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今日の1枚、お薦めレコード/20250401 - ラジオの友 URL

2025/04/01 (Tue) 19:48:12

BEATLES /♪ I'M DOWN

◆ラジオの友◆

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2025/04/01 (Tue) 21:34:06

FINE YOUNG CANNIBALS /♪ GOOD THING

◆ラジオの友◆

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2025/04/01 (Tue) 21:35:01

NOEL GALLAGHER'S HIGH FLYING BIRDS /♪ AKA...WHAT A LIFE!

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2025/04/01 (Tue) 21:35:54

BECK /♪ BLUE MOON

◆ラジオの友◆

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2025/04/01 (Tue) 21:36:52

POST MALONE /♪ SPEEDOMETER

◆ラジオの友◆

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2025/04/01 (Tue) 21:37:43

ROBERTA FLACK /♪ OASIS

◆ラジオの友◆

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2025/04/01 (Tue) 21:38:34

BRUCE SPRINGSTEEN /♪ STREETS OF PHILADELPHIA

◆ラジオの友◆

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2025/04/01 (Tue) 21:40:02

MAUREEN MCGOVERN /♪ THE MORNING AFTER

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2025/04/01 (Tue) 21:40:53

RASPBERRIES FEAT.ERIC CARMEN /♪ STARTING OVER

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2025/04/01 (Tue) 21:41:49

LIONEL RICHIE /♪ LOVE WILL CONQUER ALL

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■当サイトを閲覧するにあたり/20250329 - ラジオの友 URL

2025/03/29 (Sat) 21:58:16

閲覧者の義務として、このサイト内に掲載されている音楽の5曲以上をお好きなラジオ局にリクエストして下さい。

もし、リクエスト曲が掛かれば幸福度がアップします。

今日のラッキーソングはこれだっ!

成龍(ジャッキーチェン)/♪ 英雄故事(ポリスストーリー)

◆ラジオの友◆

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2025/03/29 (Sat) 21:33:58

THE POGUES /♪ HOW COME

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2025/03/29 (Sat) 21:35:08

THE BAND /♪ OPHELIA

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2025/03/29 (Sat) 21:37:28

THE WHO /♪ HAPPY JACK

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2025/03/29 (Sat) 21:38:20

MAGPIE SALUTE /♪ SEND ME AN OMEN

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2025/03/29 (Sat) 21:39:12

DR.HOOK /♪ WHEN YOU'RE IN LOVE WITH A BEAUTIFUL WOMAN

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2025/03/29 (Sat) 21:40:24

NRBQ /♪ ONLY YOU

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2025/03/29 (Sat) 21:41:17

COMFORT /♪ WOODSTOCK
MATTHEWS' SOUTHERN

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2025/03/29 (Sat) 21:42:10

SUPERTRAMP /♪ TAKE THE LONG WAY HOME

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2025/03/29 (Sat) 21:43:06

LUNA /♪ TIGER LILY

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2025/03/29 (Sat) 21:44:03

MASON JENNINGS /♪ FIGHTER GIRL

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2025/03/29 (Sat) 21:44:53

JASON MRAZ /♪ CURBSIDE PROPHET

◆ラジオの友◆

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2025/03/29 (Sat) 21:45:45

JASON MRAZ /♪ THE BOY'S GONE

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2025/03/29 (Sat) 21:46:38

JOHN HALL /♪ You Can Dream Of Me

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2025/03/29 (Sat) 21:47:29

THE CITY /♪ I WASN'T BORN TO FOLLOW

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2025/03/29 (Sat) 21:48:20

Setting Sun /♪ I'VE BEEN HIT

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2025/03/29 (Sat) 21:49:12

CHRIS PIERCE /♪ THE SLOW LIFE

◆ラジオの友◆

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2025/03/29 (Sat) 21:50:05

AMERICA /♪ TILL THE SUN COMES UP AGAIN

◆ラジオの友◆

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2025/03/29 (Sat) 21:51:03

TONY KOSINEC /♪ FEATHER OF A BOY

◆ラジオの友◆

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2025/03/29 (Sat) 21:52:09

THE VOGUES /♪ TURN AROUND,LOOK AT ME

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:25:58

◆◇◆其の七十七:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●陸奥国(むつ/福島県)の伊達氏

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる20万人の豊臣軍の侵攻により、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を包囲し伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は自決し、降伏した伊勢北条氏5代目は北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は助命された1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)で、ほぼ日本統一は達成された。

ただ、まだ豊臣政権は一枚岩ではなく、奥の細道の奥州では抵抗する勢力が残っていた。

特に陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)は、それぞれの地域に、それぞれの武将や国人が入り乱れて、その昔から1人の大将軍がまとめる事が困難な土地柄でもある。

そんな中でも伊達氏と蘆名氏(あしなうじ)と最上氏など東北の武家がその筆頭であろう。

伊達氏は室町時代から続く武将の名門であり、陸奥国(むつ/福島県)の伊達の梁川城(やながわじょう/伊達)を拠点とし、その後、勢力拡大と共に陸奥国(むつ/福島県)の桑折西山城(こおりにしやまじょう)や出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に移転していった。

陸奥国(むつ/福島県)の勢力地盤を固めた伊達晴宗(だてはるむね/伊達)は家督を息子の伊達輝宗(だててるむね/伊達)に継承させる。

先(ま)ず伊達輝宗(だててるむね/伊達)は、蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)と友好関係を築き、周辺の武将や国人(こくじん)の統治を強める。

出羽国(でわ/山形県)の最上義守(もがみよしもり/中野→最上)の娘で、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹の義姫(よしひめ/最上→伊達)を妻に娶(めと)る。

1567年に出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)にて、2人の息子の“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)こと伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が誕生する。

1575年に天然痘を発症して右目の視力を失う。

引っ込み思案で大人しく、隻眼(せきがん)も影響して自信が無い伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)の手配により臨済宗(りんざいしゅう)の僧侶の虎哉宗乙(こさいそういつ/僧侶)が教育係として就いた。

虎哉宗乙(こさいそういつ/僧侶)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に、900年頃の中国大陸の唐で活躍した武将の李克用(りこくよう/唐武将)の話しを聞かせた。

虎哉宗乙…『政宗よぉ、今から650年余り前に唐(とう)の猛攻武将と呼ばれた李克用(りこくよう/唐武将)を知っておるか?』

伊達政宗…『いっ、いいえ、知りません。』

虎哉宗乙…『李克用(りこくよう/唐武将)は、広大な中国大陸にその名が轟(とどろ)く程に大活躍した武将である。』

伊達政宗…『はぁ〜 そんな凄い人が僕と何の関係があるのですか?』

虎哉宗乙…『そんな英雄の李克用(りこくよう/唐武将)も、政宗と同じで隻眼(せきがん)だったんじゃ。 人々は彼の事を“独眼竜”(どくがんりゅう)と呼んだ。』

伊達政宗…『えっ!? “独眼竜”(どくがんりゅう)!?』

虎哉宗乙…『これは、どう言う意味か解るな。』

伊達政宗…『先生、僕も“独眼竜”(どくがんりゅう)の李克用(りこくよう/唐武将)の様な強くて立派な武将にして下さい!』

こんな軟弱な青年期の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)だが、後々は“東北の暴走族総長”と呼ばれる事となる。

その間も伊達輝宗(だててるむね/伊達)は、弟の石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)を石川晴光(いしかわはるみつ/石川)の養子に入れ石川氏の支配体制も整える。

沿岸部を領土とする相馬氏の15代当主の相馬盛胤(そうまもりたね/相馬)とは対立する。

一方、常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義篤(さたけよしあつ/佐竹)が陸奥国(むつ/福島県)に侵攻を開始して、白河氏の領土に入り込んできた。

白河氏の結城顕頼(ゆうきあきより/白河)や息子の結城義綱(ゆうきよしつな/白河)は、その対応に追われる。

太田城(おおたじょう/常陸)の城主で佐竹義篤(さたけよしあつ/佐竹)の息子の佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が家督を継承すると、陸奥国(むつ/福島県)に侵攻は加速する。

白河氏の結城義綱(ゆうきよしつな/白河)は家督を結城晴綱(ゆうきはるつな/白河→伊達→徳川)に継承させ、蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)や田村清顕(たむらきよあき/田村)と同盟を結び対抗する。

ただ、白河氏も佐竹氏から養子を受け入れて従属(じゅうぞく)する事になる。

次に佐竹氏が目を付けたのが岩城氏で、当主の岩城重隆(いわきしげたか/岩城)が死去すると、伊達氏から岩城重隆(いわきしげたか/岩城)の養子に入っていた岩城親隆(いわきちかたか/伊達→岩城)の権力も衰退し始める。

岩城親隆(いわきちかたか/岩城)の息子の岩城常隆(いわきつねたか/岩城)が17代当主を継承するが、能力的な事から佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が後見人となり岩城氏は佐竹氏に従属(じゅうぞく)する事になる。

蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)は常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)と友好関係を築く。

蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)が死去して家督を息子の蘆名盛興(あしなもりおき/蘆名)が継承しても、佐竹氏との友好路線は変わらず維持した。

これにより陸奥国(むつ/福島県)の勢力図は、伊達輝宗(だててるむね/伊達)と田村清顕(たむらきよあき/田村)に対して、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる蘆名盛興(あしなもりおき/蘆名)、二階堂盛義(にかいどうもりよし/二階堂)、小峰義親(こみねよしちか/白河→伊達)、石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)、岩城常隆(いわきつねたか/岩城)となった。

蘆名盛興(あしなもりおき/蘆名)は後継者が居なかった為に、二階堂盛義(にかいどうもりよし/二階堂)の息子の蘆名盛隆(あしなもりたか/二階堂→蘆名)を蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)の養子に入れる。

ところが養子に入った蘆名盛隆(あしなもりたか/二階堂→蘆名)が家臣に暗殺される。

早々に嫡男(ちゃくなん)で幼児の蘆名亀王丸(あしな かめおうまる/蘆名)を家督継承させるも早世してしまう。

結局、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)の息子の蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)を、結城顕頼(ゆうきあきより/白河)の息子の小峰義親(こみねよしちか/白河)の養子に入れて蘆名氏(あしなうじ)の家督継承させる。

陸奥国(むつ/福島県)の梁川城(やながわじょう/伊達)の最寄駅は、阿武隈急行(あぶくまきゅうこう)の〈やながわ希望の森公園前駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、陸奥国(むつ/宮城県)の国境に近い梁川城(やながわじょう/伊達)は、鎌倉時代から続く武家の名門であり、一説には藤原氏北家(ほっけ)の系統とも言われ、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)をこよなく愛する宮城県仙台市の57%の市民は、老後にはこの福島県伊達市に移住している。

陸奥国(むつ/福島県)の桑折西山城(こおりにしやまじょう)の最寄駅は、JRの〈桑折駅〉(こおりえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、梁川城(やながわじょう/伊達)にも程近く、少し南下すれば福島市の市街地もあり、福島県のランドマークと言えばやはり“へたれガンダム”を置いて他は無く、世界中のRXー78型のガンダムをこよなく愛するファンは必ず訪れている。

出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)の最寄駅は、JRと新幹線の〈米沢駅〉もしくはJRの〈南米沢駅〉と〈西米沢駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、現在では後に入城した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を全面的にピックアップしているが、この米沢城(よねざわじょう)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の生誕地である事も忘れてはならない。

戦国武将の2(ツー)トップが米沢城(よねざわじょう)に縁があるとは、正に日本屈指の最強のお城と言え、この米沢市に来訪したら米沢牛に舌鼓(したつづみ)を打ちながら戦国乱世に想いを馳(は)せるのが旅の上級者と言えます。

常陸国(ひたち/茨城県)の太田城(おおたじょう/常陸)の最寄駅は、〈常陸太田駅〉(ひたちおおたえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、先(ま)ずは茨城県(いばらきけん)に来訪する前に、“いばらき”は“ぎ”ではなく“き”である事を認識して、次に常陸は“じょうばん”ではなく“ひたち”だと言う事を確認して下さい。

常陸(ひたち)と言えば『♪この木なんの木、気になる木〜』でお馴染みの日立製作所の創業地が茨城県日立市であり、茨城県の家庭の家電は74%が日立製作所と言われています。

因(ちな)みに日立とは、常盤水戸藩の藩主で“水戸黄門”と呼ばれた徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)が、この地を訪れた際に『日の立ち昇るところ、領内で一番に美しい。』と語った事から由来(ゆらい)する。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

LOGGINS & MESSINA /♪ MY MUSIC

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:26:58

◆◇◆其の七十八:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●陸奥国(むつ/福島県)の伊達氏

1584年に伊達輝宗(だててるむね/伊達)は家督を息子の“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)こと伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に継承させる。

伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は伊達氏の政権方針を変更して、友好関係にあった蘆名氏(あしなうじ)と対立して領土侵攻を始める。

蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)は大内定綱(おおうちさだつな/大内→伊達)と連携して伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対抗した。

こうなると伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)の蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)、16代当主の相馬義胤(そうまよしたね/相馬)、常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に包囲される事になる。

大内定綱(おおうちさだつな/大内→伊達)は、二本松畠山氏で二本松城(にほんまつじょう)の城主の畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)と連携を図り、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に対抗する。

そんな最中(さなか)の1585年、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)が畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)に拉致(らち)される。

この時、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は鷹狩りに出掛けており、そこに早馬が来て知らせを聞いた。

伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は直(す)ぐに伊達軍を引き連れて、父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)が幽閉されている陸奥国(むつ/福島県)の二本松城(にほんまつじょう)を包囲した。

畠山義継…『アハハハハァ〜 政宗よぉ、親父が人質とあらば、手も足も出ないだろぉ! 今まで伊達家が奪取(だっしゅ)した畠山家の領土を返してもらうぞぉ!』

伊達輝宗…『政宗、わしぃに構わず、此奴(こやつ)ら畠山軍を攻撃してくれぇ〜!』

伊達政宗…『親父よぉ、承知致した。』

伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は伊達軍鉄砲隊に、二本松城(にほんまつじょう)に目掛けて総攻撃する様に指示した。

伊達政宗…『鉄砲隊、撃ち方をはじめぇ!』

伊達軍武士…『御意(ぎょい)!』

畠山義継…『えっ!? マジで?』

伊達輝宗…『えええっ!? ほっ、本気かぁ?!』

バッキュンバッキュン バッキュンバッキュン

畠山義継……『ギャ〜〜 やられた〜〜』

バタン

伊達輝宗…『政宗〜 わしぃ父親だけどぉ、少しは心情はないのかぁ〜?』

バタン

これに伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は反撃に出て、二本松城(にほんまつじょう)を総攻撃して畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)は討死し、同時に父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)も命を落とした。

これが戦国の武将である。

亡き畠山義継(はたけやまよしつぐ)こと二本松義継(にほんまつよしつぐ/二本松畠山)の家督を引き継いだ息子の畠山義綱(はたけやまよしつな)こと二本松義綱(にほんまつよしつな/二本松畠山)は抗戦し、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)と蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)の連合軍の援軍もあり、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍は後退を余儀なくされる。

ところが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹氏の領土に侵攻を開始し始めて、その対応の為に佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)は退陣してしまう。

これにより伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は二本松城(にほんまつじょう)を落城させ、畠山義綱(はたけやまよしつな)こと二本松義綱(にほんまつよしつな/二本松畠山)は逃亡中に斬殺される。

伊達氏を支持していた田村清顕(たむらきよあき/田村)が死去し、息子の田村氏顕(たむらうじあき/田村)が家督を継承し、さらに息子の田村宗顕(たむらむねあき/田村)に引き継ぐ。

伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は再び、陸奥国(むつ/福島県)の蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)、16代当主の相馬義胤(そうまよしたね/相馬)、常陸国(ひたち/茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に包囲される事になる。

陸奥国(むつ/岩手県)では葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が領土侵攻の交戦を繰り広げていた。

ただ、長年の戦(いくさ)で戦力も疲弊し、葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に従属(じゅうぞく)する。

さらに大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)と、その家臣だった氏家氏(うじいえうじ)で岩出山城(いわでやまじょう/大崎)の城主の氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)が対立する事になる。

大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)は、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に援軍要請した。

大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)
とは、河内源氏の斯波氏(しばうじ)の系統で、陸奥国(むつ/岩手県)を拠点に代々に渡り奥州探題(おうしゅうたんだい)に就任する大崎氏の最後の当主となる人物である。

一方、氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)は、陸奥国(むつ/福島県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に援軍要請する。

伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は留守政景(るすまさかげ/伊達)の軍隊を、氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)が率いる氏家軍にを派遣した。

対する大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が率いる大崎軍は、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍の協力や、氏家軍に味方していた斯波氏の系統の黒川氏で鶴楯城(つるだてじょう/黒川)の城主の黒川景氏(くろかわかげうじ/飯坂→黒川)と、その孫の黒川晴氏(くろかわはるうじ/黒川)の大崎軍への寝返りがあり抗戦して勝利する。

この流れで陸奥国(むつ/宮城県)の加美(かみ)を中心に、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍と、大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)と最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる大崎最上軍が交戦した。

ただ、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は甥と叔父の関係で、その中心に居るのが母親であり妹である義姫(よしひめ/最上→伊達)だった。

この時の義姫(よしひめ/最上→伊達)の心中を察するに余りある。

そんな義姫(よしひめ/最上→伊達)は自分の気持ちを正直に受け止めて行動を起こし、家臣に担がせた輿(こし)に乗り戦地に赴いたのである。

伊達軍と大崎最上軍が睨み合う戦地の真ん中に輿(こし)のまま突撃して、義姫(よしひめ/最上→伊達)は大声で叫んだ。

義姫…『戦馬鹿(いくさばか)の野郎ども、そんなに戦いたかったら私が相手だぁ! 隙があったら、何処(どこ)からでも掛かってこんかぁ〜〜い!!』

伊達政宗…『おっ、お母さん!?』

最上義光…『いっ、妹よぉ!?』

義姫…『戦(いくさ)、するんかぁ〜〜い! せいへぇんのんかぁ〜〜い!』

伊達政宗…『いやぁ、戦(いくさ)やめます。 お母さん、すみませんでした。』

最上義光…『妹よぉ、心配かけて申し訳なかった。 この通り謝る。』

こうして義姫(よしひめ/最上→伊達)の大活躍で和睦が成立した。

これを1588年に起こった「大崎合戦」(おおさきがっせん)と呼ぶ。

ただ、再び伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)が対立した。

さらに伊達政重(だてまさしげ)こと国分盛重(こくぶんもりしげ/伊達)の領土でも反乱が勃発し、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が鎮圧する事となる。

伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)や留守政景(るすまさかげ/伊達)を従属(じゅうぞく)させて陸奥国(むつ/宮城県)の領土統治を強める。

陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)の最寄駅は、JRの〈有備館駅〉(ゆうびかんえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、岩出山城(いわでやまじょう/大崎)のある大崎市は宮城県の北西部に位置し、峠を越えれば山形県最上市につながり、この事からも大崎氏と最上氏と伊達氏の戦国乱世が手に取る様に解る。

陸奥国(むつ/宮城県)の鶴楯城(つるだてじょう/黒川)の最寄駅は、JRの〈石越駅〉(いしこしえき)から徒歩で2時間程度の距離にあり、鶴楯城(つるだてじょう/黒川)の近くにはくりはら田園鉄道が走っていたが2007年に廃線となり、その跡地を利用してくりでんミュージアムもオープンし、動態保存されている車両もある為に何時(いつ)でも復活する事は可能である。

陸奥国(むつ/福島県)の二本松城(にほんまつじょう)の最寄駅は、JRの〈二本松駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、二本松城(にほんまつじょう)と言えば1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の「会津戦争」(東北戦争)にて、攻防する幕府軍の少年兵が維新軍の容赦ない攻撃により惨殺された哀しい歴史が刻まれています。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

LONNIE LISTON SMITH /♪ SUMMER DAYS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:27:53

◆◇◆其の七十九:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●陸奥国(むつ/福島県)の伊達氏

後日、岩城氏の17代当主の岩城常隆(いわきつねたか/岩城)の仲裁もあり、一先(ひと)ず伊達氏の周囲は平定される。

ただ、直(す)ぐに佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)と蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)の連合軍が伊達氏の領土侵攻を目指し進撃を開始した。

迎え討つ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍は摺上原(すりあげはら)で交戦する。

結果は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の勝利に終わる。

蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)は敗走して佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)の本拠地の常陸国(ひたち/茨城県)に逃げ込む。

これを1589年に起こった「摺上原の戦」(すりあげはらのたたかい)と呼ぶ。

そんな時の1590年に畿内(きない/関西)から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の伊勢北条氏に対する「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の大号令が下ると、東北地方の武将も参戦を要請された。

この「小田原征伐」(おだわらせいばつ)は東北の地にも豊臣軍から参陣要請が来て、陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松)からは“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍伊達隊が出陣した。

伊達政宗…『東北の猛将、伊達政宗、只今参上! 秀吉殿よぉ、大船(おおぶね)に乗ったつもりで安心して下さい。 私が来たからにはこの戦(いくさ)、勝利の香(かお)りしかしません!』

豊臣秀吉…『お前はアホォかぁ! 戦(いくさ)はとうに終わっておるわぁい!』

伊達政宗…『えっ!? 終わったのぉ?』

豊臣秀吉…『もう少し遅かったら、お前を打首にするところだったぞぉ! 後で始末書を提出せいっ!』

そうです、豊臣政権が日本統一する大切な合戦で、“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は大遅刻したのである。

後日、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は慣れないワープロを駆使して始末書を作成し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元に提出しに行った。

その時の格好が武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)を身にまとっており、意表を突いた斬新なパフォーマンスを豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に気に入られて不始末を許されたと言う。

その後、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に従属(じゅうぞく)する事となる。

そして脅威を排除した伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、周辺の田村宗顕(たむらむねあき/田村)や小峰義親(こみねよしちか/白河→伊達)や石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)などを従属(じゅうぞく)させて伊達軍の勢力拡大を図る。

ところが伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が蘆名氏(あしなうじ)の領土に侵攻した事が豊臣政権の“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして、蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に訴え出たのである。

これに対する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の処遇は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の陸奥国(むつ/福島県)の会津と伊達を領地削減の減封(げんぽう)の72万石とし、陸奥国(むつ/岩手県)の葛西大崎への領地移転の転封(てんぽう)とした。

豊臣政権から東北地方に送り込まれた大崎葛西の領主(奥州仕置)は木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)は、“太閤検地”(たいこうけんち)や“刀狩”(かたながり)を実施した。

この豊臣政権の処置に対する不満が高まり、東北地方の各地で一揆や反乱が勃発する。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)を総大将に大軍を率いて奥州征伐に進撃させる。

木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)を救援する為に、名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と協力を取りながら豊臣軍を侵攻させて反乱を鎮圧する。

ところが、その蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)と伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が仲違(なかたが)いした。

蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が東北武将と通じていると疑念を持ち、いつかは寝返るのではと考え距離を取る。

更(さら)に「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の参戦しなかった大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)や葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)や留守政景(るすまさかげ/伊達)は領地没収の改易(かいえき)となった。

ただ、この豊臣政権の処罰に不満を抱えた葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)は葛西大崎軍を結成して反乱を起こす。

これを鎮圧に向かったのが大崎葛西領の領主である木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣) を大将に、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)や伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍奥州隊だった。

結果は豊臣軍奥州隊が反乱を鎮圧して葛西大崎軍は敗北した。

因(ちな)みに木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)は反乱勃発の責任により罷免(ひめん)された。

これを1590年に起こった「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)と呼ぶ。

ただ、この合戦の問題はそこではなかった。

実は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)との不仲もあり、敵陣の葛西大崎軍と内通している噂(うわさ)が立っていた。

実際に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と葛西大崎軍が遣り取りした書状も見つかっており、これを蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に報告している。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から京都に呼び出された伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は事実無根として弁明した。

その時の格好が武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)を身にまとい、更(さら)に大きな黄金の十字架を背負って豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に謁見(えっけん)した。

前回と同様に意表を突いた斬新なパフォーマンスで豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は大いに喜んだが、ただ、葛西大崎軍との内通は別の話しである。

陸奥国(むつ/福島県)や出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじきょう)などから、「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)の合戦で荒廃した陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)などに領地移転の転封(てんぽう)となり、領地削減の減封(げんぽう)を受けて58万石となった。

そして国分氏の居城だった場所に仙台城(せんだいじょう/青葉城)を築城し、仙台市の現在までの発展の礎(いしずえ)を築いた。

この事で伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)への深い憎悪が芽生え、これが1600年に起こった「会津征伐」、「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)へ、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対する忠誠心へとつながっていく。

また、この頃の1590年に、弟の小次郎(こじろう)こと伊達政道(だてまさみち/伊達)が謎の死を遂げている。

一説には、母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)と弟の小次郎(こじろう)こと伊達政道(だてまさみち/伊達)が、兄の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)を危険視して毒殺しようとして失敗し、その報復で兄の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が弟の小次郎(こじろう)こと伊達政道(だてまさみち/伊達)を斬殺したと言われる。

このエピソードが事実なら、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)と弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)と母親の土田御前(どたごぜん/織田)の関係に瓜二つである。

陸奥国(むつ/宮城県)の仙台城(せんだいじょう/青葉城)の最寄駅は、地下鉄の〈国際センター駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、青葉城としての名称が有名で、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が入城してから仙台の地を都市整備を施し、新田開発と湊整備をセットで実施して広大な田んぼから穂(みの)るお米を船で江戸に輸送して、一時は『今、江戸の米は三分の一が奥州米なり。』と言われる程になった。

陸奥国(むつ/福島県)の「摺上原の戦」(すりあげはらのたたかい)の古戦場跡地の最寄駅は、JRの〈藤田駅〉もしくは〈貝田駅〉(かいだえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、近くには梁川城(やながわじょう/伊達)と桑折西山城(こおりにしやまじょう)があり、今でも伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる伊達軍の熾烈な戦いが感じられます。

陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松)の最寄駅は、JRの〈西若松駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、会津若松と言えば磐梯山(ばんだいさん)と猪苗代湖(いなわしろこ)で誰もが訪れており、お帰りは必ず本場の喜多方ラーメンを食べます。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

HERBIE HANCOCK /♪ TONIGHT'S THE NIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:28:46

◆◇◆其の八十:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●出羽国(でわ/山形県)の最上氏

1500年頃の出羽国(でわ/山形県)では、室町幕府から清和源氏で斯波氏(しばうじ)の系統の最上氏が羽州探題(うしゅうたんだい)に就任していた。

最上氏の当主に最上義定(もがみよしさだ/最上)が就任すると、近隣の武将や国人(こくじん)との紛争が起こる様になる。

さらに陸奥国(むつ/福島県)の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が出羽国(でわ/山形県)の最上氏に領土に侵攻して来ており、最上氏の本拠地の長谷堂城(はせどうじょう/山形)も攻略されて、最上義定(もがみよしさだ/最上)はそれら対応に苦慮する。

取り敢えず伊達稙宗(だてたねむね/室町)との対立を避けて、最上義定(もがみよしさだ/最上)は伊達尚宗(だてひさむね/室町)の娘を側室に迎えて伊達氏と縁戚関係を結ぶ。

その後、最上義定(もがみよしさだ/最上)は嫡男(ちゃくなん)を残さないまま死去する。

そこで中野氏から最上義守(もがみよしもり/中野→最上)を最上義定(もがみよしさだ/最上)の養子として迎え入れる。

ところが陸奥国(むつ/福島県)を領国統治する伊達氏の、父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)と息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)とで内紛が起こる。

父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が率いる父軍には、蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)、田村隆顕(たむらたかあき/田村)、二階堂照行(にかいどうてるゆき/二階堂)、相馬顕胤(そうまあきたね/相馬)、葛西晴胤(かさいはるたね/葛西)、大崎義宣(おおさきよしのぶ/伊達→大崎)、黒川景氏(くろかわかげうじ/飯坂→黒川)、国分宗政(こくぶんむねまさ/伊達)を味方に着ける。

息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)が率いる子軍には、岩城重隆(いわきしげたか/岩城)、大崎義直(おおさきよしなお/室町)、留守景宗(るすかげむね/伊達)を味方に着ける。

当初は父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)が率いる父軍が情勢を有利に運ぶも、息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)が率いる子軍も白石城(しろいしじょう/刈田)に布陣すると劣勢を巻き返して、父軍の蘆名盛氏(あしなもりうじ/蘆名)や葛西晴胤(かさいはるたね/葛西)を子軍に寝返らせ勢力優勢として勝利する。

結局、敗北した父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)は隠居する事となる。

これを1542年に起こった「天文の乱」(てんぶんのらん)と呼ぶ。

伊達晴宗(だてはるむね/伊達)は本拠地を出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に移転する。

さらに伊達晴宗(だてはるむね/伊達)は、室町幕府から奥州探題(おうしゅうたんだい)に任命される。

この頃になると最上義守(もがみよしもり/中野→最上)は家督を息子の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に継承させた。

ところが、隠居した筈(はず)の父親の最上義守(もがみよしもり/中野→最上)が、息子の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に対して謀反(むほん)を起こす。

最上義守(もがみよしもり/中野→最上)が率いる父軍は、天童氏(てんどううじ)で最上八楯(もがみやつだて)と呼ばれる天童城(舞鶴城)の城主の天童頼貞(てんどうよりさだ/天童)を味方に就ける。

さらに縁戚関係にある伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子の伊達輝宗(だててるむね/伊達)も味方に就けて、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる子軍に侵攻させる。

ただ、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が率いる子軍の奮闘もあり、各武将により和睦が成立して、結局は最上義守(もがみよしもり/中野→最上)が隠居する事になった。

これを1574年に起こった「天正最上の乱」(てんしょうもがみのらん)と呼ぶ。

勢いに乗る最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、出羽国(でわ/山形県)での領土拡大を進める。

先(ま)ずは白鳥(しらとり/村山)や谷地(河北)の戦国武将で白鳥氏(しらとりうじ)の白鳥義久(しらとりよしひさ/白鳥)や、息子で白鳥城(しらとりじょう/村山)と谷地城(やちじょう/河北)の城主の白鳥長久(しらとりながひさ/白鳥)に攻撃を仕掛ける。

敗北した白鳥長久(しらとりながひさ/白鳥)を最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が居城する山形城(やまがたじょう)に呼び寄せて、そこで斬首する。

次に大江の戦国武将で寒河江氏(さがえうじ)の寒河江兼広(さがえかねひろ/寒河江)や、その婿養子で吉川氏の寒河江高基(さがえたかもと/寒河江)も攻撃して滅亡させる。

最後に最上氏の領土近くで勢力を誇こり最上八楯(もがみやつだて)と呼ばれた天童氏(てんどううじ)も、天童城(てんどうじょう/舞鶴城)の城主の天童頼貞(てんどうよりさだ/天童)と、息子の天童頼澄(てんどうよりずみ/天童)は総攻撃に遭い滅亡した。

そして大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)から小野寺景道(おのでらかげみち/小野寺→豊臣)に主君を代えていた鮭延秀綱(さけのべひでつな/大宝寺→ 小野寺→最上)も、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)に従属(じゅうぞく)した。

出羽国(でわ/山形県)の白鳥城(しらとりじょう/村山)の最寄駅は、JRの〈村山駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、山形県の中央部に位置する白鳥城(しらとりじょう/村山)は、蝦夷(えみし)の安倍氏の末裔で寒河江氏(さがえうじ)の系統の白鳥氏が治めていました。

出羽国(でわ/山形県)の谷地城(やちじょう/河北)の最寄駅は、JRの〈さくらんぼ東根駅〉(さくらんぼひがしねえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、白鳥城(しらとりじょう/村山)とはご近所にあり共に白鳥氏のお城で、この地のお城巡りに欠かせないのがさくらんぼです。

さくらんぼを片手に持って、時に頬張(ほおば)りながら、山形県の大自然を堪能しながらのお城巡りは、これ以上ない至福の時間となります。

出羽国(でわ/山形県)の天童城(てんどうじょう/舞鶴城)の最寄駅は、JRの〈天童駅〉(てんどうえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、この天童城(てんどうじょう/舞鶴城)のある天童市は木材が名産で、木製家具を手掛ける天童木工が有名で、木材から美しい曲線美を導き出す匠の技は見事です。

出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)の最寄駅は、JRと新幹線の〈山形駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、この地の偉人であり英雄と言えば山形藩の藩主となった最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)ではありますが、やはりここは妹であり伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親でもある義姫(よしひめ/最上→伊達)を推して欲しい。

戦国乱世に翻弄(ほんろう)されながら強く生きた武家の女性として、そのアグレッシブな生涯は今尚(いまなお)感動を覚えます。

出羽国(でわ/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)の最寄駅は、JRの〈蔵王駅〉(ざおうえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)での激戦地となった長谷堂城(はせどうじょう/山形)も注目される史跡だが、そこから少し南下したJRと新幹線の〈かみのやま温泉駅〉の近くに建つ分譲タワーマンションのスカイタワー41にも注目して欲しい。

のどかな田園風景と山岳地帯が広がる中で、ポツンと聳(そび)え建っているタワーマンションの異様な光景は、“グッド”と“バッド”の賛否が真っ向から分かれる珍しい物件である事には違いない。

因(ちな)みに数々のマンションを観てきたマンション管理士としてのスカイタワー41への評価は“グッド”であり、正直、低層階で良いから住んでみたい。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

CHRIS BOTTI /♪ MIDNIGHT WITHOUT YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:29:38

◆◇◆其の八十一:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●出羽国(でわ/山形県)の最上氏

一方、出羽国(でわ/山形県)で海岸部では、大宝寺氏(だいほうじうじ)の羽黒山(はぐろさん/鶴岡)の別当(べっとう)の大宝寺政氏(だいほうじまさうじ/室町)が統治しており、その息子の大宝寺澄氏(だいほうじすみうじ/大宝寺)も庄内を治めていた。

その後、大宝寺氏(だいほうじうじ)の家督を息子の大宝寺晴時(だいほうじはるとき/大宝寺)に継承させるも早世してしまう。

そんな時に飽海(あくみ)を領地とする砂越氏(さごしうじ)が勢力を伸ばして、砂越城(さごしじょう/酒田)の城主の砂越氏雄(さごしうじたか/砂越)が、大宝寺氏(だいほうじうじ)の領土に侵攻を仕掛ける。

危機的状況下の大宝寺氏(だいほうじうじ)だったが、大宝寺晴時(だいほうじはるとき/大宝寺)が死去した後の家督紛争が起こる。

大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)の息子で、羽黒山(はぐろさん/鶴岡)を拠点とする大宝寺四郎(だいほうじしろう)こと大宝寺義氏(だいほうじよしうじ/大宝寺→上杉→織田)と、大宝寺九郎(だいほうじくろう)こと大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)が後継者争いをする。

大宝寺晴時(だいほうじはるとき/大宝寺)の家臣で藤島城(ふじしまじょう/鶴岡)の城主の土佐林禅棟(とさばやしぜんとう/大宝寺)が、大宝寺九郎(だいほうじくろう)こと大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)を支持した事で勝利する。

早速、大宝寺氏(だいほうじうじ)の当主となった大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)は、越後国(新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に従属(じゅうぞく)して後ろ盾を得る。

大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)は勢力拡大する為に、山間部の最上氏の領土に侵攻し、最上氏の家臣で清水城(しみずじょう/大蔵)の城主の清水義高(しみずよしたか/最上)を攻略して攻め滅ぼす。

続いて最上氏の家臣の佐々木貞綱(ささきさだつな)こと鮭延貞綱(さけのべさだつな/最上)も攻撃して大宝寺氏(だいほうじうじ)に服従(ふくじゅう)させる。

ところが、拡大路線を続ける大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)に対して、家臣の土佐林禅棟(とさばやしぜんとう/大宝寺)が離反(りはん)する。

これに対して大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)は上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の支援を受けて、土佐林禅棟(とさばやしぜんとう/大宝寺)を排除する事に成功する。

ただ、これら行動が大宝寺氏(だいほうじうじ)の他の家臣や、周辺の武将や国人(こくじん)の反感を買う事になる。

大宝寺晴時(だいほうじはるとき/大宝寺)からの家臣だった前森蔵人(まえもりくろうど)こと東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)が謀反(むほん)を起こして、大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)は自害に追い込まれる。

大宝寺氏(だいほうじうじ)の家督は大宝寺義増(だいほうじよします/大宝寺→上杉)の息子の大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)が継承した。

大宝寺氏(だいほうじうじ)の当主となった大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)は、死去した上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)から家督を継承した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)とも友好関係を保った。

そして平氏の秩父氏(ちちぶうじ)の系統で上杉氏の家臣の本庄氏である本庄房長(ほんじょうふさなが/上杉)や、その息子で越後国(新潟県)の本庄城(ほんじょうじょう/村上城)の城主の本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)とも協力関係を築く。

ただ、本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)の息子の本庄充長(ほんじょうみつなが)こと大宝寺義勝(だいほうじよしかつ/本庄→上杉)を、大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)の養子に入れた事で、東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)に反感を買う。

東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の後ろ盾を得て対抗する。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が支援する大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)が率いる大宝寺上杉軍と、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が支援する東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)が率いる東禅寺最上軍は激しく交戦した。

しかし、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の家臣だった新発田城(しばたじょう/蒲原)の城主の新発田重家(しばたしげいえ/上杉)の離反(りはん)の対応に追われて、思う様に大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)が率いる大宝寺上杉軍に援軍を送る事ができなかった。

ここに最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の甥で陸奥国(むつ/福島県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が仲裁に入る。

ただ、その仲裁も功せず東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)が率いる東禅寺最上軍が、大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)が率いる大宝寺上杉軍を猛追すると敗北が色濃くなり、大宝寺義興(だいほうじよしおき/上杉)は自害した。

本庄氏から養子に入っていた本庄充長(ほんじょうみつなが)こと大宝寺義勝(だいほうじよしかつ/本庄→上杉)も敗走して、本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)が居城する越後国(新潟県)の本庄城(ほんじょうじょう/村上)に逃げ込む。

出羽国(でわ/山形県)の砂越城(さごしじょう/酒田)の最寄駅は、JRの〈砂越駅〉(さごしえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、最上川の北岸にある砂越城(さごしじょう/酒田)は酒田市の市街地にも近く、江戸時代には庄内藩(鶴岡)の初代藩主に酒井忠勝(さかいただかつ/徳川→庄内)が就き、“徳川四天王”と呼ばれた酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)の孫にあたり、江戸幕府の徳川家が如何(いかに)に重視していた地域だったかが、この事からも解る。

