都市空間計画区域

238312
名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:46:56

404 Soldierz/♪ WALK LIKE A SOLDIER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:47:51

DOCTOR DRE & ED LOVER /♪ BACK UP OFF ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:48:45

Big Daddy Kane /♪ AIN'T NO 1/2 STEPPIN'

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:49:46

DMX /♪ WHERE THE HOOD AT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:50:39

TWISTA FEAT.PHARRELL /♪ GIVE IT UP

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:51:36

BIG BROVAZ /♪ WE WANNA THANK YOU(THE THINGS YOU DO)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:52:35

B.G. Feat. Mannie/♪ MOVE AROUND

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:53:32

R.KELLY & JAY-Z /♪ FIESTA REMIX

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:54:27

SLICK RICK /♪ TEENAGE LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:55:36

Tyra B /♪ COUNTRY BOY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:56:43

SKYY /♪ START OF A ROMANCE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:57:41

MICA PARIS /♪ POSITIVITY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:58:36

AMERIE /♪ TALKIN' TO ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 07:59:49

ZAPP & ROGER /♪ SLOW AND EASY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 08:00:49

ERYKAH BADU /♪ NEXT LIFETIME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 08:01:47

ERIC GABLE /♪ DRIVING ME CRAZY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 08:02:43

STACY LATTISAW /♪ EVERY DROP OF YOUR LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 08:03:39

WHISTLE /♪ ALWAYS AND FOREVER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260615 - ラジオの友 URL

2026/06/15 (Mon) 08:04:33

U.N.V. /♪ Something's Goin' On

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:44:24

◆◇◆其の六:尼子氏(あまごうじ)の落武者、八つ墓村で子孫末代まで呪い祟る事を誓う◆◇◆

●尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)、1565年〜1566年に起こった「第二次月山富田城の戦」(だいにじがっさんとだじょうのたたかい)で敗北!

石見国(いわみ/島根県)は1538年に父親の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の侵攻により奪取(だっしゅ)され、これにより石見国(いわみ/島根県)の山岳地帯に眠る石見銀山の利権も手中に収め、年間3億円余りの銀が発掘され、尼子氏(あまごうじ)は潤沢な財政により軍事力の強化を図る事ができた。

当然に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の狙いも石見銀山の利権にある。

安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、石見国(いわみ/島根県)に侵攻する事を宣戦布告として、出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)に居城する尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)に伝達した。

月山富田城(がっさんとだじょう/安来)の尼子軍の武士は、当然に先代の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)と同様に、安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と合戦を交えると考えていた。

ところが当主の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)の現状からの判断と決断は、忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)とは武力で争わず、講和交渉による和睦を選択した。

1561年に京都の室町幕府を仲介役に、出雲国(島根県)の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)と安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は講和交渉を締結した。

しかし、優位に立つ毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、和睦の条件に石見国(いわみ/島根県)の占領を無条件で引渡す条文を盛り込んでいた。

これは石見銀山で発掘される年間3億円余りの銀の利権を、尼子氏(あまごうじ)は無条件で毛利氏に引渡す事を意味していた。

月山富田城(がっさんとだじょう/安来)の尼子軍の武士は、当然に講和交渉を破棄して、安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と合戦を交えると考えていた。

ところが当主の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)の現状からの判断と決断は、英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)とは武力で争わず、石見国(いわみ/島根県)の占領を無条件で引渡す選択した。

こうして当主の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)の元で衰退した尼子氏(あまごうじ)は、周辺の小規模な国人(こくじん)や豪族は尼子氏(あまごうじ)から離反(りはん)する事を決める。

その多くが一時名流(いちじめいりゅう)な毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に従属(じゅうぞく)した。

この様な状況で出雲国(島根県)の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)と安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の和睦は意味を成していなかった。

OF MICE & MEN /♪ FEELS LIKE FOREVER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:45:20

◆◇◆其の七:尼子氏(あまごうじ)の落武者、八つ墓村で子孫末代まで呪い祟る事を誓う◆◇◆

●尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)、1565年〜1566年に起こった「第二次月山富田城の戦」(だいにじがっさんとだじょうのたたかい)で敗北!

そして毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は和睦を破棄して、出雲国(島根県)の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)に侵攻を開始した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は、尼子氏(あまごうじ)の出雲国(島根県)に建つ白鹿城(しらがじょう/松江)と三沢城(みざわじょう/奥出雲)と赤穴城(あかなじょう/飯南)を速攻で陥落させた。

こうして出雲国(島根県)の米子から南西部の山岳地帯に建つ月山富田城(がっさんとだじょう/安来)に尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は篭城した。

月山富田城(がっさんとだじょう/安来)は山間部に築城された難攻不落の“天空の城”と呼ばれ、敵陣も容易に侵攻する事はできなかった。

1565年〜1566年に起こった「第二次月山富田城の戦」(だいにじがっさんとだじょうのたたかい)にて、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は月山富田城(がっさんとだじょう/安来)の麓に陣営を設けて包囲した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の戦術も闇雲(やみくも)に侵攻するのではなく、ここは兵糧攻めの長期戦の構えを見せた。

「第二次月山富田城の戦」(だいにじがっさんとだじょうのたたかい)の開戦から数ヶ月が過ぎ去り、月山富田城(がっさんとだじょう/安来)の城内には兵糧が尽きて、牛馬まで食べ尽くし、草木すら食べて1本も生えていなかった。

限界値を越えた尼子氏(あまごうじ)の武将や武士は、月山富田城(がっさんとだじょう/安来)から逃亡する者が続出した。

病気や体力消耗により城内で動けなくなった者の阿鼻叫喚(あびきょうかん)が響き渡り、そこは凄惨(せいさん)な地獄と化していた。

結局に尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に降伏して月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を開城した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に謁見(えっけん)した尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は切腹を覚悟していた。

ところが毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)に対して切腹も自決も許さず助命した。

山陽地方を統治する毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、山陰地方を統治してきた尼子氏(あまごうじ)の利用価値を見出していた。

こうして尼子氏(あまごうじ)は毛利氏の臣従(しんじゅう)に組み込まれて、守護大名としては消滅した。

その後に尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は、安芸国(あき/広島県)の安芸高田に建つ円明寺(えんみょうじ/真言宗)に幽閉され、行動制限のある不自由な生活を送るものの衣食住に困る事は無かった。

そして1571年に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が死去して、家督継承者は孫の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が就任した。

1589年に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は、尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)の幽閉を解除して安芸国(あき/広島県)の根谷(ねのたに/安佐北)に屋敷と自由な暮らしを与えた。

そして尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)に毛利氏の客分(きゃくぶん)として仕えてもらった。

しかし、安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の口車に乗って西軍の総大将に就任した事が裏目に出た。

西軍は敗北して敗軍の将として戦争責任を取らされた毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は、安芸国(あき/広島県)をはじめとした殆どの領国を領地削減の減封(げんぽう)となり、周防国(すおう/山口県)と長門国(山口県)に領地移転の転封(てんぽう)となった。

此(こ)れに併せて尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)も、長門国(山口県)の奈古(なご/阿武)に移住した。

そして時は江戸時代に入り、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)にて、1603年に江戸幕府を開設した。

そして1610年に尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は長門国(山口県)の奈古(なご/阿武)の屋敷で死去し、幾度の危機を乗り越えた波瀾万丈の生涯ではあったが71歳の長寿を全うした。

一方で、1566年に「第二次月山富田城の戦」(だいにじがっさんとだじょうのたたかい)に敗北した尼子氏(あまごうじ)の8人の落武者は、出雲国(島根県)から美作国(みまさか/岡山県)の山奥にある八つ墓村に辿り着いて、当初は村民に迎え入れられて平穏な日々を過ごしていた。

しかし、安芸国(あき/広島県)の毛利氏から多額の報奨金が掛かった落武者狩りに目が眩(くら)み、八つ墓村の村民は尼子氏(あまごうじ)の8人の落武者を村祭りに招いて毒酒を呑ませて惨殺した。

尼子氏(あまごうじ)の8人の落武者は『子孫末代まで呪い祟ってやる!』と罵倒(ばとう)し、怨念を抱いてこの世を去っていった。

この尼子氏(あまごうじ)の8人の落武者の怨念は、今でも日本の何処(どこ)かで彷徨(さまよ)っている。

それは貴方の街かも知れない。

CHRISSY STEELE /♪ MOVE OVER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:46:13

◆◇◆其の一:奈良時代から続く賢能(けんのう)なる一族の毛利氏◆◇◆

●毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)激論集、成りあがり

安芸国(あき/広島県)を代表する戦国大名と言えば、日本人の96%が毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と答えます。

歴史の教科書を1度も開いた事のない学生でも、有名武将の織田信長(おだのぶなが/織田)と毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)だけは知っている偉人です。

では、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の出自(しゅつじ)や生涯を6時間余り語れる才知(さいち)が、この日本、この世界に何人ほど居るでしょうか?

今回、そんな万夫不当(ばんぷふとう)な毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と栄耀栄華(えいようえいが)を極めた毛利氏を深掘りしてみよう。

毛利氏の筋目(すじめ)は古く、奈良時代から続く土師氏(はじうじ)から清原氏となった系統の中原氏から庶流(しょりゅう)となる大江氏に始まり、朝廷に仕える貴族であった。

其処(そこ)から時は流れ1185年〜1192年に相模国(神奈川県)にて、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の足元に大倉御所(おおくらごしょ)を設けて鎌倉幕府を開設した。

征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と妻の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)には、息子の征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)と征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)が将軍を引き継いだ。

ただ、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が1199年に落馬して死去すると、鎌倉幕府は権力闘争の渦に巻き込まれていく。

その矛先は将軍に向かい、1204年に征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が伊豆国(静岡県)で暗殺される。

征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)は、1219年に相模国(神奈川県)の山間部に建つ鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)にて、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の息子の公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)に暗殺された。

これにより征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の系統が途絶える事になる。

こうして源氏直系の将軍が不在となり、鎌倉幕府では尼将軍(あましょうぐん)の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)が中心となり政権運営が実施される。

この時に北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)を支えたのが、評定衆(ひょうじょうしゅう)の13人の合議制である。

13人の合議制では、北条氏から執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)と執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)が筆頭の構成員になった。

御家人から梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)と和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)と比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)と三浦義澄(みうらよしずみ/平氏→源氏→鎌倉)と八田知家(はったともいえ/鎌倉)と安達盛長(あだちもりなが/源氏→鎌倉)と足立遠元(あだちとおもと/鎌倉)が加わった。

官僚から大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)と三善康信(みよしやすのぶ/公家→鎌倉)と中原親能(なかはらちかよし/公家→鎌倉)と二階堂行政(にかいどうゆきまさ/公家→鎌倉)が京都の朝廷から参加した。

こうして相模国(神奈川県)の地で150年間余り続いた鎌倉幕府は、その規模と共に宇津宮辻子御所(うつのみやずしごしょ)や若宮大路御所(わかみやおおじごしょ)に移転しながら日本全国を統治した。

そして13人の合議制の構成員である大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)が、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の先祖に当たる。

ここまで知識を蓄えておかないと、とてもでは無いが毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と毛利氏の事を理解するのは難しい。

BLACK LABEL SOCIETY /♪ CONCRETE JUNGLE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:47:03

◆◇◆其の二:奈良時代から続く賢能(けんのう)なる一族の毛利氏◆◇◆

●毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)激論集、成りあがり

では、容貌魁偉(ようぼうかいい)と言われる毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の生涯を振り返ってみよう。

詭計百出(きけいひゃくしゅつ)や深謀遠慮(しんぼうえんりょ)な印象を与える毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)だが、生まれ付きに智勇(ちゆう)や聡明(そうめい)が兼ね備えていた訳ではない。

どちらかと言えば臥薪嘗胆(がしんしょうたん)や苦心惨憺(くしんさんたん)を経験した、戦国時代に翻弄された苦労人である。

1497年に安芸国(あき/広島県)の国人(こくじん)だった毛利弘元(もうりひろもと/大内)の次男として毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は誕生した。

この時期は1467年〜1477年に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)にて、京都市中は大炎上して焦土と化して、室町幕府の権威も喪失していた。

そんな中で日本各地の守護代の大名や武将が、主君である守護大名を討伐する下克上(げこくじょう)が当たり前となる。

これにより戦国時代が幕開けした。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の安芸国(あき/広島県)も、西日本最大勢力である周防国(すおう/山口県)を拠点とする大内義興(おおうちよしおき/室町)や息子の大内義隆(おおうちよしたか/室町)が強靭な権力と武力で統治していた。

一方で山陰地方では出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を拠点とする尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)や孫の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が山陽地方への侵攻を虎視眈々と狙っていた。

この大内氏と尼子氏(あまごうじ)の二大勢力に挟まれた父親の毛利弘元(もうりひろもと/大内)や毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点に時の情勢を見極める日々が続いていた。

1493年に起こった「明応の政変」(めいおうのせいへん)にて、室町幕府の前職の征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)と、現職の征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)が対立する。

安芸国(あき/広島県)の毛利弘元(もうりひろもと/大内)にも、双方の陣営から援軍要請が伝令(でんれい)された。

1500年に苦悩の末に毛利弘元(もうりひろもと/大内)は、中立の立場を示して次男の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)を引き連れて多治比猿掛城(たじひさるがけじょう/安芸高田)に移住して隠居した。

こうして安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)にて、嫡男(ちゃくなん)で長男の毛利興元(もうりおきもと/大内)が家督継承者に就任した。

その後の1506年に父親の毛利弘元(もうりひろもと/大内)が、多治比猿掛城(たじひさるがけじょう/安芸高田)にて死去した。

禍(わざわい)は連鎖するもので、まだ9歳だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が多治比猿掛城(たじひさるがけじょう/安芸高田)の城主に就任するが、重鎮家臣の謀反(むほん)により領土を簒奪(さんだつ)される。

宿無しとなった少年の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は途方に暮れるが、毛利弘元(もうりひろもと/大内)の継室だった杉大方(すぎのおおかた/大内)が養母となり、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)を養育した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、養母の杉大方(すぎのおおかた/大内)を一生涯を掛けて大切にしたと言う。

そして青年になった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、成人の儀式にて烏帽子親(えぼしおや)から烏帽子(えぼし)を被せられ、毛利氏の庶流(しょりゅう)となる多治比氏(たじひうじ)の姓(かばね)が与えられ元服(げんぷく)を果たす。

HALESTORM /♪ FREAK LIKE ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:51:52

◆◇◆其の三:奈良時代から続く賢能(けんのう)なる一族の毛利氏◆◇◆

●毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)激論集、成りあがり

惨禍(さんか)は連鎖するもので、1516年に毛利氏の当主だった兄の毛利興元(もうりおきもと/大内)が死去する。

そして毛利氏の家督継承者は毛利興元(もうりおきもと/大内)の息子で2歳の毛利幸松丸(もうりこうまつまる/大内)が就任した。

この毛利氏の事態に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、赤ん坊で当主の毛利幸松丸(もうりこうまつまる/大内)の後見人に就任して支えた。

其処(そこ)からの毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、毛利氏を守り抜く責任感から獅子奮迅(ししふんじん)して勢力拡大に邁進する。

主君の大内義興(おおうちよしおき/室町)の伝令(でんれい)により、1517年に起こった「有田中井手の戦」(ありたなかいでのたたかい)にて、初陣(ういじん)となる毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる1千人の毛利軍は、安芸国(あき/広島県)の守護代で安芸武田氏(あきたけだうじ)の武田元繁(たけだもとしげ/大内→武田)が率いる5千人の武田軍と合戦を繰り広げた。

戦況は多勢に無勢の慣例を覆して、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍が武田元繁(たけだもとしげ/大内→武田)が率いる武田軍を討ち破り勝利した。

この「有田中井手の戦」(ありたなかいでのたたかい)で、武田元繁(たけだもとしげ/大内→武田)は討死している。

1523年に起こった「鏡山城の戦」(かがみやまじょうのたたかい)にて、周防国(すおう/山口県)の大内義興(おおうちよしおき/室町)と出雲国(島根県)の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)が、安芸国(あき/広島県)の大内氏の鏡山城(かがみやまじょう/東広島)の周辺で合戦を繰り広げた。

この時に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)の軍勢に参加して、尼子軍毛利隊を率いて鏡山城(かがみやまじょう/東広島)に侵攻し落城させて勝利した。

ただ、勝利に貢献した毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に対して、戦勝した尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)は論功行賞(ろんこうこうしょう)の選定で恩賞(おんしょう)を与えなかった。

これを機に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は不信感を募らせて、尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)と仲違いして尼子氏(あまごうじ)を永遠の敵陣と定めた。

LINKIN PARK /♪ GIVEN UP

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:52:50

◆◇◆其の四:奈良時代から続く賢能(けんのう)なる一族の毛利氏◆◇◆

●毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)激論集、成りあがり

惨事(さんじ)は連鎖するもので、1523年に毛利氏の当主だった毛利幸松丸(もうりこうまつまる/大内)が9歳で死去した。

こうして毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が毛利氏の家督継承者に就任した。

しかし、毛利氏の庶流(しょりゅう)となる多治比氏(たじひうじ)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が、嫡流(ちゃくりゅう)の毛利氏の家督継承者に就任する事に、少なからず反発する重鎮家臣も居た。

こうして反発派は、毛利弘元(もうりひろもと/大内)の息子で毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の義理弟の相合元綱(あいおうもとつな/大内)を、嫡流(ちゃくりゅう)の毛利氏の家督継承者に担ぎ上げた。

この反発派の謀反(むほん)には、出雲国(島根県)の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)が奸計(かんけい)を企て裏で糸を引いていた。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)としては、周防国(すおう/山口県)の大内義興(おおうちよしおき/室町)と出雲国(島根県)の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)に挟まれた安芸国(あき/広島県)の小規模な国人(こくじん)に過ぎない毛利氏が、身内同士の内乱で消耗する事を危惧していた。

眼光炯々(がんこうけいけい)から毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は理不尽ながら、1524年に起こった「相合殿事件」(あいおうどのじけん)にて、安芸国(あき/広島県)の船山城(ふなやまじょう/安芸高田)の城主だった義理弟の相合元綱(あいおうもとつな/大内)や反発派に侵攻して討伐した。

1529年には、石見国(いわみ/島根県)の国人(こくじん)で毛利氏とは縁戚だった高橋興光(たかはしおきみつ/大内→尼子)を、出雲国(島根県)の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)と内通(ないつう)していたとして、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は侵攻して滅亡させた。

これにより毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の領国は、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点に、備後国(広島県)と石見国(いわみ/島根県)まで拡大した。

これに対して出雲国(島根県)の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)から家督継承を受けた孫の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は、安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)へ報復に出た。

1540年に起こった「吉田郡山城の戦」(よしだこおりやまじょうのたたかい)にて、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる3万人の尼子軍は、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる3千人の毛利軍と合戦を繰り広げた。

戦況は多勢に無勢の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる尼子軍が有利だったが、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)に篭城して、徹底して城郭の防御を貫いた。

戦(いくさ)が長期化すると尼子軍も疲弊して士気が低下した。

そこを突くように毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は地の利を活かして、昼夜を問わずに奇襲を仕掛けた。

こうして尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる尼子軍は撤退して敗北した。

1540年に若狭武田氏(わかさたけだうじ)から安芸武田氏(あきたけだうじ)の当主に就任した武田信実(たけだのぶざね/武田)に対して、1541年に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は侵攻して武田信実(たけだのぶざね/武田)を敗走させて安芸武田氏(あきたけだうじ)は滅亡した。

その後の武田信実(たけだのぶざね/武田)は、室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)の侍従(じじゅう)に就く。

この毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の矢継ぎ早による勢力拡大により、安芸国(あき/広島県)では大名と同等の権力を有する事になる。

その翌年の1541年に出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)にて、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の祖父の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)が死去した。

SUPERGRASS /♪ Richard III

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:53:42

◆◇◆其の五:奈良時代から続く賢能(けんのう)なる一族の毛利氏◆◇◆

●毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)激論集、成りあがり

尼子氏(あまごうじ)に絶大な影響力を持つ尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)が死去した事で、周防国(すおう/山口県)の大内義隆(おおうちよしたか/室町)が好機到来として行動を開始した。

1542年〜1543年に起こった「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)にて、大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる4万5千人の大内軍は、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる1万5千人の尼子軍と合戦を繰り広げた。

大内軍には猛将の陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)や毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)も参戦していた。

戦況は多勢に無勢の大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる大内軍が有利だったが、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)に篭城して、徹底して城郭の防御を貫いた。

戦(いくさ)が長期化すると大内軍も疲弊して士気が低下した。

そこを突くように尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は地の利を活かして、昼夜を問わずに奇襲を仕掛けた。

こうして大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる大内軍は撤退して敗北した。

この「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)に勝利した尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は、前回の「吉田郡山城の戦」(よしだこおりやまじょうのたたかい)にて敗北した際に、敵陣の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)から戦術と調略(ちょうりゃく)を学習している。

この「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)に敗北した西日本最大の大大名だった大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、戦意喪失して徐々に没落していく。

一方で大内義隆(おおうちよしたか/室町)の家臣だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は敗因を究明して、これを教訓に毛利氏の初志貫徹(しょしかんてつ)となる政策を示した。

安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)にて、父親の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)と次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)と三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)を集合させた。

父親の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)が主軸となり、次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)が左翼を抑えて、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が右翼に構える“3本の弓の矢”の政権体制を整える事を進言した。

そして3兄弟が結束して毛利氏を未来永劫(みらいえいごう)に渡り存続させる長久の計(ちょうきゅうのけい)の誓いを立てた。

THE STROKES /♪ JUICEBOX

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:54:34

◆◇◆其の六:奈良時代から続く賢能(けんのう)なる一族の毛利氏◆◇◆

●毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)激論集、成りあがり

更に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県) の各地の有力な国人(こくじん)に息子を養子に入れる政略を実施する。

1544年に、安芸国(あき/広島県)の国人(こくじん)で大内政弘(おおうちまさひろ/室町→西軍)の家臣の小早川弘平(こばやかわひろひら/大内)の息子の小早川興景(こばやかわおきかげ/大内)に、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)を養子に入れる。

1547年に、安芸国(あき/広島県)の国人(こくじん)で大内義興(おおうちよしおき/室町)と尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)の家臣の吉川元経(きっかわもとつね/大内→尼子)の息子の吉川興経(きっかわおきつね/大内→尼子→大内)に、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)を養子に入れる。

こうして安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)を毛利氏の家督継承者とし、次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)と三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が毛利両川(もうりりょうせん)となり、“3本の弓の矢”の体制が整う。

その後に西日本を揺るがす事変が勃発した。

1551年に起こった「大寧寺の変」(たいねいじのへん)にて、周防国(すおう/山口県)の守護代だった大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、家臣だった陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)の謀反(むほん)により自害に追い込まれた。

そんな大内義隆(おおうちよしたか/室町)の家臣だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、主君の仇(かたき)でもある陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)に対して宣戦布告を宣言する。

こうして1555年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「厳島の戦」(いつくしまのたたかい)にて、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)を主軸に、長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)が中心の矢、次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)が左翼の矢、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が右翼の矢となり、“3本の弓の矢”は6千人の武士と共に安芸国(あき/広島県)の海に浮かぶ厳島(いつくしま/廿日市)に陣営を設けて布陣し、陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)が率いる1万人の陶軍と対峙した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は事前に調略(ちょうりゃく)にて、村上水軍や陶軍の武将と密通(みっつう)して味方に引き入れた。

また、離間の計(りかんのけい)を陶軍に施して、敵陣に間諜(かんちょう)が居る様に仕掛け、内部から瓦解(がかい)させた。

そして本戦では小軍勢の毛利軍は擬兵の計(ぎへいのけい)にて左側から敵が攻めると逆に右側を攻め、右側から敵が攻めると左側を攻めるという作戦を講じて陶軍を翻弄させ、更に奇襲にて大軍勢の陶軍を壊滅に追い込み、陣営から逃亡した陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)は陶水軍で離島を試みるも、既に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に寝返った陶水軍の姿は無く、厳島(いつくしま/廿日市)の湊には舟は1艘も無かった。

こうして陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)は自害して敗北した。

主君の大内義隆(おおうちよしたか/室町)の弔(とむら)い合戦に勝利した毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)ではあった。

ただ1557年に、大友義鑑(おおともよしあき/室町)の息子で、大内義隆(おおうちよしたか/室町)の養子に入って大内氏の当主に就任していた大内義長(おおうちよしなが/室町)を、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は政治的な奸計(かんけい)で自害に追い込んだ。

これにて西日本で最大勢力を誇った大内氏は滅亡した。

この時期の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点に備後国(広島県)と長門国(山口県)と周防国(すおう/山口県)まで勢力拡大していた。

KALEIDO /♪ DIE TRYIN'

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:55:34

◆◇◆其の七:奈良時代から続く賢能(けんのう)なる一族の毛利氏◆◇◆

●毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)激論集、成りあがり

西日本では陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)と大内義長(おおうちよしなが/室町)を討伐した毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が絶大な勢力を誇っていた。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の本拠地でもある出雲国(島根県)をはじめ、備中国(岡山県)や美作国(みまさか/岡山県)にも侵攻して揺さ振りを掛けていた。

そんな毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)との合戦する最中(さなか)の1561年に、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)にて47歳で死去した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、敵陣ではあるが亡くなった尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)に対して敬意を表した。

この時期の1563年に、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の長男で家督継承者の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)も病気で死去している。

そして亡き尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の家督継承者には、息子で嫡男(ちゃくなん)の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)が就任した。

尼子氏(あまごうじ)の当主になった尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は、これまでの政策を方向転換させて毛利氏との合戦を避けて、室町幕府を仲介役に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と和睦を締結した。

この和睦で毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、尼子氏(あまごうじ)の領国だった石見国(いわみ/島根県)の山岳地帯に眠る石見銀山の利権を無条件で手中に収め、年間3億円余りの銀が発掘され、毛利氏は潤沢な財政により軍事力の強化を図る事ができた。

そして毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は和睦を破棄して、出雲国(島根県)の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)に侵攻を開始した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は、尼子氏(あまごうじ)の出雲国(島根県)に建つ白鹿城(しらがじょう/松江)と三沢城(みざわじょう/奥出雲)と赤穴城(あかなじょう/飯南)を速攻で陥落させた。

こうして出雲国(島根県)の米子から南西部の山岳地帯に建つ月山富田城(がっさんとだじょう/安来)に尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は篭城した。

月山富田城(がっさんとだじょう/安来)は山間部に築城された難攻不落の“天空の城”と呼ばれ、敵陣も容易に侵攻する事はできなかった。

1565年〜1566年に起こった「第二次月山富田城の戦」(だいにじがっさんとだじょうのたたかい)にて、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は月山富田城(がっさんとだじょう/安来)の麓に陣営を設けて包囲した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の戦術も闇雲(やみくも)に侵攻するのではなく、ここは兵糧攻めの長期戦の構えを見せた。

「第二次月山富田城の戦」(だいにじがっさんとだじょうのたたかい)の開戦から数ヶ月が過ぎ去り、月山富田城(がっさんとだじょう/安来)の城内には兵糧が尽きて、牛馬まで食べ尽くし、草木すら食べて1本も生えていなかった。

限界値を越えた尼子氏(あまごうじ)の武将や武士は、月山富田城(がっさんとだじょう/安来)から逃亡する者が続出した。

病気や体力消耗により城内で動けなくなった者の阿鼻叫喚(あびきょうかん)が響き渡り、そこは凄惨(せいさん)な地獄と化していた。

結局に尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に降伏して月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を開城した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に謁見(えっけん)した尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は切腹を覚悟していた。

ところが毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は過去の溜飲(りゅういん)を下げ、尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)に対して切腹も自決も許さず助命した。

山陽地方を統治する毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、山陰地方を統治してきた尼子氏(あまごうじ)の利用価値を見出していた。

1566年に尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は毛利軍に捕縛(ほばく)されて安芸国(あき/広島県)に拘引(こういん)され幽閉された。

こうして尼子氏(あまごうじ)は毛利氏の臣従(しんじゅう)に組み込まれて、守護大名としては消滅した。

その後も高齢者となった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)だったが、剛毅果断(ごうきかだん)は衰えなかった。

出雲国(島根県)の武将で上月城(こうづきじょう/佐用)を拠点とする尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)の子孫の尼子勝久(あまごかつひさ/尼子→織田)や、その家臣の山中鹿介(やまなかしかのすけ)こと山中幸盛(やまなかゆきもり/尼子→織田)による尼子氏(あまごうじ)の再興の活動に対して、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は阻止すべく施策を講じていた。

更に北九州に進出する為に、豊後国(ぶんご/大分県)の戦国大名だった大友宗麟(おおともそうりん/室町→豊臣)こと大友義鎮(おおともよししげ)とも交戦を繰り広げた。

しかし、いくら容貌魁偉(ようぼうかいい)でも、人間の寿命には限界がある。

そして西日本にて絶大な影響力を誇った毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)も1571年に死去した。

毛利氏の家督継承者は、長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)の息子の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が就任した。

その側面には次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)が左翼に構えて、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が右翼に就き、毛利両川(もうりりょうせん)の体制で毛利氏を支えた。

Howling Diablos & Kid Rock /♪ DRINKIN' WINE SPO-DEE-O-DEE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:56:36

WHITE REAPER /♪ FREAKSHOW

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:57:33

SEETHER /♪ SEETHER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:58:31

RAGE AGAINST THE MACHINE /♪ GUERRILLA RADIO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 06:59:27

STUTTERING JOHN /♪ I'LL TALD MY WAY OUT OF IT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 07:00:19

CIV /♪ CHOICES MADE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 07:01:17

GREEN DAY /♪ AMERICAN IDIOT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 07:02:12

PIXIES /♪ YOU'RE SO IMPATIENT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 07:03:13

WHITE LION /♪ WAIT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260614 - ラジオの友 URL

2026/06/14 (Sun) 07:04:12

SKILLET /♪ OPEN WOUNDS

◆ラジオの友◆

■当サイトを閲覧するにあたり/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 12:47:21

閲覧者の義務として、このサイト内に掲載されている音楽の5曲以上をお好きなラジオ局にリクエストして下さい。

もし、リクエスト曲が掛かれば幸福度がアップします。

今日のラッキーソングはこれだっ!

