都市空間計画区域
【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 17:05:00
これで堂々と“いしん”を掛けてパワハラ宣言!
兵庫県民のご支持あっての公約成果です。
“ハラスメント”(不快行為)とは、悪霊や怨霊が取り憑いて心身や精神を歪(ゆが)められ、地獄に堕(お)ちていく人間が本来に持ったポテンシャルです。
忠臣蔵でお馴染みの集団リンチ殺人浪士を輩出した兵庫県赤穂市も“誹謗中傷”を促進して参ります。
綺麗事だけでは済まされない人間の本性を、ここ兵庫県から暴いていきます!
22世紀の未来に向けて、これからも兵庫県は陰湿な“虐待”や“差別”など、兵庫県民一丸となって“いしん”を掛けてドンドンと推し進めます。
【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 17:05:50
子供、こども、コドモって言えば、何でも許されると思っているお頭(つむ)の弱い大人達へ。
子供をダシにして“いしん”を込めて来場を促す卑劣な根性。
江戸時代から続く、10代の娘を遊郭に売り飛ばす大人の感覚と何ら変わりはない。
そんな愚(く)だらない人造物が無くとも、自然が広がる大地と天の恵みさえあれば、子供は愛情いっぱいにスクスクと育ちますよ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 23:53:37
先日、近隣にある河川の遊歩道で目撃した衝撃的な光景を嘘偽(うそいつわ)りなく記述しよう。
その遊歩道には70代くらいのお爺さんが散歩しており、時折、河川を眺めていた。
その川には鴨(カモ)や鷺(サギ)などの鳥がよく集まっており、そのお爺さんも鳥を見ている様子だった。
その次の瞬間、川岸に落ちている大きめの石を拾い上げると、川で水遊びしている鳥に目掛けてぶつけているではないか!
はっきり言って、ショッキングな出来事である。
川辺の鳥たちも驚いて飛んで行ってしまった。
ただ、これも人間の側面である。
誰も見ていないところで犯罪行為に手を染める。
人間が定めた法律の線引きにより逮捕されるかされないかで分別されるが、地球規模で観れば同じ人種には違いない。
実は、この様な光景を見たのは2回目である。
前回もお爺さんだったが、それは河川に住み着いたヌーちゃん(ヌートリア)で、2匹の子供が川岸の草場で遊んでいるところに、お爺さんがヌーちゃん(ヌートリア)を目掛けて石を何度もぶつけていた。
ただ、お爺さんのコントロールでは、すばしっこいヌーちゃん(ヌートリア)に命中する筈もなく、草中の住処(すみか)に消えて行った。
この2人のお爺さんの真意は解らないが、ただ、正義をかざして害的動物を駆除しているつもりなのか?
こう言う感覚の人種は多い。
確かに自分にとって不必要なモノや理解できないコトなどを排除する気持ちは、大なり小なり誰にでもある。
ならば、天界の神様により、この宇宙、この地球の害的動物でもある人間を、正義をかざして駆除して地獄に堕とす事の大義や正義も認められる事になる。
因みに小動物に石をぶつけていた2人のお爺さんに対して、天界の神様に『あの老害2人は地獄堕ちで決定です。』と伝えておいた。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/11 (Fri) 22:40:27
2025年1月25日に大阪府東大阪市の生駒山で発覚したバラバラ殺人事件では、遺体の一部が大阪市中央区日本橋の廃墟マンションにも遺棄され、犯行動機や犯人の挙動など不可解な点が多い。
2025年3月22日に大阪市福島区福島の堂島川の遊歩道で発覚したバラバラ死体遺棄事件でも、なぜに直ぐに発覚されそうな都会に、一部遺体を放棄したのか不可解な点が多い。
これらの事から今回は、アメリカからFBIの元特別捜査官のジェームスリチャードが緊急来日し、FBIで導入されているプロファイリングを活用して、犯行現場から導き出した犯人像を証言してもらった。
ジェームスリチャード…『私には犯人の声が聞こえるし、その姿も視(み)えます。』
ジェームスリチャード…『猟奇的な犯行現場から推測すると犯人は男性もしくは女性で、20代〜40代もしくは50代〜80代、無職もしくは社会人でしょう。』
ジェームスリチャード…『犯行現場が大阪と言う事もあり、非常に地理感がある為に西日本に在住している者と言えるが、近年ではインターネットにより地域の情報を簡単に取得できる為に、東日本に在住している可能性もある。』
ジェームスリチャード…『間違いなく犯人は、次は●●●で犯行に及ぶでしょう。 特に●●●は要注意して下さい。 ●●●が●●●になる可能性も否定できませんが、最善策として●●●が有効です。』
ジェームスリチャード…『シリアルキラー(猟奇的殺人鬼)はその街に1人いれば、同類が必ず100人以上は存在している。 大阪では決して1人で夜道を歩いたり、部屋内で過ごさないで下さい。 次に狙われるのは、あなたかも知れません。』
ジェームスリチャード…『犯人を今一歩まで追い詰めたが、あと少しの所で取り逃してしまった。 ただ、次回は必ず追い詰めて逮捕に至る自信はある!』
この様にFBIの元特別捜査官のジェームスリチャードは述べて、無念さをにじませてアメリカに帰国して行った。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/19 (Sat) 02:27:24
2025年4月15日、和歌山県知事が大阪関西万博に出席した直後に死去しました。
輝く“命”もいつかは消える事を、大阪関西万博は“いしん”を掛けて一番に大切な事を教えてくれている。
“死”は皆な平等に訪れる。
若くてもこうなる前に、身辺整理と終活はしておいた方が良い。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/26 (Sat) 21:42:35
2025年4月24日、大阪関西万博の会場で、体調不良を訴えた60代の女性が搬送先の病院で死去した。
この実態について開催者は、個々の病状をはじめ生死を公表するつもりは無いとしている。
この開催者の姿勢については、日本の仏教においての禅問答が関わっている。
この世の人は必ず死を迎えるのか、それとも永命できるのかの生死是如何(しょうじこれいかん)があり、輝く“命”とて、いずれは消えて無くなるのが大宇宙の真理と仏教は解(と)く。
御釈迦様(仏陀)が悟った、生命は必ず滅び無くなる是生滅法(ぜしょうめっぽう)にちなんだ教えである。
開催者の姿勢も、こうした日本独自の教えの中で、限りある“命”をテーマにした大阪関西万博のコンセプトに沿った対応と言えよう。
たとえ埋立地で有毒ガスを吸い込んで“命”を落としたとしても、それは“寿命”であり“運命”でもある事を学ぶ事ができる。
限りある“命”と“時間”は有効に使い、やりたい事があるなら家族や仕事を捨ててでも、今直ぐにやるべきである。
あっという間に“人生”は終わってしまう。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん URL
2025/05/04 (Sun) 21:21:42
神奈川県警察署の皆さまへ。
『そこは止(や)めてぇ!』の本心は、『もっとそこを攻めてぇ!』の言い換えです。
もっと男女の恋心を勉強しましょう。
このままだと、チェリーポリス(童貞警察)と言う称号が与えられますよ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/05/21 (Wed) 08:07:32
国家を担う議員しててぇ、こぉんなん言うのも何ですがぁ〜
お米は買(こ)うた事おまへぇんが、女はよぉう買(こ)うてぇまっせぇ!
街角の立ちんぼを買(こ)うた女が、今の嫁はぁんでぇすねぇん。
国の仕事いうのは昔から、お米も、お金も、売女(ばいた)も、家に集まってきますぅんやぁ。
その現世の欲望に塗(ま)れた付けを、一族みんなで地獄に行って支払うよってからにぃ、堪忍(かんにん)してやぁ〜
わてぇら風紀を乱す議員は、日本の神様の天照大御神(アマテラス)に、ごっつ嫌われてますぅさかいなぁ〜
備蓄米を囲って国民を兵糧攻めにして抹殺(まっさつ)する国賊(こくぞく)やぁから、そりゃアカンわぁな!
日本中の神様の逆鱗(げきりん)に触れ、公序良俗(こうじょりょうぞく)に反した先祖子孫の一族みんなで地獄に堕(お)ちよぉるわなぁ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/05/23 (Fri) 05:16:27
明日、お米を買いに行くけど、標準米が5kgで3000円以内になっていなかったら、絶対に許さん!
今までも気に入らないアホォな政策で数々の人に責任を取ってもらってるから同じ様に、万が一、3000円超だったら永田町と霞ヶ関に連座責任を取ってもらう。
神社やお寺に参拝するだけではなく、都市部に蔓延(はびこ)る悪霊や怨霊、それに死神や疫病神にも気を掛けた方がよい。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/07/09 (Wed) 06:44:38
“いしん”を掛けて次世代に伝えたいファックがある。
国民に“給付金”も“減税”も必要ない!
この日本に必要なのは、“いしん”を掛けたファックだけである。
毎日のファックで健康を保ち、病院知らずで“医療費削減”に効果的!
心の垣根(かきね)を取払い、“いしん”を掛けて誰とでもファックに挑めば、少子化対策も解決すること間違いなし。
今日も元気なイクイク健康家族!
“いしん”を掛けた政策を実施する一部の国会議員は、未熟なJKやJCが大好物!
みんな、新宿の歌舞伎町に大集合!
“いしん”を掛けたファック国家の実現を目指そう!
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/07/17 (Thu) 12:49:41
ある政党の国会議員の、この発言。
『運の良い事に、「能登半島地震」(2024年1月1日)が遭(あ)った。』
この思考を適用するなら・・・
『運の良い事に、1868年(明治元年)に「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1877年(明治10年)に「西南戦争」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1894年(明治27年)に「日清戦争」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1904年(明治37年)に「日露戦争」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1914年(大正3年)に「第一次世界大戦」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1941年(昭和16年)に「第二次世界大戦」かつ「太平洋戦争」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1995年(平成7年)に「阪神大震災」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1995年(平成7年)に「地下鉄サリン事件」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1998年(平成10年)に「和歌山毒物カレー事件」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、2011年(平成23年)に「東日本大震災」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、2020年(令和2年)に「新型コロナウイルス感染拡大」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、2022年(令和4年)に「元首相暗殺事件」が遭(あ)った。』
これからも政党が一丸となって、この信条と政策でドンドン突き進みます。
そして、日本の国賊(こくぞく)として飛躍して参ります。
今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:36:48
◆◇◆其の三十五:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗矩 1571年〜1646年●
侍(サムライ)の武士や日本刀の太刀(たち)に全く興味や関心が無くても、日本人の心には「柳生=剣術」が刻み込まれている。
その礎(いしずえ)を戦国時代から江戸時代に掛けて築いたのが、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)と、息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)と、孫の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)の柳生三世代である。
その中継ぎの柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は剣術の柳生新陰流を、江戸幕府の征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の徳川三世代に伝授している。
1571年に大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)で柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は誕生する。
父親は柳生新陰流の流祖でもある柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、上野国(こうずけ/群馬県)の勢多(せた/前橋)の出身の“剣聖”(けんせい)と呼ばれた上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)で、流祖となる新陰流の門下生で剣術を習得した。
この2人の剣豪により技量を受け継いだのが柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)と言えば、その剣術の凄さが解る。
しかし、時は戦乱の世である。
剣術の腕前が達者でも、大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)を守り抜くのは容易(たやす)くない。
室町幕府は征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)から、征夷大将軍14代目の足利義栄(あしかがよしひで/室町)へ、そして征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)にて終焉(しゅうえん)を迎える。
その間の戦国時代の権力者は、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)から、織田信長(おだのぶなが/織田)へ、そして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)へと移ろいだ。
戦国時代が終焉(しゅうえん)して安土桃山時代が到来し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の天下統一が達成する。
武将による合戦から距離を置いていた父親の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)や息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)だったが、戦(いくさ)の無い平和な時代が到来すると、次ぎなる試練が待ち受けていた。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が司る豊臣政権は、領土の田畑を測量して石高を調査する“太閤検地”(たいこうけんち)を実施した。
これにより柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が統治する大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)にも、豊臣政権の測量士が来て田畑を測量し始めた。
ところが、事前に提出された報告書に記載された田畑の面積とは異なっており、過小申請が発覚し隠し田が見つかった。
この処罰として柳生氏は、領地没収の改易(かいえき)となり柳生庄(やぎゅうしょう)の領土を全て失う。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:37:39
◆◇◆其の三十六:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗矩 1571年〜1646年●
柳生一族に残ったのは、剣術と柳生新陰流の道場だけである。
剣術士として新たな人生を歩み始めた父親の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)と息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、更に剣術の鍛錬(たんれん)に没頭して腕前に磨きを掛ける。
そんな時に、豊臣政権の“豊臣五大老”に選抜されていた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、大和国(奈良県)に居る剣豪の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の噂を耳にする。
そして1594年に柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に招聘(しょうへい)された。
そこで柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の前で、柳生新陰流の“無刀取り”(むとうどり)の演武を披露した。
その剣術の技量の高さに徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は感銘を受けて、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の弟子に志願した。
しかし、67歳に達していた柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、高齢を理由に弟子は取らないと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の申出を断った。
ただ、柳生新陰流の後継者を引き継いでいた息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)を師範として紹介した。
こうして息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)をはじめとした徳川家に仕える事になる。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:38:22
◆◇◆其の三十七:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗矩 1571年〜1646年●
1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去し、その後継者争いで豊臣政権の権力闘争が起こる。
先(ま)ず動いた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)を拠点にしていた“豊臣五大老”の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に対して謀反(むほん)の疑いを掛ける。
そして1600年に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と共に徳川軍を引き連れて「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かう。
この時、柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)も従軍していた。
同年の1600年に、豊臣政権の後継者に就いた豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)を担ぐ石田三成(いしだみつなり/豊臣)は西軍を組成した。
この事態に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は「会津征伐」(あいづせいばつ)を中止して、そのまま徳川軍を拡大させた東軍を組成し、美濃国(岐阜県)で交戦した「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)が起こった。
この時、柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の柳生一族は、当然に東軍に加勢して武功を挙げる。
しかも、それ以前に柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は隠密(おんみつ)として西軍に対して調略を働き、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の直参家臣だった大和国(奈良県)の猛将の島左近(しまさこん)こと島清興(しまきよおき/筒井→豊臣)などにも接近していた。
結果は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍の勝利に終わる。
1603年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)よる江戸幕府が開設され、徳川家の剣術指南役となっていた柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、再び大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)の領主として返り咲く。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:39:02
◆◇◆其の三十八:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗矩 1571年〜1646年●
江戸幕府の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の剣術指南役に就任していた。
そんな時に摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)では、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と母親の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)が江戸幕府に反旗を翻(ひるがえ)した。
これに対して徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、1614年の「大坂・冬の陣」で豊臣家を弱体化させて、1615年の「大坂・夏の陣」で完全に豊臣家を消滅させる。
この合戦で征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)も参戦していたが、その傍(かたわら)に居たのが柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)である。
大坂城(おおさかじょう)から南東方にある岡山口(勝山)に、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)は陣営を設けていた。
ここに豊臣軍の7人の武士が奇襲を掛けて、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)を斬り掛かる。
しかし、傍(かたわら)に居た柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、動揺する事なく7人の武士を瞬殺した。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、後にも先にも人を斬殺したのは、この「大坂の陣」だけである。
柳生新陰流の源流でもある新陰流の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、人を斬って世を治めるのではなく、戦乱の世を鎮める人を活かす剣の“活人剣”(かつにんけん)を説いていた。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)も、この戒律を最も遵守していた。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:39:47
◆◇◆其の三十九:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗矩 1571年〜1646年●
また「大坂の陣」では、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の娘で豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の妻だった千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)を大坂城(おおさかじょう)から救出する際に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の命令により本多忠刻(ほんだただとき/徳川)が尽力して成功する。
ただ、実際に大坂城(おおさかじょう)の現地に赴(おもむ)いて千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)を迎えにいったのは、宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)の軍勢だった。
宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)とは、父親が宇喜多忠家(うきたただいえ/宇喜多→豊臣)で、その兄が備前国(岡山県)と美作国(岡山県)と備中国(岡山県)の戦国大名に就いていた宇喜多直家(うきたなおいえ/毛利→織田)である。
宇喜多直家(うきたなおいえ/毛利→織田)の息子の宇喜多秀家(うきたひでいえ/毛利→織田→豊臣)が家督継承し当主となり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の“豊臣五大老”として仕えていたが、従兄弟にあたる宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)とは折り合いが悪かったと言う。
その為に宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)は、1600年の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍に参加して奮闘していた。
この事から宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)は、外様(とざま)の武将でも江戸幕府では重用されていた。
この時に52歳の宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)は、18歳の初々(ういうい)しく美しい千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)に一目惚れをする。
34も歳の離(はな)れた宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)は、千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)と結婚したいとまで思う様になる。
ただ、千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)は、“徳川四天王”の本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)を祖父に、本多忠政(ほんだただまさ/徳川)を父親に持つ本多忠刻(ほんだただとき/徳川)と婚姻する事が決定する。
これには大坂城(おおさかじょう)まで迎えに来た時に、陣頭指揮を執(と)っていた本多忠刻(ほんだただとき/徳川)に、千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)が一目惚れした恋愛感情による。
しかし、諦め切れない宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)は、千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)が本多忠刻(ほんだただとき/徳川)へ嫁(とつ)ぐ婚礼の日に略奪する計画を企(くわだ)てる。
ただ、この計画は不審に思った宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)の家臣が江戸幕府に密告した為に、実際に起こる事は無かった。
この時に心乱れた宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)を、諫言(かんげん)したのが柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)である。
しかし、宇喜多詮家(うきたあきいえ)こと坂崎直盛(さかざきなおもり/宇喜多→徳川)は寝込み中に家臣によって斬首され、後世に「千姫事件」として汚名を残す事になった。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:40:27
◆◇◆其の四十:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗矩 1571年〜1646年●
江戸幕府は征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の時代になり、ここでも柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は剣術指南役に就任していた。
さらに大名や朝廷の不正を監査する大目付(おおめつけ)にも就いていた。
一方で柳生新陰流の門下生には徳川家以外にも、多くの大名が名を連ねた。
茶人の細川三斎(ほそかわさんさい)こと細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)と明智玉(あけちたま/細川ガラシャ)の息子で、肥後国(熊本県)の熊本藩の藩主である細川忠利(ほそかわただとし/徳川)。
肥前国(佐賀県)の武将で鍋島直茂(なべしまなおしげ/龍造寺→豊臣→徳川)の息子で、肥前国(佐賀県)の佐賀藩の藩主である鍋島勝茂(なべしまかつしげ/徳川)。
黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の息子で、筑前国(福岡県)の福岡藩の藩主である黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)。
島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)を祖父に、島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)の息子で、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の藩主である島津光久(しまずみつひさ/徳川)など、錚々(そうそう)たる顔触れである。
剣術ではないが、陸奥国(むつ/宮城県)の仙台藩の藩主である“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)に酒造家を紹介してもらい、仙台に酒蔵を造って銘酒の製造をしている。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:41:13
◆◇◆其の四十一:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗矩 1571年〜1646年●
1636年に大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)は1万石を超えて、柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は江戸幕府にて柳生藩(やぎゅうはん)の藩主に就任した。
剣術士が幕府の大名に就任したのは、永き日本史でも柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)だけである。
そして柳生氏の家督を、息子の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)が引き継いだ。
この頃に60歳を超えていた柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、握り構える太刀(たち)を扇子に替えて、能楽(のうがく)や舞踊(ぶよう)に関心を示して芸事に没頭する様になる。
しかし、その向上心は度が過ぎて、時には乱舞して倒れる事もしばしばあった。
ただ、直ぐに起き上がり、再び乱舞したと言う。
この時に親交のあった但馬国(たじま/兵庫県)の豊岡の出身で臨済宗の僧侶の沢庵宗彭(たくあんそうほう/僧侶)に諫言(かんげん)されている。
漬物の“たくあん”を考案した沢庵宗彭(たくあんそうほう/僧侶)は、江戸幕府と朝廷の第108代天皇の後水尾天皇(ごみずのおてんのう/朝廷)との間で起こった1627年の紫衣事件(しえじけん)にて、朝廷に就いていた沢庵宗彭(たくあんそうほう/僧侶)は処罰を受けるが、この時に柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)などが赦免(しゃめん)の活動をしており、そこからの関係だった。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の扇子を振りかざし度が過ぎる乱舞も、350年後に東京は芝浦にあった大型ディスコの“ジュリアナ東京”にて、お立ち台ギャルにその意思が引き継がれる事になる。
そして1646年に柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、永きに渡る修行を終え永眠する。
征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)は柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の逝去を悲しみ、朝廷に働き掛けて官位相当制の従四位を与えている。
従四位と言えば藤原氏の庶流(しょりゅう)など貴族の位(くらい)で、武家でも織田信長(おだのぶなが/織田)などの武将しか与えられておらず、剣術士で与えられたのは新陰流の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)だけである。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)が著書した“兵法家伝書”は、現代でも宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が著書した“五輪書”と共に武道書の指針として受け継がれている。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:41:52
◆◇◆其の四十二:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●宮本武蔵 1584年〜1645年●
佐々木小次郎…『遅いぞ、武蔵!』
宮本武蔵…『小次郎、敗(やぶ)れたり!』
日本人なら誰もが知っている台詞(せりふ)である。
映画や小説でお馴染みの、長門国(山口県)の巌流島(がんりゅうじま)にて宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)の決闘のワンシーン。
しかし、これはフィクション(創作)であり、事実は少し違っていた様だ。
では一体、どんな巌流島(がんりゅうじま)の決闘だったのか?