出羽国(でわ/山形県)の藤島城(ふじしまじょう/鶴岡)の最寄駅は、JRの〈藤島駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、この庄内地域は日本海に面して、山と川に囲まれた肥沃な土地でもあり、お米をはじめとした農作物が豊富に稔(みの)り、庄内藩が江戸幕府に取って如何(いかに)に重視していた地域だったかが、この事からも解る。

出羽国(でわ/山形県)の清水城(しみずじょう/大蔵)の最寄駅は、JRの〈升形駅〉(ますかたえき)から徒歩で1時間程度の距離にあり、最上川の河岸に建つ清水城(しみずじょう/大蔵)は標高1984mの月山(がっさん)の麓にあり、北方に聳(そび)える標高2236mの鳥海山(ちょうかいさん)と共に山岳地帯に囲まれた大自然を満喫できる素敵な土地でもある。

越後国(新潟県)の本庄城(ほんじょうじょう/村上城)の最寄駅は、JRの〈村山駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、出羽国(でわ/山形県)との国境に近い本庄城(ほんじょうじょう/村上城)が、戦国の世では如何(いか)に重要だったかが解り、江戸時代では日本海の湊から多くの物資が北前船(きたまえぶね)に積載され江戸や大坂に運ばれました。

越後国(新潟県)の新発田城(しばたじょう/蒲原)の最寄駅は、JRの〈新発田駅〉(しばたえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、なかなかこの新発田(しばた)の漢字を読める人も少なく、どうしても“織田四天王”で“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)の柴田(しばた)を思い浮かべる。

そんな江戸時代の新発田藩は、織田信長(おだのぶなが/織田)や丹羽長秀(にわながひで/織田)の家臣だった溝口秀勝(みぞぐちひでかつ/織田→豊臣→徳川)が初代藩主に就いたのも何かの縁を感じる。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

ZAN /♪ WANT TO BE WITH YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:30:33

◆◇◆其の八十二:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●出羽国(でわ/山形県)の最上氏

ここで本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)の本庄上杉軍が出羽国(でわ/山形県)に侵攻を開始する。

攻防する東禅寺義長(とうぜんじよしなが/大宝寺)が率いる東禅寺最上軍だったが、敗北して討ち滅ぼされる。

この頃は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)も陸奥国(むつ/岩手県)の大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)との連合軍で、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)の城主の氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)を攻撃している最中(さなか)で、出羽国(でわ/山形県)の庄内で起こっている合戦に援軍を送る事ができなかった。

さらに氏家吉継(うじいえよしつぐ/大崎→伊達)は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に感服(かんぷく)した事で、対立構造が叔父の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と、甥の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に代わってしまった。

結局、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹で伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)が仲裁した事で戦乱は治った。

1年足らずで出羽国(でわ/山形県)の庄内の領地を越後国(新潟県)の本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)に侵略された最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に豊臣政権の“惣無事令”(そうぶじれい)に違反として訴え出た。

しかし、本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)と上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と大宝寺義勝(だいほうじよしかつ/本庄→上杉)が、先に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に根回しをしており、この訴えは覆(くつがえ)る事は無かった。

この事が最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対する大きな遺恨(いこん)を残す事となる。

1594年に亡き伊達輝宗(だててるむね/伊達)の妻として嫁いでいた妹の義姫(よしひめ/最上→伊達)が伊達家を出奔(しゅっぽん)して、兄の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)が居城する出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に帰って来る。

この伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親でもある義姫(よしひめ/最上→伊達)の行動については不明な部分が多く、事の真相は定かではないが、一説には伊達氏の内紛に嫌気が差したと言われる。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)が「奥州仕置」(おうしゅうしおき)の為に東北地方に滞在した事で、各地の武将と交流を持った。

その縁で最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の愛娘の駒姫(こまひめ/最上→豊臣)は、まだ10代そこそこで豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の側室に決まった。

当初は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は何度も断っていたが、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の不屈の求婚で縁談がまとまった経緯(いきさつ)がある。

しかし、駒姫(こまひめ/最上→豊臣)が出羽国(でわ/山形県)から京都に嫁入りした数日後に、1595年に偽装の謀反(むほん)で豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)は高野山の青巌寺(せいがんじ/金剛峯寺)で自決し、その妻や子供などの家族39人も、京都の三条河原で斬首され、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)と共に晒し首(さらしくび)にされたが、その内の1人が駒姫(こまひめ/最上→豊臣)だった。

その凄惨(せいさん)で悲運な亡骸(なきがら)は、鴨川に掛かる三条大橋の西側に建立された瑞泉寺(ずいせんじ/三条)に弔われており、その直(す)ぐ南東側に建つ先斗町歌舞練場(ぽんとちょうかぶれんじょう)では、舞妓はぁんや芸妓はぁんが“鴨川をどり”のお稽古に励(はげ)んでいる。

駒姫…『お父ちゃ〜ん、怖いよぉ〜 助けてぇ〜』

豊臣介錯人…『介錯(かいしゃく)致す。 斬り捨て御免!』

バサッ バサッバサッ

駒姫…『ギャ〜〜 お父ちゃ〜ん、やられた〜〜』

ゴロン

まだ10代そこそこの駒姫(こまひめ/最上→豊臣)の亡骸(なきがら)を抱きかかえた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣氏に対する憎悪は計り知れない。

最上義光…『この恨みはらさでおくべきか! 豊臣氏めぇ、子孫7代まで呪い祟ってやるわぁい!』

そんなこんなで豊臣氏は3代で終了しました。

最上義光…『えっ!? 3代で終わり?』

1600年に起こった「会津征伐」、「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に忠誠を尽くした最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)を見れば明らかである。

紀伊国(和歌山県)の高野山の青巌寺(せいがんじ/金剛峯寺)の最寄駅は、南海ケーブル線の〈高野山駅〉から徒歩で山を登り1時間程度の距離にあり、高野山には真言宗(しんごんしゅう)の総本山の金剛峯寺(こんごうぶじ)があり、宗祖は弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい/真言宗)で、実は『筆を誤った事は、一度たりとも無いっ!』が口癖の空海(くうかい/真言宗)は今でも現存しており、御歳(おんとし)1280歳くらいで知る人ぞ知る事実である。

山城国(京都府)の京都の瑞泉寺(ずいせんじ/三条)の最寄駅は、京阪の〈三条駅〉もしくは地下鉄の〈三条京阪駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、近くにはポルトガル語に由来(ゆらい)する先斗町(ぽんとちょう)や木屋町(きやまち)の歓楽街が連なり、京都の若者はこの地で大人の階段を昇っていく。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

RANDY CRAWFORD /♪ RHYTHM OF ROMANCE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:31:27

◆◇◆其の八十三:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

畿内(きない/関西)から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の伊勢北条氏に対する「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の大号令が下り、東北地方の武将も参戦を要請されたが東北武将の対応は分かれた。

陸奥国(むつ/青森県)の津軽地方を統一を果たした“髭殿”(ひげどの)こと津軽為信(つがるためのぶ)こと大浦為信(おおうらためのぶ/大浦→豊臣→徳川)は大軍を率いて真っ先に参陣する。

ただ、大半の東北武将は参戦を見送っていた。

その反抗的な東北武将に対して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、1590年から始めた「奥州仕置」(おうしゅうしおき)で、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)の非協力的な大名や武将は領地没収の改易(かいえき)や領地削減の減封(げんぽう)に処された。

この豊臣政権の処置に対する不満が高まり、東北地方の各地で一揆や反乱が勃発する。

陸奥国(むつ/青森県)の兄の九戸政実(くのへまさざね/南部→九戸)と弟の九戸実親(くのへさねちか/南部→九戸)の九戸氏(くのへうじ)など武将は反乱を起こした。

「小田原征伐」(おだわらせいばつ)に協力的だった陸奥国(むつ/青森県)の三戸氏(さんのへうじ)の南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)の所領は安堵(あんど)されたが、この反乱の対応に追われた南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)は、息子の南部利直(なんぶとしなお/豊臣→徳川)に家督継承して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元へ援軍要請に向かわせた。

これに応えた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)を総大将に大軍を率いて奥州征伐に進撃させる。

名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)や浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)により反乱は直(す)ぐに鎮圧され、兄の九戸政実(くのへまさざね/南部→九戸)と弟の九戸実親(くのへさねちか/南部→九戸)の九戸氏(くのへうじ)など謀反人は全員が斬首された。

これを「九戸政実の乱」(くのへまさざねのらん)と呼ぶ。

「小田原征伐」(おだわらせいばつ)に参戦しなかった葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)は、領地没収の改易(かいえき)になった事で同じく反乱を起こした。

伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は配下でもあった葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)の反乱を鎮圧する。

花巻城(はなまきじょう)の城主で稗貫輝時(ひえぬきてるとき/斯波→稗貫)の養子の稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)や、 二子城(ふたごじょう/北上)の城主で稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)の兄弟の和賀義忠(わがよしただ/和賀)も領地没収の改易(かいえき)となり反乱を起こした。

名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)と和賀義忠(わがよしただ/和賀)の兄弟軍を直(す)ぐに鎮圧した。

鍋倉城(なべくらじょう/遠野)の城主の阿曽沼広郷(あそぬまひろさと/阿曽沼)は南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)に臣従(しんじゅう)する事で領土を失う。

陸奥国(むつ/福島県)では16代当主の相馬義胤(そうまよしたね/相馬)、17代当主の岩城常隆(いわきつねたか/岩城)は所領を安堵された。

一方で田村宗顕(たむらむねあき/田村)、小峰義親(こみねよしちか/白河→伊達)、石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)は領地没収の改易(かいえき)となった。

代わりに名将と呼ばれる蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が黒川城(会津若松城/鶴ヶ城)の城主となり、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)も会津藩の藩主となる。

豊臣政権から東北地方に送り込まれた大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)は、“太閤検地”(たいこうけんち)や“刀狩”(かたながり)を実施した。

この豊臣政権の処置に対する不満が高まり、東北地方の各地で一揆や反乱が勃発する。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を奥州征伐に進撃させる。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)や島津長沼氏で長沼城(ながぬまじょう/長野)の城主の島津忠直(しまづただなお/上杉)を家臣に従えて、反抗する一揆勢力をことごとく鎮圧した。

戦後処理として、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は所領を安堵(あんど)された。

そして本庄繁長(ほんじょうしげなが/上杉)と大宝寺義勝(だいほうじよしかつ/本庄→上杉)は領地没収の改易(かいえき)となった。

出羽国(でわ/秋田県)の戦後処理として小野寺義道(おのでらよしみち/豊臣)は領地削減の減封(げんぽう)に処された。

一方で協力的だった秋田実季(あきたさねすえ/豊臣→徳川)と戸沢政盛(とざわまさもり/徳川)は所領を安堵(あんど)された。

浅利勝頼(あさりかつより/浅利)の息子の浅利頼平(あさりよりひら/浅利)が死去すると秋田実季(あきたさねすえ/豊臣→徳川)の領土に組み込まれた。

「奥州仕置」(おうしゅうしおき)で大活躍した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)から、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の領域だった出羽国(でわ/山形県)の米沢城に領地移転の転封(てんぽう)となる。

これが後々の「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)につながっていく。

陸奥国(むつ/岩手県)の花巻城(はなまきじょう)の最寄駅は、JRの〈花巻駅〉(はなまきえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、いわて花巻空港からも徒歩圏内ですが、ただ、この地は岩手県花巻市の童話作家である宮沢賢治(みやざわけんじ/詩人)の出身である為に、銀河鉄道に乗って夜空を楽しみながら宮沢賢治(みやざわけんじ/詩人)に想いを馳(は)せるのが旅人の流儀である。

陸奥国(むつ/岩手県)の二子城(ふたごじょう/北上)の最寄駅は、JRの〈村崎野駅〉(むらさきのえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、北上川(きたがみがわ)の川岸に建つ二子城(ふたごじょう/北上)は陸奥国(むつ/岩手県)と出羽国(でわ/山形県)の山脈に挟まれた細長い地形で、戦国時代なら非常に攻めにくい地形だと解るが、現代では自然の優しさと厳しさが同居した土地柄と解る。

“仏乃国”(ほとけのくに)と呼ばれる象徴すべき環境が備わっています。

陸奥国(むつ/岩手県)の鍋倉城(なべくらじょう/遠野)の最寄駅は、JRの〈遠野駅〉(とおのえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、花巻城(はなまきじょう)や二子城(ふたごじょう/北上)からリアス式海岸が特徴の三陸海岸に向かう山間部に建つのが鍋倉城(なべくらじょう/遠野)で、悟(さと)りの境地を体感したい修行僧な方にはお薦めです。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

LUTHER VANDROSS /♪ POWER OF LOVE(LOVE POWER)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:32:22

◆◇◆其の八十四:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

古墳時代から幾度と実戦されていた朝鮮出兵。

この戦国時代にも実践されている。

この朝鮮出兵だが、一般的に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)を侵略して植民地化する計画だったと教えられているが、それは全くのデタラメである。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)にとって朝鮮半島は進軍の通り道に過ぎず、真の目的は中国大陸の明(みん)であり、最終的にはロシアからヨーロッパまでを領国にする世界征服である。

この壮大な構想は、織田信長(おだのぶなが/織田)が近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)の天守閣から、琵琶湖を望みながら思い描いた構想でもある。

その信長殿下の横には、地球儀がクルクルと回っていた。

1590年に相模国(神奈川県)で起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)で、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)を自害に追い込み、その息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に降伏させ感服(かんぷく)させ、その後、東北地方の反抗する武将を征伐し鎮圧した「奥州仕置」(おうしゅうしおき)により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は“天下統一”を果たした。

これで日本には合戦の無い、みんなが仲良しこよしの平和な時代が到来したが、ただ、それにより大きな問題も発生した。

戦(いくさ)を仕事にしていた武士と、領国統治と領土拡大させてきた武将の、役割と出番が無くなった事である。

この問題は織田信長(おだのぶなが/織田)も見据えていた為に、当然に直参(じきさん)家臣の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の頭にもプログラムされている。

この動機が朝鮮出兵であり、世界統一である。

要は日本で活躍していた武将と武士を海外移住させて、今まで通りの職務に就いてもらい、領土拡大と合戦に従事してもらう。

現代でも、日本の工場を海外移転させる発想と同じである。

こうして1591年に勇猛果敢な名門武将を集合させて、朝鮮半島に向けて肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)を築城し、30万人の軍隊を配備する。

この時期の中国大陸の明(みん)と朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)は、朝貢(ちょうこう)と冊封(さくほう)を実施する主従関係が成立していた。

肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)から軍艦で出陣した加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、毛利勝信(もうりかつのぶ/豊臣)、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の名だたる武将が率いる日本軍の15万人の軍勢。

これに対して李氏朝鮮(りしちょうせん)の将軍の元均(ウォンギュン/朝鮮)、水軍の将軍の李舜臣(イスンシン/朝鮮)、水軍の武将の李億祺(イオッキ/朝鮮)は、朝鮮半島の南側で軍艦を配備して徹底抗戦の構えを見せていた朝鮮軍。

しかし、日本軍の総攻撃で朝鮮軍は惨敗して、朝鮮半島に上陸を許してしまう。

その後は、各武将が四方八方に進軍して、李氏朝鮮(りしちょうせん)の首都でもある漢城府(かんじょうふ/ソウル)を包囲した。

序盤は連戦連勝だった日本軍だが、慣れない土地と軍力を分散させた事により劣勢になる。

最大の問題が日本から補給される兵糧で、日本軍の全軍に行き渡らせる流通経路を朝鮮軍に分断され、日本軍の食糧が滞る様になる。

朝鮮水軍の将軍の李舜臣(イスンシン/朝鮮)によるゲリラ戦術で、日本軍の補給船が次々と撃沈された事も痛手となる。

日本軍は朝鮮半島の北部にある平壌(ピョンヤン)に進軍を始めたが、途中の山岳地帯に潜む朝鮮軍のゲリラ部隊に行く手を阻(はば)まれる。

しかし、日本軍の大軍の前では多勢に無勢で、平壌(ピョンヤン)は落城して李氏朝鮮(りしちょうせん)の皇族は加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)によって捕獲される。

ここで日本の本気度を悟った中国大陸の明(みん)の皇帝である万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)が、ようやく朝鮮半島に将軍の李如松(りじょしょう/明)が率いる明軍を侵攻させるが、時既(ときすで)に遅し。

勝戦気分で高揚する荒ぶる日本軍の武士に対して、明軍はことごとく討ち破られ大敗する。

これにより日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と、明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)は和平交渉の準備に取り掛かる。

その交渉代表者が、日本軍は肥後国(熊本県)の武将で宇土城(うとじょう)の城主でもある小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)で、中国大陸の明軍は使節の沈惟敬(しんいけい/明)だった。

この人選が大きな問題を引き起こす事になる。

これを1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と呼ぶ。

肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)の最寄駅は、JRの〈西唐津駅〉(にしからつえき)から徒歩で3時間程度の距離にあり、玄界灘(げんかいなだ)を泳いで壱岐島(いきのしま)や対馬島(つしまとう)にも何とか渡れ、鎌倉時代の1274年に起こった「文永の役」(ぶんえいのえき)または第1次の元寇(げんこう/蒙古襲来)や1281年に起こった「弘安の役」(こうあんのえき)または第2次の元寇(げんこう/蒙古襲来)にて、奇襲を掛けてきた蒙古軍に対して鎌倉軍が抗戦した地でもあり、国外防衛地域として重要な拠点でもある。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

MAZE FEAT.FRANKIE BEVERLY /♪ THE LOOK IN YOUR EYES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:33:15

◆◇◆其の八十五:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

1593年に日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)は、和平交渉の為に戦(いくさ)を停戦する。

その交渉役は、日本軍は肥後国(熊本県)の武将で宇土城(うとじょう)の城主でもある小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)で、中国大陸の明軍は使節の沈惟敬(しんいけい/明)が担った。

ところが、お互いの主君の言い分に和平交渉は困難を極める。

日本では・・・

豊臣秀吉…『朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)と中国大陸の明(みん)を討ち負かしたのは日本軍、明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)が恭順(きょうじゅん)するのは当然で御座る。』

小西行長…『はぁ。』

明(みん)では・・・

万暦帝…『海を渡って来た日本軍は、朝鮮軍と明軍の連合軍に大苦戦した挙句(あげく)に撤退したので、日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は恭順(きょうじゅん)する意思を表する必要がある。』

沈惟敬…『はぁ。』

こうした主君の条件を心に秘めて、李氏朝鮮(りしちょうせん)の首都でもある漢城府(かんじょうふ/ソウル)で和平交渉を開始した。

日本軍の和平条件は、朝鮮半島の領土割譲と明皇帝の娘を日本へ嫁入りする事。

明軍の和平条件は、日本軍の朝鮮半島からの撤退と日本の明(みん)へ臣従(しんじゅう)する事。

小西行長…『お互いの和平条件が全然にズレている。』

沈惟敬…『困ったなぁ〜 どうする?』

李舜臣…『世間知らずの主君を持つと家臣が大変なのは、どの国の共通事項であるなぁ。 まぁ、朝鮮地酒のマッコリでも呑んでくれぇ。』

こうして李氏朝鮮(りしちょうせん)の水軍の将軍の李舜臣(イスンシン/朝鮮)により漢城府(かんじょうふ/ソウル)を観光案内され、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)と沈惟敬(しんいけい/明)は嫌な事を全て忘れて夜の東大門(トンデムン)で羽目を外(はず)しまくった。

韓国式キャバレーで年季の入った熟女ホステスを相手に、キムチを摘(つま)み眞露(ジンロ)を呑みなが思いついた妙案が、これだっ!

日本では・・・

小西行長…『殿、明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)が日本に恭順(きょうじゅん)する意向を記載した国書を賜(たまわ)ってきました。』

豊臣秀吉…『そうか、そうか、でかしたぞぉ!』

明(みん)では・・・

沈惟敬…『陛下、日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は恭順(きょうじゅん)する意向を記載した国書を賜(たまわ)ってきました。』

万暦帝…『そうか、そうか、オホッホッホッ〜』

そうです。

妙案とは、お互いの国書を自国に都合の良い様に書き換えて、欺瞞(ぎまん)国書を作成する事であった。

小学生が出来の悪いテストの10点を、“0”と“点”の間にもう1つ“0”を加えて100点にする様なものである。

こんな小細工は、直(す)ぐにお母さんにバレる。

日本では・・・

豊臣秀吉…『この国書はウソだらけやぁないかぁ〜! お前みたいな奴は切腹せぇ〜〜い!』

小西行長…『ひぃ〜〜 すみませ〜〜ん。』

明(みん)では・・・

万暦帝…『この国書はウソだらけやぁないかぁ〜! お前みたいな奴は打首じゃ〜〜い!』

沈惟敬…『ひぃ〜〜 すみませ〜〜ん。』

こうして、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は白装束に着替えて切腹するつもりだったが、石田三成(いしだみつなり/豊臣)と前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)などが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して助命嘆願してくれたお陰で命だけは取られなかったが、領国の肥後国(熊本県)南部は領地没収の改易(かいえき)となった。

一方、明(みん)の使節の沈惟敬(しんいけい/明)は、後々に斬首されて死去してしまった。

この度(たび)は、ご冥福(めいふく/死後幸福)をお祈りします。

肥後国(熊本県)の宇土城(うとじょう)の最寄駅は、JRの〈緑川駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、有明海や天草への入口に位置しており、鎌倉時代末期に活躍した武将の菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)や第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)の息子で征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)と呼ばれた懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)の所縁(ゆかり)の地でもある。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

TONY ORLANDO & DAWN /♪ HE DON'T LOVE YOU(LIKE I LOVE YOU)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:34:09

◆◇◆其の八十六:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

朝鮮出兵の一時停戦している間に、日本の豊臣政権かつ豊臣家は激変していた。

子供が出来ない体質と言われた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、神の御加護なのか側室の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)との間に、1593年に次男の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が誕生した。

次男と記載したのは、少し前にも長男となる豊臣鶴松(とよとみつるまつ/豊臣)が誕生していたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の正妻であるおね(高台院、北政所/織田→豊臣)に赤子を預けたところ、豊臣鶴松(とよとみつるまつ/豊臣)は死去してしまった。

この早世は謎のままである。

豊臣秀吉…『うううっ、あんなに元気だったのにぃ・・・』

おね…『あんた、残念だったわねぇ。』

こんな経緯(いきさつ)があった為に、世継ぎとなる豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の誕生は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)は大いに喜び、大いに期待し、大いに警戒した。

ここで豊臣政権の問題となったのが、天皇の政治を補佐する関白(かんぱく)の地位に就任していた世継候補者だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の存在である。

豊臣秀吉…『困ったなぁ〜 豊臣秀次に世継後継者の約束をしてしまったからなぁ〜』

淀君…『殺(や)っちゃいな。』

豊臣秀吉…『さすが織田信長殿の血筋、お主は恐ろしい事を言うなぁ〜』

こうして豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)は、紀伊国(和歌山県)の高野山に籠(こも)り、野心の無い事を表顕(ひょうけん)した。

そして京都の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)の圧力が掛かり、1595年に豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)は高野山の青巌寺(せいがんじ/金剛峯寺)にて27歳の若さで自害する。

豊臣秀吉…『一応に豊臣秀次も親族だから、可哀想な事をしたのぉ〜』

淀君…『あんたぁ、豊臣秀次の妻や子供達も、相続権や遺族年金の云々(うんぬん)って主張するかも知れないから、面倒を起こされる前の今のうちに、殺(や)っちゃいな。』

豊臣秀吉…『あの清楚で容姿端麗な“小牧山の美女”と言われたお市の方の娘とは思えない程の冷酷さやぁのぉ〜』

この豊臣政権の方針により、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の妻や子供などの家族39人が、京都の三条河原で斬首され、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)と共に晒し首(さらしくび)とされた。

その凄惨(せいさん)で悲運な亡骸(なきがら)は、鴨川に掛かる三条大橋の西側に建立された瑞泉寺(ずいせんじ/三条)に弔われており、その直(す)ぐ南東側に建つ先斗町歌舞練場(ぽんとちょうかぶれんじょう)では、舞妓はぁんや芸妓はぁんが“鴨川をどり”のお稽古に励(はげ)んでいる。

今回の教訓が、現代にも根付いている。

『母親は、息子の為なら“鬼”になる。』

この晩年の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の強迫観念と奇行は、1591年に死去した弟の豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)を失った事が大きく関係している。

豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は元々は百姓をしていたが、兄の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の投与で、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍の一員となった。

柔軟性のある調整力と温和な性格で織田軍の武士から慕われ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の出世に大きく貢献した。

7度の主君替えで有名な猛攻武将の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)も、豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)に仕えた時は出奔(しゅっぽん)しなかった逸話が残る。

織田政権から豊臣政権の時代になると豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は、大和国(奈良県)の大和郡山城(こおりやまじょう)の城主となり、和泉国(大阪府)と紀伊国(和歌山県)を併せて110万石の大大名となった。

領主となったと豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は、領国の検地や農業改革、寺院の僧兵禁止、商業や工業の促進などに尽力し、領民との関係も良好で、農民出身の知識と経験も活かされてている。

ところが1586年頃から体調を崩して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)や豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)をはじめ、多くの武将が豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の病気完治の祈願を行なっている。

しかし、その願いも叶わず1591年に豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は亡くなる。

この豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の死をきっかけに、妹の朝日姫(あさひひめ/織田→豊臣→徳川)と母親の仲(なか、天瑞院、大政所/織田→豊臣)の死も重なり豊臣政権の崩壊が始まったと言える。

逆に言えば、それくらい豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は豊臣政権を支えた有能な人材だった証(あかし)でもある。

豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が亡くなった後、大和国(奈良県)の大和郡山城(こおりやまじょう)には大量の金子(きんす)や銀子(ぎんす)が見つかり、後々の豊臣政権で必要になる軍資金を蓄財していたと見られる。

豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が生きていれば、1591年のよく解らない理由で切腹した田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)や、1595年の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の偽装謀反事件もなかったであろう。

その後、60代の高齢となった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は息子でまだ6歳の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の身を案じて、豊臣政権の盤石基盤を固める。

その方策について話し合う為に、主要な武将を山城国(京都府)の小高い丘に建つ伏見城(ふしみじょう)に呼び寄せた。

そして、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)を、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の後見人となり政権運営を補佐する“豊臣五大老”に任命した。

小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)は1597年に死去した為に、後任に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)が任命された。

次に、浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)を引続き豊臣氏に仕える重鎮家臣の“豊臣五奉行”に任命した。

これにより豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は老体に鞭(むち)を打って、最後の大仕事を仕掛ける。

豊臣秀吉…『皆(みな)の者、再び“朝鮮出兵”をして、“世界統一”を成し遂げよう!』

徳川家康…『えぇ〜!? またぁ〜?』

大和国(奈良県)の大和郡山城(こおりやまじょう)の最寄駅は、近鉄の〈近鉄郡山駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、大和郡山市は金魚も有名だが、城下町には遊郭だった川本家住宅などが多少は残っており、ただ、ここは異常に大きい現代建築物の24号線沿いに建つイオンモール大和郡山に注目したい。

多分だが、1日では回り切れないくらいの大きさである。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

TOBY BEAU /♪ MY ANGEL BABY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:35:04

◆◇◆其の八十七:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

豊臣政権の主君の無謀な政策の為に、再び肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)に集結した名だたる武将。

その主要武将は、前回の1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”にも参戦した、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)、小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の他に、新たな武将も加わった。

宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)や藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)。

織田信長(おだのぶなが/織田)から仕えている尾張国(愛知県)の海部(あま)の武将である蜂須賀正勝(はちすかまさかつ/織田→豊臣)の息子の蜂須賀家政(はちすかいえまさ/織田→豊臣→徳川)。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の息子の穂井田元清(ほいだもときよ/毛利)の息子で、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)の養子に入っていた毛利秀元(もうりひでもと/毛利→豊臣)。

吉川元春(きっかわもとはる/毛利)の息子の吉川広家(きっかわひろいえ/毛利→豊臣→徳川)と、1582年の「備中高松城の水攻め」での毛利軍の交渉役となった僧侶の安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)も参戦した。

そして石田三成(いしだみつなり/豊臣)は参戦せずに日本に残って、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に戦況を伝える伝令者(でんれいしゃ)に徹した。

今回の朝鮮出兵では、前回の失策を検討して作戦を改めて、朝鮮半島の全域を軍隊を別けて進軍するのではなく、南朝鮮に領土を確保してお城を築き、軍備や兵糧を確保できる体制を整えてから少しずつ北上侵攻する事とした。

日本軍は肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)から多数の軍艦で出航して、朝鮮半島南部の釜山(プサン)に上陸を試みる。

この時に李氏朝鮮(りしちょうせん)の朝鮮軍も、港湾に軍艦を並べて防衛していた。

朝鮮軍は前回にも参戦していた将軍の元均(ウォンギュン/朝鮮)と、水軍の武将の李億祺(イオッキ/朝鮮)が指揮する。

ただ、水軍の将軍だった李舜臣(イスンシン/朝鮮)は、仲の悪かった元均(ウォンギュン/朝鮮)の謀略(ぼうりゃく)や讒言(ざんげん)により軍隊から失脚していた。

そして海上で日本軍と朝鮮軍が軍艦同士で交戦し、激戦が繰り広げられ次々と炎上する船や、海に飛び込む兵士により、穏やかな海は凄惨(せいさん)な戦場と化していた。

この合戦により朝鮮軍の将軍の元均(ウォンギュン/朝鮮)と水軍の武将の李億祺(イオッキ/朝鮮)は戦死する。

これを1597年に起こった「漆川梁海戦」(しっせんりょうかいせん)と呼ぶ。

朝鮮軍の主要将軍が2人も討死した事で李氏朝鮮(りしちょうせん)は、虚偽の罪で失脚していた水軍の将軍だった李舜臣(イスンシン/朝鮮)を再び呼び戻す。

李舜臣…『この待遇、何か感じ悪いし、腑(ふ)に落ちないなぁ〜』

ただ、日本軍の勢いは止まる事を知らず、釜山(プサン)に上陸してから進撃を続けて、朝鮮半島南部の制圧を完了する。

そして、次はお城の建設を始め、先(ま)ずは蔚山城(ウルサンソン)を築き加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が居城した。

この日本軍の蔚山城(ウルサンソン)を、明軍と朝鮮軍の連合軍は5万人の軍勢で総攻撃した。

これには百戦錬磨で戦(いくさ)上手の加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)も窮地に追いやられる。

そこに黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、蜂須賀家政(はちすかいえまさ/織田→豊臣→徳川)、小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)、毛利秀元(もうりひでもと/毛利→豊臣)、吉川広家(きっかわひろいえ/毛利→豊臣→徳川)などの猛将が、2万人の軍勢を率いた援軍が駆け付ける。

これにより戦況は逆転し、明軍と朝鮮軍の連合軍は2万人の戦死者を出して敗北を来(き)す。

これを1598年に起こった「蔚山城の戦」(うるさんそんのたたかい)と呼ぶ。

ただ、日本軍にとっての大勝利でも、日本の豊臣政権にとっては暗転(あんてん)の引き金となった。

この戦(いくさ)に参戦した武将は、褒美の論功行賞を与えられるどころか、ほとんどの者が処罰を受けている。

それは、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)や毛利氏の僧侶でもある安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)、それに日本に居る伝令者(でんれいしゃ)の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して『無謀な作戦で戦(いくさ)を行ったり、軍令違反を犯した。』などの真偽の定かでない戦況を伝えていたと言う。

これが後々の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)につながる事となる。

そしてその日本では、1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう)で病気により床に伏せていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去したのである。

そんな最期(さいご)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、こんな辞世(じせい)の唄を残している。

豊臣秀吉…『♪京都にいるときゃ〜 関白(かんぱく)と呼ばれたの〜 大坂じゃ〜 太閤(たいこう)と名乗ったの〜 尾張の戦地に〜 戻ったその日から〜 あなた(織田信長)が探して〜 くれるの待つわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』

豊臣秀吉…『♪忘れた事など〜 一度もなかったわ〜 いろんな武将(徳川家康や柴田勝家)を〜 知るたびに〜 いつもこの胸〜 かすめる面影の〜 あなた(織田信長)を信じて〜 ここまで来たわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』

豊臣秀吉…『♪あなた(織田信長)の似顔を〜 指物(さしもの/旗)に書きました〜 秀吉の命と〜 書きました〜 流れ武将の〜 最後の止まり木に〜 あなた(織田信長)が止まって〜 くれるの待つわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』(♪昔の名前で出ています)

ただ、この豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去は、朝鮮半島で戦っている日本軍の武将に直(す)ぐには知らされなかった。

「蔚山城の戦」(うるさんそんのたたかい)の敗北により明軍と朝鮮軍の連合軍は10万人の軍勢を整えて、李氏朝鮮(りしちょうせん)の首都でもある漢城府(かんじょうふ/ソウル)から出陣した。

狙うは加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)が居城するそれぞれのお城である。

特に島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が守るお城には、明軍の5万人の軍勢が包囲した。

しかし、鎌倉時代から戦闘集団として鍛えられてきた島津氏であり、先(ま)ずは明軍の兵糧倉庫を焼き討ちにして長期戦を出来なくし、お城に大軍で押し寄せてくる兵士をお家芸でもある“釣り野伏せ”(つりのぶせ)で、ある一定の位置にまで来た時に隠れていた伏兵の鉄砲(火縄銃)で総攻撃を浴びせた。

しかも、お城まで辿(たど)り着けたとしても、その城郭には地雷が埋められており爆死する兵士が多発する。

これらにより明軍は3万人近い兵士が戦死した。

この戦術により、アジア大陸では“鬼島津”(おにしまづ)と呼ばれる島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の武勇伝が生まれた。

この頃になると豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の死去は日本軍に周知され、朝鮮半島から撤退し始める。

この日本軍の動きを不審に思った明軍と朝鮮軍の連合軍は追撃するも、撤退戦でも攻撃を喰らい、水軍の将軍だった李舜臣(イスンシン/朝鮮)は最後に戦死してしまう。

朝鮮での合戦で武功を証明する為に、数々の首級(しゅきゅう)を船に乗せて持って帰る訳にもいかず、討ち取った明軍の兵士の耳や鼻を削ぎ落として首級(しゅきゅう)の代わりの証(あかし)として日本に持ち帰っている。

それが納められたのが七条(しちじょう)にある豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の所縁(ゆかり)のある京都の方広寺(ほうこうじ/天台宗)に隣接する耳塚(鼻塚)である。

これを1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”と呼ぶ。

そして、豊臣政権は崩壊の兆しを見せながら「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の時流に進んでいく。

京都の耳塚(鼻塚)の最寄駅は、京阪の〈七条駅〉(しちじょうえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、周辺には平安時代末期の平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)などの平氏武家屋敷や第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷)の屋敷に建造された三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)、それに鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)など、とても記述できない程の遺跡や史跡がてんこ盛りである。

山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう)の最寄駅は、JRの〈桃山駅〉をはじめ近鉄の〈桃山御陵前駅〉(ももやまごりょうまええき)もしくは京阪の〈伏見桃山駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、明治期の1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦となった「鳥羽伏見の戦」の戦地がこの辺りで、日本料理屋の魚三楼(うおさぶろう)の建物にはその戦乱時の弾痕が残り、戦国から幕末までの動乱に想いを馳(は)せながら、駅前の中華料理のくれたけで担々麺を食するのが歴史家の礼儀である。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

BOB WELCH /♪ SENTIMENTAL LADY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:36:02

◆◇◆其の八十八:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

1598年に山城国(京都府)の小高い丘に建つ伏見城(ふしみじょう)にて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去すると、豊臣政権の家督後継者は息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が就いた。

ただ、この時の息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)はまだ幼かった為に、政権運営を補佐する“豊臣五大老”と豊臣氏に仕える重鎮家臣の“豊臣五奉行”が、合議制により実質的に豊臣政権を司った。

“豊臣五大老”には戦国大名の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)が就いた。

“豊臣五奉行”には豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣だった浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)が就いた。

戦国の戦地を切り抜けてきた猛攻武将がこれだけ揃うと、合議制とは言え当然に意見や方針の相違から不協和音が早くから見られた。

特にこの10人の内、織田信長(おだのぶなが/織田)が現役バリバリの時代から共に戦ってきた三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と“ツッパリの利家”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の存在感は大きかった。

この2人の危険で微妙なバランスが、良くも悪くも豊臣政権の平定を保つ事ができていた。

ただし、この間にも徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が生前に取り決めた大名同士の縁戚禁止を反故(ほご)して、息子の徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)と伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の娘の五郎八姫(いろはひめ/伊達→徳川)を結婚させている。

それ以外でも、織田信長(おだのぶなが/織田)の乳兄弟だった池田恒興(いけだつねおき/織田)の息子の池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、浅井長政(あざいながまさ/浅井)や豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の家臣で猛攻武将の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣だった“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と呼ばれた加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)などを徳川派閥に引き入れて勢力を拡大させていった。

そんな1599年に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が死去すると事態は一転する。

用意周到に組織形成を構築していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が、豊臣政権の中でも抜きん出たのは明らかである。

残された豊臣派閥は、“豊臣五大老”の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)と、“豊臣五奉行”の浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)の8人だが、実力も勢力も徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川派閥には遠く及ばない。

そんな不安定な豊臣政権の隙を突いて、武断派(ぶだんは)と呼ばれる武将が行動を起こした。

目的は文治派(ぶんちは)と呼ばれる石田三成(いしだみつなり/豊臣)の成敗である。

理由は1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”にて、朝鮮半島に赴(おもむ)く事なく石田三成(いしだみつなり/豊臣)が戦地の状況を汲み取らず、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に不利な戦況報告をしていた事が挙げられる。

これにより朝鮮半島で戦っている武断派(ぶだんは)の武将は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に処罰や叱責(しっせき)を受けている。

この反乱を起こした武断派(ぶだんは)の武将には、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)の“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)と池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)の息子の細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)、浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)の息子の浅野幸長(あさのよしなが/豊臣→徳川)の7人が揃っていた。

また、“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)の脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ/織田→豊臣)の息子の蜂須賀家政(はちすかいえまさ/織田→豊臣→徳川)、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)も参加していたと言われる。

反乱は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の武家屋敷にて、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の葬儀に参列する石田三成(いしだみつなり/豊臣)を襲撃して討ち取る計画だった。