デュークエイセス/♪ 女ひとり

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:23:56

◆◇◆其の一:戦国仁義なき戦い、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の頂上決戦◆◇◆

1941年(昭和16年)12月に起こった「太平洋戦争」こと「大東亜戦争」にて、日本列島は強靭なアメリカ軍の脅威的な空襲により東京や名古屋や大阪など軍事工場を抱える大都市は焦土と化した。

そして、1945年8月6日に広島と8月9日に長崎にて、世界初となる原子爆弾が投下された。

一瞬で消滅した両都市は、凄惨(せいさん)な現場で泣き叫ぶ阿鼻叫喚(あびきょうかん)が響き渡った。

そして1945年8月15日に、日本は「無条件降伏」を宣言して敗戦が確定した。

そこから1960年代の「高度経済成長」を経て奇跡的な経済復興を果たし、昭和期から平成期には“日本三大都市”の東京と名古屋と大阪を中心に日本は、経済大国として世界で認知される様になった。

さらに平成期から令和期に掛けては、“令和四大都市”の札幌と仙台と広島と福岡が日本の経済と文化を牽引している。

そんな中でも広島の発展は著しく、JRの広島駅を中心に再開発計画が目白押しだ。

ここまで広島の都市が変貌を遂げた要因を探るには、500年前の戦国時代にまで遡及(そきゅう)する必要性がある。

日本史の時代設定は、大まかに古代と呼ばれる紀元前5000年前後の縄文時代、紀元前100年頃からの弥生時代、200年頃からの古墳時代。

中世と呼ばれる593年からの飛鳥時代、710年からの奈良時代、794年からの平安時代、1185年からの鎌倉時代、1338年からの室町時代、1500年頃の戦国時代(安土桃山時代も含む)。

近世と呼ばれる1603年からの江戸時代。

現代と呼ばれる明治期と大正期。

現在と呼ばれる昭和期と平成期と令和期に分別されている。

2000年以上も前の紀元前について不明な時代背景が多いのは当然に理解できるが、500年程前の戦国時代(安土桃山時代も含む)が何時(いつ)から何時(いつ)までの明確な定義が不明なのは解せない。

その位に室町時代から江戸時代に掛けては、日本列島の戦国武将が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)した混沌の時代だった事が解る。

NATHAN SYKES /♪ KISS ME QUICK

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:24:49

◆◇◆其の二:戦国仁義なき戦い、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の頂上決戦◆◇◆

中国地方の中心地でもある備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県) 。

その地の戦国時代の武将と言えば“3本の弓の矢”で有名な安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)の城主だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)である。

ただ越後国(新潟県)の上杉氏や甲斐国(山梨県)の武田氏の様に他の地域とは異なり、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)をはじめとした毛利氏が、長年に渡り中国地方を統治していた訳ではない。

どちらかと言うと、これと言った有力大名が居ない信濃国(長野県)に酷似(こくじ)している。

平安時代の備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県) などの中国地方は、平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)などを代表する平氏の勢力が拠点を設けた地域だった。

その後の1180年〜1185年に起こった「治承寿永の乱」(じしょうじゅえいのらん)こと「源平合戦」(げんぺいがっせん)にて、伊勢平氏の系統だった平家が、源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の息子で、遠江国(とおとうみ/静岡県)の蒲(かば/浜松)の武将だった源範頼(みなもとのりよし/源氏)と牛若(うしわか)こと源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の源氏に猛攻撃に遭い滅亡する。

そして1192年に征夷大将軍1代目に就任した源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が、相模国(神奈川県)にて大倉御所(おおくらごしょ)を拠点に鎌倉幕府を開設して鎌倉時代が幕開けした。

この少し前の1185年に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、日本各地に領国を統治する警備拠点の守護(しゅご)と、守護(しゅご)の維持費の租税を課す役所の地頭(じとう)を設置した。

この時に備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県) にも、源氏の系統の武将が入植している。

幾年(いくとせ)が過ぎ、京都の朝廷にて第96代天皇と南朝初代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の挙兵に呼応(こおう)した鎌倉幕府に不満を持つ武将が立ち上がる。

そして上野国(こうずけ/群馬県)を拠点としていた清和源氏の系統の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)などにより、得宗家7代目と執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)をはじめとする北条氏を滅亡させ、鎌倉幕府も終焉を迎えた。

その後の1333年に第96代天皇と南朝初代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が実施した「建武の新政」(けんむのしんせい)にて、朝廷の公家に偏った論功行賞(ろんこうこうしょう)に不満を抱いた武将が反発して、下野国(しもつけ/栃木県)を拠点としていた清和源氏の系統の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)などが朝廷と対峙した。

こうして朝廷軍と武士軍は抗争を繰り広げるが、戦況は一進一退で、苦境に陥った足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる武士軍は西日本に逃亡した。

この時に足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県) をはじめとした中国地方の武将と結束を固めていく。

そして摂津国(兵庫県)にて1336年に起こった「湊川の戦」(みなとがわのたたかい)で、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる武士軍は、兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍を壊滅させて決定的な勝利する。

更に越前国(福井県)にて1338年に起こった「藤島の戦」(ふじしまのたたかい)で、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が侵攻させた武士軍により新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍は「灯明寺畷」(とうみょうじなわて)にて総攻撃に遭い壊滅し、第96代天皇と南朝初代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の朝廷の敗北が決定した。

こうして1338年に征夷大将軍1代目に就任した足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)により、鎌倉幕府に代わり京都に室町幕府が開設される。

その後、室町幕府は将軍の足利氏と三管領(さんかんれい)の畠山氏、斯波氏、細川氏に、七頭(しちとう)の山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏(きょうごくうじ)、土岐氏、上杉氏、伊勢氏が補佐し、その家臣や地方の守護大名たちが政権運営を担った。


其処(そこ)から100年超が過ぎた1455年〜1483年に相模国(神奈川県)の鎌倉府にて「享徳の乱」(きょうとくのらん)が起こる。

足利氏の鎌倉公方(かまくらくぼう)と、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)や扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の関東管領(かんとうかんれい)が対峙したのである。

それに連鎖するかの様に、1467年〜1477年に「応仁の乱」(おうにんのらん)が勃発し、室町幕府の権力闘争による内乱が10年間も継続した。

実質的に、この「応仁の乱」(おうにんのらん)により将軍の足利氏の権威は喪失して、戦国時代が幕開けしたと言われる。

Angels & Airwaves/♪ THE ADVENTURE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:25:38

◆◇◆其の三:戦国仁義なき戦い、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の頂上決戦◆◇◆

備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)に有力大名が居なかったとは言うものの、山陽地方と山陰地方の西日本の広域で観ると、二大勢力が浮かび上がる。

周防国(すおう/山口県)を拠点として、長門国(山口県)と石見国(いわみ/島根県)と安芸国(あき/広島県)、そして九州の豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)と筑前国(福岡県)までを統治していたの守護大名の大内氏。

山陰地方の出雲国(島根県)を拠点として、隠岐国(おき/島根県)と伯耆国(ほうき/鳥取県)と因幡国(いなば/鳥取県)、そして山陽地方の備後国(広島県)と備中国(岡山県)と美作国(みまさか/岡山県)と備前国(岡山県)の守護大名の尼子氏(あまごうじ)。

備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の小規模な国人(こくじん)や豪族は、この二大勢力の狭間で家系の生き残りを掛けていた。

時には大内氏と尼子氏(あまごうじ)の抗争に中立を示して静観し、時には一方に従属(じゅうぞく)して参戦し、時には小規模な国人(こくじん)や豪族による連合軍を組成して二大勢力に反発した。

時勢と戦況を見極めながら判断と決断に迫られる備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の小規模な国人(こくじん)や豪族は、こうして軍事力を強化しながら勢力を保っていた。

そんな中の一族が安芸国(あき/広島県)の国人(こくじん)だった毛利氏である。

毛利氏の出自(しゅつじ)は古く、奈良時代から続く土師氏(はじうじ)から清原氏となった系統の中原氏からの庶流(しょりゅう)となる大江氏で、朝廷に仕える貴族だったが、鎌倉幕府では評定衆(ひょうじょうしゅう)による13人の合議制での官僚だった大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)が毛利氏の先代に当たる。

安芸国(あき/広島県)の国人(こくじん)で、大内義興(おおうちよしおき/室町)の家臣だった毛利氏の当主の毛利興元(もうりおきもと/大内)が1516年に死去した。

こうして毛利氏の家督継承者は、毛利興元(もうりおきもと/大内)の息子で2歳の毛利幸松丸(もうりこうまつまる/大内)が就任する事になる。

この時に毛利興元(もうりおきもと/大内)の弟の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が、毛利氏の当主の毛利幸松丸(もうりこうまつまる/大内)の後見人に就いて執務を補佐する。

この毛利氏の家督継承を弱体化したと判断したのが、清和源氏の安芸武田氏(あきたけだうじ)の系統で安芸国(あき/広島県)の守護代だった武田元繁(たけだもとしげ/大内→武田)である。

1517年に起こった「有田中井手の戦」(ありたなかいでのたたかい)にて、武田元繁(たけだもとしげ/大内→武田)が率いる4千人の武田軍は、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と連合する安芸国(あき/広島県)の国人(こくじん)で大内義興(おおうちよしおき/室町)から後々に尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)の家臣となる吉川元経(きっかわもとつね/大内→尼子)の領土に侵攻した。

こうして毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と吉川元経(きっかわもとつね/大内→尼子)が率いる1千人の毛利吉川軍は、4倍の勢力の武田軍を討ち破り勝利する。

この時に総大将だった武田元繁(たけだもとしげ/大内→武田)は討死して、武田軍は総崩れとなり敗走した。

SOULSISTER /♪ THE WAY TO YOUR HEART

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:26:30

◆◇◆其の四:戦国仁義なき戦い、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の頂上決戦◆◇◆

この時期の1523年に、毛利氏の当主だった毛利幸松丸(もうりこうまつまる/大内)が9歳で死去した。

毛利幸松丸(もうりこうまつまる/大内)の母親は石見国(いわみ/島根県)の国人(こくじん)の高橋氏の家系で、これまでは毛利氏と高橋氏は縁戚と言う事で友好関係にあった。

しかし、毛利幸松丸(もうりこうまつまる/大内)が早世して、毛利氏の家督継承者が叔父の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が就任すると事態は一変する。

石見国(いわみ/島根県)の高橋氏の当主だった高橋興光(たかはしおきみつ/大内→尼子)に対して、1529年に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は侵攻して滅亡させた。

この戦勝により毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、石見国(いわみ/島根県)まで領土を拡大させた。

この事態を苦渋で観ていたのが、山陰地方の出雲国(島根県)を拠点としていた尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)である。

1540年に起こった「吉田郡山城の戦」(よしだこおりやまじょうのたたかい)にて、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる3万人の尼子軍は、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が拠点とする安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)に侵攻した。

こうして毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、周防国(すおう/山口県)の守護代で当主の大内義隆(おおうちよしたか/室町)に援軍を要請して1万2千人の毛利大内軍は対峙した。

戦況は毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)による吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)の篭城や調略(ちょうりゃく)により、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は敗北する。

1540年に若狭武田氏(わかさたけだうじ)から安芸武田氏(あきたけだうじ)の当主に就任した武田信実(たけだのぶざね/武田)に対して、1541年に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は侵攻して武田信実(たけだのぶざね/武田)を敗走させて安芸武田氏(あきたけだうじ)は滅亡した。

その後の武田信実(たけだのぶざね/武田)は、室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)の侍従(じじゅう)に就く。

この毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の矢継ぎ早による勢力拡大により、安芸国(あき/広島県)では大名と同等の権力を有する事になる。

更に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県) の各地の有力な国人(こくじん)に息子を養子に入れる政略を実施する。

1544年に、安芸国(あき/広島県)の国人(こくじん)で大内政弘(おおうちまさひろ/室町→西軍)の家臣の小早川弘平(こばやかわひろひら/大内)の息子の小早川興景(こばやかわおきかげ/大内)に、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)を養子に入れる。

1547年に、安芸国(あき/広島県)の国人(こくじん)で大内義興(おおうちよしおき/室町)と尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)の家臣の吉川元経(きっかわもとつね/大内→尼子)の息子の吉川興経(きっかわおきつね/大内→尼子→大内)に、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)を養子に入れる。

こうして安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)を毛利氏の家督継承者とし、次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)と三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が毛利両川(もうりりょうせん)となり、“3本の弓の矢”の体制が整う。

Van Zant/♪ AT LEAST I'M FREE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:27:18

◆◇◆其の五:戦国仁義なき戦い、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の頂上決戦◆◇◆

1551年に起こった「大寧寺の変」(たいねいじのへん)にて、周防国(すおう/山口県)の守護代だった大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、家臣だった陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)の謀反(むほん)により自害に追い込まれた。

大内義隆(おおうちよしたか/室町)の父親は、中国と九州の守護大名に就任して、九州の大友氏や少弐氏(しょうにうじ)、山陰の尼子氏(あまごうじ)などを制圧して室町幕府での権威も誇示していた。

そして祖父の大内政弘(おおうちまさひろ/室町→西軍)は、1467年〜1477年に京都で起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)にて西軍で活躍しており、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)と妻の日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)に一目置かれていた。

そんな大内義隆(おおうちよしたか/室町)の家臣だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、主君の仇(かたき)でもある陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)に対して宣戦布告を宣言する。

こうして1555年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「厳島の戦」(いつくしまのたたかい)にて、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)を主軸に、長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)が中心の矢、次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)が左翼の矢、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が右翼の矢となり、“3本の弓の矢”は6千人の武士と共に安芸国(あき/広島県)の海に浮かぶ厳島(いつくしま/廿日市)に陣営を設けて布陣し、陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)が率いる1万人の陶軍と対峙した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は事前に調略(ちょうりゃく)にて、村上水軍や陶軍の武将と密通(みっつう)して味方に引き入れた。

そして本戦では小軍勢の毛利軍は奇襲攻撃にて大軍勢の陶軍を壊滅に追い込み、陣営から逃亡した陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)は陶水軍で離島を試みるも、既に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に寝返った陶水軍の姿は無く、厳島(いつくしま/廿日市)の湊には舟は1艘も無かった。

こうして陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)は自害して敗北した。

主君の大内義隆(おおうちよしたか/室町)の弔(とむら)い合戦に勝利した毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)ではあった。

ただ1557年に、大友義鑑(おおともよしあき/室町)の息子で、大内義隆(おおうちよしたか/室町)の養子に入って大内氏の当主に就任していた大内義長(おおうちよしなが/室町)を、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は政治的な奸計(かんけい)で自害に追い込んだ。

これにて西日本で最大勢力を誇った大内氏は滅亡した。

そして1562年に、山陰地方に最後まで勢力を誇示していた尼子晴久(あまごはるひさ/室町)の息子の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)に侵攻して、毛利軍と尼子軍の長期戦の末に、1566年に尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)は毛利軍に捕縛(ほばく)されて安芸国(あき/広島県)に拘引(こういん)され幽閉された。

こうして尼子軍は敗北し、当主としての尼子氏(あまこうじ)は滅亡した。

THE BLACK CROWES /♪ P25 LONDON

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:28:06

◆◇◆其の六:戦国仁義なき戦い、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の頂上決戦◆◇◆

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は1代で備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)と出雲国(島根県)と石見国(いわみ/島根県)に、周防国(すおう/山口県)と長門国(山口県)の一部を領域を統治した。

これにより毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が戦国時代の代表する武将として認知される事となる。

しかし、順風満帆に観える毛利氏ではあるが、その陰には毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の長男で家督継承者の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)が1563年に病気で死去している。

その家督後継者には毛利隆元(もうりたかもと/毛利)の息子の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が就任し、祖父の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の英才教育と、左翼に吉川元春(きっかわもとはる/毛利)が構えて、右翼に小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が構えた毛利両川(もうりりょうせん)で支えた。

そして西日本にて絶大な影響力を誇った毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)も1571年に死去した。

こうして毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が主軸となる体制が始まった。

しかしこの時期は、尾張国(愛知県)の武将だった織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が、畿内(きない/関西)を中心に“天下統一”の覇道(はどう)を突き進んでいた。

その影響力は西日本の毛利氏も受ける事になる。

京都の室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は山城国(京都府)の宇治にて、織田信長(おだのぶなが/織田)と敵対して1573年に起こった「槇島城の戦」(まきしまじょうのたたかい)で敗北して京都から追放された。

この時に足利義昭(あしかがよしあき/室町)は侍従(じじゅう)に就いていた武田信実(たけだのぶざね/武田)の進言もあり、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点とする毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を頼ってきた。

しかし、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)としては織田信長(おだのぶなが/織田)の心情を気にして、足利義昭(あしかがよしあき/室町)には安芸国(あき/広島県)ではなく1歩手前の鞆の浦(とものうら/福山)に滞在してもらう事にした。

こうして征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は1人で、1576年に鞆幕府(ともばくふ)を開設した。

この毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)による足利義昭(あしかがよしあき/室町)の擁護(ようご)は、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に対する挑発と捉えられた。

こうして1577年に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊による“中国攻め”が開始される。

HOOTIE & THE BLOWFISH /♪ DROWNING

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:28:58

◆◇◆其の七:戦国仁義なき戦い、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の頂上決戦◆◇◆

1578年に播磨国(はりま/兵庫県)の三木城(みきじょう)を拠点とする別所長治(べっしょながはる/織田→毛利)は、叔父の別所吉親(べっしょよしちか/織田→毛利)より織田信長(おだのぶなが/織田)からの離反の薦めで、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)に帰属(きぞく)する事を決定する。

こうして1578年に起こった「三木合戦」(みきかっせん)にて、別所長治(べっしょながはる/織田→毛利)と別所吉親(べっしょよしちか/織田→毛利)は三木城(みきじょう)に篭城して、侵攻する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊と対峙した。

ところが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、三木城(みきじょう)を攻撃する事なく兵糧攻めに徹した。

こうして三木城(みきじょう)では兵糧が枯渇して、篭城する武士は餓死する「三木の干殺し」(みきのひごろし)と呼ばれる凄惨(せいさん)な城内と化した。

これにより別所長治(べっしょながはる/織田→毛利)は降伏の証として自害し、最後まで抵抗を主張した別所吉親(べっしょよしちか/織田→毛利)は家臣に斬殺された。

この三木城(みきじょう)の戦地で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を支える天才軍師の竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)が病死している。

続いて1580年に起こった「鳥取城の戦」(とっとりじょうのたたかい)にて、因幡国(いなば/鳥取県)の鳥取城(とっとりじょう)の城主だった山名豊国(やまなとよくに/毛利→豊臣→徳川)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に和議を申し出て豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に対して降伏した。

しかし、山名豊国(やまなとよくに/毛利→豊臣→徳川)が鳥取城(とっとりじょう)を開城して但馬国(たじま/兵庫県)に帰還すると、毛利軍は石見国(いわみ/島根県)の吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)を鳥取城(とっとりじょう)に入城させて城主に据え置いた。

吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)は鳥取城(とっとりじょう)で篭城して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に対峙した。

ところが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、鳥取城(とっとりじょう)を攻撃する事なく兵糧攻めに徹した。

こうして鳥取城(とっとりじょう)では兵糧が枯渇して、篭城する武士は餓死する「鳥取の渇え殺し」(みきのかつえごろし)と呼ばれる凄惨(せいさん)な城内と化した。

これにより吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)は降伏の証として自害した。

この次の1582年に起こった「備中高松城の戦」(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)にて、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の城主だった清水宗治(しみずむねはる/毛利)は篭城して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に対峙した。

ところが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を攻撃する事なく兵糧攻めに徹した。

しかも備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)が平地に建つ平城(ひらじろ)だった事もあり、天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の提案により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は近隣に流れる河川と雨季を活用して城郭の周囲に堤防を築造した。

こうして河川から水を引き入れて備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を水没させた「備中高松城の水攻め」(びっちゅうたかまつじょうのみずぜめ)を実施した。

兵糧攻めと水没の不安定な心理を利用する戦略である。

ところがである。

京都では1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

この伝達は直ぐに豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の耳にも入った。

こうして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、毛利氏の専属の僧侶で交渉人の安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)と講和交渉を開始して、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と和議を締結した。

和議の1項目の条件として、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の城主の清水宗治(しみずむねはる/毛利)の戦争責任による切腹が盛り込まれていた。

これにより清水宗治(しみずむねはる/毛利)は、水没した備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を背景に小舟に乗り降伏の証として水上で自害した。

それを確認した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

そして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

BOB SEGER & THE SILVER BULLET BAND /♪ THE FIRE INSIDE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:29:49

◆◇◆其の八:戦国仁義なき戦い、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)の頂上決戦◆◇◆

戦国時代(安土桃山時代)の末期になると豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一を果たす。

摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)と山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)を拠点にした豊臣政権は、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点とする毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を西日本の統括役に抜擢する。

1589年に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は、安芸国(あき/広島県)の山奥にある吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)から、瀬戸内海に面した沿岸部に広島城(ひろしまじょう)を築城して移転した。

広島城(ひろしまじょう)の周囲に城下町を整備して、瀬戸内海の沿岸部を利用した交易にも尽力した。

この新天地を毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は“広島”(ひろしま)と名付け、命名の由来は2説ある。

①:広島城(ひろしまじょう)が建つ地形が太田川(おおたがわ)の三角州で、多くの中州の島が連なり、その最も“広大な中州の島”に広島城(ひろしまじょう)を築城した。

②:鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう)による13人の合議制での官僚だった大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)が毛利氏の先代に当たり、毛利氏の系統には“広”(ひろ)や“元”(もと)を入れる慣例があり、その地名にも“広”(ひろ)を入れて“広島”(ひろしま)と名付けた。

豊臣政権による戦乱のない世の中ではあったが、その天下泰平は長くは続かなかった。

1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去した事で、日本列島に暗雲が垂れ込めた。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣だった石田三成(いしだみつなり/豊臣)が、武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)にて権威を誇示し始めた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対して反発した。

こうして1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍が、美濃国(岐阜県)の戦地で対峙した。

この時に“豊臣五大老”だった毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の嘆願(たんがん)により西軍の総大将に就任して、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に入城した。

しかし、これが毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と毛利氏に取って裏目に出る。

「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)は半日程度で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍が勝利した。

戦争責任の処罰として西軍の総大将に就任した毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は、備後国(広島県)と安芸国(あき/広島県)と出雲国(島根県)と石見国(いわみ/島根県)が領地削減の減封(げんぽう)となり、周防国(すおう/山口県)と長門国(山口県)に領地移転の転封(てんぽう)となった。

安芸国(あき/広島県)の広島城(ひろしまじょう)には、1600年の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で大活躍した“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と呼ばれる武断派(ぶだんは)の福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)が入城し広島藩の藩主に就任した。

その後の1603年に武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)にて、征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が江戸幕府を開設した。

1614年に起こった「大坂・冬の陣」と、1615年に起こった「大坂・夏の陣」にて、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に侵攻した。

この戦況では毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は徳川軍として名を連ねたが、病気を理由に参戦はしなかった。

こうして徳川軍の猛攻撃に遭い大坂城(おおさかじょう)は大炎上して崩落し、豊臣軍の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)は自害し、こうして豊臣氏は滅亡した。

1619年に広島藩の藩主に就いていた福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)は、台風被害に遭った広島城(ひろしまじょう)に改修工事を実施したら、江戸幕府の征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)から、“武家諸法度”(ぶけしょはっと)の違反項目でもある江戸幕府への無届の城郭増築改修工事として、安芸国(あき/広島県)の広島藩から信濃国(長野県)の高井野藩(たかいのはん/須坂)に領地移転の転封(てんぽう)となる。

これは豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の最後の重鎮家臣だった福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)を危険視した征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が、城郭増築改修工事の違反を口実に陥(おとしい)れる粛清(しゅくせい)と言われている。

こうして安芸国(あき/広島県)の広島藩の藩主には紀伊国(和歌山県)の和歌山藩の藩主だった浅野長晟(あさのながあきら/豊臣→徳川)が、領地移転の転封(てんぽう)となり広島城(ひろしまじょう)に入城した。

浅野長晟(あさのながあきら/豊臣→徳川)の父親は、豊臣政権では“豊臣五奉行”に就任していた浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)で、常陸国(ひたち/茨城県)の真壁藩(桜川)の藩主に就任している。

時が過ぎ去り明治期の廃藩置県まで、安芸国(あき/広島県)の広島藩の藩主と広島城(ひろしまじょう)の城主は浅野氏が代々に渡り務めた。

一方で周防国(すおう/山口県)と長門国(山口県)の長州藩の藩主も、毛利氏が代々に渡り務めた。

そして明治維新での主軸として長州藩は躍動し、1867年の「大政奉還」(たいせいほうかん)により江戸幕府は消滅した。

Frank/♪ I'M NOT SHY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:30:40

◆◇◆其の一:周防国(すおう/山口県)の西の京(にしのきょう)に佇む大内氏(おおうちうじ)所縁(ゆかり)の瑠璃光寺(るりこうじ/曹洞宗)の五重塔◆◇◆

室町幕府では、長門国(山口県)と周防国(すおう/山口県)と石見国(いわみ/島根県)と安芸国(あき/広島県)などの西日本を統治する守護大名で権門勢家(けんもんせいか)の大内氏。

そんな大内氏の出自(しゅつじ)は古く、飛鳥時代に大和国(奈良県)の飛鳥京(あすかきょう)にて、ようやく倭国(日本)が国家としての骨格が築かれ始めた頃に、第31代天皇の用明天皇(ようめいてんのう)の息子の聖徳太子(しょうとくたいし)こと厩戸皇子(うまやどのみこ)が、朝鮮半島の百済(くだら)から渡来した王族と親交を深め、多々良氏(たたらうじ)の氏(うじ)と姓(かばね)を与えた事が始まりである。

百済(くだら)の王族だった多々良氏(たたらうじ)は、朝鮮半島に行き来し易い長門国(山口県)と周防国(すおう/山口県)を拠点として、その後に嫡流(ちゃくりゅう)が大内氏と名乗り、庶流(しょりゅう)は山口氏などと名乗り尾張国(愛知県)や常陸国(ひたち/茨城県)などに移住した。

朝鮮半島では「朝鮮三国時代」と呼ばれる高句麗(こうくり)と百済(くだら)と新羅(しらぎ)の三国(さんごく)が熾烈な領土紛争を繰り広げていた。

そんな663年に起こった“第3次朝鮮出兵”と呼ばれる「白村江の戦」(はくすきのえのたたかい)にて、新羅(しらぎ)が中国大陸の唐(とう)と連合して、百済(くだら)に侵攻を開始した。

百済(くだら)は友好関係にあった倭国(日本)に援軍を要請し、後々に第38代天皇の天智天皇(てんぢてんのう)に即位する中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、同友の藤原鎌足(ふじわらかまたり)こと中臣鎌足(なかとみかまたり/公家)と共に熟慮を重ねて朝鮮半島の百済(くだら)に援軍を派遣した。

しかし、新羅(しらぎ)の後ろ盾となる中国大陸の唐(とう)の軍事力に敵(かな)う事は無く、百済(くだら)と倭国(日本)の同盟軍は惨敗して壊滅した。

これにより朝鮮半島から百済(くだら)は完全に消滅して、この時にも多くの百済(くだら)の王族などが倭国(日本)に移住している。

そこから幾年(いくとせ)が過ぎ去り、1338年より室町時代に入っていた。

室町幕府では征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と、征夷大将軍2代目の足利義詮(あしかがよしあきら/鎌倉→室町)と、征夷大将軍3代目の足利義満(あしかがよしみつ/室町)の将軍3代に仕えた大内弘世(おおうちひろよ/南朝→室町)は、長門国(山口県)と周防国(すおう/山口県)と石見国(いわみ/島根県)の守護大名に就任した。

因みに征夷大将軍3代目の足利義満(あしかがよしみつ/室町)は、京都に相国寺(しょうこくじ/臨済宗)や金閣寺(きんかくじ)こと鹿苑寺(ろくおんじ/臨済宗)を建立(こんりゅう)して“北山文化”を開花させている。

臨済宗(りんざいしゅう)の僧侶だった一休さんこと一休宗純(いっきゅうそうじゅん/僧侶)と、トンチをして遊んでいたばかりでは無い!

大内弘世(おおうちひろよ/南朝→室町)の息子の大内義弘(おおうちよしひろ/室町)は、長門国(山口県)と周防国(すおう/山口県)と石見国(いわみ/島根県)と安芸国(あき/広島県)の守護大名に就任した。

ただ、征夷大将軍3代目の足利義満(あしかがよしみつ/室町)に敵対して、1399年に起こった「応永の乱」(おうえいのらん)で大内義弘(おおうちよしひろ/室町)は和泉国(大阪府)の堺で戦死した。

大内義弘(おおうちよしひろ/室町)の弟の大内盛見(おおうちもりあきら/室町)は、兄の供養塔として瑠璃光寺(るりこうじ/曹洞宗)を建立(こんりゅう)して、五重塔などが1442年に建造された。

SCOOCH /♪ MORE THAN I NEEDED TO KNOW

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:31:40

◆◇◆其の二:周防国(すおう/山口県)の西の京(にしのきょう)に佇む大内氏(おおうちうじ)所縁(ゆかり)の瑠璃光寺(るりこうじ/曹洞宗)の五重塔◆◇◆

その後の大内氏の家督継承者は、大内義弘(おおうちよしひろ/室町)の息子の大内持世(おおうちもちよ/室町)が就任し、恐怖政治で有名な室町幕府の征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)に仕えた。

ところが1441年に備前国(岡山県)と美作国(みまさか/岡山県)と播磨国(はりま/兵庫県)の守護代だった赤松入道(あかまつにゅうどう)こと赤松満祐(あかまつみつすけ/室町)と息子の赤松教康(あかまつのりやす/室町)の招聘(しょうへい)により、征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)と同伴した大内持世(おおうちもちよ/室町)は、赤松入道(あかまつにゅうどう)こと赤松満祐(あかまつみつすけ/室町)の屋敷を訪問した。

この時の誘い文句が、『我が屋敷の日本庭園の池に、鴨の可愛い子供がたくさん誕生したから、是非に観に来て欲しい。』だった。

しかし、征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)を待っていたのは愛らしい鴨の子供ではなく、斬れ味鋭(するど)い太刀(たち)だった。

赤松入道(あかまつにゅうどう)こと赤松満祐(あかまつみつすけ/室町)と息子の赤松教康(あかまつのりやす/室町)は、屋敷の部屋に征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)や大内持世(おおうちもちよ/室町)を閉じ込めて斬殺した。

こうして当主の大内持世(おおうちもちよ/室町)が1441年に急死した事により、大内氏の家督継承者が不在となる。

しかも大内持世(おおうちもちよ/室町)には嫡男(ちゃくなん)が居なかった事もあり、大内盛見(おおうちもりあきら/室町)の息子の大内教弘(おおうちのりひろ)が、大内持世(おおうちもちよ/室町)の養子に入り大内氏の家督継承者に就任した。

大内教弘(おおうちのりひろ)は、山名宗全(やまなそうぜん/室町→西軍)の養女を妻に娶(めと)り、室町幕府の征夷大将軍7代目の足利義勝(あしかがよしかつ/室町)と征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)に仕えた。

因みに征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)は、京都に銀閣寺(ぎんかくじ)こと慈照寺(じしょうじ/臨済宗)を建立(こんりゅう)して“東山文化”を開花させている。

妻の日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)の尻に敷かれていただけでは無い!

この時期に京都では、1467年〜1477年に「応仁の乱」(おうにんのらん)が勃発している。

大内教弘(おおうちのりひろ)の息子の大内政弘(おおうちまさひろ/室町→西軍)は、幼少期に大内氏の家督継承者となる亀童丸(きどうまる)と名乗り、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)の“東山文化”の影響を受けて、周防国(すおう/山口県)と長門国(山口県)に“大内文化”と言われる大陸から伝達された文明開花を根付かせ、その美しい庭園や街並みから“西ノ京”と呼ばれた。

そして大内政弘(おおうちまさひろ/室町→西軍)の母親が山名宗全(やまなそうぜん/室町→西軍)の養女だった事もあり、「応仁の乱」(おうにんのらん)では周防国(すおう/山口県)から大軍勢の西軍大内隊を率いて参戦した。

大内政弘(おおうちまさひろ/室町→西軍)は、室町幕府の征夷大将軍9代目の足利義尚(あしかがよしひさ/室町→東軍)と征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)に仕えた。

大内政弘(おおうちまさひろ/室町→西軍)の息子の大内義興(おおうちよしおき/室町)は、幼少期に大内氏の家督継承者となる亀童丸(きどうまる)と名乗り、九州の大友氏や少弐氏(しょうにうじ)、山陰の尼子氏(あまごうじ)などを制圧して中国地方と北九州の守護大名に就任し、室町幕府の征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)に仕えた。

大内義興(おおうちよしおき/室町)の息子の大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、幼少期に大内氏の家督継承者となる亀童丸(きどうまる)と名乗り、周防国(すおう/山口県)を拠点に、長門国(山口県)と石見国(いわみ/島根県)、それに北九州の豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)と筑前国(福岡県)と筑後国(福岡県)を統治して、大内氏の栄耀栄華(えいようえいが)を極めた。

ただ、1551年に起こった「大寧寺の変」(たいねいじのへん)にて、家臣の陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)が反乱を起こし攻撃され追い詰められた自害し、大内氏の衰退の引き金となった。

しかも大内義隆(おおうちよしたか/室町)には嫡男(ちゃくなん)が居なかった為に、豊後国(ぶんご/大分県)を拠点とする守護大名の大友義鑑(おおともよしあき/室町)の息子の大内義長(おおうちよしなが/室町)を養子に迎え入れた。

大内義長(おおうちよしなが/室町)の兄弟には、“豊後の王” と呼ばれる大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が居る。

しかし、大内義長(おおうちよしなが/室町)が大内氏の最後の家督継承者となる。

こうして1557年に権門勢家(けんもんせいか)の大内氏は消滅した。

CLOUDBERRY JAM /♪ IVY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:32:34

◆◇◆其の三:周防国(すおう/山口県)の西の京(にしのきょう)に佇む大内氏(おおうちうじ)所縁(ゆかり)の瑠璃光寺(るりこうじ/曹洞宗)の五重塔◆◇◆

それでは実質的に嫡流(ちゃくりゅう)の大内氏の最後の当主となる大内義隆(おおうちよしたか/室町)を振り返ってみる。

1507年に周防国(すおう/山口県)にて、大内義興(おおうちよしおき/室町)の息子の大内義隆(おおうちよしたか/室町)は誕生した。

幼少期の大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、大内氏の家督継承者が名乗る亀童丸(きどうまる)と名付けられた。

西日本最大の名門家である故(ゆえ)に、代々に渡り家督継承者を巡り内乱が起こるのも大内氏の側面だった。

その為に父親の大内義興(おおうちよしおき/室町)は、息子の大内義隆(おおうちよしたか/室町)へ円滑に家督継承できる様に用意周到に準備していた。

10代に成長した大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、烏帽子親(えぼしおや)から烏帽子(えぼし)を被せられ、姓(かばね)が与えられて、成人の儀式の元服(げんぷく)を果たす。

そして室町幕府の征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)から、足利将軍家の象徴でもある“義”を、元服(げんぷく)を機に大内義隆(おおうちよしたか/室町)は頂いた。

この時期の大内氏は既に勢力は絶大だったが、それでも1467年〜1477年に京都で起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)で足利将軍家の権威は地に落ちて、日本各地の守護代や武将が挙兵する下克上(げこくじょう)が乱発する戦国時代が幕開けしていた。

大内氏の地盤でもある西日本も御多分に洩れず、小規模な国人(こくじん)や豪族が合戦を繰り広げていた。

そんな中で父親の大内義興(おおうちよしおき/室町)と息子の大内義隆(おおうちよしたか/室町)の最大の敵は、山陰地方の因幡国(いなば/鳥取県)と伯耆国(ほうき/鳥取県)と隠岐国(おき/島根県)と出雲国(島根県)の守護代だった尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)であった。

山陽地方の大内氏と山陰地方の尼子氏(あまごうじ)は、大きな領土侵攻や権力闘争に発展する事なく対峙が続いていた。

ただ1528年に父親の大内義興(おおうちよしおき/室町)が死去する。

こうして息子の大内義隆(おおうちよしたか/室町)が、名門家の大内氏の家督継承者に就任した。

この時に大内家の内部では、伝統の権力紛争や内部闘争が心配されたが、目立った反乱もなく杞憂(きゆう)に終わる。

青年期の大内義隆(おおうちよしたか/室町)を支えたのが、文武両道(ぶんぶりょうどう)で名を馳せる重鎮家臣の陶興房(すえおきふさ/大内)だった。

陶興房(すえおきふさ/大内)は嫡男(ちゃくなん)が早世した為に、養子として陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)を迎え入れていた。

この陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)が名門家の大内氏を滅亡に導くとは、この時に誰も予想だにしなかった。

RASCAL FLATTS /♪ MY WISH

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:33:27

◆◇◆其の四:周防国(すおう/山口県)の西の京(にしのきょう)に佇む大内氏(おおうちうじ)所縁(ゆかり)の瑠璃光寺(るりこうじ/曹洞宗)の五重塔◆◇◆

大内氏の当主に就任した大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、更なる勢力拡大に邁進(まいしん)した。

周防国(すおう/山口県)を拠点に、長門国(山口県)と石見国(いわみ/島根県)の統治を固めつつ、1530年から大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる大内軍は関門海峡を渡り九州に進軍した。

九州には各地に勇猛果敢(ゆうもうかかん)な有力大名や武将が粒揃いだった。

豊後国(ぶんご/大分県)を拠点に豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)や筑後国(福岡県)などを統治していた守護大名の大友義鑑(おおともよしあき/室町)や息子の大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/室町→豊臣)は、北九州で最大勢力を誇っていた。

また、鎌倉時代での1274年に起こった「文永の役」(ぶんえいのえき)または第1次の元寇(げんこう/蒙古襲来)や、1281年に起こった「弘安の役」(こうあんのえき)または第2次の元寇(げんこう/蒙古襲来)で活躍した筑前国(福岡県)を拠点にする少弐氏(しょうにうじ)の系統の少弐政資(しょうにまさすけ/室町)や息子の少弐資元(しょうにすけもと/室町)も脅威であった。

そんな西日本最大の名門家の大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる大内軍も苦戦を強いられる。

この九州侵攻には大内義隆(おおうちよしたか/室町)の思惑も絡んでおり、瀬戸内海での貿易で巨万の富を築いた大内氏は、更に北九州の港での交易の権利を手中に収めようとしていた。

大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、少弐資元(しょうにすけもと/室町)の家臣だった肥前国(佐賀県)の龍造寺胤久(りゅうぞうじたねひさ/少弐→大内)や息子の龍造寺胤栄(りゅうぞうじたねみつ/少弐→大内)へ密通(みっつう)により寝返らせる事に成功する。

1536年に肥前国(佐賀県)の龍造寺胤久(りゅうぞうじたねひさ/少弐→大内)と息子の龍造寺胤栄(りゅうぞうじたねみつ/少弐→大内)の援軍を得て大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる大内軍は、筑前国(福岡県)を拠点とする少弐資元(しょうにすけもと/室町)が率いる少弐軍に総攻撃を仕掛けて壊滅させた。

これにより敗北した少弐資元(しょうにすけもと/室町)は自害した。

こうして豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)と筑前国(福岡県)と筑後国(福岡県)など北九州まで領域を拡大させた。

