMILTON /♪ EVERYBODY
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2025/10/24 (Fri) 17:08:56
TOOTS HIBBERT /♪ I'VE GOT DREAMS TO REMEMBER
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2025/10/24 (Fri) 17:10:46
Adrian Sherwood /♪ The Collapse Of Everything
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2025/10/24 (Fri) 17:12:37
G.LOVE FEAT.JACK JOHNSON /♪ GIVE IT TO YOU
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2025/10/24 (Fri) 17:13:34
PATO BANTON /♪ BUBBLING HOT
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2025/10/24 (Fri) 17:14:28
MEET ME AT THE PUB /♪ Waited Too Long
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2025/10/24 (Fri) 17:15:23
INNER CIRCLE /♪ I LOVE GIRLS
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今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:02:44
◆◇◆其の一:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●日本一の大男で怪力の延沢満延●
江戸時代の1644年に伊賀国(三重県)の阿拝(あはい/伊賀)に誕生した松尾芭蕉(まつおばしょう/俳人)が、征夷大将軍5代目の徳川綱吉(とくがわつなよし/徳川)が政権運営を担っていた1689年に、3年を掛けて奥州(おうしゅう)や北陸の各地を廻った紀行が記載された“おくのほそ道”は、今も尚(なお)語り継がれている。
その“おくのほそ道”の“奥”とは、奥州(おうしゅう)を指しており、現代で言う東北地方だ。
東北地方の呼び名は幾(いく)つもあり、陸奥(みちのく)とも呼ばれる。
日本本州の1/3程ある広大な東北地方に、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)の2国が設けられ、その中で羽後(うご/秋田県)と羽前(うぜん/山形県)に分別された。
東北特有の山岳地帯と豪雪気候が相まって、人間による大規模な再開発が実施されなかった事が功(こう)を奏(そう)し、現在でも地球そのものの環境が維持され、人を寄せ付けない未開の自然が広がっている。
その為に、平安時代に奥州藤原氏により岩手県平泉町に建立(こんりゅう)された中尊寺(ちゅうそんじ)を主軸に、東北地方の一帯を“仏乃国”(ほとけのくに)として、日本人をはじめ世界中の人々の信仰を集めている。
そんな東北地方だが、戦国時代には厳冬に鍛えられた武辺者(ぶへんもの)を輩出している。
では、東北地方を代表する勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将を見てみよう。
GINO VANNELLI /♪ STAY WITH ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:03:47
◆◇◆其の二:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●日本一の大男で怪力の延沢満延●
出羽国(でわ/秋田県・山形県)の前部に位置する羽前(うぜん/山形県)にて、1544年に延沢城(のべさわじょう/尾花沢)の城主だった延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)の息子として延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)が誕生した。
戦国時代に日本一の大男で怪力の持ち主と言われる延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)だが、その所以(ゆえん)は出自(しゅつじ)にある。
父親は戦国武将の人間だが、母親は羽衣天女(はごろもてんにょ)だ。
そうです。
お母さんは人間ではなく、高天原(たかまがはら/天界)の神様です。
だから、人間と神様のハーフ(混血)な延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)が、人並み以上の能力を持っていても何ら不思議ではない。
時を遡(さかのぼ)る事、数年前。
父親の延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)は、延沢氏(のべさわうじ)の後継者となる嫡男(ちゃくなん)が居なかった為に、子宝に恵まれる様に神社で願掛けをした。
その時に天からの御告げがあり、『羽前(うぜん/山形県)の古城山(おしろやま)にある天人清水(てんにんすず)と言う池に、羽衣天女(はごろもてんにょ)が現れるので逢いに行きなさい。』と神託(しんたく)された。
後日、天の御告げ通りに延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)は、古城山(おしろやま)にある天人清水(てんにんすず)と言う池に行ってみた。
そしたら、池では羽衣天女(はごろもてんにょ)が水浴びをしており、その時、羽織っていた羽衣(はごろも)を水辺の木に掛けていた。
延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)は、絶世の美女だった羽衣天女(はごろもてんにょ)に一目惚れをして、木に掛けてあった羽衣(はごろも)を奪い妻になる様に強要した。
羽衣(はごろも)が無ければ空を舞う事ができず、高天原(たかまがはら/天界)に帰る事ができなくなった羽衣天女(はごろもてんにょ)は、延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)の妻になる事を承諾をする。
そして幾日(いくにち)が過ぎ、1544年に延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)と羽衣天女(はごろもてんにょ)の間に延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)が誕生した。
しかし、屋敷の屋根裏に隠していた羽衣(はごろも)を羽衣天女(はごろもてんにょ)が見つけ、夫の延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)に宛てて手紙を残して高天原(たかまがはら/天界)に帰ってしまった。
その手紙には、⦅古城山(おしろやま)にある天人清水(てんにんすず)の近くにお城を築城して拠点にすれば、延沢氏(のべさわうじ)の子孫は繁栄し未来永劫(みらいえいごう)は約束されます。⦆と記載されていた。
こうして延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)は、古城山(おしろやま)にある天人清水(てんにんすず)の近くに延沢城(のべさわじょう/尾花沢)を築城して城主に就いた。
MATT BIANCO /♪ OUR LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:04:41
◆◇◆其の三:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●日本一の大男で怪力の延沢満延●
人間の延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)と神様の羽衣天女(はごろもてんにょ)の間に生まれた延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)は、成長すると共に強靭な腕力と屈強(くっきょう)な怪力を体得していった。
この時期の羽前(うぜん/山形県)の勢力は、山形城(やまがたじょう/霞ヶ城)を拠点とする最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と、天童城(てんどうじょう/舞鶴城)を拠点とする天童頼澄(てんどうよりずみ/天童)を中心とした天童八楯(てんどうやつだて/最上八楯)と言う連合軍が対立していた。
この天童八楯(てんどうやつだて/最上八楯)の連合軍に延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)も所属していた。
羽前(うぜん/山形県)の最上氏(もがみうじ)は、清和源氏(せいわげんじ)の系統の斯波氏(しばうじ)の家系で、代々に渡り羽州探題(うしゅうたんだい)に就任する名門家である。
そんな最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、妹の義姫(よしひめ/最上→伊達)が陸奥国(むつ/福島県)の伊達輝宗(だててるむね/伊達)の妻として嫁ぎ、その息子が“独眼竜政宗”(どくがんりゅう)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と言う、強靭な武家を構築していた。
そして最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる最上軍は、天童頼澄(てんどうよりずみ/天童)が率いる天童八楯連合軍と対立し、そこに2m程の鉄棍棒(てつこんぼう)を抱えた延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)も参戦していた。
延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)の武勇は最上軍にも知れ渡っており、腕に覚えのある数々の武将が一騎討ちを挑んだ。
その挑戦に延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)は応えた。
1人の武将は2m程の鉄棍棒(てつこんぼう)を頭から打ち込まれ、そのまま頭が首ごと身体にめり込んだ。
更に体格の良い大男の武将は軽く投げ飛ばされて、逆さで身体ごと田んぼに埋め込まれた。
これら戦況を観ていた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、人並み以上の戦闘力を備えた延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)に恐怖を感じつつも、その武将としての魅力に取り憑(つ)かれた。
そして最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)を天童八楯(てんどうやつだて/最上八楯)の連合軍から引抜き工作を企てる。
FCC /♪ LET THE LOVE ON THROUGH
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:05:36
◆◇◆其の四:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●日本一の大男で怪力の延沢満延●
戦国時代の終盤で織田信長(おだのぶなが/織田)の死去により、直参家臣の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が豊臣政権を樹立して、天下統一を果たそうとしていた。
そんな時期に羽前(うぜん/山形県)の山形城(やまがたじょう/霞ヶ城)を拠点とする最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、延沢城(のべさわじょう/尾花沢)の城主の延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)を最上軍の陣営に引き入れる調略に動いていた。
その概要は、延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)の息子の延沢康満(のべさわやすみつ/延沢→最上)に、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の娘と婚姻させる政略結婚だった。
この政略結婚に延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)は了承したが、ただ、その御子息と御令嬢の婚姻の条件として、天童八楯(てんどうやつだて/最上八楯)の当主である天童頼澄(てんどうよりずみ/天童)の助命と領地の安堵だった。
この延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)の要望を、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は快諾した。
その後、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、重鎮家臣となった延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)の剛腕で怪力の凄さを試したくなった。
そこで、最上軍の驍猛(ぎょうもう)な武士を8人ほど集めて、延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)に対して不意打ちで襲撃させた。
ところが延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)は、顔色1つ変えずに8人の驍猛(ぎょうもう)な武士を投げ飛ばして撃退した。
それどころか、襲撃を指示した最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に対しても延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)は詰め寄った。
投げ飛ばされる事を恐れた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、近くに植えられていた桜の木によじ登り退避したが、延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)はその木を抱えて根ごと引っこ抜いたと言う。
また怪力の逸話には、羽前(うぜん/山形県)の延沢城(のべさわじょう/尾花沢)から南西部に位置する中山に建つ円同寺(えんどうじ/曹洞宗)にて、ある日、突然に延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)が現れて、境内にある100kg以上の梵鐘(ぼんしょう)を持ち上げて覆被(おおいかぶ)り持ち帰ってしまった。
そして、円同寺(えんどうじ/曹洞宗)の南部に位置する最上氏(もがみうじ)の拠点でもある長谷堂城(はせどうじょう/山形)の近くにある清源寺(せいげんじ/曹洞宗)まで、そのまま梵鐘(ぼんしょう)を覆被(おおいかぶ)り運んだと言う。
その時に延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)は歩きやすい様に、梵鐘(ぼんしょう)の鐘乳(しょうにゅう)を1つ取って穴を開けて視界を確保していた。
LEVEL 42 /♪ True Believers
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:06:29
◆◇◆其の五:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●日本一の大男で怪力の延沢満延●
剛腕で怪力の延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)も、人生の終焉は突然に訪れる。
天下統一を果たした豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に謁見(えっけん)する為に、羽前(うぜん/山形県)の戦国大名に就いてた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、直参家臣の延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)も同行させて1590年に京都へ上洛した。
ところが京都で滞在中に、延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)の体調に異変が見られ立つ事ができず、言葉も呂律(ろれつ)が回らなくなった。
羽前(うぜん/山形県)に帰還しなければならない最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、京都の最上屋敷にて病気で寝込む延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)と涙を流して今生(こんじょう)の別れをする。
その1年後の1591年に京都の最上屋敷で、延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)は起き上がる事なく死去した。
その後、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は生前の延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)との約束通りに、娘と延沢康満(のべさわやすみつ/延沢→最上)を結婚させた。
そして最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、婿殿の延沢康満(のべさわやすみつ/延沢→最上)を息子の様に可愛がったと言う。
延沢康満(のべさわやすみつ/延沢→最上)は延沢城(のべさわじょう/尾花沢)の城主に就任し、父親と同様に最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の重鎮家臣として仕えた。
人間の延沢満重(のべさわみつしげ/延沢)と神様の羽衣天女(はごろもてんにょ)の間に生まれた延沢満延(のべさわみつのぶ/延沢→最上)は、強靭な腕力と屈強(くっきょう)な怪力を体得した勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将である。
それは単なる伝説で終わる様な歴史では、無い。
MICHAEL FRANKS /♪ DON'T BE BLUE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:07:30
◆◇◆其の六:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える智略の片倉小十郎こと片倉景綱●
宮城県仙台市を代表する戦国武将と言えば、“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)です。
しかし、当然ですが伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が1人で大活躍して、1601年に仙台城(せんだいじょう/青葉城)を築城して城下町を整備し、陸奥国(むつ/宮城県)の繁栄を導いた訳ではありません。
多くの有能な重鎮家臣の武将や武士、それに領民が居たからこその成果でもある。
そんな伊達軍の両翼と言われた忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)な2人の重鎮家臣を見てみましょう。
先(ま)ずは、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)で、父親は出羽国(でわ/山形県)の米沢にある八幡宮の神主だった片倉景重(かたくらかげしげ/神社)だが、片倉氏は元々は武家ではなかった。
しかし、1557年に誕生した片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)が幼少期に、父親と母親が亡くなり、幼い心は大きな傷を負い途方に暮れる。
この時に20歳近く年上だった姉の片倉喜多(かたくらきた/神社→伊達)が、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)を養育する事になる。
容姿端麗(ようしたんれい)で文武両道(ぶんぶりょうどう)だった片倉喜多(かたくらきた/神社→伊達)は、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)へ武術と学問の両道を厳格に教育した。
この時期に鍛錬した事で、伊達軍では“知略の片倉景綱”と呼ばれる英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な武将の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)が出来上がったと言える。
GEORGE BENSON /♪ Turn Your Love Around
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:08:25
◆◇◆其の七:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える智略の片倉小十郎こと片倉景綱●
1567年に羽前(うぜん/山形県)の米沢城(よねざわじょう)の城主である伊達輝宗(だててるむね/伊達)と義姫(よしひめ/最上→伊達)の間に、嫡男(ちゃくなん)として誕生したのが伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)だった。
この時に米沢城(よねざわじょう)の従女(じじょ)として働いていたのが片倉喜多(かたくらきた/神社→伊達)で、その後に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の乳母に就任する。
その縁もあり、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)も米沢城(よねざわじょう)の伊達氏に従事していた。
10歳年上の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)を、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は兄の様に慕い、その後に若殿の侍従(じじゅう)に就任する。
この時期に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)へ武術と学問を教育したのが、片倉喜多(かたくらきた/神社→伊達)と、そして伊達輝宗(だててるむね/伊達)の家臣だった遠藤基信(えんどうもとのぶ/伊達)である。
2人の厳格な先生に鍛えられた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)により、後々の強靭な伊達軍が形成される事になる。
1584年に伊達輝宗(だててるむね/伊達)は家督を息子の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に継承させる。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は重鎮家臣の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)と伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)を両翼に構えて、“知略の片倉景綱”と“武勇の伊達成実”により伊達軍は進撃を続けた。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は伊達氏の政策方針を変更して、友好関係にあった近隣の武将と対立して領土侵攻を始める。
NED DOHENY /♪ Get It Up For Love
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:09:18
◆◇◆其の八:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える智略の片倉小十郎こと片倉景綱●
ある時、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の右脇腹に腫瘍が出きて激痛が走り、それを脇差(わきざし/小刀)を使い自身で切除しようとした。
しかし、失敗した際に切腹したと勘違いされる可能性もあり、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)に相談した。
その伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の悲痛な思い知った片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、医学の知識は無いが腫瘍の切除を試みる。
そこで、馬の焼印に使用する焼きごてを、赤くなるまで火で熱して、それを腫瘍部分に押し当てて切除する方法を考案した。
その赤く熱々になった焼きごてを見て伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は怖気付(おじけつ)いたが、それより激痛の方が勝り片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)に全てを任せた。
ところが片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、先(ま)ずは自らの足の腿(もも)に赤く熱々になった焼きごてを押し当てた。
ビックリした伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対して、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は切除手法が安全か実験したと言う。
その後、無事に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の腫瘍も切除され、30日程度で完治した。
しかし、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)の腿(もも)は完治するのに70日程度も掛かり、しかも乗馬する都度に腿(もも)の傷口が馬に擦れて痛みが走ったと言う。
その後の1585年に、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)の嫡男(ちゃくなん)の片倉重長(かたくらしげなが/伊達→徳川)が生まれた。
片倉氏の後継者が誕生した事は、伊達氏にとっても喜ばしい事である。
しかし、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、まだ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に嫡男(ちゃくなん)が居なかった事から、主君より先に後継者が誕生した事を恥じて、生まれたばかりの片倉重長(かたくらしげなが/伊達→徳川)を殺害しようとした。
さすがにこれには周りの片倉氏と伊達氏の従者が止めに入り、主君の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)にも事の一報を知らせた。
驚いた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)に諫言(かんげん)して考え方を改めさせ、事なきを終えた。
因みに伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の長男の伊達秀宗(だてひでむね/伊達→豊臣→徳川)が誕生したのは1590年で、伊達氏の後継者となった次男の伊達忠宗(だてただむね/徳川)は1600年に誕生している。
その後、長男の伊達秀宗(だてひでむね/伊達→豊臣→徳川)は、父親の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と対立して勘当(かんどう)された。
STEELY DAN /♪ BLACK COW
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:10:14
◆◇◆其の九:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える智略の片倉小十郎こと片倉景綱●
時は1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)し、その後継者となった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が豊臣政権を樹立して天下統一を目指していた。
1585年に父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)と師匠の遠藤基信(えんどうもとのぶ/伊達)が、畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)に拉致(らち)された。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は直(す)ぐに重鎮家臣の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)と伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)と共に伊達軍を引き連れて、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)が幽閉されている陸奥国(むつ/福島県)の二本松城(にほんまつじょう)を包囲した。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は伊達軍鉄砲隊に、二本松城(にほんまつじょう)に目掛けて総攻撃する様に指示した。
二本松城(にほんまつじょう)を総攻撃して畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)は銃殺された。
しかし、同時に父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)と師匠の遠藤基信(えんどうもとのぶ/伊達)も銃撃され命を落とした。
これにより常陸国(ひたち/茨城県)の太田城(おおたじょう/常陸)を拠点としていた佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が陸奥国(むつ/福島県)に侵攻し、二本松城(にほんまつじょう)の近隣の安達(あだち/本宮)で伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と交戦した。
ただ、決着はつかず両軍の撤退で終わる。
これを1586年に起こった「人取橋の戦」(ひととりばしのたたかい)と呼ぶ。
その後、陸奥国(むつ/福島県)の郡山城(こおりやまじょう)の一帯で、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍と、蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)と相馬義胤(そうまよしたね/相馬)が率いる蘆名相馬連合軍と交戦した。
蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)とは、父親は佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)で、母親は伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の娘なので伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の叔母にあたり、小峰義親(こみねよしちか/白河)の養子に入るも、蘆名氏に家督継承者が不在だった事もあり、婿養子に入り蘆名氏を引継ぐ。
相馬義胤(そうまよしたね/相馬)とは、陸奥国(むつ/福島県)の小高城(おだかじょう/相馬)を拠点とする相馬氏の16代当主で、曽祖父で13代当主の相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)、祖父で14代当主の相馬顕胤(そうまあきたね/相馬)、父親で15代当主の相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)と続く。
戦況は和睦するが、結果的には伊達軍の勝利に終わる。
これを1588年に起こった「郡山合戦」(こおりやまがっせん)と呼ぶ。
DJAVAN /♪ AVIAO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:11:04
◆◇◆其の十:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える智略の片倉小十郎こと片倉景綱●
陸奥国(むつ/岩手県)では葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が領土侵攻の交戦を繰り広げていた。
ただ、長年の戦(いくさ)で戦力も疲弊し、葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に従属(じゅうぞく)する。
さらに大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)と、その家臣だった氏家氏(うじいえうじ)で岩出山城(いわでやまじょう/大崎)の城主の氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)が対立する事になる。
大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)は、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に援軍要請した。
一方、氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)は、陸奥国(むつ/福島県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に援軍要請する。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は留守政景(るすまさかげ/伊達)の軍隊を、氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)が率いる氏家軍に派遣した。
対する大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が率いる大崎軍は、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍の協力や、氏家軍に味方していた斯波氏の系統の黒川氏で鶴楯城(つるだてじょう/黒川)の城主の黒川景氏(くろかわかげうじ/飯坂→黒川)と、その孫の黒川晴氏(くろかわはるうじ/黒川)の大崎軍への寝返りがあり抗戦して勝利する。
この合戦で、伊達輝宗(だててるむね/伊達)の妻かつ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)が、実の兄の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)との和睦を取り持ち停戦する。
これを1588年に起こった「大崎合戦」(おおさきがっせん)と呼ぶ。
その後、磐梯山(ばんだいさん)の麓の摺上原(すりあげはら/猪苗代)にて、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍と、蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)が率いる蘆名軍が交戦した。
戦況は伊達軍が優位に運び、蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)は父親の佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が城主を務める常陸国(ひたち/茨城県)の太田城(おおたじょう/常陸)に逃亡した。
こうして伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍が勝利した。
これを1589年に起こった「摺上原の戦」(すりあげはらのたたかい)と呼ぶ。
ところが伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が蘆名氏(あしなうじ)の領土に侵攻した事が豊臣政権の“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして、蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に訴え出たのである。
これに対して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による1590年に起こった「奥州仕置」(おうしゅうしおき)で、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は領地削減の減封(げんぽう)に処された。
ASWAD /♪ HEARTBEAT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:11:56
◆◇◆其の十一:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える智略の片倉小十郎こと片倉景綱●
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は天下統一の総仕上げとして、1590年に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に侵攻した。
日本各地の猛将が揃う大群勢の豊臣軍に包囲された小田原城(おだわらじょう)では、伊勢北条氏の重鎮家臣により毎日の様に小田原評定(おだわらひょうじょう)の軍議を開催していた。
この時に出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじきょう)を拠点としていた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対しても、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は参陣要請を伝令(でんれい)していた。
しかし、伊達氏は伊勢北条氏と軍事協力関係を締結しており、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)はどちらの陣営に着くのか苦悩する。
そんな時に重鎮家臣の伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は、仁義を重んじ伊勢北条氏に加勢する事を進言する。
一方の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、情勢を重んじ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に加勢する事を進言する。
伊達政宗…『うむ〜 困ったなぁ〜 伊勢北条軍に加勢すれば敗北は間違いないし、豊臣軍に加勢すれば武家としての格式は失われる。 どうしよぉ〜!』
片倉景綱…『いやぁ、ここは戦況が有利な豊臣軍に加勢すべきです! 大事なのは名誉では無く、伊達氏を未来永劫(みらいえいごう)まで残す事にあります。』
伊達政宗…『なるほど、それは一理ある!』
片倉景綱…『出自(しゅつじ)の判らない豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、夏に湧く五月蝿(ごがつばえ)と同じで、1匹を退治しても次から次へと五月蝿(ごがつばえ)は湧いて出てきます。 そんな無用で無駄な合戦は避けるべきです!』
伊達政宗…『よし解った! 今すぐに豊臣軍として小田原城(おだわらじょう)に向かうぞぉ!』
しかし、軍議の結論が長引き「小田原城攻め」の参戦に大遅刻した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)からの処罰により領地削減の減封(げんぽう)となる。
この「小田原城攻め」の際に、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)の主君に対しての忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の噂は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)にも知れ渡っており、陸奥国(むつ/福島県)の三春(みはる)で5万石の大名に取立てる勧誘を受けた片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、これを丁重に断った。
PETER WHITE/♪ JUST ANOTHER DAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:12:49
◆◇◆其の十二:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える智略の片倉小十郎こと片倉景綱●
豊臣政権を担っていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)だが、1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて死去する。
翌年の1599年には“豊臣五大老”で親友でもあった前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)も死去し、こうなると徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の独走状態となる。
出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう/霞ヶ城)を拠点とする豊臣氏に怨念がある最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、初めから徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に従属(じゅうぞく)して協力関係にあった。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の威令(いれい)により陸奥国(むつ/宮城県)の仙台藩に移封(いほう)となった伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)も、愛娘の五郎八姫(いろはひめ/伊達→徳川)を徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子の徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)に嫁がせて親戚関係を築いている。
そこで始まったのが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣で陸奥国(むつ/福島県)の会津藩を含め120万石の大大名となっていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の討伐である。
1600年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍は東国へ進軍し「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かう。
畿内(きない/関西)を離れた隙(すき)を突いて挙兵した石田三成(いしだみつなり/豊臣)や小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)などが、西軍を組成して徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の討伐に動く。
こうして美濃国(岐阜県)にて「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)が西軍と東軍に別れて激突するのだが、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に対しての「会津征伐」(あいづせいばつ)は出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と、陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に引継がれ、羽前(うぜん/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)を中心に“北の関ヶ原”と呼ばれる「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)が起こる。
この時も片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、情勢と実利を重んじて一案を講じる。
その提案とは、軍勢に優位な上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が率いる西軍上杉隊が、劣勢に立たされている最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる東軍最上隊を壊滅させる。
この交戦で疲弊した西軍上杉隊に対して、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる東軍伊達隊が侵攻して壊滅する。
これにより上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の陸奥国(むつ/福島県)と最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の出羽国(でわ/山形県)を奪取(だっしゅ)する。
こうして伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が、東北南部の領国を手中に収める大大名に昇進する計画だった。
しかし、この計画には伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)を見殺しにする弊害(へいがい)も付きまとった。
これには息子の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)も賛同できない。
結局、その母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)からの援軍要請の催促が来た為に、早速に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は援軍を派遣した。
この合戦は上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の直参家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)や前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)の活躍もあり西軍上杉隊が優位だったが、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹で伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)の大活躍が功を奏(そう)して東軍最上伊達隊が勝利する事が出来た。