それには先(ま)ず、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と言う人物を知る必要がある。
播磨国(はりま/兵庫県)の赤松氏に仕える武士だった新免無二(しんめんむに/赤松→剣術士)の息子として、1584年に宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は誕生した。
父親の新免無二(しんめんむに/赤松→剣術士)と折り合いが悪く、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は青年期に家出して武者修行の旅に出ている。
13歳の宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は、大人の武士と真剣(しんけん)での立会(たちあい)を行い斬殺し勝利した。
その後、29歳までに真剣(しんけん)での立会(たちあい)で60余りのを勝利している。
また、剣術士だけでなく嘱託(しょくたく)の武士として、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の波紋により勃発した“九州の関ヶ原”では、筑前国(福岡県)の福岡藩の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が率いる東軍に参戦して武功を挙げている。
1615年に起こった「大坂・夏の陣」では、三河国(愛知県)の刈谷藩の藩主である水野勝成(みずのかつなり/徳川)の軍隊に所属して、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)にて豊臣軍と交戦した。
1637年に起こった「島原天草の乱」では、豊前国(ぶぜん/福岡県)の小倉藩(こくらはん/北九州)に所属して、藩主の小笠原忠真(おがさわらただざね/徳川)に仕えて肥前国(長崎県)の原城(はらじょう/南島原)を攻略している。
武士としての宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は、大きな合戦での勝負も無敗であった。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:42:37
◆◇◆其の四十三:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●宮本武蔵 1584年〜1645年●
武士としての宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)も名高いが、やはり剣豪としての宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が広く認知されている。
21歳になった宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は、京都で武者修行をしていた。
そこで室町幕府の足利氏の剣術の師範を代々に渡り務める吉岡流の吉岡清十郎(よしおかせいじゅうろう)こと吉岡直綱(よしおかなおつな/剣術士)と仕合をする事になる。
洛北にある上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ/真言宗)にて、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と吉岡清十郎(よしおかせいじゅうろう)こと吉岡直綱(よしおかなおつな/剣術士)は対峙した。
木刀を握る宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)に対して、吉岡清十郎(よしおかせいじゅうろう)こと吉岡直綱(よしおかなおつな/剣術士)は真剣(しんけん)の太刀(たち)だった。
結果は木刀の宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が勝利する。
この敗北により、吉岡清十郎(よしおかせいじゅうろう)こと吉岡直綱(よしおかなおつな/剣術士)は刀を置き剣術から身を引いて、染物業の職人になったと言う。
しかし、吉岡清十郎(よしおかせいじゅうろう)こと吉岡直綱(よしおかなおつな/剣術士)の弟の吉岡伝七郎(よしおかでんしちろう)こと吉岡直重(よしおかなおしげ/剣術士)が、仇打ちの為に果し状を宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)に送り付けてきた。
果し状の仕合場所には、七条の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)こと蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう/天台宗)が指定されていた。
この時も、木刀を握る宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)に対して、吉岡伝七郎(よしおかでんしちろう)こと吉岡直重(よしおかなおしげ/剣術士)は真剣(しんけん)の太刀(たち)だった。
結果は木刀の宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が勝利する。
この敗北により、吉岡伝七郎(よしおかでんしちろう)こと吉岡直重(よしおかなおしげ/剣術士)は討死した。
吉岡清十郎(よしおかせいじゅうろう)こと吉岡直綱(よしおかなおつな/剣術士)を廃人にされ、吉岡伝七郎(よしおかでんしちろう)こと吉岡直重(よしおかなおしげ/剣術士)を亡き者にされた吉岡流の門下生は、師匠の仇打ちの為に宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)に居合(いあい)を企(くわだ)て実行する。
数十人に及ぶ吉岡流の門下生に取り囲まれた宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は、負傷しながらも門下生の全員を討ち倒した。
室町幕府の足利氏の剣術の師範を代々に渡り務める吉岡流の師匠や門下生を手討ちにした事は、京都だけでなく日本全国に知れ渡った。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:43:17
◆◇◆其の四十四:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●宮本武蔵 1584年〜1645年●
1600年の“九州の関ヶ原”にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣で“天才軍師”と呼ばれた黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)に仕えていた宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は、拠点を京都から筑前国(福岡県)に移していた。
郷里が共に播磨国(はりま/兵庫県)だった縁(えん)が、2人を結ばせたのかも知れない。
そして1612年に、豊前国(ぶぜん/福岡県)と長門国(山口県)の関門海峡にある巌流島(がんりゅうじま)に、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は小舟を漕いで向かっていた。
無人島の巌流島(がんりゅうじま)には、宿敵の佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)が待ち構えている。
佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)とは、豊前国(ぶぜん/福岡県)の田川の豪族の出身で、剣術の修行の為に訪れた越前国(福井県)の一乗滝(いちじょうだき)で“燕返し”を生み出し、その後、流派の岩流(がんりゅう)の流祖となり、師範として多くの門下生を抱える様になる。
しかし、同じ九州に居住し、同じ剣術を志す者と言うだけで、どうして宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は決闘をする事になったのか?
これには2人が意図していない所で話しが湧き起こる。
九州のとある場所にて、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の門下生と、佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)の門下生が、お互いの剣術の優位性について言い争いが起こった。
どちらが優れているか、お互いの師匠を決闘させて決着する事を提案する。
この時点で師匠の宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は何も知らない。
その後、お互いの門下生は、師匠に決闘の日程と場所を伝える。
門下生が勝手に決めてきた仕合に、師匠の宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は、青天の霹靂(へきれき)だったであろう。
しかし、門下生の不始末は師匠が責任を取って始末を付けるのが武士道でもある。
それが1612年に執り行われた「巌流島の戦」(がんりゅうじまのたたかい)である。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:44:05
◆◇◆其の四十五:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●宮本武蔵 1584年〜1645年●
豊前国(ぶぜん/福岡県)の小倉藩(こくらはん/北九州)が領有する無人島の巌流島(がんりゅうじま)には、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)が対峙していた。
木刀を握る宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)に対して、佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は真剣(しんけん)の太刀(たち)だった。
結果は木刀の宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が勝利する。
この時の佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)との決闘については、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が著書した書物には一切の記述が無い。
その為に宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の養子に入った宮本伊織(みやもといおり/明石→小倉)が、義父の没後に筑前国(福岡県)の小倉にある手向山(たむけやま)に“小倉碑文”(こくらひぶん)を創建して、その石碑に刻まれた宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の生涯に記述されている。
その一説を読み解くと、「巌流島の戦」(がんりゅうじまのたたかい)の史実に少し近付く事ができる。
宮本伊織…⦅長門(山口県)と豊前(福岡県)との際、海中に嶋(巌流島)有り。⦆
宮本伊織…⦅舟嶋(巌流島)と謂(い)ふ。⦆
宮本伊織…⦅両雄、同時に相会す。⦆
宮本伊織…⦅岩流(佐々木小次郎)、三尺(95cm)の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。⦆
宮本伊織…⦅武蔵(宮本武蔵)、木刃の一撃を以(もっ)て之(これ)を殺す。⦆
宮本伊織…⦅電光も猶遅(ゆうち)し。⦆
宮本伊織…⦅故(ゆえ)に俗(ならい)、舟嶋(巌流島)を改めて岩流嶋(舟嶋)と謂(い)ふ。⦆(小倉碑文)
これによれば、巌流島(がんりゅうじま)には、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は同時刻に上陸している。
更に、刃渡り95cmの太刀(たち)で構える佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)に対して、木刀の宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が、電光石火(でんこうせっか)の如(ごと)く討ち倒している。
この一撃で佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は命を落とす。
これが「巌流島の戦」(がんりゅうじまのたたかい)の主な全容である。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:44:51
◆◇◆其の四十六:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●宮本武蔵 1584年〜1645年●
しかし、北九州から「巌流島の戦」(がんりゅうじまのたたかい)について、別の記述がなされた書物が発見された。
宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)と佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)が決闘して、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が勝利する所までは同じである。
この後に起こった出来事が少し違っていた。
佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の一撃を受けて敗北したが、討死はしていなかった。
少し時が経ち佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)は立ち上がる。
この時、勝利した宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は、小舟を漕いで北九州に帰還している途中だった。
しかし、師匠の宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)を心配して見に来ていた数十人の門下生が、巌流島(がんりゅうじま)の岩場の影に隠れて、決闘の動向を見守っていたのだ。
師匠が勝利したものの、宿敵の佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)が生きている事を目撃した宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の数十人の門下生は、その場で佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)を木刀で袋叩きにして撲殺してしまう。
後日、佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)の門下生が、巌流島(がんりゅうじま)にて師匠が宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の数十人の門下生に撲殺された事を知る。
佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)の門下生は師匠の仇打ちの為に、血眼(ちまなこ)になって宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)を北九州一帯を探し回る。
これを知った宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は身の危険を感じて、豊前国(ぶぜん/福岡県)の小倉藩(こくらはん/北九州)の藩主だった細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)の家臣で、北九州の門司城(もじじょう)の城代に就いていた沼田延元(ぬまたのぶもと/小倉)に匿(かくま)ってもらう。
ここまでの出来事は、北九州の沼田氏に伝わる“沼田家記”(ぬまたかき)に記載されている。
もしかしたら、「巌流島の戦」(がんりゅうじまのたたかい)の佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)との決闘について、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)が著書した書物には一切の記述が無いのは、この様な門下生が犯した大罪の罪悪感があるからかも知れない。
因(ちな)みに、年齢不詳とされる佐々木小次郎(ささきこじろう/毛利→剣術士)だが、1534年に誕生した織田信長(おだのぶなが/織田)と同世代と言う記述もあり、1612年の「巌流島の戦」(がんりゅうじまのたたかい)を逆算すると70代〜80代だった可能性がある。
この時、1584年に生まれた宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は一番に脂(あぶら)の乗った28歳なので、剣術の技量と言うよりも、年齢差で既に勝敗は決している。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:45:31
◆◇◆其の四十七:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●宮本武蔵 1584年〜1645年●
剣豪として名を馳せた宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は、左利きを活かして長刀と短刀の剣を左右に持つ二天一流(にてんいちりゅう)の流祖となる。
そんな噂を聞き付けた夢想権之助(むそうごんのすけ/剣術士)が木刀を握り、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)に仕合を挑む。
しかし夢想権之助(むそうごんのすけ/剣術士)は、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の二天一流(にてんいちりゅう)の木刀に一撃で討ち倒された。
敗北した夢想権之助(むそうごんのすけ/剣術士)は、筑前国(福岡県)の宝満山(ほうまんざん)に篭(こも)り修行に励(はげ)み、竈門神社(かまどじんじゃ/太宰府)で杖術(じょうじゅつ)を生み出した。
そして、再び宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)に果し状を送り付けた。
宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の前に現れた夢想権之助(むそうごんのすけ/剣術士)が握っていたのは3mの杖(つえ)だった。
宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の二天一流(にてんいちりゅう)は接近戦には有利だが、敵方が距離を置くと長刀でも届かないのが弱点となる。
一方、夢想権之助(むそうごんのすけ/剣術士)の3mの杖(つえ)はこの逆で、接近戦には杖(つえ)が長過ぎて不向きだが、2m近くの間隔をあければ木刀より有利に働く。
こうして夢想権之助(むそうごんのすけ/剣術士)は、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)に勝利する。
宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)にとっては、初めての敗北である。
この勝利で夢想権之助(むそうごんのすけ/剣術士)の名は世間に知れ渡り、神道夢想流杖術(しんとうむそうりゅうじょうじゅつ)の流祖となる。
杖術(じょうじゅつ)とは、剣と槍(やり)と薙刀(なぎなた)の動作を採り入れた兵法(ひょうほう/武士の技能)で、太刀(たち)に対応した戦術である。
戦国時代などの合戦で、槍(やり)の部隊を前線に構える兵法(へいほう/軍隊の戦術)の理屈と同じである。
これは現代の警察や機動隊などが、反乱の時に導入する部隊にも通じている。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:46:09
◆◇◆其の四十八:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●宮本武蔵 1584年〜1645年●
その後、宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)は豊前国(ぶぜん/福岡県)の小倉藩(こくらはん/北九州)の藩主だった細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)を頼り、息子の細川忠利(ほそかわただとし/徳川)が1632年より熊本藩の藩主を務める肥後国(熊本県)に移住する。
肥後国(熊本県)での生活は、剣を筆に持ち替えて水墨画などを描く画家に転身した。
その画量は剣と同様に一流の腕前で、多くの国宝級の絵画を残している。
1643年から、柳生新陰流の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)が著書した“兵法家伝書”を参照しながら、長年の武者修行を書き記(しる)した剣術の流儀の“五輪書”を1645年に完成させる。
“五輪書”には、大地の“地之巻”と、流体の“水之巻”と、情熱の“火之巻”と、成長の“風之巻”と、空虚の“空之巻”の全五巻から構成されている。
“五輪書”は、墓石や供養塔などの五輪塔(ごりんとう)の形状を流用している。
現代でも“五輪書”は人生の指針として読まれており、特に第一線で活躍するビジネスワーカーは必ず読んでいる。
更(さら)にアメリカはニューヨークのウォール街で成功を治めるエグゼクティブパーソンも、自邸のベッド横に据えてあるサイドボードには、キリスト教の聖書と共に宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)の“五輪書”が必ず置いてある。
特に大手金融機関のビジネスワーカーには、“五輪書”の購読は必須とされている。
そんな宮本武蔵(みやもとむさし/黒田→剣術士)だが、“五輪書”を完成させた1645年に永い修行の旅を終えて静かに眠った。
宮本武蔵…『一理に達すれば、万法(ばんぽう)に通ず。』
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:46:53
◆◇◆其の四十九:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生三厳 1607年〜1650年●
大和国(奈良県)の春日山から東方に位置する柳生庄(やぎゅうしょう)は、21世紀の現代でも“剣術の里”として有名である。
それは柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)から柳生新陰流が始まり、息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)で武道や剣術の指南書でもある“兵法家伝書”を完成させ、孫の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)が江戸幕府に大きな花火を打ち上げた事に他ならない。
そんな剣豪と呼ばれる祖父と父親に持つ柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)とは、どんな人物だったのか?