この時期の1539年に、大内氏の重鎮家臣で最も信用信頼の厚かった陶興房(すえおきふさ/大内)が死去した。

1540年に若狭武田氏(わかさたけだうじ)から安芸武田氏(あきたけだうじ)の当主に就任した安芸国(あき/広島県)の武田信実(たけだのぶざね/武田)に対して、1541年に大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)の城主だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に安芸武田氏(あきたけだうじ)の討伐の伝令(でんれい)を発布した。

こうして1541年に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の侵攻を受けて武田信実(たけだのぶざね/武田)は敗走し、安芸武田氏(あきたけだうじ)は滅亡した。

その後の武田信実(たけだのぶざね/武田)は、征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)の侍従(じじゅう)に就いた。

西日本から北九州までの地盤を固めた大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、京都の室町幕府や朝廷にも政治的な調略(ちょうりゃく)を施している。

室町幕府の役人や朝廷の公家などに、多額な朝貢(ちょうこう)や寄進(きしん)する事で、大内氏の権威と地位の向上に努めた。

この金脈活動が功を奏して大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、朝廷から官位相当制の公卿(くぎょう)に値する従三位を与えられた。

CREED /♪ Don't Stop Dancing

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:34:25

◆◇◆其の五:周防国(すおう/山口県)の西の京(にしのきょう)に佇む大内氏(おおうちうじ)所縁(ゆかり)の瑠璃光寺(るりこうじ/曹洞宗)の五重塔◆◇◆

周防国(すおう/山口県)の守護代の大内義隆(おおうちよしたか/室町)と長年に渡り対立を続けていた出雲国(島根県)の守護代で月山富田城(がっさんとだじょう/安来)の城主だった尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)が1541年に死去した。

尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)の嫡男(ちゃくなん)で家督継承者だった尼子政久(あまごまさひさ/大内→ 尼子)は、1513年に戦地にて若くして討死している。

その為に尼子氏(あまごうじ)の家督継承者は尼子政久(あまごまさひさ/大内→ 尼子)の息子の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が就任した。

これを好機と捉えた大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、1542年に山陰地方の出雲国(島根県)に侵攻を開始した。

大内義隆(おおうちよしたか/室町)は家督継承者の候補とする大内晴持(おおうちはるもち/室町)を引き連れて、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が篭城する出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を4万5千人の大内軍で包囲した。

大内晴持(おおうちはるもち/室町)とは、父親が土佐国(高知県)の公家の一条房冬(いちじょうふさふゆ/朝廷)で、母親が大内義興(おおうちよしおき/室町)の娘であり、嫡男(ちゃくなん)の居なかった大内義隆(おおうちよしたか/室町)へ養子に入り、大内氏の家督継承者の候補に選抜されていた。

この合戦に安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)の城主だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)も大内軍として参戦している。

尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる1万5千人の尼子軍は、出雲国(島根県)の地の利よ小軍勢を活用して大軍勢の大内軍に対して揺さ振りを掛ける。

山岳地帯での奇襲や武器や兵糧の兵站(へいたん)の略奪(りゃくだつ)を繰り返した。

更に大内軍の有力武将と密通(みっつう)して尼子軍に寝返らせている。

1543年に、大内氏の家督継承者の候補だった大内晴持(おおうちはるもち/室町)は撤退する際に、日本海の海路から舟に乗船して逃亡を図るのも、その舟が転覆して溺死した。

こうして戦意喪失した大内軍は敗北した。

これを1542年〜1543年に起こった「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)と呼ぶ。

WARREN ZEVON /♪ KNOCKIN' ON HEAVEN'S DOOR

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:35:12

◆◇◆其の六:周防国(すおう/山口県)の西の京(にしのきょう)に佇む大内氏(おおうちうじ)所縁(ゆかり)の瑠璃光寺(るりこうじ/曹洞宗)の五重塔◆◇◆

戦勝が確実と言われていた「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)で惨敗した大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、心身喪失して大内氏の政権運営を蔑(ないがし)ろにする様になる。

毎日、大内義隆(おおうちよしたか/室町)は屋敷の部屋に閉じ籠り、和歌や茶道や文学に没頭する文治派(ぶんちは)に転身していた。

西日本最大の領国を統治する大内氏の政権運営に支障が出る事で、各地の守護代や重鎮家臣で不協和音が見え隠れする様になる。

更に大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、領国の領民に対して重税を課すなど、悪政(あくせい)を実施する暗君(あんくん)としての顔も出てきた。

それでも西日本最大の大大名としての責務も果たす為に、大内晴持(おおうちはるもち/室町)の亡き後の家督継承者の候補として、豊後国(ぶんご/大分県)の守護大名の大友義鑑(おおともよしあき/室町)と同盟関係を締結して、その息子の大内義長(おおうちよしなが/室町)を大内義隆(おおうちよしたか/室町)は養子に入れた。

大内義長(おおうちよしなが/室町)の兄弟が、“豊後の王” と呼ばれる大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/室町→豊臣)である。

1548年に大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、肥前国(佐賀県)を拠点とする戦国武将の“肥前の熊”と呼ばれる龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)と同盟関係を締結した。

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)の“隆”(たか)は、大内義隆(おおうちよしたか/室町)の“隆”(たか)を賜っている。

同年の1548年8月に周防国(すおう/山口県)にて、キリスト教の宣教師でイエズス会のフランシスコザビエル(カトリック司祭/スペイン)は大内義隆(おおうちよしたか/室町)と謁見(えっけん)した。

ところがフランシスコザビエル(カトリック司祭/スペイン)の衣類がボロボロだった事もあり、礼節に欠(か)くとして大内義隆(おおうちよしたか/室町)は追い返してしまう。

因みにその後の1551年に再びフランシスコザビエル(カトリック司祭/スペイン)と謁見(えっけん)した大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、領国内でのキリスト教の布教を許可して、ヨーロッパの文化や技術を採り入れていった。

この時の12月25日に、フランシスコザビエル(カトリック司祭/スペイン)などイエズス会によるクリスマスパーティー(イエスキリスト生誕祭)が、日本で初めて周防国(すおう/山口県)で開催された。

MICHAEL FRANTI & SPEARHEAD /♪ ONE STEP CLOSER TO YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:36:03

◆◇◆其の七:周防国(すおう/山口県)の西の京(にしのきょう)に佇む大内氏(おおうちうじ)所縁(ゆかり)の瑠璃光寺(るりこうじ/曹洞宗)の五重塔◆◇◆

この時期の京都は室町幕府も形骸化(けいがいか)しており、戦乱が立て続けて起こり治安も悪化して、第105代天皇の後奈良天皇(ごならてんのう/朝廷)などの皇族や朝廷の公家は不安な日々を過ごしていた。

これを受けて大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、周防国(すおう/山口県)に朝廷を迎え入れる遷都(せんと)を計画する。

この頃の大内氏の政権運営では、大内義隆(おおうちよしたか/室町)が傾斜し相良武任(さがらたけとう/大内)などの文治派(ぶんちは)と、以前からの陶興房(すえおきふさ/大内)に養子に入った陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)などの武断派(ぶだんは)に派閥が分断された。

こうして大内氏の政権運営は狼藉(ろうぜき)に見舞われ、文治派(ぶんちは)の相良武任(さがらたけとう/大内)が暗殺未遂に遭ったり、当主の大内義隆(おおうちよしたか/室町)に対して陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)が謀反(むほん)を企てている噂まで流れていた。

この噂は現実のものとなる。

1551年に起こった「大寧寺の変」(たいねいじのへん)にて、重鎮家臣の陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)が反乱を起こし、攻撃され追い詰められた大内義隆(おおうちよしたか/室町)は周防国(すおう/山口県)から逃亡して、長門国(山口県)の湊から舟に乗船しようとするも、暴風雨の悪天候により舟は出航できなかった。

こうして大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、長門国(山口県)の大寧寺(たいねいじ/曹洞宗)に身を寄せる。

ただ、逃げられないと悟った大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、このお寺で自決する。

大内義隆(おおうちよしたか/室町)の辞世(じせい)の句は、『討つ者も、討たるる者も、諸(もろ)ともに、如露亦如電(にょろやくにょでん)、応作如是観(おうさにょぜかん)。』⦅滅ぼす者も、滅ぼされる者も、共に、雷(カミナリ)の様に一瞬にして消え去り、人間はあるがままを受け入れるしかない。⦆と詠まれた。

その後に大内義隆(おおうちよしたか/室町)の家臣だった安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)の城主だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が主君の弔(とむら)い合戦にて、1555年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「厳島の戦」(いつくしまのたたかい)にて陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)を討ち破り自決に追い込んだ。

ただ毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、当主の大内義長(おおうちよしなが/室町)が豊後国(ぶんご/大分県)を拠点とする守護大名の大友義鑑(おおともよしあき/室町)の息子と言う外様大名だった事もあり、1557年に周防国(すおう/山口県)へ侵攻して大内義長(おおうちよしなが/室町)を討ち破り自決に追い込んだ。

こうして千年近くに渡り周防国(すおう/山口県)に君臨(くんりん)した朝鮮半島の百済(くだら)の王族の末裔で名門家の大内氏は消滅した。

WESTLIFE /♪ MY LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:36:56

◆◇◆其の一:尼子氏(あまごうじ)の落武者、八つ墓村で子孫末代まで呪い祟る事を誓う◆◇◆

●尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)、1542年〜1543年に起こった「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)で勝利!

室町時代の京都では、室町幕府の将軍の足利氏と、三管領(さんかんれい)の畠山氏と斯波氏と細川氏が政権運営を担ってきた。

それを支えたのが七頭(しちとう)の山名氏と一色氏と赤松氏と京極氏(きょうごくうじ)と土岐氏と上杉氏と伊勢氏に、その家臣や地方の守護大名たちである。

この七頭(しちとう)の氏家の中で京都奉行を担う四職(ししき)の山名氏と一色氏と赤松氏と京極氏(きょうごくうじ)が、最も有力な守護大名であった。

その四職(ししき)の名門家の中でも、当初から室町幕府の征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)に仕えて、政権運営に尽力したのが宇多源氏の系統の佐々木道誉(ささきどうよ/鎌倉→室町)の佐々木氏で、そんな佐々木氏から分家したのが近江国(滋賀県)に広がる琵琶湖の南東部を統治した京極氏(きょうごくうじ)である。

その京極氏(きょうごくうじ)の庶流(しょりゅう)が尼子氏(あまごうじ)で、出雲国(島根県)の守護代に就任して主に山陰地方を統治していた。

戦国時代には尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)が出雲国(島根県)の守護代に就任し、出雲国(島根県)の松江から南東部にある山岳地帯に築かれた月山富田城(がっさんとだじょう/安来)の城主を任されていた。

尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)の息子の家督継承者で笛の名手だった尼子政久(あまごまさひさ/大内→ 尼子)は、戦地で笛を吹いて尼子軍の武士を鼓舞(こぶ)する慣習があった。

しかし、この慣習が災いして1513年に戦地に赴いた尼子政久(あまごまさひさ/大内→ 尼子)は、いつもの様に笛を吹いて尼子軍の武士を奮い立たせていたら、敵陣から弓の矢が笛の音色に目掛けて射られ、その矢が尼子政久(あまごまさひさ/大内→ 尼子)を射抜き、25歳の若さで討死した。

更に尼子政久(あまごまさひさ/大内→ 尼子)の嫡男(ちゃくなん)の尼子又四郎(あまごまたしろう/大内→ 尼子)も、幼少期に早世している。

こうして1514年に誕生した尼子政久(あまごまさひさ/大内→ 尼子)の次男の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が、尼子氏(あまごうじ)の家督継承者に抜擢された。

祖父の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)は、孫の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)に対して帝王学を教育した。

1537年に祖父の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)から孫の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)へ、尼子氏(あまごうじ)の家督継承が実施される。

この時期の尼子氏(あまごうじ)は、出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を拠点に、山陰地方の隠岐国(おき/島根県)と伯耆国(ほうき/鳥取県)、それに山陽地方の備後国(広島県)と備中国(岡山県)と美作国(みまさか/岡山県)と備前国(岡山県)などの広域を領国として統治していた。

しかし、隣国の周防国(すおう/山口県)を拠点に西日本や北九州で最大勢力を誇っていた大内義隆(おおうちよしたか/室町)との領域争いが激化していた。

そんな戦況でも尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は恐れず怯(ひる)む事なく、1538年に大内氏の領国だった石見国(いわみ/島根県)に侵攻して制圧した。

これにより石見国(いわみ/島根県)の山岳地帯に眠る石見銀山の利権も手中に収め、年間3億円余りの銀が発掘され、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は潤沢な財政により軍事力の強化を図った。

LITTLE TEXAS /♪ WHAT MIGHT HAVE BEEN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:37:52

◆◇◆其の二:尼子氏(あまごうじ)の落武者、八つ墓村で子孫末代まで呪い祟る事を誓う◆◇◆

●尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)、1542年〜1543年に起こった「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)で勝利!

勢力と領国の拡大を目指す尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は、因幡国(いなば/鳥取県)や播磨国(はりま/兵庫県)にも侵攻を開始した。

こうした破竹の勢いを魅せる尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)に対して、周辺の小規模な国人(こくじん)や豪族は尼子氏(あまごうじ)に帰属(きぞく)する事を決める。

これを苦々しく観ていたのが周防国(すおう/山口県)の大内義隆(おおうちよしたか/室町)である。

大内義隆(おおうちよしたか/室町)は家臣で安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)の城主だった毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に対して、出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を拠点にする尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)に警戒する様に注意喚起した。

そしてその疑念が現実となり、1540年に起こった「吉田郡山城の戦」(よしだこおりやまじょうのたたかい)にて、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる尼子軍は、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に侵攻を開始した。

ただこの時に、祖父の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)も孫の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)に対して、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に警戒する様に注意喚起していた。

ただ、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる尼子軍は3万人で、一方の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は2400人に過ぎなかった。

圧倒的な勢力差で過信した尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)への侵攻を強行した。

しかし、戦術と調略(ちょうりゃく)に長けた毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)に篭城して、長期間に渡り城郭の防御に徹した。

更に地の利を活かして昼夜を問わずに山中から奇襲を仕掛けて、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が率いる尼子軍を翻弄(ほんろう)させる。

そんな時に周防国(すおう/山口県)から大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる1万人の大内軍が援軍として進行し、尼子軍の陣営に背後から総攻撃を仕掛けて壊滅させた。

連戦連勝で豪放磊落(ごうほうらいらく)だった尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)も、この「吉田郡山城の戦」(よしだこおりやまじょうのたたかい)の大敗により自信喪失して、この敗北を機に尼子氏(あまごうじ)の求心力は低下した。

NEIL DIAMOND /♪ HEARTLIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:38:48

◆◇◆其の三:尼子氏(あまごうじ)の落武者、八つ墓村で子孫末代まで呪い祟る事を誓う◆◇◆

●尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)、1542年〜1543年に起こった「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)で勝利!

悪い事は続くものである。

1540年に起こった「吉田郡山城の戦」(よしだこおりやまじょうのたたかい)の大敗の翌年の1541年に、尼子氏(あまごうじ)にて圧倒的な影響力を持つ祖父の尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)が83歳で死去した。

この尼子氏(あまごうじ)の危機的な状況を見逃さなかったのが、周防国(すおう/山口県)の大内義隆(おおうちよしたか/室町)である。

1542年〜1543年に起こった「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)にて、周防国(すおう/山口県)から大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる4万5千人の大内軍が、出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を拠点にする尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)に侵攻を開始した。

大内軍には武断派(ぶだんは)の陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)や英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)などの猛将が参戦していた。

一方で尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は、「吉田郡山城の戦」(よしだこおりやまじょうのたたかい)の大敗を教訓に、そこから多くの戦術や調略(ちょうりゃく)を学習して、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と同様に月山富田城(がっさんとだじょう/安来)に篭城して、長期間に渡り城郭の防御に徹した。

更に地の利を活かして昼夜を問わずに山中から奇襲を仕掛けて、大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる大内軍を翻弄(ほんろう)させる。

そして大内軍の武将に対して密通(みっつう)し尼子軍に寝返らせ、獅子身中の虫(しししんちゅうのむし)を実施した。

こうして大軍勢だった大内義隆(おおうちよしたか/室町)が率いる大内軍は撤退を余儀なくされ敗北した。

この戦況では、大内氏の家督継承者の候補だった大内晴持(おおうちはるもち/室町)が、撤退する際に日本海の海路から舟で逃亡したものの、悪天候により舟が転覆して溺死した。

大内晴持(おおうちはるもち/室町)とは、父親は土佐国(高知県)の公家の一条房冬(いちじょうふさふゆ/朝廷)で、母親が大内義興(おおうちよしおき/室町)の娘であり、大内義隆(おおうちよしたか/室町)の養子に入っていた。

「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)の大敗と、次期の大内氏の当主だった大内晴持(おおうちはるもち/室町)により、西日本で最大勢力を誇った大大名の大内義隆(おおうちよしたか/室町)は、人が変わった様に戦意喪失して和歌や茶道や文学に没頭する文治派(ぶんちは)となる。

ENGLAND DAN & JOHN FORD COLEY /♪ NIGHTS ARE FOREVER WITHOUT YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:39:40

◆◇◆其の四:尼子氏(あまごうじ)の落武者、八つ墓村で子孫末代まで呪い祟る事を誓う◆◇◆

●尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)、1542年〜1543年に起こった「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)で勝利!

その後の大内氏は、1551年に起こった「大寧寺の変」(たいねいじのへん)にて、重鎮家臣で武断派(ぶだんは)の陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)が反乱を起こし攻撃され追い詰められた大内義隆(おおうちよしたか/室町)は自決した。

そんな陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)も、1555年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「厳島の戦」(いつくしまのたたかい)にて、毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)による主君の弔(とむら)い合戦で、安芸国(あき/広島県)の瀬戸内海に浮かぶ厳島(いつくしま)に陣営を設けて、長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)を主軸に、次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)を左翼、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)を右翼に配置する“3本の弓の矢”に追い込まれ、陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)は自決した。

そして、大内義隆(おおうちよしたか/室町)の養子に入った大内氏の最後の当主の大内義長(おおうちよしなが/室町)は、父親が豊後国(ぶんご/大分県)の守護大名である大友義鑑(おおともよしあき/室町)で、兄が“豊後の王” と呼ばれる大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)で、外様(とざま)大名だった事もあり毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に警戒され、1557年に大内義長(おおうちよしなが/室町)は追い込められて自決した。

これにて周防国(すおう/山口県)を拠点に千年近く続いた権門勢家(けんもんせいか)だった大内氏は消滅した。

こうして一時は衰退した尼子氏(あまごうじ)だったが、「第一次月山富田城の戦」(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)での奇跡的な勝利で息を吹き返し、周辺の小規模な国人(こくじん)や豪族は尼子氏(あまごうじ)に帰属(きぞく)する事を再び決める。

京都の室町幕府では、周防国(すおう/山口県)を拠点に西日本を統治していた守護大名の大内氏が滅亡した事に危機感を抱いた。

“二条御所の薔薇”と呼ばれる征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を拠点にする尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)に対して、大内氏の代役を威令(いれい)する。

こうして尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は、出雲国(島根県)と隠岐国(おき/島根県)と伯耆国(ほうき/鳥取県)と因幡国(いなば/鳥取県)と備後国(広島県)と備中国(岡山県)と美作国(みまさか/岡山県)と備前国(岡山県)の守護大名に就任した。

更に朝廷から官位相当制の貴族に値する従五位が与えられた。

この時期が尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の絶頂期だった。

しかし時は戦国時代で、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が安息する時間は与えられなかった。

西日本では陶晴賢(すえはるたか/大内→陶)と大内義長(おおうちよしなが/室町)を討伐した毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が絶大な勢力を誇っていた。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる毛利軍は、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の本拠地でもある出雲国(島根県)をはじめ、備中国(岡山県)や美作国(みまさか/岡山県)にも侵攻して揺さ振りを掛けていた。

そんな毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)との合戦する最中(さなか)の1561年に、尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)にて47歳で死去した。

毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、敵陣ではあるが亡くなった尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)に対して敬意を表した。

そして亡き尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の家督継承者には、息子で嫡男(ちゃくなん)の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)が就任した。

この尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)が、尼子氏(あまごうじ)の最後の当主になる。

THE MOODY BLUES /♪ NIGHTS IN WHITE SATIN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260613 - ラジオの友 URL

2026/06/13 (Sat) 08:40:32

◆◇◆其の五:尼子氏(あまごうじ)の落武者、八つ墓村で子孫末代まで呪い祟る事を誓う◆◇◆

●尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)、1565年〜1566年に起こった「第二次月山富田城の戦」(だいにじがっさんとだじょうのたたかい)で敗北!

1540年に出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を拠点としていた戦国武将の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の息子の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)が誕生する。

その翌年の1541年に尼子氏(あまごうじ)に絶大な影響力を誇った尼子経久(あまごつねひさ/京極→大内→ 尼子)が老衰で死去した。

この時期の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は、山陰地方の出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)を拠点に、石見国(いわみ/島根県)と隠岐国(おき/島根県)と伯耆国(ほうき/鳥取県)と因幡国(いなば/鳥取県)、それに山陽地方の備後国(広島県)、備中国(岡山県)と美作国(みまさか/岡山県)と備前国(岡山県)を統治する室町幕府を代表する大大名だった。

そんな名門家の尼子氏(あまごうじ)で英才教育を受けた尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)である。

しかし、父親の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が賢能(けんのう)で智勇(ちゆう)に長けているからと言って、そのままの才能を息子の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)が簡単に引き継げる訳ではない。

この頃の尼子氏(あまごうじ)は、最大の敵陣だった周防国(すおう/山口県)を拠点に西日本や北九州を統治していた大内義隆(おおうちよしたか/室町)が死去して、大内氏も衰退して消滅していた。

ただ、その大内氏に代わって台頭したのが、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点とする毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)だった。

父親の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は、これから安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)と本格的に対峙する軍略を計画していた。

ところが1561年に、父親の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)は出雲国(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう/安来)にて47歳で死去した。

一応に父親の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の死去は、周囲に知られない様に尼子氏(あまごうじ)は内密にしていた。

しかし、情報戦も飛び交う戦国時代では、内通(ないつう)や間諜(かんちょう)は当たり前に城内を蔓延(はびこ)り、父親の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)の死去は直ぐに周辺諸国の武将や国人(こくじん)に知れ渡る。

その中には毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)も含まれていた。

こうして毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)は、当主の亡き大内義隆(おおうちよしたか/室町)の領国だった石見国(いわみ/島根県)に侵攻して奪還(だっかん)を企てる。

Donna Allen/♪ REAL

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:17:33

◆◇◆大人のジャズはよろしゅうおすぅなぁ〜◆◇

CLORA BRYANT /♪ TEA FOR TWO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:19:10

STELLA HEATH /♪ NOW BABY OR NEVER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:20:05

ユッコミラー/♪ 3-3-7

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:20:57

SERGI SIRVENT /♪ TAKING A CHANCE ON LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:21:45

MILES DAVIS /♪ 'S'POSIN'

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:22:35

TOM COHEN /♪ CAFE COM PAO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:23:26

HENDRIK MEURKENS /♪ KNOW IT ALL(QUEM DIZ QUE SABE)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:24:28

ALEXA TARANTINO /♪ THIS IS FOR ALBERT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:25:22

BARNEY KESSEL /♪ BE DEEDLE DEE DO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:26:17

KENNY BURRELL /♪ GET HAPPY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:27:09

SONNY ROLLINS /♪ THE BLUE ROOM

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:28:06

APRIL VARNER /♪ NIGHT AND DAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:29:03

JEREMY PELT /♪ OUR MOTHER'S NATURE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:29:56

小沼ようすけ/♪ THE DOLPHIN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:30:50

PAT METHENY /♪ BRIGHT SIZE LIFE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:31:46

SINNE EEG /♪ LOSING YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:32:42

JULIAN LAGE /♪ TALKING DRUM

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260612 - ラジオの友 URL

2026/06/12 (Fri) 06:33:39

AKIKO /♪ I MISS YOU

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:08:32

◆◇◆其の一:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

2026年2月26日、アメリカの不動産王かつ大統領のドナルドトランプ(第45代&第47代アメリカ大統領)がイスラエル(エルサレム)と共に、中東のイラン(ペルシア)に向けて戦争を仕掛けた。

この「アメリカイラン戦争」は世界中に影響を及ぼし、ペルシャ湾を運航する大型船がイラン(ペルシア)の攻撃の対象となり石油の運搬が滞り、特に主要国の経済は資源や商品の値上がりが著しい。

これ以前にも、2003年にはアメリカ軍はイギリス軍と共に、イラン(ペルシア)の西部に隣接するイラク(アラブ)と戦争を繰り広げている。

その時のイラク大統領だったサッダームフセイン(イラク大統領)は、アメリカ軍を敵視して徹底抗戦したが、2003年にアメリカ軍に拘束され、裁判の判決により2006年の年末に死刑が執行された。

そしてイラン(ペルシア)の東部に隣接するアフガニスタンのイスラム原理主義のターリバーン(タリバン)も、2001年にアメリカ軍が侵攻して関係が悪化している。

これには2001年9月11日に起こった「アメリカ同時多発テロ」が起因している。

国際テロ組織のアルカーイダ(アルカイダ)の指導者だったウサーマビンラーディン(イスラム革命家)の指示により、アメリカのニューヨークとワシントンに民間飛行機で攻撃を仕掛けた。

その後にウサーマビンラーディン(イスラム革命家)は、2011年にパキスタンにてアメリカ軍に殺害された。

この一連の流れを診ても、ユダヤ教のイスラエル(エルサレム)に肩入れするアメリカとイスラム教が浸透する中東は、埋める事の不可能な亀裂がある事が解る。

そんな中東の西部に位置するイラン(ペルシア)について深掘りしてみよう。

▼紀元前6000年

中東地域の南北に流れるティグリス川とユーフラテス川の流域では、文明都市が勃興したメソポタミア文明が発展した。

そのティグリス川とユーフラテス川の東部がイラク(アラブ)の中東で、西部がイラン(ペルシア)のアジアに位置する。

耕作や牧畜を中心とした産業が形成され、その後は製鉄の技術などにより戦争が繰り広げられる様になる。

▼紀元前3500年

イラン地域の南西部にエラム人(イラン)が居住していた。

エラム人(イラン)は、メソポタミア文明で繁栄したティグリス川とユーフラテス川の文化に影響を受けて、交易や抗争しながら都市国家を形成していった。

メソポタミア文明の中東一帯にはバビロニアが誕生し、その領域の小国が戦争を繰り広げる様になる。

この時にエラム人(イラン)は、バビロニアの小国と同盟したり、戦争したりして、深い関係を築いっていった。

▼紀元前2500年

紀元前2113年にバビロニアには、巨大なウル第3王朝(イラク)が建国された。

ウル第3王朝(イラク)は中東地域を支配下に置いたが、エラム人(イラン)の侵攻により消滅した。

LOS LONELY BOYS /♪ EVIL WAYS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:09:33

◆◇◆其の二:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼紀元前1700年

紀元前1894年にバビロン第一王朝(イラン)が建国された。

バビロン第一王朝(イラン)はハンムラビ王(第6代目古バビロニア王)が統治し、メソポタミア地域を統一して『目には目を、歯には歯を。』で有名な攻撃的な法律の“ハンムラビ法典”を制定した。

“ハンムラビ法典”の石碑は、1901年にイランの南西部に位置するスーサで発見された。

▼紀元前700年

一方でメソポタミア地域の北部では、巨大国家のアッシリア帝国(イラク)が建国された。

文明や技術の発達したアッシリア帝国(イラク)は、製鉄により武器や手動戦車を製造して、近隣諸国に侵攻して制圧していった。

アッシリア帝国(イラク)は、中東地域を中心にペルシア地域やエジプト地域も占領して、帝国として形成した。

アッシリア帝国(イラク)は領民に対して重税や移封(いほう)などを強要して不平や不評を買っていた。

紀元前612年にメディア王国(イラン)と新バビロニア王国(イラク)が同盟を締結して、アッシリア帝国(イラク)に対抗した。

メディア王国(イラン)と新バビロニア王国(イラク)が同盟軍は、アッシリア帝国(イラク)の首都に総攻撃を掛けて滅亡させた。

こうして中東地域は、東部のメディア王国(イラン)、中部の新バビロニア王国(イラク)、西南部のエジプト王国、そしてアナトリア半島のトルコ地域にリディアが建国された。

▼紀元前600年

メディア王国(イラン)の南西部で勢力を拡大していたアケメネス家のキュロス2世(アケメネス朝ペルシア国王)が、独立国家の組成に向けて反乱を起こした。

紀元前559年にキュロス2世(アケメネス朝ペルシア国王)が率いるアケメネス軍は、メディア王国(イラン)に総攻撃を仕掛けて滅亡させた。

その後も紀元前546年にリディア、紀元前539年に新バビロニア王国(イラク)を、キュロス2世(アケメネス朝ペルシア国王)が率いるアケメネス軍に滅亡させられた。

こうして中東地域の一帯にアケメネス朝ペルシア(イラン)が建国され、キュロス2世(アケメネス朝ペルシア国王)が初代国王に就任した。

ペルシアとは、イランの文化、民族、言語を意味する言葉である。

キュロス2世(アケメネス朝ペルシア国王)が死去した後に、アケメネス朝ペルシア(イラン)はエジプト王国に侵攻して制圧した。

紀元前520年に一大帝国となったアケメネス朝ペルシア(イラン)の繁栄期に、ダレイオス1世(アケメネス朝ペルシア国王)が国王に就任した。

アケメネス家のダレイオス1世(アケメネス朝ペルシア国王)は、全国統一した税制や地方行政区の整備を実施した。

この時期にアケメネス朝ペルシア(イラン)のは、バルカン半島の先端に位置するギリシア(ギリシャ)と対立する様になる。

アナトリア半島のトルコ地域にて、ギリシア人植民都市のイオニアで反乱が勃発して、バルカン半島のギリシア(ギリシャ)が支援した。

紀元前490年の「マラトンの戦」にて、アケメネス朝ペルシア(イラン)とギリシア(ギリシャ)は戦争を繰り広げる。

戦況は大軍を率いたアケメネス朝ペルシア(イラン)だったが、ギリシア(ギリシャ)の調略(ちょうりゃく)に苦戦し敗北した。

その後のアケメネス朝ペルシア(イラン)は、アケメネス家のクセルクセス1世(アケメネス朝ペルシア国王)が国王に就任した。

クセルクセス1世(アケメネス朝ペルシア国王)が率いるアケメネス軍は、ギリシア(ギリシャ)に侵攻して勝利した。

紀元前480年の「サラミスの海戦」にて、アケメネス朝ペルシア(イラン)はギリシア(ギリシャ)に大敗した。

これを機にアケメネス朝ペルシア(イラン)は、内部反乱や国家脆弱により衰退期に入っていく。

MANIC STREET PREACHERS /♪ THE SECOND GREAT DEPRESSION

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:10:29

◆◇◆其の三:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼紀元前350年

地中海の対岸のルーマニア地域にマケドニアが建国された。

紀元前334年にマケドニアでアレクサンドロス大王(マケドニア国王)が東方侵攻を開始した。

紀元前331年の「ガウガメラの戦」にて、アレクサンドロス大王(マケドニア国王)が率いるマケドニア軍は、アケメネス朝ペルシア(イラン)に総攻撃を仕掛けて勝利した。

その後のアレクサンドロス大王(マケドニア国王)はエジプトを解放した為に、元エジプト国民の支持を得てエジプトのファラオ(国王)に即位する。

そして、エジプトの北東部に新都市のアレクサンドリアを整備した。

紀元前330年の「イッソスの戦」にて、アレクサンドロス大王(マケドニア国王)が率いるマケドニア軍は、アケメネス朝ペルシア(イラン)を撃破した。

紀元前330年にアレクサンドロス大王(マケドニア国王)はアケメネス朝ペルシア(イラン)と戦争を繰り返して完全に滅亡させて、アレクサンドロス大王(マケドニア国王)の占領地とし、ユーラシア大陸の大半を占領した。

アレクサンドロス大王(マケドニア国王)の死後は、3人の王位継承者によりギリシャ地域のアンティゴノス朝マケドニアと、アジア地域のセレウコス朝シリアと、エジプト地域のプトレマイオス朝エジプトの三国に分割された。

プトレマイオス朝エジプトは首都をアレクサンドリアに制定して、中央集権国家の統治を実施した。

しかし、その後に王位継承で内紛を繰り返し、プトレマイオス朝エジプトの政権が不安定に陥る。

同様にアジア地域のセレウコス朝シリアも領土が広大だった事もあり、政権の統治が困難で、各地の豪族が反乱を頻発に起こしていた。

▼紀元前300年

セレウコス朝シリアの西部を領域とするアルサケス朝パルティア(イラン西部)が、紀元前247年にアルサケス1世(アルサケス朝パルティア国王)により建国され、アルサケス朝パルティアの初代国王に就任した。

紀元前241年のアジア地域のセレウコス朝シリアの国王に就任していたアンティオコス3世(セレウコス朝シリア国王)は、王朝の権威が凋落していく打開策を見出せないでいた。

そんな時期に東方からローマによる侵攻を受ける。

紀元前190年の「マグネシアの戦」にて、アンティオコス3世(セレウコス朝シリア国王)のセレウコス朝シリアは、ローマと戦争を繰り広げたが大敗する。

ローマに敗北したセレウコス朝シリアは、ローマからトルコのアナトリア半島を割譲(かつじょう)され、多額の戦争損害賠償金の支払い請求に苦慮する事になる。

この国家の衰退により内部反乱が勃発した。

そして紀元前64年にセレウコス朝シリアは滅亡する。

それに代わって勢力を拡大させたのが、セレウコス朝シリアの西部を領域とするアルサケス朝パルティア(イラン西部)だった。

アルサケス朝パルティアの栄耀栄華(えいようえいが)は、紀元前171年にミトラダテス1世(アルサケス朝パルティア国王)がアルサケス朝パルティアの国王に就任した頃だった。

ミトラダテス1世(アルサケス朝パルティア国王)の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)により、強大な軍事力と巧みな調略(ちょうりゃく)でメディア地方などメソポタミア地域を制圧した。

そしてティグリス川とユーフラテス川の流域の主要都市も占領する事になる。

アルサケス朝パルティアはアフガニスタン地域も制圧して占領し、広大な領域を保有した。

この時期のヨーロッパではローマ帝国が勢力を拡大させており、地中海の沿岸部まで占領していた。

こうしてアルサケス朝パルティアとローマ帝国が対峙した。

そしてアルサケス朝パルティアとローマ帝国は戦争を繰り広げるが、戦況は五分五分で膠着(こうちゃく)状態になる。

そんな頃にアルサケス朝パルティアは、王位継承問題や各地の豪族が独立する行動を採る為に、国家統治が崩壊の危機に陥る。

更にローマ帝国などとユーラシア大陸のアジアの交流の中間拠点となり伝染病が多発した。

MUTEMATH /♪ TYPICAL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:14:00

◆◇◆其の四:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼200年

このアルサケス朝パルティアの衰退期に、有力豪族のサーサーン家が反乱を起こした。

224年にサーサーン朝ペルシア(イラン)が建国された。

226年にサーサーン家のアルダシール1世(サーサーン朝ペルシア国王)が率いる軍隊は、アルサケス朝パルティアの王朝を侵攻して、国王を排除して制圧し壊滅させた。

サーサーン朝ペルシア(イラン)のシャーハンシャー(国王)にアルダシール1世(サーサーン朝ペルシア国王)が就任した。

サーサーン朝ペルシア(イラン)の領域は、イラン地域から中東、そしてペルシャ湾の対岸に掛けて広大な領土を支配した。

240年にサーサーン朝ペルシア(イラン)のシャーハンシャー(国王)に就任したシャープール1世(サーサーン朝ペルシア国王)は、西方侵攻を開始してローマ帝国に攻撃を仕掛けた。

この時期のローマ帝国の皇帝に就任していたヴァレニアヌス(ローマ皇帝)と、サーサーン朝ペルシア(イラン)のシャープール1世(サーサーン朝ペルシア国王)は、激しい戦争を繰り広げた。

このローマ帝国との戦争で、サーサーン朝ペルシア(イラン)のシャープール1世(サーサーン朝ペルシア国王)は、ローマ帝国の皇帝に就任していたヴァレニアヌス(ローマ皇帝)を捕縛(ほばく)し捕虜にして、自国に拘引(こういん)する程に強靭な軍事力を誇っていた。

しかし栄枯盛衰は世の常であり、サーサーン朝ペルシア(イラン)も御多分に洩れず同様の道を辿った。

国家の内政は混乱に陥る。

地方豪族が勢力を拡大させ、王朝の権威は衰退する。

▼500年

531年にサーサーン朝ペルシア(イラン)のシャーハンシャー(国王)に就任したホスロー1世(サーサーン朝ペルシア)は、こうした傾斜した国家を立て直す政策を施行した。

ホスロー1世(サーサーン朝ペルシア)は、政治の税制や軍隊を見直して改革に乗り出した。

それに伴い強固となったペルシア軍により、地方豪族を抑圧して、王朝の権威は克服させた。

しかし、579年にホスロー1世(サーサーン朝ペルシア)が死去すると、サーサーン朝ペルシア(イラン)のシャーハンシャー(国王)の情勢は一変する。

サーサーン朝ペルシア(イラン)は、王位継承問題により内部反乱が勃発する。

国家の内政は混乱に陥る。

地方豪族が勢力を拡大させ、王朝の権威は衰退する。

こうしてサーサーン朝ペルシア(イラン)は衰退期に入った。

FRANZ FERDINAND /♪ ULYSSES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:14:58

◆◇◆其の五:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼500年

570年にアラブ人でイスラム教の預言者のムハンマド(アラブ宗教家)が、イスラム教を宗祖してイスラム帝国を建国した。

イスラム教の勢力は西アジアからアフリカ大陸までを占領し、各地でイスラム教の独立国家を建国した。

▼600年

610年に赤海に面したアラビア半島のメッカ(イスラム教聖地)にて、ムハンマド(イスラム教祖)が神の啓示を受けてイスラム教の宗祖となる。

622年の当時は、イスラム教はアラブ人をはじめとした中東地域で浸透する事がなく、ムハンマド(イスラム教祖)やイスラム教の信者はメッカ(イスラム教聖地)にて差別や迫害を被り、それから逃れる様にメディナに移住したヒジュラ (聖遷/せいせん)が実施された。

その後のイスラム教は単なる宗教ではなく、信者を結束させる主軸となる。

そしてイスラム教はサウジアラビア地域のアラブ人に絶大な支持を受けて、イスラム教の宗派国が拡大していった。

地中海の南部から中東の一帯が、イスラム教の宗派国となった。

636年にイスラム軍は、東ローマ帝国の占領下にあった地中海の東海岸に面するシリアを制圧した。

639年にイスラム軍が東ローマ帝国のエジプトに侵攻して、エジプトは制圧され東ローマ帝国は占領から撤退した。

ここからイスラム教はサウジアラビア地域を中心に、東部はイラン地域から西部はリビア地域にまで拡大した。

続いてイスラム軍は、サーサーン朝ペルシア(イラン)のメソポタミア地域にも侵攻した。

642年の「ニハーヴァンドの戦」にて、イスラム軍はサーサーン朝ペルシア(イラン)に総攻撃を仕掛けて壊滅させた。

651年に最後のシャーハンシャー(国王)が死去し、400年間余り続いたサーサーン朝ペルシア(イラン)は滅亡した。

イスラム系国家は勢力を拡大させてエジプト地域も制圧し、地中海の沿岸部にも領土を占領した。

661年にイスラム教を国教としたウマイヤ朝(アラブ)が建国された。

ウマイヤ朝(アラブ)はアフリカ大陸の北部からスペインにまで領域を拡大させた。

ウマイヤ朝(アラブ)はアラブ人を中心とした支配体制を確立させ、アラビア語を母国語として、イスラム教の信仰と共にアラビア文化も浸透させていった。

イスラエル(エルサレム)のパレスチナも、イスラム教の領域に併合された。

こうして世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教が揃った。

RICK SPRINGFIELD /♪ WHAT'S VICTORIA'S SECRET?