敗北した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の敗戦処理にて陸奥国(むつ/福島県)の会津藩から羽前(うぜん/山形県)の米沢藩に大幅減俸となる領地移転の転封(てんぽう)となった。
一方、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は大幅加増されたが、陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)の戦地に赴かなかったなどの理由により加増は軽微に終わる。
KORGIS /♪ HOLD ON
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:13:42
◆◇◆其の十三:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える智略の片倉小十郎こと片倉景綱●
1600年の「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)が終戦した直後から、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)の体調に異変が生じて、体格も太り体重が増加した。
そんな片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)の病気を心配した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、体型に合わせて軽量の甲冑(かっちゅう)を用意した。
時は江戸幕府が天下を司る徳川政権の時代。
陸奥国(むつ/宮城県)の仙台藩の藩主となった伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、1601年に仙台城(せんだいじょう/青葉城)を築城した。
一方で片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、陸奥国(むつ/宮城県)の白石城(しろいしじょう)の城主に就任した。
“一国一城令”(いっこくいちじょうれい)を発布していた江戸幕府では異例の措置だった。
これは伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)が一緒に居ると謀反(むほん)を起こす可能性があり、それを恐れた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の策略で分断させたと言われる。
そして摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に居城する豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と母親の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)に対して、駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)からは大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍1号隊と、武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)からは征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊が侵攻した。
この合戦には徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と縁戚関係にあった伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の伊達隊も大坂城(おおさかじょう)へ進軍した。
しかし、直参家臣の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、病床に伏せ立ち上がる事さえできなかった。
その父親の代わりに息子の片倉重長(かたくらしげなが/伊達→徳川)が伊達隊として大坂城(おおさかじょう)に向かい、豊臣軍の武将で“大坂五人衆”(おおさかごにんしゅう)と呼ばれた後藤基次(ごとうもとつぐ/黒田→豊臣)を討ち取る武功を挙げる。
この時に大坂城(おおさかじょう)の戦地では、獅子奮迅(ししふんじん)する後藤基次(ごとうもとつぐ/黒田→豊臣)の事を“鬼の小十郎”と呼び称賛した。
しかし、この報告を聞いた父親の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は激怒し、息子の片倉重長(かたくらしげなが/伊達→徳川)を叱責した。
その理由は、大将の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の傍(かたわら)を離れて敵陣と交戦すれば、万が一にも敵襲で大将が討たれる危険性があった場合に、重鎮家臣が傍(かたわら)に居なければ大将を守護する事ができないと諭(さと)した。
この合戦では、豊臣軍の総大将の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と母親の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)は大坂城(おおさかじょう)の天守閣の裏手で自決し、これにて豊臣氏は滅亡した。
そして豊臣軍の総大将の傍(かたわら)を支えた“大坂三人衆”(おおさかさんにんしゅう)と呼ばれる真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の息子の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)と、毛利勝信(もうりかつのぶ/豊臣)の息子の毛利勝永(もうりかつなが/豊臣)と、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の息子の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/長宗我部→豊臣)は、其々(それぞれ)の戦地で死去した。
それに2人を加えて“大坂五人衆”(おおさかごにんしゅう)と呼ばれる黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の家臣で、主君となった息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)との確執で出奔(しゅっぽん)し、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の重鎮家臣に就いていた後藤基次(ごとうもとつぐ/黒田→豊臣)は、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)の息子の片倉重長(かたくらしげなが/伊達→徳川)に討ち取られた。
しかし、宇喜多直家(うきたなおいえ/毛利→織田)の家臣だったキリシタンの明石全登(あかしてるずみ/宇喜多→豊臣)は、大坂城(おおさかじょう)から逃亡して行方知れずとなり、1618年に江戸幕府の刺客に発見され斬首された。
この戦国最後の合戦を1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」と呼ぶ。
そして、その直後の1615年に体調を悪化させていた片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、武士人生に幕を閉じる。
片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)の名は息子の片倉重長(かたくらしげなが/伊達→徳川)が引継ぎ、父親と同様に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と伊達氏を支え続けた。
PAUL WELLER /♪ GLAD TIMES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:14:35
◆◇◆其の十四:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える武勇の伊達成実●
陸奥国(むつ/宮城県・福島県)と出羽国(でわ/山形県)を統治する伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)を双璧で支えた2人の武将がいる。
1人は“知略の片倉景綱”と呼ばれる片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)である。
そして、もう1人が“武勇の伊達成実”と呼ばれる伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)である。
伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)とは、伊達氏の庶流(しょりゅう)の系統で、陸奥国(むつ/福島県)の大森城(おおもりじょう/福島)の城主である伊達実元(だてさねもと/伊達)の息子として1568年に誕生し、母親が伊達氏の嫡流(ちゃくりゅう)で伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の家臣として仕え、後々に伊達氏を出奔(しゅっぽん)するも出戻り、江戸時代には陸奥国(むつ/宮城県)の亘理城(わたりじょう)の城主に就任した。
伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)が身に付ける甲冑(かっちゅう)の兜(かぶと)には、毛虫を模した造形が装着されており、その理由は『決して後ろに退かない。』と言う猛将としての信念が伝わる。
1567年に誕生した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の1歳年下だった伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は、主君の従者として重鎮家臣に抜擢される。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が領域を拡大させる時期に、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)と共に伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は従軍して数々の武功を挙げた。
常陸国(ひたち/茨城県)の太田城(おおたじょう/常陸)を拠点としていた佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)と交戦した1586年に起こった「人取橋の戦」(ひととりばしのたたかい)では、佐竹軍の攻勢で伊達軍は苦戦し、一時は総大将の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が討ち取られる寸前まで追い込められる。
ただ、猛追する佐竹軍の前に片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)と伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)が立ちはだかり防衛した事で、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は戦地から逃亡する事ができ九死に一生を得る。
SEAWIND /♪ IMAGINE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:15:28
◆◇◆其の十五:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える武勇の伊達成実●
1590年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は天下統一の総仕上げとして、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に侵攻した。
この「小田原城攻め」に出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじきょう)を拠点としていた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対しても、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は参陣要請を伝令(でんれい)を出した。
伊達氏は伊勢北条氏と軍事協力関係を締結しており、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)はどちらの陣営に着くのか苦悩していた。
この時に、仁義を重んる伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は、伊勢北条氏に加勢する事を進言する。
一方、情勢を重んじる片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に加勢する事を進言する。
相当に悩んだ上に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、豊臣軍として参戦する事を決断した。
そして伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は伊達軍を率いて、出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじきょう)から相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に出陣した。
この時に伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は留守を任され、出陣する際に2人に『隙あらば、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を亡き者にして下さい。』と進言して驚かれたと言う。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一を果たした後の1595年に、伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は突如に伊達氏から出奔(しゅっぽん)して行方をくらます。
その真意は定かではないが最も有力な説は、諜報活動として伊達氏による他国の戦力の情報収集する為に、表向きは出奔(しゅっぽん)として公表したと言われる。
ある意味、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の右腕家臣だった石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)が、徳川氏から出奔(しゅっぽん)して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣に就いた理由と同じかもしれない。
表面的に牢人(無職侍)となった伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)に対して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)や上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)など有力大名は自らの家臣になる様に勧誘したが、伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は全て断った。
CASIOPEA /♪ RIGHT FROM THE HEART
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:16:23
◆◇◆其の十六:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●伊達政宗を支える武勇の伊達成実●
1600年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の東軍と石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍が美濃国(岐阜県)にて交戦した「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の前哨戦となる、“北の関ヶ原”と呼ばれる「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)が起こる。
この合戦で陸奥国(むつ/福島県)の若松城(わかまつじょう/鶴ヶ城)を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が率いる西軍上杉隊と、出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう/霞ヶ城)を拠点とする最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる東軍最上隊が、羽前(うぜん/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)を中心に対戦した。
この時に陸奥国(むつ/宮城県)に居た伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、叔父の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の東軍最上隊に援軍を送っている。
この羽前(うぜん/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)に侵攻する東軍伊達隊に、出奔(しゅっぽん)していた伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)が帰参して合戦に参戦した。
戦況は西軍上杉隊の攻勢により東軍最上隊は苦戦していたが、東軍伊達隊が加勢した事で巻き返した。
更に本戦でもある美濃国(岐阜県)の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)が半日程度で終結し、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の東軍が勝利した情報が伝わる。
こうして直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)や前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)が率いる西軍上杉隊は撤退し、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる東軍最上隊が勝利した。
その後の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が征夷大将軍1代目に就任し、1603年に武蔵国(東京都)で江戸幕府を開設した。
それに併せて伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、1601年に仙台城(せんだいじょう/青葉城)を築城し、陸奥国(むつ/宮城県)の仙台藩の初代藩主に就任する。
これと同時に伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は、仙台城(せんだいじょう/青葉城)の南部に位置する亘理城(わたりじょう)の城主に就任した。
また、体調を悪化させていた片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)は、陸奥国(むつ/福島県)の国境に位置する白石城(しろいしじょう)の城主に就任した。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の愛娘の五郎八姫(いろはひめ/伊達→徳川)と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子の徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)が婚姻した際に、伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)が婚礼の侍従(じじゅう)を任されている。
そして1615年に戦友の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)が亡くなり、1636年に主君の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が亡くなり、1646年に猛将の伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)も武士人生の幕を閉じた。
後期の伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)は、江戸幕府に赴き伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の後継者となり、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の御伽衆(おとぎしゅう)として、戦国合戦の話しを聞かせていた。
GENE RICE /♪ YOU'RE GONNA GET SERVED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:17:18
◆◇◆其の十七:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●天下一の傾奇者(かぶきもの/異端者)、伊達政宗●
英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)で“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれ、陸奥国(むつ/宮城県)の仙台藩の藩主に就いた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、現代でも英雄的な扱いで尊敬される人物である。
しかし、本来の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、どこか人間臭く人情味が溢れる闊達(かったつ)に生きる“東北の暴走族総長”の様な存在である。
ここが400年経った現代でも、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が本当に愛される理由であろう。
そんな傾奇者(かぶきもの/異端者)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、武功以外の数々の伝説を残している。
豊臣政権の時期に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の悪政と言われる1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”に、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達隊も参戦している。
朝鮮半島に渡航する前に、京都にて豊臣軍の従軍行列を実施した際に、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達隊が身にまとう甲冑(かっちゅう)は金箔が施され派手な装飾で彩(いろど)られていた。
それを観た京都町人は度肝(どぎも)を抜かれ、これらから派手でお洒落な格好を『伊達者(だてしゃ)!』と呼ぶ様になった。
また、“豊臣五奉行”で常陸国(ひたち/茨城県)の真壁藩(まかべはん/桜川)の藩主となる浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)と親密にしていた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、囲碁の対局をしていた時に打つ手で口論となり大喧嘩した。
その後、腹の虫がおさまらない伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)に絶縁状を送達し絶交してしまう。
その絶縁状に書かれていた内容には、⦅私が大嫌いな「奥州仕置」にて大崎葛西の領主に就いた木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)や、鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)の城主に就いた蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)とお宅は仲良しだから、浅野氏とは絶縁して一生会いません!⦆など、子供の喧嘩と思える記述が書かれていた。
この伊達氏と浅野氏は、その子孫も絶縁状態が続き、1994年に伊達氏と浅野氏は茶会を開催して400年ぶりに和解した。
お酒好きだったがアルコールに弱い伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、お酒の失敗も数多く残している。
飲酒で千鳥足となった伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は軍馬に乗れず、大切な合戦に出陣できなかった。
泥酔した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、家臣の頭を脇差(わきざし/小刀)で叩いて大きなコブができ、酔いが覚めて事態を知った伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は家臣に謝罪文を送っている。
江戸幕府の征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が開催する茶会に、深酒した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は二日酔いで欠席し、しかも2度も同じ過ちを犯している。
TEDDY PENDERGRASS /♪ 2 A.M.
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:18:14
◆◇◆其の十八:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●天下一の傾奇者(かぶきもの/異端者)、伊達政宗●
1603年に武蔵国(東京都)に江戸幕府が開設され、主だった合戦が無くなり平和が訪れた。
そんな平穏な日々を過ごしていた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、数々の趣味に没頭する様になる。
そんな趣味の1つが料理だった。
元々は保存が効く兵糧を開発する目的で料理の道に入ったが、合戦が無くなり目的は美味に変わっていった。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が考案されたとされる料理は数々ある。
赤味噌を主体とした“仙台味噌”を考案し、その美味しさから江戸幕府や江戸城下町でも扱われる。
枝豆をすり潰し砂糖を塗(まぶ)した“ずんだ餅”も提案している。
高野豆腐と同様の作り方の“凍り豆腐”も、兵糧として活用している。
甘い玉子焼きを丸めた“伊達巻”は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が大好物だったと言われる。
“笹蒲鉾”(ささかまぼこ)も伊達氏が所縁(ゆかり)となる食材である。
また伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、趣味の延長で手紙を書くのを得意としていた。
現存する伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の手紙は1000通を超えており、主に伊達氏の家臣が大切に保管していた事が要因にある。
その内容は多岐に渡り、『即火中!』(恥ずかしい内容だから、読んだら燃やす事!)と記載された手紙や恋文(ラブレター)も残っており、それらが博物館で公開され伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)としては恥部を晒(さら)されている気分であろう。
また、重鎮家臣の片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)こと片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)や伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)に宛てた手紙も現存しており、『最近、お互いに忙しいから会ってないし、特段の用事は無いが、お手紙を書きました。』と言う内容の手紙も見つかっている。
こんな主君の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)を、愛してやまない家臣の気持ちがよく判る。
JEFFREY OSBORNE /♪ ALL BECAUSE OF YOU
◆ラジオの友
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251023 - ラジオの友 URL
2025/10/23 (Thu) 16:19:09
◆◇◆其の十九:旅気分みちのく奥の細道 、山形県と宮城県を訪ねて◆◇◆
●天下一の傾奇者(かぶきもの/異端者)、伊達政宗●
1628年に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子の征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)を自邸の屋敷に招聘(しょうへい)して、自らが腕によりを掛けた青葉御膳を振る舞った。
この時に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が御膳を運び、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に据(す)え膳した。
ところが将軍の侍従(じじゅう)を務めていた内藤正重(ないとうまさしげ/徳川)が、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に提言した。
内藤正重…『政宗殿、この御膳の毒味をしてくれぬか?』
伊達政宗…『んっ!? 毒味ですか?』
内藤正重…『ああ、将軍が口にする料理に対しては、一応は幕府の決まり事なのでな。』
伊達政宗…『ほほぉ、10年前ならいざ知らず、今更に謀反(むほん)を起こそうなどの考えは持たぬはぁ!』
内藤正重…『ううっ。』
伊達政宗…『もし謀反(むほん)を起こすなら、毒殺などの陰湿な手段は使わず、この“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と言われた武将、太刀(たち)と槍(やり)を使って戦うぞぉ!』
徳川秀忠…『えっ!? 10年前なら謀反(むほん)を起こしたのぉ!?』
実際に軍記物には、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は江戸幕府を襲撃する計画を企てていたと記載されている。
そして代替りした徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の孫の征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の時代。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の御伽衆(おとぎしゅう)に就いて、戦国合戦の話しや武士の心得(こころえ)を伝授していた。
徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)からは“伊達の親父殿”と呼ばれ慕い懐き、実父の征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)よりも尊敬していたと言う。
そんな伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)も老いには勝てず、伊達屋敷にて病床に伏せる日々が続いた。
心配した徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)は、日本中から名医を集結させて伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の治療にあたらせた。
さらに江戸市中にある神社仏閣で、健康回復と長寿の祈祷も実施させた。
しかし、1636年に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は70歳で死去した。
この時に徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)は、悲しみと寂しさのあまり憔悴(しょうすい)して、1632年に実父の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が死去した時より悲嘆(ひたん)した。
そして江戸幕府として伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の葬儀を盛大に執り行い、江戸市中では7日間と京都市中では3日間の喪服(きふく)を威令(いれい)した。
これら伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の生涯を振り返っても、勇敢な武将だけでなく、人間として愛される人物だった事がよく判る。
LUTHER VANDROSS /♪ ANY LOVE
◆ラジオの友
大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/26 (Thu) 18:19:27
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
“大阪関西万博”のコンセプトでもある“命”。
この“命”も“セックス”をやらなきゃ実りまぁへぇんでぇ〜
“命”=“セックス”でっせぇ!
この辺りを、嫁はぁんと一緒に“いしん”を掛けてアピールしたいと思ってまぁんねぇん。
ちなみにわいの嫁はぁん、20代の時のあだ名が“パン子”ですねぇん。
誰とでも寝てパンパンするから言うてぇ、“パン子”って呼ばれてましたわぁ。
そんな相手の1人がわいですねぇんけどなぁ。
今では子宝に恵まれて、6人も居てけますわぁ。
“岸和田ヤリチン大使”も少子化防止に貢献してまっしゃろぉ!
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/26 (Thu) 21:25:52
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
大阪のダンディーな男の為の“三大プレイスポット”と言えば、大阪市西成区の“飛田新地”(とびたしんち)、大阪市西区の“松島新地”(まつしましんち)、大阪市生野区の“今里新地”(いまざとしんち)である。
それに加えて小規模になるが、大阪府守口市の“滝井新地”(たきいしんち)や大阪府和泉市の“信太山新地”(しのだやましんち)も有名です。
“岸和田ヤリチン大使”としては、生まれも育ちも岸和田なので、近隣の“信太山新地”(しのだやましんち)が馴染み深いですが、それでも北を目指して“飛田新地”(とびたしんち)まで遠征に行く事もしばしば!
ただここは、2025年の“大阪関西万博”の開催に向けて、大阪名物の“ひっかけ”(ナンパ)に注目して頂きたい。
お金を支払ってプレイを簡単に楽しむのでは無く、“ひっかけ”(ナンパ)でプレイを出来るか出来ないかのスリルを味わう喜び。
そう、その行為こそが“エクスタシー”である。
東京都新宿区の歌舞伎町では、国策に“いしん”を掛けた国会議員が、“議員バッチ”と“札束”(お金)をチラつかせて、なんと、まだ毛も生え揃(そろ)わない女子中学1年生にお金を渡してプレイを強要したと言う。
清純な乙女を鷲掴(わしずか)みにして桃の様なお尻(ピーチヒップ)に、臭(くさ)くて醜(みに)い親父の腐ったバナナ(ダーティーバナナ)をぶち込んで腰をズッコバッコと動かし、底なしの欲望を満たしていた。
この事からも、“お金”と“セックス”を結びつけては面白味や醍醐味が無くなる。
“お金”≠“セックス”である!
では、“岸和田ヤリチン大使”より“大阪関西万博”が開催される大阪で、“いしん”を掛けてお金の掛からない“ひっかけ”(ナンパ)とプレイをご紹介していこう。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/26 (Thu) 23:15:27
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
2025年の“大阪関西万博”の開催が待ち遠しい、今日この頃。
この“万博”と言うキーワードは、正(まさ)に1970年に開催された“大阪万博”に凝縮されていると思う。
日本は60年代から続いた高度経済成長期から脱却し、70年代は文化や文明の進化や発展の為に“希望”と“未来”が輝いていた。
当時、20代だった会社の上司から、幾度(いくど)となく1970年の“大阪万博”について聞かされた。
ただ、その話しの内容は、会場内のパビリオンや展示物ではなく、そこに勤める国内外の若くて綺麗なコンパニオンについてだ。
よく、仕事終わりのコンパニオンを“ひっかけ”(ナンパ)ては、部屋に連れ込んで“スモークパーティー”を開催していたと言う。
今だったら法令違反だが、当時は“葉っぱ”(スモーク)は禁止されていなかったのだろう。
コンパニオンも和洋交互に連れ込んでは“お酒”(アルコール)と“葉っぱ”(スモーク)で撹乱(かくらん)し、それでキメると想像を絶するエクスタシーが得られると言う。
その話しをする上司の口癖は、『これこそ俺の神木(しんぼく)で親睦(しんぼく)を深める国際交流やぁでぇ!』だった。
そんな男の“希望”と“未来”に満ちた“大阪万博”が2025年に再来する。
コンパニオンだけでも、綺麗どころがわんさか来(き)よぉるでぇ!
ここは一発、“岸和田ヤリチン大使”の名に掛けて、大阪名物の“ひっかけ”(ナンパ)でお近付きになるしかあらへぇん。
“いしん”を掛けた決め台詞(せりふ)はこうやぁ!
『“大阪関西万博”で“命”の大切さを学んだ後は、僕のお家(うち)で“命”の製造工程を学ばぁへぇん?』
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/27 (Fri) 01:16:10
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
ステレオタイプのアホォなテレビ局が「ザ・大阪」と言って紹介するのが、道頓堀川に掛かる通称“ひっかけ橋”(ナンパ橋)の戎橋(えびすばし)。
あんな所に生粋(きっすい)の大阪人なんか居(お)れへぇん言(い)うねぇん!
インバウンド(訪日観光客)か和歌山や奈良から出てきた高校生しか居(お)れへぇんわぁ。
ほんまもん(本物)の大阪人が見たかったら、大阪市旭区の千林商店街(せんばやししょうてんがい)に行かなあかんわぁ。
一(いち)十(じゅう)百(ひゃく)千(せん)の千林(せんばやし)、千林商店街(せんばやししょうてんがい)やぁ!
千林商店街(せんばやししょうてんがい)とは、地下鉄の千林大宮駅と京阪電鉄の千林駅をつなぐアーケードのある商店街である。
あのスーパーマーケットのダイエーこと大(ダイ)阪栄(エー)商店の発祥の地でも有名だ。
この近くには大阪府守口市の“滝井新地”(たきいしんち)がある。
歩いて5分程度だろうか。
ただ、ここは“岸和田ヤリチン大使”として、“いしん”を掛けて“ひっかけ”(ナンパ)で勝負したい。
この千林商店街(せんばやししょうてんがい)は、大阪で一番の“お達者くらぶ”である。
右見ても、左見ても、婆さんしか居ない。
これで決まりだ!
今日のターゲットは60代〜70代の独り身の婆さんだ。
商店街をウロウロと買い物をしているところを見れば、ご近所の人に違いない。
そんな婆さんに目星を付けてアタックする。
決め台詞(セリフ)はこうだ。
『そこのお饅頭屋さんで大福を買ったんですけど、多くて1人で食べ切れないから、一緒に食べませんか?』
これで断る婆さんは、まず居ない。
そして婆さんの家に呼ばれる。
先(ま)ずは爺さんの仏壇に線香を上げて手を合わせる。
その後、熱いお茶と甘い大福を嗜(たしな)み、日常会話を楽しむ。
そんな弾む会話には、時折(ときおり)、色っぽいキーワードを散りばめる。
そうすると婆さんは立ち上がり、窓のカーテンを閉めてその気だ。
薄暗い部屋の中で、婆さんの服を脱ぐ音だけが聞こえる。
婆さんの肉体は、例えるなら旬を過ぎたミカンの様だ。
ただ、萎(しお)れたミカンだからといって、一皮剥(ひとかわむ)けば果汁が滴(したた)り落ちる。
男を求める女に、年齢は関係ない!
婆さんも久々の極楽浄土(天国)を味わった事であろう。
こうして色々なバリエーションを楽しんで男を磨くわけだ。
その後、再び千林商店街(せんばやししょうてんがい)に行く事があったので、婆さんの家を訪ねると様子がおかしい。
近所の人に尋(たず)ねると、先日に亡くなったと言う。
確かに、『死んじゃう、死んじゃう!』とは言っていたが、本当に死んじゃうとは思わなかった。
あの時の大福と共に、“冥土の土産”(めいどのみやげ)を持たせてあげたのかも知れない。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/27 (Fri) 13:44:01
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
日頃の日課が子供が寝静まった夜に、嫁はぁんの“パン子”と晩酌をしながら、お互いの異性関係の話しを聞いて楽しむ。
狩猟民族の“岸和田ヤリチン大使”として、最近はインターネットのSNSなどの発展で街中の“ひっかけ”(ナンパ)は、不審がられ上手くいかない事をよく愚痴(グチ)ると、酩酊(めいてい)状態の嫁はぁんは『酒が不味(まず)くなる!』と怒鳴(どな)る。
安定的な成果を出す農耕民族の嫁はぁんは常に男性が傍(かたわ)らに居り、その1つがパート先の父親ほど歳(とし)の離れた現場責任者と長い事お付き合いしている。
年輪を重ねたおじさんのネチッこい攻め方が、嫁はぁんの肌に合うらしい。
お互い結婚している為に、“いしん”を掛け割り切って向き合い、相性が良いと嫁はぁんは笑う。
そして最近、パート先にアルバイトの若い大学生が入ったらしく、嫁はぁんはその男の子にも手を付けた。
男の子は独り暮らしをしており、嫁はぁんは部屋の掃除や食事を作りにちょくちょく通っているそうだ。
家庭の味の肉ジャガを食べさせて、その後は“いしん”を掛けて大人の女を味を食べさせている。
そんな若い時から“お口のモンスター”と呼ばれる嫁はぁんに仕込まれたら、その青年は同い年の女の子とお付き合い出来へぇん様になるでぇ!
ある日、同じ職場でもある2人のボーイフレンドと、デート日が重なってしまったらしい。
何方(どちら)かを断るのも気が引ける為に、嫁はぁんは2人と同時にデートする事にした。
デートする部屋で鉢合わせた2人は驚いた様だが、それも直(す)ぐに打ち解けて3人で大いに楽しんだと言う。
その後、スーパーマーケットで買い物をして、ご帰宅したら直(す)ぐに晩御飯の支度をする嫁はぁん。
何事も無かった様子でシレッとした顔で、子供に晩御飯を食べさせている。
“岸和田ヤリチン大使”は、そこに女性の優しさと強(したた)かさを感じる。
ジェンダーな世の中だから、夫婦間もフリースタイルが心地良い。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/28 (Sat) 16:40:19
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
“いしん”を掛けた“岸和田ヤリチン大使”として、その名に恥じぬ様いつでもプレイできるようにビンビンモードである。
仕事で大きなミスをして相手に謝罪している時も、ズボンの中身は常にビンビンだ。
嫁はぁんの“パン子”も子供が学校でイタズラして呼び出され、担任の男性教師に頭を下げて謝ってはいるが、目線の先は股間に向いており、完全に標的を“ ロックオン”している。
こんな感じの嫁はぁんのスカートの中は、常に湿っぽく湿度120%である。
こんな大阪のごく普通の夫婦は、家庭円満である。
私の頭の中は“ひっかけ”(ナンパ)の事で充満している。
いつでもどこでも“ひっかけ”(ナンパ)できる様に、口説き文句を考えて頭脳の引出しにストックしておく。
その声を掛ける時に気を付ける事がある。
女性は人目を気にするので、極力、人通りが少ない場所で声を掛ける。
さらに必然的に声を掛けたのではなく、偶然性を装う必要がある。
『あたし、“ひっかけ”(ナンパ)でホイホイ着いて行く“尻軽女”とは違うのよ!』
女性に、絶対にこう思わせてはならない!
スタンダードな“ひっかけ”(ナンパ)は、観光客を装(よそお)い道を聞く振りが一番良い。
岸和田ヤリチン大使…『スミマセ〜ン、ワタシ、旅行デェ大阪ニィ来マシタ。 通天閣ハァドコニィアリマスカァ?』
女性…『あっ、通天閣は難波から南に行った新世界にありますよぉ。』
岸和田ヤリチン大使…『アリガトォウ、ゴザイマァ〜ス。』
女性…『何処(どこ)の国からいらしたんですかぁ?』
岸和田ヤリチン大使…『岸和田デェ〜ス。』
女性…『岸和田って、大阪やぁんけぇ!』
それにもう1つ大切なのは、“ひっかけ”(ナンパ)が成功した後に利用するホテルの場所である。
ここは“ひっかけ”(ナンパ)した女性をスマートにエスコートしなければならない。
そこで、大阪市内のホテル街を北側から順に見ていこう。
▼十三(じゅうそう)なら南西一帯。
夜の街と言うイメージが強い十三(じゅうそう)で“ひっかけ”(ナンパ)をすると、その女性はキャバクラのホステスかヤクザの女が多いので、気を付けなければならない。
できれば十三駅の東側に連なるアーケード商店街がいい。
ただ、女性の年齢層はかなり高めである。
たまに若い女性の自称ユーチューバーが興味本位で撮影しているので、その辺りがターゲットになる。
岸和田ヤリチン大使…『姉ちゃん、なに撮影してぇんのぉ?』
女性…『あっ、昭和の雰囲気が漂う十三(じゅうそう)をユーチューブで紹介しようと思いまして。』
岸和田ヤリチン大使…『昭和の十三(じゅうそう)かぁいなぁ、おっちゃん、その時代の十三(じゅうそう)詳しいから案内したろぉかぁ?』
女性…『えっ!? いいんですか? 宜しくお願いします。』
岸和田ヤリチン大使…『ここがあのCMで有名な雁亭(がんてい)があった場所やぁ、知らんけぇ雁亭(がんてい)? 十三駅の西側は“しょんべん横丁”言うて飲み屋街やったんけど、火災で消失してもうたわぁ。』
女性…『へぇ〜 そうなんですかぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『交差点を渡った先の歓楽街には、大小のキャバレーが軒を連ねてたんやぁでぇ。 その奥地が“愛する男と女の楽園”って言う天国みたいな所やぁねん。 姉ちゃん、そこ行きたいかぁ?』
女性…『是非(ぜひ)、連れてって下さい。』
▼梅田なら兎我野(とがの)一帯。
大阪で一番の繁華街でもある梅田なら女性も多く居る為に、“ひっかけ”(ナンパ)がやりたい放題である。
がっ、それに比例して人も多いので、人目があり声を掛け難(にく)い。
それでも人流のエアスポットはある。
地下街では、梅田北側の阪急三番街、梅田南西側のホワイティうめだの“いずみの広場”、ここなら直ぐ地上に出れば兎我野(とがの)のホテル街で便利である。
梅田南側のディアモール大阪や第3ビルなどの地下街も場所によれば人が少ない。
梅田西側のハービス地下道も“ひっかけ”(ナンパ)の穴場である。
ただ、やはり人の多さは西日本で一番の為に、地方など多方面から来てる女性や仕事中の女性も多く、“ひっかけ”(ナンパ)のターゲットを選定するのは難しい。
▼難波の湊町(みなとまち)一帯と日本橋(にっぽんばし)の北東一帯。
このミナミでは、間違っても通称“ひっかけ橋”(ナンパ橋)の戎橋(えびすばし)や心斎橋筋商店街で声を掛けてはならない。
確かに女性は多いが、十三(じゅうそう)同様にどんな人物が混じっているか分からないからだ!