ところが襲撃計画が事前に石田三成(いしだみつなり/豊臣)に知られ、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう)に逃亡されて失敗に終わる。

武断派(ぶだんは)は京街道を上り山城国(京都府)まで侵攻して伏見城(ふしみじょう)を包囲した。

この時、伏見城(ふしみじょう)の近くの向島城(むかいじまじょう)に居た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が事態に気付き抗争の仲裁に入る。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、石田三成(いしだみつなり/豊臣)に対して豊臣政権の役職を引退して、領国の近江国(滋賀県)の佐和山城(さわやまじょう/彦根)にて蟄居(ちっきょ)する様に薦める。

これを完全に納得はしてないものの、石田三成(いしだみつなり/豊臣)と武断派(ぶだんは)の武将は承諾した。

これを1599年に起こった「七将襲撃事件」(しちしょうしゅうげきじけん)と呼ぶ。

この石田三成(いしだみつなり/豊臣)の排斥(はいせき)により、豊臣派閥は完全に瓦解(がかい)する。

近江国(滋賀県)の佐和山城(さわやまじょう/彦根)の最寄駅は、JRと近江鉄道の〈彦根駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後に“赤備え”(あかぞなえ)の甲冑(かっちゅう)で軍隊を率いる“徳川四天王”で“赤鬼”の異名を持つ井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)が入城したが、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の居城だった事を嫌い、息子の井伊直勝(いいなおかつ/徳川)の時に、その真向かいに彦根城(ひこねじょう)を築城した経緯(いきさつ)がある。

山城国(京都府)の向島城(むかいじまじょう)の最寄駅は、京阪の〈観月橋駅〉(かんげつきょうえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、宇治川の南詰にある向島城(むかいじまじょう)は当初は巨大な巨椋池(おぐらいけ)に浮かぶ島に築城された水城であり、現在は巨椋池(おぐらいけ)は埋立てられ新田開発を経て、現代は向島ニュータウンが造成されて巨大な高層マンションが建ち並んでいる。

向島ニュータウンは、京都で一番と言われるお洒落な街区で構成され、都人(みやこびと)の憧れの街でもある。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

NICK DECARO /♪ ALL I WANT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:36:59

◆◇◆其の八十九:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

豊臣政権にて完全に権力を掌握した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は政権奪取にようやく動き出す。

ターゲットは安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、加賀国(石川県)の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の家督継承した息子の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)、陸奥国(むつ/福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)である。

先(ま)ずは小手先に加賀国(石川県)の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を突いた。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は自身を暗殺する計画を企てたとして、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を討伐すると通告した。

徳川家康…『利長殿よぉ、わしぃを暗殺しようとしたなぁ! 証拠は揃っておるぞぉ!』

前田利長…『ええっ〜!? 何でバレたのぉ〜? 極秘に計画したのに、おかしいなぁ〜?』

徳川家康…『えっ!? 暗殺計画は本当だったのぉ!?』

前田利長…『すみませんでしたぁ! お詫びに母親のまつ(芳春院/織田→豊臣)を人質に差し出します。』

まつ…『家康殿、お久しぶりですわねぇ。 尾張国(愛知県)の時の昔話でもしましょうねぇ。』

徳川家康…『えっ? あっ、はい。』

こうして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を徳川派閥に取り入れた。

次なるターゲットは、陸奥国(むつ/福島県)の会津を領土とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)に謀反の疑いを掛けて討伐を仕掛ける。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に対して、京都に上洛する様に命令を下すも、これを2人は拒否する。

しかも直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を批判する“直江状”(なおえじょう)なる物が出回り、これを見た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は激怒する。

そこで上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)の為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊の大軍を進軍させる。

東北地方の入口にもあたる下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮城(亀ヶ岡城)には、息子の結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)を居城させた。

結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)とは、下総国(しもうさ/千葉県・茨城県)の武将の結城晴朝(ゆうきはるとも/豊臣→徳川)に養子に入っていた子供である。

この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の動きに乗じて、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)に居城していた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の所領だった陸奥国(むつ/宮城県)の白石城(しろいしじょう/刈田)に侵攻を開始した。

これ対して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)も上杉軍を派遣して攻防するも、元々は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の領土だった白石城(しろいしじょう/刈田)だった為に、上杉軍は領民の激しい抵抗で奪還を失敗する。

ただ、この時期に“豊臣五奉行”の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が西軍の総大将に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を就任させて挙兵した。

この時、徳川派閥に属してきた越前国(福井県)の敦賀城の城主である大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)は、親友だった石田三成(いしだみつなり/豊臣)に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を討伐する話しを聞かされ、主君と親友の何方(どちら)を選択するか思い悩んだ上で、親友の石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍に就く事を決める。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍が下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮の手前の小山(おやま)に滞在した際に、畿内(きない/関西)で石田三成(いしだみつなり/豊臣)が挙兵した事の知らせが入る。

この時点で徳川軍は、陸奥国(むつ/福島県)の会津を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の上杉軍と、畿内(きない/関西)を拠点とする石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍に挟まれる危機的な状況に陥る。

そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は軍議を開催して、同行する武将の意見を聞いた。

この時、参陣していた武将は、池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)、細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、浅野幸長(あさのよしなが/豊臣→徳川)、京極高知(きょうごくたかとも/豊臣→徳川)など錚々(そうそう)たる猛者である。

徳川家康…『西国で石田三成が挙兵して徳川軍に侵攻する知らせが入った。 現状では上杉軍と西軍に挟み討ちにされる可能性がある。 このまま東方に侵攻して上杉軍と交戦するか、また、西方に引き返して西軍と交戦するか、判断の別れる所である。 戦国を戦い抜いてきた百戦錬磨の武将の意見を聞きたい。』

福島正則…『三成めぇ! 何処(どこ)まで豊臣秀吉殿の意志の邪魔をするかぁ!』

黒田長政…『戦術で背後を侵攻され勝利した軍勢は皆無(かいむ)であります。 上杉軍への交戦は出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)で布陣する最上義光殿と陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)で布陣する伊達政宗殿に任せて、我々の徳川軍は西国の石田三成殿が率いる西軍と交戦すべきです。』

この軍議の決定により進路を反転して西側に引き返して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が東海道を、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊が中山道(なかせんどう)を侵攻する事になった。

徳川家康…『ただ、我々の徳川軍も、石田三成殿が率いる西軍も、亡き豊臣秀吉殿の意志を引き継ぎ豊臣秀頼殿を支えると言う大義は同じである。 この徳川軍の中にも秀吉殿の恩義を感じている武将も多いはず。 もし、西軍に就きたいとあらば、遠慮なく石田三成殿の元に行っても構わないぞぉ!』

福島正則…『いやぁ、私は徳川家康殿に従います。』

黒田長政…『私も徳川軍の為に、全力を尽くす。』

池田輝政…『私も同感であります。』

細川忠興…『拙者(せっしゃ)も徳川家康殿に着いて行きますぞぉ。』

浅野幸長…『三河国(愛知県)の八丁味噌が大好きな私も徳川軍に従軍致す。』

京極高知…『俺も“やっさん”と共に闘うぜぇ!』

徳川家康…『お前に“やっさん”と言われる覚えは無い!』

山内一豊…『私は東海道の道中に建つ遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)を徳川軍の陣営として提供致す!』

徳川家康…『おおっ! これは辱(かたじけな)い。 皆の想いが1つならば、この軍勢は徳川軍ではなく、東軍に改める事にする。』

これを1600年に開催した「小山評定」(おやまひょうじょう)と呼ぶ。

こうして東軍は西軍と交戦する為に、西国に侵攻する事になった。

陸奥国(むつ/宮城県)の白石城(しろいしじょう/刈田)の最寄駅は、JRの〈白石駅〉(しろいしえき)もしくは新幹線の〈白石蔵王駅〉(しろいしざおうえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、陸奥国(むつ/福島県)と出羽国(でわ/山形県)の国境に位置する白石城(しろいしじょう/刈田)は重要な防衛拠点だった事が解り、そこから山に登るとキツネ村もあり、たくさんの可愛い狐(キツネ)が迎えてくれますが、中には狐(キツネ)っぽい犬(イヌ)も混じっているので探してみて下さい。

キツネ村のルールとして、狐(キツネ)を呼ぶときは『ル〜ルルルル』(五郎さんバージョンと螢バージョンがあります。)でお願いします。

下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮城(亀ヶ岡城)の最寄駅は、東武の〈東武宇都宮駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、JRと新幹線の〈宇都宮駅〉から西方へ真っ直ぐ延びる大通沿いにある宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ)が有名で、現在では東方に路面電車の宇都宮ライトレールが開通した為に利便性が向上しています。

下野国(しもつけ/栃木県)の「小山評定」(おやまひょうじょう)を開催した跡地の最寄駅は、JRと新幹線の〈小山駅〉(おやまえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、近くには県庁所在地でない栃木県栃木市もあり、その山奥に進めば徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が祭神として祀られる日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)もあります。

「小山評定」(おやまひょうじょう)の時は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も、まさか祭神となって日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)を創建するとは夢にも思っていなかったでしょうね。

遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)の最寄駅は、JRと新幹線と天竜浜名湖鉄道の〈掛川駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、天竜川と大井川の中間に位置する掛川城(かけがわじょう)は、室町時代に駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の守護代だった今川義忠(いまがわよしただ/斯波)が築城し、その妻の北川殿(きたがわどの/今川)は北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の姉で、2人の息子が今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)、そして孫が“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと/今川)となっております。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

ANDY GIBB /♪ (OUR LOVE)DON'T THROW IT ALL AWAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:37:55

◆◇◆其の九十:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊は進路を反転して西側に引き返して行く。

これにより伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と和睦して白石城(しろいしじょう/刈田)を返還してしまう。

しかし、畿内(きない/関西)の豊臣政権の混乱に乗じて直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の義理の甥にあたる前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)を従えて、2万人の上杉軍を最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の領土でもある出羽国(でわ/山形県)の畑谷城(はたやじょう/山辺)に侵攻する。

これを「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)と呼ぶ。

大軍を前に最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は撤退命令を出したが、畑谷城(はたやじょう/山辺)を守護する最上氏の家臣の江口光清(えぐちあききよ/最上)は500人の兵士と共に抗戦した。

ただ、多勢に無勢で江口光清(えぐちあききよ/最上)は敗北して討死し、畑谷城(はたやじょう/山辺)は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に占領させる。

この戦況不利により出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に居城する最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)に居城する甥の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に援軍要請をする。

最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹かつ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親で最上家に出戻りしていた義姫(よしひめ/最上→伊達)の働き掛けもあり、留守政景(るすまさかげ/伊達)が率いる3000人の兵士の伊達軍が進軍した。

留守政景(るすまさかげ/伊達)とは、伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子で留守顕宗(るすあきむね/伊達)の養子に入り、陸奥国(むつ/宮城県)の岩切城(いわきりじょう/仙台)の城主である。

この『伊達軍の援軍、直(す)ぐに来(きた)る!』の知らせは最上軍の兵士の士気(しき)を高めて、出羽国(でわ/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)を守護する最上氏の家臣の志村光安(しむらあきやす/最上)は、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の家臣の春日元忠(かすがもとただ/武田→上杉)が布陣する陣営に夜襲を掛けて勝利する。

この敗北で春日元忠(かすがもとただ/武田→上杉)は討死した。

ここで出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に居城する最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、7000人の兵士を引き連れて最上軍本隊も出陣した。

ところが、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍と石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍の合戦は、半日足らずで決着がついて「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)は東軍の勝利に終わる。

この知らせは「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)の戦場にも届き、東軍に就いていた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊は、戦況有利となり勢いに乗る。

一方、有利な情勢で進めていた西軍に就いていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が率いる上杉軍は、この時点で賊軍となり撤退を余儀なくされる。

2万人の兵士が引き上げていく上杉軍の後方部隊を担う“しんがり”は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)が務めた。

山形から長井まで続く狐越街道(きつねごえかいどう)を上杉軍は進み、途中の畑谷城(はたやじょう/山辺)に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)の“しんがり部隊”は篭城して、執拗に進撃してくる最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊に抗戦した。

直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の家臣で上杉軍の下秀久(しもひでひさ/上杉→最上)は、出羽国(でわ/山形県)の谷地城(やちじょう/河北)を守護していたが、西軍および上杉軍の敗北を知らされておらず抗戦を続けていた。

ただ、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊の総攻撃に遭い、下秀久(しもひでひさ/上杉→最上)は降伏(こうふく)して、その後は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の家臣として従属(じゅうぞく)する。

ようやく出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に帰還した直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は自害しようとするも、同友の前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)に止められる。

直江兼続…『殿、無念であった。』

グッ

前田慶次…『兼続殿、おやめなされぇ! 死ぬのはいつでもできる。 ただ、それは今ではない!』

直江兼続…『慶次殿、うっううう・・・』

前田慶次…『兼続殿には、まだやる事がある。 必ずやる事がある。』

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)かつ「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)も終わり、徳川派閥による戦後処理が行われた。

出羽国(でわ/山形県)の合戦で大活躍した最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、庄内地方まで領土を認められて加増され57万石の大名となった。

陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は目立った功績が乏しく2万石の加増で終わる。

一方、敗北した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)の会津を中心とした120万石から、領地削減の減封(げんぽう)と領地移転の転封(てんぽう)により出羽国(でわ/山形県)の米沢の30万石となった。

天下の大大名から一気に貧乏大名になった上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を支えたのは、あの重鎮家臣でもある直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)である。

陸奥国(むつ/宮城県)の岩切城(いわきりじょう/仙台)の最寄駅は、JRの〈岩切駅〉から徒歩で山に登り1時間程度の距離にあり、近くには“日本三大史跡”と言われる多賀城(たがじょう)もあり、近畿は奈良県の平城京(へいじょうきょう)と九州は福岡県の太宰府(だざいふ)の3箇所を巡れば、奈良時代にタイムトリップできます。

出羽国(でわ/山形県)の畑谷城(はたやじょう/山辺)の最寄駅は、JRの〈羽前山辺駅〉(うぜんやまべえき)から徒歩で山に登り1時間程度の距離にあり、最上氏の山形城(やまがたじょう)を見下ろす畑谷城(はたやじょう/山辺)は、隣接する越後国(新潟県)からの敵襲を知らせる役目があった。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

SPANKY & OUR GANG /♪ LIKE TO GET TO KNOW YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:38:44

◆◇◆其の九十一:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

下野国(しもつけ/栃木県)の小山(おやま)にて「小山評定」(おやまひょうじょう)の軍議の決定により、進路を反転して西側に引き返して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が東海道を、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊が中山道(なかせんどう)を侵攻する事になった。

ただ、この時点では、西軍の石田三成(いしだみつなり/豊臣)は家臣の島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)と共に、総大将に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を就任させて、安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)、島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)、織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)や、小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)、脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、朽木元綱(くつきもとつな/室町→織田→豊臣→徳川)、小川祐忠(おがわすけただ/浅井→織田→豊臣)、赤座直保(あかざなおやす/朝倉→織田→豊臣)などを陣営に引き入れている。

特に西国の毛利氏が西軍に就いた事は、東軍にとっても脅威となり見過ごす事は出来ない。

そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は側室で隠密(おんみつ)として働く阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)を交渉人(ネゴシエーター)として、東軍に就く様に説得する為に各地の武将の所に向かわせた。

阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)とは、甲斐国(山梨県)の武田氏の家臣の家に生まれ、駿河国(静岡県)の今川氏の家臣の家に嫁ぎ、文武両道の女武士で徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の教育係も兼ねていた。

東軍と西軍の戦力はほぼ互角だったが、この阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)の働きで、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西軍に勝利できる事を確信した。

下野国(しもつけ/栃木県)の小山(おやま)から武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に戻ってきた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍は、先ずは先陣として池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)などが率いる東軍先鋒隊が進軍した。

東軍先鋒隊は東海道を西方に突き進み、尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)に入城して陣営を設けた。

一方、西軍の石田三成(いしだみつなり/豊臣)と島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)は美濃国(岐阜県)の大垣城(おおがきじょう)に入城して陣営を設けた。

清洲城(きよすじょう)に布陣する東軍先鋒隊は、いくら待っても徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍本隊が到着しない事に焦(あせ)りと苛立(いらだ)ちを覚える。

福島正則…『家康殿の東軍本隊はまだなのかぁ! 我々の東軍先鋒隊だけじゃ勝ち目はないぞぉ!』

黒田長政…『いゃ、もしかしたら家康殿は我々を警戒しているのかも知れない。 元は秀吉殿の子飼い家臣である為に、いつ西軍に寝返ってもおかしくないからな。』

福島正則…『ならば、我々は揺るぎない東軍の主砲である事を証明しようじゃないかぁ!』

池田輝政…『よし! 先(ま)ずは難攻不落と言われる稲葉山(いなばやま/金華山)の岐阜城(ぎふじょう)を落として見せよう。』

こうして尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)から東軍先鋒隊から出陣し、北方に位置する美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)に侵攻した。

稲葉山(いなばやま/金華山)に建つ岐阜城(ぎふじょう)には、織田信長(おだのぶなが/織田)の孫で織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子の織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)が布陣していた。

しかし、本格的な戦(いくさ)の経験の無い織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)は、猛攻武将が揃う東軍先鋒隊の攻撃によりたったの3日余りで岐阜城(ぎふじょう)は落城した。

責任を感じた織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)は自害しようとするが、元は織田氏の家臣だった池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)により阻止された。

これを「岐阜城の戦」(ぎふじょうのたたかい)と呼ぶ。

それと並行して摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)では、“豊臣五奉行”だった長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)と前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)と増田長盛(ますだながもり/豊臣)が、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かった後に大坂城(おおさかじょう)から徳川派閥の一党を排除していた。

大坂城(おおさかじょう)を追い出された徳川派閥は、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)に入城して身を寄せた。

伏見城(ふしみじょう/京都)には、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の青年期の頃から仕えていた鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)と深溝松平氏(ふこうずまつだいらうじ/額田)の松平家忠(まつだいらいえただ/徳川)と松平近正(まつだいらちかまさ/徳川)が城代を務めていた。

この伏見城(ふしみじょう/京都)に西軍が侵攻を開始した。

この時に薩摩国(鹿児島県)から軍隊を率いた島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)と、筑前国(福岡県)から軍隊を率いた小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)は東軍に参戦する為に伏見城(ふしみじょう/京都)に訪れたが、不審に思った門番に追い返されて西軍に就いている。

島津義弘…『只今、東軍への参戦の為に、薩摩国(鹿児島県)から参った島津隊で御座る。 開門をお願い致す。』

伏見城の門番…『そんな軍隊は聞いてないぞぉ! 帰った、帰った!』

島津義弘…『ええっ〜!? 嘘(ウソ)だろぉ〜? 仕方ない、西軍に就くか。』

そして・・・

小早川秀秋…『只今、東軍への参戦の為に、筑前国(福岡県)から参った小早川隊で御座る。 開門をお願い致す。』

伏見城の門番…『そんな軍隊は聞いてないぞぉ! 帰った、帰った!』

小早川秀秋…『ええっ〜!? 嘘(ウソ)だろぉ〜? 仕方ない、取り敢えず西軍に就くか。』

伏見城(ふしみじょう/京都)に集結した西軍の宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)や小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)をはじめ、土佐国(高知県)の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/長宗我部→豊臣)や肥前国(佐賀県・長崎県)の鍋島勝茂(なべしまかつしげ/徳川)などの武将が参戦した。

当初は西軍から降伏勧告を受けていた東軍伏見隊の鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)だったが、使者を斬殺して西軍の陣営に送り返し、徹底抗戦の構えを見せた。

これにより西軍の猛攻撃を受けた伏見城(ふしみじょう/京都)は落城して、鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)をはじめ松平家忠(まつだいらいえただ/徳川)や松平近正(まつだいらちかまさ/徳川)などが討死した。

この凄惨(せいさん)な戦地となった伏見城(ふしみじょう/京都)の城内各所には、畳や床板には夥(おびただ)しい箇所の血痕が残っていたと言う。

これを「伏見城の戦」(ふしみじょうのたたかい)と呼ぶ。

美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)の最寄駅は、名鉄の〈田神駅〉(たがみえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、金華山(きんかざん/稲葉山)の麓には長良川が流れ、その川岸には城下町の川原町が整備されており、織田信長(おだのぶなが/織田)が築いた楽市楽座とまではいかないが、その雰囲気には十分に浸る事ができる。

山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)の最寄駅、JRの〈桃山駅〉をはじめ近鉄の〈桃山御陵前駅〉(ももやまごりょうまええき)もしくは京阪の〈伏見桃山駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、この伏見城(ふしみじょう/京都)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が2度に渡り築城し、その後、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が築城している。

因(ちな)みに現存している伏見城(ふしみじょう/京都)は、近鉄グループが運営していた遊園地の伏見桃山キャッスルランドの建造物で、鉄筋コンクリート造(RC造)の模擬天守閣になり、立地も含めて史実とはかけ離れていますが、一目でイメージしやすいお城は今でも伏見のランドマークである事は確かです。

伏見城(ふしみじょう/京都)の城郭には、第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の墓陵となる伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)が造営されています。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

GERARD KENNY /♪ MUSIC AND WORDS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:39:39

◆◇◆其の九十二:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)では、美濃国(岐阜県)の「岐阜城の戦」(ぎふじょうのたたかい)での勝利と、山城国(京都府)の「伏見城の戦」(ふしみじょうのたたかい)での敗北の知らせを聞いて、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が東海道を、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊が中山道(なかせんどう)を進軍した。

徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と側近の榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)と大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)が率いる3万8千人の東軍2号隊が進路とする中山道(なかせんどう)には、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)で西軍に就いた真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と息子で真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が布陣している。

甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)に仕え“武田二十四将”と言われる真田幸綱(さなだゆきつな/武田)を父親に持つ真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)もまた勇猛武将として知られた。

その息子で兄の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、“徳川四天王”と言われる本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の娘で戦闘嫁と呼ばれる小松姫(こまつひめ/徳川→真田→徳川)を妻として、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では東軍1号隊の参加して、真田氏存続のために親や兄弟と袂(たもと)を分かち、江戸幕府では松代藩(長野)の藩主として90歳まで現役として活躍する。

その弟の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)は勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将として頭角(とうかく)を表し、1614年に起こった「大坂・冬の陣」、1615年に起こった「大坂・夏の陣」では豊臣軍に味方して敗戦はするも、武士としての忠誠心と潔(いさぎよ)い散り際(ぎわ)は現代まで語り継がれる。

そんな事情の真田氏に対して東軍2号隊は、この上田城(うえだじょう)を素通りする選択肢もあったが、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)は律儀にも真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が指揮する3千人余りの西軍真田隊と交戦する。

当初は真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)も降伏勧告を受け入れる意志を表明していたが、これは戦術で時間稼ぎをする間に上田城(うえだじょう)の防御力を高めて戦闘準備に入っていた。

これに気付いた徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の東軍2号隊は、上田城(うえだじょう)に総攻撃を開始するが、彼方此方(あちらこちら)に仕掛けられている罠(トラップ)にはまり壊滅寸前にまで陥る。

これを「上田合戦」(うえだかっせん)と呼ぶ。

この合戦により時間と軍力を浪費させた上に、東軍2号隊が西方に向かう途中で、木曽路で悪天候に見舞われ進軍できなくなり、美濃国(岐阜県)で待つ徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊と合流できずに、後々に「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に参戦できなかった東軍2号隊の大将の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)と大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)は大遅刻をして、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に大目玉を食らう事になる。

これら事情から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊は、東軍2号隊を待つ事なく関ヶ原へと進軍させた。

美濃国(岐阜県)の西部に位置する関ヶ原は、北方に伊吹山(いぶきやま)、東方に南宮山(なんぐうさん)、南方に鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)、西方に今須山(いますやま)が聳(そび)える盆地となっている。

その山岳地帯を縫(ぬ)う様に東西を結ぶ中山道(なかせんどう)、北方につなぐ北国街道(ほっこくかいどう)、南方につなぐ伊勢街道(いせかいどう)が通る。

西軍は、その関ヶ原の地に複数の陣営を設けて各地の武将を布陣させ、そこから東方にある大垣城(おおがきじょう)に代表者の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が居城していた。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が進軍を開始した事を聞いた石田三成(いしだみつなり/豊臣)は関ヶ原の西方に抗戦の陣営を設けた。

北方の笹尾山(ささおやま)には石田三成(いしだみつなり/豊臣)と家臣の島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)が本陣を構えて、島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)、小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)を上側から中部までに布陣させた。

そして、脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、赤座直保(あかざなおやす/朝倉→織田→豊臣)、小川祐忠(おがわすけただ/浅井→織田→豊臣)、朽木元綱(くつきもとつな/室町→織田→豊臣→徳川)、小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)を中部から下側までに布陣させた。

それに対して東軍は、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)、本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)、京極高知(きょうごくたかとも/豊臣→徳川)が布陣し、その後方の桃配山(ももくばりやま)に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が本陣を構え、近くには山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)が布陣した。

8万人余りの西軍と7万人余りの東軍の天下分け目の大合戦。

信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)の最寄駅は、JRと新幹線と上田電鉄の〈上田駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、この中の上田電鉄は昭和期にマルシンハンバーグのCMで使用され、信濃の山脈と田園風景の中を走る古い車両が味わい深いものがあった。

また、映画の“男はつらいよ/寅次郎純情詩集”でも上田電鉄の〈別所温泉駅〉の周辺で、不始末をした寅さんを妹のさくらさんが怒りながらも迎えに来るシーンがあり、その映像の中には昭和50年代の香りが満載であるが、現在でもさほど雰囲気は変わっていない。

美濃国(岐阜県)の大垣城(おおがきじょう)の最寄駅は、JRと養老鉄道の〈大垣駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、西濃(せいのう)と言われる大垣市の周辺は飛鳥時代から西国と東国をつなぐ要所となっており、その時代による史跡や遺跡も数多くあり、飛鳥時代の672年に起こった「壬申の乱」(じんしんのらん)や鎌倉時代の1221年に起こった「承久の乱」(じょうきゅうのらん)、そして戦国時代の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)と、特に大きな合戦は必ず美濃国(岐阜県)で対戦されている。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

AARON NEVILLE /♪ YES,I LOVE YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:40:31

◆◇◆其の九十三:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

美濃国(岐阜県)の関ヶ原にて、8万人余りの西軍と7万人余りの東軍による天下分け目の大合戦が繰り広げられた。

合戦の合図の法螺貝(ほらがい)の音色が響き渡る。

ボォオ〜オ〜 ボォオ〜オ〜

両軍入り乱れての戦乱で、西軍が優勢で始まり、東軍がなんとか抗戦する。

ところがである。

南方の松尾山(まつおやま)に布陣していた西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)に襲い掛かったのである。

これぞ東軍への寝返りの合図でもあった。

これにより周囲に布陣していた西軍の脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、赤座直保(あかざなおやす/朝倉→織田→豊臣)、小川祐忠(おがわすけただ/浅井→織田→豊臣)、朽木元綱(くつきもとつな/室町→織田→豊臣→徳川)も寝返り、西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)の軍勢を包囲して壊滅させる。

この西軍の不利な戦況により、他の西軍の武士も士気が低下して、見る見る内に東軍に追い込まれていく。

結果、6時間余りで西軍は崩壊して敗北した。

西軍の代表者でもある石田三成(いしだみつなり/豊臣)は戦地から逃亡し、その家臣の島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)は混乱に乗じて行方(ゆくえ)知れずとなった。

この状況下で、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が率いる西軍島津隊は、周囲を東軍に包囲された為に撤退する事となるのだが、通常は軍勢を後退させるところを、それでは東軍に追い込まれて攻撃される為に、逆に西軍島津隊を前進させて徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が本陣を構える桃配山(ももくばりやま)の前を通過して、伊勢街道(いせかいどう)を通り撤退していった。

島津義弘…『あっ、家康殿、我々はこれで薩摩国(鹿児島県)に帰りますのでぇ。』

徳川家康…『おお〜 義弘殿、ご苦労様であった。 今、皆んなで戦勝の桃を食べておるところじゃ。 御主らも1つ桃を持って帰ってくれぇ。』

島津義弘…『あっ、済みませんねぇ〜 では、頂きます。』

徳川家康…『戦勝記念の桃だから美味しいよぉ。 家臣の分もあるから、皆んなで分けてくれ。』

島津義弘…『有難う御座います。 帰路の船で頂きます。』

徳川家康…『お〜お〜 薩摩国(鹿児島県)までの長旅になるから、気を付けて帰って下さいなぁ。』

これを“島津の退き口”(しまづののきぐち)と呼ぶ。

最初に攻撃された大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)が率いる西軍大谷隊の武士は戦地で討死した。

何とか生き残った武将の大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)は、家臣の湯浅五助(ゆあさごすけ/豊臣)に介錯(かいしゃく)を依頼して、武士らしく切腹した。

この時に大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)が湯浅五助(ゆあさごすけ/豊臣)に伝えた遺言が残る。

大谷吉継…『わしぃの首は誰にも分からぬ様に、戦地から離れた所に埋めてくれ。』

湯浅五助…『殿、分かり申した。』

大谷吉継…『では、五助よぉ、頼む。』

湯浅五助…『殿、お許し下さい。』

バサッ バサッバサッ

大谷吉継…『ウグッ。』

ゴロン

湯浅五助(ゆあさごすけ/豊臣)は介錯(かいしゃく)した場所から離れた所に、大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)の首を埋めていた。

ところが、その現場を東軍の藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)に見つかる。

藤堂高刑…『お主が埋めているのは武将の首ではないのか?』

湯浅五助…『殿の言い付けで、亡骸(なきがら)を誰にも見られたく無いとの遺言で、此処(ここ)に首を埋めておる。 恥を偲(しの)んで武士の頼み。 わしぃの首を其方(そなた)に授ける代わりに、この事は他言(たごん)しないで欲しい。』

藤堂高刑…『うむぅ・・・』

こうして藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)は湯浅五助(ゆあさごすけ/豊臣)を介錯(かいしゃく)して、その首級(しゅきゅう)を持って徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)などが首実験(くびじっけん)をしている陣営に現れた。

その時に藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)の様子がおかしい事に気付いた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、こう質問した。

徳川家康…『お主の持ってきた首級(しゅきゅう)は大谷吉継殿の家臣ではないのか? 武将の大谷吉継殿の首級(しゅきゅう)はどうした?』

藤堂高刑…『はい、実は大谷吉継殿が切腹した時に介錯(かいしゃく)した湯浅五助殿の首級(しゅきゅう)を持って来ましたが、彼との取り決めで大谷吉継殿の首を埋めた場所を明かさない武士同士の約束をしている為に、その場所を教える事はできません。』

徳川家康…『総大将のわしぃの絶対命令でもか?』

藤堂高刑…『たとえ殿下の命令でも、武士の命に代えても明かす事はできません。』

そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)の祖父にあたる藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)に説得させる様に促したが・・・

藤堂高虎…『殿、こいつが守ろうとしているのは“武士の命”と“侍の魂”です。 祖父の私が説得しても、言う事は聞かないでしょう。』

徳川家康…『そうか、分かった。』

これ以後、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は何も聞かず、藤堂高刑(とうどうたかのり/豊臣→徳川)もお咎(とが)めなしであった。

これを1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)と呼ぶ。

後日、逃亡していた西軍の代表者でもある石田三成(いしだみつなり/豊臣)と同友の小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は、東軍の落武者狩りで捕らえられた。

京都の六条河原に連行された石田三成(いしだみつなり/豊臣)と小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は斬首され晒し首(さらしくび)となった。

西軍の代表者だった石田三成(いしだみつなり/豊臣)が後世で酷評を受けるのは、正(まさ)に関ヶ原の戦地から味方の武将や武士を残して逃亡した事であろう。

合戦の代表者なら敗戦を悟った時点で、戦地で切腹すべきであり、敵味方に関係なく武将や武士が命を落としてきた数々の戦地を乗り越えてきた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)からしたら、戦(いくさ)の大将として命を掛けなかった侍(サムライ)の有るまじきこの行為が、一番に許されなかったと推測できる。

一方で、総大将に担ぎ出され摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に布陣していた毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)も、西日本の領国を領地削減の減封(げんぽう)となり、周防国(すおう/山口県)と長門国(山口県)のみとなった。

こうして豊臣政権から徳川政権へと引き継がれていく。

美濃国(岐阜県)の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の古戦場跡地の最寄駅は、JRの〈関ヶ原駅〉から徒歩で数十分程度の範囲にあり、特に関ケ原ウォーランドは当時の戦乱を寸分の狂いなくリアルに再現しているので立ち寄ってもらいたい。

京都の六条河原の刑場跡地の最寄駅は、京阪の〈七条駅〉(しちじょうえき)から徒歩で数十分程度の鴨川の河川敷にあり、この鴨川は平安時代から三条河原から続く刑場と晒し首(さらしくび)の場所として明治初期まで利用され、数々に著名人や有名人が処刑されており、そんな流れから歌舞伎などの寄席や見世物小屋なども集まる様になり、刑場より鴨川を挟んだ反対側には遊郭の五条楽園も形成されており、古都の京都の負の遺産でもある。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

MICHAEL BOLTON /♪ YOU DON'T KNOW ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:41:27

◆◇◆其の九十四:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

1600年に美濃国(岐阜県)の関ヶ原にて、8万人余りの西軍と7万人余りの東軍による天下分け目の大合戦は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍の勝利に終わる。

ただ、この時点での政権のトップは摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に居城する豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と、傍(かたわら)に就く母親の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)である。

ただ、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)はまだ7歳の為に、当然に政権運営を担う事はできない。

そんな中で、代表権のある大名の“豊臣五大老”の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)や側用人として仕えていた“豊臣五奉行”の石田三成(いしだみつなり/豊臣)など「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の敗軍の処罰で排除されている為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が実質的に豊臣政権の実権を握る事になる。

イメージとしては傀儡(かいらい)政治を思い浮かべると解り易い。

中国大陸の清(しん)の紫禁城(しきんじょう)で、西太后(せいたいこう/女帝)が垂簾聴政(すいれんちょうせい)にて、第11代皇帝の光緒帝(こうしょてい/皇帝)や第12代皇帝(ラストエンペラー)の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)の代わりに政局を担う関係性である。

その後、武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)を拠点とした徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は京都の朝廷への働き掛けもあり、1603年に第107代天皇の後陽成天皇(ごようぜいてんのう/朝廷)から征夷大将軍の任命を受ける。

これにて江戸幕府が開設され、新しい時代の幕開けとなり、豊臣政権から徳川政権への移行が名実共に示された事になる。

ただし、この頃は江戸幕府も創成期で、世間ではまだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の面影(おもかげ)も残っており、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)を拠点とする豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)を信任していた。

この世間の風をいち早くキャッチした徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、江戸幕府を盤石(ばんじゃく)なものにするために、1605年に息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に征夷大将軍を早々に世襲してしまう。

これにより徳川氏が将軍として代々に渡り政権運営を担う事を世間にアピールした。

ただ、将軍職を徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に譲ったからといって、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は大御所となり権力を誇示し続けた。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)に移住して、ここから江戸幕府の全般を統括した。

イメージとしては天皇家の院政(いんせい)を思い浮かべると解り易い。

大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が上皇(じょうこう)で、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が天皇の様な関係性である。

その傍(かたわら)には文武両道の女武士と呼ばれ、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の側室だった阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)が、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の教育係として就いていた。

実は父親の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の親子関係は悪く、その双方の仲介をしていたのが阿茶局(あちゃのつぼね)こと雲光院(うんこういん/武田→今川→徳川)である。

征夷大将軍2代目となった徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)は武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に居城して政権を担い、老中の本多正信(ほんだまさのぶ/徳川)と大久保忠隣(おおくぼただちか/徳川)が将軍の世話役となる。

大久保忠隣(おおくぼただちか/徳川)は、“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)と言われた大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)を父親に、三河国(愛知県)の松平氏から仕える名将の大久保忠員(おおくぼただかず/松平)を祖父に持つ名門家出身の侍(サムライ)である。

徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)は江(ごう/浅井→徳川)を妻に迎え入れ、後々の征夷大将軍3代目となる徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)と、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の妻となる千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)が誕生する。

江(ごう/浅井→徳川)とは、近江国(滋賀県)の戦国武将の浅井長政(あざいながまさ/浅井)とお市の方(おいちのかた/織田→浅井)の娘で、織田信長(おだのぶなが/織田)の姪にあたり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の側室となった淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)の妹である。

一方、大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)を居城として実権を掌握し、“最愛の友”でもある本多正信(ほんだまさのぶ/徳川)の息子の本多正純(ほんだまさずみ/徳川)を大御所の世話役に抜擢する。

武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)の最寄駅は、地下鉄の〈竹橋駅〉もしくはその他大勢の駅から徒歩で数分程度の距離にあり、この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は江戸城(えどじょう)は、風水(ふうすい)や陰陽五行思想(いんようごぎょう)と、敵襲からの防御力を高めた“のノ字”の内堀(環状1号線)、外堀(環状2号線)、外苑東(環状3号線)、外苑西(環状4号線)で構成されており、特に注目頂きたいのが北東にあたる鬼門(きもん)の神田明神(かんだみょうじん)で、この神社の祭神は“武士の祖”と呼ばれる平将門(たいらまさかど/朝廷→常陸)が祀られており、特に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は神田明神(かんだみょうじん)を厚遇したと言う。

駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)の最寄駅は、静岡鉄道の〈新静岡駅〉もしくはJRと新幹線の〈静岡駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、元は駿河国(静岡県)の戦国大名である今川氏の屋敷があった場所と推測されており、天守閣も豊臣政権の時と徳川政権の時の2種類とされ、どちらも火災などにより焼失しているが、それならば天守閣を2箇所に築城する案が進行しており、静岡県民の84%の賛同は得ています。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

STEPHEN BISHOP /♪ MADGE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250328 - ラジオの友 URL

2025/03/28 (Fri) 21:42:22

◆◇◆其の九十五:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

江戸幕府は日本列島の各所に直轄地を設けて統治した。

武蔵国(東京都)の江戸は、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が居住する江戸幕府の拠点となる。

駿河国(静岡県)の駿府は、大御所の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が居住する江戸幕府の中枢機関となる。

伊勢国(三重県)の伊勢山田は、天照大御神(アマテラス)が祭神となる伊勢神宮の内宮(ないくう)や、豊宇気毘売神(トヨウケビメ)が祭神となる伊勢神宮の外宮(げくう)が創建される神道(しんとう)の本宮となる。

