都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:31:18
CLARENCE GATEMOUTH BROWN /♪ MY TIME IS EXPENSIVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:32:24
CLARENCE GATEMOUTH BROWN /♪ COLD STRINGS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:33:51
TERRY REID /♪ I'VE GOT NEWS FOR YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:34:46
MARVIN GAYE /♪ "T" PLAYS IT COOL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:35:39
PHOEBE SNOW /♪ MAMA DON'T BREAK DOWN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:36:46
THE BRECKER BROTHERS /♪ SOME SKUNK FUNK
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:37:41
DAVID SANBORN /♪ GOT TO GIVE IT UP
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:39:23
ESTHER PHILLIPS /♪ NATIVE NEW YORKER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:41:12
BOBBY WOMACK /♪ HOW I MISS YOU BABY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:43:57
MICHAEL HENDERSON /♪ TAKE ME I'M YOURS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:44:55
MARLENA SHAW /♪ WIPE AWAY THE EVIL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:45:47
TEDDY PENDERGRASS /♪ VOODOO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:46:38
BEBE & CECE WINANS /♪ FEELS LIKE HEAVEN (WITH YOU)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250404
- ラジオの友 URL
2025/04/04 (Fri) 09:47:34
FREDDIE JACKSON /♪ TASTY LOVE
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 18:49:16
STEPS & MICHELLE VISAGE /♪ HEARTBREAK IN THIS CITY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 18:51:06
PALOMA FAITH /♪ SUPERNATURAL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 18:52:56
BETH NIELSEN CHAPMAN /♪ HAPPY GIRL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 18:53:49
CLOUDBERRY JAM /♪ DAY AFTER DAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 18:55:40
LISA MOORISH /♪ LOVE FOR LIFE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 18:56:38
BEVERLEY CRAVEN /♪ TWO OF A KIND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 18:58:26
MARIA MCKEE /♪ SHOW ME HEAVEN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 18:59:16
VALERIE CARTER/♪ TRYING TO GET TO YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 19:05:47
ALANIS MORISSETTE /♪ UNDERNEATH
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 19:08:27
CARLY SIMON /♪ COMING AROUND AGAIN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 19:09:21
CAROLE BAYER SAGER /♪ WILD AGAIN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 19:10:13
KATE ST. JOHN /♪ LE PREMIER BONHEUR DU JOUR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250403 - ラジオの友 URL
2025/04/03 (Thu) 19:11:05
CASSANDRA JENKINS /♪ OMAKASE
◆ラジオの友◆
大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/26 (Thu) 18:19:27
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
“大阪関西万博”のコンセプトでもある“命”。
この“命”も“セックス”をやらなきゃ実りまぁへぇんでぇ〜
“命”=“セックス”でっせぇ!
この辺りを、嫁はぁんと一緒に“いしん”を掛けてアピールしたいと思ってまぁんねぇん。
ちなみにわいの嫁はぁん、20代の時のあだ名が“パン子”ですねぇん。
誰とでも寝てパンパンするから言うてぇ、“パン子”って呼ばれてましたわぁ。
そんな相手の1人がわいですねぇんけどなぁ。
今では子宝に恵まれて、6人も居てけますわぁ。
“岸和田ヤリチン大使”も少子化防止に貢献してまっしゃろぉ!
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/26 (Thu) 21:25:52
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
大阪のダンディーな男の為の“三大プレイスポット”と言えば、大阪市西成区の“飛田新地”(とびたしんち)、大阪市西区の“松島新地”(まつしましんち)、大阪市生野区の“今里新地”(いまざとしんち)である。
それに加えて小規模になるが、大阪府守口市の“滝井新地”(たきいしんち)や大阪府和泉市の“信太山新地”(しのだやましんち)も有名です。
“岸和田ヤリチン大使”としては、生まれも育ちも岸和田なので、近隣の“信太山新地”(しのだやましんち)が馴染み深いですが、それでも北を目指して“飛田新地”(とびたしんち)まで遠征に行く事もしばしば!
ただここは、2025年の“大阪関西万博”の開催に向けて、大阪名物の“ひっかけ”(ナンパ)に注目して頂きたい。
お金を支払ってプレイを簡単に楽しむのでは無く、“ひっかけ”(ナンパ)でプレイを出来るか出来ないかのスリルを味わう喜び。
そう、その行為こそが“エクスタシー”である。
東京都新宿区の歌舞伎町では、国策に“いしん”を掛けた国会議員が、“議員バッチ”と“札束”(お金)をチラつかせて、なんと、まだ毛も生え揃(そろ)わない女子中学1年生にお金を渡してプレイを強要したと言う。
清純な乙女を鷲掴(わしずか)みにして桃の様なお尻(ピーチヒップ)に、臭(くさ)くて醜(みに)い親父の腐ったバナナ(ダーティーバナナ)をぶち込んで腰をズッコバッコと動かし、底なしの欲望を満たしていた。
この事からも、“お金”と“セックス”を結びつけては面白味や醍醐味が無くなる。
“お金”≠“セックス”である!
では、“岸和田ヤリチン大使”より“大阪関西万博”が開催される大阪で、“いしん”を掛けてお金の掛からない“ひっかけ”(ナンパ)とプレイをご紹介していこう。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/26 (Thu) 23:15:27
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
2025年の“大阪関西万博”の開催が待ち遠しい、今日この頃。
この“万博”と言うキーワードは、正(まさ)に1970年に開催された“大阪万博”に凝縮されていると思う。
日本は60年代から続いた高度経済成長期から脱却し、70年代は文化や文明の進化や発展の為に“希望”と“未来”が輝いていた。
当時、20代だった会社の上司から、幾度(いくど)となく1970年の“大阪万博”について聞かされた。
ただ、その話しの内容は、会場内のパビリオンや展示物ではなく、そこに勤める国内外の若くて綺麗なコンパニオンについてだ。
よく、仕事終わりのコンパニオンを“ひっかけ”(ナンパ)ては、部屋に連れ込んで“スモークパーティー”を開催していたと言う。
今だったら法令違反だが、当時は“葉っぱ”(スモーク)は禁止されていなかったのだろう。
コンパニオンも和洋交互に連れ込んでは“お酒”(アルコール)と“葉っぱ”(スモーク)で撹乱(かくらん)し、それでキメると想像を絶するエクスタシーが得られると言う。
その話しをする上司の口癖は、『これこそ俺の神木(しんぼく)で親睦(しんぼく)を深める国際交流やぁでぇ!』だった。
そんな男の“希望”と“未来”に満ちた“大阪万博”が2025年に再来する。
コンパニオンだけでも、綺麗どころがわんさか来(き)よぉるでぇ!
ここは一発、“岸和田ヤリチン大使”の名に掛けて、大阪名物の“ひっかけ”(ナンパ)でお近付きになるしかあらへぇん。
“いしん”を掛けた決め台詞(せりふ)はこうやぁ!
『“大阪関西万博”で“命”の大切さを学んだ後は、僕のお家(うち)で“命”の製造工程を学ばぁへぇん?』
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/27 (Fri) 01:16:10
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
ステレオタイプのアホォなテレビ局が「ザ・大阪」と言って紹介するのが、道頓堀川に掛かる通称“ひっかけ橋”(ナンパ橋)の戎橋(えびすばし)。
あんな所に生粋(きっすい)の大阪人なんか居(お)れへぇん言(い)うねぇん!
インバウンド(訪日観光客)か和歌山や奈良から出てきた高校生しか居(お)れへぇんわぁ。
ほんまもん(本物)の大阪人が見たかったら、大阪市旭区の千林商店街(せんばやししょうてんがい)に行かなあかんわぁ。
一(いち)十(じゅう)百(ひゃく)千(せん)の千林(せんばやし)、千林商店街(せんばやししょうてんがい)やぁ!
千林商店街(せんばやししょうてんがい)とは、地下鉄の千林大宮駅と京阪電鉄の千林駅をつなぐアーケードのある商店街である。
あのスーパーマーケットのダイエーこと大(ダイ)阪栄(エー)商店の発祥の地でも有名だ。
この近くには大阪府守口市の“滝井新地”(たきいしんち)がある。
歩いて5分程度だろうか。
ただ、ここは“岸和田ヤリチン大使”として、“いしん”を掛けて“ひっかけ”(ナンパ)で勝負したい。
この千林商店街(せんばやししょうてんがい)は、大阪で一番の“お達者くらぶ”である。
右見ても、左見ても、婆さんしか居ない。
これで決まりだ!
今日のターゲットは60代〜70代の独り身の婆さんだ。
商店街をウロウロと買い物をしているところを見れば、ご近所の人に違いない。
そんな婆さんに目星を付けてアタックする。
決め台詞(セリフ)はこうだ。
『そこのお饅頭屋さんで大福を買ったんですけど、多くて1人で食べ切れないから、一緒に食べませんか?』
これで断る婆さんは、まず居ない。
そして婆さんの家に呼ばれる。
先(ま)ずは爺さんの仏壇に線香を上げて手を合わせる。
その後、熱いお茶と甘い大福を嗜(たしな)み、日常会話を楽しむ。
そんな弾む会話には、時折(ときおり)、色っぽいキーワードを散りばめる。
そうすると婆さんは立ち上がり、窓のカーテンを閉めてその気だ。
薄暗い部屋の中で、婆さんの服を脱ぐ音だけが聞こえる。
婆さんの肉体は、例えるなら旬を過ぎたミカンの様だ。
ただ、萎(しお)れたミカンだからといって、一皮剥(ひとかわむ)けば果汁が滴(したた)り落ちる。
男を求める女に、年齢は関係ない!
婆さんも久々の極楽浄土(天国)を味わった事であろう。
こうして色々なバリエーションを楽しんで男を磨くわけだ。
その後、再び千林商店街(せんばやししょうてんがい)に行く事があったので、婆さんの家を訪ねると様子がおかしい。
近所の人に尋(たず)ねると、先日に亡くなったと言う。
確かに、『死んじゃう、死んじゃう!』とは言っていたが、本当に死んじゃうとは思わなかった。
あの時の大福と共に、“冥土の土産”(めいどのみやげ)を持たせてあげたのかも知れない。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/27 (Fri) 13:44:01
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
日頃の日課が子供が寝静まった夜に、嫁はぁんの“パン子”と晩酌をしながら、お互いの異性関係の話しを聞いて楽しむ。
狩猟民族の“岸和田ヤリチン大使”として、最近はインターネットのSNSなどの発展で街中の“ひっかけ”(ナンパ)は、不審がられ上手くいかない事をよく愚痴(グチ)ると、酩酊(めいてい)状態の嫁はぁんは『酒が不味(まず)くなる!』と怒鳴(どな)る。
安定的な成果を出す農耕民族の嫁はぁんは常に男性が傍(かたわ)らに居り、その1つがパート先の父親ほど歳(とし)の離れた現場責任者と長い事お付き合いしている。
年輪を重ねたおじさんのネチッこい攻め方が、嫁はぁんの肌に合うらしい。
お互い結婚している為に、“いしん”を掛け割り切って向き合い、相性が良いと嫁はぁんは笑う。
そして最近、パート先にアルバイトの若い大学生が入ったらしく、嫁はぁんはその男の子にも手を付けた。
男の子は独り暮らしをしており、嫁はぁんは部屋の掃除や食事を作りにちょくちょく通っているそうだ。
家庭の味の肉ジャガを食べさせて、その後は“いしん”を掛けて大人の女を味を食べさせている。
そんな若い時から“お口のモンスター”と呼ばれる嫁はぁんに仕込まれたら、その青年は同い年の女の子とお付き合い出来へぇん様になるでぇ!
ある日、同じ職場でもある2人のボーイフレンドと、デート日が重なってしまったらしい。
何方(どちら)かを断るのも気が引ける為に、嫁はぁんは2人と同時にデートする事にした。
デートする部屋で鉢合わせた2人は驚いた様だが、それも直(す)ぐに打ち解けて3人で大いに楽しんだと言う。
その後、スーパーマーケットで買い物をして、ご帰宅したら直(す)ぐに晩御飯の支度をする嫁はぁん。
何事も無かった様子でシレッとした顔で、子供に晩御飯を食べさせている。
“岸和田ヤリチン大使”は、そこに女性の優しさと強(したた)かさを感じる。
ジェンダーな世の中だから、夫婦間もフリースタイルが心地良い。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/28 (Sat) 16:40:19
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
“いしん”を掛けた“岸和田ヤリチン大使”として、その名に恥じぬ様いつでもプレイできるようにビンビンモードである。
仕事で大きなミスをして相手に謝罪している時も、ズボンの中身は常にビンビンだ。
嫁はぁんの“パン子”も子供が学校でイタズラして呼び出され、担任の男性教師に頭を下げて謝ってはいるが、目線の先は股間に向いており、完全に標的を“ ロックオン”している。
こんな感じの嫁はぁんのスカートの中は、常に湿っぽく湿度120%である。
こんな大阪のごく普通の夫婦は、家庭円満である。
私の頭の中は“ひっかけ”(ナンパ)の事で充満している。
いつでもどこでも“ひっかけ”(ナンパ)できる様に、口説き文句を考えて頭脳の引出しにストックしておく。
その声を掛ける時に気を付ける事がある。
女性は人目を気にするので、極力、人通りが少ない場所で声を掛ける。
さらに必然的に声を掛けたのではなく、偶然性を装う必要がある。
『あたし、“ひっかけ”(ナンパ)でホイホイ着いて行く“尻軽女”とは違うのよ!』
女性に、絶対にこう思わせてはならない!
スタンダードな“ひっかけ”(ナンパ)は、観光客を装(よそお)い道を聞く振りが一番良い。
岸和田ヤリチン大使…『スミマセ〜ン、ワタシ、旅行デェ大阪ニィ来マシタ。 通天閣ハァドコニィアリマスカァ?』
女性…『あっ、通天閣は難波から南に行った新世界にありますよぉ。』
岸和田ヤリチン大使…『アリガトォウ、ゴザイマァ〜ス。』
女性…『何処(どこ)の国からいらしたんですかぁ?』
岸和田ヤリチン大使…『岸和田デェ〜ス。』
女性…『岸和田って、大阪やぁんけぇ!』
それにもう1つ大切なのは、“ひっかけ”(ナンパ)が成功した後に利用するホテルの場所である。
ここは“ひっかけ”(ナンパ)した女性をスマートにエスコートしなければならない。
そこで、大阪市内のホテル街を北側から順に見ていこう。
▼十三(じゅうそう)なら南西一帯。
夜の街と言うイメージが強い十三(じゅうそう)で“ひっかけ”(ナンパ)をすると、その女性はキャバクラのホステスかヤクザの女が多いので、気を付けなければならない。
できれば十三駅の東側に連なるアーケード商店街がいい。
ただ、女性の年齢層はかなり高めである。
たまに若い女性の自称ユーチューバーが興味本位で撮影しているので、その辺りがターゲットになる。
岸和田ヤリチン大使…『姉ちゃん、なに撮影してぇんのぉ?』
女性…『あっ、昭和の雰囲気が漂う十三(じゅうそう)をユーチューブで紹介しようと思いまして。』
岸和田ヤリチン大使…『昭和の十三(じゅうそう)かぁいなぁ、おっちゃん、その時代の十三(じゅうそう)詳しいから案内したろぉかぁ?』
女性…『えっ!? いいんですか? 宜しくお願いします。』
岸和田ヤリチン大使…『ここがあのCMで有名な雁亭(がんてい)があった場所やぁ、知らんけぇ雁亭(がんてい)? 十三駅の西側は“しょんべん横丁”言うて飲み屋街やったんけど、火災で消失してもうたわぁ。』
女性…『へぇ〜 そうなんですかぁ〜』
岸和田ヤリチン大使…『交差点を渡った先の歓楽街には、大小のキャバレーが軒を連ねてたんやぁでぇ。 その奥地が“愛する男と女の楽園”って言う天国みたいな所やぁねん。 姉ちゃん、そこ行きたいかぁ?』
女性…『是非(ぜひ)、連れてって下さい。』
▼梅田なら兎我野(とがの)一帯。
大阪で一番の繁華街でもある梅田なら女性も多く居る為に、“ひっかけ”(ナンパ)がやりたい放題である。
がっ、それに比例して人も多いので、人目があり声を掛け難(にく)い。
それでも人流のエアスポットはある。
地下街では、梅田北側の阪急三番街、梅田南西側のホワイティうめだの“いずみの広場”、ここなら直ぐ地上に出れば兎我野(とがの)のホテル街で便利である。
梅田南側のディアモール大阪や第3ビルなどの地下街も場所によれば人が少ない。
梅田西側のハービス地下道も“ひっかけ”(ナンパ)の穴場である。
ただ、やはり人の多さは西日本で一番の為に、地方など多方面から来てる女性や仕事中の女性も多く、“ひっかけ”(ナンパ)のターゲットを選定するのは難しい。
▼難波の湊町(みなとまち)一帯と日本橋(にっぽんばし)の北東一帯。
このミナミでは、間違っても通称“ひっかけ橋”(ナンパ橋)の戎橋(えびすばし)や心斎橋筋商店街で声を掛けてはならない。
確かに女性は多いが、十三(じゅうそう)同様にどんな人物が混じっているか分からないからだ!
無難なのが、やはり地下街である。
心斎橋のクリスタ長堀や難波のなんばウォーク(虹の街)は、意外にも人が少なく大阪で一番の“ひっかけ”(ナンパ)しやすいホットスポットである。
しかもなんばウォーク(虹の街)は、西側の地上に出れば湊町(みなとまち)のホテル街、東側の地上に出れば日本橋(にっぽんばし)のホテル街と直結しており、ダイレクトインできる。
クリスタ長堀も地上に出て、西側ならアメリカ村をブラブラしながら湊町(みなとまち)のホテル街、東側なら島之内(しまのうち)のアジア街をブラブラしながら日本橋(にっぽんばし)のホテル街に行くと楽しさが増す。
変わり種で言えば本町の船場センタービルがある。
ここは衣料品の問屋が集積しており、一般人も購入できるお店もある。
その為に女性が1人でブラブラと買い物を楽しんでいる姿も見掛けるが、ただ、年齢層はかなり高めである。
しかも、“ひっかけ”(ナンパ)に成功しても、本町から難波まで地下鉄で移動しなければならず、あまりスマートとは言えない。
船場センタービルの問題点は、ここにある。
近隣にホテル街が無い事だぁ!
繁栄する都市の必須条件の第69条に、ホテル街の併設と条文に明記されている。
これは日本全国、どの都市にも当てはまる。
ホテル街を蔑(ないがし)ろにする都市に残された道は、“衰退”のみである。
次回は他のエリアをご紹介いたします。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/28 (Sat) 17:19:51
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
では、前回の続きで大阪市内の“ひっかけ”(ナンパ)のスポットとホテル街を、“いしん”を掛けて紹介していきます。
▼京橋の北西一帯と桜ノ宮(さくらのみや)の南一帯。
ここは全国的にも一番に有名なホテル街です。
ただ、“ひっかけ”(ナンパ)のスポットが少なく、京橋なら京阪モールか半地下の京橋コムズガーデンがある。
昔はダイエー京橋店で買い物をしている主婦をターゲットにしたマニアックスポットだったが、残念ながら閉店してしまった。
間違っても京橋駅の北東一帯にあるアーケード商店街での“ひっかけ”(ナンパ)は御法度(ごはっと)である。
理由は、行けば分かる。
京橋には歩いて行ける距離に大阪城があるので、ここで1人で旅行を楽しむ観光客の女性を“ひっかけ”(ナンパ)するのも良い。
そのまま大阪案内と称して、桜で有名な大川をブラブラしながら桜ノ宮(さくらのみや)のホテル街に行く事がスマートであろう。
また、この辺りは大阪府庁などが集積する官公庁街なので、夕方の6時頃に仕事の疲れと嫌味(いやみ)な上司のストレスを抱えた女性職員に、優しく声を掛けるのも1つである。
岸和田ヤリチン大使…『どうしたの? そんな疲れた顔をして。 綺麗なお顔が台無しだよ!』
女性…『えっ!? あたし、そんな酷(ひど)い顔をしていますか?』
岸和田ヤリチン大使…『よかったら、僕に全てを打ち明けてくれないかな?』
女性…『貴方(あなた)に、何処(どこ)へでも着いて行くわぁ。』
人間の心理を突いた“ひっかけ”(ナンパ)は、ほぼ上手くいく。
▼上本町の北西一帯と谷町九丁目の西一帯
この上本町エリアのホテル街は大阪では有名である。
由緒(ゆいしょ)あるお寺の周辺に、ホテルが無数に乱立している。
ただ、“ひっかけ”(ナンパ)のスポットが少ない。
上本町ハイハイタウンくらいしか思い浮かばない。
そこで視点を変えて、寺町(てらまち)に注目する。
お寺にはお墓も併設されている。
そこで、旦那に先立たれた未亡人をターゲットにする。
女性…『あなたはどうして、あたしを置いて逝(い)ってしまったの? とても哀(かな)しいわぁ。』
岸和田ヤリチン大使…『その気持ち、十分に分かります。 実は僕も先日、妻が急に・・・ ウウウウッ〜』
女性…『あらっ!? 貴方(あなた)も奥さんをぉ!?』
岸和田ヤリチン大使…『男1人となった僕の切実な話しを聞いてくれますか?』
女性…『お可愛(かわい)そうに、あたしに出来る事があったら、何でも言ってちょうだいね。』
▼天王寺の北一帯と阿倍野の南一帯
大阪のターミナル駅でもあるJRと地下鉄の天王寺駅、近鉄なら大阪阿部野橋駅、共に近隣にホテル街が整備されている。
ここは天王寺ミオやあべのフープ、それにキューズモールなど若年層の商業施設が多く建ち並ぶ為に、必然的にターゲットもヤング層になる。
ただ、この“ひっかけ”(ナンパ)スポットで気を付けなければならないのが、若い子は“お金”を要求してくる比率が高い事である。
それは、もう“犯罪行為”だ。
近年でもアホォな有名人が、これらのハニートラップに引っ掛かり、酷(ひど)い目に遭(あ)っている。
これは何もアホォな有名人だけでは、無い!