無難なのが、やはり地下街である。
心斎橋のクリスタ長堀や難波のなんばウォーク(虹の街)は、意外にも人が少なく大阪で一番の“ひっかけ”(ナンパ)しやすいホットスポットである。
しかもなんばウォーク(虹の街)は、西側の地上に出れば湊町(みなとまち)のホテル街、東側の地上に出れば日本橋(にっぽんばし)のホテル街と直結しており、ダイレクトインできる。
クリスタ長堀も地上に出て、西側ならアメリカ村をブラブラしながら湊町(みなとまち)のホテル街、東側なら島之内(しまのうち)のアジア街をブラブラしながら日本橋(にっぽんばし)のホテル街に行くと楽しさが増す。
変わり種で言えば本町の船場センタービルがある。
ここは衣料品の問屋が集積しており、一般人も購入できるお店もある。
その為に女性が1人でブラブラと買い物を楽しんでいる姿も見掛けるが、ただ、年齢層はかなり高めである。
しかも、“ひっかけ”(ナンパ)に成功しても、本町から難波まで地下鉄で移動しなければならず、あまりスマートとは言えない。
船場センタービルの問題点は、ここにある。
近隣にホテル街が無い事だぁ!
繁栄する都市の必須条件の第69条に、ホテル街の併設と条文に明記されている。
これは日本全国、どの都市にも当てはまる。
ホテル街を蔑(ないがし)ろにする都市に残された道は、“衰退”のみである。
次回は他のエリアをご紹介いたします。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/28 (Sat) 17:19:51
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
では、前回の続きで大阪市内の“ひっかけ”(ナンパ)のスポットとホテル街を、“いしん”を掛けて紹介していきます。
▼京橋の北西一帯と桜ノ宮(さくらのみや)の南一帯。
ここは全国的にも一番に有名なホテル街です。
ただ、“ひっかけ”(ナンパ)のスポットが少なく、京橋なら京阪モールか半地下の京橋コムズガーデンがある。
昔はダイエー京橋店で買い物をしている主婦をターゲットにしたマニアックスポットだったが、残念ながら閉店してしまった。
間違っても京橋駅の北東一帯にあるアーケード商店街での“ひっかけ”(ナンパ)は御法度(ごはっと)である。
理由は、行けば分かる。
京橋には歩いて行ける距離に大阪城があるので、ここで1人で旅行を楽しむ観光客の女性を“ひっかけ”(ナンパ)するのも良い。
そのまま大阪案内と称して、桜で有名な大川をブラブラしながら桜ノ宮(さくらのみや)のホテル街に行く事がスマートであろう。
また、この辺りは大阪府庁などが集積する官公庁街なので、夕方の6時頃に仕事の疲れと嫌味(いやみ)な上司のストレスを抱えた女性職員に、優しく声を掛けるのも1つである。
岸和田ヤリチン大使…『どうしたの? そんな疲れた顔をして。 綺麗なお顔が台無しだよ!』
女性…『えっ!? あたし、そんな酷(ひど)い顔をしていますか?』
岸和田ヤリチン大使…『よかったら、僕に全てを打ち明けてくれないかな?』
女性…『貴方(あなた)に、何処(どこ)へでも着いて行くわぁ。』
人間の心理を突いた“ひっかけ”(ナンパ)は、ほぼ上手くいく。
▼上本町の北西一帯と谷町九丁目の西一帯
この上本町エリアのホテル街は大阪では有名である。
由緒(ゆいしょ)あるお寺の周辺に、ホテルが無数に乱立している。
ただ、“ひっかけ”(ナンパ)のスポットが少ない。
上本町ハイハイタウンくらいしか思い浮かばない。
そこで視点を変えて、寺町(てらまち)に注目する。
お寺にはお墓も併設されている。
そこで、旦那に先立たれた未亡人をターゲットにする。
女性…『あなたはどうして、あたしを置いて逝(い)ってしまったの? とても哀(かな)しいわぁ。』
岸和田ヤリチン大使…『その気持ち、十分に分かります。 実は僕も先日、妻が急に・・・ ウウウウッ〜』
女性…『あらっ!? 貴方(あなた)も奥さんをぉ!?』
岸和田ヤリチン大使…『男1人となった僕の切実な話しを聞いてくれますか?』
女性…『お可愛(かわい)そうに、あたしに出来る事があったら、何でも言ってちょうだいね。』
▼天王寺の北一帯と阿倍野の南一帯
大阪のターミナル駅でもあるJRと地下鉄の天王寺駅、近鉄なら大阪阿部野橋駅、共に近隣にホテル街が整備されている。
ここは天王寺ミオやあべのフープ、それにキューズモールなど若年層の商業施設が多く建ち並ぶ為に、必然的にターゲットもヤング層になる。
ただ、この“ひっかけ”(ナンパ)スポットで気を付けなければならないのが、若い子は“お金”を要求してくる比率が高い事である。
それは、もう“犯罪行為”だ。
近年でもアホォな有名人が、これらのハニートラップに引っ掛かり、酷(ひど)い目に遭(あ)っている。
これは何もアホォな有名人だけでは、無い!
一般人も同じ目に遭う可能性は高い。
特に阿倍野エリアは未成年の女子高生や女子中学生も多いので注意が必要だ。
それらリスクを勘案すると“ひっかけ”(ナンパ)のスポットは、根性の捻(ね)じ曲がったアホォな女の子が来そうにないエリアに限定される。
阿倍野西側ならあべのルシアスかアポロビル、阿倍野東側なら近鉄百貨店ウイング館の2階。
天王寺駅に直結した天王寺ミオ、それにあべの地下街(あべちか)。
変わり種で天王寺動物園もある。
1人で動物観察する女性が猿(サル)の交尾(こうび)を目撃して、触発(しょくはつ)されムラムラ来たところを、すかさず声を掛ける。
女性…『あらっ!? あの猿(サル)ったら、なんて激しいの!』
岸和田ヤリチン大使…『僕もあの猿(サル)に負けないくらいの腰さばきが自慢なんですよぉ! 試してみませんか?』
カクカク カクカク
その時、女性に高速なグラインドを見せ付ける。
女性…『貴方(あなた)にお供にします。』
ここまでは大阪市内の有名な“ひっかけ”(ナンパ)のスポットと、その後に利用するホテル街である。
次回は大阪府内にエリアを拡大して紹介します。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/28 (Sat) 20:17:41
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
今度は大阪府内に広げると幾(いく)つかのホテル街が点在する。
そんな大阪府内の“ひっかけ”(ナンパ)のスポットとホテル街を、“いしん”を掛けて紹介していきます。
ただし、車での利用を目的としたホテルが多い為に、“ひっかけ”(ナンパ)のスポットはほぼ皆無である。
近場の大型ショッピングモールで“ひっかけ”(ナンパ)して、ドライブしながら行くパターンを想定している。
▼名神高速道路の豊中インターから大阪国際空港(伊丹空港)に掛けての空港線沿い
大阪市西淀川区の御幣島(みてじま)や加島(かしま)、または大阪市淀川区の十三(じゅうそう)から北上して大阪国際空港(伊丹空港)に向かうと、名神高速道路の豊中インター辺りから大阪国際空港(伊丹空港)までの間に、大阪府内では有名なホテル街が出現する。
ただ、“ひっかけ”(ナンパ)のスポットとなると、それほど多くはない。
伊丹のイオンモール伊丹かイオンモール伊丹昆陽(こや)がある。
意表を突いて尼崎のつかしん(西武百貨店跡地)と言うバブル期の遺産も存在する。
まあ、車で移動すれば広域にスポットは拡大できるが。
千里中央の商業施設や箕面のキューズモールも手堅いスポットだ。
変わり種では川西能勢口駅の川西阪急百貨店や、宝塚駅から続く“花のみち”で宝塚歌劇団を観賞に来たヅカファンを“ひっかけ”(ナンパ)するのも有りかも知れない。
岸和田ヤリチン大使…『♪すみれの花〜 咲くころぉ〜 初めて君を〜 知りぬぅ〜 君を想い〜 日ごと夜ごとぉ〜 悩みしあの日のこぉ〜ろ〜』(♪すみれの花、咲く頃)
ヅカファン…『イヤァ〜ン。』
岸和田ヤリチン大使…『♪私は薔薇(バラ)の定めに生まれた〜 華やかに激しく生きろと生まれた〜 薔薇(バラ)は薔薇(バラ)は 気高(けだか)く咲いて〜 薔薇(バラ)は薔薇(バラ)は美しく散るぅ〜』(♪薔薇は美しく散る)
ヅカファン…『アハァ〜ン。』
岸和田ヤリチン大使…『♪宝塚〜 わが宝塚〜 清く正しく美しく〜 栄(は)えある歴史〜 ここにあり〜 おお宝塚〜 花ある伝統〜 高らかに〜 いざ讃えつつ〜 歌いつつ〜 輝ける道〜 一筋に〜』(♪宝塚歌劇団の団歌)
ヅカファン…『ア〜ン ポ〜ン タァ〜ン。』
▼摂津から門真に掛けての中央環状線(中環)沿い
このエリアはホテル街と言うよりも、中央環状線(中環)沿いに数kmの間隔を空けてホテルが建っている。
近隣には巨大なショッピングモールも多く、吹田市のららぽーとエキスポシティ(エキスポランド跡地)やイオンモール大日(三洋電機本社工場跡地)がある。
最近ではららぽーと門真(パナソニック工場跡地)が開業した。
それ以外でも元マイカル茨木のイオンモール茨木(日本たばこ産業工場跡地)など数多くの商業施設がある。
また、大学も多く点在している為に、好奇心の旺盛(おうせい)な女子大生を“ひっかけ”(ナンパ)のターゲットにすると良い。
岸和田ヤリチン大使…『世界におけるSDGs(エスディジーズ)活動の矛盾と、政府が推奨する“優良緑地確保計画認定制度”の矛盾を突き止めて、都市部のグリーン化を促進するくらいなら、初めから大自然が残る地方を活用する方が有効だと言う効果を示す為に、君の優秀な才能がどうしても必要なんだ。』
女子大生…『凄く壮大(そうだい)な実証実験なんですね。 こんなあたしで良ければお手伝い致します。』
岸和田ヤリチン大使…『ありがとう。 では先(ま)ず、都市の郊外における愛する男女が集(つど)うホテルの立地条件から調査しよう!』
女子大生…『はい、分かりましたわぁ、先生。』
▼東大阪から奈良に向かう阪奈道路
大阪から奈良に向かう生駒山の山道となる阪奈道路沿いにはホテルが点在し、特に東大阪側の山の麓(ふもと)に多い。
生駒山の山頂から大阪平野の夜景を観に行く口実で、ドライブに誘って行くのが定番である。
女性…『綺麗な夜景ねぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『そうだね。 でも夜景の美しさよりも、君の美しさの方が勝っているよぉ。』
女性…『まぁ、お上手ねぇ。』
この台詞(セルフ)を聞いて嫌な気分になる女性は、まず居ない。
美しい夜景と甘い言葉に酔いしれて浪漫(ロマン)に浸る女性を、スマートにホテルインする。
ただ、間違ってもホテル代をケチって、山の暗闇に紛(まぎ)れて“カーセックス”に励(はげ)むのは御法度(ごはっと)である。
こう言う女心の分からないトンチキ野郎(マヌケ男)は、けっこう多い。
▼東大阪の長田一帯
大阪の大動脈でもある中央環状線(中環)と中央大通の交差点から北西側に面して複数のホテルが建ち並ぶ。
近隣には倉庫や会社もある為に大型トラックが行き交っているので、車をヘラヘラ運転してホテルを物色(ぶっしょく)していれば、トラックの運ちゃんにクラクションを鳴らされるので注意が必要である。
近隣には大小の商業施設が多い。
イオンモール鶴見緑地が最も有名だが、フレスポ東大阪やフレスポ長田も穴場かも知れない。
逆に近鉄奈良線の布施駅から八戸ノ里駅に掛けて大学が多くあるので、女子大生をターゲットにするのも良いかも知れないが、はっきり言ってこの辺りの東大阪は、声を掛け難(にく)い雰囲気が漂っている。
行けば分かるが、バリバリの大阪下町である。
▼堺から泉佐野に掛けての26号線(第二阪和道路)沿い。
大阪市から南下し大和川を越えて、堺市から高架道路を走り石津川を越えた辺りはから続く26号線(第二阪和道路)沿いのロードサイドに延々と建つホテル。
ここは堺市から泉佐野市までの広範囲になる為に、その地域ごとで利用するホテルも変わってくる。
堺市なら石津川より北側の臨海部の海岸通り、高石市や泉大津市もポツリとあるが、やはりメインは忠岡町(ただおかちょう)の大津川沿いにあるホテル街である。
ある意味、この忠岡町(ただおかちょう)のホテル街は26号線(第二阪和道路)の目印にもなっている。
そこから我が町の岸和田市、貝塚市、泉佐野市へと続き関西国際空港(関空)が見えてくる。
このエリアに住む女性の特徴は、昔、暴走族に所属していた元ヤンキー娘が多い事である。
一見、近寄り難(がた)い怖そうな雰囲気だが、その実(じつ)は気さくでフレンドリーな女性が多い。
表裏のある陰湿(いんしつ)な都会娘とは違い、田舎の風情がまだ残る地域で育った元ヤンキー娘は、情けに厚くサバサバしている。
“ひっかけ”(ナンパ)の目的をしっかりと伝えれば、元ヤンキー娘も期待以上に応えてくれる。
岸和田ヤリチン大使…『お姉さん、昔は“やんちゃ”しとったやろぉ? なんか妖艶(ようえん)な香りがしてぇんでぇ。』
元ヤンキー娘…『そんなこと無いでぇ、至(いた)って普通やぁでぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『若い頃は、よぉ〜モテたやろぉ。』
元ヤンキー娘…『そんなこと無いでぇ、至(いた)って普通やぁでぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『最近はどうなぁん? 男まわりはぁ潤(うるお)っとるんかぁいなぁ? 何なら俺が潤(うるお)わしたぁんでぇ。』
元ヤンキー娘…『なぁんやい、目的はそれかいなぁ。 それならそうと早よぉ言いやぁ! まわりくどいんはぁ時間の無駄やぁでぇ。 ほなぁ、忠岡(ただおか)に行こかぁ。』
岸和田ヤリチン大使…『よっしゃ、ほなぁ行こぉ、お姉さんの車で乗せてってやぁ。』
元ヤンキー娘…『車、無いんかぁ〜〜い!』
こんな会話の遣(や)り取りなら良いが、ただ、嘘(ウソ)を吐(つ)いて騙(だま)す様な事をすれば恐ろしい事態に発展する。
プレイしたさに嘘(ウソ)吐(つ)いてバレれば、このエリアの女性は“だんじり祭り”の威勢など比べものにならない位(くらい)の怒涛(どとう)で、手足と肋骨(あばら)を圧(へ)し折られるのは覚悟しておいた方がよい。
これら大阪一帯の“ひっかけ”(ナンパ)のスポットとホテル街を紹介してきた。
どこで“ひっかけ”(ナンパ)をして、どこのホテルを利用するのも、男のテクニックとセンスに掛かっている。
ただし、女性の同意無しのプレイは御法度(ごはっと)である。
これは日本神話から始まる伊耶那岐神(イザナギ)と伊耶那美神(イザナミ)の神聖な男女の営(いと)みを穢(けが)す行為と受け止めてられる。
天神は天津神(あまつのかみ)で高天原(たかまがはら/天界)の神様。
天津神(あまつのかみ)を祀る天社(あまつやしろ)で定める高天原(たかまがはら/天界)での大罪の天津罪(あまつのつみ)。
地祇(ちじ)は国津神(くにつのかみ)で葦原中国(あしはらのなかつくに/地上界)の神様。
国津神(くにつのかみ)を祀る国社(くにつやしろ)で定める、葦原中国(あしはらのなかつくに/地上界)での大罪の国津罪(くにつのつみ)。
その両者が集う“天神地祇”(てんじんちぎ)により、女性の同意無しにプレイした者、かつ連座責任(れんざせきにん)として、その祖父母、両親、子供、孫、親族など全ての先祖子孫、知人友人、関係者は、天津罪(あまつのつみ)および国津罪(くにつのつみ)の双方の大罪により問答無用で地獄(じごく/下界)に落ちる事となる。
特に抵抗できない未成年者(子供)への暴行は、京都の天女母神(てんにょぼじん)とその手下(てした)が最強の残忍な鬼となり、想像を絶する拷問(ごうもん)を永遠に与え続けるだろう。
これらルールを踏まえて、2025年の“大阪関西万博”に来た際は、是非(ぜひ)、大阪で“ひっかけ”(ナンパ)をしつつされつつ、夜の営(いとな)みを楽しんでもらいたい。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/30 (Mon) 01:59:59
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
私の仕事は布団の訪問販売です。
軽ワゴンに布団一式を積んで、各家庭を回って布団の良さを紹介して気に入ってもらえれば販売する。
この布団訪問販売、一番に売上を上げる地域は、兵庫県の西宮市、芦屋市、神戸市東灘区と灘区の“阪神間エリア”と呼ばれる関西では有名な高級住宅地である。
大阪から“阪神間エリア”まで布団一式を積んだ軽ワゴンを走らせて、高級住宅地のお宅を1軒1軒と訪問していく。
ピンポ〜ン ピンポ〜ン
貞淑な奥様…『はい、どちら様で御座いましょ?』
岸和田ヤリチン大使…『こんにちわ、お天道(てんと)サンサン、いつもニコニコ、“寝具のサンフラワーサークル”と申します。 兵庫県庁の“方”(ほう)から、お布団にダニが寄生しているか衛生調査に来ました。』
貞淑な奥様…『あらぁ、そんな事、回覧板に書いてませんでしたわね。』
岸和田ヤリチン大使…『はい、増え続けるインバウンド(訪日観光客)と共に、海外から外来種のダニが広がり、緊急事態の調査となります。』
貞淑な奥様…『ご苦労様です。 ではオートロックを解除しますので、勝手口よりお入り下さい。』
裏の勝手口からお宅にお邪魔して、貞淑(ていしゅく)な奥様に豪華なベッドのある寝室に案内される。
貞淑な奥様…『うち、大丈夫かしら?』
岸和田ヤリチン大使…『では、このダニ感知機器でお布団を調査させて頂きます。』
キュイ〜〜ン キュイ〜〜ン ピッピッ ピッピッ
岸和田ヤリチン大使…『あっ、大丈夫ですね。 ダニは発見されませんでした。』
貞淑な奥様…『あぁ良かったわ、どうもありがとねぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『昔から言うじゃないですか、清楚(せいそ)で美しい奥様にはダニは付かないって。』
貞淑な奥様…『あらぁお上手ね。 居間でお茶をご用意しますのでどうぞぉ。』
岸和田ヤリチン大使…『それではお言葉に甘えて。』
大きく広いリビングでフカフカのソファーに座りお茶を頂きながら、奥様と雑談を交える。
貞淑な奥様…『お仕事、大変ねぇ〜 この辺りを回っているの?』
岸和田ヤリチン大使…『あっ、はい、軽ワゴンに布団一式を積んで、あちこちのお宅を訪問しています。 あっ、そうだっ! 奥様もウチの布団を試してみませんか?』
貞淑な奥様…『えっ!? 今、お布団を買う予定はありませんけどぉ、いいのかしら?』
岸和田ヤリチン大使…『あっ、大丈夫です。 最新の布団による無料お試し体験キャンペーン中なのでぇ。』
そう言って軽ワゴンから布団一式をお宅に持ち込み、立派な床の間のある和室に敷布団、シーツ、不毛布団を敷いた。
岸和田ヤリチン大使…『では奥様、そのままの格好で結構ですので、この布団でお休みになって下さい。』
そう言われて貞淑(ていしゅく)な奥様は布団に潜り込む。
貞淑な奥様…『うん、フカフカして温かく気持ちが良いですわねぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『そうでしょ、特にお勧めなのが防水加工したシーツです。 どんなに大量の水を溢(こぼ)しても、下の敷布団に水が浸透しません。』
貞淑な奥様…『あらぁ、そうなんですか?』
岸和田ヤリチン大使…『ちなみに奥様は、よくシーツを濡(ぬ)らす方ですか?』
貞淑な奥様…『イヤァねぇ〜 最近、そんな事はしてないわぁよぉ。』
岸和田ヤリチン大使…『いやぁ残念ですねぇ〜 この防水加工シーツの効果を麗(うるわ)しき奥様に、ぜひ、知って頂きたいですねぇ〜』
貞淑な奥様…『わたくし、どうすればいいのかしらぁ?』
岸和田ヤリチン大使…『私に全てお任せ下さい。』
貞淑な奥様…『あぁ、いきなりそんなぁ・・・』
この辺りの奥様は、経済的余裕があり暇を持て余(あま)し、旬を過ぎた熟(じゅく)れた果実も持て余(あま)している。
その果実に息を吹き掛けるだけで滴(したた)り落ちる果汁が、何を期待しているかを物語っている。
そして数時間後・・・
岸和田ヤリチン大使…『ねぇ、奥様の大量に噴き出した秘液でも、下の敷布団に浸水していないでしょ。 後はこの万能タオルで濡(ぬ)れた防水加工シーツをササッと拭いて終わりです。』
貞淑な奥様…『イヤァん、そんなこと言わないでぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『どうです、この防水加工シーツだけでも如何(いかが)ですか?』
貞淑な奥様…『そうねぇ〜 色違いで2セット頂けます。』
岸和田ヤリチン大使…『毎度、ありがとうございます。』
この調子で“阪神間エリア”の高級住宅地に住む貞淑(ていしゅく)な奥様を相手に、順調に売上を伸ばしていく。
勤め先の“寝具のサンフラワーサークル”では、私の事を“ゴッドフィンガー”(神の指)と呼んでいる。
今日も“阪神間エリア”にある何処(どこ)かのお宅で、“岸和田ヤリチン大使”の“いしん”を掛けた営業トークとフィンガーテクニックで、貞淑(ていしゅく)な奥様が勢いよく潮(しお)を噴いている。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/01/08 (Wed) 22:14:10
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
男は浮気をする。
これは正解である。
女は浮気はしない。
それは正解でもあり、間違いでもある。
女は目の前の男に、いつも真剣に向き合うから、それは浮気ではなく誰とでも本気である。
例えるなら、回転寿司を想像すると解りやすい。
店内に広がるレーンを上をお寿司がクルクル回り、マグロ、イカ、タコ、ハマチと流れてくる。
男は、本命のマグロに本気で狙いを定め素早く皿を取り、お寿司を口に放り込む。
続いて来たイカやタコはマグロほど本気ではないが、浮ついた心で皿を取り、とりあえずお寿司を口に放り込む。
ハマチも捨て難いがマグロほど本気ではない為に、少々、心此処(こころここ)に在らずで寿司を口に放り込む。
どんなに浮気したネタを食べようと、シメはやっぱり本気のマグロだ。
一方、女はどうなのか?
先(ま)ずマグロが来たら本気にアタックし、素早く皿を取り、間髪入れずに口に頬張(ほおば)る。
次のイカも同様に本気にアタックし、素早く皿を取り、間髪入れずに口に頬張(ほおば)る。
その次からのタコやハマチへの本気度も同じである。
要は、男はネタによって気持ちの濃淡を切り替えているが、女は全てのネタが本気モードである。
当然、この場合のネタと言うのは“男女”(異性)の事である。
だから女は浮気しないし、たとえ旦那や彼氏と別の男性とベッドを共にしても、浮気を認めない。
それは本気だからである。
『うちの清純な奥さんは、絶対に浮気などするはずがない。』
こう思っている殿方も多いだろう。
女性は、玄関を1歩外に出たら別人になるから、ノーテンキな旦那や彼氏は意識改革が必要だ。
では、女性が女を磨くには、どうしたらいいか?
それはもう、男の数をこなすしかない。
現在、20代〜30代の女性が、もし旦那や彼氏が40代〜50代の熟女にハマって骨抜きにされたら、取り返す自信はあるだろうか?
結局、最後に男を惹きつけるのはテクニックである。
恋愛も工業も、技術に優る武器は無い!
女性も若いうちから早めに男の数をこなして、技術を磨く努力が必要だ。
それが将来、大いに役に立つ。
スナックのママが70代〜80代でも若くて元気なのは、それが証拠だからである。
若い時分から男に鍛えられ、また、男を鍛え上げてきた百戦錬磨の夜の蝶(チョウ)。
老け込むことも、認知症も彼女達には無縁である。
この事からも、人生の役に立たないアホォな恋愛ドラマや映画を見過ぎて、“男性へ一途な私”に酔っている女性は、老後に気を付けた方がよい。
更年期障害から精神疾患を患い、そしてそのまま認知症への流れが視えている。
こう言うのは堅い考え方の“真面目な女性”ほど陥りやすい。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/04/03 (Thu) 14:06:40
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
2024年やったと思いますが、東京都新宿区の歌舞伎町で、国策に“いしん”を掛けた国会議員が、“議員バッチ”と“札束”(お金)をチラつかせて、まだ毛も生え揃(そろ)わない女子中学1年生にお金を渡してプレイを強要していた話しがありましゃろ。
清純な乙女を鷲掴(わしずか)みにして、桃の様なお尻(ピーチヒップ)に、臭(くさ)くて醜(みに)い親父の腐ったバナナ(ダーティーバナナ)をぶち込んで腰をズッコバッコと動かし、底なしの欲望を満たしてはった未成年性交事件ですわぁ。
この未成年性交事件に対して、その肉棒に“いしん”を掛けた国会議員が属していた政党の幹部は、誰1人として責任を取ってませんやろぉ。
日本国民は憤(いきどお)りを感じてるかもしれへぇんが、ただなぁ、大阪をはじめとした関西では、10代の性交は当たり前ですねぇん。
せぇやから、“いしん”を掛けた政党の幹部も、こう思った筈(はず)やわぁ。
政党幹部…『何がアカンのぉ?』
更(さら)に言うとなぁ、“いしん”が込められた家庭円満なファミリーは、父親(義父)は娘の“除膜式”を、母親(義母)は息子の“筆下ろし”を、「大人への儀式」として執り行う大阪のファミリーも中にはおまぁすねぇん。
この事を鑑(かんが)みたらなぁ、歌舞伎町の“いしん”を掛けた未成年性交事件も、大阪では当たり前過ぎて事件にもなりまへぇんねぇん。
近年、大阪では子供を優遇した政策を打ち出してまっしゃろ。
これは大人が色眼鏡で子供を見ている節(ふし)もありまぁんねぇん。
早くに大人を受け入れる身体に仕込んで、いつでも滞りのない性交ができる様にしてますねぇん。
せやからなぁ、“岸和田ヤリチン大使”としては“大阪関西万博”が開催される大阪湾を埋立てた人工島の大阪市此花区の夢洲(ゆめしま)をなぁ、西日本最大級と言われた“新町遊郭”(しんまちゆうかく)を再興させる事を夢見てまぁんねぇん!
ちょうど総合型リゾート地(IR)のカジノも誘致しまっしゃろ。
都市で最も人間の欲望を満たしてくれるな施設の“呑む”(お酒)、“打つ”(博打)、“買う”(遊女)の3条件は揃える必要がありまっせぇ!
これぞぉ世界に示す「オオサカ・セックス・アイランド」(大阪乱欲楽園島)でぇせぇ!
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/04/03 (Thu) 14:10:25
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
大阪市此花区の夢洲(ゆめしま)こと「オオサカ・セックス・アイランド」(大阪乱欲楽園島)に設ける“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)。
紳士の社交場、快楽の神秘となる「オオサカ・セックス・アイランド」(大阪乱欲楽園島)には、“いしん”を掛けた人間の欲望を満たしてくれる“呑む”(お酒)、“打つ”(博打)、“買う”(遊女)の娯楽の殿堂、悦楽の境地が揃ってまっせぇ!