山城国(京都府)の京都は、天皇や公家が居住する朝廷の在所となる。

山城国(京都府)の伏見は、湊町でもあり伏見城(ふしみじょう/京都)と摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)とつなぐ重要拠点となる。

大和国(奈良県)の奈良は、奈良時代の都(みやこ)だった平城京を中心に寺院仏閣を保護した。

和泉国(大阪府)の堺は、物資が集積する商都の重要拠点となる。

肥前国(長崎県)の長崎は、オランダや明(みん)などとの国際貿易港として出島を築造して開港した外交拠点となる。

これ以外の地方には有力な武将や大名を配置して、鎌倉時代の領国を統治する警備拠点の守護(しゅご)と守護(しゅご)の維持費の租税を課す役所の地頭(じとう)の様な藩政を実施した。

この時に豊臣政権が行っていた荘園(しょうえん)の管理や農地の検地(けんち)などの領民管理を廃止して、基本的には領国の藩の一存で決定していく方針に変更している。

江戸時代では蝦夷国(えぞ/北海道)と琉球国(沖縄県)は日本領域ではなく外国の扱いで、江戸幕府は近隣の外国との国交にも力を入れた。

江戸幕府は直轄地の肥前国(長崎県)の長崎港や平戸港(ひらどこう)の以外に、肥前国(長崎県)の対馬島の宗義智(そうよしとし/豊臣→徳川)は朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)は琉球国(沖縄県)、蝦夷国(えぞ/北海道)の松前藩の松前慶広(まつまえよしひろ/秋田→豊臣→徳川)はアイヌなどとの貿易を認めていた。

特に中国大陸の明(みん)と朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)の関係は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が実行した1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”により悪化してた。

江戸幕府は、この両国の関係修復を試みる。

この頃の李氏朝鮮(りしちょうせん)は国内情勢が不安定で、日本との国交関係に前向きで、直(す)ぐに江戸幕府との友好条約は締結された。

一方、明(みん)は琉球国(沖縄県)を中継に国交改善を試みるも、江戸幕府の要請を琉球国(沖縄県)が拒否した。

当時、琉球国(沖縄県)は明(みん)に朝貢(ちょうこう)しており、代わりに国防や経済支援などの冊封(さくほう)を受けていた。

琉球国(沖縄県)の国王の尚寧王(しょうねいおう/琉球)は、以前から交易関係にあった中国大陸の明(みん)を重要視していた。

この琉球国(沖縄県)の態度に江戸幕府は、1609年に薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の藩主だった島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)に命じて、3000人の軍隊で琉球国(沖縄県)を攻撃させて、従属させて付庸国(ふようこく)とした。

島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)とは、戦国武将の島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)の息子で、薩摩国(鹿児島県)の守護大名の島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)の甥にあたる。

この江戸幕府の強硬策に再び不信感を抱いた中国大陸の明(みん)は、日本との国交を拒否し続けた。

伊勢国(三重県)の伊勢神宮の最寄駅は、JRと近鉄の〈伊勢市駅〉もしくは近鉄の〈宇治山田駅〉と〈五十鈴川駅〉(いすずがわえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、周辺には伊勢湾に面した鳥羽や志摩などの観光地も多く在しているが、残念なのが人気スポットだった元祖国際秘宝館(がんそこくさいひほうかん)が閉鎖された事にある。

三重テレビで放映されていたCMには胸を弾ませたヤングも多かった筈(はず)で、東海地方では元祖国際秘宝館(がんそこくさいひほうかん)の“歓迎・馬の交尾ショー”は20代の内に必ず見ておくイベントに数えられていた。

大和国(奈良県)の平城京の最寄駅は、近鉄の〈大和西大寺駅〉(やまとさいだいじえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、古都の奈良には特別に記述するまでもなく遺跡や史跡が多くあり、その中でも注視したいのが、飛鳥時代の672年に起こった「壬申の乱」(じんしんのらん)にて勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)こと第40代天皇の天武天皇(てんむてんのう)の孫で左大臣だった長屋王(ながやおう/朝廷)です。

皇族の長屋王(ながやおう/朝廷)は、公家の藤原四子(ふじわらしし)と呼ばれる南家(なんけ)の藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ/公家)、京家(きょうけ)の藤原麻呂(ふじわらまろ/公家)、北家(ほっけ)の藤原房前(ふじわらふささき/公家)、式家(しきけ)の藤原宇合(ふじわらうまかい/公家)の陰謀により家族諸共(かぞくもろとも)に暗殺された。

その凄惨(せいさん)な現場となった屋敷が、あの巨大デパートのそごう奈良店があった場所で、2000年に閉店したその後、イトーヨーカドー奈良店になるも2017年に閉店し、その双方の運命が斜陽(しゃよう)の道を辿るのを見ると、満更(まんざら)、“長屋王の祟り”も嘘(ウソ)ではない様に視(み)えてくる。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

STUFF /♪ NEED SOMEBODY

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今日の1枚、お薦めレコード/20250327 - ラジオの友 URL

2025/03/27 (Thu) 19:08:02

LA BOUCHE /♪ BOLINGO (LOVE IS IN AIR)

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2025/03/27 (Thu) 19:09:14

LETOYA FEAT.MIKE JONES,JD AND RICK ROSS /♪ TORN

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2025/03/27 (Thu) 19:10:09

ANOTHER BAD CREATION /♪ PLAYGROUND

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2025/03/27 (Thu) 19:11:12

310BABII /♪ SOAK CITY (DO IT)

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2025/03/27 (Thu) 19:12:13

RHYMEFEST /♪ FEVER

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2025/03/27 (Thu) 19:13:12

DA BRAT /♪ GIVE IT 2 YOU

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2025/03/27 (Thu) 19:14:13

HEAVY D. /♪ BIG DADDY

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2025/03/27 (Thu) 19:15:09

GOODIE MOB /♪ DIRTY SOUTH

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2025/03/27 (Thu) 19:16:11

OUTKAST /♪ ATLIENS

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2025/03/27 (Thu) 19:17:12

MACY GRAY /♪ I TRY

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2025/03/27 (Thu) 19:18:07

M PEOPLE /♪ JUST FOR YOU

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2025/03/27 (Thu) 19:19:04

CHARISSE ARRINGTON /♪ Down with this

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2025/03/27 (Thu) 19:20:01

TINA ARENA /♪ CHAINS

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2025/03/27 (Thu) 19:21:07

PURE SOUL /♪ STAIRWAY TO HEAVEN

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2025/03/27 (Thu) 19:22:07

SPECIAL GENERATION /♪ LOVE ME JUST FOR ME

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2025/03/27 (Thu) 19:23:08

THE COMPANY /♪ THE LOVE THAT'S REAL

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2025/03/27 (Thu) 19:24:05

ELISHA LA'VERNE /♪ DIDN'T I CRY ENOUGH

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2025/03/27 (Thu) 19:25:00

REGINA BELLE /♪ IF I COULD

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【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん

2025/03/26 (Wed) 17:05:00

これで堂々と“いしん”を掛けてパワハラ宣言!

兵庫県民のご支持あっての公約成果です。

“ハラスメント”(不快行為)とは、悪霊や怨霊が取り憑いて心身や精神を歪(ゆが)められ、地獄に堕(お)ちていく人間が本来に持ったポテンシャルです。

綺麗事だけでは済まされない人間の本性を、ここ兵庫県から暴いていきます!

22世紀の未来に向けて、これからも兵庫県は陰湿な“虐待”や“差別”など、兵庫県民一丸となって“いしん”を掛けてドンドンと推し進めます。

【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん

2025/03/26 (Wed) 17:05:50

子供、こども、コドモって言えば、何でも許されると思っているお頭(つむ)の弱い大人達へ。

子供をダシにして“いしん”を込めて来場を促す卑劣な根性。

江戸時代から続く、10代の娘を遊郭に売り飛ばす大人の感覚と何ら変わりはない。

そんな愚(く)だらない人造物が無くとも、自然が広がる大地と天の恵みさえあれば、子供は愛情いっぱいにスクスクと育ちますよ。

Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん

2025/03/26 (Wed) 23:53:37

先日、近隣にある河川の遊歩道で目撃した衝撃的な光景を嘘偽(うそいつわ)りなく記述しよう。

その遊歩道には70代くらいのお爺さんが散歩しており、時折、河川を眺めていた。

その川には鴨(カモ)や鷺(サギ)などの鳥がよく集まっており、そのお爺さんも鳥を見ている様子だった。

その次の瞬間、川岸に落ちている大きめの石を拾い上げると、川で水遊びしている鳥に目掛けてぶつけているではないか!

はっきり言って、ショッキングな出来事である。

川辺の鳥たちも驚いて飛んで行ってしまった。

ただ、これも人間の側面である。

誰も見ていないところで犯罪行為に手を染める。

人間が定めた法律の線引きにより逮捕されるかされないかで分別されるが、地球規模で観れば同じ人種には違いない。

実は、この様な光景を見たのは2回目である。

前回もお爺さんだったが、それは河川に住み着いたヌーちゃん(ヌートリア)で、2匹の子供が川岸の草場で遊んでいるところに、お爺さんがヌーちゃん(ヌートリア)を目掛けて石を何度もぶつけていた。

ただ、お爺さんのコントロールでは、すばしっこいヌーちゃん(ヌートリア)に命中する筈もなく、草中の住処(すみか)に消えて行った。

この2人のお爺さんの真意は解らないが、ただ、正義をかざして害的動物を駆除しているつもりなのか?

こう言う感覚の人種は多い。

確かに自分にとって不必要なモノや理解できないコトなどを排除する気持ちは、大なり小なり誰にでもある。

ならば、天界の神様により、この宇宙、この地球の害的動物でもある人間を、正義をかざして駆除して地獄に堕とす事の大義や正義も認められる事になる。

因みに小動物に石をぶつけていた2人のお爺さんに対して、天界の神様に『あの老害2人は地獄堕ちで決定です。』と伝えておいた。

■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2023/06/02 (Fri) 12:04:50

以下の記事は2018年6月13日に記述したものである。

▼ ▼ ▼

「「2018年2月16日の深夜0時頃、大阪市東成区中道の民泊施設で訪日アメリカ人が日本人女性を殺害した。

さらに女性の身体をバラバラに切り刻み損傷させ、関西地域に遺体一部を運びだし遺棄した。

一番の問題は殺人。

これは日本人であれ、外国人であれ、他人の人生を奪う最低最悪な愚行だ。

では、なぜ日本人女性は大阪東部の住宅街で殺されなければならなかったのか。

一つにはSNSなどの交流サイトによって、何の地縁人脈もない他人同士が一瞬にして出会う事だろう。

優しい言葉に警戒心が薄れ、会ってみたいと思わせる罠が隠れている事もある。

困っている人を装い善意につけ込み極悪非道な行為に走る事もある。

人を信じられない恐ろしい世の中だ。

そして会う場所。

これはお互いの都合がつく場所であればどこでもいいわけだが、今回、利用されたのが違法民泊施設。

これは殺人鬼にとって身分を明かさず不審に思われる事のなく利用できる格好の場所だったに違いない。

これから殺されるとは思いもせずに日本人女性は兵庫県三田市から電車に乗ってやって来たのだろう。

アメリカ住まいの殺人鬼が、どのようにして大阪でもマイナーな下町の東成区の民泊施設を選ぶ事ができたのか。

ここは木密地域(木造住宅密集地域)と言われる場所で、地元のお年寄りが道端で井戸端会議をし、学校の行き帰りに小学生が通学路として歩き、車でも通りにくい狭い路地だらけの町。

大阪に住んでいる人でもあまり馴染みのない場所だ。

これも便利なインターネットのおかげだ。

殺人鬼は違法民泊施設を掲載している民泊仲介サイトを利用して物件を選定していたのだ。

現実の世界、もしもあの時にああしていればよかったはあとの祭りだが、仮にもし民泊仲介サイトが合法民泊施設のみを掲載し、利用者の身分証明を照合するシステムにしていたのなら、日本人女性は殺されずに済んだかもしれない。

合法民泊施設だからと言って犯罪が起こらないとは限らない。

ただ、無秩序無防備な違法民泊施設より、犯罪を未然に防ぐ手立てのシステムを組んだ合法民泊施設の方が犯罪に遭う確率は格段に低くなるだろう。

この民泊殺人事件の加害者はアメリカ人殺人鬼、そして結果的に殺人に手を貸した違法民泊施設事業者、さらに違法民泊施設を掲載し続けていた民泊仲介サイトの・・・

おっと、企業名を言うところだった。

表ざたになっていない民泊仲介サイト企業も売上(お金)のための犯罪幇助と言わざるを得ない。

言うなれば、ブレーキのない車を販売し、事故が起こっても運転手の責任であって販売した我々には責任はないと言っているようなものだ。

本来、自ら名乗り出て謝罪すべきだろう。

国際交流のため活動していた将来有望な日本人女性の命を30年余りで終わらせた罪の意識を感じてほしい。」」

▲ ▲ ▲

2023年6月時点、コロナウイルス対策が終焉し、海外からのインバウンド(訪日観光客)がドット押し寄せて来る。

ほとんどのインバウンド(訪日観光客)は心から日本と言う国を楽しみたい善良な人達だろう。

ただ、その中に悪事を働く者も紛れている可能性がある。

2018年2月16日の事件の様に。

これら悲劇を繰り返されない為にも、民泊促進協会では2月16日を“民泊を考える日”に制定しました。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2023/06/25 (Sun) 03:21:19

民泊仲介会社は寄付する前にやる事がある。

それと、大阪府と大阪市の自治体や在阪メディアによる当時の報道規制により、民泊仲介会社の社名を隠蔽し公表しなかった事は、人1人の命を軽んじた行為として、京都伏見の天女母神は今でも怒りを忘れてはいませんよ。

インバウンド(訪日観光客)景気や東京オリンピック開催の莫大な利益に目が眩んで、若い女性の命を奪った事件を蔑ろ(ないがしろ)にした天の罪は大きい。

事実と異なるのもフェイクニュースだけど、事実を正確に伝えないのもフェイクニュースである。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/01/24 (Wed) 07:20:38

天界の神様、地獄の大魔王様、民泊促進協会よりお願いが御座います。

2025年に開催される“大阪関西万博”を、是非、成功に導いて下さい。

“大阪関西万博”が開催されれば、世界各国からインバウンド(訪日観光客)が押し寄せ、それが日本全国に行き渡り、日本に巨万の富がもたらされます。

経済産業デジタル協会のAIによる試算では、“大阪関西万博”開催期間中による“経済効果”は、大阪府を除く46都道府県に各3000億円で総計13兆8000億円になります。

これは控えめに見積った金額のため、大阪府を含めれば実際はこれの3倍の41兆4000億円を想定しています。

“大阪関西万博”開催による、これだけの“経済効果”があれば、2024年1月1日に北陸地方で発生した“能登半島地震”の被災復興費用に最低30兆円は回せます。

“能登半島地震”による災害で被災した北陸地方のためにも、万博開催に関わる全ての関係者は“大阪関西万博”を必ず成功させ、41兆4000億円と言う“経済効果”を出すため、“命”と“魂”を掛けてこの試算を死守する意気込みで御座います。

絶対にあり得ませんが、万が一、万が一にも“経済効果”の41兆4000億円に1円でも足りなければ、民泊促進協会を除く、万博関係機関、日本銀行、大阪府&大阪市の自治体、関西財界、在阪メディア、大阪府民、大阪市民の全ての関係者を、“煮るなり”、“焼くなり”、“地獄に落とすなり”、何なりとご自由にして下さい。

関西地方には有能な人材が揃っておりますので、万が一、億が一にも御座いませんが。

『絶対に負けへん、負けへん、う〜ん、負けへん! 41兆4000億円を稼ぎ出すだけの“夢舞台”を創る自信があるからっ!』

この意気込みで御座います。

では、大船(おおぶね)に乗った気分で、2025年を楽しみにしております。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会 URL

2024/02/16 (Fri) 00:30:33

2023年、実質的に新型コロナウイルス対策が終焉し、各々が病原菌対策する“自己責任”となった。

日本には世界各国からインバウンド(訪日観光客)が押し寄せている。

そして関西で一番の観光名所の大阪城にも、その優美な天守閣に惚れ惚れする事でしょう。

多くのインバウンド(訪日観光客)が民泊施設を利用するだろう。

当たり前の様で、当たり前でない景色。

2月16日は民泊業界や民泊利用者にとって忘れてはならない日である。

“民泊を考える日”。

2018年に大阪城にほど近い大阪市東成区中道で、何故あの忌まわしい“違法民泊バラバラ事件”が起こったのか?

性悪説(せいあくせつ)で見れば、「人多く集まる所に犯罪あり」である。

これは過去の歴史を振り返っても、否定のしようがない。

この様な悪質事件に対しても、各々が犯罪対策の意識を高めて“自己責任”のもとで行動しなければならないのか?

大阪と言う土地は、昔からこの様な異様な事件が多い。

2011年8月14日、大阪市天王寺区味原本町の分譲マンションで、そこに住む男性が奥さんと息子を殺害し、遺体をバラバラにして数個の一斗缶に詰め込み、自宅近くの東高津公園周辺に遺棄した。

“大阪一斗缶バラバラ事件”である。

この地は、近鉄上本町駅から徒歩すぐで住環境の良好な人気エリアでもあり、大阪城の南側であの真田幸村(真田信繁)で有名となった真田山も近くにある。

こんな平和な街で、何故、あの様な悍(おぞま)しい事件が起こったのか?

また、上本町駅から西側に坂を下がった日本橋での事件。

1983年12月24日に発覚した“三重県バラバラ事件”では、大阪ミナミで働くホステスさんが男性に殺害され、三重県の伊賀上野に頭部と手首が無い状態で遺体をバラバラされ遺棄された。

犯人は大阪の“黒門市場”で犯行用備品を購入して、大阪市内のアパートで犯行に及んだ。

犯人の男性は、ホステスさんの同棲相手だったと言う。

さらに大阪城周辺の地域を深掘りすると、様々な出来事が見えてくる。

1945年8月14日の“終戦宣言”の前日。

大阪城の周辺にある軍事工場と京橋駅が空襲に遭い300人以上の人々が亡くなっている。

あと1日、“終戦宣言”が早ければ、どう言う結果だったのだろうか。

大阪城の周辺にある大阪ビジネスパークやJRと地下鉄の車両基地は元々は軍需工場で、最も狙われるエリアだった。

だから周辺地域では、それまでにも空襲があり多く人々が亡くなったいる。

今でも不発弾が地中から見つかるのは、その証(あかし)でもある。

1603年に徳川家康が江戸幕府を開き、その後、265年もの長い間は主だった戦争は無かった。

大阪も“天下の台所”として一大都市を形成し、都心部に多くの人々が住む様になる。

「人多ければ悪人多し」なのか。

大阪の日本橋から西に行った千日前は、その時代から“刑場”(けいじょう)が設けられた。

“千日デパート火災事故”があった周辺である。

大阪城から北側の野江にも“刑場”(けいじょう)は設けられ、ちょうど“薬害エイズ事件”で問題となった血液を取り扱ったミドリ十字の会社が近くにあった周辺である。

大阪の土地には“魑魅魍魎”(ちみもうりょう)が住んでいるのかと思うくらい、悪事が密接している。

オカルトマニアなら、“永住の地”に選びたいところだろう。

この“奇怪な惨事”は、1614年に起こった“大坂の陣”が糸を引いている。

徳川軍に包囲された豊臣軍の大阪城は炎上。

豊臣軍と徳川軍の数万人もの兵士が討死し、大阪城の周囲には戦死者が積み上げられている。

さらに豊臣軍の武将や家来は、大阪城周辺で首を討ち取られ、無数の屍(しかばね)が放置されていたと言う。

無念の血で穢(けが)れた土地は、永遠に安らぐ事は無い。

今でも多くの“悪霊”や“怨霊”が大阪市中を徘徊している。

大阪市街地で浮かれた気分で羽目を外せば、これらの“魑魅魍魎”(ちみもうりょう)に目を付けられ、地獄へ引き摺り込まれる事もある。

過去の事件の様に。

『そんな事、知りませんでした。』

大丈夫です。

最後に知る事ができるから。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会 URL

2024/03/17 (Sun) 11:29:34

■山陰新幹線の早期開業を実現へ!

敦賀駅(福井県)から博多駅(福岡県)まで、日本海側の“山陰新幹線”の早期開業を実現へ!

若狭国(福井県)、丹後国(京都府)、但馬国(兵庫県)、因幡国(鳥取県)、伯耆国(鳥取県)、出雲国(島根県)、石見国(島根県)、長門国(山口県)、そして豊前国(福岡県)から筑前国(福岡県)へ。

日本中の800万(やおよろず)もの神様に、毎年の神有月(10月)、出雲大社に参るため“山陰新幹線”で楽々で快適に移動してもらおう!

天照大御神(アマテラス)、月読命(ツクヨミ)、須佐之男命(スサノオ)、大気都比売命(オオゲツヒメ)、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)、そして八岐大蛇(ヤマタノオロチ)、は“新幹線”が大好きです♪。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/04/01 (Mon) 02:07:43

●日本で一番に盛り上がるイベントと言えば何か?

1月のお正月、2月のバレンタイン、12月のクリスマス。

どれも不正解である。

現代の日本人が最も愛して止まないのは、10月の“ハロウィン”である。

秋口に入ると街中ではオレンジ色のカボチャオバケが彩(いろど)られ、「どんなコスプレで“ハロウィンパーティー”に参戦するか」と、今か今かと心待ちにする若者が急増する。

この日だけは“オバケ”に取り憑かれる事に“喜び”と“快感”を覚える。

1年で1回限りの“地獄の祭典”。

ただ、この大阪での街中は、毎日が賑やかな“ハロウィンパーティー”の様なものである。

日本人の心を掴んで離さない、正に“エブリハロウィン”。

大阪市中には“ハロウィン”を体感できる“跡所”と、その地にまつわる“時事”がいくつもある。

それらをぜひ、大阪に来て体感して頂きたい。

●まず、巡ってもらいたいのは“大阪七墓”(おおさかななはか)である。

江戸時代に身元の分からない遺体を“無縁仏”として埋葬された。

[一]梅田墓地
大阪市北区のJR大阪駅北側での再開発地区でもある“グランフロント大阪”や“グラングリーン大阪”の一帯。

工事中に多数のガイコツ(髑髏/しゃれこうべ)が発掘される。

ルシアンペラフィネの“スカル”の服を着ていけば、より街にマッチする。

公園の“グリーン”よりも、墓地の“グレー”のイメージの方がピッタリである。

ここに来れば、建ち並ぶ超高層ビルも“墓石”に見えてくる。

[二]南浜墓地
大阪市北区豊崎町から中崎町あたりにあった墓地。

古い家が建ち並ぶ昔ながらの下町風情が残り、現在も一部の墓地は存続している。

現在では周辺にタワーマンションが多く建設されている。

[三]葭原墓地(よしわらぼち)
大阪市北区の天神橋筋六丁目駅の一帯。

近くには大きな墓地と火葬場がある。

跡地では、1970年に発生した“天六ガス爆発事故”により80人近くの人々が亡くなっている。

そこから南側に行った“扇町公園”は明治時代に“大阪監獄”(おおさかかんごく)があり、刑場(けいば)も併設されていたと言う。

その扇町公園に隣接する関西テレビの役員のご子息が、2019年に千里山の交番に押入りお巡りさんを襲撃し拳銃を奪う“強盗殺人未遂事件”を起こしている。

関西テレビとは、2020年に女子プロレスラーが自害した原因となったテレビ番組を制作したフジテレビの系列局である。

[四]蒲生墓地(がもうぼち)
大阪市都島区のJR京橋駅から東側に行った一帯で、現在も一部の墓地は存続している。

1945年8年14日の“終戦宣言”の前日に、大阪城の周辺にある軍事工場と京橋駅が“大阪大空襲”に遭い300人以上の人々が亡くなっている。

ここから北西側に行くと、2000年に発生した“雪印集団食中毒事件”の大阪工場があった。

これが主因で雪印乳業は事実上の倒産に追い込まれる。

そこからさらに北側に行くと“大阪拘置所”(おおさかこうちしょ)があり、刑場(けいば)も併設されている。

葭原墓地(よしわらぼち)から大川を越えた東側にあたる。

[五]小橋墓地(おばせぼち)
大阪市天王寺区の近鉄上本町駅から北側に行った一帯で、跡地は東高津公園(ひがしこうづこうえん)になっている。

2011年8月14日に大阪市天王寺区味原本町の分譲マンションに住む男性が奥さんと息子を殺害し、遺体をバラバラにして数個の一斗缶に詰め込み、自宅近くの東高津公園(ひがしこうづこうえん)周辺に遺棄した“大阪一斗缶バラバラ事件”が、正にこの場所である。

[六]千日墓地
大阪市中央区の千日前の一帯で、刑場(けいば)も併設されていた。

大阪では最も有名な“オカルトスポット”である。

100人以上の人々が亡くなった“千日デパート火災事故”があった周辺である。

この火災により建築物の防火に対する基準が強化された。

千日前の北側には神戸のホテルで暗殺されたヤクザの親分の事務所があった。

[七]飛田墓地(とびたぼち)
通天閣の南側に行った大阪市西成区の動物園前駅の一帯で、刑場(けいば)も併設されていた。

西側に行くと日雇い労働者の街として有名な“あいりん地区”があり、何度となく暴動が起こっているが、最も印象深いのが1990年の“西成暴動”ではないだろうか。

南側に行くと暗黙の花街でもある“飛田新地”(とびたしんち)があり、昔ながらの街並みと夜の妖艶なネオンが雰囲気を醸し出している。

揚屋(あげや)に「入る、入らない」は別にして、大阪では成人すると必ず見学にいくスポットとなっている。

●次は刑場(けいば)で、討首など罪人を処刑する場所で、余程(よほど)の悪党の討首は晒場(さらしば)に持って行く事もある。

[一]千日刑場
千日墓地に併設されていた。

[二]鳶田刑場(とびたけいば)
飛田墓地(とびたぼち)に併設されていた。

[三]野江刑場
蒲生墓地(がもうぼち)から北側に行った大阪市都島区の一帯。

1980年代の“薬害エイズ事件”で問題となった血液を取り扱ったミドリ十字の会社が近くにあった周辺である。

[四]三軒家刑場(さんげんやけいば)
大阪ドームから南側に行った大阪市大正区の木津川の一帯。

当時はこの一帯が海沿いだった事もあり、遺体処理に便利なため、千日刑場も含めて適地だったと思う。

●さらに最も悪党な罪人の討首を見せしめるため、高札場(こうさつば)に併設して晒場(さらしば)もあった。

[一]高麗橋(こうらいばし)
大阪市中央区の土佐堀通の南側の東横堀川に掛かる橋。

江戸時代の1837年に勃発した“大塩平八郎の乱”にて、この一帯を含めて大坂の市中はほとんどが焼失する。

その主因となった“東町奉行所”が、ここより東側の大坂城前にあった。

[二]日本橋(にっぽんばし)
大阪市中央区の堺筋と千日前通の交差点付近の道頓堀川に掛かる橋。

1983年12月24日に発覚した“三重県バラバラ事件”で、大阪ミナミで働くホステスさんが男性に殺害され、三重県の伊賀上野に頭部と手首が無い状態で遺体をバラバラされ遺棄された。

犯人が殺害用備品を購入したのが、日本橋(にっぽんばし)の南側にある“黒門市場”。

●こうして見ると墓地や刑場(けいば)は、遺体処理に適した川や海に隣接して建っている事が多い。

大阪市は昔から“水の都”や“八百八橋”(はっぴゃくやばし)と言われ、“水”と関わりの深い都市である。

大阪市中に無数の“怨霊”や“悪霊”、それに“魑魅魍魎”(ちみもうりょう)が漂う理由も理解できる。

正に“ハロウィンファン”の皆さんは、大阪を旅先に選べば毎日の様に素敵な体感ができる。

2025年に開催される“大阪関西万博”とセットで、これらの跡所にも巡って欲しい。

日本人、いや、世界の人々に、ぜひ大阪に来てもらい、数ある“パワーダウンスポット”を堪能してもらいたい。

『ウェルカム トゥー “エブリハロウィン”オオサカ!』

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会 URL

2024/05/03 (Fri) 21:31:10

《海に沈んだ路面電車》

昭和の時代まで駆け抜けた名古屋市内の“路面電車”。

廃線から50年近く経った令和の時代に、何と海底から当時の“路面電車”が発見されたと言う。

ドキュメンタリーの内容は、まさに“夢”と“浪漫”を諦めずに追い求めた結集とも言える。

海に沈む“路面電車”を観た時、“スタジオジブリ”のアニメ映画「千と千尋の神隠し」に登場する海の上を走る“電車”を想い描いた。

渥美半島の海に沈む“路面電車”と、「千と千尋の神隠し」の海の上を走る“電車”。

何か相通じるものがある。

しかも、渥美半島は愛知県、近年オープンした“ジブリパーク”も愛知県。

これは“偶然”ではない。

何か意味のある“必然”である。

ドキュメンタリーでは、撮影に参加した若者が自費でボロボロの“路面電車”を購入して、少しずつ修繕している内容も含まれている。

『これである!』

以前、“ジブリパーク”のある愛知県長久手市の市長が、『最寄駅の愛地球博記念公園駅の周辺には何もなく寂しい。』と語っていた。

ならば駅前に、このボロボロの“路面電車”を展示させてあげたらどうか?

現在の保管置場からの運搬費用は愛知県が負担し、設置場所の費用も無料。

ただし、ボロボロの“路面電車”の「修繕費用」や「保全計画」には、愛知県は一切の手と口を出さず、所有者の若者の計画に基づいて実施する。

ボロボロの“路面電車”の状態から完成に近づくまで5年、10年掛かるのかは分からないが、その過程も含めて“ジブリパーク”の来園者(リピーター)などは楽しむ。

また、“スタジオジブリ”に依頼して、海底で見つかった“路面電車”のドキュメンタリーの内容を15分くらいのアニメで制作してもらう。

ボロボロの“路面電車”の展示場に街頭テレビ(モニター)を設置して放映すると、お互いの内容がより深みを増してくる。

特に“路面電車”を探しに海に出て行く船の名前が「ぽん助」も、何か“ジブリ”らしさを醸し出し“偶然”とは思えない。

ドキュメンタリーアニメの最後は、海底で“路面電車”を発見し大仕事を終えた人達が、船の「ぽん助」で港に帰って行く。

アングルは海底に沈む木枠だけになった“路面電車”。

その“路面電車”が元の姿を取り戻し、海底を線路がドンドンと伸びて行く。

“路面電車”は真ん中の丸いライトを点灯させ、ゆっくりとゴトゴト動き出す。

アングルは車内に移り、魚や海藻が行き交い、“路面電車”がゴトゴトと進むにつれ吊り革が揺れる。

その吊り革が1つだけ無い箇所があるところを見せて“おわり”。

面白いと思うのだが。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/06/21 (Fri) 06:17:16

2023年の新型コロナウイルス対策の終焉により、「和文化」を体感しようと再び世界各国からインバウンド(訪日観光客)が大量に日本へ押し寄せている。

いったい、この“日本の魅力”は何処(どこ)にあるのか?

インターネット環境が整備された事で、日本から輸出される自動車や工業機械だけでなく、クオリティーの高いアニメや音楽などが手軽に情報収集できる様になった事も一因であろう。

では、期待を込めて日本に来るインバウンド(訪日観光客)に対して、日本の“文化”や“歴史”をきちんと正確に説明できる日本人が、果たして何人いるだろうか?

現在、その足を着けている土地には、幾多(いくた)の“文化”や“歴史”が隠されている。

例えば、3000年近い日本の長い歴史を、時代を追って説明できるだろうか?

竪穴式住居や貝塚などが盛んに増えていった「縄文時代」。

お米を効率的に作りだす稲作文化の発展や邪馬台国があった卑弥呼(ひみこ)の居た「弥生時代」。

王権制が確立して海外から文化や技術が入って来た「古墳時代」。

そして政治の中心が畿内に移り聖徳太子がウロウロしていた「飛鳥時代」。

朝廷と藤原氏により奈良を拠点とした都造りをした「奈良時代」。

雅な文化が華やいだ京都の「平安時代」。

源氏と北条氏により武家政権が確立した「鎌倉時代」。

足利氏による政権交代が行われた「室町時代」。

下克上(げこくじょう)により各国の武将が台頭した「戦国時代」。

戦(いくさ)による国取合戦の終焉を迎えた「江戸時代」。

そして、あれっ?

そこからの明治、大正、昭和、平成、令和は「何時代」?

これらは日本独自の元号なだけで、時代名ではない。

そう言えば、「明治維新」以降の時代名を歴史の時間で習った記憶が無い。

では、今すぐに時代名を確定する必要がある。

なんせ、インバウンド(訪日観光客)に質問されたらAI(人工知能)より先に答えなければならない。

外国人…『江戸時代ノ後、今ノ時代ハナニデスカ?』

日本人…『え〜と、え〜と、明治? う〜ん、昭和か平成か令和か?』

答えられなければ、インバウンド(訪日観光客)は“ガッカリ”して国に帰ってしまう。

その為、明治から令和に掛けての150年近くを、日本で起こった過去と時事を照らし併せて最適な時代名を考案します。

明治は海外各国に対する開国に始まり、近代産業が輸入され、日本の風景も自然を解体して鉄とコンクリートにドンドンと代わっていき、大正に入る前後から殺傷能力の高い武器を大量生産して近隣他国への領土拡大を目指す。

まさに地球レベルで共存して生きる事よりも、身近な個人が便利な道具でいかに裕福になれるかを競った“文明開花”である。

そこからの昭和では、多少の環境と国民の犠牲を払った太平洋戦争を経験して、日本国土を焼け野原と化して裸一貫から再出発し、手先の器用さを武器に得意な“ものづくり”で“高度経済成長”を迎え、自然豊かな山々を切り拓き、美しい海を埋め立て、世界が認める近代化の日本を形成した。

平成からはバブル崩壊や自然災害を経験するも、“不屈の精神”で困難に立ち向かう日本人はまだまだ健在です。

そんな過去と時事を総合判断して、やはりこの時代の象徴は、街も物も豊かになった“ものづくり”の日本を映し出す“高度経済成長”ではなかろうか?

原風景が残る自然を解体して、高層ビルや高速道路などを建設し、大変便利な暮らしを手にしてきた。

ちょうどこの時代の人達を、作家で経済学者の堺屋太一さんが「団根の世代」(だんこんのせだい)と命名している。

それにあやかって、この150年近くを男性社会が築き上げた意味を込め、“団”を“男”に掛けて「男根時代」(だんこんじだい)に決定しました。

「男根時代」(だんこんじだい)。

なんて良い響きなんだろう。

これでインバウンド(訪日観光客)に質問されても直ぐに返答できますね。

外国人…『江戸時代ノ後、今ノ時代ハナニデスカ?』

日本人…『江戸時代の後の、明治から令和までは男根時代(だんこんじだい)でぇ〜す!』

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/07/14 (Sun) 14:01:01

『異国情緒あふれる港町、神戸(KOBE)。』

1990年代までの神戸は、関西をはじめ全国から人が押し寄せる日本屈指の観光地だった。

山手に沿って建ち並ぶ洋館の「異人館」。

海手に開ける海岸とポートタワーが建つ「メリケン波止場」。

歴史が積み重なった重厚感ある建築物が集積する「居留地」(きょりゅうち)。

中国大陸から渡ってきた華僑(かきょう)により形成された中華街の「南京町」。

こう見返しても、“昭和の旅行ガイドブック”には見栄えの良いエリアが神戸には数多くある。

いわゆる“昭和のお洒落”である。

そのため、インターネットが世界をつないだ2000年に入った頃から、この神戸の地位は下落の一途を辿(たど)る。

当然である。

“昭和の感覚”のまま都市計画を進めれば、情報過多な時代には見向きもされなくなる。

それに世界中から押し寄せるインバウンド(訪日観光客)が求める「和文化」が、この神戸には何処(どこ)にも無い。

1970年代から日本人観光客などに『お洒落』や『神戸モダン』など言われチヤホヤされた結果である。

しかも、アメリカやヨーロッパのインバウンド(訪日観光客)にしてみれば、神戸にあるのは「自国の文化」でもある。

わざわざ見に行く“価値”など、無い!

