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今日の1枚、お薦めレコード/20250226 - ラジオの友 URL

2025/02/26 (Wed) 21:05:48

SAMMY DAVIS JR. /♪ THE CANDY MAN

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2025/02/26 (Wed) 21:06:59

DOM UM ROMAO /♪ PRA QUE CHORAR

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2025/02/26 (Wed) 21:08:06

DJAVAN /♪ CAPIM

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2025/02/26 (Wed) 21:09:13

Sergio Mendes & Brasil '66 /♪ Cinnamon and clove

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2025/02/26 (Wed) 21:10:07

Joyce Moreno /♪ MEIO A MEIO

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2025/02/26 (Wed) 21:10:55

STUFF /♪ HAPPY FARMS

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2025/02/26 (Wed) 21:12:16

BURT BACHARACH /♪ LIVING TOGETHER, GROWING TOGETHER

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2025/02/26 (Wed) 21:13:08

BEN SIDRAN /♪ TREE OF LIFE

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2025/02/26 (Wed) 21:14:00

TINO ROSSI /♪ SOUS LES TOITS DE PARIS

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2025/02/26 (Wed) 21:14:53

SAPOTY DA MANGUEIRA /♪ SERIE

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2025/02/26 (Wed) 21:15:51

DEEP FOREST /♪ MARTA'S SONG

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2025/02/26 (Wed) 21:18:01

THE NICE /♪ AMERICA

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2025/02/26 (Wed) 21:18:58

EMERSON,LAKE & PALMER /♪ THE BARBARIAN

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2025/02/26 (Wed) 21:19:51

CARLA BRUNI /♪ L'EXCESSIVE

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2025/02/26 (Wed) 21:20:46

SUSAN AGLUKARK /♪ POND INLET

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2025/02/26 (Wed) 21:21:48

ANOINTED /♪ IT'S IN GOD'S HANDS NOW

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2025/02/26 (Wed) 21:22:38

THE PARIS SISTERS /♪ I LOVE HOW YOU LOVE ME

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2025/02/26 (Wed) 21:23:42

PATTI PAGE /♪ tennessee waltz

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2025/02/24 (Mon) 12:23:05

WOLFMOTHER /♪ WOMAN

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2025/02/24 (Mon) 12:26:55

MOUTH CULTURE /♪ NO SHAME

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2025/02/24 (Mon) 12:28:13

ANDREW W.K. /♪ PARTY HARD

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2025/02/24 (Mon) 12:29:08

PLACEBO /♪ NANCY BOY

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2025/02/24 (Mon) 12:29:58

THE DOLLYROTS /♪ BECAUSE I'M AWESOME

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2025/02/24 (Mon) 12:30:49

ADELITAS WAY /♪ READY FOR WAR

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2025/02/24 (Mon) 12:31:39

UGLY KID JOE /♪ N.I.B.

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2025/02/24 (Mon) 12:32:37

SILVERCHAIR /♪ FREAK

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2025/02/24 (Mon) 12:33:28

BAD RELIGION /♪ INFECTED

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2025/02/24 (Mon) 12:34:18

SPONGE /♪ PLOWED

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2025/02/24 (Mon) 12:35:11

HANOI ROCKS /♪ ORIENTAL BEAT

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2025/02/24 (Mon) 12:36:09

4 NON BLONDES /♪ MISTY MOUNTAIN TOP

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2025/02/24 (Mon) 12:37:09

THE BETHS /♪ A REAL THING

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2025/02/24 (Mon) 12:37:59

1000MODS /♪ THE ONE WHO KEEPS ME DOWN

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2025/02/24 (Mon) 12:38:45

PAUL WESTERBERG /♪ LOVE YOU IN THE FALL

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2025/02/24 (Mon) 12:39:38

JELLY ROLL /♪ DEAD END ROAD

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2025/02/24 (Mon) 12:40:29

The Soup Dragons/♪ ONE WAY STREET

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2025/02/24 (Mon) 12:41:21

SMITHEREENS /♪ MILES FROM NOWHERE

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2025/02/24 (Mon) 12:42:13

THE WONDER STUFF /♪ ON THE ROPES

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2025/02/24 (Mon) 12:43:08

JOAN OSBORNE /♪ RIGHT HAND MAN

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■当サイトを閲覧するにあたり/20250223 - ラジオの友 URL

2025/02/23 (Sun) 19:06:23

閲覧者の義務として、このサイト内に掲載されている音楽の5曲以上をお好きなラジオ局にリクエストして下さい。

もし、リクエスト曲が掛かれば幸福度がアップします。

今日のラッキーソングはこれだっ!

内藤やす子/♪ 想い出ぼろぼろ

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今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:53:03

◆◇◆其の百十:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

1180年〜1185年の5年間、第56代天皇の清和天皇(せいわてんのう/朝廷)の系統の源氏と第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)の平氏の皇族系武士により争われてきた「源平合戦」(げんぺいがっせん)も、戦闘武将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の猛追跡と猛攻撃により鎌倉源氏軍が勝利して、平安時代に栄華(えいが)を極めた平氏は長門国(山口県)の下関と豊前国(ぶぜん/福岡県)の門司(もじ/北九州)を分断する関門海峡にて滅亡する。

これを1185年に起こった「壇ノ浦の戦」(だんのうらのたたかい)と呼ぶ。

それと同時に794年に平安京が開設してから1185年に鎌倉幕府が創設されるまでの391年間も続いた平安時代は幕を閉じる事となる。

戦勝功労者の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、拘束した平家一門の棟梁でもある敗者の平宗盛(たいらむねもり/平氏)と息子の平清宗(たいらきよむね/平氏)を引き連れて、兄ちゃんの源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が待つ相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に向かう。

この時、相模国(神奈川県)の鎌倉では、大倉御所(おおくらごしょ)の近隣に源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)を弔う為の勝長寿院(しょうちょうじゅいん)を建立(こんりゅう)する上棟式(じょうとうしき)が執(と)り行われていた。

源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)とは、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の父親で、1160年に起こった「平治の乱」(へいじのらん)にて平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)に敗(やぶ)れて、逃亡先の尾張国(愛知県)の知多半島にある野間(のま/美浜)で家臣の裏切りに遭い浴室で斬殺された。

この勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の式典に出席していた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、鎌倉源氏軍の素破(すっぱ/忍者)から「壇ノ浦の戦」(だんのうらのたたかい)で平家一門が滅亡した事を聞かされた。

源頼朝…『うむ、承知した。 父上、見ておられるか? 等々(とうとう)に“父の仇(かたき)”を討ちましたぞぉ。』

しかし、この知らせの後に素破(すっぱ/忍者)は重い口を開けて、こう話した。

サスケ(忍者)…『ただ、平家一門と共に第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)も入水して崩御(ほうぎょ)し、“三種の神器”の内の“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)と“八咫鏡”(やたのかがみ)は確保しましたが、“天叢雲剣”(あめのむらくものつるぎ)こと“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)は重くて直(す)ぐに海の底に沈み海流も速く、何処(どこ)かへ流れて見つける事ができませんでした。』

源頼朝…『なにぃ!? 安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)と“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)が無ければ、わしぃの“鎌倉幕府構想”が成立しないではないか!! あの戦馬鹿(いくさばか)の義経(よしつね)は何をしておるのか!?』

サスケ(忍者)…『鎌倉源氏軍を率いた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)殿の闘争心が平家滅亡へ導いたのは間違いありませんが、ただ、武闘派の武将は武士道を逸脱(いつだつ)する傾向がありまして。』

源頼朝…『う〜〜ん、確かに義経(よしつね)は後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)から勝手に“検非遺使”(けびいし)に任命されたりと、武士団としての協調性がまるで無いなぁ。』

更に追い討ちを掛ける様に、“平氏討伐”の功績に対して後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)は、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を伊予国(愛媛県)の“伊予守”(いよのかみ)を任命していた。

此(こ)れを知った源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が軍律を乱したとして御立腹を越えて、身震いするほど激怒する。

物事の歯車が狂い始めると、其処彼処(そこかしこ)で不都合な事が噴き出てくる。

「源平合戦」(げんぺいがっせん)の数々の戦場で源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と対立して仲違いをした梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)による陰口も、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の怒りを増幅させた。

梶原景時…『殿下の弟でもある源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)殿は、武士の礼儀作法を完全に無視して、平氏軍に勝利したとは言え鎌倉源氏軍の統率を乱しました。 規律を守らない者は、此(こ)れからも守らない為に、主君に対して謀反(むほん)を起こしても不思議ではありませんぞぉ!』

源頼朝…『うむっ、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を鎌倉に1歩も入れるなぁ〜〜』

梶原景時…『御意(ぎょい)!』

そんな鎌倉の現状を露知(つゆし)らず、呑気に凱旋(がいせん)気分で鼻歌を唄いながら東海道を進行してきた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の御一行様は、戦勝証の捕虜として平宗盛(たいらのむねもり/平氏)と平清宗(たいらきよむね/平氏)の親子を従えて鎌倉に入ろうとするも、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に拒まれる。

大倉御所(おおくらごしょ)の少し手前の、相模国(神奈川県)の江ノ島に位置する腰越(こしごえ/鎌倉)で足止めされた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)の御一行様は、近くの満福寺(まんぷくじ/真言宗)で待機する事になった。

源義経…『何で兄ちゃんは怒っているんだろう?』

武蔵坊弁慶…『う〜〜ん 理由は分からないが、大体が兄弟喧嘩(けんか)の原因は、兄貴の大切な宝物(ほうもつ)や隠し物を、弟君が勝手に持ち出して壊したなどが多いであるぞぉ!』

源義経…『兄ちゃんの大切な宝物(ほうもつ)や隠し物かぁ〜 あっ!!』

武蔵坊弁慶…『心当たりがあるで御座るなぁ! こう言う時は謝罪文が一番の解決方法である。 文書が苦手な牛若(うしわか)殿である、わしも人肌(ひとはだ)脱いで手伝うぞぉ。』

源義経…『辱(かたじけ)い、弁慶(べんけい)殿。』

こうして2人は満福寺(まんぷくじ/真言宗)の書斎(しょさい)に閉じ篭(こも)り、兄の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)へ宛てた謝罪文を書いたのであった。

そして完成した謝罪文の“腰越状”(こしごえじょう)が此(こ)れだっ!

源義経…⦅兄ちゃんが怒っている理由が分かりました。 兄ちゃんが大切にしていた黒木香(くろきかおる/女優)さんの“愛虐の宴”や松坂季実子(まつざかきみこ/女優)さんの“でっか〜いの、めっけ!”と“乳酷管理法違反”など、数々のビデオカセットのAVコレクションを勝手に拝借して、その内の数本をテープがグチャグチャになった事を今まで黙っていました。 その事を兄ちゃんは激怒していると察しております。 ビデオカセットをダメにした“ふるさと創性論、季実子の玉おこし”に“お~い山田君! パンツ1枚持ってってくれ!!”に“一吸さん、とんちよりポンチがお好き”などは、いつか必ずメルカリで探して落札して返却しますので、どうかお許し下さい。⦆

この謝罪文の“腰越状”(こしごえじょう)は、早速、鎌倉の大倉御所(おおくらごしょ)に送達され、これを読んだ源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は顔を真っ赤にして大声を荒立(あらだ)てた。

源頼朝…『わぁ、わしぃの大切なAVコレクションのビデオカセットを持ち出しておったのは、此奴(こやつ)だったのかぁ〜 この事が一番に許せんわぁ〜!!』

激昂(げっこう)する源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の返答は、今直(います)ぐに京都の平安京に戻る様に命じられ、追申(ついしん)で平宗盛(たいらのむねもり/平氏)と平清宗(たいらきよむね/平氏)の親子を死罪にするよう伝令(でんれい)が付け加えられていた。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は京都へ帰還途中の近江国(滋賀県)の篠原(しのはら)で、平宗盛(たいらのむねもり/平氏)と平清宗(たいらきよむね/平氏)の親子を斬首し、此(こ)れで名実共に平家一門が滅亡した事になる。

R.E.M. /♪ IT'S THE END OF THE WORLD AS WE KNOW IT (AND I FEEL FINE)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:53:59

◆◇◆其の百十一:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、京都の平安京の堀川五条の交差点から南西方に建つ自邸(借家)の屋敷に戻り身体を休めた。

源義経…『兄ちゃんは、従兄弟の木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)を討ち、更(さら)に此(こ)の弟の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)も討ち、源氏一門を討ち消していくつもりではないだろうか? いずれこの僕も・・・』

武蔵坊弁慶…『う〜〜ん、そんな悲観的な考えは牛若(うしわか)殿には似合わぬぞぉ! さっ、嫌な事は忘れて山城国(京都府)は伏見の地酒でも呑みましょう。』

満月の夜、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)が深酒をして屋敷の居間で眠り込んでいたところを、黒い影が瞬時に動いた。

それは相模国(神奈川県)の鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に、“弟の源義経討伐”を命じられた金王丸(こんのうまる)こと土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん/鎌倉)が率いる暗殺集団の影の軍団だった。

金王丸(こんのうまる)こと土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん/鎌倉)とは、相模国(神奈川県)の高座(こうざ/寒川)の武将で、桓武平氏の渋谷氏(しぶやうじ)の系統である。

異変に気付いた武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は、部屋の蝋燭(ロウソク)の炎を消す。

武蔵坊弁慶…『フッ。』

源義経…『うんっ!? どうしたのじゃ弁慶(べんけい)殿?』

武蔵坊弁慶…『しっ! どうやら曲者(くせもの)が屋敷に忍び込んだようじゃ。』

源義経…『なっ、なにぃ!? 兄ちゃんの手先かぁ!!』

武蔵坊弁慶…『どうやらその様じゃ。 此処(ここ)は一先(ひとま)ず抗戦しよう。』

源義経…『ダァ〜〜!! 此処(ここ)を戦闘武将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の屋敷と知っての殴り込みかぁ〜!!』

武蔵坊弁慶…『コリャ〜〜!! 比叡山は延暦寺(えんりゃくじ)で恐れられた僧兵の山法師(やまほうし)の薙刀(なぎなた)を受けてみろぉ〜〜!!』

この殺気走った2人の気迫に慄(おのの)いた金王丸(こんのうまる)こと土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん/鎌倉)が率いる暗殺集団の影の軍団は、一目散で逃げていった。

この相模国(神奈川県)の鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)による“弟の源義経討伐”が露呈(ろてい)した事で、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の御所を訪ねて事情を説明し、院政(いんせい)から公(おおやけ)の“兄の源頼朝討伐”の院宣(いんぜん)を発布してもらう。

此(こ)の時期に、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)を裏切り報復を恐れて逃亡していた叔父の源行家(みなもとゆきいえ/源氏)が平安京に戻ってきていた。

九州に地盤のある源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と四国に地盤のある源行家(みなもとゆきいえ/源氏)は、西日本源氏同盟を締結し、平氏が統治していた西国で基盤固めをする計画を立てた。

早速、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源行家(みなもとゆきいえ/源氏)が率いる西日本源氏同盟は、摂津国(兵庫県)の阪神電鉄本線となんば線が交わる大物浦(だいもつのうら/尼崎)の湊(みなと)から船に乗船して出航した。

がっ、淡路島辺りで暴風雨に襲われて船が破損して、引き返して摂津国(大阪府)の墨江津(すみのえのつ/住之江)の湊(みなと)に寄港した。

此処(ここ)に鎮座する住吉大社(すみよしたいしゃ/海の神)に文句を言いに行った。

源義経…『何が海の神様だよぉ! 船が難破(なんぱ)したではないかぁ!』

海の神…『お主らは大物浦(だいもつのうら/尼崎)の湊(みなと)から出航したじゃろ? それが大きな過ちじゃった。 摂津国(大阪府)の上町台地を降りた難波津(なにわのつ/千日前)から出航すべきじゃった。 難波(なんば)の漢字をよく見てみろ、難しい波でも乗り越えられると言う意味じゃ。 難波津(なにわのつ/千日前)から出航しないから難破(なんぱ)したのじゃ。』

源義経…『それって、難波(なんば)と難破(なんぱ)の読み方と漢字が似ているから、当て付けちゃいますのぉ?』

海の神…『まあ、そうとも言うが。』

墨江津(すみのえのつ/住之江)の湊(みなと)に上陸した源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と同行者の武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)、それに静御前(しずかごぜん/源氏)も居た。

静御前(しずかごぜん/源氏)とは、源義経(みなもとよしつね/源氏→藤原)の愛妾(あいしょう)で、大和国(奈良県)の磯野(いその/大和高田)の出生と言われる母親の磯禅師(いそのぜんじ/舞妓)と共に舞妓をしており、白拍子(しらびょうし)の達人と言われた。

墨江津(すみのえのつ/住之江)から上町台地を登り聖徳太子(しょうとくたいし)こと厩戸皇子(うまやどのみこ)が建立(こんりゅう)した四天王寺に到着し、今晩は此処(ここ)で泊めてもらう事にした。

翌朝、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は大和国(奈良県)の吉野山の寺院を訪ねるが、此処(ここ)は女人禁制だった為に静御前(しずかごぜん/源氏)は1歩手前で別行動をする事になる。

此(こ)の時に源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、信用の置ける家臣を就けて静御前(しずかごぜん/源氏)を送り出した。

ただ、次の目的地に向かう道中で、その家臣が静御前(しずかごぜん/源氏)の持ち物(金品類と下着類)を奪って逃走した為に、無一文となって途方(とほう)に暮れていた静御前(しずかごぜん/源氏)は、持ち前の白拍子(しらびょうし)で路上ライブを決行して、舞を踊り併せて唄を歌って投げ銭を稼いでいた。

静御前…『♪見慣れない山伏(やまぶし)を着た〜 義経(よしつね)様が今出ていった〜 髪形を整え〜 ベッドの上もそのままに〜』

静御前…『♪1つの残らず義経(よしつね)様を〜 哀しませないように〜 義経(よしつね)様の幕府の全てに〜 すればいい〜』

静御前…『♪そして静(しずか)は途方に暮れる〜』

静御前…『♪ふざけあったあの壇ノ浦〜 遠くなる義経(よしつね)様の手で〜 優しくなれずに〜 離れられずに思いが残る〜』

静御前…『♪もうすぐ矢の雨が飛び〜 輝いた戦地は〜 義経(よしつね)様の瞳に〜 何を映すのか〜』

静御前…『♪そして静(しずか)は 途方に暮れる〜』

静御前…『♪これからの義経(よしつね)様の笑顔で この奥州平泉は満たされていく〜 藤原氏を曇らせたのはなぜ〜』

静御前…『♪義経(よしつね)様の選んだ事だから〜 きっと大丈夫さ〜 義経(よしつね)様が心に決めた事だから〜』

静御前…『♪そして静(しずか)は途方に暮れる〜 見慣れない山伏(やまぶし)を着た〜 義経(よしつね)様が今出ていった〜』(♪そして僕は途方に暮れる)

ところが、此(こ)れが評判が評判を生み出して、平安京の朝廷をはじめ畿内(きない/関西)全域、更(さら)には相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に居る源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)にまで知られる事になる。

そして静御前(しずかごぜん/源氏)は平安京の役人に拘束されて、そのまま相模国(神奈川県)の鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の元に護送される。

THE CURE /♪ STRANGE ATTRACTION

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:54:46

◆◇◆其の百十二:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

一方、平安京に送り込み“弟の源義経討伐”を命じた金王丸(こんのうまる)こと土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん/鎌倉)が率いる暗殺集団の影の軍団が、任務を失敗した事を知った相模国(神奈川県)の鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、更(さら)に激怒する情報がもたらされた。

平安京の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が司る院政(いんせい)から、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源行家(みなもとゆきいえ/源氏)に対して公(おおやけ)の“兄の源頼朝討伐”の院宣(いんぜん)を発布したと言う。

この後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の信用信頼に欠ける二枚舌に対抗する為に、義父の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)が率いる1千人の鎌倉源氏軍を侵攻させた。

これに慄(おのの)いた後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)は、院政(いんせい)から北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)に公(おおやけ)の“弟の源義経討伐”の院宣(いんぜん)を発布した。

後白河法皇…『ひぃ〜〜 わしぃじゃない! わしぃは知らん! 彼奴(あやつ)らに脅されて院宣(いんぜん)を出したんじゃ! 本当だ、信じてくれぇ!』

北条時政…『法皇(ほうおう)、この期(ご)に及んで見苦しいですよ。 “兄の源頼朝討伐”の院宣(いんぜん)を発布した事は、何方(どちら)でもいいんです。 ただ、鎌倉殿(かまくらどの)の要求さえ聞いてくれれば。』

後白河法皇…『かぁ、鎌倉殿(かまくらどの)の要求?』

北条時政…『そう! 先(ま)ずは謀反(むほん)の罪人となる源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源行家(みなもとゆきいえ/源氏)を取り締まる為の、朝廷は守護(しゅご)と地頭(じとう)を日本各地に設置してもらう。』

後白河法皇…『えっ!? 守護(しゅご)と地頭(じとう)とは何(なん)ぞやぁ?』

鎌倉殿(かまくらどの)の要求により設置される事になる守護(しゅご)は領国を統治する警察防衛拠点で、地頭(じとう)は守護(しゅご)の維持費を賄(まかな)う為の租税を課す役所。

西国で「源平合戦」(げんぺいがっせん)が繰り広げられている最中(さなか)に、東国の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)では、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の“鎌倉幕府構想”が此処(ここ)まで構成されていた。

鎌倉殿(かまくらどの)の守護(しゅご)と地頭(じとう)を日本各地に設置する要求により、平安京の内裏(だいり)では第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)など公家が集まり、朝廷として事実上の最後の閣僚合意を決定する。

794年〜1185年まで続いた391年間の平安時代、1185年〜1338年まで続いた153年間の鎌倉時代。

この1185年(イイハコ)は元々は1192年(イイクニ)だった。

これは源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が敵対した後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が薨御(こうぎょ)したタイミングで、朝廷より征夷大将軍1代目に任命されたのが1192年(イイクニ)で、此処(ここ)から鎌倉時代と認定されていた。

ただ、実際は其(そ)れよりも前に大倉御所(おおくらごしょ)で鎌倉幕府の機能は稼働していた為に、鎌倉殿(かまくらどの)の要求に屈した朝廷が、守護(しゅご)と地頭(じとう)を設置した1185年(イイハコ)から鎌倉時代に変更された。

この日本各地に守護(しゅご)と地頭(じとう)の設置により、全国指名手配された源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源行家(みなもとゆきいえ/源氏)に逃げ道はあるのか?

ここから源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の“逃亡劇”が始まる。

THE ALL-AMERICAN REJECTS /♪ GIVES YOU HELL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:55:41

◆◇◆其の百十三:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)、職業は武士。

正しかるべき正義も時(とき)として、盲(め)しいる事がある 。

彼は身に覚えのない謀反(むほん)の罪で死刑を宣告され、凱旋(がいせん)の途中で辛くも脱走した。

孤独と絶望の逃亡生活が始まる。

髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った幕府の男を捜し求める。

彼は逃げる。

執拗(しつよう)な源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の追跡を交(か)わしながら、“現在”を、“今夜”を、そして“明日”を生きるために。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)、そう、彼は「逃亡者」(The Fugitive)である。

大和国(奈良県)の吉野山で愛妾(あいしょう)の静御前(しずかごぜん/源氏)と別れて、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は山伏(やまぶし)の衣装を着て変装して北陸地方を目指した。

大和国(奈良県)から北上して山城国(京都府)に入り、其処(そこ)から山を越えて近江国(滋賀県)に着き、琵琶湖の近くの従兄弟の木曽義高(きそよしたか)こと源義高(みなもとよしたか/源氏)が討たれた粟津(あわず)の松原で、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は手を合わせ弔(とむら)った。

さらに北上して山岳地帯を越えて越前国(福井県)に入り、その進路を日本海に沿って東方に進み加賀国(石川県)に着いた。

其処(そこ)で待ち受けていたのは加賀国(石川県)の安宅(あたか/小松)の関所。

この関所には、藤原氏北家(ほっけ)の富樫氏(とがしうじ)の系統で、加賀国(石川県)の守護に就任していた富樫泰家(とがしやすいえ/藤原→鎌倉)が待ち受けていた。

平安京の朝廷や鎌倉の大倉御所(おおくらごしょ)からは、逃亡者(The Fugitive)の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は山伏(やまぶし)の格好をしている情報は入っていた。

そんな処(ところ)に山伏(やまぶし)の格好をした団体が安宅(あたか/小松)の関所に来たので、役人の気も締まる。

武蔵坊弁慶…『すんまぁせんなぁ〜 ちょっと関所を通らさせて頂きますぅさかいにぃ〜』

富樫泰家…『ちょっと待てぇ〜〜い! お寺の僧侶とお見受けするが、何方(どちら)に参るのかなぁ?』

武蔵坊弁慶…『へえ、実は平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の手筈(てはず)で“南都焼討”(なんとやきうち)に遭いましてぇん、大和国(奈良県)にある法相宗(ほっそうしゅう)の興福寺(こうふくじ)も華厳宗(けごんしゅう)の東大寺も、全部、焼けてしもぉうてぇん。 せぇやから再建資金の勧進(かんじん/募金)を集める為に、日本各地を巡っておりますねぇん。』

富樫泰家…『ほう、それは御苦労であるなぁ〜 では、今までどれ位の勧進(かんじん/募金)が集まり、どの程度の御厚情(ごこうじょう)の言葉が書かれているか、勧進帳(かんじんちょう)を見せてもらおうかな?』

武蔵坊弁慶…『はい、勧進帳(かんじんちょう)は個人情報保護法で勧進者(かんじんしゃ/寄付者)の許可なく見せる事ができない為に、私が御厚情(ごこうじょう)の言葉を読み上げても宜しいでしょうか?』

富樫泰家…『それでも構わぬぞぉ。』

そう言って武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は偶々(たまたま)に持ち合わせていた何も書かれていない白紙の巻物をスラスラと読み上げた。

武蔵坊弁慶…『ではぁ、日本神話の造化三神(ぞうかさんしん)と呼ばれる根源の天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、統治の高御産巣日神(タカミムスヒ)、生産の神産巣日神(カミムスヒ)よぉ、それに独神(ひとりがみ)と呼ばれる葦の芽の様に成長する宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂ)、地上界には降りない神の宇摩天之常立神(アメノトコタチ)、これら別天つ神(ことあまつかみ)と呼ばれる造化三神(ぞうかさんしん)と独神(ひとりがみ)の5神、それに伊耶那岐神(イザナギ)により誕生した伊勢神宮の内宮(ないくう)の天照大御神(アマテラス)、夜に輝く月の月読命(ツクヨミ)、海を司る須佐之男命(スサノオ)、そして伊耶那美神(イザナミ)の尿から誕生した和久産巣日神(ワクムスビ)の子供で伊勢神宮の外宮(げくう)の豊宇気毘売神(トヨウケビメ)よぉ・・・ まだ、続けましょうか?』

富樫泰家…『もうよい、もうよい、関所を通ってよいぞぉ。』

山伏の団体が関所を潜ろうとした、その時!

関所の役人…『あれぇ!? あの荷物持ち(ボーヤ)の顔、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)のフェイスブックの自己紹介欄に掲げている顔にソックリだ。』

富樫泰家…『なにぃ!? おい、其(そ)の荷物持ち(ボーヤ)、ちゃんと顔を見せてみろぉ!』

源義経…『うっ!』⦅変装がバレたぁ、もうダメだぁ!⦆

武蔵坊弁慶…『ちょっと待って下さい。 この荷物持ち(ボーヤ)が源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)かどうかを判断する前に、此(こ)れを見て下さい。』

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)がそう言うと、荷物からボンデージファッションを取り出して源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は、そのコスチュームに着替えた。

そして、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は、四つん這(ば)いになる源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を、鞭(ムチ)で強く打ちながら、赤く大きな蝋燭(ロウソク)を身体に垂らした。

バシィ バシィ

タラタラ タラタラ

武蔵坊弁慶…『このぉ穢(けが)らわしい男めぇ、お前は源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)なのか? 白状をしなさいっ!』

バシィ バシィ

タラタラ タラタラ

源義経…『アァ〜〜 私は源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)では御座いませ〜〜ん。 ウッウ〜 私を辱(はずかし)めないでぇ〜〜』

富樫泰家…『おっ、おい、君達は白昼堂々と公衆の面前で何をやっておるのだぁ!』

武蔵坊弁慶…『お代官様もどうです? この棍棒(こんぼう)を此奴(こやつ)の菊座(きくざ)に、ぶち込んでみては如何(いかが)ですか?』

源義経…『アァ〜〜 そんな太くて長い物(ブツ)を入れたら、わたくし失神しちゃ〜〜う! その棍棒(こんぼう)、早く入れてぇ〜〜』

富樫泰家…『けっ、結構だぁ。 はぁ、早く何処(どこ)かに行ってくれぇ! 私まで近所の人から変な目で見られるではないかぁ!』

こうして武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)の機転が効いた演技で、難関と言われた加賀国(石川県)の安宅(あたか/小松)の関所を無事に通過する事ができた。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)の山伏(やまぶし)団体は、この日は能登国(石川県)の日本海を望める温泉旅館で身体を休める事にした。

温泉に浸かりながら武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を鞭(ムチ)で打ちながら赤く大きな蝋燭(ロウソク)を身体に垂らした事を泣きながら詫(わび)びた。

武蔵坊弁慶…『うっうっうっ〜 緊急措置とは言え、牛若(うしわか)殿にあんな酷(ひど)い事をしてすまぬぅ どんなに謝っても、謝り足りぬぅ! うっうっうっ〜』

源義経…『ううん、いいよのぉん弁慶(べんけい)殿、今晩もキツいの期待しているわぁん!』

武蔵坊弁慶…『うっ、牛若(うしわか)殿!? まっ、まさかぁ!?』

こうして日本海の夜空に浮かぶ満月が、2人の男を優しく照らしているのであった。

SQUEEZE!! /♪ LOVING YOU TONIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:56:32

◆◇◆其の百十四:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

●1189年 《武士の時代》

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)や伊勢義盛(いせよしもり/武士)と共に加賀国(石川県)の安宅(あたか/小松)の関所を無事に通過し、能登国(石川県)の温泉旅館で一晩を過ごした。

翌日に越中国(富山県)に入り、越後国(新潟県)を通過して出羽国(でわ/秋田県)に着き、其処(そこ)から険(けわ)しい山岳地帯を越えて陸奥国(むつ/岩手県)の平泉に落ち延びた。

第3代奥州藤原氏の藤原秀衡(ふじわらひでひら/奥州藤原氏)は源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を匿(かくま)うも、第4代奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)は鎌倉幕府の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に差し出すよう嘆願(たんがん)する。

鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、奥州藤原氏が源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を保護している事を掴む。

鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)は陸奥国(むつ/岩手県)の奥州藤原氏に対して、上納品を京都の朝廷ではなく、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)に直接納める様に指示を出し圧力を掛ける。

そんな最中(さなか)、1187年に第3代奥州藤原氏の藤原秀衡(ふじわらひでひら/奥州藤原氏)が死去する。

藤原秀衡…『兄弟3人が力を合わせて源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を守り抜くこと。』

これが遺言だった。

長男の藤原国衡(ふじわらくにひら/奥州藤原氏)と三男の藤原忠衡(ふじわらただひら/奥州藤原氏)は父親の遺言を守る意志を固め、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)に対して攻防する奥州藤原軍を整える。

一方、次男となる第4代奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)は源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の総攻撃に怯(おび)え、とうとう源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)や武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)を攻撃してしまう。

藤原泰衡…『お前らは奥州藤原氏にとって疫病神で邪魔者なんじゃ〜!』

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる源氏軍逃亡隊は10人程度に対して、藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)が率いる奥州藤原軍第4代部隊は500人で侵攻し、奥州平泉に建つ衣川館(ころも)で交戦するも多勢に無勢で結果は明らかだった。