一般人も同じ目に遭う可能性は高い。
特に阿倍野エリアは未成年の女子高生や女子中学生も多いので注意が必要だ。
それらリスクを勘案すると“ひっかけ”(ナンパ)のスポットは、根性の捻(ね)じ曲がったアホォな女の子が来そうにないエリアに限定される。
阿倍野西側ならあべのルシアスかアポロビル、阿倍野東側なら近鉄百貨店ウイング館の2階。
天王寺駅に直結した天王寺ミオ、それにあべの地下街(あべちか)。
変わり種で天王寺動物園もある。
1人で動物観察する女性が猿(サル)の交尾(こうび)を目撃して、触発(しょくはつ)されムラムラ来たところを、すかさず声を掛ける。
女性…『あらっ!? あの猿(サル)ったら、なんて激しいの!』
岸和田ヤリチン大使…『僕もあの猿(サル)に負けないくらいの腰さばきが自慢なんですよぉ! 試してみませんか?』
カクカク カクカク
その時、女性に高速なグラインドを見せ付ける。
女性…『貴方(あなた)にお供にします。』
ここまでは大阪市内の有名な“ひっかけ”(ナンパ)のスポットと、その後に利用するホテル街である。
次回は大阪府内にエリアを拡大して紹介します。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/28 (Sat) 20:17:41
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
今度は大阪府内に広げると幾(いく)つかのホテル街が点在する。
そんな大阪府内の“ひっかけ”(ナンパ)のスポットとホテル街を、“いしん”を掛けて紹介していきます。
ただし、車での利用を目的としたホテルが多い為に、“ひっかけ”(ナンパ)のスポットはほぼ皆無である。
近場の大型ショッピングモールで“ひっかけ”(ナンパ)して、ドライブしながら行くパターンを想定している。
▼名神高速道路の豊中インターから大阪国際空港(伊丹空港)に掛けての空港線沿い
大阪市西淀川区の御幣島(みてじま)や加島(かしま)、または大阪市淀川区の十三(じゅうそう)から北上して大阪国際空港(伊丹空港)に向かうと、名神高速道路の豊中インター辺りから大阪国際空港(伊丹空港)までの間に、大阪府内では有名なホテル街が出現する。
ただ、“ひっかけ”(ナンパ)のスポットとなると、それほど多くはない。
伊丹のイオンモール伊丹かイオンモール伊丹昆陽(こや)がある。
意表を突いて尼崎のつかしん(西武百貨店跡地)と言うバブル期の遺産も存在する。
まあ、車で移動すれば広域にスポットは拡大できるが。
千里中央の商業施設や箕面のキューズモールも手堅いスポットだ。
変わり種では川西能勢口駅の川西阪急百貨店や、宝塚駅から続く“花のみち”で宝塚歌劇団を観賞に来たヅカファンを“ひっかけ”(ナンパ)するのも有りかも知れない。
岸和田ヤリチン大使…『♪すみれの花〜 咲くころぉ〜 初めて君を〜 知りぬぅ〜 君を想い〜 日ごと夜ごとぉ〜 悩みしあの日のこぉ〜ろ〜』(♪すみれの花、咲く頃)
ヅカファン…『イヤァ〜ン。』
岸和田ヤリチン大使…『♪私は薔薇(バラ)の定めに生まれた〜 華やかに激しく生きろと生まれた〜 薔薇(バラ)は薔薇(バラ)は 気高(けだか)く咲いて〜 薔薇(バラ)は薔薇(バラ)は美しく散るぅ〜』(♪薔薇は美しく散る)
ヅカファン…『アハァ〜ン。』
岸和田ヤリチン大使…『♪宝塚〜 わが宝塚〜 清く正しく美しく〜 栄(は)えある歴史〜 ここにあり〜 おお宝塚〜 花ある伝統〜 高らかに〜 いざ讃えつつ〜 歌いつつ〜 輝ける道〜 一筋に〜』(♪宝塚歌劇団の団歌)
ヅカファン…『ア〜ン ポ〜ン タァ〜ン。』
▼摂津から門真に掛けての中央環状線(中環)沿い
このエリアはホテル街と言うよりも、中央環状線(中環)沿いに数kmの間隔を空けてホテルが建っている。
近隣には巨大なショッピングモールも多く、吹田市のららぽーとエキスポシティ(エキスポランド跡地)やイオンモール大日(三洋電機本社工場跡地)がある。
最近ではららぽーと門真(パナソニック工場跡地)が開業した。
それ以外でも元マイカル茨木のイオンモール茨木(日本たばこ産業工場跡地)など数多くの商業施設がある。
また、大学も多く点在している為に、好奇心の旺盛(おうせい)な女子大生を“ひっかけ”(ナンパ)のターゲットにすると良い。
岸和田ヤリチン大使…『世界におけるSDGs(エスディジーズ)活動の矛盾と、政府が推奨する“優良緑地確保計画認定制度”の矛盾を突き止めて、都市部のグリーン化を促進するくらいなら、初めから大自然が残る地方を活用する方が有効だと言う効果を示す為に、君の優秀な才能がどうしても必要なんだ。』
女子大生…『凄く壮大(そうだい)な実証実験なんですね。 こんなあたしで良ければお手伝い致します。』
岸和田ヤリチン大使…『ありがとう。 では先(ま)ず、都市の郊外における愛する男女が集(つど)うホテルの立地条件から調査しよう!』
女子大生…『はい、分かりましたわぁ、先生。』
▼東大阪から奈良に向かう阪奈道路
大阪から奈良に向かう生駒山の山道となる阪奈道路沿いにはホテルが点在し、特に東大阪側の山の麓(ふもと)に多い。
生駒山の山頂から大阪平野の夜景を観に行く口実で、ドライブに誘って行くのが定番である。
女性…『綺麗な夜景ねぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『そうだね。 でも夜景の美しさよりも、君の美しさの方が勝っているよぉ。』
女性…『まぁ、お上手ねぇ。』
この台詞(セルフ)を聞いて嫌な気分になる女性は、まず居ない。
美しい夜景と甘い言葉に酔いしれて浪漫(ロマン)に浸る女性を、スマートにホテルインする。
ただ、間違ってもホテル代をケチって、山の暗闇に紛(まぎ)れて“カーセックス”に励(はげ)むのは御法度(ごはっと)である。
こう言う女心の分からないトンチキ野郎(マヌケ男)は、けっこう多い。
▼東大阪の長田一帯
大阪の大動脈でもある中央環状線(中環)と中央大通の交差点から北西側に面して複数のホテルが建ち並ぶ。
近隣には倉庫や会社もある為に大型トラックが行き交っているので、車をヘラヘラ運転してホテルを物色(ぶっしょく)していれば、トラックの運ちゃんにクラクションを鳴らされるので注意が必要である。
近隣には大小の商業施設が多い。
イオンモール鶴見緑地が最も有名だが、フレスポ東大阪やフレスポ長田も穴場かも知れない。
逆に近鉄奈良線の布施駅から八戸ノ里駅に掛けて大学が多くあるので、女子大生をターゲットにするのも良いかも知れないが、はっきり言ってこの辺りの東大阪は、声を掛け難(にく)い雰囲気が漂っている。
行けば分かるが、バリバリの大阪下町である。
▼堺から泉佐野に掛けての26号線(第二阪和道路)沿い。
大阪市から南下し大和川を越えて、堺市から高架道路を走り石津川を越えた辺りはから続く26号線(第二阪和道路)沿いのロードサイドに延々と建つホテル。
ここは堺市から泉佐野市までの広範囲になる為に、その地域ごとで利用するホテルも変わってくる。
堺市なら石津川より北側の臨海部の海岸通り、高石市や泉大津市もポツリとあるが、やはりメインは忠岡町(ただおかちょう)の大津川沿いにあるホテル街である。
ある意味、この忠岡町(ただおかちょう)のホテル街は26号線(第二阪和道路)の目印にもなっている。
そこから我が町の岸和田市、貝塚市、泉佐野市へと続き関西国際空港(関空)が見えてくる。
このエリアに住む女性の特徴は、昔、暴走族に所属していた元ヤンキー娘が多い事である。
一見、近寄り難(がた)い怖そうな雰囲気だが、その実(じつ)は気さくでフレンドリーな女性が多い。
表裏のある陰湿(いんしつ)な都会娘とは違い、田舎の風情がまだ残る地域で育った元ヤンキー娘は、情けに厚くサバサバしている。
“ひっかけ”(ナンパ)の目的をしっかりと伝えれば、元ヤンキー娘も期待以上に応えてくれる。
岸和田ヤリチン大使…『お姉さん、昔は“やんちゃ”しとったやろぉ? なんか妖艶(ようえん)な香りがしてぇんでぇ。』
元ヤンキー娘…『そんなこと無いでぇ、至(いた)って普通やぁでぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『若い頃は、よぉ〜モテたやろぉ。』
元ヤンキー娘…『そんなこと無いでぇ、至(いた)って普通やぁでぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『最近はどうなぁん? 男まわりはぁ潤(うるお)っとるんかぁいなぁ? 何なら俺が潤(うるお)わしたぁんでぇ。』
元ヤンキー娘…『なぁんやい、目的はそれかいなぁ。 それならそうと早よぉ言いやぁ! まわりくどいんはぁ時間の無駄やぁでぇ。 ほなぁ、忠岡(ただおか)に行こかぁ。』
岸和田ヤリチン大使…『よっしゃ、ほなぁ行こぉ、お姉さんの車で乗せてってやぁ。』
元ヤンキー娘…『車、無いんかぁ〜〜い!』
こんな会話の遣(や)り取りなら良いが、ただ、嘘(ウソ)を吐(つ)いて騙(だま)す様な事をすれば恐ろしい事態に発展する。
プレイしたさに嘘(ウソ)吐(つ)いてバレれば、このエリアの女性は“だんじり祭り”の威勢など比べものにならない位(くらい)の怒涛(どとう)で、手足と肋骨(あばら)を圧(へ)し折られるのは覚悟しておいた方がよい。
これら大阪一帯の“ひっかけ”(ナンパ)のスポットとホテル街を紹介してきた。
どこで“ひっかけ”(ナンパ)をして、どこのホテルを利用するのも、男のテクニックとセンスに掛かっている。
ただし、女性の同意無しのプレイは御法度(ごはっと)である。
これは日本神話から始まる伊耶那岐神(イザナギ)と伊耶那美神(イザナミ)の神聖な男女の営(いと)みを穢(けが)す行為と受け止めてられる。
天神は天津神(あまつのかみ)で高天原(たかまがはら/天界)の神様。
天津神(あまつのかみ)を祀る天社(あまつやしろ)で定める高天原(たかまがはら/天界)での大罪の天津罪(あまつのつみ)。
地祇(ちじ)は国津神(くにつのかみ)で葦原中国(あしはらのなかつくに/地上界)の神様。
国津神(くにつのかみ)を祀る国社(くにつやしろ)で定める、葦原中国(あしはらのなかつくに/地上界)での大罪の国津罪(くにつのつみ)。
その両者が集う“天神地祇”(てんじんちぎ)により、女性の同意無しにプレイした者、かつ連座責任(れんざせきにん)として、その祖父母、両親、子供、孫、親族など全ての先祖子孫、知人友人、関係者は、天津罪(あまつのつみ)および国津罪(くにつのつみ)の双方の大罪により問答無用で地獄(じごく/下界)に落ちる事となる。
特に抵抗できない未成年者(子供)への暴行は、京都の天女母神(てんにょぼじん)とその手下(てした)が最強の残忍な鬼となり、想像を絶する拷問(ごうもん)を永遠に与え続けるだろう。
これらルールを踏まえて、2025年の“大阪関西万博”に来た際は、是非(ぜひ)、大阪で“ひっかけ”(ナンパ)をしつつされつつ、夜の営(いとな)みを楽しんでもらいたい。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2024/12/30 (Mon) 01:59:59
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
私の仕事は布団の訪問販売です。
軽ワゴンに布団一式を積んで、各家庭を回って布団の良さを紹介して気に入ってもらえれば販売する。
この布団訪問販売、一番に売上を上げる地域は、兵庫県の西宮市、芦屋市、神戸市東灘区と灘区の“阪神間エリア”と呼ばれる関西では有名な高級住宅地である。
大阪から“阪神間エリア”まで布団一式を積んだ軽ワゴンを走らせて、高級住宅地のお宅を1軒1軒と訪問していく。
ピンポ〜ン ピンポ〜ン
貞淑な奥様…『はい、どちら様で御座いましょ?』
岸和田ヤリチン大使…『こんにちわ、お天道(てんと)サンサン、いつもニコニコ、“寝具のサンフラワーサークル”と申します。 兵庫県庁の“方”(ほう)から、お布団にダニが寄生しているか衛生調査に来ました。』
貞淑な奥様…『あらぁ、そんな事、回覧板に書いてませんでしたわね。』
岸和田ヤリチン大使…『はい、増え続けるインバウンド(訪日観光客)と共に、海外から外来種のダニが広がり、緊急事態の調査となります。』
貞淑な奥様…『ご苦労様です。 ではオートロックを解除しますので、勝手口よりお入り下さい。』
裏の勝手口からお宅にお邪魔して、貞淑(ていしゅく)な奥様に豪華なベッドのある寝室に案内される。
貞淑な奥様…『うち、大丈夫かしら?』
岸和田ヤリチン大使…『では、このダニ感知機器でお布団を調査させて頂きます。』
キュイ〜〜ン キュイ〜〜ン ピッピッ ピッピッ
岸和田ヤリチン大使…『あっ、大丈夫ですね。 ダニは発見されませんでした。』
貞淑な奥様…『あぁ良かったわ、どうもありがとねぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『昔から言うじゃないですか、清楚(せいそ)で美しい奥様にはダニは付かないって。』
貞淑な奥様…『あらぁお上手ね。 居間でお茶をご用意しますのでどうぞぉ。』
岸和田ヤリチン大使…『それではお言葉に甘えて。』
大きく広いリビングでフカフカのソファーに座りお茶を頂きながら、奥様と雑談を交える。
貞淑な奥様…『お仕事、大変ねぇ〜 この辺りを回っているの?』
岸和田ヤリチン大使…『あっ、はい、軽ワゴンに布団一式を積んで、あちこちのお宅を訪問しています。 あっ、そうだっ! 奥様もウチの布団を試してみませんか?』
貞淑な奥様…『えっ!? 今、お布団を買う予定はありませんけどぉ、いいのかしら?』
岸和田ヤリチン大使…『あっ、大丈夫です。 最新の布団による無料お試し体験キャンペーン中なのでぇ。』
そう言って軽ワゴンから布団一式をお宅に持ち込み、立派な床の間のある和室に敷布団、シーツ、不毛布団を敷いた。
岸和田ヤリチン大使…『では奥様、そのままの格好で結構ですので、この布団でお休みになって下さい。』
そう言われて貞淑(ていしゅく)な奥様は布団に潜り込む。
貞淑な奥様…『うん、フカフカして温かく気持ちが良いですわねぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『そうでしょ、特にお勧めなのが防水加工したシーツです。 どんなに大量の水を溢(こぼ)しても、下の敷布団に水が浸透しません。』
貞淑な奥様…『あらぁ、そうなんですか?』
岸和田ヤリチン大使…『ちなみに奥様は、よくシーツを濡(ぬ)らす方ですか?』
貞淑な奥様…『イヤァねぇ〜 最近、そんな事はしてないわぁよぉ。』
岸和田ヤリチン大使…『いやぁ残念ですねぇ〜 この防水加工シーツの効果を麗(うるわ)しき奥様に、ぜひ、知って頂きたいですねぇ〜』
貞淑な奥様…『わたくし、どうすればいいのかしらぁ?』
岸和田ヤリチン大使…『私に全てお任せ下さい。』
貞淑な奥様…『あぁ、いきなりそんなぁ・・・』
この辺りの奥様は、経済的余裕があり暇を持て余(あま)し、旬を過ぎた熟(じゅく)れた果実も持て余(あま)している。
その果実に息を吹き掛けるだけで滴(したた)り落ちる果汁が、何を期待しているかを物語っている。
そして数時間後・・・
岸和田ヤリチン大使…『ねぇ、奥様の大量に噴き出した秘液でも、下の敷布団に浸水していないでしょ。 後はこの万能タオルで濡(ぬ)れた防水加工シーツをササッと拭いて終わりです。』
貞淑な奥様…『イヤァん、そんなこと言わないでぇ。』
岸和田ヤリチン大使…『どうです、この防水加工シーツだけでも如何(いかが)ですか?』
貞淑な奥様…『そうねぇ〜 色違いで2セット頂けます。』
岸和田ヤリチン大使…『毎度、ありがとうございます。』
この調子で“阪神間エリア”の高級住宅地に住む貞淑(ていしゅく)な奥様を相手に、順調に売上を伸ばしていく。
勤め先の“寝具のサンフラワーサークル”では、私の事を“ゴッドフィンガー”(神の指)と呼んでいる。
今日も“阪神間エリア”にある何処(どこ)かのお宅で、“岸和田ヤリチン大使”の“いしん”を掛けた営業トークとフィンガーテクニックで、貞淑(ていしゅく)な奥様が勢いよく潮(しお)を吹いている。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/01/08 (Wed) 22:14:10
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
男は浮気をする。
これは正解である。
女は浮気はしない。
それは正解でもあり、間違いでもある。
女は目の前の男に、いつも真剣に向き合うから、それは浮気ではなく誰とでも本気である。
例えるなら、回転寿司を想像すると解りやすい。
店内に広がるレーンを上をお寿司がクルクル回り、マグロ、イカ、タコ、ハマチと流れてくる。
男は、本命のマグロに本気で狙いを定め素早く皿を取り、お寿司を口に放り込む。
続いて来たイカやタコはマグロほど本気ではないが、浮ついた心で皿を取り、とりあえずお寿司を口に放り込む。
ハマチも捨て難いがマグロほど本気ではない為に、少々、心此処(こころここ)に在らずで寿司を口に放り込む。
どんなに浮気したネタを食べようと、シメはやっぱり本気のマグロだ。
一方、女はどうなのか?
先(ま)ずマグロが来たら本気にアタックし、素早く皿を取り、間髪入れずに口に頬張(ほおば)る。
次のイカも同様に本気にアタックし、素早く皿を取り、間髪入れずに口に頬張(ほおば)る。
その次からのタコやハマチへの本気度も同じである。
要は、男はネタによって気持ちの濃淡を切り替えているが、女は全てのネタが本気モードである。
当然、この場合のネタと言うのは“男女”(異性)の事である。
だから女は浮気しないし、たとえ旦那や彼氏と別の男性とベッドを共にしても、浮気を認めない。
それは本気だからである。
『うちの清純な奥さんは、絶対に浮気などするはずがない。』
こう思っている殿方も多いだろう。
女性は、玄関を1歩外に出たら別人になるから、ノーテンキな旦那や彼氏は意識改革が必要だ。
では、女性が女を磨くには、どうしたらいいか?
それはもう、男の数をこなすしかない。
現在、20代〜30代の女性が、もし旦那や彼氏が40代〜50代の熟女にハマって骨抜きにされたら、取り返す自信はあるだろうか?
結局、最後に男を惹きつけるのはテクニックである。
恋愛も工業も、技術に優る武器は無い!
女性も若いうちから早めに男の数をこなして、技術を磨く努力が必要だ。
それが将来、大いに役に立つ。
スナックのママが70代〜80代でも若くて元気なのは、それが証拠だからである。
若い時分から男に鍛えられ、また、男を鍛え上げてきた百戦錬磨の夜の蝶(チョウ)。
老け込むことも、認知症も彼女達には無縁である。
この事からも、人生の役に立たないアホォな恋愛ドラマや映画を見過ぎて、“男性へ一途な私”に酔っている女性は、老後に気を付けた方がよい。
更年期障害から精神疾患を患い、そしてそのまま認知症への流れが視えている。
こう言うのは堅い考え方の“真面目な女性”ほど陥りやすい。
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/04/03 (Thu) 14:06:40
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
2024年やったと思いますが、東京都新宿区の歌舞伎町で、国策に“いしん”を掛けた国会議員が、“議員バッチ”と“札束”(お金)をチラつかせて、まだ毛も生え揃(そろ)わない女子中学1年生にお金を渡してプレイを強要していた話しがありましゃろ。
清純な乙女を鷲掴(わしずか)みにして、桃の様なお尻(ピーチヒップ)に、臭(くさ)くて醜(みに)い親父の腐ったバナナ(ダーティーバナナ)をぶち込んで腰をズッコバッコと動かし、底なしの欲望を満たしてはった未成年性交事件ですわぁ。
この未成年性交事件に対して、その肉棒に“いしん”を掛けた国会議員が属していた政党の幹部は、誰1人として責任を取ってませんやろぉ。
日本国民は憤(いきどお)りを感じてるかもしれへぇんが、ただなぁ、大阪をはじめとした関西では、10代の性交は当たり前ですねぇん。
せぇやから、“いしん”を掛けた政党の幹部も、こう思った筈(はず)やわぁ。
政党幹部…『何がアカンのぉ?』
更(さら)に言うとなぁ、“いしん”が込められた家庭円満なファミリーは、父親(義父)は娘の“除膜式”を、母親(義母)は息子の“筆下ろし”を、「大人への儀式」として執り行う大阪のファミリーも中にはおまぁすねぇん。
この事を鑑(かんが)みたらなぁ、歌舞伎町の“いしん”を掛けた未成年性交事件も、大阪では当たり前過ぎて事件にもなりまへぇんねぇん。
近年、大阪では子供を優遇した政策を打ち出してまっしゃろ。
これは大人が色眼鏡で子供を見ている節(ふし)もありまぁんねぇん。
早くに大人を受け入れる身体に仕込んで、いつでも滞りのない性交ができる様にしてますねぇん。
せやからなぁ、“岸和田ヤリチン大使”としては“大阪関西万博”が開催される大阪湾を埋立てた人工島の大阪市此花区の夢洲(ゆめしま)をなぁ、西日本最大級と言われた“新町遊郭”(しんまちゆうかく)を再興させる事を夢見てまぁんねぇん!
ちょうど総合型リゾート地(IR)のカジノも誘致しまっしゃろ。
都市で最も人間の欲望を満たしてくれるな施設の“呑む”(お酒)、“打つ”(博打)、“買う”(遊女)の3条件は揃える必要がありまっせぇ!
これぞぉ世界に示す「オオサカ・セックス・アイランド」(大阪乱欲楽園島)でぇせぇ!
Re: 大阪が“いしん”を掛けたリアルドラマ「セックス&ザ・オオサカ」 - 万博おじさん
2025/04/03 (Thu) 14:10:25
わんばんこ。
私が広報の“岸和田ヤリチン大使”でおまぁ!
大阪市此花区の夢洲(ゆめしま)こと「オオサカ・セックス・アイランド」(大阪乱欲楽園島)に設ける“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)。
紳士の社交場、快楽の神秘となる「オオサカ・セックス・アイランド」(大阪乱欲楽園島)には、“いしん”を掛けた人間の欲望を満たしてくれる“呑む”(お酒)、“打つ”(博打)、“買う”(遊女)の娯楽の殿堂、悦楽の境地が揃ってまっせぇ!
その“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)で働く遊女も大募集せなぁ、あきまへぇんなぁ〜
昨今、この人口減少と少子高齢化で人手不足が否めないが、ただ、前例で財務省が管轄する東京都の税務署に務める女性職員も、副業で風俗店に勤めて身体と技術で納税者(殿方)にご奉仕してまっしゃろ。
国際観光都市・大阪に協力してくれる“いしん”を掛けた自治体の女性職員も多いと思うわぁ。
また、2025年に開催される“大阪関西万博”で働くコンパニオンの女性や来場してくれた子供達も、将来的に“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)の働き手として期待できまっせぇ。
先(ま)ず、広大な埋立地の夢洲(ゆめしま)に、敷地面積は江戸の“吉原遊廓”と同規模の9万㎡(2万7000坪/東京ドーム2個)余りで、建物の構造や意匠(デザイン)はインバウンド(訪日観光客)にも人気の高い純和風の木造建築物としますぅねぇん。
一応は働く遊女(ゆうじょ)が逃げれない様に、広大な敷地を囲む“御歯黒溝”(おはぐろどぶ)も設けますわなぁ。
“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)に来訪するには“日本堤”を通り、遊女(ゆうじょ)との別れを惜しむ“見返り柳”が出迎える“衣紋坂”(えもんざか)、そこからくの字に曲がった“五十間道”(ごじっけんみち/90m)を進むと、“極楽天上”の大門(おおもん)を潜(くぐ)り、たんまりと実った“桃色楽園”に辿り着く様にしまっせぇ。
“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)の区画割は、田の字の様に無数の置屋(おきや)や揚屋(あげや)が建ち並び、中央に仲の町の大通りが1本通り、そこに京町、江戸町、伏見町などの所在地を示しますぅ。
江戸時代の遊廓で働く遊女(ゆうじょ)と同様に、“番付け”も付けますねぇん。
最高位から花魁(おいらん)、太夫(たゆう)、新造(しんぞう)、局見世(つぼねみせ)や安女郎(やすじょろう)、禿(かむろ)。
そして呼出し(よびだし)、昼三(ちゅうさん)、付廻し(つけまわし)、振袖新造(ふりそでしんぞう)などの格付けもありまぁ。
“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)の郭外ではカジノに負けたお金の無い人向けに、提重(さげじゅう)、夜鷹(よたか)が安銭で請け負いますぅわなぁ。
男色の陰間(かげま)の区画も設けましてぇなぁ、衆道(しゅどう)も採り入れて、まだ舞台に立てない歌舞伎の若い役者が、己の心身を女性に徹する為に、敢(あ)えて男性を相手にしていた“芸文化”も発展させますぅねぇん。
遊女の衣装は勿論(もちろん)和着物で、江戸時代の伝統と仕来(しきた)りと作法と雰囲気を大切にしまっせぇ。
この“いしん”を掛けた“夢洲遊郭”(ゆめしまゆうかく)に、総合型リゾート地(IR)のカジノと飲み屋の歓楽街を併せ持てば、“呑む”(お酒)、“打つ”(博打)、“買う”(遊女)を満喫できる天下で一番の「オオサカ・セックス・アイランド」(大阪乱欲楽園島)になる事は間違いおまへぇんなぁ〜
今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:17:13
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
大好きだったあのお花畑の景色を、もう一度見せたかった想いを形にします。
故人が最後に伝える心の絆、そして最後の家族の財産をお届けします。
世界で一つだけの葬儀をご提案。
ユートピア葬儀社はご家族の想いに寄り添い、葬儀のお手伝いをさせて頂いております。
少人数の家族葬から大勢の大規模葬儀まで承っております。
Beastie Boys /♪ (You Gotta) Fight For Your Right (To Party)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:18:12
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
スリリングな迫力のプレイゾーン。
豪快なアクションを思いっきりエンジョイ。
デッカく遊んで楽しさ駆け巡ってエキサイティング。
スーパーギャルが続々と新登場。
夜の宴はグランドパブ・FURUSATO(フルサト)で決まり!
営業拡大につき、只今、ホステスさんを大募集!!
SIA /♪ HEY BOY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:19:13
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
活き活き、元気な食品がいつもお店にいっぱい!
好鮮度で低価格を実現、家庭の満足をご奉仕。
年中無休で24時間営業のグッドマーケット。
お買い物はお近くのひまわりマートにお越し下さい。
只今、ありがとう閉店セールを開催中!
SAM FENDER /♪ AYE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:20:10
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
焼き鳥は大人から子供まで大人気のヘルシーフードナンバー1。
美味しさ運ぶ焼き鳥・コウノトリ、長年の伝統が染み込むこの一品。
全国チェーンの焼き鳥・コウノトリはビッグな美味しさ。
焼き鳥職人が生きた鳥から食材を吟味、安心して召し上がって頂けます。
只今、加盟店募集中。
WINGS /♪ HI HI HI
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:21:04
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
パリのデザイン、世界の輝きを貴女に。
下見をしておいて、彼と来ますか?
それともお母様と?
恋する女性のファッションで、イキイキと若い感性が弾みます。
クリエイティブな貴女のファッションは婦人洋品のギャルハウスのコレクションからお選び下さい。
JAMIE T /♪ SHEILA
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:22:05
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
ここが噂のラーメン遊遊王国(ゆうゆうおうこく)!
本格中華にこだわった料理人の魂をご提供。
美味しいメニューがいっぱいで、選ぶのも楽しみの1つ。
うまい、最高、これぞ中華の真髄。
シェフのアイデア料理で本格派カレーライスや本場のタピオカにも挑戦して、新作メニューも続々と登場!
ラーメン遊遊王国(ゆうゆうおうこく)では、フランチャイズ加盟店募集中。
SAVING AIMEE /♪ FRESH SINCE '88
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:23:32
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
毎日の暮らしに欠かせない住宅。
新築住宅の工事から、設計、施工、保守までなんでもこなす安心第一のマッハランド工務店。
戸建住宅なら1週間、高層マンションなら1ヶ月ほどで完成させるマッハなスピード感!
1日でも早く、憧れの住宅を手にしたいあなたにはピッタリ!
高い技術と確かな信頼でお応え致します。
明日の快適な暮らしをあなたにお届けします。
住宅建設の事ならマッハランド工務店にお任せください。
LOUIS COLE /♪ LIFE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:24:29
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
心のこもるセレモニーで愛を誓う記念すべき日。
夢咲き、恋香る、ブライダルシンフォニー。
幸せな2人の門出を華やかに演出。
新しい人生の旅立ちに相応しい式場。
リンボーダンスなど神秘な演出で2人を祝う。
結婚式場の岩窟殿をご利用ください。
BLESS BEATS FEAT.REMI NICOLE /♪ LET IT GO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:25:23
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
華やかに、雅やかに、日差しに映えて、日本の心、着物の心。
一期一会、装いの花をお届けします。
日本人だから感じる、四季の徒然に。
恋し愛して、染めて知り、染織の名門。
信頼のマークでお馴染みの呉服グループの恋染蔵。
新作フェスティバルを難波本社ビルにて振袖着物ショーを開催中。
HOLGER CZUKAY /♪ COOL IN THE POOL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:26:17
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
語らいの中に男と女の浪漫がある。
気の合った男女と酌み交わす憩いのひと時。
くつろいの時間は、いつも紫瑠琵亜(シルビア)。
夜空を見上げて触れ合う心にロマンスを感じて。
運命の出逢いにパブスナック・紫瑠琵亜(シルビア)。
お酒があれば、人生は楽しい。
THE LIGHTNING SEEDS /♪ PURE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:27:08
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
科学と情報産業のパイオニア。
人々の豊かな未来のために、明日の商品を開発中。
バイオ科学研究所は、積極的にチャレンジしています。
只今、ファイトある社員募集中。
R.E.M. /♪ STAND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:28:04
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
一人暮らしへの旅立ち、応援します。
幸せ探しは、部屋探しから、大家さん、お部屋を空けておいてね。
家主様、賃貸住宅は完全管理システムにお任せ下さい。
ウィクリーマンションや高級賃貸マンションの事なら賃貸住宅総合管理仲介センターの畿内ホームで決まりだね!
激安物件や訳あり物件など、多数の空き部屋情報を取り揃えております。
貸主、借主の仲介手数料も同業他社よりも大幅割引いたします。
賃貸住宅を貸す方も借りる方も、畿内ホームへいらっしゃ〜い!
BRIAN WILSON /♪ SATURDAY MORNING IN THE CITY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:29:02
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
熱血温泉旅館のグランドパラダイスホテル!
飲んで、食べて、歌って、遊んで、いつまで居ても飽きないよ。
新館と別館の大増築で、より日本的に、より近代的にリフレッシュ!
プレイランドも完成し、エキゾチックな世界のショーもグレードアップ!
夜になればゴージャスなムードが違う王様気分。
次の旅行は、熱血温泉旅館のグランドパラダイスホテルで決まりです!
Paul Nicholas /♪ HEAVEN ON THE 7TH FLOOR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:29:55
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
凄いインド料理屋が帰って来た!
カレーの魂を燃やして。
スパイシーカレー&フィルニのお店・GANDHI2(ガンジー2)!!
レトルトカレーには用はない。
平和な料理は、俺の料理。
逆らう奴(ヤツ)は、店の外へ叩き出す!
『おっと動くな! 血の雨が降るぜぇ!』
荒れ狂う猛獣の如く。
時にはプレイボーイの如く。
『牛肉と女は、生が一番に美味いぜぇ!』
俺の掟が、料理の掟。
スパイシーカレー&フィルニのお店・GANDHI2(ガンジー2)!!
RAHUL SIPLIGUNJ /♪ NAATU NAATU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:30:58
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
風が語る季節のしらべ、大人の女の華やいだドラマが今、始まる。
ヒロインの洋装は、着て初めて分かるハイセンスにハイクオリティ。
欲しかったあのワンピースにこのブラウスも、只今、全品80%OFF!
決算前の蔵ざらえはバーゲンの真髄。
徹底奉仕も良い品でなければ意味がない。
エレガントヨーロピアンなムーブメントは、ブティック・ゴールデンスターからお届けします。
GRATEFUL DEAD /♪ FRANKLIN'S TOWER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:31:52
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
今晩のお台所ニュース。
本日、お買い得な半額商品が山積みのニコニコデーです。
鮮魚、生肉、お野菜、キズ物や訳アリがお財布に優しく全て半額!
0(ゼロ)の付く日は1万円以上をお買い求め頂いたお客様に、店長がデザインした特製エプロンをプレゼント!
さあ行こう、スーパーマーケットの松平ストアへレッツゴー!!
MAC DEMARCO /♪ SALAD DAYS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:32:48
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
揺れる女心、わたしの気持ちを受け止めて。
今宵、ラブジャックに咲く花は、男と女の浮かれ花。
エレガントな夢を貴方に。
リッチな夜に華麗にオープン。
ナイトクラブ・ラブジャックに、いらしてね。
JOE ZAWINUL /♪ OTZI
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:33:46
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
軽やかでしなやかなファッショナブルな貴女に。
磨き抜かれた感性が、街色のハーモニーを奏でるファッションカルチャーをお届けする。
風が踊る爽やかさ100%、色と柄が豊富に揃った婦人服祭を開催中。
割引特価でお財布に優しいお買い物。
お洒落を楽しみ、美しさの近道は婦人洋品のトラヤですね。
LEON JEAN MARIE /♪ BED OF NAILS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250402 - ラジオの友 URL
2025/04/02 (Wed) 22:34:49
《抜群の音楽センスで新しい感覚のCM起用曲》
タップリと本物を味わう贅沢。
本格派の中華料理屋が提供する北京ダック。
あっさりと染み込んだ真鴨ならではの美味しさをご堪能ください。
ゴージャスなコースもご用意しております。
会合やコンパなどでご利用できる大宴会場も完備。
中華料理なら東太后(とうたいこう)へ是非お越しください。
Lalo Schifrin/♪ Theme from Enter the Dragon
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 19:48:12
◆◇◆其の九十六:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
では、江戸幕府とはいったい、どんな組織だったのか?