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:15:51

◆◇◆其の六:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼600年

一方でイスラム教の預言者のムハンマド(アラブ宗教家)が死去すると、君主継承問題により内部反乱が勃発する。

そして国家の内政は混乱に陥る。

イスラム教には2大派閥が組成され、スンニ派とシーア派に分裂した。

スンニ派は、イスラム帝国の勃興と滅亡やイラン(ペルシア)の変容により、イマーム(指導者)はイスラム教の預言者のムハンマド(アラブ宗教家)の筋目(すじめ)である必要はなく、イスラム教の最高幹部により決議かつ合意して適任者を決定する。

シーア派は、イマーム(指導者)はイスラム教の預言者のムハンマド(アラブ宗教家)の出自(しゅつじ)しか家督継承できない。

シーア派としては、ムハンマド(アラブ宗教家)の従兄弟で娘婿のアビーターリブ(イスラム皇帝)を家督継承者として認定する。

そして656年に、ムハンマド(アラブ宗教家)の従兄弟で娘を娶(めと)っていたアビーターリブ(イスラム皇帝)は、イスラム教シーア派の初代イマーム(指導者)に就任した。

こうした決定的な思考の相違から、イスラム教のイマーム(指導者)の継承問題が、宗教の概念だけでなく、長期間に渡りスンニ派とシーア派の対立を生む事になる。

特にイスラム教を信仰するイラン(ペルシア)はシーア派に属し、イラク(アラブ)などはスンニ派に属した。

このイスラム教の後継者問題とは別に、ウマイヤ朝(アラブ)のイスラム帝国に対して、イラン(ペルシア)の領民は、ウマイヤ朝(アラブ)のイスラム帝国では、最高幹部がアラブ系民族に限られ、イスラム教に入信したイラン(ペルシア)の領民は除外されていた。

これがイラン(ペルシア)の領民の不平や不満を増幅させていった。

こうして750年にウマイヤ朝(アラブ)の東部にて、政権に対する反乱の、「アッバース革命」が勃発する。

「アッバース革命」は、シーア派でムハンマド(アラブ宗教家)の系統のアッバース家が中心となり、ウマイヤ朝(アラブ)に対して総攻撃を仕掛けて壊滅させた。

そしてウマイヤ朝(アラブ)は滅亡し、750年に第2イスラム帝国と呼ばれるアッバース朝(イラク)が建国された。

イラン(ペルシア)の領民は、イスラム教を敬仰(けいぎょう)し、新たな文化や思考を採り入れていき、イラン(ペルシア)の古典主義に舞い戻る。

イスラム教での国家では、政治や経済や学問には、イスラムの共通言語として母国語のアラビア語が使用されていた。

しかし、アッバース朝(イラク)のイラン(ペルシア)の領民は、古代からのイラン(ペルシア)の言語だったペルシア語を母国語として、近代ペルシア語が使用された。

この近代ペルシア語は、書物や学問など広範囲に渡り使用され、イラン(ペルシア)の文化の中心的な役割を果たす。

イスラム教の布教活動でも、近代ペルシア語は活用されて大いに貢献した。

しかし栄枯盛衰は世の常で、栄耀栄華(えいようえいが)を誇ったアッバース朝(イラク)も次第に衰退期に入り、王朝による国家の統治が乱れていく。

そして国家の内政は混乱に陥る。

地方豪族が勢力を拡大させ、各地で独立国家が誕生して、王朝の権威は衰退する。

▼800年

その後の821年に、アッバース朝(イラク)の領域の西部にターヒル朝(イラン)が建国された。

このターヒル朝(イラン)がイラン(ペルシア)の始まりとされる。

その後も続々と861年に、同地域の北部でサッファール朝(イラン)、875年に全域でサーマーン朝(イラン・アフガニスタン)、932年に南部でブワイフ朝(イラン)と変革されていった。

これら多くの勃興した王朝は、アラブ系のイスラム教とは違い、イラン(ペルシア)独自のイスラム文化を育んだ。

BUCKCHERRY /♪ DON'T GO AWAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:16:44

◆◇◆其の七:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1000年

1038年に遊牧民だったイスラム教を信仰するトルコ人のセルジューク朝(アフガニスタン)が建国された。

セルジューク朝(アフガニスタン)はイラク(アラブ)などはスンニ派と連携して、シーア派のイラン(ペルシア)地域にも侵攻し、イスラム教の守護者と名乗り政権を統治した。

セルジューク朝(アフガニスタン)は地中海の沿岸部から赤海の周辺まで勢力を拡大させて占領した。

王朝による中央政権と土地改革で国家の基盤の安定を図っていた。

また主要な都市整備や物流による経済の発展にも尽力して、文化や文明の進化にも貢献した。

しかし栄枯盛衰は世の常で、セルジューク朝(アフガニスタン)は衰退期に入る。

王位継承問題により内部反乱が勃発する。

国家の内政は混乱に陥る。

地方豪族が勢力を拡大させ、王朝の権威は衰退する。

そんな1077年に、セルジューク朝(アフガニスタン)の西部の領域にホラズムシャー朝(イラン・アフガニスタン)が建国された。

▼1200年

この時期の1206年に、中国大陸の北部で、遊牧民の部族だったチンギスカン(モンゴル皇帝)がモンゴル帝国を建国し、初代皇帝に就任した。

1218年にモンゴル帝国は、ホラズムシャー朝(イラン・アフガニスタン)の領域に侵攻した。

1220年にモンゴル帝国とホラズムシャー朝(イラン・アフガニスタン)は戦争を繰り広げる。

しかし、強靭なモンゴル帝国に対して、ホラズムシャー朝(イラン・アフガニスタン)は敗北して滅亡した。

広大な領土を占領したモンゴル帝国は、領域を5区分に分離して統治した。

イラン(ペルシア)をく含む地域の守護代を務めたのが、チンギスカン(モンゴル皇帝)の孫フレグ(モンゴル→イルハン国王)であった。

フレグ(モンゴル→イルハン国王)は中東などの西方に侵攻した。

アッバース朝(イラク)に侵攻して、首都のバグダードを陥落させた。

モンゴル帝国のイルハン王国(イラン)は仏教などが信仰されていたが、地域に浸透するに連れてイルハン王国(イラン)はイスラム教に改宗(かいしゅう)した。

しかし、王位継承問題により内部反乱が勃発する。

国家の内政は混乱に陥る。

地方豪族が勢力を拡大させ、王朝の権威は衰退する。

そして1353年にイルハン王国(イラン)は滅亡した。

その後の1258年にも、弱体化したアッバース朝(イラク)を壊滅した。

1260年にイルハン王国(イラン)が建国された。

モンゴル帝国は1250年までに中東まで勢力を拡大させ、シリア地域からアフリカ大陸を領土にしていたイスラム教のアッバース朝(イラク)に侵攻し滅亡させていた。

チンギスカン(モンゴル皇帝)の孫で4代目皇帝のモンケ(元皇帝)は、イスラム教が浸透する地域の領民を斬殺し、モンゴル帝国の領域を拡大させた。

1258年に4代目皇帝のモンケ(元皇帝)の弟のフレグ(モンゴル→イルハン国王)が、マムルーク朝(エジプト)に侵攻の指揮をとっていた。

フレグ(モンゴル→イルハン国王)は中東に侵攻してきた。

1260年にモンゴル帝国はマムルーク朝(エジプト)に侵攻を開始した。

危機的な状況に陥ったマムルーク朝(エジプト)だったが、モンゴル帝国の4代目皇帝のモンケ(元皇帝)が死去して、後継者問題でモンゴル軍が撤退した。

こうしてマムルーク朝(エジプト)は残ったモンゴル軍と交戦し、1260年に「アインジャールートの戦」にてマムルーク朝(エジプト)は勝利した。

その後はモンゴル軍の侵攻が停止する。

1299年にトルコ地域にオスマン帝国(トルコ)が建国される。

MACSEAL /♪ EVERY DREAM

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:17:50

◆◇◆其の八:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1300年

この時期のイラン(ペルシア)を含めた一帯地域は、王朝は存在せず小国が乱立して戦乱が繰り広げられた。

この時にトルコ人の遊牧民だったチャガタイウルス(カザフスタン)の指導者のティムール(ティムール朝国王)が台頭する。

ティムール(ティムール朝国王)は、モンゴル帝国のチンギスカン(モンゴル皇帝)の後継者と宣言して、強靭な軍事力を背景に勢力を拡大させた。

こうしてイラン(ペルシア)を含めた一帯地域を制圧して占領し、1370年にティムール朝(イラン)を建国した。

そしてティムール朝(イラン)の国王にティムール(ティムール朝国王)が就任した。

しかし独裁者のティムール(ティムール朝国王)によりティムール朝(イラン)の政権は統治されていた為に、他の官僚や家臣による国家の運営は期待できなかった。

1405年にティムール(ティムール朝国王)が死去すると、王位継承問題により内部反乱が勃発する。

国家の内政は混乱に陥る。

地方豪族が勢力を拡大させ、王朝の権威は衰退する。

▼1500年

再びイラン(ペルシア)を含めた一帯地域は、王朝は存在せず小国が乱立して戦乱が繰り広げられた。

その後の1501年に、イスラム教のサファヴィー教団によりサファヴィー朝(イラン)が建国された。

サファヴィー朝(イラン)の国王にはイスラム教シーア派のイスマーイール1世(サファヴィー朝国王)が就任した。

イスラム教の敬仰(けいぎょう)とイスマーイール1世(サファヴィー朝国王)の軍事統制で、サファヴィー朝(イラン)の勢力は拡大していった。

その間の1507年にティムール朝(イラン)は滅亡している。

1588年にサファヴィー朝(イラン)の国王に就任したイスラム教シーア派のアッバース1世(サファヴィー朝国王)は、サファヴィー朝(イラン)の首都をイスファハーンへ遷都(せんと)した。

首都のイスファハーンは政治と経済と文化の主軸都市に構築した。

これにより世界の半分がサファヴィー朝(イラン)の首都のイスファハーンに集約される。

都市整備が施され、経済や人流が盛んになる。

今でも現存するイマーム広場やイマームモスクなどの名建築物が建設された。

しかし、1629年にアッバース1世(サファヴィー朝国王)が死去すると、サファヴィー朝(イラン)は衰退期に入った。

サファヴィー朝(イラン)は、王位継承問題により内部反乱が勃発する。

国家の内政は混乱に陥る。

地方豪族が勢力を拡大させ、王朝の権威は衰退する。

1736年にサファヴィー朝(イラン)は滅亡した。

THE RUMBLE STRIPS /♪ GIRLS & BOYS IN LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:18:39

◆◇◆其の九:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1700年

トルコ人のガージャール家により1796年にガージャール朝(イラン)が建国される。

1779年にガージャール朝(イラン)のシャーハンシャー(国王)に、イスラム教シーア派のアーガーモハンマド(ガージャール朝国王)が就任した。

アーガーモハンマド(ガージャール朝国王)は、ガージャール朝(イラン)の首都をテヘランに遷都(せんと)して安定した政権で統治した。

一方でヨーロッパでは、長年に渡り王朝が政治と軍隊を掌握し、王政による国家運営が実施されていた。

ところがフランスにて、国民が王政に対して不満と憤懣(ふんまん)が積もり爆発し反乱に発展した。

1789年にフランス国民議会を招集して、パリの市民が反乱軍を組成し、市街地で暴動を起こして王朝の宮殿を次々と襲撃する「フランス革命」が勃発した。

宮殿に居た王族は斬殺され、生け捕りにされて捕縛(ほばく)し、市街地に拘引(こういん)して広場で公開処刑された王族も多かった。

その中にフランスの国王のルイ16世(フランス国王)と王妃のマリーアントワネット(オーストリア皇女→フランス王妃)も居た。

このフランスの国民の反乱がヨーロッパ全土に拡大して、次々と王族の排除が巻き起こった。

そんな時期にフランスに登場したのがイタリア半島の出身のナポレオン1世(フランス皇帝)だった。

1792年の「フランス革命戦争」を皮切りに、ナポレオン1世(フランス皇帝)はナポレオン軍を組成して、フランスを中心とした領土をヨーロッパ全土まで拡大していった。

ナポレオン1世(フランス皇帝)はヨーロッパ全域に対して政治の統一化を計り、1804年にナポレオン法典(フランス民法)を施行した。

唯一にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍に抵抗できたのがイギリスで、ヨーロッパ大陸とのドーバー海峡を大陸封鎖令した。

ナポレオン1世(フランス皇帝)は強敵のイギリスを攻略する為に、イギリスの植民地だったインドとの交通網を遮断する目的で、イギリスとインドの中間地点にガージャール朝(イラン)に接近を試みる。

しかし、イギリスとスペインとポルトガルは連合軍を組成して、フランスのナポレオン軍に攻撃を仕掛けた。

この合戦は激戦となったが、戦況は連合軍が勝利した。

しかし、栄枯盛衰は世の常で、1812年にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いる60万人のナポレオン軍は、冬季にロシアに侵攻すると降雪による極寒で、冬将軍と疫病で戦う前に兵士が次々と命を落としていき敗北は決定的となる。

その後にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍は、1813年の「ライプツィヒの戦」にて、ロシアとオーストリアとプロイセン(ポーランド)の同盟軍に敗北した。

こうしてボナパルト朝スペインのホセ1世(スペイン国王→ナポリ国王)も立場が危うくなり王位を退位して逃亡し、スペイン王国からフランスは撤退した。

ナポレオン1世(フランス皇帝)はヨーロッパ各国から大罪を問われ、拘束されてアフリカ大陸の西部の西大西洋に浮かぶセントヘレナ島に配流(はいる)となり、1821年に死去した。

こうしてガージャール朝(イラン)はイギリスと同盟を締結する事になる。

しかし対等同盟とは名ばかりで、ヨーロッパ諸国がユーラシア大陸の中東からアジアに掛けて圧力を加える植民地が目的でもあった。

この時期にガージャール朝(イラン)は、北東部に位置するロシアと対峙していた。

厳冬によるロシアは、冬季でも海面が凍らない港湾を取り入れたいと目論み、そこで目を着けたのがガージャール朝(イラン)などの中東地域を制圧する事を目指していた。

1804年の「第1次イランロシア戦争」にて、ロシア軍は南方侵攻を開始して、ガージャール朝(イラン)に攻撃を仕掛けた。

戦況は圧倒的な軍事力のロシア軍に、ガージャール朝(イラン)は敗北して一部の領土を割譲(かつじょう)された。

1826年の「第2次イランロシア戦争」にて、ロシア軍に更に惨敗したガージャール朝(イラン)は多くの領土を失地(しっち)した。

こうしてロシアに従属(じゅうぞく)したガージャール朝(イラン)は、交易の通商や宗主国(そうしゅこく)の赦免(しゃめん)の治外法権による不平等条約の締結を余儀なくされた。

REAL ESTATE /♪ PAPER CUP

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:19:31

◆◇◆其の十:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1900年

イギリスで発祥した「産業革命」により、国家の体制と国民の生活は大きき変革された。

鉄とガラスとコンクリートを使用した建築物や工業製品が開発されて、機械による産業技術も向上して大量生産でき、その恩恵を国民が受けて大量消費に湧いた。

この近代化はガージャール朝(イラン)にも影響を及ぼした。

ガージャール朝(イラン)は、国家の統制や軍事の強化に尽力する様になる。

憲法の制定や教育の改革を推進して、科学や産業の技術を導入して、経済や軍事の発展を図った。

この時期に石油の発掘や鉄道網の整備がなされた。

しかしこのガージャール朝(イラン)の「産業革命」は、イギリスなどヨーロッパの支援や技術の提供により推し進められた為に、ヨーロッパとガージャール朝(イラン)の主従関係も確立された。

ガージャール朝(イラン)はヨーロッパの経済圏の一部となる。

こうしてガージャール朝(イラン)は衰退期に入る。

この国家の体(てい)たらくに憤懣(ふんまん)したイラン(ペルシア)の領民は、独立国家への革命を起こす。

その中心人物だったのが、1839年に生まれたイスラム教の思想家のアフガーニー(イラン革命家)である。

アフガーニー…『アメリカやヨーロッパに対抗するには、イラン(ペルシア)の構造改革とイスラム教の協調が必要不可欠である。』

アフガーニー(イラン革命家)は、イラン(ペルシア)の領民に呼応(こおう)して訴え、経済も軍事も近代化を達成して対抗できるとした、神頼みの宗教だけの偏信(へんしん)は通用せず、国家は行政や憲法により統治すべきだと宣言した。

アフガーニー(イラン革命家)は、イラン(ペルシア)の領民に絶大な支持を得て、ガージャール朝(イラン)を近代化国家へ前進させ、王朝から民主主義への機運が高まる。

しかもこの時期に、ガージャール朝(イラン)の政府が、イギリスの商人にタバコ産業の独占権を与えていた癒着(ゆちゃく)問題が発覚した。

これにイラン(ペルシア)の領民は激怒して、ガージャール朝(イラン)の各地の領域で反乱や革命が起こる。

こうしてガージャール朝(イラン)の政権は、イギリスとの主従関係を修正する事になる。

しかし、イラン(ペルシア)の領民は独立国家の創設に期待する機運は高まるばかりで、王朝による政権から、民主国家への変革を訴える様になる。

しかもこの時期に、ガージャール朝(イラン)の領域では砂糖の価格が高騰して、価格操作した砂糖の商人が政府に処刑される事件が勃発した。

この不要処罰に反発した市場の商人や砂糖農家が反乱を起こして、それが起因してイラン(ペルシア)の領民も参加する1万人規模の抗議運動へと発展した。

こうして流れでイラン(ペルシア)は、1905年〜1911年の「イラン立憲革命」に繋がっていく。

1906年にイラン(ペルシア)で初の議会が組成され、憲法の制定への動きが始まる。

この憲法の案は、統治権力は神様ではなく領民に由来すると定め、主権は王政ではなく民生による主軸が示された。

この立憲政治を好機と捉えたイギリスとロシアは、イラン(ペルシア)の「イラン立憲革命」への介入を強める。

1907年にイギリスとロシアは「英露協商」を締結して、ガージャール朝(イラン)の政府の承諾もなく、イラン(ペルシア)の領民の意向を考慮する事なく、イラン(ペルシア)の国土を北部、中部、南部の三分割を実施した。

イラン(ペルシア)の北部はロシア、中部は中立、南部はイギリスが統治する事が勝手に決定され、ガージャール朝(イラン)は実質的にロシアとイギリスの植民地となる。

The Hidden Cameras/♪ AWOO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:20:23

◆◇◆其の十一:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1900年

1900年代に入るとヨーロッパでは諸国の勢力対立が起こる様になる。

ヨーロッパで圧倒的な存在感を誇るイギリスとフランスとロシアが連携する“三国協商”が締結された。

これに対してドイツとオーストリアとイタリアが連携する“三国同盟”が締結された。

イタリアはオーストリアとの確執(かくしつ)はあったが、ドイツとは友好関係にあり参加を決定した。

この時期はヨーロッパからアフリカやアジアに向けて植民地の支配が横行していた。

そんな時期にオーストリア領のボスニアヘルツェゴビナのサラエボにて、オーストリアの皇太子夫婦が革命家に暗殺された「サラエボ事件」が起こった。

この「サラエボ事件」に起因にオーストリアは『セルビア、死すべし!』をスローガンに、サラエボに宣戦布告宣言を発布した。

一方でセルビアの後ろ盾だったロシアが、セルビア軍に軍事支援を明言する。

こうしてオーストリアと同盟を締結していたドイツが、ロシアに侵攻を開始した。

これに対してドイツの背後からイギリスとフランスがロシアへの救援として侵攻を開始した。

この「サラエボ事件」から発展し、ドイツとオーストリアとイタリアも軍事協定を締結して“三国同盟”と、イギリスとフランスとロシアは軍事協定を締結して“三国協商”が交戦した、1914年7月〜1918年11月までに起こった「第一次世界大戦」が勃発した。

イラン(ペルシア)は「第一次世界大戦」に対して中立国の意向を示した。

ただ、イギリスとロシアの実質的な植民地だったイラン(ペルシア)は、イギリス軍とロシア軍の駐屯地としての役割を担う事になる。

主戦場はヨーロッパ全土まで拡大して、主にドイツに対してイギリスとフランスが激戦を繰り広げていた。

ここでイギリスとフランスは調略(ちょうりゃく)も仕掛けた。

イギリスとフランスは、“三国同盟”のイタリアに対して脱退を促して、“三国協商”に加盟する様に懇願(こんがん)した。

イタリアが加盟すればイギリスとフランスは、「第一次世界大戦」に勝利すれば“未回収のイタリア”の返還の確約をイタリアと約定した。

一応に筋立てとして、イタリアはオーストリアに対して、“未回収のイタリア”の返還を求めたがやはりオーストリアは拒否した。

こうしてイタリアは“三国同盟”を脱退して、イギリスとフランスとロシアの“三国協商”に加盟する事を決意する。

1816年にオーストリアの国王が死去すると、オーストリア政府の統率が乱れて衰退しはじめ、1818年にオーストリアは敗北を認めて事実上の無条件降伏を宣言した。

こうなるとオーストリアの小国が独立国家として宣言する様になり、チェコスロバキアとセルビアとポーランドとハンガリーは独立国家としてオーストリアから離脱した。

こうしてオーストリアは崩壊して戦争の継続は不可能となる。

この頃にドイツも敗北して、「第一次世界大戦」はイギリスとフランスとロシアの“三国協商”の勝利で終戦する。

MIDNIGHT OIL /♪ OUTBREAK OF LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:21:36

◆◇◆其の十二:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1900年

「第一次世界大戦」の最中(さなか)にロシアでは大事件が起こっていた。

1917年に国民による革命や反乱の「ロシア革命」(二月革命と十月革命)が勃発し、革命家のレーニン(政治家→ソビエト創立者)が主導した。

これによりロシア帝国は崩壊して、1918年に国王のニコライ2世(ロシア皇帝)は王族と共に処刑され死去した。

ロシアは「第一次世界大戦」と「ロシア革命」(二月革命と十月革命)の処理が完了し、1922年にレーニン(政治家→ソビエト創立者)はソビエトを建国した。

こうして「第一次世界大戦」のその後は、ソビエトがイラン(ペルシア)の北部の統治から撤退して、イギリスのみがイラン(ペルシア)の全域を統治する様になる。

この時期のガージャール朝(イラン)は有名無実(ゆうめいむじつ)として存続しているだけで、ほとんど独立の政府として機能はしていなかった。

そんな時にレザーハーンことレザーパフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝)が、イラン(ペルシア)の軍隊を掌握して軍事クーデターにより、ガージャール朝(イラン)を滅亡させた。

そして1925年にパフラヴィー朝イランを建国した。

こうしてレザーハーンことレザーパフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝)は、パフラヴィー朝イランの皇帝に就任した。

この時期の中東情勢は、イラク(アラブ)やアフガニスタンが独立国家として建国されていた。

この動きにイラン(ペルシア)の領民は、未だに王朝が政権支配する中での生活に、一抹(いちまつ)の不安と疑問を感じていた。

そんな民衆の意向を汲み取ったレザーハーンことレザーパフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝)は、1934年に国名をイラン(ペルシア)に決定する。

そしてイラン(ペルシア)の近代化改革を推進して、鉄道網の整備、教育制度の充実、軍事の強化に尽力した。

一方でドイツでは、オーストリア人のアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)がナチス党の最高責任者としてドイツに君臨していた。

ところが1936年に、ドイツのアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)とイタリアのムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)が同盟を締結した事により、ドイツのベルリンとイタリアのローマによる枢軸の成立を宣言し、オーストリアの状況は一変する。

ドイツのナチス党の最高責任者だったアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が、領土拡大を目論(もくろ)みポーランドに侵攻を開始した。

この「ポーランド侵攻」を起因に、1939年9月〜1945年8月までに起こった「第二次世界大戦」が勃発する。

ムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)とアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は、同じ全体主義の“ファシズム”を理念を抱えていた為に、相通じるところがあり協調した。

ドイツとイタリアと日本の“枢軸国”と、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国の“連合国”による激戦が繰り広げられた。

イラン(ペルシア)は「第二次世界大戦」に対して中立国の意向を示した。

しかしドイツと連盟したパフラヴィー朝イランは、イギリスとソビエトに攻撃を受ける。

戦火に巻き込まれたパフラヴィー朝イランは荒廃し、レザーパフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝)は皇帝を退位する事となる。

ただ、パフラヴィー朝イランの皇帝の後継者は、息子のモハンマドレザーパフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝)が就任した。

しかし、「第二次世界大戦」での戦況が優位のイギリスとフランスとソビエトとアメリカの“連合国”が、パフラヴィー朝イランの領域に軍隊を駐屯させていた事もあり、イラン(ペルシア)は帰属(きぞく)する扱いを受けていた。

イギリス軍とアメリカ軍がイタリア半島の南部に上陸して、イタリア南部は連合軍に占領された。

連合軍の空軍により上空から戦闘機でローマ市街地が空爆されると、イタリア国民は「第二次世界大戦」に疑問と不安と不満を持つ様になる。

このイタリアは凄惨(せいさん)な国土と化し、イタリア国民の阿鼻叫喚(あびきょうかん)が響き渡るのは、全てファシスト党のムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)の失策による責任と声を上げた。

こうしてイタリア政府に奏上(そうじょう)し、ムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)は政治権力の剥奪と罷免(ひめん)が決定し、逮捕後に法律により酷刑(こっけい)が採決された。

そしてムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)は妻と共に処刑されて、亡骸(なきがら)は広場に晒(さら)される事になる。

戦況が劣勢だったイタリアは、イギリスやフランスと休戦協定を締結して無条件降伏した。

これを知ったドイツのアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は激怒して、ドイツ軍をイタリア半島に侵攻させてイタリア北部を制圧した。

これによりイタリアは、イタリア南部に駐屯するイギリス軍とアメリカ軍に援軍を要請して北部進行を開始した。

こうしてイタリア北部のドイツ軍を撃退して、ほぼ領土を失地奪還(しっちだっかん)する事ができた。

アドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が率いるドイツ軍も急速に弱体化が進んだ。

敗北を察知したアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は妻と共にピストルで自害した。

こうしてドイツは連合軍に無条件降伏を伝え敗北した。

この頃になると、ほぼイギリスとフランスとソビエトとアメリカの“連合国”による勝利が確定した。

1943年にパフラヴィー朝イランは独立国家として認定はされたが、実質的にイギリスとアメリカによる統治でイラン(ペルシア)に主権は無かった。

最後に日本も広島と長崎に原爆が投下され壊滅し、無条件降伏にて敗北し、こうして1945年に「第二次世界大戦」は終戦を迎えた。

MONDO COZMO /♪ SHINE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:22:26

◆◇◆其の十三:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1900年

「第二次世界大戦」にヨーロッパ各地に居たユダヤ人は、ドイツのナチス党の最高責任者だったアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)によるホロコースト(絶滅政策大量殺戮)を受けていた。

そうした状況もあり、ユダヤ人による独立国家の建国が世界中で支持を受ける。

「第二次世界大戦」では多くのユダヤ人が、アメリカとイギリスに多額の軍事支援金を提供していた。

そしてアメリカには450万人のユダヤ人が生活しており、社会的に地位が高いユダヤ人も多く、アメリカも富裕層の多いユダヤ人を支持する事になる。

1947年に国際連合によるイスラエル(エルサレム) のパレスチナ分割案が採択された。

この議案でのイスラエル(エルサレム) のパレスチナの比率は、ユダヤ人領土が56.5%、アラブ人領土が43.5%と決定された。

1948年にユダヤ人による国家のイスラエル(エルサレム)が建国される。

この後ろ盾にはアメリカ大統領のトルーマン(第33代アメリカ大統領)と、イギリス首相のクレメントアトリー(イギリス首相)もあり、ユダヤ人とアメリカとイギリスの関係は強固なものとなり、アメリカとイギリスによるユダヤ人の国家のイスラエル(エルサレム)の成立を承認が得られた。

ただ、実際にイスラエル(エルサレム)に居住していたパレスチナ人(アラブ人)やアラブ人の意見や主張は無視された。

アラブ諸国もイスラエル(エルサレム)の建国に反対していた。

その後にシリアやイラクやサウジアラビアなどは、イスラエル(エルサレム)に総攻撃を仕掛けた。

こうして1948年に「第1次中東戦争」が勃発する。

イスラエル(エルサレム) を中心に、北部からレバノンとシリア、東部のイラクとヨルダン、南西部のエジプトによるアラブ連合軍の侵攻により、イスラエル(エルサレム)の戦況は窮地に陥る。

しかしイスラエル(エルサレム)は、アメリカやイギリスの軍事支援もあり、「第二次世界大戦」を戦い抜いた多くの兵士がイスラエル(エルサレム)軍に加勢して1948年に勝利した。

この「第1次中東戦争」により、元々にイスラエル(エルサレム)に居住していたアラブ人は国を追われてパレスチナ難民となり彷徨(さまよ)う事になる。

この時にイラン(ペルシア)は「第1次中東戦争」に対して中立国の意向を示した。

しかし、同じ宗教のイスラム教を信仰するイラン(ペルシア)にとって、ユダヤ教のイスラエル(エルサレム)との外交は距離を置く事になる。

この時期に世界は資本主義のアメリカと社会主義のソビエトの対立による「東西冷戦」の冷たい空気が漂っていた。

イラン(ペルシア)はアメリカの資本流入により、産業や技術の進展があり経済が回復した。

アメリカの狙いはイラン(ペルシア)の膨大に埋蔵された石油にあった。

それにソビエトの南方侵攻の防衛拠点としてイラン(ペルシア)を重要視していた。

この「東西冷戦」では、エジプトをはじめアフリカやアジアは中立を宣言した。

しかし、実際のエジプトはソビエトから軍事支援を受けており、アメリカやイギリスと対立する事となる。

こうした事情からエジプト大統領のナーセル(エジプト政治家→大統領)は、イギリスが運営権を保持しているスエズ運河の国有化を勝手に宣言した。

これに反発したイギリスはフランスと同盟してエジプトに侵攻し、そこにエジプトを敵国と観ていたイスラエル(エルサレム)も参戦した。

こうして1956年に「第2次中東戦争」が勃発する。

戦況はイギリスとフランスとイスラエル(エルサレム)の大勝となり、惨敗したエジプトの領土は焦土と化した。

しかし国際社会は、この「第2次中東戦争」をイギリスとフランスによるエジプトへの植民地の支配が復活したと見做(みな)して批判した。

アメリカとソビエトもエジプトに対して仲裁に入り、「第2次中東戦争」は終結した。

LEMONHEADS /♪ RIDE WITH ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:23:19