日本人がイタリアのミラノに行って、“クルクル寿司”で食事をする様なものだ。

では、神戸はこのまま何もせず、京都や大阪を指を咥(くわ)えて見ているだけなのか。

そんな事はない。

神戸をはじめ、この兵庫県には素晴らしい観光スポットが数多く存在している。

何も観光地は華やかな場所だけではない。

「負の遺産」も観光スポットに成り得る。

例えば「戦争遺産」だ。

1940年前後の神戸などの臨海部は軍事工場が多く、空襲の標的にされた。

当時の光景を偲(しの)べるのがジブリ映画の“火垂るの墓”である。

多くの子供達が餓え死する三ノ宮駅や、幼い兄妹が必死になって生きた住処(すみか)の穴があった西宮市の苦楽園駅から夙川を渡った東部にあるニテコ池。

空から爆弾の落ちてこない現代では、到底に考えられない“惨状”である。

“命の重み”など更半紙(わらばんし)1枚より軽かったであろう日本新政府の“軍事政策”の数々。

そう言う事を思い返しながら、神戸から西宮を探索するのも“人生の肥やし”になる。

戦後の日本で、神戸が最も脚光を浴びたのが1981年に開催された「神戸ポートアイランド博覧会」(ポートピア81)の頃である。

神戸市の北部に広がる山岳地帯を切り拓き、大量に出る土砂を神戸港に投棄して人工島を造築する。

それにより出来たのがポートアイランドと六甲アイランドである。

その切り拓いた山々には西神ニュータウンや鈴蘭台ニュータウンの大規模住宅地が造成された。

海手と山手の双方に人を呼び込み、三宮を中心に人工島とニュータウンが一大形成する大神戸が誕生した。

しかも、事業主体の神戸市には“巨額の利益”がもたらされ、「神戸株式会社」と言う異名を名乗った。

ただ、この“成功体験”が大きな“代償”を生む。

「日本誕生の神」である伊耶那岐神(イザナギ)と伊耶那美神(イザナミ)の“神生み”により、自然の神として誕生した“海の神”の大綿津見神(オホワタツミノカミ)と“山の神”の大山津見神(オオヤマツミノカミ)。

この“海の神”の大綿津見神(オホワタツミノカミ)が司る神戸港の海に大量の土砂を投棄し人工島を造築し、“山の神”の大山津見神(オオヤマツミノカミ)が司る神戸北部の山岳地帯を切り拓いてニュータウンを造成した。

この神に対する“冒涜”(ぼうとく)は、“海の神”の大綿津見神(オホワタツミノカミ)と“山の神”の大山津見神(オオヤマツミノカミ)だけでなく、その嫡流(ちゃくりゅう)の源泉でもある伊耶那岐神(イザナギ)と伊耶那美神(イザナミ)も大いに怒らせる事となる。

これにより多くの祟り神(タタリカミ)が兵庫県下に解き放たれています。

それが、この後から起こる大きな“代償”へとつながっていく。

そして1995年に起こった「阪神大震災」である。

中心地の三宮から元町に掛けてビルが倒壊し、国道43号線の頭上を走る阪神高速はなぎ倒され、古い商店街が残る長田周辺は焼け野原になった。

現在は、震災の面影はほとんど残っていないが、それに伴った復興事業を見て回るのもいい。

その象徴が、JRと地下鉄の新長田駅周辺に広がる新街区である。

低層階に商業施設、高層階に分譲マンションなどが入居する「アスタ棟」の数々。

ある意味、“異様”である。

その“異様”の意味を知りたい方は、是非、新長田まで足を運んでもらいたい。

震災の爪痕がまだ残る1997年に起こったのが「神戸連続児童殺傷事件」で、“少年法”を再考するきっかけにもなった。

事件は地下鉄の名谷駅(みょうだにえき)近くで、事件直後の中学校周辺では、上空にヘリが飛び交い、地域には規制線が張られ、大人数の警察官が巡回し、あの時の西神ニュータウンは“異様”な空気が漂っていた。

現在でも“未成年犯罪”は発生しているが、『他人の人生を奪う』ことの愚かさは、子供だけでなく、大人も理解する必要がある。

世紀が変わり、ミレニアムが過ぎ去った2005年に起こった「JR線尼崎脱線事故」は、現実の事故とは思えない“惨状”だった。

場所はJRの尼崎駅と塚口駅の間の鉄道沿線に建つ分譲マンション。

事故当時に、この分譲マンションに勤務していた管理員に話しを聞いた事がある。

『朝の清掃を終えて管理事務所に戻ったらなぁ、どぉえらい音がして、建物が大きく揺れたんやぁ!』

『こりゃ、また阪神大地震が来たかぁと思い、慌てて外に飛び出してぇん。』

『ただなぁ、周り見渡しても、地震の痕跡がありぃしまへぇんやろぉ。』

『ならなぁ外は、なんやぁガソリン臭い言うかぁ、オイルの臭いが充満しとったわぁ。』

『でっ、駐車場の方を見に行ったら、ご覧の有り様やぁ!』

『最初、現状を理解するのに時間が掛かったわなぁ〜 電車がマンションに突っ込むなんて、夢にも思いませんやぁろぉ。』

『少し時間が経ってから我に返って、こりゃ、えらいこっちゃと思ったわぁ。』

自動車事故に比べ、頻繁(ひんぱん)に起こる事のない列車事故。

それ故(ゆえ)に、一度(ひとたび)起これば大惨事に発展する。

あの当時、近畿圏の通勤電車では先頭車両に乗車する人が激減したが、1年も経たずに普段通りに戻っていた。

人間の“学習能力”を象徴している。

照り付ける太陽、夏の暑い日、2008年7月に神戸市灘区を流れる都賀川(とががわ)の水路に整備された遊歩道で遊んでいた数十名の子供が、川の水源となる六甲山でゲリラ豪雨により、鉄砲水が突然に下流に押し寄せて遊んでいた子供が流されていった。

10人近くは助かったが、保護者も含めて5人の命が奪われた。

この「都賀川水難事故」を受けて山から海に流れる神戸市の地形が仇(あだ)となり、川の内に子供が水遊びできる遊歩道などを整備した自治体の管理能力の無さの責任を問う声も挙がっていた。

ただ、河川の中に入れる様に整備しなくても、子供と言う生き物は水の中に入って遊ぶものである。

それは、誰にも止められない。

だから、神様が何時(いつ)も見守ってくれている。

ただ今回は、その神様が・・・

尼崎の電車事故現場から南下した長洲公園近くの分譲マンションで、2012年に起こった「尼崎監禁変死事件」も衝撃的だった。

場所は阪神電鉄の杭瀬駅(くいせえき)の近く。

女ボスによる“支配統治”により複数人の大人達がマインドコントロールされて、抵抗すれば亡き者にする。

第三者から見れば『そんな事は普通、起こらないだろ!』と思うが、当人達にすればそれが“常識”であり“現実”だったのかも知れない。

事件現場となった分譲マンションでは、最上階の住戸のルーフバルコニーに目隠し用の壁が設けられていたのが“異様”だった。

身近な人こそ、厳選する必要がある。

『独り寂しい』からと言って、手当たり次第に知人を増やすと、いつ何時(なんどき)、この様な事件に巻き込まれるかも知れないので、注意が必要である。

そして、“厳選人事の極み”が2024年の「兵庫県職員抹殺事件」である。

事件要因となった場所は地下鉄の県庁前駅もしくはJRの元町駅近くの山手幹線沿いの兵庫県庁で、兵庫県警察本部も近くにある。

『不都合な人間は、消す!』

戦国時代から400年以上の時を経ているが、その時は当たり前だった“影の軍団”の様な組織が現存していた事に驚く。

因(ちな)みに「尼崎監禁変死事件」の主犯の女ボスは、この兵庫県警察本部の留置所で消されている。

兵庫県の“影の軍団”にしてみれば、たとえアメリカの前大統領でも抹殺するのは“朝飯前”です。

「兵庫県職員抹殺事件」の被害者は西播磨県民局の職員という事もあり、その場所はJRの相生駅(あいおいえき)か西栗栖駅(にしくりすえき)が最寄駅となる。

ただ、20m以上は歩かされるが、“怒り”を堪(こら)えて訪問しよう!

更半紙(わらばんし)1枚より軽い“命の重み”を、兵庫県を巡って感じてみては如何(いかが)ですか?

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会 URL

2024/10/07 (Mon) 18:57:57

▼以下は、2020東京五輪が開催される前の2019年2月に記述したものです。

この後、2019年12月頃に中国で発症したコロナウイルスが感染拡大して2020東京五輪は延期し、2021年に無観客開催となった。

2022年2月にはロシア戦争の勃発、さらに2022年7月に日本の元首相が暗殺される前代未聞の事件が発生した。

これらが果たして偶然だったのか?

それこそ“神のみぞ知る”である。

▼観光立国を目指す日本で、とんでもない実態が明らかになりました。

原風景が残る地方の自然に対し、東京など数百億円規模の都市開発ビジネスによる破壊行為が行われている。

都市開発で地表からえぐり出された土砂を、神が住むと言われる日本の山々に投棄していると言う。

当然に開発業者もこの実態は把握しているはずです。

東京など首都圏の開発ラッシュを進めビジネスとして収益を拡大できれば、地方に残された自然や環境の美しさや素晴らしさはどうなろうと関係はないという事でしょうか。

しかもこれら行為は森林法など法規制が無いため違法ではないと言う。

法令遵守の範囲内で金儲けのためなら何をやってもよい。

大人の事情や法の盲点か。

これがこの世の事実であり実態でもある。

山の神々が住むと言い伝えられる神秘乃国・日本を期待して世界中から訪れる外国人観光客がとてもがっかりする出来事でしょう。

日本の聖地とも言うべき伊勢神宮や熊野古道にほど近い三重県の山々。

都市開発の関係者は神をも恐れぬと言うのか。

祟りだろうか、呪われようが、罰(バチ)が当たろうが関係ない。

己の子孫が不幸に見舞われ破滅しようとも、今さえよければよい、自分達さえよければそれでいい。

まぁ、そういう生き方もあるのかもしれない。

まさに、その建造物に集う人々が、悪霊にとり憑かれ、地獄に引きずり落とす意図がある。

人としてこの世で生きているうちから、地獄に落ちることが判明しているとは・・・

恐ろしい。

▼東京の残土、三重の山へ、建設ラッシュ過疎地に流入

三重県南部の紀北町の山林に東京五輪を控えて開発が続く東京都心のビル建設現場などで生じた大量の建設残土が投棄され、景観悪化や崩落の危険が生じている。

建設残土は産業廃棄物と異なり明確な規制ができなき中、過疎地の安い山林が残土ビジネスの標的となっている。

事態の深刻化を受け三重県が投棄規制する条例制定に動きだした。

世界遺産熊野古道が通る霊場紀伊山地の裾野にむき出しの土砂が20m近い高さまで急角度で積まれている。

土砂は東京港などから紀北町の長島港や尾鷲市の尾鷲港に船で運ばれ、近隣の山林が残土の投棄場所となっている。

東京郊外に捨てに行くより運搬コストが安く済むのが理由。

過疎や高齢化で林業が衰退し、山林価格は下がり続ける一方、山林の地権者にとっては収入が見込めるため残土投棄場となっている。

残土運搬船は2012年頃から三重県などの港に入港し、運搬埋立する紀北町の土砂は下記の都市開発によるもの。

①赤坂プレスセンターの保安施設工事
②横浜環状南線のトンネル工事
③大手町の超高層ビルの開発
④豊洲の超高層ビルの開発
⑤東京都の高級マンション・戸建て住宅などの開発
⑥神奈川県の高級マンション・戸建て住宅などの開発

紀北町や尾鷲市では残土の山が巨大化した2018年頃から、町民から不安の声が相次ぎ、大雨で残土が崩落し水路を塞ぐ被害も多数発生している。

残土ビジネスの背景には、有害物質を含まない土砂の積上げを規制する法令が無い事にある。

1ha超の山林開発には森林法で一定制限が可能だが、残土への対処が目的ではない。

開発許可を取得すれば土砂投棄をいくらでもでき違法にはならない。

廃棄物問題ネットワーク三重の弁護士は、残土投棄する際の届出を出し、積上げる角度や高さを制限する条例が各都府県にはあるが、三重は残土処理制限が無いため無法地帯となっていると言う。

三重県では、残土の搬入や積上げを規制する条例検討を表明するが、条例の厳しさは各自治体により差があり、条例がある大阪府でも2014年に残土崩落事故が発生している。

三重県の自治体では、本来は国の責任で全国一律に規制する必要があり、町を都市の残土捨て場にされる事は耐えられないとしている。

【中日新聞:2019年2月11日】

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/12/29 (Sun) 19:26:51

♪変わらないも それは 俺たちへの殺意〜 君は“大阪違法民泊バラバラ殺人鬼”〜

日本では、2018年に施行した“住宅宿泊事業法”に基づいた合法民泊施設を利用しましょう。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2025/02/16 (Sun) 00:30:55

2月16日は民泊業界や民泊利用者にとって忘れてはならない日である。

“民泊を考える日”。

2018年に大阪城にほど近い大阪市東成区中道で、何故(なぜ)あの忌(い)まわしい“違法民泊バラバラ事件”が起こったのか?

被害者の女性は、“いしん”を掛けて情報隠蔽(いんぺい)した者達に葬られたと言っても過言では、無い!

♪さあぁ〜 皆で殺(や)りましょ。

♪貴女(あなた)と君と僕。

♪グサグサ ブスブス ギコギコ バラバラ。

♪皆で殺(や)りましょ。

これじゃ、困るんですよね。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2025/03/23 (Sun) 22:58:44

2025年、大阪バラバライヤー開幕。

猟奇的な犯罪が増えている大阪の街。

けっして1人で家に居ないで下さい。

次なるターゲットは、あなたかも知れない。

また、人肉と人骨は行政指定ゴミ袋に入れて、大阪市の指定日と指定場所に遺棄しましょう。

さもなくば不法投棄として処罰される恐れがあります。

今日の1枚、お薦めレコード/20250321 - ラジオの友 URL

2025/03/21 (Fri) 21:19:06

不思議ちゃん第11弾!

でわぁ、いってみよぉう!!

MARK RONSON FEAT.LILY ALLEN /♪ OH MY GOD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250321 - ラジオの友 URL

2025/03/21 (Fri) 21:19:58

WET LEG /♪ BEING IN LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250321 - ラジオの友 URL

2025/03/21 (Fri) 21:20:50

OLIVIA RODRIGO /♪ BAD IDEA RIGHT?

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250321 - ラジオの友 URL

2025/03/21 (Fri) 21:21:42

ELIZA DOOLITTLE /♪ SKINNY GENES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250321 - ラジオの友 URL

2025/03/21 (Fri) 21:22:36

MASSIVE ATTACK /♪ PARADISE CIRCUS

◆ラジオの友◆

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2025/03/21 (Fri) 21:23:30

METRIC /♪ HELP,I'M ALIVE

◆ラジオの友◆

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2025/03/21 (Fri) 21:24:23

KT TUNSTALL /♪ OTHER SIDE OF THE WORLD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250321 - ラジオの友 URL

2025/03/21 (Fri) 21:25:19

JULIE BYRNE /♪ SLEEPWALKER

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2025/03/21 (Fri) 21:26:09

PATTY GRIFFIN /♪ LET HIM FLY

◆ラジオの友◆

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2025/03/21 (Fri) 21:26:58

ETANA /♪ WRONG ADDRESS

◆ラジオの友◆

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2025/03/21 (Fri) 21:27:51

LAURA MARLING /♪ NOTHING,NOT NEARLY

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2025/03/21 (Fri) 21:28:42

CHELSEA CUTLER /♪ YOUR BONES

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2025/03/21 (Fri) 21:29:35

MICHELLE BRANCH /♪ LOUD MUSIC

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2025/03/21 (Fri) 21:30:26

VANESSA CARLTON /♪ WHO'S TO SAY

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2025/03/21 (Fri) 21:31:17

SABRINA CARPENTER /♪ BAD FOR BUSINESS

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2025/03/21 (Fri) 21:32:07

FRIDA /♪ TOWERS

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2025/03/21 (Fri) 21:32:55

UMI /♪ BUTTERFLY II

◆ラジオの友◆

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2025/03/21 (Fri) 21:33:52

DYLAN CONRIQUE /♪ PIECES

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:28:36

◆◇◆其の五十八:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●其々(それぞれ)の本能寺の変:徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)

織田信長(おだのぶなが/織田)が京都の本能寺(ほんのうじ/法華宗)で明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)が率いる明智軍に討ち取られた時に、“堅い絆”の清洲同盟(きよすどうめい)で結ばれた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は何処(どこ)で何をしていたのか?

実はその1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)の少し前に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、織田信長(おだのぶなが/織田)と明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の御両人と謁見(えっけん)している。

その場所は1579年に竣工したばかりの近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)だった。

遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)から安土城(あづちじょう/近江八幡)の新築祝いに駆け付けた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)などの家臣団。

その接待役を任されたのが明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)だった。

明智光秀…『安土城(あづちじょう/近江八幡)全体の総合設計は織田建設に所属する1級建築士の丹羽長秀殿が手掛けました。』

徳川家康…『ほお、前は琵琶湖、後ろは山脈、これで温泉もあれば完璧な温泉旅館ですなぁ〜』

明智光秀…『この天守閣の上層階の壁画は狩野永徳先生に描いて頂きました。』

徳川家康…『いやぁ〜 見事な壁画ですなぁ〜 このまま壁を切り取ってオークションに出したら、イギリスかフランス辺りで10億円以上で落札されるでしょうなぁ〜』

織田信長…『おぉ〜 家康殿、よく来てちょ〜たぁ〜 ところで光秀君、ちょっとええかなぁ〜』

明智光秀…『はぁ、何でしょうか?』

織田信長…『実は中国地方に遠征している猿(サル/羽柴秀吉)から、毛利軍との対戦で手惑い援軍要請が来とるなぁもぉ。 光秀君も軍隊を率いて猿(サル/羽柴秀吉)の救援に行って来れんきゃ〜』

明智光秀…『ええっ〜!? 家康殿の接待役はどうなるんですか?』

織田信長…『それは、わしぃがこれから家康殿を雄琴温泉(おごとおんせん)の石鹸街(ソープタウン)に連れて行き、ひとっ風呂浴びてくるがぁなも。』

こうして明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)は丹波国(京都府)の亀山城(かめやまじょう/亀岡)に戻り、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊の援軍の為に中国地方の遠征の準備に入る。

そして行き先を何処でどう間違えたのか、「本能寺の変」(ほんのうじのへん)が起こり織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)する。

この時は近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)を離れた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)などの家臣団は、和泉国(大阪府)の商都の堺(さかい)を視察していた。

そこに京都からの早馬が到着した。

早馬の使者…『家康殿、一大事で御座る! 明智光秀殿が謀反(むほん)を起こし、信長殿下と信忠殿を討ち取ったで御座る。』

徳川家康…『なぁ、なんだってぇ!? のぉ、信長殿は亡くなったのかぁ!?』

早馬の使者…『はぁ、本能寺の宿坊に火を放ち自決したと思われます。 ただ、建物の焼け跡から信長殿下の遺体が見つかっていないのも事実です。』

本多忠勝…『殿、こうしてはおれぬぅぞぉ! ここ堺(さかい)は京都から近いから、直(す)ぐに明智軍が押し寄せてきますぞぉ!』

徳川家康…『うむぅ! 取り敢えず三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)まで帰るぞぉ!』

そこで本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)など有能な三河武士団が一致団結し、和泉国(大阪府)の堺(さかい)から三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を目指した。

この時、最も頼りになったのが、伊賀の忍者と言われる服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)である。

父親も伊賀国(三重県)の忍者であった服部保長(はっとりやすなが/足利→松平)で、当初は京都の室町幕府の足利氏に仕えていたが、衰退期を迎えていたため三河国(愛知県)の岡崎に拠点を移し、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の祖父の松平清康(まつだいらきよやす/松平)に仕える。

服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)も徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に仕え、伊賀国(三重県)の伊賀の忍者と近江国(滋賀県)の甲賀の忍者を束ねて指揮をとっていた。

この地脈と人脈を活かして、和泉国(大阪府)の堺(さかい)から険(けわ)しい山脈が連なる大和国(奈良県)や伊賀国(三重県)を一心不乱に突き進み、伊勢国(三重県)の湊(みなと)から船で尾張国(愛知県)の知多半島に渡り、ようやく三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)まで帰還した。

これを「伊賀越え」(いがごえ)と呼ぶ。

江戸時代には神君(しんくん/徳川家康)と呼ばれた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に因(ちな)んで「神君伊賀越え」(しんくんいがごえ)と呼ばれた遺跡は数々あるが、日本人だけでなく外国人にも人気がある忍者の地を取り上げます。

伊賀国(三重県)の伊賀忍者が拠点としていた所縁(ゆかり)の地でもある伊賀上野城(いがうえのじょう)の最寄駅は、伊賀鉄道の〈上野市駅〉の目の前にあり、1579年に織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が無断で織田軍次男隊を率いて侵攻して返り討ちに遭い壊滅し、父親の織田信長(おだのぶなが/織田)に親子断絶寸前になる程に叱られたメモリアルなお城である。

そこから〈伊賀神戸駅〉(いがかんべえき)方面に南下して〈忍者市駅〉(にんじゃしえき)こと〈上野市駅〉(うえのしえき)で下車すれば、誰でも忍者道場に入門でき、厳しい修行に耐える事ができた者だけが忍者になる事ができる。

近江国(滋賀県)の甲賀忍者が拠点としていた所縁(ゆかり)の地でもある甲賀の里・忍者村の最寄駅は、JRの〈甲賀駅〉から徒歩で山に登り数十分程度の距離にあり、この忍者村でも忍者道場に入門して、厳しい修行に耐える事ができた者だけが忍者になる事ができ、水遁(すいとん)の術や火遁(かとん)の術をマスターすれば、明日から仕事に役立てる事ができます。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

SHATTERED SUN /♪ HOPE WITHIN HATRED

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:29:41

◆◇◆其の五十九:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●其々(それぞれ)の本能寺の変:足利義昭(あしかがよしあき/室町)

織田信長(おだのぶなが/織田)と敵対した征夷大将軍15代目だった足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、近江国(滋賀県)の浅井氏と越前国(福井県)の朝倉氏を壊滅させてそのまま京都に進軍してきた織田軍から退避する為に、山城国(京都府)の宇治川沿いにある槇島城(まきしまじょう/宇治)に居城し足利軍を結成して抗戦する構えを示した。

これを1573年に起こった「槇島城の戦」(まきしまじょうのたたかい)と呼ぶ。

この時に織田信長(おだのぶなが/織田)は、敗北した足利義昭(あしかがよしあき/室町)を助命する代わりに、再び謀反(むほん)を起こさせない様に息子で嫡男(ちゃくなん)の足利義尋(あしかがぎじん/僧侶)を人質に取っている。

そのまま京都から追放された足利義昭(あしかがよしあき/室町)は西日本を中心に流浪の旅をして、安芸国(あき/広島県)の戦国武将の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を頼り、1576年に備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら)で居住する事となる。

足利義昭(あしかがよしあき/室町)が毛利氏の本拠地でもある安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)に入城できなかったのは、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)の毛利軍と織田信長(おだのぶなが/織田)の織田軍は同盟関係にあったからと言われる。

足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、この鞆の浦(とものうら)に移住して、1人だけで鞆幕府(ともばくふ)を開設する。

ここから“織田信長討伐”と“京都帰還”を目指して再起を計ろうとしていたが、ところが頼りにしていた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が1578年に病死し、長年対立していた摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の顕如(けんにょ/僧侶)と織田軍の織田信長(おだのぶなが/織田)が1580年に朝廷が仲裁して和睦した。

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)で織田徳川軍に敗北した武田勝頼(たけだかつより/武田)は、1582年に織田徳川軍や伊勢北条軍の「甲州征伐」(こうしゅうせいばつ)により自害に追い込まれ武田氏は滅亡する。

これで足利義昭(あしかがよしあき/室町)の鞆幕府(ともばくふ)の夢も完全に散ったかに見えた。

がっ、その直(す)ぐ後の1582年に、織田信長(おだのぶなが/織田)が京都の本能寺(ほんのうじ/法華宗)に滞在しているところを、明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)が率いる明智軍に包囲され討ち取られた起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)が起こった。

これは足利義昭(あしかがよしあき/室町)と毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)に取って全くの想定外だったに違いない。

ただ、これで直(す)ぐに“京都帰還”できる訳ではなく、今度は織田軍の内部分裂が起こり、“織田四天王”で織田軍の筆頭家臣の“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれる柴田勝家(しばたかついえ/織田)と、謀反人の明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)を「山崎の戦」(やまざきのたたかい)で討ち取った羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が対立した。

この時、足利義昭(あしかがよしあき/室町)は柴田勝家(しばたかついえ/織田)を支持したが、1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)で、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる羽柴軍に、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と織田信孝(おだのぶたか/織田)が率いる織田柴田軍は敗北し、越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)で柴田勝家(しばたかついえ/織田)は妻のお市の方(おいちのかた/織田→浅井)と共に自害した。

再び後ろ盾を失った足利義昭(あしかがよしあき/室町)である。

ここまで来ると、さすがの足利義昭(あしかがよしあき/室町)も、次なる天下人は羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)だという事に気付き接近を試(きころ)みる。

1586年に羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍が、薩摩国(鹿児島県)の戦国大名である島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)や弟の島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍に侵攻した九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)の時には、備後国(広島県)の鞆幕府(ともばくふ)に居住する足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、薩摩国(鹿児島県)の島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)に対して羽柴軍と和睦する様に仲裁に入り尽力(じんりょく)した。

この足利義昭(あしかがよしあき/室町)の誠意ある精励(せいれい)に、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は感銘を受けて九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)に向かう途中で、備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら)に立ち寄り足利義昭(あしかがよしあき/室町)と謁見(えっけん)した。

この時の会見で共に太刀(たち)を交換譲渡して、足利義昭(あしかがよしあき/室町)の“京都帰還”の条件や日程が話し合われたと言う。

天下人となった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の厚遇で、足利義昭(あしかがよしあき/室町)は京都に帰還する。

1588年に征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、事実上の将軍職を辞する。

これで名実ともに1338年に始まった“室町幕府”が250年余りの歴史に幕を閉じる。

豊臣政権での足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、山城国(京都府)の槇島(まきしま/宇治)に1万石の所領が与えられる。

京都で暮らす足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の御伽衆(おとぎしゅう)となり、良き話し相手で良好な関係を築いたと言う。

足利義昭…『わしぃも意地になって信長殿と対立したが、今となって考えると冷や汗が出るわぁ〜』

豊臣秀吉…『義昭公の意固地で執拗(しつよう)な反抗には、殿も相当に苦慮してましたなぁも。』

足利義昭…『いやぁ〜 あの時は、ほんまぁに信長殿には殺(や)られると思ったでぇ〜』

豊臣秀吉…『いくら殿でも、三好氏じゃあるまいしぃ、将軍を殺(あや)める主君殺しまではしませんぎゃ〜 アハッハッハッハッ〜』

そして1597年に“最後の室町将軍”である足利義昭(あしかがよしあき/室町)は病により死去する。

「槇島城の戦」(まきしまじょうのたたかい)で織田軍に人質に出された息子で嫡男(ちゃくなん)の足利義尋(あしかがぎじん/僧侶)が河内源氏の足利氏の家督継承者となるが、既に出家して僧侶になっていたので表舞台には顔を出さなかった。

足利義尋(あしかがぎじん/僧侶)は、大和国(奈良県)に建立(こんりゅう)された藤原氏の菩提寺(ぼだいじ)であり法相宗(ほっそうしゅう)の総本山の興福寺(こうふくじ)の大僧正(だいそうじょう)に就任し、その後は還俗(げんぞく)して女性と結婚し2人の子供が誕生したが、2人共に僧侶で子供を持たなかった為に、ここで足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)から続いた河内源氏の足利氏は途絶えた。

山城国(京都府)の槇島城(まきしまじょう/宇治)の最寄駅は、JRもしくは京阪の〈宇治駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、この地の観光スポットと言えば平等院(びょうどういん)だが、少し見方を変えて現代建築物の探索をすれば、京阪の〈宇治駅〉は京都を拠点とする若林広幸建築研究所がの若林広幸(わかばやしひろゆき/建築家)先生が設計し、見た目から解る通りのバブル期に流行したポストモダン建築デザインである。

そしてもう1箇所、近くの京阪の〈桃山南口駅〉の目の前には鉛筆削りの様なデザインをしたARKビルが建っていますが、京都は竹田を拠点とする高松伸建築設計事務所の高松伸(たかまつしん/建築家)先生が設計し、工業鋼鉄物を組み合わせた様なデザインが特徴で、2000年代以降で完成した建築物では観る事の出来ないデザインと構造で、そこが最大の見所でしょう。

備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら)にあった鞆幕府(ともばくふ)の最寄駅は、JRと新幹線の〈福山駅〉から徒歩で1時間程度の距離にあり、この瀬戸内海の海域には無数の島々が連なっており、1つ1つの島に渡航して見て回る事ができれば、それは人生最大の喜びと達成感です。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

KORN /♪ CLOWN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:30:39

◆◇◆其の六十:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●其々(それぞれ)の本能寺の変:滝川一益(たきがわかずます/織田)

“織田四天王”の滝川一益(たきがわかずます/織田)は、長年に渡り織田氏に仕える家臣だが、その出生がよく分かっていない。

そんな血統を重視しない実力主義の織田信長(おだのぶなが/織田)だからこそ、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と同様に滝川一益(たきがわかずます/織田)は活躍したと見える。

一説には、滝川一益(たきがわかずます/織田)は近江国(滋賀県)の甲賀で代々に伝わる忍者の家系と言われ、忍術だけでなく鉄砲の技術や知識も豊富で、製造技術や射撃術の腕前を織田信長(おだのぶなが/織田)に買われて仕えた。

現に1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)では、織田軍鉄砲隊の総指揮に任命され、あの“三段撃ち”で武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍を撃ち負かして勝利に貢献している。

1570年〜1574年まで続いた尾張国(愛知県)に近い木曽川と長良川と揖斐川の三川(さんせん)が合流する伊勢湾の海岸部に位置する伊勢国(三重県)の長島一向一揆(ながしまいっこういっき)では、志摩国(三重県)の九鬼氏(くきうじ)で九鬼水軍のお頭の九鬼嘉隆(くきよしたか/織田→豊臣)と協力して、武装した一向群集(いっこうぐんしゅう)を壊滅させて、その功績から織田信長(おだのぶなが/織田)から長島城(ながしまじょう/桑名)を与えられている。

そんな織田信長(おだのぶなが/織田)から絶対的な信用信頼を得ている滝川一益(たきがわかずます/織田)は、天下統一の総仕上げとして関東平定を任され、上野国(こうずけ/群馬県)と信濃国(長野県)の領国を与えられた。

ただ、当の滝川一益(たきがわかずます/織田)は、その領地よりも織田信長(おだのぶなが/織田)が所有する茶器の“珠光小茄子”(じゅこうこなす)の譲渡を希望したと言う。

滝川一益…『上野国(こうずけ/群馬県)の領地よりも、殿が所有する“珠光小茄子”(じゅこうこなす)を譲って頂きたく候(そうろう)。』

織田信長…『う〜〜ん、あの名器はわしぃも気に入っておるでぇよぉ、譲る訳にはだちぃかんのだわぁ〜』

それは叶わなかった。

こうして滝川一益(たきがわかずます/織田)は関東御取次役(かんとうおとりつぎやく)の役職に任命され、上野国(こうずけ/群馬県)の箕輪城(みのわじょう/高崎)や前橋城(まえばしじょう)を拠点として、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を居城する伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と関東平定の交渉を担った。

がっ、その直(す)ぐ後の1582年に、織田信長(おだのぶなが/織田)が京都の本能寺(ほんのうじ/法華宗)に滞在しているところを、明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)が率いる明智軍に包囲され討ち取られた起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)が起こった。

これで滝川一益(たきがわかずます/織田)の立場と事態が一変した。

先(ま)ず、和平交渉を締結していた伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が態度を変えて、滝川一益(たきがわかずます/織田)の領域だった上野国(こうずけ/群馬県)に5万6千人の北条軍が侵攻し始めた。

とても2万人程度の織田軍滝川隊だけでは敵(かな)う相手ではない。

小競り合いはあったものの、“進むも滝川、退くも滝川”と言われた滝川一益(たきがわかずます/織田)は伊勢国(三重県)の長島城(ながしまじょう/桑名)まで撤退を決めて、上野国(こうずけ/群馬県)の箕輪城(みのわじょう/高崎)に織田軍滝川隊に協力してくれた上州武士を集めて宴会を催した。

この間に織田軍の重鎮家臣である羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)、柴田勝家(しばたかついえ/織田)、丹羽長秀(にわながひで/織田)、池田恒興(いけだつねおき/織田)の4人で、織田氏の家督継承者と今後の織田軍の武将の領域配分について話し合われた「清洲会議」(きよすかいぎ)が実施されていた。

この「清洲会議」(きよすかいぎ)での領域配分は、織田信長(おだのぶなが/織田)が生前の領土を、その時の武将がそのまま統治する事が決まったが、こうなると関東地方を領域にしていた滝川一益(たきがわかずます/織田)は、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の北条軍に侵攻された為に領土を全て失う事になる。

この「清洲会議」(きよすかいぎ)の決定に抗議した滝川一益(たきがわかずます/織田)は、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は一蹴(いっしゅう)し取り付く島(しま)もない。

“織田四天王”の滝川一益(たきがわかずます/織田)に取って元々は配下武士だった羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の態度が、滝川一益(たきがわかずます/織田)の後々の政変での決定に影響していく。

こんな織田軍の状況下で、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる織田軍柴田隊が交戦した「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)が1583年に起こった。

当然に滝川一益(たきがわかずます/織田)は柴田勝家(しばたかついえ/織田)の織田軍柴田隊に味方したが敗北した為に、伊勢国(三重県)の長島城(ながしまじょう/桑名)の領地没収の改易(かいえき)になり、更(さら)に織田軍での立場が弱くなる。

これにて滝川一益(たきがわかずます/織田)は隠居する。

ところが今度は羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍と、織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が交戦した「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)が1584年に起こった。

この時は因縁の羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から援軍要請があり、滝川一益(たきがわかずます/織田)は羽柴軍に就いて、地の利がある最も激戦となった尾張国(愛知県)と伊勢国(三重県)の国境付近を任された。

木曽川と長良川と揖斐川の三川(さんせん)が合流する伊勢湾の海岸部に位置する尾張国(愛知県)の蟹江城(かにえじょう/海部)に居城した滝川一益(たきがわかずます/織田)は、息子の滝川一忠(たきがわかずただ/織田)と滝川一時(たきがわかずとき/織田→豊臣→徳川)、それに戦友で志摩国(三重県)の九鬼氏(くきうじ)で九鬼水軍のお頭の九鬼嘉隆(くきよしたか/織田→豊臣)と共に織田徳川軍と対戦した。

この時、伊勢国(三重県)の桑名城(くわなじょう)に布陣する織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)に布陣する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍の本隊が参戦した為に、蟹江城(かにえじょう/海部)は総攻撃を受けて滝川一益(たきがわかずます/織田)は篭城戦に持ち込んだ。

この蟹江城(かにえじょう/海部)の激戦の報告を聞いた摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)を拠点にしていた羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は情勢不利と判断して、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を調略して和睦を結び勝敗が付かずの幕引きとなった。

これを1584年に起こった「蟹江城合戦」(かにえじょうかっせん)と呼ぶ。

ただ、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍の三河武士団の脅威を肌で感じ、豊臣政権を樹立した後も、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)にはかなりの厚遇を施している。

この豊臣氏と徳川氏の関係が江戸幕府へと繋(つな)がっていく。

結果的に敗北した滝川一益(たきがわかずます/織田)は領国を復帰し大名となり、息子で嫡男(ちゃくなん)の滝川一忠(たきがわかずただ/織田)は敗北責任から追放処分となり、一方で滝川一時(たきがわかずとき/織田→豊臣→徳川)は恩賞を与えられた。

滝川一益(たきがわかずます/織田)の晩年は豊臣政権の外交を担い、1586年に越前国(福井県)に訪問した際に何者かに暗殺され、一説には織田信長(おだのぶなが/織田)の織田軍による越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)の締め付けで被害に遭った一向群集(いっこうぐんしゅう)の残党が襲撃したと言われる。

因(ちな)みに“ツッパリの利家”と呼ばれる前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)を義理の叔父に持つ“ヤンキーの慶次”と呼ばれる前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)は、元は滝川氏の生まれだが前田氏に養子に入った経緯(いきさつ)があり、叔父の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)に勝とも劣らない数々の伝説を前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)は生み出している。

上野国(こうずけ/群馬県)の箕輪城(みのわじょう/高崎)の最寄駅は、JRの〈群馬総社駅〉(ぐんまそうじゃえき)から徒歩で1時間程度の距離にあり、標高1449mの榛名山(はるなさん)の麓に建っており、この事からも解る通り周辺は山岳地帯で、最も目玉な観光地は上越を北上した〈湯檜曽駅〉(ゆびそえき)付近のグルリと円を描くループ線で、山奥の勾配を汽車が登れる様に編み出された線路の敷設方法で、正(まさ)に鉄道産業遺産である。

上野国(こうずけ/群馬県)の前橋城(まえばしじょう)の最寄駅は、上毛電鉄(じょうもうでんてつ)の〈中央前橋駅〉もしくはJRの〈前橋駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、群馬県庁の周辺一帯が前橋城(まえばしじょう)の跡地で、そこから解る通り前橋市は県庁所在地ではあるが、実は新幹線の駅は高崎市の〈高崎駅〉に設けられ、そこから新潟方面の上越新幹線と福井方面の北陸新幹線に枝分かれする要所であり、知名度が高崎市の方が上かも知れないが、前橋市も負けてはおらず、バブル後期にはあのマハラジャ系高級ディスコの前橋キング&クイーンがあり、けっこう息の長い営業を続けていた記憶がある。

尾張国(愛知県)の蟹江城(かにえじょう/海部)の最寄駅は、JRの〈蟹江駅〉もしくは近鉄の〈近鉄蟹江駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、周囲は大きな河川に囲まれており、織田氏が重要視した津島の湊(みなと)にも近く、鉄鋼物やガラスなどを配合した器の七宝焼(しっぽうやき)の産地としても有名です。

伊勢国(三重県)の桑名城(くわなじょう)の最寄駅は、JRと近鉄の〈桑名駅〉もしくは三岐鉄道の〈西桑名駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、揖斐川の岸辺に建つ桑名城(くわなじょう)の近くには伊勢国(三重県)の桑名と尾張国(愛知県)のあつたを海路で結ぶ七里の渡し(しちりのわたし)があり江戸風情を感じる事ができる。

伊勢国(三重県)の長島城(ながしまじょう/桑名)の最寄駅は、JRの〈長島駅〉もしくは近鉄の〈近鉄長島駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、周辺には可憐で美しいお花畑が広がる庭園のなばなの里や、昭和期から東海地方の遊園地の王座に君臨しているナガシマスパーランドがあり、お泊まりは『♪ようこそここへ〜 クッククックッ〜 私の青い鳥〜』でお馴染みの、あのレコード歌手の桜田淳子(さくらだじゅんこ/歌手)さんもお薦めするホテル花水木が定番である。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

HELMET /♪ BISCUITS FOR SMUT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:31:44

◆◇◆其の六十一:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●其々(それぞれ)の本能寺の変:孫の三法師(さんぽうし)と次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)

1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)が京都の本能寺(ほんのうじ/法華宗)に滞在しているところを、明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)が率いる明智軍に包囲され討ち取られた起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)が起こった。

それに併せて二条御所にて長男で家督継承者の織田信忠(おだのぶただ/織田)も命を落とした。

これにて直接的な害を被り、最も混乱したのは当家の織田氏である。

この混乱は引退間近の織田信長(おだのぶなが/織田)よりも、これから織田軍を牽引する当主の織田信忠(おだのぶただ/織田)が亡くなった方が、混迷の影響は遥(はる)かに大きかった。

「本能寺の変」(ほんのうじのへん)から1ヶ月後に、尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)にて織田軍の重鎮家臣による羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)、柴田勝家(しばたかついえ/織田)、丹羽長秀(にわながひで/織田)、池田恒興(いけだつねおき/織田)の4人で、織田氏の家督継承者と今後の織田軍の武将の領域配分について話し合われた。