1607年に大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)に、柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の長男として誕生した柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)だが、この前年の1606年に祖父の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は死去している。
この時期、父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、江戸幕府の徳川家に剣術指南役として就任していた。
ちょうど征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の徳川三世代までを指導している。
息子の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)と一緒に剣術稽古に励(はげ)んでいた。
1604年に誕生した徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)に対して、3歳年下の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は兄の様に慕(した)っていた。
徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)と柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は、本当の兄弟の様に仲が良かった。
この頃は・・・
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:47:34
◆◇◆其の五十:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生三厳 1607年〜1650年●
1626年の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)が19歳の時に、江戸幕府では大きな事件が起こる。
実は柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は、剣豪でもあるが、酒豪でもあった。
この年齢で既に酒乱で、常に酩酊状態である。
その為に、酒の勢いに任せて征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)に暴言を浴びせたりもした。
柳生三厳…『ウィ〜 やいっ、このホモ野郎!』
徳川家光…『ホッ、ホモ野郎!?』
柳生三厳…『ウィ〜 おいっ、春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)の乳は美味いかぁ?』
徳川家光…『イッ!?』
しかも、お酒が入っていない平常時でも、剣術の乱取りで征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)を、手加減なしで完膚(かんぷ)なきまでに打ちのめした。
柳生三厳…『エイッ! ヤァー! トォー!』
徳川家光…『グェ〜〜』
更に、お酒が入っている酩酊状態でも、剣術の乱取りで征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)を、手加減なしで完膚(かんぷ)なきまでに打ちのめした。
柳生三厳…『ウィ〜 エイッ! ヤァー! トォー!』
徳川家光…『ギャ〜〜』
正(まさ)に酔剣(すいけん)である。
これにより江戸幕府は柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)に対して、江戸城(えどじょう)に出入禁止の謹慎処分を科(か)した。
そこから数ヶ月後、兄貴分の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)は、弟分の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)の赦免(しゃめん)を決定する。
しかし、それを父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)が許可しなかった。
こうして柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は、江戸幕府から追放処分となり途方に暮れる事になる。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:48:18
◆◇◆其の五十一:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生三厳 1607年〜1650年●
江戸幕府から追放された柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は、生まれ故郷の大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)へ帰郷した。
この時期に剣術の研鑽(けんさん)に励み、時には武者修行に旅立ち、日本各地で盗賊や山賊を撃退していた。
この時に父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)が著書した“兵法家伝書”を参考に、剣術の極意書の“昔、飛衛(ひえい)という者あり”を書き綴(つづ)っている。
この修行の期間は10年にも及んだ。
一方で江戸幕府では、柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の次男の柳生友矩(やぎゅうとものり/江戸)が、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の御伽衆(おとぎしゅう)に就いてお相手していた。
しかし、1639年に柳生友矩(やぎゅうとものり/江戸)は、26歳と言う若さで早世した。
この頃に柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は、追放処分の恩赦(おんしゃ)があり江戸幕府に帰還して出仕(しゅっし)する。
大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)から江戸に旅立つ際に、雑木林に記念碑として“十兵衛杉”(じゅうべえすぎ)を植樹した。
ただ、1973年に落雷に遭って“十兵衛杉”(じゅうべえすぎ)は枯れてしまったが、それでも幹(みき)はしっかりと残っている。
久方(ひさかた)ぶりに父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)と面会した柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は、修行中に著書した“昔、飛衛(ひえい)という者あり”を提出した。
“昔、飛衛(ひえい)という者あり”を黙読した父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は激怒して酷評した。
柳生宗矩…『こんな下らない悪書は、燃やしてしまえ!』
柳生三厳…『ええっ!?』
ただ、この処遇に父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の友人の沢庵宗彭(たくあんそうほう/僧侶)が助け船を出してくれた。
沢庵宗彭(たくあんそうほう/僧侶)は“昔、飛衛(ひえい)という者あり”を黙読し、読み終えた後に加筆と校正をして、柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)に返した。
それが剣術の伝書の“月之抄”に進化する。
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250801
- ラジオの友
2025/08/01 (Fri) 01:49:02
◆◇◆其の五十二:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生三厳 1607年〜1650年●
1645年に父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、剣術の上達を認めた柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)に対して、柳生新陰流の印可(いんか)を与えた。
1646年に父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)が亡くなる。
この時、父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の遺言書には、息子達へ相続する遺産分割の配分が記載されていた。
長男の柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)には8300石の領地が与えられた。
この分割相続で大和国(奈良県)の柳生藩(やぎゅうはん)は1万石を切った為に、大名から旗本に格下げとなる。
1650年に鷹狩りに出掛けた柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)は、その地で急に体調を悪くして死去した。
この鷹狩りの土地は、1639年に早世した弟の柳生友矩(やぎゅうとものり/江戸)の領地内だった。
亡くなった柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)の相続により、父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の三男の柳生宗冬(やぎゅうむねふゆ/江戸)にも領地が与えられ、1万石を超えた為に大和国(奈良県)の柳生藩(やぎゅうはん)は再認定される。
大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)には、柳生家の菩提寺の芳徳寺(ほうとくじ/臨済宗)が建立(こんりゅう)されており、住職は父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の四男の列堂義仙(れつどうぎせん/僧侶)が務めていた。
剣豪の柳生一族は、祖父の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)、父親の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)、そして柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)に剣術が引き継がれていった。
ただ、後世の評価では、“柳生一族最強の剣豪”は柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)こと柳生三厳(やぎゅうみつよし/剣術士)と言われるのは、やはり剣術の技量に併せ、江戸幕府で大きな花火を打ち上げる程の粗相(そそう)する人間味が付加されて事が要因と思われる。
今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:31:43
史上最高級の歌声を持つナットキングコールの♪スターダスト。
ナットキングコールが♪ソーラン節を唄っても、アメリカはニューヨークの最高級ホテルのラウンジでも流す事ができる。
Nat King Cole /♪ Stardust
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:32:42
ウィリーネルソンがカントリー調で唄う♪スターダスト。
WILLIE NELSON /♪ STARDUST
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:33:49
リンゴスターがリバプール調で唄う♪スターダスト。
RINGO STARR /♪ STARDUST
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:34:47
ビートルズの代表曲とまでは行かないが、それなりに知名度のある♪トゥオブアスです。
The Beatles/♪ TWO OF US
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:35:44
だからなのか、映画の「アイアムサム」のサントラにも、エイミーマン&マイケルペンがカバーした♪トゥオブアスが入っている。
AIMEE MANN & MICHAEL PENN /♪ TWO OF US
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:36:45
イーグルスの哀愁漂うカントリーサウンドの♪ベストオブマイラヴ(我が愛の至上)です。
イーグルスの中で一番に好きな曲かも知れない。
EAGLES /♪ BEST OF MY LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:37:43
アスワドのラスタ色が漂うレゲエサウンドの♪ベストオブマイラヴ(我が愛の至上)です。
レゲエの中で一番に好きな曲かも知れない。
ASWAD /♪ BEST OF MY LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:38:52
“ソウルの女王”と呼ばれるアレサフランクリンが唄う♪明日に架ける橋です。
やはり出身母体のゴスペル調で歌い上げていますね。
ARETHA FRANKLIN /♪ BRIDGE OVER TROUBLED WATER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:39:55
サイモン&ガーファンクルの代表曲でもある♪明日に架ける橋です。
夢と言う橋を明日に架ける為には、試練と言う川も必要です。
試練と言う川が長く幅広ければ、夢と言う橋も長く幅広くなる。
Simon & Garfunkel /♪ BRIDGE OVER TROUBLED WATER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:41:07
ギターリフにインパクトがあるエリッククラプトンの♪コカインです。
それ以上にパンチの効いたストレートの曲名に唖然(あぜん)とさせる。
ある意味、♪覚醒剤と言う曲をリリースするのと同じである。
ERIC CLAPTON /♪ COCAINE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:42:34
その元ネタのJJケイルの♪コカインです。
本来は薬物のコカインと恋愛の泥沼を掛け合わせて歌っている様ですが、やはり薬物大国のアメリカを象徴する1曲ですね。
ここで一言、『シャブはアカン!』以上。
J.J.CALE /♪ COCAINE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:43:40
“モータウンの女王”と呼ばれるダイアナロスの♪ラヴリーデイです。
コーヒーのCMに使えそうな爽(さわ)やかさですね。
DIANA ROSS /♪ LOVELY DAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:44:42
ビルウィザースの♪ラヴリーデイ。
『♪ラヴリーデイ ラヴリーデイ ラヴリーデイ・・・』のループが心地良い。
Bill Withers /♪ LOVELY DAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:45:43
スパンダーバレエの♪トゥルーを、PMドーンがサンプリングしてラップに仕上げています。
それでも♪トゥルーの原曲を壊さずに、しっかりと良さが伝わってくるところがお見事です。
P.M.DAWN /♪ Set A Drift On Memory Bliss
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:46:50
1980年代に最も人気が高かったスパンダーバレエのメローポップな♪トゥルーです。
デートの車内でこの曲を掛ければ、必ず女性のハートを射止める事が出来ました。
『本当の事を言うよ。 僕の人生には、君と言う指針が必要なんだ。』
この一言で彼女は思いのままです。
Spandau Ballet /♪ True
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:48:09
カオマの♪ランバダを聴くと1989年のバブル絶頂期に、吉柳満(きりゅうみつる/建築家)さんが設計したプラッツと言う飲食ビルに入居していたランバダ専門ディスコの“ジータ”を思い出す。
この頃は1986年に流行したユーロビートも廃(すた)れて、ハウスやヒップホップなどのブラックムーブメントが起こっていた時代。
ちょうど踊り場もディスコからクラブへと転換期に差し掛かっていた。
そんな中でのランバダ専門ディスコの“ジータ”だったが、1年も保(も)たずに閉店した。
当然に行った事は無いのだが、ランバダオンリーとは、正直、どんな選曲だったのかは気になっていた。
建物内に併設してレストランバーの“ミーム”も同時にオープンしていたが、こちらは繁盛しており、長い期間を営業していたと思う。
実は、このレストランバーの“ミーム”にアルバイトの面接に行った事がある。
ただ、「不採用」だった。
因(ちな)みに名古屋市内の41号線と若宮大通の丸田町交差点の北東方の裏手にある隠れ家バーの“シェーネルヴォーネン”ではアルバイトをした事がある。
この“シェーネルヴォーネン”も吉柳満(きりゅうみつる/建築家)さんが設計しており、何度かお客さんとして来店してくれ接客した事がある。
この記述を機に知ったのだが、吉柳満(きりゅうみつる/建築家)さんは2025年5月に81歳で亡くなっていた。
京都の高松伸(たかまつしん/建築家)さんと若林広幸(わかばやしひろゆき/建築家)さん、それに名古屋の吉柳満(きりゅうみつる/建築家)さんの、ポストモダン建築三大巨匠の内、その1人が居なくなってしまった。
バブル期は40年も前の遠い過去である。
⦅自宅から自転車で行ける範囲に、建物のデザインが特徴的な焼肉屋さんがあり、此方(こちら)に引越して来てから気になっていたら、何と吉柳満(きりゅうみつる/建築家)さんの設計だった事が判明した。 今度、来店して内装も観てみようと思っています。 この手のデザイン建物は、長年に培(つちか)った洞察力から直感で判りますね。⦆
Kaoma/♪ Lambada
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:49:28
女優のジェニファーロペスとラッパーのピットブルが唄う曲に♪ランバダがスポットカバーされている。
ここで白状すると、ジェニファーロペスが出演している映画を1度も観た事が無い。
だから、どんな人物か知らなかった。
JENNIFER LOPEZ FEAT.PITBULL /♪ ON THE FLOOR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/31 (Thu) 05:50:41
1980年代も終わろうとしている頃、短い期間だがビーチボーイズの♪ココモやジプシーキングスの♪ジョビジョバなどのラテン系サウンドが流行していた。
そんな時流から誕生したのが、“カバーの女王”として君臨していた石井明美さんの♪ランバダであろう。
その後もラテン系ミュージックは、ビールのCMでもジプシーキングスの♪ヴォラーレが強烈なインパクトを与えた。
因(ちな)みにトムクルーズが出演した映画の「カクテル」では、ビーチボーイズの♪ココモがサントラとして使用された。
バーテンダーを演じるトムクルーズのフレア(瓶を投げる曲芸)を観て、お酒を呑めない下戸(げこ)の青年が、バーテンダーとしてアルバイトする道を歩み始めた事例もある。
それが私だぁ!
流行の影響力の大きさを思い知らされる。
石井明美 /♪ランバダ
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:06:42
◆◇◆其の十九:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗厳 1527年〜1606年●
剣術や日本刀に全く興味の無い者も、剣術士と言えば『柳生一族!』と答える。
これは千葉真一(ちばしんいち/俳優)さんが出演した映画が大きく影響していると思われる。
千葉真一…『ハァ〜〜〜』
そんな剣術士の柳生一族は何処(どこ)に生息していたのか?
柳生一族とは、大和国(奈良県)の春日山より東方の山岳地帯にある柳生庄(やぎゅうしょう)を領域とする菅原氏(すがわらうじ)の系統の柳生氏(やぎゅううじ)です。
戦国時代には柳生城(やぎゅうじょう)の城主だった柳生家厳(やぎゅういえよし/柳生)が統治していた。
柳生一族をこの世に知らしめたのは、柳生家厳(やぎゅういえよし/柳生)の息子の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)であろう。
柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)とは、“剣聖”(けんせい)と呼ばれる上野国(こうずけ/群馬県)の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の一番弟子で、新陰流の習得した柳生新陰流の流祖となった。
幼少期から剣術の稽古に励み、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は10代で達人の腕前だったと言う。
Metallica /♪ For Whom the Bell Tolls
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:07:23
◆◇◆其の二十:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗厳 1527年〜1606年●
この頃、京都の室町幕府は征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)よりも、阿波国(徳島県)の武将の三好長慶(みよしながよし/細川→三好)が武力と調略で制圧して権力を掌握していた。
柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が生きた頃は戦国時代の真っ只中で、室町幕府があった京都に近い大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)も戦乱に巻き込まれていく。
大和国(奈良県)の筒井城(つついじょう/大和郡山)の城主で、藤原氏の菩提寺の興福寺(こうふくじ)の僧侶でもある筒井順昭(つついじゅんしょう/筒井)が、1544年に柳生城(やぎゅうじょう)へ侵攻してきた。
柳生城(やぎゅうじょう)の城主で父親の柳生家厳(やぎゅういえよし/柳生)と共に柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は抗戦したが、それも虚しく筒井順昭(つついじゅんしょう/筒井)が率いる筒井軍に敗北して降伏した。
そして、筒井順昭(つついじゅんしょう/筒井)に臣従(しんじゅう)し、筒井氏の家臣に務める事になる。
筒井氏の家臣になった柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)だが、此処(ここ)でも休む事なく剣術の稽古に励み、筒井軍の武将にも一目置かれる。
その後、筒井順昭(つついじゅんしょう/筒井)の息子の筒井順慶(つついじゅんけい/筒井→織田→豊臣)が家督を継承し、大和国(奈良県)の筒井城(つついじょう/大和郡山)も郡山城(こおりやまじょう/大和郡山)に改名して増強改築した。
しかし、今度は三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の直参家臣で、大和国(奈良県)の生駒山の山脈に建つ信貴山城(しぎさんじょう/平群)を拠点にする松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)が率いる三好軍が、1559年に郡山城(こおりやまじょう/大和郡山)に侵攻してきた。
郡山城(こおりやまじょう/大和郡山)を拠点とする筒井順慶(つついじゅんけい/筒井→織田→豊臣)が率いる筒井軍は抗戦の構えを見せる。
しかし、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)よりも権力が上回る三好長慶(みよしながよし/細川→三好)が後方で控え、その直参家臣の松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)が率いる三好軍の戦況を、冷静に明察した柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は三好軍に寝返る事を決断する。
こうした筒井軍に属する他の武将の離反も相次ぎ、筒井順慶(つついじゅんけい/筒井→織田→豊臣)は降伏して敗北した。
MOTLEY CRUE /♪ LOUDER THAN HELL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:08:04
◆◇◆其の二十一:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗厳 1527年〜1606年●
こうして大和国(奈良県)の柳生城(やぎゅうじょう)を拠点とする柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、そこから西方に聳(そび)える生駒山の山脈に建つ信貴山城(しぎさんじょう/平群)を拠点にする松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)の家臣となった。
この時期になると室町幕府は、生駒山の東部に位置する河内国(大阪府)の飯盛山城(いいもりやまじょう/大東)を拠点とする三好長慶(みよしながよし/細川→三好)を中心に、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)と管領の細川晴元(ほそかわはるもと/室町)の権力闘争が激化していった。
1563年に上野国(こうずけ/群馬県)の剣豪として名高い上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が、大和国(奈良県)の法相宗(ほっそうしゅう)の総本山でもある興福寺(こうふくじ)に来訪して、そこで宝蔵院(ほうぞういん)の院主に就きいていた胤舜(いんしゅん/僧兵)と御手合わせをした情報が、大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)に居た柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の耳に入る。
宝蔵院(ほうぞういん)の胤舜(いんしゅん/僧兵)は槍(やり)の名手として名高く、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)を生み出した奈良法師(ならほうし)だったが、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に呆気(あっけ)なく敗北した。
宝蔵院(ほうぞういん)の胤舜(いんしゅん/僧兵)が敗北した事を聞き付けた、剣豪の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に果たし状を送付する。
果たし状を受け取った上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)と会って仕合をする事になる。
そして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の構えを観て、こう述べる。
上泉信綱…『お主の構えなら、太刀(たち)は必要ない。 この手でお主の太刀(たち)を奪い取って仕合は決する。』
そう言った次の瞬間、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が握り構える太刀(たち)を奪い取った。
柳生宗厳…『なっ、何が起こったのだぁ!?』
この技法は“無刀取り”(むとうどり)と呼ばれる。
続いて上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、弟子の疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)と御手合わせをする事を薦める。
疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)とは、加賀国(石川県)の武士で、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の門下生であり甥でもあり、疋田陰流剣術の流祖となる。
仕合は3本勝負だったが、この3本とも疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)が勝利し、呆気(あっけ)なく敗北した柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は力量の違いから感服し、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の弟子となった。
こうして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は領土の柳生庄(やぎゅうしょう)に、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)を招聘(しょうへい)して滞在してもらう事になった。
OZZY OSBOURNE /♪ BARK AT THE MOON
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:08:48
◆◇◆其の二十二:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗厳 1527年〜1606年●
一方で、絶大な権力を掌握した三好長慶(みよしながよし/細川→三好)が1564年に死去すると、甥の三好義継(みよしよしつぐ/三好)が家督後継者に就任した。
まだ幼少だった三好義継(みよしよしつぐ/三好)に対して、直参家臣の松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)と息子の松永久通(まつながひさみち/三好→織田)に、“三好三人衆”と呼ばれる三好長逸(みよしながやす/三好)と三好宗渭(みよしそうい/三好)と岩成友通(いわなりともみち/三好)が政権運営を担う事になる。