◆◇◆其の十四:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1900年

「第2次中東戦争」の終結後は、国際連盟の軍隊がイスラエル(エルサレム) のパレスチナをはじめ中東の動向を監視していた為に、紛争もなく平穏な日常生活を送る事ができた。

しかし、世界情勢ではアメリカとソビエトが対立する「東西冷戦時代」の真っ只中にあった。

そしてソビエトの共産主義者は、アメリカ寄りのイスラエル(エルサレム)を討伐すれば、中東での影響力は高まるとの思惑を抱いた。

そしてソビエトの共産主義者による奸計(かんけい)にて、『イスラエル(エルサレム)が中東に向けて開戦準備を始めた。』との流布(るふ)を、エジプトをはじめ中東諸国に吹聴(ふいちょう)した。

この讒言(ざんげん)を信用したエジプト大統領のナーセル(エジプト政治家→大統領)は、イラク地域のペルシャ湾の海上封鎖を実施した。

その頃の1960年代に、イスラエル(エルサレム)から領土を追われたパレスチナ人(アラブ人)がゲリラ部隊を組成し、武力闘争を繰り広げていた。

パレスチナ人(アラブ人)のゲリラ部隊を支持していたシリアとイスラエル(エルサレム)が軍事衝突の危機に陥る。

この状況を判断したエジプト大統領のナーセル(エジプト政治家→大統領)は、エジプトのシナイ半島にエジプト軍を駐屯させる。

これによりイスラエル(エルサレム)は、シリアとエジプトとヨルダンに奇襲を仕掛ける。

こうして1967年に「第3次中東戦争」が勃発する。

「第3次中東戦争」は短期決戦でイスラエル(エルサレム)が勝利し、エジプト軍は1万人以上の戦死者を出した。

この敗戦でエジプトのシナイ半島がイスラエル(エルサレム)に侵攻され占領される。

1970年にエジプト大統領のナーセル(エジプト政治家→大統領)が死去すると、後任にサーダート(エジプト大統領)が就任した。

サーダート(エジプト大統領)の最初の使命は、イスラエル(エルサレム)からシナイ半島を失地奪還(しっちだっかん)する事だった。

エジプト大統領のサーダート(エジプト政治家)は、ロシア人でイスラエル(エルサレム)の首相に就任していたゴルダメイア(イスラエル首相)に領土交渉を実施した。

しかしゴルダメイア(イスラエル首相)は、エジプトに対してイスラエル(エルサレム)が割譲(かつじょう)した領土の返還はしないとの姿勢を示した。

こうしてエジプトにとって失地奪還(しっちだっかん)の手法は戦争を選択する事になる。

こうして1973年に「第4次中東戦争」が勃発する。

この開戦日はユダヤ教の祭日だった事もあり、イスラエル(エルサレム)は軍隊を含めて稼働しておらず、エジプトはシリアと同盟してイスラエル(エルサレム)に侵攻した。

イスラエル(エルサレム)は南西部のエジプトと北部のシリアに対して挟み討ちに遭う。

不意を突いたエジプトとシリアが一時的に勝利した。

しかし、その後にイスラエル(エルサレム)が反撃に出て、エジプトとシリアは敗北した。

結局はエジプトはイスラエル(エルサレム)からシナイ半島を失地奪還(しっちだっかん)する事ができなかった。

KID ROCK /♪ ONLY GOD KNOWS WHY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:24:08

◆◇◆其の十五:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1900年

中東戦争の影響で原油価格が高騰し、イラン(ペルシア)をはじめとした中東の原油産油国は「オイルブーム」で巨万の富を得る。

イラン(ペルシア)は潤沢な軍事費によりアメリカから軍備品や武器を購入して軍隊の増強を計り、工業や商業にも尽力し近代化を推進させた。

この恩恵を受けたのが衰弱していたパフラヴィー朝イランの政府で、皇帝のモハンマドレザーパフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝)は巨万の財力で独裁政治に傾斜していく。

しかし、オイルマネーの恩恵は一部の富裕層や特権階級に留まり、イラン(ペルシア)の領民に富の分配による影響は及ばなかった。

しかも富裕層が増える拝金主義の資本主義化は、イラン(ペルシア)の古典的なイスラム教の信仰と対立した。

こうしてイラン(ペルシア)の領民の生活様式や価値観も変わりつつあった。

こうした中でモハンマドレザーパフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝)の独裁政治は、言論統制や反乱の鎮圧を実施しており、イラン(ペルシア)の領民の不満や憤懣(ふんまん)は最高潮に高まり、各地で抗議運動が巻き起こった。

こうして1979年に「イラン革命」が勃発する。

「イラン革命」の首謀者は、アーヤトッラー(イスラム法学者)のホメイニー(イラン革命家)で、イスラム教の教典に基づく国家の形成を提案し、イラン(ペルシア)の領民から絶大な支持を得る。

イラン(ペルシア)の全域でデモやストライキが頻発し、不安定な国家の統制により経済麻痺に陥る。

イラン(ペルシア)の領民による反乱は肥大化し、最早(もはや)、軍隊による鎮圧は不可能となる。

1978年にパフラヴィー朝イランは窮地に追い遣り、皇帝のモハンマドレザーパフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝)はエジプトに亡命した。

こうして1979年にパフラヴィー朝イランが滅亡した。

1979年にイランイスラム共和国が建国された。

イスラム教シーア派のホメイニー(イラン革命家)は、国民投票によりイランイスラム共和国の最高指導者に選任された。

イランイスラム共和国は、イスラム法に基づく正教一致の国家を目指した。

ホメイニー(イラン革命家)は政権を掌握し、世界的にも稀有(けう)なイスラム教による宗教指導国家を実現させた。

更にイランイスラム共和国のホメイニー(イラン革命家)は、金欲や物欲に溺れる経済大国のアメリカを敵視する。

またイランイスラム共和国は、アメリカやイギリスの後ろ盾を得るユダヤ教のイスラエル(エルサレム)とも対峙する。

ホメイニー(イラン革命家)が危惧したのが、イスラエル(エルサレム)は、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の三大聖地を領域にしている事を問題視する。

こうしてイスラム教のイランイスラム共和国とユダヤ教のイスラエル(エルサレム)による宗教戦争の幕が開けられた。

これによりイランイスラム共和国のホメイニー(イラン革命家)は、パレスチナ解放機構(PLO)の議長で代表者のアラファート(パレスチナ大統領)と連携も図った。

DASHBOARD CONFESSIONAL /♪ HANDS DOWN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:24:57

◆◇◆其の十六:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼1900年

このイランイスラム共和国の中東での動きに反発したのが、1979年〜2003年に掛けてイラク(アラブ)の大統領に就任したサッダームフセイン(イラク大統領)だった。

イラン(ペルシア)のイスラム教シーア派とイラク(アラブ)のイスラム教スンニ派も対峙していたのが背景にあった。

サッダームフセイン(イラク大統領)は、イラク(アラブ)に居住するイスラム教シーア派の反乱を恐れていた。

また、メソポタミア文明の発展地となったティグリス川とユーフラテス川を境に、隣接する西部のイラク(アラブ)と東部のイラン(ペルシア)は国境の問題も抱えていた。

この中でも一番の要因は、「イラン革命」により国力が衰退したイラン(ペルシア)に眠る石油の資源も、イラク(アラブ)のサッダームフセイン(イラク大統領)は奪取(だっしゅ)する目論みを企てていた。

こうしてイラク(アラブ)はイラン(ペルシア)への侵攻を開始した。

1980年〜1988年の「イランイラク戦争」にて、イラン(ペルシア)とイラク(アラブ)は戦争を繰り広げる事になる。

戦況はイラク(アラブ)が優位だったが、途中からイラン(ペルシア)はイスラム教シーア派の志願兵が増大して反撃に出た。

この戦争で最新化学兵器も使用され、戦況は膠着(こうちゃく)状態のままイラン(ペルシア)もイラク(アラブ)も、戦地の悪化に伴い両国は壊滅的な状況に陥った。

こうして1988年に国際連盟が仲裁に入り、「イランイラク戦争」は停戦する事になる。

この翌年の1989年にイランイスラム共和国の最高指導者だったホメイニー(イラン革命家)が死去した。

そして、1989年〜2026年にイランイスラム共和国の第2代最高指導者かつ第3代大統領に、ハメネイ師ことハーメネイー(イスラム法学者→イランイスラム大統領)が就任した。

ハメネイ師ことハーメネイー(イスラム法学者→イランイスラム大統領)は、更なるイスラム教による宗教指導国家の強化を遂行した。

1990年に中東のイラク(アラブ)がクエートに侵攻し、これに対してクエートやサウジアラビアやアメリカやエジプトなど多国籍軍が抗戦した「湾岸戦争」が勃発する。

これ以降にエジプトとアメリカは良好関係を築く。

1991年にイスラエル(エルサレム)とパレスチナの友好的な解決が話し合われる「中東和平交渉」が始まる。

アメリカとイスラエル(エルサレム)とエジプトによる会合の決議案に、パレスチナ人(アラブ人)は決議案を拒否を示した。

そんな時にパレスチナのガザ地区で、ユダヤ人が運転するトラックが交通事故を起こし、轢(ひか)かれた4人のパレスチナ人(アラブ人)が死亡した。

これに激怒したパレスチナ人(アラブ人)の少年が、駐屯するイスラエル(エルサレム)軍の兵士に投石する事件が起こる。

イスラエル(エルサレム)軍の兵士は機関銃で発砲して、パレスチナ人(アラブ人)の少年を射殺した。

これに起因してパレスチナ人(アラブ人)は、イスラエル(エルサレム)軍に投石する抗議運動の“インティファーダ”(民族蜂起)が活発化する。

この“インティファーダ”(民族蜂起)をイスラエル(エルサレム)軍が鎮圧すると、負傷したパレスチナ人(アラブ人)の映像が世界中に流れて、イスラエル(エルサレム)は非難を浴びる事になる。

国際世論がパレスチナ人(アラブ人)に同情した事で、パレスチナ解放機構(PLO)が行動を起こす。

パレスチナ解放機構(PLO)の議長で代表者のアラファート(パレスチナ大統領)は、国際連盟に参加して和平宣言を示した。

アラファート…『イスラエル(エルサレム)を国家として認可して、共存共栄の為に協力し、テロ行為は放棄する。』

この後の1993年に、ノルウェーのオスロにてアメリカ大統領のクリントン(第42代アメリカ大統領)も同席の元で、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファート(パレスチナ大統領)と、イスラエル首相のイツハクラビン(イスラエル首相)は講和条約の「オスロ合意」に締結した。

この「オスロ合意」では、パレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区の行政自治権をパレスチナに認可した。

世界情勢は、その他の中東における民族紛争も問題解決の糸口を見出したと感じていた。

こうして1999年にイスラエル(エルサレム)の首相に就任したエフードバラック(イスラエル首相)により、パレスチナとの共存共栄による和平政策が実施される。

エフードバラック(イスラエル首相)は、パレスチナとの講和交渉に積極的に尽力した。

しかしイスラエル(エルサレム)のユダヤ人は、独立国家として認可されたのに、パレスチナへの領土返還は承認できないとの姿勢を示していた。

こうしてエフードバラック(イスラエル首相)は退陣させられた。

HALF MOON RUN /♪ LOOSE ENDS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:25:49

◆◇◆其の十七:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼2000年

2000年代に入っても中東の宗教と領土の紛争に変化はなかった。

そしてイラン(ペルシア)の東部に隣接するアフガニスタンのイスラム原理主義のターリバーン(タリバン)も、2001年にアメリカ軍が侵攻して関係が悪化している。

これには2001年9月11日に起こった「アメリカ同時多発テロ」が起因している。

国際テロ組織のアルカーイダ(アルカイダ)の指導者だったウサーマビンラーディン(イスラム革命家)の指示により、アメリカのニューヨークとワシントンに民間飛行機で攻撃を仕掛けた。

その後に「アメリカ同時多発テロ」の首謀者だったウサーマビンラーディン(イスラム革命家)は、2011年にパキスタンにてアメリカ軍に殺害された。

2001年にイスラエル(エルサレム)の首相に就任したアリエルシャロン(イスラエル首相)は、前政権の真逆のパレスチナ対抗政策を実施した。

これに反発したパレスチナでは、イスラム主義抵抗組織ハマスが組成され、イスラエル(エルサレム)に対してのテロ行為が横行する様になる。

こうしてアリエルシャロン(イスラエル首相)は、イスラム主義抵抗組織ハマスへの対抗策としてヨルダン川西岸地区とイスラエル(エルサレム)との国境に、パレスチナのテロリストが侵攻できない様に巨大なコンクリート壁を建造した。

このコンクリート壁により、国際世論はイスラエル(エルサレム)を批判される事になる。

世界を無視できなくなったアリエルシャロン(イスラエル首相)は、2004年にパレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区の行政自治権をパレスチナに認可する事を示した。

イスラエル(エルサレム)とパレスチナの講和交渉にて、アリエルシャロン(イスラエル首相)はガザ地区をパレスチナに返還する事を承認した。

しかしこの講和交渉が、思いも依(よ)らない結果を招いた。

パレスチナ人(アラブ人)は、ガザ地区をパレスチナに返還は武闘による功績として、イスラム主義抵抗組織ハマスを支持した。

こうしてイスラエル(エルサレム)は、ガザ地区にもパレスチナのテロリストが侵攻できない様に巨大なコンクリート壁を建造した。

しかし2000年代の戦争は、ミサイルなどによる空爆が主流となり、イスラム主義抵抗組織ハマスはイスラエル(エルサレム)に対してのコンクリート壁を飛び越えて猛攻撃を仕掛けた。

これに対してイスラエル(エルサレム)軍も、パレスチナに向けてミサイルで猛攻撃を仕掛け、多くのパレスチナ人(アラブ人)が死傷した。

1996年と2009年と2022年にイスラエル(エルサレム)の首相に就任しているネタニヤフ(イスラエル首相)は、パレスチナに対してジェノサイド(集団殺戮)を容認し、イスラエル(エルサレム)軍はパレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区を包囲して兵糧攻めを実施した。

CHERRYFALLS /♪ My Drug

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260611 - ラジオの友 URL

2026/06/11 (Thu) 12:26:43

◆◇◆其の十八:ペルシャ猫に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)、メソポタミア文明の影響を受けたイラン(ペルシア)は如何(どう)して戦乱が起こるのか!◆◇◆

▼2000年

2003年にはアメリカ軍はイギリス軍と共に、イラン(ペルシア)の西部に隣接するイラク(アラブ)と戦争を繰り広げている。

その時のイラク大統領だったサッダームフセイン(イラク大統領)は、アメリカ軍を敵視して徹底抗戦したが、2003年にアメリカ軍に拘束され、裁判の判決により2006年の年末に死刑が執行された。

一方でイランイスラム共和国とイスラエル(エルサレム)も戦争を繰り広げる。

そんな時期にイスラム武装組織のヒズボラが組成された。

イランイスラム共和国は、イスラム武装組織ヒズボラに資金援助で支える事になる。

この戦況の中でイランイスラム共和国は、ハメネイ師ことハーメネイー(イスラム法学者→イランイスラム大統領)の陣頭指揮の元で、核開発を推進して核兵器の保有国となった。

こうして世界情勢から敵視されたイランイスラム共和国は孤立していく。

特にアメリカは、イランイスラム共和国に対して経済制裁を強化した。

この影響でイランイスラム共和国の経済は悪化して、通貨価値は暴落し、物価と失業率が急上昇した。

そんな2023年に、スンニ派武装組織ハマスが、イスラエル(エルサレム)に攻撃を仕掛けた。

パレスチナのガザ地区を中心に、イスラエル(エルサレム)とスンニ派武装組織ハマスは激戦が繰り広げられた。

これにイスラム武装組織ヒズボラも参戦して、イスラエル(エルサレム)に攻撃を仕掛けた。

2024年にイスラエル(エルサレム)は、シリアの領域に設けられたイラン(ペルシア)の外交施設を総攻撃を仕掛けた。

この空爆でイラン(ペルシア)の政府の閣僚などが死去した。

この報復措置として、イラン(ペルシア)はミサイルとドローンによりイスラエル(エルサレム)に攻撃を仕掛けた。

こうしてイスラエル(エルサレム)とイラン(ペルシア)の戦争と被害は拡大していった。

2025年にイスラエル(エルサレム)は、イラン(ペルシア)の戦闘機で軍事施設やミサイル基地を空爆した。

この報復措置として、イラン(ペルシア)は弾道ミサイルとドローンによりイスラエル(エルサレム)に攻撃を仕掛けた。

2026年2月26日、アメリカの不動産王かつ大統領のドナルドトランプ(第45代&第47代アメリカ大統領)がイスラエル(エルサレム)と共に、中東のイラン(ペルシア)に向けて戦争を仕掛けた。

このアメリカとイスラエル(エルサレム)の総攻撃により、イランイスラム共和国の第2代最高指導者かつ第3代大統領のハメネイ師ことハーメネイー(イスラム法学者→イランイスラム大統領)は死去した。

これによりイラン(ペルシア)の政権は大きく揺らぐ事になる。

この報復措置として、イラン(ペルシア)は弾道ミサイルとドローンによりイスラエル(エルサレム)とアメリカ軍基地に攻撃を仕掛けた。

更にイラン(ペルシア)は南部のホルムズ海峡を封鎖した。

この「アメリカイラン戦争」は世界中に影響を及ぼし、ペルシャ湾を運航する大型船がイランの攻撃の対象となり石油の運搬が滞り、特に主要国の経済は資源や商品の値上がりが著しい。

そして2026年の現在も、「アメリカイラン戦争」は継続中である。

いつまで経っても終結する事の無い戦争。

しかし、違った見方で人間と戦争を考察すると、その紛争の起因は身近な所に多く潜んでいる。

例えば、料理に文句を言って不味いと言う者は、本当に美味しい料理を食べた事が無い。

それと同じで社会や世の中に文句ばかり言う者は、本当に楽しい事や幸せな思いをした事が無い。

その不平や不満の先に在るのが紛争で、戦争である。

要は戦争を正当化する者は、本当の充実や本物の幸福に出会った事の無い不満分子(陰性民族)である事が判る。

この様に陰性民族は、ある日突然に消えて無くなる事はないから、極力に遠避けるが一番である。

『君子(くんし)危うきに近寄らず。』⦅徳があり思慮分別のある人(君子)は、身を慎(つつし)んで危険な場所や状況には、初めから近づかない。⦆

訳あって戦争を支持するのもいいが、その先にあるのは地獄に堕ちる一択のみと言う事も、生涯がある内に理解しておく必要がある。

戦争は人間を惨殺する事が罪ではない。

その土地に宿る神様に対しての背信行為が罪なのである。

JOSHUA KADISON /♪ JESSIE

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:45:09

YEAH YEAH YEAHS /♪ MOSQUITO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:46:15

KATSEYE /♪ INTERNET GIRL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:47:17

CHRISTELL /♪ DUBIDUBIDU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:48:09

BUFFALO G /♪ WE'RE REALLY SAYING SOMETHING

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:49:07

SHIKISHA /♪ LA LE LA

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:49:59

D'Oh! Anthem /♪ The D'Oh Account

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:50:56

SEVEN MARY THREE /♪ MY MY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:51:46

PUSCIFER /♪ DOZO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:52:41

RIHANNA /♪ BIRTHDAY CAKE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:53:33

T.C.P. /♪ GOTTA GIRL (UH-HUH)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:54:31

MARK RYDER /♪JOY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:55:26

ARMANI WHITE /♪ BILLIE EILISH.

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:56:22

MIKE POSNER /♪ COOLER THAN ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:57:14

OLIVER TREE /♪ MIRACLE MAN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:58:13

OLD MAN RIVER /♪ LA

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:59:04

SEPTEMBER 67 /♪ EVERYTHING I OWN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 07:59:57

DOMINIC FIKE /♪ MAMA'S BOY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260609 - ラジオの友 URL

2026/06/09 (Tue) 08:00:46

DOROTHY /♪ DOROTHY

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:09:04

◆◇◆其の一:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

戦国時代に尾張国(愛知県)の武将と言えば、織田信長(おだのぶなが/織田)を代表する様に、勇猛果敢(ゆうもうかかん)で戦地では獅子奮迅(ししふんじん)する姿が描かれている。

その織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍にも、“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)、五郎左衛門尉(ごろうざえもんのじょう)こと丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)、桓武平氏の三浦氏の庶流(しょりゅう)の佐久間氏の系統の佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)、織田信長(おだのぶなが/織田)の乳兄弟の池田恒興(いけだつねおき/織田)、越中国(富山県)から厳冬の立山連峰を越えて遠江国(とおとうみ/静岡県)に向かった佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)、“ツッパリの利家”と呼ばれる前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)など、尾張国(愛知県)の出自(しゅつじ)で勇壮華麗(ゆうそうかれい)の戦国武将は挙げたらきりがない。

そんな中でも様相が違い、殊勝(しゅしょう)や智勇(ちゆう)とは程遠い織田氏の一族が存在していた事をご存知だろうか?

戦いに明け暮れる戦国時代では自堕落(じだらく)で鼠輩(そはい)に映るが、角度を変えて観察すると、何処か愛嬌があり人間味に溢れている。

そんな現代でも居そうな織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の一族をご紹介しましょう。

●織田信長(おだのぶなが/織田)の叔父、織田信次(おだのぶつぐ/織田)

1512年以降に織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の当主だった織田信定(おだのぶさだ/斯波)の息子の織田信次(おだのぶつぐ/織田)が誕生した。

兄に織田信秀(おだのぶひで/織田)や織田信光(おだのぶみつ/織田)が居り、織田信長(おだのぶなが/織田)の叔父に当たる。

この頃の織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)を取り巻く環境は、室町幕府の将軍の足利氏を主軸として三管領(さんかんれい)で守護大名の斯波氏が、尾張国(愛知県)の守護代に織田大和守と織田伊勢守を据え置いた。

その織田大和守の庶流(しょりゅう)の一家が織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)に過ぎなかった。

織田氏が勢力を拡大させたのが、下克上(げこくじょう)が当たり前の1500年代である。

尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)を拠点としていた織田大和守の家臣だった織田信定(おだのぶさだ/斯波)が、嫡男(ちゃくなん)で息子の織田信秀(おだのぶひで/織田)に家督継承してから、織田氏の領域は一層に増幅していった。

そして織田信秀(おだのぶひで/織田)は、近隣諸国の駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)を拠点とする“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる今川義元(いまがわよしもと/今川)や、美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を拠点とする“蝮(マムシ)の道三”と呼ばれる長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)と勢力争いを繰り広げていた。

この頃に織田信次(おだのぶつぐ/織田)は兄の織田信秀(おだのぶひで/織田)に仕えて、各地の戦地で死闘を繰り広げて数々の武功(ぶこう)を挙げていた。

其(そ)れから時は流れて1552年に、織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の当主だった織田信秀(おだのぶひで/織田)が、尾張国(愛知県)の東別院に建つ古渡城(ふるわたりじょう/名古屋)にて死去する。

LIZ PHAIR /♪ ROCKET BOY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:10:03

◆◇◆其の二:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の叔父、織田信次(おだのぶつぐ/織田)

1552年に織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の当主だった織田信秀(おだのぶひで/織田)が死去すると、織田氏やその家臣の対立は一層の激しさを増した。

その混乱の中心に居たのが、織田信秀(おだのぶひで/織田)の嫡男(ちゃくなん)で息子の織田信長(おだのぶなが/織田)である。

尾張国(愛知県)の那古野城(なごやじょう/名古屋)に隣接した織田氏の菩提寺でもある萬松寺(ばんしょうじ/曹洞宗)にて、織田信秀(おだのぶひで/織田)の葬儀が営まれていた。

そこに織田氏の家督継承者だった織田信長(おだのぶなが/織田)が傾奇者(かぶきもの/異端者)の衣装で現れて、事もあろうか父親の位牌(いはい)に抹香(まっこう)を投げ付ける“抹香事件”(まっこうじけん)を起こした。

こうして織田大和守と織田伊勢守の対立だけでなく、織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の内部紛争も勃発した。

そんな時期に織田達勝(おだたつかつ/斯波)の養子だった織田信友(おだのぶとも/斯波)が、織田信長(おだのぶなが/織田)の暗殺計画を企てる。

織田信友(おだのぶとも/斯波)は、尾張国(愛知県)の鳴海城(なるみじょう/名古屋)の城主だった山口教継(やまぐちのりつぐ/織田→ 今川)と息子の山口教吉(やまぐちのりよし/織田→ 今川)などと共に、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)と密通(みっつう)していた。

この時に織田信長(おだのぶなが/織田)の叔父で尾張国(愛知県)の守山城(もりやまじょう)の城主だった織田信光(おだのぶみつ/織田)が、“偽降の計”(ぎこうのけい)を講じて敵陣を欺(あざむ)く為に降伏した様に装い、織田信友(おだのぶとも/斯波)の反対勢力を内部から鎮圧して尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)を奪取(だっしゅ)した。

そして1555年に織田信友(おだのぶとも/斯波)は、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に猛攻撃を仕掛けられ、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将も森可成(もりよしなり/土岐→織田)に斬首された。

そんな混沌とした1555年に、尾張国(愛知県)の守山城(もりやまじょう/名古屋)の城主だった織田信次(おだのぶつぐ/織田)は、陪臣(ばいしん)の洲賀才蔵(すがさいぞう/織田)と共に、尾張国(愛知県)を流れる庄内川(しょうないがわ)の視察に出掛けていた。

その河川敷を馬に跨(またが)る1人の武士が駆け抜けて行った。

それを見た織田信次(おだのぶつぐ/織田)と洲賀才蔵(すがさいぞう/織田)は、主君の親族でもある織田信次(おだのぶつぐ/織田)に対して、挨拶も無しに通り過ぎた事に憤(いきどお)りを感じた。

そして憤懣(ふんまん)した陪臣(ばいしん)の洲賀才蔵(すがさいぞう/織田)は、弓の矢を構えて馬に跨(またが)る1人の武士に狙いを定めた。

ギュ〜〜 ビュン

ブスッ

織田秀孝…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

バタン

不届者を仕留めた洲賀才蔵(すがさいぞう/織田)はご満悦だったが、織田信次(おだのぶつぐ/織田)は何も射殺しなくてもと咎(とが)める。

この後に2人は興醒(きょうざ)めして身体中の血の気が引いた。

この射殺された武士は、織田信長(おだのぶなが/織田)の弟で“天下一の美男子”と言われる織田秀孝(おだひでたか/織田)だったのである。

織田信次(おだのぶつぐ/織田)と洲賀才蔵(すがさいぞう/織田)は、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)の報復を恐れて尾張国(愛知県)から逃亡した。

ただ、織田秀孝(おだひでたか/織田)を射殺した織田信次(おだのぶつぐ/織田)に対する報復は、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)では無く、もう1人の兄の織田信行(おだのぶゆき/織田)だった。

織田信行(おだのぶゆき/織田)が率いる織田弟軍は、重鎮家臣の“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれる柴田勝家(しばたかついえ/織田)などと共に、織田信次(おだのぶつぐ/織田)の居城だった守山城(もりやまじょう/名古屋)を包囲して城下町を焼き討ちした。

一方で兄の織田信長(おだのぶなが/織田)は冷静沈着な判断で、織田秀孝(おだひでたか/織田)も単騎にて馬で駆け抜けた事にも非があるとして、織田信次(おだのぶつぐ/織田)へぼ罪は赦免(しゃめん)した。

しかし既に織田信次(おだのぶつぐ/織田)は逃亡した後の為に、無罪放免とは知らずに牢人(無職侍)を当面は続ける事になる。

SHAB /♪ LIPSTICK

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:11:15

◆◇◆其の三:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の叔父、織田信次(おだのぶつぐ/織田)

その後の1556年に起こった「稲生の戦」(いのうのたたかい)にて、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田兄軍と弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)が率いる織田弟軍が対立し、尾張国(愛知県)の北部を流れる庄内川(しょうないがわ)にて合戦を繰り広げた。

兄の織田信長(おだのぶなが/織田)は母親の土田御前(どたごぜん/織田)の仲裁により弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)を許した。

しかし、1558年に再び弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)が謀反(むほん)を起こして、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)の詭計(きけい)により尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)にて、弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)は斬殺された。

1559年には、織田伊勢守で尾張国(愛知県)の岩倉城(いわくらじょう)の城主だった織田信安(おだのぶやす/織田→斎藤→僧侶)は、嫡男(ちゃくなん)で息子の織田信賢(おだのぶかた/織田→僧侶)と対立して追放され出家して僧侶となる。

ただ、その岩倉城(いわくらじょう)の城主に就いた織田信賢(おだのぶかた/織田→僧侶)も、対立する織田信長(おだのぶなが/織田)に追放され出家して僧侶となった。

その直後に、室町幕府の尾張国(愛知県)の守護大名だった津川義近(つがわよしちか)こと斯波義銀(しばよしかね/室町→織田→豊臣)を、織田信長(おだのぶなが/織田)は敵対した事を理由に尾張国(愛知県)から追放した。

こうして織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の織田信長(おだのぶなが/織田)が、敵対する反対勢力を一掃して尾張国(愛知県)の統一を果たす。

その後に織田信次(おだのぶつぐ/織田)は尾張国(愛知県)に舞い戻り、織田信長(おだのぶなが/織田)に謝罪して再び守山城(もりやまじょう/名古屋)の城主に就いた。

其処(そこ)から織田信次(おだのぶつぐ/織田)は織田信長(おだのぶなが/織田)の重鎮家臣として仕えて、各地の戦地に従軍して数々の武功(ぶこう)を挙げた。

1570年に起こった「姉川の戦」(あねがわのたたかい)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍に織田信次(おだのぶつぐ/織田)も従軍した。

そして近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)を拠点とした浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)や、越前国(福井県)の一乗谷館(いちじょうだにやかた/福井)を拠点とする朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)と合戦を繰り広げた勝利する。

その後の1573年には、再び織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)に侵攻して包囲し、浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)は自決した。

この時に浅井長政(あざいながまさ/浅井)の妻で“小牧山の美女”と呼ばれるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)と三姉妹の茶々(ちゃちゃ)こと淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と初(はつ)こと常高院(じょうこういん/浅井→京極)と江(ごう)こと崇源院(すうげんいん/浅井→徳川)を、織田信次(おだのぶつぐ/織田)が身元引受人として面倒を見た。

しかし、翌年の1574年に起こった「長島一向一揆」(ながしまいっこういっき)にて、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の蓮如(れんにょ/僧侶)の息子の蓮淳(れんじゅん/僧侶)が建立(こんりゅう)した伊勢国(三重県)の長島(桑名)の願証寺(がんしょうじ/浄土真宗)を拠点とする一向一揆衆との激しい戦闘で織田信次(おだのぶつぐ/織田)は討死した。

実際は陪臣(ばいしん)の洲賀才蔵(すがさいぞう/織田)が弓の矢を射って織田信長(おだのぶなが/織田)の弟で“天下一の美男子”と言われる織田秀孝(おだひでたか/織田)を射殺したので、織田信長(おだのぶなが/織田)の叔父の織田信次(おだのぶつぐ/織田)に対してポンコツ織田家と認定するには忍びないが、その後に逃亡して牢人(無職侍)に成り下がった事はポンコツ織田家に値する。

AMY STUDT /♪ CHASING THE LIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:12:16

◆◇◆其の四:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の弟、織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)

1534年に尾張国(愛知県)の勝幡城(しょばたじょう/稲沢・愛西)にて、織田信秀(おだのぶひで/織田)と土田御前(どたごぜん/織田)の息子の織田信長(おだのぶなが/織田)が誕生する。

その12年後の1546年に織田信長(おだのぶなが/織田)の弟の織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)が誕生した。

戦国武将として華々しい活躍を魅せる父親の織田信秀(おだのぶひで/織田)や織田信長(おだのぶなが/織田)の筋目(すじめ)として、織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)もさもや賢能(けんのう)の武士と思いきや、実情は全くの真逆で暗愚魯鈍(あんぐろどん)の引き篭もりと呼ばれていた。

更に織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)が悪辣(あくらつ)なのは、大言壮語(たいげんそうご)で織田軍の家臣を翻弄させ迷惑を掛けていた事にある。

ある日、織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)は、自分には馬を50頭も所有していると流布(るふ)して回っていた。

織田軍の家臣は聞く耳を持たず織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)を蔑(さげす)ませていた。

この態度に織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)は憤懣(ふんまん)して、後日に陪臣(ばいしん)に1頭の馬を朝から晩まで洗わせた。

そして織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)は如何(いか)にも馬が50頭も所有しているかの様に、多くの馬を洗うと晩まで掛かってしまうと吹聴(ふいちょう)した。

当然だが、この事を織田軍の家臣で信じる者は1人も居なかった。

そんな愚拙(ぐせつ)な織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)を他所(よそ)に、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は躍進を続けていた。

そして征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)を従えて1568年に起こった「上洛戦」(じょうらくせん)にて勝利した織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、室町幕府の京都を拠点に天下統一を目指す。

その後の1581年に織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、都(みやこ)にて観兵式(かんぺいしき)の京都御馬揃(きょうとおうまぞろ)えを実施した。

京都の市中を練り歩く織田軍には、嫡男(ちゃくなん)で長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)や三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)などの織田氏や、“織田四天王”の柴田勝家(しばたかついえ/織田)や丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)や滝川一益(たきがわかずます/織田)や明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)をはじめ武将が参列した。

しかし、高尚(こうしょう)な武将から順に参列する織田軍の中で、匹夫(ひっぷ)の扱いを受けている織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)はかなり後方で参列していた。

SOPHIE ELLIS-BEXTOR /♪ STAY ON ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:13:20

◆◇◆其の五:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の弟、織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)

智勇(ちゆう)の織田信長(おだのぶなが/織田)の庇護(ひご)の元で、悠々自適に暮らしていた愚昧(ぐまい)の織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)だったが、そんな過保護な生活を一変させる事態が起こった。

1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により織田信長(おだのぶなが/織田)と嫡男(ちゃくなん)で長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)した。