その“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)で働く遊女も大募集せなぁ、あきまへぇんなぁ〜
昨今、この人口減少と少子高齢化で人手不足が否めないが、ただ、前例で財務省が管轄する東京都の税務署に務める女性職員も、副業で風俗店に勤めて身体と技術で納税者(殿方)にご奉仕してまっしゃろ。
国際観光都市・大阪に協力してくれる“いしん”を掛けた自治体の女性職員も多いと思うわぁ。
また、2025年に開催される“大阪関西万博”で働くコンパニオンの女性や来場してくれた子供達も、将来的に“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)の働き手として期待できまっせぇ。
先(ま)ず、広大な埋立地の夢洲(ゆめしま)に、敷地面積は江戸の“吉原遊廓”と同規模の9万㎡(2万7000坪/東京ドーム2個)余りで、建物の構造や意匠(デザイン)はインバウンド(訪日観光客)にも人気の高い純和風の木造建築物としますぅねぇん。
一応は働く遊女(ゆうじょ)が逃げれない様に、広大な敷地を囲む“御歯黒溝”(おはぐろどぶ)も設けますわなぁ。
“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)に来訪するには“日本堤”を通り、遊女(ゆうじょ)との別れを惜しむ“見返り柳”が出迎える“衣紋坂”(えもんざか)、そこからくの字に曲がった“五十間道”(ごじっけんみち/90m)を進むと、“極楽天上”の大門(おおもん)を潜(くぐ)り、たんまりと実った“桃色楽園”に辿り着く様にしまっせぇ。
“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)の区画割は、田の字の様に無数の置屋(おきや)や揚屋(あげや)が建ち並び、中央に仲の町の大通りが1本通り、そこに京町、江戸町、伏見町などの所在地を示しますぅ。
江戸時代の遊廓で働く遊女(ゆうじょ)と同様に、“番付け”も付けますねぇん。
最高位から花魁(おいらん)、太夫(たゆう)、新造(しんぞう)、局見世(つぼねみせ)や安女郎(やすじょろう)、禿(かむろ)。
そして呼出し(よびだし)、昼三(ちゅうさん)、付廻し(つけまわし)、振袖新造(ふりそでしんぞう)などの格付けもありまぁ。
“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)の郭外ではカジノに負けたお金の無い人向けに、提重(さげじゅう)、夜鷹(よたか)が安銭で請け負いますぅわなぁ。
男色の陰間(かげま)の区画も設けましてぇなぁ、衆道(しゅどう)も採り入れて、まだ舞台に立てない歌舞伎の若い役者が、己の心身を女性に徹する為に、敢(あ)えて男性を相手にしていた“芸文化”も発展させますぅねぇん。
遊女の衣装は勿論(もちろん)和着物で、江戸時代の伝統と仕来(しきた)りと作法と雰囲気を大切にしまっせぇ。
この“いしん”を掛けた“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)に、総合型リゾート地(IR)のカジノと飲み屋の歓楽街を併せ持てば、“呑む”(お酒)、“打つ”(博打)、“買う”(遊女)を満喫できる天下で一番の「オオサカ・セックス・アイランド」(大阪乱欲楽園島)になる事は間違いおまへぇんなぁ〜
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/04/08 (Tue) 01:18:40
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
今日は岸和田(キシワダ)にある行きつけのスナックでの、やり取りをご紹介させて頂きまっせぇ!
ではぁ、レッツゴーストーリー!
岸和田ヤリチン大使…『オX子ちゅう女子(おなご)知りまへぇんかぁ〜? 1年前に勤めてはった?』
スナックのママ…『オX子ねぇ〜 知りまへぇんなぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『髪の長い、ごっついエエ女子(おなご)ですねぇん。』
スナックのママ…『髪の長い女子(おなご)はぁんでっか? 此処(ここ)にはぎょ〜さん居てますぅさかいなぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『なぁ〜 思い出しておくぅんなはぁれぇ〜』
スナックのママ…『あんた、あの子のなぁんだんねぇん?』
スナックのホステス…『港(ミナト)のオX子 岸和田(キシワダ) 貝塚(カイヅカ)〜』
スナックのママ…『確か、半年前に辞めた筈(はず)でぇせぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『何でですぅのぉん?』
スナックのママ…『ソソちゃんのお客を取ったって、そりゃ〜もぉ〜 えらい騒ぎですわぁ。』
岸和田ヤリチン大使…『ええっ〜!?』
スナックのママ…『そんな子に見えまへぇんでしたけどぉなぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『せやろぉ。』
スナックのママ…『まぁ〜 仁義、欠(か)いてもぉうたら、居てられまっかいなぁ。』
岸和田ヤリチン大使…『うんうん。』
スナックのママ…『あんた、あの子のなぁんだんねぇん?』
スナックのホステス…『港(ミナト)のオX子 岸和田(キシワダ) 貝塚(カイヅカ)〜』
スナックのママ…『あ〜あぁ〜 道頓堀から来た食べ頃の子でっしゃろ!』
岸和田ヤリチン大使…『そぉ〜そぉ〜 河内音頭(かわちおんど)の上手な子ですわぁ〜』
スナックのママ…『それやったら、3ヶ月前まで居てまぁしたわぁ』
岸和田ヤリチン大使…『えっ!?』
スナックのママ…『拾ろぉ〜てきた仔猫と一緒に逃げてしもぉ〜たんだぁす。』
岸和田ヤリチン大使…『何処(どこ)行ったか、知りまへぇんかぁ〜?』
スナックのママ…『知らんなぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『そんな事、言わんとぉ、教えておくんなぁはれぇ!』
スナックのママ…『知らん、ちゅ〜のにぃ!』
岸和田ヤリチン大使…『ほんまぁ、頼ぉんますぅ〜』
スナックのママ…『あんた、あの子のなぁんだんねぇん?』
スナックのホステス…『港(ミナト)のオX子 岸和田(キシワダ) 貝塚(カイヅカ)〜』
スナックのママ…『岸和田(キシワダ)がぁ好き、言うてぇましたなぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『わたしぃにも言うてぇました。』
スナックのママ…『あんまり物言わん、大人しい子でしたわぁ〜 喉(のど)が痛かったんでぇしゃろ。 しかし、外人相手じゃ、むぅ、むぅ、酷(むご)いでぇんなぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『なんか置いていきまぁへぇんなんだかぁ?』
スナックのママ…『何もおまっかいなぁ〜 借金残したまま、どっかぁ行ってしもぉ〜たんだぁす。』
岸和田ヤリチン大使…『あぁ〜 さよぉかぁ〜』
スナックのママ…『さっぱり、ワヤァですわぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『はぁ〜』
スナックのママ…『あんた、あの子のなぁんだんねぇん?』
スナックのホステス…『港(ミナト)のオX子 岸和田(キシワダ) 貝塚(カイヅカ)〜』
スナックのママ…『遅かったなぁ〜 たった今まで、其処(そこ)に居てたぁのにぃ。』
岸和田ヤリチン大使…『なにぃ〜!? どぉ、どぉ、どこぉやぁ!?』
スナックのママ…『其処(そこ)でぇんがぁな! 其処(そこ)の隅(すみ)のボックスでぇんがぁな!』
岸和田ヤリチン大使…『なぁ、何でぇ、出て行ってしもぉうたんだぁ!?』
スナックのママ…『客に太ぉ〜い注射、打たれた言うてねぇ、泣いて店を飛び出してしもぉうたぁんだすぅ。』
岸和田ヤリチン大使…『どいつぅやぁ、わしぃのオX子、いてぇこぉましたぁんわぁ!』
スナックのママ…『知りまへぇんがなぁ〜 わてぇもぉ〜』
岸和田ヤリチン大使…『ううぅ〜』
スナックのママ…『あんた、あの子に、惚れてなはぁんなぁ?』
スナックのホステス…『港(ミナト)のオX子 岸和田(キシワダ) 貝塚(カイヅカ)〜』
スナックのホステス…『港(ミナト)のオX子 岸和田(キシワダ) 貝塚(カイヅカ)〜』
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/06/27 (Fri) 19:13:57
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
今日は近所の駅前にある行き付けの赤提灯の居酒屋で、馴染み客で60代の源さんについて話しをさせてもらいますわぁ〜
口数少ない源さんについて、飲んでも自分の事は喋らぁへんさかいに、詳しい事はあまり分かってまへぇんねん。
それでも何とか素性(すじょう)を聞き出して、源さんは若い頃から仕事も長続きせぇへんと直ぐに辞めて、現在は近所の工場(こうば)で倉庫整理の仕事をしてますねぇん。
ヘタレのわてぇが言うのも何だが、どうやら離婚を2度ほど経験している単身のアカンタレという事は分かってまんねぇん。
そんな口数少ない源さんから、数少ないオモロい話しを聞かせてもろいましたんやぁ。
それは数ヶ月前、60歳を超えた源さんは体調が悪く、仕事を2日ほど休んで自宅のアパートで寝ていた時やった。
小さな工場(こうば)で働いている源さんは、従業員も皆んな家族の様な職場で、心配した女性の事務員がアパートまで見舞いに来た。
その女性の事務員は40代の未婚らしく、体型がお相撲さんの関取並みで、軽く100kgを超えている。
高校を卒業してから、その工場(こうば)で働き、社長ですら気を使い言う事を聞くお局(つぼね)事務員だ。
性格も男勝(おとこまさ)りのオラァオラァ系で豪快だと言う。
お局(つぼね)事務員はアポイントも無く、いきなり男世帯(おとこじょたい)の部屋に上がり込んできた。
その時に持参したお見舞いの品が、油ギトギトの唐揚げとコロッケで、常識的に考えて体調の悪い病人に差し出す気遣いのある品物ではない。
しかも、よく冷えた缶ビールと缶酎ハイも添えてある。
お局事務員…『源さん、どなぁいしたんやぁ? 酒の飲み過ぎちゃうんかぁ?』
源さん…『ちょっと身体がダルゥてなぁ〜 わしぃも年やしぃ、心身共にガタが来とるわぁ〜』
お局事務員…『なにぃ頼よぉんない事を吐(ぬ)かしとぉんねぇん! 景気付けにビールでも飲みなぁはれぇ。』
源さん…『いっ、いやぁ、わしぃ、病気やしぃ、医者にもアルコールは禁止されダメェやぁねん。』
そんな源さんの返答を聞いてか聞かずか、お局(つぼね)事務員は勝手に自分が持ってきたビールを飲み、唐揚げとコロッケをガツガツと食べ始めた。
そしてお局(つぼね)事務員は、源さんの部屋をキョロキョロする。
お局事務員…『なんやぁ、汚い部屋やなぁ〜 掃除してぇんのかぁ? なんかぁ臭いでぇ〜!』
源さん…『年寄りの男の独り暮らしさかぁい、掃除はあまりしてまぁへんなぁ。 あんまり部屋を見んといてぇ〜なぁ〜』
お局事務員…『なんか変な物(もん)でも有るんやろぉ! なんやぁ、このテレビの横に積んであるDVDはぁ!?』
源さん…『あっ! それは見んとぉいてぇ!』
お局事務員…『んっ!? なになに、“JKの狂った果実”に“JKの湿った果実”って、なんやぁねぇんコレェ〜!?』
源さん…『いやぁ〜 そのぉ〜 男の独り暮らしやぁさかいにぃ〜。』
お局事務員…『ちょっとこのDVD、酒のネタに観てみようやぁ。』
お局(つぼね)事務員はそう言うと、源さんのコレクションである“JKの果実シリーズ”をセットして観始めた。
ガチャ ポチッ
お局事務員…『何がJKやぁねん! 40過ぎたババァ〜がセーラー服を着て、どうするねぇん! しかもモザイク無しの裏DVDかぁいなぁ!』
源さん…『いやぁ〜 海外のインターネット通販で買(こ)うたら、そんなんが届いてぇん。 せやぁけどヤル事は同じやしぃ、ええかなぁ〜思うてぇまんねぇん。』
お局事務員…『えらい使い込んだ果実やなぁ〜 真っ黒で爛(ただ)れてるやぁんけぇ〜! こんなJK、居るかぁいなぁ!』
そんなこんなでアパートの1室で、裏DVD鑑賞をする40代のお局(つぼね)事務員と60代の源さんだった。
そんな時に源さんがモゾモゾし始めた。
お局事務員…『んっ!? 源さん、どなぁいしたん?』
源さん…『いっ、いやぁ、なんかぁ“JKの果実シリーズ”を観てたら、ムズムズしてぇきてぇん。』
お局事務員…『なんやぁ源さん、年甲斐(としがい)もなく、興奮(こうふん)しとぉんのかぁいな!? ちょっと見せてみい!』
源さん…『えっ!? そぉ、それはアカンやぁろ! アカンでぇ〜!』
お局事務員…『ええから見せてみい〜!』
そう言うと、お局(つぼね)事務員は源さんのズボンとパンツを強引に下ろし、剥(は)ぎ取った。
お局事務員…『うわぁ、源さん、年(とし)の割に立派な物(ブツ)を持ってますやぁん。』
源さん…『いっ、いやぁ、そんなに見られたら、恥ずかしいやぁん! 頼むからズボンとパンツを返してくれぇへんか?』
お局事務員…『いやぁいやぁ、源さん、こうして欲しいんやぁろ!』
そう言うと、お局(つぼね)事務員は源さんの物(ブツ)を口に咥(くわ)えた。
カポォ
源さん…『ちょ、ちょっと、ああぁ〜〜 ウッ!』
ドピュ
お局事務員…『うわぁ、源さん、早いなぁ〜 高校生かぁいなぁ!』
源さん…『いっ、いやぁ、久しぶりやぁさかいにぃ〜 つい・・・』
お局事務員…『今度は私の番やぁでぇ! 私も久しぶりやさかいにぃ、源さん、しっかりと頼むわぁ〜』
そう言うと、スカートとパンツを脱いだお局(つぼね)事務員は、仰向(あおむ)けに寝る源さんの顔面に100kg超の身体を持つ腰を押し付けた。
源さんの目の前にあるのは、JKの果実とは程遠い、売れ残りの半切りの白菜(ハクサイ)である。
源さん…『うわぁ、くっ、苦しい、助けてくれぇ〜!』
あまりにもの圧迫で呼吸困難を起こす源さんである。
お局事務員…『ほらぁ源さん、しっかり舐(な)めてやぁ〜』
源さん…『ううっ、うっ、レロレロ、レロレロ、ううっ〜』
ブッ、ブッブッ〜〜〜ブッ!
源さん…『クサッ、クッサァ〜〜!』
お局事務員…『あらぁ、ゴメンなさい。 久しぶりなんで、力が入ってもぉうたわぁ!』
今度はお局(つぼね)事務員は半切りの白菜(ハクサイ)に、源さんの物(ブツ)を要求してきた。
その半切りの白菜(ハクサイ)の奥地は、お手入れ無しのジャングルの様相(ようそう)である。
お局事務員…『ちょっと源さん、そこ違うって、どこに入れてんねぇん!』
源さん…『いっ、いやぁ、密林(みつりん)でよく分からへぇんし、ここかいなぁ〜』
お局事務員…『せぇやから、違うって、そこはぁ!』
こんな男女の遣(や)り取りを続けた60代の源さんと40代のお局(つぼね)事務員であった。
その後、何事も無かったかの様に、源さんとお局(つぼね)事務員は同じ職場で働いていると言う。
この話しを赤提灯の居酒屋で源さんから聞かされても、色っぽさを微塵(みじん)にも感じさせず、最後まで笑い通しだった。
それは年季(ねんき)の入った60代の源さんが成(な)せる年(とし)の功(こう)であろう。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/10/22 (Wed) 16:27:32
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
むかし昔の話しやぁけどなぁ、上州(じょうしゅう)は上野国(こうずけ/群馬県)に33万石の領土を有する女性大名が居てましてぇん。
この女性大名がえらぁいべっぴんさんで、政所(まんどころ)の男性従者に大変な人気がありましてなぁ〜
議会にて決議事項の採決は、女性大名が片乳を出して乳首を弄(いじ)りながら、M脚(えむきゃく)で“ほと”(陰部)を男性従者に刺激してもらい、潮を噴いた議案は可決で、10分経っても潮を噴かなければ否決という、変わった採決手法を採用してますねぇん。
いやはや、この男性従者が羨ましい限りですわぁ〜
この女性大名は特定の男性従者と一緒に、沼田街道(ぬまたかいどう)沿いにある旅籠(はたご)で、密会するのがお楽しみやぁと言ってはぁりますねぇん。
ほんまぁに、この男性従者が羨ましい限りですなぁ〜
この上野国(こうずけ/群馬県)にある領国の政所(まんどころ)に仕官するには、女性大名が自ら試験官を担当し、入所希望の男性の“竿”(肉棒)を頬張(ほおば)り20分以上を持ち堪えたら採用と言う事ですねぇん。
女性大名は耐久性と持続性を確認してはぁるそうですわぁ。
わしぃの御先祖様も和泉国(大阪府)から応募して、“いしん”をかけて試験を受けましてぇんけど、3分も持たずに不採用でしてぇん。
この上野国(こうずけ/群馬県)の女性大名は、かなりの匠(たくみ)の技を兼ね備えてますわぁ〜
女性大名…『この上野国(こうずけ/群馬県)に赤城山(あかぎやま)のからっ風(赤城おろし)は必要ない! 必要なのは大量に溢れる湿り気と、上下左右に素早く動く潤滑油だけです!』
こう、強い口調で公言してぇますねぇん。
ただなぁ、奈良時代の750年頃に、第45代天皇の聖武天皇(しょうむてんのう/朝廷)と藤原光明子(ふじわらこうみょうし/公家)の娘で、阿倍内親王(あべないしんのう/朝廷)こと第46代天皇の孝謙天皇(こうけんてんのう/女皇)かつ第48代天皇の称徳天皇(しょうとくてんのう/女皇)と、巨根僧侶の弓削道鏡(ゆげどうきょう/僧侶)が、肉体関係で朝廷の政権運営を実施した歴史もおますぅねぇん。
せぇやから上野国(こうずけ/群馬県)の女性大名は、何にも後めたい事も、恥ずかしい事もあらしぃまへぇん。
このまま性欲的におきばりやぁす!
因みに、この巨根僧侶の弓削道鏡(ゆげどうきょう/僧侶)は、河内国(大阪府)の出身でバリバリの大阪人ですねぇん。
ほんまぁに尊敬するしぃ、男として憧れるわぁ〜
今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:40:32
◆◇◆大人のジャズはよろしゅうおすぅなぁ〜◆◇◆
PAULINE LONDON /♪ BUBBLES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:41:40
GARY BARTZ /♪ GENTLE SMILES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:43:33
Fats Waller & His Rhythm And His Orchestra /♪ THE JITTERBUG WALTZ
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:44:30
GEORGE LEWIS AND HIS NEW ORIEANS STOMPERS /♪ Mahogany Hall Stomp
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:45:21
POINTER SISTERS /♪ LITTLE PONY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:46:29
HOT TODDIES JAZZ BAND /♪ LESTER LEAPS IN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:47:19
DIZZY GILLESPIE /♪ GROOVIN' HIGH
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:48:09
ALEX SIPIAGIN /♪ SWANA'S POINT
◆ラジオの友◆
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2025/10/22 (Wed) 14:49:07
BILLIE HOLIDAY /♪ What A Little Moonlight Can Do
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:50:02
Art Farmer/♪ UPPER MANHATTAN MEDICAL GROUP
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:50:54
KENNY BARRON QUINTET /♪ VON HANGMAN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:51:48
FRANK SINATRA /♪ FLY ME TO THE MOON(IN OTHER WORDS)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:52:44
BOBBY TIMMONS /♪ A LITTLE BAREFOOT SOUL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:53:38
JOE FARNSWORTH /♪ ALL SAID AND DONE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:54:31
DENA DEROSE /♪ IN A MELLOW TONE
◆ラジオの友
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251022 - ラジオの友 URL
2025/10/22 (Wed) 14:55:22
BILL EVANS /♪ Blue Interlude
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:27:03
◆◇◆其の十九:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が政権運営する江戸幕府が、1614年にキリスト教の“禁教令”(きんきょうれい)を発布した事により、“伴天連の大旦那”(バテレンのおおだんな)かつキリシタン大名と呼ばれた高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)の立場は更に悪くなる。
しかし、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が発布した「バテレン追放令」と同様に、キリスト教への信義忠誠を尽くす高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)の信仰は揺らぐ事はなかった。
これにより高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)はキリスト教の信者と共に、江戸幕府から国外追放の処分を受ける。
こうして高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は妻のジュスタこと高山妙(たかやまたえ/荒木→織田→豊臣)と家族、それにキリスト教の信者の総勢350人と共に、加賀国(石川県)から肥前国(長崎県)に出向き、そこから船で海を渡り南方にあるフィリピンのマニラに到着した。
この時に松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)の甥で、キリシタンだった内藤如安(ないとうじょあん)こと内藤忠俊(ないとうただとし/三好→織田)も同行している。
フィリピンのマニラはキリスト教が浸透しており、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)らは国賓(こくひん)として歓迎され、日常生活の擁護も受けた。
ただ、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は南国特有の感染症を発病し高熱を出し、フィリピンのマニラに到着してから40日余りで妻のジュスタこと高山妙(たかやまたえ/荒木→織田→豊臣)ら家族に看取られ病死してしまう。
その後の日本では、江戸幕府の征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)に世代交代されるにつれ、キリスト教に対する弾圧が厳しくなる。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の江戸幕府が“禁教令”(きんきょうれい)を発布した際に、肥前国(長崎県)の島原や肥後国(熊本県)の天草で、キリスト教(カトリック)の布教活動をしていた宣教師のマルコスフェラロ(ママコス/神父)も国外追放された。
このマルコスフェラロ(ママコス/神父)は日本から立ち去る時に、天草領民のキリシタンに25年後の予言をしていた。
時は25年近く流れ、九州地方では天候不順や天変地異などで農民の生活は疲弊していた。
ただ、どんなに土地が枯れて穀物が実らなくても、領民に対する年貢の取り立ては厳しいものがあった。
特に肥前国(長崎県)の島原藩の藩主だった松倉勝家(まつくらかついえ/島原)と、肥前国(佐賀県)の唐津藩の藩主で肥後国(熊本県)の天草領も管轄していた寺沢堅高(てらさわかたたか/唐津・天草)は酷(ひど)いものがあり、年貢を納められない領民を海に投げ込んだり、火炙(あぶ)りにして惨殺していた。
この時の領民に対するジェノサイド(集団惨殺)は主に下記の通りである。
①:キリシタンを見た目で判断できる目印として、片耳を削ぎ落とす“耳採”(みみとり)。
②:キリシタンに藁蓑(わらみの)を着せて火を着けて、悶絶させる“蓑踊り”(みのおどり)で焼死させる。
③:雲仙岳(うんぜんだけ)の火口付近から湧き立つ熱湯を、キリシタンを裸にして身体に浴びせる“雲仙地獄の熱湯漬け”で大火傷(おおやけど)させて死に至(いた)らしめる。
④:海岸沿いに木柱を立ててキリシタンを括り付る“水磔”(すいたく)で、大波と満潮により水死させる。
⑤:キリシタンを逆さにし吊るして、汚物が溜められた肥溜(こえだ)めの穴に漬ける“穴吊り”で、異臭圧迫と血統逆流で死に至(いた)らしめる。
ここまで弾圧されたキリシタンなどの領民が、反乱を起こさない方に無理がある。
BLONDIE /♪ DETROIT 442
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:27:57
◆◇◆其の二十:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
江戸幕府は征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の時代。
キリシタン弾圧も相まって、これにより肥前国(長崎県)の島原と肥後国(熊本県)の天草で同時期に一向一揆が起こる。
この天草領民の苦悩を傍(かたわ)らで見ていたのが、益田好次(ますだよしつぐ/小西)と息子の益田時貞(ますだときさだ)こと天草四郎(あまくさしろう/ジェロニモ)の親子である。
益田好次(ますだよしつぐ/小西)は、元は肥後国(熊本県)の戦国武将で宇土城(うとじょう)の城主だった小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)の家臣だった。
ただ、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)が西軍の副大将に就いたため、敗戦責任により徳川政権から切腹を命じられるも、キリシタン大名のため自害は禁じられているとして京都の六条河原で斬首された。
主君を失い牢人(無職侍)となった益田好次(ますだよしつぐ/小西)は、肥後国(熊本県)の天草で農民として働いていた。
この時、息子の益田時貞(ますだときさだ)こと天草四郎(あまくさしろう/ジェロニモ)は16歳の青年。
美男子でオーラを醸し出していた益田時貞(ますだときさだ)こと天草四郎(あまくさしろう/ジェロニモ)は、天童として一向一揆の主導者として担ぎ出される。
肥前国(長崎県)の島原一向一揆は島原城(しまばらじょう)を襲撃して占拠する。
肥後国(熊本県)の天草一向一揆は富岡城(とみおかじょう)を襲撃して占拠する。
この九州の一向一揆に対して江戸幕府は、三河国(愛知県)の深溝藩(ふこうず/幸田)の藩主だった板倉重昌(いたくらしげまさ/江戸)を反乱鎮圧に向かわせた。
ところが如何(いか)んせん、1615年に起こった「大坂・夏の陣」以降から22年間、侍所(さむらいどころ)とは言え、まともな戦(いくさ)をした事がない江戸幕府である。
島原一向一揆と天草一向一揆は、肥前国(長崎県)の原城(はらじょう)に集結して篭城し、その数は3万7000人に膨らんでいた。
板倉重昌(いたくらしげまさ/江戸)の軍隊は、強靭となった島原天草一向一揆の抗戦で壊滅寸前まで追い込まれた。
これにより徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)が指揮する江戸幕府は、老中(ろうじゅう)で武蔵国(埼玉県)の川越藩の藩主だった松平信綱(まつだいらのぶつな/徳川)が率いる12万人の軍隊を向かわせる。
ただ板倉重昌(いたくらしげまさ/江戸)は、この援軍が九州に到着する前に一向一揆を鎮圧させたい気持ちが焦りに変わり、無謀な攻撃を仕掛けて返り討ちに遭い討死する。
松平信綱(まつだいらのぶつな/徳川)の軍隊が到着すると、先(ま)ずはオランダ軍艦を借りて海上から大砲で攻撃する。
その後、無理な進撃はせず原城(はらじょう)を包囲して、徹底的な兵糧攻めをして、城内に居る3万7000人は食糧が無くなり飢えに苦しむ。
弱ったところで総攻撃を開始して、島原天草一向一揆は全滅する。
主導者となった益田時貞(ますだときさだ)こと天草四郎(あまくさしろう/ジェロニモ)も斬首され梟首(きょうしゅ)となった。
これを1637年に起こった「島原天草の乱」(しまばらあまくさのらん)と呼ぶ。
ただ江戸幕府は一向一揆の勃発原因の責任として、肥前国(長崎県)の島原藩の松倉勝家(まつくらかついえ/島原)は領地没収の改易(かいえき)となり、美作国(みまさか/岡山県)の津山藩に連行され斬首された。
一方、肥前国(佐賀県)の唐津藩の寺沢堅高(てらさわかたたか/唐津・天草)は肥後国(熊本県)の天草領を没収されたのみだったが、一向一揆がトラウマとなり精神疾患を患い自害してしまった。
このキリシタン反乱軍を教訓に江戸幕府は、さらにキリスト教の弾圧を最強水準まで引上げる。
その1つがキリシタンを識別する“絵踏制度”を制定し、領民にイエスキリストや聖母マリアの絵が描かれた板を足で踏む“踏み絵”を実施させた。
さらにキリスト教の信仰を禁じて、1640年に仏教の崇拝を促進させる“寺請制度”(てらうけせいど)を制定し、檀家(だんか)となるお寺が“宗門改”(しゅうもんあらため)を発行して領民の戸籍(住民登録)管理をした。
これが現在の戸籍制度となる。
THE POLICE /♪ BORN IN THE 50'S
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:28:49
◆◇◆其の二十一:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
1603年に江戸幕府の開設された頃、征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、2年後の1605年にの徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に家督を継承して征夷大将軍2代目に就任させた。
大御所となった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)に隠居し、ここから江戸幕府の政権を掌握した。
一方の征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)は、武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に居城して大御所の指示に従った。
この“二頭政治”(にとうせいじ)となる徳川親子の連絡網を設けて、江戸幕府の侍従(じじゅう)が書簡を持って東海道を行ったり来たりしていた。
武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)では、老中の本多正信(ほんだまさのぶ/徳川)と大久保忠隣(おおくぼただちか/徳川)が将軍の世話役に抜擢された。
駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)では、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の“最愛の友”でもある本多正信(ほんだまさのぶ/徳川)の息子の本多正純(ほんだまさずみ/徳川)が、大御所の世話役に抜擢された。
そんな江戸時代初期では、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)や1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」で、豊臣軍に加担した武士が牢人(無職侍)となり、徳川政権の処罰を恐れて多くの牢人(無職侍)が船に乗り海外に逃亡したと言う。
そんな海外移住者に牢人(無職侍)ではないが、駿河国(静岡県)の沼津藩の藩士の家系で、1590年に誕生した山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)も含まれていた。
山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は身長も高く体格もよかった為に、沼津藩の藩主に就任していた大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)の駕籠舁(かごかき)に就いていた。
ただ、この駕籠舁(かごかき)に身が入らない山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は、牢人(無職侍)などが次々と海を渡り外国に移住する事に憧れを感じる。
因みに、安祥松平氏(あんじょうまつだいらうじ)から仕える徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の重鎮家臣に、兄の大久保忠俊(おおくぼただとし/松平)と弟の大久保忠員(おおくぼただかず/松平)が居る。
その弟の大久保忠員(おおくぼただかず/松平)の息子で長男の大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)と次男の大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)は、徳川軍で功績を挙げた“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)に名を連ねている。
異母兄弟で三男の大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)は、徳川家(松平氏)の伝記物を執筆した「三河物語」の著者で有名となる。
次男の大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)の息子が、江戸城(えどじょう)の将軍の世話役に就任していた大久保忠隣(おおくぼただちか/徳川)である。
CHICAGO /♪ OLD DAYS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:29:42
◆◇◆其の二十二:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
この時期の江戸幕府は、開国して積極的に海外との貿易を実施していた。
港湾には多くの外国船が寄港し、港町には見られぬ外国人が闊歩(かっぽ)していた。
特に東南アジア一帯はヨーロッパ諸国の植民地が多く、そこを経由して日本に入ってきた。
その外国船が帰る時に、一緒に乗船して海外に移住する日本人も居た。
1612年にタイ(シャム)に向かう外国船に、山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)も乗船していた。
山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)が到着したタイ(シャム)のアユタヤ王朝が統治する地域は、国際貿易拠点としてオランダやイギリスにスペインやポルトガルなどの商人も多く居た。
アユタヤ王朝には、日本人町も設けられ3000人余りの商人とその家族が暮らしていた。
山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は、この日本人町に住居を構えて仕事に就いた。
この頃、アユタヤ王朝の貿易市場はオランダが独占していた。
この不公平な商取引に憤懣(ふんまん)した山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は、1621年に日本の江戸幕府に宛てて書状を送達した。
この時期の江戸城(えどじょう)には、駿府城(すんぷじょう/静岡)の大御所の世話役に就いていた本多正純(ほんだまさずみ/徳川)が老中として戻っていた。
このタイ(シャム)の山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)から届いた書状には、日本とタイ(シャム)の貿易での取引で、オランダが仲介に入り膨大な利益を搾取(さくしゅ)しており、この商慣行を是正して日本とタイ(シャム)の直接取引に切り替える事を推奨していた。
同時に高価で貴重な献上品も同梱(どうこん)されており、江戸幕府の本多正純(ほんだまさずみ/徳川)は不平等な外交問題に着手した。
こうして日本の江戸幕府とタイ(シャム)のアユタヤ王朝は、山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)が設立した貿易組織が仲介して、オランダへの利益の搾取(さくしゅ)が無くなり、両国の商取引による利益率が向上した。
GRATEFUL DEAD /♪ PICASSO MOON
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:30:34
◆◇◆其の二十三:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
タイ(シャム)のアユタヤ王朝の王族であるスコータイ王家のソンタム(アユタヤ王)は、貿易市場改革の成果を挙げた山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)を優遇した。
更に山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は、日本から逃亡してきた牢人(無職侍)を組織化して日本軍隊を編成した。
この時期にアユタヤ王朝は外国からの侵攻や軍事クーデターで内乱が続き、政局は不安定だった。
内乱が勃発する都度(つど)に、山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)が率いる日本軍隊などが反乱軍を攻撃して鎮圧していた。
この戦況を見たイタリアから来たイエズス会のアレッサンドロヴァリニャーノ(カトリック宣教師)は、日本人の身体能力の高さを称賛している。