最期(さいご)の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は持仏堂(じぶつどう)に立て籠り、その入口の前で武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)が何本もの矢を受けながらも応戦する。

奥州藤原武士…『失礼さんでは御座いますが、お命、頂戴致します!』

バサッ バサッバサッ

武蔵坊弁慶…『ムムムッ。』

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は、立ったまま亡くなったと言い、これを弁慶の立ち往生(べんけいのたちおうじょう)と呼ぶ。

一方、持仏堂(じぶつどう)の中では、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が家族と共に自決した。

源義経…『ウグッ。』

これを1189年に起こった「衣川の戦」(ころもがわのたたかい)と呼ぶ。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の首級(しゅきゅう)は、相模国(神奈川県)の鎌倉の腰越(こしごえ/江ノ島)に届けられ、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)と和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)が首実験を行い確認した。

それでも源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は28万4千人の鎌倉軍を率いて陸奥国(むつ/岩手県)の平泉を目指す。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、当初から東北地方の肥沃な土地と金鉱山が目当てであったのは、第3代奥州藤原氏の藤原秀衡(ふじわらひでひら/奥州藤原氏)の時から危惧(きぐ)していた事である。

第4代奥州藤原氏で次男の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)は、三男の藤原忠衡(ふじわらただひら/奥州藤原氏)を暗殺して責任を全てなすりつけて、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に許しを請(こ)う。

源頼朝…『名門家の奥州藤原氏たる者、武士たる恥ぞっ!』

こう言って源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の鎌倉軍は北上する。

長男の藤原国衡(ふじわらくにひら/奥州藤原氏)は2万人の奥州藤原軍を率いて陸奥国(宮城県)は多賀城(たがじょう)の南方で布陣し、其処(そこ)から南下して陸奥国(むつ/福島県)の伊達(だて)にある阿津賀志山(あつかしやま/厚樫山)に城を築いて布陣し、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が率いる28万4千人の鎌倉軍に対して反撃するも討死する。

これを1189年に起こった「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)と呼ぶ。

奥州平泉に侵攻した源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の鎌倉軍に対して、第4代奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)は“柳の御所”から逃亡する。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、“仏乃国”(ほとけのくに)と言われる“仏教王国”の奥州平泉の美しい街並みに感銘し、鎌倉幕府の市街地整備の参考にした。

これが鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)を中心とした大倉幕府(おおくらばくふ)の門前街区である。

出羽国(でわ/秋田県)の大館(おおだて)まで逃亡した第4代奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)は、贄の柵(にえのさく)に居住する家臣の河田次郎(かわたじろう/奥州藤原氏)を頼るも裏切られて斬首される。

河田次郎…『お前は奥州藤原氏の恥晒(はじさら)しで、疫病神で邪魔者なんじゃ〜!』

バサッ バサッバサッ

藤原泰衡…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

1189年、ここにて名門家と言われた奥州藤原氏が滅亡する。

河田次郎(かわたじろう/奥州藤原氏)は第4代奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらやすひら/奥州藤原氏)の首級(しきゅう)を持参して、奥州藤原氏の当主を討った褒美を貰いに源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に伺うも・・・

源頼朝…『主君への謀反(むほん)は、斬首に値する。』

河田次郎(かわたじろう/奥州藤原氏)は褒美をもらうどころか、その場で斬首される。

この時、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、父親の源義朝(みなもとよしとも/朝廷→源氏)が1160年に起こった「平治の乱」(へいじのらん)にて、逃亡先だった尾張国(愛知県)の知多半島の野間(のま)で家臣により裏切られ入浴中に討死したのを重ね合わせたのかも知れない。

これより鎌倉で武家社会となる源氏から北条氏まで、1180年〜1219年までが大倉幕府(おおくらばくふ)、1225年〜1236年までが宇都宮辻子幕府(うつのみやずしばくふ)、1236年〜1333年までが若宮大路幕府(わかみやおおじばくふ)が続く事になる。

1689年の江戸時代、松尾芭蕉(まつおばしょう/俳人)が奥州平泉を訪れてた際に「奥の細道」(おくのほそみち)にて、こう俳句を詠む。

松尾芭蕉…『夏草や、兵(つわもの)どもが、夢のあと。』

MAT KEARNEY /♪ HEY MAMA

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:57:22

◆◇◆其の百十五:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

●1192年 《武士の時代》

『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。』

1160年前後の平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)が率いる平氏が栄えた時勢を記した“平家物語”は誰が作者か分かっていないが、語り継がれた“平家物語”(へいけものがたり)が1200年頃に書物になったと言われる。

更に1350年頃、琵琶法師(びわほうし/盲目僧侶)の明石覚一(あかしかくいち)こと覚一検校(かくいちけんぎょう/僧侶)が“平家物語”(へいけものがたり)を筆録している。

『驕(おご)る平家は、久しからず。』

平氏の滅亡により、1185年に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、相模国(神奈川県)の鎌倉に鎌倉幕府を創設した。

これにより畿内(関西)以外の東国での政権が初めて発足し、いい(11)箱(85)作ろう鎌倉幕府となる。

第77代天皇だった後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の薨御(こうぎょ)に併せて、1192年に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が征夷大将軍1代目に就任する。

大和国(奈良県)の吉野山で愛しの源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と別れた後に、静御前(しずかごぜん/源氏)は平安京の役人に拘束されて、相模国(神奈川県)の鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の元に護送された。

大倉御所(おおくらごしょ)に連行された静御前(しずかごぜん/源氏)は、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と妻の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)と初めて顔を会わした。

平安京で舞妓をして屈指の白拍子(しらびょうし)と呼ばれた静御前(しずかごぜん/源氏)の評判は、この相模国(神奈川県)の鎌倉にも届いていた。

北条政子…『静(しずか)ちゃんの白拍子(しらびょうし)の舞は、とても優雅で気品溢れると東国でも評判ですのよぉん。 今度、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で祭典があるので、その素晴らしい白拍子(しらびょうし)の舞を演じてもらえないかしらぁん!』

源頼朝…『おおっ、それは是非(ぜひ)とも観てみたいものだなぁ〜』

静御前…『はい、分かりました。』

こうして静御前(しずかごぜん/源氏)は、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で白拍子(しらびょうし)を舞う事となる。

静御前…『♪しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に 成すよしもがな〜』⦅倭文(しず)の布を織る、麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから、糸が繰り出される様に、たえず繰り返しつつ、どうか、昔を今にする方法があるなら。⦆

静御前…『♪吉野山 峰の白雪 踏みわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき〜』⦅吉野山の峰の白雪を踏み分けて、姿を隠していったあの人(源義経)の跡(あと)が恋しい。⦆

この唄の内容に気付いた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、顔を真っ赤にして怒り心頭に発した。

静御前(しずかごぜん/源氏)は、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が観覧する面前で、敵対した源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を今でも愛して、その恋しさを唄い舞った。

源頼朝…『よくも抜け抜けとぉ〜〜 誰かぁ〜 此奴(こやつ)を打首にせぇ〜い! 今直(います)ぐ打首にせぇ〜い!』

北条政子…『あんたぁは何を抜かしとぉんねぇん! ヨリ(源頼朝)とマコ(北条政子)の出逢いを思い出してみぃ! 源氏の嫡男(ちゃくなん)と平氏軍の北条氏の娘やぁでぇ、本来ならあり得ない結婚やぁ! それを乗り越えられたのは、2人の愛が大きかったからやぁないのぉ! 牛若(うしわか)君を想う静(しずか)ちゃんの気持ちも同じやぁでぇ! 愛は地球よりも大きく、宇宙よりも広いねぇんでぇ!』

源頼朝…『ウッウッウッ〜 あの時のマコ(北条政子)との出逢いと、今の静(しずか)ちゃんの気持ちを感じたら、涙が出てきた。 ウワァ〜〜ン ワァンワァン ウワァ〜〜ン〜』

北条政子…『そこまで大袈裟(おおげさ)に泣く事でもないけどなぁ。』

静御前…『男の号泣(ごうきゅう)、ちょっとドン引きぃ!!』

その後、静御前(しずかごぜん/源氏)は既に源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の子供を身籠っており、出産したのが男の子だったため、将来の報復を恐れた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、その赤子(あかご)を相模湾の由比ヶ浜の海に沈めてしまった。

静御前…『嫌ぁ〜 離してぇ〜 私の赤ちゃんを返してぇ〜〜』

源頼朝…『このシチュエーション、何処(どこ)かで見た覚えがあるなぁ。』

そうです、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が、1160年に伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)に流刑になった時に、伊東の武将で平氏に仕える伊東祐親(いとうすけちか/平氏)の娘の八重姫(やえひめ/平氏→源氏)と恋仲になり、若気のハッスルで千鶴御前(せんつるごぜん/源氏)が誕生した。

それを知った父親の伊東祐親(いとうすけちか/平氏)は、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と娘の八重姫(やえひめ/平氏→源氏)の息子の千鶴御前(せんつるごぜん/源氏)を取り上げて、伊豆半島の中央部にある河津七滝(かわづななだる)に沈めた過去があった。

今回の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と静御前(しずかごぜん/源氏)の赤子(あかご)が約150年後に、“龍神”となって相模湾の稲村ヶ崎の海に現れ、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)に鎌倉幕府の滅亡への神力を与える。

1199年、馬に乗っていた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は落馬して、そのまま帰らぬ人となる。

馬で崖地をも降る乗馬上手だった源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の“怨念”であろうか。

征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が跡目を継ぐ。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に信用信頼され寵愛を受けてきた梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)だが、主君の死後は鎌倉幕府での立ち位置が悪くなり、13人の合議制のメンバーで和田義盛(わだよしもり/鎌倉)や三浦義澄(みうらよしずみ/鎌倉)の息子の三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)など御家人の60人近くに更迭(こうてつ)する様に直訴を受けて罷免(ひめん)された。

これを1199年に起こった「梶原景時の変」(かじわらかげときのへん)と呼ぶ。

これを受けて反論する事なく梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)は、梶原一族と共に相模国(神奈川県)の一ノ宮(いちのみや/寒川)に移住して、鎌倉幕府の退職金で海の見える三世帯戸建住宅を建てた。

時は過ぎた1200年に、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)は、息子の兄の梶原景季(かじわらかげすえ/源氏)の家族と、弟の梶原景高(かじわらかげたか/源氏)の家族で、京都の平安京や奈良の平城京を巡る観光旅行に出掛けた。

東海道を西方に進み駿河国(静岡県)の清見関(きよみがせき/清水)で休息している時に、鎌倉幕府から送られた刺客で吉川友兼(きっかわともかね/鎌倉)が率いる影の軍団に襲撃され、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)など梶原一族は討死して滅亡した。

吉川友兼(きっかわともかね/鎌倉)とは、藤原氏南家(なんけ)の吉川氏(きっかわうじ)の系統で、1189年に起こった「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)で源氏軍として参戦して活躍して、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)の一族を討伐する際に返り討ちに遭い死去した。

元は平氏軍の武士だった梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)の最期(さいご)の地が、1180年に起こった「石橋山の戦」(いしばしやまのたたかい)で敗走した源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を助けた相模国(神奈川県)の湯河原の山中にある鵐窟(しとどのいわや)と言う洞窟の近隣地域だったのは、不思議な縁である。

偉大な父親の後目を引き継いだ征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、鎌倉幕府の統率力に欠けていたため、後見人として比企能員(ひきよしもり/鎌倉)が力を強めた。

これに反発した北条政子(ほうじょうまさこ/鎌倉)の父親の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)により、比企能員(ひきよしもり/鎌倉)は征伐(せいばつ)された。

征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の長男で家督を継ぐ予定だった一幡(いちまん/鎌倉)も、母親が比企能員(ひきよしもり/鎌倉)の娘だった為に幼くして殺害された。

これを1203年に起こった「比企能員の乱」(ひきよしもりのらん)と呼ぶ。

この不祥事により征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、1204年に伊豆国(静岡県)の修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され、その後に暗殺される。

征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の有力家臣だった畠山重忠(はたけやましげただ/源氏)にも無能さにより見切られていた。

これを利用した北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の謀略(ぼうりゃく)により、息子の北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)の軍隊を仕向け畠山重忠(はたけやましげただ/源氏)は一族諸共に討伐される。

これを1205年に起こった「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)と呼ぶ。

征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の弟で、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)が跡目を継ぐ。

その間に北条氏(ほうじょううじ)を中心とした“13人の合議制”が採られる。

ただ、実質的に北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)と北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)が実権を握り独裁的になっていたため、13人の合議制のメンバーで御家人の和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)などが反発する。

和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)と三浦義澄(みうらよしずみ/平氏→源氏→鎌倉)の息子の三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)は、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の息子で鶴岡八幡宮で働いていた公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)に、北条氏(ほうじょううじ)一族の内幕を暴露する。

怒りに震える公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)は、1219年の冬の寒い夜更けに、右大臣就任祝いのため鶴岡八幡宮へ参拝に来た征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)を暗殺する。

この時に同行していた北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)も暗殺する計画だったが、事前に暗殺計画を察知していた北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)は保身して助かる。

必殺仕事人を成し遂げた公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)は、三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)を頼って屋敷に向かうが、北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)の報復を恐れた三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)は公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)を暗殺する。

その後も、三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)は同志の和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)に責任を擦り付けて暗殺するも、鎌倉幕府の手によって抹殺される。

結果的に北条氏(ほうじょううじ)の源氏討伐は、これにより達成された事になる。

ここから鎌倉幕府は北条氏(ほうじょううじ)の時代となる。

TOAD THE WET SPROCKET /♪ GOOD INTENTIONS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:58:14

◆◇◆其の百十六:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

奈良時代から大和国(奈良県)の平城京から、794年に第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)が推進して山城国(京都府)の平安京に遷都(せんと)された。

その後、平安京は鎌倉時代が始まる1185年までの391年間、次の鎌倉幕府は室町時代が始まる1338年までの158年間、次の室町幕府は1573年の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)が京都追放された235年間、この間に戦国時代を挟んで、次の江戸幕府は1603年から“明治維新”(めいじいしん)が起こった1868年までの265年間まで続いた。

この794年〜1868年の1074年間、政治拠点を鎌倉や江戸の東国に移転した事はあっても、天皇の内裏(だいり)や禁中(きんちゅう)や御所は京都に置いたままである。

此(こ)れは何故(なぜ)か?

其(そ)の理由を知る前に、“平安五大怨霊”を知る必要がある。

785年に起こった「藤原種継暗殺事件」(ふじわらたねつぐあんさつじけん)により、暗殺事件の首謀者にされた冤罪(えんざい)で断食自害した早良親王(さわらしんのう/朝廷)。

901年に起こった「昌泰の変」(しょうたいのへん)により、公家の讒言(ざんげん)により京都の平安京から九州の筑前国(福岡県)の太宰府(だざいふ)に左遷された菅原道真(すがわらみちざね/公家)。

940年に起こった「平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)により、常陸国(ひたち/茨城県)を中心に東国の新王(しんおう)になり朝廷に討伐された平将門(たいらまさかど/朝廷→常陸)。

1084年に起こった「三井寺戒壇の怨念」(みいでらかいだんのおんねん)により、第72代天皇の白河天皇(しらかわてんのう/朝廷)の子宝祈願の恩賞を受けられなかったとして、断食自害で鉄鼠(てっそ/妖怪)に化けた頼豪(らいごう/僧侶)。

1156年に起こった「保元の乱」(ほうげんのらん)により、1164年に流刑地の讃岐国(香川県)で兄の第75代天皇だった崇徳上皇(すとくじょうこう/朝廷→上皇)は薨御(こうぎょ)するも、弟で第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷→天皇)は朝廷や皇室として葬儀を催さなかった。

この“平安五大怨霊”は、これら方々が怨霊になった訳ではなく、不憫(ふびん)に思った平安京の悪霊や怨霊などのエイリアンが代わりに征伐しているだけである。

平安京の悪霊や怨霊などのエイリアンは、征伐の依頼があれば、気に入らない奴を大阪府でも兵庫県でも、何処(どこ)へでも行く。

此(こ)れ以外でも、京都の平安京をはじめ日本全国では、常識や科学では説明できない複雑怪奇(ふくざつかいき)な出来事が起こっており、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の仕業(しわざ)と思われている節(ふし)もある。

京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)う悪霊や怨霊などのエイリアンに対抗して、陰陽師(おんみょうじ)やシャーマン(呪術師)により、悪霊や怨霊などのエイリアンを封印してきた。

此(こ)れは飛鳥時代の藤原京、奈良時代の平城京、平安時代の平安京と、遷都(せんと)を繰り返す度(たび)に、悪霊や怨霊などのエイリアンを封じる儀式を催している。

その封印した地上に天皇が居住する内裏(だいり)や禁中(きんちゅう)や御所が置かれている。

もし、内裏(だいり)など皇居を違う場所に移転する際には、必ず陰陽師(おんみょうじ)やシャーマン(呪術師)により、悪霊や怨霊などのエイリアンを封印する儀式を開催しなければならない。

此(こ)の封印儀式は複雑で大掛かりになる為に、鎌倉幕府や江戸幕府が政権運営を東国で司った時も、内裏(だいり)など皇居は京都に置いたままだった理由である。

天皇家により悪霊や怨霊などのエイリアンを京都に封じ込めていた。

しかしである。

“明治維新”(めいじいしん)を敷いた日本新政府は、天皇の皇居を移住する遷都(せんと)に伴う、悪霊や怨霊などのエイリアンを封じ込める儀式を催したのだろうか?

この悪霊や怨霊などのエイリアンを封じ込める儀式を開催していなければ、悪霊や怨霊などのエイリアンが封印を解かれて地上に出て、日本各地に棲(す)み着き漂(ただよ)う事になる。

特に八百万死神(ヤオヨロズノシニガミ)は、京都の平安京から淀川を下って大阪まで行き、此(こ)の土地に棲(す)み着き漂(ただよ)う悪霊や怨霊などのエイリアンが特に多い。

大阪府の人口から見れば、1人に1霊のエイリアンが取り憑(つ)ける数の多さである。

“明治維新”(めいじいしん)以後の太平洋戦争や大震災が起こった日本の現状を見れば、悪霊や怨霊などのエイリアンを封じ込める儀式を開催していない可能性が大きい。

京都に封印されていた悪霊や怨霊などのエイリアンは、江戸時代後の“明治維新”(めいじいしん)で解き放たれ、日本全国に漂流してそこの領民を地獄に引き摺(ず)り落としている。

まあ、“いしん”を掛けた国策だったから、結果はどうあれ仕方ないですけどね。

ドンマイ、ドンマイ。

IAN MCCULLOCH /♪ MAGICAL WORLD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:59:07

◆◇◆天皇と将軍:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

平安時代から鎌倉時代への移り変わりの時、天皇や朝廷はどう変化していたのか?

先(ま)ず、平安時代末期の天皇と言えば第74代天皇の鳥羽天皇(とばてんのう/朝廷)の息子で雅仁親王(まさひとしんのう)が、1155年に第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷→天皇)として即位(そくい)した。

この時に1156年の「保元の乱」(ほうげんのらん)が起こる。

その後、息子の守仁親王(もりひとしんのう)が、1158年に第78代天皇の二条天皇(にじょうてんのう/朝廷)として譲位(じょうい)し、後白河上皇(ごしらかわじょうこう/朝廷)となり院政(いんせい)を司り、その後に後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)となる。

この時に1160年の「平治の乱」(へいじのらん)が起こる。

その後、息子の順仁親王(のぶひとしんのう)が、1165年に第79代天皇の六条天皇(ろくじょうてんのう/朝廷)として3歳で譲位(じょうい)する。

その後、第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷→天皇)の息子の憲仁親王(のりひとしんのう)が、1168年に第80代天皇の高倉天皇(たかくらてんのう/朝廷)として譲位(じょうい)する。

この時に1177年の「鹿ヶ谷の陰謀」(ししがたにのいんぼう)、1179年の「治承三年の政変」(じしょうさんねんのせいへん)が起こる。

その後、息子の言仁親王(ときひとしんのう)が祖父の平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)の意向により、1180年に第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)として譲位(じょうい)する。

この時に1180年の「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょうじ)、1180年の「富士川の戦」(ふじがわのたたかい)、1181年の「南都焼討」(なんとやきうち)が起こる。

その後、第80代天皇の高倉天皇(たかくらてんのう/朝廷)の息子の尊成親王(たかひらしんのう)が、祖父の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の意向により1183年に第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)として譲位(じょうい)する。

この時に1184年の「宇治川の戦」(うじがわのたたかい)、1184年の「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)、1185年の「屋島の戦」(やしまのたたかい)、1185年の「壇ノ浦の戦」(だんのうらのたたかい)の「源平合戦」(げんぺいがっせん)が起こる。

そして、1185年に鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)が認可されて鎌倉時代に入る。

その後、息子の為仁親王(ためひとしんのう)が、1198年に第83代天皇の土御門天皇(つちみかどてんのう/朝廷)として譲位(じょうい)し、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)となり院政(いんせい)を司る。

鎌倉幕府が開設された時も、朝廷の実権は後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が握っており、1155年の天皇の就任から1192年の薨御(こうぎょ)まで37年間も政権運営を司っていた。

こうして日本の政権が畿内(きない/関西)の京都から東国の鎌倉に移り、大倉御所(おおくらごしょ)で源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)や北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)などによる政治運営が本格的に開始された。

この時に鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)が京都の朝廷に突き付けた要求が、平安京の公家組織を幕府に反抗する者は更迭(こうてつ)し、幕府に協力する者を採用する人事介入だった。

この時の朝廷の摂関政治を担っていたのが反幕府派の近衛基通(このえもとみち/公家)だった為に、大倉幕府(おおくらばくふ)の圧力で親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)に置き換えられた。

近衛基通(このえもとみち/公家)とは、藤原氏北家(ほっけ)の五摂家(ごせっけ)の近衛家(このえけ)で、摂政や関白を歴任した人物である。

九条兼実(くじょうかねざね/公家)とは、藤原忠通(ふじわらただみち/公家→天皇)の息子で、藤原氏北家(ほっけ)の五摂家(ごせっけ)の九条家の嫡流(ちゃくりゅう)である。

この藤原忠通(ふじわらただみち/公家→天皇)とは、藤原忠実(ふじわらただざね/公家)の息子で、摂関家は関白に就任して、1156年に起こった「保元の乱」(ほうげんのらん)では第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷→天皇)の陣営に就いて、第75代天皇だった崇徳上皇(すとくじょうこう/朝廷→上皇)の陣営に就いた摂関家は左大臣で弟の藤原頼長(ふじわらよりなが/公家→上皇)と対立した人物である。

また、藤原氏の近衛家(このえけ)や九条家と言うのは、飛鳥時代の645年に起こった「大化の改新」(たいかのかいしん)で中大兄皇子(なかのおおえのみこ)こと第38代天皇の天智天皇(てんぢてんのう)と一心同体で政治改革に取り組んだ藤原鎌足(ふじわらかまたり)こと中臣鎌足(なかとみかまたり/公家)が事初めである。

其処(そこ)から奈良時代から続く藤原鎌足(ふじわらかまたり)こと中臣鎌足(なかとみかまたり/公家)の息子で、藤原四子(ふじわらしし)と呼ばれる藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ/公家)の南家(なんけ)、藤原麻呂(ふじわらまろ/公家)の京家(きょうけ)、藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)、藤原宇合(ふじわらうまかい/公家)の式家(しきけ)が、朝廷の政治実権を握る様になる。

此処(ここ)から平安時代に入ると第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)の息子で第51代天皇の平城天皇(へいぜいてんのう/朝廷)が、弟の第52代天皇の嵯峨天皇(さがてんのう/朝廷)に皇位を譲位(じょうい)して、平城上皇(へいぜいじょうこう/朝廷)になった事に、側近だった藤原種継(ふじわらたねつぐ/公家)の子供の藤原仲成(ふじわらなかなり/公家)と藤原薬子(ふじわらくすこ/公家)が優雅な生活が出来なる事に憤慨(ふんがい)して、都(みやこ)を勝手に大和国(奈良県)の平城京に戻して遷都(せんと)した。

ある意味、806年に起こった「元祖・南北朝時代」である。

この朝廷の騒動で先手を打ったのは嵯峨天皇(さがてんのう/朝廷)で、側近として藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)の系統の藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ/公家)を、天皇の秘書として蔵人頭(くろうどとう)に勅命(ちょくめい)する。

更(さら)に初代の征夷大将軍に就任していた坂上田村麻呂(さかうえたむらまろ/公家)を将軍に勅命(ちょくめい)した。

坂上田村麻呂(さかうえたむらまろ/公家)が率いる嵯峨軍は、大和国(奈良県)の平城京に布陣する平城軍を総攻撃して敗退させる。

これにより平城上皇(へいぜいじょうこう/朝廷)は出家して僧侶となり平城法皇(へいぜいほうおう/朝廷)に就いた。

藤原薬子(ふじわらくすこ/公家)は逃れられないと思い服毒して自害する。

藤原仲成(ふじわらなかなり/公家)は拘束され護送される途中に斬殺される。

これを810年に起こった「薬子の変」(くすこのへん)と呼ぶ。

此処(ここ)まで理解した上で、何故(なぜ)に藤原氏北家(ほっけ)が朝廷で重用されるのかが解る。

この藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ/公家)が天皇の秘書を務める蔵人頭(くろうどとう)に就任したのが事初めである。

この後、藤原氏北家(ほっけ)は五摂家(ごせっけ)に別けられ、近衛家(このえけ)、一条家、九条家、鷹司家(たかつかさけ)、二条家が朝廷では主体となる。

更(さら)に公家の七清華家(しちせいがけ)は、三条家、西園寺家(さいおんじけ)、徳大寺家、久我家(こがけ)、花山院家(かさんのいんけ)、大炊御門家(おおいのみかどけ)、菊亭家(きくていけ)と、庶流(しょりゅう)に分離されていく。

此処(ここ)まで理解できたなら、一気に鎌倉時代まで戻す。

平安京の朝廷の摂関(せっかん)が、反幕府派の近衛基通(このえもとみち/公家)から親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)になり、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)は益々(ますます)に政治実権を強める事になる。

この時にもう1つ、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)は平安京の朝廷に要求した事があった。

それは1185年に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)へ謀反(むほん)を企てた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源行家(みなもとゆきいえ/源氏)を、全国指名手配して討伐する際に日本各地に領国を統治する警備拠点の守護(しゅご)と、守護(しゅご)の維持費の租税を課す役所の地頭(じとう)を設置する事である。

この大倉幕府(おおくらばくふ)の要求も、朝廷は何なりと承諾した。

1189年に陸奥国(むつ/岩手県)の平泉で弟の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)も自決して、「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)で東北地方を統治していた奥州藤原氏も滅亡させ、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が司る大倉幕府(おおくらばくふ)には、向かう処(ところ)敵無しとなった

此処(ここ)で、抗争する敵方も滅亡して、“鎌倉幕府構想”もようやく具現化した頃合いを見て、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は京都の平安京に行脚(あんぎゃ)する決意をする。

これを1190年に実行した「源頼朝上洛」(みなもとよりともじょうらく)と呼ぶ。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が率いる鎌倉幕府団は平安京で後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)と謁見(えっけん)した。

鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)から朝廷に対しての要求は、日本各地に設けた守護(しゅご)と地頭(じとう)を永続的な機関として残しておく事だった。

此(こ)れに対して後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)と朝廷は、守護(しゅご)と地頭(じとう)の継続を承認した。

此(こ)れで源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、朝廷が設置した守護(しゅご)と地頭(じとう)を大倉幕府(おおくらばくふ)に取り込む事に成功した。

この会合の後、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、朝廷の摂関(せっかん)で親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)とも面談している。

源頼朝…『お初にお目に掛かります。』

九条兼実…『いやいや、此方(こちら)こそどうぞ、宜しく御頼申します。』

源頼朝…『では早速、あの欲ボケした老いぼれた爺さん(後白河法皇)はいずれ亡(いな)くなる。 その時は、私が鎌倉の大倉御所(おおくらごしょ)で、九条兼実(くじょうかねざね/公家)殿は京都の平安京で、お互いに協力し合って2本柱で日本を支えて行きましょう。』

九条兼実…『おおっ〜 私もそれを夜な夜な祇園の高級クラブで、美味しいブランデーのヘネシーを嗜(たしな)み美女に囲まれながら、思案していたでごじゃるよぉ! どうです? 今夜あたりでも一緒に? 良い店ありますよぉ〜 あっ!? お嫌いどぉすか?』

源頼朝…『お好きどぉす。』

夜の祇園で豪遊して大満足で鎌倉に帰還した源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と鎌倉幕府団。

その後、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と九条兼実(くじょうかねざね/公家)の思惑通りに、1192年に後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が62歳で薨御(こうぎょ)する。

SAVAGE GARDEN /♪ THE ANIMAL SONG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 18:59:57

◆◇◆天皇と将軍:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

1192年に後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が薨御(こうぎょ)したタイミングで、朝廷の摂関(せっかん)で親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)は、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に対して征夷大将軍を任命する。

此(こ)れによりイイクニを創る鎌倉幕府が名実共に認知される。

平安京の朝廷では、摂関(せっかん)で親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)が公家組織に強い影響力を持ち、更に藤原忠通(ふじわらただみち/公家→天皇)の息子で弟の慈円(じえん/公家→僧侶)が、天台宗(てんだいしゅう)の天台座主(てんだいざす)に就任した。

天台座主(てんだいざす)とは、近江国(滋賀県)の比叡山に建つ延暦寺(えんりゃくじ)の住職で、要はお寺の一番に偉い和尚さん。

宗祖の伝教大師(でんぎょうだいし)こと最澄(さいちょう/天台宗)の教えを伝承する役目を担っている。

また、同じ兄弟の藤原兼房(ふじわらかねふさ/公家)も居り、政治的な才覚が無かったが、藤原氏北家(ほっけ)と言う事もあり一応はそれなりの役職に就かせてもらった。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、統治の手薄だった中国、四国、九州にも守護(しゅご)と地頭(じとう)の増設に注力して、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)による日本列島の支配領域を拡大させた。

此処(ここ)までは、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)と京都の朝廷は良好な関係を築けていた。

ところが・・・

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の息子の源義高(みなもとよしたか/源氏)と結婚の契(ちぎ)りを交わしていた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の娘の大姫(おおひめ/鎌倉)は、1184年に源義高(みなもとよしたか/源氏)の暗殺により乙女の夢を絶たれ、絶望と傷心で起き上がれない程の病(やまい)を発症した。

そんな悲劇のお姫様である大姫(おおひめ/鎌倉)に対して、気遣いの出来ない父親の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)と婚約させる入内(じゅだい)させようと試みる。

完全に政略結婚である。

しかし、この時の平安京の朝廷では、院政(いんせい)による後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が、全ての実権を掌握(しょうあく)していた。

しかも、この後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)を影で操っていたのが愛妾(あいしょう)だった丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)である。

丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)とは、元は平業房(たいらなりふさ/平氏)の妻だったが、夫が処刑された後に後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の愛妾(あいしょう)となった女帝である。

夫の平業房(たいらなりふさ/平氏)は伊勢平氏の系統で、1179年に起こった「治承三年の政変」(じしょうさんねんのせいへん)で流刑になるも脱走して、平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の命令を受けて平宗盛(たいらむねもり/平氏)に処刑される。

丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)との間に娘の覲子内親王(きんしないしんのう/朝廷)を産んでいる。

此処(ここ)で鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、影の女帝である丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)に近付く。

しかし、反幕府派の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)と言う事は、丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)も当然に反幕府派である。

反幕府派の丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)は、接近して来た源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を、逆に利用して手玉に取る。

先(ま)ず、朝廷の摂関(せっかん)に就く親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)の排除に、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を利用した。

この時、親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)の娘の九条任子(くじょうたえこ/公家→朝廷)は、第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)の妻で中宮(ちゅうぐう)に嫁(とつ)いでいた。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)としては、娘の大姫(おおひめ/鎌倉)を第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)と婚約させる入内(じゅだい)する思惑がある為に、親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)とは皇室争いでライバル関係となる。