当時、実質的な織田軍の当主は長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)だった為に、その家督継承者は息子で嫡男(ちゃくなん)の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)にすんなり決定されたが、ただ、まだ3歳の幼児で、強靭な織田軍を牽引するにはこの先15年近くは要する。

そこで織田信長(おだのぶなが/織田)の息子で次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)のどちらかが、中継ぎの当主に就任する案が出された。

織田信長(おだのぶなが/織田)の妻で正室の濃姫(のうひめ/斎藤→織田)には子供が居らず、実質的な筆頭の側室は生駒吉乃(いこまきつの/生駒→織田)で、長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)と次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と娘の徳姫(とくひめ/織田→徳川)の母親とされ、一方の三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)の母親は坂氏(さかうじ)の娘で、後継者の順位では格下とされる。

ここまで見ると次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が中継ぎの当主に就けば問題解決となるが、現実は次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)はお坊ちゃん育ちで当主としては頼りなく、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)は織田信長(おだのぶなが/織田)に似て武勇に秀でていた為に、宿老衆(しゅくろうしゅう)の4人は中継ぎの当主を決めかねていた。

結局、家督継承者は長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)が元服(げんぷく)したら継ぐが、それまでは宿老衆(しゅくろうしゅう)の羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)、柴田勝家(しばたかついえ/織田)、丹羽長秀(にわながひで/織田)、池田恒興(いけだつねおき/織田)の4人と、三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)のお守役の堀秀政(ほりひでまさ/斎藤→織田→豊臣)が織田軍の政権運営を担う事になった。

堀秀政(ほりひでまさ/斎藤→織田→豊臣)とは、元は斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の家臣で、その後は織田信長(おだのぶなが/織田)に仕えた人物である。

次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)は一門衆(いちもんしゅう)として織田氏を補佐し、同盟衆の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は協力関係の継続を確認し、織田氏と織田軍の方向性の大筋の合意が得られた。

三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)は近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)で新生活を始める事も決定された。

その後、“小牧山の美女”と呼ばれるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)の行く末も話し合い、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に総攻撃を受けた近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)が落城し、夫の浅井長政(あざいながまさ/浅井)が討死し、その後、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)で生活していた未亡人のお市の方(おいちのかた/織田→浅井)と、3人娘の茶々(ちゃちゃ)と初(はつ)と江(ごう)は柴田勝家(しばたかついえ/織田)に引き取られる事が決まり、この時の柴田勝家(しばたかついえ/織田)は60代でお市の方(おいちのかた/織田→浅井)は30代と、祖父と孫くらいの年齢差だった。

これを1582年に開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)と呼ぶ。

ところがである。

三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が甥の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を引き連れて、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)で一緒に同居し始めたのである。

しかも三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が織田氏の家督継承者の様に振る舞い始め、これは完全に「清洲会議」(きよすかいぎ)の条約違反であった。

これに反発したのが羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)で、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と対立姿勢を示した。

ただ、この時点での羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の陣営は、丹羽長秀(にわながひで/織田)と池田恒興(いけだつねおき/織田)の宿老衆(しゅくろうしゅう)の3人のみ。

一方、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)の陣営には、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の一門衆(いちもんしゅう)と、将来の家督継承者の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)、それに柴田勝家(しばたかついえ/織田)が就いた。

分(ぶ)が悪い羽柴陣営は、先(ま)ず約定違反者として三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)を非難した上で、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を味方に引き入れる事に成功した。

次は今後の主導権を左右する三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を奪還する事である。

時期は「清洲会議」(きよすかいぎ)から半年後の厳冬の季節に、尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)から次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる織田軍次男隊が侵攻し、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が率いる織田軍三男隊が布陣する美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)を包囲した。

三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)に味方した越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)に居城する“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれる柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる織田軍柴田隊は、北陸地方特有の豪雪の為に進軍できない。

この好機を狙って山城国(京都府)の山崎城(やまざきじょう/大山崎)から羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊が、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)を包囲する次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる織田軍次男隊の援軍に駆け付ける。

この戦況不利を悟った三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)は降伏して、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を引き渡してしまう。

これを1582年に起こった「三法師争奪合戦」(さんぽうしそうだつかっせん)と呼ぶ。

これで織田軍に対して賊軍となった三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれる柴田勝家(しばたかついえ/織田)、それに領土問題で羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と対立していた滝川一益(たきがわかずます/織田)が連盟して対抗勢力を結成する事になる。

こうして徐々に織田政権から羽柴(豊臣)政権に移行されていく。

尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)の最寄駅は、JRの〈清洲駅〉もしくは名鉄の〈新清洲駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、北方の稲沢市は奈良時代に尾張国(愛知県)を統治するヤマト政権の国府(こくふ)が設けられ、その拠点が国府宮(こうのみや)となり、大和国(奈良県)の平城京に居住する第45代天皇の聖武天皇(しょうむてんのう/朝廷)が倭国(日本)各地に国分寺(こくぶんじ)を建立(こんりゅう)し、娘で第48代天皇の称徳天皇(しょうとくてんのう/女皇)と太政大臣の弓削道鏡(ゆげどうきょう/僧侶)が、疫病退散の祈祷を実施する様に勅命(ちょくめい)を発布したのが起源とされる国府宮はだか祭(こうのみやはだかまつり)は、1200年以上も続く伝統と歴史ある神事で、あの“お祭り男”と呼ばれる織田信長(おだのぶなが/織田)も褌(ふんどし)一丁で参加している。

美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)の最寄駅は、名鉄の〈田神駅〉(たがみえき)から徒歩で金華山(きんかざん/稲葉山)を登り1時間程度の距離にあり、近隣の岐阜市街地にはアパレル産業やファッションメーカーが集結する日本で最大級の繊維問屋街が形成されており、世界最先端のファッショントレンドはここ岐阜市から発信されており、尾張国(愛知県)の繊維(せんい)や紡績(ぼうせき)の工場と連携して飛躍を続け、織田信長(おだのぶなが/織田)が築いた楽市楽座(らくいちらくざ)の原型と言われ、ファッションやアパレルで成功している世界中のクリエイターやデザイナーは必ず岐阜市の繊維問屋街に表敬訪問をしている。

山城国(京都府)の山崎城(やまざきじょう/大山崎)の最寄駅は、JRの〈山崎駅〉もしくは阪急の〈大山崎駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、周囲は天王山(てんのうざん)などの山岳地帯に囲まれ、桂川と宇治川と木津川が合流する淀川に挟まれた細長い地形で、この辺りの見所と言えばJRの〈長岡京駅〉と〈向日町駅〉(むこうまちえき)の間にあるJR西日本の巨大な車両基地が圧巻で、何時(いつ)も乗った事のない変わった車両が停まっている。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

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◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:32:51

◆◇◆其の六十二:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●其々(それぞれ)の本能寺の変:柴田勝家(しばたかついえ/織田)

織田軍の賊軍となった“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれる柴田勝家(しばたかついえ/織田)を総大将に、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)に布陣する三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と伊勢国(三重県)の長島城(ながしまじょう/桑名)に布陣する滝川一益(たきがわかずます/織田)は柴田軍を組成した。

越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)に布陣する柴田勝家(しばたかついえ/織田)には、越前国(福井県)の越前府中城(えちぜんふちゅうじょう)に居城する“親父”(おやじ)と慕う“ツッパリの利家”と呼ばれる前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が就いた。

3万人の柴田軍には、柴田勝豊(しばたかつとよ/織田)や佐久間盛政(さくまもりまさ/織田)も参戦する。

柴田勝豊(しばたかつとよ/織田)とは、母親が柴田勝家(しばたかついえ/織田)の姉で、柴田勝家(しばたかついえ/織田)の養子に入り義理の息子となり、近江国(滋賀県)の長浜城(ながはまじょう)の城主に就いていた。

佐久間盛政(さくまもりまさ/織田)とは、同じく母親が柴田勝家(しばたかついえ/織田)の姉で、妻が佐久間盛重(さくまもりしげ/織田)の娘を娶(めと)り、“夜叉玄蕃”(やしゃげんば)と呼ばれる程の猛追武将として知られていた。

対する山城国(京都府)の山崎城(やまざきじょう/大山崎)に布陣する羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を総大将に、尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)に布陣する次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と、若狭国(福井県)の後瀬山城(のちせやまじょう/小浜)に布陣する丹羽長秀(にわながひで/織田)と共に羽柴軍を組成した。

5万人の羽柴軍には、元は荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)の家臣で、摂津国(大阪府)の茨木城(いばらきじょう)の城主の中川清秀(なかがわきよひで/荒木→織田→豊臣)も参戦した。

因(ちな)みに、羽柴秀吉(はしばひでよし)の苗字は、尊敬する武将の丹羽長秀(にわながひで/織田)の“羽”と柴田勝家(しばたかついえ/織田)の“柴”を組み合わせて羽柴(はしば)と名付けている。

その尊敬する2人を敵味方に別けて対戦する羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の心中は複雑だったと察する。

これが戦争である。

柴田軍の総大将の柴田勝家(しばたかついえ/織田)は、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)に援軍要請をしているが、共に領国統治を先行させる為に断られている。

そんな中で山城国(京都府)の山崎城(やまざきじょう/大山崎)から出陣した羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍本隊は、近江国(滋賀県)の長浜城(ながはまじょう)に布陣する柴田勝豊(しばたかつとよ/織田)を包囲したが、これがあっさりと降伏してしまう。

一説には養子に入った柴田勝豊(しばたかつとよ/織田)は、叔父で義父の柴田勝家(しばたかついえ/織田)とは不仲だったと言われる。

続いて羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍本隊と尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)から出陣した次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる羽柴軍次男隊が、伊勢国(三重県)の長島城(ながしまじょう/桑名)に布陣する滝川一益(たきがわかずます/織田)に侵攻した。

これに対して越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)から柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍本隊が出陣して南下した。

ここで若狭国(福井県)の後瀬山城(のちせやまじょう/小浜)から出陣した丹羽長秀(にわながひで/織田)が率いる羽柴軍丹羽隊が、柴田軍本隊の後方から侵攻した。

更(さら)に羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、越前国(福井県)の一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)の越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)に協力要請して一向群集(いっこうぐんしゅう)が柴田勝家(しばたかついえ/織田)の本拠地である北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)を侵攻させている。

羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍本隊が近江国(滋賀県)の長浜城(ながはまじょう)まで戻って来たところで、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)から三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が率いる柴田軍三男隊が出陣して近江国(滋賀県)に侵攻して来た。

こうして近江国(滋賀県)の賤ヶ岳(しずがたけ/長浜)を一帯に合戦が繰り広げられる。

越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)の最寄駅は、JRと新幹線とえちぜん鉄道と福井鉄道の〈福井駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、現在は柴田公園として整備され、北方にある福井城(ふくいじょう)は江戸時代初期に築城されました。

越前国(福井県)の越前府中城(えちぜんふちゅうじょう)の最寄駅は、JRの〈武生駅〉(たけふえき)もしくは福井鉄道の〈たけふ新駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、この辺りは鎌倉時代末期の1333年に第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)が実施した「建武の新政」(けんむのしんせい)の後に、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍と斯波高経(しばたかつね/室町)が率いる足利軍斯波隊が激戦を繰り広げ、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)による室町幕府の開設を決定付けた土地でもあり、広域には数多くの遺跡や史跡が残されている。

若狭国(福井県)の後瀬山城(のちせやまじょう/小浜)の最寄駅は、JRの〈小浜駅〉(おばまえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、目の前には日本海が広がり、若狭湾は水質の良い綺麗な海水浴としても有名で、サマーシーズンになると東海や関西からもビーチボーイズとビーチガールズが挙(こぞ)って押し寄せている。

近江国(滋賀県)の長浜城(ながはまじょう)の最寄駅は、JRの〈長浜駅〉の目の前にあり、織田信長(おだのぶなが/織田)の命を受けて羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が初めて築城したメモリアルなお城であり、周辺の観光スポットと言えば琵琶湖の湖畔や黒壁スクエアが有名だが、ここはやはり標高1377mの伊吹山(いぶきやま)を目指して、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)を懲(こら)らしめた山神の乙事主(おっことぬし)を探しに行き、もし、乙事主(おっことぬし)に会う事が出来れば、間違いなく男性ならアシタカ、女性ならサン、野心家ならジコ坊に任命されるでしょう。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

THE DAMNED /♪ NEAT NEAT NEAT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:33:51

◆◇◆其の六十三:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●其々(それぞれ)の本能寺の変:前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)

初戦は柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍本隊が優位で、劣勢となった羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍本隊が美濃国(岐阜県)の大垣城(おおがきじょう)に退陣する。

羽柴軍中川隊を率いた中川清秀(なかがわきよひで/荒木→織田→豊臣)は、“夜叉玄蕃”(やしゃげんば)と呼ばれる佐久間盛政(さくまもりまさ/織田)に討ち取られ戦死した。

この退却し始めた羽柴軍前線部隊を追い詰めた柴田軍前線部隊が、総大将の柴田勝家(しばたかついえ/織田)の一時撤収の命令を無視して追い込み過ぎ、そこに再び進軍して来た羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍本隊に総攻撃を喰らい壊滅する。

この時に活躍したのが“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と呼ばれる福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)、平野長泰(ひらのながやす/豊臣→徳川)、糟屋武則(かすやたけのり/別所(赤松)→豊臣)、加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)の7人の侍(サムライ)である。

それに先陣を切った桜井家一(さくらいいえかず/豊臣)や石川一光(いしかわかずみつ/豊臣)も一番槍(いちばんやり)で武功を挙げた。

これに対して別所山(べっしょやま/長浜)に砦(とりで)を設けて布陣していた前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が率いる柴田軍前田隊は1歩も動かなかった。

しかも一戦も交える事なく前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が率いる柴田軍前田隊は越前国(福井県)の越前府中城(えちぜんふちゅうじょう)に帰還してしまう。

戦況不利となった柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍本隊は、越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)に撤退し始めた。

しかし、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍本隊も追撃して、越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)を包囲した。

柴田勝家(しばたかついえ/織田)は篭城し抗戦したが、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の兵糧攻めの怖さを知っている為に、早々に降伏して妻で“小牧山の美女”と呼ばれたお市の方(おいちのかた/織田→浅井)と共に自決した。

その3人娘の茶々(ちゃちゃ)と初(はつ)と江(ごう)は助命され、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に引き取られた。

この後、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)に居城する三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)を、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる羽柴軍次男隊が侵攻して包囲し、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)を拘束した。

羽柴軍次男隊に連行された三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)は尾張国(愛知県)の知多半島にある野間大坊(のまだいぼう/真言宗)で幽閉され、ここで羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の命令で自決している。

奇(く)しくもこの野間大坊(のまだいぼう/真言宗)は、1160年に起こった「平治の乱」(へいじのらん)で平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)に敗北した源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の逃亡先で、この地で家臣の裏切りにより斬殺されている。

伊勢国(三重県)の長島城(ながしまじょう/桑名)に布陣する滝川一益(たきがわかずます/織田)も戦況劣勢を知り降伏して、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の命令で領地没収の改易(かいえき)となり隠居した。

これを1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)と呼ぶ。

この「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)の後に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)は柴田軍でありながら、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)より加賀国(石川県)を加増されている。

これをどう読み解くのか。

ただ、若き織田信長(おだのぶなが/織田)の時から仕える“ツッパリの利家”と呼ばれる前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)は、失態により斬首を言い渡された時に助命嘆願した命の恩人でもある“親父”(おやじ)と慕う柴田勝家(しばたかついえ/織田)と、織田軍の下積み時代から共に戦ってきた羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を、天秤(てんびん)に掛ける事など出来る筈(はず)も無い大切な2人だったに違いない。

しかも、妻のまつ(芳春院/織田→豊臣)は、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の妻のおね(高台院、北政所/織田→豊臣)と大親友だった。

そんな尊敬と友情で結ばれた2人を敵味方に別けて対戦する前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の心中は複雑だったと察する。

これが戦争である。

戦況不利となった柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍本隊が越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)に撤退する途中の逸話が残る。

近江国(滋賀県)の賤ヶ岳(しずがたけ)から北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)までの帰路の途中に越前国(福井県)の越前府中城(えちぜんふちゅうじょう)があり、そこに前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が居城していた。

柴田勝家(しばたかついえ/織田)は、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が居る越前府中城(えちぜんふちゅうじょう)に立ち寄り、黙って2人で湯漬け(お茶漬け)を食べたと言う。

帰り際に柴田勝家(しばたかついえ/織田)は、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)に一言だけ声を掛けた。

柴田勝家…『信長殿の意志を継ぐのは秀吉殿だ。 お前は一生涯、秀吉殿を支えて亡き信長殿の夢を叶えてやってくれ。』

前田利家…『親父(おやじ)さん、すまない・・・ うううううっ〜』

柴田勝家…『泣くな息子よぉ! 戦国武将としてのお前の選択は正しい、父親として誇らしいぞぉ!』

前田利家…『親父(おやじ)さん、親父(おやじ)さん・・・ うううううっ〜』

これが戦国の武士である。

近江国(滋賀県)の「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)の古戦場跡地の最寄駅は、JRの〈木ノ本駅〉(きのもとえき)から徒歩で山に登り1時間程度の距離にあり、ちょうど琵琶湖の先端部分にあたり、山越えすると余呉湖(よごこ)もあり、山岳と湖と古戦場が三度の飯より好きな方には、魅力と迫力が詰まったエリアとなっている。

美濃国(岐阜県)の大垣城(おおがきじょう)の最寄駅は、JRと養老鉄道の〈大垣駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、南西方の山岳地帯には奈良時代にお酒が湧いた伝説がある養老の滝があり、その噂(うわさ)を聞き付けた第44代天皇の元正天皇(げんしょうてんのう/女皇)が行幸(ぎょうこう)して養老と名付けたと言われる。

第44代天皇の元正天皇(げんしょうてんのう/女皇)とは、草壁皇子(くさかべのみこ)と第43代天皇の元明天皇(げんめいてんのう/女皇)の娘で、645年に「大化の改新」(たいかのかいしん)を実施した中大兄皇子(なかのおおえのみこ)こと第38代天皇の天智天皇(てんぢてんのう)の孫にあたる。

因(ちな)みに養老の滝には、居酒屋がある訳ではない。

尾張国(愛知県)の知多半島にある野間大坊(のまだいぼう/真言宗)の最寄駅は、名鉄の〈野間駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、そこから北方には酒蔵の盛田酒造(もりたしゅぞう)があり、ここはソニーの創業者の盛田昭夫(もりたあきお/実業家)さんの実家で、1971年に創業したコンビニエンスストアの酒類を扱うココストアは盛田酒造(もりたしゅぞう)のグループで、シキシマパンは親族会社でもあり、盛田酒造(もりたしゅぞう)はソニーの創業期には事業資金をかなり融資している逸話(いつわ)も残っており、そう言う意味ではプレイステーションと日本酒と食パンは同系グループの商品とも言える。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

JOSH RAMSAY FEAT.CHAD KROEGER /♪ LADY MINE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:34:53

◆◇◆其の六十四:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

●其々(それぞれ)の本能寺の変:佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)

1550年頃の尾張国(愛知県)では織田信長(おだのぶなが/織田)の父親の織田信秀(おだのぶひで/織田)が勢力を拡大していた。

その織田信秀(おだのぶひで/織田)の家臣に宇多源氏の佐々木氏の系統の佐々成宗(さっさなりむね/斯波→織田)が仕えていた。

息子には長男の佐々政次(さっさまさつぐ/織田)、次男の佐々孫介(さっさまごすけ/織田)、三男の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)などが居た。

どの息子も織田信長(おだのぶなが/織田)に仕えていた。

ただし、その織田信長(おだのぶなが/織田)の飛躍の裏で、戦地で命を落とす織田軍の武士も多く存在している。

次男の佐々孫介(さっさまごすけ/織田)は、1556年に起こった「稲生の戦」(いのうのたたかい)で討死した。

長男の佐々政次(さっさまさつぐ/織田)は、1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)で討死している。

こんな事情もあり佐々氏(さっさうじ)の家督継承者は三男の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が引継ぐ事となった。

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は亡き兄2人の意思を背負い、織田信長(おだのぶなが/織田)の元で飛躍を見せて数々の武功を挙げる。

1561年に起こった美濃国(岐阜県)の長良川の岸辺にて一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)と交戦した「森部の戦」(もりべのたたかい)で活躍する。

1568年に起こった近江国(滋賀県)から山城国(京都府)に掛けて征夷大将軍15代目になる足利義昭(あしかがよしあき/室町)を引き連れた「上洛戦」(じょうらくせん)で大活躍する

1574年に起こった伊勢国(三重県)の桑名にて一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)の一向群集(いっこうぐんしゅう)を鎮圧させる長島一向一揆(ながしまいっこういっき)で大々活躍する。

1575年に起こった三河国(愛知県)の新城にて武田勝頼(たけだかつより/武田)と交戦した「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)では、滝川一益(たきがわかずます/織田)と共に織田軍鉄砲隊の総指揮に任命され、あの“三段撃ち”で武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍を撃ち負かして勝利に貢献している。

こんな屈強(くっきょう)な経歴から、織田信長(おだのぶなが/織田)より“信長親衛隊”の黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)の内、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は黒母衣衆(くろほろしゅう)の大将に就任した。

その後、“織田四天王”の“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)の直参家臣となり、越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)を拠点に北陸地方の統治に奔走(ほんそう)する。

この時、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)と“ツッパリの利家”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と不破光治(ふわみつはる/斎藤→織田)は、越前国(福井県)を攻略した“府中三人衆”(ふちゅうさんにんしゅう)と呼ばれ、織田軍の中でも勇猛果敢な武将として知られる様になる。

これにより佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は越中国(富山県)の統治を任され、富山城(とやまじょう)の城主に就いた。

がっ、その直(す)ぐ後の1582年に、織田信長(おだのぶなが/織田)が京都の本能寺(ほんのうじ/法華宗)に滞在しているところを、明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)が率いる明智軍に包囲され討ち取られた起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)が起こった。

これで佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の立場と事態が一変した。

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍に佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は“ツッパリの利家”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と共に参戦し、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍と交戦した。

ただ、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の戦線離脱もあり柴田軍は敗北して柴田勝家(しばたかついえ/織田)は自決し、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は降伏して羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に臣従(しんじゅう)する事になる。

1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)では、当初は羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の羽柴軍に参戦していたが、元々に格下の羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に反感を持っていた為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍に寝返った。

しかし、戦況は織田徳川軍が有利に運んでいたが、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が勝手に羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と和睦した為に、合戦は勝敗が着かず終了してしまった。

越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)に戻った佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に再び再戦してもらう様に挙兵を嘆願する事を思い描く。

その為には直談判(じかだんぱん)しかない。

時期は厳冬、越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)から、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が居城する遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)に来訪するには、標高2000mの飛騨山脈(北アルプス)や木曽山脈(中央アルプス)を避け迂回(うかい)する必要がある。

ルートは信濃国(長野県)から甲斐国(山梨県)に入り駿河国(静岡県)を通り遠江国(とおとうみ/静岡県)に行くか、飛騨国(岐阜県)から美濃国(岐阜県)に入り三河国(愛知県)を通り遠江国(とおとうみ/静岡県)に行く2通りある。

ところが街道には羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が手配した落武者狩りが待機しており、指名手配されている佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)はメインの2ルートを通る事はできない。

そこで佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は猛吹雪の中の飛騨山脈(北アルプス)と木曽山脈(中央アルプス)の剣(つるぎ)の様な尾根を越えて遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)に来訪する事を決める。

現在でも登山のフル装備を施してチャレンジしても、普通に考えて遭難し死を招く。

ただ、猛攻武将と呼ばれる佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、厳冬の中、命懸けの山越えを成し遂げた。

これを針ノ木峠(はりのきとうげ)を突破した“さらさら越え”と言う。

遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)に到着した佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と謁見(えっけん)した。

佐々成政…『家康殿、越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)から雪山を越えてまで挙兵の嘆願しに来ました。』

徳川家康…『成政殿、本当に飛騨山脈(北アルプス)と木曽山脈(中央アルプス)を越えて遠江国(とおとうみ/静岡県)に入ったのかぁ? 秀吉殿と合戦するよりも、その能力をアルピニスト(登山家)など違う事に活かした方が良いのではないかぁ?』

佐々成政…『いやいや家康殿、共に秀吉殿を打ち倒しましょうぞぉ!』

徳川家康…『う〜〜ん、それは出来ぬ。 生前の信長殿も言っておったが、もう合戦の時代ではないぞぉ。』

佐々成政…『そうですか、残念ですなぁ。』

徳川家康…『成政殿、気を落とすではないぞぉ。 もしアルピニスト(登山家)に転職するなら徳川家がスポンサーになるで御座る。』

同様に“織田四天王”の滝川一益(たきがわかずます/織田)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)にも接触したが、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同じく挙兵は断られた。

そんな中、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)から10万人の羽柴軍を引き連れて、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が居城する越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)を包囲した。

これに対して佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は観念して羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏した。

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の領国の越中国(富山県)は領地没収の改易(かいえき)となり、身柄は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に移され羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の御伽衆(おとぎしゅう)に就いた。

越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)の最寄駅は、富山地方鉄道の〈丸の内駅〉もしくは〈国際会議場前駅〉の目の前にあり、富山市は路面電車を中心とした都市計画を形成しており、日本全国で最もコンパクトシティーを成功させた都市であり、富山城(とやまじょう)も城主の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が領地没収の改易(かいえき)になった後は、加賀国(石川県)から“ツッパリの利家”と呼ばれる前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の息子の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)が入城して、越中国(富山県)に繁栄をもたらした。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

HOOBASTANK /♪ THIS IS GONNA HURT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:35:55

◆◇◆其の六十五:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)はその後、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の全国統一に向けての進軍に同行し、九州征伐では薩摩国(鹿児島県)の島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)と弟の島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍と交戦した際に、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は大活躍して武功を挙げる。

この恩賞により45万石の肥後国(熊本県)を領地として与えられ大名として復帰する。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『信長殿下の直参に仕えていただけあって、成政殿はさすがですねぇ〜 肥後国(熊本県)の統治も期待してますよぉ〜』

佐々成政…『はぁ、有難きお言葉。 秀吉殿の期待に背かない様に粉骨砕身(ふんこつさいしん)で身を尽くします。』

羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『ただ、肥後国(熊本県)は難しい土地柄の為に、検地や荘園(そうえん)の調査は慎重に行う様に!』

佐々成政…『承知致した!』

ところが、肥後国(熊本県)は平安時代から菊池氏や阿蘇氏など地元の武家が根強く、熊本城(くまもとじょう/隅本城)を拠点とする外様大名(とざまだいみょう)の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、納税の徴収に苦慮して家臣への兵糧の配給にも困窮した。

こうした背景から国主の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、農地の検地を実施して適正な納税を農民に課した。

これに反発した農民が地元の武将と結託して一揆を勃発させた。

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)も羽柴軍佐々隊を組成して出陣させたが、一揆軍の猛攻に遭い苦戦した。

そこで摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に居城する羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に救援要請して、九州周辺の大名が援軍として参戦してなんとか一揆軍を鎮圧させた。

この佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の大失態に羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は切腹を命じて、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は自決した。

これを1587年に起こった「肥後国人一揆」(ひごこくじんいっき)と呼ぶ。

最期は悲運な佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)だったが、そんな生涯には数々の伝説や伝承が残されている。

それは2通りの“黒百合伝説”(くろゆりでんせつ)であろう。

1つ目のエピソードは、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の愛妾(あいしょう)に美しい早百合(さゆり/側室)が居たが、他の側室から疎(うと)まれ妬(ねた)まれて、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)に讒言(ざんげん)を吐(つ)いた。

性悪側室…『実は早百合は、越後国(新潟県)の上杉氏と密通(みっつう)しており、しかもお腹に他の男性との子供が宿っております。』

佐々成政…『なぁ、なんだってぇ〜 ウグッグッグッ〜 許さぁ〜〜ん!』

これに信用して激怒した佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、早百合(さゆり/側室)を斬殺して、その一族も処刑した。

佐々成政…『姦通罪(かんつうざい)で成敗する!』

バサッ バサッバサッ

早百合…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

斬られた息絶えた早百合(さゆり/側室)の屍(しかばね)は、見る見る鬼女の姿に変えて佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)を睨(にら)みつけた。

早百合(鬼女)…『おのれ成政めぇ! この恨みはらさでおくべきかぁ! 子孫7代まで呪い祟ってやるわぁい!』

佐々成政…『うううっ! この鬼女めぇ、やれるものなら、やってみろぉ!』

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は再び鬼女となった早百合(さゆり/側室)に斬り付けたが、早百合(さゆり/側室)は高く舞い上がり、一言を残して山奥に消えていった。

早百合(鬼女)…『越中国(富山県)の立山に黒百合(くろゆり)が咲いたら、佐々氏(さっさうじ)は滅亡するだろう!』

実は佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)には息子で嫡男(ちゃくなん)が早世しており佐々氏(さっさうじ)の後継者が居らず、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が自決した事で佐々氏(さっさうじ)は滅亡した事になる。

がっ、佐々氏(さっさうじ)の庶流(しょりゅう)には、江戸時代に常盤水戸藩の藩主の徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)の家臣だった佐々宗淳(さっさむねきよ/水戸)が血縁者で、この方は“水戸黄門”の助さんこと佐々木助三郎(ささきすけさぶろう)のモデルとなり、昭和期から佐々氏(さっさうじ)は無くてはならないキャラクターとなった。

2つ目のエピソードは、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が越中国(富山県)の立山で咲く事が珍しいと言われる黒百合(くろゆり)の一輪(いちりん)を、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)も正室のおね(高台院、北政所/織田→豊臣)に贈ったところ、おね(高台院、北政所/織田→豊臣)も大変に喜んで、黒百合(くろゆり)を生けて床の間に飾りお茶会を開催した。

ところが、これを見た側室の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)が後日、お茶会を開催した際には、茶室の入り口に設置される手洗受けに、無数の黒百合(くろゆり)を無造作に浮かばせた。

この茶会に呼ばれて無数の黒百合(くろゆり)の光景を目にしたおね(高台院、北政所/織田→豊臣)は不愉快な思いをして、贈った佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)も面目(めんぼく)を失った逸話が残っている。

何方(どちら)のエピソードも信憑性に欠けるが、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の波瀾万丈な一生涯からヒントを得た談議である事は間違いない。

肥後国(熊本県)の熊本城(くまもとじょう/隅本城)の最寄駅は、熊本市電の〈熊本城市役所前駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、現在の熊本城(くまもとじょう/隅本城)は城主だった加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が築城したが、その歴史は肥後国(熊本県)の戦国乱世と共に刻まれており、江戸時代の幕末には1877年に起こった「西南戦争」にて、明治政府軍と交戦した薩摩軍の総大将に就いた西郷吉之助(さいごうきちのすけ)こと西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は敗北した際に『薩摩軍は明治政府軍に敗けたのではない。 肥後国(熊本県)の熊本城(くまもとじょう/隅本城)に敗けたのだぁ!』と言わしめる程に堅固なお城だった。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

THE OFFSPRING /♪ COME OUT AND PLAY(KEEP 'EM SEPARATED)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:36:56

◆◇◆其の六十六:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)で、織田信長(おだのぶなが/織田)の重鎮家臣で“織田四天王”の“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれる柴田勝家(しばたかついえ/織田)は自決し、甲賀忍者と言われる滝川一益(たきがわかずます/織田)は敗戦責任により隠居した。

織田信長(おだのぶなが/織田)の三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)も、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の命令により尾張国(愛知県)の知多半島にある野間大坊(のまだいぼう/真言宗)で自決した。

これで織田軍の対抗勢力は一掃されて羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を主軸に、織田信長(おだのぶなが/織田)の孫で織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を家督継承者としての体制が整う。

がっ、そうはならなかった。

羽柴軍の総大将を務めた羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)の論功行賞にて、主君の様な振る舞いで家臣に領国を分配し始めたのである。

柴田勝家(しばたかついえ/織田)の所領だった越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)は丹羽長秀(にわながひで/織田)が引き継いだ。

三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)の所領だった美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)や大垣城(おおがきじょう)は合戦に参戦していない池田恒興(いけだつねおき/織田)が引き継いだ。

柴田軍の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)に至っては加賀国(石川県)を与えられている。

羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の身内に対する内輪贔屓(うちわびいき)と言われればそれまでである。

この時期より織田政権から羽柴政権の色が濃くなっていく。

これに対して織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は面白くない。

更(さら)に生前に織田信長(おだのぶなが/織田)が対立していた浄土真宗(じょうどしんしゅう)の顕如(けんにょ/僧侶)と和睦して、その時に得た摂津国(大阪府)の上町台地の先端に建つ大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の広大な土地に、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の一存で巨大な大坂城(おおさかじょう)を建築したのである。

この後も羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、1562年に尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が締結した「清洲同盟」(きよすどうめい)に対しても無視して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を臣従(しんじゅう)させたかの様に関東平定を指示して反感を買う。

こうして羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の羽柴政権に反発する武将が現れた。

これら経緯(いきさつ)から、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を中心に織田徳川軍が組成された。

この織田徳川軍に加担したのが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目だった北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)、越中国(富山県)の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)、畿内(きない/関西)の国人衆(こくじんしゅう)、土佐国(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)などである。

ただ一方で次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の重鎮家臣だった津川義冬(つがわよしふゆ/室町→織田)と浅井長時(あざいながとき/織田)と岡田重孝(おかだしげたか/織田)は、再び戦乱の世に戻す事に反対して、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)との和睦路線を主張する。

津川義冬(つがわよしふゆ/室町→織田)とは、斯波義統(しばよしむね/室町)の息子で、元は織田氏の主君だった斯波氏(しばうじ)の系統である。

浅井長時(あざいながとき/織田)とは、代々に渡り織田氏に仕える尾張浅井氏(おわりあざいうじ)の系統で、尾張国(愛知県)の苅安賀城(かりやすかじょう/一宮)の城主であり、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)の城主だった浅井久政(あざいひさまさ/浅井)や息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)の家系とは直接的な関係はない。

岡田重孝(おかだしげたか/織田)とは、代々に渡り織田氏に仕える尾張源氏の山田氏で、尾張国(愛知県)の星崎城(ほしざきじょう/名古屋)の城主である。

これらから解る通り織田氏にとっても重要人物であるが、そんな重鎮家臣3人を次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、政権混乱を招いたとして切腹を命じて自決させた。

再びこの対抗勢力の出現に対して、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)も羽柴軍本隊を結成して摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)から東海地方に向けて出陣した。

美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)からは池田恒興(いけだつねおき/織田)が率いる羽柴軍池田隊が南東方の尾張国(愛知県)に侵攻した。

美濃国(岐阜県)の金山城(かねやまじょう/可児)からは森長可(もりながよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍森隊が南西方の尾張国(愛知県)に侵攻した。

池田恒興(いけだつねおき/織田)とは、母親が織田信長(おだのぶなが/織田)の乳母をしていた乳兄弟で、一時は尾張国(愛知県)の犬山城の城主となり、その息子が池田元助(いけだもとすけ/織田→ 豊臣)と、池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)で、江戸幕府では播磨国(はりま/兵庫県)の姫路藩の藩主に就いた。

森長可(もりながよし/織田→豊臣)とは、森可成(もりよしなり/土岐→織田)の息子で、清和源氏の八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)の系統の森氏で、美濃国(岐阜県)の土岐氏の家臣から尾張国(愛知県)の織田氏に仕える様になり、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)からは大変に好かれており、人間無骨(にんげんむこつ)の槍を振り回して敵兵を草木の如(ごと)く薙(な)ぎ倒し“ヤンチャな長可”と呼ばれ、織田信長(おだのぶなが/織田)の小姓(こしょう)を務めた森蘭丸(もりらんまる)こと森成利(もりなりとし/織田)と森坊丸(もりぼうまる)こと森長隆(もりながたか/織田)は兄弟である。

美濃国(岐阜県)の金山城(かねやまじょう/可児)の最寄駅は、名鉄の〈顔戸駅〉(ごうどえき)から徒歩で山を登り1時間程度の距離にあり、近隣の山中には明智城(あけちじょう/可児)など数々の山城があり、近くには刃物で有名な関市(せきし)もある事から、名匠(めいしょう)の刀鍛冶(かたなかじ)に依頼して自前の太刀(たち)を誂(あつら)えて、武将気分で美濃各地の山城を巡るのも良いですね。

尾張国(愛知県)の苅安賀城(かりやすかじょう/一宮)の最寄駅は、名鉄の〈苅安賀駅〉(かりやすかえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、この一宮市は尾州毛織物(びしゅうけおりもの)の産地で有名で、イタリアのビエラ、イギリスのハダースフィールドと共に世界三大毛織物産地と呼ばれ、ファッションやアパレルで成功している世界中のクリエイターやデザイナーは必ず一宮市の尾州毛織物(びしゅうけおりもの)の工場に表敬訪問をしている。

尾張国(愛知県)の星崎城(ほしざきじょう/名古屋)の最寄駅は、名鉄の〈本星崎駅〉(もとほしざきえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、岡田重孝(おかだしげたか/織田)が自決した事により、その家臣だった山口重勝(やまぐちしげかつ/織田)も豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)に娘を嫁がせた為に、偽装された謀反(むほん)の連座責任(れんざせきにん)で自決した。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

NED'S ATOMIC DUSTBIN /♪ WALKING THROUGH SYRUP

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:37:52

◆◇◆其の六十七:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)から出陣した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍は、尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)に入城して陣営を設けた。

これに対して、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)から出陣した池田恒興(いけだつねおき/織田)が率いる羽柴軍池田隊と、美濃国(岐阜県)の金山城(かねやまじょう/可児)から出陣した森長可(もりながよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍森隊は、木曽川沿いに建つ織田徳川軍の尾張国(愛知県)の犬山城(いぬやまじょう)を占領した。

この羽柴軍池田隊の動きに徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、犬山城(いぬやまじょう)に近い小牧山城(こまきやまじょう)に陣営を移転させた。

摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)から出陣した羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、犬山城(いぬやまじょう)を経由して楽田城(がくでんじょう/犬山)に入城して陣営を設けた。

織田信長(おだのぶなが/織田)が自ら指示して築城した小牧山城(こまきやまじょう)を、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は“徳川四天王”と呼ばれる榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)に防御力が高いお城に改築する様に命じた。