そんな1621年にスペインが軍艦を侵攻させ、タイ(シャム)のアユタヤ王朝を包囲した。
これに対して山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)が率いる日本軍隊は、スペインの軍艦に火を放ち、動揺するスペイン兵士を斬り付けて壊滅させた。
その後の1624年にもスペインの軍艦が進軍してきたが、山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)が率いる日本軍隊の攻撃により撃退している。
アユタヤ王朝のソンタム(アユタヤ王)から信任を得た山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は直参家臣に就任する。
更にソンタム(アユタヤ王)の娘を妻に娶(めと)り、山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)はアユタヤ王朝の王族の仲間入りを果たした。
1626年にソンタム(アユタヤ王)が病気を患い、王位の継承問題が起こる。
タイ(シャム)のアユタヤ王朝の慣例では、王位は兄弟間で継承するとされていたが、日本から来た山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は、日本の天皇や将軍は親子間で継承すると助言した。
この提案にアユタヤ王朝の政治権力者だったシーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)が賛同して、山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)の日本軍隊を動員して軍事クーデターを起こし、ソンタム(アユタヤ王)の息子のチェーターティラート(アユタヤ王子)を後継者とした。
そして、1628年にソンタム(アユタヤ王)が死去すると、アユタヤ王朝の国王にチェーターティラート(アユタヤ王子)が即位(そくい)した。
しかし、政治権力者だったシーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)の勢力が拡大するにつれ、傀儡(かいらい)の王位にチェーターティラート(アユタヤ王子)は不満を募らせる。
先代のソンタム(アユタヤ王)に対して忠義に厚かった山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は、チェーターティラート(アユタヤ王子)を支持して守護した。
BRUCE HORNSBY & THE RANGE /♪ EVERY LITTLE KISS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:31:24
◆◇◆其の二十四:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
この山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)の動きに危機感を募らせたシーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)は、アユタヤ王朝から南方に位置するマレー半島のタイ(シャム)の領域だったリゴールへ左遷した。
この頃のリゴールはタイ(シャム)の政権に対する反発で、内乱が頻繁に勃発していた。
シーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)は、このリゴールを独立国家として山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)を王位に就任させた。
山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)がリゴールに移住している間に、シーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)はアユタヤ王朝の王族を次々に殺害していった。
これに国王のチェーターティラート(アユタヤ王子)は国軍を進行させてシーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)の討伐を試みるも、逆に返り討ちに遭い討死する。
こうしてアユタヤ王朝の国王が不在となった為に、先代のソンタム(アユタヤ王)の息子のアーティッタヤウォン(アユタヤ王)が即位(そくい)した。
しかし、シーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)が再び軍事クーデターを起こして、国王のアーティッタヤウォン(アユタヤ王)をアユタヤ王朝から追放し、自らが王位に就任した。
アユタヤ王朝の国王に就いたシーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)は、改名してプラーサートトーンと名乗る様になった。
一方のリゴールで国政を担う山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)は、隣国との交戦で負傷し、傷の手当てを受けた際にシーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)が送り込んだ刺客(しかく)により毒を塗られて1630年に死去した。
リゴールの国王だった山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)が死去した事で、日本軍隊やアユタヤ王朝の日本人町は動揺した。
その予感は的中し、シーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)は国軍を進行させて、日本人町に火を放ち全焼させ、そこで暮らす日本人もジェノサイド(集団殺戮)を実施した。
その後、アユタヤ王朝を追放されたアーティッタヤウォン(アユタヤ王)は軍隊を組成し、1637年にプラーサートトーンことシーウォーラウォン(官僚→ アユタヤ王)を攻撃するも、逆に返り討ちに遭い討死する。
こうして異国のタイ(シャム)で国王にまで就任した伝説の日本軍神と呼ばれた山田長政(やまだながまさ/沼津→タイ国王)の歴史は幕を閉じた。
OMC /♪ I LOVE L.A.
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:32:18
◆◇◆其の一:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
●仙台を中心とした宮城全域を震撼させた投資詐欺で美女と大金が消えた謎の事件を追え!!●
ジャンジャンジャ〜〜ン ジャンジャンジャ〜〜ン
チュチャ チュチャ チュチャ チュチャ
チャ〜ン チャチャチャ〜ン チャン
トゥルルルルルルル〜〜
♪さぁ 起きなさい〜 元気ハツラツ〜 オロナミンC〜
♪赤いその充血をぉ〜 指でグイグイ 擦(こす)りましょ〜
♪痛い 痛い なにすぅんねぇん!
♪この〜 都会(まち)は〜 色街だからぁ〜
♪男はみんなぁ〜 嘘(ウソ)を隠した浮気者〜 どうぞぉ〜 一時の快楽に溺れてぇ〜
♪スッキリして〜 家に帰って来たらぁ〜 本気(まじ)で〜 そのだらしない竿(さお)をちょん切るでぇ〜
わたし、両平なぎさ(フリーライター)は、日本に今なお残る小京都や江戸街道などの古い町並みを特集するルポライターである。
日本各地をカメラマンの船越米一郎(カメラマン)と共に、東西南北を縦横無尽に駆け巡り、日本の古き良き伝統と文化の取材旅行を続けている。
そんな取材先の宮城県仙台市や松島町で事件は起こった。
今回、雑誌の取材するのは主に3ヶ所で、仙台城(せんだいじょう/青葉城)と多賀城(たがじょう)と松島(まつしま/多島海)をグルリと廻る予定だ。
陸奥(みちのく)の首都と呼ばれる仙台市と言えば、“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と所縁(ゆかり)の仙台城(せんだいじょう/青葉城)で、東北地方の大都市として発展した。
仙台市から北東部に建つ多賀城(たがじょう)は、奈良時代に朝廷が政所(まんどころ)として配置して、奈良県の平城京(へいじょうきょう)と福岡県の太宰府(だざいふ)と共に“日本三大史跡”と呼ばれる。
多賀城市(たがじょうし)から北東部に位置する景勝地(けいしょうち)の松島(まつしま/多島海)は、京都府の天の橋立(あまのはしだて/宮津)と広島県の宮島(みやじま/廿日市)と共に日本三景と言われ、観て良し、描いて良し、詠(よ)んで良しの三拍子で、794年に平安京(へいあんきょう)へ遷都(せんと)した第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)の勅命(ちょくめい)を受けて、東北平定のため蝦夷(えみし)征伐に進軍した初代征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかうえたむらまろ/公家)も、その松島(まつしま/多島海)の美しさに絶賛したと言われる。
東京駅から東北新幹線に乗車して1時間40分余りで仙台駅に到着した。
両平なぎさ…『いやぁ〜 新幹線だと寝る間もなく、東京からあっという間に仙台に着いちゃったわぁ。』
船越米一郎…『朝から何も食べてないからお腹が空いちゃって、ちょうどお昼時だしランチに行きましょうよぉ。』
両平なぎさ…『そうね、仙台と言えば名物の牛タンにしましょう!』
船越米一郎…『おぉ〜 牛タン、牛タン、行きましょう、行きましょう!』
こうして仙台駅から少し西部に行った商店街のぶらんど〜む一番町に移動し、そこで美味しい牛タン御膳に舌鼓(したつずみ)を打った。
船越米一郎…『いやぁ〜 やっぱり本場の牛タンは美味(うまい)っすねぇ〜』
両平なぎさ…『本当ねぇ〜 今日はベイちゃんのご馳走だったから、特に美味しく感じたわぁ!』
船越米一郎…『いやぁ〜 いつもなぎささんにご馳走になってるから、たまには俺がご馳走しないとぉ!』
両平なぎさ…『でも、この仙台の繁華街も随分と変わったわねぇ〜』
船越米一郎…『えっ!? なぎささんは仙台によく来たんですか?』
両平なぎさ…『うん、昔ねぇ。 友達が仙台に住んでいて、バブル期に仙台に遊びに来て、夜なんかは一番町にあった仙台フォーラスのラ・レジオンや、その真向かいにあった仙台キング&クイーンなんかのディスコによく行ったわぁ。 懐かしいわねぇ〜』
船越米一郎…『ええっ〜!? なぎささんってイケイケギャルだったんですかぁ? まさかTバックを履いて、水着みたいな格好でお立ち台で踊ってたりしてぇ!』
両平なぎさ…『水着どころか、トップレスで踊ってたわよぉ!』
船越米一郎…『えええっ〜!? トップレス? 乳丸出しで踊ってたんですかぁ!?』
両平なぎさ…『そうよ、それが何か?』
船越米一郎…『清純ななぎささんのイメージ狂うなぁ〜』
JACK JOHNSON /♪ UPSIDE DOWN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:33:21
◆◇◆其の二:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
夜の仙台に想いを馳(は)せるイケイケギャルだった両平なぎさ(フリーライター)と、その清白(せいはく)な女性と思い込み落胆する船越米一郎(カメラマン)は、仙台城(せんだいじょう/青葉城)を望む事ができる広瀬川沿いにある旅館の“青葉乃宿”に向かった。
そこで出迎えてくれたのが女将の川村紅葉(旅館の女将)で、出身は京都だが訳あって仙台の地に辿り着いたと言う。
川村紅葉…『遠い所から遥々(はるばる)、よぉ〜おいでやすぅ。』
両平なぎさ…『あらぁ!? 女将さんは京都の方ですかぁ?』
川村紅葉…『そぉ〜どぉすぅ。 こっち(仙台市)に来てからも京都弁が治らんさかぁいに、お客様も喜びはぁるから、そのまんま治さんとぉ使こぅてますねぇん。』
船越米一郎…『いやぁ〜 宮城県に来て京都を感じるとは思いませんでしたぁ! ではぁ、美人の女将さんの写真を1枚、撮らせて頂きますよぉ。』
パシャリ パシャリ パシャリ パシャリ
川村紅葉…『いやぁ〜 ウチなんぞぉ、フイルムが勿体無(もったいな)いさかぁいに、撮らんといて下さい。』
そんな時に旅館のロビーには、“青葉乃宿”に宿泊する団体客も居合わせた。
不動産社長…『では皆様、明日から仙台を中心に値上がり間違いなしの、有望で極秘の投資マンションを数棟ほど見学しますので、今日は仙台名物の牛タンと地酒を堪能して、明日に備えてゆっくり休んで下さい。』
美人秘書…『こちらが皆様がお泊まりになるお部屋のリストです。 明日は朝の9時にこのロビーに集合して下さい。』
不動産社長…『明日の朝に遅刻されますと、そのまま置いていきますので、絶対に儲かる投資マンションに出会う事はできませんから、遅刻しない様にして下さいね。』
投資家…『はい、分かりました。』
この団体客は、仙台などの投資マンションを取扱う仙台ジャーナルペテン商会の不動産社長と美人秘書、それに不動産投資を商(あきな)いとする個人の投資家の数十人だった。
船越米一郎(カメラマン)がロビーで女将の川村紅葉(旅館の女将)の写真を撮っていた事が、後々に役立つ事になるとは、この時は知る由(よし)もなかった。
FOUR SEASONS /♪ DECEMBER,1963(OH WHAT A NIGHT)
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:34:14
◆◇◆其の三:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
宮城県の陸奥国(むつ/宮城県)で最も有名な戦国武将は、“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)こと伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)で異論は、無い!
ただ、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の先祖の伊達氏は、陸奥国(むつ/福島県)の福島市の北側に広がる伊達郡(だてぐん)を拠点に東北地方を統治していた武家である。
だから、宮城県はどちらかと言うと、伊達氏と結びつ付きの強い武家や国人(こくじん)が多い。
この陸奥国(むつ/宮城県)は武将よりも、やはり史跡の多賀城(たがじょう)が一番に思い浮かぶ。
奈良時代の朝廷は、九州は福岡県の太宰府(だざいふ)、近畿は奈良県の平城京、東北は宮城県の多賀城(たがじょう)を、政所(まんどころ)として日本列島を統治していた。
これらは“日本三大史跡”と言われる。
この陸奥(みちのく)で724年に築かれた多賀城(たがじょう)は創建1300年の節目を迎える。
そこから500年余り経った室町時代。
陸奥国(むつ/宮城県)から陸奥国(むつ/岩手県)は室町幕府の出先機関でもある奥州探題(おうしゅうたんだい)が置かれ、河内源氏の斯波氏(しばうじ)の系統でもある大崎氏が、その役職に代々に渡り就いていた。
大崎詮持(おおさきあきもち/室町)や大崎持詮(おおさきもちあきら/室町)、そして大崎義兼(おおさきよしかね/室町)へと奥州探題(おうしゅうたんだい)は引き継がれていく。
ところが、室町幕府の権力に衰退の兆しが見えると、各地の武将や国人(こくじん)が下克上(げこくじょう)により反乱を起こす。
これに手を焼いた大崎義兼(おおさきよしかね/室町)は、陸奥国(むつ/福島県)の伊達尚宗(だてひさむね/室町)に援軍要請する。
伊達尚宗(だてひさむね/室町)により一度は鎮圧したが、再び反乱が勃発し、大崎義直(おおさきよしなお/室町)は伊達稙宗(だてたねむね/室町)に援軍要請する。
伊達稙宗(だてたねむね/室町)により反乱は鎮圧したが、伊達氏は大崎氏の領土に対して権力統治を行う。
伊達稙宗(だてたねむね/室町)の息子の大崎義宣(おおさきよしのぶ/伊達→大崎)を、大崎義直(おおさきよしなお/室町)の養子に入れる。
MICHAEL BOLTON /♪ STEEL BARS
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:35:08
◆◇◆其の四:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
陸奥国(むつ/宮城県)の留守氏または伊沢氏は、藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)の系統で、留守職(るすしき)の職務を与えられていた。
留守持家(るすもちいえ/室町)などが活躍した。
そんな留守氏にも伊達氏の勢力が及び、伊達持宗(だてもちむね/室町)の息子の留守郡宗(るすくにむね/伊達)を、留守持家(るすもちいえ/留守)の養子として入れた。
さらに伊達尚宗(だてひさむね/室町)の息子の留守景宗(るすかげむね/伊達)も、留守郡宗(るすくにむね/伊達)の養子に入る。
伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子の留守政景(るすまさかげ/伊達)は、留守顕宗(るすあきむね/伊達)の養子に入り、岩切城(いわきりじょう/仙台)の城主となり、伊達氏の勢力基盤を強固にしていく。
ところが陸奥国(むつ/福島県)を領国統治する伊達氏の、父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)と息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)とで内紛が起こる。
父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が率いる父軍には、葛西晴胤(かさいはるたね/葛西)、大崎義宣(おおさきよしのぶ/伊達→大崎)、黒川景氏(くろかわかげうじ/飯坂→黒川)、国分宗政(こくぶんむねまさ/伊達)を味方に着ける。
息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)が率いる子軍には、大崎義直(おおさきよしなお/室町)、留守景宗(るすかげむね/伊達)を味方に着ける。
当初は父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が率いる父軍が情勢を有利に運ぶも、息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)が率いる子軍も白石城(しろいしじょう/刈田)に布陣すると劣勢を巻き返して、父軍の葛西晴胤(かさいはるたね/葛西)を子軍に寝返らせ勢力優勢として勝利する。
結局、敗北した父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)は隠居する事となる。
隠居先は、伊達氏に従属(じゅうぞく)していた亘理氏(わたりうじ)で、小堤城(こづつみじょう)の城主の亘理宗隆(わたりむねたか/亘理)にご厄介になる。
伊達稙宗(だてたねむね/室町)の息子が亘理元宗(わたりもとむね/伊達)で、亘理宗隆(わたりむねたか/亘理)の養子に入り、亘理城(わたりじょう)の城主に就任した縁もある。
戦後処理として子軍の大崎義直(おおさきよしなお/室町)は、父軍の大崎義宣(おおさきよしのぶ/伊達→大崎)を斬首した。
これを1542年に起こった「天文の乱」(てんぶんのらん)と呼ぶ。
これが“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)こと伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の曽祖父と祖父の親子紛争である。
LINDA RONSTADT /♪ YOU'RE NO GOOD
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:35:58
◆◇◆其の五:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
一方、留守顕宗(るすあきむね/伊達)の領地統制が上手くいかず、伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子の伊達輝宗(だててるむね/伊達)は留守氏の介入を深める。
先(ま)ず、伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子の留守政景(るすまさかげ/伊達)を留守顕宗(るすあきむね/伊達)の養子に入れて、岩切城(いわきりじょう/仙台)の城主に就任させる。
また国分氏も同様に、当主の国分盛氏(こくぶんもりうじ/伊達)が後継者を残さずに死去すると、伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子の伊達政重(だてまさしげ)こと国分盛重(こくぶんもりしげ/伊達)を国分氏に送り込み乗っ取りに成功する。
陸奥国(むつ/福島県)を領地とするのは、相馬氏の13代当主である小高城(おだかじょう/相馬)の城主の相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)と、その息子で14代当主の相馬顕胤(そうまあきたね/相馬)である。
その息子で15代当主の相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)は、「天文の乱」(てんぶんのらん)で父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が率いる父軍に味方していた為に、その後も息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)と対立していた。
隠居していた伊達稙宗(だてたねむね/室町)が死去すると、相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)は伊達氏の領土に侵攻を開始する。
伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子の伊達輝宗(だててるむね/伊達)は、相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)を討伐する為に伊達軍を侵攻させる。
その時、息子の若き伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)も参戦し、亘理元宗(わたりもとむね/伊達)の協力も得て、相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)を退陣させる。
KIM CARNES /♪ MORE LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:36:50
◆◇◆其の六:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
ここで伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の系統の陸奥国(むつ/福島県)の伊達氏を掘り下げてみよう。
伊達氏は室町時代から続く武将の名門であり、陸奥国(むつ/福島県)の伊達の梁川城(やながわじょう/伊達)を拠点とし、その後、勢力拡大と共に陸奥国(むつ/福島県)の桑折西山城(こおりにしやまじょう)や出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に移転していった。
陸奥国(むつ/福島県)の勢力地盤を固めた伊達晴宗(だてはるむね/伊達)は家督を息子の伊達輝宗(だててるむね/伊達)に継承させる。
先(ま)ず伊達輝宗(だててるむね/伊達)は、蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)と友好関係を築き、周辺の武将や国人(こくじん)の統治を強める。
出羽国(でわ/山形県)の最上義守(もがみよしもり/中野→最上)の娘で、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹の義姫(よしひめ/最上→伊達)を妻に娶(めと)る。
1567年に出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)にて、2人の息子の“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)こと伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が誕生する。
1575年に天然痘を発症して右目の視力を失う。
引っ込み思案で大人しく、隻眼(せきがん)も影響して自信が無い伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)の手配により臨済宗(りんざいしゅう)の僧侶の虎哉宗乙(こさいそういつ/僧侶)が教育係として就いた。
虎哉宗乙(こさいそういつ/僧侶)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に、900年頃の中国大陸の唐で活躍した武将の李克用(りこくよう/唐武将)の話しを聞かせた。
虎哉宗乙…『政宗よぉ、今から650年余り前に唐(とう)の猛攻武将と呼ばれた李克用(りこくよう/唐武将)を知っておるか?』
伊達政宗…『いっ、いいえ、知りません。』
虎哉宗乙…『李克用(りこくよう/唐武将)は、広大な中国大陸にその名が轟(とどろ)く程に大活躍した武将である。』
伊達政宗…『はぁ〜 そんな凄い人が僕と何の関係があるのですか?』
虎哉宗乙…『そんな英雄の李克用(りこくよう/唐武将)も、政宗と同じで隻眼(せきがん)だったんじゃ。 人々は彼の事を“独眼竜”(どくがんりゅう)と呼んだ。』
伊達政宗…『えっ!? “独眼竜”(どくがんりゅう)!?』
虎哉宗乙…『これは、どう言う意味か解るな。』
伊達政宗…『先生、僕も“独眼竜”(どくがんりゅう)の李克用(りこくよう/唐武将)の様な強くて立派な武将にして下さい!』
こんな軟弱な青年期の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)だが、後々は“東北の暴走族総長”と呼ばれる事となる。
MINNIE RIPERTON /♪ NEVER EXISTED BEFORE
◆ラジオの友◆
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2025/10/21 (Tue) 20:37:46
◆◇◆其の七:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
1584年に伊達輝宗(だててるむね/伊達)は家督を息子の“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)こと伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に継承させる。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は重鎮家臣の片倉景綱(かたくらかげつな/神社→伊達)と伊達成実(だてしげざね/伊達→徳川)を両翼に構えて、“知略の片倉景綱”と“武勇の伊達成実”により伊達軍は進撃を続けた。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は伊達氏の政権方針を変更して、友好関係にあった蘆名氏(あしなうじ)と対立して領土侵攻を始める。
蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)は大内定綱(おおうちさだつな/大内→伊達)と連携して伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対抗した。
こうなると伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)の蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)、16代当主の相馬義胤(そうまよしたね/相馬)、常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に包囲される事になる。
大内定綱(おおうちさだつな/大内→伊達)は、二本松畠山氏で二本松城(にほんまつじょう)の城主の畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)と連携を図り、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対抗する。
そんな最中(さなか)の1585年、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)が畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)に拉致(らち)される。
この時、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は鷹狩りに出掛けており、そこに早馬が来て知らせを聞いた。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は直(す)ぐに伊達軍を引き連れて、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)が幽閉されている陸奥国(むつ/福島県)の二本松城(にほんまつじょう)を包囲した。
畠山義継…『アハハハハァ〜 政宗よぉ、親父が人質とあらば、手も足も出ないだろぉ! 今まで伊達家が奪取(だっしゅ)した畠山家の領土を返してもらうぞぉ!』
伊達輝宗…『政宗、わしぃに構わず、此奴(こやつ)ら畠山軍を攻撃してくれぇ〜!』
伊達政宗…『親父よぉ、承知致した。』
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は伊達軍鉄砲隊に、二本松城(にほんまつじょう)に目掛けて総攻撃する様に指示した。
伊達政宗…『鉄砲隊、撃ち方をはじめぇ!』
伊達軍武士…『御意(ぎょい)!』
畠山義継…『えっ!? マジで?』
伊達輝宗…『えええっ!? ほっ、本気かぁ?!』
バッキュンバッキュン バッキュンバッキュン
畠山義継……『ギャ〜〜 やられた〜〜』
バタン
伊達輝宗…『政宗〜 わしぃ父親だけどぉ、少しは心情はないのかぁ〜?』
バタン
これに伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は反撃に出て、二本松城(にほんまつじょう)を総攻撃して畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)は討死し、同時に父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)も命を落とした。
これが戦国の武将である。
EVERYTHING BUT THE GIRL /♪ EACH AND EVERY ONE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:38:39
◆◇◆其の八:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
陸奥国(むつ/岩手県)では葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が領土侵攻の交戦を繰り広げていた。
ただ、長年の戦(いくさ)で戦力も疲弊し、葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に従属(じゅうぞく)する。
さらに大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)と、その家臣だった氏家氏(うじいえうじ)で岩出山城(いわでやまじょう/大崎)の城主の氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)が対立する事になる。
大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)は、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に援軍要請した。
一方、氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)は、陸奥国(むつ/福島県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に援軍要請する。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は留守政景(るすまさかげ/伊達)の軍隊を、氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)が率いる氏家軍に派遣した。
対する大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が率いる大崎軍は、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍の協力や、氏家軍に味方していた斯波氏の系統の黒川氏で鶴楯城(つるだてじょう/黒川)の城主の黒川景氏(くろかわかげうじ/飯坂→黒川)と、その孫の黒川晴氏(くろかわはるうじ/黒川)の大崎軍への寝返りがあり抗戦して勝利する。
この合戦で、伊達輝宗(だててるむね/伊達)の妻かつ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)が、実の兄の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)との和睦を取り持ち停戦する。
これを1588年に起こった「大崎合戦」(おおさきがっせん)と呼ぶ。
ただ、再び伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が対立した。
さらに伊達政重(だてまさしげ)こと国分盛重(こくぶんもりしげ/伊達)の領土でも反乱が勃発し、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が鎮圧する事となる。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)や留守政景(るすまさかげ/伊達)を従属(じゅうぞく)させて陸奥国(むつ/宮城県)の領土統治を強める。
そんな時に畿内(関西)から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の伊勢北条氏に対する「小田原城攻め」の大号令が下ると、東北地方の武将も参戦を要請された。
この「小田原征伐」(おだわらせいばつ)は東北の地にも豊臣軍から参陣要請が来て、陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松)からは“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍伊達隊が出陣した。
伊達政宗…『東北の猛将、伊達政宗、只今参上! 秀吉殿よぉ、大船(おおぶね)に乗ったつもりで安心して下さい。 私が来たからにはこの戦(いくさ)、勝利の香(かお)りしかしません!』
豊臣秀吉…『お前はアホォかぁ! 戦(いくさ)はとうに終わっておるわぁい!』
伊達政宗…『えっ!? 終わったのぉ?』
豊臣秀吉…『もう少し遅かったら、お前を打首にするところだったぞぉ! 後で始末書を提出せいっ!』
そうです、豊臣政権が日本統一する大切な合戦で、“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は大遅刻したのである。
後日、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は始末書を作成し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元に提出しに行った。
その時の格好が武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)を身にまとっており、意表を突いた斬新なパフォーマンスを豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に気に入られて不始末を許されたと言う。
TEDESCHI TRUCKS BAND /♪ I'M GONNA BE THERE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:39:36
◆◇◆其の九:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
その後、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に従属(じゅうぞく)する事となる。
そして脅威を排除した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、周辺の田村宗顕(たむらむねあき/田村)や小峰義親(こみねよしちか/白河→伊達)や石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)などを従属(じゅうぞく)させて伊達軍の勢力拡大を図る。
ところが伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が蘆名氏(あしなうじ)の領土に侵攻した事が豊臣政権の“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして、蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に訴え出たのである。
これに対して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による1590年に起こった「奥州仕置」(おうしゅうしおき)で、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)の非協力的な大名や武将は領地没収の改易(かいえき)や領地削減の減封(げんぽう)に処された。
そして、「小田原城攻め」の参戦に大遅刻した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は領地削減の減封(げんぽう)、参戦しなかった大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)や葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)や留守政景(るすまさかげ/伊達)は領地没収の改易(かいえき)となった。
豊臣政権から東北地方に送り込まれた大崎葛西の領主(奥州仕置)は木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)は、“太閤検地”(たいこうけんち)や“刀狩”(かたながり)を実施した。