この状況から大倉幕府(おおくらばくふ)の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)の関係性は悪化していく。

鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の後ろ盾を無くした親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)は、反幕府派の丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)の圧力により朝廷の摂関(せっかん)の地位を失い罷免(ひめん)された。

しかも、反幕府派の丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)は、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が待望していた娘の大姫(おおひめ/鎌倉)を、第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)と婚約させる入内(じゅだい)させる話しも潰してしまう。

鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、女の強(したた)かさに翻弄(ほんろう)され、嫁の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)だけでなく、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の愛妾(あいしょう)の丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)にも、女の怖さを思い知らされる。

これを1191年に起こった“大姫入内政略”(おおひめじゅだいせいりゃく)と呼ぶ。

この後、平安京の朝廷を掌握(しょうあく)したのは反幕府派の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の影の女帝であるの丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなえいし/平氏→朝廷)と、同じく村上源氏の系統で右大将に就いた反幕府派の土御門通親(つちみかどみちちか)こと源通親(みなもとみちちか/源氏→公家)である。

土御門通親(つちみかどみちちか)こと源通親(みなもとみちちか/源氏→公家)の養女に入った源在子(みなもとありこ/源氏→朝廷)は、第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)の妻となり、第83代天皇の土御門天皇(つちみかどてんのう/)の母親となる。

1198年に第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)と源在子(みなもとありこ/源氏→朝廷)の息子の為仁親王(ためひとしんのう)が、第83代天皇の土御門天皇(つちみかどてんのう/朝廷)として譲位(じょうい)し、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)となり院政(いんせい)を司る。

しかも、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)では、1197年に病を克服する事なく19歳で大姫(おおひめ/鎌倉)が、愛する源義高(みなもとよしたか/源氏)の元に旅立った。

更(さら)に悲劇は続き1199年に落馬した源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は52歳で生涯を閉じた。

この状況は1185年に鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)を開設してから最大の危機となる。

SCRITTI POLITTI /♪ THE WORD GIRL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:00:49

◆◇◆天皇と将軍:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

世襲(せしゅう)で息子の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が征夷大将軍2代目に就任したが、生まれも育ちも苦労知らずのお坊ちゃんの為に、大倉幕府(おおくらばくふ)では実権を執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)を中心とした13人の合議制に移行する。

この後、北条氏(ほうじょううじ)の他氏排斥(たしはいせき)などにより、有力な御家人が滅亡していった。

正(まさ)にこの鎌倉時代初期は、平安時代初期の藤原氏北家(ほっけ)を彷彿(ほうふつ)とさせていた。

歴史は繰り返し、人間と言う生き物には学習能力が欠落している証拠を露呈する。

一方、京都の朝廷にも変動があり、1202年に摂関(せっかん)で第83代天皇の土御門天皇(つちみかどてんのう/朝廷)の外戚(がいせき)で祖父の土御門通親(つちみかどみちちか)こと源通親(みなもとみちちか/源氏→公家)が死去する。

これで政権運営の実権を後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)の院政(いんせい)が完全に掌握(しょうあく)する。

1204年に征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)も実質的に暗殺され、弟の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)が征夷大将軍3代目に就任した。

この征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)は、兄よりも輪を掛けて政治に興味が無く、和歌や蹴鞠(けまり)など平安京の公家か貴族の様な振る舞いをしていた。

挙げ句の果てには、大倉幕府(おおくらばくふ)が敵対する反幕府派の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)に対して称賛(しょうさん)する和歌まで詠んでいる。

平安京の朝廷にとって、こんな可愛い征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)に、ご褒美として坊門信子(ぼうもんのぶこ)こと西八条禅尼(にしはちじょうぜんに/公家→鎌倉)を嫁がせた。

坊門信子(ぼうもんのぶこ)こと西八条禅尼(にしはちじょうぜんに/公家→鎌倉)とは、坊門信清(ぼうもんのぶきよ/公家)の娘である。

その坊門信清(ぼうもんのぶきよ/公家)とは、藤原氏北家(ほっけ)の坊門氏(ぼうもんうじ)で第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)の祖父にあたる。

その坊門信清(ぼうもんのぶきよ/公家)のもう1人の娘に藤原殖子(ふじわらしょくし/公家→朝廷)が居り、第80代天皇の高倉天皇(たかくらてんのう/朝廷)の妻で、第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)の母親にあたる。

こんな朝廷に飼い慣らされた征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)は、1219年に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で催された右大臣に就任した式典で、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の息子の公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)に暗殺される。

銀杏(イチョウ)の大木に隠れていた公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)は、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)を見るや飛び出して、こう叫んだ。

公暁…『親の仇(かたき)はかく討つぞぉ!』

バサッ バサッバサッ

源実朝…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

公暁…『我こそは公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)なるぞぉ! 父の仇(かたき)を討ち取ったりぃ!!』

この状況は1185年に鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)を開設してから2度目の最大の危機である。

征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)は嫡男(ちゃくなん)を残さずに死去した為に源氏の棟梁が不在となり、これにて河内源氏の系統が途絶える事になる。

取り敢えず母親の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)が、暫定的に征夷大将軍に就任して尼将軍(あましょうぐん)となる。

鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は、この難局を御家人の合議制で乗り切ろうとする。

次期の征夷大将軍を武家や御家人から就任させると、再び権力闘争が勃発して大倉幕府(おおくらばくふ)自体が滅亡する。

その為に外部から征夷大将軍の適任者を招聘(しょうへい)する事が決まった。

其処(そこ)で執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は、京都の朝廷に対して征夷大将軍の人材派遣を依頼した。

この鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の劣勢を、京都の朝廷で喜んで見ていた反幕府派の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)は、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)に対して締め付けを強化していく。

京都の朝廷は、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の征夷大将軍の人材派遣の要求を飲む前に、試(ため)しに源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の調略で日本各地に設置した、領国を統治する警備拠点の守護(しゅご)と、守護(しゅご)の維持費の租税を課す役所の地頭(じとう)の廃止を要求した。

この朝廷の要求は、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)に取って存続の致命傷となる。

日本各地の守護(しゅご)や地頭(じとう)の所領は大倉幕府(おおくらばくふ)の御家人が担っている。

その守護(しゅご)や地頭(じとう)を廃止すれば、御家人の領国を取り上げる事を意味する。

大倉幕府(おおくらばくふ)は鎌倉殿(かまくらどの)から御家人(ごけにん)に、領国の統治を認める“本領安堵”(ほんりょうあんど)や、領地拡大を与える“新恩給与”(しんおんきゅうよ)などの御恩(ごおん)と、御家人(ごけにん)から鎌倉殿(かまくらどの)に対して、領国の警備や防衛、合戦の時には戦地に赴(おも)く奉公(ほうこう)から成る。

鎌倉殿(かまくらどの)は荘園公領制(そうえんこうりょうせい)により地方の御家人(ごけにん)に地頭(じとう)として土地の収容権限を与え、毎年の年貢(ねんぐ)を幕府に収める事を条件とする。

この仕組みが根底から崩壊する。

当然に鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は飲めない条件として、朝廷の要求を断る。

其処(そこ)で執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は、親幕府派の藤原氏北家(ほっけ)の五摂家(ごせっけ)の九条家から九条頼経(くじょうよりつね)こと藤原頼経(ふじわらよりつね/公家→鎌倉)を迎入れて征夷大将軍4代目に就任させた。

ただし、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の政権運営の不安定は変わりなく、この好機を京都の朝廷では反幕府派の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)が“鎌倉幕府討伐”を虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。

それが1221年に起こる「承久の乱」(じょうきゅうのらん)に繋がっていく。

BRAD DELP & BARRY GOUDREAU /♪ ROCKIN' AWAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:01:40

◆◇◆征夷大将軍1代目の源頼朝:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

西国を中心に1180年〜1185年まで繰り広げられた「源平合戦」(げんぺいがっせん)が終結し、1189年には弟の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)も死去して、「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)で東北地方を統治していた奥州藤原氏も滅亡させた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、向かう処(ところ)敵無しとなった。

鎌倉源氏軍が力戦奮闘してくれたお陰で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に引き篭(こ)もり、“鎌倉幕府構想”に集中する事ができた。

この“鎌倉幕府構想”は、今までの朝廷が政権運営してきた仕組みを根底から覆(くつがえ)して、武家社会による独立した政権運営を目指して、天皇や朝廷から切り離す事を試(こころ)みていた。

それが幕府であり、武士だった御家人や旗本を投与して幕閣(ばっかく)に入閣させて、政所(まんどころ)、問注所(もんちゅうじょ)、侍所(さむらいどころ)を設けて人事を配置した。

この鎌倉で思案された幕府の組織は主に3要所で政権運営を担う事を想定している。

公文所(くもんじょ)または政所(まんどころ)は政治を司(つかさど)る。

政所(まんどころ)別当(べっとう)には、奈良時代から続く土師氏(はじうじ)から清原氏となった系統の中原氏から庶流(しょりゅう)した大江氏で、朝廷に仕える貴族だった大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)が就任し、中原親能(なかはらちかよし/公家→鎌倉)の弟である。

問注所(もんちゅうじょ)は裁判を扱う。

問注所(もんちゅうじょ)別当(べっとう)には、京都の平安京に居た源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の幼少期からの親友で、朝廷に仕える貴族だった三善康信(みよしやすのぶ/公家→鎌倉)が就任した。

侍所(さむらいどころ)は武士を扱う。

侍所(さむらいどころ)別当(べっとう)には、“平氏討伐”の挙兵から源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に仕える三浦氏の庶流(しょりゅう)で和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)が就任した。

ここから執権(しっけん)による“13人の合議制”や御成敗式目(ごせいばいしきもく/武家規律)が誕生する。

そして封建制度も制定して、幕府による戦(いくさ)の時は、地方武士が援軍する事になる。

執権は北条氏が担い、源氏は将軍の鎌倉殿(かまくらどの)となり、幕府からの御恩(ごおん)と、御家人(ごけにん)から奉公(ほうこう)とを与え合う主従関係となる。

鎌倉殿(かまくらどの)から御家人(ごけにん)に、領国の統治を認める“本領安堵”(ほんりょうあんど)や、領地拡大を与える“新恩給与”(しんおんきゅうよ)などの御恩(ごおん)と、御家人(ごけにん)から鎌倉殿(かまくらどの)に対して、領国の警備や防衛、合戦の時には戦地に赴(おも)く奉公(ほうこう)から成る。

鎌倉殿(かまくらどの)は荘園公領制(そうえんこうりょうせい)により地方の御家人(ごけにん)に地頭(じとう)として土地の収容権限を与え、毎年の年貢(ねんぐ)を幕府に収める事を条件とする。

抗争する敵方も滅亡して、“鎌倉幕府構想”もようやく具現化した頃合いを見て、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は京都の平安京に行脚する決意をする。

これを1190年に実行した「源頼朝上洛」(みなもとよりともじょうらく)と呼ぶ。

1160年に起こった「平治の乱」(へいじのらん)で伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)に流刑になってから、30年ぶりに京都の平安京の地に足を着けた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、感慨深いものだったであろう。

平安京に到着して愛馬から降りた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の第一声が、此(こ)れである。

源頼朝…『げっ! 犬のウンコを踏んでもうたぁ!』

この時に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)に謁見(えっけん)した。

鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)から朝廷に対しての要求は、1185年に源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源行家(みなもとゆきいえ/源氏)を全国指名手配して討伐する際に日本各地に設けた、領国を統治する警備拠点の守護(しゅご)と、守護(しゅご)の維持費の租税を課す役所の地頭(じとう)を、永続的な機関として残しておく事だった。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、朝廷が設置した守護(しゅご)と地頭(じとう)を大倉幕府(おおくらばくふ)に取り込もうと企(たくら)んでいた。

此(こ)れに対して後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)と朝廷は、守護(しゅご)と地頭(じとう)の継続を承認した。

更(さら)に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に対して、国策や皇族の指南役でもある権大納言(ごんだいなごん)と平安京警備長官の右近衛大将(うこのえだいしょう)の官職に任命する。

ただ、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は就任してから3日で辞任してしまう。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が狙うはただ1つ、武将の最高権威の征夷大将軍だけである。

1192年に後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が薨御(こうぎょ)したタイミングで、朝廷の摂関(せっかん)で親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね/公家)は、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に対して征夷大将軍を任命する。

此(こ)れによりイイクニを創る鎌倉幕府が名実共に認知される。

GOD'S CHILD/♪ EVERYBODY'S 1

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:02:25

◆◇◆征夷大将軍1代目の源頼朝:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

めでたい事は続くもので、この年の1192年に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の間に、後々の征夷大将軍3代目となる源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)が誕生する。

この頃には源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)も、「源平合戦」(げんぺいがっせん)の真っ最中の1182年に誕生した、嫡男(ちゃくなん)の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)を次期の征夷大将軍2代目として鍛え上げていた。

ある日、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は息子の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)の領国に跨(またが)り鎮座する標高3776mの富士山の裾野(すその)で、鹿(シカ)や猪(イノシシ)を追い掛けて狩猟する巻狩(まきが)りを実施していた。

源頼朝…『いいかぁ、今日は鹿(シカ)か猪(イノシシ)の何方(どちら)でも良いから、最低は1頭は狩るんだぞぉ! 今朝、狩りに出掛ける時にマコ(北条政子)に、晩御飯は“紅葉鍋”(もみじなべ/鹿肉)か“牡丹鍋”(ぼたんなべ/猪肉)って大見得(おおみえ)を切って出て来たからなぁ、手ぶらで帰ったら、あの鬼嫁に家から追い出させるぞぉ!』

ガクガク ブルブル

源頼家…『お母さん怖いよぉ〜 どうしよぉ〜 手が震える。』

鎌倉武士…『坊ちゃん、頑張れぇ! 坊ちゃん、頑張れぇ!』

キュ〜〜 キュ〜〜

鎌倉武士…『あっ! 坊ちゃん、鹿(シカ)です! 今だ討てぇ!!』

ギュ〜〜 ビューーー

ズバンッ

鹿(シカ)…『キュ〜〜〜ウッ〜』(ギャ〜〜 やられた〜〜)

バタンッ

源頼朝…『おおっ! 息子よぉ、やったぞぉ! 鹿(シカ)を一発で仕留めたぞぉ!!』

鎌倉武士…『坊ちゃん、万歳、万歳、万々歳!!』

あまりにもの嬉しさで源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、家臣の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)の息子の梶原景高(かじわらかげたか/源氏)に命じて、源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の手柄である鹿(シカ)を持たせて、相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)で晩御飯の食材を待っている北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の元に走らせた。

ただし、源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が仕留めた鹿(シカ)は生後間もない子鹿(肉量少)のバンビちゃんだった。

梶原景高…『では、鎌倉に行って参ります。』

源頼朝…『頼んだぞぉ! マコ(北条政子)には十分に息子の勇敢さをアピールするのだぞぉ!!』

梶原景高…『御意(ぎょい)!』

梶原景高(かじわらかげたか/源氏)は絶命した子鹿(肉量少)のバンビちゃんを片手で抱えて、馬に跨(またが)り東方へと走り去っていった。

パカパカパカパカ パカパカパカパカ

相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に到着した梶原景高(かじわらかげたか/源氏)は、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)に子鹿(肉量少)のバンビちゃんを渡して源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の獅子奮迅(ししふんじん)を語った。

梶原景高…『坊ちゃんは凄いですよぉ! なんと一矢で動き回る鹿(シカ)を仕留めたのだから、弓の名手と呼んでも過言ではありません。』

北条政子…『アホォな事を言うなぁ! なんで源氏の棟梁になる人物が、こんな小さく可愛い子鹿(肉量少)のバンビちゃんを仕留めて喜んどぉるんやぁ!! こんな少ない肉量でどうやって晩御飯の“紅葉鍋”(もみじなべ/鹿肉)を作れっちゅ〜んやぁ! もう1回、富士山に戻って、大きな大人の鹿(シカ)を4頭〜5頭を仕留めるまでは帰って来るなぁって、アホォ亭主に言っておけぇ!!』

梶原景高…『はぁ、はいっ!』

パカパカパカパカ パカパカパカパカ

梶原景高(かじわらかげたか/源氏)は、再び富士山の裾野(すその)の巻狩(まきが)り場所まで戻って行った。

そして梶原景高(かじわらかげたか/源氏)は、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)を顔表情や身振り手振りを模写しながら、言われた意図を源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に伝えた。

源頼朝…『ほっ、本当かぁ!? マコ(北条政子)がそんな事を言っていたのか!? 大人の鹿(シカ)を4頭〜5頭って、そんなの仕留めるのに2日〜3日は掛かるぞぉ。 ヤバいなぁ〜 今日は此処(ここ)で野宿だなぁ〜』

梶原景高…『御意(ぎょい)!』

1199年、相模国(神奈川県)を流れる相模川(さがみがわ/茅ヶ崎)に架かる橋の落成式に出席していた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、その帰りに落馬して命を落としたのであった。

此(こ)れには多くの陰謀論(いんぼうろん)もあるが、なんせ800年前の事だから、今となっては史実は分からない。

THE REMBRANDTS /♪ DON'T HIDE YOUR LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:03:15

◆◇◆征夷大将軍2代目の源頼家:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

相模国(神奈川県)の相模湾にある鎌倉の由比ヶ浜から、山の中腹に建つ鶴岡八幡宮に(つるがおかはちまんぐう)に向かって真っ直ぐ延びる若宮大路(わかみやおおじ)。

この若宮大路(わかみやおおじ)は、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)が身籠もった際の安産祈願として、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が造成した大通りである。

其(そ)の安産祈願による神様の御加護もあり、1182年に清和源氏の系統で河内源氏の棟梁の嫡男(ちゃくなん)として源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が誕生した。

オギャ〜 オギャ〜

源頼朝…『おおっ〜 男の子じゃ〜 わしぃに似て立派なウインナー(モノ)が付いておるぅ! でかしたぞぉマコ(北条政子)!!』

北条政子…『うんっ、マコ(北条政子)頑張ったぁ! でもぉヨリ(源頼朝)、あと5〜6匹は産めるわぁよぉん!』

源頼朝…『5〜6匹って、犬じゃないんだから。』

1199年、相模国(神奈川県)を流れる相模川(さがみがわ/茅ヶ崎)に架かる橋の落成式に出席していた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、その帰りに落馬して命を落とした。

此(こ)れにより嫡男(ちゃくなん)の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が征夷大将軍2代目に就任した。

ただ、生まれながらにして相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)で、過保護に育てられたお坊ちゃんである。

人の上に立って統治する才覚は持ち合わせていない。

この事から鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)は、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)を中心に13人の合議制で政権運営を実施する事が決定される。

13人の合議制のメンバーは以下となる。

〈13人の合議制〉

〔北条氏〕

1:執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)とは、伊豆国(静岡県)の韮山(にらやま)の平氏軍の武将で、1160年に起こった「平治の乱」(へいじのらん)で伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)に流刑となった源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の監視役だったが、娘の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)が源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と結婚した事により、若武者の後見人となる。

2:執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)とは、北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の息子で、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の弟。

〔御家人〕

3:梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)とは、元は平氏軍の武士だったが、1180年に起こった「石橋山の戦」(いしばしやまのたたかい)で、相模国(神奈川県)の湯河原の山中にある鵐窟(しとどのいわや)と言う洞窟で敗走し隠れていた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を助けた経緯(けいい)で鎌倉幕府の御家人となった。

4:和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉) とは、三浦氏の庶流(しょりゅう)で、伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)で源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が“平氏討伐”の挙兵した頃からの家臣。

5:比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)とは、藤原氏の系統である比企氏(ひきうじ)の武蔵国(埼玉県)の比企(ひき)の武将で、養母の比企尼(ひきのあま/藤原→鎌倉)が源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の乳母だった。

6:三浦義澄(みうらよしずみ/平氏→源氏→鎌倉)とは、桓武平氏の系統である三浦氏で、武蔵国(神奈川県)の三浦半島を領地とする武将であり、伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)で源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が“平氏討伐”の挙兵した頃から協力する。

7:八田知家(はったともいえ/鎌倉)とは、下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮の八田氏(はったうじ)で、伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)で“平氏討伐”の挙兵した源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の郎党(ろうとう)である。

8:安達盛長(あだちもりなが/源氏→鎌倉)とは、藤原氏北家(ほっけ)の安達氏の祖で、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)の養母の比企尼(ひきのあま/藤原→鎌倉)の親族であり、伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)で源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が“平氏討伐”の挙兵した頃から協力する。

9:足立遠元(あだちとおもと/鎌倉)とは、藤原氏北家(ほっけ)の系統である足立氏(あだちうじ)で、武蔵国(東京都)の足立の武将であり、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の父親の源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)に仕えていた。

〔官僚〕

10:中原親能(なかはらちかよし/公家→鎌倉)とは、奈良時代から続く土師氏(はじうじ)の庶流(しょりゅう)の清原氏の系統の中原氏で、朝廷に仕える貴族であり、伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)で源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が“平氏討伐”の挙兵した頃から協力し、大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)の兄である。

11:大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)とは、奈良時代から続く土師氏(はじうじ)の庶流(しょりゅう)の清原氏の系統で、その中原氏の庶流(しょりゅう)の大江氏となり、朝廷に仕える貴族であり、鎌倉に居た兄の中原親能(なかはらちかよし/公家→鎌倉)に呼ばれる。

12:三善康信(みよしやすのぶ/公家→鎌倉)とは、京都に居た源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の幼少期からの親友で、朝廷に仕える貴族で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま/韮山)に流刑になった後も、文通をして交流を深めていた。

13:二階堂行政(にかいどうゆきまさ/公家→鎌倉)とは、藤原氏南家(なんけ)の工藤氏の庶流(しょりゅう)の二階堂氏氏(にかいどううじ)で、この苗字は鎌倉に2階建て御堂がある永福寺(ようふくじ/廃寺)の近隣に居住した事が由来(ゆらい)、母方が源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の生まれ故郷の尾張国(愛知県)の熱田神宮の宮司の家系が縁となり仕える。

此(こ)れら鎌倉幕府の13人の合議制を、鎌倉の前面に広がる相模湾をイメージして“オーシャンズサーティーン(13)”と呼ぶ。

当然に征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、大倉御所(おおくらごしょ)で阻害され不満が募る。

此(こ)れにより源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は拗(す)ねて、幼少期から養育してくれた比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)以外の人物とは面会謝絶とした。

では、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の家系図を見てみよう。

父親は征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)で、母親は尼将軍(あましょうぐん)の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)。

北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の父親が執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)で祖父にあたり、弟の執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)が叔父にあたる。

一方、父親の征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は比企尼(ひきのあま/藤原→鎌倉)が乳母だった縁で、其処(そこ)の養子に入った比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)が鎌倉幕府で取り立てられる。

比企尼(ひきのあま/藤原→鎌倉)の娘の河越尼(かわごえのあま/鎌倉)が、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の乳母となる。

更(さら)に源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)の娘の若狭局(わかさのつぼね/鎌倉)を妻に娶(めと)り、息子の一幡(いちまん/鎌倉)が誕生する。

此処(ここ)まで見ると、平安時代の藤原氏北家(ほっけ)が執行した外戚(がいせき)は、天皇の母親の祖父が摂関政治を司った。

これは天皇が幼少期に母親の実家で育てられた事にある。

此(こ)れに当てはめると、源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の母親の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の実家は、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)であり、将軍の外戚(がいせき)関係となる。

しかし、源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)を幼少期から養育したのは、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)の姉の河越尼(かわごえのあま/鎌倉)である。

要は源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は比企氏(ひきうじ)に育てられ、懐(なつ)くのは当然である。

此処(ここ)で動いたのが祖父の執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)である。

先(ま)ず、13人の合議制のメンバーの中で有力な御家人の一族を滅亡させる他氏排斥(たしはいせき)を実行した。

正(まさ)にこの鎌倉時代初期は、平安時代初期の藤原氏北家(ほっけ)を彷彿(ほうふつ)とさせていた。

TYLER BOONE /♪ TAKE AIM

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:04:07

◆◇◆征夷大将軍2代目の源頼家:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)が率いる北条氏(ほうじょううじ)一族による、13人の合議制のメンバーの中で有力な御家人の一族を滅亡させる他氏排斥(たしはいせき)の第1犠牲者は、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)と決まった。

梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)の経歴は、1180年に起こった「石橋山の戦」(いしばしやまのたたかい)で平氏軍の武士だった頃に、敗走した源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を相模国(神奈川県)の湯河原の山中にある鵐窟(しとどのいわや)の洞窟で助けた事から、鎌倉幕府との縁が始まる。

その後の1180年〜1185年の「源平合戦」(げんぺいがっせん)でも、先陣争いの覇者として君臨し、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に信用信頼され寵愛を受けてきた。

ただ、主君の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が1199年に死去した事から、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)の歯車が狂い始めた。

ある日、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の娘で、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の妹である阿波局(あわのつぼね/北条→鎌倉)が、下野国(しもつけ/栃木県)の結城氏(ゆうきうじ)の武将である結城朝光(ゆうきともみつ/鎌倉)に対して内緒話しをした。

阿波局…『なぁ〜なぁ〜 この話し、絶対に誰にも言うたらあかんでぇ〜 絶対やぁでぇ〜』

結城朝光…『なにぃ〜 どんな話しなぁん?』

阿波局…『梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)殿がなぁ〜 あんたの股にぶら下がっている小枝(こえだ/イチモツ)は包茎(ほうけい)で臭いって言ってたわぁ〜 それってぇ、ほんまぁなぁん? 匂いかかせてぇ〜』

結城朝光…『ううっ! チクショ〜 誰にも知られたくない本当の事をぉ〜 あのクソ親父めぇ〜 許さぁ〜〜ん!!』

阿波局…『なぁ〜なぁ〜 ほんまぁなぁん? 匂いかかせてぇ〜なぁ〜』

こうして結城朝光(ゆうきともみつ/鎌倉)は、13人の合議制のメンバーの和田義盛(わだよしもり/鎌倉)や三浦義澄(みうらよしずみ/鎌倉)の息子の三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)など60人近くの御家人と共に、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)を更迭(こうてつ)する様に、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)に直訴して罷免(ひめん)した。

これを1199年に起こった「梶原景時の変」(かじわらかげときのへん)と呼ぶ。

これを受けて反論する事なく梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)は、梶原一族と共に相模国(神奈川県)の一ノ宮(いちのみや/寒川)に移住して、鎌倉幕府の退職金で海の見える三世帯戸建住宅を建てた。

時が過ぎた1200年に、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)は、息子の兄の梶原景季(かじわらかげすえ/源氏)の家族と、弟の梶原景高(かじわらかげたか/源氏)の家族で、京都の平安京や奈良の平城京を巡る観光旅行に出掛けた。

東海道を西方に進み駿河国(静岡県)の清見関(きよみがせき/清水)で休息している時に、鎌倉幕府から送られた刺客で吉川友兼(きっかわともかね/鎌倉)が率いる影の軍団に襲撃され、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)など梶原一族は討死して滅亡した。

これを1199年に起こった「梶原景時の変」(かじわらかげときのへん)と呼ぶ。

其処(そこ)から時は経ち、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は重病を発症して寝込んでしまった。

此(こ)れにより鎌倉幕府の大倉御所(おおくらごしょ)では、次期将軍後継者を決定しておく必要が出てきた。

当然に源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の嫡男(ちゃくなん)の一幡(いちまん/鎌倉)が将軍後継者に就いた。

この問題は直(す)ぐに解決される。

ところが、この将軍後継者発表に執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)が率いる北条氏(ほうじょううじ)一族が関与した。

征夷大将軍の東国総地頭は一幡(いちまん/鎌倉)が就任するが、征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)の西国総地頭は千幡(せんまん)こと源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)が就任する計画を示した。

何故(なぜ)に北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)は、源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)を引き上げたのか?