室町時代に太田道灌(おおたどうかん/扇谷)が武蔵国(東京都)で築城した江戸城(えどじょう)に、“天下人”となった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から三河国(愛知県)から領地移転の転封(てんぽう)を言い渡された徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が、1590年にリノベーション(改築)したのが始まりである。
その江戸城(えどじょう)を拠点に江戸幕府の組織機関を構築した。
鎌倉幕府の征夷大将軍には執権(しっけん)が、室町幕府の征夷大将軍には三管領(さんかんれい)が居たように、江戸幕府にも征夷大将軍には大老(たいろう)や老中(ろうじゅう)が補佐していた。
さらに執行機関として、若年寄(わかどしより)、側用人(そばようにん)、奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行(じしゃぶぎょう)、駿府城代(すんぷじょうだい)、京都所司代(きょうとしょしだい)、大坂城代(おおさかじょうだい)が置かれている。
その下に実務役所の大目付(おおめつけ)、大番頭(おおばんがしら)、町奉行(まちぶぎょう)、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)、遠国奉行(とおごくぶぎょう)、書院奉行(しょいんぶぎょう)、子姓組奉行(こしょうぐみぶぎょう)などが連なっていた。
ただ、実際に町中を駆けずり回るのは与力(よりき)や同心(どうしん)である。
江戸幕府の組織は、将軍から“知行地俸禄”(ちぎょうちほうろく)が旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)へ、そこから“俸禄”(ほうろく)が家臣へ与えられ、その逆流で“忠誠奉公”(ちゅうせいほうこう)の働きをする。
江戸幕府の関係性は、地方大名へは“武家諸法度”(ぶけしょはっと)の法令遵守を徹底させ、その家臣には“知行地俸禄”(ちぎょうちほうろく)を与えて“忠誠奉公”(ちゅうせいほうこう)の働きを求め、領国の郷士(ごうし)には“知行地”(ちぎょうち)を認めて戦(いくさ)が起これば“軍役”(ぐんやく)を求める。
江戸の将軍は地方の大名に土地の領国を認める代わりに、普請(ふしん)による土木建築工事や江戸で奉公(ほうこう)する参勤交代(さんきんこうたい)を求めた。
地方の大名が領国とする地域を藩とした。
この大名の中にも格付があり、親藩(しんぱん)、譜代(ふだい)、外様(とざま)に分けられていた。
親藩(しんぱん)は徳川氏の直系で、常陸国(ひたち/茨城県)の水戸徳川家の徳川頼房(とくがわよりふさ/徳川→水戸)、尾張国(愛知県)の尾張徳川家の徳川義直(とくがわよしなお/徳川→尾張)、紀伊国(和歌山県)の紀州徳川家の徳川頼宣(とくがわよりのぶ/徳川→紀州)は、全て徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子で、徳川将軍家に後継者が居ない時はこの徳川御三家から選任される。
また、上野国(こうずけ/群馬県)の館林徳川家の徳川綱吉(とくがわつなよし/徳川)や、越前国(福井県)の越前松平家の結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)も加盟している。
結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)とは、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の養子となり、下総国(しもうさ/千葉県・茨城県)の武将の結城晴朝(ゆうきはるとも/豊臣→徳川)の養子となった。
譜代(ふだい)は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の三河国(愛知県)時代からの家臣となる。
“徳川四天王”の酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)の息子の、越後国(新潟県)の高田藩などの酒井家次(さかいいえつぐ/徳川)や、その息子で出羽国(山形県)の庄内藩などの酒井忠勝(さかいただかつ/徳川)。
上総国(かずさ/千葉県)の大多喜藩(夷隅/いすみ)や伊勢国(三重県)の桑名藩などの“徳川四天王”の本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)や、息子の播磨国(兵庫県)の姫路藩などの本多忠政(ほんだただまさ/徳川)や、その息子の播磨国(兵庫県)の龍野藩(たつの)などの本多政朝(ほんだまさとも/徳川)。
上野国(こうずけ/群馬県)の館林藩(たてばやし)の“徳川四天王”の榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)や、それを引き継いだ息子の榊原康勝(さかきばらやすかつ/徳川)。
上野国(こうずけ/群馬県)の高崎藩や近江国(滋賀県)の彦根藩の“徳川四天王”の井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)や、息子の上野国(こうずけ/群馬県)の安中藩(あんなか)などの井伊直勝(いいなおかつ/徳川)や、同じく息子の上野国(こうずけ/群馬県)の白井藩などの井伊直孝(いいなおたか/徳川)。
三河国(愛知県)の刈谷藩や備後国(広島県)の福山藩などの“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)の水野勝成(みずのかつなり/徳川)や、それを引き継いだ息子の水野勝俊(みずのかつとし/徳川)。
美濃国(岐阜県)の十七条藩(瑞穂)や下野国(しもつけ/栃木県)の真岡藩の稲葉正成(いなばまさなり/徳川)で春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)が妻となり、その息子で相模国(神奈川県)の小田原藩の稲葉正勝(いなばまさかつ/徳川)。
下総国(しもうさ/茨城県)の古河藩や信濃国(長野県)の松本藩などの小笠原秀政(おがさわらひでまさ/豊臣→徳川)や、息子の播磨国(はりま/兵庫県)の明石藩などの小笠原忠真(おがさわらただざね/徳川)や、同じく息子の小笠原忠脩(おがさわらただなが/徳川)で、共に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の孫にあたる。
常陸国(ひたち/茨城県)の水戸徳川家の水戸城(みとじょう)の最寄駅は、JRと鹿島臨海鉄道の〈水戸駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、水戸徳川家と言えば“日本三大庭園”の加賀国(石川県)の兼六園(けんろくえん)と備前国(岡山県)の後楽園(こうらくえん)と共に偕楽園(かいらくえん)があり、水戸藩は“水戸黄門”の徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)や、幕末の中心人物となった徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)と息子の征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)が有名です。
因(ちな)みに奈良の鹿(シカ)は、この常陸国(ひたち/茨城県)の鹿島神宮(かしまじんぐう)の出身です。
尾張国(愛知県)の尾張徳川家の名古屋城(なごやじょう)の最寄駅は、地下鉄の〈名古屋城駅〉(市役所駅)から徒歩で数十分程度の距離にあり、周辺は愛知県と名古屋市の官公庁街となっており、名古屋城(なごやじょう)の南西方の堀川と並行して通る幅員が約7mの四間道(しけみち)には、古民家が建ち並び家屋の屋根上には尾州(びしゅう)特有の屋根神も載っているので、探してみるのも楽しいですよ。
紀伊国(和歌山県)の紀州徳川家の和歌山城(わかやまじょう)の最寄駅は、南海とJRの〈和歌山市駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、和歌山城(わかやまじょう)の北東方に広がる商店街のぶらくり丁は、良くも悪くも“ザ・昭和”のまま残っており、このままの建物と雰囲気で再生したら魅力的な街並みに変わる事は間違いありません。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
BEATLES /♪ I'M DOWN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:34:06
◆◇◆其の九十七:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
外様(とざま)は「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の前後に徳川氏に臣従(しんじゅう)した家臣。
陸奥国(むつ/宮城県)の仙台藩の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)や、それを引き継いだ息子の伊達忠宗(だてただむね/徳川)。
出羽国(でわ/山形県)の米沢藩の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)や、それを引き継いだ息子の上杉定勝(うえすぎさだかつ/徳川)。
“豊臣五大老”だった前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の息子で、加賀国(石川県)の加賀藩の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)。
織田信長(おだのぶなが/織田)の乳兄弟の池田恒興(いけだつねおき/織田)の息子で、播磨国(はりま/兵庫県)の姫路藩の池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)は、現在の姫路城(ひめじじょう)の原形を築城した。
土佐国(高知県)の土佐藩(高知県)の山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)で“内助の功”で有名な見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)が妻となり、養子となった山内忠義(やまうちただよし/徳川)が引き継いだ。
安芸国(広島県)の戦国武将の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の孫にあたり“豊臣五大老”だった毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)の息子で、長門国(山口県)の長州藩の毛利秀就(もうりひでなり/豊臣→徳川)。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の名軍師だった黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の息子で、筑前国(福岡県)の福岡藩の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)。
肥前国(長崎県)の対馬府中藩の宗義智(そうよしとし/豊臣→徳川)や、それを引き継いだ息子の宗義成(そうよしなり/徳川)。
肥前国(佐賀県)の戦国武将の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)の義兄弟で、肥前国(佐賀県)の佐賀藩の鍋島直茂(なべしまなおしげ/龍造寺→豊臣→徳川)や、それを引き継いだ息子の鍋島勝茂(なべしまかつしげ/徳川)。
豊前国(ぶぜん/福岡県)の小倉藩の細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)で茶人の細川三斎(ほそかわさんさい)と呼ばれ妻は明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の娘の明智玉(あけちたま/細川ガラシャ)が嫁ぎ、その息子は肥後国(熊本県)の熊本藩などの細川忠利(ほそかわただとし/徳川)で、それを引き継いだ孫の細川綱利(ほそかわつなとし/徳川)が水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)を造園した。
薩摩国(鹿児島県)の守護大名の島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)の養子で、弟の島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)の息子の、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)や、それを引き継いだ息子の島津光久(しまずみつひさ/徳川)。
江戸幕府は15代もの徳川将軍と、これら地方大名が紆余曲折しながら265年もの間を政権運営していく事となる。
戦(いくさ)の無くなった江戸時代では、刀から鍬(くわ)などの工具に持ち替えて、全国的に新田開発や治水工事が盛んに執(と)り行われた。
また、全国の大名に対して江戸幕府への“忠誠奉公”(ちゅうせいほうこう)として参勤交代(さんきんこうたい)を義務付けて、江戸城下町で1年近い生活を強制した。
この副産物が江戸につながる街道整備と、その道中の商業地と宿場町の発展である。
江戸への主な街道は、太平洋側を進み京都までの東海道、相模国(神奈川県)の山岳地帯までの大山街道(おおやまかいどう)、甲斐国(山梨県)までの甲州街道、武蔵国(東京都)を経由して甲斐国(山梨県)に入る青梅街道、信濃国(長野県)や美濃国(岐阜県)を経由して京都に入る中山道(なかせんどう)、日光東照宮を参拝するため武蔵国(埼玉県)までの日光御成街道(にっこうおなりかいどう)、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)を横断する奥州街道などである。
この頃の日本の人口は1200万人程度で、江戸幕府は身分制度の“士農工商”で区分けして管理し、人口比率で見ると武士が7%、農民が85%、商業工業人が6%、公家や僧侶などが2%だった。
また、お寺の宗派を管理する“宗門改”(しゅうもんあらため)の制度を1640年に施行し、これが戸籍(住民登録)の役割を果たした。
江戸幕府の黎明期(れいめいき)は、ワクワク感がいっぱい詰まった時代を予感させていた。
江戸町人…『新しい時代の夜明け、楽しみだなぁ〜』
播磨国(はりま/兵庫県)の姫路城(ひめじじょう)の最寄駅は、JRと新幹線の〈姫路駅〉もしくは山陽電鉄の〈山陽姫路駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、駅を降りたら真っ直ぐに姫路城(ひめじじょう)が見えるので、そのまま大手前通を歩いて行くところですが、ここは東方を通るアーケード商店街のみゆき通をブラブラしながら歩くと、あっという間に姫路城(ひめじじょう)に着きますよ。
肥後国(熊本県)の水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)の最寄駅は、熊本市電の〈水前寺駅〉もしくは〈市立体育館前駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、熊本城(くまもとじょう)と一緒に来訪するのが定番で、やはりここはチータ(水前寺清子さん)に成り切り元気よく『♪ワンツ〜ワンツ〜 人生はワンツ〜パンチ! 汗かきベソかき 歩こうよ〜 あなたの着けた足跡にゃ 綺麗な花が咲くでしょう〜』(♪三百六十五歩のマーチ)と歌いながらウォーキングで熊本市中を巡って欲しいですね。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
FINE YOUNG CANNIBALS /♪ GOOD THING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:35:01
◆◇◆其の九十八:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
江戸幕府が徹底的に実施したのがキリスト教の弾圧である。
九州を中心に広まったキリスト教を、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が統治する江戸幕府はキリスト教の“禁教令”(きんきょうれい)を発令した。
これは豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が発布した「バテレン追放令」より重い内容である。
何故(なぜ)にキリスト教に寛大だった織田信長(おだのぶなが/織田)から、その意思と政策を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)、そして尾張国(愛知県)と三河国(愛知県)の同盟を締結していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)へと時代が流れて行くにつれ、キリスト教だけでなく海外の文化や文明を締め出す様な鎖国へと進んだのか?
ただ、当時の日本は本当に四方八方の国を敵視していたのか?
まだ豊臣政権だった1600年に、豊前国(ぶぜん/大分県)の臼杵(うすき)にオランダ船が漂流した。
これ以降、スペインやポルトガルのキリスト教(カトリック)の宣教師が来日して布教活動をするも、真の目的はその地で信者を増やして軍備を整え植民地にする事にあった。
南国のマカオやフィリピンから来航してくる大型船には、聖書(バイブル)と共に大量の鉄砲も積み込まれ、それを江戸幕府は購入した。
来航人は南から来る野蛮人と言う意味で“南蛮”(なんばん)と呼ばれた。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は長崎奉行所を設置して、長崎港でポルトガルと貿易を始める。
海を行き来する貿易船は、貿易取引の証として朱印(しゅいん)を受領していたため朱印船(しゅいんせん)と呼ばれる。
江戸幕府は直轄地の肥前国(長崎県)の長崎港や平戸港(ひらどこう)の以外に、肥前国(長崎県)の対馬島の宗義智(そうよしとし/豊臣→徳川)は朝鮮半島と、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)は琉球国(沖縄県)と、蝦夷国(えぞ/北海道)の松前藩の松前慶広(まつまえよしひろ/秋田→豊臣→徳川)はアイヌなどとの貿易を認めていた。
特に肥前国(長崎県)の対馬府中藩の宗義智(そうよしとし/豊臣→徳川)と息子の宗義成(そうよしなり/徳川)は、朝鮮半島との貿易による利益で江戸幕府に年貢を納めていたので、江戸幕府も朝鮮半島を重要視しており、朝鮮通信使も招いて国交は良好だったと言える。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が朝鮮出兵した1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)や1597年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)の出来事は、既(すで)に遠い昔の過去の有り様である。
そんな江戸の町には八重洲(やえす)の語源にもなったオランダ人で貿易商のヤンヨーステン(耶揚子/江戸)や、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の貿易顧問として雇われていたイギリス人のウィリアムアダムス(三浦按針/江戸)が、江戸幕府から屋敷を与えられ居住していた。
オランダとイギリスもキリスト教(プロテスタント)の布教活動しており、宣教師などは紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていた。
ただ、このキリスト教による日本での布教活動が、同じキリシタンでもカトリックとプロテスタントで対立し、さらにプロテスタントのオランダとイギリスとの国同士の対立も表面化した。
結局、江戸幕府はオランダとの国交を優先して、肥前国(長崎県)の長崎港の海上に出島を増築してポルトガル人をそこに集約した。
それと同時に中国大陸から渡ってきた唐人(とうじん)も、居留地を設けて集約し唐人屋敷と呼ばれ、それが現在の長崎中華街である。
だから、江戸幕府は全面的に鎖国(さこく)していた訳ではなく、外国が日本国内で宗教や国同士で勝手に争いを起こし、それで勝利した国が他国を追い出しただけである。
当時から日本人は海外文化にリスペクト(尊敬)している事は明らかである。
因(ちな)みに鎖国(さこく)と言う言葉は、金庫を盗まれない様に鎖(くさり)で縛り付けて扉が開かない様子から来ている。
ここから見えてくるのは、宗教団体を利用した人間の本能の怖さである。
織田信長(おだのぶなが/織田)も、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が最も恐れた敵は、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)でも、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)でも、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)でも、無い!
戦国時代で最も恐れた武装集団は、一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)などを信仰する一向一揆(いっこういっき)である。
死をも厭(いと)わず、『南無阿弥陀仏』と唱えながら竹槍(たけやり)を持って向かってくる農民ほど怖いものはない。
これが武将や侍(サムライ)の遺伝子(DNA)に“宗教アレルギー”を植え付けた。
これを先(ま)ず理解して、江戸幕府が徹底的に実施したのがキリスト教の弾圧を紐解いてみよう。
豊前国(ぶぜん/大分県)の臼杵(うすき)に建つ臼杵城(うすきじょう)の最寄駅は、JRの〈臼杵駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、“豊後の王” と呼ばれた大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が築城し、洗礼名がドンフランシスコのキリシタン大名だった事もあり、豊前国(ぶぜん/大分県)はキリスト教の信者も多く、日本神話の逸話も多く残っている大分県は天照大御神(アマテラス)とイエスキリスト(イスラエル)が同居している地域でもあります。
肥前国(長崎県)の長崎奉行所の最寄駅は、長崎電軌の〈五島町駅〉(ごとうまちえき)もしくは〈めがね橋駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、近くには埋立地の出島や長崎中華街もあり、幕末の土佐藩の藩士だった海援隊の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)が創業した亀山社中(かめやましゃちゅう)も山の上にあるので是非(ぜひ)に登山がってら寄ってみて下さい。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
NOEL GALLAGHER'S HIGH FLYING BIRDS /♪ AKA...WHAT A LIFE!
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:35:54
◆◇◆其の九十九:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
江戸幕府が徹底的に実施したのがキリスト教の弾圧である。
その原因は1609年に起こった「岡本大八事件」にまで遡(さかのぼ)る。
よく分からない事件だが、肥前国(長崎県)の長崎港で貿易が行われ、朱印船(しゅいんせん)の窓口となっていたのが長崎奉行所だった。
そこに勤めていたのが旗本の長谷川藤広(はせがわふじひろ/長崎)である。
肥前国(長崎県)の日野江藩(島原)の藩主だった有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津→豊臣→徳川)は、朱印船(しゅいんせん)を保有して海外との貿易を手掛け利益を得ていたが、ある時、ポルトガル領だったマカオでトラブルを起こす。
その調査や仲裁に入ったのが長崎奉行所の長谷川藤広(はせがわふじひろ/長崎)と、江戸幕府からは本多正純(ほんだまさずみ/徳川)の家臣で肥前国(長崎県)の武士の岡本大八(おかもとだいはち/本多)だった。
この当事者による解決や報告には、江戸幕府や大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対して嘘(ウソ)で固められ、事件を大きく助長させた。
結局、トラブルや虚偽報告の責任を取る形で有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津→豊臣→徳川)と岡本大八(おかもとだいはち/本多)が切腹して自害した。
問題はここからで、この有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津→豊臣→徳川)と岡本大八(おかもとだいはち/本多)は共にキリシタンだったため、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)はキリスト教を信仰すると嘘を吐(つ)く問題児になると考え、キリスト教の弾圧を強めていく。
その考えは征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)にも踏襲され、江戸幕府はキリスト教を断固反対する立場となった。
この時期に肥前国(長崎県)の島原や肥後国(熊本県)の天草で、キリスト教(カトリック)の布教活動をしていた宣教師のマルコスフェラロ(ママコス/神父)も国外追放されている。
マルコスフェラロ(ママコス/神父)は日本から立ち去る時に、天草領民のキリシタンに言葉を残した。
ママコス…『今から25年後、この地に天変地異が起きて人類滅亡の危機に陥るが、ただし、そこに16歳の天童が現れ、キリスト教の宗威は異教をも呑み込み、天帝はあまねく民を救うであろう。』
天草領民…『さよなら神父さま、外国に行っても元気でねぇ〜』
ママコス…『分かってんのか、お前ら?』
時は25年近く流れ、九州地方では天候不順や天変地異などで農民の生活は疲弊していた。
天草領民…『あの時、神父さまが言ってた天変地異は、これか?』
ただ、どんなに土地が枯れて穀物が実らなくても、領民に対する年貢の取り立ては厳しいものがあった。
特に肥前国(長崎県)の島原藩の藩主だった松倉勝家(まつくらかついえ/島原)と、肥前国(佐賀県)の唐津藩の藩主で肥後国(熊本県)の天草領も管轄していた寺沢堅高(てらさわかたたか/唐津・天草)は酷(ひど)いものがあり、年貢を納められない領民を海に投げ込んだり、火炙(あぶ)りにして惨殺していた。
この時の領民に対するジェノサイド(集団惨殺)は主に下記の通りである。
①:キリシタンを見た目で判断できる目印として、片耳を削ぎ落とす“耳採”(みみとり)。
②:キリシタンに藁蓑(わらみの)を着せて火を着けて、悶絶させる“蓑踊り”(みのおどり)で焼死させる。
③:雲仙岳(うんぜんだけ)の火口付近から湧き立つ熱湯を、キリシタンを裸にして身体に浴びせる“雲仙地獄の熱湯漬け”で大火傷(おおやけど)させて死に至(いた)らしめる。
④:海岸沿いに木柱を立ててキリシタンを括り付る“水磔”(すいたく)で、大波と満潮により水死させる。
⑤:キリシタンを逆さにし吊るして、汚物が溜められた肥溜(こえだ)めの穴に漬ける“穴吊り”で、異臭圧迫と血統逆流で死に至(いた)らしめる。
ここまで弾圧されたキリシタンなどの領民が、反乱を起こさない方に無理がある。
肥前国(長崎県)の島原藩が拠点とした島原城(しまばらじょう)の最寄駅は、島原鉄道の〈島原駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、前面には有明海が広がり、背後には雲仙岳(うんぜんだけ)が鎮座しており、歴史だけでなく宇宙と地球を感じられる土地でもある。
肥後国(熊本県)の天草領にある本渡城(ほんどじょう/天草)の最寄駅はありませんが、港町の為に船で訪れる事ができ、本渡城(ほんどじょう/天草)の近くには天草キリシタン館もあり、近隣の島々をウォーキングで全て巡るのが密かなブームとなっています。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
BECK /♪ BLUE MOON
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:36:52
◆◇◆其の百:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
この頃の京都の朝廷や公家は、戦国時代による疲弊もあり堕落しきっており、世間での評判は悪かった。
このままの朝廷との関係で江戸幕府を運営すると支障をきたすため、公家の品行を定める“公家諸法度”(くげしょはっと)を制定した。
1611年に第107代天皇の後陽成天皇(ごようぜいてんのう/朝廷)から皇位継承した、第108代天皇の後水尾天皇(ごみずのおてんのう/朝廷)が譲位(じょうい)する。
同じ年に皇位継承の祝義に併せて京都の二条城(にじょうじょう)では徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が対面する「二条城の徳川豊臣謁見会合」が開催される。
この時、立派に成長した豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)を見た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は危機感を抱き、『豊臣家を抹殺する!』と決意する。
この会合で徳川家臣の平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)が用意した京都銘菓の“饅頭”を豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)に食べる様に薦めたところ、豊臣家臣で“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と言われた加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が危険を察知して“饅頭”を横取りして食べてしまう。
その後、“饅頭”を食べた平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)と加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)は1611年の同じ年に亡くなってしまう。
この事で「二条城の毒饅頭事件」として噂される。
和菓子屋の店主…『あの饅頭、やっぱり痛んではったんかい、少し古かったさかいなぁ〜』
平岩親吉&加藤清正…『腐っとたんかぁ〜〜い!』
問題が起こったのはこの後となる。
京都は東山にある方広寺(ほうこうじ)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が開いた豊臣氏の所縁(ゆかり)のお寺で、“京の大仏”と言われる東大寺の大仏に匹敵する大仏殿もあった。
その方広寺(ほうこうじ)が落雷や火災などで廃寺寸前になっていた為、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の提案により、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)や淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)が主導して豊臣氏が工事費用の金銭負担をし再建する事となる。
方広寺(ほうこうじ)の再建工事は1610年〜1612年と言う短期間での工期で完成させた。
この建設現場の監督が片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)だった。
黄色いヘルメットをかぶった片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)は毎朝、建設職人を集めて朝礼を行い、建設工事を工程通りに遂行し、たった2年で方広寺(ほうこうじ)と“京の大仏”を完成させる。
片桐且元…『今日も1日、ご安全に!』
建設職人…『ご安全に!』
優美な姿を見せた方広寺(ほうこうじ)と“京の大仏”を、関係者や京の町人は大いに喜んだ。
がっ、この完成したばかりの方広寺(ほうこうじ)に対し、横からイチャモンが入る。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の側近だった天台宗(てんだいしゅう)の僧侶の南光坊天海(なんこうぼうてんかい/僧侶)もイチャモンに深く関わる。
その改修工事を終えたばかりの建物や境内、その傍(かたわら)に設けられた釣鐘、そこに刻まれた文字には・・・
⦅国家安康、君臣豊楽⦆(こっかあんこう、くんしんほうらく)
「家康の名前を引き裂いて呪い、豊臣を主君として頂く。」
これが、とんでもない事を引き起こす。
徳川家康…『ちょっと待てぃ〜 これって“家康の名前を引裂いて呪い、豊臣を主君として頂く”って言う意味じゃねぇ?』
南光坊天海…『これは明らかに詛(とご)いの類(たぐい)で、シャーマン(呪術師)による呪詛(じゅそ)に御座いますぞぉ!』
片桐且元…『えっ!?』
豊臣秀頼…『えっええっ!?』
淀君…『えっえええっ!?』
徳川家康…『こりゃ、大坂の陣に突入だなっ!』
これを1614年に起こった「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)と呼ぶ。
京都の堀川通と御池通(おいけとおり)が交わる北西方に建つ二条城(にじょうじょう)の最寄駅は、地下鉄の〈二条城前駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、二条城(にじょうじょう)の南方にある神泉苑(しんせんえん)は平安京の庭園だったが、その後、真言宗(しんごんしゅう)の宗祖の弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい/真言宗)により東寺(とうじ)のスピリチュアルエリア(霊場)として利用されました。
京都の東大路通と七条通が交わる北西方に建つ方広寺(ほうこうじ)の最寄駅は、京阪の〈七条駅〉(しちじょうえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が祭神の豊国神社(とよくにじんじゃ)や第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷)の屋敷に建てられた三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)など有名な史跡や遺跡が数多くあり、五条通の北方には舞妓や芸妓が居住している宮川町(みやがわちょう)もあります。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
POST MALONE /♪ SPEEDOMETER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:37:43
◆◇◆其の百一:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)とは、近江国(滋賀県)の片桐氏で、浅井氏の家臣で浅井長政(あざいながまさ/浅井)に仕えていた。
浅井氏(あざいうじ)が滅亡すると織田信長(おだのぶなが/織田)の門下に入り、近江国(滋賀県)の長浜城(ながはまじょう)の城主だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊に所属した。
豊臣政権では、武士としての戦(いくさ)もさる事ながら、“太閤検地”や“街道整備”などを請負う。
また、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)の補修工事や、大坂城(おおさかじょう)の城下町整備も担当し、どちらかと言うと“建築士”である。
1600年の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍に着任するが、戦後処理では徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)は片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)に対して目立った処罰をしていない。
その理由として考えられるのは、片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)の建築の知識や技術の高さから、江戸幕府での“日本列島改造”に役立てる心算(こころずもり)と見られる。
ところが、この“建築家”としての才能が、とんでもない事態を引き起こした。
1614年に起こった「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)により、大坂城(おおさかじょう)では連日の会議が開かれ、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)や淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)は、交渉役として片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)と女官の2人を弁明のために駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう)に居城する大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の元へ向かわせる。
徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)は3種の提案をし、それのどれか1つを選択すれば、今回の不祥事は咎(とが)めないと片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)に伝える。
大坂城(おおさかじょう)に戻って来た片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)から、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の3つの内のどれかの条件が示された。
①:豊臣秀頼が駿府城(すんぷじょう)と江戸城(えどじょう)の双方を居城とする。
②:淀君が江戸城(えどじょう)に居城する。
③:豊臣秀頼が大坂城(おおさかじょう)を出て、地方藩の藩主に就任する。
豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)、それに豊臣陣営には到底に受け入れられない条件である。
ここに徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の策略が隠されており、交渉役の女官にはこの提案は伝えてはおらず、この様に申したと言う。
徳川家康…『わしも子供じゃないから「方広寺釣鐘事件」については根に持っておらんよぉ〜 其方(そなた)達が大坂から遥々(はるばる)江戸まで逢いに来てくれた事が嬉しいぞぉ。』
女官…『家康殿の、その寛大なご配慮に敬服いたします。 大坂の秀頼殿と淀殿もさぞお喜びでしょうぞぉ。』
徳川家康…『そんな事よりも、お主(ぬし)は美しいのぉ〜う。 苦しゅうない、近こう寄れ。』
女官…『いけませぬわぁ、家康殿、こんな真っ昼間からぁ・・・ あぁ〜れぇ〜』
徳川家康…『ういやつ、ういやつ。』
女官は、他言できない秘め事を除き、一部だけを豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)に伝える。
女官…『わたくしは身体(からだ)を張って家康殿の許しを得てきました。 よって片桐且元殿の話しは全くのデタラメで御座います。』
豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)、それに豊臣家臣や観光客(インバウンド)の大坂城(おおさかじょう)に居る全ての者から“汚れ者”を見る眼差しが、片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)に集中砲火を浴びせる。
こうして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の調略に引っ掛かった豊臣陣営は、派遣した片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)を徳川陣営に内通しているとして大坂城(おおさかじょう)から追放してしまう。
大坂城(おおさかじょう)に居場所を失った片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の元を訪れ重鎮家臣となる。
駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう)の最寄駅は、静岡鉄道の〈新静岡駅〉もしくはJRと新幹線の〈静岡駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、城下町は短冊形地割を基に直線の街区で形成され、安倍川と駿河湾など水辺もあり、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の墓陵がある久能山(くのうざん)と日本平(にほんだいら)の自然も楽しむ事ができる賑わいある街です。
少し頑張ればウォーキング感覚で、標高3776mの富士山(ふじさん)にも足を運ぶ事ができます。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
ROBERTA FLACK /♪ OASIS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:38:34
◆◇◆其の百二:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
これにより豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)が率いる豊臣軍は、“徳川政権打倒!”を掲げて全国の大名に決起するよう促す。
ところが時は既に江戸幕府の時代。
各国の領域を治める大名に、豊臣軍に参加する者は1人も居なかった。
結局、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で西軍に就いて領土没収の改易(かいえき)された大名や、その家臣などの牢人(無職侍)や無宿(ホームレス)だけが集まって来た。
ただ、それでも大坂城(おおさかじょう)の豊臣軍に、牢人(無職侍)が5万5千人も集結した。
信濃国(長野県)の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)。
土佐国(高知県)の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/長宗我部→豊臣)。
尾張毛利氏の毛利勝永(もうりかつなが/豊臣)。
備前国(岡山県)の明石全登(あかしてるずみ/豊臣)。
播磨国(はりま/兵庫県)の後藤又兵衛(ごとうまたべえ)こと後藤基次(ごとうもとつぐ/豊臣)。
毛利勝永(もうりかつなが/豊臣)と従兄弟の大野治房(おおのはるふさ/豊臣)。
豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の家臣だった木村重成(きむらしげなり/豊臣)など。
これだけの名だたる武将も揃っている。
これが1614年に起こった「大坂・冬の陣」の始まりである。
この豊臣軍に対して武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)から出陣した征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と、駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう)から出陣した大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の徳川軍の総計15万5千人が摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に向かう。
上町台地の先端に建つ広大な大坂城(おおさかじょう)の城郭を包囲した大軍勢の徳川軍。
その南西方の茶臼山(ちゃうすやま)に大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は本陣を設けた。
その周囲には西方から伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)、松平忠直(まつだいらただなお/徳川)、井伊直孝(いいなおたか/江戸)、前田利常(まえだとしつね/豊臣→徳川)が布陣した。
前田利常(まえだとしつね/豊臣→徳川)の後方に征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が陣営を設けた。
それ以外にも上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)などの軍勢が、大坂城(おおさかじょう)の西北東方を包囲する。
一方の豊臣軍は広大な城郭内を防衛し、真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)は大坂城(おおさかじょう)の南東方の玉造辺りに真田丸の砦(とりで)を築いて前戦拠点とした。
豊臣秀頼…『母上、こんな大軍、見た事はありません。 どうしましょう!?』
淀君…『何を吐(ぬ)かすかぁ、このお城は亡き秀吉公が築いた10年でも持ち堪(こた)えるお城じゃ! 家康めぇ、隙があったら、どっからでも掛かってこんかぁ〜〜い!』
ただ、難攻不落の大坂城(おおさかじょう)を持ってしても、戦(いくさ)のセオリーは多勢に無勢で戦況は語るまでも無い。
それでも大坂城(おおさかじょう)の南東方に真田丸を設けて布陣した真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)の軍隊は、ゲリラ戦などで仕掛けて徳川軍にかなりのダメージを与えている。
しかし、徳川軍の放った大砲の玉が大坂城(おおさかじょう)の天守閣に命中し、建物の一部が崩壊して多くの死傷者も出た。
徳川家康…『オランダから購入した最新の大砲の威力を受けてみよぉ! これでも喰らえぇ〜!』
ドォン ヒューーーー
ドカァ〜〜ン
豊臣秀頼…『ギャ〜〜 雷様のお怒りじゃ〜〜』
淀君…『ヒィ〜〜 和睦じゃ〜 家康殿と和睦をするぞぉ〜〜!』
これに動揺した淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と和睦を締結してしまう。
摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の最寄駅は、JRと地下鉄の〈森ノ宮駅〉やその他大勢の駅から徒歩で数十分程度の距離にあり、その南方のJRと地下鉄の〈玉造駅〉の近くの清水谷周辺に砦の真田丸がありました。
現在は閑静な住宅街となっており、その昔、玉造日之出通商店街の端っこにネーポンと言うオレンジ(?)ジュースが売っていたアジアコーヒ(閉店)と言う飲食店があり、大阪市東成区界隈では“伝説の店”として今でも語り草となっています。
因(ちな)みに、そこから今里方面に行った平野川の近くに松下電器(ナショナル/パナソニック)の社長だった松下幸之助(まつしたこうのすけ/実業家)さんの創業地があります。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
BRUCE SPRINGSTEEN /♪ STREETS OF PHILADELPHIA
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:40:02
◆◇◆其の百三:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
徳川軍と豊臣軍の和睦により停戦する事となる。
この時の和睦条件は大坂城(おおさかじょう)のお堀を埋立て、南東方に築いた真田丸の砦(とりで)の除却を提示した。
この条件を豊臣軍は受け入れる選択しかない。
これにより大坂城(おおさかじょう)は天守閣のある本丸だけを残して、二の丸と三の丸のお堀を埋立られ、単なる観賞用のお城となる。
豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)などの豊臣陣営は江戸幕府に降伏しているが、ただ、豊臣軍として参戦した牢人(無職侍)達は、大名の復職や領地の取得を目的としていた為に、そうは問屋が卸さない。
その後も開戦の準備に勤しみ、埋立たお堀も掘り返している。
当然、この事は駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう)に居城する大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の耳にも入る。
牢人(無職侍)による迷惑千万の豊臣陣営に対して2つのどちらかの条件を突き付ける。
①:豊臣秀頼が大坂城(おおさかじょう)からの領地移転で、大和国(奈良県)もしくは伊賀国(三重県)へ転封(てんぽう)。
②:大坂城(おおさかじょう)に居座る牢人(無職侍)を全て追い出す。
豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)にとって大坂城(おおさかじょう)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)との想い出の地、離れられる訳がない。
一方、既に豊臣陣営の言う事に耳を貸さない牢人(無職侍)を追い払う権力も勢力もない。
結局、またまた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の調略にはまった豊臣陣営は、徳川軍と合戦をする選択肢しか残されていなかった。
これが1615年に起こった「大坂・夏の陣」の始まりである。
丸裸にされた観賞用の大坂城(おおさかじょう)に加えて、戦(いくさ)のセオリーは多勢に無勢で戦況は語るまでも無い。
ただ、ここでも真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)の軍隊は、ゲリラ戦などで仕掛けて徳川軍にかなりのダメージを与え、一時は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の本陣を奇襲し首を討ち取る一歩手前まで行ったが、最後は四天王寺(してんのうじ)の近くの茶臼山(ちゃうすやま)周辺で松平忠直(まつだいらただなお/徳川)に発見され討ち取られた。
松平忠直(まつだいらただなお/徳川)とは、結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)の息子で、その父親の結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子だったが、豊臣政権の時に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の養子に入り、更(さら)に結城晴朝(ゆうきはるとも/豊臣→徳川)の養子にも入って、江戸幕府では越前国(福井県)の北ノ庄藩(福井)の藩主に就いている。
また、この合戦で徳川軍として活躍したのが、豊臣陣営に大坂城(おおさかじょう)から追放された片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)の息子の片桐孝利(かたぎりたかとし/豊臣→徳川)だったのが皮肉な話しである。
片桐孝利(かたぎりたかとし/豊臣→徳川)は父親を追い出した大坂城(おおさかじょう)を必要以上に攻撃する。
片桐孝利…『父の仇(かたき)討ちぃ〜 大坂城(おおさかじょう)の者を“撫で斬り”にせぇ〜いっ!』
バッサッ バッサッ バッサッ バッサッ
徳川家康…『おいおい、やり過ぎじゃよ。』
片桐且元…『大坂城(おおさかじょう)は焼けてもまた再建すれば元通りに戻るが、人の首は斬られたら二度と元には戻らん、そこで終わりじゃ。』
徳川軍によって火を放たれ、炎上する“天下の名城”と言われた大坂城(おおさかじょう)の天守閣。
捕らえられた豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)の処遇は、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に委ねられた。
徳川秀忠…『江戸幕府かつ大坂の町に対して、これだけの混乱を起こし、これほどの被害を出した罪は重く、よって淀君と豊臣秀頼の母子共に“死罪”とする。』
これにより豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)は大坂城(おおさかじょう)の裏手で斬首された。
豊臣秀頼…『もはや打つて無しか! 仕方ないあるまい。』
徳川軍の介錯人…『介錯(かいしゃく)致す。 斬り捨て御免!』
バサッ バサッバサッ
豊臣秀頼…『ウグッ!』
ゴロン
淀君…『まっ、待てぇ! うちぃは豊臣家と織田家の姫ぞぉよぉ! その姫に手を掛けるのかぁ、無礼者めぇ!』
徳川軍の介錯人…『誰であろうと容赦(ようしゃ)はせぬぅ、介錯(かいしゃく)致す。 斬り捨て御免!』
バサッ バサッバサッ
淀君…『ギャ〜〜 やられた〜〜』
ゴロン
さらに京都に逃れていた豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の息子の豊臣国松(とよとみくにまつ/豊臣)も捕まえられ、六条河原で斬首されてこれにて豊臣氏が滅亡した事になる。
豊臣国松…『おじちゃん、誰ぇ〜?』
徳川軍の介錯人…『坊やに罪は無いが、介錯(かいしゃく)致す。 御免よぉ。』
バサッ バサッバサッ
豊臣国松…『お父ちゃ〜ん やられた〜〜』
ゴロン
実は豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)には娘の天秀尼(てんしゅうに/豊臣→僧侶)が居り、当初は兄の豊臣国松(とよとみくにまつ/豊臣)と同様に斬首される予定だった。
ただ、義母の千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)による助命嘆願により命だけは助けられて、出家して相模国(神奈川県)の鎌倉の東慶寺(とうけいじ/臨済宗)の尼僧となり、生涯に渡り子供をもうけなかった為に、天秀尼(てんしゅうに/豊臣→僧侶)が実質的に最後の豊臣氏と言える。
また、戦後処理として豊臣軍の牢人(無職侍)は、ほぼ斬首されている。
合戦後の間も無くの大坂城(おおさかじょう)の城郭周辺には、豊臣軍と徳川軍の武士や大坂町民の折り重なる数万人の屍(しかばね)が横たわっていた。
中には首級(しゅきゅう)の褒美欲しさに、首の無い大坂町人の身体が多数転がってる。
正(まさ)に“この世の地獄絵”である。
牢人(無職侍)…『この恨み、血で穢(けが)れたこの地を、千年も万年も呪い祟ってやるわぁい!』
大坂町民…『わてぇの首、どこに行ったかぁ知らんけぇ?』
一方、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と江(ごう/浅井→徳川)の娘の千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)は、愛する夫の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が斬首された悲しみから一生涯を独女として生きる道を決意する。
千姫…『うぅうう・・・ 秀頼様、私はあなたの妻として、女として、生涯この揺るぎない“愛”を捧げる事を天に誓います。』
豊臣秀頼…『千姫・・・ 僕もあの世で、いつまでも君を待っているからね。』
そして千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)は徳川軍の家臣により救出され、本多忠刻(ほんだただとき/徳川)により江戸まで護送される。
千姫…『忠刻様、なんて素敵な男性なんでしょう! 江戸までの道中の駕籠(かご)の揺らし方など、“女心”の的を外さないソフトタッチさぁ、「ズンッ!」と来たわぁ、あの方の女(もの)になりたい!』
豊臣秀頼…『忠誠心を誓ったすぐに、“女心”の移り気の早さかぁ〜〜い!』
本多忠刻(ほんだただとき/徳川)とは、“徳川四天王”の本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の孫、本多忠政(ほんだただまさ/徳川)の息子であり、なんと千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)の夫になる人物である。
相模国(神奈川県)の鎌倉にある東慶寺(とうけいじ/臨済宗)の最寄駅は、JRの〈北鎌倉駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、この東慶寺(とうけいじ/臨済宗)は女人救済の女性の駆け込み寺としても有名で、無能男から別れたくても別れられない女性は、是非に足を運んで下さい。
鎌倉と言えば当然に鎌倉幕府で征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と尼将軍(あましょうぐん)の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)や鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)を思い浮かべるが、この鎌倉幕府は総評的な言い回しで、1180年〜1219年に大倉御所(おおくらごしょ)で司る大倉幕府(おおくらばくふ)、1225年〜1236年に宇津宮辻子御所(うつのみやずしごしょ)で司る宇都宮辻子幕府(うつのみやずしばくふ)、1236年〜1333年に若宮大路御所(わかみやおおじごしょ)で司る若宮大路幕府(わかみやおおじばくふ)の政所(まんどころ)が3箇所も移り替わった事も覚えておこう。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
MAUREEN MCGOVERN /♪ THE MORNING AFTER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:40:53
◆◇◆其の百四:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
1615年の「大坂・夏の陣」にて豊臣氏を滅亡させた江戸幕府は、ようやく戦乱の無い天下泰平の世の中を築いていく事になる。
征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)で、嫁の江(ごう)こと崇源院(すうげんいん/浅井→徳川)に尻に敷かれながら政務に従事した。
ただ、大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が生きている時は、征夷大将軍2代目だったとしても何も口出し出来なかった徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)であった。
江戸幕府が制定した大名の謀反を抑える目的で領国には1つのお城しか建てられない“一国一城令”、武士の品行を定める“武家諸法度”(ぶけしょはっと)、天皇の政務に口を出しして公家の品行を定める“禁中並公家諸法度”(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の政策が色濃く出ている。
徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と江(ごう)こと崇源院(すうげんいん/浅井→徳川)には、後々に征夷大将軍3代目ちなる嫡男(ちゃくなん)で兄の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)と弟の徳川忠長(とくがわただなが/徳川)の息子が居た。
徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)は当初は将軍になる予定は無く、幼少期から病弱で人見知りが激しく、両親は積極活発な性格の弟の徳川忠長(とくがわただなが/徳川)を可愛がり、徳川家臣の誰もが次期将軍は弟で決まりと思っていた。
ところが徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の乳母を担当した春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)の采配により、大逆転の人生を歩む事になる。
斎藤福(さいとうふく)こと春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)とは、1582年に起こった「本能寺の変」で主君の織田信長(おだのぶなが/織田)を襲撃した明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の家臣の斎藤利三(さいとうとしみつ/明智)の娘で、美濃国(岐阜県)の十七条藩(瑞穂)や下野国(しもつけ/栃木県)の真岡藩の藩主となった稲葉正成(いなばまさなり/徳川)の妻、そして、相模国(神奈川県)の小田原藩の藩主となった稲葉正勝(いなばまさかつ/徳川)の母親である。
京都の六条河原で処刑される父親の斎藤利三(さいとうとしみつ/明智)の斬首を目(ま)の当たりにし、その後の人生は波瀾万丈とも言える道のりで、お姫様育ちの春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)とて苦境を乗り越えれば肝(きも)も据(す)わってくる。
不遇な状況の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)を見て、先(ま)ず春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)は駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう)に居る大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に直談判(じかだんぱん)しに行く。
春日局…『ちょっと“やっさん”、どう言う事? わたしの愛(いと)しき“みっちゃん”を差し置いて、弟の“ただくん”を将軍後継者にするとわぁ!』
徳川家康…『その事か、将軍候補の件は秀忠に任せておるからのぉ〜』
春日局…『わたし、1572年に起こった武田軍との「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)の出来事を知っているんだから! あの事を江戸城内でバラすよぉ!』
徳川家康…『いやっ、“ふくちゃん”違うんだ、わしぃは忠長ではなく家光を3代目将軍にするつもりじゃ!』
これで征夷大将軍3代目は徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)で決定した。
春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)の献身的な養育と“七彩(なないろ)の朝食”で徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)は立派に成長しました。
武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)の最寄駅は、地下鉄の〈竹橋駅〉(たけばしえき)やその他大勢の駅から徒歩で数分程度の距離にあり、現在も首都の東京の中心地でもあり、江戸城(えどじょう)の西方の千鳥ヶ淵(ちどりがふち)に広がる住宅街は、日本で一番に住宅用の地価の高い番町(ばんちょう)があり、2024年の公示地価で1㎡あたり483万円(1596万円/坪)となっており、単純に50坪の敷地に家を建てるには土地値だけで7億9800万円が必要となります。
もし、どうしても番町(ばんちょう)ブランドに住みたいセレブリティな貴方は、兵庫県神戸市長田区にも番町(ばんちょう)はあり、2024年の実勢地価で1㎡あたり18万円(60万円/坪)となっており、単純に50坪の敷地に家を建てるには土地値だけで3000万円で購入が可能となっております。
兵庫県神戸市長田区の番町(ばんちょう)は“山口組のPL学園”と表現される由緒(ゆいしょ)あるエリアで、仁義なき戦いに挑(いど)む多くの任侠人(にんきょうびと)を輩出(はいしゅつ)しました。
住宅購入の参考にもなる為に、色々な物件見学をしてみては如何(いかが)ですか?
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
RASPBERRIES FEAT.ERIC CARMEN /♪ STARTING OVER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL
2025/04/01 (Tue) 21:41:49
◆◇◆其の百五:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
また逆に父親の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に阻害された息子も居る。
陸奥国(むつ/宮城県)の仙台城(せんだいじみょう/青葉城)を拠点とした伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の娘と結婚した徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)である。
1615年の「大坂・夏の陣」で徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)は参戦に大遅刻した。
その時に父親の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に遅刻の弁明をしたが・・・
徳川忠輝…『義父の伊達政宗殿が徳川政権に対して謀反(むほん)を企て、それを阻止するため説得していたので遅刻しました。』
徳川家康…『何ぃ!? 政宗殿が謀反(むほん)だとぉ!? バカモォ〜〜ン! 嘘(ウソ)を吐(つ)くなら、もっとマシな嘘(ウソ)を吐(つ)けぇ〜!!』
“天下人”まで登りつめた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、自分の息子でもある徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)の嘘(ウソ)を直ぐに見抜き、卑劣(ひれつ)な性格を忌み嫌い勘当(かんどう)してしまう。
徳川家康…『あの馬鹿息子は徳川家から勘当したから、今後、忠輝を煮るなり焼くなり好きにしてくれぇ!』
伊達政宗…『アハハハ〜 忠輝君はそんな嘘(ウソ)を吐(つ)きましたか。 私も1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)で大遅刻をして、秀吉殿に白装束(しろしょうぞく)を着て何とか許してもらった経験がありますぞよぉ〜』
後(のち)に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、病床にあった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から直接に『将軍の徳川秀忠を傍(そば)で支えて欲しい。』と嘆願される。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)まで重鎮家臣として仕える事になり、特に徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)には『伊達の親父殿(おやじどの)』と呼ばれ懐かれ、戦国乱世の昔話を聞かせたと言う。
徳川家光…『伊達の親父殿(おやじどの)、戦国の合戦の話しを聞かせて下さい。』
伊達政宗…『はいはい、いいですよぉ〜 皆は私が10年早く生まれるのが早ければ、天下人になっていたと言うが、冗談じゃないですよぉ!』
徳川家光…『えぇ〜!? 何でですかぁ〜? 伊達の親父殿(おやじどの)は強い武将だったじゃないですかぁ〜!』
伊達政宗…『10年早ければ、尾張国(愛知県)の信長公だけでなく、甲斐国(山梨県)の信玄公や越後国(新潟県)の謙信公も居る。 更(さら)に安芸国(あき/広島県)の毛利氏や、九州と四国にも猛攻武将が粒揃(つぶぞ)いであり、これら武将を相手にとても勝ち進む事など想像できませぞぉ。』
徳川家光…『へぇ〜 戦国時代は凄いなぁ〜!』
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が親身にした外様(とざま)大名は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の他に、もう1人居た。
それは7度も主君を変えた藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)である。
藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の弟の豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)に仕えていたが、1591年に大病により死去した後は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の家臣として活躍していた。
築城名人と言われる藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は、江戸城(えどじょう)や日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)などの建築に力を発揮する。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)からの信頼信用に厚かった藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は、最期(さいご)の病床にも呼ばれている。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)との別れを惜しんだと言う。
徳川家康…『高虎殿には大変にお世話になったのぉ〜 とても感謝しておるぞぉ〜』
藤堂高虎…『いえいえ、まだまだ徳川家の為に尽力しますよぉ。』
徳川家康…『ただのぉ〜 心残りが1つあってのぉ〜 仏教の宗派が違う為に、来世で高虎殿と会う事ができぬのじゃ〜』
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は天台宗(てんだいしゅう)で、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は日蓮宗(にちれんしゅう)だった。
藤堂高虎…『えっ!? う〜〜ん、家康殿、暫(しば)しお待ちをぉ。』
そう言って藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は部屋から出て行った。
そして、直ぐに戻ってきた。
藤堂高虎…『お待たせ致しました。 只今、日蓮宗(にちれんしゅう)から天台宗(てんだいしゅう)へと改宗(かいしゅう)してまいりました。』
徳川家康…『えっ!? 態々(わざわざ)改宗(かいしゅう)したの?』
藤堂高虎…『はいっ! これで来世でも、家康殿と会えますね。』
徳川家康…『流石は高虎殿である! アハハハハ〜』
1616年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は亡くなり、駿河国(静岡県)の久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)に埋葬された。
一周忌が済むと下野国(しもつけ/栃木県)の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に移葬され、東照大権現(とうしょうだいごんげん)の名前が与えられ神君(しんくん/徳川家康)として神様として崇(あが)められる。
その後、江戸幕府の幕藩体制の元、徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)は大名の普請(ふしん)により江戸城(えどじょう)の増築と天守閣の築城を実施し世間に権威を見せ付け、さらに質素な姿だった日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)を絢爛豪華なリノベーション(改築)を施した。
徳川家光…『ほぉ、“見ざる、言わざる、聞かざる”の三猿(さんざる)かぁ。』
宮大工…『プロの大胆なデザインと、匠(たくみ)の粋な計(はか)らいです。』
陸奥国(むつ/宮城県)の仙台城(せんだいじみょう/青葉城)の最寄駅は、地下鉄の〈国際センター駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、戦国武将の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が仙台都市整備の礎(いしずえ)を築いたと言っても過言ではなく、新田開発や湊の整備、神社仏閣の文化施設も設けている。
江戸時代には『今、江戸のお米の1/3は奥州米なり。』と言われる程に、仙台の湊から船で江戸に米俵が運搬されていた。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)も晩年は仙台で過ごし、亡くなった際は保春院(ほしゅんいん/臨済宗)を建立(こんりゅう)して弔った。
下野国(しもつけ/栃木県)の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の最寄駅は、東武の〈東武日光駅〉もしくはJRの〈日光駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、近くには関東の奥座敷と言われる鬼怒川温泉(きぬがわおんせん)もあり、上野国(こうずけ/群馬県)などに跨(またが)る尾瀬(おぜ)の高原を巡るのが定番コースです。
夏が来れば思い出すのは、遥かな尾瀬(おぜ)と遠い空、そして、ほど近い日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)と鬼怒川温泉(きぬがわおんせん)です。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
LIONEL RICHIE /♪ LOVE WILL CONQUER ALL
◆ラジオの友◆
■当サイトを閲覧するにあたり/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:58:16
閲覧者の義務として、このサイト内に掲載されている音楽の5曲以上をお好きなラジオ局にリクエストして下さい。
もし、リクエスト曲が掛かれば幸福度がアップします。
今日のラッキーソングはこれだっ!