その頃、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の師範となった上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、京都などに赴(おも)き室町幕府の征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)や、朝廷の第106代天皇の正親町天皇(おおぎまちてんのう/朝廷)に拝謁(はいえつ)し、演武を披露して高評価を得ていた。
京都での巡業を終えた上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、再び大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)に戻った。
そして、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)に課した武器や武具を身に着けなくとも、相手を倒す“無刀取り”(むとうどり)の成果を見に来た。
上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)と柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、道場で仕合をする事となる。
この御手合わせで、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の技量が格段に向上している事を上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は悟る。
さらに柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、自己流に改良された“無刀取り”(むとうどり)も披露した。
これにて上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)に対して新陰流の印可(いんか)を与えた。
こうして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の柳生一族(やぎゅういちぞく)が柳生新陰流を継承して行く事となる。
剣術士としての柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、剣術の鍛錬を怠(おこ)らず順調に技量を向上させていた。
しかし、時代は戦国の乱世。
大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)に程近い京都では、室町幕府を激震させる事件が起こる。
BLACK SABBATH /♪ PARANOID
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:09:28
◆◇◆其の二十三:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗厳 1527年〜1606年●
室町幕府の掌握を目論む“三好三人衆”と呼ばれる三好長逸(みよしながやす/三好)と三好宗渭(みよしそうい/三好)と岩成友通(いわなりともみち/三好)と、松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)の息子の松永久通(まつながひさみち/三好→織田)と共に1万人余りの三好軍を率いて、京都の二条御所に居住する征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)を包囲したのである。
三好軍に二条御所を侵攻された剣豪として名高い足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、畳に何本もの太刀(たち)を突き刺して刀剣乱舞(とうけんらんぶ)の如く抗戦し、多くの敵兵を討ち取った。
しかし、最期(さいご)は多勢に囲まれて斬り付けられ、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は“二条御所の薔薇”として美しく散った。
これを1565年に起こった「永禄の変」(えいろくのへん)と呼ぶ。
時の将軍が斬殺されたのは1441年に起こった「嘉吉の乱」(かきつのらん)にて、征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)が、播磨国(はりま/兵庫県)を拠点にしていた赤松入道(あかまつにゅうどう)こと赤松満祐(あかまつみつすけ/室町)と、その息子の赤松教康(あかまつのりやす/室町)に暗殺された以来である。
征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の従兄弟で、足利義維(あしかがよしつな/室町)の息子の足利義栄(あしかがよしひで/室町)が、“三好三人衆”に担がれて征夷大将軍14代目に就任する。
征夷大将軍14代目の足利義栄(あしかがよしひで/室町)の父親の足利義維(あしかがよしつな/室町)とは、征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)の息子で、征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)の養子に入り、管領の細川晴元(ほそかわはるもと/室町)の後ろ盾により和泉国(大阪府)の堺公方(さかいくぼう)に就いていた。
しかし、この反乱に不満を抱いた征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の家臣は、“三好三人衆”の政権運営に抵抗して対抗馬を立てる。
その白羽の矢が当たったのが、征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)の息子で、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の弟の足利義昭(あしかがよしあき/室町)だった。
この頃の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、大和国(奈良県)にある法相宗(ほっそうしゅう)の総本山で、藤原氏の菩提寺でもある興福寺(こうふくじ)に出家して僧侶となっていた。
日々、三蔵法師(さんぞうほうし)こと玄奘(げんじょう/法相)の教えを学び、『般若心経』を唱えて仏門の僧侶として精進していた。
しかし、無念の死を遂げた兄者の敵討ちとなれば、無用な殺生を禁ずる仏教の僧侶でも、奮起せずにはいられなかった。
こうして足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、地に落ちた室町幕府の再興を決意する。
“三好三人衆”と対立する事になった足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、破竹の勢いだった尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが/織田)の後ろ盾を得る。
この頃には“三好三人衆”の傀儡(かいらい)となっていた征夷大将軍14代目の足利義栄(あしかがよしひで/室町)も、既に病死していたと言う。
美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)から大群勢で押し寄せる織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に対して、“三好三人衆”と呼ばれる三好長逸(みよしながやす/三好)と三好宗渭(みよしそうい/三好)と岩成友通(いわなりともみち/三好)は抵抗するも、なす術(すべ)がなく大敗して四国に逃亡する。
織田信長(おだのぶなが/織田)の援軍により、足利義昭(あしかがよしあき/室町)は征夷大将軍15代目に就任する事が出来た。
この時に、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の主君でもある松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に従属(じゅうぞく)した。
THE HIVES /♪ HIGH SCHOOL SHUFFLE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:10:12
◆◇◆其の二十四:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗厳 1527年〜1606年●
しかし、時代は戦国の乱世。
今度は、征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)と織田信長(おだのぶなが/織田)が仲違いをして対立する。
この混戦に松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)は、征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)に加勢した。
ただ、この判断が裏目に出る。
征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)が最も頼りにしていた“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)が、1573年に死去した。
そして、山城国(京都府)の宇治にて1573年に起こった「槇島城の戦」(まきしまじょうのたたかい)で、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に侵攻された征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は敗北して京都から追放された。
亡き父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)の家督を継承した武田勝頼(たけだかつより/武田)は、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)で、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍の総攻撃に遭い敗北する。
征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点としていた毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の孫の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を頼り、1576年に備後国(広島県)の瀬戸内海に面して鞆幕府(ともばくふ)を開設する。
そして、織田信長(おだのぶなが/織田)の長男で嫡男(ちゃくなん)の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる4万人余りの織田軍に、大和国(奈良県)の生駒山の山脈に建つ信貴山城(しぎさんじょう/平群)を居城にしていた松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)は包囲される。
最期(さいご)を悟った松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)は、“天下の名器”と言われた平蜘蛛茶釜(ひらぐむちゃがま)に火薬を詰め込み火を着けて爆死した。
これを1577年に起こった「信貴山城の戦」(しぎさんじょうのたたかい)と呼ぶ。
こうして主君を失った柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、牢人(無職侍)となり剣術士として専念する事になる。
THE AUTOMATIC /♪ IT'S LIKE SOUND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:12:03
◆◇◆其の二十五:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗厳 1527年〜1606年●
室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)が京都から追放され、主君の松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)が死去し、時は織田信長(おだのぶなが/織田)の天下となる。
柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)にて、武家を捨てて豪族の領主となっていた。
それでも剣術の鍛錬は怠らず、柳生新陰流の伝承に励む日々が続く。
そんな時の1582年に、織田信長(おだのぶなが/織田)が直参家臣の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)による謀反(むほん)で横難横死(おうなんおうし)した「本能寺の変」(ほんのうじのへん)が起こった。
その直後に、備中国(岡山県)で毛利軍と合戦を繰り広げていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)により京都に帰還し、敵討ちとして明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を討ち取る。
こうして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の天下統一が達成する。
武将による合戦から距離を置いていた柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)だったが、戦(いくさ)の無い平和な時代が到来すると、次ぐなる試練が待ち受けていた。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が司る豊臣政権は、領土の田畑を測量して石高を調査する“太閤検地”(たいこうけんち)を実施した。
これにより柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が統治する大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)にも、豊臣政権の測量士が来て田畑を測量し始めた。
ところが、事前に提出された報告書に記載された田畑の面積とは異なっており、過小申請が発覚し隠し田が見つかった。
この処罰として柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、領地没収の改易(かいえき)となり柳生庄(やぎゅうしょう)の領土を全て失う。
柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)と柳生一族に残ったのは、剣術と柳生新陰流の道場だけである。
EMERSON,LAKE & PALMER /♪ KARN EVIL 9 1ST IMPRESSION PART 1
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:12:46
◆◇◆其の二十六:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●柳生宗厳 1527年〜1606年●
領主の地位を失った柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、出家して僧侶となり、この頃から石舟斎(せきしゅうさい)と名乗る様になる。
豊臣政権の“豊臣五大老”に選抜されていた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、大和国(奈良県)に居る剣豪の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の噂を耳にする。
そして1594年に柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に招聘(しょうへい)された。
そこで柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の柳生新陰流の“無刀取り”(むとうどり)の演武を披露した。
その剣術の技量の高さに徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は感銘を受けて、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の弟子に志願した。
しかし、67歳に達していた柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、高齢を理由に弟子は取らないと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の申出を断った。
ただ、柳生新陰流の後継者を引き継いでいた息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)を師範として紹介した。
こうして息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)をはじめとした徳川家に仕える事になる。
1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去し、その後継者争いで豊臣政権で権力闘争が起こる。
1600年に、豊臣政権の後継者に就いた豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)を担ぐ石田三成(いしだみつなり/豊臣)は西軍を組成して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍と交戦した「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)が起こった。
この時、柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)の柳生一族は、当然に東軍に加勢して武功を挙げる。
1603年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)よる江戸幕府の開設され、徳川家の剣術指南役となっていた柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)は、再び大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)の領主として返り咲く。
そんな徳川家で躍進(やくしん)する息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり/剣術士)を見定めて安心したかの様に、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は1606年に長い修行の旅に幕を閉じる。
“剣聖”(けんせい)と呼ばれる上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の新陰流の流派でもある柳生新陰流は、その後の武道に数多くの技能と伝統を残している。
大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)の山林には、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が修行している時に、天狗が現れて御手合わせした修行の場がある。
そこには柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が天狗を討ち取ったと思った瞬間に、天狗は姿を消して、その代わりに大きな岩が残されていた。
その大きな岩をよく見ると、真ん中から亀裂が入り太刀(たち)で斬った様に破(わ)れていた。
この一刀両断された大きな岩を“一刀石”(いっとうせき)と呼ぶ。
MY CHEMICAL ROMANCE /BULLETPROOF HEART
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:13:24
◆◇◆其の二十七:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●足利義輝 1536年〜1565年●
下野国(しもつけ/栃木県)の出身で、清和源氏の系統で八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)を先代に持つ征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が、1338年に京都にて室町幕府を開設した。
孫で征夷大将軍3代目の足利義満(あしかがよしみつ/室町)の時代に室町幕府は絶頂期を迎えて、今出川通と烏丸通の交差点から北西方の北小路室町にある花の御所(はなのごしょ)の近隣に相国寺(しょうこくじ/臨済宗)を建立(こんりゅう)したり、洛北に金閣寺(きんかくじ)こと鹿苑寺(ろくおんじ/臨済宗)を造営して“北山文化”を開花させたりした。
そこから時は流れ、1467年〜1477年の11年間に、室町幕府の将軍や管領などの政権闘争や家督紛争が起因する「応仁の乱」(おうにんのらん)が起こり京都市中は焼け野原となる。
この時の当事者が征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)で、戦乱をそっちのけで左京に銀閣寺(ぎんかくじ)こと慈照寺(じしょうじ/臨済宗)を造営して“東山文化”を開花させたりした。
結局、足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)の妻の日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)が、蓄財の才能を活かして「応仁の乱」(おうにんのらん)を鎮静化した。
この「応仁の乱」(おうにんのらん)による余波で、室町幕府の権威が失墜して戦国時代の幕が開ける。
そして室町幕府の終焉(しゅうえん)が見え始めた頃に、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)が政権運営の傍(かたわ)らに居た。
1536年に征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)の嫡男(ちゃくなん)として足利義輝(あしかがよしてる/室町)は誕生した。
弟には征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)が居る。
そんな征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)だが、剣豪将軍と呼ばれる程の剣術の腕前は確かで、その名刀を振りかざし刀剣乱舞(とうけんらんぶ)の如く死闘し、“二条御所の薔薇”にて美しく散っていった。
THE BREEDERS /♪ DIVINE HAMMER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:14:07
◆◇◆其の二十八:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●足利義輝 1536年〜1565年●
この頃の室町幕府の将軍の立場は、源氏以降の鎌倉幕府とさほど変わりない。
室町幕府は、将軍の足利氏と三管領(さんかんれい)の畠山氏、斯波氏、細川氏に、その家臣や地方の守護大名たちで組織が構成されていた。
その地方の守護大名から七頭(しちとう)の山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏(きょうごくうじ)、土岐氏、上杉氏、伊勢氏が選任された。
この氏家の中で京都奉行を担う四職(ししき)の山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏(きょうごくうじ)が選抜された。
そして、1500年代の戦国時代には、讃岐国(香川県)を拠点とする管領の細川晴元(ほそかわはるもと/室町)が、室町幕府の実権を掌握していた。
この処遇に不満を募らせていた征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)は、度々(たびたび)に細川晴元(ほそかわはるもと/室町)と対立し交戦していた。
その都度(つど)、足利義晴(あしかがよしはる/室町)は敗北して、将軍一族を連れ持って近江国(滋賀県)の坂本に逃亡していた。
1546年に11歳の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、父親の征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)から将軍職を譲位(じょうい)され征夷大将軍13代目に就任する。
この“将軍任命式”は、京都ではなく亡命先の近江国(滋賀県)の比叡山の麓に建つ日吉大社(ひよしたいしゃ/天台宗)で執り行われた。
1548年に、朝廷の第105代天皇の後奈良天皇(ごならてんのう/朝廷)から室町幕府に対して、征夷大将軍12代目だった足利義晴(あしかがよしはる/室町)と管領の細川晴元(ほそかわはるもと/室町)に和睦する様に勅命(ちょくめい)が下る。
こうして京都と室町幕府に平穏が訪れると誰もが思っていた。
ところが、今度は管領の細川晴元(ほそかわはるもと/室町)の家臣だった阿波国(徳島県)の武将の三好長慶(みよしながよし/細川→三好)が台頭し始める。
細川晴元(ほそかわはるもと/室町)の親族だった細川氏綱(ほそかわうじつな/室町)と共に三好長慶(みよしながよし/細川→三好)は謀反(むほん)を起こす。
こうして細川晴元(ほそかわはるもと/室町)は敗北し、征夷大将軍12代目だった足利義晴(あしかがよしはる/室町)と征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)を連れ持って近江国(滋賀県)の坂本に逃亡した。
室町幕府の政権運営は、管領の細川晴元(ほそかわはるもと/室町)から三好長慶(みよしながよし/細川→三好)が掌握した。
THE CLASH /♪ (WHITE MAN) IN HAMMERSMITH PALAIS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:14:47
◆◇◆其の二十九:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●足利義輝 1536年〜1565年●
1550年に征夷大将軍12代目だった父親の足利義晴(あしかがよしはる/室町)が死去し、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は近江国(滋賀県)の坂本に1人残される。
征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)の側近で、室町幕府の政所頭人(まんどころとうにん)に就いていた伊勢貞孝(いせさだたか/室町)は、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)と三好長慶(みよしながよし/細川→三好)を和睦する様に画策するが失敗に終わる。
この和睦破断を知った近江国(滋賀県)の守護大名の六角定頼(ろっかくさだより/室町)は、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)を近江国(滋賀県)の朽木(くつき/高島)に匿(かくま)う。
この六角定頼(ろっかくさだより/室町)の行為に反発した伊勢貞孝(いせさだたか/室町)は、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)に寝返る。
1551年に征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の陣営は、京都の伊勢貞孝(いせさだたか/室町)の屋敷に、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)が訪問する情報を掴(つか)む。
そして、伊勢貞孝(いせさだたか/室町)の屋敷に素破(すっぱ/忍者)を送り込み、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の暗殺を企てる。
しかし、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の暗殺は失敗に終わる。
ただ、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の義父で、畠山氏の家臣で河内国(大阪府)の守護代に就任していた遊佐長教(ゆざながのり/室町)が何者かに1551年に暗殺され、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)が仕向けた僧侶の犯行と言われている。
1552年に征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の後ろ盾となっていた六角定頼(ろっかくさだより/室町)が死去する。
これにより足利義輝(あしかがよしてる/室町)は三好長慶(みよしながよし/細川→三好)と和睦した。
しかし、室町幕府の実権を掌握する三好長慶(みよしながよし/細川→三好)が、細川氏の家督を細川晴元(ほそかわはるもと/室町)から親族の細川氏綱(ほそかわうじつな/室町)に継承させた事で、再び戦乱が起こる。
THE JAM /♪ PRIVATE HELL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:15:30
◆◇◆其の三十:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●足利義輝 1536年〜1565年●
1553年に征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は三好長慶(みよしながよし/細川→三好)との和睦を破棄して、細川晴元(ほそかわはるもと/室町)などと共に挙兵した。
しかし、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の軍勢に返り討ちに遭い敗北して、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は近江国(滋賀県)の朽木(くつき/高島)に逃亡する。
将軍である足利義輝(あしかがよしてる/室町)の相次ぐ謀反(むほん)に三好長慶(みよしながよし/細川→三好)も我慢の限界が越えて、近江国(滋賀県)の朽木(くつき/高島)に同行した足利義輝(あしかがよしてる/室町)の家臣に対して伝令(でんれい)を発布した。