この豊臣政権の処置に対する不満が高まり、東北地方の各地で一揆や反乱が勃発する。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)を総大将に大軍を率いて奥州征伐に進撃させる。
木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)を救援する為に、名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と協力を取りながら豊臣軍を侵攻させて反乱を鎮圧する。
ところが、その蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)と伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が、不和(ふわ)により仲違(なかたが)いした。
蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が東北武将と通じていると疑念を持ち、いつかは寝返るのではと考え距離を取る。
更に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、敵陣の葛西大崎軍と内通している噂(うわさ)が立っていた。
蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、その事を豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に報告し、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は京都に呼び出されて弁明する事になる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から京都に呼び出された伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は事実無根として弁明した。
その時の格好が武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)を身にまとい、更(さら)に大きな黄金の十字架を背負って豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に謁見(えっけん)した。
前回と同様に意表を突いた斬新なパフォーマンスで豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は大いに喜んだが、ただ、葛西大崎軍との内通は別の話しである。
陸奥国(むつ/福島県)や出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじきょう)などから、「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)の合戦で荒廃した陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)などに領地移転の転封(てんぽう)となり、領地削減の減封(げんぽう)を受けて58万石となった。
疑惑を晴らすかのように伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍は、東北地方の反抗勢力を次々と撃沈していった。
その後、木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)は、反乱勃発の責任により罷免(ひめん)された。
後半に大活躍した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)だったが、出羽国(でわ/山形県)の米沢城から陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)へ領地移転の転封(てんぽう)となる。
そして国分氏の居城だった場所に仙台城(青葉城)を築城し、仙台市の現在までの発展の礎(いしずえ)を築いた。
RANDY NEWMAN /♪ JOLLY COPPERS ON PARADE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:40:28
◆◇◆其の十:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
豊臣政権を担っていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)だが、1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて死去する。
翌年の1599年には“豊臣五大老”で親友でもあった前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)も死去し、こうなると徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の独走状態となる。
出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう/霞ヶ城)を拠点とする豊臣氏に怨念がある最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、初めから徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に従属(じゅうぞく)して協力関係にあった。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の威令(いれい)により陸奥国(むつ/宮城県)の仙台藩に移封(いほう)となった“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)も、愛娘の五郎八姫(いろはひめ/伊達→徳川)を徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子の徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)に嫁がせて親戚関係を築いている。
そこで始まったのが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣で陸奥国(むつ/福島県)の会津藩を含め120万石の大大名となっていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の討伐である。
1600年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍は東国へ進軍し「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かう。
畿内(きない/関西)を離れた隙(すき)を突いて挙兵した石田三成(いしだみつなり/豊臣)や小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)などが、西軍を組成して徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の討伐に動く。
こうして美濃国(岐阜県)にて「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)が西軍と東軍に別れて激突するのだが、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に対しての「会津征伐」(あいづせいばつ)は出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と、陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に引継がれ、羽前(うぜん/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)を中心に“北の関ヶ原”と呼ばれる「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)が起こる。
この合戦は上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の直参家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)や前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)の活躍もあり上杉軍が優位だったが、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹で伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)の大活躍が功を奏(そう)して最上伊達軍が勝利する事が出来た。
敗北した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の敗戦処理にて陸奥国(むつ/福島県)の会津藩から羽前(うぜん/山形県)の米沢藩に大幅減俸となる領地移転の転封(てんぽう)となった。
一方、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は大幅加増されたが、陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)の戦地に赴かなかったなどの理由により加増は軽微に終わる。
TOM PETTY /♪ IT'S GOOD TO BE KIND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:41:22
◆◇◆其の十一:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
しかし、幸運も不運も時の流れで、出羽国(でわ/山形県)の最上氏と陸奥国(むつ/宮城県)の伊達氏は、異なる運命を辿(たど)る事となる。
1614年に最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が死去し、息子の最上家親(もがみいえちか/徳川)が山形藩の藩主を引継ぐ。
この最上家親(もがみいえちか/徳川)も1617年に原因不明で急死した。
死因については、身内により毒殺された可能性があると言う。
父親の死去により急遽(きゅうきょ)、家督を継承した息子の最上義俊(もがみよしとし/徳川)だが、この時の最上氏の家臣は一枚岩ではなかった。
そして、1622年に起こった「最上騒動」(もがみそうどう)で事態を重く見た江戸幕府は、50万石以上あった最上氏を領地没収の改易(かいえき)とし、その時に藩主だった孫の最上義俊(もがみよしとし/徳川)は近江国(滋賀県)の大森藩(東近江市)の藩主に移封(いほう)となった。
その後の山形藩に入ったのが鳥居忠政(とりいただまさ/徳川)で、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から無二の親友と呼ばれ山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)の城代を務めた鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)の息子で、この地を徳川幕府が最も重要拠点としていた事がよく判る。
一方、領国の憂(う)き目に遭(あ)った陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)だが、仙台城(せんだいじょう/青葉城)を築城して城下町の整備をし、新田開発やエスパーニャ(スペイン)との交易で巨万の富を得る仙台藩に育て上げる。
江戸幕府でも、1616年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が死去し、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)にも忠義を持って仕え、特に征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)には“伊達のおやじ殿”と呼ばれ懐かれて、御伽衆(おとぎしゅう)となり藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)と共に戦国の合戦を話し聞かせたと言う。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の仙台藩は、江戸城(えどじょう)の大手門や内堀の石垣などを自費で普請(ふしん)している。
そして1636年に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は人生の幕を閉じた。
その後、伊達氏は1660年頃に家督継承を巡り「伊達騒動」はあったものの、1867年の「大政奉還」(たいせいほうかん)まで仙台藩の藩主として君臨(くんりん)した。
TODD RUNDGREN /♪ BE NICE TO ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:42:11
◆◇◆其の十二:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
両平なぎさ(フリーライター)と船越米一郎(カメラマン)は、仙台城(せんだいじょう/青葉城)の取材を終えて旅館の“青葉乃宿”に帰って来た。
その時に事件を初めて知った。
川村紅葉…『いやぁ〜 お客はぁん、えらい事ですねぇん! 団体客でお泊まりになった不動産会社の社長はぁんが行方不明になりましてぇん。 さっき警察の方がみえて、そりゃえらい騒ぎですわぁ〜』
昨日、旅館のロビーで見た仙台ジャーナルペテン商会の社長が、数十人の投資家を投資マンションに案内している最中(さなか)に行方不明となり、付き添いの美人秘書が警察に連絡したと言う。
警察の美人秘書に対しての事情聴取で、投資マンションを見学中に不動産社長と数人の投資家が言い合いとなるトラブルが発生していた事が判明した。
その直後から不動産社長が行方不明になった。
警察の詳しい捜査では、どうやら行方不明の不動産社長は、無価値のマンション(原野商法/げんやしょうほう)や存在しない不動産を売り付ける仙台では有名な詐欺師(ペテン師)だった様だ。
この事件の話しを女将の川村紅葉(旅館の女将)から聞いた両平なぎさ(フリーライター)は、目がキラリと光った。
両平なぎさ…『これは重大な事件の匂いがするわぁ! 私達も不動産社長の行方不明について調査しましょう!』
船越米一郎…『やめましょうよぉ〜 警察に任せましょう、警察にぃ!』
両平なぎさ…『こんなスクープを目の前にして、それでもジャーナリスト魂はあるのぉ! いいわよぉ、私1人でも追求するからぁ!』
船越米一郎…『仕方ない、惚れた弱みだからなぁ〜 トコトン付き合うかぁ!』
両平なぎさ…『それでこそベイちゃん、大好きよぉ、チュ!』
船越米一郎…『デェへへ〜』
部屋に戻った2人はパソコンを開き、昨日にロビーで撮った女将の川村紅葉(旅館の女将)のデータ保存された写真を何気に見ていた。
両平なぎさ…『ベイちゃん、この女将さんを撮った写真に、不動産社長と美人秘書、それに数十人の投資家が写り込んでいるわぁ!』
船越米一郎…『本当だぁ〜! これで事件関係者の顔写真が手に入りましたねぇ。 俺の写真もたまには役に立つでしょ!』
両平なぎさ…『お手柄、お手柄!』
船越米一郎…『お手柄、お手柄!』
そんな時に部屋に置いてあるテレビのニュースで、行方不明の不動産社長が日本三景の松島(まつしま/多島海)の海岸で溺死となって発見された事が報道された。
両平なぎさ…『ベイちゃん、この人、行方不明の不動産社長よぉ!』
船越米一郎…『本当だぁ〜 まさか海で死んでたとわぁ! ますます怪しい事件ですねぇ〜』
両平なぎさ…『これは間違いなく殺人事件よぉ! 容疑者は投資マンションの案内中にトラブルとなった投資家の誰かねぇ!』
船越米一郎…『それぇ、間違いないっすよぉ! 明日、早速に松島(まつしま/多島海)に行ってみましょう!』
こうして両平なぎさ(フリーライター)と船越米一郎(カメラマン)は、不動産社長の怪死事件を追って松島(まつしま/多島海)に行く事になった。
THE CHI-LITES /♪ OH GIRL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251021 - ラジオの友 URL
2025/10/21 (Tue) 20:43:09
◆◇◆其の十三:令和サスペンス劇場/宮城投資ジャーナル怪死事件◆◇◆
仙台駅からJRに乗車して、途中で多賀城(たがじょう)に立ち寄り取材して、再びJRに乗車して松島(まつしま/多島海)に向かった。
不動産社長が溺死体で発見された松島(まつしま/多島海)の崖地には、警察の捜査員や報道関係者が集まっていた。
そして事情聴取の為に事件現場に来ていた、不動産会社の美人秘書と投資家の数十人の姿もあった。
この中に不動産社長を崖地から突き落とした犯人が居る事は間違いない。
両平なぎさ(フリーライター)と船越米一郎(カメラマン)は、事件現場の捜査担当する豊中刑事(捜査一課)と芹谷刑事(捜査一課)から詳細な話しを伺った。
ところがである。
この事件は思わぬ展開を見せた。
両平なぎさ…『えっ!? 警察の潜入捜査中で起こった事故?』
芹谷刑事…『そうなんですよ。 投資詐欺行為の容疑がある不動産会社に、ウチの捜査員が潜伏(せんぷく)して、実態解明に向けて捜査していた最中(さなか)に起こった偶発的な事故なんですよ。』
船越米一郎…『偶発的な事故って、どう言う事なんですか?』
豊中刑事…『だからぁ〜 ウチの窓際で暇(ヒマ)している警部殿が、潜入捜査で投資家に扮(ふん)して不動産社長に近付いていたら、その投資マンション取引の悪徳行為を巡って言い合いとなり、詐欺罪を逃れられないと思った不動産社長が突然に崖地から海に飛び降りたと言う訳ですよ。』
この事件は、警察が投資マンションを取扱う不動産会社の仙台ジャーナルペテン商会の投資詐欺行為を捜査する為に、捜査員の杉下左京(特命係)が投資家に扮(ふん)して団体客に潜伏(せんぷく)し、詐欺の実態を解明する捜査だった。
ところが昨日、松島(まつしま/多島海)にある投資マンションを見学した後に、投資家に扮(ふん)した杉下左京(特命係)が、その物件の不備を指摘して不動産社長に詰め寄ったと言う。
その遣(や)り取りは、こうである・・・
杉下左京(投資家)…『日本三景の松島(まつしま/多島海)に建つ投資マンションなのに、どうして部屋から海の景色が望めないんですかぁ! 見えるのは隣地に住む婆さんの下着姿だけじゃないですかぁ! これでは詐欺同然ですぞぉ!』
不動産社長…『いやぁ、投資マンションも住戸の向きによって景色が変わり、海の見える絶景の住戸もあれば、婆さんの下着姿が見える住戸もあります。 それは購入いただく住戸により変わってきます。』
杉下左京(投資家)…『どうして私に薦める住戸が、婆さんの下着姿が見える部屋なんですか!? 若い娘ならまだしも、これはれっきとした詐欺行為ですぞぉ!』
不動産社長…『どこが詐欺行為なんですか? これは商取引の誤認ですよ。 よくある事です。』
杉下左京(投資家)…『あなたは人を騙(だま)す事に喜びを得る卑劣(ひれつ)な生き物だぁ! この世に存在する価値など、ありませんっ!! 今すぐにでも、その崖地から飛び降りて、数々の罪を償いなさぁ〜い!』
不動産社長…『うっ、うわぁ〜〜 僕は、僕は人を騙(だま)したりはしてませぇ〜ん!』
ダッダッダッダッ〜
ヒュ〜〜
ドボォ〜〜ン
そして、事件現場では・・・
杉下左京…『いやですねぇ〜 私が少しだけ強い口調で捲(まく)し立てたら、あの不動産社長が突然に走り出して、崖地から飛び降りたんですよねぇ〜 私も驚きました。』
鶴山薫…『左京さんは、よく人を追い込むから! これからは気を付けて下さいよぉ。』
不動産社長を死に追い遣(や)った潜入捜査員の杉下左京(特命係)の軽い感じに対して、同僚の鶴山薫(特命係)も同じ様に軽い感じで突っ込んでいた。
両平なぎさ…『投資詐欺行為の潜入捜査で起こった事故だけど、どうなるの、この事件?』
船越米一郎…『あの潜入捜査員の杉下左京(特命係)さんも、全く罪の意識を感じてないですよ。』
両平なぎさ…『これ以上は、この事件の捜査は無理そうね。』
船越米一郎…『そうですね。 ついでに本題の松島(まつしま/多島海)を取材して、東京に帰りますか。』
わたし、両平なぎさ(フリーライター)は、次なるスクープを求めて、日本各地の歴史ある魅力的な街を旅するのでした。
NATALIE COLE /♪ WHEN I FALL IN LOVE
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:20:30
DJ…『いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、紳士の社交場、娯楽の殿堂、音楽の楽園、ゴーゴー喫茶の“胸毛美女”(ムナゲビジョ)にお越しくださいまして誠にありがとうございます。』
DJ…『それでは出だしから、バンバン盛り上げていみましょう!』
ザ・スパイダース/♪ バンバンバン
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:21:42
DJ…『さぁ、トンネルを抜けて、お花畑に居る可愛いあの子に会いに行こう!』
ザ・ダイナマイツ/♪ トンネル天国
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:22:37
DJ…『このテケテケサウンドに乗せて、若大将になりきりろう!』
DJ…『♪たった一人の日暮れに〜 見上げる空の星くず〜 僕と君のふたつの愛が〜 風にふるえて光っているぜ〜 君と別れたあの夜〜 思いださせる星空〜 君の星はあんなに蒼く〜 どうして今宵(こよい)は潤(うる)んでいるの〜』
寺内タケシとブルージーンズ/♪ 蒼い星くず
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:23:33
DJ…『さあ、グループサウンズ(GS)と言えば、このグループです!』
DJ…『そう! サリー、タロー、ピー、トッポ、ジュリーの5人が奏でるザ・タイガースの♪シーサイドバウンド!』
DJ…『さあさあ、みんなもこのリズムで踊っちゃおう!』
DJ…『右、左、後、前、右、左、ゴーバン!』
DJ…『右、左、後、前、右、左、ゴーバン!』
ザ・タイガース/♪ シーサイドバウンド
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:24:32
DJ…『♪あ〜 あっああ〜 あ〜 あっああ〜 神様〜 お願いだぁ〜 僕はぁ〜 ショーケン〔萩原健一(はぎわらけんいち/レコード歌手→マカロニ)さん〕に逢いたいのさぁ〜』
DJ…『そんな音楽の楽園、ゴーゴー喫茶の“胸毛美女”(ムナゲビジョ)は、富山県の古都と言われる高岡市で60年間も営業する老舗で、加賀前田氏の高岡城(たかおかじょう)と共に市民の皆さんに愛されていまぁ〜す。』
ザ・テンプターズ/♪ 神様お願い
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:25:32
DJ…『本日のダンサーは天神橋筋六丁目からお招きいたしましたゴーゴーガールのあんみつ姫とピーチ姫のお二人です。 快楽の神秘、快楽の境地を心ゆくまでお楽しみください。』
DJ…『ただ、上演に先立ちまして、お客様方に一言、お願い申し上げます。 店内での写真撮影、ならびに、ダンサーのお肌、衣装には絶対にお手を触れる事のないよう固くお断りしておきます。』
DJ…『それではゴーゴーガール・あんみつ姫とピーチ姫、張り切ってまいりましょう。 レッツゴーダァ〜ンス!』
ザ・ジャガーズ/♪ キサナドゥーの伝説
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:26:28
DJ…『どうですかぁ〜 このゴーゴーガールのあんみつ姫とピーチ姫の妖艶な乱舞! 魅惑な踊りに酔いしれろぉ〜!』
ザ・モップス/♪ 朝まで待てない
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:27:23
DJ…『はい、拍手、拍手、たくさんの拍手をお願いします。 拍手をすればするほどダンサーがハッスルいたします。』
ザ・カーナビーツ/♪ 好きさ好きさ好きさ
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:28:51
DJ…『ブルーブルーブルーで、ダンスゥダンスゥダンスゥ〜!』
ブルーコメッツ/♪ ブルーシャトウ
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:30:14
DJ…『レディ・グループサウンズ(GS)と呼ばれる中村晃子(なかむらあきこ/レコード歌手→プレイガール)さんに負けじと劣らず、魅力的なゴーゴーガールのあんみつ姫とピーチ姫に賞賛の拍手をお願いしまぁ〜す!』
中村晃子/♪ 虹色の湖
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:31:06
DJ…『ありがとうございます。 ありがとうございます。 これにてダンスショーは終了になります。』
DJ…『お客様にはそのままの席でごゆっくりお楽しみくださいませ。 安いお値段、あふれる情熱、音楽の楽園、ゴーゴー喫茶の“胸毛美女”(ムナゲビジョ)をよろしくお願いします。』
オックス/♪ スワンの涙
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:32:02
DJ…『本日、ゴーゴー喫茶の“胸毛美女”(ムナゲビジョ)に、とてもハッピーなお客様がご来店しております。 ぜひ、店内の皆様でご祝福してあげて下さい。』
DJ…『先日、ご結婚が決まりました永田レイナちゃん、ハッピーウエディングおめでとぉ〜!』
ウッ〜〜〜〜〜〜〜ン(サイレン)
お客さん…『おめでとぉ〜!』
DJ…『レイナちゃん、末永くお幸せにぃ〜! 今宵(こよい)もお付き合いの方、どうぞよろしくぅ!』
ザ・サベージ/♪ いつまでもいつまでも
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:33:03
DJ…『イタリア系の安岡力也 (やすおかりきや/レコード歌手→ホタテマン)さんが所属したシャープホークスは、ほぼ全員のメンバーがハーフ(混血)でしたぁ〜』
DJ…『特にイギリス系アメリカ人のジミーレノン(レコード歌手→モデル)さんは、後年期までモデルとして活躍するほどの美男子でぇ〜す! イケメン好きの女子はチェックしてねぇ〜』
シャープホークス/♪ 遠い渚
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:34:01
DJ…『ここでDJよりインフォメーションがございます。 音楽の楽園、ゴーゴー喫茶の“胸毛美女”(ムナゲビジョ)では、毎週金曜日に“ノーパンナイト”を開催しております。 当日、ミニスカートにノーパンでお越しのお客様は、何と入店料を100円とさせて頂きます。』
DJ…『音楽の楽園、ゴーゴー喫茶の“胸毛美女”(ムナゲビジョ)の毎週金曜日はノーパンレディが、鏡張のダンスフロアで思いっ切り乱舞して楽しい夜を演出しておりますので、是非、皆さまのご来店、お待ちしております。』
ザ・ワイルドワンズ/♪ 想い出の渚
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:34:55
DJ…『今でもカバーされるヴィレッジシンガーズが大ヒットさせた♪亜麻色(あまいろ)の髪の乙女です。』
DJ…『このメローな曲調に乗せて、みんなも一緒に歌おう〜!』
DJ…『♪亜麻色(あまいろ)の長い髪を〜 風が優しく包む〜 乙女は胸に〜 白い花束を〜 羽根のように丘を下り〜 優しい彼のもとへ〜 明るい歌声は〜 恋をしてるから〜』
ヴィレッジシンガーズ/♪ 亜麻色の髪の乙女
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:35:49
DJ…『現在でも横浜の本牧と言えばザ・ゴールデンカップスと答える程に、グループサウンズ(GS)ではリーダー的なバンドでぇ〜す!』
DJ…『あのゴダイゴのミッキー吉野(よしの/レコード歌手→音楽家)さんもザ・ゴールデンカップスに所属してましたぁ〜』
DJ…『さあ、みんなも一緒に歌おう〜!』
DJ…『♪長い髪の少女〜 孤独な瞳〜 うしろ姿悲しい〜 恋の終わり〜 どうぞ僕だけに〜 心を打ち明けて〜 どうぞ聞かせてね〜 愛の物語〜』
ザ・ゴールデンカップス/♪ 長い髪の少女
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:36:45
DJ…『淋しがり屋の殿方を優しく慰める音楽の楽園、ゴーゴー喫茶の“胸毛美女”(ムナゲビジョ)。』
DJ…『サラリーマンは会社帰りに、学生さんは学校帰りに、どうぞお誘い合わせのうえ、たくさんのご来場をお待ちしております。』
ザ・スパイダース/♪ 夕陽が泣いている
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:37:42
DJ…『さあ、グループサウンズ(GS)の最後の取り(トリ)は、やはりこのグループ! ザ・タイガースでレッツゴー!』
DJ…『♪花咲く〜 娘たちは〜 花咲く〜 野辺(のべ)で〜 ひな菊の花の首飾り〜 優しく編んでいた〜 おお 愛のしるし〜 花の首飾り〜』
ザ・タイガース/♪ 花の首飾り
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251019 - ラジオの友 URL
2025/10/19 (Sun) 00:38:39
DJ…『それではお名残おしゅうございますが、これをもちましてお別れの曲とさせていただきます。 素敵な夜をありがとう、またのご来場をスタッフ一同お待ちしております。』
DJ…『では、皆さんお休みなさい。』
アンルイス/♪ グッバイマイラブ
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:21:18
◆◇◆其の一:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
船の歴史は古く、稲作が根付いた弥生時代には既に日本列島と中国大陸や朝鮮半島を船が行き来していた。
北九州の奴国(なこく)は中国大陸の漢(かん)と国交を締結し、漢(かん)から国交友好の証として“漢委奴国王”と刻まれた金印が贈呈され、その金印が江戸時代の1784年に筑前国(福岡県)の志賀島(しかのしま)で発見されている。
“三国志”(さんごくし)でお馴染みの220年に魏(ぎ)を建国した曹操(そうそう/魏の武人)には、息子で魏(ぎ)の王朝を開国した曹丕(そうひ/武人→ 魏の皇帝)、そしてその息子の曹叡(そうえい/魏の皇帝)が250年頃に皇位を引き継いだ。
“邪馬台国”(やまたいこく)を創建した卑弥呼(ひみこ/女帝)は、この中国大陸の曹叡(そうえい/魏の皇帝)と国交を締結し、その経緯(けいい)が“魏志倭人伝”(ぎしわじんでん)に記載されている。
推測では、曹叡(そうえい/魏の皇帝)から卑弥呼(ひみこ/女帝)に、倭国(わこく/日本)の女王として認定した“漢委奴国王印”(かんのわのなのこくおういん)を贈呈したと考えられている。
この様に200年頃には、人類は大海原を渡る技術と冒険心を持っていた事が解る。
外国から渡来人が海を渡り訪日する事ができれば、当然に倭国(わこく/日本)から日本人が海を渡り外国に行く事もできる。
特に日本に居る事ができない事情が出来た牢人(無職侍)や罪人の多くが海外に渡っていた。
江戸時代前後の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)や、1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」で敗北した豊臣軍に就いた武士は、徳川政権の制裁を恐れて海外に逃亡したと言う。
そんな海外移住した有名な武人を見てみよう。
BULLET FOR MY VALENTINE /♪ THE LAST FIGHT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:22:22
◆◇◆其の二:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
海外移住した武将で最も有名なのが高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)でしょう。
ただ、自らの意思で海外移住した訳ではなく、徳川政権による制裁で国外追放となりフィリピンのマニラに渡来した。
戦国時代の1552年に、摂津国(大阪府)の高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)の嫡男(ちゃくなん)として誕生した高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)である。
高山氏は、第59代天皇の宇多天皇(うだてんのう/朝廷)の息子の敦実親王(あつみしんのう/朝廷)の末裔とされ、摂津国(大阪府)の高山(豊能)の地頭(じとう)に就任し、飛騨守(ひだのかみ)を名乗った。
飛騨守(ひだのかみ)の高山氏だが、飛騨国(岐阜県)の高山とは何の関係もない。
この時期の畿内(きない/関西)を中心とした摂津国(大阪府)は、室町幕府の権威喪失により戦国時代の騒乱を象徴していた。
征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)と征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)に仕えていた幕臣の和田惟政(わだこれまさ/室町)が、京都に近い摂津国(大阪府)の北東部に位置する高槻城(たかつきじょう)の城主に就いていた。
その隣接地に築かれた茨木城(いばらきじょう)の城主には、三好氏の家臣の茨木重朝(いばらきしげとも/室町)が就いていた。
阿波国(徳島県)を拠点とする“三好三人衆”の謀反(むごん)により足利将軍家は存亡の危機に陥ったが、その後、征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)を擁立(ようりつ)した織田信長(おだのぶなが/織田)が権威を拡大させた。
摂津国(大阪府)の高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)は、三好氏の配下で大和国(奈良県)の生駒山に築かれた信貴山城(しぎさんじょう/平群)を拠点とする松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)の家臣として仕えていた。
1564年にキリスト教の布教活動で摂津国(大阪府)へ来訪したロレンソ了斎(りょうさい/琵琶法師→キリスト教)により、高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)と息子の高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は感銘を受けてキリスト教に入信した。
ロレンソ了斎(りょうさい/琵琶法師→キリスト教)とは、肥前国(長崎県)の白石(平戸)の出身で、盲目の琵琶法師だったがフランシスコザビエル(カトリック司祭/スペイン)の布教によりイエズス会に入信した。
ただこの後、キリシタンとなった高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は、キリスト教で禁忌(きんい)とされる生命の殺生(せっしょう)を禁じる教えと、武将として合戦で敵方を討ち取る矛盾の狭間で苦悩する事になる。
HANOI ROCKS /♪ MOTORVATIN'
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:23:23
◆◇◆其の三:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
摂津国(大阪府)の北部に位置する池田城(いけだじょう)の城主に就いていた池田勝正(いけだかつまさ/室町→三好)は、摂津源氏(せっつげんじ)の系統の摂津池田氏(せっついけだうじ)として室町幕府の幕臣として仕えていたが、“三好三人衆”の謀反(むほん)により動乱に巻き込まれていく。
家臣だった荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の下克上(げこくじょう)により、摂津池田氏(せっついけだうじ)の領地を乗っ取られる。
当主の池田勝正(いけだかつまさ/室町→三好)が出奔(しゅっぽん)した事で、弟の池田知正(いけだともまさ/室町→三好→豊臣→徳川)が摂津池田氏(せっついけだうじ)の家督継承した。
更に荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は、家臣の中川清秀(なかがわきよひで/荒木→織田→豊臣)らと共に、茨木重朝(いばらきしげとも/室町)の拠点である茨木城(いばらきじょう)と和田惟政(わだこれまさ/室町)の拠点である高槻城(たかつきじょう)へ侵攻した。
これにより和田惟政(わだこれまさ/室町)は、摂津国(兵庫県)の国人(こくじん)で有岡城(ありおかじょう/伊丹)の城主である伊丹親興(いたみちかおき/室町)に援軍要請して了承を得ている。
茨木城(いばらきじょう)と高槻城(たかつきじょう)の間に流れる茨木川(いばらきかわ)の周辺で交戦となり茨木重朝(いばらきしげとも/室町)と和田惟政(わだこれまさ/室町)は敗北して討死する。
この合戦で高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)と息子の高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の軍勢に加勢していた。
この激戦で高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は敵方に頸(くび)を斬られ、生死を彷徨(さまよ)う程の重傷を負う。
これを1571年に起こった「白井河原の戦」(しらいかわらのたたかい)と呼ぶ。
この合戦による論功行賞で、中川清秀(なかがわきよひで/荒木→織田→豊臣)は茨木城(いばらきじょう)の城主に就任した。
戦死した和田惟政(わだこれまさ/室町)の家督を、息子の和田惟長(わだこれなが/室町→織田)が引き継いだ。
この高槻城(たかつきじょう)の城主である和田惟長(わだこれなが/室町→織田)は、高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)と息子の高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)が、高槻の領域内で勢力とキリスト教の布教を拡大させて領民の支持を得ている事に危機感を抱く。