成龍(ジャッキーチェン)/♪ 英雄故事(ポリスストーリー)
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:33:58
THE POGUES /♪ HOW COME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:38:20
MAGPIE SALUTE /♪ SEND ME AN OMEN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:39:12
DR.HOOK /♪ WHEN YOU'RE IN LOVE WITH A BEAUTIFUL WOMAN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:41:17
COMFORT /♪ WOODSTOCK
MATTHEWS' SOUTHERN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:42:10
SUPERTRAMP /♪ TAKE THE LONG WAY HOME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:44:03
MASON JENNINGS /♪ FIGHTER GIRL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:44:53
JASON MRAZ /♪ CURBSIDE PROPHET
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:45:45
JASON MRAZ /♪ THE BOY'S GONE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:46:38
JOHN HALL /♪ You Can Dream Of Me
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:47:29
THE CITY /♪ I WASN'T BORN TO FOLLOW
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:48:20
Setting Sun /♪ I'VE BEEN HIT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:49:12
CHRIS PIERCE /♪ THE SLOW LIFE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:50:05
AMERICA /♪ TILL THE SUN COMES UP AGAIN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:51:03
TONY KOSINEC /♪ FEATHER OF A BOY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250329 - ラジオの友 URL
2025/03/29 (Sat) 21:52:09
THE VOGUES /♪ TURN AROUND,LOOK AT ME
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:25:58
◆◇◆其の七十七:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
●陸奥国(むつ/福島県)の伊達氏
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる20万人の豊臣軍の侵攻により、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を包囲し伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は自決し、降伏した伊勢北条氏5代目は北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は助命された1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)で、ほぼ日本統一は達成された。
ただ、まだ豊臣政権は一枚岩ではなく、奥の細道の奥州では抵抗する勢力が残っていた。
特に陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)は、それぞれの地域に、それぞれの武将や国人が入り乱れて、その昔から1人の大将軍がまとめる事が困難な土地柄でもある。
そんな中でも伊達氏と蘆名氏(あしなうじ)と最上氏など東北の武家がその筆頭であろう。
伊達氏は室町時代から続く武将の名門であり、陸奥国(むつ/福島県)の伊達の梁川城(やながわじょう/伊達)を拠点とし、その後、勢力拡大と共に陸奥国(むつ/福島県)の桑折西山城(こおりにしやまじょう)や出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に移転していった。
陸奥国(むつ/福島県)の勢力地盤を固めた伊達晴宗(だてはるむね/伊達)は家督を息子の伊達輝宗(だててるむね/伊達)に継承させる。
先(ま)ず伊達輝宗(だててるむね/伊達)は、蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)と友好関係を築き、周辺の武将や国人(こくじん)の統治を強める。
出羽国(でわ/山形県)の最上義守(もがみよしもり/中野→最上)の娘で、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹の義姫(よしひめ/最上→伊達)を妻に娶(めと)る。
1567年に出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)にて、2人の息子の“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)こと伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が誕生する。
1575年に天然痘を発症して右目の視力を失う。
引っ込み思案で大人しく、隻眼(せきがん)も影響して自信が無い伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)の手配により臨済宗(りんざいしゅう)の僧侶の虎哉宗乙(こさいそういつ/僧侶)が教育係として就いた。
虎哉宗乙(こさいそういつ/僧侶)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に、900年頃の中国大陸の唐で活躍した武将の李克用(りこくよう/唐武将)の話しを聞かせた。
虎哉宗乙…『政宗よぉ、今から650年余り前に唐(とう)の猛攻武将と呼ばれた李克用(りこくよう/唐武将)を知っておるか?』
伊達政宗…『いっ、いいえ、知りません。』
虎哉宗乙…『李克用(りこくよう/唐武将)は、広大な中国大陸にその名が轟(とどろ)く程に大活躍した武将である。』
伊達政宗…『はぁ〜 そんな凄い人が僕と何の関係があるのですか?』
虎哉宗乙…『そんな英雄の李克用(りこくよう/唐武将)も、政宗と同じで隻眼(せきがん)だったんじゃ。 人々は彼の事を“独眼竜”(どくがんりゅう)と呼んだ。』
伊達政宗…『えっ!? “独眼竜”(どくがんりゅう)!?』
虎哉宗乙…『これは、どう言う意味か解るな。』
伊達政宗…『先生、僕も“独眼竜”(どくがんりゅう)の李克用(りこくよう/唐武将)の様な強くて立派な武将にして下さい!』
こんな軟弱な青年期の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)だが、後々は“東北の暴走族総長”と呼ばれる事となる。
その間も伊達輝宗(だててるむね/伊達)は、弟の石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)を石川晴光(いしかわはるみつ/石川)の養子に入れ石川氏の支配体制も整える。
沿岸部を領土とする相馬氏の15代当主の相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)とは対立する。
一方、常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義篤(さたけよしあつ/佐竹)が陸奥国(むつ/福島県)に侵攻を開始して、白河氏の領土に入り込んできた。
白河氏の結城顕頼(ゆうきあきより/白河)や息子の結城義綱(ゆうきよしつな/白河)は、その対応に追われる。
太田城(おおたじょう/常陸)の城主で佐竹義篤(さたけよしあつ/佐竹)の息子の佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が家督を継承すると、陸奥国(むつ/福島県)に侵攻は加速する。
白河氏の結城義綱(ゆうきよしつな/白河)は家督を結城晴綱(ゆうきはるつな/白河→伊達→徳川)に継承させ、蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)や田村清顕(たむらきよあき/田村)と同盟を結び対抗する。
ただ、白河氏も佐竹氏から養子を受け入れて従属(じゅうぞく)する事になる。
次に佐竹氏が目を付けたのが岩城氏で、当主の岩城重隆(いわきしげたか/岩城)が死去すると、伊達氏から岩城重隆(いわきしげたか/岩城)の養子に入っていた岩城親隆(いわきちかたか/伊達→岩城)の権力も衰退し始める。
岩城親隆(いわきちかたか/岩城)の息子の岩城常隆(いわきつねたか/岩城)が17代当主を継承するが、能力的な事から佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が後見人となり岩城氏は佐竹氏に従属(じゅうぞく)する事になる。
蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)は常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)と友好関係を築く。
蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)が死去して家督を息子の蘆名盛興(あしなもりおき/蘆名)が継承しても、佐竹氏との友好路線は変わらず維持した。
これにより陸奥国(むつ/福島県)の勢力図は、伊達輝宗(だててるむね/伊達)と田村清顕(たむらきよあき/田村)に対して、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる蘆名盛興(あしなもりおき/蘆名)、二階堂盛義(にかいどうもりよし/二階堂)、小峰義親(こみねよしちか/白河→伊達)、石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)、岩城常隆(いわきつねたか/岩城)となった。
蘆名盛興(あしなもりおき/蘆名)は後継者が居なかった為に、二階堂盛義(にかいどうもりよし/二階堂)の息子の蘆名盛隆(あしなもりたか/二階堂→蘆名)を蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)の養子に入れる。
ところが養子に入った蘆名盛隆(あしなもりたか/二階堂→蘆名)が家臣に暗殺される。
早々に嫡男(ちゃくなん)で幼児の蘆名亀王丸(あしな かめおうまる/蘆名)を家督継承させるも早世してしまう。
結局、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)の息子の蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)を、結城顕頼(ゆうきあきより/白河)の息子の小峰義親(こみねよしちか/白河)の養子に入れて蘆名氏(あしなうじ)の家督継承させる。
陸奥国(むつ/福島県)の梁川城(やながわじょう/伊達)の最寄駅は、阿武隈急行(あぶくまきゅうこう)の〈やながわ希望の森公園前駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、陸奥国(むつ/宮城県)の国境に近い梁川城(やながわじょう/伊達)は、鎌倉時代から続く武家の名門であり、一説には藤原氏北家(ほっけ)の系統とも言われ、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)をこよなく愛する宮城県仙台市の57%の市民は、老後にはこの福島県伊達市に移住している。
陸奥国(むつ/福島県)の桑折西山城(こおりにしやまじょう)の最寄駅は、JRの〈桑折駅〉(こおりえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、梁川城(やながわじょう/伊達)にも程近く、少し南下すれば福島市の市街地もあり、福島県のランドマークと言えばやはり“へたれガンダム”を置いて他は無く、世界中のRXー78型のガンダムをこよなく愛するファンは必ず訪れている。
出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)の最寄駅は、JRと新幹線の〈米沢駅〉もしくはJRの〈南米沢駅〉と〈西米沢駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、現在では後に入城した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を全面的にピックアップしているが、この米沢城(よねざわじょう)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の生誕地である事も忘れてはならない。
戦国武将の2(ツー)トップが米沢城(よねざわじょう)に縁があるとは、正に日本屈指の最強のお城と言え、この米沢市に来訪したら米沢牛に舌鼓(したつづみ)を打ちながら戦国乱世に想いを馳(は)せるのが旅の上級者と言えます。
常陸国(ひたち/茨城県)の太田城(おおたじょう/常陸)の最寄駅は、〈常陸太田駅〉(ひたちおおたえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、先(ま)ずは茨城県(いばらきけん)に来訪する前に、“いばらき”は“ぎ”ではなく“き”である事を認識して、次に常陸は“じょうばん”ではなく“ひたち”だと言う事を確認して下さい。
常陸(ひたち)と言えば『♪この木なんの木、気になる木〜』でお馴染みの日立製作所の創業地が茨城県日立市であり、茨城県の家庭の家電は74%が日立製作所と言われています。
因(ちな)みに日立とは、常盤水戸藩の藩主で“水戸黄門”と呼ばれた徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)が、この地を訪れた際に『日の立ち昇るところ、領内で一番に美しい。』と語った事から由来(ゆらい)する。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
LOGGINS & MESSINA /♪ MY MUSIC
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:26:58
◆◇◆其の七十八:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
●陸奥国(むつ/福島県)の伊達氏
1584年に伊達輝宗(だててるむね/伊達)は家督を息子の“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)こと伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に継承させる。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は伊達氏の政権方針を変更して、友好関係にあった蘆名氏(あしなうじ)と対立して領土侵攻を始める。
蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)は大内定綱(おおうちさだつな/大内→伊達)と連携して伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対抗した。
こうなると伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)の蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)、16代当主の相馬義胤(そうまよしたね/相馬)、常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に包囲される事になる。
大内定綱(おおうちさだつな/大内→伊達)は、二本松畠山氏で二本松城(にほんまつじょう)の城主の畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)と連携を図り、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対抗する。
そんな最中(さなか)の1585年、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)が畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)に拉致(らち)される。
この時、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は鷹狩りに出掛けており、そこに早馬が来て知らせを聞いた。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は直(す)ぐに伊達軍を引き連れて、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)が幽閉されている陸奥国(むつ/福島県)の二本松城(にほんまつじょう)を包囲した。
畠山義継…『アハハハハァ〜 政宗よぉ、親父が人質とあらば、手も足も出ないだろぉ! 今まで伊達家が奪取(だっしゅ)した畠山家の領土を返してもらうぞぉ!』
伊達輝宗…『政宗、わしぃに構わず、此奴(こやつ)ら畠山軍を攻撃してくれぇ〜!』
伊達政宗…『親父よぉ、承知致した。』
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は伊達軍鉄砲隊に、二本松城(にほんまつじょう)に目掛けて総攻撃する様に指示した。
伊達政宗…『鉄砲隊、撃ち方をはじめぇ!』
伊達軍武士…『御意(ぎょい)!』
畠山義継…『えっ!? マジで?』
伊達輝宗…『えええっ!? ほっ、本気かぁ?!』
バッキュンバッキュン バッキュンバッキュン
畠山義継……『ギャ〜〜 やられた〜〜』
バタン
伊達輝宗…『政宗〜 わしぃ父親だけどぉ、少しは心情はないのかぁ〜?』
バタン
これに伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は反撃に出て、二本松城(にほんまつじょう)を総攻撃して畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)は討死し、同時に父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)も命を落とした。
これが戦国の武将である。
亡き畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)の家督を引き継いだ息子の畠山義綱(はたけやまよしつな)こと二本松義綱(にほんまつよしつな/二本松畠山)は抗戦し、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)と蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)の連合軍の援軍もあり、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍は後退を余儀なくされる。
ところが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹氏の領土に侵攻を開始し始めて、その対応の為に佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)は退陣してしまう。
これにより伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は二本松城(にほんまつじょう)を落城させ、畠山義綱(はたけやまよしつな)こと二本松義綱(にほんまつよしつな/二本松畠山)は逃亡中に斬殺される。
伊達氏を支持していた田村清顕(たむらきよあき/田村)が死去し、息子の田村氏顕(たむらうじあき/田村)が家督を継承し、さらに息子の田村宗顕(たむらむねあき/田村)に引き継ぐ。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は再び、陸奥国(むつ/福島県)の蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)、16代当主の相馬義胤(そうまよしたね/相馬)、常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に包囲される事になる。
陸奥国(むつ/岩手県)では葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が領土侵攻の交戦を繰り広げていた。
ただ、長年の戦(いくさ)で戦力も疲弊し、葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に従属(じゅうぞく)する。
さらに大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)と、その家臣だった氏家氏(うじいえうじ)で岩出山城(いわでやまじょう/大崎)の城主の氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)が対立する事になる。
大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)は、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に援軍要請した。
大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)
とは、河内源氏の斯波氏(しばうじ)の系統で、陸奥国(むつ/岩手県)を拠点に代々に渡り奥州探題(おうしゅうたんだい)に就任する大崎氏の最後の当主となる人物である。
一方、氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)は、陸奥国(むつ/福島県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に援軍要請する。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は留守政景(るすまさかげ/伊達)の軍隊を、氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)が率いる氏家軍にを派遣した。
対する大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が率いる大崎軍は、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍の協力や、氏家軍に味方していた斯波氏の系統の黒川氏で鶴楯城(つるだてじょう/黒川)の城主の黒川景氏(くろかわかげうじ/飯坂→黒川)と、その孫の黒川晴氏(くろかわはるうじ/黒川)の大崎軍への寝返りがあり抗戦して勝利する。
この流れで陸奥国(むつ/宮城県)の加美(かみ)を中心に、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍と、大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)と最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる大崎最上軍が交戦した。
ただ、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は甥と叔父の関係で、その中心に居るのが母親であり妹である義姫(よしひめ/最上→伊達)だった。
この時の義姫(よしひめ/最上→伊達)の心中を察するに余りある。
そんな義姫(よしひめ/最上→伊達)は自分の気持ちを正直に受け止めて行動を起こし、家臣に担がせた輿(こし)に乗り戦地に赴いたのである。
伊達軍と大崎最上軍が睨み合う戦地の真ん中に輿(こし)のまま突撃して、義姫(よしひめ/最上→伊達)は大声で叫んだ。
義姫…『戦馬鹿(いくさばか)の野郎ども、そんなに戦いたかったら私が相手だぁ! 隙があったら、何処(どこ)からでも掛かってこんかぁ〜〜い!!』
伊達政宗…『おっ、お母さん!?』
最上義光…『いっ、妹よぉ!?』
義姫…『戦(いくさ)、するんかぁ〜〜い! せいへぇんのんかぁ〜〜い!』
伊達政宗…『いやぁ、戦(いくさ)やめます。 お母さん、すみませんでした。』
最上義光…『妹よぉ、心配かけて申し訳なかった。 この通り謝る。』
こうして義姫(よしひめ/最上→伊達)の大活躍で和睦が成立した。
これを1588年に起こった「大崎合戦」(おおさきがっせん)と呼ぶ。
ただ、再び伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が対立した。
さらに伊達政重(だてまさしげ)こと国分盛重(こくぶんもりしげ/伊達)の領土でも反乱が勃発し、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が鎮圧する事となる。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)や留守政景(るすまさかげ/伊達)を従属(じゅうぞく)させて陸奥国(むつ/宮城県)の領土統治を強める。
陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)の最寄駅は、JRの〈有備館駅〉(ゆうびかんえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、岩出山城(いわでやまじょう/大崎)のある大崎市は宮城県の北西部に位置し、峠を越えれば山形県最上市につながり、この事からも大崎氏と最上氏と伊達氏の戦国乱世が手に取る様に解る。
陸奥国(むつ/宮城県)の鶴楯城(つるだてじょう/黒川)の最寄駅は、JRの〈石越駅〉(いしこしえき)から徒歩で2時間程度の距離にあり、鶴楯城(つるだてじょう/黒川)の近くにはくりはら田園鉄道が走っていたが2007年に廃線となり、その跡地を利用してくりでんミュージアムもオープンし、動態保存されている車両もある為に何時(いつ)でも復活する事は可能である。
陸奥国(むつ/福島県)の二本松城(にほんまつじょう)の最寄駅は、JRの〈二本松駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、二本松城(にほんまつじょう)と言えば1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の「会津戦争」(東北戦争)にて、攻防する幕府軍の少年兵が維新軍の容赦ない攻撃により惨殺された哀しい歴史が刻まれています。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
LONNIE LISTON SMITH /♪ SUMMER DAYS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:27:53
◆◇◆其の七十九:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
●陸奥国(むつ/福島県)の伊達氏
後日、岩城氏の17代当主の岩城常隆(いわきつねたか/岩城)の仲裁もあり、一先(ひと)ず伊達氏の周囲は平定される。
ただ、直(す)ぐに佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)と蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)の連合軍が伊達氏の領土侵攻を目指し進撃を開始した。
迎え討つ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍は摺上原(すりあげはら)で交戦する。
結果は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の勝利に終わる。
蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)は敗走して佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)の本拠地の常陸国(ひたち/茨城県)に逃げ込む。
これを1589年に起こった「摺上原の戦」(すりあげはらのたたかい)と呼ぶ。
そんな時の1590年に畿内(きない/関西)から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の伊勢北条氏に対する「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の大号令が下ると、東北地方の武将も参戦を要請された。
この「小田原征伐」(おだわらせいばつ)は東北の地にも豊臣軍から参陣要請が来て、陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松)からは“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍伊達隊が出陣した。
伊達政宗…『東北の猛将、伊達政宗、只今参上! 秀吉殿よぉ、大船(おおぶね)に乗ったつもりで安心して下さい。 私が来たからにはこの戦(いくさ)、勝利の香(かお)りしかしません!』
豊臣秀吉…『お前はアホォかぁ! 戦(いくさ)はとうに終わっておるわぁい!』
伊達政宗…『えっ!? 終わったのぉ?』
豊臣秀吉…『もう少し遅かったら、お前を打首にするところだったぞぉ! 後で始末書を提出せいっ!』
そうです、豊臣政権が日本統一する大切な合戦で、“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は大遅刻したのである。
後日、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は慣れないワープロを駆使して始末書を作成し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元に提出しに行った。
その時の格好が武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)を身にまとっており、意表を突いた斬新なパフォーマンスを豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に気に入られて不始末を許されたと言う。
その後、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に従属(じゅうぞく)する事となる。
そして脅威を排除した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、周辺の田村宗顕(たむらむねあき/田村)や小峰義親(こみねよしちか/白河→伊達)や石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)などを従属(じゅうぞく)させて伊達軍の勢力拡大を図る。
ところが伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が蘆名氏(あしなうじ)の領土に侵攻した事が豊臣政権の“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして、蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に訴え出たのである。
これに対する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の処遇は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の陸奥国(むつ/福島県)の会津と伊達を領地削減の減封(げんぽう)の72万石とし、陸奥国(むつ/岩手県)の葛西大崎への領地移転の転封(てんぽう)とした。
豊臣政権から東北地方に送り込まれた大崎葛西の領主(奥州仕置)は木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)は、“太閤検地”(たいこうけんち)や“刀狩”(かたながり)を実施した。
この豊臣政権の処置に対する不満が高まり、東北地方の各地で一揆や反乱が勃発する。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)を総大将に大軍を率いて奥州征伐に進撃させる。
木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)を救援する為に、名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と協力を取りながら豊臣軍を侵攻させて反乱を鎮圧する。
ところが、その蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)と伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が仲違(なかたが)いした。
蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が東北武将と通じていると疑念を持ち、いつかは寝返るのではと考え距離を取る。
更(さら)に「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の参戦しなかった大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)や葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)や留守政景(るすまさかげ/伊達)は領地没収の改易(かいえき)となった。
ただ、この豊臣政権の処罰に不満を抱えた葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)は葛西大崎軍を結成して反乱を起こす。
これを鎮圧に向かったのが大崎葛西領の領主である木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣) を大将に、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)や伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍奥州隊だった。
結果は豊臣軍奥州隊が反乱を鎮圧して葛西大崎軍は敗北した。
因(ちな)みに木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)は反乱勃発の責任により罷免(ひめん)された。
これを1590年に起こった「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)と呼ぶ。
ただ、この合戦の問題はそこではなかった。
実は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)との不仲もあり、敵陣の葛西大崎軍と内通している噂(うわさ)が立っていた。
実際に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と葛西大崎軍が遣り取りした書状も見つかっており、これを蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に報告している。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から京都に呼び出された伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は事実無根として弁明した。
その時の格好が武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)を身にまとい、更(さら)に大きな黄金の十字架を背負って豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に謁見(えっけん)した。
前回と同様に意表を突いた斬新なパフォーマンスで豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は大いに喜んだが、ただ、葛西大崎軍との内通は別の話しである。
陸奥国(むつ/福島県)や出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじきょう)などから、「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)の合戦で荒廃した陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)などに領地移転の転封(てんぽう)となり、領地削減の減封(げんぽう)を受けて58万石となった。
そして国分氏の居城だった場所に仙台城(せんだいじょう/青葉城)を築城し、仙台市の現在までの発展の礎(いしずえ)を築いた。
この事で伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)への深い憎悪が芽生え、これが1600年に起こった「会津征伐」、「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)へ、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対する忠誠心へとつながっていく。
また、この頃の1590年に、弟の小次郎(こじろう)こと伊達政道(だてまさみち/伊達)が謎の死を遂げている。
一説には、母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)と弟の小次郎(こじろう)こと伊達政道(だてまさみち/伊達)が、兄の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)を危険視して毒殺しようとして失敗し、その報復で兄の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が弟の小次郎(こじろう)こと伊達政道(だてまさみち/伊達)を斬殺したと言われる。
このエピソードが事実なら、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)と弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)と母親の土田御前(どたごぜん/織田)の関係に瓜二つである。
陸奥国(むつ/宮城県)の仙台城(せんだいじょう/青葉城)の最寄駅は、地下鉄の〈国際センター駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、青葉城としての名称が有名で、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が入城してから仙台の地を都市整備を施し、新田開発と湊整備をセットで実施して広大な田んぼから穂(みの)るお米を船で江戸に輸送して、一時は『今、江戸の米は三分の一が奥州米なり。』と言われる程になった。
陸奥国(むつ/福島県)の「摺上原の戦」(すりあげはらのたたかい)の古戦場跡地の最寄駅は、JRの〈藤田駅〉もしくは〈貝田駅〉(かいだえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、近くには梁川城(やながわじょう/伊達)と桑折西山城(こおりにしやまじょう)があり、今でも伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍の熾烈な戦いが感じられます。
陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松)の最寄駅は、JRの〈西若松駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、会津若松と言えば磐梯山(ばんだいさん)と猪苗代湖(いなわしろこ)で誰もが訪れており、お帰りは必ず本場の喜多方ラーメンを食べます。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
HERBIE HANCOCK /♪ TONIGHT'S THE NIGHT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:28:46
◆◇◆其の八十:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
●出羽国(でわ/山形県)の最上氏
1500年頃の出羽国(でわ/山形県)では、室町幕府から清和源氏で斯波氏(しばうじ)の系統の最上氏が羽州探題(うしゅうたんだい)に就任していた。
最上氏の当主に最上義定(もがみよしさだ/最上)が就任すると、近隣の武将や国人(こくじん)との紛争が起こる様になる。
さらに陸奥国(むつ/福島県)の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が出羽国(でわ/山形県)の最上氏に領土に侵攻して来ており、最上氏の本拠地の長谷堂城(はせどうじょう/山形)も攻略されて、最上義定(もがみよしさだ/最上)はそれら対応に苦慮する。
取り敢えず伊達稙宗(だてたねむね/室町)との対立を避けて、最上義定(もがみよしさだ/最上)は伊達尚宗(だてひさむね/室町)の娘を側室に迎えて伊達氏と縁戚関係を結ぶ。
その後、最上義定(もがみよしさだ/最上)は嫡男(ちゃくなん)を残さないまま死去する。
そこで中野氏から最上義守(もがみよしもり/中野→最上)を最上義定(もがみよしさだ/最上)の養子として迎え入れる。
ところが陸奥国(むつ/福島県)を領国統治する伊達氏の、父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)と息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)とで内紛が起こる。
父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が率いる父軍には、蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)、田村隆顕(たむらたかあき/田村)、二階堂照行(にかいどうてるゆき/二階堂)、相馬顕胤(そうまあきたね/相馬)、葛西晴胤(かさいはるたね/葛西)、大崎義宣(おおさきよしのぶ/伊達→大崎)、黒川景氏(くろかわかげうじ/飯坂→黒川)、国分宗政(こくぶんむねまさ/伊達)を味方に着ける。
息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)が率いる子軍には、岩城重隆(いわきしげたか/岩城)、大崎義直(おおさきよしなお/室町)、留守景宗(るすかげむね/伊達)を味方に着ける。
当初は父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が率いる父軍が情勢を有利に運ぶも、息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)が率いる子軍も白石城(しろいしじょう/刈田)に布陣すると劣勢を巻き返して、父軍の蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)や葛西晴胤(かさいはるたね/葛西)を子軍に寝返らせ勢力優勢として勝利する。