この時、いじける征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が担う鎌倉幕府が長続きする訳がなく、祖父で執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)は、将軍職を弟の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)に継承させて征夷大将軍3代目に就任させる計画だった。

源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)の乳母は、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の娘の阿波局(あわのつぼね/北条→鎌倉)で、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の妹である。

要は源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)は北条氏(ほうじょううじ)に育てられ、懐(なつ)くのは当然である。

此(こ)れに反発したのは征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)を可愛がる比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)である。

この執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)が率いる北条氏(ほうじょううじ)一族の横暴に、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)は“北条氏討伐”を征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)に持ち掛ける。

比企能員…『このままでは鎌倉幕府は北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)殿が率いる北条氏(ほうじょううじ)一族の所有物になってしまう! 此処(ここ)で手を打たなければ源氏一門は滅亡ですぞっ!!』

源頼家…『そうねぇ〜 そうだねぇ〜』

比企能員…『では、“北条氏討伐”の御決断を頂きたい。』

源頼家…『“北条氏討伐”いいねぇ〜 そうしよぉ〜』

こうして、その日の内に比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)と征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、“北条氏討伐”の準備に取り掛かる。

大倉御所(おおくらごしょ)で源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が埃(ほこり)塗(まみ)れの鎧兜(よろいかぶと)と太刀(たち)を押入れから引っ張り出している時に、母親の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)が買い物から帰ってきた。

北条政子…『あんたぁ、そんな古くて汚い物を引っ張り出して、どうするのぉ? メルカリにでも出品するのぉ? そんなの10円でも売れんわぁ。』

源頼家…『近々、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)殿と一緒に“北条氏討伐”をやるねぇん、お爺ちゃんの北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)を討ち取るねぇん。』

北条政子…『あっそ。』

この後、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)は、父親の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)に電話して、息子から聞いた“北条氏討伐”の話しを密告した。

これを聞いた北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)は、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)に電話を掛ける。

北条時政…『もしも〜し、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)殿かぁ? あのなぁ〜 横須賀の浦賀(うらが/久里浜)にあるビデオショップで“爆乳金髪美女は太いのがお好き!”が手に入ったから、今から観に来ない?』

比企能員…『行く行く、絶対に行くぅ〜』

こうして即刻、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)はマイティッシュ箱を持参して、北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の屋敷に向かった。

北条時政…『おおっ、早かったのぉ〜 お上がり下さい。』

比企能員…『では、お邪魔します。 早速、“爆乳金髪美女は太いのがお好き!”を観たいものよのぉ〜』


北条時政…『このスケベジジイ〜 お前に似合うのは金髪美女ではなく、この正義の太刀(たち)じゃ〜〜!!』

バサッ バサッバサッ

比企能員…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

この後、北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)は1万人の北条軍を率いて、比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)の一族全員を斬殺した。

その中には比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)の娘で征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の妻の若狭局(わかさのつぼね/鎌倉)と、息子の一幡(いちまん/鎌倉)も犠牲となった。

13人の合議制のメンバーの中で有力な御家人の一族を滅亡させる他氏排斥(たしはいせき)の第2犠牲者となった。

これを1203年に起こった「比企能員の乱」(ひきよしもりのらん)と呼ぶ。

比企能員(ひきよしもり/藤原→鎌倉)と言う強力な後ろ盾を失った征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は、北条軍に拘束されて伊豆国(静岡県)の修禅寺(しゅぜんじ/田方)に幽閉される。

その後、源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)がお風呂に入っている時に、何者かが手配した影の軍団に暗殺される。

源頼家…『♪いい湯だなぁ〜 あはは〜ん いい湯だなぁ〜 あはは〜ん ここは駿河湾の伊豆半島〜』(♪いい湯だな/ビバノンロック)

影の軍団…『お命、頂戴致します!』

バサッ バサッバサッ

源頼家…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

醜(みにく)い権力闘争に巻き込まれて、1204年に20年余りという短い人生に幕を閉じた。

祖父の源義朝(みなもとよしとも/朝廷→源氏)が、尾張国(愛知県)の知多半島の野間(のま)で入浴中に暗殺される情景が同じである事に、源氏一門の縁を感じる。

PEARL JAM /♪ I GOT ID

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:05:02

◆◇◆征夷大将軍3代目の源実朝:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

1203年に征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)が、「比企能員の乱」(ひきよしもりのらん)の連座責任(れんざせきにん)で将軍職を剥奪(はくだつ)された。

執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)が率いる北条氏(ほうじょううじ)一族の思惑通りに、鎌倉幕府の征夷大将軍3代目に弟の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)が就任した。

その後、源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)は北条軍に拘束されて伊豆国(静岡県)の修禅寺(しゅぜんじ/田方)に幽閉され、入浴中に何者かが手配した影の軍団に暗殺される。

奈良時代や平安時代に天皇を据えて藤原氏が行った傀儡(かいらい)政治を、この鎌倉時代でも踏襲(とうしゅう)し将軍を据えた北条氏(ほうじょううじ)が政治実権を掌握した。

この時の鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の政治機関は、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が構築した3要所で政権運営を担っていた。

公文所(くもんじょ)または政所(まんどころ)は政治を司(つかさど)る。

政所(まんどころ)の別当(べっとう)には、奈良時代から続く土師氏(はじうじ)から清原氏となった系統の中原氏から庶流(しょりゅう)した大江氏で、朝廷に仕える貴族だった大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)が就任しており、中原親能(なかはらちかよし/公家→鎌倉)の弟である。

問注所(もんちゅうじょ)は裁判を扱う。

問注所(もんちゅうじょ)の別当(べっとう)には、京都の平安京に居た源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の幼少期からの親友で、朝廷に仕える貴族だった三善康信(みよしやすのぶ/公家→鎌倉)が就任していた。

侍所(さむらいどころ)は武士を扱う。

侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう)には、“平氏討伐”の挙兵から源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に仕える三浦氏の庶流(しょりゅう)で和田氏の和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)が就任していた。

此処(ここ)で執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)が、大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)と同列の政所(まんどころ)の別当(べっとう)に就任して、益々(ますます)に北条氏(ほうじょううじ)が鎌倉幕府で権力を強めていく。

では、征夷大将軍3代目に源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)の家系図を見てみよう。

父親は征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)で、母親は尼将軍(あましょうぐん)の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)。

北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の父親が執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)で祖父にあたり、弟の執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/鎌倉)が叔父にあたる。

執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の娘で、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の妹である阿波局(あわのつぼね/北条→鎌倉)が源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)の乳母となる。

此処(ここ)まで見ると、平安時代の藤原氏北家(ほっけ)が執行した外戚(がいせき)は、天皇の母親の祖父が摂関政治を司った。

これは天皇が幼少期に母親の実家で育てられた事にある。

此(こ)れに当てはめると、源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)の母親の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の実家は、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)であり、将軍の外戚(がいせき)関係となる。

次に、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)は、牧の方(まきのかた/鎌倉)を後妻に娶(めと)った。

執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)と牧の方(まきのかた/鎌倉)の間には娘が誕生した。

この娘は平賀朝雅(ひらがともまさ/源氏)と結婚した。

平賀朝雅(ひらがともまさ/源氏)とは、河内源氏の平賀氏(ひらがうじ)で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の養子に入っており、源氏の血筋となり将軍に就任できる家柄でもある。

此(こ)れを牧の方(まきのかた/鎌倉)は利用した。

この時期、平賀朝雅(ひらがともまさ/源氏)は京都の朝廷に勤めていた。

そんな時に、征夷大将軍3代目に源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)のお嫁さんとして、京都に住む坊門信子(ぼうもんのぶこ)こと西八条禅尼(にしはちじょうぜんに/公家→鎌倉)が嫁ぐ事が決定される。

坊門信子(ぼうもんのぶこ)こと西八条禅尼(にしはちじょうぜんに/公家→鎌倉)とは、坊門信清(ぼうもんのぶきよ/公家)の娘である。

その坊門信清(ぼうもんのぶきよ/公家)とは、藤原氏北家(ほっけ)の坊門氏(ぼうもんうじ)で、第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)の祖父にあたる。

坊門信清(ぼうもんのぶきよ/公家)のもう1人の娘の藤原殖子(ふじわらしょくし/公家→朝廷)は、第80代天皇の高倉天皇(たかくらてんのう/朝廷)の妻で、第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)の母親となる。

鎌倉幕府と公家と皇族の3強同盟を象徴するめでたい政略結婚である。

1204年に早速、鎌倉幕府の使者として畠山重保(はたけやましげやす/鎌倉)が、お嫁さんの坊門信子(ぼうもんのぶこ)こと西八条禅尼(にしはちじょうぜんに/公家→鎌倉)を御迎えに京都まで出向いた。

畠山重保(はたけやましげやす/鎌倉)とは、「源平合戦」(げんぺいがっせん)の1184年に起こった「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)の「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)で愛馬を担いで崖地を降りた武蔵国(埼玉県)の武将の畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)の息子である。

京都に到着した畠山重保(はたけやましげやす/鎌倉)は、平賀朝雅(ひらがともまさ/源氏)に歓迎されて夜の祇園で接待を受ける。

2人が入店した高級ラウンジ“夜の遊園地”で、畠山重保(はたけやましげやす/鎌倉)と平賀朝雅(ひらがともまさ/源氏)はNO1(ナンバーワン)のホステス(バスト95)の取り合いになり、店内で殴り合いの喧嘩(ケンカ)に発展して、清水寺(きよみずでら/東山)の近くにある東山警察署に連行された。

鎌倉幕府の執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)と牧の方(まきのかた/鎌倉)は、この畠山重保(はたけやましげやす/鎌倉)の失態により父親の畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)も含めて連座責任(れんざせきにん)を追求した。

この処遇に反発した畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)は挙兵して対抗するも、執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)が率いる北条軍に攻撃され、畠山重忠(はたけやましげただ/源氏→鎌倉)は討死して、畠山氏(はたけやまうじ)一族も滅亡した。

これを1205年に起こった「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)と呼ぶ。

鎌倉幕府の初期メンバーの中で有力な御家人の一族を滅亡させる他氏排斥(たしはいせき)の第3犠牲者となった。

更(さら)に牧の方(まきのかた/鎌倉)は、娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ/源氏)を征夷大将軍に就かせようと企(たくら)み、征夷大将軍3代目に源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)の暗殺計画を発表して、夫の執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)の賛同を得る。

しかし、尼将軍(あましょうぐん)の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)と執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)に阻止されて、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)と牧の方(まきのかた/鎌倉)は伊豆国(静岡県)に追放された。

当たり前と言えば当たり前だが。

執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は、父親の執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/鎌倉)が就任していた政所(まんどころ)の別当(べっとう)を継承した。

此(こ)れにより鎌倉幕府は、尼将軍(あましょうぐん)の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)と執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)による政治実権を強めていく。

THE OCEAN BLUE /♪ SLIDE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:05:56

◆◇◆征夷大将軍3代目の源実朝:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)の時期に、清和源氏の系統の信濃源氏で、信濃国(長野県)の小泉(上田)の武将である泉親衡(いずみちかひら/源氏)が、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の息子の栄実(えいじつ/鎌倉→僧侶)を担ぎ上げて征夷大将軍に就任させる反乱を起こした。

しかし、この反乱は鎌倉幕府により直(す)ぐに鎮圧され、謀反(むほん)に関わった関係者は全て流刑か死罪を言い渡された。

これを1213年に起こった「泉親衡の乱」(いずみちかひらのらん)と呼ぶ。

この反乱の後、侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう)を務めていた和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)の親族も関わっている事が判明した。

その人物は和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)の弟の和田義長 (わだよしなが/源氏→鎌倉)の息子で弓の名手と言われた和田胤長(わだたねなが/鎌倉)などだった。

この事態を知った和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)は大倉御所(おおくらごしょ)に出向き、甥の和田胤長(わだたねなが/鎌倉)の減刑を嘆願したが、死罪は免れたが和田氏一族の領地没収の改易(かいえき)など重い処分を下された。

此(こ)れに反発した和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)をはじめとした和田氏一族は、挙兵して鎌倉幕府に反乱を起こす。

三浦氏の庶流(しょりゅう)の和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)は、同族として桓武平氏の三浦氏である三浦義澄(みうらよしずみ/平氏→源氏→鎌倉)の息子の三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)に援軍要請して快諾された。

和田軍と三浦軍の連合隊は、大倉御所(おおくらごしょ)の北条軍を進撃するも、直前になって三浦軍は北条軍に寝返った。

此(こ)れにより和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)が率いる和田軍は、単独で大倉御所(おおくらごしょ)を襲撃して炎上させ、征夷大将軍3代目に源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)と執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は逃亡して裏山の法華堂(ほっけどう/源頼朝陵墓)に身を隠した。

その後、北条軍の猛追に遭う和田軍は、海岸の由比ヶ浜の方まで退陣して、そこで抗戦するも敗北する。

和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)は討死して、和田氏一族も滅亡した。

これを1213年に起こった「和田合戦」(わだがっせん)と呼ぶ。

13人の合議制のメンバーの中で有力な御家人の一族を滅亡させる他氏排斥(たしはいせき)の第4犠牲者となった。

鎌倉駅と由比ヶ浜の間に和田塚が残されているが、この地で和田氏一族の多くの遺骨が発見された場所である。

これが戦争である。

鎌倉幕府は、侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう)を務めていた和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)が死去した事により、執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)が就任する事となる。

政所(まんどころ)の別当(べっとう)にも就任している執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は、執権の役職が鎌倉幕府の最高位となった。

平安時代の藤原氏が司る摂関政治の様に、鎌倉時代では北条氏(ほうじょううじ)が司る執権政治が本格的に始まる。

此(こ)れで鎌倉幕府の征夷大将軍は完全にお飾りとなり、傀儡(かいらい)政治により征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)は、和歌や蹴鞠(けまり)など平安京の公家か貴族の様な振る舞いをしていった。

ただ、その文化の功績が“金槐和歌集”(きんかいわかしゅう)の創作である。

書物名の“金”は鎌倉の鎌の偏の金を表し、“槐”は中国大陸の唐(とう)の大臣の槐門(かいもん)と言う役職名を表している。

ただ、鎌倉幕府が敵対する反幕府派の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)に対して、称賛(しょうさん)する和歌まで詠んでいる。

源実朝…『山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも。』⦅たとえ山が裂けて、海が干上(ひあ)がり、この世の終わりが来ても、大王(おおきみ/天皇)に対して、二枚舌の様な裏切る事はありません。⦆

北条義時…『なんちゅう和歌を創っとんねぇん!』

この後、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)の朝廷から、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)は右大臣に任命される。

1219年の正月明けの雪が降る寒い夜。

鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)では、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)の右大臣の就任の式典が催される事になっていた。

雪積もる長い階段を登っていた源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)と使者、それに少し距離を置いて執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)も同行していた。

そんな時、銀杏(イチョウ)の大木に隠れていた公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)が、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)を見るや飛び出して、こう叫んだ。

公暁…『親の仇(かたき)はかく討つぞぉ!』

バサッ バサッバサッ

源実朝…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

公暁…『我こそは公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)なるぞぉ! 父の仇(かたき)を討ち取ったりぃ!!』

鎌倉幕府と朝廷に利用された征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)は、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の息子の公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)に暗殺された。

この暗殺には黒幕がおり、桓武平氏の三浦氏の三浦義澄(みうらよしずみ/平氏→源氏→鎌倉)の息子の三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)だった。

ただ、この暗殺計画のターゲットには、征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)と執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)の2人を討ち取る予定だった為に、1人は成功したが、もう1人は失敗に終わっている。

この結果を知った三浦義村(みうらよしむら/鎌倉)は、執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)の報復を恐れて公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)を斬殺した。

此(こ)れにより鎌倉幕府を開設したが源氏一門は滅亡した事になる。

鎌倉幕府の関係者一族を滅亡させる他氏排斥(たしはいせき)の第5犠牲者となった。

ALEX SIEGEL /♪ DAYDREAMING PILOT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:06:53

◆◇◆天皇と将軍:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

1219年に鎌倉幕府と朝廷に利用された征夷大将軍3代目の源実朝(みなもとさねとも/鎌倉)が鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、征夷大将軍2代目の源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉)の息子の公暁(くぎょう/鎌倉→僧侶)に暗殺された。

此(こ)れにより鎌倉幕府を開設したが源氏一門は滅亡した事になる。

次期将軍候補者が不在の征夷大将軍の死去である。

この状況は1185年に鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)を開設してから2度目の最大の危機である。

其処(そこ)で執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は、京都の朝廷に征夷大将軍に相応(ふさわ)しい家系の人物を派遣要請したが、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)から丁重(ていちょう)に断られる。

その為に、朝廷でも親幕府派の西園寺公経(さいおんじきんつね/公家)に、征夷大将軍の人物を派遣要請する。

西園寺公経(さいおんじきんつね/公家)とは、藤原氏北家(ほっけ)で七清華家(しちせいがけ)の西園寺家(さいおんじけ)で、朝廷では皇室にも強い影響力のある人物である。

其処(そこ)で西園寺公経(さいおんじきんつね/公家)は、親幕府派の藤原氏北家(ほっけ)の五摂家(ごせっけ)の九条家から、孫にあたる九条頼経(くじょうよりつね)こと藤原頼経(ふじわらよりつね/公家→鎌倉)を征夷大将軍4代目に就任させた。

ただし、鎌倉の大倉幕府(おおくらばくふ)の政権運営の不安定は変わりなく、この好機を京都の朝廷では反幕府派の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)が“鎌倉幕府討伐”を虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。

この時期の皇族は院政(いんせい)の治天の君(ちてんのきみ)に就いた第82代天皇だった後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)が朝廷の実権を掌握し、息子を1198年に第83代天皇の土御門天皇(つちみかどてんのう/朝廷)に皇位を譲位(じょうい)した。

1210年に後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)の息子の第84代天皇の順徳天皇(じゅんとくてんのう/朝廷)に皇位を譲位(じょうい)した。

1221年に第84代天皇の順徳天皇(じゅんとくてんのう/朝廷)の息子の第85代天皇の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/朝廷)に皇位を譲位(じょうい)した。

「承久の乱」(じょうきゅうのらん)で朝廷軍が敗北した影響で、その2ヶ月後の1221年に守貞親王(もりさだしんのう)こと後高倉上皇(ごたかくらいんじょうこう/朝廷)の息子の第86代天皇の後堀河天皇(ごほりかわてんのう/朝廷)に皇位を譲位(じょうい)した。

守貞親王(もりさだしんのう)こと後高倉上皇(ごたかくらいんじょうこう/朝廷)とは、第80代天皇の高倉天皇(たかくらてんのう/朝廷)の息子で、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)とは兄弟である。

この鎌倉幕府の苦境を後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)は好機と捉(とら)えて、“鎌倉幕府討伐”への行動に移る。

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)は、京都の堀川通から東入る丸田町通沿いに建つ内裏(だいり)の高陽院(かやのいん)で、疾走する馬に跨(また)り弓を構えて矢を射て的(まと)に当てる騎射(きしゃ)を競う流鏑馬(やぶさめ)を開催した。

ただし、これは表向きの宮中行事で、実際は“鎌倉幕府討伐”の挙兵である。

この異変に気付いた鎌倉幕府の京都守護に就任していた伊賀光季(いがみつすえ/鎌倉)は警戒する。

伊賀光季(いがみつすえ/鎌倉)とは、藤原氏北家(ほっけ)の伊賀氏で、二階堂行政(にかいどうゆきまさ/公家→鎌倉)の娘が母親であり、執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)の妻の兄でもある。

この京都守護の伊賀光季(いがみつすえ/鎌倉)の厳戒態勢に対して、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)が組成した朝廷軍は攻撃して、不意を突かれた伊賀光季(いがみつすえ/鎌倉)は討死した。

此(こ)れに併せて後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)は、“鎌倉幕府討伐”の宣旨(せんじ)を日本全国に発布した。

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)は朝廷軍の総大将に藤原氏北家(ほっけ)の藤原秀康(ふじわらひでやす/公家)を任命した。

更(さら)に鎌倉幕府の御家人である三浦義澄(みうらよしずみ/平氏→源氏→鎌倉)の息子の三浦胤義(みうらたねよし/鎌倉→朝廷)を朝廷軍に寝返らさせる。

この京都で“鎌倉幕府討伐”を掲げた朝廷軍の挙兵は、相模国(神奈川県)の鎌倉幕府を司る執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)や御家人にも届いた。

東国の御家人は朝敵(ちょうてき)になる事を恐れて、朝廷に降伏する意見も多数出ていた。

天皇家に弓を引く事は、日本に弓を引く事を意味する。

この鎌倉の動揺する御家人を集めて、尼将軍(あましょうぐん)の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)はこう言い放った。

北条政子…『武士(御家人)のみんなぁ〜 ちょっと聞いてぇ〜 マコ(北条政子)の最後の“送る言葉”でぇ〜す。 死んじゃったマコ(北条政子)のダーリンのヨリ(源頼朝)が、憎っくきキヨ(平清盛)などの平氏(へいし)をやっつけて、思い付きで鎌倉幕府を作っちゃったけど、武士(御家人)のみんなも官位(かんい)とかぁ〜 俸禄(ほうろく)とかぁ〜 その恩恵は富士山よりも高いしぃ〜 相模湾よりも深いと思うのよねぇ〜 恩恵に報いる心は浅く無いと思いまぁ〜す。』

北条政子…『でもねぇ〜 京都の帝(みかど)が何処(どこ)かの国賊に惑わされてねぇ〜 ちょ〜ヤバい宣旨(せんじ)を出したのよねぇ〜 勇気ある武士(御家人)は京都に行って国賊の藤原秀康(ふじわらひでやす/公家)と裏切者の三浦胤義(みうらたねよし/鎌倉→朝廷)をやっつけて、鎌倉幕府3代に渡る将軍様とマコ(北条政子)の遺産を守ってちょうだぁ〜い。 でもねぇ〜 関西人に成(な)りたい人は、今すぐに大阪に行って吉本新喜劇に入団しなさぁ〜い! 戦(いくさ)するんかぁ〜い、せいへぇんのんかぁ〜い!』

御家人…『さすが尼将軍と言われるマコ(北条政子)ちゃん、言う事が違うわぁ。 いざ、鎌倉! マコ(北条政子)ちゃんに付いて行こっ!』

朝廷に刃向かう賊軍となった幕府軍は、尼将軍の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の名演説で、東国の御家人を一致団結させた。

相模国(神奈川県)の鎌倉に陣営を設けた幕府軍は、執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)が指揮を執(と)り、西方の防衛拠点として箱根に砦(とりで)を築いた。

朝廷軍が侵攻して箱根の砦(とりで)が陥落しても、鎌倉は西北東方の三方を険しい山で囲まれ大軍で侵攻する事ができず、南方は相模湾の浅瀬の海が広がっている為に船が入れずに、自然が創り出した鉄壁の要塞となり、朝廷軍に対しての防衛力は高い。

幕府軍の多くの御家人は相模国(神奈川県)での防衛戦を支持した。

此(こ)れに異議を唱えたのが、鎌倉幕府の13人の合議制の時から仕える大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)である。

大江広元(おおえひろもと/公家→鎌倉)は元は朝廷に仕える貴族で、奈良時代から続く土師氏(はじうじ)の庶流(しょりゅう)となる清原氏の系統の中原氏からの庶流(しょりゅう)の大江氏の出生だった事もあり、朝廷や公家の性質や思惑は手に取る様に解っている。

大江広元…『京都の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)が挙兵した朝廷軍が10万人であろうと100万人であろうと、元々は平安京から出た事のない温室育ちのお坊ちゃん集団である。』

北条義時…『ほう、それで?』

大江広元…『過去の朝廷に対する反乱でも、京都まで攻め込んだ賊軍はいない為に、今回も幕府軍は京都には攻撃してこないと高(たか)を括(くく)っている。』

北条義時…『うん、なるほど!』

大江広元…『この朝廷の心理を逆手に取って、京都に侵攻して猛攻撃し、平安京を丸焼けにして過去の遺物(いぶつ)にしろっ!!』

北条義時…『おうっ! よっしゃ〜 京都に行くでぇ〜!!』

MARK WILLIAMSON /♪ CAN'T LET GO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250222 - ラジオの友 URL

2025/02/22 (Sat) 19:07:49

◆◇◆天皇と将軍:平安から鎌倉へ、朝廷から幕府へ、公家から武士へ ◆◇◆

先(ま)ず、作戦参謀の執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は、息子の執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)を総大将に任命して、18人の少数軍で進撃する様に命令する。

北条義時…『息子よぉ、今は軍勢を集結している時間は無いから、取り敢えず総大将が京都に進軍したところを東国の御家人に周知させる。 今直(います)ぐに出陣してくれぇ!』

北条泰時…『御意(ぎょい)! ただ、京都に到着して天皇家の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)が自ら率いた朝廷軍が侵攻して来たら、攻撃しても宜しいのでしょうか?』

北条義時…『当たり前じゃぁ〜 これは人間と人間が血を流し命を奪う戦争だぞぉ!! この地球で二足歩行をする全ての生き物は神様では、無い! 相手が誰であろうと売られた喧嘩(ケンカ)を買うのが武士だっ! 一族諸共(いちぞくもろとも)を徹底的に攻撃して滅亡させるまで、鎌倉には帰ってくるなぁ!』

北条泰時…『御意(ぎょい)!』

尼将軍の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の名演説を上回る名演説で、東国の御家人を更(さら)に一致団結させた。

此(こ)れにより東国、東海、北陸、信越の御家人が賛同して、幕府軍は最終的に19万人の軍勢に膨れ上がっていた。

相模国(神奈川県)の鎌倉軍は3部隊に編成して、3ルートから京都へ進軍させた。

第1大将の執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)が率いる10万人の幕府軍東海隊は、東海道を進行した。

第3大将の武田信光(たけだのぶみつ/源氏→鎌倉)が率いる5万人の幕府軍東山隊は東山道(とうさんどう)を進行した。

第2大将の北条朝時(ほうじょうともとき/鎌倉→名越)が率いる4万人の幕府軍北陸隊は越後国(新潟県)と越中国(富山県)を経由して北陸道を進行した。

第3大将の武田信光(たけだのぶみつ/源氏→鎌倉)とは、1180年に起こった「富士川の戦」(ふじがわのたたかい)で鎌倉源氏軍として参戦した武田信義(たけだのぶよし/源氏)の息子で、清和源氏の甲斐源氏の武田氏の2代目当主であり、武田信玄(たけだしんげん/武田)の先祖にあたる。

第2大将の北条朝時(ほうじょうともとき/鎌倉→名越)とは、執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)の息子で、第1大将の執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)の弟にあたる。

此(こ)れに驚愕したのは京都の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)と朝廷の公家である。

後鳥羽上皇…『おっ、おい、話しが違うではないかぁ! 幕府軍は鎌倉で防戦するから、京都は戦乱に巻き込まれる事はないと其方(そなた)らは言っただろうにぉ!!』

藤原秀康…『こうなったら仕方あるまい。 朝廷軍は美濃国(岐阜県)の木曽川で陣営を設けて、尾張国(愛知県)から幕府軍を1歩も入れない様にしよう。』

三浦胤義…『ひゃっほぉ〜い! 戦(いくさ)じゃ、戦(いくさ)!! 美濃国(岐阜県)で戦(いくさ)じゃ〜〜』

この時の朝廷軍の軍勢は2万人で、19万人の幕府軍は2倍近い兵力差があった。

岐阜っ子…『戦いはいつも美濃国(岐阜県)!』

672年に起こった「壬申の乱」(じんしんのらん)から始まり、1221年に起こった「承久の乱」(じょうきゅうのらん)、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)と、大きな合戦は恒例の様に何時(いつ)も美濃国(岐阜県)で行われている。

岐阜っ子…『何故(なぜ)だろう? 教えて“のぶさん”!』

織田信長…『そんなもん、知らんぎゃ〜〜』

2万人の朝廷軍は東西に長い木曽川に沿って、美濃国(岐阜県)の羽島から各務原に幾つか分散して布陣した。

朝廷軍が此処(ここ)に陣営を築いた理由は、朝廷の空軍の岐阜基地に各務原飛行場が併設されている。

いざとなれば戦闘機のブルーインパルスが出撃できる。

一方の幕府軍は木曽川の南方の岸に、尾張国(愛知県)の犬山から一宮に幾つか分散して布陣した。

第1大将の執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)が率いる幕府軍東海隊は、当然に尾張国(愛知県)の熱田神宮で必勝祈願を参拝する。

多勢に無勢で木曽川の合戦は幕府軍の圧勝で終わり、更に西方に進軍を開始した。

後鳥羽上皇…『おっ、おい、話しが違うではないかぁ! 朝廷軍は美濃国(岐阜県)で幕府軍を壊滅するから、京都は戦乱に巻き込まれる事はないと其方(そなた)らは言っただろうにぉ!!』

藤原秀康…『こうなったら仕方あるまい。 朝廷軍は2部隊に別けて近江国(滋賀県)の瀬田の唐橋(からはし/石山寺)と山城国(京都府)の宇治川の宇治橋(うじばし/平等院)で徹底的に防御を固めよう。』

三浦胤義…『ひゃっほぉ〜い! 戦(いくさ)じゃ、戦(いくさ)!! 京都で戦(いくさ)じゃ〜〜』

京都市中では19万人の幕府軍が侵攻してくる噂(うわさ)で、皇族も貴族も京町人も大混乱。

荷物まとめて大和国(奈良県)の平城京に疎開(そかい)する人も続出している。

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)は、近江国(滋賀県)の比叡山に建つ天台宗(てんだいしゅう)の延暦寺(えんりゃくじ)に配備されている僧兵の山法師(やまほうし)に参戦要請するも、丁重に御断りされる。

この時期、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)と天台座主(てんだいざす)に就任していた藤原忠通(ふじわらただみち/公家→天皇)の息子の慈円(じえん/公家→僧侶)などと、関係が悪化していた事が要因と考えられる。

近江国(滋賀県)の瀬田の唐橋(からはし/石山寺)と山城国(京都府)の宇治川の宇治橋(うじばし)に防衛の陣営を設けた朝廷軍だが、大波の様に押し寄せる幕府軍に、あっという間に鎮圧されて敗北した。

37年前の1184年に起こった「宇治川の戦」(うじがわのたたかい)で、鎌倉源氏軍と対戦した木曽義高(きそよしたか)こと源義高(みなもとよしたか/源氏)が率いる木曽源氏軍の交戦に比べたら、その迫力は雲泥の差があるくらい朝廷軍は脆弱(ぜいじゃく)だった。

この朝廷軍の状況下で、総大将の藤原秀康(ふじわらひでやす/公家)と三浦胤義(みうらたねよし/鎌倉→朝廷)は、京都の堀川通から東入る丸田町通沿いに建つ内裏(だいり)の高陽院(かやのいん)に居る後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)に謁見(えっけん)する。

後鳥羽上皇…『なっ、何も無かった事にしよう! 朝廷軍の武士が勝手に挙兵したのだぁ! わっ、悪い夢でも見ていたのじゃ!!』

藤原秀康…『この期(ご)に及んで見苦しいぞっ! それ程(ほど)に命が惜(お)しいかぁ!!』

三浦胤義…『元々は鎌倉幕府の御家人なのに、こんな欲ボケ爺さんの言う事を聞いて、朝廷軍に就いた事が大失敗じゃ!!』

完全に崩壊した朝廷軍の元に、執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)が率いる幕府軍が京都に進行して来た。

後鳥羽上皇…『ひぃ〜〜 わしぃじゃない! わしぃは知らん! そう、藤原秀康(ふじわらひでやす/公家)と三浦胤義(みうらたねよし/鎌倉→朝廷)が仕組んだぁんじゃ! 彼奴(あやつ)らに脅されて宣旨(せんじ)を出したんじゃ! 本当だ、信じてくれぇ!』

北条泰時…『上皇(じょうこう)、この期(ご)に及んで見苦しいです。 “鎌倉幕府討伐”の宣旨(せんじ)を発布した事は、何方(どちら)でもいいんです。 ただ、鎌倉幕府の要求さえ聞いてくれれば。』

後鳥羽上皇…『かぁ、鎌倉幕府の要求?』

鎌倉幕府の戦後処理の審判は、皇族関係者の流刑と、朝廷軍の武士や公家は死罪と言う重い判決だった。

第82代天皇だった後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)は、隠岐国(おき/島根県)の隠岐島(おきのしま)に配流(はいる)となる。

第84代天皇だった順徳上皇(じゅんとくじょうこう/朝廷)は、越後国(新潟県)の佐渡島(さどがしま)に配流(はいる)となる。

温厚派で合戦に不参加の第83代天皇だった土御門上皇(つちみかどじょうこう/朝廷)は、京都も、朝廷も、鎌倉幕府も、皇族も、嫌気(いやけ)が差して自ら率先(そっせん)して、土佐国(高知県)に移住して田舎暮らしを始めた。

総大将の藤原秀康(ふじわらひでやす/公家)は河内国(大阪府)まで逃亡するも、直(す)ぐに幕府軍に拘束されて斬首された。

三浦胤義(みうらたねよし/鎌倉→朝廷)は京都の太秦(うずまさ)まで逃亡するも、もう此(こ)れ以上は逃げられないと悟(さと)り自害した。

これを1221年に起こった「承久の乱」(じょうきゅうのらん)と呼ぶ。

1221年に第84代天皇の順徳天皇(じゅんとくてんのう/朝廷)の息子の第85代天皇の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/朝廷)に皇位を譲位(じょうい)していたが、その2ヶ月後に鎌倉幕府の執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)は、仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/朝廷)を皇位から退任させた。

そして、「承久の乱」(じょうきゅうのらん)で朝廷軍が敗北した影響で、1221年に守貞親王(もりさだしんのう)こと後高倉上皇(ごたかくらいんじょうこう/朝廷)の息子の第86代天皇の後堀河天皇(ごほりかわてんのう/朝廷)に皇位を譲位(じょうい)した。

守貞親王(もりさだしんのう)こと後高倉上皇(ごたかくらいんじょうこう/朝廷)とは、第80代天皇の高倉天皇(たかくらてんのう/朝廷)の息子で、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/朝廷)とは兄弟であり、天皇に即位せずに上皇(じょうこう)に就任して院政(いんせい)の治天の君(ちてんのきみ)となる異例の措置が採られた。

相模国(神奈川県)の鎌倉幕府はこの後、1224年に執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)が死去して、3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)が家督継承し、1225年〜1236年まで宇都宮辻子幕府(うつのみやずしばくふ)、1236年〜1333年まで若宮大路幕府(わかみやおおじばくふ)と、御所を移転しながら鎌倉幕府は政権運営を担っていき、1232年に武士(御家人)の規律でもある“御成敗式目”(ごせいばいしきもく)を制定した。

この「承久の乱」(じょうきゅうのらん)を期に、鎌倉幕府は朝廷の動きを監視する為の京都守護を廃止して、京都の六条近くにあった平氏一門の屋敷跡地に六波羅探題(ろくはらたんだい)を開設し、朝廷に対してより一層強固な抑圧を掛けた。

この間に尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれた北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)は、普通の主婦として温かい家庭を築きたかったが、武家と朝廷に人生を翻弄(ほんろう)され、1225年に静かに幕を閉じる。