これを受けて榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)は、小牧山城(こまきやまじょう)の土塁や堀や虎口(こぐち)を設けて5日間で大改築した。

この小牧山城(こまきやまじょう)を攻略する為に森長可(もりながよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍森隊が奇襲攻撃を仕掛けるが防御力が高く侵攻できず、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は深溝松平氏(ふこうずまつだいらうじ/額田)の松平家忠(まつだいらいえただ/松平→徳川)に鉄砲隊を率いて攻撃する様に命じる。

松平家忠(まつだいらいえただ/松平→徳川)が率いる鉄砲隊は、森長可(もりながよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍森隊の背後に周り総攻撃を仕掛けて敗走させた。

これを「羽黒の戦」(はぐろのたたかい)と呼ぶ。

その後、7km程しか離れていない楽田城(がくでんじょう/犬山)に布陣する羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の羽柴軍と、小牧山城(こまきやまじょう)に布陣する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の織田徳川軍は、対峙したまま膠着状態が続き時間だけが進んでいった。

先(ま)ず動いたのが羽柴軍で、池田恒興(いけだつねおき/織田)と息子の池田元助(いけだもとすけ/織田→ 豊臣)、それに森長可(もりながよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍先陣隊が、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の居城でもある三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を攻撃する作戦に出た。

この岡崎攻撃は小牧山城(こまきやまじょう)に布陣する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の元に、間者(かんじゃ/スパイ)から情報がもたらされた。

間者(スパイ)…『殿下、楽田城(がくでんじょう/犬山)から羽柴軍先陣隊が、三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を侵攻する為に進軍しました。』

徳川家康…『うむぅ、ご苦労であった。 やはり動いたな大坂の猿(サル)めぇ! よしぃ、織田徳川軍の本隊は岩崎城(いわさきじょう/日進)に入城するぞぉ!』

こうして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は家臣の井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)と榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)、それに織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と共に織田徳川軍を率いて岩崎城(いわさきじょう/日進)に向けて出陣した。

池田恒興(いけだつねおき/織田)と息子の池田元助(いけだもとすけ/織田→ 豊臣)、それに森長可(もりながよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍先陣隊が長久手に差し掛かった頃に、その南方にある岩崎城(いわさきじょう/日進)から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が進軍して交戦した。

長久手の戦地で激戦が繰り広げられ、猛攻撃を仕掛ける織田徳川軍に池田恒興(いけだつねおき/織田)と息子の池田元助(いけだもとすけ/織田→ 豊臣)、それに森長可(もりながよし/織田→豊臣)は討ち取られ斬首され、羽柴軍先陣隊も武士1万人余り戦死して壊滅した。

この戦(いくさ)で“ヤンチャな長可”と呼ばれた森長可(もりながよし/織田→豊臣)は、織田徳川軍の鉄砲隊に顔のひたいを撃ち抜かれ、首級(しゅきゅう)にはその痕(あと)がしっかりと残っていたと言う。

この時点で、長久手の戦地で羽柴軍先陣隊が苦戦している知らせを聞いた楽田城(がくでんじょう/犬山)に布陣する羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、羽柴軍本隊を出陣させて救援に向かった。

ところが庄内川(しょうないがわ)を渡り掛けた処(ところ)に、“徳川四天王”と呼ばれる本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)が率いる織田徳川軍別働隊が布陣しており、羽柴軍本隊は行く手を阻まれた。

その頃には徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍は長久手の戦地から撤収しており、そこから北西方にある庄内川(しょうないがわ)と矢田川(やだがわ)に挟まれた小幡城(おばたじょう/名古屋)に入城していた。

結局、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる羽柴軍本隊が長久手の戦地に到着した時には、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍は本陣の小牧山城(こまきやまじょう)に帰還している。

羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が長久手の戦地で目の当たりにしたのは、夥(おびただ)しい数の羽柴軍先陣隊の武士の屍(しかばね)であり、その中には名だたる武将も含まれていた。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『なぁ、なんという数の武士の死骸(しがい)じゃ! この地で何が起こったら、こうなるのじゃ!』

これが戦争である。

羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の羽柴軍本隊は楽田城(がくでんじょう/犬山)に退陣する。

この時、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、このまま織田徳川軍と対戦するのは得策では無いと感じたであろう。

これを「長久手の戦」(ながくてのたたかい)と呼ぶ。

この間にも日本各地で羽柴方と織田徳川方に別れて戦乱が起きていた。

その最も激しい戦闘が繰り広げられたのが木曽川と長良川と揖斐川の三川(さんせん)が合流する伊勢湾の海岸部に位置する尾張国(愛知県)と伊勢国(三重県)の国境付近である。

尾張国(愛知県)の蟹江城(かにえじょう/海部)に居城していた滝川一益(たきがわかずます/織田)が、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から援軍要請があり羽柴軍に就いて、戦友で志摩国(三重県)の九鬼氏(くきうじ)で九鬼水軍のお頭の九鬼嘉隆(くきよしたか/織田→豊臣)と共に織田徳川軍と対戦した。

伊勢国(三重県)の桑名城(くわなじょう)に布陣する織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)に布陣する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍により、蟹江城(かにえじょう/海部)は総攻撃を受けて滝川一益(たきがわかずます/織田)は篭城戦に持ち込んだ。

これを「蟹江城合戦」(かにえじょうかっせん)と呼ぶ。

摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に戻っていた羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、この蟹江城(かにえじょう/海部)の激戦の報告を聞いて羽柴軍は情勢不利と判断する。

ここから羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は得意の“人たらし”の調略により、最も落とし易い織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と和睦して勝敗が付かずの幕引きとなった。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『やはり信雄君が一番に父親の殿下に似ておるで御座るよぉ! 織田氏を背負うのは信雄君しかいないっ! わしぃが太鼓判を押すぅ!!』

織田信雄…『そお!? そうかなぁ〜 エヘェヘェヘェ〜』

これを1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)と呼ぶ。

織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と和睦した事で、その勝手な和議を知った事で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は徳川軍を退いた。

こうして各地の戦乱は収束していき、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が敷(し)いていた羽柴政権が現実のものになる。

尾張国(愛知県)の犬山城(いぬやまじょう)の最寄駅は、JRの〈犬山遊園駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、木曽川と城下町のコラボレーションも見事で、織田信長(おだのぶなが/織田)の弟で茶人として大成した有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の茶室の如庵(じょあん)が京都から移築され現存しており、無情な戦国の世を嘆(なげ)いた有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は元々は無楽斎(むらくさい)と言う名前を付けたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が茶匠(ちゃたくみ)として味気ないとして“無”を“有”に変えて有楽斎(うらくさい)とした経緯(いきさつ)がある。

尾張国(愛知県)の楽田城(がくでんじょう/犬山)の最寄駅は、名鉄の〈楽田駅〉(がくでんえき)から徒歩で数分程度の距離にあり、元々は室町幕府の斯波氏(しばうじ)の家臣だった織田大和守の織田久長(おだひさなが/室町)が城主を務め、東方の山間には名鉄グループの明治村やリトルワールドや日本モンキーパークが点在しており、犬山市に来訪すれば織田氏と名鉄グループを熟知する事ができ、1粒で2度も美味しい街と言える。

尾張国(愛知県)の小幡城(おばたじょう/名古屋)の最寄駅は、名鉄の〈瓢箪山駅〉(ひょうたんやまえき)もしくは〈小幡駅〉(おばたえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、小幡城(おばたじょう/名古屋)のある名古屋市守山区には見た目はバスだが専用道路を走る鉄道の様な“ゆとりーとライン”なる公共機関があり、ただ、車体はバスの為に混雑時は列車の様に車両を増設できず、ゆとりどころか車内は詰込みラインになっている。

尾張国(愛知県)の岩崎城(いわさきじょう/日進)の最寄駅は、リニモの〈杁ヶ池公園駅〉(いりがいけこうえんえき)もしくは名鉄の〈日進駅〉(にっしんえき)から徒歩で1時間程度の距離にあり、周辺にはジブリパークやトヨタ博物館など夢と希望が詰まった施設が多く、長久手市は子育て世帯のファミリー層が居住する愛知県で最も人口増加率が高い町として有名で、この地に来訪したら愛知県立芸術大学の吉村順三(よしむらじゅんぞう/建築家)先生と奥村昭雄(おくむらあきお/建築家)先生が1966年に共同設計して建設された講義棟を見学して、後世に残すべき歴史的建築物を堪能して欲しい。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

YA-YA /♪ JULIA

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:38:47

◆◇◆其の六十八:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に戻った羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、今度は京都の朝廷で紛争が起こっている事を知る。

その内容は、公家で左大臣の近衛信尹(このえのぶただ/公家)と関白の二条昭実(にじょうあきざね/公家)が、関白の役職を巡って争っていた。

双方の言い分を聞いた羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、武士らしく両人共に理論で一刀両断する。

近衛信尹…『藤原氏北家(ほっけ)の五摂家(ごせっけ)でも一番に格上の近衛家(このえけ)が関白に就任するのは当然でごじゃる!』

二条昭実…『何を申すかぁ! 五摂家(ごせっけ)なんて600年前の平安時代にとっくに終わっておるわい!』

羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『ではぁ、こうしよう。 近衛殿が関白に就けば、二条殿は不満が募る。 二条殿が関白に就けば、近衛殿は不満が募る。 だから、この羽柴秀吉(豊臣秀吉)が関白に就任する。』

近衛信尹…『えっ!? どういう事?』

二条昭実…『ええっ!? 摂関政治の天皇の代わりに政治を司る摂政(せっしょう)と天皇の政治を補佐する関白(かんぱく)は、代々に渡り藤原氏北家(ほっけ)の五摂家(ごせっけ)と決まっておるがぁ?』

羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『だからわしぃが藤原氏になれば済む話しじゃ。 此(こ)れにて一件落着!』

因(ちな)みに飛鳥時代から続く藤原氏の説明をすると、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)こと第38代天皇の天智天皇(てんぢてんのう)に仕えた藤原鎌足(ふじわらかまたり)こと中臣鎌足(なかとみかまたり/公家)が祖となり、その息子が藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ/公家)の南家(なんけ)、藤原麻呂(ふじわらまろ/公家)の京家(きょうけ)、藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)、藤原宇合(ふじわらうまかい/公家)の式家(しきけ)の藤原四子(ふじわらしし)で成り立つ。

平安時代に力を持った藤原氏北家(ほっけ)の五摂家(ごせっけ)が格式順で、近衛家(このえけ)、一条家、九条家、鷹司家(たかつかさけ)、二条家となる。

更(さら)に庶流(しょりゅう)の七清華家(しちせいがけ)である三条家、西園寺家(さいおんじけ)、徳大寺家、久我家(こがけ)、花山院家(かさんのいんけ)、大炊御門家(おおいのみかどけ)、菊亭家(きくていけ)と別れていく。

ここから見ても、尾張国(愛知県)の農民出身の羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に、藤原氏北家(ほっけ)へ入る余地など全く、無い!

ところがである。

賢(かしこ)い羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は知略で、朝廷の公家をねじ伏せる妙案を押し付ける。

その妙案とは、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、近衛信尹(このえのぶただ/公家)の父親の近衛前久(このえさきひさ/公家)の養子に入り義理の息子となり、藤原氏北家(ほっけ)の一族の仲間入りを果たす。

要は近衛信尹(このえのぶただ/公家)と羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は義理兄弟となる。

こうして無事に羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は朝廷の関白に就任し、名前も豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)とした。

近衛信尹…『・・・』

二条昭実…『・・・』

羽柴秀吉(豊臣秀吉)…『フッフッフッ〜 わしぃが関白だぎゃ〜』

これを「関白相論」(かんぱくそうろん)と呼ぶ。

この地球では、人間如(ごと)きの家柄や血筋など関係なく、野生的な生き物の様に発言して行動した者のみが勝つ!

それを羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が実践で証明した。

また余談だが、二条昭実(にじょうあきざね/公家)の妻は、これまた野生の王国で育った織田信長(おだのぶなが/織田)の娘である。

京都に滞在していた羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、平安時代の800年余り前に都市計画された平安京の再開発事業に尽力し始める。

第1に東方は鴨川から北方は北大路通、西方は西大路通から南方は東寺(とうじ/真言宗)の周囲を土塁で囲む御土居(おどい)を設けた。

理由としては平安京の周囲を流れる河川からの浸水を防止したり、敵陣からの侵入を防御する目的がある。

第2に堀川通と今出川通の交差点から南西方に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の屋敷として建築された聚楽第(じゅらくてい)で、周囲には重鎮家臣の武家屋敷が設けられ、その中には堺の商人で田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)の屋敷もあった。

千利休…『秀吉殿、いい御屋敷が出来ましたなぁ〜』

豊臣秀吉…『聚楽(じゅらく)よぉ〜ん!』

第3に平安京の町割の変更で、縦横の大路と小路が規則的に揃った碁盤の目の正方形の街区を、真ん中の南北に路地を通して左右の敷地を長方形の短冊形に変更した。

これが現在の京都の中心地に形成される街区の基礎となっている。

因(ちな)みにこの短冊形地割は、織田信長(おだのぶなが/織田)が尾張国(愛知県)の小牧山城(こまきやまじょう)を新築工事をする際に城下町を整備し、武家屋敷と寺町と町屋に別けた街区を設けた。

この街区に長方形の短冊形の敷地を導入して、路地側に建物を建設して、奥地は庭や畑に利用し、敷地の背割りに排水用の下水道も通していた。

当然、この当時は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)も小牧山城(こまきやまじょう)の築城に関わっている為に、この時の経験と知識を京都の町割変更に導入したと思われる。

これらから解る通り、現在の京都市が弟なら、愛知県小牧市は兄と言う事になる。

この頃、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)にて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)で対戦して敗北した三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を討伐すると宣言する。

豊臣陣営も徳川陣営も共に挙兵準備をしていたが、もう戦(いくさ)には懲(こ)り懲(ご)りだった織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が和平の仲裁に入り、1586年に東海地方を中心とした巨大地震の天正地震(てんしょうじしん)の被災もあり、取り敢えずは合戦中止で和睦した。

その後も豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に臣従(しんじゅう)を意味する摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)へ来城する様に促すが、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は拒み続ける。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は得意の“人たらし”の調略により、妹の朝日姫(あさひひめ/織田→豊臣→徳川)を徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の正室(継室)として嫁(とつ)がせたり、実母の仲(なか、天瑞院、大政所/織田→豊臣)を人質として三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)に差し出すなど、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)にかなり譲歩した嘆願である。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と朝日姫(あさひひめ/織田→豊臣→徳川)の形式的な挙式は、京都の聚楽第(じゅらくてい)で執(と)り行われた。

ここまでされた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も、さすがに豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の依頼を承諾して、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)へ来城する事となる。

これにて名実共に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下人となる豊臣政権が稼働する事になった。

尾張国(愛知県)の小牧山城(こまきやまじょう)の最寄駅は、名鉄の〈小牧駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、この小牧市に来訪したら北東方にある桃花台ニュータウンで最新戸建住宅を見学するのも良しで、その際はバブル期に開業した小牧中心部と桃花台ニュータウンを結んでいた公共機関のピーチライナーの軌跡(きせき)を辿(たど)り、何故(なぜ)にたった15年余りで廃線になったのか、皆んなで社会構造問題を議論するのも良いですね。

京都の聚楽第(じゅらくてい)の最寄駅は、京福電鉄の〈北野梅白町駅〉(きたのはくばいちょうえき)もしくは地下鉄の〈二条城駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、950年頃の平安京で第66代天皇の一条天皇(いちじょうてんのう/朝廷)や藤原道長(ふじわらみちなが/公家)に仕え、天文博士(てんもんはかせ)や陰陽寮(おんようりょう)の責任者を歴任した安倍晴明(あべせいめい/朝廷→陰陽師)の屋敷が建っていた辺りで、現在は晴明神社があり、ここに田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)の屋敷もあった。

因(ちな)みに、平安時代に文章博士(もんじょうはかせ)や蔵人頭(くろうどとう)や右大臣を歴任した“学問の神様”と呼ばれる菅原道真(すがわらみちざね/公家)の怨霊を鎮(しず)める為に創建された北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、安倍晴明(あべせいめい/朝廷→陰陽師)が建設に尽力したと言われる。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

ELASTICA /♪ STUTTER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:39:43

◆◇◆其の六十九:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

紆余曲折しながら織田政権は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が引継ぎ、中国地方は毛利元就(もうりもとなり/毛利)の三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)を味方に引き入れ、毛利氏の当主だった毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を臣従(しんじゅう)させた。

この影響は、京都から遠い中国地方から九州地方にまで及んだ。

四国征伐では土佐国(高知県)の武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)と戦(いくさ)を交えるも勝負にならず、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は降伏して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して恭順(きょうじゅん)を誓った。

“九州三国志”と言われた難攻の地、西国最後の総仕上げが九州征伐である。

この時の九州勢力は肥前国(佐賀県)の“肥前の熊”と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)が戦死していたので、豊後国(ぶんご/大分県)の戦国大名の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)と、薩摩国(鹿児島県)の戦国武将の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)である。

時勢の流れを見て豊後国(ぶんご/大分県)の国主の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)は、早々に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して服従(ふくじゅう)する意思を表明した。

もう一方の薩摩国(鹿児島県)の国主の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が統治する豊臣政権に対して対抗意志を示した。

この時、島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)、島津家久(しまづいえひさ/島津)、島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)の島津四兄弟の意見は微妙にズレていたと言う。

島津義久…『九州の統治は九州の武家が行うのが慣例であり、他所者(よそもの)に明け渡すつもりは無い。』

島津義弘…『薩摩国(鹿児島県)の名門家の島津氏が、尾張国(愛知県)の猿(サル)の軍門に下るなど笑止千万(しょうしせんばん)、答えは1つ、戦うのみぞぉ!』

島津家久…『何とも言い難い選択ではあるが、時勢の状況判断に任すしかないのぉ。』

島津歳久…『生まれの家系ではなく、農民からここまでのし上がったのは、それだけの才能があってこそ、ここは豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に従う方が島津氏にとって得策だと思いまする。』

この島津四兄弟の態度により、1586年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の九州征伐が決定された。

九州の二大攻防は先(ま)ず、薩摩国(鹿児島県)の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が統括する島津四兄弟が率いる島津軍が動いた。

南九州の薩摩国(鹿児島県)から肥後国(熊本県)の西側ルートを進軍する島津軍1号隊は、総大将の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)が3万人の軍隊を率いた。

日向国(ひむか/宮崎県)の東側ルートを進軍する島津軍2号隊は、宮之城家(みやのじょうけ)の島津忠長(しまづただたけ/島津)が2万人の軍隊を率いて、両軍共に豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が控える豊臣軍大友隊を攻める作戦である。

先に北九州に到着した島津軍1号隊は、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の重鎮家臣の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が居城する筑前国(福岡県)の岩屋城(いわやじょう/太宰府)を包囲する。

高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)とは、吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)の息子で高橋氏に養子に入り、岩屋城(いわやじょう/太宰府)の城主となった人物である。

この時の軍勢は島津軍1号隊の3万人に対して、豊臣軍高橋隊は700人余り。

決戦前から勝敗は目に見えている。

当然に武将の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)も降伏するかと思いきや、徹底抗戦の構えを見せる。

岩屋城(いわやじょう/太宰府)の西側に建つ宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)には、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子の高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居城する。

岩屋城(いわやじょう/太宰府)の北側に建つ立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)には、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子で立花道雪(たちばなどうせつ/大友)へ養子に入っていた立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が居城する。

筑前国(福岡県)全域で見れば、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が統治する鉄壁の要塞となっていた。

この時の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)は、岩屋城(いわやじょう/太宰府)に居城する家臣達に、こう述べて鼓舞(こぶ)した。

高橋紹運…『ここで降伏するのは簡単だ。 ただ、たとえ大軍相手とて、武士なら戦わねばならない時がある。 それが今だっ! ここで交戦すれば15日は保(も)つだろう。 そうすれば島津軍も豊後国(ぶんご/大分県)への侵攻が遅れ、そうしている内に、本土から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍が到着する。 皆の博多武士団の底力を見せてやれぇ!』

岩屋城の武士…『おっ〜〜!』

これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が指揮する島津軍1号隊は岩屋城(いわやじょう/太宰府)に対して一斉攻撃を仕掛けるが、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が指揮する豊臣軍高橋隊の抵抗は激しく、なかなか落城できない。

時折(ときおり)、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は降伏勧告するも、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)は断固拒否。

そして合戦から13日が経とうとした時に、最期を悟った大将の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)と残った武士は集団自決して、この戦(いくさ)は幕引きとなった。

これを1586年に起こった「岩屋城の戦」(いわやじょうのたたかい)と呼ぶ。

次に島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍1号隊は、立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居城する西側の宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)を攻撃した。

この総攻撃に立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)は降伏し、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)に命だけは助けられた。

続いて立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が居城する立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)に侵攻した島津軍1号隊だが、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の降伏勧告に対して、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は投降する素振りを見せる“詐降の計略”(さこうのけいりゃく)を展開して、豊臣軍の援軍が到着するまでの時間稼ぎをする。

そして安芸国(あき/広島県)から毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が率いる豊臣軍毛利隊が立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)に進軍して来た。

これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の島津軍1号隊は作戦変更し、狙いを豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)に絞る。

この時間経過により、等々(とうとう)島津四兄弟が恐れていた事が起こる。

筑前国(福岡県)の岩屋城(いわやじょう/太宰府)の最寄駅は、西鉄の〈太宰府駅〉(だざいふえき)から徒歩で山に登り数十分程度の距離にあり、この地は“日本三大史跡”と呼ばれる奈良時代の朝廷が政所(まんどころ)を配置して日本列島を統治を行なっていた近畿は奈良県の平城京(へいじょうきょう)、東北は宮城県の多賀城(たがじょう)、そして九州は福岡県の太宰府(だざいふ)のこの地であり、後(のち)は平安時代に文章博士(もんじょうはかせ)や蔵人頭(くろうどとう)や右大臣を歴任した“学問の神様”と呼ばれる菅原道真(すがわらみちざね/公家)の屋敷があり、最期(さいご)の地に創建された太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)が最も有名です。

筑前国(福岡県)の宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)の最寄駅は、JRの〈筑前山家駅〉(ちくぜんやまええき)から徒歩で山を登り2時間程度の距離にあり、筑紫野市(ちくしのし)と太宰府市と飯塚市に囲まれた山岳地帯の頂点に宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)は建っており、どのルートから登頂すれば良いのか分らないくらい難攻不落なお城だった事が現在でも知る事ができます。

筑前国(福岡県)の立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)の最寄駅は、JRの〈九産大前駅〉(きゅうさんだいまええき)から徒歩で山を登り2時間程度の距離にあり、城主だった立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)に、実父の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)と義父の立花道雪(たちばなどうせつ/大友)、この3人の九州武将の侍魂は後世に語り継ぐ武勇伝が数多く刻まれており、立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)が建つ山中には細長い三日月の形をした三日月湖(みかづきこ)もあり、見所と聞所が満載である。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

I HATE KATE /♪ ALWAYS SOMETHING (IT'S ALWAYS BETTER WHEN I'M WITH YOU)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:40:40

◆◇◆其の七十:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣軍は、先(ま)ずは先鋒隊として美濃国(岐阜県)の武将である仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が率いる豊臣軍仙石隊を九州に送り込んだ。

この豊臣軍仙石隊には、土佐国(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)と息子の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)など、四国の武将が多く参戦していた。

ただ、この時点での豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)からの命令はこうだった。

豊臣秀吉…『島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍を威嚇(いかく)するだけで良い。 わしぃの豊臣軍本隊が到着するまで攻撃は厳禁である。』

ところが、豊前国(ぶぜん/福岡県)で大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の豊臣軍大友隊に対しての反乱が起こり、大友宗麟(おおともそうりん/室町→豊臣)の息子の大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)と、豊臣軍仙石隊の大将の仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が、反乱鎮圧する為に豊後国(ぶんご/大分県)から大軍を率いて豊前国(ぶぜん/福岡県)に侵攻してしまう。

ここで豊後国(ぶんご/大分県)の守備が弱くなり、総大将の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)が率いた3万人の島津軍1号隊と、宮之城家(みやのじょうけ)の島津忠長(しまづただたけ/島津)が率いた2万人の島津軍2号隊が合流して、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が控える豊臣軍大友隊に侵攻する。

肥後国(熊本県)と日向国(ひむか/宮崎県)から侵攻して来た島津軍に対して、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が指揮する豊臣軍大友隊も応戦する。

この時、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)はポルトガルから輸入した最新鋭の大砲を使用して、進撃して来る島津軍に対して次々と砲弾を浴びせる。

見た事のない武器と攻撃に島津軍の武士は慄(おのの)き、恐怖の余りに士気は低下した。

そこに豊前国(ぶぜん/福岡県)の反乱鎮圧に向かっていた大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)が率いる豊臣軍大友隊別働団と、仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が率いる豊臣軍仙石隊が戻って来た為に、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が指揮する島津軍は撤退を始める。

その後、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍は、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の本陣でもある豊後国(ぶんご/大分県)の府内城(ふないじょう/大分)に向けて再び侵攻を開始した。

その途中にある山城の鶴賀城(つるがじょう/大分)を、島津家久(しまづいえひさ/島津)が率いる2万人の軍隊が包囲した。

鶴賀城(つるがじょう/大分)には2000人程の武士しか居らず、豊臣軍大友隊の劣勢は明らかである。

その知らせを聞いた仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が率いる豊臣軍仙石隊が、家臣の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)などの反対意見を聞かずに救援に向かう。

長宗我部元親…『豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)殿の豊臣軍本隊が到着するまで、軽率(けいそつ)な進軍は固く禁じられていますぞぉ!』

仙石秀久…『アホっか、味方が苦境に陥っているのに、見殺しにできるかぁ! 助けぬは武道の道義に反する、武士の恥を知れっ!』

この豊臣軍仙石隊の進軍を聞いた島津家久(しまづいえひさ/島津)が指揮する島津軍別働隊は、鶴賀城(つるがじょう/大分)の包囲を解き、豊後国(ぶんご/大分県)の南北を流れる戸次川(へつぎがわ/大野川)まで退却して布陣した。

豊臣軍仙石隊を指揮する仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)は、戸次川(へつぎがわ/大野川)を渡って一気に総攻撃する様に命じる。

ここでも家臣の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)などの反対意見が出る。

長宗我部元親…『今は極寒の冬の為に川を渡っての進軍は、冷たい水で武士の耐力を消耗させるので危険、ここは援軍を待ってからの攻撃が得策であるぞぉ!』

仙石秀久…『アホっか、今やらねばいつやるのかぁ!? この戦(いくさ)にはわしぃの武功(ぶこう)が掛かっておるのじゃ! 恩賞は武道の道義、武士の恥を知れっ!』

長宗我部元親…『ここまで露骨に利己主義(りこしゅぎ)をアピールする人も珍しい。』

この戦略なしの状況下で長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)も大将の命令を聞き入れない訳にはいかず、息子の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)と共に戸次川(へつぎがわ/大野川)を渡って島津軍の領地まで侵攻する。

この軽率な侵攻により、島津軍は島津氏のお家芸でもある“釣り野伏せ”(つりのぶせ)で豊臣軍仙石隊を誘き寄せて、ある一定の位置にまで来た時に隠れていた伏兵の鉄砲(火縄銃)で総攻撃を浴びせた。

これが致命傷となり、島津軍の罠に掛かった仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)の豊臣軍仙石隊は壊滅する。

これにより仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)と長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)はなんとか逃亡するも、長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)は討死する。

この“釣り野伏せ”(つりのぶせ)の作戦で、島津家久(しまづいえひさ/島津)が指揮する島津軍が勝利する。

これを1587年に起こった「戸次川の戦」(へつぎがわのたたかい)と呼ぶ。

豊後国(ぶんご/大分県)の府内城(ふないじょう/大分)の最寄駅は、JRの〈大分駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、一般的には大分城(おおいたじょう)と呼ばれ別府湾に近い海城でもあり、大分と言えば何と言っても別府温泉(べっぷおんせん)と高崎山(たかさきやま)の猿(サル)であり、あの“男はつらいよ”の寅さん一家も旅行で訪れている。

豊後国(ぶんご/大分県)の鶴賀城(つるがじょう/大分)の最寄駅は、JRの〈竹中駅〉から徒歩で山を登り1時間程度の距離にあり、その麓の大野川沿いが「戸次川の戦」(へつぎがわのたたかい)の古戦場跡地となり、山と山に挟まれた細長い河川での合戦を想い浮かべると、戦国の武士の苦闘が偲(しの)ばれます。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

REEF /♪ PLACE YOUR HANDS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:41:37

◆◇◆其の七十一:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

1587年の「戸次川の戦」(へつぎがわのたたかい)に勝利したからと言って、意気揚々としてられない島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)と島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)の島津四兄弟が指揮する島津軍である。

そして、等々(とうとう)危惧していた事が起こった。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる20万人の豊臣軍本隊が、筑前国(福岡県)の博多湾に上陸したのである。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は本隊の豊臣軍1号隊と、弟の豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が率いる豊臣軍2号隊に編成した。

北九州の筑前国(福岡県)から肥後国(熊本県)の西側ルートを進軍する豊臣軍1号隊と、日向国(ひむか/宮崎県)の東側ルートを進軍する豊臣軍2号隊で、薩摩国(鹿児島県)の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が指揮する島津軍に侵攻を開始した。

先(ま)ず、島津氏に味方する日向国(ひむか/宮崎県)の武将の秋月種実(あきづきたねざね/大内→毛利→島津)が居城する筑前国(福岡県)の益富城(ますとみじょう/嘉麻)を、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)の軍隊が総攻撃して1日で落城させる。

これにより秋月種実(あきづきたねざね/大内→毛利→島津)が率いる島津軍秋月隊は、益富城(ますとみじょう/嘉麻)から南側の山間にある古処山城(こしょさんじょう/朝倉)まで退陣する。

ここで豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)のお家芸が発揮される。

一夜明けて、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)の軍隊に攻撃を受けて朽ち果てた筈(はず)の益富城(ますとみじょう/嘉麻)が元の姿に戻っているのを、小高い山頂に建つ古処山城(こしょさんじょう/朝倉)からはっきりと見える。

秋月種実…『どっ、どう言う事なのだぁ!? 昨日、荒廃(こうはい)した筈(はず)の益富城(ますとみじょう/嘉麻)だぞぉ! どうして元の城の姿に戻っておるのじゃ?!』

島津軍秋月隊の武士…『わぁ、分かりませぬ。』

秋月種実…『恐ろしい事ぞぉ! 豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)殿は、島津四兄弟がとても勝てる相手では無い。 我々だけでも降伏致す。』

島津軍秋月隊の武士…『御意(ぎょい)!』

こうして日向国(ひむか/宮崎県)の武将の秋月種実(あきづきたねざね/大内→毛利→島津)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して臣従(しんじゅう)を誓った。

島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる3万人の島津軍は、日向国(ひむか/宮崎県)の小丸川(おまるがわ)の近くに建つ高城(たかじょう)に布陣した。

この高城(たかじょう)を、豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が率いる8万人の豊臣軍2号隊が包囲する。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の戦法は、豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の豊臣軍2号隊が、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が指揮する薩摩軍の高城(たかじょう)を包囲している間に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる本隊の豊臣軍1号隊が南下して島津氏の本拠地でもある薩摩国(鹿児島県)を総攻撃するものであった。

この豊臣戦法に危機感を覚えた島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は、弟の島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)が率いる2万人の軍隊を出陣させる。

ただ、相手は戦国時代を生き抜いてきた生え抜きの武将揃い。

先(ま)ずは藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)が攻めて来たかと思うと、次に天才軍師と言われた黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の軍隊が待ち構え、そして毛利氏直系の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が率いる軍隊が押し寄せて来る。

もう、こうなると島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の島津軍に為(な)す術(すべ)はない。

先に島津家久(しまづいえひさ/島津)は単独で日向国(ひむか/宮崎県)の佐土原城(さどわらじょう/宮崎)で、豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)と和平交渉に挑むが、この時に謎の死を遂(と)げている。

一説には豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)に仕える影の軍団に毒を盛られ死去したと言われる。

こうなると島津氏当主の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)も、考え方を改め直す必要が出てくる。

最後まで徹底抗戦を主張した島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)を説得した島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)との和平交渉に挑む。

薩摩国(鹿児島県)に流れる川内川(せんだいがわ)の近くに建つ泰平寺(たいへいじ/薩摩川内)に本陣を構えていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元へ、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)は頭を丸めて僧侶の衣装に身を包み出家覚悟の姿で訪れた。

その島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の決意を直(す)ぐに悟(さと)った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、早々に和睦を成立させると、薩摩国(鹿児島県)と大隅国(おおすみ/鹿児島県)の領国は引き続き島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が当主の島津氏が統治する事を約束する。

これにより主君の織田信長(おだのぶなが/織田)の意思を引き継いだ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が指揮する豊臣政権の九州平定が完了する。

そして、“九州三国志”もこれにて幕を閉じる。

筑前国(福岡県)の益富城(ますとみじょう/嘉麻)の最寄駅は、JRの平地を行く〈筑前庄内駅〉(ちくぜんしょうないえき)もしくは山を越える〈豊前川崎駅〉(ぶぜんかわさきえき)から徒歩で3時間程度の距離にあり、益富城(ますとみじょう/嘉麻)のある福岡県嘉麻市(かまし)は山岳地帯に囲まれており、戦国の世では最も攻め難いお城だった事が現在でも解ります。

筑前国(福岡県)の古処山城(こしょさんじょう/朝倉)の最寄駅は、JRの〈筑後吉井駅〉から徒歩で山を登り2時間程度の距離にあり、駅周辺には江戸時代の宿場町が当時の姿で残っており、海鼠壁(なまこかべ)の古民家が連なる風情ある町並みは一見の価値はあります。

日向国(ひむか/宮崎県)の高城(たかじょう)の最寄駅は、JRの〈高鍋駅〉(たかなべえき)から徒歩で1時間程度の距離にあり、同じ宮崎県でも都城市(みやこのじょうし)にある高城(たかじょう)とは別物なので注意が必要であるが、同時に2城を訪れるのも良い。

日向国(ひむか/宮崎県)の佐土原城(さどわらじょう/宮崎)の最寄駅は、JRの〈佐土原駅〉(さどわらえき)から徒歩で1時間程度の距離にあり、兎(と)にも角(かく)にも日向国(ひむか/宮崎県)は、“天の岩屋戸”(あまのいわやど)をはじめ日本神話の始まりでもあり日本の歴史の0地点と呼ばれ、“三種の神器”のうち伊斯許理度売命(イシコリドメ)が製造した“八咫鏡”(やたのかがみ)と玉祖命(タマオヤ)が製造した“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)は日向国(ひむか/宮崎県)の地で誕生し、歴史家と皇室(宮内庁)の関係者は毎年に必ず日向国(ひむか/宮崎県)を表敬訪問しています。

これはどんなに忙しくても絶対に訪れています。

薩摩国(鹿児島県)の泰平寺(たいへいじ/薩摩川内)の最寄駅は、JRと新幹線の〈川内駅〉(せんだいえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、鹿児島と言えば桜島と霧島を思い浮かべるが、肥後国(熊本県)までのルートとして薩摩川内市(さつませんだいし)は要所として奈良時代には第45代天皇の聖武天皇(しょうむてんのう/朝廷)により国分寺(こくぶんじ/国府)が置かれていた時もあり、実は西郷吉之助(さいごうきちのすけ)こと西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の愛犬“つん”は、この薩摩川内市(さつませんだいし)の出身です。

世界の犬好きは一生涯に一度は、薩摩国(鹿児島県)に必ず訪れています。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

MEW /♪ AM I WRY? NO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:42:40

◆◇◆其の七十二:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

九州平定した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、領国の大名を選定する九州国分(きゅうしゅうくにわけ)を実施する。

豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)は天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)。

豊後国(ぶんご/大分県)はそのまま大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)。

筑前国(福岡県)は毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)。

筑後国(福岡県)は大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の家臣だった立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)。

肥前国(佐賀県・長崎県)はそのまま龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ/龍造寺→豊臣)。

肥後国(熊本県)は織田信長(おだのぶなが/織田)から仕える佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)。

日向国(ひむか/宮崎県)と大隅国(おおすみ/鹿児島県)と薩摩国(鹿児島県)はそのまま島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)に決定した。

ただ、肥後国(熊本県)はその後に1587年に起こった「肥後国人一揆」(ひごこくじんいっき)により、鎮静化に手間取った国主の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が責任を取らされて自害した為に、北部を加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)、南部を小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)が領主となった。

ここで気になるのが1つ。

これら領国の中に3名のキリシタン大名が就任している事である。

豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)、豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)、肥後国(熊本県)南部の小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)である。

それ以外の大名や武将にも、有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津)、大村純忠(おおむらすみただ/有馬→大村→龍造寺)、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)などがキリシタン大名である。

これが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が運営する豊臣政権で大きな問題となる。

事の発端は、九州平定が完了し気を良くして筑前国(福岡県)の博多に入り、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の御一行は筥崎宮(はこざきぐう)でお団子とお茶を召し上がりながら休息を取っていた。

モグモグ モグモグ

ズズズゥ〜 ゴクリッ

豊臣秀吉…『ほぉ、これは美味しいお団子とお茶であるなぁ、菓子職人の匠(たくみ)の味が湧き出ておる。 何処(どこ)か九州老舗和菓子屋の銘菓に違いない。』

和尚…『いや、そのお団子は近所にあるスーパーマーケットの“ハローデイ”で購入したもので、お茶も“お〜いお茶”で御座るよぉ。』

豊臣秀吉…『・・・』

豊臣秀長…『兄ちゃん、肥前国(長崎県)から大変な伝令(でんれい)が入ってきたぞぉ!』

豊臣秀吉…『どうした弟よぉ、まあ、この美味しいお団子でも食べて落ち着け。』

モグモグ モグモグ

豊臣秀長…『ほぉ、これは美味しいお団子であるなぁ、てっ、それどころではないわぁい! 肥前国(長崎県)の島原半島を中心に、領主の有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津)とその叔父の大村純忠(おおむらすみただ/有馬→大村→龍造寺)が領土を、キリスト教の教会に土地を無償で寄付していると言うぞぉ!』