結局、敗北した父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)は隠居する事となる。
これを1542年に起こった「天文の乱」(てんぶんのらん)と呼ぶ。
伊達晴宗(だてはるむね/伊達)は本拠地を出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に移転する。
さらに伊達晴宗(だてはるむね/伊達)は、室町幕府から奥州探題(おうしゅうたんだい)に任命される。
この頃になると最上義守(もがみよしもり/中野→最上)は家督を息子の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に継承させた。
ところが、隠居した筈(はず)の父親の最上義守(もがみよしもり/中野→最上)が、息子の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に対して謀反(むほん)を起こす。
最上義守(もがみよしもり/中野→最上)が率いる父軍は、天童氏(てんどううじ)で最上八楯(もがみやつだて)と呼ばれる天童城(舞鶴城)の城主の天童頼貞(てんどうよりさだ/天童)を味方に就ける。
さらに縁戚関係にある伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子の伊達輝宗(だててるむね/伊達)も味方に就けて、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる子軍に侵攻させる。
ただ、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる子軍の奮闘もあり、各武将により和睦が成立して、結局は最上義守(もがみよしもり/中野→最上)が隠居する事になった。
これを1574年に起こった「天正最上の乱」(てんしょうもがみのらん)と呼ぶ。
勢いに乗る最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、出羽国(でわ/山形県)での領土拡大を進める。
先(ま)ずは白鳥(しらとり/村山)や谷地(河北)の戦国武将で白鳥氏(しらとりうじ)の白鳥義久(しらとりよしひさ/白鳥)や、息子で白鳥城(しらとりじょう/村山)と谷地城(やちじょう/河北)の城主の白鳥長久(しらとりながひさ/白鳥)に攻撃を仕掛ける。
敗北した白鳥長久(しらとりながひさ/白鳥)を最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が居城する山形城(やまがたじょう)に呼び寄せて、そこで斬首する。
次に大江の戦国武将で寒河江氏(さがえうじ)の寒河江兼広(さがえかねひろ/寒河江)や、その婿養子で吉川氏の寒河江高基(さがえたかもと/寒河江)も攻撃して滅亡させる。
最後に最上氏の領土近くで勢力を誇こり最上八楯(もがみやつだて)と呼ばれた天童氏(てんどううじ)も、天童城(てんどうじょう/舞鶴城)の城主の天童頼貞(てんどうよりさだ/天童)と、息子の天童頼澄(てんどうよりずみ/天童)は総攻撃に遭い滅亡した。
そして大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)から小野寺景道(おのでらかげみち/小野寺→豊臣)に主君を代えていた鮭延秀綱(さけのべひでつな/大宝寺→ 小野寺→最上)も、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に従属(じゅうぞく)した。
出羽国(でわ/山形県)の白鳥城(しらとりじょう/村山)の最寄駅は、JRの〈村山駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、山形県の中央部に位置する白鳥城(しらとりじょう/村山)は、蝦夷(えみし)の安倍氏の末裔で寒河江氏(さがえうじ)の系統の白鳥氏が治めていました。
出羽国(でわ/山形県)の谷地城(やちじょう/河北)の最寄駅は、JRの〈さくらんぼ東根駅〉(さくらんぼひがしねえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、白鳥城(しらとりじょう/村山)とはご近所にあり共に白鳥氏のお城で、この地のお城巡りに欠かせないのがさくらんぼです。
さくらんぼを片手に持って、時に頬張(ほおば)りながら、山形県の大自然を堪能しながらのお城巡りは、これ以上ない至福の時間となります。
出羽国(でわ/山形県)の天童城(てんどうじょう/舞鶴城)の最寄駅は、JRの〈天童駅〉(てんどうえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、この天童城(てんどうじょう/舞鶴城)のある天童市は木材が名産で、木製家具を手掛ける天童木工が有名で、木材から美しい曲線美を導き出す匠の技は見事です。
出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)の最寄駅は、JRと新幹線の〈山形駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、この地の偉人であり英雄と言えば山形藩の藩主となった最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)ではありますが、やはりここは妹であり伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親でもある義姫(よしひめ/最上→伊達)を推して欲しい。
戦国乱世に翻弄(ほんろう)されながら強く生きた武家の女性として、そのアグレッシブな生涯は今尚(いまなお)感動を覚えます。
出羽国(でわ/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)の最寄駅は、JRの〈蔵王駅〉(ざおうえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)での激戦地となった長谷堂城(はせどうじょう/山形)も注目される史跡だが、そこから少し南下したJRと新幹線の〈かみのやま温泉駅〉の近くに建つ分譲タワーマンションのスカイタワー41にも注目して欲しい。
のどかな田園風景と山岳地帯が広がる中で、ポツンと聳(そび)え建っているタワーマンションの異様な光景は、“グッド”と“バッド”の賛否が真っ向から分かれる珍しい物件である事には違いない。
因(ちな)みに数々のマンションを観てきたマンション管理士としてのスカイタワー41への評価は“グッド”であり、正直、低層階で良いから住んでみたい。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
CHRIS BOTTI /♪ MIDNIGHT WITHOUT YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:29:38
◆◇◆其の八十一:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
●出羽国(でわ/山形県)の最上氏
一方、出羽国(でわ/山形県)で海岸部では、大宝寺氏(だいほうじうじ)の羽黒山(はぐろさん/鶴岡)の別当(べっとう)の大宝寺政氏(だいほうじまさうじ/室町)が統治しており、その息子の大宝寺澄氏(だいほうじすみうじ/大宝寺)も庄内を治めていた。
その後、大宝寺氏(だいほうじうじ)の家督を息子の大宝寺晴時(だいほうじはるとき/大宝寺)に継承させるも早世してしまう。
そんな時に飽海(あくみ)を領地とする砂越氏(さごしうじ)が勢力を伸ばして、砂越城(さごしじょう/酒田)の城主の砂越氏雄(さごしうじたか/砂越)が、大宝寺氏(だいほうじうじ)の領土に侵攻を仕掛ける。
危機的状況下の大宝寺氏(だいほうじうじ)だったが、大宝寺晴時(だいほうじはるとき/大宝寺)が死去した後の家督紛争が起こる。
大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)の息子で、羽黒山(はぐろさん/鶴岡)を拠点とする大宝寺四郎(だいほうじしろう)こと大宝寺義氏(だいほうじよしうじ/大宝寺→上杉→織田)と、大宝寺九郎(だいほうじくろう)こと大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)が後継者争いをする。
大宝寺晴時(だいほうじはるとき/大宝寺)の家臣で藤島城(ふじしまじょう/鶴岡)の城主の土佐林禅棟(とさばやしぜんとう/大宝寺)が、大宝寺九郎(だいほうじくろう)こと大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)を支持した事で勝利する。
早速、大宝寺氏(だいほうじうじ)の当主となった大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)は、越後国(新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に従属(じゅうぞく)して後ろ盾を得る。
大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)は勢力拡大する為に、山間部の最上氏の領土に侵攻し、最上氏の家臣で清水城(しみずじょう/大蔵)の城主の清水義高(しみずよしたか/最上)を攻略して攻め滅ぼす。
続いて最上氏の家臣の佐々木貞綱(ささきさだつな)こと鮭延貞綱(さけのべさだつな/最上)も攻撃して大宝寺氏(だいほうじうじ)に服従(ふくじゅう)させる。
ところが、拡大路線を続ける大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)に対して、家臣の土佐林禅棟(とさばやしぜんとう/大宝寺)が離反(りはん)する。
これに対して大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)は上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の支援を受けて、土佐林禅棟(とさばやしぜんとう/大宝寺)を排除する事に成功する。
ただ、これら行動が大宝寺氏(だいほうじうじ)の他の家臣や、周辺の武将や国人(こくじん)の反感を買う事になる。
大宝寺晴時(だいほうじはるとき/大宝寺)からの家臣だった前森蔵人(まえもりくろうど)こと東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)が謀反(むほん)を起こして、大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)は自害に追い込まれる。
大宝寺氏(だいほうじうじ)の家督は大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)の息子の大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)が継承した。
大宝寺氏(だいほうじうじ)の当主となった大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)は、死去した上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)から家督を継承した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)とも友好関係を保った。
そして平氏の秩父氏(ちちぶうじ)の系統で上杉氏の家臣の本庄氏である本庄房長(ほんじょうふさなが/上杉)や、その息子で越後国(新潟県)の本庄城(ほんじょうじょう/村上城)の城主の本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)とも協力関係を築く。
ただ、本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)の息子の本庄充長(ほんじょうみつなが)こと大宝寺義勝(だいほうじよしかつ/本庄→上杉)を、大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)の養子に入れた事で、東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)に反感を買う。
東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の後ろ盾を得て対抗する。
上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が支援する大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)が率いる大宝寺上杉軍と、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が支援する東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)が率いる東禅寺最上軍は激しく交戦した。
しかし、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の家臣だった新発田城(しばたじょう/蒲原)の城主の新発田重家(しばたしげいえ/上杉)の離反(りはん)の対応に追われて、思う様に大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)が率いる大宝寺上杉軍に援軍を送る事ができなかった。
ここに最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の甥で陸奥国(むつ/福島県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が仲裁に入る。
ただ、その仲裁も功せず東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)が率いる東禅寺最上軍が、大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)が率いる大宝寺上杉軍を猛追すると敗北が色濃くなり、大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)は自害した。
本庄氏から養子に入っていた本庄充長(ほんじょうみつなが)こと大宝寺義勝(だいほうじよしかつ/本庄→上杉)も敗走して、本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)が居城する越後国(新潟県)の本庄城(ほんじょうじょう/村上)に逃げ込む。
出羽国(でわ/山形県)の砂越城(さごしじょう/酒田)の最寄駅は、JRの〈砂越駅〉(さごしえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、最上川の北岸にある砂越城(さごしじょう/酒田)は酒田市の市街地にも近く、江戸時代には庄内藩(鶴岡)の初代藩主に酒井忠勝(さかいただかつ/徳川→庄内)が就き、“徳川四天王”と呼ばれた酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)の孫にあたり、江戸幕府の徳川家が如何(いかに)に重視していた地域だったかが、この事からも解る。
出羽国(でわ/山形県)の藤島城(ふじしまじょう/鶴岡)の最寄駅は、JRの〈藤島駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、この庄内地域は日本海に面して、山と川に囲まれた肥沃な土地でもあり、お米をはじめとした農作物が豊富に稔(みの)り、庄内藩が江戸幕府に取って如何(いかに)に重視していた地域だったかが、この事からも解る。
出羽国(でわ/山形県)の清水城(しみずじょう/大蔵)の最寄駅は、JRの〈升形駅〉(ますかたえき)から徒歩で1時間程度の距離にあり、最上川の河岸に建つ清水城(しみずじょう/大蔵)は標高1984mの月山(がっさん)の麓にあり、北方に聳(そび)える標高2236mの鳥海山(ちょうかいさん)と共に山岳地帯に囲まれた大自然を満喫できる素敵な土地でもある。
越後国(新潟県)の本庄城(ほんじょうじょう/村上城)の最寄駅は、JRの〈村山駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、出羽国(でわ/山形県)との国境に近い本庄城(ほんじょうじょう/村上城)が、戦国の世では如何(いか)に重要だったかが解り、江戸時代では日本海の湊から多くの物資が北前船(きたまえぶね)に積載され江戸や大坂に運ばれました。
越後国(新潟県)の新発田城(しばたじょう/蒲原)の最寄駅は、JRの〈新発田駅〉(しばたえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、なかなかこの新発田(しばた)の漢字を読める人も少なく、どうしても“織田四天王”で“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)の柴田(しばた)を思い浮かべる。
そんな江戸時代の新発田藩は、織田信長(おだのぶなが/織田)や丹羽長秀(にわながひで/織田)の家臣だった溝口秀勝(みぞぐちひでかつ/織田→豊臣→徳川)が初代藩主に就いたのも何かの縁を感じる。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
ZAN /♪ WANT TO BE WITH YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:30:33
◆◇◆其の八十二:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
●出羽国(でわ/山形県)の最上氏
ここで本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)の本庄上杉軍が出羽国(でわ/山形県)に侵攻を開始する。
攻防する東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)が率いる東禅寺最上軍だったが、敗北して討ち滅ぼされる。
この頃は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)も陸奥国(むつ/岩手県)の大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)との連合軍で、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)の城主の氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)を攻撃している最中(さなか)で、出羽国(でわ/山形県)の庄内で起こっている合戦に援軍を送る事ができなかった。
さらに氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に感服(かんぷく)した事で、対立構造が叔父の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と、甥の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に代わってしまった。
結局、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹で伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)が仲裁した事で戦乱は治った。
1年足らずで出羽国(でわ/山形県)の庄内の領地を越後国(新潟県)の本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)に侵略された最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に豊臣政権の“惣無事令”(そうぶじれい)に違反として訴え出た。
しかし、本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)と上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と大宝寺義勝(だいほうじよしかつ/本庄→上杉)が、先に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に根回しをしており、この訴えは覆(くつがえ)る事は無かった。
この事が最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対する大きな遺恨(いこん)を残す事となる。
1594年に亡き伊達輝宗(だててるむね/伊達)の妻として嫁いでいた妹の義姫(よしひめ/最上→伊達)が伊達家を出奔(しゅっぽん)して、兄の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が居城する出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に帰って来る。
この伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親でもある義姫(よしひめ/最上→伊達)の行動については不明な部分が多く、事の真相は定かではないが、一説には伊達氏の内紛に嫌気が差したと言われる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)が「奥州仕置」(おうしゅうしおき)の為に東北地方に滞在した事で、各地の武将と交流を持った。
その縁で最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の愛娘の駒姫(こまひめ/最上→豊臣)は、まだ10代そこそこで豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の側室に決まった。
当初は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は何度も断っていたが、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の不屈の求婚で縁談がまとまった経緯(いきさつ)がある。
しかし、駒姫(こまひめ/最上→豊臣)が出羽国(でわ/山形県)から京都に嫁入りした数日後に、1595年に偽装の謀反(むほん)で豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)は高野山の青巌寺(せいがんじ/金剛峯寺)で自決し、その妻や子供などの家族39人も、京都の三条河原で斬首され、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)と共に晒し首(さらしくび)にされたが、その内の1人が駒姫(こまひめ/最上→豊臣)だった。
その凄惨(せいさん)で悲運な亡骸(なきがら)は、鴨川に掛かる三条大橋の西側に建立された瑞泉寺(ずいせんじ/三条)に弔われており、その直(す)ぐ南東側に建つ先斗町歌舞練場(ぽんとちょうかぶれんじょう)では、舞妓はぁんや芸妓はぁんが“鴨川をどり”のお稽古に励(はげ)んでいる。
駒姫…『お父ちゃ〜ん、怖いよぉ〜 助けてぇ〜』
豊臣介錯人…『介錯(かいしゃく)致す。 斬り捨て御免!』
バサッ バサッバサッ
駒姫…『ギャ〜〜 お父ちゃ〜ん、やられた〜〜』
ゴロン
まだ10代そこそこの駒姫(こまひめ/最上→豊臣)の亡骸(なきがら)を抱きかかえた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣氏に対する憎悪は計り知れない。
最上義光…『この恨みはらさでおくべきか! 豊臣氏めぇ、子孫7代まで呪い祟ってやるわぁい!』
そんなこんなで豊臣氏は3代で終了しました。
最上義光…『えっ!? 3代で終わり?』
1600年に起こった「会津征伐」、「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に忠誠を尽くした最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)を見れば明らかである。
紀伊国(和歌山県)の高野山の青巌寺(せいがんじ/金剛峯寺)の最寄駅は、南海ケーブル線の〈高野山駅〉から徒歩で山を登り1時間程度の距離にあり、高野山には真言宗(しんごんしゅう)の総本山の金剛峯寺(こんごうぶじ)があり、宗祖は弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい/真言宗)で、実は『筆を誤った事は、一度たりとも無いっ!』が口癖の空海(くうかい/真言宗)は今でも現存しており、御歳(おんとし)1280歳くらいで知る人ぞ知る事実である。
山城国(京都府)の京都の瑞泉寺(ずいせんじ/三条)の最寄駅は、京阪の〈三条駅〉もしくは地下鉄の〈三条京阪駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、近くにはポルトガル語に由来(ゆらい)する先斗町(ぽんとちょう)や木屋町(きやまち)の歓楽街が連なり、京都の若者はこの地で大人の階段を昇っていく。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
RANDY CRAWFORD /♪ RHYTHM OF ROMANCE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:31:27
◆◇◆其の八十三:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
畿内(きない/関西)から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の伊勢北条氏に対する「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の大号令が下り、東北地方の武将も参戦を要請されたが東北武将の対応は分かれた。
陸奥国(むつ/青森県)の津軽地方を統一を果たした“髭殿”(ひげどの)こと津軽為信(つがるためのぶ)こと大浦為信(おおうらためのぶ/大浦→豊臣→徳川)は大軍を率いて真っ先に参陣する。
ただ、大半の東北武将は参戦を見送っていた。
その反抗的な東北武将に対して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、1590年から始めた「奥州仕置」(おうしゅうしおき)で、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)の非協力的な大名や武将は領地没収の改易(かいえき)や領地削減の減封(げんぽう)に処された。
この豊臣政権の処置に対する不満が高まり、東北地方の各地で一揆や反乱が勃発する。
陸奥国(むつ/青森県)の兄の九戸政実(くのへまさざね/南部→九戸)と弟の九戸実親(くのへさねちか/南部→九戸)の九戸氏(くのへうじ)など武将は反乱を起こした。
「小田原征伐」(おだわらせいばつ)に協力的だった陸奥国(むつ/青森県)の三戸氏(さんのへうじ)の南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)の所領は安堵(あんど)されたが、この反乱の対応に追われた南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)は、息子の南部利直(なんぶとしなお/豊臣→徳川)に家督継承して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元へ援軍要請に向かわせた。
これに応えた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)を総大将に大軍を率いて奥州征伐に進撃させる。
名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)や浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)により反乱は直(す)ぐに鎮圧され、兄の九戸政実(くのへまさざね/南部→九戸)と弟の九戸実親(くのへさねちか/南部→九戸)の九戸氏(くのへうじ)など謀反人は全員が斬首された。
これを「九戸政実の乱」(くのへまさざねのらん)と呼ぶ。
「小田原征伐」(おだわらせいばつ)に参戦しなかった葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)は、領地没収の改易(かいえき)になった事で同じく反乱を起こした。
伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は配下でもあった葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)の反乱を鎮圧する。
花巻城(はなまきじょう)の城主で稗貫輝時(ひえぬきてるとき/斯波→稗貫)の養子の稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)や、 二子城(ふたごじょう/北上)の城主で稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)の兄弟の和賀義忠(わがよしただ/和賀)も領地没収の改易(かいえき)となり反乱を起こした。
名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)と和賀義忠(わがよしただ/和賀)の兄弟軍を直(す)ぐに鎮圧した。
鍋倉城(なべくらじょう/遠野)の城主の阿曽沼広郷(あそぬまひろさと/阿曽沼)は南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)に臣従(しんじゅう)する事で領土を失う。
陸奥国(むつ/福島県)では16代当主の相馬義胤(そうまよしたね/相馬)、17代当主の岩城常隆(いわきつねたか/岩城)は所領を安堵された。
一方で田村宗顕(たむらむねあき/田村)、小峰義親(こみねよしちか/白河→伊達)、石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)は領地没収の改易(かいえき)となった。
代わりに名将と呼ばれる蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が黒川城(会津若松城/鶴ヶ城)の城主となり、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)も会津藩の藩主となる。
豊臣政権から東北地方に送り込まれた大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)は、“太閤検地”(たいこうけんち)や“刀狩”(かたながり)を実施した。
この豊臣政権の処置に対する不満が高まり、東北地方の各地で一揆や反乱が勃発する。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を奥州征伐に進撃させる。
上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)や島津長沼氏で長沼城(ながぬまじょう/長野)の城主の島津忠直(しまづただなお/上杉)を家臣に従えて、反抗する一揆勢力をことごとく鎮圧した。
戦後処理として、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は所領を安堵(あんど)された。
そして本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)と大宝寺義勝(だいほうじよしかつ/本庄→上杉)は領地没収の改易(かいえき)となった。
出羽国(でわ/秋田県)の戦後処理として小野寺義道(おのでらよしみち/豊臣)は領地削減の減封(げんぽう)に処された。
一方で協力的だった秋田実季(あきたさねすえ/豊臣→徳川)と戸沢政盛(とざわまさもり/徳川)は所領を安堵(あんど)された。
浅利勝頼(あさりかつより/浅利)の息子の浅利頼平(あさりよりひら/浅利)が死去すると秋田実季(あきたさねすえ/豊臣→徳川)の領土に組み込まれた。
「奥州仕置」(おうしゅうしおき)で大活躍した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)から、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の領域だった出羽国(でわ/山形県)の米沢城に領地移転の転封(てんぽう)となる。
これが後々の「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)につながっていく。
陸奥国(むつ/岩手県)の花巻城(はなまきじょう)の最寄駅は、JRの〈花巻駅〉(はなまきえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、いわて花巻空港からも徒歩圏内ですが、ただ、この地は岩手県花巻市の童話作家である宮沢賢治(みやざわけんじ/詩人)の出身である為に、銀河鉄道に乗って夜空を楽しみながら宮沢賢治(みやざわけんじ/詩人)に想いを馳(は)せるのが旅人の流儀である。
陸奥国(むつ/岩手県)の二子城(ふたごじょう/北上)の最寄駅は、JRの〈村崎野駅〉(むらさきのえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、北上川(きたがみがわ)の川岸に建つ二子城(ふたごじょう/北上)は陸奥国(むつ/岩手県)と出羽国(でわ/山形県)の山脈に挟まれた細長い地形で、戦国時代なら非常に攻めにくい地形だと解るが、現代では自然の優しさと厳しさが同居した土地柄と解る。
“仏乃国”(ほとけのくに)と呼ばれる象徴すべき環境が備わっています。
陸奥国(むつ/岩手県)の鍋倉城(なべくらじょう/遠野)の最寄駅は、JRの〈遠野駅〉(とおのえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、花巻城(はなまきじょう)や二子城(ふたごじょう/北上)からリアス式海岸が特徴の三陸海岸に向かう山間部に建つのが鍋倉城(なべくらじょう/遠野)で、悟(さと)りの境地を体感したい修行僧な方にはお薦めです。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
LUTHER VANDROSS /♪ POWER OF LOVE(LOVE POWER)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:32:22
◆◇◆其の八十四:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
古墳時代から幾度と実戦されていた朝鮮出兵。
この戦国時代にも実践されている。
この朝鮮出兵だが、一般的に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)を侵略して植民地化する計画だったと教えられているが、それは全くのデタラメである。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)にとって朝鮮半島は進軍の通り道に過ぎず、真の目的は中国大陸の明(みん)であり、最終的にはロシアからヨーロッパまでを領国にする世界征服である。
この壮大な構想は、織田信長(おだのぶなが/織田)が近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)の天守閣から、琵琶湖を望みながら思い描いた構想でもある。
その信長殿下の横には、地球儀がクルクルと回っていた。
1590年に相模国(神奈川県)で起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)で、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)を自害に追い込み、その息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に降伏させ感服(かんぷく)させ、その後、東北地方の反抗する武将を征伐し鎮圧した「奥州仕置」(おうしゅうしおき)により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は“天下統一”を果たした。
これで日本には合戦の無い、みんなが仲良しこよしの平和な時代が到来したが、ただ、それにより大きな問題も発生した。
戦(いくさ)を仕事にしていた武士と、領国統治と領土拡大させてきた武将の、役割と出番が無くなった事である。
この問題は織田信長(おだのぶなが/織田)も見据えていた為に、当然に直参(じきさん)家臣の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の頭にもプログラムされている。
この動機が朝鮮出兵であり、世界統一である。
要は日本で活躍していた武将と武士を海外移住させて、今まで通りの職務に就いてもらい、領土拡大と合戦に従事してもらう。
現代でも、日本の工場を海外移転させる発想と同じである。
こうして1591年に勇猛果敢な名門武将を集合させて、朝鮮半島に向けて肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)を築城し、30万人の軍隊を配備する。
この時期の中国大陸の明(みん)と朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)は、朝貢(ちょうこう)と冊封(さくほう)を実施する主従関係が成立していた。
肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)から軍艦で出陣した加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、毛利勝信(もうりかつのぶ/豊臣)、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の名だたる武将が率いる日本軍の15万人の軍勢。
これに対して李氏朝鮮(りしちょうせん)の将軍の元均(ウォンギュン/朝鮮)、水軍の将軍の李舜臣(イスンシン/朝鮮)、水軍の武将の李億祺(イオッキ/朝鮮)は、朝鮮半島の南側で軍艦を配備して徹底抗戦の構えを見せていた朝鮮軍。
しかし、日本軍の総攻撃で朝鮮軍は惨敗して、朝鮮半島に上陸を許してしまう。
その後は、各武将が四方八方に進軍して、李氏朝鮮(りしちょうせん)の首都でもある漢城府(かんじょうふ/ソウル)を包囲した。
序盤は連戦連勝だった日本軍だが、慣れない土地と軍力を分散させた事により劣勢になる。
最大の問題が日本から補給される兵糧で、日本軍の全軍に行き渡らせる流通経路を朝鮮軍に分断され、日本軍の食糧が滞る様になる。
朝鮮水軍の将軍の李舜臣(イスンシン/朝鮮)によるゲリラ戦術で、日本軍の補給船が次々と撃沈された事も痛手となる。
日本軍は朝鮮半島の北部にある平壌(ピョンヤン)に進軍を始めたが、途中の山岳地帯に潜む朝鮮軍のゲリラ部隊に行く手を阻(はば)まれる。
しかし、日本軍の大軍の前では多勢に無勢で、平壌(ピョンヤン)は落城して李氏朝鮮(りしちょうせん)の皇族は加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)によって捕獲される。
ここで日本の本気度を悟った中国大陸の明(みん)の皇帝である万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)が、ようやく朝鮮半島に将軍の李如松(りじょしょう/明)が率いる明軍を侵攻させるが、時既(ときすで)に遅し。
勝戦気分で高揚する荒ぶる日本軍の武士に対して、明軍はことごとく討ち破られ大敗する。
これにより日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と、明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)は和平交渉の準備に取り掛かる。
その交渉代表者が、日本軍は肥後国(熊本県)の武将で宇土城(うとじょう)の城主でもある小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)で、中国大陸の明軍は使節の沈惟敬(しんいけい/明)だった。
この人選が大きな問題を引き起こす事になる。
これを1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と呼ぶ。
肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)の最寄駅は、JRの〈西唐津駅〉(にしからつえき)から徒歩で3時間程度の距離にあり、玄界灘(げんかいなだ)を泳いで壱岐島(いきのしま)や対馬島(つしまとう)にも何とか渡れ、鎌倉時代の1274年に起こった「文永の役」(ぶんえいのえき)または第1次の元寇(げんこう/蒙古襲来)や1281年に起こった「弘安の役」(こうあんのえき)または第2次の元寇(げんこう/蒙古襲来)にて、奇襲を掛けてきた蒙古軍に対して鎌倉軍が抗戦した地でもあり、国外防衛地域として重要な拠点でもある。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
MAZE FEAT.FRANKIE BEVERLY /♪ THE LOOK IN YOUR EYES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:33:15
◆◇◆其の八十五:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
1593年に日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)は、和平交渉の為に戦(いくさ)を停戦する。
その交渉役は、日本軍は肥後国(熊本県)の武将で宇土城(うとじょう)の城主でもある小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)で、中国大陸の明軍は使節の沈惟敬(しんいけい/明)が担った。
ところが、お互いの主君の言い分に和平交渉は困難を極める。
日本では・・・
豊臣秀吉…『朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)と中国大陸の明(みん)を討ち負かしたのは日本軍、明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)が恭順(きょうじゅん)するのは当然で御座る。』
小西行長…『はぁ。』
明(みん)では・・・
万暦帝…『海を渡って来た日本軍は、朝鮮軍と明軍の連合軍に大苦戦した挙句(あげく)に撤退したので、日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は恭順(きょうじゅん)する意思を表する必要がある。』
沈惟敬…『はぁ。』
こうした主君の条件を心に秘めて、李氏朝鮮(りしちょうせん)の首都でもある漢城府(かんじょうふ/ソウル)で和平交渉を開始した。
日本軍の和平条件は、朝鮮半島の領土割譲と明皇帝の娘を日本へ嫁入りする事。
明軍の和平条件は、日本軍の朝鮮半島からの撤退と日本の明(みん)へ臣従(しんじゅう)する事。
小西行長…『お互いの和平条件が全然にズレている。』
沈惟敬…『困ったなぁ〜 どうする?』
李舜臣…『世間知らずの主君を持つと家臣が大変なのは、どの国の共通事項であるなぁ。 まぁ、朝鮮地酒のマッコリでも呑んでくれぇ。』
こうして李氏朝鮮(りしちょうせん)の水軍の将軍の李舜臣(イスンシン/朝鮮)により漢城府(かんじょうふ/ソウル)を観光案内され、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)と沈惟敬(しんいけい/明)は嫌な事を全て忘れて夜の東大門(トンデムン)で羽目を外(はず)しまくった。
韓国式キャバレーで年季の入った熟女ホステスを相手に、キムチを摘(つま)み眞露(ジンロ)を呑みなが思いついた妙案が、これだっ!