源頼朝…『マコ(北条政子)、長い間お疲れ様でしたねぇ。 此方(こちら)の世界では、もう、嫌な思いをする事はないよぉ。』

北条政子…『本当にぃ、もう二度と嫌(イヤ)よぉん、あんな世界に戻るのはぁ!! ヨリ(源頼朝)、此(こ)れからは家族共々、ずっと一緒だねぇん! ウフフフ〜』

これが戦争を経験した当事者の想いである。

Skylark /♪ WILDFLOWER

◆ラジオの友◆

■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2023/06/02 (Fri) 12:04:50

以下の記事は2018年6月13日に記述したものである。

▼ ▼ ▼

「「2018年2月16日の深夜0時頃、大阪市東成区中道の民泊施設で訪日アメリカ人が日本人女性を殺害した。

さらに女性の身体をバラバラに切り刻み損傷させ、関西地域に遺体一部を運びだし遺棄した。

一番の問題は殺人。

これは日本人であれ、外国人であれ、他人の人生を奪う最低最悪な愚行だ。

では、なぜ日本人女性は大阪東部の住宅街で殺されなければならなかったのか。

一つにはSNSなどの交流サイトによって、何の地縁人脈もない他人同士が一瞬にして出会う事だろう。

優しい言葉に警戒心が薄れ、会ってみたいと思わせる罠が隠れている事もある。

困っている人を装い善意につけ込み極悪非道な行為に走る事もある。

人を信じられない恐ろしい世の中だ。

そして会う場所。

これはお互いの都合がつく場所であればどこでもいいわけだが、今回、利用されたのが違法民泊施設。

これは殺人鬼にとって身分を明かさず不審に思われる事のなく利用できる格好の場所だったに違いない。

これから殺されるとは思いもせずに日本人女性は兵庫県三田市から電車に乗ってやって来たのだろう。

アメリカ住まいの殺人鬼が、どのようにして大阪でもマイナーな下町の東成区の民泊施設を選ぶ事ができたのか。

ここは木密地域(木造住宅密集地域)と言われる場所で、地元のお年寄りが道端で井戸端会議をし、学校の行き帰りに小学生が通学路として歩き、車でも通りにくい狭い路地だらけの町。

大阪に住んでいる人でもあまり馴染みのない場所だ。

これも便利なインターネットのおかげだ。

殺人鬼は違法民泊施設を掲載している民泊仲介サイトを利用して物件を選定していたのだ。

現実の世界、もしもあの時にああしていればよかったはあとの祭りだが、仮にもし民泊仲介サイトが合法民泊施設のみを掲載し、利用者の身分証明を照合するシステムにしていたのなら、日本人女性は殺されずに済んだかもしれない。

合法民泊施設だからと言って犯罪が起こらないとは限らない。

ただ、無秩序無防備な違法民泊施設より、犯罪を未然に防ぐ手立てのシステムを組んだ合法民泊施設の方が犯罪に遭う確率は格段に低くなるだろう。

この民泊殺人事件の加害者はアメリカ人殺人鬼、そして結果的に殺人に手を貸した違法民泊施設事業者、さらに違法民泊施設を掲載し続けていた民泊仲介サイトの・・・

おっと、企業名を言うところだった。

表ざたになっていない民泊仲介サイト企業も売上(お金)のための犯罪幇助と言わざるを得ない。

言うなれば、ブレーキのない車を販売し、事故が起こっても運転手の責任であって販売した我々には責任はないと言っているようなものだ。

本来、自ら名乗り出て謝罪すべきだろう。

国際交流のため活動していた将来有望な日本人女性の命を30年余りで終わらせた罪の意識を感じてほしい。」」

▲ ▲ ▲

2023年6月時点、コロナウイルス対策が終焉し、海外からのインバウンド(訪日観光客)がドット押し寄せて来る。

ほとんどのインバウンド(訪日観光客)は心から日本と言う国を楽しみたい善良な人達だろう。

ただ、その中に悪事を働く者も紛れている可能性がある。

2018年2月16日の事件の様に。

これら悲劇を繰り返されない為にも、民泊促進協会では2月16日を“民泊を考える日”に制定しました。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2023/06/25 (Sun) 03:21:19

民泊仲介会社は寄付する前にやる事がある。

それと、大阪府と大阪市の自治体や在阪メディアによる当時の報道規制により、民泊仲介会社の社名を隠蔽し公表しなかった事は、人1人の命を軽んじた行為として、京都伏見の天女母神は今でも怒りを忘れてはいませんよ。

インバウンド(訪日観光客)景気や東京オリンピック開催の莫大な利益に目が眩んで、若い女性の命を奪った事件を蔑ろ(ないがしろ)にした天の罪は大きい。

事実と異なるのもフェイクニュースだけど、事実を正確に伝えないのもフェイクニュースである。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/01/24 (Wed) 07:20:38

天界の神様、地獄の大魔王様、民泊促進協会よりお願いが御座います。

2025年に開催される“大阪関西万博”を、是非、成功に導いて下さい。

“大阪関西万博”が開催されれば、世界各国からインバウンド(訪日観光客)が押し寄せ、それが日本全国に行き渡り、日本に巨万の富がもたらされます。

経済産業デジタル協会のAIによる試算では、“大阪関西万博”開催期間中による“経済効果”は、大阪府を除く46都道府県に各3000億円で総計13兆8000億円になります。

これは控えめに見積った金額のため、大阪府を含めれば実際はこれの3倍の41兆4000億円を想定しています。

“大阪関西万博”開催による、これだけの“経済効果”があれば、2024年1月1日に北陸地方で発生した“能登半島地震”の被災復興費用に最低30兆円は回せます。

“能登半島地震”による災害で被災した北陸地方のためにも、万博開催に関わる全ての関係者は“大阪関西万博”を必ず成功させ、41兆4000億円と言う“経済効果”を出すため、“命”と“魂”を掛けてこの試算を死守する意気込みで御座います。

絶対にあり得ませんが、万が一、万が一にも“経済効果”の41兆4000億円に1円でも足りなければ、民泊促進協会を除く、万博関係機関、日本銀行、大阪府&大阪市の自治体、関西財界、在阪メディア、大阪府民、大阪市民の全ての関係者を、“煮るなり”、“焼くなり”、“地獄に落とすなり”、何なりとご自由にして下さい。

関西地方には有能な人材が揃っておりますので、万が一、億が一にも御座いませんが。

『絶対に負けへん、負けへん、う〜ん、負けへん! 41兆4000億円を稼ぎ出すだけの“夢舞台”を創る自信があるからっ!』

この意気込みで御座います。

では、大船(おおぶね)に乗った気分で、2025年を楽しみにしております。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会 URL

2024/02/16 (Fri) 00:30:33

2023年、実質的に新型コロナウイルス対策が終焉し、各々が病原菌対策する“自己責任”となった。

日本には世界各国からインバウンド(訪日観光客)が押し寄せている。

そして関西で一番の観光名所の大阪城にも、その優美な天守閣に惚れ惚れする事でしょう。

多くのインバウンド(訪日観光客)が民泊施設を利用するだろう。

当たり前の様で、当たり前でない景色。

2月16日は民泊業界や民泊利用者にとって忘れてはならない日である。

“民泊を考える日”。

2018年に大阪城にほど近い大阪市東成区中道で、何故あの忌まわしい“違法民泊バラバラ事件”が起こったのか?

性悪説(せいあくせつ)で見れば、「人多く集まる所に犯罪あり」である。

これは過去の歴史を振り返っても、否定のしようがない。

この様な悪質事件に対しても、各々が犯罪対策の意識を高めて“自己責任”のもとで行動しなければならないのか?

大阪と言う土地は、昔からこの様な異様な事件が多い。

2011年8月14日、大阪市天王寺区味原本町の分譲マンションで、そこに住む男性が奥さんと息子を殺害し、遺体をバラバラにして数個の一斗缶に詰め込み、自宅近くの東高津公園周辺に遺棄した。

“大阪一斗缶バラバラ事件”である。

この地は、近鉄上本町駅から徒歩すぐで住環境の良好な人気エリアでもあり、大阪城の南側であの真田幸村(真田信繁)で有名となった真田山も近くにある。

こんな平和な街で、何故、あの様な悍(おぞま)しい事件が起こったのか?

また、上本町駅から西側に坂を下がった日本橋での事件。

1983年12月24日に発覚した“三重県バラバラ事件”では、大阪ミナミで働くホステスさんが男性に殺害され、三重県の伊賀上野に頭部と手首が無い状態で遺体をバラバラされ遺棄された。

犯人は大阪の“黒門市場”で犯行用備品を購入して、大阪市内のアパートで犯行に及んだ。

犯人の男性は、ホステスさんの同棲相手だったと言う。

さらに大阪城周辺の地域を深掘りすると、様々な出来事が見えてくる。

1945年8月14日の“終戦宣言”の前日。

大阪城の周辺にある軍事工場と京橋駅が空襲に遭い300人以上の人々が亡くなっている。

あと1日、“終戦宣言”が早ければ、どう言う結果だったのだろうか。

大阪城の周辺にある大阪ビジネスパークやJRと地下鉄の車両基地は元々は軍需工場で、最も狙われるエリアだった。

だから周辺地域では、それまでにも空襲があり多く人々が亡くなったいる。

今でも不発弾が地中から見つかるのは、その証(あかし)でもある。

1603年に徳川家康が江戸幕府を開き、その後、265年もの長い間は主だった戦争は無かった。

大阪も“天下の台所”として一大都市を形成し、都心部に多くの人々が住む様になる。

「人多ければ悪人多し」なのか。

大阪の日本橋から西に行った千日前は、その時代から“刑場”(けいじょう)が設けられた。

“千日デパート火災事故”があった周辺である。

大阪城から北側の野江にも“刑場”(けいじょう)は設けられ、ちょうど“薬害エイズ事件”で問題となった血液を取り扱ったミドリ十字の会社が近くにあった周辺である。

大阪の土地には“魑魅魍魎”(ちみもうりょう)が住んでいるのかと思うくらい、悪事が密接している。

オカルトマニアなら、“永住の地”に選びたいところだろう。

この“奇怪な惨事”は、1614年に起こった“大坂の陣”が糸を引いている。

徳川軍に包囲された豊臣軍の大阪城は炎上。

豊臣軍と徳川軍の数万人もの兵士が討死し、大阪城の周囲には戦死者が積み上げられている。

さらに豊臣軍の武将や家来は、大阪城周辺で首を討ち取られ、無数の屍(しかばね)が放置されていたと言う。

無念の血で穢(けが)れた土地は、永遠に安らぐ事は無い。

今でも多くの“悪霊”や“怨霊”が大阪市中を徘徊している。

大阪市街地で浮かれた気分で羽目を外せば、これらの“魑魅魍魎”(ちみもうりょう)に目を付けられ、地獄へ引き摺り込まれる事もある。

過去の事件の様に。

『そんな事、知りませんでした。』

大丈夫です。

最後に知る事ができるから。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会 URL

2024/03/17 (Sun) 11:29:34

■山陰新幹線の早期開業を実現へ!

敦賀駅(福井県)から博多駅(福岡県)まで、日本海側の“山陰新幹線”の早期開業を実現へ!

若狭国(福井県)、丹後国(京都府)、但馬国(兵庫県)、因幡国(鳥取県)、伯耆国(鳥取県)、出雲国(島根県)、石見国(島根県)、長門国(山口県)、そして豊前国(福岡県)から筑前国(福岡県)へ。

日本中の800万(やおよろず)もの神様に、毎年の神有月(10月)、出雲大社に参るため“山陰新幹線”で楽々で快適に移動してもらおう!

天照大御神(アマテラス)、月読命(ツクヨミ)、須佐之男命(スサノオ)、大気都比売命(オオゲツヒメ)、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)、そして八岐大蛇(ヤマタノオロチ)、は“新幹線”が大好きです♪。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/04/01 (Mon) 02:07:43

●日本で一番に盛り上がるイベントと言えば何か?

1月のお正月、2月のバレンタイン、12月のクリスマス。

どれも不正解である。

現代の日本人が最も愛して止まないのは、10月の“ハロウィン”である。

秋口に入ると街中ではオレンジ色のカボチャオバケが彩(いろど)られ、「どんなコスプレで“ハロウィンパーティー”に参戦するか」と、今か今かと心待ちにする若者が急増する。

この日だけは“オバケ”に取り憑かれる事に“喜び”と“快感”を覚える。

1年で1回限りの“地獄の祭典”。

ただ、この大阪での街中は、毎日が賑やかな“ハロウィンパーティー”の様なものである。

日本人の心を掴んで離さない、正に“エブリハロウィン”。

大阪市中には“ハロウィン”を体感できる“跡所”と、その地にまつわる“時事”がいくつもある。

それらをぜひ、大阪に来て体感して頂きたい。

●まず、巡ってもらいたいのは“大阪七墓”(おおさかななはか)である。

江戸時代に身元の分からない遺体を“無縁仏”として埋葬された。

[一]梅田墓地
大阪市北区のJR大阪駅北側での再開発地区でもある“グランフロント大阪”や“グラングリーン大阪”の一帯。

工事中に多数のガイコツ(髑髏/しゃれこうべ)が発掘される。

ルシアンペラフィネの“スカル”の服を着ていけば、より街にマッチする。

公園の“グリーン”よりも、墓地の“グレー”のイメージの方がピッタリである。

ここに来れば、建ち並ぶ超高層ビルも“墓石”に見えてくる。

[二]南浜墓地
大阪市北区豊崎町から中崎町あたりにあった墓地。

古い家が建ち並ぶ昔ながらの下町風情が残り、現在も一部の墓地は存続している。

現在では周辺にタワーマンションが多く建設されている。

[三]葭原墓地(よしわらぼち)
大阪市北区の天神橋筋六丁目駅の一帯。

近くには大きな墓地と火葬場がある。

跡地では、1970年に発生した“天六ガス爆発事故”により80人近くの人々が亡くなっている。

そこから南側に行った“扇町公園”は明治時代に“大阪監獄”(おおさかかんごく)があり、刑場(けいば)も併設されていたと言う。

その扇町公園に隣接する関西テレビの役員のご子息が、2019年に千里山の交番に押入りお巡りさんを襲撃し拳銃を奪う“強盗殺人未遂事件”を起こしている。

関西テレビとは、2020年に女子プロレスラーが自害した原因となったテレビ番組を制作したフジテレビの系列局である。

[四]蒲生墓地(がもうぼち)
大阪市都島区のJR京橋駅から東側に行った一帯で、現在も一部の墓地は存続している。

1945年8年14日の“終戦宣言”の前日に、大阪城の周辺にある軍事工場と京橋駅が“大阪大空襲”に遭い300人以上の人々が亡くなっている。

ここから北西側に行くと、2000年に発生した“雪印集団食中毒事件”の大阪工場があった。

これが主因で雪印乳業は事実上の倒産に追い込まれる。

そこからさらに北側に行くと“大阪拘置所”(おおさかこうちしょ)があり、刑場(けいば)も併設されている。

葭原墓地(よしわらぼち)から大川を越えた東側にあたる。

[五]小橋墓地(おばせぼち)
大阪市天王寺区の近鉄上本町駅から北側に行った一帯で、跡地は東高津公園(ひがしこうづこうえん)になっている。

2011年8月14日に大阪市天王寺区味原本町の分譲マンションに住む男性が奥さんと息子を殺害し、遺体をバラバラにして数個の一斗缶に詰め込み、自宅近くの東高津公園(ひがしこうづこうえん)周辺に遺棄した“大阪一斗缶バラバラ事件”が、正にこの場所である。

[六]千日墓地
大阪市中央区の千日前の一帯で、刑場(けいば)も併設されていた。

大阪では最も有名な“オカルトスポット”である。

100人以上の人々が亡くなった“千日デパート火災事故”があった周辺である。

この火災により建築物の防火に対する基準が強化された。

千日前の北側には神戸のホテルで暗殺されたヤクザの親分の事務所があった。

[七]飛田墓地(とびたぼち)
通天閣の南側に行った大阪市西成区の動物園前駅の一帯で、刑場(けいば)も併設されていた。

西側に行くと日雇い労働者の街として有名な“あいりん地区”があり、何度となく暴動が起こっているが、最も印象深いのが1990年の“西成暴動”ではないだろうか。

南側に行くと暗黙の花街でもある“飛田新地”(とびたしんち)があり、昔ながらの街並みと夜の妖艶なネオンが雰囲気を醸し出している。

揚屋(あげや)に「入る、入らない」は別にして、大阪では成人すると必ず見学にいくスポットとなっている。

●次は刑場(けいば)で、討首など罪人を処刑する場所で、余程(よほど)の悪党の討首は晒場(さらしば)に持って行く事もある。

[一]千日刑場
千日墓地に併設されていた。

[二]鳶田刑場(とびたけいば)
飛田墓地(とびたぼち)に併設されていた。

[三]野江刑場
蒲生墓地(がもうぼち)から北側に行った大阪市都島区の一帯。

1980年代の“薬害エイズ事件”で問題となった血液を取り扱ったミドリ十字の会社が近くにあった周辺である。

[四]三軒家刑場(さんげんやけいば)
大阪ドームから南側に行った大阪市大正区の木津川の一帯。

当時はこの一帯が海沿いだった事もあり、遺体処理に便利なため、千日刑場も含めて適地だったと思う。

●さらに最も悪党な罪人の討首を見せしめるため、高札場(こうさつば)に併設して晒場(さらしば)もあった。

[一]高麗橋(こうらいばし)
大阪市中央区の土佐堀通の南側の東横堀川に掛かる橋。

江戸時代の1837年に勃発した“大塩平八郎の乱”にて、この一帯を含めて大坂の市中はほとんどが焼失する。

その主因となった“東町奉行所”が、ここより東側の大坂城前にあった。

[二]日本橋(にっぽんばし)
大阪市中央区の堺筋と千日前通の交差点付近の道頓堀川に掛かる橋。

1983年12月24日に発覚した“三重県バラバラ事件”で、大阪ミナミで働くホステスさんが男性に殺害され、三重県の伊賀上野に頭部と手首が無い状態で遺体をバラバラされ遺棄された。

犯人が殺害用備品を購入したのが、日本橋(にっぽんばし)の南側にある“黒門市場”。

●こうして見ると墓地や刑場(けいば)は、遺体処理に適した川や海に隣接して建っている事が多い。

大阪市は昔から“水の都”や“八百八橋”(はっぴゃくやばし)と言われ、“水”と関わりの深い都市である。

大阪市中に無数の“怨霊”や“悪霊”、それに“魑魅魍魎”(ちみもうりょう)が漂う理由も理解できる。

正に“ハロウィンファン”の皆さんは、大阪を旅先に選べば毎日の様に素敵な体感ができる。

2025年に開催される“大阪関西万博”とセットで、これらの跡所にも巡って欲しい。

日本人、いや、世界の人々に、ぜひ大阪に来てもらい、数ある“パワーダウンスポット”を堪能してもらいたい。

『ウェルカム トゥー “エブリハロウィン”オオサカ!』

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会 URL

2024/05/03 (Fri) 21:31:10

《海に沈んだ路面電車》

昭和の時代まで駆け抜けた名古屋市内の“路面電車”。

廃線から50年近く経った令和の時代に、何と海底から当時の“路面電車”が発見されたと言う。

ドキュメンタリーの内容は、まさに“夢”と“浪漫”を諦めずに追い求めた結集とも言える。

海に沈む“路面電車”を観た時、“スタジオジブリ”のアニメ映画「千と千尋の神隠し」に登場する海の上を走る“電車”を想い描いた。

渥美半島の海に沈む“路面電車”と、「千と千尋の神隠し」の海の上を走る“電車”。

何か相通じるものがある。

しかも、渥美半島は愛知県、近年オープンした“ジブリパーク”も愛知県。

これは“偶然”ではない。

何か意味のある“必然”である。

ドキュメンタリーでは、撮影に参加した若者が自費でボロボロの“路面電車”を購入して、少しずつ修繕している内容も含まれている。

『これである!』

以前、“ジブリパーク”のある愛知県長久手市の市長が、『最寄駅の愛地球博記念公園駅の周辺には何もなく寂しい。』と語っていた。

ならば駅前に、このボロボロの“路面電車”を展示させてあげたらどうか?

現在の保管置場からの運搬費用は愛知県が負担し、設置場所の費用も無料。

ただし、ボロボロの“路面電車”の「修繕費用」や「保全計画」には、愛知県は一切の手と口を出さず、所有者の若者の計画に基づいて実施する。

ボロボロの“路面電車”の状態から完成に近づくまで5年、10年掛かるのかは分からないが、その過程も含めて“ジブリパーク”の来園者(リピーター)などは楽しむ。

また、“スタジオジブリ”に依頼して、海底で見つかった“路面電車”のドキュメンタリーの内容を15分くらいのアニメで制作してもらう。

ボロボロの“路面電車”の展示場に街頭テレビ(モニター)を設置して放映すると、お互いの内容がより深みを増してくる。

特に“路面電車”を探しに海に出て行く船の名前が「ぽん助」も、何か“ジブリ”らしさを醸し出し“偶然”とは思えない。

ドキュメンタリーアニメの最後は、海底で“路面電車”を発見し大仕事を終えた人達が、船の「ぽん助」で港に帰って行く。

アングルは海底に沈む木枠だけになった“路面電車”。

その“路面電車”が元の姿を取り戻し、海底を線路がドンドンと伸びて行く。

“路面電車”は真ん中の丸いライトを点灯させ、ゆっくりとゴトゴト動き出す。

アングルは車内に移り、魚や海藻が行き交い、“路面電車”がゴトゴトと進むにつれ吊り革が揺れる。

その吊り革が1つだけ無い箇所があるところを見せて“おわり”。

面白いと思うのだが。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/06/21 (Fri) 06:17:16

2023年の新型コロナウイルス対策の終焉により、「和文化」を体感しようと再び世界各国からインバウンド(訪日観光客)が大量に日本へ押し寄せている。

いったい、この“日本の魅力”は何処(どこ)にあるのか?

インターネット環境が整備された事で、日本から輸出される自動車や工業機械だけでなく、クオリティーの高いアニメや音楽などが手軽に情報収集できる様になった事も一因であろう。

では、期待を込めて日本に来るインバウンド(訪日観光客)に対して、日本の“文化”や“歴史”をきちんと正確に説明できる日本人が、果たして何人いるだろうか?

現在、その足を着けている土地には、幾多(いくた)の“文化”や“歴史”が隠されている。

例えば、3000年近い日本の長い歴史を、時代を追って説明できるだろうか?

竪穴式住居や貝塚などが盛んに増えていった「縄文時代」。

お米を効率的に作りだす稲作文化の発展や邪馬台国があった卑弥呼(ひみこ)の居た「弥生時代」。

王権制が確立して海外から文化や技術が入って来た「古墳時代」。

そして政治の中心が畿内に移り聖徳太子がウロウロしていた「飛鳥時代」。

朝廷と藤原氏により奈良を拠点とした都造りをした「奈良時代」。

雅な文化が華やいだ京都の「平安時代」。

源氏と北条氏により武家政権が確立した「鎌倉時代」。

足利氏による政権交代が行われた「室町時代」。

下克上(げこくじょう)により各国の武将が台頭した「戦国時代」。

戦(いくさ)による国取合戦の終焉を迎えた「江戸時代」。

そして、あれっ?

そこからの明治、大正、昭和、平成、令和は「何時代」?

これらは日本独自の元号なだけで、時代名ではない。

そう言えば、「明治維新」以降の時代名を歴史の時間で習った記憶が無い。

では、今すぐに時代名を確定する必要がある。

なんせ、インバウンド(訪日観光客)に質問されたらAI(人工知能)より先に答えなければならない。

外国人…『江戸時代ノ後、今ノ時代ハナニデスカ?』

日本人…『え〜と、え〜と、明治? う〜ん、昭和か平成か令和か?』

答えられなければ、インバウンド(訪日観光客)は“ガッカリ”して国に帰ってしまう。

その為、明治から令和に掛けての150年近くを、日本で起こった過去と時事を照らし併せて最適な時代名を考案します。

明治は海外各国に対する開国に始まり、近代産業が輸入され、日本の風景も自然を解体して鉄とコンクリートにドンドンと代わっていき、大正に入る前後から殺傷能力の高い武器を大量生産して近隣他国への領土拡大を目指す。

まさに地球レベルで共存して生きる事よりも、身近な個人が便利な道具でいかに裕福になれるかを競った“文明開花”である。

そこからの昭和では、多少の環境と国民の犠牲を払った太平洋戦争を経験して、日本国土を焼け野原と化して裸一貫から再出発し、手先の器用さを武器に得意な“ものづくり”で“高度経済成長”を迎え、自然豊かな山々を切り拓き、美しい海を埋め立て、世界が認める近代化の日本を形成した。

平成からはバブル崩壊や自然災害を経験するも、“不屈の精神”で困難に立ち向かう日本人はまだまだ健在です。

そんな過去と時事を総合判断して、やはりこの時代の象徴は、街も物も豊かになった“ものづくり”の日本を映し出す“高度経済成長”ではなかろうか?

原風景が残る自然を解体して、高層ビルや高速道路などを建設し、大変便利な暮らしを手にしてきた。

ちょうどこの時代の人達を、作家で経済学者の堺屋太一さんが「団根の世代」(だんこんのせだい)と命名している。

それにあやかって、この150年近くを男性社会が築き上げた意味を込め、“団”を“男”に掛けて「男根時代」(だんこんじだい)に決定しました。

「男根時代」(だんこんじだい)。

なんて良い響きなんだろう。

これでインバウンド(訪日観光客)に質問されても直ぐに返答できますね。

外国人…『江戸時代ノ後、今ノ時代ハナニデスカ?』

日本人…『江戸時代の後の、明治から令和までは男根時代(だんこんじだい)でぇ〜す!』

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/07/14 (Sun) 14:01:01

『異国情緒あふれる港町、神戸(KOBE)。』

1990年代までの神戸は、関西をはじめ全国から人が押し寄せる日本屈指の観光地だった。

山手に沿って建ち並ぶ洋館の「異人館」。

海手に開ける海岸とポートタワーが建つ「メリケン波止場」。

歴史が積み重なった重厚感ある建築物が集積する「居留地」(きょりゅうち)。

中国大陸から渡ってきた華僑(かきょう)により形成された中華街の「南京町」。

こう見返しても、“昭和の旅行ガイドブック”には見栄えの良いエリアが神戸には数多くある。

いわゆる“昭和のお洒落”である。

そのため、インターネットが世界をつないだ2000年に入った頃から、この神戸の地位は下落の一途を辿(たど)る。

当然である。

“昭和の感覚”のまま都市計画を進めれば、情報過多な時代には見向きもされなくなる。

それに世界中から押し寄せるインバウンド(訪日観光客)が求める「和文化」が、この神戸には何処(どこ)にも無い。

1970年代から日本人観光客などに『お洒落』や『神戸モダン』など言われチヤホヤされた結果である。

しかも、アメリカやヨーロッパのインバウンド(訪日観光客)にしてみれば、神戸にあるのは「自国の文化」でもある。

わざわざ見に行く“価値”など、無い!

日本人がイタリアのミラノに行って、“クルクル寿司”で食事をする様なものだ。

では、神戸はこのまま何もせず、京都や大阪を指を咥(くわ)えて見ているだけなのか。

そんな事はない。

神戸をはじめ、この兵庫県には素晴らしい観光スポットが数多く存在している。

何も観光地は華やかな場所だけではない。

「負の遺産」も観光スポットに成り得る。

例えば「戦争遺産」だ。

1940年前後の神戸などの臨海部は軍事工場が多く、空襲の標的にされた。

当時の光景を偲(しの)べるのがジブリ映画の“火垂るの墓”である。

多くの子供達が餓え死する三ノ宮駅や、幼い兄妹が必死になって生きた住処(すみか)の穴があった西宮市の苦楽園駅から夙川を渡った東部にあるニテコ池。

空から爆弾の落ちてこない現代では、到底に考えられない“惨状”である。

“命の重み”など更半紙(わらばんし)1枚より軽かったであろう日本新政府の“軍事政策”の数々。

そう言う事を思い返しながら、神戸から西宮を探索するのも“人生の肥やし”になる。

戦後の日本で、神戸が最も脚光を浴びたのが1981年に開催された「神戸ポートアイランド博覧会」(ポートピア81)の頃である。

神戸市の北部に広がる山岳地帯を切り拓き、大量に出る土砂を神戸港に投棄して人工島を造築する。

それにより出来たのがポートアイランドと六甲アイランドである。

その切り拓いた山々には西神ニュータウンや鈴蘭台ニュータウンの大規模住宅地が造成された。

海手と山手の双方に人を呼び込み、三宮を中心に人工島とニュータウンが一大形成する大神戸が誕生した。

しかも、事業主体の神戸市には“巨額の利益”がもたらされ、「神戸株式会社」と言う異名を名乗った。

ただ、この“成功体験”が大きな“代償”を生む。

「日本誕生の神」である伊耶那岐神(イザナギ)と伊耶那美神(イザナミ)の“神生み”により、自然の神として誕生した“海の神”の大綿津見神(オホワタツミノカミ)と“山の神”の大山津見神(オオヤマツミノカミ)。

この“海の神”の大綿津見神(オホワタツミノカミ)が司る神戸港の海に大量の土砂を投棄し人工島を造築し、“山の神”の大山津見神(オオヤマツミノカミ)が司る神戸北部の山岳地帯を切り拓いてニュータウンを造成した。

この神に対する“冒涜”(ぼうとく)は、“海の神”の大綿津見神(オホワタツミノカミ)と“山の神”の大山津見神(オオヤマツミノカミ)だけでなく、その嫡流(ちゃくりゅう)の源泉でもある伊耶那岐神(イザナギ)と伊耶那美神(イザナミ)も大いに怒らせる事となる。

これにより多くの祟り神(タタリカミ)が兵庫県下に解き放たれています。

それが、この後から起こる大きな“代償”へとつながっていく。

そして1995年に起こった「阪神大震災」である。

中心地の三宮から元町に掛けてビルが倒壊し、国道43号線の頭上を走る阪神高速はなぎ倒され、古い商店街が残る長田周辺は焼け野原になった。

現在は、震災の面影はほとんど残っていないが、それに伴った復興事業を見て回るのもいい。

その象徴が、JRと地下鉄の新長田駅周辺に広がる新街区である。

低層階に商業施設、高層階に分譲マンションなどが入居する「アスタ棟」の数々。

ある意味、“異様”である。

その“異様”の意味を知りたい方は、是非、新長田まで足を運んでもらいたい。

震災の爪痕がまだ残る1997年に起こったのが「神戸連続児童殺傷事件」で、“少年法”を再考するきっかけにもなった。

事件は地下鉄の名谷駅(みょうだにえき)近くで、事件直後の中学校周辺では、上空にヘリが飛び交い、地域には規制線が張られ、大人数の警察官が巡回し、あの時の西神ニュータウンは“異様”な空気が漂っていた。

現在でも“未成年犯罪”は発生しているが、『他人の人生を奪う』ことの愚かさは、子供だけでなく、大人も理解する必要がある。

世紀が変わり、ミレニアムが過ぎ去った2005年に起こった「JR線尼崎脱線事故」は、現実の事故とは思えない“惨状”だった。

場所はJRの尼崎駅と塚口駅の間の鉄道沿線に建つ分譲マンション。

事故当時に、この分譲マンションに勤務していた管理員に話しを聞いた事がある。

『朝の清掃を終えて管理事務所に戻ったらなぁ、どぉえらい音がして、建物が大きく揺れたんやぁ!』

『こりゃ、また阪神大地震が来たかぁと思い、慌てて外に飛び出してぇん。』

『ただなぁ、周り見渡しても、地震の痕跡がありぃしまへぇんやろぉ。』

『ならなぁ外は、なんやぁガソリン臭い言うかぁ、オイルの臭いが充満しとったわぁ。』

『でっ、駐車場の方を見に行ったら、ご覧の有り様やぁ!』

『最初、現状を理解するのに時間が掛かったわなぁ〜 電車がマンションに突っ込むなんて、夢にも思いませんやぁろぉ。』

『少し時間が経ってから我に返って、こりゃ、えらいこっちゃと思ったわぁ。』

自動車事故に比べ、頻繁(ひんぱん)に起こる事のない列車事故。

それ故(ゆえ)に、一度(ひとたび)起これば大惨事に発展する。

あの当時、近畿圏の通勤電車では先頭車両に乗車する人が激減したが、1年も経たずに普段通りに戻っていた。

人間の“学習能力”を象徴している。

照り付ける太陽、夏の暑い日、2008年7月に神戸市灘区を流れる都賀川(とががわ)の水路に整備された遊歩道で遊んでいた数十名の子供が、川の水源となる六甲山でゲリラ豪雨により、鉄砲水が突然に下流に押し寄せて遊んでいた子供が流されていった。

10人近くは助かったが、保護者も含めて5人の命が奪われた。

この「都賀川水難事故」を受けて山から海に流れる神戸市の地形が仇(あだ)となり、川の内に子供が水遊びできる遊歩道などを整備した自治体の管理能力の無さの責任を問う声も挙がっていた。

ただ、河川の中に入れる様に整備しなくても、子供と言う生き物は水の中に入って遊ぶものである。

それは、誰にも止められない。

だから、神様が何時(いつ)も見守ってくれている。

ただ今回は、その神様が・・・

尼崎の電車事故現場から南下した長洲公園近くの分譲マンションで、2012年に起こった「尼崎監禁変死事件」も衝撃的だった。

場所は阪神電鉄の杭瀬駅(くいせえき)の近く。

女ボスによる“支配統治”により複数人の大人達がマインドコントロールされて、抵抗すれば亡き者にする。

第三者から見れば『そんな事は普通、起こらないだろ!』と思うが、当人達にすればそれが“常識”であり“現実”だったのかも知れない。

事件現場となった分譲マンションでは、最上階の住戸のルーフバルコニーに目隠し用の壁が設けられていたのが“異様”だった。

身近な人こそ、厳選する必要がある。

『独り寂しい』からと言って、手当たり次第に知人を増やすと、いつ何時(なんどき)、この様な事件に巻き込まれるかも知れないので、注意が必要である。

そして、“厳選人事の極み”が2024年の「兵庫県職員抹殺事件」である。

事件要因となった場所は地下鉄の県庁前駅もしくはJRの元町駅近くの山手幹線沿いの兵庫県庁で、兵庫県警察本部も近くにある。

『不都合な人間は、消す!』

戦国時代から400年以上の時を経ているが、その時は当たり前だった“影の軍団”の様な組織が現存していた事に驚く。

因(ちな)みに「尼崎監禁変死事件」の主犯の女ボスは、この兵庫県警察本部の留置所で消されている。

兵庫県の“影の軍団”にしてみれば、たとえアメリカの前大統領でも抹殺するのは“朝飯前”です。

「兵庫県職員抹殺事件」の被害者は西播磨県民局の職員という事もあり、その場所はJRの相生駅(あいおいえき)か西栗栖駅(にしくりすえき)が最寄駅となる。

ただ、20m以上は歩かされるが、“怒り”を堪(こら)えて訪問しよう!