そこで和田惟長(わだこれなが/室町→織田)は、高山親子の暗殺計画を企(くわだ)てる。
この暗殺計画を事前に察知した高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)は、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)に相談したところ、先手必勝として和田惟長(わだこれなが/室町→織田)が居城する高槻城(たかつきじょう)を攻撃する事を提案される。
1573年に高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)は荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の後ろ盾を得て、和田惟長(わだこれなが/室町→織田)を高槻城(たかつきじょう)から追放する。
これにより高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)は高槻城(たかつきじょう)の城主に就任した。
「白井河原の戦」(しらいかわらのたたかい)で重傷を負った高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は2ヶ月後に息を吹き返し、この奇跡をイエスキリスト(宗教家)の御加護と感じて一層のキリスト教へ傾斜していく。
同年の1573年に荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は、摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)に侵攻し、翌年の1574年に城主の伊丹親興(いたみちかおき/室町)は討死した。
共に抗戦した伊丹親興(いたみちかおき/室町)の息子の伊丹忠親(いたみただちか/室町→豊臣)は、この戦乱で消息不明となったが、後々に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に仕えて、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では東軍の黒田隊に属したが討死した。
下克上(げこくじょう)を成功させた荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は、摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)を本拠地とする。
METALLICA /♪ AIN'T MY BITCH
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:24:21
◆◇◆其の四:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
因みに、摂津国(大阪府)の高槻城(たかつきじょう)の城主だった和田惟政(わだこれまさ/室町)の和田氏(みきたうじ・にきたうじ)は、近江和田氏と河内和田氏と和泉和田氏などの系統がある。
和田惟政(わだこれまさ/室町)は近江和田氏だった。
河内和田氏は、河内国(大阪府)から和泉国(大阪府)の一帯を領域とし、和泉国(大阪府)の大鳥(おおとり/鳳)を発祥の地としていた。
その系統は鎌倉時代から室町時代に代わる時期に、第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に忠誠を尽くした河内国(大阪府)の武将で兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)である。
兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の息子が、長男の楠木正行(くすのきまさつら/朝廷)と次男の楠木正時(くすのきまさとき/朝廷)と三男の楠木正儀(くすのきまさのり/朝廷)の3人である。
弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)の息子が、薙刀(なぎなた)の名手で“歯噛様”(はがみさま)と呼ばれる和田賢秀(わだけんかい/朝廷)で、河内和田氏の家系を引き継いでいる。
和泉和田氏は、河内和田氏と同様に南北朝時代に活躍し、和泉国(大阪府)の堺に和田氏(みきたうじ・にきたうじ)にちなんだ美木多(みきた)の地名を残している。
現在は大阪南部の泉北ニュータウンが広がる地域で、泉北高速鉄道(南海電鉄)の「栂・美木多駅」(とが・みきたえき)が設けられている。
和泉和田氏の系統は、大阪湾に面した海の岸を領域とした岸和田氏があり、岸の和田氏(みきたうじ・にきたうじ)が氏名の由来(ゆらい)である。
その地に築城されたのが岸和田城(きしわだじょう)で、豊臣政権では織田氏の家臣で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の親族だった小出秀政(こいでひでまさ/織田→豊臣→徳川)が城主に就任した。
江戸幕府が開設されると、1619年より和泉国(大阪府)の岸和田藩の藩主に、駿河国(静岡県)の三河松平氏(松井松平氏)の松平康重(まつだいらやすしげ/徳川)が就任したが、実は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子で落胤(らくいん)の説がある。
江戸時代の1640年より和泉国(大阪府)の岸和田藩の藩主かつ岸和田城(きしわだじょう)の城主は、駿河国(静岡県)の岡部氏(おかべうじ)の岡部宣勝(おかべのぶかつ/江戸)が就任した。
岡部氏(おかべうじ)は、1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)の際に、今川義元(いまがわよしもと/今川)の家臣で鳴海城(なるみじょう/名古屋)に布陣した岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)の系統である。
岡部宣勝(おかべのぶかつ/江戸)の孫で岸和田藩の3代目藩主の岡部長泰(おかべながやす/江戸)により、1703年に五穀豊穣を祈願する“岸和田だんじり祭”が開催される様になった。
現代の大阪で和田氏(みきたうじ・にきたうじ)と言えば、レコード歌手の和田アキ子(ソウルシンガー)さんだろう。
和田アキ子…『♪笑って許して〜 小さな事とぉ〜 笑って許して〜 こんな私をぉ〜』(♪笑って許して)
BAD SEED RISING /♪ HEY KID
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:25:27
◆◇◆其の五:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
畿内(きない/関西)の一帯で室町幕府と“三好三人衆”の戦乱が起こり、そこに美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)を拠点としていた織田信長(おだのぶなが/織田)が上洛して強大な勢力で制圧していた。
織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の蓮如(れんにょ/僧侶)の子孫の顕如(けんにょ/僧侶)と、その息子の教如(きょうにょ/僧侶)が軍事統治する本願寺軍に対し、10年間余り戦力を注力する。
この本願寺軍には、紀伊国(和歌山県)の紀ノ川(きのかわ)を拠点とする鉄砲集団の雑賀衆(さいかしゅう)の棟梁である雑賀孫一(さいかまごいち)こと鈴木孫一(すずきまごいち/雑賀)が参戦していた。
この雑賀孫一(さいかまごいち)こと鈴木孫一(すずきまごいち/雑賀)は現存する人物ではなく、雑賀衆(さいかしゅう)で代々と受け継がれる襲名(しゅうめい)で、織田信長(おだのぶなが/織田)の時代は1代目の雑賀孫一(さいかまごいち)こと鈴木重秀(すずきしげひで/本願寺→織田)で、その息子と言われる2代目の雑賀孫一(さいかまごいち)こと鈴木重朝(すずきしげとも/豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)や徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に仕え、江戸幕府では水戸藩の重鎮家臣に就任している。
織田信長(おだのぶなが/織田)は軍事拠点として、どうしても摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の用地を手に入れたかった。
この用地譲渡交渉は決裂し、織田信長(おだのぶなが/織田)は摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)を包囲する様に、大和国(奈良県)に塙直政(ばんなおまさ/織田)、山城国(京都府)に細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)、摂津国(兵庫県)に荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)を配置した。
塙直政(ばんなおまさ/織田)とは、尾張国(愛知県)の春日井の武士で、大和国(奈良県)の多聞山城(たもんやまじょう/奈良)の城主を務めていた。
細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)とは、河内源氏の庶流(しょりゅう)の三淵氏(みつぶちうじ)の生まれで細川氏に養子に入り、豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)の小倉藩の藩主で、妻には細川ガラシャこと明智玉(あけちたま/斎藤→織田→豊臣→徳川)を娶(めと)り、茶人の細川三斎(ほそかわさんさい)の名を持つ細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)の父親にあたる。
荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)とは、摂津国(大阪府)の有力武将で“刀饅頭”(かたなまんじゅう)で名を上げて織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣になるも、この直ぐ後に裏切り逃亡する。
これでも大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)を落とす事はできず、“織田四天王”の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が織田軍の陣営に加わり、聖徳太子(しょうとくたいし)こと厩戸皇子(うまやどのみこ)の所縁(ゆかり)の寺院で上町台地の中央部に位置する四天王寺(してんのうじ)に陣営を設ける。
南方に伸びる小高い丘の上町台地の先端に大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)が建っており、西北東方は湖に囲まれており鉄壁の要塞と呼ばれていた。
その為にどんなに大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)を包囲しても、西方の難波津(なにわのつ)から船で兵糧や物資が運搬できた。
この好立地に、尾張国(愛知県)の津島や熱田の湊で巨万の富を得ていた織田信長(おだのぶなが/織田)は目を付けていた。
ここで塙直政(ばんなおまさ/織田)が率いる織田軍大和隊が動いて、難波津(なにわのつ)の補給路を遮断しようとした。
ところが本願寺軍に雇われていた雑賀孫一(さいかまごいち)こと鈴木重秀(すずきしげひで/本願寺→織田)が率いる鉄砲集団の雑賀衆(さいかしゅう)に、鉄砲(火縄銃)の総攻撃に遭い織田軍大和隊は壊滅して、大将の塙直政(ばんなおまさ/織田)も討死する。
雑賀孫一…『撃てぇ〜 ドンドンと撃てぇ〜!』
バンバンバン バンバンバン
バタンバタンバタン バタンバタンバタン
バン
塙直政…『ギャ〜〜 やられた〜〜』
バタン
明智光秀…『さっ、雑賀衆(さいかしゅう)の鉄砲隊は、日本屈指と言われる織田軍の鉄砲隊の何十倍もの威力があるではないかぁ!』
更(さら)に本願寺軍は南下して明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が布陣する天王寺(してんのうじ)を包囲した。
この戦況を聞いた織田信長(おだのぶなが/織田)は大軍勢の織田軍を率いて天王寺(してんのうじ)を救出し、これにて本願寺軍は撤退した。
MOTLEY CRUE /♪ UNCLE JACK
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:26:31
◆◇◆其の六:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
この大苦戦に織田信長(おだのぶなが/織田)は、父親の織田信秀(おだのぶひで/織田)の時から織田軍に仕える佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)を総大将に、大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の攻略を任せる。
ただ、どんなに戦(いくさ)上手で有能な古参(こさん)の武将である佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)が着任しようと、大坂の鉄壁の地形は変わらる事なく、大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)を包囲しても、西方の難波津(なにわのつ)から船で兵糧や物資が運搬できた。
更(さら)に此処(ここ)で、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)で中国地方を統治する毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)や三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)、それに毛利氏の僧侶で軍師の安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)のアドバイスにより、大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の顕如(けんにょ/僧侶)と息子の教如(きょうにょ/僧侶)に加担する事を決断する。
瀬戸内海を支配する毛利水軍を手配して、難波津(なにわのつ)から船で兵糧や物資を輸送した。
佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)は当初、兵糧攻めで長期戦に持ち込んでいたが、この様な事情から“ザルに水”で全く効果なく、この兵糧攻めは大失敗に終わる。
また、毛利水軍を排除しようと織田水軍も海に出て攻撃したが、瀬戸内海の荒潮に揉まれた百戦錬磨の毛利水軍に返り討ちに遭い織田水軍は壊滅した。
この大失敗を教訓に織田信長(おだのぶなが/織田)は、伊勢湾からは志摩国(三重県)の九鬼嘉隆(くきよしたか/織田→豊臣)が率いる九鬼水軍を呼び寄せて、海上戦を熟知した海の男の知恵を拝借して、木造船に鉄板を貼った鉄甲船(てっこうせん)を造船した。
この火矢にも強い鉄甲船(てっこうせん)の効果で、織田水軍は難波津(なにわのつ)の沖に停泊する毛利水軍を撃退する事に成功した。
ただ、毛利水軍を撤退させても、肝心の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の本願寺軍は健在で、織田信長(おだのぶなが/織田)は進展のない戦況に和睦する道を探る。
先(ま)ず、京都の朝廷に仲裁してもらい、織田信長(おだのぶなが/織田)は顕如(けんにょ/僧侶)に条件を提示した。
こうして摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、紀伊国(和歌山県)の鷺ノ森本願寺(さぎのもりほんがんじ)に移転する事になる。
ただ、顕如(けんにょ/僧侶)の息子の教如(きょうにょ/僧侶)は、この移転に反対して織田信長(おだのぶなが/織田)の織田軍に抵抗し続けた。
この教如(きょうにょ/僧侶)の判断と行動が、後々の浄土真宗(じょうどしんしゅう)の西本願寺の“浄土真宗本願寺派”と東本願寺の“真宗大谷派”に分裂する要因を招く事になる。
結局、教如(きょうにょ/僧侶)も降参して摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の用地を、織田信長(おだのぶなが/織田)に明け渡した。
これを1570年〜1580年に掛けて石山合戦(いしやまかっせん)と呼ぶ。
この織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍と浄土真宗(じょうどしんしゅう)の顕如(けんにょ/僧侶)の抗争は、畿内(きない/関西)を拠点とする武将にも多大な影響を与えた。
ALICE IN CHAINS /♪ WOULD?
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:27:32
◆◇◆其の七:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
1570年〜1580年に掛けて行われた石山合戦(いしやまかっせん)で、最後に参戦したとは言え、大した成果が出せなかった総大将の佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)は、代表責任により織田軍から追放された。
ただこの処罰は、石山合戦(いしやまかっせん)だけの責任ではなく、1576年に佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)は、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)の後も武田軍と交戦を続けていた織田信長(おだのぶなが/織田)に対して、尾張国(愛知県)の知多半島を領域とする緒川城(おがわじょう/東浦)の城主の水野信元(みずののぶもと/今川→織田)が武田軍と内通して謀反(むほん)を企てていると讒言(ざんげん)した。
それを信じた織田信長(おだのぶなが/織田)は、1554年に起こった「村木砦の戦」(むらきとりでのたたかい)で今川軍に対して共に戦った戦友の水野信元(みずののぶもと/今川→織田)を斬首の処罰を言い渡した。
水野信元(みずののぶもと/今川→織田)とは、於大の方(おだいのかた/水野→松平→水野)の兄で、徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の叔父にあたる。
更(さら)に介錯(かいしゃく)を実行したのが徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の家臣の平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)や石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)だった。
この冤罪(えんざい)の処刑により、織田軍や徳川軍から反発する声が挙がる。
於大の方(おだいのかた/水野→松平→水野)の夫で、尾張国(愛知県)の阿久比(あぐい)を領域とする坂部城(さかべじょう)の城主の久松俊勝(ひさまつとしかつ/織田)は、織田氏と徳川氏の対応に激昂(げっこう)して自ら絶縁し出奔(しゅっぽん)して、於大の方(おだいのかた/水野→松平→水野)とも離縁(離婚)する。
於大の方(おだいのかた/水野→松平→水野)も徳川氏の家臣に対して不甲斐無さに憤懣(ふんまん)し、この時の家内動乱が後々に大きな事変を引き起こす。
結局、佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)は、水野信元(みずののぶもと/今川→織田)の領地だった尾張国(愛知県)の知多半島を自分の領域に収めた。
この時期に大将の佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)の配下で、石山合戦(いしやまかっせん)に参戦していた織田氏から出奔(しゅっぽん)した久松俊勝(ひさまつとしかつ/織田)の息子の久松信俊(ひさまつのぶとし/織田)も、佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)が織田信長(おだのぶなが/織田)に阿久比(あぐい)の久松氏(ひさまつうじ)は一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)の檀家(だんか)で一向一揆(いっこういっき)と内通していると讒言(ざんげん)し、身に覚えのない無実の罪で久松信俊(ひさまつのぶとし/織田)を自害に追い込んでいる。
更(さら)に佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)は織田軍佐久間隊を侵攻させ、尾張国(愛知県)の阿久比(あぐい)の坂部城(さかべじょう)を総攻撃して久松氏(ひさまつうじ)の一族を斬殺している。
ただ、これら水野信元(みずののぶもと/今川→織田)と久松信俊(ひさまつのぶとし/織田)の謀反(むほん)は、佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)が領土欲しさの讒言(ざんげん)だった事を知った織田信長(おだのぶなが/織田)は、父親の織田信秀(おだのぶひで/織田)から仕える古参(こさん)の重鎮家臣であろうと当然に佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)を、石山合戦(いしやまかっせん)の代表責任と併せて1580年に織田軍から追放処分とした。
D-A-D /♪ SLEEPING MY DAY AWAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:28:31
◆◇◆其の八:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
更(さら)に畿内(きない/関西)でも、織田軍の不協和音(ふきょうわおん)が鳴り響く。
摂津国(大阪府)の武将で“刀饅頭”(かたなまんじゅう)により織田信長(おだのぶなが/織田)に恭順(きょうじゅん)した荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)が織田軍から離反(りはん)したのである。
但馬国(たじま/兵庫県)や播磨国(はりま/兵庫県)の攻略を任されていた荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は、突如、織田信長(おだのぶなが/織田)からこの任務を羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に変更させられた。
この対応に怒り心頭に発した荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の元に、征夷大将軍15代目だった足利義昭(あしかがよしあき/室町)と中国地方を統治する安芸国(広島県)の戦国大名の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が急接近し、織田軍から毛利軍に寝返る様に誘われる。
この時、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の家臣だったのが、摂津国(大阪府)の北東部にある高槻城(たかつきじょう)の城主の高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)と息子の高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)と、その直(す)ぐ南方にある茨木城(いばらきじょう)の城主の中川清秀(なかがわきよひで/荒木→織田→豊臣)だった。
摂津国(兵庫県)の伊丹にある有岡城(ありおかじょう/伊丹)に荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)、そこから南方にある尼崎城(あまがさきじょう)には息子の荒木村次(あらきむらつぐ/荒木→豊臣)が居城している。
この時、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、毛利征伐の為に播磨国(はりま/兵庫県)の姫路城(ひめじじょう)の辺りまで進軍していた。
この東方にある摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)に居城する荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の毛利軍への離反により、西方にある安芸国(広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)に居城する毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)に挟まれた、播磨国(はりま/兵庫県)の姫路城(ひめじじょう)に居城する羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は危機的な状況に追い込まれる。
播磨国(はりま/兵庫県)の姫路城(ひめじじょう)に居城する羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、東方にある摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)に居城する荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)が布陣し、西方にある安芸国(広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)に居城する毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が布陣する、挟まれた絶体絶命に陥る。
ここで幸運な出来事が起こる。
毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)の家臣で備前国(岡山県)と美作国(岡山県)と備中国(岡山県)の戦国大名である宇喜多直家(うきたなおいえ/毛利→織田)が、毛利軍から織田軍に寝返ったのである。
更に荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の家臣である茨木城(いばらきじょう)の城主の中川清秀(なかがわきよひで/荒木→織田→豊臣)が、京都に布陣していた織田信長(おだのぶなが/織田)の調略(ちょうりゃく)により織田軍の陣営に引き込む事に成功した。
この状況の変転で九死に一生を得た羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、織田軍の侵攻により東方の背面の防御は解けた為に、西方の毛利軍に集中できる様になった。
NEW FOUND GLORY /♪ HIT OR MISS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:29:32
◆◇◆其の九:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
織田信長(おだのぶなが/織田)も荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の武勇を高く評価している為に、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)など重鎮家臣を摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)に派遣して和睦交渉を行っているが成立はしなかった。
そんな時に荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)とは旧知の間柄だった播磨国(兵庫県)の姫路の武将の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が、単身で摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)に訪問して荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)に説得を試みる。
ただ、この時の荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の心理的状態は、5万人の織田軍にいつ攻撃されるかも知れない恐怖心に苛(さいな)まれ、疑心暗鬼に駆られて交渉相手を暗殺者と思う様になっており、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)も例外ではなく、交渉の対面をする事なく城内の牢屋に幽閉した。
この状況を知らない織田軍は、いつまで経っても帰ってこない黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)を、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)に寝返ったと思われ、そのまま織田信長(おだのぶなが/織田)に報告した。
これに激怒した織田信長(おだのぶなが/織田)は、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の息子で嫡男(ちゃくなん)の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)を斬殺する様に、直轄上司である羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に命じる。
この主君の命令に困ったのが羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)で、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)は右翼の天才軍師として織田軍秀吉隊には無くてはならない存在だった為に、その息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)を亡き者にする事は到底に出来なかった。
そこでもう1人の左翼の天才軍師で、斎藤氏の家臣の時に美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)をたった18人の家臣で占領した事のある竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)に相談した。
竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)は、苦悩する羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の難題を何なりと引き受けて、息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)を引き連れて何処(どこ)かへ行ってしまった。
竹中半兵衛(竹中重治)…『坊ちゃん、私と一緒に良い処に行こうなぁ。』
黒田長政…『うん。』
数日後、京都の織田信長(おだのぶなが/織田)の元に、真っ黒に焼け焦げた子供の屍(しかばね)が届けられた。
織田信長…『なぁ、なんじゃこりゃ!? 鮪(マグロ)の藁焼(わらや)きかぁ?』
森蘭丸…『はぁ、羽柴秀吉(はしばひでよし)殿の家臣の竹中半兵衛(たけなかはんべえ)殿より届けられた、黒田官兵衛(くろだかんべえ)殿の息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)ちゃんの屍(しかばね)で御座る。』
織田信長…『ううっ〜 怒りの勢いでつい言ったが、本当にこんな幼い子供を殺(あや)めるとは、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)は恐ろしい奴よぉ。』
SMOKING POPES /♪ NEED YOU AROUND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:30:31
◆◇◆其の十:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
この謀反(むほん)を起こした荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の家臣でもある摂津国(大阪府)の高槻城(たかつきじょう)の城主の高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)と息子の高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は主君に従った。
これら抵抗に対して織田信長(おだのぶなが/織田)は激怒して、キリシタンだった高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)と高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)に対し、畿内(きない/関西)で布教活動するキリスト教の信者の全員をジェノサイド(集団殺戮)すると通告した。
それでも父親の高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)は、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)を支持して抵抗姿勢を見せた。
しかし、この主君の荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)と総大将の織田信長(おだのぶなが/織田)の狭間で苦悩する高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は違った行動を起こす。
キリスト教の信者を助ける為に、自ら武士の象徴でもある髷(まげ)を落として、見窄(みすぼ)らしい白装束を身にまとい、単身で近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)に居城する織田信長(おだのぶなが/織田)に謁見(えっけん)した。
この時に高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は、自ら武将の地位を捨てる代わりに、キリスト教の信者のジェノサイド(集団殺戮)を中止して欲しいと嘆願した。
この高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)の清廉潔白(せいれんけっぱく)でキリスト教への忠誠に心を打たれた織田信長(おだのぶなが/織田)は、逆に高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)に上等な着物と太刀(たち)を贈呈し、直参家臣に召(め)し抱えた。
こうして摂津国(大阪府)の領土を安堵(あんど)され、高槻城(たかつきじょう)の城主に高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は就任した。
この時に父親の高山友照(たかやまともてる/松永→和田→荒木)も、織田信長(おだのぶなが/織田)の配慮で越前国(福井県)への配流(はいる)で済み、後々には“織田四天王”と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)の客将(かくしょう)として仕えた。
早速に高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は、摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)に訪問して元主君となる荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)に説得を試みる。
しかし、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)との帰属交渉が成立しなかった為に、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる5万人の織田軍が京都から出陣し、摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)に居城する荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の討伐を目指した。
摂津国(兵庫県)の猪名川(いながわ)の岸辺近くに建つ有岡城(ありおかじょう/伊丹)で篭城する荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)が率いる荒木軍は1万5千人で、圧倒的な勢力さである。
荒木村重…『みんなぁ〜! たとえ5万人の織田軍が攻撃してこようと、我々には足利義昭(あしかがよしあき/室町)殿の室町軍と毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)殿の毛利軍が直(す)ぐに駆け付けてくれる! それまで持ち堪(こた)えるのじゃぁ〜!!』
荒木軍武士…『おっ〜〜!!』
ただ、いくら待っても足利義昭(あしかがよしあき/室町)が率いる室町軍も、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が率いる毛利軍も、有岡城(ありおかじょう/伊丹)に現れる事はなく時間だけが虚しく過ぎていくのであった。
その間にも織田信長(おだのぶなが/織田)から降伏勧告が何度も来ている。
荒木村重…『ぬぐぐぅ〜 足利義昭(あしかがよしあき/室町)殿も、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)殿も、頼りにならんっ! わしぃは此処(ここ)を抜け出して尼崎城(あまがさきじょう)まで行って、息子の荒木村次(あらきむらつぐ/荒木→豊臣)に援軍要請をしてくる。 帰ってくるまで皆んなで力を合わせて頑張ってくれぇ!』
荒木軍武士…『ええっ!? 使者じゃなく、殿が自ら尼崎城(あまがさきじょう)まで援軍要請に行くのですか?』
荒木村重…『そうじゃ! 何かおかしいところがあるかぁ? おいっ、わしぃの大切な茶道具を出しておいてくれ。』
荒木軍武士…『・・・』
こうして荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)はこっそり有岡城(ありおかじょう/伊丹)を抜け出して、深夜に舟で猪名川(いながわ)を下り、息子の荒木村次(あらきむらつぐ/荒木→豊臣)が布陣する尼崎城(あまがさきじょう)に向かった。
RAMONES /♪ DO YOU WANNA DANCE?