その内容は『征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)に引き続き従えば、その家臣は領地没収の改易(かいえき)とする。』と言う厳しい処分だった。
この伝令(でんれい)により、足利義輝(あしかがよしてる/室町)の多くの家臣が京都に帰京して三好長慶(みよしながよし/細川→三好)に従う事になる。
この頃に征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、常陸国(ひたち/茨城県)の塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)と、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の2人の“剣聖”(けんせい)に出逢っている。
そこから4年の月日が流れ、1557年に第105代天皇の後奈良天皇(ごならてんのう/朝廷)が崩御(ほうぎょ)し、息子の正親町天皇(おおぎまちてんのう/朝廷)が第106代天皇に即位(そくい)した。
これにより1558年に元号が“弘治”(こうじ)から“永禄”(えいろく)に改元された。
しかし、近江国(滋賀県)の朽木(くつき/高島)に居た征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、この“永禄”(えいろく)への改元を知らされていなかった。
改元の慣例として、朝廷と幕府の将軍が協議して決定していた伝統がある。
ただ今回は、室町幕府の将軍でも管領でもない三好長慶(みよしながよし/細川→三好)と朝廷の協議で“永禄”(えいろく)の改元を決定していた。
この逸脱(いつだつ)した行為に憤懣(ふんまん)した征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、当面の間は“弘治”(こうじ)を使い続けたと言う。
征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は再三再四(さいさんさいし)の挙兵を起こして、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)に交戦するも勝利する事は無かった。
ALTER BRIDGE /♪ BEFORE TOMORROW COMES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:16:20
◆◇◆其の三十一:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●足利義輝 1536年〜1565年●
1558年の暮に、近江国(滋賀県)の武将だった亡き六角定頼(ろっかくさだより/室町)の息子で六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)の仲裁により、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は三好長慶(みよしながよし/細川→三好)と幾度(いくど)目の和睦を締結する。
こうして征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、5年ぶりに京都へ帰京する。
室町幕府も三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の傀儡(かいらい)政治とは言え、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)が当主に据え置かれた。
その後、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)は三好氏の家督を、息子で嫡男(ちゃくなん)の三好義興(みよしよしおき/三好)に継承して、河内国(大阪府)の飯盛山城(いいもりやまじょう/大東)に表向きの隠居する。
息子の三好義興(みよしよしおき/三好)は摂津国(大阪府)の芥川山城(あくたがわさんじょう/高槻)の城主となり、父親の三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の路線から修正して、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)とは友好関係を築いた。
三好義興(みよしよしおき/三好)には、大和国(奈良県)の武将で生駒山の信貴山城(しぎさんじょう/平群)を居城としていた松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)が直参家臣として仕えた。
三好氏との和睦が盤石になった頃、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は室町幕府の権威の復興に尽力する。
地方の大名にも役職を与えた。
豊後国(ぶんご/大分県)の守護大名で“豊後の王”と呼ばれる大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)には、豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)と筑前国(福岡県)の守護に任命した。
安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点とした戦国武将の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の息子で長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)には、実質的な安芸国(あき/広島県)の守護に任命した。
また日本各地で勃発する合戦の仲裁と鎮圧にも注力している。
信濃国(長野県)にて、1553年〜1564年の第五戦まで繰り広げた「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)では、“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)と、“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に対して、1558年に停戦の仲裁をしている。
出雲国(島根県)や因幡国(いなば/鳥取県)など山陰地方を領域とする守護大名の尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)と、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点とする戦国武将の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)の交戦では、1560年に停戦の仲裁に入るが、ただ、その年に尼子晴久(あまごはるひさ/大内→ 尼子)が病死した。
息子の尼子義久(あまごよしひさ/室町→毛利)が家督継承したが、1566年に毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)に降伏を伝える。
駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の守護代に就いていた“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと/今川)が、西方侵攻の際に1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)の奇襲に遭い討死する。
その今川氏の家督継承した息子の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)だが、今川軍の家臣だった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が寝返り、遠江国(静岡県)の領国争奪で交戦する。
この東海道の動乱にも征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は介入して、1561年に双方に対して平和的解決を促している。
ようやく室町幕府の将軍として認識され始めた足利義輝(あしかがよしてる/室町)は高揚(こうよう)していた。
CROBOT /♪ GOLDEN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:16:58
◆◇◆其の三十二:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●足利義輝 1536年〜1565年●
しかし、幸福はそうは長続きしない。
征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)と友好関係を築いていた三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の息子の三好義興(みよしよしおき/三好)が、1563年に摂津国(大阪府)の芥川山城(あくたがわさんじょう/高槻)で病死したのである。
さらに河内国(大阪府)の飯盛山城(いいもりやまじょう/大東)で隠居していた三好長慶(みよしながよし/細川→三好)も、翌年の1564年に病死する。
三好義興(みよしよしおき/三好)の家督継承したのは、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の甥の三好義継(みよしよしつぐ/三好)が三好氏の当主を引き継いだ。
ここで故人を追悼して喪に服せばよかったのだが、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は邪(よこしま)な欲望が芽生えて、三好氏が弱体化している内に、室町幕府の権威を一気に掌握する事を試(こころ)みる。
室町幕府の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、日本各地の武将に“三好政権”の排除を促して、越後国(新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)、美濃国(岐阜県)の一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)、越前国(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)、安芸国(あき/広島県)の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)など、戦国時代の猛将の支持を得る。
これに危機感を抱いた三好義継(みよしよしつぐ/三好)と、家臣の松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)、その息子で松永氏の家督を引継いだ松永久通(まつながひさみち/三好→織田)、“三好三人衆”と呼ばれる三好長逸(みよしながやす/三好)、三好宗渭(みよしそうい/三好)、岩成友通(いわなりともみち/三好)は、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)を排除して、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の従兄弟で、足利義維(あしかがよしつな/室町)の息子の足利義栄(あしかがよしひで/室町)を征夷大将軍14代目に担ぎ出す。
征夷大将軍14代目の足利義栄(あしかがよしひで/室町)の父親の足利義維(あしかがよしつな/室町)とは、征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)の息子で、征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)の養子に入り、管領の細川晴元(ほそかわはるもと/室町)の後ろ盾により和泉国(大阪府)の堺公方(さかいくぼう)に就いていた人物である。
こうして“三好政権”は、再び征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の排除に動き出す。
STONE TEMPLE PILOTS /♪ LADY PICTURE SHOW
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:17:38
◆◇◆其の三十三:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●足利義輝 1536年〜1565年●
足利義栄(あしかがよしひで/室町)を征夷大将軍14代目に就任させる手段として、松永久通(まつながひさみち/三好→織田)と“三好三人衆”と呼ばれる三好長逸(みよしながやす/三好)、三好宗渭(みよしそうい/三好)、岩成友通(いわなりともみち/三好)は、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)による侵攻を受ける前に、先手必勝の総攻撃を画策した。
それが足利義輝(あしかがよしてる/室町)が居住する二条御所への奇襲である。
ただ、この時に松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)は、前代未聞の将軍に攻撃する事を反対していたと言う。
しかし、事は既に動き出し、三好軍で構成された1万人の軍隊は征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の屋敷である二条御所を包囲して襲撃を開始する。
東西に走る丸田町通と南北に走る烏丸通の交差点から北に上(あが)ル、西入(い)ル場所にある二条御所および周辺地域は騒然となる。
対する屋敷に篭(こも)る足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、無数の太刀(たち)を畳に差し立て、襲いくる敵方へ反撃に出る。
炎が立ち上がる武家屋敷の中で、刀を振りかざし“抜刀乱舞”(ばっとうらんぶ)する、その足利義輝(あしかがよしてる/室町)の姿は、奥州(東北)で幾多(いくた)の戦乱を潜(くぐ)り抜けた足利先代の八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)の生まれ代わりの様に映った。
そして、足利義輝(あしかがよしてる/室町)は二条御所にて薔薇の様に美しく散っていったのである。
足利義輝…『♪京の都に〜 名も知れず〜 生きている〜 民(たみ)ならば〜 ただ飯(めし)を〜 食べながら〜 屁(へ)をこけば〜 いいけれど〜』
足利義輝…『♪私は武士の 定(さだめ)に生まれた〜 華(はな)やかに〜 激しく 生きろと〜 生まれた〜』
足利義輝…『♪武士は 武士は 気高(けだだ)く〜 生きいて〜 武士は 武士は 美しく 散る〜』(♪薔薇は美しく散る)
足利義輝(あしかがよしてる/室町)の最期(さいご)の姿が、現代でも“室町最強の剣士”や“足利最大の将軍”や“戦乱最高の武将”と言われる所以(ゆえん)である。
これを1565年に起こった「永禄の変」(えいろくのへん)と呼ぶ。(二条御所の薔薇)
NO DOUBT /♪ SPIDERWEBS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250730 - ラジオの友 URL
2025/07/30 (Wed) 08:18:16
◆◇◆其の三十四:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●足利義輝 1536年〜1565年●
現職の征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)が討ち取られた「永禄の変」(えいろくのへん)では、ポルトガルから訪れていたキリスト教のカトリック司祭でイエズス会の宣教師のルイスフロイス(ポルトガル宣教師)も近くに居合わせていた。
ルイスフロイス(ポルトガル宣教師)が著書した“イエズス会日本通信”や“日本史”にも、その時の戦況が克明(こくめい)に記(しる)されている。
ルイスフロイス…⦅足利義輝(あしかがよしてる/室町)は敵陣の襲撃の際に、最初に薙刀(なぎなた)を振るって戦い、そのあと薙刀(なぎなた)を投げ捨て、刀を抜いて奮闘した。 その勇姿は、戦況有利な敵陣に劣らぬ気迫と闘志であった。⦆(日本史)
“剣豪将軍”と呼ばれる征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は1557年の頃に、常陸国(ひたち/茨城県)の鹿島流から卜伝流を生み出し、対戦結果も“生涯無敵”を誇り、“一之太刀”(ひとつのたち)の技量を編み出した“剣聖”(けんせい)の塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)に剣術の指導を受けた門下生でもある。
さらに1558年の頃に、大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)を拠点とする柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の元に身を寄せていた上野国(こうずけ/群馬県)の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)を、足利義輝(あしかがよしてる/室町)は招聘(しょうへい)している。
そこで上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、弟子の丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)を相手に演武にて“無刀取り”(むとうどり)などを披露した。
この剣術の凄さを観た足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に対して“兵法新陰流軍法軍配天下第一”の称号を付与した。
これらの事からも解る通り、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)が室町幕府の将軍随一(ずいいち)の“剣豪将軍”と呼ばれる所以(ゆえん)である。
REEL BIG FISH /♪ SELL OUT
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:00:42
PLATINUM HOOK /♪ STANDING ON THE VERGE(OF GETTING IT ON)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:01:41
WILSON PICKETT /♪ DON'T KNOCK MY LOVE-PT.1
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:02:35
BLUES TRAVELER /♪ LAST NIGHT I DREAMED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:03:31
LARRY GRAHAM & GRAHAM CENTRAL STATION /♪ ARE YOU HAPPY?
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:05:24
OTIS RUSH /♪ TAKE A LOOK BEHIND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:06:16
THE TROJANS /♪ MAKING WAR ILLEGAL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:07:11
AZTECA /♪ SOMEDAY WE'LL GET BY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:09:01
LAKESIDE /♪ FANTASTIC VOYAGE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:10:00
SOUL MISSION:Grady Harrell/♪ SOUL MISSION
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:10:52
SMOKEY ROBINSON & THE MIRACLES /♪ TEARS OF A CLOWN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:11:48
DENIECE WILLIAMS /♪ It's Important To Me
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:12:41
The Five Stairsteps /♪ EASY WAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:13:45
SKYLIGHT /♪ GET IT HAPPENING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:14:42
BILL WITHERS /♪ YOU TRY TO FIND A LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:15:42
EDDIE HOLMAN /♪ HEY THERE LONELY GIRL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250729 - ラジオの友 URL
2025/07/29 (Tue) 22:16:38
THE WHISPERS /♪ COME ON HOME
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:25:15
◆◇◆其の一:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
近年、海外を中心に日本の侍(サムライ)が人気がある。
異国から観れば、舞妓と併せて最も日本を感じられる文化であろう。
確かに日本刀の太刀(たち)を構える侍(サムライ)の姿勢は、日本人が観てもカッコいいと思う。
この甲冑(かっちゅう)を身にまとい太刀(たち)を握る侍(サムライ)の武士は、一般的に平安時代から江戸時代に掛けて存在していた。
千年近い長い時代背景の中でも、侍(サムライ)の武士と言えば、やはり戦国時代であろう。
日本史の中でも戦国時代では、有名な合戦が行われている。
ただ、この合戦だが、現代人の一般的な認識と少しかけ離れている。
通常の軍隊は、足軽が80%で騎馬隊が20%と言う比率だ。
武将などの騎馬隊は鎧兜(よろいかぶと)を身にまとい、腰には太刀(たち)が2本ほど据(す)えてある。
これが現代人の認識する侍(サムライ)の武士の姿であろう。
しかし、足軽は簡易な武具に槍(やり)を構えているだけである。
この武装ならまだいいが、合戦時の足軽は農民が多く、武具も自前で用意しなければならず、持っていない者は雇主の武将などに借りるか、もしくは竹槍(たけやり)を持参する程度である。
1553年に起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)であろうと、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)であろうと、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)であろうと、合戦に参加する兵士の80%がこの容姿である。
現代人の一般的な認識とかけ離れている理由が、ここにある。
CAMEO /♪ SHE'S STRANGE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:25:59
◆◇◆其の二:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
では、主な合戦で使用される武具は、どうだったのか?
映画や大河ドラマでは、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将が陣の前に出てきて、『やぁ〜やぁ〜我こそは石川五ェ門(いしかわごえもん)なり、腕に覚えのある者よ、手合わせ願う!』と叫び、敵将と太刀(たち)で一騎討ちをする。
しかし、実際の合戦で、本当にこの様な対戦が行われていたのか?
確かに合戦にも規律や伝統があり、多くの武士を失う大乱戦よりは、代表者の1人が対戦して決着を付けた方が被害が最小で済むので、時には実施していた様だ。
ただ、多くの合戦は、死ぬか生きるかの大勝負である。
そんな伝統を重んじている余裕は無い。
では、どの様な武具を使用して対戦をしていたのか?
時代背景にもよるが、やはり飛び道具による遠距離からの攻撃が最も多い。
構成比率で見れば、第一陣による鉄砲(火縄銃)の20%、弓矢の30%、第二陣の足軽の槍(やり)が50%で、3mほどある槍(やり)は相手を突くのではなく叩く攻撃だったと言う。
日本刀の太刀(たち)は混迷した戦況で、予備としての接近戦で使用する程度だった。
それでも侍(サムライ)の武士と言えば、やはり太刀(たち)を構える日本刀が代名詞である。
CAMEO /♪ CANDY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:26:45
◆◇◆其の三:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
そんな日本刀の太刀(たち)は、どこで製作されていたのか?
名刀を生み出す名工には、“五箇伝”(ごかでん)と呼ばれる流派がある。
平安時代に畿内(きない/関西)で確立した大和国(奈良県)の“大和伝”と山城国(京都府)の“山城伝”は、朝廷のお膝元で公家や貴族が愛用していた。
同じく平安時代に確立したのが備前国(岡山県)の“備前伝”で、吉備(きび)一帯は良質な砂鉄が採取され、古墳時代には製鉄所の“たたら場”が多く設けられた。
備中国(岡山県)の総社市(そうじゃし)にある鬼ノ城(きのじょう)の周辺にも製鉄所の“たたら場”があり、百済(くだら)の王族だった鬼ノ城(きのじょう)の城主の温羅(うら/百済)を、皇族の吉備津彦命(キビツヒコノミコト/桃太郎)が退治した“桃太郎伝説”が有名である。
この吉備(きび)地方では、鎌倉時代に確立した“備前長船”(びぜんおさふね)が有名で、岡山県瀬戸内市長船町が“日本刀の聖地”と呼ばれている。
もう1ヶ所、鎌倉時代に確立したのが相模国(神奈川県)の“相州伝”で、これは鎌倉幕府の開設が大きく、坂東(ばんどう)武士や御家人が多く集まった事が契機になっている。
室町時代から戦国時代に掛けて確立したのが美濃国(岐阜県)の“美濃伝”で、この一帯の土地は陶器も有名で、良質な土や砂鉄が採取され、室町幕府の衰退と共に東海地方を中心とした武将の台頭が大きく影響している。
現在でも岐阜県関市は“刃物の町”として有名で、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)に召し抱えられた刀鍛冶(かたなかじ)の藤原兼房(ふじわらかねふさ/刀鍛冶)が、今尚(いまなお)、現代の名工として受け継がれている。
こうして各地の刀鍛冶(かたなかじ)により、多くの日本刀の太刀(たち)が生み出された。
この5つの地域に伝わる刀剣作りの伝法が“五箇伝”(ごかでん)である。
NEW KIDS ON THE BLOCK /♪ YOU GOT IT(THE RIGHT STUFF)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:27:28
◆◇◆其の四:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
ここまで知れば、世界中で人気のある侍(サムライ)の武士は、日本刀の太刀(たち)が一対(いっつい)にある事がよく解る。
では、その日本刀の太刀(たち)を握り構える侍(サムライ)の武士は、どんな人が居たのか?
先(ま)ずは日本人の心の中には、この人が真っ先に頭に浮かぶ。
江戸時代に活躍した少年剣士の赤胴鈴之助(あかどうすずのすけ)である。
少年少女合唱団…『♪剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士 親はいないが元気な笑顔 弱い人には味方する オー がんばれ 頼むぞ ぼくらの仲間 赤胴鈴之助!』(♪がんばれ!赤胴鈴之助)
少年剣士の赤胴鈴之助(あかどうすずのすけ)は、自ら編み出した必殺技の“真空斬り”や“十文字斬り”で悪賊の鬼面党(きめんとう)を退治する。
どんな困難にも挫(くじ)けず、太刀(たち)1本で正義を貫く姿勢は、多くの日本人に感動を与えた。
この赤胴鈴之助(あかどうすずのすけ)の功績が、剣道や柔道など日本の武道に大きな影響を与えている。
赤胴鈴之助…『エイッ! ヤァー! トォー!』
KING /♪ LOVE & PRIDE
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:28:10
◆◇◆其の五:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
日本で一番に人気のある少年剣士の赤胴鈴之助(あかどうすずのすけ)は、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の流祖の千葉周作(ちばしゅうさく/剣術士)が開く道場の門下生である。
千葉周作(ちばしゅうさく/剣術士)とは、1793年に陸奥国(むつ/宮城県)の気仙沼の武家に誕生した武士と剣術士で、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の流祖でもあり、常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩の師範にも就任した。
この剣術の流派だが、一言では語れない程に枝分かれしている。
主な党派は日本の東西に2流あり、東日本の“関東七流”と西日本の“京八流”がある。
“関東七流”とは、良移流、鹿島流、香取流、本心流、卜伝流、神刀流、日本流の7流派を指す。
“京八流”とは、源義経流、念流、中条流、京流、吉岡流などで、正式な8流派は分かっていない。
源義経流とは、京都の鞍馬寺(くらまでら)に預けられた牛若(うしわか)こと源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)が、ユダヤ人の天狗先生に鍛えられた流派である。
また、京都御所を警備する六衛府(ろくえふ)で、内裏(だいり)の内郭の警備を担当する左近衛府(さこのえふ)と右近衛府(うこのえふ)、内裏(だいり)の外郭の警備を担当する左衛門府(さえもんふ)と右衛門府(うえもんふ)、大内裏(だいだいり)の警備を担当する左兵衛府(さひょうえふ)と右兵衛府(うひょうえふ)に、朝廷の防衛拠点でもある九州は福岡県の太宰府(だざいふ)と東北は宮城県の多賀城(たがじょう)の8府の武術として捉える事もある。
では、実際にどの様な剣士が居たのか?