更半紙(わらばんし)1枚より軽い“命の重み”を、兵庫県を巡って感じてみては如何(いかが)ですか?

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会 URL

2024/10/07 (Mon) 18:57:57

▼以下は、2020東京五輪が開催される前の2019年2月に記述したものです。

この後、2019年12月頃に中国で発症したコロナウイルスが感染拡大して2020東京五輪は延期し、2021年に無観客開催となった。

2022年2月にはロシア戦争の勃発、さらに2022年7月に日本の元首相が暗殺される前代未聞の事件が発生した。

これらが果たして偶然だったのか?

それこそ“神のみぞ知る”である。

▼観光立国を目指す日本で、とんでもない実態が明らかになりました。

原風景が残る地方の自然に対し、東京など数百億円規模の都市開発ビジネスによる破壊行為が行われている。

都市開発で地表からえぐり出された土砂を、神が住むと言われる日本の山々に投棄していると言う。

当然に開発業者もこの実態は把握しているはずです。

東京など首都圏の開発ラッシュを進めビジネスとして収益を拡大できれば、地方に残された自然や環境の美しさや素晴らしさはどうなろうと関係はないという事でしょうか。

しかもこれら行為は森林法など法規制が無いため違法ではないと言う。

法令遵守の範囲内で金儲けのためなら何をやってもよい。

大人の事情や法の盲点か。

これがこの世の事実であり実態でもある。

山の神々が住むと言い伝えられる神秘乃国・日本を期待して世界中から訪れる外国人観光客がとてもがっかりする出来事でしょう。

日本の聖地とも言うべき伊勢神宮や熊野古道にほど近い三重県の山々。

都市開発の関係者は神をも恐れぬと言うのか。

祟りだろうか、呪われようが、罰(バチ)が当たろうが関係ない。

己の子孫が不幸に見舞われ破滅しようとも、今さえよければよい、自分達さえよければそれでいい。

まぁ、そういう生き方もあるのかもしれない。

まさに、その建造物に集う人々が、悪霊にとり憑かれ、地獄に引きずり落とす意図がある。

人としてこの世で生きているうちから、地獄に落ちることが判明しているとは・・・

恐ろしい。

▼東京の残土、三重の山へ、建設ラッシュ過疎地に流入

三重県南部の紀北町の山林に東京五輪を控えて開発が続く東京都心のビル建設現場などで生じた大量の建設残土が投棄され、景観悪化や崩落の危険が生じている。

建設残土は産業廃棄物と異なり明確な規制ができなき中、過疎地の安い山林が残土ビジネスの標的となっている。

事態の深刻化を受け三重県が投棄規制する条例制定に動きだした。

世界遺産熊野古道が通る霊場紀伊山地の裾野にむき出しの土砂が20m近い高さまで急角度で積まれている。

土砂は東京港などから紀北町の長島港や尾鷲市の尾鷲港に船で運ばれ、近隣の山林が残土の投棄場所となっている。

東京郊外に捨てに行くより運搬コストが安く済むのが理由。

過疎や高齢化で林業が衰退し、山林価格は下がり続ける一方、山林の地権者にとっては収入が見込めるため残土投棄場となっている。

残土運搬船は2012年頃から三重県などの港に入港し、運搬埋立する紀北町の土砂は下記の都市開発によるもの。

①赤坂プレスセンターの保安施設工事
②横浜環状南線のトンネル工事
③大手町の超高層ビルの開発
④豊洲の超高層ビルの開発
⑤東京都の高級マンション・戸建て住宅などの開発
⑥神奈川県の高級マンション・戸建て住宅などの開発

紀北町や尾鷲市では残土の山が巨大化した2018年頃から、町民から不安の声が相次ぎ、大雨で残土が崩落し水路を塞ぐ被害も多数発生している。

残土ビジネスの背景には、有害物質を含まない土砂の積上げを規制する法令が無い事にある。

1ha超の山林開発には森林法で一定制限が可能だが、残土への対処が目的ではない。

開発許可を取得すれば土砂投棄をいくらでもでき違法にはならない。

廃棄物問題ネットワーク三重の弁護士は、残土投棄する際の届出を出し、積上げる角度や高さを制限する条例が各都府県にはあるが、三重は残土処理制限が無いため無法地帯となっていると言う。

三重県では、残土の搬入や積上げを規制する条例検討を表明するが、条例の厳しさは各自治体により差があり、条例がある大阪府でも2014年に残土崩落事故が発生している。

三重県の自治体では、本来は国の責任で全国一律に規制する必要があり、町を都市の残土捨て場にされる事は耐えられないとしている。

【中日新聞:2019年2月11日】

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2024/12/29 (Sun) 19:26:51

♪変わらないも それは 俺たちへの殺意〜 君は“大阪違法民泊バラバラ殺人鬼”〜

日本では、2018年に施行した“住宅宿泊事業法”に基づいた合法民泊施設を利用しましょう。

Re: ■インバウンド(訪日観光客)解禁で、もう一度考える民泊殺人事件 - 民泊促進協会

2025/02/16 (Sun) 00:30:55

2月16日は民泊業界や民泊利用者にとって忘れてはならない日である。

“民泊を考える日”。

2018年に大阪城にほど近い大阪市東成区中道で、何故(なぜ)あの忌(い)まわしい“違法民泊バラバラ事件”が起こったのか?

被害者の女性は、“いしん”を掛けて情報隠蔽(いんぺい)した者達に葬られたと言っても過言では、無い!

♪さあぁ〜 皆で殺(や)りましょ。

♪貴女(あなた)と君と僕。

♪グサグサ ブスブス ギコギコ バラバラ。

♪皆で殺(や)りましょ。

これじゃ、困るんですよね。

今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:27:40

◆◇◆其の九十二:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

此処(ここ)でちょっとブレイク。

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は、平安京では貴族の礼儀作法を知らない武骨者(ぶこつもの)と呼ばれた。

では、軍馬で戦地を駆け巡り、弓矢を射り、太刀(たち)で斬り倒す武士に礼儀作法はないのか?

当然に武士道の戦(いくさ)に於(お)ける礼儀作法もある。

では、武士の“礼儀作法”を見てみよう。

武士は卑怯(ひきょう)な事を恥(はじ)と思い、礼節を重んじる。

1人の武将が太刀(たち)1本で前に出れば、敵陣も1人の武将が太刀(たち)1本で前に出る。

10人の弓矢部隊が列を連ねれば、敵陣も10人の弓矢部隊が列を連ねる。

此(こ)れが武士道である。

この考えは200年頃に中国大陸で戦乱が繰り広げられた、魏(ぎ)の曹操(そうそう)、呉(ご)の孫権(そんけん)、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が覇権争いをした“三国志”でもよく見られる。

戦闘武装は、目立つ鍬形(くわがた)の兜(かぶと)、唐綾縅(からあやをどし)の鎧(よろい)、錦の直垂(ひたたれ)など、遠くからも目立つ様に派手な装飾が施された。

交戦武器は、厳物(いかもの)作りの太刀(たち)、重籐(しげとう)の弓、石打(いしう)ちの矢など、殺傷能力も重要だが高貴な武具が好まれる。

戦地移動は、武将なら軍馬に跨(またが)り、その馬や装飾品にも一手間(ひとてま)加えられており、鬼葦毛(おにあしげ)の名馬、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)、黒漆塗(くろうるしぬり)の鐙(あぶみ)など、血統の良い力強い名馬に最高品の装飾をしてこそ一流の武将と言える。

合戦にも作法や規律がある。

“先陣争い”とは味方の中で一番に敵陣に進撃した武士を指す。

この先陣を切った勇猛な武士として味方からも、敵陣からも名前を知られる事になる。

先手必勝で一番最初に戦地に赴(おもむ)けば、有名な武将を討ち取るチャンスも多くなり、手柄を立てる事ができる。

この為に、同じ陣営で仲間同士の武士が、相手と戦う前に“先陣争い”を繰り広げる。

この流れで“後世に名を残す”ことが戦(いくさ)で重要になり、合戦が終了した後の恩賞や褒美、武功に影響し、武将になると統治する領土の広さにも影響を及ぼす。

合戦の最中に『我こそは、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう/織田)である!』と大声を張り上げて、敵陣の名将を探し回り討つ事が出世の重要なポイントとなってくる。

大将軍や総大将の首を討ち取り首級(しゅきゅう)を持ち帰り首実験を実施して、その位に値する恩賞や武功が決められて、その後、首級(しゅきゅう)には化粧が施されお歯黒にして桐(きり)の木箱に入れる慣例もある。

戦国武将の織田信長(おだのぶなが/織田)は合戦にも作法や規則を無視し、大将軍や総大将の首級(しゅきゅう)よりもその居場所の情報をもたらした者に多くの恩賞を与えたり、1570年に起こった「姉川の戦」で打ち負かした越後国(福井県)の最後の当主の朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)、近江国(滋賀県)の武将の浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)の首級(しゅきゅう)を髑髏(しゃれこうべ/ガイコツ)にして黒漆を施し金箔を貼って宴会で披露した逸話も残る。

これは現代でも通用するセオリーで、常識的なルールに基づきつつも、誰もした事が無い、誰も気付か無い事を成し遂げた者が、後世に名を残して歴史に刻む。

その根底にあるのが、武士の“礼儀作法”である武士道です。

人を欺(あざむ)いたり、金儲けばかり考えている礼節知らずは、いつの世も神様から嫌われて地獄に落とされるのは、変わらない。

DIONNE BROMFIELD /♪ YEAH RIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:28:37

◆◇◆其の九十三:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

1183年に木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が木曽源氏軍を率いて、備中国(岡山県)の水島(みずしま/倉敷)に“平氏討伐”の為に進軍した。

この木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が平安京を留守にしている間に、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)は院宣(いんぜん)を、第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)は綸旨(りんじ)を、“木曽義仲討伐”の名目で相模国(神奈川県)の鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)をはじめ日本全国の武将に伝令(でんれい)を出した。

この詔勅(しょうちょく)を受けた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)に対して“木曽義仲討伐”の挙兵する条件として2つの条件を出した。

1つ目は、官位を伊豆国(静岡県)に流刑となった「平治の乱」(へいじのらん)の前の位(くらい)に戻す事。

2つ目は、東国統治の為に相模国(神奈川県)の鎌倉の大倉御所(おおくらごしょ)を幕府機関として認める事。

平安京の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)は緊急性を要したので、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の条件を勅許(ちょきょ)した。

大倉御所(おおくらごしょ)で源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は義父の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)の知恵と知識を得ながら、政治基盤の構築に試行錯誤していた。

源頼朝…『う〜〜ん、あっ! お義父さん、飛鳥時代の律令官制みたいな御成敗式目(ごせいばいしきもく/武家規律)なんて良くないですか?』

北条時政…『おう、良いね、それぇ採用! 奈良時代から続く藤原氏北家(ほっけ)の摂関政治を踏襲(とうしゅう)した、頭脳明晰(ずのうめいせき)な執権(しっけん)による“13人の合議制”で政権運営を担おう。』

源頼朝…『そうですねぇ〜 武将は力はあるが、お頭(つむ)がちょっとねぇ・・・』

そんな幹部級の大事な会議に乱入してきたのが、元は平氏軍の武士で、鵐窟(しとどのいわや)で隠れていた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を救済した梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)である。

梶原景時…『緊急事態の申立て! 殿下の愛馬でもある池月(いけづき/生唼)を、是非(ぜひ)、私に譲って下さい。 名馬の池月(いけづき/生唼)で出陣すれば、必ずや鎌倉政権に大きく貢献できますぅ!』

源頼朝…『う〜〜ん、困ったなぁ〜 池月(いけづき/生唼)はその名の通り、池に映る月の様に美しいからなぁ〜』

梶原景時…『そこを何とか、この私にお譲り下さい!』

源頼朝…『ただ、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)殿にも恩義があり、先般(せんぱん)の「石橋山の戦」(いしばしやまのたたかい)で敗北した時には、鵐窟(しとどのいわや)で助けてもらった命の恩人でもあるからなぁ〜』

梶原景時…『そうでしょ! そうでしょ!』

源頼朝…『ではぁ、こうしょう! 愛馬の池月(いけづき/生唼)は譲れないけど、もう一頭いる愛する名馬の磨墨(するすみ)ならいいよぉ。』

梶原景時…『おおっ! あの磨墨(するすみ)ですかぁ! 申し分ない、有難う御座います。』

その数日後、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が愛妻の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)と特注の回転ベッドでハッスルしている最中(さいちゅう)に、今度は佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)がその“愛の館”(あいのやかた)に飛び込んできた。

源頼朝…『どうだぁマコ(北条政子)、車懸(くるまがか)りの陣で攻め入る源氏軍のこの腰の動きをぉ!』

北条政子…『いやぁ〜〜ん! 源氏軍がマコ(北条政子)の中でグルグル回っているわぁ〜』

佐々木高綱…『緊急事態の申立て! 梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)殿に譲られた名馬の磨墨(するすみ)の様に、私にも殿下の愛馬を譲って下さい。 殿下の名馬で出陣すれば、必ずや鎌倉政権に大きく貢献できますぅ!』

源頼朝…『おいっ! マコ(北条政子)とハッスルの最中(さいちゅう)だぞぉ! お前は無礼者かぁ!』

北条政子…『マコ(北条政子)なら大丈夫よぉん! 何なら370年後に締結された“甲相駿三国同盟”(こうそうすんさんごくどうめい)の様に、この3人で源北佐三国同盟(げんほくささんごくどうめい)で結び合いましょうかぁん?』

佐々木高綱…『御意(ぎょい)!』

源頼朝…『御意(ぎょい)ってお前、将軍の嫁だぞぉ! まあ、わしぃもフリチンで丸腰(まるごし/無防備)の状況だ。 お前に此処(ここ)で太刀(たち)で討たれてもかなわん。 仕方ないから愛馬の池月(いけづき/生唼)を譲ろう。』

佐々木高綱…『おおっ! あの池月(いけづき/生唼)ですかぁ! 申し分ない、有難う御座います。』

佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)とは、伊豆国(静岡県)の協力者だった佐々木秀義(ささきひでよし/源氏)の息子で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が初陣(ういじん)を果たし勝利した時に参戦した佐々木四兄弟の1人である。

MEGHAN TRAINOR /♪ I WON'T LET YOU DOWN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:29:31

◆◇◆其の九十四:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

そして、東国支配の足場を堅めた源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、義弟の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源範頼(みなもとのりよし/源氏)に命じて先陣として西国へ進軍させる

鎌倉源氏軍1号隊の大将は源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)、参謀に和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)が就いた。

鎌倉源氏軍2号隊の大将は源範頼(みなもとのりよし/源氏)、参謀に梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)が就いた。

源範頼(みなもとのりよし/源氏)とは、源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の息子で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は義兄弟で、遠江国(とおとうみ/静岡県)の蒲(かば/浜松)で育った武将。

和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)とは、三浦氏の庶流(しょりゅう)で、後々に鎌倉幕府の御家人で“13人の合議制”のメンバーとなる。

梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)とは、元は平氏の武士で1180年に起こった「石橋山の戦」(いしばしやまのたたかい)で源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を助けた人物で、後々は鎌倉幕府の御家人で“13人の合議制”のメンバーとなる。

源氏一門の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源範頼(みなもとのりよし/源氏)とは言え、裏切りに謀反(むほん)は当たり前の武家世界。

実は源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)には思惑があり、側近の和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)と梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)には別の任務を任されており、大将2人の行動を逐一(ちくいち)報告する様に命じていた。

此処(ここ)に、自らが動かず相模国(神奈川県)の鎌倉から統治する源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の政治能力の高さが伺える。

源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊には、名馬の磨墨(するすみ)に乗った意気揚々の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)と、名馬の池月(いけづき/生唼)に乗った得意満面の佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)が居た。

そして梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)は、佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)が乗っている馬を見て驚いた。

梶原景時…『そっ、その馬は殿下の愛馬の池月(いけづき/生唼)ではないのか?』

佐々木高綱…『如何(いか)にもその通り! 天下の名馬の池月(いけづき/生唼)で御座る。』

梶原景時…『ちょっと待てぇ〜〜い! わしぃがあんなに殿下に頼んだのに譲らず、その代わりに2番馬の磨墨(するすみ)をくれたのに、どうしてお主には池月(いけづき/生唼)を譲ったのかぁ? 腑(ふ)に落ちぬぅ!』

佐々木高綱…『これには深いカラクリがあり、実は殿下が奥さんと“愛の館”(あいのやかた)で何時(いつ)もの様に大ハッスルしている最中(さなか)に、その部屋に奇襲してフリチンで丸腰(まるごし/無防備)の殿下の股(また)に反(そ)り立つ天下の名刀に向けて、わしぃの太刀(たち)を突き付けて、愛馬の池月(いけづき/生唼)を譲る事に“うん”と殿下に言わせたで御座るよ。』

梶原景時…『そうであったか! お主の見事な戦略で成し得た戦利品であるなぁ! アハッハッハッハッ〜』

佐々木高綱…『戦(いくさ)は武力ではなく知略よぉ! アハッハッハッハッ〜』

西国に向けて鎌倉源氏軍1号隊と鎌倉源氏軍2号隊は並列して東海道を進み、三河国(愛知県)の境川を越えて尾張国(愛知県)に入った頃に、京都の平安京に送り込んでいた間者(かんじゃ/スパイ)から現地の状況報告があった。

サスケ(忍者)…『今、平安京は木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)を拘束して幽閉しておりますが、ただ、この朝廷への謀反(むほん)と捉えた木曽源氏軍の武士は離反する者が多く、数は減少傾向にあります。』

源義経…『うむぅ〜 先(ま)ず後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)を救出する事が先決であるな。 一先(ひとま)ず様子を見て平安京には進軍しよう。 今日はあの小高い桶狭間山(おけはざまやま/有松)で陣営を設けて休息しよう。』

源範頼…『いやぁ、あの場所はやめた方がよいっ! 何か嫌な予感がする。 今から370年後に清和源氏の系統の武士行列が桶狭間山(おけはざまやま/有松)で休息して、対立する桓武平氏の系統の武将に討ち取られる未来が視える。』

こんな源範頼(みなもとのりよし/源氏)の予言もあり、鎌倉源氏軍1号隊と鎌倉源氏軍2号隊はもう少し先を進んで、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の生まれ故郷の熱田神宮の近くで陣営を設けて待機する事になった。

そして、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が率いる木曽源氏軍の更(さら)なる戦力縮小の情報が入ると、直(す)ぐに鎌倉源氏軍1号隊と鎌倉源氏軍2号隊は尾張国(愛知県)の熱田神宮で戦勝祈願を念じてお参りした後に出陣した。

大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊は、伊勢国(三重県)を経由して山城国(京都府)の宇治に進軍した。

大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊は、美濃国(岐阜県)を経由して近江国(滋賀県)の大津に進軍した。

SCARLETTE FEVER /♪ HOUR OF SUNSHINE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:30:26

◆◇◆其の九十五:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

■信濃の名将! 朝日将軍、木曽義仲(源義仲)物語:最終期

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は、幽閉している後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)を訪れて謁見(えっけん)し“平氏討伐”の綸旨(りんじ)を出してもらった。

瀬戸内海に面した讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)を拠点にしていた平氏軍の統帥の平宗盛(たいらむねもり/平氏)と、弟の平知盛(たいらとももり/平氏)は、この時に父親の平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)が、摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら)で夢と希望を持って推し進めた国際貿易都市の福原京(ふくはらきょう)の再建工事を実施していた。

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が率いる木曽源氏軍が“平氏討伐”を掲げて、讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)に向けて京都の平安京から出陣しようとしたその時に、東国の尾張国(愛知県)から源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊と大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊が出陣した情報がもたらされた。

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は“鎌倉源氏軍討伐”に予定を変更して、畿内(きない/関西)で交戦する準備に取り掛かる。

北方の大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊は、美濃国(岐阜県)を経由して近江国(滋賀県)の大津に進軍してきた為に、瀬田川の唐橋(からはし/石山寺)が架かる南詰に今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)が率いる木曽源氏軍今井隊が布陣した。

今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)とは、中原兼遠(なかはらかねとお/木曽)の息子で、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)とは幼少期から兄弟の様に育った“木曽四天王”(きそしてんのう)の1人である。

陣営を構えて早々(そうそう)に、川岸の合戦でのセオリーとして唐橋(からはし/石山寺)の敷板を外して渡れなくし、川底には無数の綱(あみ)を張り巡らせ足元を掬(すく)われる様にした。

南方の大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊は、伊勢国(三重県)を経由して山城国(京都府)の宇治に進軍してきた為に、宇治川の北詰に根井行親(ねのいゆきちか/源氏)と楯親忠(たてちかただ/源氏)の親子が率いる木曽源氏軍根井隊が布陣した。

根井行親(ねのいゆきちか/源氏)とは、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が信濃国(長野県)の木曽の頃から仕える“木曽四天王”(きそしてんのう)の1人である。

楯親忠(たてちかただ/源氏)とは、その根井行親(ねのいゆきちか/源氏)の息子で“木曽四天王”(きそしてんのう)の1人である。

此方(こちら)も同じ様に陣営を構えて早々(そうそう)に、川岸の合戦でのセオリーとして宇治橋(うじばし/平等院)の敷板を外して渡れなくし、川底には無数の綱(あみ)を張り巡らせ足元を掬(すく)われる様にした。

更(さら)に山城国(京都府)の宇治から西方に行った八幡(やわた)の橋本遊郭には、鎌倉源氏軍の兵士が気分転換に立ち寄る情報が間者(かんじゃ/スパイ)からもたらされらので、信濃国(長野県)の木曽から仕えていた金刺氏(かなさしうじ)の系統で女将軍と呼ばれる山吹御前(やまぶきごぜん/金刺→源氏)を遊女として送り込んだ。

年明けの厳冬で宇治川は冷たく雪解け水で増水し流れも早かった。

大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が勢いよく流れる川を眺めていると、鎌倉源氏軍1号隊の突撃隊長を任されている武蔵国(埼玉県)の武将で馬をこよなく愛する畠山重忠(はたけやましげただ/源氏)が駆け寄った。

源義経…『う〜〜ん、この川を向う岸に渡るには、どうしたらよいものか?』

畠山重忠…『源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)殿、先程、この近くにある平等院鳳凰堂を観光見学していたところ、そこの住職から皇族の以仁王(もちひとおう/朝廷)と摂津源氏の源頼政(みなもとよりまさ/朝廷→源氏→平氏→源氏)が、平氏軍と宇治川で合戦をした際に、宇治橋(うじばし/平等院)の敷板を外して渡れなくしていたが、平氏軍は知恵を絞りなんとか渡ったそうです。 ですから、私が有り余る知恵で宇治川を渡ってみせましょう。』

源義経…『そんな威勢のいい話しより、この緊迫した合戦の最中(さなか)で、呑気(のんき)に平等院鳳凰堂を見学していたのぉ?』

そんな2人に割って入る様に、2人の武将が飛び込んできた。

それは、名馬の磨墨(するすみ)に跨(またが)る梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)と、名馬の池月(いけづき/生唼)に跨(またが)る佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)である。

梶原景時…『この私が勇敢に先陣を切ってみせましょう!』

佐々木高綱…『いや、私が見事に先陣を果たします。』

こう言って2人は宇治川を目掛けて馬を走らせた。

これが合戦の開戦の合図とも言うべき“先陣争い”である。

佐々木高綱…『梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)殿、ズボンのチャック(社会の窓)が開いておるぞぉ!』

梶原景時…『なにっ! ん!? 開いておらぬぞぉ?』

佐々木高綱…『お先にぃ〜〜』

梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)がズボンのチャック(社会の窓)を確認している間に、名馬の池月(いけづき/生唼)に跨(またが)る佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)は宇治川を入っていった。

梶原景時…『クソォ〜〜 計られたかぁ! 佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)殿、背中に“わたしはバカです!”って書かれた紙が貼られているぞぉ!』

佐々木高綱…『そんな手には乗らないよぉ〜 私が“先陣争い”の覇者だぁ〜』

ただ、佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)の背中には、梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)の言う通りに“わたしはバカです!”って書かれた紙が貼られていた。

宇治川の北詰で陣営を構えていた根井行親(ねのいゆきちか/源氏)と楯親忠(たてちかただ/源氏)の親子が率いる木曽源氏軍根井隊は、背中に“わたしはバカです!”って書かれた紙が貼ってあるおかしな武将が突撃してきた為に、あまりにもの恐怖で怯(おび)えた。

先陣を果たした佐々木高綱(ささきたかつな/源氏)の後から、続々(ぞくぞく)と鎌倉源氏軍1号隊が突入してきた為に、木曽源氏軍根井隊は全面撤退を始めた。

大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊の勝利である。

これを1184年にに起こった「宇治川の戦」(うじがわのたたかい)と呼ぶ。

ただ、山城国(京都府)の宇治から西方に行った八幡(やわた)の橋本遊郭では、遊女に扮装(ふんそう)した女将軍の山吹御前(やまぶきごぜん/金刺→源氏)が、気分転換にお客として来た鎌倉源氏軍の兵士をもてなすフリをして、男根(だんこん)を咬(く)え噛(か)み千切(ちぎ)っていた。

この山吹御前(やまぶきごぜん/金刺→源氏)の噂は後に、鎌倉源氏軍の大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)や源範頼(みなもとのりよし/源氏)の耳にも入り、更(さら)には相模国(神奈川県)の鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の元にまで知られる事になる。

ガクガク ブルブル

源頼朝…『おっ、恐ろしい! 想像しただけでも血の気が引く。 ううう〜う〜』

女将軍の山吹御前(やまぶきごぜん/金刺→源氏)のその後は知られていないが、一説によると山城国(京都府)の八幡(やわた)から北方に行ったジャスコ久御山(イオンモール久御山)の野菜売り場で働いているのを見たと言う人がいる。

ジャスコ久御山(イオンモール久御山)にも、それらしき女性の履歴書が残っており、その特技欄には“大根(だいこん)の千切り”と“男根(だんこん)の千切り”と書かれていた。

NICOLE ATKINS /♪ MAYBE TONIGHT

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:31:29

◆◇◆其の九十六:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

■信濃の名将! 朝日将軍、木曽義仲(源義仲)物語:最終期

平安京の西洞院(にしのとういん)の屋敷に布陣していた木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が率いる木曽源氏軍の元に早馬から知らせが入る。

宇治川の北詰で陣営を構えていた根井行親(ねのいゆきちか/源氏)と楯親忠(たてちかただ/源氏)の親子が率いる木曽源氏軍根井隊が、大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊に敗北して逃亡したと言う。

この知らせで、西洞院(にしのとういん)も直(す)ぐに鎌倉源氏軍に包囲されると判断した木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は、平安京から撤退を決断する。

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の“都落ち”である。

先(ま)ず、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が率いる100人の木曽源氏軍は、六条にある屋敷で幽閉している後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)を連れ出す為に向かうも、六波羅(ろくはら)付近の鴨川で30人ほどの鎌倉源氏軍に遭遇する。

人数では木曽源氏軍が優っているが、南方から源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊が平安京に向かっている為に、小競り合いをしている場合ではない。

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)を諦めて進路を変更した。

此処(ここ)で西北東方を山脈に囲まれ、その盆地に建つ平安京から見てみよう。

そこに“風水”と“四神相応”(しじんそうおう)を取り入れた都市計画が定められ、平安京は構築されている。

そして東西南北を“四神”がその地を守り、北山に“玄武”(げんぶ)、東川に“青龍”(せいりゅう)、西道に“白虎”(びゃっこ)、南海に“朱雀”(すざく)が鎮守する。

京都の北山には東側の比叡山から西側の愛宕山が連なり、“玄武”(げんぶ)が守護する。

東川は鴨川が流れており、北側の大文字山から南側の稲荷山が連なり、“青龍”(せいりゅう)が守護する。

西道は山陽道と山陰道の起点となり、北側の嵐山から南側の松尾山が連なり、“白虎”(びゃっこ)が守護する。

南海は伏見の向島から久御山(くみやま)の周辺に大きな湖の巨椋池(おぐらいけ)があり、“朱雀”(すざく)が守護する。

これを木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が率いる木曽源氏軍の現状に当てはめると、こうなる。

南海の“朱雀”(すざく)は、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊が進軍している為に逃げられない。

東川の“青龍”(せいりゅう)は、山々を越えた近江国(滋賀県)の大津で、今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)が率いる木曽源氏軍今井隊が、瀬田川の唐橋(からはし/石山寺)周辺を戦場にして源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊と対戦している。

西道の“白虎”(びゃっこ)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)を同行させて、讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)を拠点にしている平氏軍の軍門に木曽源氏軍が従属(じゅうぞく)する事も考えられたが、要人の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が連行に失敗して不可能になった。

北山の“玄武”(げんぶ)は、障害となるものは無く、若狭国(福井県)や越前国(福井県)に抜ければ、北陸経由で故郷(ふるさと)の信濃国(長野県)の木曽に帰り、木曽源氏軍の再帰を図る事ができる。

当然に進むべき方向は1つしかない。

北山の“玄武”(げんぶ)である。

ところが、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が率いる木曽源氏軍が進軍したのは、東川の“青龍”(せいりゅう)だった。

それは何故(なぜ)か?