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:31:28
◆◇◆其の十一:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
尼崎城(あまがさきじょう)に入城した父親で総大将の荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)が現れた事に、息子の荒木村次(あらきむらつぐ/荒木→豊臣)は目を丸くして驚いた。
荒木村次…『ええっ〜!? 親父!? どうして此処(ここ)に来たんだよぉ? 有岡城(ありおかじょう/伊丹)を守らなくてええんかぁい!?』
荒木村重…『有岡城(ありおかじょう/伊丹)は有能な家臣に任せてあるから大丈夫じゃ! それより、援軍を頼む。 お前の荒木軍尼崎隊が南方から侵攻して、織田軍を挟み討ちにするのじゃ!』
荒木村次…『親父、無理な作戦じゃよぉ! 荒木軍尼崎隊を向けたとしても、織田軍は5万人で有岡城(ありおかじょう/伊丹)を包囲していると聞くではないか! わしぃら荒木軍尼崎隊が進軍しても焼石に水じゃ!』
荒木村重…『そうか、尼崎城(あまがさきじょう)は無理か。 では、わしぃはこのまま西方の花隈城(はなくまじょう/神戸)に援軍要請に行ってくる。 おいっ、わしぃの大切な茶道具はちゃんと持ったなぁ。』
荒木軍武士…『・・・』
荒木村次…『親父よぉ、戦地の有岡城(ありおかじょう/伊丹)からドンドンと離れていっているではないかぁ!』
荒木村重…『息子よぉ、後は頼んだぞぉ!』
こうして戻ってこない総大将で城主の荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)を待っている間に、有岡城(ありおかじょう/伊丹)は織田軍に総攻撃を受けて、等々(とうとう)に荒木軍は降伏して開城した。
有岡城(ありおかじょう/伊丹)に残る家族や家臣を捨てて摂津国(兵庫県)の花隈城(はなくまじょう/神戸)まで逃亡した荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)を、織田信長(おだのぶなが/織田)は武将の風上にも置けない輩(やから)と罵(ののし)って、荒木軍の家臣や家族、それに城下町の町人を撫斬り(なでぎり/根切り)にする様に命じた。
これにより荒木氏の家臣と有岡城(ありおかじょう/伊丹)の城下町の町人を合わせて640人余りが尼崎は立花に位置する七松(ななまつ)にある処場(けいじょう)で斬殺され、凄惨(せいさん)な血に染まる土地となった。
次いで荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の親族の35人余りは、京都に連行されて市中引回しにされた後に、六条河原で斬首されて晒し首(さらしくび)となった。
これを1578年に起こった「有岡城の戦」(ありおかじょうのたたかい)と呼ぶ。
こんな状況でも荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は西方に逃亡して、摂津国(兵庫県)の花隈城(はなくまじょう/神戸)に入城している。
ただ、この時期の織田信長(おだのぶなが/織田)から逃れる事は出来ず、池田恒興(いけだつねおき/織田)を大将に池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)と池田元助(いけだもとすけ/織田→ 豊臣)が率いる織田軍池田隊を花隈城(はなくまじょう/神戸)に侵攻させた。
池田恒興(いけだつねおき/織田)とは、尾張国(愛知県)の犬山城(いぬやまじょう)の城主で、母親が織田信長(おだのぶなが/織田)の乳母だった乳兄弟でもあり、その息子が池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)で後々に播磨国(はりま/兵庫県)の姫路藩の藩主となり、更(さら)にその息子が池田元助(いけだもとすけ/織田→ 豊臣)である。
当然に織田軍池田隊に総攻撃を受けた花隈城(はなくまじょう/神戸)は壊滅して、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は上手くお城から抜け出して西方に逃亡した。
荒木村重…『戦況は不利じゃなぁ! わしぃは大切な茶道具を持って、安芸国(広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)殿に援軍要請に行ってくる。』
荒木軍武士…『・・・』
この後、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は行方知れずとなる。
これを1580年に起こった「花隈城の戦」(はなくまじょうのたたかい)と呼ぶ。
摂津国(兵庫県)の花隈城(はなくまじょう/神戸)から逃亡して行方知れずとなった荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は、その後どうなったのか?
安芸国(広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を頼り、備後国(広島県)の尾道(おのみち)に潜伏していた。
ところが1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で織田信長(おだのぶなが/織田)が亡くなると、和泉国(大阪府)の堺に移住して茶人の道薫(どうくん/茶人)と名乗り、堺の商人で茶人の田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)と交流を広め茶会を催していた。
時は豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下人であり、道薫(どうくん/茶人)こと荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の過去の大罪を恩赦(おんしゃ)して、茶会を開催してお互いお茶を楽しんだと言う。
これだけ聞くと、戦国武将の荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)は悪辣(あくらつ)な梟雄(きょうゆう)の様に見える。
ただ、矢1本、弾1発、飛んでこない現代人の常識から見れば、荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の行動は理解できないが、目の前で武士が次々と倒れていき、極限にまで追い込まれる戦国武将の精神状態を鑑(かんが)みれば、平和ボケした人間が他人の善悪を評する事は出来ない。
これが戦争である。
THE CLASH /♪ CLASH CITY ROCKERS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:32:24
◆◇◆其の十二:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
ところで黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)はどうなったかと申しますと、1年以上も摂津国(兵庫県)の有岡城(ありおかじょう/伊丹)で幽閉されて、1579年に「有岡城の戦」(ありおかじょうのたたかい)で勝利した織田軍により救出され、この時、初めて事の真相が明らかになる。
織田信長…『えっ!? ごぼうみたいに痩(や)せ細ったお前は誰じゃ?』
黒田官兵衛(黒田孝高)…『殿下、お久しぶりで御座います。 黒田官兵衛(くろだかんべえ)、恥ずかしながら只今(ただいま)帰って参りました。』
羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『ええっ!? 荒木軍に1年以上も幽閉されておったのかぁ〜! しまったぁ〜 息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)を殺(や)ってしまったぁ〜!!』
黒田官兵衛(黒田孝高)…『ええっ〜!? どう言う事ですかぁ〜!? 息子は何処(どこ)ですかぁ〜!?』
織田信長…『申し訳ない、黒田官兵衛(くろだかんべえ)よぉ、これがお主の息子じゃ。』
織田信長(おだのぶなが/織田)がそう言うと、鮪(マグロ)の藁焼(わらや)きの様に黒焦げになった黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)の屍(しかばね)を差し出した。
黒田官兵衛(黒田孝高)…『ええっ〜!? こっ、これが息子ぉ〜!? ウォ〜〜ン ウォンウォン ウォ〜〜ン この世は無慈悲(むじひ)じゃ〜〜!!』
羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『申し訳ない、お主が荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)に寝返ったと思い込み、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)に依頼して、この様な事に・・・』
竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)は、この数ヶ月前に重病を発症して亡くなっていた。
森蘭丸…『そう言えば竹中半兵衛(たけなかはんべえ)殿に手紙を預かっていたで御座る。』
森蘭丸(もりらんまる)こと森成利(もりなりとし/織田)は皆んなの前で、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)の手紙を読んだ。
竹中半兵衛(竹中重治)…⦅多分、有岡城(ありおかじょう/伊丹)の戦(いくさ)が終われば、黒田官兵衛(くろだかんべえ)殿の冤罪は晴れるであろう。 その時は、我が生まれ故郷の美濃国(岐阜県)の大野にある竹中家の屋敷に行くとよい。 そこで黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)は生活しておる。 黒田官兵衛(くろだかんべえ)殿の織田軍に対しての忠義、皆の者は絶対に忘れてはならぬぞぉ!⦆
この手紙の後に、森蘭丸(もりらんまる)こと森成利(もりなりとし/織田)に手を引かれた黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)がご登場した。
黒田長政…『ジャジャ〜〜ン! 僕は美濃国(岐阜県)の竹中のおじちゃんの家で生きていましたぁ〜』
黒田官兵衛(黒田孝高)…『おおぉ〜〜! 神よぉ〜 この御加護、慈悲(じひ)、それにえっとぉ〜 何でもいいが全ての神様仏様、それに先(ま)ずは竹中半兵衛(たけなかはんべえ)殿に感謝致すぞぉ〜〜!!』
羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『おおっ、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)は生きておったかぁ! 良き事、良き事。』
織田信長…『いやぁ〜 一時はわしぃの早とちりの誤認で、また罪の無い人を殺(あや)めてしまったと思ったが、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)よぉ、お主の事は生涯忘れんぞぉ! って言うか、この鮪(マグロ)の藁焼(わらや)きの様に黒焦げになった屍(しかばね)は誰なんじゃ?』
森蘭丸…『さあ?』
この時の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)と息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)の、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)に対する恩義が、黒田氏の家紋を竹中氏と同一にする事で現れている。
BUSTED /♪ YOU SAID NO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:33:20
◆◇◆其の十三:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
1576年に築城した近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)を居城とした織田信長(おだのぶなが/織田)は、キリスト教のカトリック司祭でイエズス会の宣教師だったルイスフロイス(カトリック宣教師/ポルトガル)を傍(かたわら)に置き、キリスト教の布教には寛大だった。
そんな環境でキリシタン大名の高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)もキリスト教の布教に尽力した。
織田軍の武将とも交流が深まり、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)や黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)や牧村利貞(まきむらとしさだ/稲葉→織田→豊臣)などもキリスト教に感銘を受けて入信した。
牧村利貞(まきむらとしさだ/稲葉→織田→豊臣)とは、美濃国(岐阜県)の稲葉氏から牧村氏に養子に入り、後々は茶人の利休七哲(りきゅうしちてつ)に数えられるが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の朝鮮出兵で朝鮮半島にて病死する。
細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)で茶人の細川三斎(ほそかわさんさい)とも親交があり、その縁で妻で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の娘の細川ガラシャこと明智玉(あけちたま/斎藤→織田→豊臣→徳川)も熱心なキリスト教の信者となった。
こうしたキリスト教の布教活動から、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は“伴天連の大旦那”(バテレンのおおだんな)と呼ばれた。
因(ちな)みに日本で広く知れ渡るフランシスコザビエル(司祭/スペイン)の肖像画は、明治期に大阪府茨木市の山間に住む隠れキリシタンだった東家(ひがしけ)の蔵から見つかった物を使用している。
また、織田信長(おだのぶなが/織田)の認可により高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は、京都に南蛮寺(なんばんじ/教会)の建立(こんりゅう)やキリスト教主義学校(ミッションスクール)でもあるセミナリヨの創建に注力した。
1581年にイタリアから来日したアレッサンドロヴァリニャーノ(カトリック宣教師)は、日本でのキリスト教の浸透を見て『まるでローマに居る様だ。』と感動したと言う。
しかし、日本でのキリスト教に対する寛大な姿勢も一変する大事件が起こる。
1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、細川ガラシャこと明智玉(あけちたま/斎藤→織田→豊臣→徳川)の父親の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)による謀反(むほん)で、織田信長(おだのぶなが/織田)が京都で横難横死(おうなんおうし)した。
この一大時事に備中国(岡山県)で毛利軍と対戦していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は11日間で摂津国(大阪府)に戻る「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)により、山城国(京都府)の醍醐寺(だいごじ/真言宗)の付近で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を討ち取る。
この摂津国(大阪府)と山城国(京都府)の国境にて織田豊臣軍と明智軍が対峙した「山崎の戦」(やまざきのたたかい)に、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は主君の弔(とむら)い合戦として参加した。
その後、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)や1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にも豊臣軍として参戦した。
こうして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による豊臣政権が樹立されると、数々の武功を挙げた高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は、1585年に播磨国(はりま/兵庫県)の明石を領域とする6万石の大名に就任し、船上城(ふなげじょう/明石)の城主となった。
順風満帆に見えた高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)とキリスト教だが、この後から歯車が狂い始める。
THE CURE /♪ PLASTIC PASSION
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:34:18
◆◇◆其の十四:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
天下統一の布石として豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、1586年に起こった「九州征伐」(きゅうしゅうせいばつ)にて、薩摩国(鹿児島県)の大名の島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)と弟の島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)を降伏させた。
九州平定した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、領国の大名を選定する“九州国分”(きゅうしゅうくにわけ)を実施する。
豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)は天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)。
豊後国(ぶんご/大分県)はそのまま大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)。
筑前国(福岡県)は毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)。
筑後国(福岡県)は大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の家臣だった立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)。
肥前国(佐賀県・長崎県)はそのまま龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ/龍造寺→豊臣)。
肥後国(熊本県)は織田信長(おだのぶなが/織田)から仕える佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)。
日向国(ひむか/宮崎県)と大隅国(おおすみ/鹿児島県)と薩摩国(鹿児島県)はそのまま島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)に決定した。
ただ、肥後国(熊本県)はその後に一向一揆が勃発して、鎮静化に手間取った領主の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が責任を取らされて自害した為に、北部を加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、南部を小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)が領主となった。
ここで気になるのが1つ。
これら領国の中に3名のキリシタン大名が就任している事である。
豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)、豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)、肥後国(熊本県)南部の小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)である。
それ以外の大名や武将でも、有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津)や大村純忠(おおむらすみただ/有馬→大村→龍造寺)などがキリシタン大名である。
これが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が運営する豊臣政権で大きな問題となる。
事の発端は、九州平定が完了し気を良くして筑前国(福岡県)の博多に入り、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の御一行は筥崎宮(はこざきぐう)で休息を取っていた。
そこに肥前国(長崎県)から伝令(でんれい)が入り、その内容は肥前国(長崎県)の島原半島を中心に、領主の有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津)とその叔父の大村純忠(おおむらすみただ/有馬→大村→龍造寺)が、領土をキリスト教の教会に土地を無償で寄付していると言う。
これに危機感を抱いた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、早急にキリスト教を禁令し、日本で布教活動している宣教師を国外追放する様に威令(いれい)を出した。
これを1587年に発布された「バテレン追放令」と呼ぶ。
因(ちな)みにバテレンとは神父と言う意味である。
OK GO /♪ GET OVER IT
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:35:15
◆◇◆其の十五:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
九州では、1549年にキリスト教の宣教師であるフランシスコザビエル(司祭/スペイン)が薩摩国(鹿児島県)に上陸して、守護大名の島津貴久(しまづたかひさ/島津)の許可を得て布教活動を開始した歴史がある。
その為に他地域よりもキリスト教が浸透しており、武士や農民に関係なく多くのキリシタンが存在していた。
この豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が発令した「バテレン追放令」の規制は非常に緩(ゆる)く、キリシタンの武将や大名にキリスト教を表向きの棄教(ききょう)させる程度だった。
その理由として、当時の日本はポルトガルやスペインなどと交易し、南蛮貿易で莫大な利益を上げていた事にあり、直様(すぐさま)にキリスト教の禁教令(きんきょうれい)を発布すれば、商売に影響を及ぼす可能性があった。
要は『豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)とイエスキリストのどちらが好きですか?』と言う質問をするくらいで、本当の信仰心までは踏み込んでいない。
この様な質問を豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は各国の武将や大名にした。
ほとんどのキリシタン大名は豊臣政権の思惑を汲み取り、キリスト教を表向きの棄教(ききょう)をした。
しかし、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)だけは違った。
キリスト教に対して表向きの棄教(ききょう)をするのは、己に嘘(ウソ)を吐(つ)く事になり、敷いては聖母マリア様とイエスキリスト様に嘘(ウソ)を吐(つ)く事になる。
こうしたキリスト教への信義忠誠を尽くす高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)の信仰は揺らぐ事はなかった。
これにより高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は、摂津国(大阪府)の高槻城(たかつきじょう)と播磨国(はりま/兵庫県)の船上城(ふなげじょう/明石)の城主や領国を領地没収の改易(かいえき)となった。
こうして牢人(無職侍)となった高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)だが、文武両道(ぶんぶりょうどう)の才覚を認める豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の本心は手放す事を惜しんだ。
そこで豊臣政権の重鎮家臣で肥後国(熊本県)の南部を統治する小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)の客分(きゃくぶん)として雇用している。
その後も“豊臣五大老”の1人でもある加賀国(石川県)の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)に客将(かくしょう)として招聘(しょうへい)された。
この時期に高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は金沢で降誕祭(こうたんさい/クリスマスパーティー)を開催した。
こうして加賀国(石川県)でキリスト教の信者として余生を過ごしていた高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)だが、再び試練が襲い掛かる。
BECK /♪ NICOTINE AND GRAVY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:36:13
◆◇◆其の十六:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)の処分の後に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の耳にキリスト教の悪い噂が入る。
スペインの貿易船のサンフェリペ号が土佐国(高知県)の海域で座礁し、豊臣政権の役人が救助した際に乗組船員からこんな話しを聞いた。
乗組船員…『スペインが最強国となり世界征服できたのも、地球上の各国にキリスト教の宣教師を派遣して国民をキリシタンに改宗(かいしゅう)させ、それにより領土を拡大していったんだぜぇ。 神様を崇拝する宗教とは言っても、侵略者と何ら変わりはない。 スペインってスゲェ〜だろぉ!』
豊臣政権の役人…『なぁ、なんやぁてぇ! 今直(います)ぐ殿に知らせろぉ!』
この軽薄な乗組船員の戯言(たわごと)により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が激昂(げきこう)して、緩(ゆる)い「バテレン追放令」から厳しい「キリスト教弾圧」へと変わる。
1597年に京都や大坂でキリスト教の布教活動をしていた宣教師など26人を捕獲して、肥前国(長崎県)まで連行して処刑した。
その処刑地は長崎市の西坂公園に“日本二十六聖人殉教碑”(にほんにじゅうろくせいじんじゅんきょうひ)として供養塔が建てられている。
その後の1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去する。
翌年の1599年に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)も死去した。
これにより豊臣政権は政権争いで分断され、東軍の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と西軍の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が対峙した。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に突入し、この時に亡くなった前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の後継者となる加賀国(石川県)の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に服従(ふくじゅう)して、その証(あかし)となる人質として母親のまつ(芳春院/織田→豊臣)を武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に差し出した。
一方で越前国(福井県)から加賀国(石川県)の一部を領域とし“織田四天王”だった丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)の息子の丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)は、越前国(福井県)の敦賀城(つるがじょう)の城主だった大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)の調略により西軍に参加した。
そして、前哨戦でもある加賀国(石川県)の小松で起こった「浅井畷の戦」(あさいなわてのたたかい)にて、丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)が率いる3000人の丹波西軍は、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)が率いる2万5000人の前田東軍と交戦した。
この合戦で高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)の前田東軍に参加するも、田んぼや泥濘(ぬかるみ)が多く路地が細い戦地だった為に、大軍勢でありながらその効力は発揮されず敗北した。
この「浅井畷の戦」(あさいなわてのたたかい)で勝利した丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)が率いる丹波西軍だったが、本戦の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)は西軍の敗北により、丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)は徳川政権からは蟄居(ちっきょ)を命じられ、越前国(福井県)から加賀国(石川県)の領土は領地没収の改易(かいえき)となった。
そして「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)の布教でキリスト教に入信した細川ガラシャこと明智玉(あけちたま/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の南側に建つ細川家の屋敷に居住していた。
この時に夫の細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)が東軍として出陣していた為に屋敷の留守を任されていたが、西軍の石田三成(いしだみつなり/豊臣)から大坂城(おおさかじょう)へ人質として入城する様に要請されたが、それを拒み武士の妻として屋敷に火を放ち自害した。
細川ガラシャ…『散りぬべき、時知りてこそ、世の中の、花も花なれ、人も人なれ。』⦅花は散る時を知るからこそ、花として美しく咲く。 人間もそうありたいと願うが、今こそ散る時が来ている。⦆
これが燃え盛る屋敷で細川ガラシャこと明智玉(あけちたま/斎藤→織田→豊臣→徳川)が詠(よ)んだ辞世の句である。
一方でキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は、敗戦後に西軍の副大将として捕縛(ほばく)され、大将の石田三成(いしだみつなり/豊臣)と共に京都の六条河原で斬首され梟首(きょうしゅ)となった。
この時に、介錯人(かいしゃくにん)は武士として切腹を薦めたが、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)はキリスト教で自害は禁忌(きんい)されている事を理由に斬首を選んだと言う。
DUFF MCKAGAN /♪ MAN IN THE MEADOW
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:37:11
◆◇◆其の十七:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が征夷大将軍1代目に就任し、1603年に武蔵国(東京都)で江戸幕府を開設した。
その後も高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は徳川政権で重用され、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)が越中国(富山県)の高岡城(たかおかじょう)を築城する際は縄張設計に加わっている。
しかし、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)とキリスト教の波瀾(はらん)は継続中だった。
まだ豊臣政権だった1600年に、豊前国(ぶぜん/大分県)の臼杵(うすき)にオランダ船が漂流した。
これ以降、スペインやポルトガルのキリスト教(カトリック)の宣教師が来日して布教活動をするも、真の目的はその地で信者を増やして軍備を整え植民地にする事にあった。
南国のマカオやフィリピンから来航してくる大型船には、聖書(バイブル)と共に大量の鉄砲も積み込まれ、それを江戸幕府は購入した。
来航人は南から来る野蛮人と言う意味で“南蛮”(なんばん)と呼ばれた。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は長崎奉行所を設置して、長崎港でポルトガルと貿易を始める。
海を行き来する貿易船は、貿易取引の証として朱印(しゅいん)を受領していたため朱印船(しゅいんせん)と呼ばれる。
江戸幕府は直轄地の肥前国(長崎県)の長崎港や平戸港(ひらどこう)の以外に、肥前国(長崎県)の対馬島の宗義智(そうよしとし/豊臣→徳川)は朝鮮半島と、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)は琉球国(沖縄県)と、蝦夷国(えぞ/北海道)の松前藩の松前慶広(まつまえよしひろ/秋田→豊臣→徳川)はアイヌなどとの貿易を認めていた。
特に肥前国(長崎県)の対馬府中藩の宗義智(そうよしとし/豊臣→徳川)と息子の宗義成(そうよしなり/徳川)は、朝鮮半島との貿易による利益で江戸幕府に年貢を納めていたので、江戸幕府も朝鮮半島を重要視しており、朝鮮通信使も招いて国交は良好だったと言える。
そんな江戸の町には八重洲(やえす)の語源にもなったオランダ人で貿易商のヤンヨーステン(耶揚子/江戸)や、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の貿易顧問として雇われていたイギリス人のウィリアムアダムス(三浦按針/江戸)が、江戸幕府から屋敷を与えられ居住していた。
オランダとイギリスもキリスト教(プロテスタント)の布教活動しており、宣教師などは紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていた。
ただ、このキリスト教による日本での布教活動が、同じキリシタンでもカトリックとプロテスタントで対立し、さらにプロテスタントのオランダとイギリスとの国同士の対立も表面化した。
結局、江戸幕府はオランダとの国交を優先して、肥前国(長崎県)の長崎港の海上に出島を増築してポルトガル人をそこに集約した。
それと同時に中国大陸から渡ってきた唐人(とうじん)も、居留地を設けて集約し唐人屋敷と呼ばれ、それが現在の長崎中華街である。
だから、江戸幕府は全面的に鎖国(さこく)していた訳ではなく、外国が日本国内で宗教や国同士で勝手に争いを起こし、それで勝利した国が他国を追い出しただけである。
当時から日本人は海外文化にリスペクト(尊敬)している事は明らかである。
因(ちな)みに鎖国(さこく)と言う言葉は、金庫を盗まれない様に鎖(くさり)で縛り付けて扉が開かない様子から来ている。
PETE YORN /♪ I WANNA BE YOUR BOYFRIEND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251018 - ラジオの友 URL
2025/10/18 (Sat) 02:38:18
◆◇◆其の十八:外国に渡った侍(サムライ)・高山右近と山田長政◆◇◆
そんな出来たばかり江戸幕府が徹底的に実施したのがキリスト教の弾圧である。
九州を中心に広まったキリスト教を、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が統治する江戸幕府は、1614年にキリスト教の“禁教令”(きんきょうれい)を発令した。
これは豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が発布した「バテレン追放令」より重い内容である。
その原因は1609年に起こった「岡本大八事件」にある。
よく分からない事件だが、肥前国(長崎県)の長崎港で貿易が行われ、朱印船(しゅいんせん)の窓口となっていたのが長崎奉行所だった。
そこに勤めていたのが旗本の長谷川藤広(はせがわふじひろ/長崎)である。
肥前国(長崎県)の日野江藩(島原)の藩主だった有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津→豊臣→徳川)は、朱印船(しゅいんせん)を保有して海外との貿易を手掛け利益を得ていたが、ある時、ポルトガル領だったマカオでトラブルを起こす。
その調査や仲裁に入ったのが長崎奉行所の長谷川藤広(はせがわふじひろ/長崎)と、江戸幕府からは本多正純(ほんだまさずみ/徳川)の家臣で肥前国(長崎県)の武士の岡本大八(おかもとだいはち/本多)だった。
この当事者による解決や報告には、江戸幕府や大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対して嘘(ウソ)で固められ、事件を大きく助長させた。
結局、トラブルや虚偽報告の責任を取る形で有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津→豊臣→徳川)と岡本大八(おかもとだいはち/本多)が切腹して自害した。
問題はここからで、この有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津→豊臣→徳川)と岡本大八(おかもとだいはち/本多)は共にキリシタンだった。
そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)はキリスト教を信仰すると嘘(ウソ)を吐(つ)く問題児になると考え、キリスト教の弾圧を強めていく。
その考えは征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)にも踏襲され、江戸幕府はキリスト教を断固反対する立場となった。
この時期に肥前国(長崎県)の島原や肥後国(熊本県)の天草で、キリスト教(カトリック)の布教活動をしていた宣教師のマルコスフェラロ(ママコス/神父)も国外追放されている。
マルコスフェラロ(ママコス/神父)は日本から立ち去る時に、天草領民のキリシタンに言葉を残した。
ママコス…『今から25年後、この地に天変地異が起きて人類滅亡の危機に陥るが、ただし、そこに16歳の天童が現れ、キリスト教の宗威は異教をも呑み込み、天帝はあまねく民を救うであろう。』
CHEAP TRICK /♪ SAY GOODBYE
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