THE GO-GO'S /♪ HEAD OVER HEELS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:28:54
◆◇◆其の六:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●塚原卜伝 1489年〜1571年●
日本の剣士と言えば、戦国時代に活躍した塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)であろう。
塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)とは、吉川覚賢(よしかわあきかた/宮司→剣術士)の息子で、幼少期は吉川朝孝(よしかわともたか)と名乗ったが、塚原安幹(つかはらやすもと/塚原→剣術士)の養子に入る。
父親の吉川覚賢(よしかわあきかた/宮司→剣術士)は、常陸国(ひたち/茨城県)の鹿島神宮(かしまじんぐう)の宮司で、鹿島流の剣術士でもあり、“鹿島の太刀”(かしまのたち)と呼ばれた。
義父の塚原安幹(つかはらやすもと/塚原→剣術士)は、常陸国(ひたち/茨城県)の塚原城(つかはらじょう/鹿島)の城主で、剣術士でもある。
そんな2人の剣術士の父親に育てられた塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、剣術の流派も鹿島流から卜伝流を生み出し、対戦結果も“生涯無敵”を誇った。
因(ちな)みに実家の鹿島神宮(かしまじんぐう)とは、大和国(奈良県)の春日山などに居る神の使者と言われる鹿を送った神社です。
剣術士として技量を磨いた塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、1505年に修行の為に京都に赴(おもむ)く。
京都に着いた塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、東山の清水寺(きよみずでら/法相宗)の付近で催された真剣での剣術の仕合(しあい)で勝利する。
その後も畿内(きない/関西)にて、真剣での剣術の仕合(しあい)で19度、戦地に参戦して37度を対戦したが、一度も不覚する事なく無傷で生還した。
そして、突然の敵方からの居合(いあい)や立合(たちあい)で212人を討ち取っている。
塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、輝かしい実績を積んだ。
この功績が室町幕府の征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)の耳にも入り、将軍の直参家臣に就任する。
しかし、室町幕府が統治する京都にでは、1467年〜1477年に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)で、平安京の一帯は荒廃していた。
1511年に主君の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)が死去し、相変わらず室町幕府の権力闘争も続いており、これらが塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の心の変化に何かしらの影響を与える。
そして塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の心を蝕(むしば)む。
ADAM ANT /♪ GOODY TWO SHOES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:29:32
◆◇◆其の七:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●塚原卜伝 1489年〜1571年●
京都の鴨川などには、餓死や病死した多くの屍(しかばね)が放置されていた。
そんな世相でも、困窮した町人を顧(かえり)みない室町幕府の役人による、地位と権力へ執着(しゅうちゃく)する欲望が蔓延している。
この現状に塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は精神疾患を発症する。
そして、1518年に常陸国(ひたち/茨城県)の鹿島に帰郷した。
実家に戻った塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、自室に引き篭もったまま出てこなかった。
父親の吉川覚賢(よしかわあきかた/宮司→剣術士)と義父の塚原安幹(つかはらやすもと/塚原→剣術士)は心配し、凄腕の剣術士でもある松本政信(まつもとまさのぶ/剣術士)に、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)を預けた。
松本政信(まつもとまさのぶ/剣術士)とは、鹿島城(かしまじょう)の鹿島氏の家臣で、剣術の鹿島神流の流祖でもある。
松本政信(まつもとまさのぶ/剣術士)は、精神を病んだ塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)に対して、鹿島神宮(かしまじんぐう)で心身修行する参籠(さんろう)を薦めた。
この鹿島神宮(かしまじんぐう)の心身修行と、松本政信(まつもとまさのぶ/剣術士)の剣術修行にて、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の剣術はさらに磨きが掛けられた。
そして1000日の満願の時に、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の前に、白髪の仙人が現れて木刀で立合(たちあい)を仕掛けた為に、その攻撃を払い退けると仙人は消えて居なくなった。
この瞬間、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は『自分と相手ではなく、無心に人刀一体となる。』ことを悟る。
これが鹿島神宮(かしまじんぐう)の祭神による神託だった。
この時に、一撃に全身全霊を込める“一之太刀”(ひとつのたち)の技量を生み出した。
PAUL DAVIS /♪ '65 LOVE AFFAIR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:30:13
◆◇◆其の八:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●塚原卜伝 1489年〜1571年●
心身共に癒(いえ)えた塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、1522年に再び修行の旅に出る。
この旅は山陽地方や山陰地方を巡り、筑前国(福岡県)の太宰府(だざいふ)にも立ち寄っている。
そして各地で剣術の指導を行なっていた。
出羽国(でわ/山形県)の鶴岡に赴(おもむ)いた時に、村人に白猿(しろざる)が捕まって縛られていたので、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は村人にお金を渡してその白猿(しろざる)を助けた。
その後、その村にあるお寺の僧兵が、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)に対戦を挑んだが、当然に僧兵は打ち負かされる。
これにお寺の僧侶が報復を画策し、無抵抗の塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)を捕まえて吊し上げる。
この時に白猿(しろざる)が現れて、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)を縛っている縄を解(ほど)いて助けてくれた。
そんな日本全国へ修行の旅を続けている中、常陸国(ひたち/茨城県)の鹿島から父親の吉川覚賢(よしかわあきかた/宮司→剣術士)に訃報が届く。
1532年、これを機に常陸国(ひたち/茨城県)の鹿島へ帰郷した。
そして、常陸国(ひたち/茨城県)の塚原城(つかはらじょう/鹿島)の城主に就いていた塚原安義(つかはらやすよし/塚原)の娘の妙(たえ/塚原)を妻として娶(めと)る。
その後、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は塚原城(つかはらじょう/鹿島)の城主に就任し、家臣や門下生へ剣術の育成に尽力する。
1544年に妻の妙(たえ/塚原)が死去する。
これを機に、養子に取った義理息子の塚原幹重(つかはらみきしげ/塚原)に塚原城(つかはらじょう/鹿島)の城主を継承する。
塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は隠居生活をしながら、地元の領民などに剣術の指導をしていた。
そして70歳を過ぎた頃に、再び立ち上がる。
ELVIS COSTELLO & THE ATTRACTIONS /♪ I CAN'T STAND UP FOR FALLING DOWN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:30:53
◆◇◆其の九:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●塚原卜伝 1489年〜1571年●
高齢となった塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、1557年に3度目の修行の旅に出掛ける。
この修行の旅を知った剣術の門下生は、同行する事を塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)に嘆願する。
こうして承認された門下生の80人が、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の修行の旅に同行する事になり、その旅支度として移動用の馬3頭と鷹狩りの大鷹3羽も引き連れた。
ある意味、大名行列である。
甲斐国(山梨県)では、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に拠点を置く“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)や、その家臣に剣術を指導した。
特に、駿河国(静岡県)の今川氏の間者(スパイ)として活躍し、その後に武田軍の軍師に就任して「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)を編み出した山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の門下生となり熱心に剣術を励(はげ)んだ。
山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)の剣術の腕前は、“ヤマカン”(山勘)などでは無い。
駿河国(静岡県)では、1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取られた“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと/今川)の息子で、今川氏の家督を引き継いだばかりの今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)にも剣術と武士道の教育を施した。
伊勢国(三重県)では、国司に就いていた“剣豪大名”と呼ばれた北畠具教(きたばたけとものり/公家)にも指導したが、ただ、織田信長(おだのぶなが/織田)の「伊勢攻め」で降伏し、その後に織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣に侵攻されて討死した。
京都に上洛した塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の御一行は、室町幕府の歓迎を受けて厚く持て成される。
“剣豪将軍”として名高く“二条御所の薔薇”として美しく散った征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)も熱心な剣術の門下生となる。
その足利義輝(あしかがよしてる/室町)の弟の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)や、河内源氏の庶流(しょりゅう)の三淵氏(みつぶちうじ)の生まれで細川氏に養子に入り、文武両道(ぶんぶりょうどう)で有名な細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)にも剣術の指南をしている。
1566年に3度目の修行の旅を終えて、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の御一行は常陸国(ひたち/茨城県)の鹿島に帰郷した。
そして、高齢となった塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)は、隠居生活をしながら剣術の研鑽(けんさん)に勤(いそ)しんでいたが、1571年に人生と言う修行の旅を終える。
“剣聖”(けんせい)と呼ばれた塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の剣術は、その後も様々な剣術士や武将に影響を与え、剣道など武道の礎(いしずえ)を築いた。
SCRITTI POLITTI /♪ PERFECT WAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:31:32
◆◇◆其の十:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
日本を代表する“剣聖”(けんせい)と言えば、常陸国(ひたち/茨城県)の塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)と、そして上野国(こうずけ/群馬県)の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)ではないだろうか。
上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)とは、下総国(しもうさ/千葉県・茨城県)で活躍し、“天真正伝香取神道流”(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を流派とする剣術士の上泉時秀 (かみいずみときひで/剣術士)を祖父に持ち、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主に就き、“鹿島新當流”(かしましんとうりゅう)を流派とする剣術士の上泉秀継(かみいずみひでつぐ/剣術士)を父親に持つ、一族が剣豪の家庭に育った剣術士である。
上野国(こうずけ/群馬県)の上泉氏は、室町幕府の将軍の足利氏と三管領(さんかんれい)の畠山氏、斯波氏、細川氏に、そして七頭(しちとう)の山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏(きょうごくうじ)、土岐氏、上杉氏、伊勢氏で構成され、この氏家の中で京都奉行を担う四職(ししき)の山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏(きょうごくうじ)が選任されていたが、その中の三河国(愛知県)の一色氏の系統である。
戦国時代には上野国(こうずけ/群馬県)の勢多(せた/前橋)を拠点に、上泉氏は上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主に就任していた。
上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の人生は、前半が上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主に就任し武将として活動し、後半が武士を辞任して剣術士として生きる道を選び、新陰流の流祖となり“剣聖”(けんせい)と呼ばれるまでになる。
上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が20代の頃、陰流の流祖の愛洲久忠移香斎(あいすいこうさい)こと愛洲久忠(あいすひさただ/剣術士)が上泉城(かみいずみじょう/前橋)に訪問した。
その時に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は愛洲久忠移香斎(あいすいこうさい)こと愛洲久忠(あいすひさただ/剣術士)と仕合をする事になる。
この仕合で愛洲久忠移香斎(あいすいこうさい)こと愛洲久忠(あいすひさただ/剣術士)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の剣術の腕前に感銘を受けて、陰流の秘伝書や愛刀を譲渡している。
この縁で愛洲久忠移香斎(あいすいこうさい)こと愛洲久忠(あいすひさただ/剣術士)が上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の師範となる。
THE BODEANS /♪ CLOSER TO FREE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:32:23
◆◇◆其の十一:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
この時期の関東地方は、室町幕府の出先機関である相模国(神奈川県)の鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)と、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)が、1455年〜1483年までの28年間に渡り権力闘争を繰り広げた「享徳の乱」(きょうとくのらん)で荒廃し無秩序化していた。
そんな剣術としての腕前がある上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)ではあるが、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主と言う顔も持つ。
この“下克上”(げこくじょう)が台頭する戦国時代の動乱に巻き込まれていく。
伊豆国(静岡県)の韮山(にらやま)を拠点にしていた北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の城主で扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家臣だった大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)に対して調略を企て、1495年に小田原城(おだわらじょう)を奪取(だっしゅ)した。
追い出された大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)は自らの粗末(そまつ)や羞恥(しゅうち)により自害し、その家督は息子の大森泰頼(おおもりやすより/扇谷)が引き継いだ。
そして、大森泰頼(おおもりやすより/扇谷)は娘を、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)の城主だった上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に嫁がせて再起を図る。
相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の城主に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が就任した。
この伊勢北条氏の関東地方での勢力拡大に危機感を抱いたのが、関東管領(かんとうかんれい)に就任していた山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)と、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)である。
常陸国(ひたち/茨城県)を拠点としていた古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)に協力を要請して、8万人の上杉軍を組成して伊勢北条氏の討伐に動く。
一方の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)も1万人の伊勢北条軍を組成するが、軍勢に圧倒的な差があり不利である。
そこで伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、御家芸の調略と戦術により、武蔵国(埼玉県)の河越城(かわごえじょう)に本陣を構えていた上杉軍に奇襲を仕掛けて勝利する。
これを1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)と呼び、「日本三大奇襲戦」の1つに数えられる。
この上杉氏の家臣だった上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、伊勢北条氏との抗争に巻き込まれていく。
JOHN MELLENCAMP /♪ I NEED A LOVER
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:33:04
◆◇◆其の十二:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
この時期の東日本の勢力図は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とする“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)と、駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の守護代を務めた“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる今川義元(いまがわよしもと/今川)の戦国武将が、三つ巴(みつどもえ)の抗争で領土拡大を目論んでいた。
鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利氏や関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏など、蚊帳(かや)の外である。
そんな戦況での「河越夜戦」(かわごえやせん)に敗北した関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)は、その後にも家臣などが上杉氏から離反するなどし、1552年に越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を頼り逃亡した。
主君が不在となった上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)を拠点とする上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家臣で同じ領国の上野国(こうずけ/群馬県)の箕輪城(みのわじょう)の城主だった長野業正(ながのなりまさ/上杉)に仕える事となる。
長野軍に加勢した上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)や甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)との交戦で奮闘し、“長野家十六槍”と呼ばれる様になる。
そして合戦の先陣争いで覇者となり長野業正(ながのなりまさ/上杉)から“上野国一本槍”の感謝状が贈られた。
しかし、1561年に主君の長野業正(ながのなりまさ/上杉)が死去し、家督を息子の長野業盛(ながのなりもり/上杉)が引継いだ。
弱体化が懸念された長野軍を想い、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と連携する道を選び、福島氏の系統で北条為昌(ほうじょうためまさ/伊勢北条)の養子に入っていた北条綱成(ほうじょうつなしげ/福島→伊勢北条)の娘を後妻に娶(めと)る。
そして息子で嫡男(ちゃくなん)の上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)を、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に人質として差出す。
しかし、長野業正(ながのなりまさ/上杉)が死去した事を好機と捉えた甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる2万人の武田軍が、1566年に上野国(こうずけ/群馬県)の箕輪城(みのわじょう)へ侵攻を開始した。
守護する城主の長野業盛(ながのなりもり/上杉)は敗北し、箕輪城(みのわじょう)の落城と共に自決した。
参戦した上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)も奮闘したが多勢に無勢でどうにもならず、箕輪城(みのわじょう)から逃亡して上野国(こうずけ/群馬県)の柄杓山城(ひしゃくやまじょう/桐生)の城主だった桐生助綱(きりゅうすけつな/足利)の所に身を寄せた。
その後、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の武勇伝を聞いていた武田信玄(たけだしんげん/武田)は、直参家臣として招聘(しょうへい)した。
しかし、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、この武田信玄(たけだしんげん/武田)の要請を断り、武士の身分を捨てて剣術士としての道を選択した。
上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の“信”の名前は、この頃に武田信玄(たけだしんげん/武田)が自分の“信”を与えたと言う。
LAURA BRANIGAN /♪ SELF CONTROL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:33:41
◆◇◆其の十三:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
1564年に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、戦乱の世を鎮める人を活かす剣の“活人剣”(かつにんけん)の極意を求める剣術の修行に旅立った。
西国に向かった上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)の剣術を習得していた伊勢国(三重県)の国司だった剣豪の北畠具教(きたばたけとものり/公家)を訪問した。
剣術を披露した上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に対して、その精妙(せいみょう)な技量に驚いた北畠具教(きたばたけとものり/公家)は御手合わせをする事すら出来なかったと言う。
そこから大和国(奈良県)に入り、法相宗(ほっそうしゅう)の総本山でもある興福寺(こうふくじ)の宝蔵院(ほうぞういん)の院主に就いていた胤舜(いんしゅん/僧兵)を訪問した。
奈良法師(ならほうし)の胤舜(いんしゅん/僧兵)は槍(やり)の名手で名高く、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)を生み出し、大和国(奈良県)の僧兵をまとめる存在だった。
上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は胤舜(いんしゅん/僧兵)と仕合をする事になったが、その時に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が握っていた刀は、細長く切った竹を束ね皮袋を被(かぶ)せた袋竹刀(ふくろしない)だった。
胤舜(いんしゅん/僧兵)がこの袋竹刀(ふくろしない)について、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に質問を投げ掛けた。
胤舜…『木刀ではなく、手に握っているその竹を束ねた物は何か?』
上泉信綱…『この袋竹刀(ふくろしない)は相手を打ち込んでも致死(ちし)に至る事はない為に、手加減を為(せ)ずに仕合が出来る。』
仕合が始まると、袋竹刀(ふくろしない)で攻撃する上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に太刀打ちする事が出来ず、胤舜(いんしゅん/僧兵)は完敗した。
この上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が考案した袋竹刀(ふくろしない)が、今でも剣道の竹刀(しない)に使用されている。
TAYLOR DAYNE /♪ HEART OF STONE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:34:36
◆◇◆其の十四:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
宝蔵院(ほうぞういん)の胤舜(いんしゅん/僧兵)が敗北した事を聞き付けた、剣豪の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に果たし状を送付する。
柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)とは、大和国(奈良県)の春日山より東方の山岳地帯にある柳生庄(やぎゅうしょう)を領域とする菅原氏(すがわらうじ)の系統の柳生氏(やぎゅううじ)で、剣術士として柳生流の流祖でもある。
果たし状を受け取った上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)と会って仕合をする事になる。
そして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の構えを観て、こう述べる。
上泉信綱…『お主の構えなら、太刀(たち)は必要ない。 この手でお主の太刀(たち)を奪い取って仕合は決する。』
そう言った次の瞬間、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)が握り構える太刀(たち)を奪い取った。
柳生宗厳…『なっ、何が起こったのだぁ!?』
この技法は“無刀取り”(むとうどり)と呼ばれる。
続いて上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、弟子の疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)と御手合わせをする事を薦める。
疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)とは、加賀国(石川県)の武士で、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の門下生であり甥でもあり、疋田陰流剣術の流祖となる。
仕合は3本勝負だったが、この3本とも疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)こと疋田景兼(ひきたかげとも/剣術士)が勝利し、呆気(あっけ)なく敗北した柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は力量の違いから感服し、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の弟子となった。
こうして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は領土の柳生庄(やぎゅうしょう)に、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)を招聘(しょうへい)して滞在してもらう事になった。
THE SYSTEM /♪ DON'T DISTURB THIS GROOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:35:24
◆◇◆其の十五:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
その頃、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の息子の上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の家臣となっていた。
1564年に東方に侵攻する伊勢北条軍と下総国(しもうさ/千葉県)の国府台城(こうのだいしろ/市川)で防衛する里見軍が交戦した国府台合戦(こうのだいかっせん)で、伊勢北条軍は勝利するも参戦した上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)は討死した。
息子が下総国(しもうさ/千葉県)にて戦死した一報は、大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)で剣術を伝授する上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の耳にも入った。
今直ぐにでも息子の亡骸(なきがら)に逢いに、関東に帰郷したい気持ちはあったが、師範の上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は修行に励む門下生を置いては行けなかった。
ある程度の技量を積んだ柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)に対して、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は『武器や武具を身に着けなくとも、相手を倒す“無刀取り”(むとうどり)を習得する事。』と課題を与える。
そして、1564年に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)を旅立ち京都に向かう。
京都では旧知の間柄だった山科言継(やましなときつぐ/公家)の元に身を寄せる。
山科言継(やましなときつぐ/公家)とは、藤原氏北家(ほっけ)の四条家の系統で、朝廷の公卿(くぎょう)であり、1527年〜1576年の49年間を綴(つづ)った日記の“言継卿記”(ときつぐきょうき)が残されており、その記述に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の名が多く登場している。
京都に滞在している時に、上野国(こうずけ/群馬県)の上泉城(かみいずみじょう/前橋)から孫の上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)が訪ねてきた。
そして祖父の上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に、上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)は父親の上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)の最期(さいご)の戦いを伝え聞かせた。
その時、息子の最期(さいご)を聞いた上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、父親として流れる涙を抑え切れなかった。
THE COVER GIRLS /♪ WE CAN'T GO WRONG
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:36:28
◆◇◆其の十六:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
肥後国(熊本県)の八代(やつしろ)の相良氏の家臣だった丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)は、畿内(きない/関西)に剣豪の上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が滞在している事を聞き付け、1558年に京都へ上洛した。
丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)とは、肥後国(熊本県)の八代(やつしろ)の剣術士で、タイ捨流(たいしゃりゅう)の流祖となる。
上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の門下生となった丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)は、厳しい修行を積んで技量を高め、“伊勢守門下四天王”の1人になるまで上達する。
京都に滞在している上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、“剣豪将軍”と呼ばれ最期(さいご)は“二条御所の薔薇”として美しく散った征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)の耳に入る。
そして足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)を招聘(しょうへい)した。
この時、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、弟子の丸目蔵人(まるめくらんど)こと丸目長恵(まるめながよし/剣術士)を相手に演武を披露した。
この剣術の凄さを観た足利義輝(あしかがよしてる/室町)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に対して“兵法新陰流軍法軍配天下第一”の称号を付与した。
1571年に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、朝廷に赴(おもむ)き内裏(だいり)にて第106代天皇の正親町天皇(おおぎまちてんのう/朝廷)に拝謁(はいえつ)した。
此処(ここ)でも天覧演武を披露して、その技量の高さに感服した正親町天皇(おおぎまちてんのう/朝廷)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)に対して官位相当制の従四位を勅与(ちょくよ)し、さらに天皇が愛用していた御前机まで贈呈している。
従四位と言えば藤原氏の庶流(しょりゅう)など貴族の位で、武家でも織田信長(おだのぶなが/織田)などの武将しか与えられていない。
将軍と天皇に認められた剣術士は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の他には居ない。
THE WILSONS /♪ OPEN DOOR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:37:09
◆◇◆其の十七:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
京都での巡業を終えた上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、再び大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)に戻った。
そして、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)に課した武器や武具を身に着けなくとも、相手を倒す“無刀取り”(むとうどり)の成果を見に来た。
上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)と柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、道場で仕合をする事となる。
この御手合わせで、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の技量が格段に向上している事を上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は悟る。
さらに柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、自己流に改良された“無刀取り”(むとうどり)も披露した。
これにて上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)に対して新陰流の印可(いんか)を与えた。
こうして柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)の柳生一族(やぎゅういちぞく)が柳生新陰流を継承して行く事となる。
この伝統が“将軍家御流儀”として、江戸幕府の徳川家へと伝えられていく。
BOY MEETS GIRL /♪ BRING DOWN THE MOON
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250728 - ラジオの友 URL
2025/07/28 (Mon) 08:37:53
◆◇◆其の十八:世界中で人気のある日本の剣士◆◇◆
●上泉信綱 1508年〜1577年●
柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)を柳生新陰流の師範として、後方で上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は新陰流の普及の為に尽力する。
大和国(奈良県)の柳生庄(やぎゅうしょう)と京都を拠点に、剣術を教えに日本各地へ赴(おもむ)いた。
孫の上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)も、剣術の技量が向上した為に武者修行の満願を与える。
1571年に剣術の伝授をやり終えた上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、息子の上泉秀胤(かみいずみひでたね/上泉→伊勢北条)が眠る上野国(こうずけ/群馬県)の勢多(せた/前橋)に帰郷する。
そして1577年に上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)は、長きに渡る人生の修行の旅を終える。
その後、孫の上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点にする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に仕える。
しかし、1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後に天下統一を果たすべく豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる20万人余りの豊臣軍に、8万人余りの伊勢北条軍が守護する小田原城(おだわらじょう)は包囲され、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は敗戦責任により自決し、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は降伏して小田原城(おだわらじょう)を明け渡した。
伊勢北条氏の滅亡で家臣だった上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)も牢人(無職侍)となった。
ところが1600年に、陸奥国(むつ/福島県)の会津を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)から、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)による「会津征伐」(あいづせいばつ)の対応で、上杉軍の兵士増強の為に上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)は加勢を依頼され承諾する。
実際には「会津征伐」(あいづせいばつ)は中止となったが、その余波から羽前(うぜん/山形県)の山形城(やまがたじょう)を拠点とする最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と交戦する「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)が起こる。
この“北の関ヶ原”と呼ばれた合戦にて、上杉軍に参戦した上泉主水(かみいずみもんど)こと上泉泰綱(かみいずみやすつな/伊勢北条→剣術士→上杉)は「長谷堂城の戦」(はせどうじょうのたたかい)で討死し、戦況も上杉軍の敗北で終わる。
しかし上泉氏の子孫は、羽前(うぜん/山形県)の米沢藩の藩主となった上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に仕え、江戸時代には代々に渡り上杉氏の家臣として上泉氏も継承されていった。
AFTER 7 /♪ NOT ENOUGH HOURS IN THE NIGHT
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:32:30
不思議ちゃん第18弾!