その後に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)で11日余りで摂津国(大阪府)まで舞い戻り、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で起こった「山崎の戦」(やまざきのたたかい) で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を討ち取った。

こうして織田軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に引き継がれる事になる。

状況が激変した織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)に仕える事を決める。

織田軍の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が主君に登り詰めた事に憤懣(ふんまん)した織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)や三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同盟を締結して敵対した。

こうして1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の北部を中心に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

この合戦で織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、叔父の織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)に奥城(おくじょう/一宮)の防衛を任せた。

奥城(おくじょう/一宮)に篭城した織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)は、豊臣軍に包囲されて攻撃を受けて直ぐに落城した。

織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)は捕縛(ほばく)され、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の前に拘引(こういん)された。

通常だったら斬首されるが、織田信長(おだのぶなが/織田)の弟という事で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)は助命された。

その後も織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)に仕えた織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)は、尾張国(愛知県)の沓掛城(くつかけじょう/豊明)の城主に就任した。

その後の江戸幕府では、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の配慮により本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の家臣に仕えた。

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)に仕えて織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)も顔を出したと言う。

その後の1610年に、伊勢国(三重県)の桑名藩の藩主に就任した主君の本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)が死去した事により、織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)も殉死(じゅんし)したと言われる。

織田信長(おだのぶなが/織田)の弟の織田信照(おだのぶてる/織田→徳川)の経歴を診ても、輝かしい功績を知る事はできない。

ただ、歴史とは事実や真実とは異なる物語も混在している為に、現代人が虚実(きょじつ)を知る事はできない。

COLBIE CAILLAT /♪ CIRCLES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:14:15

◆◇◆其の六:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の弟、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)

1534年に尾張国(愛知県)の勝幡城(しょばたじょう/稲沢・愛西)にて、織田信秀(おだのぶひで/織田)と土田御前(どたごぜん/織田)の息子の織田信長(おだのぶなが/織田)が誕生する。

その13年後の1547年に織田信長(おだのぶなが/織田)の弟の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)が誕生した。

戦国武将として華々しい活躍を魅せる父親の織田信秀(おだのぶひで/織田)や織田信長(おだのぶなが/織田)の筋目(すじめ)として、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)もさもや賢能(けんのう)の武士と思いきや、実情は文武両道(ぶんぶりょうどう)の武道が備わっていない文化の道で華を開かせた人物である。

ある合戦にて、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に従軍していた有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、いつもの様に武功(ぶこう)を挙げる事ができなかった。

有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は馬に跨(またが)り帰路に着いていた時に、突然に落馬して骨折してしまった。

それを見ていた織田軍の武士は、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)とは異なり、鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)な武将とは程遠い人物と評価した。

そんな自堕落(じだらく)な有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)を他所(よそ)に、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は躍進を続けていた。

この時期に有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)を介して茶道に出会っている。

智勇(ちゆう)の織田信長(おだのぶなが/織田)の庇護(ひご)の元で、茶人としての道を歩み始めた有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)だったが、そんな文化的な生活を一変させる事態が起こった。

VALERIE CARTER /♪ SO,SO,HAPPY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:15:07

◆◇◆其の七:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の弟、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)

1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、京都の本能寺(ほんのうじ)に宿泊していた織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)した。

その傍(かたわら)に居たアフリカのモザンビークの出身の黒人の侍(サムライ)と呼ばれた弥助(やすけ/イエズス会→織田)が遣者として、嫡男(ちゃくなん)で長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)と有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)が宿泊していた二条御所(にじょうごしょ)に、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)を伝えに来た。

しかし、その直後に二条御所(にじょうごしょ)は明智軍に包囲された。

最早(もはや)ここ迄(ここ)と有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、甥の織田信忠(おだのぶただ/織田)に対して切腹を薦めた。

織田氏の家督継承者の織田信忠(おだのぶただ/織田)も承諾して切腹し自決した。

続いて有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)も切腹して殉死(じゅんし)する予定だったが、脇差(わきざし)を腹に突き刺した時の激痛に耐えれず、切腹するのを取り止めた。

しかも、二条御所(にじょうごしょ)から明智軍は撤退しており、周囲に誰も居なかった為に、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は屋敷を飛び出した。

其処(そこ)から東方に逃亡して近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)に到着し、其(そ)れから織田家の一族と共に美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)に辿り着いた。

その後に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)で11日余りで摂津国(大阪府)まで舞い戻り、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で起こった「山崎の戦」(やまざきのたたかい) で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を討ち取った。

こうして織田軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に引き継がれる事になる。

状況が激変した有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)に仕える事を決める。

「本能寺の変」(ほんのうじのへん)の後に京都では流行歌が唄われ、1596年に発刊された世話集の“義残後覚”(ぎざんこうかく)にも記載された。

『♪織田(をだ)の源五(織田長益)は人ではないよ、御腹めせめせめさせておいて、我は安土(あづち)へ逃(に)くる源五、むつき二日に大水出でて、織田(をた)の原(はら)ふる名を流(なが)す。』⦅有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は人でなし、織田信忠(おだのぶただ/織田)に切腹にて自決を薦めておきながら、自らは安土城(あづちじょう/近江八幡)に逃亡している。1月2日は大水が出て全てを流す様に、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の行為は織田家の名誉を泥水で流してしまった。⦆

TORI AMOS /♪ PAST THE MISSION

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:16:05

◆◇◆其の八:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の弟、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)

1582年に開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)の後に、1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)で“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)を自決に追い遣った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、織田軍の統率者となる。

織田軍の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が主君に登り詰めた事に憤懣(ふんまん)した織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)や三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同盟を締結して敵対した。

こうして1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の北部を中心に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

しかし、総大将の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に報告も連絡も相談も無しに、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の調略(ちょうりゃく)により和睦してしまう。

こうして有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に仕える事になる。

此処(ここ)から茶道の名称として『織田軍に従軍して戦乱に巻き込まれ楽な事は無かった。』との意味から“無楽斎”(むらくさい)と名付けた。

ところが、この“無楽斎”(むらくさい)と言う名称を聞いた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、『楽が無いでは淋しいから、楽が有る。』と言う意味で“有楽斎”(おだうらくさい)に変更してしまう。

此処(ここ)から茶人の織田有楽斎(おだうらくさい)の人生が始まる。

田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)の一門で茶道を学び、茶人で武将の細川幽斎(ほそかわゆうさい)こと細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)と細川三斎(ほそかわさんさい)こと細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)の親子などとも交流した。

其(そ)れから平穏な日々が続き、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は茶道に没頭する事ができた。

ところが1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去すると、再び戦乱の日々に舞い戻る。

NOISETTES /♪ EVERY NOW AND THEN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:17:00

◆◇◆其の九:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の弟、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍が合戦を繰り広げた。

この美濃国(岐阜県)の戦地で有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍に従軍した。

戦況は東軍が圧倒的な勝利で終わるが、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の家臣の島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)と共に蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)は奮闘し東軍を圧倒していた。

そんな西軍の蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)とは、元は蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)の家臣で、東軍の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)とも親交があった。

そして有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)が布陣する陣営に、偶然に蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)が敗走してきた。

其処(そこ)で有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は顔見知りの蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)に声を掛けた。

織田長益…『あっ! 蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)殿!?』

蒲生頼郷…『んっ!? 織田長益(おだながます/織田→茶人)殿!』

織田長益…『戦況は東軍の勝利で終わった。 私に降伏すれば、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)殿に掛け合って助命嘆願いたそう。』

蒲生頼郷…『降伏して下れとぉ!? 失礼千万!  無礼者!!』

バサッ バサッバサッ

織田長益…『うわぁ〜〜』

バタン

馬に跨(またが)る蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)が太刀(たち)で斬り掛かってきたが、馬に跨(またが)る有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は驚いて落馬し骨折した。

織田長益…『ギャ〜〜 痛い〜 骨が折れたぁ〜』

その間に東軍の武士が蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)を斬殺した。

こうして有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)は終わった。

RACHEL CHINOURIRI /♪ MARIE KONDO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:19:57

◆◇◆其の十:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の弟、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)以降、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)にて、亡き豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の妻の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の侍従(じじゅう)として仕えた。

其(そ)れから平穏な日々が続き、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は屋敷に茶室を設けて、茶道に没頭する事ができた。

ところが淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が、1614年に京都の方広寺(ほうこうじ/臨済宗)を再建する際に、釣鐘に刻んだ文面にて問題となる「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)が起こった。

そして1614年に起こった「大坂・冬の陣」にて、再び戦乱の日々に舞い戻る。

この時に大坂城(おおさかじょう)に居城していた有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)に居城している顔馴染みの徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と、講話交渉に尽力して条件付きで和睦する事ができた。

しかし、大坂城(おおさかじょう)での豊臣軍は、徳川軍と交戦する姿勢を見せていた為に、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は大坂城(おおさかじょう)から退去して京都に移住した。

そして1615年に起こった「大坂・夏の陣」にて、淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)は自決して豊臣氏は滅亡した。

京都で隠居生活を送っていた有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、建仁寺(けんにんじ/臨済宗)に茶室の如庵(じょあん)を設け、茶道の有楽流を創設した。

現代では、愛知県犬山市の犬山城(いぬやまじょう)に隣接した有楽庵(うらくあん)に、茶室の如庵(じょあん)は移築されている。

また江戸幕府の配慮により、武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)の南東部に有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の為に屋敷を建設している。

その地が現代では、東京都千代田区の有楽町として名残りがある。

1622年に有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は京都で死去した。

その有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の子孫は明治期にも存続し、現代でも織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)は息づいている。

武将として愚拙(ぐせつ)と呼ばれた有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)だが、茶道の茶人としては才知(さいち)を発揮した。

一時名流(いちじめいりゅう)の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)として名を残す事になる。

PATTY LARKIN /♪ WHO HOLDS YOUR HAND

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:20:57

◆◇◆其の十一:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の息子、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)

戦国時代を代表する尾張国(愛知県)の武将の織田信長(おだのぶなが/織田)には、複数人の子供が居る。

ただ、美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)の城主だった“蝮(マムシ)の道三”と呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の娘の濃姫(のうひめ/斎藤→織田)とは御子息は誕生しなかった。

その代わりに尾張国(愛知県)の江南(こうなん)を拠点としていた生駒家の家系で、側室の生駒吉乃(いこまきつの/生駒→織田)との間に、長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)と次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と長女の徳姫(とくひめ/織田→徳川)が誕生した。

それ以外の御子息も各々の側室から誕生している。

織田氏の家督継承者で長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)は、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、父親の織田信長(おだのぶなが/織田)と共に自決した。

その息子に三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)が居た。

次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、1558年に誕生し江戸時代まで生存した長寿でも有名であり、様々な人々から暗愚魯鈍(あんぐろどん)と呼ばれた今回の主役である。

長女の徳姫(とくひめ/織田→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の嫡男(ちゃくなん)で息子の松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)の妻で、“十二ヶ条の弾劾文(だんがいぶん)”を父親の織田信長(おだのぶなが/織田)に送達した事が起因して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)により、妻の築山殿(つきやまどの/今川→徳川)と息子の松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)は粛清(しゅくせい)された。

三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)は、剛毅果断(ごうきかだん)の武将だったが、1583年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と対立して幽閉された尾張国(愛知県)の知多半島に位置する野間の野間大坊(のまだいぼう)こと内海大御堂寺(うつみおおみどうじ/真言宗)で自決した。

因みに野間大坊(のまだいぼう)こと内海大御堂寺(うつみおおみどうじ/真言宗)は、鎌倉幕府の征夷大将軍1代目に就いた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の父親の源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)が、1160年に家臣の謀反により斬首されたお寺でもある。

次女の相応院(そうおういん/織田)は、近江国(滋賀県)の日野の武将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)の妻に嫁いだ。

四男の羽柴秀勝(はしばひでかつ)こと織田秀勝(おだひでかつ/織田→豊臣)は、母親が相応院(そうおういん/織田)の姉妹と言われ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の養子に入っている。

五男の御坊丸(ごぼうまる)こと織田勝長(おだかつなが/織田)は、美濃国(岐阜県)の恵那の岩村城の城主だった遠山景任(とおやまかげとお/遠山)の養子に入っている。

ALICE RUSSELL /♪ SQUARE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:21:59

◆◇◆其の十二:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の息子、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)

そんな幼少期の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)にてハイハイしている時に、父親の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、「日本三大奇襲戦」と呼ばれた1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)を足掛かりに躍進を続けていた。

其(そ)れから幾年が過ぎて、織田信長(おだのぶなが/織田)の息子達は成人の儀式の元服(げんぷく)を迎えて、武士として1人立ちを始めていた。

特に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)は、父親譲りの獅子奮迅(ししふんじん)にて、数々の戦地にて武功(ぶこう)を挙げていった。

その兄弟の功績を横目で観ていた次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)も、武者震いをして鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)にて、1574年に当時の敵陣だった伊勢北畠氏で伊勢国(三重県)の国司だった北畠具教(きたばたけとものり/公家)に対して侵攻を開始した。

ところが織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の織田軍次男隊の進軍は、織田信長(おだのぶなが/織田)に報告も連絡も相談も無く、無断で実施していた。

ただ、北畠具教(きたばたけとものり/公家)が率いる北畠軍に勝利すれば、それ程に大事ではなかったかも知れないが、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる織田軍次男隊は返り討ちに遭い惨敗した。

しかも多くの武将や武士が討死している。

この伊勢国(三重県)への身勝手な侵攻で、激昂(げきこう)した父親の織田信長(おだのぶなが/織田)は、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を親子の関係を勘当(かんどう)寸前に叱責した。

1576年に織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、伊勢国(三重県)へ「伊勢攻め」を開始して、北畠具教(きたばたけとものり/公家)が率いる北畠軍と交戦を繰り広げた。

戦況は織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が圧勝し、北畠具教(きたばたけとものり/公家)は討死した。

因みに伊勢国(三重県)の国司に就いていた北畠具教(きたばたけとものり/公家)とは、剣術士としても有名で、吉川朝孝(よしかわともたか)こと塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)と上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)から剣術を伝承し、剣術の達人だった柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)や胤舜(いんしゅん/僧兵)と親交もあった京都の朝廷の公家である。

「伊勢攻め」の敗戦後に、北畠具教(きたばたけとものり/公家)の息子の北畠具房(きたばたけともふさ/公家)は、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を養子入れた。

そして北畠具房(きたばたけともふさ/公家)の娘の雪姫(ゆきひめ)こと千代御前(ちよごぜん/北畠→織田)は、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の妻に嫁いだ。

北畠晴具(きたばたけはるとも/公家)の息子で北畠具教(きたばたけとものり/公家)の弟の北畠具政(きたばたけともまさ)こと木造具政(こづくりともまさ/北畠→木造→織田)は、家臣の木造氏(こづくりうじ)を引継ぎ、寝返り織田信長(おだのぶなが/織田)に従い、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の家臣に就いた。

NATALIE IMBRUGLIA /♪ SMOKE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:22:56

◆◇◆其の十三:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の息子、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)

1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により織田信長(おだのぶなが/織田)と嫡男(ちゃくなん)で長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)した。

この時に近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)に居城していた織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、織田軍の家臣から弔(とむら)い合戦に出陣する様に助言を受けていた。

ところが織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)はキッパリと拒否し、その理由は未だに定かではない。

更に織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は火の着いた松明(たいまつ)を握りしめて、“天下の名城”と呼ばれる近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)に火を放った。

安土城(あづちじょう/近江八幡)は全焼こそしなかったが、一部が焼失してしまった。

周囲の織田軍の家臣やキリスト教のカトリック司祭でイエズス会の宣教師のルイスフロイス(カトリック宣教師/ポルトガル)は、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)のこの意味不明な奇行に驚愕(きょうがく)していた。

そしてルイスフロイス(カトリック宣教師/ポルトガル)は、著書した“イエズス会日本通信”や“日本史”に⦅織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は暗愚魯鈍(あんぐろどん)な武士である。⦆と記載している。

その後に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)で11日余りで摂津国(大阪府)まで舞い戻り、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で起こった「山崎の戦」(やまざきのたたかい) で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を討ち取った。

1582年に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)で開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と池田恒興(いけだつねおき/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の4人は、織田氏の家督継承者に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子で3歳の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を就任させた。

まだ幼少期だった三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)の事もあり、その後見人に次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が就いた。

ところが三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)は結託して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と対立した。

これに対して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を担ぎ上げて近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)の城主に就任させた。

その後の1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍は勝利して、越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)で柴田勝家(しばたかついえ/織田)を自決に追い遣った。

三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)も、1583年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と対立して、幽閉された尾張国(愛知県)の知多半島に位置する野間の野間大坊(のまだいぼう)こと内海大御堂寺(うつみおおみどうじ/真言宗)で自決した。

そして価値と必要が無くなった次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)により近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)から追い出された。

織田軍の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が主君に登り詰めた事に憤懣(ふんまん)した織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)や三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同盟を締結して敵対した。

こうして1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の北部を中心に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

しかし、総大将の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に報告も連絡も相談も無く、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の調略(ちょうりゃく)により和睦してしまう。

こうして織田軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に引き継がれる事になる。

AXELLE RED /♪ J'AI JAMAIS DIT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:23:58

◆◇◆其の十四:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)の息子、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)

その後の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣政権に従属(じゅうぞく)する主従関係となった。

1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣政権は天下統一の達成に向けて、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする父親で伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と、息子で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐の為に出陣した。

この時の豊臣軍には織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)も従軍していた。

15万人余りの豊臣軍は小田原城(おだわらじょう)を包囲し、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の8万人余りの北条軍は、重鎮家臣との軍議による小田原評定(おだわらひょうじょう)により篭城に徹した。

そして豊臣軍の天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は小田原城(おだわらじょう)を訪問して、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)と和睦交渉の会合を催した。

そして伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は戦争責任として自決だが、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は助命し、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を中心とした関東地方を領地没収の改易(かいえき)で合意した。

この思いもよらない織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の快挙に対して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)と駿河国(静岡県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)と三河国(愛知県)の150万石の大大名に、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を昇格させる事を決定した。

ところが織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の地盤の尾張国(愛知県)と領域である伊勢国(三重県)を離れたくないと言う理由から拒否した。

これに激怒した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を領地没収の改易(かいえき)として、豊臣政権からも追放し、牢人(無職侍)の身となった。

その後に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、不憫(ふびん)な織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を憐(あわ)れんで徳川軍に引き入れた。

1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去した。

こうして1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍が合戦を繰り広げた。

この美濃国(岐阜県)の戦地では、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は中立の立場を決め込み動かなかった。

戦況は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍が勝利する。

この微動だにしなかった織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)に対して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は不忠(ふちゅう)と不義(ふぎ)と捉えて領地没収の改易(かいえき)とした。

そして織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)はこの慚愧(ざんぎ)から、1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」では、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍に従軍した。

こうして戦勝した徳川軍に就いた織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から上野国(こうずけ/群馬県)の碓氷(うすい)一帯の2万石と大和国(奈良県)の宇陀(うだ)一帯の3万石の領土を与えられ大名に復帰する。

その後の1630年に織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、京都の北野屋敷にて73歳で死去した。

織田信長(おだのぶなが/織田)の一族では異例の長寿だった次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、巷(ちまた)の評判の様に暗愚魯鈍(あんぐろどん)だったのかは疑問が残る。

最後まで現場に立ち続けた織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)こそ、織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の倫魁不羈(りんかいふき)な武将に相応しい人物かも知れない。

LANA DEL REY /♪ SAY YES TO HEAVEN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:25:03

◆◇◆其の十五:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の息子、織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)

1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により織田信長(おだのぶなが/織田)と嫡男(ちゃくなん)で長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)した。

この同年の1582年に、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の息子の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は誕生した。

織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は次男で、兄に織田長孝(おだながたか/織田→豊臣)が居たが、側室との息子だった為に織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)が嫡男(ちゃくなん)で家督継承者として選定された。

話を「本能寺の変」(ほんのうじのへん)に戻すと、父親の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、甥の織田信忠(おだのぶただ/織田)に対して切腹を薦めた。

織田氏の家督継承者の織田信忠(おだのぶただ/織田)も承諾して切腹し自決した。

続いて有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)も切腹して殉死(じゅんし)する予定だったが、脇差(わきざし)を腹に突き刺した時の激痛に耐えれず、切腹するのを取り止めた。

しかも、二条御所(にじょうごしょ)から明智軍は撤退しており、周囲に誰も居なかった為に、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は屋敷を飛び出した。

其処(そこ)から東方に逃亡して近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)に到着し、其(そ)れから織田家の一族と共に美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)に辿り着いた。

その後に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)で11日余りで摂津国(大阪府)まで舞い戻り、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で起こった「山崎の戦」(やまざきのたたかい) で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を討ち取った。

こうして織田軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に引き継がれる事になる。

状況が激変した有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)に仕える事を決める。

「本能寺の変」(ほんのうじのへん)の後に京都では流行歌が唄われ、1596年に発刊された世話集の“義残後覚”(ぎざんこうかく)にも記載された。

『♪織田(をだ)の源五(織田長益)は人ではないよ、御腹めせめせめさせておいて、我は安土(あづち)へ逃(に)くる源五、むつき二日に大水出でて、織田(をた)の原(はら)ふる名を流(なが)す。』⦅有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は人でなし、織田信忠(おだのぶただ/織田)に切腹で自決を薦めておきながら、自らは安土城(あづちじょう/近江八幡)に逃亡している。1月2日は大水が出て全てを流す様に、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の行為は織田家の名誉を泥水で流してしまった。⦆

この父親の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の不忠(ふちゅう)や不義(ふぎ)が、息子の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)の性格や素行に影響したかは判らない。

KELLY SWEET /♪ RAINCOAT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:26:00

◆◇◆其の十六:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の息子、織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)

青年になった織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は、見事な傾奇者(かぶきもの/異端者)に成長していた。

因みに叔父で“大うつけ”(大バカ者)と呼ばれた織田信長(おだのぶなが/織田)や織田軍の重鎮家臣で“ツッパリの利家”と呼ばれた前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)も、青年期は見事な傾奇者(かぶきもの/異端者)だった。

同族同種の血筋とは引継ぐものである。

時は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が担う豊臣政権が天下統一を果たし、世は泰平の時代であった。

ただ1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去した。

そして、再び戦乱の時代に逆戻りした。

こうして1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍が合戦を繰り広げた。

「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、父親の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)と、長男の織田長孝(おだながたか/織田→豊臣)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍に従軍した。

次男の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)も、自らの初陣(ういじん)が天下の大戦(おおいくさ)の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)とあって、大いに武者震いをして豪放磊落(ごうほうらいらく)となっていた。

ところが日頃の素行の悪さから、傾奇者(かぶきもの/異端者)の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の留守役に任命された。

戦況は東軍が圧倒的な勝利で終わる。

そんな時に東軍の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の陣営に、偶然に西軍の蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)が逃亡してきた。

有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、元は蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)の家臣だった蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)と親交があり話し掛けた。

ただ、その会話が蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)の逆鱗(げきりん)に触れる内容だった為に、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は斬り付けられそうになり落馬して骨折した。

他の東軍の武士に蒲生頼郷(がもうよりさと/六角→織田→豊臣)は斬殺され、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は一命を取り留めた。

ただ、この不首尾(ふしゅび)の談話だけではなく、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は息子の織田長孝(おだながたか/織田→豊臣)と共に武功(ぶこう)も挙げて、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の東軍の戦勝に貢献している。

その為に有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)と息子の織田長孝(おだながたか/織田→豊臣)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から論功行賞(ろんこうこうしょう)による恩賞(おんしょう)が与えられた。

特に織田長孝(おだながたか/織田→豊臣)は、この功績から後々に美濃国(岐阜県)の野村藩(揖斐)の藩主に就任している。

何も得られなかったのは、次男の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)だけだった。

TORI AMOS /♪ PROMISE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:27:05

◆◇◆其の十七:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の息子、織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)以降、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)にて、亡き豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の妻の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の侍従(じじゅう)として仕えた。

其(そ)れから平穏な日々が続き、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は屋敷に茶室を設けて、茶道に没頭する事ができた。

その頃の息子の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は、京都で相変わらず傾奇者(かぶきもの/異端者)として浅学非才(せんがくひさい)の道を極めていた。

1606年に織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は、親交のある大名や公家などと毎晩の様に酒池肉林を堪能していた。

そして朝廷の女官や大名の女房に大量の飲酒をさせて、酩酊(めいてい)な状態にして泥酔させていた。

更に京都市中で織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は、太刀(たち)を振り回して京町人の不評を買っていた。

こうして激昂(げきこう)した父親の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)から叱責を受けた。

また、江戸幕府の京都所司代(きょうとしょしだい)から執行猶予付き処罰の勧告を受けた。

己の不甲斐なさに呵責(かしゃく)に駆られる織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)だったかどうかは判らない。

そこから幾年(いくとせ)が過ぎた京都にて、朝廷の公家の猪熊教利(いのくまのりとし/公家)が、親交のある皇族や公家などと毎晩の様に酒池肉林を堪能していた。

そして朝廷の女官や皇室の侍女(じじょ)に大量の飲酒をさせて、酩酊(めいてい)な状態にして泥酔させ男女で乱交を繰り広げていた。

猪熊教利(いのくまのりとし/公家)とは、戦国時代の1583年に誕生し、藤原氏北家(ほっけ)の四条家の庶流(しょりゅう)である猪熊家の系統で、“天下一の美男子”と呼ばれて、讃岐国(香川県)の高松藩の2代目藩主だった生駒一正(いこまかずまさ/織田→豊臣→徳川)の娘を妻に娶(めと)った。

江戸幕府の高松藩の2代目藩主に就任していた義父の生駒一正(いこまかずまさ/織田→豊臣→徳川)は、生駒親正(いこまちかまさ/織田→豊臣)の息子で、父親と共に織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣だった人物で、1610年に死去した。

1609年に起こった「猪熊事件」(いのくまじけん)の罪人の猪熊教利(いのくまのりとし/公家)は、朝廷の検非違使(けびいし)や江戸幕府の京都所司代(きょうとしょしだい)に指名手配され逃亡した。

この時に逃亡を手助けしていたのが、なんと織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)であった。

こうして織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)の擁護(ようご)により猪熊教利(いのくまのりとし/公家)は京都から逃亡する事ができた。

しかし、猪熊教利(いのくまのりとし/公家)は日向国(ひむか/宮崎県)まで逃亡するも、そこの藩主に拘束され、京都に拘引(こういん)されて処刑された。

この織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)の愚行により、激昂(げきこう)した父親の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)から叱責を受けて親子を絶縁され勘当された。

また、江戸幕府の京都所司代(きょうとしょしだい)から酷刑(こっけい)の処罰を受けた。

こうして織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は、越前国(福井県)へ配流(はいる)となった。

この処分が織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)に取り、江戸幕府に対して怨念を増幅させた。

ただ、江戸幕府の処分は何の不備も無い正当な判断であった。

CAITLIN CARY /♪ PLEASE BREAK MY HEART

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260603 - ラジオの友 URL

2026/06/03 (Wed) 05:28:01

◆◇◆其の十八:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の恥辱(ちじょく)、やらかしたポンコツ織田家の一族◆◇◆

●有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の息子、織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)

摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に居城していた淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が、1614年に京都の方広寺(ほうこうじ/臨済宗)を再建する際に、釣鐘に刻んだ文面にて問題となる「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)が起こった。

そして1614年に起こった「大坂・冬の陣」にて、再び戦乱の日々に舞い戻る。

ただ、越前国(福井県)へ配流(はいる)となっていた織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)も、懲役を終えて服役して大坂城(おおさかじょう)に居た。

この根っからの傾奇者(かぶきもの/異端者)の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)が、荒唐無稽(こうとうむけい)な武勇伝を語って1万人を率いる豊臣軍の大将に擁立(ようりつ)された。

この織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)の大言壮語(たいげんそうご)を信用信頼したのは、大坂城(おおさかじょう)に篭城する淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)など重鎮家臣である。

そして、“大坂三人衆”(おおさかさんにんしゅう)と呼ばれた毛利勝永(もうりかつなが/豊臣)と真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)と長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/長宗我部→豊臣)である。

更に、そこに2人を併せた“大坂五人衆”(おおさかごにんしゅう)の明石全登(あかしてるずみ/宇喜多→豊臣)と後藤又兵衛(ごとうまたべえ)こと後藤基次(ごとうもとつぐ/黒田→豊臣)である。

毛利勝永(もうりかつなが/豊臣)とは、尾張国(愛知県)の葉栗(はぐり/一宮)を拠点とする森氏の系統の尾張毛利氏で、毛利勝信(もうりかつのぶ/豊臣)の息子で、龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ/龍造寺→豊臣)の娘が妻である。

真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)とは、“武田二十四将”に指名された信濃国(長野県)の北部に位置する小県(ちいさがた/上田)を拠点とする祖父の真田幸綱(さなだゆきつな/武田)をはじめ、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)の城主だった父親の真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)や、信濃国(長野県)上田藩と松代藩(まつしろはん/長野)の藩主に就任した兄の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)など名将が多い家系で、最も徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を恐怖に陥れた真田氏の一族である。

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/長宗我部→豊臣)とは、土佐国(高知県)の武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の息子で、眼光炯々(がんこうけいけい)の父親とは違い周囲から鼠輩(そはい)と呼ばれていた。

明石全登(あかしてるずみ/宇喜多→豊臣)とは、キリシタン武将で宇喜多直家(うきたなおいえ/毛利→織田)の家臣だった。

後藤又兵衛(ごとうまたべえ)こと後藤基次(ごとうもとつぐ/黒田→豊臣)とは、播磨国(はりま/兵庫県)の武将で、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の家臣だったが、息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)との確執で出奔(しゅっぽん)して豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の重鎮家臣に就いた。

〈あの織田信長(おだのぶなが/織田)の再来!〉

皆んな、1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)が出世合戦となった織田信長(おだのぶなが/織田)を、甥の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)に期待したのか?

しかし現実で真実は、ほぼ初陣(ういじん)の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)である。

摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)を包囲する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍に、圧倒された織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は本物の戦場を始めて知る事になり驚愕(きょうがく)した。

そんな時に猛将の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)が率いる徳川軍藤堂隊が、一気呵成(いっきかせい)で防衛する豊臣軍を壊滅させるのを観て、織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は体調不良を理由で戦地を離脱して大坂城(おおさかじょう)の奥部屋に引き篭もった。

こうして織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)に預けた1万人の豊臣軍織田隊も、統率力が失われて徳川軍の猛攻撃により壊滅した。

当然に豊臣軍は惨敗した。

この時に大坂城(おおさかじょう)に居城していた有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)に居城している顔馴染みの徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と、講話交渉に尽力して条件付きで和睦する事ができた。

しかし、大坂城(おおさかじょう)での豊臣軍は、徳川軍と交戦する姿勢を見せていた為に、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は大坂城(おおさかじょう)から退去して京都に移住した。

この時も大坂城(おおさかじょう)の豊臣軍の重鎮家臣に対して、織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は大言壮語(たいげんそうご)により、総大将に重用(ちょうよう)する様に切望(せつぼう)した。

しかし当然だが、浅学非才(せんがくひさい)な織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)を信用信頼する者は、この大坂城(おおさかじょう)に誰1人として居なかった。

こうして織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は、父親の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)と共に京都に移住した。

そして1615年に起こった「大坂・夏の陣」にて、淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)は自決して豊臣氏は滅亡した。

京都で隠居生活を送っていた有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、建仁寺(けんにんじ/臨済宗)に茶室の如庵(じょあん)を設け、茶道の有楽流を創設した。

息子の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)は、父親の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の薦めもあり、茶道の有楽流に入門して茶人の道を歩む事になる。

そして1620年に京都にて死去した。

浅学非才(せんがくひさい)と呼ばれた傾奇者(かぶきもの/異端者)の織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)の生涯を診ると、現代でも大言壮語(たいげんそうご)は世に蔓延(はびこ)り、荒唐無稽(こうとうむけい)な話を語る者は多い。

そう言う意味では、先進国の総人類は織田頼長(おだよりなが/織田→豊臣)と、何ら変わらない人生を歩んでいると言っていい。

LEONA LEWIS /♪ RUN

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:51:15

JOE BUDDEN,FAT JOE & JOE /♪ NOT YOUR AVERAGE JOE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:52:10

FOESUM/♪ BEST THINGZ IN LIFE R FREE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:53:03

DJ QUIK /♪ WHAT THEY THINK ABOUT YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:53:56

G-Unit /♪ Wanna Get To Know You

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:54:48

SHEEK LOUCH FEAT.JADAKISS,STYLES P. & J-HOOD /♪ MIGHTY D-BLOCK (2 GUNS UP)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:55:42

KERO ONE /♪ REMEMBER ALL THAT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:56:35

NICKI MINAJ FEAT.LIL WAYNE /♪ I GETS CRAZY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:57:23

LOS UMBRELLOS /♪ EASY COME, EASY GO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:58:19

BLACKSTREET /♪ TAKE ME THERE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 17:59:11

CLUB NOUVEAU /♪ WHY YOU TREAT ME SO BAD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 18:00:05

AALIYAH /♪ BACK & FORTH

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 18:00:59

DIGITAL UNDERGROUND /♪ WALK REAL COOL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 18:01:52

BLACKSTREET /♪ DEEP

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 18:02:43

Nine20/♪ WHAT WOULD YOU DO?