日本では・・・
小西行長…『殿、明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)が日本に恭順(きょうじゅん)する意向を記載した国書を賜(たまわ)ってきました。』
豊臣秀吉…『そうか、そうか、でかしたぞぉ!』
明(みん)では・・・
沈惟敬…『陛下、日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は恭順(きょうじゅん)する意向を記載した国書を賜(たまわ)ってきました。』
万暦帝…『そうか、そうか、オホッホッホッ〜』
そうです。
妙案とは、お互いの国書を自国に都合の良い様に書き換えて、欺瞞(ぎまん)国書を作成する事であった。
小学生が出来の悪いテストの10点を、“0”と“点”の間にもう1つ“0”を加えて100点にする様なものである。
こんな小細工は、直(す)ぐにお母さんにバレる。
日本では・・・
豊臣秀吉…『この国書はウソだらけやぁないかぁ〜! お前みたいな奴は切腹せぇ〜〜い!』
小西行長…『ひぃ〜〜 すみませ〜〜ん。』
明(みん)では・・・
万暦帝…『この国書はウソだらけやぁないかぁ〜! お前みたいな奴は打首じゃ〜〜い!』
沈惟敬…『ひぃ〜〜 すみませ〜〜ん。』
こうして、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は白装束に着替えて切腹するつもりだったが、石田三成(いしだみつなり/豊臣)と前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)などが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して助命嘆願してくれたお陰で命だけは取られなかったが、領国の肥後国(熊本県)南部は領地没収の改易(かいえき)となった。
一方、明(みん)の使節の沈惟敬(しんいけい/明)は、後々に斬首されて死去してしまった。
この度(たび)は、ご冥福(めいふく/死後幸福)をお祈りします。
肥後国(熊本県)の宇土城(うとじょう)の最寄駅は、JRの〈緑川駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、有明海や天草への入口に位置しており、鎌倉時代末期に活躍した武将の菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)や第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)の息子で征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)と呼ばれた懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)の所縁(ゆかり)の地でもある。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
TONY ORLANDO & DAWN /♪ HE DON'T LOVE YOU(LIKE I LOVE YOU)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:34:09
◆◇◆其の八十六:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
朝鮮出兵の一時停戦している間に、日本の豊臣政権かつ豊臣家は激変していた。
子供が出来ない体質と言われた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、神の御加護なのか側室の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)との間に、1593年に次男の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が誕生した。
次男と記載したのは、少し前にも長男となる豊臣鶴松(とよとみつるまつ/豊臣)が誕生していたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の正妻であるおね(高台院、北政所/織田→豊臣)に赤子を預けたところ、豊臣鶴松(とよとみつるまつ/豊臣)は死去してしまった。
この早世は謎のままである。
豊臣秀吉…『うううっ、あんなに元気だったのにぃ・・・』
おね…『あんた、残念だったわねぇ。』
こんな経緯(いきさつ)があった為に、世継ぎとなる豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の誕生は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)は大いに喜び、大いに期待し、大いに警戒した。
ここで豊臣政権の問題となったのが、天皇の政治を補佐する関白(かんぱく)の地位に就任していた世継候補者だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の存在である。
豊臣秀吉…『困ったなぁ〜 豊臣秀次に世継後継者の約束をしてしまったからなぁ〜』
淀君…『殺(や)っちゃいな。』
豊臣秀吉…『さすが織田信長殿の血筋、お主は恐ろしい事を言うなぁ〜』
こうして豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)は、紀伊国(和歌山県)の高野山に籠(こも)り、野心の無い事を表顕(ひょうけん)した。
そして京都の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)の圧力が掛かり、1595年に豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)は高野山の青巌寺(せいがんじ/金剛峯寺)にて27歳の若さで自害する。
豊臣秀吉…『一応に豊臣秀次も親族だから、可哀想な事をしたのぉ〜』
淀君…『あんたぁ、豊臣秀次の妻や子供達も、相続権や遺族年金の云々(うんぬん)って主張するかも知れないから、面倒を起こされる前の今のうちに、殺(や)っちゃいな。』
豊臣秀吉…『あの清楚で容姿端麗な“小牧山の美女”と言われたお市の方の娘とは思えない程の冷酷さやぁのぉ〜』
この豊臣政権の方針により、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の妻や子供などの家族39人が、京都の三条河原で斬首され、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)と共に晒し首(さらしくび)とされた。
その凄惨(せいさん)で悲運な亡骸(なきがら)は、鴨川に掛かる三条大橋の西側に建立された瑞泉寺(ずいせんじ/三条)に弔われており、その直(す)ぐ南東側に建つ先斗町歌舞練場(ぽんとちょうかぶれんじょう)では、舞妓はぁんや芸妓はぁんが“鴨川をどり”のお稽古に励(はげ)んでいる。
今回の教訓が、現代にも根付いている。
『母親は、息子の為なら“鬼”になる。』
この晩年の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の強迫観念と奇行は、1591年に死去した弟の豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)を失った事が大きく関係している。
豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は元々は百姓をしていたが、兄の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の投与で、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍の一員となった。
柔軟性のある調整力と温和な性格で織田軍の武士から慕われ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の出世に大きく貢献した。
7度の主君替えで有名な猛攻武将の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)も、豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)に仕えた時は出奔(しゅっぽん)しなかった逸話が残る。
織田政権から豊臣政権の時代になると豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は、大和国(奈良県)の大和郡山城(こおりやまじょう)の城主となり、和泉国(大阪府)と紀伊国(和歌山県)を併せて110万石の大大名となった。
領主となったと豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は、領国の検地や農業改革、寺院の僧兵禁止、商業や工業の促進などに尽力し、領民との関係も良好で、農民出身の知識と経験も活かされてている。
ところが1586年頃から体調を崩して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)や豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)をはじめ、多くの武将が豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の病気完治の祈願を行なっている。
しかし、その願いも叶わず1591年に豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は亡くなる。
この豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の死をきっかけに、妹の朝日姫(あさひひめ/織田→豊臣→徳川)と母親の仲(なか、天瑞院、大政所/織田→豊臣)の死も重なり豊臣政権の崩壊が始まったと言える。
逆に言えば、それくらい豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は豊臣政権を支えた有能な人材だった証(あかし)でもある。
豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が亡くなった後、大和国(奈良県)の大和郡山城(こおりやまじょう)には大量の金子(きんす)や銀子(ぎんす)が見つかり、後々の豊臣政権で必要になる軍資金を蓄財していたと見られる。
豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が生きていれば、1591年のよく解らない理由で切腹した田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)や、1595年の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の偽装謀反事件もなかったであろう。
その後、60代の高齢となった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は息子でまだ6歳の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の身を案じて、豊臣政権の盤石基盤を固める。
その方策について話し合う為に、主要な武将を山城国(京都府)の小高い丘に建つ伏見城(ふしみじょう)に呼び寄せた。
そして、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)を、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の後見人となり政権運営を補佐する“豊臣五大老”に任命した。
小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)は1597年に死去した為に、後任に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)が任命された。
次に、浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)を引続き豊臣氏に仕える重鎮家臣の“豊臣五奉行”に任命した。
これにより豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は老体に鞭(むち)を打って、最後の大仕事を仕掛ける。
豊臣秀吉…『皆(みな)の者、再び“朝鮮出兵”をして、“世界統一”を成し遂げよう!』
徳川家康…『えぇ〜!? またぁ〜?』
大和国(奈良県)の大和郡山城(こおりやまじょう)の最寄駅は、近鉄の〈近鉄郡山駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、大和郡山市は金魚も有名だが、城下町には遊郭だった川本家住宅などが多少は残っており、ただ、ここは異常に大きい現代建築物の24号線沿いに建つイオンモール大和郡山に注目したい。
多分だが、1日では回り切れないくらいの大きさである。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
TOBY BEAU /♪ MY ANGEL BABY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:35:04
◆◇◆其の八十七:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
豊臣政権の主君の無謀な政策の為に、再び肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)に集結した名だたる武将。
その主要武将は、前回の1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”にも参戦した、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)、小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の他に、新たな武将も加わった。
宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)や藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)。
織田信長(おだのぶなが/織田)から仕えている尾張国(愛知県)の海部(あま)の武将である蜂須賀正勝(はちすかまさかつ/織田→豊臣)の息子の蜂須賀家政(はちすかいえまさ/織田→豊臣→徳川)。
毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の息子の穂井田元清(ほいだもときよ/毛利)の息子で、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)の養子に入っていた毛利秀元(もうりひでもと/毛利→豊臣)。
吉川元春(きっかわもとはる/毛利)の息子の吉川広家(きっかわひろいえ/毛利→豊臣→徳川)と、1582年の「備中高松城の水攻め」での毛利軍の交渉役となった僧侶の安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)も参戦した。
そして石田三成(いしだみつなり/豊臣)は参戦せずに日本に残って、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に戦況を伝える伝令者(でんれいしゃ)に徹した。
今回の朝鮮出兵では、前回の失策を検討して作戦を改めて、朝鮮半島の全域を軍隊を別けて進軍するのではなく、南朝鮮に領土を確保してお城を築き、軍備や兵糧を確保できる体制を整えてから少しずつ北上侵攻する事とした。
日本軍は肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)から多数の軍艦で出航して、朝鮮半島南部の釜山(プサン)に上陸を試みる。
この時に李氏朝鮮(りしちょうせん)の朝鮮軍も、港湾に軍艦を並べて防衛していた。
朝鮮軍は前回にも参戦していた将軍の元均(ウォンギュン/朝鮮)と、水軍の武将の李億祺(イオッキ/朝鮮)が指揮する。
ただ、水軍の将軍だった李舜臣(イスンシン/朝鮮)は、仲の悪かった元均(ウォンギュン/朝鮮)の謀略(ぼうりゃく)や讒言(ざんげん)により軍隊から失脚していた。
そして海上で日本軍と朝鮮軍が軍艦同士で交戦し、激戦が繰り広げられ次々と炎上する船や、海に飛び込む兵士により、穏やかな海は凄惨(せいさん)な戦場と化していた。
この合戦により朝鮮軍の将軍の元均(ウォンギュン/朝鮮)と水軍の武将の李億祺(イオッキ/朝鮮)は戦死する。
これを1597年に起こった「漆川梁海戦」(しっせんりょうかいせん)と呼ぶ。
朝鮮軍の主要将軍が2人も討死した事で李氏朝鮮(りしちょうせん)は、虚偽の罪で失脚していた水軍の将軍だった李舜臣(イスンシン/朝鮮)を再び呼び戻す。
李舜臣…『この待遇、何か感じ悪いし、腑(ふ)に落ちないなぁ〜』
ただ、日本軍の勢いは止まる事を知らず、釜山(プサン)に上陸してから進撃を続けて、朝鮮半島南部の制圧を完了する。
そして、次はお城の建設を始め、先(ま)ずは蔚山城(ウルサンソン)を築き加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が居城した。
この日本軍の蔚山城(ウルサンソン)を、明軍と朝鮮軍の連合軍は5万人の軍勢で総攻撃した。
これには百戦錬磨で戦(いくさ)上手の加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)も窮地に追いやられる。
そこに黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、蜂須賀家政(はちすかいえまさ/織田→豊臣→徳川)、小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)、毛利秀元(もうりひでもと/毛利→豊臣)、吉川広家(きっかわひろいえ/毛利→豊臣→徳川)などの猛将が、2万人の軍勢を率いた援軍が駆け付ける。
これにより戦況は逆転し、明軍と朝鮮軍の連合軍は2万人の戦死者を出して敗北を来(き)す。
これを1598年に起こった「蔚山城の戦」(うるさんそんのたたかい)と呼ぶ。
ただ、日本軍にとっての大勝利でも、日本の豊臣政権にとっては暗転(あんてん)の引き金となった。
この戦(いくさ)に参戦した武将は、褒美の論功行賞を与えられるどころか、ほとんどの者が処罰を受けている。
それは、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)や毛利氏の僧侶でもある安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)、それに日本に居る伝令者(でんれいしゃ)の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して『無謀な作戦で戦(いくさ)を行ったり、軍令違反を犯した。』などの真偽の定かでない戦況を伝えていたと言う。
これが後々の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)につながる事となる。
そしてその日本では、1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう)で病気により床に伏せていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去したのである。
そんな最期(さいご)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、こんな辞世(じせい)の唄を残している。
豊臣秀吉…『♪京都にいるときゃ〜 関白(かんぱく)と呼ばれたの〜 大坂じゃ〜 太閤(たいこう)と名乗ったの〜 尾張の戦地に〜 戻ったその日から〜 あなた(織田信長)が探して〜 くれるの待つわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』
豊臣秀吉…『♪忘れた事など〜 一度もなかったわ〜 いろんな武将(徳川家康や柴田勝家)を〜 知るたびに〜 いつもこの胸〜 かすめる面影の〜 あなた(織田信長)を信じて〜 ここまで来たわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』
豊臣秀吉…『♪あなた(織田信長)の似顔を〜 指物(さしもの/旗)に書きました〜 秀吉の命と〜 書きました〜 流れ武将の〜 最後の止まり木に〜 あなた(織田信長)が止まって〜 くれるの待つわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』(♪昔の名前で出ています)
ただ、この豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去は、朝鮮半島で戦っている日本軍の武将に直(す)ぐには知らされなかった。
「蔚山城の戦」(うるさんそんのたたかい)の敗北により明軍と朝鮮軍の連合軍は10万人の軍勢を整えて、李氏朝鮮(りしちょうせん)の首都でもある漢城府(かんじょうふ/ソウル)から出陣した。
狙うは加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)が居城するそれぞれのお城である。
特に島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が守るお城には、明軍の5万人の軍勢が包囲した。
しかし、鎌倉時代から戦闘集団として鍛えられてきた島津氏であり、先(ま)ずは明軍の兵糧倉庫を焼き討ちにして長期戦を出来なくし、お城に大軍で押し寄せてくる兵士をお家芸でもある“釣り野伏せ”(つりのぶせ)で、ある一定の位置にまで来た時に隠れていた伏兵の鉄砲(火縄銃)で総攻撃を浴びせた。
しかも、お城まで辿(たど)り着けたとしても、その城郭には地雷が埋められており爆死する兵士が多発する。
これらにより明軍は3万人近い兵士が戦死した。
この戦術により、アジア大陸では“鬼島津”(おにしまづ)と呼ばれる島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の武勇伝が生まれた。
この頃になると豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の死去は日本軍に周知され、朝鮮半島から撤退し始める。
この日本軍の動きを不審に思った明軍と朝鮮軍の連合軍は追撃するも、撤退戦でも攻撃を喰らい、水軍の将軍だった李舜臣(イスンシン/朝鮮)は最後に戦死してしまう。
朝鮮での合戦で武功を証明する為に、数々の首級(しゅきゅう)を船に乗せて持って帰る訳にもいかず、討ち取った明軍の兵士の耳や鼻を削ぎ落として首級(しゅきゅう)の代わりの証(あかし)として日本に持ち帰っている。
それが納められたのが七条(しちじょう)にある豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の所縁(ゆかり)のある京都の方広寺(ほうこうじ/天台宗)に隣接する耳塚(鼻塚)である。
これを1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”と呼ぶ。
そして、豊臣政権は崩壊の兆しを見せながら「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の時流に進んでいく。
京都の耳塚(鼻塚)の最寄駅は、京阪の〈七条駅〉(しちじょうえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、周辺には平安時代末期の平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)などの平氏武家屋敷や第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷)の屋敷に建造された三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)、それに鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)など、とても記述できない程の遺跡や史跡がてんこ盛りである。
山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう)の最寄駅は、JRの〈桃山駅〉をはじめ近鉄の〈桃山御陵前駅〉(ももやまごりょうまええき)もしくは京阪の〈伏見桃山駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、明治期の1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦となった「鳥羽伏見の戦」の戦地がこの辺りで、日本料理屋の魚三楼(うおさぶろう)の建物にはその戦乱時の弾痕が残り、戦国から幕末までの動乱に想いを馳(は)せながら、駅前の中華料理のくれたけで担々麺を食するのが歴史家の礼儀である。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
BOB WELCH /♪ SENTIMENTAL LADY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:36:02
◆◇◆其の八十八:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
1598年に山城国(京都府)の小高い丘に建つ伏見城(ふしみじょう)にて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去すると、豊臣政権の家督後継者は息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が就いた。
ただ、この時の息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)はまだ幼かった為に、政権運営を補佐する“豊臣五大老”と豊臣氏に仕える重鎮家臣の“豊臣五奉行”が、合議制により実質的に豊臣政権を司った。
“豊臣五大老”には戦国大名の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)が就いた。
“豊臣五奉行”には豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣だった浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)が就いた。
戦国の戦地を切り抜けてきた猛攻武将がこれだけ揃うと、合議制とは言え当然に意見や方針の相違から不協和音が早くから見られた。
特にこの10人の内、織田信長(おだのぶなが/織田)が現役バリバリの時代から共に戦ってきた三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と“ツッパリの利家”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の存在感は大きかった。
この2人の危険で微妙なバランスが、良くも悪くも豊臣政権の平定を保つ事ができていた。
ただし、この間にも徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が生前に取り決めた大名同士の縁戚禁止を反故(ほご)して、息子の徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)と伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の娘の五郎八姫(いろはひめ/伊達→徳川)を結婚させている。
それ以外でも、織田信長(おだのぶなが/織田)の乳兄弟だった池田恒興(いけだつねおき/織田)の息子の池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、浅井長政(あざいながまさ/浅井)や豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の家臣で猛攻武将の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣だった“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と呼ばれた加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)などを徳川派閥に引き入れて勢力を拡大させていった。
そんな1599年に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が死去すると事態は一転する。
用意周到に組織形成を構築していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が、豊臣政権の中でも抜きん出たのは明らかである。
残された豊臣派閥は、“豊臣五大老”の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)と、“豊臣五奉行”の浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)の8人だが、実力も勢力も徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川派閥には遠く及ばない。
そんな不安定な豊臣政権の隙を突いて、武断派(ぶだんは)と呼ばれる武将が行動を起こした。
目的は文治派(ぶんちは)と呼ばれる石田三成(いしだみつなり/豊臣)の成敗である。
理由は1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”にて、朝鮮半島に赴(おもむ)く事なく石田三成(いしだみつなり/豊臣)が戦地の状況を汲み取らず、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に不利な戦況報告をしていた事が挙げられる。
これにより朝鮮半島で戦っている武断派(ぶだんは)の武将は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に処罰や叱責(しっせき)を受けている。
この反乱を起こした武断派(ぶだんは)の武将には、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)の“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)と池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)の息子の細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)、浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)の息子の浅野幸長(あさのよしなが/豊臣→徳川)の7人が揃っていた。
また、“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)の脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ/織田→豊臣)の息子の蜂須賀家政(はちすかいえまさ/織田→豊臣→徳川)、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)も参加していたと言われる。
反乱は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の武家屋敷にて、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の葬儀に参列する石田三成(いしだみつなり/豊臣)を襲撃して討ち取る計画だった。
ところが襲撃計画が事前に石田三成(いしだみつなり/豊臣)に知られ、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう)に逃亡されて失敗に終わる。
武断派(ぶだんは)は京街道を上り山城国(京都府)まで侵攻して伏見城(ふしみじょう)を包囲した。
この時、伏見城(ふしみじょう)の近くの向島城(むかいじまじょう)に居た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が事態に気付き抗争の仲裁に入る。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、石田三成(いしだみつなり/豊臣)に対して豊臣政権の役職を引退して、領国の近江国(滋賀県)の佐和山城(さわやまじょう/彦根)にて蟄居(ちっきょ)する様に薦める。
これを完全に納得はしてないものの、石田三成(いしだみつなり/豊臣)と武断派(ぶだんは)の武将は承諾した。
これを1599年に起こった「七将襲撃事件」(しちしょうしゅうげきじけん)と呼ぶ。
この石田三成(いしだみつなり/豊臣)の排斥(はいせき)により、豊臣派閥は完全に瓦解(がかい)する。
近江国(滋賀県)の佐和山城(さわやまじょう/彦根)の最寄駅は、JRと近江鉄道の〈彦根駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後に“赤備え”(あかぞなえ)の甲冑(かっちゅう)で軍隊を率いる“徳川四天王”で“赤鬼”の異名を持つ井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)が入城したが、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の居城だった事を嫌い、息子の井伊直勝(いいなおかつ/徳川)の時に、その真向かいに彦根城(ひこねじょう)を築城した経緯(いきさつ)がある。
山城国(京都府)の向島城(むかいじまじょう)の最寄駅は、京阪の〈観月橋駅〉(かんげつきょうえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、宇治川の南詰にある向島城(むかいじまじょう)は当初は巨大な巨椋池(おぐらいけ)に浮かぶ島に築城された水城であり、現在は巨椋池(おぐらいけ)は埋立てられ新田開発を経て、現代は向島ニュータウンが造成されて巨大な高層マンションが建ち並んでいる。
向島ニュータウンは、京都で一番と言われるお洒落な街区で構成され、都人(みやこびと)の憧れの街でもある。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
NICK DECARO /♪ ALL I WANT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:36:59
◆◇◆其の八十九:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
豊臣政権にて完全に権力を掌握した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は政権奪取にようやく動き出す。
ターゲットは安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、加賀国(石川県)の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の家督継承した息子の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)、陸奥国(むつ/福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)である。
先(ま)ずは小手先に加賀国(石川県)の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を突いた。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は自身を暗殺する計画を企てたとして、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を討伐すると通告した。
徳川家康…『利長殿よぉ、わしぃを暗殺しようとしたなぁ! 証拠は揃っておるぞぉ!』
前田利長…『ええっ〜!? 何でバレたのぉ〜? 極秘に計画したのに、おかしいなぁ〜?』
徳川家康…『えっ!? 暗殺計画は本当だったのぉ!?』
前田利長…『すみませんでしたぁ! お詫びに母親のまつ(芳春院/織田→豊臣)を人質に差し出します。』
まつ…『家康殿、お久しぶりですわねぇ。 尾張国(愛知県)の時の昔話でもしましょうねぇ。』
徳川家康…『えっ? あっ、はい。』
こうして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を徳川派閥に取り入れた。
次なるターゲットは、陸奥国(むつ/福島県)の会津を領土とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)に謀反の疑いを掛けて討伐を仕掛ける。
上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に対して、京都に上洛する様に命令を下すも、これを2人は拒否する。
しかも直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を批判する“直江状”(なおえじょう)なる物が出回り、これを見た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は激怒する。
そこで上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)の為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊の大軍を進軍させる。
東北地方の入口にもあたる下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮城(亀ヶ岡城)には、息子の結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)を居城させた。
結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)とは、下総国(しもうさ/千葉県・茨城県)の武将の結城晴朝(ゆうきはるとも/豊臣→徳川)に養子に入っていた子供である。
この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の動きに乗じて、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)に居城していた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の所領だった陸奥国(むつ/宮城県)の白石城(しろいしじょう/刈田)に侵攻を開始した。
これ対して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)も上杉軍を派遣して攻防するも、元々は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の領土だった白石城(しろいしじょう/刈田)だった為に、上杉軍は領民の激しい抵抗で奪還を失敗する。
ただ、この時期に“豊臣五奉行”の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が西軍の総大将に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を就任させて挙兵した。
この時、徳川派閥に属してきた越前国(福井県)の敦賀城の城主である大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)は、親友だった石田三成(いしだみつなり/豊臣)に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を討伐する話しを聞かされ、主君と親友の何方(どちら)を選択するか思い悩んだ上で、親友の石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍に就く事を決める。
上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍が下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮の手前の小山(おやま)に滞在した際に、畿内(きない/関西)で石田三成(いしだみつなり/豊臣)が挙兵した事の知らせが入る。
この時点で徳川軍は、陸奥国(むつ/福島県)の会津を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の上杉軍と、畿内(きない/関西)を拠点とする石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍に挟まれる危機的な状況に陥る。
そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は軍議を開催して、同行する武将の意見を聞いた。
この時、参陣していた武将は、池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)、細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、浅野幸長(あさのよしなが/豊臣→徳川)、京極高知(きょうごくたかとも/豊臣→徳川)など錚々(そうそう)たる猛者である。
徳川家康…『西国で石田三成が挙兵して徳川軍に侵攻する知らせが入った。 現状では上杉軍と西軍に挟み討ちにされる可能性がある。 このまま東方に侵攻して上杉軍と交戦するか、また、西方に引き返して西軍と交戦するか、判断の別れる所である。 戦国を戦い抜いてきた百戦錬磨の武将の意見を聞きたい。』
福島正則…『三成めぇ! 何処(どこ)まで豊臣秀吉殿の意志の邪魔をするかぁ!』
黒田長政…『戦術で背後を侵攻され勝利した軍勢は皆無(かいむ)であります。 上杉軍への交戦は出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)で布陣する最上義光殿と陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)で布陣する伊達政宗殿に任せて、我々の徳川軍は西国の石田三成殿が率いる西軍と交戦すべきです。』
この軍議の決定により進路を反転して西側に引き返して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が東海道を、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊が中山道(なかせんどう)を侵攻する事になった。
徳川家康…『ただ、我々の徳川軍も、石田三成殿が率いる西軍も、亡き豊臣秀吉殿の意志を引き継ぎ豊臣秀頼殿を支えると言う大義は同じである。 この徳川軍の中にも秀吉殿の恩義を感じている武将も多いはず。 もし、西軍に就きたいとあらば、遠慮なく石田三成殿の元に行っても構わないぞぉ!』
福島正則…『いやぁ、私は徳川家康殿に従います。』
黒田長政…『私も徳川軍の為に、全力を尽くす。』
池田輝政…『私も同感であります。』
細川忠興…『拙者(せっしゃ)も徳川家康殿に着いて行きますぞぉ。』
浅野幸長…『三河国(愛知県)の八丁味噌が大好きな私も徳川軍に従軍致す。』
京極高知…『俺も“やっさん”と共に闘うぜぇ!』
徳川家康…『お前に“やっさん”と言われる覚えは無い!』
山内一豊…『私は東海道の道中に建つ遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)を徳川軍の陣営として提供致す!』
徳川家康…『おおっ! これは辱(かたじけな)い。 皆の想いが1つならば、この軍勢は徳川軍ではなく、東軍に改める事にする。』
これを1600年に開催した「小山評定」(おやまひょうじょう)と呼ぶ。
こうして東軍は西軍と交戦する為に、西国に侵攻する事になった。
陸奥国(むつ/宮城県)の白石城(しろいしじょう/刈田)の最寄駅は、JRの〈白石駅〉(しろいしえき)もしくは新幹線の〈白石蔵王駅〉(しろいしざおうえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、陸奥国(むつ/福島県)と出羽国(でわ/山形県)の国境に位置する白石城(しろいしじょう/刈田)は重要な防衛拠点だった事が解り、そこから山に登るとキツネ村もあり、たくさんの可愛い狐(キツネ)が迎えてくれますが、中には狐(キツネ)っぽい犬(イヌ)も混じっているので探してみて下さい。
キツネ村のルールとして、狐(キツネ)を呼ぶときは『ル〜ルルルル』(五郎さんバージョンと螢バージョンがあります。)でお願いします。
下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮城(亀ヶ岡城)の最寄駅は、東武の〈東武宇都宮駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、JRと新幹線の〈宇都宮駅〉から西方へ真っ直ぐ延びる大通沿いにある宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ)が有名で、現在では東方に路面電車の宇都宮ライトレールが開通した為に利便性が向上しています。
下野国(しもつけ/栃木県)の「小山評定」(おやまひょうじょう)を開催した跡地の最寄駅は、JRと新幹線の〈小山駅〉(おやまえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、近くには県庁所在地でない栃木県栃木市もあり、その山奥に進めば徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が祭神として祀られる日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)もあります。
「小山評定」(おやまひょうじょう)の時は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も、まさか祭神となって日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)を創建するとは夢にも思っていなかったでしょうね。
遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)の最寄駅は、JRと新幹線と天竜浜名湖鉄道の〈掛川駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、天竜川と大井川の中間に位置する掛川城(かけがわじょう)は、室町時代に駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の守護代だった今川義忠(いまがわよしただ/斯波)が築城し、その妻の北川殿(きたがわどの/今川)は北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の姉で、2人の息子が今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)、そして孫が“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと/今川)となっております。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
ANDY GIBB /♪ (OUR LOVE)DON'T THROW IT ALL AWAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:37:55
◆◇◆其の九十:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊は進路を反転して西側に引き返して行く。
これにより伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と和睦して白石城(しろいしじょう/刈田)を返還してしまう。
しかし、畿内(きない/関西)の豊臣政権の混乱に乗じて直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の義理の甥にあたる前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)を従えて、2万人の上杉軍を最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の領土でもある出羽国(でわ/山形県)の畑谷城(はたやじょう/山辺)に侵攻する。
これを「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)と呼ぶ。
大軍を前に最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は撤退命令を出したが、畑谷城(はたやじょう/山辺)を守護する最上氏の家臣の江口光清(えぐちあききよ/最上)は500人の兵士と共に抗戦した。
ただ、多勢に無勢で江口光清(えぐちあききよ/最上)は敗北して討死し、畑谷城(はたやじょう/山辺)は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に占領させる。
この戦況不利により出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に居城する最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)に居城する甥の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に援軍要請をする。
最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹かつ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親で最上家に出戻りしていた義姫(よしひめ/最上→伊達)の働き掛けもあり、留守政景(るすまさかげ/伊達)が率いる3000人の兵士の伊達軍が進軍した。
留守政景(るすまさかげ/伊達)とは、伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子で留守顕宗(るすあきむね/伊達)の養子に入り、陸奥国(むつ/宮城県)の岩切城(いわきりじょう/仙台)の城主である。
この『伊達軍の援軍、直(す)ぐに来(きた)る!』の知らせは最上軍の兵士の士気(しき)を高めて、出羽国(でわ/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)を守護する最上氏の家臣の志村光安(しむらあきやす/最上)は、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の家臣の春日元忠(かすがもとただ/武田→上杉)が布陣する陣営に夜襲を掛けて勝利する。
この敗北で春日元忠(かすがもとただ/武田→上杉)は討死した。
ここで出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に居城する最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、7000人の兵士を引き連れて最上軍本隊も出陣した。
ところが、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍と石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍の合戦は、半日足らずで決着がついて「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)は東軍の勝利に終わる。
この知らせは「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)の戦場にも届き、東軍に就いていた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊は、戦況有利となり勢いに乗る。
一方、有利な情勢で進めていた西軍に就いていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が率いる上杉軍は、この時点で賊軍となり撤退を余儀なくされる。
2万人の兵士が引き上げていく上杉軍の後方部隊を担う“しんがり”は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)が務めた。
山形から長井まで続く狐越街道(きつねごえかいどう)を上杉軍は進み、途中の畑谷城(はたやじょう/山辺)に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)の“しんがり部隊”は篭城して、執拗に進撃してくる最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊に抗戦した。
直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の家臣で上杉軍の下秀久(しもひでひさ/上杉→最上)は、出羽国(でわ/山形県)の谷地城(やちじょう/河北)を守護していたが、西軍および上杉軍の敗北を知らされておらず抗戦を続けていた。
ただ、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊の総攻撃に遭い、下秀久(しもひでひさ/上杉→最上)は降伏(こうふく)して、その後は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の家臣として従属(じゅうぞく)する。
ようやく出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に帰還した直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は自害しようとするも、同友の前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)に止められる。
直江兼続…『殿、無念であった。』
グッ
前田慶次…『兼続殿、おやめなされぇ! 死ぬのはいつでもできる。 ただ、それは今ではない!』