でわぁ、いってみよぉう!!
ROGUE TRADERS /♪ WAY TO GO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:34:32
THE TING TINGS /♪ THAT'S NOT MY NAME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:35:29
THE KNOCKS & DRAGONETTE /♪ SLOW SONG
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:37:21
GARBAGE /♪ WITNESS TO YOUR LOVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:38:19
ANNA OF THE NORTH /♪ DANDELION
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:39:19
MICHELLE BRANCH /♪ LOUD MUSIC
◆ラジオの友◆
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2025/07/27 (Sun) 20:40:12
SARAH HARMER /♪ LATE BLOOMER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:41:07
LEIGH NASH /♪ ALONG THE WALL
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:42:01
YUNA FEAT.TYLER THE CREATOR /♪ CASTAWAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:43:52
DOLORES O'RIORDAN /♪ ORDINARY DAY
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2025/07/27 (Sun) 20:44:52
SNEAKER PIMPS /♪ 6 UNDERGROUND
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:46:48
CLARA MAE & JOSH BREAKS /♪ ONCE IN A WHILE
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250727 - ラジオの友 URL
2025/07/27 (Sun) 20:48:39
KACEY MUSGRAVES /♪ SLOW BURN
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今日の1枚、お薦めレコード/20250726 - ラジオの友 URL
2025/07/26 (Sat) 21:25:32
THREE DOG NIGHT /♪ ONE MAN BAND
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2025/07/26 (Sat) 21:26:31
THE BLACK CROWES /♪ GOOD MORNING CAPTAIN
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2025/07/26 (Sat) 21:27:24
IMPERIAL CROWNS /♪ GOLDEN GIRL
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2025/07/26 (Sat) 21:28:15
GRATEFUL DEAD /♪ WEST L.A. FADEAWAY
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2025/07/26 (Sat) 21:29:11
CROSBY,STILLS & NASH /♪ MARRAKESH EXPRESS
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2025/07/26 (Sat) 21:30:07
ARLO GUTHRIE /♪ HIGHWAY IN THE WIND
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2025/07/26 (Sat) 21:31:04
GREAT LAKE SWIMMERS /♪ PULLING ON A LINE
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250726 - ラジオの友 URL
2025/07/26 (Sat) 21:31:57
COUNTING CROWS /♪ ELEVATOR BOOTS
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2025/07/26 (Sat) 21:34:39
FLOTSAM AND JETSAM /♪ DESTRUCTIVE SINGS
◆ラジオの友◆
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2025/07/26 (Sat) 21:35:34
AARON NEVILLE /♪ ALL THESE THINGS
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250726 - ラジオの友 URL
2025/07/26 (Sat) 21:36:31
Wayne Newton /♪ DADDY DON'T YOU WALK SO FAST
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250726 - ラジオの友 URL
2025/07/26 (Sat) 21:37:30
THE ADDRISI BROTHERS /♪ WE'VE GOT TO GET IT ON AGAIN
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250726 - ラジオの友 URL
2025/07/26 (Sat) 21:38:24
GALLERY /♪ I BELIEVE IN MUSIC
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250726 - ラジオの友 URL
2025/07/26 (Sat) 21:39:21
CHAD & JEREMY /♪ A SUMMER SONG
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250726 - ラジオの友 URL
2025/07/26 (Sat) 21:40:15
THE JAMES GANG /♪ TAKE A LOOK AROUND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250726 - ラジオの友 URL
2025/07/26 (Sat) 21:41:08
JULIE DRISCOLL,BRIAN AUGER AND THE TRINI /♪ INDIAN ROPE MAN
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:16:04
◆◇◆其の一:みんな大好き三国志◆◇◆
弥生時代の200年頃の日本は、大和国(奈良県)の朝廷もまだ存在していなく、日本列島の各所で様々な国人や豪族が統治している状態だった。
その1つが邪馬台国(やまたいこく)で、シャーマン(呪術師)で女帝の卑弥呼(ひみこ/女帝)が、畿内(きない/関西)もしくは九州で小さな国を統治していた。
この頃には木造の船が発達し、中国大陸や朝鮮半島から文化や技術が日本に入ってきている。
日本の主食となるお米や稲作も、外国から伝来したものである。
中国大陸の漢(かん)から国交友好の証として“漢委奴国王”と刻まれた金印が、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ/女帝)に贈呈されている。
その“漢委奴国王印”(かんのわのなのこくおういん)は、福岡県志賀島(しかのしま)で発見された。
北九州の奴国(なこく)は中国大陸の漢(かん)と国交を結んでいた証(あかし)である。
250年頃、中国大陸の魏(ぎ)の皇帝だった曹叡(そうえい/魏の皇帝)は、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ/女帝)と交流していた事が、“魏志倭人伝”(ぎしわじんでん)に記載されている。
この魏(ぎ)の曹叡(そうえい/魏の皇帝)は、曹操(そうそう/魏の武人)の孫で、あの三国志の主人公の1人でもある。
稲作文化が浸透し始めた倭国(日本)の海の向こうの中国大陸では、戦国時代を彷彿(ほうふつ)とさせる武人による合戦が繰り広げられていた。
日本の戦国時代の1300年余り前に、既に大軍を率いて陣営が設けられ、戦術と兵法により領土争いをしている。
220年に魏(ぎ)を建国した曹操(そうそう/魏の武人)、221年に蜀(しょく)を建国した劉備(りゅうび/蜀の武人)、229年に呉(ご)を建国した孫権(そんけん/呉の武人)。
こうして三国志が揃った。
そんな事からも三国志は日本でも人気が高い。
みんな大好き三国志を、少しだけ紐解(ひもと)いてみよう。
BLOODLINE /♪ STONE COLD HEARTED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:17:08
◆◇◆其の二:みんな大好き三国志◆◇◆
184年に中国大陸は皇帝の抑圧に耐えかねて、「黄巾の乱」(こうきんのらん)など農民の反乱が頻発し、各地の武将が領土拡大の抗争が起こる。
この時期、後々に蜀(しょく)の皇帝に就任する劉備(りゅうび/蜀の武人)は、貧しい農民だった。
紀元前100年頃の漢王朝を建国した楚(そ)の出身の劉邦(りゅうほう/楚の武人→ 漢皇帝)の末裔で、漢王朝が崩壊した後は農民となって生計を立てていたが、いつかは漢王朝の復興を夢見ていた。
劉備(りゅうび/蜀の武人)の日常には、国政を理解していない皇帝の統治力の無さや、武力で抑圧する国人や豪族の台頭で、貧困に喘(あえ)ぐ農民などに目もくれない現状が目に映っていた。
そんな中で劉備(りゅうび/蜀の武人)は、忠義に厚く武力も勝る関羽(かんう/蜀の武人)と張飛(ちょうひ/蜀の武人)に出逢う。
3人は国民の為の国政について意見が一致し、革命軍を結成する。
〈桃園の誓い〉(とうえんのちかい)
劉備(りゅうび/蜀の武人)は義兄弟の関羽(かんう/蜀の武人)と張飛(ちょうひ/蜀の武人)と共に桃園で宴を催し、そこで今後は生死を共にする宣言を行った。
『我ら三人、生まれし日、時は違えども、兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。 上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。 同年同月同日に生まれる事を得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん。』
桃園の誓い(とうえんのちかい)である。
こうして劉備(りゅうび/蜀の武人)が率いる革命軍に賛同した若者が続々と参加した。
SUPER DELUXE /♪ SHE CAME ON
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:18:15
◆◇◆其の三:みんな大好き三国志◆◇◆
この時期、最も権力と武力があったのは曹操(そうそう/魏の武人)である。
元は後漢(ごかん)の役人だったが、皇帝を傀儡(かいらい)にした権力者の董卓(とうたく/後漢の武人)を、曹操(そうそう/魏の武人)は暗殺未遂の事件を起こして逃亡していた。
そして董卓(とうたく/後漢の武人)が義理息子の呂布(りょふ/後漢の武人)に暗殺された後、曹操(そうそう/魏の武人)は力を付けて皇帝を抱え込む程にまで天下を掌握していた。
206年に中国大陸を東西に流れ、上海に流れ込む長江(ちょうこう/揚子江)の北方を制圧していた。
一方、劉備(りゅうび/武人)が率いる革命軍は、未だに領国もなく流浪の旅を続けていた。
〈髀肉の嘆〉(ひにくのたん)
劉備(りゅうび/武人)は、これと言った合戦を繰り広げる訳でもなく、平穏な日々が続き、身体に贅肉(ぜいにく)が付いて嘆(なげ)いていた。
時折、各国の武将に雇われて合戦に参加し活躍する程度で、その雇い主の1人が曹操(そうそう/魏の武人)だった。
曹操(そうそう/魏の武人)は、早くから劉備(りゅうび/武人)の文武両道(ぶんぶりょうどう)の才能に目を付けて、自軍に誘っていた。
特に英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)で名高い関羽(かんう/蜀の武人)はお気に入りで、曹操(そうそう/武人)は側近に願う人物だった。
JAMES BLUNT /♪ STAY THE NIGHT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:19:15
◆◇◆其の四:みんな大好き三国志◆◇◆
劉備(りゅうび/蜀の武人)が40歳を過ぎた頃、“南昌の臥竜”(なんしょうのがりょう)と呼ばれ名軍師の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の噂を耳にする。
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、荊州(けいしゅう)の都の襄陽(じょうよう)に住んでいた。
この襄陽(じょうよう)は、戦乱を逃れた知識人や文化人が多く移住する地でもあった。
劉備(りゅうび/蜀の武人)は未だに領国を持てないのは、武力だけでなく戦術や兵法に優れた軍師が居ないからと考えていた。
そこで劉備(りゅうび/蜀の武人)は関羽(かんう/蜀の武人)と張飛(ちょうひ/蜀の武人)を引き連れて、荊州(けいしゅう)の襄陽(じょうよう)まで行き諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の屋敷を訪問した。
この劉備(りゅうび/蜀の武人)の来訪は、既に諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の耳に入っており、1日目は居留守を使って会う事はしなかった。
2日目も劉備(りゅうび/蜀の武人)の来訪予定日に、諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は旅に出てしまう。
さすがに関羽(かんう/蜀の武人)と張飛(ちょうひ/蜀の武人)は無礼極まりないとして、怒り心頭に発した。
しかし、劉備(りゅうび/蜀の武人)はここでも冷静に対処して、使用人に次なる来訪予定日を告げて立ち去った。
劉備(りゅうび/蜀の武人)より20歳余り年下の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、これに感銘を受けた。
3日目に劉備(りゅうび/蜀の武人)は、ようやく諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)に会う事ができた。
その時に諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、劉備(りゅうび/蜀の武人)に対して『真なる君主になるお方であり、一生涯に渡り忠誠を尽くします。』と約束した。
〈三顧の礼〉(さんこのれい)
この事から、目上の人が目下の人に、謙虚な気持ちで礼を尽くして依頼する事を言う。
ORLEANS /♪ LOVE TAKES TIME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:20:12
◆◇◆其の五:みんな大好き三国志◆◇◆
こうして劉備(りゅうび/蜀の武人)が率いる蜀軍には、知略を担う軍師に就任した諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が加わった。
そして武力では関羽(かんう/蜀の武人)と張飛(ちょうひ/蜀の武人)が抑えている。
鉄壁の軍隊が組成された。
これに警戒したのが魏軍の曹操(そうそう/魏の武人)である。
208年9月に荊州(けいしゅう)を拠点としていた劉備(りゅうび/蜀の武人)の蜀軍に対して、曹操(そうそう/魏の武人)は大群勢の魏軍を率いて侵攻した。
劉備(りゅうび/蜀の武人)は小軍の蜀軍だった為に交戦を避けて、荊州(けいしゅう)から逃亡した。
この時に領民も、劉備(りゅうび/蜀の武人)を慕(した)い村を捨てて同行した。
曹操(そうそう/魏の武人)の魏軍は、騎兵部隊で追い掛けた。
劉備(りゅうび/蜀の武人)が率いる蜀軍は、領民も引き連れている為に進む速度が遅く、魏軍の騎兵部隊に追い付かれ総攻撃を受けるのは目に見えていた。
この時、軍師の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は劉備(りゅうび/蜀の武人)に対して、進行の妨げになる領民を見捨てる提案をする。
しかし、劉備(りゅうび/蜀の武人)は、自分を信用信頼して同行する領民を、1人たりとも見捨てる事は出来ないと反論する。
この言葉に諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、中国大陸を治める真の皇帝に劉備(りゅうび/蜀の武人)を就任させる事を決意する。
結局、劉備(りゅうび/蜀の武人)が率いる蜀軍は、魏軍の騎兵部隊に追い付かれ、総攻撃を受けて多くの兵士や領民を失った。
COLLECTIVE SOUL /♪ LISTEN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:21:08
◆◇◆其の六:みんな大好き三国志◆◇◆
曹操(そうそう/魏の武人)の魏軍が劉備(りゅうび/蜀の武人)の蜀軍を追い出して、中国大陸を東西に流れる長江(ちょうこう/揚子江)に面した街の長陵(ちょうりょう)を占領する。
曹操(そうそう/魏の武人)は、川に面した地形を活かして造船所を設けて軍艦を建造した。
勢力と武力を日に日に増していく曹操(そうそう/魏の武人)の魏軍に危機感を覚えた諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、主君の劉備(りゅうび/蜀の武人)に対して、呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)と同盟を締結する事を提案する。
呉(ご)の領域は、元々は孫堅(そんけん/呉の武人)が統治をしており、その息子が兄の孫策(そんさく/呉の武人)と弟の孫権(そんけん/呉の武人)だった。
そして勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将の周瑜(しゅうゆ/呉の武人)と、英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な軍師の魯粛(ろしゅく/呉の軍師)と、諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の兄の諸葛瑾(しょかつきん/呉の軍師)が仕えていた。
兄の孫策(そんさく/呉の武人)の妻が大喬(だいきょう/夫人)で、周瑜(しゅうゆ/呉の武人)の妻が小喬(しょうきょう/夫人)であり、この2人は“中華で一番の美人姉妹”と言われていた。
父親の孫堅(そんけん/呉の武人)は戦死し、兄の孫策(そんさく/呉の武人)も病死した為に、弟の孫権(そんけん/呉の武人)が家督を継承していた。
CITIZEN /♪ BLUE SUNDAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:22:04
◆◇◆其の七:みんな大好き三国志◆◇◆
〈天下三分の計〉(てんかさんぶんのけい)
強者同士を交戦させて、その間に力を付けて第三勢力として独立する。
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、魏(ぎ)の曹操(そうそう/魏の武人)の台頭を止めるには、呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)の力を借りて、蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)が第三勢力になる事を目論んでいた。
呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)は、長江(ちょうこう/揚子江)の下流域を領国として統治していた。
この地は湿地帯が多く船が必要な地域で、軍艦での合戦を主力としていた。
曹操(そうそう/魏の武人)の次なる狙いは、呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)に的を絞る。
曹操(そうそう/魏の武人)は多くの軍艦を建造し、海上戦に熟知した武将も他軍から引き抜き、20万人の魏軍を組成した。
一方の呉軍は3万人しか居らず、多勢に無勢で戦況は不利と予想された。
こうして呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)は、重鎮家臣と連日に軍議を催し、『曹操(そうそう/魏の武人)と交戦するか、従属(じゅうぞく)するか。』で話し合われる。
Manic Street Preachers FEAT.GREEN GARTSIDE /♪ BETWEEN THE CLOCK AND THE BED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:23:06
◆◇◆其の八:みんな大好き三国志◆◇◆
この時に、呉(ご)の軍師に就いていた諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の兄の諸葛瑾(しょかつきん/呉の軍師)や魯粛(ろしゅく/呉の軍師)は、蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)を来賓(らいひん)として呉(ご)に招聘(しょうへい)した。
呉(ご)の宮殿に招かれた諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、そこで呉(ご)の重鎮家臣に次々と質問を浴びせられた。
重鎮家臣…『蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)は、領国を持つ事なく長いこと流浪して、領国を得ても合戦に負けて逃亡する事を繰り返している。 そんな人物に忠誠を尽くす意味があるのか?』
諸葛孔明…『蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)がその様な下人なら、呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)も、曹操(そうそう/魏の武人)の魏軍に敵(かな)わないと思うなら、下手に損害を出す前に戦わずに降伏して臣従(しんじゅう)した方が良い。』
重鎮家臣…『君の主君である蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)こそ、曹操(そうそう/魏の武人)の魏軍に敗北して逃亡しているではないか! ならば最初から曹操(そうそう/魏の武人)に降伏して臣従(しんじゅう)した方が良かったのではないか?』
諸葛孔明…『我が主君の蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)は、漢王朝の皇帝の血統を引継ぐ貴人(うまひと)である。 その尊厳がある限り、交戦して討死にしても、それは天命と肝(きも)に銘じている。』
この言葉に呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)の心が揺れ動かされた。
孫権…『蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)が勇気ある賢人なら、私も同じで魏(ぎ)の曹操(そうそう/魏の武人)に降伏するつもりはない。』
こうして呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)は、蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)と同盟し、魏(ぎ)の曹操(そうそう/魏の武人)と交戦する事を決意した。