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 18:03:37

BROWNSTONE /♪ GRAPEVYNE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 18:04:31

DONELL JONES /♪ WHERE I WANNA BE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 18:05:39

PO'BROKE & LONELY? /♪ TWISTED

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260602 - ラジオの友 URL

2026/06/02 (Tue) 18:06:38

TARAL /♪ THIS TIME

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:27:57

◆◇◆其の一:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼紀元前6000年

アナトリア半島に居住していたリュディア人は、アルザワ王国(トルコ)の首都アパサがエフェソス(トルコ)と同一都市だった可能性がある。

そのエフェソス(トルコ)には大理石で建造されたアルテミス神殿が建っていた。

その精巧で技術的にも高度なアルテミス神殿はは、時代背景とそぐわない為に“世界の七不思議”とされている。

美しいエフェソス遺跡(セルチュク)は現代にも残っている。

▼紀元前1900年

北部に黒海、南部に地中海が面するアナトリア(西アジア)に、ヒッタイト人が居住する様になる。

▼紀元前1600年

幾年(いくとせ)が過ぎてアナトリア半島にヒッタイト王国(トルコ)が建国された。

ヒッタイト王国(トルコ)は近隣諸国を制圧して、広大な領土を占有する様になる。

ただその後に、地中海に生息する海の民の侵攻を受けけ、ヒッタイト王国(トルコ)は壊滅寸前となり国家存亡の危機に陥る。

▼紀元前1200年

アナトリア半島の西部にあるトロイア(トルコ)にて、ギリシャ軍の侵攻により包囲された。

ただ、トロイア(トルコ)の堅牢(けんろう)な城郭は難攻不落で、ギリシャ軍は攻めあぐねいでいた。

そこでギリシャ軍は巨大なトロイの木馬を建造して、そこに兵士を忍ばせた。

ギリシャ軍は『トロイの木馬は女神アテネへの供物(くもつ)である。』とトロイア(トルコ)に伝えて偽装工作を施した。

それを信じたトロイア(トルコ)は、トロイの木馬を城郭の内部に引き入れた。

そして、深夜にギリシャ軍の兵士がトロイの木馬から出てきて、城郭の内部から総攻撃を仕掛けてトロイア(トルコ)を滅亡させた。

このギリシャ神話は、トロイ遺跡として現代にも残っている。

▼紀元前700年

ヒッタイト王国(トルコ)は何とか国家として存続していたが、東部にアッシリア(イラク)が建国されると侵攻を受けて、ヒッタイト王国(トルコ)は滅亡した。

しかし、アッシリア(イラク)も長く存続できず滅亡した。

アナトリア半島には新たにリディア王国(トルコ)が建国された。

その周囲にはメディア王国(イラン)と新バビロニア(アラブ)とエジプト王国の、巨大な国家が建国された。

ただ、このリディア王国(トルコ)とメディア王国(イラン)と新バビロニア(アラブ)とエジプト王国は長く存続できず滅亡し、その領域にアケメネス朝ペルシア(イラン)が建国された。

紀元前334年にマケドニア王国で、アレクサンドロス大王(マケドニア国王)が東方侵攻を開始した。

紀元前330年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王(マケドニア国王)はアケメネス朝ペルシア(イラン)と戦争を繰り返して完全に滅亡させ、ユーラシア大陸の大半を占領した。

アレクサンドロス大王(マケドニア国王)の死後は、3人の王位継承者によりギリシャ地域のアンティゴノス朝マケドニアと、アジア地域のセレウコス朝シリアと、エジプト地域のプトレマイオス朝エジプトの三国に分割された。

アナトリア半島はセレウコス朝シリアの領域になる

この頃にヨーロッパではローマが勢力拡大を続けていた。

ローマ政府の官僚だったポンペイウス(ローマ官人)とクラッスス(ローマ官人)とカエサル(ローマ官人)は、お互いが協力して第1回の三頭政治(さんとうせいじ)にて、政治不安を払拭し、治安の平定に尽力した。

当初は、三者鼎立(さんしゃていりつ)で安定していたが、クラッスス(ローマ官人)が戦死すると、ポンペイウス(ローマ官人)とカエサル(ローマ官人)が権力掌握で対立する様になる。

そしてカエサル(ローマ官人)はポンペイウス(ローマ官人)を斬殺した。

しかし、カエサル(ローマ官人)は、政局に不満を抱く家臣のブルトゥス(ローマ官人)に暗殺される。

因みにカエサル(ローマ官人)は、『賽(さい)は投げられた。』と『来た、見た、勝った。』と『ブルトゥス(ブルータス)、お前もか。』などの言葉を残している。

続いてローマ政府の官僚でカエサル派だったオクタウィアヌスル(ローマ官人→ローマ皇帝)とアントニウス(ローマ官人)とレピドゥス(ローマ官人)は、お互いが協力して第2回の三頭政治(さんとうせいじ)にて、政治不安を払拭し、治安の平定に尽力した。

当初は、三者鼎立(さんしゃていりつ)で安定していたが、レピドゥス(ローマ官人)が死去すると、オクタウィアヌスル(ローマ官人→ローマ皇帝)とアントニウス(ローマ官人)が権力掌握で対立する様になる。

そしてオクタウィアヌスル(ローマ官人→ローマ皇帝)は紀元前31年に起こった「アクティウムの海戦」にて、エジプト王朝の最後の女王のクレオパトラ(エジプト女王)が後ろ盾となるアントニウス(ローマ官人)を攻撃して、共に自害に追い込み勝利した。

▼紀元前200年

東アジアのモンゴル高原には遊牧民の匈奴(きょうど)が居住していた。

この匈奴(きょうど)の庶流(しょりゅう)がトルコ民族だった。

トルコ民族が西方に移動してアナトリア半島に居住して、この地がトルコの発祥となる。

GARBAGE /♪ Only Happy When It Rains

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:28:50

◆◇◆其の二:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼紀元前100年

この時期にイタリア半島でローマ帝国が誕生した。

ヨーロッパではイタリア半島を中心に、ローマ帝国が勢力を拡大していた。

アンティゴノス朝マケドニアは滅亡し、ローマ帝国の侵攻を受けて領域に併合された。

その後もローマ帝国は、アジア地域のセレウコス朝シリアとエジプト地域のプトレマイオス朝エジプトに侵攻して制圧し、ローマ帝国の領域に併合した。

▼300年

広大なローマ帝国になった時期の306年に、ローマ皇帝に即位したのがコンスタンティウス(ローマ皇帝)だった。

330年にトルコのイスタンブールに、東ローマの首都となる新都市のコンスタンティノープルを創建した。

この頃のローマ帝国では、キリスト教の勢力が拡大していた。

東ローマ帝国ことビザンツ帝国の統治により、キリスト教の布教が強まる。

弾圧を受けていたキリスト教の信仰を解禁し、コンスタンティウス(ローマ皇帝)もキリスト教に入信した。

続いて379年に、ローマ皇帝に即位したのがテオドシウス(ローマ皇帝)だった。

テオドシウス(ローマ皇帝)は西ローマと東ローマに分割統治していた政策を中止して中央主権制に切り替え、またキリスト教を国教に定めた。

こうしてキリスト教の信者がローマ帝国で増大すると、キリスト教の布教は国外に遠征しはじめ、世界最大の宗派となる。

395年に、ローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分割させ各々に統治した。

東ローマ帝国はアナトリア半島を統治した。

東ローマ帝国はビザンツ帝国とも呼ばれ、首都のコンスタンティノープルを中心に発展を遂げる。

▼500年

570年にアラブ人でイスラム教の預言者のムハンマド(アラブ宗教家)が、イスラム教を宗祖してイスラム帝国を建国した。

イスラム教の勢力は西アジアからアフリカ大陸までを占領し、各地でイスラム教の独立国家を建国した。

こうしてトルコ民族もイスラム教を信仰する様になる。

▼1000年

1038年にイスラム教のスルターン(イスラム教君主)のトゥグリルベク(セルジューク首長)が、セルジューク朝(トルクメニスタン)を建国した。

セルジューク朝(トルクメニスタン)は、ブワイフ朝(イラン)に侵攻して制圧した。

1055年にアッパース朝(イラク)にも侵攻して制圧した。

更に地中海の南部に位置するファーティマ朝(エジプト・アフリカ)にも侵攻して、一部の領土を割譲(かつじょう)した。

続いてセルジューク朝(トルクメニスタン)は、東ローマ帝国に侵攻を開始した。

1071年の「マンジケルトの戦」にて、セルジューク朝(トルクメニスタン)は東ローマ帝国に勝利し、アナトリア半島はセルジューク朝(トルクメニスタン)の占領となる。

その後にアナトリア半島にルームセルジューク朝(トルコ)が建国された。

ただ、一時的にアナトリア半島から撤退していた東ローマ帝国が十字軍(キリスト教軍隊)の援軍を得て、再びルームセルジューク朝(トルコ)に侵攻して勝利し、アナトリア半島の半分を失地奪還(しっちだっかん)した。

LADY /♪ GET READY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:29:40

◆◇◆其の三:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼1200年

この時期の1206年に、中国大陸の北部で、遊牧民の部族だったチンギスカン(モンゴル皇帝)がモンゴル帝国を建国し、初代皇帝に就任した。

モンゴル帝国は1250年までに中東まで勢力を拡大させ、シリア地域からアフリカ大陸を領土にしていたイスラム教のアッバース朝に侵攻し滅亡させていた。

モンゴル帝国はルームセルジューク朝(トルコ)にも侵攻し敗北したが滅亡は免れた。

しかし、ルームセルジューク朝(トルコ)の統治と権威は衰退して、各地で独立国家が建国される。

チンギスカン(モンゴル皇帝)の孫で4代目皇帝のモンケ(元皇帝)は、イスラム教が浸透する地域の領民を斬殺し、モンゴル帝国の領域を拡大させた。

1258年に4代目皇帝のモンケ(元皇帝)の弟のフレグ(モンゴル→イルハン国王)が、マムルーク朝に侵攻の指揮をとっていた。

フレグ(モンゴル→イルハン国王)は中東に侵攻してきた。

1260年にモンゴル帝国はマムルーク朝に侵攻を開始した。

危機的な状況に陥ったマムルーク朝だったが、モンゴル帝国の4代目皇帝のモンケ(元皇帝)が死去して、後継者問題でモンゴル軍が撤退した。

こうしてマムルーク朝は残ったモンゴル軍と交戦し、1260年に「アインジャールートの戦」にてマムルーク朝は勝利した。

その後はモンゴル軍の侵攻が停止する。

ルームセルジューク朝(トルコ)では、オスマン1世(オスマン帝国皇帝)が勢力拡大して東ローマ帝国の戦争で勝利する。

1299年にトルコ地域にオスマン帝国が建国され、オスマン1世(オスマン帝国皇帝)がオスマン帝国の初代皇帝に就任した。

1324年にオスマン1世(オスマン帝国皇帝)が死去して、息子のオルハン(オスマン帝国皇帝)が、オスマン帝国の皇帝に就任した。

オルハン(オスマン帝国皇帝)は、東ローマ帝国が占領するアナトリア半島を簒奪(さんだつ)していった。

更にオルハン(オスマン帝国皇帝)は、東ローマ帝国が占領するバルカン半島にも侵攻して領土を奪取(だっしゅ)した。

これによりオスマン帝国が実質的に建国される。

この時期の東ローマ帝国の統治と権威は衰退しており、バルカン半島のセルビヤやブルガリアが独立国家として建国し始めた。

オスマン帝国もバルカン半島に侵攻して領土を拡大させていった。

1389年の「コソヴォの戦」にて、オスマン帝国とセルビヤが戦争を繰り広げた。

戦況はオスマン帝国が勝利して、セルビヤを制圧して占領した。

こうしてバルカン半島の大半はオスマン帝国の領土となる。

1389年にバヤジット1世(オスマン帝国皇帝)がオスマン帝国の皇帝に就任した。

バヤジット1世(オスマン帝国皇帝)は、アナトリア半島の東方に進軍を開始した。

しかし、中央アジアにて巨大な王朝のティムール朝(イラン)が建国され、オスマン帝国の脅威となる。

WILD ORCHID /♪ SUPERNATURAL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:30:34

◆◇◆其の四:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼1400年

ティムール朝(イラン)は、アナトリア半島の西方に進軍を開始し、オスマン帝国と合戦が繰り広げられる。

1402年の「アンカラの戦」にて、オスマン帝国は大敗し、軍隊が全滅してバヤジット1世(オスマン帝国皇帝)も戦死した。

この時にオスマン帝国は一時的に滅亡する。

戦争に勝利したティムール朝(イラン)は、アナトリア半島を直接に統治する事はなく、オスマン帝国は小国に分散し各々が統治した。

この状況下でバヤジット1世(オスマン帝国皇帝)の息子のメフメト1世(オスマン帝国皇帝)は、バルカン半島からアナトリア半島に掛けて支配領域の復権を目指した。

そして1413年にメフメト1世(オスマン帝国皇帝)はオスマン帝国の皇帝に就任し、オスマン帝国の復興を果たした。

1444年にメフメト2世(オスマン帝国皇帝)はオスマン帝国の皇帝に就任した。

メフメト2世(オスマン帝国皇帝)は、規模縮小したバルカン半島の東ローマ帝国に侵攻し滅亡させた。

こうしてオスマン帝国はコンスタンチンノーブルを制圧して、首都のイスタンブールに改名した。

ここで1000年以上の歴史ある東ローマ帝国が幕を閉じる事になる。

▼1500年

オスマン帝国の西部にイスラム教によるサファヴィー朝(イラン)が建国された。

1514年の「チャルディラーンの戦」にて、オスマン帝国とサファヴィー朝(イラン)は戦争が繰り広げられる。

オスマン軍は大砲や鉄砲などの武器で、サファヴィー軍に攻撃を仕掛けて圧勝する。

こうしてオスマン帝国は、サファヴィー朝(イラン)の東部を制圧して占領した。

また、地中海の南部にイスラム教のマムルーク朝(エジプト)が建国された。

1516年にオスマン帝国は、マムルーク朝(エジプト)に攻撃を仕掛けて圧勝した。

こうしてマムルーク朝(エジプト)は滅亡し、オスマン帝国は、サファヴィー朝(イラン)を制圧して占領した。

1520年にオスマン帝国の皇帝にスレイマン(オスマン帝国皇帝)が就任した。

スレイマン(オスマン帝国皇帝)は、“世界最大の国王”という野望を持ち、ヨーロッパに侵攻する。

オスマン帝国のスレイマン(オスマン帝国皇帝)は、バルカン半島のハンガリーに侵攻を開始した。

1526年の「モハーチの戦」にて、オスマン帝国とハンガリーは戦争が繰り広げられる。

オスマン軍は大砲や鉄砲などの武器で、ハンガリー軍に攻撃を仕掛けて圧勝する。

こうしてオスマン帝国は、ハンガリーの南部を制圧して占領した。

このオスマン帝国によるハンガリーの制圧に反発したのがオーストリアだった。

1529年の「第1次ウィーン包囲」により、オスマン帝国のスレイマン1世(オスマン帝国皇帝)は12万人のオスマン軍でウィーンを包囲した。

ただ、オスマン軍はウィーンを攻略できずに、時間だけが過ぎていき、オスマン軍の兵士に疲労困憊が見え始め、冬季が訪れる前にオスマン軍は撤退した。

この頃にアフリカ海域のには海賊のバルバロッサ(オスマン帝国提督)が地中海を支配しており、その後に海軍の統率を目的にオスマン帝国の提督に就任した。

1538年の「プレヴェザの海戦」にて、バルバロッサ(オスマン帝国提督)が統率するオスマン帝国とヨーロッパは戦争が繰り広げられる。

バルバロッサ(オスマン帝国提督)が率いるオスマン軍の軍船により、ヨーロッパ軍に攻撃を仕掛けて圧勝する。

オスマン帝国は地中海の沿岸部を掌握した。

その後にスレイマン1世(オスマン帝国皇帝)が死去すると、1566年にオスマン帝国の皇帝にセリム2世(オスマン帝国皇帝)が就任した。

地中海の東部に位置するヴェネチア王国が統治していたキプロス島に、セリム2世(オスマン帝国皇帝)は侵攻をした。

キプロス島はヴェネチア王国にとって、地中海での貿易や軍事の要所でもあった。

オスマン帝国のセリム2世(オスマン帝国皇帝)は、キプロス島を制圧して占領した。

しかし、ヴェネチア王国はキプロス島の失地奪還(しっちだっかん)を目指して、ヨーロッパ諸国と連合軍を組成してオスマン帝国に侵攻した。

1571年の「レパントの海戦」にて、オスマン帝国とヨーロッパ連合軍は戦争が繰り広げられる。

第1戦はオスマン軍が敗北したが、1572年の第2戦はオスマン軍がヨーロッパ連合軍に勝利した。

こうしてキプロス島は、オスマン帝国の領土に併合された。

THREE DAYS GRACE /♪ PAIN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:31:29

◆◇◆其の五:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼1700年

この時期のオスマン帝国は、東部のオーストリアと西部のサファヴィー朝(イラン)に挟まれており、両国と戦争を繰り広げた。

各々の戦争で勝利したオスマン帝国は領土を拡大して、地中海の周囲を領域とした。

しかし、連日連夜による戦争で軍事費が膨張してオスマン帝国の財政は悪化し、オスマン軍の兵士も疲労困憊していた。

その直後にオーストリア大公国は、再びオスマン帝国の侵攻を受ける事になる。

1683年の「第2次ウィーン包囲」により、オスマン帝国は20万人のオスマン軍でウィーンを包囲した。

ただ、オーストリア大公国はポーランドと提携してオスマン軍に総攻撃を仕掛けて勝利した。

更に撤退するオスマン軍をオーストリア軍が追撃して、バルカン半島の領土を制圧して占領した。

オーストリア大公国の「第2次ウィーン包囲」での勝利は、キリスト教が敗北したイスラム教のオスマン帝国より優位に立った事を意味した。

この頃に黒海の北部に位置づるロシアが、オスマン帝国に侵攻を開始した。

1768年にオスマン帝国とロシアが戦争を繰り広げる。

これによりオスマン帝国は敗北して、黒海の北部をロシアに割譲(かつじょう)された。

これによりオスマン帝国はヨーロッパへの侵攻を中止して衰退していく。

1789年にフランス国民議会を招集して、パリの市民が反乱軍を組成し、市街地で暴動を起こして王朝の宮殿を次々と襲撃する「フランス革命」が勃発した。

宮殿に居た王族は斬殺され、生け捕りにされて捕縛(ほばく)し、市街地に拘引(こういん)して広場で公開処刑された王族も多かった。

その中にフランスの国王のルイ16世(フランス国王)と王妃のマリーアントワネット(オーストリア皇女→フランス王妃)も居た。

このフランスの国民の反乱がヨーロッパ全土に拡大して、次々と王族の排除が巻き起こった。

1792年の「フランス革命戦争」を皮切りに、ナポレオン1世(フランス皇帝)はナポレオン軍を組成して、フランスを中心とした領土をヨーロッパ全土まで拡大していった。

この時流は凋落(ちょうらく)するオスマン帝国にも浸透し、小国による独立国家としての趨勢(すうせい)が見られる様になる。

オスマン帝国のギリシャに独立運動の機運が高まる。

これには2項目の理由が挙げられる。

①:イギリスやフランスにて、建築物や芸術、それに文学や文化などで、古代のローマ帝国やギリシャなどの文明や文化が評価された新古典主義の流行する。

②:フランス国民による王朝支配からの脱却を目指す「フランス革命」が勃発した。

これらによりギリシャでは、国民を主体とする民主制度の国家が形成し、民族主義の意識が高まる。

“新古典主義”と“民族主義”により、ギリシャ人の独立国家を目指す。

R.E.M. /♪ BANG AND BLAME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:32:24

◆◇◆其の六:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼1800年

そしてバルカン半島のギリシャが、オスマン帝国からの独立を宣言する。

1821年にギリシャの独立を目指す秘密結社フィリキエテリアが創設された。

秘密結社フィリキエテリアはギリシャの各地で「ギリシャ革命」を引き起こしていった。

これにより1821年に「ギリシャ独立戦争」が勃発する。

しかし、各地でギリシャ人が蜂起して独立運動が盛んになるが、革命家の連携が取れていなかった。

なかなかオスマン帝国から独立できないギリシャの独立運動は停滞する。

しかも「ギリシャ独立戦争」の開戦の時は、イギリスとフランスとイタリアとスペインとオーストリアとロシアは、ギリシャの独立運動に協力しない姿勢を見せていた。

ただここに来て、東地中海の利権が目的のイギリスとフランスとロシアの“三国協商”は利害関係があり、ギリシャの独立運動に加勢した。

こうしてオスマン帝国の皇帝は、イギリスとフランスとロシアの“三国協商”に対して、無条件降伏をしてオスマン帝国はギリシャを割譲(かつじょう)した。

これにより1830年にギリシャの独立は達成された。

ただ実質のギリシャは、イギリスとフランスとロシアの“三国協商”の保護国の扱いだった。

一方で地中海の南部でも、エジプトが独立宣言する。

オスマン帝国がムハンマドアリー朝の戦争に援軍を要請した際に、シリアを割譲(かつじょう)してムハンマドアリー朝に併合する約定を締結していた。

しかし、「ナヴァリノの海戦」に敗戦したオスマン帝国は、シリアの割譲(かつじょう)の約定を反故(ほご)にした。

これにムハンマドアリー(エジプト総督)は反発した。

これによりムハンマドアリー朝とオスマン帝国は対立し、1813年に「第1次エジプトトルコ戦争」が勃発する。

戦況はムハンマドアリー朝が勝利し、シリアに侵攻し占領した。

これに対してオスマン帝国がムハンマドアリー朝に侵攻し、1839年に「第2次エジプトトルコ戦争」が勃発する。

イギリスとオーストリアがオスマン帝国に加勢して、ムハンマドアリー朝に侵攻して劣勢となり、1840年にムハンマドアリー朝は敗北して領土を割譲(かつじょう)された。

このオスマン帝国の戦況下で、ロシアが南方侵攻を開始した。

1853年の「クリミア戦争」や、1877年の「露土戦争」(ろとせんそう)にて、オスマン帝国とロシアは戦争を繰り広げた。

ロシアよる猛攻撃でオスマン帝国は存続危機に陥る程の大敗した。

1876年にオスマン帝国の皇帝にアブデュルハミト2世(オスマン帝国皇帝)が就任した。

アブデュルハミト2世(オスマン帝国皇帝)は、“ファシズム”に信仰して独裁者による恐怖政治をオスマン帝国で司った。

一方で、栄耀栄華(えいようえいが)を誇ったオスマン帝国の復権を目指し、重心的な政治改革を実施した。

オスマン帝国の近代国家を目指して、イギリスから派生した産業革命による鉄道の敷設や殖産政策を採り入れて、国民の教育水準の向上にも尽力した。

この教育水準の向上がオスマン帝国の国民に、アブデュルハミト2世(オスマン帝国皇帝)による独裁者としての恐怖政治に対して反発を生む。

Daryl Hall & John Oates /♪ Out Of Touch

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:33:16

◆◇◆其の七:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼1900年

こうしてオスマン帝国の民主化を目指した青年トルコが組成された。

1908年に青年トルコは、アブデュルハミト2世(オスマン帝国皇帝)の政権を追い遣り、民主化の憲法を制定した。

その後に青年トルコは、オスマン帝国の政治にも進出して政権を確立して、国会の議会と憲法に沿った政治を実施した。

しかし、オスマン帝国の民主化の動きは、副作用として小国の独立国家の動きも活発化させた。

オーストリアとオスマン帝国の侵攻を防衛する目的で、ロシアがバルカン半島のマケドニアブルガリア地域にセルビアブルガリアと、アドリア海に面したモンテネグロと、ギリシャを擁護(ようご)した。

こうしてロシアとセルビアブルガリアとモンテネグロとギリシャの4国で“バルカン同盟”を締結する。

1908年にオスマン帝国からバルカン半島のブルガリアが独立宣言をして、独立国家を果たす。

1911年にイタリアとオスマン帝国が交戦し「イタリアトルコ戦争」が勃発する。

これに“バルカン同盟”はイタリアに加勢して、オスマン帝国に宣戦布告をした。

オスマン帝国はイタリアと“バルカン同盟”の双方から侵攻を受けて戦況は不利になり、“バルカン同盟”の勝利に終わる。

イタリアはオスマン帝国のアフリカ大陸の領土に侵攻し制圧した。

続いてバルカン半島の各国が同盟を締結して、オスマン帝国と戦争を繰り広げる。

オスマン帝国は敗北し、バルカン半島の領土を“バルカン同盟”に譲渡した。

これを1912年に起こった「第1次バルカン戦争」と呼ぶ。

オスマン帝国はバルカン半島とヨーロッパ大陸の領土を失い、残ったのは中東のアナトリア半島のシリアとイラクやアラビア半島のみとなる。

しかし、オスマン帝国から譲渡されたバルカン半島のマケドニアの領土を巡り、“バルカン同盟”の同士で戦争が起こる。

ギリシャとセルビアに対してブルガリアと交戦した。

そこにオスマン帝国とルーマニアがギリシャとセルビアに加勢した。

こうしてブルガリアは戦況不利となり敗北して降伏した。

これを1913年に起こった「第2次バルカン戦争」と呼ぶ。

戦勝国となったギリシャは、マケドニア南部の領土を獲得し、国土は2倍に拡大された。

この時期にオーストリアのサラエボにて、オーストリアの皇太子夫婦が革命家に暗殺された「サラエボ事件」が起こった。

この「サラエボ事件」を起因に、ドイツとオーストリアとイタリアも軍事協定を締結して“三国同盟”と、イギリスとフランスとロシアは軍事協定を締結して“三国協商”が交戦した、1914年7月〜1918年11月までに起こった「第一次世界大戦」が勃発した。

当初はオスマン帝国はロシアとの対立がある為に、ドイツの陣営で参戦した。

「第一次世界大戦」は“三国協商”の勝利に終わり、ギリシャは戦勝国となる。

DARYL HALL /♪ DREAMTIME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:34:11

◆◇◆其の八:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼1900年

敗戦国となったオスマン帝国は、中東のアナトリア半島のシリアとイラクやアラビア半島を戦勝した“三国協商”に割譲(かつじょう)された。

更にオスマン帝国の領土はアナトリア半島を中心に“三国協商”が占領して統治する事になった。

アナトリア半島の東部はギリシャ領と国際管理地に、中北部はオスマン帝国のままで、中南部はイタリア領に、北西部はアルメニア(イラン) に、南西部はフランス領とイギリス領に分割された。

こうして青年トルコの政権は崩壊して、オスマン帝国の軍人だったムスタファケマル(オスマン帝国軍人→トルコ大統領)が政権を担う事になる。

ムスタファケマル(オスマン帝国軍人→トルコ大統領)は、トルコの国家を構築に尽力した。

1920年にアナトリア半島の東部はギリシャ領を失地奪還(しっちだっかん)する目的で、ギリシャと戦争を繰り広げる。

ムスタファケマル(オスマン帝国軍人→トルコ大統領)が統制するオスマン帝国が勝利して、ギリシャから領土をすると、他の“三国協商”による占領地も失地奪還(しっちだっかん)を要求した。

このオスマン帝国の要求を承諾した“三国協商”は、アナトリア半島の領土をオスマン帝国に返還した。

1923年にムスタファケマル(オスマン帝国軍人→トルコ大統領)は、イスラム教が浸透するオスマン帝国から、トルコ共和国の建国した。

こうしてトルコ共和国のトルコ大統領に、ムスタファケマル(オスマン帝国軍人→トルコ大統領)は就任した。

トルコ共和国は近代国家を目指して行政改革を実施した。

イスラム教を引き離した正教分離し、アラビア文字からアルファベットの文字改革した。

商業と工業を推進する取り組みも実施した。

1938年にムスタファケマル(オスマン帝国軍人→トルコ大統領)は死去する。

HERE WE GO MAGIC /♪ COLLECTOR

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:35:03

◆◇◆其の九:トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せる◆◇◆

▼1900年

その翌年の1939年に、ドイツのナチス党の最高責任者だったアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が、領土拡大を目論(もくろ)みポーランドに侵攻を開始した。

この「ポーランド侵攻」を起因に、1939年9月〜1945年8月までに起こった「第二次世界大戦」が勃発する。

ドイツとイタリアと日本の“枢軸国”と、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国の“連合国”による激戦が繰り広げられた。

当初はトルコ共和国は中立の立場だった。

しかし、“枢軸国”の敗北が濃厚になると、トルコ共和国は“連合国”に参戦した。

「第二次世界大戦」の戦況は、戦況が劣勢だったイタリアは、イギリスやフランスと休戦協定を締結して無条件降伏した。

1944年にドイツが占領するフランス西部にアメリカとイギリスが奇襲した「ノルマンディー上陸作戦」が開始された。

これによりドイツは追い詰められ、アドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が率いるドイツ軍も急速に弱体化が進んだ。

敗北を察知したアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は妻と共にピストルで自害した。

こうしてドイツは連合軍に無条件降伏を伝え敗北した。

最後に日本も広島と長崎に原爆が投下され壊滅し、無条件降伏にて敗北し、こうして1945年に「第二次世界大戦」は終戦を迎えた。

「第二次世界大戦」は、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国の“連合国”の勝利に終わる。

トルコ共和国は「第二次世界大戦」で何の軍事行動もしなかったが戦勝国となった。

その直後から資本主義のアメリカと、社会主義のソビエトが対立する「東西冷戦時代」が幕を開ける。

バルカン半島はソビエトの東ヨーロッパの共産圏に飲み込まれていった。

ソビエトに近いトルコ共和国は、アメリカと西ヨーロッパに参加して重要な資本主義の拠点となる。

こうしてトルコ共和国は、アメリカの経済援助を実施し、NATO(ナトウ/北大西洋条約機構)の加盟した。

1951年にトルコ共和国とアメリカは軍事協定で強固な関係を築き、ソビエトとの国境にジュピターミサイルを配備した。

1962年にソビエトは、アメリカ大陸の南部のキューバにミサイルを配備した事で、「キューバ危機」が勃発した。

一時はアメリカとソビエトによる核戦争の「二三次世界大戦」も懸念されたが、両国のトルコ共和国とキューバのミサイルを撤去する事の合意で回避された。

こうしてトルコ共和国は民主化の元で経済発展を遂げていった。

しかしトルコ共和国でも、ソビエトの共産主義を信仰する左翼集団や、共産主義者やイスラム教の復活運動が活発化された。

1960年代〜1980年代のトルコ共和国は、不安定な政権により軍事クーデターが3回も起こる。

そして現代のトルコ共和国は、インターネットなどのIT(情報技術)の発展などで、国内の魅力を発信して、世界三大料理と呼ばれるトルコ料理に舌鼓を打ち、トルコアイス(ドンドゥルマ)を食べ、トルコ行進曲を聴きながら、オスマン帝国に想いを馳(は)せている。

allSTARS /♪ BACK WHEN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:35:55

◆◇◆其の一:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼紀元前2000年

紀元前2000年頃にペルシャ湾の沿岸に古代都市ウル(イラク)が建国された。

この古代都市ウル(イラク)に居住していたのがユダヤ人の先祖で、旧約聖書に登場するアブラハム(イブラヒム)の生誕地でもある。

▼紀元前1900年

世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の始祖で預言者のアブラハム(イブラヒム/預言者)は、天界から神様のお告げを受けた。

神様…『アブラハム(イブラヒム)よ、カナンへ行きなさい。』

カナン(エルサレム)とは、地中海の沿岸に位置するイスラエル(エルサレム) である。

こうしてアブラハム(イブラヒム/預言者)の先導により、多くのユダヤ人がカナン(エルサレム)に移住した。

▼紀元前1600年

幾年(いくとせ)が過ぎてカナン(エルサレム)は、気候変動で不毛の地となりユダヤ人の都市は飢饉(ききん)に陥る。

こうしてユダヤ人は新天地を求めて、南西部のエジプトに移住した。

しかし、この時期のエジプトでは、ファラオ(国王)を中心とした都市帝国が構成されていた。

他国から移住してきたユダヤ人は、エジプト人の奴隷として都市の造成などに従事させられる。

こうしてユダヤ人は400年近く、エジプトにて劣悪な環境で苛烈(かれつ)な労働に耐えながら奴隷として生活していた。

▼紀元前1400年

エジプト人の奴隷だったユダヤ人は、1人の人物により救われる。

それは世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の預言者や聖人のモーセ(イスラエル指導者)だった。

モーセ(イスラエル指導者)は、多くのユダヤ人を引導してエジプトから逃れ、追って来たエジプト軍が迫った際に、海の水を半分に引き裂いて、ユダヤ人を対岸に渡らせる事に成功した。

それに追随したエジプト軍も、引き裂かれた海を渡ろうとしたが、モーセ(イスラエル指導者)が海を元に戻してエジプト軍は海の底で壊滅した。

その後のモーセ(イスラエル指導者)は10の規律を定めた。

〈モーゼ(十戒)の解釈〉

①:神は1柱である。

②:偶像を崇拝してはいけない。

③:神の名をみだりに唱えてはいけない。

④:安息日の遵守。

⑤:父母の敬愛と感謝。

⑥:人を殺(あや)めてはいけない。

⑦:姦淫(かんいん)をしてはいけない。

⑧:窃盗の禁止。

⑨:偽証の禁止。

⑩:貪欲(どんよく)の禁止。

このモーセ(イスラエル指導者)の十戒が、世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の信仰の基礎となる。

ONEREPUBLIC /♪ GOOD LIFE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:36:49

◆◇◆其の二:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼紀元前1000年

地中海の沿岸にユダヤ人は、イスラエル王国(エルサレム)を建国した。

▼紀元前600年

ただ数百年後に、北イスラエルと南イスラエルに分断される。

そしてイラン地域にアッシリアが建国され、北イスラエルは侵攻を受けて滅亡した。

この時期にシリア地域に新バビロニアが建国された。

エジプトと新バビロニアは国境を接していた為に、領土問題で抗争が起きていた。

エジプトと新バビロニアが戦争を繰り広げている間に、イラン地域にアケメネス朝ペルシアが建国された。

イスラエル(エルサレム)の“失われた十部族”は、この頃の出来事である。

▼紀元前500年

紀元前586年に南イスラエルは侵攻を受けて滅亡した。

この時にユダヤ人は捕虜として捕縛(ほばく)され、新バビロニアに拘引(こういん)されて奴隷として扱われる。

これを「バビロン捕囚」(ほしゅう)と呼ぶ。

エジプトと新バビロニアが戦争している場合ではなくなり、アケメネス朝ペルシアへの対策として講和条約を締結された。

更にトルコ地域にリディアとも同盟条約を締結して、中東三国同盟でアケメネス朝ペルシアに対抗した。

しかし、アケメネス朝ペルシアの軍隊は最強で、侵攻を受けた新バビロニアとリディアは滅亡した。

新バビロニアが滅亡すると、ユダヤ人はイスラエル(エルサレム) に帰還する事ができた。

アケメネス朝ペルシアへ次にエジプトに侵攻して滅亡させ、エジプトはアケメネス朝ペルシアの行政区になる。

元エジプト国民は、アケメネス朝ペルシアの支配に不満と鬱憤(うっぷん)と憤懣(ふんまん)が溜まり革命や反乱を起こす。

しかし、アケメネス朝ペルシアの軍隊に鎮圧され、革命は成功しなかった。

▼紀元前350年

地中海の対岸のルーマニア地域にマケドニアが建国された。

紀元前334年にマケドニアでアレクサンドロス大王(マケドニア国王)が東方侵攻を開始した。

アレクサンドロス大王(マケドニア国王)はアケメネス朝ペルシアに侵攻して滅亡させ、ユーラシア大陸の大半を占領した。

アレクサンドロス大王(マケドニア国王)はエジプトを解放した為に、元エジプト国民の支持を得てエジプトのファラオ(国王)に即位する。

そして、エジプトの北東部に新都市のアレクサンドリアを整備した。

紀元前330年にアレクサンドロス大王(マケドニア国王)はアケメネス朝ペルシアと戦争を繰り返して完全に滅亡させて、アレクサンドロス大王(マケドニア国王)の占領地とした。

アレクサンドロス大王(マケドニア国王)の死後は、3人の王位継承者によりギリシャ地域のアンティゴノス朝マケドニアと、アジア地域のセレウコス朝シリアと、エジプト地域のプトレマイオス朝エジプトの三国に分割された。