豊臣秀吉…『なぁ、なんやてぇ〜!? 早急にキリスト教を禁令し、日本で布教活動している宣教師を国外追放せぇ〜〜い!』

これを1587年に発布された「バテレン追放令」と呼ぶ。

因(ちな)みにバテレンとは神父と言う意味である。

筑前国(福岡県)の筥崎宮(はこざきぐう)の最寄駅は、JRの〈箱崎駅〉もしくは地下鉄の〈箱崎宮駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、第15代天皇の応神天皇(おうじんてんのう)や母親の神功皇后(じんぐうこうごう)を祭神とした八幡宮で、鎌倉時代の1274年に起こった「文永の役」(ぶんえいのえき)または第1次の元寇(げんこう/蒙古襲来)と1281年に起こった「弘安の役」(こうあんのえき)または第2次の元寇(げんこう/蒙古襲来)にも関わる神社で、1336年に起こった「多々良浜の戦」(たたらはまのたたかい)では足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が合戦前に立ち寄っている。

島原半島にある教会のカトリック島原教会や島原半島殉教者記念聖堂の最寄駅は、島原鉄道の〈霊丘公園体育館駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、有明海など大海に囲まれ雲仙岳(うんぜんだけ)を中心とした島原は、その地に足を着けているだけで地球(ジオパーク)を感じ取れる土地であり、エコを口にする方々や企業の関係者は毎年に必ず表敬訪問しています。

逆に言えばエコを口にしながら島原半島に行った事なければ、間違いなく似非(えせ)の環境活動家である。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

BAREFOOT SERVANTS /♪ BOX OF MIRACLES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:45:33

◆◇◆其の七十三:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

九州では、1549年にキリスト教の宣教師であるフランシスコザビエル(司祭/スペイン)が薩摩国(鹿児島県)に上陸して、守護大名の島津貴久(しまづたかひさ/島津)の許可を得て布教活動を開始した歴史がある。

その為に他地域よりもキリスト教が浸透しており、武士や農民に関係なく多くのキリシタンが存在していた。

因(ちな)みに日本で広く知れ渡るフランシスコザビエル(司祭/スペイン)の肖像画は、明治期に大阪府茨木市の山間に住む隠れキリシタンだった東家(ひがしけ)の蔵から見つかった物を使用している。

この豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が発令した「バテレン追放令」の規制は非常に緩(ゆる)く、キリシタンの武将や大名にキリスト教を棄教(ききょう)させる程度だった。

要は『豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)とイエスキリストのどちらが好きですか?』と言う質問をするくらいで、本当の信仰心までは踏み込んでいない。

この「バテレン追放令」を例えると、パパが子供に対して『パパとママのどちらが好き?』と言う質問に子供が『パパ』と答えるが、本当はママだけどパパと言っておけばオモチャが買ってもらえる程度の事である。

この様な質問を豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は各国の武将や大名にした。

豊臣秀吉…『わしぃとキリストのどちらが好き?』

黒田官兵衛…『もちろん、殿で御座る。』

大友宗麟…『当然に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)殿である。』

小西行長…『殿下で御座る。』

有馬晴信…『羽柴秀吉(はしばひでよし)殿である。』

大村純忠…『木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)殿である。』

蒲生氏郷…『俺は“秀やぁん”を支持するぜぇ。』

豊臣秀吉…『お前に“秀やぁん”って言われたないわぁい!』

高山右近…『わたくしはイエスキリスト様です。』

豊臣秀吉…『ふむっ、良々(よしよし)って、お前、今、何て言った?』

高山右近…『わたくしが信義忠誠を尽くすのは、聖母マリア様であり、イエスキリスト様です。』

この返答により、高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)は摂津国(大阪府)の高槻城と播磨国(はりま/兵庫県)の明石城の城主や領国を領地没収の改易(かいえき)となり、江戸時代には征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の命令により、更に厳しいフィリピンのマニラに国外追放となる。

高山右近(たかやまうこん/荒木→織田→豊臣)の処分の後に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の耳にキリスト教の悪い噂が入る。

スペインの貿易船のサンフェリペ号が土佐国(高知県)の海域で座礁し、豊臣政権の役人が救助した際に乗組船員からこんな話しを聞いた。

乗組船員…『スペインが最強国となり世界征服できたのも、地球上の各国にキリスト教の宣教師を派遣して国民をキリシタンに改宗(かいしゅう)させ、それにより領土を拡大していったんだぜぇ。 神様を崇拝する宗教とは言っても、侵略者と何ら変わりはない。 スペインってスゲェ〜だろぉ!』

豊臣政権の役人…『なぁ、なんやぁてぇ! 今直(います)ぐ殿に知らせろぉ!』

この軽薄な乗組船員の戯言(たわごと)により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が激昂(げきこう)して、緩(ゆる)い「バテレン追放令」から厳しい「キリスト教弾圧」へと変わる。

1597年に京都や大坂でキリスト教の布教活動をしていた宣教師など26人を捕獲して、肥前国(長崎県)まで連行して処刑した。

その処刑地は長崎市の西坂公園に“日本二十六聖人殉教碑”(にほんにじゅうろくせいじんじゅんきょうひ)として供養塔が建てられている。

こうして見ると、日本の武将はキリスト教に対して野蛮で残虐な行為を繰り返している様に思うが、これは飛鳥時代から続く宗教的な背景がある。

特に戦国時代では、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の主君である織田信長(おだのぶなが/織田)が、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の一向一揆の対応で苦慮しているのを配下の武将は横で見ている。

鎌倉時代の1200年頃、鎌倉仏教(鎌倉六宗)の1宗派でもある一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)を、親鸞(しんらん/浄土真宗)が宗祖となり、山城国(京都府)の本願寺(ほんがんじ)を総本山として信仰を広めていった。

1471年に蓮如(れんにょ/僧侶)が越前国(福井県)に入り浄土真宗の門徒を集めて拡大して、息子の実如(じつにょ/僧侶)がその意思を引き継いだ。

1483年には蓮如(れんにょ/僧侶)が東山の方に山科本願寺(やましなほんがんじ)を建立(こんりゅう)した。

ただ、この山科本願寺(やましなほんがんじ)が、室町幕府の管領(かんれい)軍や法華宗(ほっけしゅう)こと日蓮宗(にちれんしゅう)のアナーキー集団との戦乱に巻き込まれて炎上して、摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)に移転した経緯(いきさつ)がある。

摂津国(大阪府)に建立(こんりゅう)された石山本願寺(いしやまほんがんじ/大坂城)では、蓮如(れんにょ/僧侶)の子孫の顕如(けんにょ/僧侶)が実権を握っており、織田信長(おだのぶなが/織田)は1570年から1580年までに争われた「石山合戦」(いしやまかっせん)は最も苦戦した。

その後、京都の朝廷の仲裁もあり顕如(けんにょ/僧侶)と織田信長(おだのぶなが/織田)は和睦し、1580年に「石山合戦」(いしやまかっせん)は終結した。

こうして摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、紀伊国(和歌山県)の鷺ノ森本願寺(さぎのもりほんがんじ)に移転する事になる。

ただ、顕如(けんにょ/僧侶)の息子の教如(きょうにょ/僧侶)は、この移転に反対して織田信長(おだのぶなが/織田)の織田軍に抵抗し続けた。

結局、教如(きょうにょ/僧侶)も降参して摂津国(大阪府)の大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の用地を、織田信長(おだのぶなが/織田)に明け渡した。

この不動産売買契約の決済も完了し、所有権移転登記も済ませ物件引渡しの時に、大坂本願寺(おおさかほんがんじ)こと石山本願寺(いしやまほんがんじ)の建物から炎が上がり、3日3晩も燃え続け敷地内にある建造物がほぼ全焼した。

この建物の失火は、買主側の織田信長(おだのぶなが/織田)は松明(たいまつ)の火が建物に燃え移ったとしたが、売主側の浄土真宗(じょうどしんしゅう)の関係者からは、織田軍に敗北した教如(きょうにょ/僧侶)が最後の抵抗で火を放ったと噂(うわさ)した。

この教如(きょうにょ/僧侶)の判断と行動が、後々の浄土真宗(じょうどしんしゅう)の西本願寺の“浄土真宗本願寺派”と東本願寺の“真宗大谷派”に分裂する要因を招く事になる。

その後、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の総本山は徐々に畿内(きない/関西)の中心部に戻っており、1591年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から京都の用地を寄進(きしん)され、現在の西本願寺が建つ場所に本願寺(ほんがんじ)の総本山が帰ってきた。

この新天地で顕如(けんにょ/僧侶)の息子の教如(きょうにょ/僧侶)は、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の布教活動に専念した。

ところが1592年に顕如(けんにょ/僧侶)が往生(おうじょう)すると、宗主(そうしゅ)を息子の教如(きょうにょ/僧侶)が引き継いだが、ここから浄土真宗(じょうどしんしゅう)の組織内部から分裂が起こる。

「石山合戦」(いしやまかっせん)の終結時に、それでも反抗を続けて浄土真宗(じょうどしんしゅう)に多大なる損害を与えた教如(きょうにょ/僧侶)に対する愚策を、宗主(そうしゅ)として相応(ふさわ)しくないと危惧する僧侶も多かった。

そこで反抗僧侶勢力は教如(きょうにょ/僧侶)を罷免(ひめん)して、顕如(けんにょ/僧侶)のもう1人の息子の准如(じゅんにょ/僧侶)を担ぎ上げて浄土真宗(じょうどしんしゅう)の宗主(そうしゅ)に就任させた。

浄土真宗(じょうどしんしゅう)から追い出された教如(きょうにょ/僧侶)は、豊臣政権のナンバー2である徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に接近して、身の廻りの擁護(ようご)を受ける。

1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去し、その後の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の徳川政権が樹立され、その直後の1602年に教如(きょうにょ/僧侶)に対して本願寺(ほんがんじ)の東方の広大な敷地を寄進(きしん)され、そこに東本願寺が建立(こんりゅう)された。

これにより浄土真宗(じょうどしんしゅう)は完全に分裂し、准如(じゅんにょ/僧侶)が宗主(そうしゅ)の西本願寺の“浄土真宗本願寺派”と、教如(きょうにょ/僧侶)が宗主(そうしゅ)の東本願寺が“真宗大谷派”に分かれる事となる。

この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が教如(きょうにょ/僧侶)に対して厚遇した理由は様々あるが、その1つには1563年に三河国(愛知県)一帯で起こった「三河一向一揆」で浄土真宗(じょうどしんしゅう)に痛い目に遭っており、その宗教勢力を2分させて弱体化を狙ったと言われる。

また、地図上で見ると解るが、西本願寺から東方に一直線にある東山には豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の墓陵の豊国廟(とよくにびょう)が設けられており、これは西本願寺を黄泉の国(よみのくに/天国)に見立てて、西国にあると言われる極楽浄土(ごくらくじょうど)に亡き豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が迷わず成仏できる様にとの想いが込められている。

そんな“天国への道”を分断するかの様に建立(こんりゅう)された東本願寺は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の亡き後も未(いま)だ勢力が衰えていない豊臣氏の弱体化を、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が願掛けをして念じたと見られる。

今となっては事の真相は不明だが、その想いが神様仏様に通じたのか1615年に豊臣氏は滅亡している。

飛鳥時代から宗教団体に翻弄(ほんろう)された朝廷や武家の歴史が物語る。

特に織田信長(おだのぶなが/織田)は、どんな猛攻武将よりも、農民を操る宗教団体を危険視していた。

織田信長…『あいつらは僧侶ではなく太刀(たち)や弓矢を扱う僧兵で、あの要塞は寺院ではなく武装した城だと思えっ!』

これが宗教団体と戦う織田信長(おだのぶなが/織田)の口癖である。

これらからも分かる通り、宗教団体が強靭化する事に武将が過剰反応を示すのは、ごく自然な流れである。

それは異国のキリスト教とて同じ事で、信者を増加して肥大化されては困るのは、武将の本音と言えよう。

実際、いくつかの宗教団体には、神様や信仰を利用して権力を行使した節も見られる為に、あながち豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)や徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の対応も間違ってはいない。

これは現代とて同じ事である。

人間が営む宗教と実際の神様では大きな乖離(かいり)があり、信者がこれを別物と理解できているかどうかである。

人間の都合に合わせて望みを叶えてくれる神様など存在しない。

神様や宗教の認識を間違うと、暗殺などで亡き者される事もあるので注意が必要である。

どこの国の、どこの宗教の神様でも、この地球を汚した者は、絶対に許してはくれない。

欲に塗れて生きてきた人間が、生涯最後に『南無阿弥陀仏』と唱えて極楽浄土(天国)に行ける生温(なまぬる)い話しなど、この地球にも、あの宇宙にも、存在していない。

肥前国(長崎県)の“日本二十六聖人殉教碑”(にほんにじゅうろくせいじんじゅんきょうひ)が設置してある長崎市の西坂公園の最寄駅は、JRと新幹線の〈長崎駅〉もしくは長崎電軌の〈長崎駅前〉から徒歩で数分程度の距離にあり、長崎市街地には平和公園や出島、それに長崎新地中華街や眼鏡橋など見所が多いが、せっかく長崎に来訪したら陸地に囲まれた大村湾の海岸沿いをウォーキングでグルリと1周してみるのも楽しいですよ。

薩摩国(鹿児島県)のフランシスコザビエル(司祭/スペイン)が初めて上陸したザビエル上陸記念碑の最寄駅は、JRの〈鹿児島駅〉もしくは鹿児島市電の〈鹿児島駅前〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、目に前には錦江湾(きんこうわん/鹿児島湾)に浮かぶ桜島が鎮座しており、1862年に薩摩藩の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)の大名行列が武蔵国(神奈川県)の生麦村(なまむぎむら/横浜)にて、イギリス人を薩摩藩士が斬殺した「生麦事件」(なまむぎじけん)を発端に、1863年に起こった「薩英戦争」(さつえいせんそう)で薩摩軍とイギリス軍が交戦したのが錦江湾(きんこうわん/鹿児島湾)で、軍艦やアームストロング砲などを使用した近代戦争の始まりと言ってよい。

摂津国(大阪府)のフランシスコザビエル(司祭/スペイン)の肖像画が保管されていた大阪府茨木市の東家(ひがしけ)の近くにあるキリシタン遺物史料館の最寄駅は、JRの〈摂津富田駅〉(せっつとんだえき)もしくは阪急の〈富田駅〉(とんだえき)から徒歩で山を登り2時間程度の距離にあり、周囲は山を切り崩したニュータウンが広がり観光の要素は薄いですが、そのまま山岳地帯を北上して京都府亀岡市までハイキングするのがお薦めです。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

SUEDE /♪ METAL MICKEY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:46:31

◆◇◆其の七十四:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍に敗北した武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍。

その後、武田勝頼(たけだかつより/武田)は領国の甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を守るも、1582年に起こった甲州征伐(こうしゅうせいばつ)にて、織田徳川軍に加え相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の侵攻に遭い、追い込められた武田勝頼(たけだかつより/武田)は自害して名門武家の武田氏は滅亡した。

これにより武田氏の領地だった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の領域となり、駿河国(静岡県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)と三河国(愛知県)を併せた大大名となる。

一方、甲州征伐(こうしゅうせいばつ)に援軍協力した伊勢北条氏は、織田信長(おだのぶなが/織田)から恩賞は与えられず痼(シコリ)が残る事になる。

この時の伊勢北条氏は相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点に、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)と下総国(しもうさ/東京都・千葉県・茨城県)と上総国(かずさ/千葉県)と上野国(こうずけ/群馬県)と下野国(しもつけ/栃木県)を領域としていた。

この後、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)すると、その織田政権と地盤を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が台頭して、四国と九州を平定し豊臣政権による全国統一に王手を描ける。

これに危機感を抱いたのが相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)である。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が次に標的にするのは明らかで、既(すで)に豊臣政権に従属(じゅうぞく)していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の仲介により、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は豊臣政権に臣従(しんじゅう)する事を決定する。

ところが、上野国(こうずけ/群馬県)の領域で問題が発生した。

元々は上杉氏から奪取(だっしゅ)した真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が沼田城(ぬまたじょう/利根)や名胡桃城(なぐるみじょう/利根)を拠点とした領域を治めていたが、時の流れと共に徳川軍と伊勢北条軍が領土争奪の合戦を繰り広げ、取り敢えずは伊勢北条軍が勝利して領域に組み込んだ。

しかし、豊臣政権が統治する様になると、元は真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が治めていた為に、沼田城(ぬまたじょう/利根)や名胡桃城(なぐるみじょう/利根)は真田氏の居城だと主張し始めた。

これにより上野国(こうずけ/群馬県)の領域について豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、西部の1/3(34%)の領土を真田氏、東部の2/3(66%)の領土を伊勢北条氏と決定した。

この裁定により真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は、沼田領(ぬまたりょう)にある沼田城(ぬまたじょう/利根)を伊勢北条氏に引渡し、その北方の名胡桃城(なぐるみじょう/利根)には城代で家臣の鈴木主水(すずきもんど/真田)が居城し、西方の吾妻領(あがつまりょう)にある岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)には長男の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)を居城させた。

この時、真田氏には徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から信濃国(長野県)の箕輪(みのわ)を代替地として与えられている。

1587年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は大名同士の紛争を禁止する“惣無事令”(そうぶじれい)を発布した。

1589年に真田氏のお城である名胡桃城(なぐるみじょう/利根)の城代に就いていた鈴木主水(すずきもんど/真田)が、家臣から偽造書状を渡され名胡桃城(なぐるみじょう/利根)を空ける事になる。

その偽造書状は、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)に居城する真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)から⦅直ぐに上田城(うえだじょう)へ来城する様に。⦆との内容だった。

鈴木主水(すずきもんど/真田)は信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)に向かう道中に岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)に立ち寄り、そこで真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)からの書状が偽物だと気付く。

城代である鈴木主水(すずきもんど/真田)は騙(だま)された事を恥じて自決してしまう。

これを1589年に起こった「名胡桃城事件」(なぐるみじょうじけん)と呼ぶ。

この事態を知った真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は、大切な家臣を失い、領域の名胡桃城(なぐるみじょう/利根)も伊勢北条氏に占領された事に憤懣(ふんまん)し、豊臣政権の“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に提訴した。

この真田氏と伊勢北条氏の領国紛争を重く見た豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に居城する伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に弁明を求めた。

ところが北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、上野国(こうずけ/群馬県)の名胡桃城(なぐるみじょう/利根)は元々が伊勢北条氏のお城で、真田氏が不法占有していた為に取り戻しただけと主張した。

この北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の言い分に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は激怒して、豊臣政権の“惣無事令”(そうぶじれい)に違反したとして関東を統治する伊勢北条氏の征伐を決定する。

これに対して伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)などは軍議の小田原評定(おだわらひょうじょう)を開催して、豊臣軍の防戦対策を講じて箱根山に山中城(やまなかじょう)を築城して防衛拠点を設けた。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は全国の大名や武将に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に進軍する様に伝令(でんれい)を発布する。

先(ま)ず先陣として一番近い徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍徳川隊が東方に進軍した。

その後方から織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍次男隊と、豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が率いる豊臣軍弟隊が追軍した。

最後に摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)から出陣した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍本隊が侵攻する。

海上には志摩国(三重県)から九鬼嘉隆(くきよしたか/織田→豊臣)が率いる九鬼水軍と、安芸国(あき/広島県)から毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が率いる毛利水軍が相模湾に集結する。

豊臣軍の軍勢は20万人余りになった。

箱根山の防衛拠点だった山中城(やまなかじょう)も、豊臣軍になんなりと突破された。

相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の周囲の山や海に巨大軍勢の豊臣軍が布陣した。

8万人余りの伊勢北条軍にとっては勝てる気がしない。

どうする、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)!

上野国(こうずけ/群馬県)の名胡桃城(なぐるみじょう/利根)の最寄駅は、JRの〈後閑駅〉(ごかんえき)もしくは新幹線の〈上毛高原駅〉(じょうもうこうげんえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、群馬県の山岳地帯は越後国(新潟県)や信濃国(長野県)に抜ける街道として要所とされ、“越後の龍”の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)や“甲斐の虎”の武田信玄(たけだしんげん/武田)も重要視した地域の為に多くのお城が築かれており、それ以前の室町時代の1454年に起こり1483年まで続いた「享徳の乱」(きょうとくのらん)の遺跡や史跡も多く残されており、足利氏と上杉氏の足跡を辿(たど)るのも良いですね。

上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう/利根)の最寄駅は、JRの〈沼田駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、沼田市は赤城山(あかぎやま)など山岳地帯の中に広がる平野に市街地が形成されており、周囲は関東のスキー場が数多くあります。

上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)の最寄駅は、JRの〈郷原駅〉(ごうばらえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、周囲には関東の奥座敷の草津温泉や大自然の楽園の嬬恋があり、山々や清流を楽しみながら温泉や恋愛も体感できる欲張りな観光スポットです。

駿河国(静岡県)の山中城(やまなかじょう)の最寄駅は、JRの〈函南駅〉(かんなみえき)から徒歩で山に登り1時間程度の距離にあり、伊豆半島の付け根の箱根山にある為に、熱海や伊豆の温泉に箱根の芦ノ湖(あしのこ)も手を少し伸ばせば届く距離にあり、標高3776mの富士山(ふじさん)も直(す)ぐに登頂する事ができます。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

BECK /♪ NEW POLLUTION

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250320 - ラジオの友 URL

2025/03/20 (Thu) 22:47:31

◆◇◆其の七十五:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

豊臣軍の20万人余りの軍勢に包囲された相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)である。

しかも豊臣軍の武将には、戦国時代を戦い抜いてきた勇猛果敢な名将が粒揃いしている。

しかし、当時の小田原城(おだわらじょう)は町全体の広域が城郭であり、山と海に囲まれた鉄壁の要塞だった。

城下町も城内郭に設けられた惣構え(そうがまえ)の城域構成で、敵陣としては非常に攻め難い日本で一番の防御力を持つお城と言われた。

因(ちな)みに豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、この時に小田原城(おだわらじょう)を徹底的に研究して、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に建物の配置や曲輪(くるわ)の構造などを参考にして採(と)り入れている。

言うなれば小田原城(おだわらじょう)が兄なら、大坂城(おおさかじょう)は弟だ。

相模国(神奈川県)に到着した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、当初から小田原城(おだわらじょう)はどんなに大軍で攻めても落とせない事は承知していた為に、得意の兵糧攻めで長期戦に持ち込む作戦に出た。

小田原城(おだわらじょう)の南方に鎮座する笠懸山(かさがけやま/石垣山)に石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)を築城して陣営を設けた。

この時、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は余裕の構えで、側室の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)も同行し子作りに励(はげ)み、田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)も招いて茶会を催していたと言う。

この石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)を建築する際、周辺の木を伐採せずに作業を行い、お城が完成したら一気に木を伐採させて1日で築城させたかの様に演出し伊勢北条軍の武士を驚かせ、これを石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)と呼ぶ。

言うなれば石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)が弟なら、美濃国(岐阜県)の墨俣城(すのまたじょう/大垣)は兄だ。

一方、小田原城(おだわらじょう)より更なる強固なお城が関東地方にはあった。

それは武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)である。

上野国(こうずけ/群馬県)と下野国(しもつけ/栃木県)の国境に近い忍城(おしじょう/行田)は、近くを流れる利根川(とねがわ)や忍川(おしかわ)や荒川(あらかわ)と、周囲を湿地帯で囲まれた水辺に浮かぶ難攻不落のお城として名高かった。

忍城(おしじょう/行田)の城主は成田長泰(なりたながやす/上杉→ 伊勢北条 → 上杉→ 伊勢北条)が就いており、越後国(新潟県)の上杉氏と相模国(神奈川県)の伊勢北条氏との交戦の戦況を見極めながら主君を替えて、弟の成田泰季(なりたやすすえ/成田)と共に成田氏を死守し、最終的には伊勢北条氏に仕えていた。

その息子には家督継承者の兄の成田氏長(なりたうじなが/上杉→ 伊勢北条 →豊臣)、弟の成田泰親(なりたやすちか/伊勢北条 →豊臣→徳川)が居た。

成田氏長(なりたうじなが/上杉→ 伊勢北条 →豊臣)には、娘の甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)が居たが、女性ながらにして武勇に優れ容姿も美しかった事から“東国無双の美女”と呼ばれた。

甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)は、武道に秀でた母親で由良成繁(ゆらなりしげ/横瀬)の娘に武芸を鍛えられて、祖母も含めて3代に渡り武道の達人と言われる。

そんな甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)は英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)で容姿端麗(ようしたんれい)に育ったが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が1590年に伊勢北条氏の征伐を開始すると状況は一変した。

甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)の父親の成田氏長(なりたうじなが/上杉→ 伊勢北条 →豊臣)と叔父の成田泰親(なりたやすちか/伊勢北条 →豊臣→徳川)は伊勢北条軍の救援の為に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に入城した。

そんな忍城(おしじょう/行田)の城主不在を預かったのが、成田氏長(なりたうじなが/上杉→ 伊勢北条 →豊臣)の叔父にあたる70歳を超えた城代の成田泰季(なりたやすすえ/成田)である。

成田氏長…『わしぃは伊勢北条軍の援軍として相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に居城して豊臣軍と戦う事になる! その間、この忍城(おしじょう/行田)は留守になるが、叔父の泰季殿がしっかりとお城を守ってくれるので安心して欲しい。』

成田泰季…『あぁ〜 ご紹介に賜りまり、あぁ〜 えぇ〜 ました、う〜〜ん 泰季と申します。 先代で兄の、 あぁ〜 えぇ〜 誰だったかのう?』

成田氏長…『長泰です。 ナガヤス!』

成田泰季…『おう、そうそう、兄のナガツナと共に、この忍城(おしじょう/行田)を守ってきたから、う〜〜ん えぇ〜 知らぬ事は無いので、あぁ〜 何でも聞いてござれぇ。 皆の者、安心せいっ! ガハッハッハッハッ〜』

甲斐姫…『あっ、あんなお爺さんで、大丈夫なのかぁ!?』

こうして武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)にも、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる2万3千人の豊臣軍石田隊が進軍してきた。

一方、忍城(おしじょう/行田)を守護する城代の成田泰季(なりたやすすえ/成田)と甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)の伊勢北条軍成田隊には3千人余りの軍勢しか居らず、しかもその大半が周辺の農民を駆り出した民間兵士だった。

成田泰季…『姫殿、安心致せぇ! 長い事、この忍城(おしじょう/行田)を守ってきたわしぃじゃ、上杉軍には一歩たりとも城の中には入れさせぬぞぉ!』

甲斐姫…『爺(ジイ)、頼もしいお言葉ですが、あれは上杉軍ではなく豊臣軍ですよぉ。』

成田泰季…『なぁ〜にを言うかぁ! わしぃは謙信とは幾多(いくた)の戦乱を交えたのじゃ〜! かかって来いぃ〜 謙信よぉ〜! グォホォグォホォ〜 グォホォ〜 グエェ〜』

バタン

甲斐姫…『じぃ、爺(ジイ)、どうしたのじゃ!? 爺(ジイ)!?』

忍城(おしじょう/行田)を守護する城代の成田泰季(なりたやすすえ/成田)は、豊臣軍石田隊に包囲された絶体絶命の中で寿命を迎えたのである。

甲斐姫…『ええっ〜!? このタイミングでぇ〜!?』

どうする甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)!

忍城(おしじょう/行田)を守護する城代の成田泰季(なりたやすすえ/成田)が急逝(きゅうせい)し、その役目は息子の成田長親(なりたながちか/成田)に引き継がれた。

ただ、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる2万3千人の豊臣軍石田隊に包囲された最悪の戦況は変わらない。

この時、相模国(神奈川県)の石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)に布陣する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から石田三成(いしだみつなり/豊臣)に宛てて伝令(でんれい)が届き、その内容は忍城(おしじょう/行田)をお得意の水攻めで侵攻する様にとの事だった。

早速、石田三成(いしだみつなり/豊臣)は利根川(とねがわ)の河川から水を引いて28kmにもなる堤防を5日余りで築いた。

しかし、忍城(おしじょう/行田)から利根川(とねがわ)は6km余り離れており、思う様にお城の周囲は水位が上がらず失敗に終わる。

しかも、その後に豪雨が降り近隣の河川から増水し、さらに堤防も決壊して豊臣軍石田隊の陣営に濁流が流れ込み、武士が流されて溺死(できし)する損害を被った。

この事からも解る通り、日本は古来から女性の神様である天照大御神(アマテラス)や大気都比売命(オオゲツヒメ)、京都は伏見の天女母神が司っており、現生では強く逞(たくま)しく無欲で素直な女性の味方をしているのは、歴史を見ても明らかである。

武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)の最寄駅は、秩父鉄道の〈行田駅〉(ぎょうだえき)から徒歩で数十分程度の距離にあり、上野国(こうずけ/群馬県)と下野国(しもつけ/栃木県)の国境に隣接する忍城(おしじょう/行田)は重要拠点だった事が解り、日本で一番に暑い夏を迎える熊谷市も隣接している。

相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の最寄駅は、JRと新幹線と小田急と伊豆箱根鉄道の〈小田原駅〉から徒歩で数分程度の距離にあり、この地に来訪したら北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が小田原城(おだわらじょう)を乗っ取りした“火牛の計”(かぎゅうのけい)に想いを馳(は)せながら焼肉を食べるのが定番です。

お帰りにお土産の小田原提灯のご購入もお忘れなく。

相模国(神奈川県)の石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)の最寄駅は、JRの〈早川駅〉もしくは箱根登山鉄道の〈箱根板橋駅〉から徒歩で山に登り1時間程度の距離にあり、やはりここは、弥次さん喜多さんの様に雪駄(せった)を履いて東海道の箱根越えにチャレンジして欲しいですね。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

HINDER /♪ GET STONED

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2025/03/20 (Thu) 22:48:27

◆◇◆其の七十六:ナニがあるかな? 愛知県をはじめ日本各地の知名度の低い地味な駅で降りてみよう!◆◇◆

武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)へのお得意の水攻めが失敗した報告を受けた相模国(神奈川県)の石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)に布陣する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、“豊臣五大老”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)、“豊臣五奉行”の浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、信濃国(長野県)の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)など百戦錬磨の猛攻武将を送り込んだ。

この戦況に忍城(おしじょう/行田)を任される城代の成田長親(なりたながちか/成田)は、自ら出陣して城外郭で戦う事を決意する。

ところが、この判断を否定する者が現れる。

それは甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)である。

成田長親…『このままじゃ、城内に侵入され壊滅するなぁ。 私が軍を率いて外で戦う事にしよう。』

甲斐姫…『待ちなさい! 大将は後方で最後まで戦況を観て指示するもの! ここは私が出陣しますっ!』

成田長親…『ええっ!? 姫が自ら出陣するのかぁ?』

甲斐姫…『女だと思って甘く見ないでぇ! まあ、お城から私の戦闘を見物して下さいよぉ。』

そう言って甲冑(かっちゅう)を身にまとい、成田氏に伝わる名刀の“浪切”(なみきり)を手にして甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)は、複数の武士を従えて城外郭に出ていった。

この鬼女侍(きじょざむらい)が率いる東国武士団の勢いに押されて、大軍勢の豊臣軍は劣勢に立たされた。

更に戦地で戦う甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)に見惚(みと)れて、豊臣軍の武士が求婚した逸話も残る。

豊臣軍の武士…『おおっ〜 なんと勇ましくも美しい女武士だろうかぁ! お姉さん、僕と結婚して下さい。』

甲斐姫…『これでも喰らえっ!』

ギュ〜〜 シューー

ズバン

豊臣軍の武士…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

甲斐姫…『フンッ!』

甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)は、豊臣軍の武士を見事に射抜いた。

一方、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の戦況は苦境に立たされていた。

日本で一番の防御力を持つ、山と海に囲まれた鉄壁の要塞の小田原城(おだわらじょう)とは言え、兵糧攻めでジワジワとダメージを与えられれば城内に居る武士や町人は衰弱していく。

その間にも黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)を交渉役(ネゴシエーター)として降伏勧告が届く。

小田原城(おだわらじょう)では、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)をはじめ、重鎮家臣で構成された重要会議の小田原評定(おだわらひょうじょう)を幾度(いくど)となく開催したが、議題に対する重鎮家臣の意見が分かれ、長時間に渡り議論しても結論は出ずに終わる。

豊臣軍に包囲されてから3ヶ月目にして伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は降伏を決断する。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)はこの降伏を受け入れたが、ただ、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)とその弟の北条氏照(ほうじょううじてる/伊勢北条)は切腹を命じた。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が当主だった伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)には切腹を命じなかった理由として、降伏を決断した事と、もう1つは北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の妻の督姫(とくひめ/徳川→伊勢北条)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の娘だった事が挙げられる。

これを1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)と呼ぶ。

その後、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)から兵を引き揚げて来た甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)の父親の成田氏長(なりたうじなが/上杉→ 伊勢北条 →豊臣)と叔父の成田泰親(なりたやすちか/伊勢北条 →豊臣→徳川)が率いる伊勢北条軍成田隊は武蔵国(埼玉県)の忍城(おしじょう/行田)に入城した。

そこで成田氏長(なりたうじなが/上杉→ 伊勢北条 →豊臣)から伊勢北条氏が降伏して合戦は敗北した事を知らされた。

これにより忍城(おしじょう/行田)は開城して、甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)と東国武士団は、勝者でもある石田三成(いしだみつなり/豊臣)の豊臣軍石田隊を横目に堂々と大手門から退城して出ていった。

この甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)の噂(うわさ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の耳にも入り、側室として迎え入れた。

その為に父親の成田氏長(なりたうじなが/上杉→ 伊勢北条 →豊臣)は敵陣の伊勢北条軍でありながら処分を免れ、2万石の領地も与えられている。

甲斐姫(かいひめ/伊勢北条→豊臣)はその才能から隠密(おんみつ)として働き、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の教育係にも就任したと言われる。

この「小田原征伐」(おだわらせいばつ)は東北の地にも豊臣軍から参陣要請が来て、陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松)からは“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍伊達隊が出陣した。

伊達政宗…『東北の猛将、伊達政宗、只今参上! 秀吉殿よぉ、大船(おおぶね)に乗ったつもりで安心して下さい。 私が来たからにはこの戦(いくさ)、勝利の香(かお)りしかしません!』

豊臣秀吉…『お前はアホォかぁ! 戦(いくさ)はとうに終わっておるわぁい!』

伊達政宗…『えっ!? 終わったのぉ?』

豊臣秀吉…『もう少し遅かったら、お前を打首にするところだったぞぉ! 後で始末書を提出せいっ!』

そうです、豊臣政権が日本統一する大切な合戦で、“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は大遅刻したのである。

後日、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は慣れないワープロを駆使して始末書を作成し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元に提出しに行った。

その時の格好が武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)を身にまとっており、意表を突いた斬新なパフォーマンスを豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に気に入られて不始末を許されたと言う。

後日、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は伊勢北条氏の謀反(むほん)は同盟国でもある徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)にも責任があるとして、生まれ故郷の三河国(愛知県)を中心とした東海地方から、元は伊勢北条氏の所領だった関東地方へ領地移転の転封(てんぽう)となる。

これが武蔵国(東京都)にて徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が江戸城(えどじょう)を拠点に都市整備を施して、後々の日本の首都である東京が誕生したキッカケの出来事である。

言うなれば1590年に伊勢北条氏の謀反(むほん)と降伏があったからこそ、将来の経済大国に成り上がった日本が存在している。

陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松)の最寄駅は、JRと会津鉄道の〈西若松駅〉から徒歩で数十分程度の距離にあり、鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松)で忘れてはならないのが、幕府軍と維新軍が交戦した1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の慶応4年4月に起こった「会津戦争」(東北戦争)で、会津藩の藩主の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)が領民と共に最後まで戦い、そして、青年兵だった白虎隊の集団自決した哀しい歴史です。

武蔵国(東京都)にて江戸城(えどじょう)の最寄駅は、地下鉄の〈竹橋駅〉やその他大勢の駅から徒歩で数分程度の距離にあり、江戸城(えどじょう)の原型を築城したのは室町時代に関東を統治する為に置かれた鎌倉公方(かまくらくぼう)の関東管領の扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)に仕えていた家宰(かさい)を務めていた太田道灌(おおたどうかん/扇谷)で、江戸城(えどじょう)に来訪した際は同じく太田道灌(おおたどうかん/扇谷)が築城した武蔵国(埼玉県)の川越城(かわごえじょう)も同時に訪れるのが和文化の礼儀とされる。

此(こ)れは、行かなければなりませんねぇ〜

HEADS&JOHNETTE NAPOLITANO /♪ DAMAGE I'VE DONE

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2025/03/17 (Mon) 13:44:42

C+C Music Factory/♪ Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)

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2025/03/17 (Mon) 13:45:40

RUN DMC vs Jason Nevins /♪ It's Like That

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2025/03/17 (Mon) 13:46:37

WHALE /♪ HOBO HUMPIN SLOBO BABE

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2025/03/17 (Mon) 13:47:56

The Chemical Brothers /♪ Get Yourself High

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2025/03/17 (Mon) 13:48:56

DR.MOTTE AND WESTBAM /♪ SUNSHINE

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2025/03/17 (Mon) 13:49:50

MOONROCK /♪ ILL STREET BLUES

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2025/03/17 (Mon) 13:50:44

VICTORIA WILSON-JAMES /♪ REACH 4 THE MELODY

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2025/03/17 (Mon) 13:51:44

TAMMY PAYNE /♪ TAKE ME NOW

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2025/03/17 (Mon) 13:52:48

JAZZY,KILIMANJARO /♪ NO BAD VIBES

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2025/03/17 (Mon) 13:53:47

M PEOPLE /♪ MELODY OF LIFE

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2025/03/17 (Mon) 13:54:48

KIARA /♪ THIS TIME

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2025/03/17 (Mon) 13:55:48

SYBIL /♪ DON'T MAKE ME OVER

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2025/03/17 (Mon) 13:56:43

Soul II Soul/♪ Courtney Blows

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2025/03/17 (Mon) 13:57:40

ETERNAL /♪ STAY

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2025/03/17 (Mon) 13:58:35

YOUNG DISCIPLES /♪ ALL I HAVE (IN ME)

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2025/03/17 (Mon) 13:59:30

LIGHT OVER THERE /♪ WHERE MEMORIES LIVE

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LOOSE ENDS /♪ DON'T BE A FOOL

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SKEPTA /♪ MAKE PEACE NOT WAR

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