直江兼続…『慶次殿、うっううう・・・』
前田慶次…『兼続殿には、まだやる事がある。 必ずやる事がある。』
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)かつ「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)も終わり、徳川派閥による戦後処理が行われた。
出羽国(でわ/山形県)の合戦で大活躍した最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、庄内地方まで領土を認められて加増され57万石の大名となった。
陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は目立った功績が乏しく2万石の加増で終わる。
一方、敗北した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)の会津を中心とした120万石から、領地削減の減封(げんぽう)と領地移転の転封(てんぽう)により出羽国(でわ/山形県)の米沢の30万石となった。
天下の大大名から一気に貧乏大名になった上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を支えたのは、あの重鎮家臣でもある直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)である。
陸奥国(むつ/宮城県)の岩切城(いわきりじょう/仙台)の最寄駅は、JRの〈岩切駅〉から徒歩で山に登り1時間程度の距離にあり、近くには“日本三大史跡”と言われる多賀城(たがじょう)もあり、近畿は奈良県の平城京(へいじょうきょう)と九州は福岡県の太宰府(だざいふ)の3箇所を巡れば、奈良時代にタイムトリップできます。
出羽国(でわ/山形県)の畑谷城(はたやじょう/山辺)の最寄駅は、JRの〈羽前山辺駅〉(うぜんやまべえき)から徒歩で山に登り1時間程度の距離にあり、最上氏の山形城(やまがたじょう)を見下ろす畑谷城(はたやじょう/山辺)は、隣接する越後国(新潟県)からの敵襲を知らせる役目があった。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
SPANKY & OUR GANG /♪ LIKE TO GET TO KNOW YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:38:44
◆◇◆其の九十一:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
下野国(しもつけ/栃木県)の小山(おやま)にて「小山評定」(おやまひょうじょう)の軍議の決定により、進路を反転して西側に引き返して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が東海道を、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊が中山道(なかせんどう)を侵攻する事になった。
ただ、この時点では、西軍の石田三成(いしだみつなり/豊臣)は家臣の島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)と共に、総大将に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を就任させて、安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)、島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)、織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)や、小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)、脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、朽木元綱(くつきもとつな/室町→織田→豊臣→徳川)、小川祐忠(おがわすけただ/浅井→織田→豊臣)、赤座直保(あかざなおやす/朝倉→織田→豊臣)などを陣営に引き入れている。
特に西国の毛利氏が西軍に就いた事は、東軍にとっても脅威となり見過ごす事は出来ない。
そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は側室で隠密(おんみつ)として働く阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)を交渉人(ネゴシエーター)として、東軍に就く様に説得する為に各地の武将の所に向かわせた。
阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)とは、甲斐国(山梨県)の武田氏の家臣の家に生まれ、駿河国(静岡県)の今川氏の家臣の家に嫁ぎ、文武両道の女武士で徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の教育係も兼ねていた。
東軍と西軍の戦力はほぼ互角だったが、この阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)の働きで、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西軍に勝利できる事を確信した。
下野国(しもつけ/栃木県)の小山(おやま)から武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に戻ってきた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍は、先ずは先陣として池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)などが率いる東軍先鋒隊が進軍した。
東軍先鋒隊は東海道を西方に突き進み、尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)に入城して陣営を設けた。
一方、西軍の石田三成(いしだみつなり/豊臣)と島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)は美濃国(岐阜県)の大垣城(おおがきじょう)に入城して陣営を設けた。
清洲城(きよすじょう)に布陣する東軍先鋒隊は、いくら待っても徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍本隊が到着しない事に焦(あせ)りと苛立(いらだ)ちを覚える。
福島正則…『家康殿の東軍本隊はまだなのかぁ! 我々の東軍先鋒隊だけじゃ勝ち目はないぞぉ!』
黒田長政…『いゃ、もしかしたら家康殿は我々を警戒しているのかも知れない。 元は秀吉殿の子飼い家臣である為に、いつ西軍に寝返ってもおかしくないからな。』
福島正則…『ならば、我々は揺るぎない東軍の主砲である事を証明しようじゃないかぁ!』
池田輝政…『よし! 先(ま)ずは難攻不落と言われる稲葉山(いなばやま/金華山)の岐阜城(ぎふじょう)を落として見せよう。』
こうして尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)から東軍先鋒隊から出陣し、北方に位置する美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)に侵攻した。
稲葉山(いなばやま/金華山)に建つ岐阜城(ぎふじょう)には、織田信長(おだのぶなが/織田)の孫で織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子の織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)が布陣していた。
しかし、本格的な戦(いくさ)の経験の無い織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)は、猛攻武将が揃う東軍先鋒隊の攻撃によりたったの3日余りで岐阜城(ぎふじょう)は落城した。
責任を感じた織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)は自害しようとするが、元は織田氏の家臣だった池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)により阻止された。
これを「岐阜城の戦」(ぎふじょうのたたかい)と呼ぶ。
それと並行して摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)では、“豊臣五奉行”だった長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)と前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)と増田長盛(ますだながもり/豊臣)が、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かった後に大坂城(おおさかじょう)から徳川派閥の一党を排除していた。
大坂城(おおさかじょう)を追い出された徳川派閥は、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)に入城して身を寄せた。
伏見城(ふしみじょう/京都)には、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の青年期の頃から仕えていた鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)と深溝松平氏(ふこうずまつだいらうじ/額田)の松平家忠(まつだいらいえただ/徳川)と松平近正(まつだいらちかまさ/徳川)が城代を務めていた。
この伏見城(ふしみじょう/京都)に西軍が侵攻を開始した。
この時に薩摩国(鹿児島県)から軍隊を率いた島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)と、筑前国(福岡県)から軍隊を率いた小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)は東軍に参戦する為に伏見城(ふしみじょう/京都)に訪れたが、不審に思った門番に追い返されて西軍に就いている。
島津義弘…『只今、東軍への参戦の為に、薩摩国(鹿児島県)から参った島津隊で御座る。 開門をお願い致す。』
伏見城の門番…『そんな軍隊は聞いてないぞぉ! 帰った、帰った!』
島津義弘…『ええっ〜!? 嘘(ウソ)だろぉ〜? 仕方ない、西軍に就くか。』
そして・・・
小早川秀秋…『只今、東軍への参戦の為に、筑前国(福岡県)から参った小早川隊で御座る。 開門をお願い致す。』
伏見城の門番…『そんな軍隊は聞いてないぞぉ! 帰った、帰った!』
小早川秀秋…『ええっ〜!? 嘘(ウソ)だろぉ〜? 仕方ない、取り敢えず西軍に就くか。』
伏見城(ふしみじょう/京都)に集結した西軍の宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)や小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)をはじめ、土佐国(高知県)の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/長宗我部→豊臣)や肥前国(佐賀県・長崎県)の鍋島勝茂(なべしまかつしげ/徳川)などの武将が参戦した。
当初は西軍から降伏勧告を受けていた東軍伏見隊の鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)だったが、使者を斬殺して西軍の陣営に送り返し、徹底抗戦の構えを見せた。
これにより西軍の猛攻撃を受けた伏見城(ふしみじょう/京都)は落城して、鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)をはじめ松平家忠(まつだいらいえただ/徳川)や松平近正(まつだいらちかまさ/徳川)などが討死した。
この凄惨(せいさん)な戦地となった伏見城(ふしみじょう/京都)の城内各所には、畳や床板には夥(おびただ)しい箇所の血痕が残っていたと言う。
これを「伏見城の戦」(ふしみじょうのたたかい)と呼ぶ。
美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)の最寄駅は、名鉄の〈田神駅〉(たがみえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、金華山(きんかざん/稲葉山)の麓には長良川が流れ、その川岸には城下町の川原町が整備されており、織田信長(おだのぶなが/織田)が築いた楽市楽座とまではいかないが、その雰囲気には十分に浸る事ができる。
山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)の最寄駅、JRの〈桃山駅〉をはじめ近鉄の〈桃山御陵前駅〉(ももやまごりょうまええき)もしくは京阪の〈伏見桃山駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、この伏見城(ふしみじょう/京都)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が2度に渡り築城し、その後、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が築城している。
因(ちな)みに現存している伏見城(ふしみじょう/京都)は、近鉄グループが運営していた遊園地の伏見桃山キャッスルランドの建造物で、鉄筋コンクリート造(RC造)の模擬天守閣になり、立地も含めて史実とはかけ離れていますが、一目でイメージしやすいお城は今でも伏見のランドマークである事は確かです。
伏見城(ふしみじょう/京都)の城郭には、第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の墓陵となる伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)が造営されています。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
GERARD KENNY /♪ MUSIC AND WORDS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:39:39
◆◇◆其の九十二:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)では、美濃国(岐阜県)の「岐阜城の戦」(ぎふじょうのたたかい)での勝利と、山城国(京都府)の「伏見城の戦」(ふしみじょうのたたかい)での敗北の知らせを聞いて、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が東海道を、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊が中山道(なかせんどう)を進軍した。
徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と側近の榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)と大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)が率いる3万8千人の東軍2号隊が進路とする中山道(なかせんどう)には、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)で西軍に就いた真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と息子で真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が布陣している。
甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)に仕え“武田二十四将”と言われる真田幸綱(さなだゆきつな/武田)を父親に持つ真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)もまた勇猛武将として知られた。
その息子で兄の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、“徳川四天王”と言われる本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の娘で戦闘嫁と呼ばれる小松姫(こまつひめ/徳川→真田→徳川)を妻として、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では東軍1号隊の参加して、真田氏存続のために親や兄弟と袂(たもと)を分かち、江戸幕府では松代藩(長野)の藩主として90歳まで現役として活躍する。
その弟の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)は勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将として頭角(とうかく)を表し、1614年に起こった「大坂・冬の陣」、1615年に起こった「大坂・夏の陣」では豊臣軍に味方して敗戦はするも、武士としての忠誠心と潔(いさぎよ)い散り際(ぎわ)は現代まで語り継がれる。
そんな事情の真田氏に対して東軍2号隊は、この上田城(うえだじょう)を素通りする選択肢もあったが、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)は律儀にも真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が指揮する3千人余りの西軍真田隊と交戦する。
当初は真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)も降伏勧告を受け入れる意志を表明していたが、これは戦術で時間稼ぎをする間に上田城(うえだじょう)の防御力を高めて戦闘準備に入っていた。
これに気付いた徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の東軍2号隊は、上田城(うえだじょう)に総攻撃を開始するが、彼方此方(あちらこちら)に仕掛けられている罠(トラップ)にはまり壊滅寸前にまで陥る。
これを「上田合戦」(うえだかっせん)と呼ぶ。
この合戦により時間と軍力を浪費させた上に、東軍2号隊が西方に向かう途中で、木曽路で悪天候に見舞われ進軍できなくなり、美濃国(岐阜県)で待つ徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊と合流できずに、後々に「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に参戦できなかった東軍2号隊の大将の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)と大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)は大遅刻をして、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に大目玉を食らう事になる。
これら事情から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊は、東軍2号隊を待つ事なく関ヶ原へと進軍させた。
美濃国(岐阜県)の西部に位置する関ヶ原は、北方に伊吹山(いぶきやま)、東方に南宮山(なんぐうさん)、南方に鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)、西方に今須山(いますやま)が聳(そび)える盆地となっている。
その山岳地帯を縫(ぬ)う様に東西を結ぶ中山道(なかせんどう)、北方につなぐ北国街道(ほっこくかいどう)、南方につなぐ伊勢街道(いせかいどう)が通る。
西軍は、その関ヶ原の地に複数の陣営を設けて各地の武将を布陣させ、そこから東方にある大垣城(おおがきじょう)に代表者の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が居城していた。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が進軍を開始した事を聞いた石田三成(いしだみつなり/豊臣)は関ヶ原の西方に抗戦の陣営を設けた。
北方の笹尾山(ささおやま)には石田三成(いしだみつなり/豊臣)と家臣の島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)が本陣を構えて、島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)を上側から中部までに布陣させた。
そして、脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、赤座直保(あかざなおやす/朝倉→織田→豊臣)、小川祐忠(おがわすけただ/浅井→織田→豊臣)、朽木元綱(くつきもとつな/室町→織田→豊臣→徳川)、小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)を中部から下側までに布陣させた。
それに対して東軍は、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)、本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)、京極高知(きょうごくたかとも/豊臣→徳川)が布陣し、その後方の桃配山(ももくばりやま)に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が本陣を構え、近くには山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)が布陣した。
8万人余りの西軍と7万人余りの東軍の天下分け目の大合戦。
信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)の最寄駅は、JRと新幹線と上田電鉄の〈上田駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、この中の上田電鉄は昭和期にマルシンハンバーグのCMで使用され、信濃の山脈と田園風景の中を走る古い車両が味わい深いものがあった。
また、映画の“男はつらいよ/寅次郎純情詩集”でも上田電鉄の〈別所温泉駅〉の周辺で、不始末をした寅さんを妹のさくらさんが怒りながらも迎えに来るシーンがあり、その映像の中には昭和50年代の香りが満載であるが、現在でもさほど雰囲気は変わっていない。
美濃国(岐阜県)の大垣城(おおがきじょう)の最寄駅は、JRと養老鉄道の〈大垣駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、西濃(せいのう)と言われる大垣市の周辺は飛鳥時代から西国と東国をつなぐ要所となっており、その時代による史跡や遺跡も数多くあり、飛鳥時代の672年に起こった「壬申の乱」(じんしんのらん)や鎌倉時代の1221年に起こった「承久の乱」(じょうきゅうのらん)、そして戦国時代の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)と、特に大きな合戦は必ず美濃国(岐阜県)で対戦されている。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
AARON NEVILLE /♪ YES,I LOVE YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:40:31
◆◇◆其の九十三:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
美濃国(岐阜県)の関ヶ原にて、8万人余りの西軍と7万人余りの東軍による天下分け目の大合戦が繰り広げられた。
合戦の合図の法螺貝(ほらがい)の音色が響き渡る。
ボォオ〜オ〜 ボォオ〜オ〜
両軍入り乱れての戦乱で、西軍が優勢で始まり、東軍がなんとか抗戦する。
ところがである。
南方の松尾山(まつおやま)に布陣していた西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)に襲い掛かったのである。
これぞ東軍への寝返りの合図でもあった。
これにより周囲に布陣していた西軍の脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、赤座直保(あかざなおやす/朝倉→織田→豊臣)、小川祐忠(おがわすけただ/浅井→織田→豊臣)、朽木元綱(くつきもとつな/室町→織田→豊臣→徳川)も寝返り、西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)の軍勢を包囲して壊滅させる。
この西軍の不利な戦況により、他の西軍の武士も士気が低下して、見る見る内に東軍に追い込まれていく。
結果、6時間余りで西軍は崩壊して敗北した。
西軍の代表者でもある石田三成(いしだみつなり/豊臣)は戦地から逃亡し、その家臣の島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)は混乱に乗じて行方(ゆくえ)知れずとなった。
この状況下で、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が率いる西軍島津隊は、周囲を東軍に包囲された為に撤退する事となるのだが、通常は軍勢を後退させるところを、それでは東軍に追い込まれて攻撃される為に、逆に西軍島津隊を前進させて徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が本陣を構える桃配山(ももくばりやま)の前を通過して、伊勢街道(いせかいどう)を通り撤退していった。
島津義弘…『あっ、家康殿、我々はこれで薩摩国(鹿児島県)に帰りますのでぇ。』
徳川家康…『おお〜 義弘殿、ご苦労様であった。 今、皆んなで戦勝の桃を食べておるところじゃ。 御主らも1つ桃を持って帰ってくれぇ。』
島津義弘…『あっ、済みませんねぇ〜 では、頂きます。』
徳川家康…『戦勝記念の桃だから美味しいよぉ。 家臣の分もあるから、皆んなで分けてくれ。』
島津義弘…『有難う御座います。 帰路の船で頂きます。』
徳川家康…『お〜お〜 薩摩国(鹿児島県)までの長旅になるから、気を付けて帰って下さいなぁ。』
これを“島津の退き口”(しまづののきぐち)と呼ぶ。
最初に攻撃された大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)が率いる西軍大谷隊の武士は戦地で討死した。
何とか生き残った武将の大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)は、家臣の湯浅五助(ゆあさごすけ/豊臣)に介錯(かいしゃく)を依頼して、武士らしく切腹した。
この時に大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)が湯浅五助(ゆあさごすけ/豊臣)に伝えた遺言が残る。
大谷吉継…『わしぃの首は誰にも分からぬ様に、戦地から離れた所に埋めてくれ。』
湯浅五助…『殿、分かり申した。』
大谷吉継…『では、五助よぉ、頼む。』
湯浅五助…『殿、お許し下さい。』
バサッ バサッバサッ
大谷吉継…『ウグッ。』
ゴロン
湯浅五助(ゆあさごすけ/豊臣)は介錯(かいしゃく)した場所から離れた所に、大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)の首を埋めていた。
ところが、その現場を東軍の藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)に見つかる。
藤堂高刑…『お主が埋めているのは武将の首ではないのか?』
湯浅五助…『殿の言い付けで、亡骸(なきがら)を誰にも見られたく無いとの遺言で、此処(ここ)に首を埋めておる。 恥を偲(しの)んで武士の頼み。 わしぃの首を其方(そなた)に授ける代わりに、この事は他言(たごん)しないで欲しい。』
藤堂高刑…『うむぅ・・・』
こうして藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)は湯浅五助(ゆあさごすけ/豊臣)を介錯(かいしゃく)して、その首級(しゅきゅう)を持って徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)などが首実験(くびじっけん)をしている陣営に現れた。
その時に藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)の様子がおかしい事に気付いた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、こう質問した。
徳川家康…『お主の持ってきた首級(しゅきゅう)は大谷吉継殿の家臣ではないのか? 武将の大谷吉継殿の首級(しゅきゅう)はどうした?』
藤堂高刑…『はい、実は大谷吉継殿が切腹した時に介錯(かいしゃく)した湯浅五助殿の首級(しゅきゅう)を持って来ましたが、彼との取り決めで大谷吉継殿の首を埋めた場所を明かさない武士同士の約束をしている為に、その場所を教える事はできません。』
徳川家康…『総大将のわしぃの絶対命令でもか?』
藤堂高刑…『たとえ殿下の命令でも、武士の命に代えても明かす事はできません。』
そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)の祖父にあたる藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)に説得させる様に促したが・・・
藤堂高虎…『殿、こいつが守ろうとしているのは“武士の命”と“侍の魂”です。 祖父の私が説得しても、言う事は聞かないでしょう。』
徳川家康…『そうか、分かった。』
これ以後、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は何も聞かず、藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)もお咎(とが)めなしであった。
これを1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)と呼ぶ。
後日、逃亡していた西軍の代表者でもある石田三成(いしだみつなり/豊臣)と同友の小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は、東軍の落武者狩りで捕らえられた。
京都の六条河原に連行された石田三成(いしだみつなり/豊臣)と小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は斬首され晒し首(さらしくび)となった。
西軍の代表者だった石田三成(いしだみつなり/豊臣)が後世で酷評を受けるのは、正(まさ)に関ヶ原の戦地から味方の武将や武士を残して逃亡した事であろう。
合戦の代表者なら敗戦を悟った時点で、戦地で切腹すべきであり、敵味方に関係なく武将や武士が命を落としてきた数々の戦地を乗り越えてきた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)からしたら、戦(いくさ)の大将として命を掛けなかった侍(サムライ)の有るまじきこの行為が、一番に許されなかったと推測できる。
一方で、総大将に担ぎ出され摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に布陣していた毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)も、西日本の領国を領地削減の減封(げんぽう)となり、周防国(すおう/山口県)と長門国(山口県)のみとなった。
こうして豊臣政権から徳川政権へと引き継がれていく。
美濃国(岐阜県)の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の古戦場跡地の最寄駅は、JRの〈関ヶ原駅〉から徒歩で数十分程度の範囲にあり、特に関ケ原ウォーランドは当時の戦乱を寸分の狂いなくリアルに再現しているので立ち寄ってもらいたい。
京都の六条河原の刑場跡地の最寄駅は、京阪の〈七条駅〉(しちじょうえき)から徒歩で数十分程度の鴨川の河川敷にあり、この鴨川は平安時代から三条河原から続く刑場と晒し首(さらしくび)の場所として明治初期まで利用され、数々に著名人や有名人が処刑されており、そんな流れから歌舞伎などの寄席や見世物小屋なども集まる様になり、刑場より鴨川を挟んだ反対側には遊郭の五条楽園も形成されており、古都の京都の負の遺産でもある。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
MICHAEL BOLTON /♪ YOU DON'T KNOW ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:41:27
◆◇◆其の九十四:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
1600年に美濃国(岐阜県)の関ヶ原にて、8万人余りの西軍と7万人余りの東軍による天下分け目の大合戦は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍の勝利に終わる。
ただ、この時点での政権のトップは摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に居城する豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と、傍(かたわら)に就く母親の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)である。
ただ、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)はまだ7歳の為に、当然に政権運営を担う事はできない。
そんな中で、代表権のある大名の“豊臣五大老”の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)や側用人として仕えていた“豊臣五奉行”の石田三成(いしだみつなり/豊臣)など「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の敗軍の処罰で排除されている為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が実質的に豊臣政権の実権を握る事になる。
イメージとしては傀儡(かいらい)政治を思い浮かべると解り易い。
中国大陸の清(しん)の紫禁城(しきんじょう)で、西太后(せいたいこう/女帝)が垂簾聴政(すいれんちょうせい)にて、第11代皇帝の光緒帝(こうしょてい/皇帝)や第12代皇帝(ラストエンペラー)の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)の代わりに政局を担う関係性である。
その後、武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)を拠点とした徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は京都の朝廷への働き掛けもあり、1603年に第107代天皇の後陽成天皇(ごようぜいてんのう/朝廷)から征夷大将軍の任命を受ける。
これにて江戸幕府が開設され、新しい時代の幕開けとなり、豊臣政権から徳川政権への移行が名実共に示された事になる。
ただし、この頃は江戸幕府も創成期で、世間ではまだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の面影(おもかげ)も残っており、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)を拠点とする豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)を信任していた。
この世間の風をいち早くキャッチした徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、江戸幕府を盤石(ばんじゃく)なものにするために、1605年に息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に征夷大将軍を早々に世襲してしまう。
これにより徳川氏が将軍として代々に渡り政権運営を担う事を世間にアピールした。
ただ、将軍職を徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に譲ったからといって、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は大御所となり権力を誇示し続けた。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)に移住して、ここから江戸幕府の全般を統括した。
イメージとしては天皇家の院政(いんせい)を思い浮かべると解り易い。
大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が上皇(じょうこう)で、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が天皇の様な関係性である。
その傍(かたわら)には文武両道の女武士と呼ばれ、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の側室だった阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)が、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の教育係として就いていた。
実は父親の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の親子関係は悪く、その双方の仲介をしていたのが阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)である。
征夷大将軍2代目となった徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)は武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に居城して政権を担い、老中の本多正信(ほんだまさのぶ/徳川)と大久保忠隣(おおくぼただちか/徳川)が将軍の世話役となる。
大久保忠隣(おおくぼただちか/徳川)は、“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)と言われた大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)を父親に、三河国(愛知県)の松平氏から仕える名将の大久保忠員(おおくぼただかず/松平)を祖父に持つ名門家出身の侍(サムライ)である。
徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)は江(ごう/浅井→徳川)を妻に迎え入れ、後々の征夷大将軍3代目となる徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)と、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の妻となる千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)が誕生する。
江(ごう/浅井→徳川)とは、近江国(滋賀県)の戦国武将の浅井長政(あざいながまさ/浅井)とお市の方(おいちのかた/織田→浅井)の娘で、織田信長(おだのぶなが/織田)の姪にあたり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の側室となった淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)の妹である。
一方、大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)を居城として実権を掌握し、“最愛の友”でもある本多正信(ほんだまさのぶ/徳川)の息子の本多正純(ほんだまさずみ/徳川)を大御所の世話役に抜擢する。
武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)の最寄駅は、地下鉄の〈竹橋駅〉もしくはその他大勢の駅から徒歩で数分程度の距離にあり、この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は江戸城(えどじょう)は、風水(ふうすい)や陰陽五行思想(いんようごぎょう)と、敵襲からの防御力を高めた“のノ字”の内堀(環状1号線)、外堀(環状2号線)、外苑東(環状3号線)、外苑西(環状4号線)で構成されており、特に注目頂きたいのが北東にあたる鬼門(きもん)の神田明神(かんだみょうじん)で、この神社の祭神は“武士の祖”と呼ばれる平将門(たいらまさかど/朝廷→常陸)が祀られており、特に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は神田明神(かんだみょうじん)を厚遇したと言う。
駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)の最寄駅は、静岡鉄道の〈新静岡駅〉もしくはJRと新幹線の〈静岡駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、元は駿河国(静岡県)の戦国大名である今川氏の屋敷があった場所と推測されており、天守閣も豊臣政権の時と徳川政権の時の2種類とされ、どちらも火災などにより焼失しているが、それならば天守閣を2箇所に築城する案が進行しており、静岡県民の84%の賛同は得ています。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
STEPHEN BISHOP /♪ MADGE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL
2025/03/28 (Fri) 21:42:22
◆◇◆其の九十五:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆
江戸幕府は日本列島の各所に直轄地を設けて統治した。
武蔵国(東京都)の江戸は、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が居住する江戸幕府の拠点となる。
駿河国(静岡県)の駿府は、大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が居住する江戸幕府の中枢機関となる。
伊勢国(三重県)の伊勢山田は、天照大御神(アマテラス)が祭神となる伊勢神宮の内宮(ないくう)や、豊宇気毘売神(トヨウケビメ)が祭神となる伊勢神宮の外宮(げくう)が創建される神道(しんとう)の本宮となる。
山城国(京都府)の京都は、天皇や公家が居住する朝廷の在所となる。
山城国(京都府)の伏見は、湊町でもあり伏見城(ふしみじょう/京都)と摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)とつなぐ重要拠点となる。
大和国(奈良県)の奈良は、奈良時代の都(みやこ)だった平城京を中心に寺院仏閣を保護した。
和泉国(大阪府)の堺は、物資が集積する商都の重要拠点となる。
肥前国(長崎県)の長崎は、オランダや明(みん)などとの国際貿易港として出島を築造して開港した外交拠点となる。
これ以外の地方には有力な武将や大名を配置して、鎌倉時代の領国を統治する警備拠点の守護(しゅご)と守護(しゅご)の維持費の租税を課す役所の地頭(じとう)の様な藩政を実施した。
この時に豊臣政権が行っていた荘園(しょうえん)の管理や農地の検地(けんち)などの領民管理を廃止して、基本的には領国の藩の一存で決定していく方針に変更している。
江戸時代では蝦夷国(えぞ/北海道)と琉球国(沖縄県)は日本領域ではなく外国の扱いで、江戸幕府は近隣の外国との国交にも力を入れた。
江戸幕府は直轄地の肥前国(長崎県)の長崎港や平戸港(ひらどこう)の以外に、肥前国(長崎県)の対馬島の宗義智(そうよしとし/豊臣→徳川)は朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)は琉球国(沖縄県)、蝦夷国(えぞ/北海道)の松前藩の松前慶広(まつまえよしひろ/秋田→豊臣→徳川)はアイヌなどとの貿易を認めていた。
特に中国大陸の明(みん)と朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)の関係は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が実行した1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”により悪化してた。
江戸幕府は、この両国の関係修復を試みる。
この頃の李氏朝鮮(りしちょうせん)は国内情勢が不安定で、日本との国交関係に前向きで、直(す)ぐに江戸幕府との友好条約は締結された。
一方、明(みん)は琉球国(沖縄県)を中継に国交改善を試みるも、江戸幕府の要請を琉球国(沖縄県)が拒否した。
当時、琉球国(沖縄県)は明(みん)に朝貢(ちょうこう)しており、代わりに国防や経済支援などの冊封(さくほう)を受けていた。
琉球国(沖縄県)の国王の尚寧王(しょうねいおう/琉球)は、以前から交易関係にあった中国大陸の明(みん)を重要視していた。
この琉球国(沖縄県)の態度に江戸幕府は、1609年に薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の藩主だった島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)に命じて、3000人の軍隊で琉球国(沖縄県)を攻撃させて、従属させて付庸国(ふようこく)とした。
島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)とは、戦国武将の島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)の息子で、薩摩国(鹿児島県)の守護大名の島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)の甥にあたる。
この江戸幕府の強硬策に再び不信感を抱いた中国大陸の明(みん)は、日本との国交を拒否し続けた。
伊勢国(三重県)の伊勢神宮の最寄駅は、JRと近鉄の〈伊勢市駅〉もしくは近鉄の〈宇治山田駅〉と〈五十鈴川駅〉(いすずがわえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、周辺には伊勢湾に面した鳥羽や志摩などの観光地も多く在しているが、残念なのが人気スポットだった元祖国際秘宝館(がんそこくさいひほうかん)が閉鎖された事にある。
三重テレビで放映されていたCMには胸を弾ませたヤングも多かった筈(はず)で、東海地方では元祖国際秘宝館(がんそこくさいひほうかん)の“歓迎・馬の交尾ショー”は20代の内に必ず見ておくイベントに数えられていた。
大和国(奈良県)の平城京の最寄駅は、近鉄の〈大和西大寺駅〉(やまとさいだいじえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、古都の奈良には特別に記述するまでもなく遺跡や史跡が多くあり、その中でも注視したいのが、飛鳥時代の672年に起こった「壬申の乱」(じんしんのらん)にて勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)こと第40代天皇の天武天皇(てんむてんのう)の孫で左大臣だった長屋王(ながやおう/朝廷)です。
皇族の長屋王(ながやおう/朝廷)は、公家の藤原四子(ふじわらしし)と呼ばれる南家(なんけ)の藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ/公家)、京家(きょうけ)の藤原麻呂(ふじわらまろ/公家)、北家(ほっけ)の藤原房前(ふじわらふささき/公家)、式家(しきけ)の藤原宇合(ふじわらうまかい/公家)の陰謀により家族諸共(かぞくもろとも)に暗殺された。
その凄惨(せいさん)な現場となった屋敷が、あの巨大デパートのそごう奈良店があった場所で、2000年に閉店したその後、イトーヨーカドー奈良店になるも2017年に閉店し、その双方の運命が斜陽(しゃよう)の道を辿るのを見ると、満更(まんざら)、“長屋王の祟り”も嘘(ウソ)ではない様に視(み)えてくる。
此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜
STUFF /♪ NEED SOMEBODY
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:08:02
LA BOUCHE /♪ BOLINGO (LOVE IS IN AIR)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:09:14
LETOYA FEAT.MIKE JONES,JD AND RICK ROSS /♪ TORN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:10:09
ANOTHER BAD CREATION /♪ PLAYGROUND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:11:12
310BABII /♪ SOAK CITY (DO IT)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:19:04
CHARISSE ARRINGTON /♪ Down with this
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:21:07
PURE SOUL /♪ STAIRWAY TO HEAVEN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:22:07
SPECIAL GENERATION /♪ LOVE ME JUST FOR ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:23:08
THE COMPANY /♪ THE LOVE THAT'S REAL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL
2025/03/27 (Thu) 19:24:05
ELISHA LA'VERNE /♪ DIDN'T I CRY ENOUGH
◆ラジオの友◆
【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 17:05:00
これで堂々と“いしん”を掛けてパワハラ宣言!
兵庫県民のご支持あっての公約成果です。
“ハラスメント”(不快行為)とは、悪霊や怨霊が取り憑いて心身や精神を歪(ゆが)められ、地獄に堕(お)ちていく人間が本来に持ったポテンシャルです。
綺麗事だけでは済まされない人間の本性を、ここ兵庫県から暴いていきます!
22世紀の未来に向けて、これからも兵庫県は陰湿な“虐待”や“差別”など、兵庫県民一丸となって“いしん”を掛けてドンドンと推し進めます。
【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 17:05:50
子供、こども、コドモって言えば、何でも許されると思っているお頭(つむ)の弱い大人達へ。
子供をダシにして“いしん”を込めて来場を促す卑劣な根性。
江戸時代から続く、10代の娘を遊郭に売り飛ばす大人の感覚と何ら変わりはない。
そんな愚(く)だらない人造物が無くとも、自然が広がる大地と天の恵みさえあれば、子供は愛情いっぱいにスクスクと育ちますよ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 23:53:37
先日、近隣にある河川の遊歩道で目撃した衝撃的な光景を嘘偽(うそいつわ)りなく記述しよう。
その遊歩道には70代くらいのお爺さんが散歩しており、時折、河川を眺めていた。
その川には鴨(カモ)や鷺(サギ)などの鳥がよく集まっており、そのお爺さんも鳥を見ている様子だった。
その次の瞬間、川岸に落ちている大きめの石を拾い上げると、川で水遊びしている鳥に目掛けてぶつけているではないか!
はっきり言って、ショッキングな出来事である。
川辺の鳥たちも驚いて飛んで行ってしまった。
ただ、これも人間の側面である。
誰も見ていないところで犯罪行為に手を染める。
人間が定めた法律の線引きにより逮捕されるかされないかで分別されるが、地球規模で観れば同じ人種には違いない。
実は、この様な光景を見たのは2回目である。
前回もお爺さんだったが、それは河川に住み着いたヌーちゃん(ヌートリア)で、2匹の子供が川岸の草場で遊んでいるところに、お爺さんがヌーちゃん(ヌートリア)を目掛けて石を何度もぶつけていた。
ただ、お爺さんのコントロールでは、すばしっこいヌーちゃん(ヌートリア)に命中する筈もなく、草中の住処(すみか)に消えて行った。
この2人のお爺さんの真意は解らないが、ただ、正義をかざして害的動物を駆除しているつもりなのか?
こう言う感覚の人種は多い。
確かに自分にとって不必要なモノや理解できないコトなどを排除する気持ちは、大なり小なり誰にでもある。
ならば、天界の神様により、この宇宙、この地球の害的動物でもある人間を、正義をかざして駆除して地獄に堕とす事の大義や正義も認められる事になる。
因みに小動物に石をぶつけていた2人のお爺さんに対して、天界の神様に『あの老害2人は地獄堕ちで決定です。』と伝えておいた。