こうしてユダヤ人によるイスラエル(エルサレム) は、エジプト地域のプトレマイオス朝エジプトやセレウコス朝シリアやローマ帝国により制圧されて占領された。

これによりユダヤ人は数百年間に渡り、外国による支配の元で奴隷として扱われる。

この時の経験と教訓が、厳格な規律のユダヤ教の根底にある。

ユダヤ人…『何故にユダヤ人は試練を与えられ、苦痛を味わい続けるのか?』

ユダヤ人…『神様の御加護を受容する事はない。』

ユダヤ人…『神様の恩寵(おんちょう)が無いのは、そのユダヤ人に功徳(くどく)が無く、その沙汰(さた)に問題がある。』

こうしてユダヤ人は旧約聖書を分析して、ユダヤ教の解釈を厳重に規定した。

GOV'T MULE /♪ FALLEN DOWN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:37:44

◆◇◆其の三:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼紀元前100年

この時期にパレスチナ系ユダヤ人のイエスキリスト(宗教家)はユダヤ教を信仰していたが、厳重に規定されたユダヤ教の規律を批判した。

イエスキリスト…『神様を信仰して、神様の仁愛(じんあい)を信用信頼する。』

これがキリスト教の信仰の根源になる。

しかし厳格にしたユダヤ教の布教者は、イエスキリスト(宗教家)の思想は偏信(へんしん)にて、不忠(ふちゅう)や不義(ふぎ)と捉えた。

そしてユダヤ人は、イエスキリスト(宗教家)を捕縛(ほばく)して十字架を背負わせて街中を歩かせ、エルサレム(イスラエル)のゴルゴタの丘に拘引(こういん)し、十字架に磔にして処刑した。

このユダヤ人の愚昧(ぐまい)が、世界中のキリスト教の信者の遺恨(いこん)を残す事になる 

この頃の地中海を中心にした大陸は、キリスト教の権力が及ぶローマ帝国が占領と支配をしていた。

その領域にはエルサレム(イスラエル)も含まれていた。

▼100年

そしてエルサレム(イスラエル)のユダヤ人はローマ帝国に対して反乱を起こし、66年と132年の2度に渡り「ユダヤ戦争」が勃発した。

しかし、最強のローマ帝国に勝利する事はできず、エルサレム(イスラエル)のユダヤ人は完膚(かんぷ)なきまでに討ちのめされた。

こうしてユダヤ人の立場は更に悪くなり、エルサレム(イスラエル)から追放されたり、ローマ帝国の奴隷にされたりした。

これが起因でユダヤ人はイスラエル(エルサレム)を追われて、ヨーロッパ大陸やアジアの各地に分散移住する様になる。

こうしてユダヤ人の“ディアスポラ”(離散)が始まる。

今後の1948年に独立国家のイスラエル(エルサレム)が建国される迄の1900年間は、ユダヤ人は独立国家を持つ事ができずに放浪と迫害を続ける事となった。

▼600年

610年にアラビア半島のメッカ(イスラム教聖地)にて、アラブ人のムハンマド(イスラム教祖)が神の啓示を受けてイスラム教の宗祖となる。

イスラム教はサウジアラビア地域のアラブ人に絶大な支持を受けて、イスラム教の宗派国が拡大していった。

地中海の南部から中東の一帯が、イスラム教の宗派国となった。

639年にイスラム軍が東ローマ帝国のエジプトに侵攻して、エジプトは制圧され東ローマ帝国は占領から撤退した。

ここからイスラム教はサウジアラビア地域を中心に、東部はイラン地域から西部はリビア地域にまで拡大した。

661年にイスラム教を国教としたウマイヤ朝が建国された。

イスラエル(エルサレム)のパレスチナも、イスラム教の領域に併合された。

こうして世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教が揃った。

●ユダヤ教
〈神様〉ヤハウェ
〈霊都〉エルサレム(イスラエル)
〈エルサレム(イスラエル)〉神殿の場所
〈聖典〉旧約聖書
〈安息日〉土曜日

●キリスト教
〈神様〉ヤハウェ(エホバ)
〈霊都〉エルサレム(イスラエル)
〈エルサレム(イスラエル)〉イエスキリスト(宗教家)が処刑された場所
〈聖典〉旧約聖書、新約聖書
〈安息日〉日曜日

●イスラム教
〈神様〉アッラー
〈霊都〉メッカ(サウジアラビア)、メディナ(サウジアラビア)、エルサレム(イスラエル)
〈エルサレム(イスラエル)〉ムハンマド(アラブ宗教家)が天昇した場所
〈聖典〉旧約聖書、新約聖書、コーラン
〈安息日〉金曜日

このイスラエル(エルサレム) の聖地が、民族と宗教の紛争の要因となっている。

MORGAN WALLEN /♪ THINKIN' BOUT ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:38:48

◆◇◆其の四:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼1000年

先ずはイスラエル(エルサレム) の聖地を巡りキリスト教とイスラム教が対立した。

元々はキリスト教の東ローマ帝国が、イスラエル(エルサレム) を統治していた。

しかしイスラム教の宗派国が、キリスト教の東ローマ帝国を攻撃してイスラエル(エルサレム) を簒奪(さんだつ)して、キリスト教の東ローマ帝国から割譲(かつじょう)した経緯がある。

こうして東ローマ帝国は、西ローマ帝国にあるキリスト教の総本山に援軍を嘆願(たんがん)した。

この東ローマ帝国の要望に、ローマ教皇は応えて十字軍(キリスト教軍隊)を進軍させた。

ローマ教皇…『イエスキリスト(宗教家)が十字架に磔(はりつけ)られ処刑された場所に、不浄な異教徒が占領している為に、異教徒から聖地を失地奪還(しっちだっかん)する。』

▼1100年

1127年にリビア地域とイラク地域にザンギー朝が建国された。

ザンギー朝の勢力拡大に大きく貢献したのがサラディン(イスラム軍人)だった。

サラディン(イスラム軍人)はファーティマ朝に侵攻して勝利し、1171年にカイロを制圧してファーティマ朝を滅亡させた。

サラディン(イスラム軍人)はエジプトにアイユーブ朝を建国した。

その後にサラディン(イスラム軍人)は、イスラム教の領域に侵攻してきたキリスト教の軍隊の十字軍(キリスト教軍隊)と交戦する事になる。

1187年に「ヒッティーンの戦」にて、サラディン(イスラム軍人)は十字軍(キリスト教軍隊)に激戦の末に勝利した。

しかし、1193年にサラディン(イスラム軍人)は十字軍(キリスト教軍隊)の侵攻に遭い戦死した。

これをヨーロッパのキリスト教の宗派国は好機と捉えて、十字軍(キリスト教軍隊)を北部と西部からアイユーブ朝に侵攻した。

これにアイユーブ朝は苦戦し陥落の危機に陥ったが、イスラム教の軍隊のジャジャルアッドゥル(イスラム女性軍人)とマムルーク(イスラム軍人奴隷)が応戦した。

そしてアイユーブ朝が勝利して、十字軍(キリスト教軍隊)が敗北しアイユーブ朝から撤退した。

結局にキリスト教の十字軍(キリスト教軍隊)は、イスラエル(エルサレム) を失地奪還(しっちだっかん)する事が果たせなかった。

一方でキリスト教は反ユダヤ主義が定着して、イスラム教と同時にユダヤ教の排除にも注力した。

これによりユダヤ人の差別と迫害は苛烈(かれつ)を増していき、ゲットー(民族専用居住区)に隔離された。

更に反ユダヤ主義者による奸計(かんけい)にて、ユダヤ人の身に覚えのない冤罪での処刑も横行していた。

しかも職業差別を受けていたユダヤ人は、周りが忌(い)み嫌う屠殺業や葬儀屋、それに卑しいとされたお金を扱う金融業にしか職に就く事しか許されなかった。

ただこれが、後々の金融市場をユダヤ人が独占する起因にもなる。

この後の時勢は、大型船にてヨーロッパから世界の海に出航する大陸大航海時代に向かっていく事になる。

DAMIEN RICE /♪ THE BLOWER'S DAUGHTER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:39:48

◆◇◆其の五:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼1700年

この時期のヨーロッパでは、イギリスが政治と経済、それに軍事の拡大により勢力を拡大させていた。

イギリスはヨーロッパとイギリス領インドの中継拠点にエジプトを利用した。

フランスにて、国民が王政に対して不満と憤懣(ふんまん)が積もり爆発し反乱に発展した。

1789年にフランス国民議会を招集して、パリの市民が反乱軍を組成し、市街地で暴動を起こして王朝の宮殿を次々と襲撃する「フランス革命」が勃発した。

宮殿に居た王族は斬殺され、生け捕りにされて捕縛(ほばく)し、市街地に拘引(こういん)して広場で公開処刑された王族も多かった。

その中にフランスの国王のルイ16世(フランス国王)と王妃のマリーアントワネット(オーストリア皇女→フランス王妃)も居た。

このフランスの国民の反乱がヨーロッパ全土に拡大して、次々と王族の排除が巻き起こった。

そんな時期にフランスに登場したのがイタリア半島の出身のナポレオン1世(フランス皇帝)だった。

1792年の「フランス革命戦争」を皮切りに、ナポレオン1世(フランス皇帝)はナポレオン軍を組成して、フランスを中心とした領土をヨーロッパ全土まで拡大していった。

オスマン帝国はイギリスと同盟してナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍と交戦したが、ナポレオン軍が勝利し制圧して占領された。

唯一にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍に抵抗できたのがイギリスで、ヨーロッパ大陸とのドーバー海峡を大陸封鎖令した。

イギリスとプロイセン(ポーランド)とオーストリア大公国とスペインなどは連合軍を組成して、フランスのナポレオン軍に攻撃を仕掛けた。

この合戦は激戦となったが、戦況は連合軍が勝利した。

しかし、栄枯盛衰は世の常で、1812年にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いる60万人のナポレオン軍は、冬季にロシアに侵攻すると降雪による極寒で、冬将軍と疫病で戦う前に兵士が次々と命を落としていき敗北は決定的となる。

その後にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍は、1813年の「ライプツィヒの戦」にて、ロシアとオーストリア帝国とプロイセン(ポーランド)とスウェーデンの同盟軍に敗北した。

そして同盟軍がフランスのパリを制圧した。

ナポレオン1世(フランス皇帝)はヨーロッパ各国から大罪を問われ、拘束されてアフリカ大陸の西部の西大西洋に浮かぶセントヘレナ島に配流(はいる)となり、1821年に死去した。

「フランス革命」を起因にヨーロッパ各国では、国民による王朝国家から民主国家への移行が活発化した。

その時に地球上の民族は、平穏に暮らす権利があると言う“人権宣言”が発布された。

『キリスト教であろうと、ユダヤ教であろうと、平等で公平であり、何処(どこ)に居住しても良く、どんな職業にも就く事ができる。』

この“人権宣言”に期待したのがヨーロッパで暮らすユダヤ人だったが、結果的には失望する結果に終わる。

JACK BRUCE /♪ CHILDSONG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:40:45

◆◇◆其の六:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼1800年

イギリスで発祥した「産業革命」により、国家の体制と国民の生活は大きき変革された。

鉄とガラスとコンクリートを使用した建築物や工業製品が開発されて、機械による産業技術も向上して大量生産でき、その恩恵を国民が受けて大量消費に湧いた。

ヨーロッパ各国は資本家による企業や工場が次々と創建されていき、その金融の担い手となったのがユダヤ人だった。

こうしてヨーロッパの金融業を独占していたユダヤ人は巨万の富を得る事になる。

その一族の1家がロスチャイルド家(ユダヤ系金融家)だった。

大富豪の地位を得たユダヤ人は教育の向上にも取り組み、ヨーロッパ経済の緒(いとぐち)を掌握する事になる。

しかし、これがヨーロッパの国民から嫉妬と反感を増幅させて、新たな反ユダヤ主義が誕生する。

そんな時にフランスにて1894年の「ドレフュス事件」では、ユダヤ系フランス人でフランス軍の陸軍参謀の大佐だったドレフュス(フランス軍人)が、反ユダヤ主義者の奸計(かんけい)により無実の冤罪で配流(はいる)となる。

この「ドレフュス事件」を起因に、反ユダヤ主義者の讒言(ざんげん)による謀略(ぼうりゃく)がユダヤ人を迫害し、ユダヤ人は差別から逃れる事はなかった。

こうしてユダヤ人は、ユダヤによる独立国家を建国する事を目指す事となる。

こうして1800年代に起こったのが「シオニズム運動」である。

▼1900年

この頃になると、ユダヤ人がヨーロッパ大陸やユーラシア大陸などから、地中海の沿岸に位置するイスラエル(エルサレム) に入植する事となった。

ただ当然にこの地には先住民が暮らしており、このイスラエル(エルサレム) のパレスチナは多数のアラブ人の居住区だった。

こうしてパレスチナではユダヤ人とアラブ人が対立し、終焉なき紛争が続いていく。

この頃のヨーロッパでは、イギリスとフランスのロシアは軍事協定を締結しており“三国協商”を形成していた。

一方でドイツとオーストリアのイタリアも軍事協定を締結しており“三国同盟”を形成していた。

イタリアはオーストリアとの確執(かくしつ)はあったが、ドイツとは友好関係にあり参加を決定した。

この頃はヨーロッパからアフリカやアジアに向けて植民地の支配が横行していた。

そんな時期にオーストリアのサラエボにて、オーストリアの皇太子夫婦が革命家に暗殺された「サラエボ事件」が起こった。

この「サラエボ事件」を起因に、ドイツとオーストリアとイタリアも軍事協定を締結して“三国同盟”と、イギリスとフランスとロシアは軍事協定を締結して“三国協商”が交戦した、1914年7月〜1918年11月までに起こった「第一次世界大戦」が勃発した。

主戦場はヨーロッパ全土まで拡大して、主にドイツに対してイギリスとフランスが激戦を繰り広げていた。

この時にイギリスは、イスラエル(エルサレム) のパレスチナでのユダヤ人とアラブ人の紛争に着目して、「第一次世界大戦」の戦況を優位に進めようとした。

イギリスは、ユダヤ人の独立国家の建国を支援する確約を採る。

アラブ人の独立国家の建国を支援する確約を採る。

フランスとロシアには、イスラエル(エルサレム) のパレスチナは共同で統治する約定を締結した。

これが後々にユダヤ人もパレスチナ人(アラブ人)も、イスラエル(エルサレム) のパレスチナの占有権を主張する要因となる。

最終的にイスラエル(エルサレム) のパレスチナはイギリスが統治する事になった。

イギリスの管轄下で、ユダヤ人がイスラエル(エルサレム) のパレスチナに入植する事が許可された。

その結果では、ユダヤ人とアラブ人の対立が激化する副作用を生んだ。

このイギリスの詭計(きけい)による外交(三枚舌外交)と呼ばれる。

更にイギリスとフランスは調略(ちょうりゃく)も仕掛けた。

イギリスとフランスは、“三国同盟”のイタリアに対して脱退を促して、“三国協商”に加盟する様に懇願(こんがん)した。

イタリアが加盟すればイギリスとフランスは、「第一次世界大戦」に勝利すれば“未回収のイタリア”の返還の確約をイタリアと約定した。

一応に筋立てとして、イタリアはオーストリアに対して、“未回収のイタリア”の返還を求めたがやはりオーストリアは拒否した。

こうしてイタリアは“三国同盟”を脱退して、イギリスとフランスとロシアの“三国協商”に加盟する事を決意する。

「第一次世界大戦」はイギリスとフランスとロシアの“三国協商”の勝利で終戦する。

しかし、敗戦国のオーストリアから失地奪還(しっちだっかん)できた“未回収のイタリア”の返還は一部に止まった。

イタリアに取って「第一次世界大戦」は論功行賞(ろんこうこうしょう)無き勝利となった。

これがイタリアにとり、イギリスとフランスに対して新たな確執(かくしつ)を生んだ。

KIRK FRANKLIN /♪ IMAGINE ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:41:41

◆◇◆其の七:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼1900年

イスラエル(エルサレム) のパレスチナの主権を巡り、ユダヤ人とパレスチナ人(アラブ人)の紛争は益々に激化する。

そんな「第一次世界大戦」の最中(さなか)にロシアでは大事件が起こっていた。

1917年に国民による革命や反乱の「ロシア革命」(二月革命と十月革命)が勃発し、革命家のレーニン(政治家→ソビエト創立者)が主導した。

これによりロシア帝国は崩壊して、1918年に国王のニコライ2世(ロシア皇帝)は王族と共に処刑され死去した。

ロシアは「第一次世界大戦」と「ロシア革命」(二月革命と十月革命)の処理が完了し、1922年にレーニン(政治家→ソビエト創立者)はソビエトを建国した。

社会主義のソビエトの誕生は世界の不満を抱える労働者に刺激を与えて、イタリアをはじめヨーロッパの困窮した労働者もストライキ運動やデモ活動が激しさを増していった。

これに対してイタリア王国の政府は、将軍のムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)に対して反乱軍の鎮圧を命じた。

この反乱軍の壊滅に成功したムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)は、イタリア政府の中心人物に抜擢(ばってき)され、ファシスト党を設立して最高指導者に就任した。

こうしてイタリアの政府には内閣が立ち上がり、ムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)が首相に就任した。

一方で、ドイツのナチス党の最高責任者だったアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が、領土拡大を目論(もくろ)みポーランドに侵攻を開始した。

ナチス党のアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は偏信(へんしん)により、ドイツ人の優位性を引き立たせる為に、ユダヤ人は粗野(そや)な民族であり不遜(ふそん)に値する事を定義付けた。

ヨーロッパにて迫害と差別を受けたユダヤ人は、イスラエル(エルサレム) のパレスチナやアメリカに移住した。

この時期にヨーロッパのバルトにあるリトアニアの日本領事館の外交官に就いていた杉原千畝(すぎはらちうね/外交官)は、ヨーロッパからの出国を渇望(かつぼう)するユダヤ人に対して無審査にてビザを発行した。

この1939年の“命のパスポート”にて、多くのユダヤ人の命を救う事になる。

こうして杉原千畝(すぎはらちうね/外交官)は、ユダヤ人の救世主として崇められ、出身地の岐阜県上有知町(こうずちちょう/美濃市)は、日本におけるユダヤ人の聖地とされている。

しかし、ヨーロッパに残されたユダヤ人は、ドイツのナチス党に捕縛(ほばく)され、ポーランドのアウシュヴィッツに建造されたビルケナウ強制収容所に拘引(こういん)された。

そこでユダヤ人に待っていたのは、糾問(きゅうもん)による拷問であった。

ナチス党のホロコースト(絶滅政策大量殺戮)によるユダヤ人の阿鼻叫喚(あびきょうかん)がビルケナウ強制収容所に響き渡った。

こうして110万人余りのユダヤ人が、ポーランドのアウシュヴィッツにて命を落とした。

ナチス党のアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)のドイツ軍によるこの「ポーランド侵攻」を起因に、1939年9月〜1945年8月までに起こった「第二次世界大戦」が勃発する。

ムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)とアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は、同じ全体主義の“ファシズム”を理念を抱えていた為に、相通じるところがあり協調した。

ドイツとイタリアと日本の“枢軸国”と、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国の“連合国”による激戦が繰り広げられた。

イギリス軍とアメリカ軍がイタリア半島の南部に上陸して、イタリア南部は連合軍に占領された。

連合軍の空軍により上空から戦闘機でローマ市街地が空爆されると、イタリア国民は「第二次世界大戦」に疑問と不安と不満を持つ様になる。

このイタリアは凄惨(せいさん)な国土と化し、イタリア国民の阿鼻叫喚(あびきょうかん)が響き渡るのは、全てファシスト党のムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)の失策による責任と声を上げた。

こうしてイタリア政府に奏上(そうじょう)し、ムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)は政治権力の剥奪と罷免(ひめん)が決定し、逮捕後に法律により酷刑(こっけい)が採決された。

そしてムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)は妻と共に処刑されて、亡骸(なきがら)は広場に晒(さら)される事になる。

戦況が劣勢だったイタリアは、イギリスやフランスと休戦協定を締結して無条件降伏した。

これを知ったドイツのアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は激怒して、ドイツ軍をイタリア半島に侵攻させてイタリア北部を制圧した。

これによりイタリアは、イタリア南部に駐屯するイギリス軍とアメリカ軍に援軍を要請して北部進行を開始した。

こうしてイタリア北部のドイツ軍を撃退して、ほぼ領土を失地奪還(しっちだっかん)する事ができた。

アドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が率いるドイツ軍も急速に弱体化が進んだ。

敗北を察知したアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は妻と共にピストルで自害した。

こうしてドイツは連合軍に無条件降伏を伝え敗北した。

最後に日本も広島と長崎に原爆が投下され壊滅し、無条件降伏にて敗北し、こうして1945年に「第二次世界大戦」は終戦を迎えた。

GEORGE DUKE /♪ LOVE CAN BE SO COLD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:42:39

◆◇◆其の八:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼1900年

「第二次世界大戦」にヨーロッパ各地に居たユダヤ人は、ドイツのナチス党の最高責任者だったアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)によるホロコースト(絶滅政策大量殺戮)を受けていた。

そうした状況もあり、ユダヤ人による独立国家の建国が世界中で支持を受ける。

「第二次世界大戦」では多くのユダヤ人が、アメリカとイギリスに多額の軍事支援金を提供していた。

そしてアメリカには450万人のユダヤ人が生活しており、社会的に地位が高いユダヤ人も多く、アメリカも富裕層の多いユダヤ人を支持する事になる。

1947年に国際連合によるイスラエル(エルサレム) のパレスチナ分割案が採択された。

この議案でのイスラエル(エルサレム) のパレスチナの比率は、ユダヤ人領土が56.5%、アラブ人領土が43.5%と決定された。

1948年にユダヤ人による国家のイスラエル(エルサレム)が建国される。

この後ろ盾にはアメリカ大統領のトルーマン(第33代アメリカ大統領)と、イギリス首相のクレメントアトリー(イギリス首相)もあり、ユダヤ人とアメリカとイギリスの関係は強固なものとなり、アメリカとイギリスによるユダヤ人の国家のイスラエル(エルサレム)の成立を承認が得られた。

ただ、実際にイスラエル(エルサレム)に居住していたパレスチナ人(アラブ人)やアラブ人の意見や主張は無視された。

アラブ諸国もイスラエル(エルサレム)の建国に反対していた。

その後にシリアやイラクやサウジアラビアなどは、イスラエル(エルサレム)に総攻撃を仕掛けた。

こうして1948年に「第1次中東戦争」が勃発する。

イスラエル(エルサレム) を中心に、北部からレバノンとシリア、東部のイラクとヨルダン、南西部のエジプトによるアラブ連合軍の侵攻により、イスラエル(エルサレム)の戦況は窮地に陥る。

しかしイスラエル(エルサレム)は、アメリカやイギリスの軍事支援もあり、「第二次世界大戦」を戦い抜いた多くの兵士がイスラエル(エルサレム)軍に加勢して1948年に勝利した。

この「第1次中東戦争」により、元々にイスラエル(エルサレム)に居住していたアラブ人は国を追われてパレスチナ難民となり彷徨(さまよ)う事になる。

この時期に世界は資本主義のアメリカと社会主義のソビエトの対立による冷戦の冷たい空気が漂っていた。

エジプトをはじめアフリカやアジアは中立を宣言した。

しかし、実際のエジプトはソビエトから軍事支援を受けており、アメリカやイギリスと対立する事となる。

こうした事情からエジプト大統領のナーセル(エジプト政治家→大統領)は、イギリスが運営権を保持しているスエズ運河の国有化を勝手に宣言した。

これに反発したイギリスはフランスと同盟してエジプトに侵攻し、そこにエジプトを敵国と観ていたイスラエル(エルサレム)も参戦した。

こうして1956年に「第2次中東戦争」が勃発する。

戦況はイギリスとフランスとイスラエル(エルサレム)の大勝となり、惨敗したエジプトの領土は焦土と化した。

しかし国際社会は、この「第2次中東戦争」をイギリスとフランスによるエジプトへの植民地の支配が復活したと見做(みな)して批判した。

アメリカとソビエトもエジプトに対して仲裁に入り、「第2次中東戦争」は終結した。

Trina Broussard /♪ INSIDE MY LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:43:32

◆◇◆其の九:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼1900年

「第2次中東戦争」の終結後は、国際連盟の軍隊がイスラエル(エルサレム) のパレスチナをはじめ中東の動向を監視していた為に、紛争もなく平穏な日常生活を送る事ができた。

しかし、世界情勢ではアメリカとソビエトが対立する「東西冷戦時代」の真っ只中にあった。

そしてソビエトの共産主義者は、アメリカ寄りのイスラエル(エルサレム)を討伐すれば、中東での影響力は高まるとの思惑を抱いた。

そしてソビエトの共産主義者による奸計(かんけい)にて、『イスラエル(エルサレム)が中東に向けて開戦準備を始めた。』との流布(るふ)を、エジプトをはじめ中東諸国に吹聴(ふいちょう)した。

この讒言(ざんげん)を信用したエジプト大統領のナーセル(エジプト政治家→大統領)は、イラク地域のペルシャ湾の海上封鎖を実施した。

その頃の1960年代に、イスラエル(エルサレム)から領土を追われたパレスチナ人(アラブ人)がゲリラ部隊を組成し、武力闘争を繰り広げていた。

パレスチナ人(アラブ人)のゲリラ部隊を支持していたシリアとイスラエル(エルサレム)が軍事衝突の危機に陥る。

この状況を判断したエジプト大統領のナーセル(エジプト政治家→大統領)は、エジプトのシナイ半島にエジプト軍を駐屯させる。

これによりイスラエル(エルサレム)は、シリアとエジプトとヨルダンに奇襲を仕掛ける。

こうして1967年に「第3次中東戦争」が勃発する。

「第3次中東戦争」は短期決戦でイスラエル(エルサレム)が勝利し、エジプト軍は1万人以上の戦死者を出した。

この敗戦でエジプトのシナイ半島がイスラエル(エルサレム)に侵攻され占領される。

1970年にエジプト大統領のナーセル(エジプト政治家→大統領)が死去すると、後任にサーダート(エジプト大統領)が就任した。

サーダート(エジプト大統領)の最初の使命は、イスラエル(エルサレム)からシナイ半島を失地奪還(しっちだっかん)する事だった。

エジプト大統領のサーダート(エジプト政治家)は、ロシア人でイスラエル(エルサレム)の首相に就任していたゴルダメイア(イスラエル首相)に領土交渉を実施した。

しかしゴルダメイア(イスラエル首相)は、エジプトに対してイスラエル(エルサレム)が割譲(かつじょう)した領土の返還はしないとの姿勢を示した。

こうしてエジプトにとって失地奪還(しっちだっかん)の手法は戦争を選択する事になる。

こうして1973年に「第4次中東戦争」が勃発する。

この開戦日はユダヤ教の祭日だった事もあり、イスラエル(エルサレム)は軍隊を含めて稼働しておらず、エジプトはシリアと同盟してイスラエル(エルサレム)に侵攻した。

イスラエル(エルサレム)は南西部のエジプトと北部のシリアに対して挟み討ちに遭う。

不意を突いたエジプトとシリアが一時的に勝利した。

しかし、その後にイスラエル(エルサレム)が反撃に出て、エジプトとシリアは敗北した。

結局はエジプトはイスラエル(エルサレム)からシナイ半島を失地奪還(しっちだっかん)する事ができなかった。

これに懲りたエジプト大統領のサーダート(エジプト大統領)は、武力ではなく交渉でシナイ半島の失地奪還(しっちだっかん)を目指す様になる。

こうしてサーダート(エジプト大統領)は、イスラエル(エルサレム)に赴(おもむ)いて、ロシア人でイスラエル(エルサレム)の首相び就任していたメナヘムベギン(イスラエル首相)に領土交渉を実施した。

しかしメナヘムベギン(イスラエル首相)は、エジプトに対してイスラエル(エルサレム)が割譲(かつじょう)した領土の返還はしないとの姿勢を示した。

ただ、この領土交渉にアメリカ大統領のジミーカーター(第39代アメリカ大統領)が仲裁した事で状況が一変する。

アメリカとイスラエル(エルサレム)とエジプトによる会合の決議案が採決された。

①:エジプトがイスラエル(エルサレム)を独立国家として承認する。

②:イスラエル(エルサレム)はシナイ半島をエジプトに返還する。

③:パレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区の行政自治権をパレスチナに認可する。

1977年にエジプト大統領のサーダート(エジプト大統領)とイスラエル(エルサレム)首相のメナヘムベギン(イスラエル首相)は、イスラエル(パレスチナ)にて和平交渉を催し、最終的に講和条約が締結された。

この講和条約に基づき、エジプトがイスラエル(エルサレム)からシナイ半島を失地奪還(しっちだっかん)する。

この対応はエジプト人やアラブ人の反感を買う事になる。

そして1981年にイスラム過激派によりサーダート(エジプト大統領)が暗殺される。

後任のエジプト大統領にムバーラク(エジプト大統領)が就任した。

BRIGETTE McWILLIAMS /♪ MORNING

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260531 - ラジオの友 URL

2026/05/31 (Sun) 17:44:30

◆◇◆其の十:世界三大宗教のユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地、イスラエル(エルサレム) とパレスチナ◆◇◆

▼1900年

1990年に中東のイラクがクエートに侵攻し、これに対してクエートやサウジアラビアやアメリカやエジプトなど多国籍軍が抗戦した「湾岸戦争」が勃発する。

それ以降にエジプトとアメリカは良好関係を築く。

アメリカ大統領のジョージブッシュ(第41代&第43代アメリカ大統領)とエジプト大統領のムバーラク(エジプト大統領)は融和的関係となり、エジプトはアメリカから多額の経済援助を受けた。

しかしエジプト大統領のムバーラク(エジプト大統領)の独裁政権に、エジプト国民は不満と鬱積(うっせき)と憤懣(ふんまん)を抱える。

1991年にイスラエル(エルサレム)とパレスチナの友好的な解決が話し合われる「中東和平交渉」が始まる。

アメリカとイスラエル(エルサレム)とエジプトによる会合の決議案に、パレスチナ人(アラブ人)は決議案を拒否を示した。

そんな時にパレスチナのガザ地区で、ユダヤ人が運転するトラックが交通事故を起こし、轢(ひか)かれた4人のパレスチナ人(アラブ人)が死亡した。

これに激怒したパレスチナ人(アラブ人)の少年が、駐屯するイスラエル(エルサレム)軍の兵士に投石する事件が起こる。

イスラエル(エルサレム)軍の兵士は機関銃で発砲して、パレスチナ人(アラブ人)の少年を射殺した。

これに起因してパレスチナ人(アラブ人)は、イスラエル(エルサレム)軍に投石する抗議運動の“インティファーダ”(民族蜂起)が活発化する。

この“インティファーダ”(民族蜂起)をイスラエル(エルサレム)軍が鎮圧すると、負傷したパレスチナ人(アラブ人)の映像が世界中に流れて、イスラエル(エルサレム)は非難を浴びる事になる。

国際世論がパレスチナ人(アラブ人)に同情した事で、パレスチナ解放機構(PLO)が行動を起こす。

パレスチナ解放機構(PLO)の議長で代表者のアラファート(パレスチナ大統領)は、国際連盟に参加して和平宣言を示した。

アラファート…『イスラエル(エルサレム)を国家として認可して、共存共栄の為に協力し、テロ行為は放棄する。』

この後の1993年に、ノルウェーのオスロにてアメリカ大統領のクリントン(第42代アメリカ大統領)も同席の元で、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファート(パレスチナ大統領)と、イスラエル首相のイツハクラビン(イスラエル首相)は講和条約の「オスロ合意」に締結した。

この「オスロ合意」では、パレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区の行政自治権をパレスチナに認可した。

世界情勢は、その他の中東における民族紛争も問題解決の糸口を見出したと感じていた。

こうして1999年にイスラエル(エルサレム)の首相に就任したエフードバラック(イスラエル首相)により、パレスチナとの共存共栄による和平政策が実施される。

エフードバラック(イスラエル首相)は、パレスチナとの講和交渉に積極的に尽力した。

しかしイスラエル(エルサレム)のユダヤ人は、独立国家として認可されたのに、パレスチナへの領土返還は承認できないとの姿勢を示していた。

こうしてエフードバラック(イスラエル首相)は退陣させられた。

▼2000年

2001年にイスラエル(エルサレム)の首相に就任したアリエルシャロン(イスラエル首相)は、前政権の真逆のパレスチナ対抗政策を実施した。

これに反発したパレスチナでは、イスラム主義抵抗組織ハマスが組成され、イスラエル(エルサレム)に対してのテロ行為が横行する様になる。

こうしてアリエルシャロン(イスラエル首相)は、イスラム主義抵抗組織ハマスへの対抗策としてヨルダン川西岸地区とイスラエル(エルサレム)との国境に、パレスチナのテロリストが侵攻できない様に巨大なコンクリート壁を建造した。

このコンクリート壁により、国際世論はイスラエル(エルサレム)を批判される事になる。

世界を無視できなくなったアリエルシャロン(イスラエル首相)は、2004年にパレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区の行政自治権をパレスチナに認可する事を示した。

イスラエル(エルサレム)とパレスチナの講和交渉にて、アリエルシャロン(イスラエル首相)はガザ地区をパレスチナに返還する事を承認した。

しかしこの講和交渉が、思いも依(よ)らない結果を招いた。

パレスチナ人(アラブ人)は、ガザ地区をパレスチナに返還は武闘による功績として、イスラム主義抵抗組織ハマスを支持した。

こうしてイスラエル(エルサレム)は、ガザ地区にもパレスチナのテロリストが侵攻できない様に巨大なコンクリート壁を建造した。

しかし2000年代の戦争は、ミサイルなどによる空爆が主流となり、イスラム主義抵抗組織ハマスはイスラエル(エルサレム)に対してのコンクリート壁を飛び越えて猛攻撃を仕掛けた。

これに対してイスラエル(エルサレム)軍も、パレスチナに向けてミサイルで猛攻撃を仕掛け、多くのパレスチナ人(アラブ人)が死傷した。

1996年と2009年と2022年にイスラエル(エルサレム)の首相に就任しているネタニヤフ(イスラエル首相)は、パレスチナに対してジェノサイド(集団殺戮)を容認し、イスラエル(エルサレム)軍はパレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区を包囲して兵糧攻めを実施した。

こうしてパレスチナ人(アラブ人)の子供が、半年間で1万3800人も餓死している。

このイスラエル(エルサレム)とパレスチナの長きに渡る戦争での被害者は、その地区に居住する老人や子供や女性など社会的弱者である事は間違いない。

そんな状況下に陥れた愚昧(ぐまい)で奸邪(かんじゃ)な悪政(あくせい)を貫く暗君(あんくん)は、ユダヤ教であろうと、キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、神様に導かれて極楽浄土(ごくらくじょうど)と呼ばれる黄泉の国(よみのくに/天国)に成仏できる筈もない。

今のうちから一発で地獄に堕ちる覚悟を決めておいた方がよい。

DJAVAN /♪ ACAI

◆ラジオの友◆


Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.