DAN + SHAY /♪ GLAD YOU EXIST
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:24:14
◆◇◆其の九:みんな大好き三国志◆◇◆
208年12月に長江(ちょうこう/揚子江)の赤壁(せきへき)で合戦が始まる。
赤壁(せきへき)の川の幅員は2kmもあり、川の流れも速く、川の性質を利用した戦術と兵法が勝敗を決める。
曹操(そうそう/魏の武人)が率いる20万人の魏軍は、河川沿いに軍艦を配備した。
一方の連盟する呉蜀軍は3万人で、呉(ご)の猛将で名高い周瑜(しゅうゆ/呉の武人)が総大将に就き、蜀(しょく)からは諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が軍師として参戦した。
魏軍は圧倒的な軍力で、軍艦を河岸に停泊させ布陣している。
そんな危機的な戦況下で、呉蜀軍では総大将の周瑜(しゅうゆ/呉の武人)と軍師の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の相性が合わず、時折、意見の相違で対立していた。
その仲裁をしていたのが諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)を崇拝する魯粛(ろしゅく/呉の軍師)である。
それでも総大将の周瑜(しゅうゆ/呉の武人)は、軍師の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)に対して無理難題を与える。
周瑜…『武力で劣る呉蜀軍は兵器の数が勝敗を決める。 3日以内に弓矢隊の矢を10万本を用意してくれ。』
魯粛…『周瑜(しゅうゆ/呉の武人)よ、いくらなんでも3日以内に矢を10万本も用意する事など不可能だ!』
周瑜…『いや、蜀(しょく)の天才軍師と言われる諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)なら、この程度の事は何なりとやり遂げてくれるであろう!』
諸葛孔明…『3日以内に矢を10万本ですか? 承知致した。』
魯粛…『なっ、なんと!? 諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)も出来ぬ約束はしない方が良いぞ!』
周瑜…『自信があるならやってみるが良い。 しかし、3日以内に矢を10万本用意できなければ、軍略の命令に反いたとして死罪に致す。 その事を心得ること!』
諸葛孔明…『10万本を用意できなければ、斬首なり磔(はりつけ)なり、何なりと死刑にしてください。』
THE COURTEENERS /♪ THAT KISS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:25:10
◆◇◆其の十:みんな大好き三国志◆◇◆
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は藁束(わらたば)で覆われた20隻の舟を作った。
そして、霧が深い深夜に藁束(わらたば)の舟を、魏軍の陣営に向けて出航させた。
この夜襲に驚いた魏軍の兵士は、弓矢隊が次々と矢を射った。
その矢がドンドンと20隻の舟の藁束(わらたば)に突き刺さる。
ある程度まで矢が貯まったら、20隻の舟は引き返していった。
翌日、20隻の舟に突き刺さった矢を数えると、10万本以上もあった。
これを「草船借箭」(そうせんしゃくせん)と呼ぶ。
この計略に感服した魯粛(ろしゅく/呉の軍師)だったが、総大将の周瑜(しゅうゆ/呉の武人)は、軍師の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)をさらに危険視する。
その後、魏軍と呉蜀軍は主だった合戦もなく、膠着(こうちゃく)状態が続いていた。
こうなると戦況は、情報戦と計略に移っていく。
総大将の周瑜(しゅうゆ/呉の武人)は、旧友に託して魏軍の曹操(そうそう/魏の武人)に偽造した書簡を送り付ける。
その書簡の内容は、『魏軍に雇われた軍艦を指揮する武将が近々に謀反(むほん)を起こし、その証拠に濁流の長江(ちょうこう/揚子江)なのに、停泊する軍艦を配備にゆとりを持たせている。 これは止め綱を切れば配備された軍艦が流されていく為である。』と書かれていた。
この内容に曹操(そうそう/魏の武人)や重鎮家臣も納得し、軍艦を指揮する武将を斬首した。
そして、濁流が酷(ひど)い川に流されない様に、軍艦を縄でしっかりと縛り、軍艦同士を行き来できる様に踏み板を架けた。
しかし、ここに周瑜(しゅうゆ/呉の武人)と諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の狙いがあった。
WARRANT /♪ HEAVEN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:26:11
◆◇◆其の十一:みんな大好き三国志◆◇◆
こうして魏軍の軍艦は、川に流されない様に縄でしっかりと縛られ、軍艦同士を行き来できる様に踏み板まで架けられた。
この状況は防衛するには適しているが、河岸にひしめき合う軍艦で身動きが取れない。
次に呉蜀軍の軍師の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、総大将の周瑜(しゅうゆ/呉の武人)に対して“火攻”(かこう)を提案する。
魏軍の密着している木造の軍艦に、火を放つと言うものである。
しかし、“火攻”(かこう)の戦術は、その時の風向きにより成功と失敗に分かれる事となる。
追い風なら成功するが、向かい風なら失敗し、さらに自軍の陣営に火種が飛び被害が出る可能性もある。
北西側に布陣する魏軍に対して、南東側に布陣する呉蜀軍。
冬季の長江(ちょうこう/揚子江)の赤壁(せきへき)の一帯は、北西方から風が吹いていた。
こうなると南東側に布陣する呉蜀軍に不利である。
しかし、南方で暖冬が続けば暖気に遮られる風は跳ね返り、南東方からの風向きに変わる。
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、南方の村人からこの情報を聞いていたが、シャーマン(呪術師)の衣装を着て儀式を催し、あたかも霊術で風向きが変わったかの様に呉蜀軍に見せた。
風向きが南東方から吹き、深夜に魏軍へ寝返ると偽った呉蜀軍の軍艦を出航させた。
魏軍の軍艦に近付いた呉蜀軍の軍艦に火が放たれ突撃させた。
火の着いた呉蜀軍の軍艦が次々と魏軍の軍艦に激突して炎上し、密集させた木造の軍艦により辺り一帯が火の海となる。
こうして曹操(そうそう/魏の武人)が率いる魏軍は敗走した。
軍師の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が発案した“火攻”(かこう)により呉蜀軍は勝利し、呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)も大いに喜んだ。
しかし、総大将の周瑜(しゅうゆ/呉の武人)だけは、諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が軍師を務める蜀(しょく)を危惧(きぐ)する。
これが有名な「赤壁の戦い」(せきへきのたたかい)である。
MAMAS GUN /♪ POTS OF GOLD
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:27:09
◆◇◆其の十二:みんな大好き三国志◆◇◆
「赤壁の戦い」(せきへきのたたかい)の後、敗北した魏(ぎ)の曹操(そうそう/魏の武人)は一時的に弱体化し、蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)が荊州(けいしゅう)を拠点とする領国を統治する事となる。
こうして諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が唱えた天下三分の計(てんかさんぶんのけい)が実現し、魏(ぎ)の曹操(そうそう/魏の武人)と、呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)と、蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)が抗争する三国時代が到来する。
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が認める軍師で“鳳雛”(ほうすう)と呼ばれる龐統(ほうとう/蜀の軍師)が、蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)に仕える。
その後、幾多(いくた)の戦乱で蜀軍は快進撃を遂げる。
そこには天才軍師で“伏龍”(ふくりゅう)の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)と“鳳雛”(ほうすう)と龐統(ほうとう/蜀の軍師)の2人が指揮し、獅子奮迅(ししふんじん)する武将の関羽(かんう/蜀の武人)と張飛(ちょうひ/蜀の武人)、それに趙雲(ちょううん/蜀の武人)が揃っていた事に他ならない。
しかし、蜀(しょく)の劉備(りゅうび/蜀の武人)は、同じ漢王朝の末裔で親族の劉氏の裏切りに遭い、軍師の龐統(ほうとう/蜀の軍師)が落鳳坡(らくほうは)で戦死する。
その直ぐ後に、同盟を締結していた呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)の裏切りがあり、関羽(かんう/蜀の武人)と張飛(ちょうひ/蜀の武人)までも命を落とす。
桃園の誓い(とうえんのちかい)で『同年同月同日に生まれる事を得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん。』と宣言した劉備(りゅうび/蜀の武人)は、正気を失い激怒した。
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が阻止するのも無視して、呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)へ敵討ちに向かい、返り討ちに遭って惨敗する。
その後、劉備(りゅうび/蜀の武人)は大病を患い223年に死去した。
JOE WALSH /♪ COUNTRY FAIR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:28:04
◆◇◆其の十三:みんな大好き三国志◆◇◆
223年に死期を悟った劉備(りゅうび/蜀の武人)は、息子の劉禅(りゅうぜん/蜀の皇帝)を指導する様に、後見人として諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)に託した。
その時の劉備(りゅうび/蜀の武人)の遺言で、『息子の劉禅(りゅうぜん/蜀の皇帝)に国家を治める才覚が無ければ、他の適任者を皇帝とする事。』だった。
これに諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は迷わず、蜀(しょく)の皇帝に劉禅(りゅうぜん/蜀の皇帝)を就任させた。
蜀(しょく)の南部で反乱が起こり、諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は鎮圧する為に出陣した。
この反乱の首謀者は、南蛮の武将の孟獲(もうかく/蜀の武人)だった。
しかし、蜀軍が反乱を鎮圧し、孟獲(もうかく/蜀の武人)を生捕りにすると、総大将の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は孟獲(もうかく/蜀の武人)を解放した。
再び孟獲(もうかく/蜀の武人)が反乱を起こすと、再び蜀軍が反乱を鎮圧し、孟獲(もうかく/蜀の武人)を生捕りして、総大将の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は再び孟獲(もうかく/蜀の武人)を解放した。
これを7度も繰り返す。
そして7度目には孟獲(もうかく/蜀の武人)は解放されても逃亡しようとせず、諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の忠誠な家臣となった。
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、南蛮の少数民族の自治を認め、互いに助け合い共存共栄する事になった。
〈七縦七擒〉(しちしょうしちきん)
相手を自分の思う通りに、自由自在に操ること。
KHAMARI /♪ THESE FOUR WALLS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:29:02
◆◇◆其の十四:みんな大好き三国志◆◇◆
この時期、魏(ぎ)の曹操(そうそう/魏の武人)も亡くなっており、息子の曹丕(そうひ/武人→ 魏の皇帝)が魏(ぎ)の皇帝に就任していた。
その後見人に天才軍師と言われる仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)が仕えていた。
仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)は、諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の長年に渡るライバルでもあった。
魏(ぎ)は、蜀(しょく)の領国でもある荊州(けいしゅう)に程近い洛陽(らくよう)に遷都(せんと)する。
政治力と軍事力で勢力を拡大させ、魏(ぎ)は蜀(しょく)の6倍以上の国力を保有していた。
総大将の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が率いる蜀軍は、先手必勝とばかりに北方の魏(ぎ)の領土へ侵攻した。
そして魏(ぎ)の領域を占領し、これに伴い仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)の指揮の元で魏軍は反撃に出る。
この大群勢で押し寄せる魏軍の侵攻を止める策を、蜀軍は考案する為に軍議を催し、そこで諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は愛弟子の馬謖(ばしょく/蜀の軍師)を指揮官に任命した。
この時に諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は馬謖(ばしょく/蜀の軍師)に対して、大群勢の魏軍を狭い街道に誘い込み、隊列が細長くなったところの各所を攻撃する様に指示した。
合戦では、小軍が大軍が勝利する常套手段(じょうとうしゅだん)である。
WORLDS APART /♪ JUST SAY I SAID HELLO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:29:58
◆◇◆其の十五:みんな大好き三国志◆◇◆
蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の威令(いれい)を受けて、馬謖(ばしょく/蜀の軍師)は蜀軍を率いて狭い街道に陣営を設けた。
しかし、この近くに小高い山が見え、戦術と兵法に熟知した馬謖(ばしょく/蜀の軍師)は、合戦は高い陣営から下方に攻撃した方が有利と考えた。
そこで馬謖(ばしょく/蜀の軍師)は、諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の軍令に違反して、小高い山に陣営を移設させた。
この蜀軍の陣営を見た仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)が率いる魏軍は、小高い山を包囲して兵糧攻めを実施した。
これにより蜀軍の食糧は尽き、山頂の為に水も確保できず、蜀軍の兵士は餓死してほぼ全滅した。
なんとか馬謖(ばしょく/蜀の軍師)だけは逃亡する事ができたが、魏軍はこの勢いで蜀軍に占領された魏(ぎ)の領土を奪還する。
多くの兵士を餓死させ、その上に重要拠点を失った軍令を破った馬謖(ばしょく/蜀の軍師)の戦犯は重い。
蜀(しょく)の最高指導者の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、軍令違反を犯した愛弟子の馬謖(ばしょく/蜀の軍師)に死罪を言い渡した。
〈泣いて馬謖を斬る〉
愛する者でも、罪を犯せば厳しく罰する事。
SOUL ASYLUM /♪ MISERY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:30:52
◆◇◆其の十六:みんな大好き三国志◆◇◆
蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、蜀軍の指揮官に馬謖(ばしょく/蜀の軍師)を任命した責任を取り、自ら降格する人事を実施した。
さらに、蜀軍の敗北を蜀(しょく)の領民に包み隠さず伝えて、国民全員で魏(ぎ)に立ち向かう様に鼓舞(こぶ)した。
234年4月に蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)と同盟を締結して、208年に起こった「赤壁の戦い」(せきへきのたたかい)以来、再び呉蜀軍を結成して魏軍に対峙する事となる。
そこで呉蜀軍は2軍に別けて、魏軍を挟み討ちにする戦術を採った。
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が率いる蜀軍は五丈原(ごじょうげん)に陣営を設けた。
そこに対峙して仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)が率いる魏軍が布陣した。
しかし、魏軍の最高指導者に就任していた仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)は、蜀軍の諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)による巧妙な戦術と調略を恐れて、陣中に立て篭もり持久戦を実施した。
234年5月に、呉軍を率いる孫権(そんけん/呉の武人)は、長期戦に持ち込む魏軍に対して奇襲攻撃を仕掛けたが失敗する。
これを「五丈原の戦い」(ごじょうげんのたたかい)と呼ぶ。
この時期から諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の体調に異変が生じる。
長年の過労と心労により病気を患い、床に伏せる様になる。
QUEENSRYCHE /♪ SILENT LUCIDITY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:31:49
◆◇◆其の十七:みんな大好き三国志◆◇◆
病床から諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、家臣に指示を出して蜀軍の統制を保っていたが、魏軍に打撃を与えるまでにはいかなかった。
そして死期を悟った諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は、側近に『死後は、自分の木彫の像を据え置き、魏軍に悟られる様に静かに撤退する事。』と伝えた。
234年8月23日に諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は死去する。
蜀軍の側近は、亡き諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の遺言の通りに木彫の像を作り人力車に乗せて、あたかもそこで諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が指揮している様に見せ付けた。
一時は諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が死去した噂は、魏軍の仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)の耳にも入っていた。
それを確かめるべく仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)は、魏軍の大群勢を率いて侵攻したが、崖の上に陣営を設ける諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が乗る人力車を見付けて、これは諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)が死去した噂を流した罠だと察知して逃げ出した。
しかし、魏(ぎ)に逃げ帰った仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)は、やはり諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)は既に死去している事を聞かされる。
それを知った仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)は、恥ずかしさと悔しさで悶絶(もんぜつ)した。
この故事が、百年千年に渡り語られる事となる。
〈死せる孔明、生ける仲達を走らす〉
名君の死後も、その名声によって敵陣を恐れさせる。
KORGIS /♪ HUNGER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250725 - ラジオの友 URL
2025/07/25 (Fri) 00:32:53
◆◇◆其の十八:みんな大好き三国志◆◇◆
この頃、魏(ぎ)の内政が不安定に陥り、曹操(そうそう/魏の武人)の息子で魏(ぎ)の皇帝に就任していた曹丕(そうひ/武人→ 魏の皇帝)は早世していた。
その家督継承したのが、曹丕(そうひ/武人→ 魏の皇帝)の息子の曹叡(そうえい/魏の皇帝)で、倭国(日本)の邪馬台国(やまたいこく)の女帝だった卑弥呼(ひみこ/女帝)と国交を締結し、250年頃に“魏志倭人伝”(ぎしわじんでん)を残している。
曹叡(そうえい/魏の皇帝)には嫡男(ちゃくなん)が居なかった為に、曹芳(そうほう/魏の皇帝)が養子に入り魏(ぎ)の皇帝に就任した。
その側近には、曹操(そうそう/魏の武人)の甥の曹爽(そうそう/魏の武人)が就いていた。
ところが仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)のクーデターにより、249年に起こった「高平陵の変」(こうへいりょうのへん)で失脚し処刑された。
こうして魏(ぎ)から曹操(そうそう/魏の武人)の一族が排除され、仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)の一族が皇帝の地位に就く。
仲達(ちゅうたつ)こと司馬懿(しばい/魏の軍師)には2人の息子が居り、長男の司馬師(しばし/魏の軍師)と次男の司馬昭(しばしょう/魏の武人)が実質的な政権を担う。
252年に呉(ご)の孫権(そんけん/呉の武人)が死去する。
こうして呉(ご)の勢いは衰えていく。
諸葛孔明(しょかつこうめい/蜀の軍師)の亡き蜀(しょく)も、砂の楼閣と同じで魏(ぎ)の強敵ではなかった。
263年に次男の司馬昭(しばしょう/魏の武人)が率いる魏軍の侵攻に遭い壊滅して、劉備(りゅうび/蜀の武人)の息子で蜀(しょく)の皇帝だった劉禅(りゅうぜん/蜀の皇帝)も降伏した。
これにて蜀(しょく)は消滅する。
次男の司馬昭(しばしょう/魏の武人)の息子で司馬炎(しばえん/魏の武人→晋の皇帝)が、265年に晋(しん)を建国して皇帝に就任する。
280年に晋軍は呉(ご)を侵攻して壊滅し、“三国統一”を果たす。
こうして200年頃の中国大陸で繰り広げられた三国志を振り返ると、その前後の歴史を含めて武将が領国を拡大させる戦国だった事が解る。
合戦の戦術や兵法、甲冑(かっちゅう)を身にまとい弓矢や太刀(たち)で敵陣に立ち向かうその姿は、800年頃の平安時代から1500年頃の戦国時代の日本の姿そのままである。
中国大陸で戦乱に負けた武将や武人の一族が、船を使って日本に逃亡していても不思議ではない。
この中国と日本の歴史の一致は、何を物語り何を伝えているのか?
PETER ANDRE /♪ I FEEL YOU
◆ラジオの友◆
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2025/07/25 (Fri) 00:11:39
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