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の判断を理解するには、25年程前まで遡る必要がある。

信州と言われる山奥深い信濃国(長野県)の木曽で育った木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は、預けられた先の地元で有力武将だった中原兼遠(なかはらかねとお/木曽)の子供3人と兄弟の様に成長した。

その1人が今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)だった。

近江国(滋賀県)の大津で今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)が率いる木曽源氏軍今井隊は、源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊を相手に瀬田川の唐橋(からはし/石山寺)周辺で孤立無縁になっても奮闘していると思うと、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)はそんな兄弟を見捨てる訳にはいかなかった。

この東方への侵攻にお供した家臣は7人に減っていた。

その中に中原兼遠(なかはらかねとお/木曽)の娘で、今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)の妹の女武士の巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)も居た。

EDDI READER /♪ EDINAH

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:32:27

◆◇◆其の九十七:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

■信濃の名将! 朝日将軍、木曽義仲(源義仲)物語:最終期

近江国(滋賀県)の大津で今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)が率いる木曽源氏軍今井隊と合流できた木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は、木曽源氏軍の総数が300人となり、この兵力で源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる数万人の鎌倉源氏軍2号隊に進撃を仕掛ける。

先(ま)ずは一条忠頼(いちじょうただより/源氏)が率いる6千人の鎌倉源氏軍武田隊と激戦を繰り広げ、一条忠頼(いちじょうただより/源氏)にも大打撃を与えたが、木曽源氏軍も残ったのは50人となる。

一条忠頼(いちじょうただより/源氏)とは、甲斐源氏の系統の武田信義(たけだのぶよし/源氏)の息子で、戦国武将の武田信玄(たけだしんげん/武田)の先祖にあたる。

次は土肥実平(どひさねひら/平氏→源氏)が率いる2千人の鎌倉源氏軍土肥隊が相手で、此処(ここ)でも土肥実平(どひさねひら/平氏→源氏)に大打撃を与えたが、木曽源氏軍も残ったのは5人となっていた。

土肥実平(どひさねひら/平氏→源氏)とは、相模国(神奈川県)の武将で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が伊豆国(静岡県)で挙兵した時にお世話になった武家一族で、桓武平氏の良文流であり、相模土肥氏(さがみどひうじ)の祖や小早川氏の祖である。

また、この時に鎌倉源氏軍土肥隊に討ち取られた木曽源氏軍の兵士に、北陸地方で共に戦ってきた手塚光盛(てづかみつもり/金刺→源氏)も居た。

手塚光盛(てづかみつもり/金刺→源氏)とは、信濃国(長野県)の諏訪の武将で、金刺氏(かなさしうじ)の系統で、あの天才漫画家の手塚治虫(てづかおさむ/漫画家)の先祖である。

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)も最後の最期(さいご)を迎え様としている。

残った5人の中に、女武士の巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)も居り、此処(ここ)で木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)に声を掛けた。

女武士の巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)も今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)と同様に、兄妹の様に成長した。

木曽義仲…『妹よぉ、もう十分に貢献してくれた。 お前だけでも助かって欲しい。 此処(ここ)から東国へ逃亡してくれぇ!』

巴御前…『お兄ちゃん、そんなの嫌よぉ! 巴(ともえ)は最期(さいご)までお兄ちゃんに仕えますぅ!』

木曽義仲…『気持ちは嬉しいが、信濃国(長野県)の名のある武将が、最期(さいご)の戦(いくさ)で女を連れていた事が後世に知られたら名折(なお)れする。』

巴御前…『お兄ちゃん分かりました。 でも、巴(ともえ)は最期(さいご)の戦(いくさ)として、女将軍の名に相応(ふさわ)しく優美を飾らせて頂きます。』

そう言って女武士の巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)は1人で鎌倉源氏軍の中に飛び込んでいった。

巴御前…『私は信濃国(長野県)の女将軍と呼ばれる巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)、その名に吊り合う武将と御手合わせ願いたい!』

御田師重…『おおっ! あの木曽源氏軍の女将軍と言われる巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)かぁ! 鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)殿下から生捕りにしろと仰(おお)せつかっている。』

御田師重(おんだもろしげ/源氏)とは、鎌倉源氏軍では力持ちで勇猛な武将として知られる。

一対一の対戦、序盤(じょばん)から激しい交戦が繰り広げられる。

巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)は、いきなり御田師重(おんだもろしげ/源氏)の馬に飛び乗った。

御田師重(おんだもろしげ/源氏)の手に持つ太刀(たち)を、巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)は素手で叩き落とし、更(さら)にそのまま馬から引き摺(ず)り下ろし、御田師重(おんだもろしげ/源氏)の首を持ち上げると、巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)は太刀(たち)で首を捻(ねじ)り斬(き)った。

この時の巴御前(ともえごぜん/木曽→源氏)は、眉毛ひとつ動かさず少女の顔をしていたと言われる。

そして御田師重(おんだもろしげ/源氏)の首級(しゅきゅう)を木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)に黙って渡すと、そのまま馬に乗り立ち去った。

その間に木曽源氏軍は、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)と今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)の2人だけになる。

木曽義仲…『何時(いつも)もは何も感じなかったが、今日はやたらと鎧兜(よろいかぶと)が重く感じる。 鎌倉源氏軍に討たれるくらいなら自決した方が良いかもなぁ・・・』

今井兼平…『信濃国(長野県)の猛将と言われたお方の言葉ではないぞぉ! わたし1人を兵士千人万人と思って、最期(さいご)まで共に戦いましょう!』

木曽義仲…『私はもう疲れた・・・ ゆっくりと休みたい・・・』

そう言って木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は目に涙を浮かべた。

今井兼平…『では、此処(ここ)で主君が下級武士に首を討ち取られれば、信濃国(長野県)の名将の木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の名が後世に傷が付く。 此処(ここ)はあの松原の奥地で自決するのがいいでしょう! 私も後から直(す)ぐに追います。』

そう言って今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)は、50人の鎌倉源氏軍の前に立ちはだかり1人で応戦した。

今井兼平…『私が鎌倉源氏軍を食い止めている間に、今のうちにあの松原へ行って下さい!』

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は、粟津(あわず)の松原に向けて馬を走らせた。

ただ、松原の手前に薄い氷の張った沼地があり、そこに入った馬が泥に足を取られて動けなくなった。

木曽義仲…『兄弟は大丈夫であろうかぁ! うっ!』

シューー ブスリッ

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が、義兄弟の今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)を心配して後ろを振り返った瞬間、鎌倉源氏軍の弓矢隊が射った矢が首元に刺さった。

木曽義仲…『きょ、兄弟よぉ、ありがとぉ・・・』

意識が遠のいていく木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)は、馬に寄り掛かる様に倒れ込む。

そこに鎌倉源氏軍が駆け寄り木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)を斬首した。

応戦していた今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)も、仕える大将軍が討ち取られた事で役目を終えたとし壮絶な自害を決行する。

今井兼平…『鎌倉源氏軍の武士よぉ、これが信濃国(長野県)の武士の最期(さいご)の勇姿だぁ! よく見ておけぇ!』

そう言うと今井兼平(いまいかねひら/木曽→源氏)は太刀(たち)を口に咥(くわ)えて、頭を下にして馬の上から飛び降りて力尽(ちからつ)きた。

此(こ)れにて“平氏討伐”の挙兵から4年間ほど戦い続けてきた、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)と木曽源氏軍は幕を閉じる。

そして平安京で諜報活動していた中原兼遠(なかはらかねとお/木曽)の息子で樋口兼光(ひぐちかねみつ/木曽→源氏)も、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が討死した知らせが入ると、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊に出頭し拘束された。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)に最後の木曽源氏軍の重鎮武将を拘束した事を伝えると、即答で斬首する様に命じる。

鎌倉源氏軍の東国武士の中には、樋口兼光(ひぐちかねみつ/木曽→源氏)の父親の信濃国(長野県)の中原兼遠(なかはらかねとお/木曽)と親交がある者も多く、助命の嘆願が多く集まったが、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)は却下して即日にも五条河原で斬首された。

樋口兼光(ひぐちかねみつ/木曽→源氏)の最期(さいご)の希望は、武士の情けで叶えられた。

樋口兼光…『晒し首(さらしくび)は忠誠な主君であり大切な兄弟の木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の横にして欲しい。』

SOPHIE B.HAWKINS /♪ WE ARE ONE BODY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:33:29

◆◇◆其の九十八:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

■信濃の名将! 朝日将軍、木曽義仲(源義仲)物語:後書期

近江国(滋賀県)の粟津(あわず)の松原にて、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の討死の情報は、東海道を疾走する早馬で相模国(神奈川県)の鎌倉で幕府開設を準備する従兄弟の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の耳にも入った。

源頼朝…『そうか、分かった。 フウッ〜』

此処(ここ)で問題となるのが木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)から人質として預かった息子の源義高(みなもとよしたか/源氏)の処遇である。

木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が“父親の仇(かたき)”として源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に刃向かった様に、その息子の源義高(みなもとよしたか/源氏)も“父親の仇(かたき)”として刃向かう可能性が高い。

そこで源義高(みなもとよしたか/源氏)を暗殺する事を、大倉御所(おおくらごしょ)で重鎮家臣と合議して決定する。

しかし、この処遇が鎌倉源氏の一大事を巻き起こす。

“木曽源氏討伐”の最大の修羅場と言ってよい。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の娘の大姫(おおひめ/鎌倉)も少女となっており、そんな処(ところ)へ同年代で少年の源義高(みなもとよしたか/源氏)が来たので、仲良くなるのは自然な流れだった。

2人は同じ屋根の下で季節が変わる様に、お友達から兄妹へ、そして恋人へと移り変わっていく。

そんな幸せいっぱいな源義高(みなもとよしたか/源氏)と大姫(おおひめ/鎌倉)を、母親の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)や大倉御所(おおくらごしょ)の官人などは温かく見守っていた。

ところが、重鎮家臣の合議で源義高(みなもとよしたか/源氏)の暗殺が決定された事を、良心的な官人から北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)と大姫(おおひめ/鎌倉)に知らされた。

官人…『御内密ですが、実は鎌倉源氏軍により木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)殿が討死した事で、息子の源義高(みなもとよしたか/源氏)殿の報復を恐れて暗殺する合議が決定されました。』

大姫…『ヒィ〜〜ン ママァ〜 ヨシ(源義高)君がぁ〜 どうしよぉ〜』

北条政子…『愛娘のボーイフレンドに手に掛けるとはぁ、あのアホォ旦那は何を考えておるのじゃ〜〜!』

北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)は源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)へ猛抗議に出向き、夜の寝室も別々にされた。

源頼朝…『マコ(北条政子)、違うんだ、話しを聞いてくれ。 わしぃだってヨシ(源義高)君を実の息子の様に思っている。』

北条政子…『お前は実の息子を亡き者にするのかぁ!』

源頼朝…『ただ、他の重鎮家臣から圧力(プレッシャー)が加わり、つい暗殺を承諾してしまったんだぁ。 本心じゃないんだぁ。 いずれ熱(ほとぼ)りが冷めたら娘と結婚させてアメリカのニューヨークに移住させるつもりだ。 そこでヨシ(源義高)君には弁護士になってもらう。』

こんな夫婦の遣(や)り取りをしている最中(さなか)に、愛娘の大姫(おおひめ/鎌倉)は直(す)ぐに行動に出た。

大姫…『ヨシ(源義高)君、今のうちに逃げて、私は後から追い掛けるわぁ。 こうなったら駆落(かけおち)よぉ!』

源義高…『でも、ヒメ(大姫)ちゃんには迷惑は掛けられないよぉ。 ただでさえ鎌倉の源氏一門にはお世話になっているのに。』

大姫…『大丈夫、ママは私とヨシ(源義高)君の味方だし、パパは私には弱いし、少し時間が経てば許してくれるよぉ! 武蔵国(埼玉県)の川越城(かわごえじょう)で待っててねぇ。』

源義高…『うん、分かった。 では川越城(かわごえじょう)で待っている。』

しかし、夜になり源義高(みなもとよしたか/源氏)が逃亡した事が源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)や大倉御所(おおくらごしょ)の重鎮家臣に知れ渡った。

源頼朝…『娘めぇ、えらい事をしてくれたなぁ〜』

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は家臣の堀親家(ほりちかいえ/源氏)に、源義高(みなもとよしたか/源氏)を鎌倉に連れ戻す様に命じた。

その命令の条件は、源義高(みなもとよしたか/源氏)を傷付ける事なく、生きて連れ戻す事だった。

堀親家(ほりちかいえ/源氏)とは、伊豆国(静岡県)の武将で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)には当初から仕えていた家臣である。

堀親家(ほりちかいえ/源氏)は郎党(ろうとう)の藤内光澄(とうないみつずみ/源氏)に、逃亡した源義高(みなもとよしたか/源氏)を関東一円で探す様に命じた。

翌日に藤内光澄(とうないみつずみ/源氏)は、武蔵国(埼玉県)の川越城(かわごえじょう)の近くを流れる入間川(いるまがわ)の河川敷に座って川を眺めている源義高(みなもとよしたか/源氏)を発見する。

藤内光澄…『すみません、源義高(みなもとよしたか/源氏)さんですか?』

源義高…『はい、そうですが。 あっ、ヒメ(大姫)ちゃんの遣(つか)いの人ですか?』

藤内光澄…『お命、頂戴(ちょうだい)致します。』

バサッ バサッバサッ

源義高…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

父親の木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の生まれ故郷(こきょう)でもある武蔵国(埼玉県)の土地で、1184年に源義高(みなもとよしたか/源氏)は10年ほどの短い人生を終えた。

源義高(みなもとよしたか/源氏)の首級(しゅきゅう)が相模国(神奈川県)の鎌倉の大倉御所(おおくらごしょ)に届けられた。

源義高(みなもとよしたか/源氏)の首級(しゅきゅう)を偶然にも目にしてしまった大姫(おおひめ/鎌倉)は、その場で気を失い倒れてしまった。

そしてその後、大姫(おおひめ/鎌倉)は病を発症して、起き上がる事ができない程にやつれてしまった。

この愛娘の容態悪化に母親の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)は大激怒して、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に詰め寄り離婚の危機である。

北条政子…『あんたのアホォさで娘が寝たきりになったやぁないのぉ〜! どうしてくれるんじゃ〜〜!! 離婚じゃ、離婚、離婚届に署名押印して役所に提出してこぉんかぁ〜〜い!』

源頼朝…『いっ、いやぁ、わしもヨシ(源義高)君を元気な姿で連れ戻す様に伝えた筈(はず)じゃが!? どうなっておるのじゃ!?』

こうして堀親家(ほりちかいえ/源氏)は責任を取らされ罷免(ひめん)され、郎党(ろうとう)の藤内光澄(とうないみつずみ/源氏)は更(さら)に重い刑罰の斬首となり、鎌倉の由比ヶ浜に晒し首(さらしくび)となった。

ビキニギャルA…『見て見て、武士の晒し首(さらしくび)よぉ、チョーウケるぅ!』

パシャリ パシャリ

ハイレグギャルB…『インスタに載せよぉ〜 皆んな“いいね!”押してくれるよぉ、絶対にぃ!』

その後、大姫(おおひめ/鎌倉)は病床から起き上がる事の出来ないまま、1197年に20年ほどの短い人生を終えた。

これが戦争である。

GARBAGE /♪ Push It

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:34:29

◆◇◆其の九十九:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

●1184年 《武士の時代》

近江国(滋賀県)の粟津(あわず)の松原で討死した木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)。

木曽源氏軍を壊滅させた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源範頼(みなもとのりよし/源氏)は、京都の平安京の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)に招かれた。

今度は平安京の朝廷に取って目障りなのは平氏である。

この頃、瀬戸内海に面した讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)を拠点にしていた平家一門の統帥の平宗盛(たいらむねもり/平氏)と、弟の平知盛(たいらとももり/平氏)は、この時に父親の平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)が、摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら)で夢と希望を持って推し進めた国際貿易都市の福原京(ふくはらきょう)の再建工事を実施していた。

後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の鎌倉源氏軍への勅命(ちょくめい)は“平氏討伐”である。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源範頼(みなもとのりよし/源氏)は勝手な判断と決断ができない為に、東海道を疾走する早馬で相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)で幕府開設を準備する源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に報告した。

早速、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)からメールで返信が届いた。

源頼朝…⦅今や天皇は第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)と第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)の2人いる状態。 平氏は第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)の正当性を主張し、“三種の神器”も所持している。 一方、朝廷は第82代天皇の後鳥羽天皇(ごとばてんのう/朝廷)の正当性を主張し、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の院政(いんせい)の政権運営を司っている。 たかだか数年しか生きていない人間の戯言(たわごと)よりも、数千年数万年に及ぶ日本神話の観点からすれば、天照大御神(アマテラス)や須佐之男命(スサノオ)にまつわる“三種の神器”を所持している理論が正しい事になる。⦆

源義経…⦅兄ちゃん、文書が長がく難し過ぎて、何を言っているのかさっぱり分かりません。⦆

源頼朝…⦅お前はアホォかぁ! 要は後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の院政(いんせい)から“平氏討伐”の院宣(いんぜん)を発布させて、後々に歴史的に問題が起これば全責任は平安京の朝廷にある証書を受け取れぇ! 証書を受け取ったらPDFにしてメールに添付し送信しろぉ!⦆

こうして後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の院政(いんせい)から、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が率いる鎌倉源氏軍に対して“平氏討伐”の院宣(いんぜん)が発布された。

此(こ)れにより相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に居る源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の院宣(いんぜん)の証書を証(あかし)にして、京都の平安京で待機する源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と源範頼(みなもとのりよし/源氏)に西国の“平氏討伐”を命じる。

この“平氏討伐”の院宣(いんぜん)は、讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)を拠点にしていた平家一門の統帥の平宗盛(たいらむねもり/平氏)と、弟の平知盛(たいらとももり/平氏)の耳にも入る。

この守護として摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら)の東西に防衛拠点を構えた。

福原(ふくはら)を周辺とした地形は、北方には六甲山や摩耶山から続く山脈が連なり、南方には大阪湾や瀬戸内海の海が広がり、陸地は東西に長く南北に短い防衛拠点としては最適の立地だった。

その東方に湊川神社の一帯が、平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)が夢見たかつての福原京(ふくはらきょう)で、そこを平知盛(たいらとももり/平氏)と平重衡(たいらしげひら/平氏)を大将に陣営を設けた。

中央方に平通盛(たいらみちもり/平氏)を大将に陣営を設けた。

西方は塩屋(しおや)に一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)を築いて平忠度(たいらただのり/朝廷→平氏)を大将に陣営を設けた。

北方の三草山(みくさやま/加東)の山中には平資盛(たいらすけもり/平氏)を大将に陣営を設けた。

平知盛(たいらとももり/平氏)とは、平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の息子で、平家一門の統帥の平宗盛(たいらむねもり/平氏)の弟である。

平重衡(たいらしげひら/平氏)とは、平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の息子で、「南都焼討」(なんとやきうち)では総大将を任される。

平通盛(たいらみちもり/平氏)とは、平教盛(たいらのりもり/朝廷→平氏)の息子で、平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の甥にあたり、「南都焼討」(なんとやきうち)では副大将を任される。

平忠度(たいらただのり/朝廷→平氏)とは、平忠盛(たいらただもり/朝廷→平氏)の息子で、平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の義弟にあたり、「富士川の戦」(ふじがわのたたかい)では副大将を任され、武将よりも歌人としての才能の方が大きい。

平資盛(たいらすけもり/平氏)とは、平重盛(たいらしげもり/平氏)の息子で、平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の孫にあたる。

京都の平安京を出陣した鎌倉源氏軍は、大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる1万人の鎌倉源氏軍1号隊が宝塚方面の山側を進軍し、大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる5万人の鎌倉源氏軍2号隊が尼崎方面の陸側を進軍した。

裏六甲山を進軍する源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊の当初の目的は、三草山(みくさやま/加東)の山中に布陣する平資盛(たいらすけもり/平氏)の陣営を襲撃する事である。

ただ、山道は険しく有馬温泉の周辺も整備されてなく、宝塚から三草山(みくさやま/加東)の平資盛(たいらすけもり/平氏)の陣営まで最低でも2日間は掛かる。

当然に平氏軍の平資盛(たいらすけもり/平氏)も2日後まで対戦準備をして、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊と一線を交えるつもりだった。

平資盛…『2日後に鎌倉源氏軍と戦(いくさ)するから、今晩はゆっくりと休もう。 ファ〜アァ 眠い、眠い。』

ワァ〜〜ワァ〜〜 ワァ〜〜ワァ〜〜

平資盛…『何だか外が騒がしいなぁ〜 熊(クマ)でも出たのかなぁ?』

平家武士…『大将、こんな夜分に御無礼ですが、緊急報告です! 源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊が、直(す)ぐ其処(そこ)まで進軍して来ています。』

平資盛…『なぁ、なにぃ〜!? 鎌倉源氏軍の到着は2日後ではないのかぁ!?』

そうです、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる1万人の鎌倉源氏軍1号隊は、通り道の民間などに火を放ち炎上させて、暗闇の山中を炎で照らして、たった1日で三草山(みくさやま/加東)まで進軍してきた。

夜襲を掛けられた3千人の平氏軍は直(す)ぐに壊滅して、大将の平資盛(たいらすけもり/平氏)は讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)に逃亡し、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊が「源平合戦」(げんぺいがっせん)の初戦を勝利で飾った。

MARY BLACK /♪ ALL THAT HAMMERING

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:35:20

◆◇◆其の百:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

24時間365日が戦闘モードの源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、勝利気分をそっちのけで次なる戦略に出る。

目指すは陸地の平氏軍の陣営である。

先(ま)ず源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、1万人の鎌倉源氏軍1号隊を2部隊に別けて、土肥実平(どひさねひら/平氏→源氏)が率いる7千人の鎌倉源氏軍1号隊土肥団は山中の西方から回り込み明石を経由して塩屋(しおや)の一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)を攻め込み、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる3千人の鎌倉源氏軍1号隊義経団は南下して鵯越(ひよどりごえ)の崖地に向かう。

土肥実平(どひさねひら/平氏→源氏)とは何度も登場しているが、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に仕える武将で、桓武平氏の良文流の系統で、相模土肥氏(さがみどひうじ)の祖や小早川氏の祖でもある。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる3千人の鎌倉源氏軍1号隊義経団は、鵯越(ひよどりごえ)の崖地の上で布陣した。

崖地の上から眺めるオーシャンビューの景色は最高だが、下を覗くと断崖絶壁で足腰がガクガク震える。

この眼下に平氏軍の塩屋(しおや)の一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)がある為に、理論上は真っ直ぐ崖地を降りた方が最短ルートだ。

其処(そこ)に源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の元へ、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)が生まれも育ちも播磨国(はりま/兵庫県)と言う年老いた猟師を連れてきた。

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)とは、天台宗(てんだいしゅう)の延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵の山法師(やまほうし)で、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が山城国(京都府)の鞍馬寺(くらまでら/貴船)で天狗(てんぐ)先生の元で修行していた時から、陸奥国(むつ/岩手県)の平泉で奥州藤原氏に御厄介になった時も、絶(た)えず傍(かたわら)に寄り添ってきた。

武蔵坊弁慶…『殿、この地域を熟知している地元の猟師に、良い妙案はないかを聞きましょう。』

源義経…『この崖下に布陣する平氏軍の塩屋(しおや)の一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)に、最短で進軍したいと思っている。 馬で崖地は降りられるだろうか?』

猟師…『わしぃはお洒落でトレンディーな神戸っ子ぉやから言えるけどぉ、この崖地を馬は降りられんよぉ〜』

源義経…『なら、この地に生息している鹿も降りられないのか?』

猟師…『神戸っ子ぉの鹿は降りられるよぉ〜』

源義経…『鹿が降りられるなら、馬も降りられる! 降りるに適地な場所を案内せい。』

猟師…『わしぃは年を取って足がふらつくしぃ、この地域をよく知っとぉ〜神戸っ子ぉの息子に案内をさせるよぉ〜』

そう言って年老いた猟師は、息子の熊王(くまおう/猟師)に道案内をさせた。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、毛むくじゃらな正(まさ)しく熊(クマ)みたいな熊王(くまおう/猟師)を気に入り、鷲尾義久(わしおよしひさ/源氏)と名前を与えてそのまま家臣に加えて郎党(ろうとう)となる。

こんな大将の遣(や)り取りをイライラしながら見ていたのは、熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)と息子の熊谷直家(くまがいなおいえ/源氏)、それに数々の先陣争いを勝ち取ってきた平山季重(ひらやますえしげ/源氏)である。

この3人が今直(います)ぐにでも平氏軍の陣営に突入したくてウズウズし、血眼(ちまなこ)になって先陣争いの覇者になるモード全開である。

熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)とは、武蔵国(埼玉県)の熊谷の武将で、熊谷直家(くまがいなおいえ/源氏)はその息子である。

平山季重(ひらやますえしげ/源氏)とは、武蔵七党(むさししちとう)の多摩川周辺を拠点とした西党(にしとう)の日奉氏(ひまつりうじ)の武将で、鎌倉源氏軍では先陣争いを覇者で有名である。

この3人の心とは裏腹に、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が決定した鵯越(ひよどりごえ)の崖地降りは明朝(みょうちょう)となった。

大将の決断に、待ち切れないのが先陣争いを目指す3人である。

熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)と息子の熊谷直家(くまがいなおいえ/源氏)、それに平山季重(ひらやますえしげ/源氏)は、深夜の内に鎌倉源氏軍1号隊義経団をこっそり抜け出して、谷を降りて土肥実平(どひさねひら/平氏→源氏)が率いる鎌倉源氏軍1号隊土肥団に合流した。

平氏軍の大将の平忠度(たいらただのり/朝廷→平氏)が陣営を構える塩屋(しおや)の一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)の少し西方にある出先の砦(とりで)に、先陣争いを目指す3人が少数の鎌倉源氏軍1号隊別働団を引き連れ現れた。

時刻は丑三(うしみ)つの刻(AM2時)。

熊谷直実…『只今、鎌倉源氏軍の少佐が戦(いくさ)を挑みに此処(ここ)へ参ったぁ! 平氏軍の勇敢な武将は今直(います)ぐに対戦せよぉ!』

平家武士…『グゥ〜グゥ〜 グゥ〜グゥ〜』

熊谷直家…『出てこぉ〜い! 出てこぉ〜い! 鎌倉源氏軍が恐ろしくて怖気(いじけ)ついたのかぁ〜』

平家武士…『グゥ〜グゥ〜 グゥ〜グゥ〜』

平山季重…『出て来なければ、この砦(とりで)に火を放つぞぉ〜』

平家武士…『グゥ〜グゥ〜 グゥ〜グゥ〜 プゥ〜〜』

時刻は丑三(うしみ)つの刻(AM2時)である。

普通に考えて平氏軍の兵士は、皆(み)んな熟睡している。

時刻は卯(う)の刻(AM6時)。

コケコッコ〜 コケコッコ〜

夜明けを知らせる一番鶏が鳴く。

砦(とりで)の物見櫓(ものみやぐら)に平氏軍の見張りが眠い目を擦(こす)り現れる。

ドォ〜〜ン ドォ〜〜ン

熊谷直実…『源氏やぁ! 今直(います)ぐ門を開けんかぁ〜い!』

平家武士…『ええっ!? こんな朝早くから誰だぁ!?』

ドォ〜〜ン ドォ〜〜ン

熊谷直家…『源氏やぁ、早よぉ〜出迎(でむ)えんかぁ〜い!』

平家武士…『ちょっと待ってぇ〜 今直(います)ぐ開けるからぁ〜』

砦(とりで)の門をドンドン叩く姿は、840年後の大阪府警(暴力団対策課)そのものだった。

熊谷直実…『大将の平盛嗣(たいらもりつぐ/平氏)を出さんかぁ〜い!』

砦(とりで)の中では伊勢平氏の平盛嗣(たいらもりつぐ/平氏)が、物見櫓(ものみやぐら)の見張りに状況確認をしている。

平盛嗣…『こんな朝っぱらから、あいつらは何者なんだぁ?』

見張り…『さぁ〜 新興のヤクザちゃいまっかぁ? 警察に電話した方がよろしいでぇ!』

こんな遣(や)り取りの隙を突いて、平山季重(ひらやますえしげ/源氏)が砦(とりで)の門を潜(くぐ)り中に入って行った。

平山季重…『ヘェヘェヘェ〜 お先にぃ〜 先陣一番乗りぃ〜』

熊谷直実…『クッソォ〜 卑怯だぞぉ! 先陣は我々、熊谷親子であるぞぉ!』

熊谷直家…『こしゃくなぁ〜 父上、砦(とりで)の中に急ぎましょう!』

こうして鎌倉源氏軍1号隊別働団が平氏軍の砦(とりで)に一気に流れ込み、平家武士は大混乱に陥る。

その前に、恐怖のあまりに平盛嗣(たいらもりつぐ/平氏)は既(すで)に逃亡していた。

平山季重(ひらやますえしげ/源氏)が平家武士の首級(しゅきゅう)を掲げて砦(とりで)から出てきた。

平山季重…『わしぃが先陣争いの覇者で、平家武士の首級(しゅきゅう)も一番の手柄じゃ!』

熊谷直実…『ふざけるなぁ〜 先陣争いの覇者は、大阪府警(暴力団対策課)の如(ごと)く砦(とりで)の門を開けさせた我々、熊谷親子であるぞぉ!』

熊谷直家…『そうだぁ! そうだぁ! 平山季重(ひらやますえしげ/源氏)は手柄を横取りした卑怯者だぁ!』

もぬけの殻となった平氏軍の砦(とりで)の前では、熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)と息子の熊谷直家(くまがいなおいえ/源氏)と、平山季重(ひらやますえしげ/源氏)で鎌倉源氏軍同士の小競り合いが続いていた。

BETH NIELSEN CHAPMAN /♪ YOU HOLD THE KEY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:36:21

◆◇◆其の百一:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

一方、東方に設けた福原(ふくはら)の陣営では、大将の平知盛(たいらとももり/平氏)と平重衡(たいらしげひら/平氏)が布陣する。

この平氏軍の福原(ふくはら)の陣営には、大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる5万人の鎌倉源氏軍2号隊が侵攻してきた。

其処(そこ)に鎌倉源氏軍2号隊の先陣として現れたのが、武蔵七党(むさししちとう)の武蔵国(埼玉県)北部の加須(かぞ)を拠点とした私市党(きさいちとう)の河原高直(かわらたかなお/源氏)と河原盛直(かわらもりなお/源氏)の兄弟である。

兄の河原高直(かわらたかなお/源氏)は弟の河原盛直(かわらもりなお/源氏)に、先陣を切って勇ましく散る東国武士の姿を後世に伝える様に依頼する。

河原高直…『弟よ! この兄が立派に先陣を切って平氏軍を翻弄(ほんろう)させてみるから、しかとその眼(まなこ)に焼き付けるがよい!』

河原盛直…『兄ちゃん、何を言っているんだぁ! 何時(いつ)も一緒に戦ってきた兄弟ではないかぁ! 生きるも一緒なら、散るも一緒であるぞぉ!』

こうして武蔵七党(むさししちとう)の私市党(きさいちとう)の意地を見せて河原兄弟は、平氏軍の福原(ふくはら)の陣営に先陣を切ったのだが、平家武士で弓の名手と言われる真鍋祐光(まなべゆきみつ/平氏)が弓で射った矢に当たり河原兄弟共に絶命した。

ギュ〜〜 ビューーー

ズバンッ バタンッ

河原盛直…『ギャ〜〜 兄ちゃ〜ん、やられた〜〜』

ギュ〜〜 ビューーー

ズバンッ バタンッ

河原高直…『弟よぉ〜〜 ギャ〜〜 やられた〜〜』

弓の名手の真鍋祐光(まなべゆきみつ/平氏)とは、備中国(岡山県)の笠岡諸島(かさおかしょとう)を拠点とする真鍋水軍の一族である。

鎌倉源氏軍2号隊の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)は、平氏軍の真鍋祐光(まなべゆきみつ/平氏)の弓矢で河原兄弟が共に絶命した事を聞き付けて報復措置を講じる。

梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)は、梶原景季(かじわらかげすえ/源氏)と梶原景高(かじわらかげたか/源氏)の息子2人と共に平氏軍の福原(ふくはら)の陣営に突入していった。

梶原景時…『平氏軍めぇ〜 同じ兄弟を持つ親として許さぁ〜〜ん!』

梶原景季…『平氏軍めぇ〜 同じ弟を持つ兄として許さぁ〜〜ん!』

梶原景高…『平氏軍めぇ〜 同じ兄を持つ弟として許さぁ〜〜ん!』

此(こ)れに驚いた平家武士は大混乱に陥る。

平家武士…『鎌倉源氏軍の殴り込みだぁ〜 撫斬り(なでぎり/根切り)にされるぞぉ〜 逃げろぉ〜』

平氏軍にある程度の打撃(ダメージ)を与え、父親の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)と、弟の梶原景高(かじわらかげたか/源氏)は平氏軍の陣営から外に撤退した。

ところが、兄の梶原景季(かじわらかげすえ/源氏)が見当たらない。

梶原景時…『おい、景季(かげすえ)はどうした?』

梶原景高…『あれぇ!? お兄ちゃんも一緒に出て来たと思ったんだがぁ!?』

梶原景時…『しまったぁ! まだ中で戦っているかもしれないぞぉ!』

そう言って、弟の梶原景高(かじわらかげたか/源氏)を陣営の前で待機させて、再び平氏軍の陣営に父親の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)は1人で突入していった。

案の定、兄の梶原景季(かじわらかげすえ/源氏)は陣営の奥深くまで入り込み、平家武士と対戦していた。

5人の平家武士に対して、鎌倉源氏軍は父親の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)と兄の梶原景季(かじわらかげすえ/源氏)の2人だけである。

梶原景時…『景季(かげすえ)、絶対に敵に背中を見せるなぁ! 狙いを定めて斬り掛かれ。』

梶原景季…『父上、分かりました。』

こうして梶原親子は2人で、平家武士3人を討ち取り、2人を負傷させた。

梶原景時…『わしぃも元は平家武士じゃ〜〜! “ククルスドアン”のザクの様な戦いを見せてやるぞぉ!』

バサッ バサッバサッ

平家武士…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン ゴロン ゴロン

この後に、西方の平氏軍の塩屋(しおや)の一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)では、有名な源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が崖地から奇襲を仕掛ける「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)が起こる。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる3千人の鎌倉源氏軍1号隊義経団は、鵯越(ひよどりごえ)の崖地の上で待機していた。

先(ま)ず源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は馬を数頭、崖地から降ろしてみたところ、3頭だけが無事に崖底に着地した。

残りの馬は転げ落ちて再起不能となった為に、後で源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が腕によりを掛けて調理した“さくら鍋”(馬肉)の食材として利用し、鎌倉源氏軍の武士に振る舞った。

源義経…『う〜〜ん、3頭の馬は無事に降りたが、残りの馬は全滅したなぁ〜 どうしよぉ〜』

其処(そこ)に佐原義連(さわらよしつら/源氏)と言う1人の武士が現れた。

佐原義連(さわらよしつら/源氏)とは、相模国(神奈川県)の三浦半島を統治する桓武平氏の三浦氏の系統で、三浦義澄(みうらよしずみ/平氏→源氏→鎌倉)の弟である。

佐原義連…『わしぃの地元の三浦半島をはじめとした相模国(神奈川県)は、起伏の激しい崖地だらけで、子供の頃からこの程度の急斜面の崖地は遊び場でしたぞぉ!』

源義経…『そうなのか!?』

佐原義連…『わしぃの後ろに着いて参れぇ!』

こうして一気に馬に跨(またが)った源氏武士が崖地を駆け降りていく。

この時、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の重鎮家臣で武蔵国(埼玉県)の武将の畠山重忠(はたけやましげただ/源氏)は、愛馬を傷付けたくない“動物愛護の精神”から、その馬を背負って滑り落ちたと言う。

畠山重忠…『大切な名馬にケガがあってはならない。 わしぃの背中に乗れぇ!』

愛馬…『ヒィヒィ〜ン。』(お世話掛けます。)

平氏軍の塩屋(しおや)の一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)では、天から鎌倉源氏軍が降ってきたかの様な衝撃で、更(さら)に西方からは土肥実平(どひさねひら/平氏→源氏)が率いる7千人の鎌倉源氏軍1号隊土肥団が侵攻してきた。

当然、その中には先陣争いの覇者を競う熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)と息子の熊谷直家(くまがいなおいえ/源氏)、それに平山季重(ひらやますえしげ/源氏)も、獅子奮迅(ししふんじん)のオーラを醸し出して突進してくる。

東西を挟まれた平家武士は南方も海に逃げるしかなかった。

そのまま平氏軍は船に乗り、瀬戸内海に面した讃岐国(香川県)の屋島(やしま)に敗走し、鎌倉源氏軍が勝利を収める。

MARIA MONTELL /♪ BLI'R DU LIDT ENDNU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:37:17

◆◇◆其の百二:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

西方の塩屋(しおや)の一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)は鎌倉源氏軍により火を放たれ炎上し、大将の平忠度(たいらただのり/朝廷→平氏)も逃亡して行方知れずとなる。

東方の福原(ふくはら)の陣営に布陣している大将の平知盛(たいらとももり/平氏)と平重衡(たいらしげひら/平氏)は、西方の方角から煙が上がっているのを見て塩屋(しおや)の一ノ谷城(いちのたにじょう/須磨)が落城した事を確信する。

目の前には大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる5万人の鎌倉源氏軍2号隊が布陣しており、西方からは大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる1万人の鎌倉源氏軍1号隊が侵攻してくる。

このままだと挟み討ちにされる為に、中央方に陣営を設けた大将の平通盛(たいらみちもり/平氏)も連れて撤退戦を始める。

この大規模な戦乱の中で、平知盛(たいらとももり/平氏)はなんとか逃亡できたが、平重衡(たいらしげひら/平氏)は鎌倉源氏軍に拘束され、平通盛(たいらみちもり/平氏)は逃亡の最中(さなか)に行方知れずとなる。

この時の激戦で、容赦ない鎌倉源氏軍の猛撃に遭い、多くの平家武士が命を落としていった。

この平氏軍の敗走の際、先陣争いの覇者を目指している熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)は、浜辺で平氏軍の軍馬に乗った武将を発見する。

熊谷直実…『名門家でもある平氏の武将となるお方が、敵陣に背中を見せて敗走するつもりか?』

そう言って熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)は、その平氏軍の武将を馬から引き摺(ず)り下ろす。

そして首を刎(は)ねようとした瞬間、その兜(かぶと)に隠れていた顔を見てハッとする。

熊谷直実…『おっ、お主は、まだ子供ではないか!?』

平敦盛…『今直(います)ぐにも首を刎(は)ねよぉ!』

熊谷直実…『わしは武蔵国(埼玉県)の熊谷を地盤とする源氏に仕える武将の熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)と申す。 其方(そなた)の名を教えてくれ。』

平敦盛…『此処(ここ)で私が名乗らなくても、首級(しゅきゅう)を持って首実験をすれば、その時に解る事よぉ。』

熊谷直実…『其方(そなた)の命を奪うのは忍びない、此処(ここ)で助けてやりたいが、いずれ源氏軍に捕まり斬首されるだろう。』

平敦盛…『其方(そなた)の様な勇敢な武将に任せて最期(さいご)を迎えられるなら、平氏の武将として本望である。 では、宜しくお頼申します。』

熊谷直実…『お許し下さい、御免!』

バサッ バサッバサッ

平敦盛…『ウグッ。』

ゴロン

熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)に斬首されたのは、平清盛(たいらきよもり/朝廷)の甥のまだ17歳だった平敦盛(たいらあつもり/平氏)である。

これが戦争である。

平敦盛(たいらあつもり/平氏)の亡骸(なきがら)には、祖父の平忠盛(たいらただもり/朝廷)が第74代天皇だった鳥羽上皇(とばじょうこう/朝廷)から献上された笛の“小枝”(さえだ)が着物の奥に帯びていたと言う。

この笛の“小枝”(さえだ)は、海水浴場で有名な須磨海岸の近くに建つ須磨寺(すまでら/神戸)に大切に保管され展示してある。

織田信長…『人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり、一度(ひとたび)生(せい)を享(う)け、滅(めっ)せぬもののあるべきか。』(敦盛/あつもり)

これを1184年に起こった「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)と呼ぶ。

鎌倉源氏軍に拘束された平重衡(たいらしげひら/平氏)は、平安京に連行されて平家の落武者として見せしめに街中を引き廻しの刑にされた。

後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)は平氏軍の統帥である平知盛(たいらとももり/平氏)に対して、人質の平重衡(たいらしげひら/平氏)と“三種の神器”の交換条件を提示する。

ただ、平氏軍にとっても“三種の神器”は最後の手段である為に、平知盛(たいらとももり/平氏)は交換条件を断る。

これに激怒した後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)は罪人の平重衡(たいらしげひら/平氏)を、相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に居る源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の元へ護送する。

源頼朝…『平氏のこんなおっさん送られてきても、どうせいっちゅ〜〜ねぇん! 処罰するなら平安京でやったらええがなぁ! ただの迷惑なだけやぁ!』

平重衡…『すみません。 ご迷惑をお掛けします。』

ところがこの平重衡(たいらしげひら/平氏)は、父親の平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)に命じられて大将軍に就いた「南都焼討」(なんとやきうち)の張本人だった為に、大和国(奈良県)にある法相宗(ほっそうしゅう)の興福寺(こうふくじ)から緊急メール(重要)が送信されてきた。

奈良法師…⦅先般の「南都焼討」(なんとやきうち)により甚大な被害が出た大和国(奈良県)の平城京を代表して、放火魔の平重衡(たいらしげひら/平氏)の身柄を引き渡して欲しいと願います。 ご賢察(けんさつ)の程、何卒(なにとぞ)宜しくお願い申し上げます。⦆

源頼朝…⦅OK! いいよぉ〜!!⦆

こうして再び罪人の平重衡(たいらしげひら/平氏)は、大和国(奈良県)にある法相宗(ほっそうしゅう)の興福寺(こうふくじ)に護送されて、斬首され猿沢池(さるさわいけ)で晒し首(さらしくび)となった。

MARY BLACK /♪ MIGHT AS WELL BE A SLAVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:38:13

◆◇◆其の百三:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

「源平合戦」(げんぺいがっせん)でも有名な、播磨国(はりま/兵庫県)の塩屋(しおや)で繰り広げられた「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)や「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)で、敗北した平氏軍は本拠地の瀬戸内海に面した讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)に逃走した。

この時、平氏軍は瀬戸内海の海賊の協力で海を渡る事ができたが、鎌倉源氏軍は水軍を所有していなかった為に追跡する事ができず、此処(ここ)は一先(ひとま)ず退却する事にした。

「源平合戦」(げんぺいがっせん)は一時休戦となる。

大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊は、後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)が居る京都の平安京に退却した。

一方、大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊は、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が居る相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に退却した。

同じ畿内(きない/関西)にあり播磨国(はりま/兵庫県)に近い都(みやこ)の平安京では、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の評判は鰻登りで、1970年代に来日したベイシティローラーズ並みに少女達から黄色い声援を送られた。

少女A…『キャ〜〜 義経(よしつね)様〜 コッチ見てぇ〜 キャ〜〜』

少女B…『キャ〜〜 あたし、義経(よしつね)様と目が合ったわぁ〜 もうダメェ〜〜 キュ〜〜ウッ〜』

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍1号隊の凱旋(がいせん)に、朱雀大路(すざくおおじ)では少女や女官、それに藤原氏一族の女性まで気絶した。

この源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の大人気にあやかろうと、後期高齢者の後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)もしゃしゃり出てきた。

後白河法皇…『やぁ〜やぁ〜 ご苦労だったねぇ〜 義経(よしつね)君、インスタ(インスタグラム)にアップするから、一緒に写真を撮ってよぉ。』

源義経…『あっ、いいですよぉ! 法皇と将軍のツーショット、バズりますよぉ〜』

パシャリ パシャリ

少女C…『イヤァ〜〜ン! 誰ぇ〜 あのヨボヨボのお爺ちゃん!? 気安く義経(よしつね)様と肩組まないでぇ〜〜!!』

予想通りに後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)のインスタグラムがバズり、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)とのツーショットが瞬(またた)く間に世界中に拡がった。

気を良くした後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)は、「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)で活躍した源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を“検非遺使”(けびいし)に任命する。

この画像を見たのは一般人だけではなく、相模国(神奈川県)の鎌倉に居る源範頼(みなもとのりよし/源氏)もインスタグラマーの1人だった。

源範頼…『アホォな弟めぇ! 何をやっているんだぁ!』

これに対して源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が軍律を乱したとして御立腹して謹慎処分とした。

ところで「源平合戦」(げんぺいがっせん)に1度も登場しない源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、この時に何をやっていたのか?

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の息子の源義高(みなもとよしたか/源氏)を手違いで暗殺し、そのショックで愛娘の大姫(おおひめ/鎌倉)が病を発症して寝たきりとなり、これに激怒した愛する妻の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)との夫婦関係も悪化して、お互いにあれだけ好きだった大ハッスルもご無沙汰である。

大倉御所(おおくらごしょ)に隣接して建てられた“愛の館”(あいのやかた)も使われる事なく朽ち果てて廃墟となっていた。

妻の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)からほぼ無視される源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、有り余る時間を幕府の構築の為に思案していた。

その時に協力してくれたのが、北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)の父親の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)である。

義父の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)の知恵と知識を得ながら、政治基盤の構築に試行錯誤する。

此処(ここ)で何故(なぜ)に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が、幕府構築に拘(こだわ)ったかを見てみよう。

この倭国(ヤマトノクニ/日本)は日本神話の時より第1代天皇の神武天皇(じんむてんのう)から天皇(大王/おおきみ)を中心としたヤマト政権が政治運営を担ってきた。

其処(そこ)から飛鳥時代に入ると天皇の側近などが政権運営を代理して司り、奈良時代には平城京が創建されると朝廷を設けて、藤原氏一族が国策を主導する様になった。

この時に天皇から勅与(ちょくよ)される官位相当制を制定している。

正一位や従一位からの公卿(くぎょう)。

正四位や従四位からの貴族。

正六位や従六位からの官人(かんにん)。

そこから正八位や従八位、大初位(だいしょい)、少初位(しょうしょい)などと続く。

朝廷に従事する者にとって、位階(いかい)や神階(しんかい)は大きく意味を持ち、最も重要な権威となった。

更(さら)に律令官制も制定された。

太政官を頂点に、生きている内に殆(ほとん)ど就任する者が居ない太政大臣、総理大臣の様な左大臣、副総理大臣の様な右大臣。

大納言、少納言、左弁官、右弁官へと続いていく。

また、別機関として神祇官(じんぎかん)、弾正台(だんじょうだい)、五衛府(ごえふ)なども設けられた。

平安時代に入っても天皇と藤原氏一族の関係は続き、天皇の代わりに政治を司る摂政(せっしょう)と天皇の政治を補佐する関白(かんぱく)の摂関政治を、藤原氏北家(ほっけ)が基礎を築いた。

この仕組みを源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、根底から覆(くつがえ)して武家社会による独立した政権運営を目指して、天皇や朝廷から切り離す事を試(こころ)みていた。

それが幕府であり、武士だった御家人や旗本を投与して幕閣(ばっかく)に入閣させて、政所(まんどころ)、問注所(もんちゅうじょ)、侍所(さむらいどころ)を設けて人事を配置した。

この鎌倉で思案された幕府の組織は主に3要所で政権運営を担う事を想定している。

政所(まんどころ)は政治を司(つかさど)る。

問注所(もんちゅうじょ)は裁判を扱う。

侍所(さむらいどころ)は武士を扱う。

ここから執権(しっけん)による“13人の合議制”や御成敗式目(ごせいばいしきもく/武家規律)が誕生する。

そして封建制度も制定して、幕府による戦(いくさ)の時は、地方武士が援軍する事になる。

執権は北条氏が担い、源氏は将軍の鎌倉殿(かまくらどの)となり、幕府からの御恩(ごおん)と、御家人(ごけにん)から奉公(ほうこう)とを与え合う主従関係となる。

鎌倉殿(かまくらどの)は荘園公領制(そうえんこうりょうせい)により地方の御家人(ごけにん)に地頭(じとう)として土地の収容権限を与え、毎年の年貢(ねんぐ)を幕府に収める事を条件とする。

此(こ)れらが大倉御所(おおくらごしょ)で生み出された源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の“鎌倉幕府構想”である。

この源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の“鎌倉幕府構想”の考えを、24時間365日が戦闘モードの猛攻武将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)に1週間かけて説明しても理解できないであろう。

これが頭脳派の兄の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)と、武闘派の弟の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の仲違いの原因である。

WILD ORCHID /♪ AT NIGHT I PRAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:39:28

◆◇◆其の百四:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

●1185年 《武士の時代》

バリバリ戦闘モードの猛攻武将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を京都の平安京で謹慎させている最中(さなか)に、それでも“平氏討伐”は実現させなければならない相模国(神奈川県)の鎌倉の大倉御所(おおくらごしょ)で政権を奪取(だっしゅ)する思案に夢中な源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)である。

源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、取り敢えず近くに居た源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊に対して“平氏討伐”を命じて西国に進軍させる。

この時、平氏軍は瀬戸内海に面した讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)を本拠地として、長門国(山口県)の関門海峡に位置する彦島(ひこしま/下関)にも拠点を築いていた。

先(ま)ず、源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍2号隊は京都の平安京に入り、謹慎中源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いていた鎌倉源氏軍1号隊と合流して3万人という巨勢な鎌倉源氏軍とする。

平氏軍が拠点として設けていた長門国(山口県)の彦島(ひこしま/下関)を侵攻する為に、源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍は西国へ進軍する。

そして、その途中に位置する播磨国(はりま/兵庫県)の室津(むろつ/龍野)で布陣した。

この鎌倉源氏軍の彦島(ひこしま/下関)への進軍は、讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)の平氏軍にも知らされた。

鎌倉源氏軍の侵攻を食い止める為に平氏軍は水軍で出航して、備前国(岡山県)の児島(こじま/倉敷)に陣営を構える。

この平氏軍の行動に気付いた源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる鎌倉源氏軍は、更(さら)に西国へ進軍して備中国(岡山県)の西川尻(にしかわじり/浅口)に布陣した。

この瀬戸内海に面した備中国(岡山県)で、海峡を挟んで、北岸に3万人の鎌倉源氏軍と南岸に5百人の平氏軍が対峙した。

ただ、鎌倉源氏軍は水軍を用意していない為に、向こう岸の平氏軍を攻撃する事ができなかった。

そんな中で鎌倉源氏軍の佐々木盛綱(ささきもりつな/源氏)が、地元の漁師に向こう岸に行く方法を聞いた。

佐々木盛綱…『此処(ここ)から平氏軍が布陣する向こう岸まで、舟を使わずに行く方法はないものだろうか?』

漁師…『あるんじゃよ! 地元の漁師でも知られとらん浅瀬の海域を、うちぃだけが知っとるよ!』

佐々木盛綱…『おおっ! その場所を教えてくれたら、褒美をたんまりとやるぞぉ!』

漁師…『では、こちらへそ。』

地元の漁師は、佐々木盛綱(ささきもりつな/源氏)をある海岸に連れて行き、浅瀬の説明をした。

漁師…『ここなら、馬でも歩いてでも渡れる。 うちぃ以外は誰も知らん。』

佐々木盛綱…『辱(かたじけな)い。 では、此(こ)れは約束の褒美である。』

そう言って佐々木盛綱(ささきもりつな/源氏)は太刀(たち)を振りかざして地元の漁師を斬殺した。

バサッ バサッバサッ

漁師…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

佐々木盛綱…『こう言う褒美でノコノコ付いてくる欲深い輩(やから)は、生かしておくと、ろくな事はない。』

佐々木盛綱(ささきもりつな/源氏)とは、佐々木秀義(ささきひでよし/源氏)の息子で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が伊豆国(静岡県)に居た頃にお世話になった佐々木四兄弟の1人で、宇多源氏の佐々木流の系統の加地氏(かじうじ)の祖にあたる。

その馬でも歩いてでも渡れる場所は、備前国(岡山県)の藤戸(ふじと/倉敷)だった。

翌日、源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる3万人の鎌倉源氏軍は藤戸(ふじと/倉敷)に布陣して、対岸の児島(こじま/倉敷)に布陣する5百人の平氏軍と睨(にら)み合いが始まった。

その緊迫したムードの中で先陣を切ったのが佐々木盛綱(ささきもりつな/源氏)が率いるゲリラ部隊で、波打つ海の中に突進していく。

これに驚いたのは平氏軍だが、味方の鎌倉源氏軍も驚きを隠せない。

源範頼…『おいっ、早まるなぁ! 波に飲み込まれて自滅するぞぉ!』

ところが佐々木盛綱(ささきもりつな/源氏)が率いるゲリラ部隊はドンドンと海中を進んで行き、其処(そこ)で鎌倉源氏軍も平氏軍も浅瀬がある事に気付く。

3万人の鎌倉源氏軍が佐々木盛綱(ささきもりつな/源氏)が率いるゲリラ部隊の後を追い掛けて、水飛沫(みずしぶき)を上げながら浅瀬を突き進んでいく。

正(まさ)に小舟に突進してくる巨大な鮫(ジョーズ)の様相である。

平家武士…『ウワァワァ〜〜 大口(おおぐち)を開けた鎌倉源氏軍が上陸してくるぅ〜 逃げろぉ〜〜』

これに慌てた平氏軍は舟に乗り込み、急いで讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)へと逃亡した。

これを1185年に起こった「藤戸の戦」(ふじとのたたかい)と呼ぶ。

この情報作戦で見事に勝利した源範頼(みなもとのりよし/源氏)は、大将の権限で佐々木盛綱(ささきもりつな/源氏)に功労賞として備前国(岡山県)の児島(こじま/倉敷)の領地統治権を与えた。

JANE SIBERRY /♪ CALLING ALL ANGELS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:40:28

◆◇◆其の百五:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

此処(ここ)から更(さら)に西国へ進軍する大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる3万人の鎌倉源氏軍は、長門国(山口県)の関門海峡に位置する彦島(ひこしま/下関)の平氏軍の拠点を侵攻する為に、半年近く掛けてようやく九州に上陸した。

ただ、長旅による疲労感と“平氏討伐”に対する士気の低下が鎌倉源氏軍に蔓延(まんえん)し始め、参謀に就いていた三浦氏の庶流(しょりゅう)の和田義盛(わだよしもり/源氏→鎌倉)と、大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が、軍略の違いから仲違いする。

鎌倉源氏軍の中には、『源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の待望!』の声が多く挙がった。

こんな最悪の状況となった九州に布陣する鎌倉源氏軍から、相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に居る源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の元へ早馬が到着する。

源頼朝…『なにぃ!? 鎌倉源氏軍を率いる大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が頼りないから、戦闘モード全開で猛攻武将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の復帰を多くの源氏武士が望んでいる!? う〜〜ん、仕方あるまい。』

こうして京都の平安京で謹慎生活を送っていた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)に対して、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は処分解除を言い渡した。

この時に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)に対して言い渡した条件は2つ。

①:第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)の拘束。

②:“三種の神器”の奪還。

安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)は平家一門ではあるが、第80代天皇の高倉天皇(たかくらてんのう/朝廷)の息子でもある為に、鎌倉幕府を樹立する際に皇族と言う立場を利用するつもりだった。

其処(そこ)で安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)を正当な天皇として日本全国に認めさせるには、“三種の神器”がどうしても必要である。

この源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の心の内を理解してか、理解しないか分からないが、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は猪突猛進(ちょとつもうしん)で平安京を飛び出していった。

心配性で慎重派の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、あまりにもの不安から監視役として梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)を参謀に就けた。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊は、摂津国(大阪府)の上町台地の先端に位置する渡辺津(わたなべのつ/天満橋)に到着し、此処(ここ)から船で四国の阿波国(徳島県)に上陸する作戦を立てた。

ところがこの日は悪天候で、用意した船が破損して出航できなくなる。

墨江津(すみのえのつ/住之江)に建つ住吉大社(すみよしたいしゃ/船の神様)からお抱えの船大工を招聘(しょうへい)し、破損した船の補修工事を依頼した。

この船の修理に時間が掛かり、難波津(なにわのつ/大阪)に夕陽が沈み、辺りは真っ暗となった。

梶原景時…『こんなに暗くては、先陣争いの覇者と言われるわしぃでも今日の出航は無理だなぁ。 讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)にある平氏軍の本拠地への出陣は明朝一番にしよう。』

源義経…『とんでもない、海が暗くても俺は行くぜっ!』

梶原景時…『暗闇の海での航路は危険であり、船出に慣れてない鎌倉源氏軍なら、尚更(なおさら)出航は厳禁である!』

源義経…『お前らは明朝に出陣すれば良い。 俺は別働隊で今夜に出る。 あばよぉ!』

そう言って無鉄砲な源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、勇敢な源氏武士を募り80人の鎌倉源氏軍後発隊遊撃団を結成して、強風が吹き荒れる深夜の海の中を5艘の船で出航した。

この大将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と参謀の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)の意見の相違は、後々に大きな波紋となって降り掛かってくる。

船で摂津国(大阪府)の渡辺津(わたなべのつ/天満橋)から四国の阿波国(徳島県)まで通常は3日は要するところを、追い風の強風と相まって6時間で到着した。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる80人の鎌倉源氏軍後発隊遊撃団が着いたのは阿波国(徳島県)の勝浦(かつうら)で、早速に上陸して土地勘のある協力してくれる地元民を探した。

そんな処(ところ)に人の良さそうな平家武士の近藤親家(こんどうちかいえ/藤原→平氏→源氏)が、朝日を浴びて良い汗を掻(か)きながら朝のウォーキングをしていた。

源義経…『僕は鎌倉源氏軍の大将で、其方(そなた)は見たとこ平家武士だけど、右も左も分からず困っている僕達に道案内してくれない?』

近藤親家…『OK! いいよぉ〜 何処(ど)に行きたいのぉ〜? もしかしたら“(レ)ジャーは(オ)レに任(マか)せろぉ!”のレオマワールド(遊園地)?』

近藤親家(こんどうちかいえ/藤原→平氏→源氏)とは、西光(さいこう/藤原→僧侶)こと藤原師光(ふじわらもろみつ/公家)の息子で、阿波国(徳島県)の板野(いたの)の平氏軍の武士である。

そして西光(さいこう/藤原→僧侶)こと藤原師光(ふじわらもろみつ/公家)とは、藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)の系統で、1177年に起こった「鹿ヶ谷の陰謀」(ししがたにのいんぼう)に関わり阿波国(徳島県)の板野(いたの)に流刑となっていた。

四国に上陸して早々に何なりと道案内を見つけた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は、幸先(さいさき)の良いスタートを切った。

この阿波国(徳島県)の勝浦の辺りは、平氏軍で兄の田口成良(たぐちしげよし/平氏)と弟の田口良遠(たぐちよしとお/平氏)の田口兄弟が守衛する砦(とりで)が築かれていたよ

この時は弟の田口良遠(たぐちよしとお/平氏)が砦(とりで)を守護しており、此処(ここ)を源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊遊撃団と道案内の近藤親家(こんどうちかいえ/藤原→平氏→源氏)が攻撃して攻め落とした。

順調な滑り出しで源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は阿波国(徳島県)の山岳地帯を進んで行き、ようやく讃岐国(香川県)の高松(香川県庁所在地)に入った。

源義経…『おい、あの島々に架かっている大きな建造物は何だぁ?』

近藤親家…『ああ〜 あれは備中国(岡山県)の倉敷と讃岐国(香川県)の坂出を結ぶ1988年に開通した瀬戸大橋です。』

源義経…『瀬戸大橋!? では、あの瀬戸大橋を渡れば早くて安全に四国に渡れたのかぁ?』

近藤親家…『まあ、そう言う事ですね。』

源義経…『・・・』

落胆する気持ちを隠し切れずに源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と80人の鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は、讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)に到着した。

TORI AMOS /♪ HEY JUPITER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:41:22

◆◇◆其の百六:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

此処(ここ)で道案内をしてくれた近藤親家(こんどうちかいえ/藤原→平氏→源氏)と別れを告げて、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる80人の鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は平氏軍が構える陣営の少し手前で布陣した。

源義経…『腹が減っては戦(いくさ)はできぬぅ! 一先(いとま)ず此処(ここ)で食事をしよう。』

源氏武士…『御意(ぎょい)!』

そう言って調理担当の武士が、近くで水を汲んできたが海沿いと言う事もあって、どこも塩水だった。

更(さら)に野菜を切ろうとしても手頃なまな板も無い。

料理ができずに困り果てた鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は、お腹だけが鳴る。

グゥ〜〜 グゥ〜〜

源義経…『う〜〜ん、困ったなぁ〜 威勢がいいのも、ご飯をしっかりと食べるから出来る事で、こんな空腹では目の前の平氏軍と合戦など出来そうもないなぁ〜』

そんな時に、たまたま京都の僧兵の武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)が、“四国八十八ヶ所霊場”を巡っていた際に讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)を通りがかった。

武蔵坊弁慶…『おお〜 牛若(源義経)殿では御座らんかぁ〜 こんな処(ところ)でどうしたんじゃ〜?』

源義経…『弁慶ではないかぁ〜 陸奥国(むつ/岩手県)の平泉で奥州藤原氏にお世話になった以来だなぁ〜 懐かしいのぉ〜 あっ! 今は平氏軍の討伐で讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)まで来たんじゃ。』

武蔵坊弁慶…『ほぉ、平氏軍の討伐かいなぁ。 それは御苦労であるなぁ〜』

源義経…『ところが、食事を作ろうにも、どの水にも海水が混じっていて、塩(しょ)っぱくて使えんのじゃ。』

武蔵坊弁慶…『それはお困りで御座るなぁ〜 では、どれどれっとぉ、えいっ、やあっ、とおっ!!』

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)が薙刀(なぎなた)で地面を叩き破(わ)ると、なんと真水が湧いて出てきた。

源義経…『おお〜 弁慶、辱(かたじけな)い。 これでお米を研(と)いでご飯が炊ける。』

その後ろから1人の源氏武士がお地蔵さんを抱えて走ってきた。

源氏武士…『殿、この地蔵の背中部分をまな板の様にして、野菜を切りましょう。』

源義経…『それって、罰が当たらないか?』

こうして源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と鎌倉源氏軍後発隊遊撃団の源氏武士は、無事に食事を取る事ができた。

この武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)が薙刀(なぎなた)で地面を割ったら真水が湧いた場所は“長刀泉”(なぎなたいずみ)と呼ばれ、野菜を切るためにまな板にされたお地蔵さんは“菜切地蔵”(なきりじぞう)と名付けられ手厚く祀られている。

因(ちな)みに武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)は、宗祖の伝教大師(でんぎょうだいし)こと最澄(さいちょう/天台宗)の教えを説く近江国(滋賀県)の比叡山にある天台宗(てんだいしゅう)の延暦寺(えんりゃくじ)の僧侶である。

一方、“四国八十八ヶ所霊場”は真言宗(しんごんしゅう)の宗祖の弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい/真言宗)が生まれ故郷の讃岐国(香川県)の多度(たど)を中心に四国の霊場を巡礼し、真言宗(しんごんしゅう)は紀伊国(和歌山県)の金剛峯寺(こんごうぶじ)または山城国(京都府)の東寺(とうじ)が総本山としている。

天台宗(てんだいしゅう)の武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)からすれば異宗派の真言宗(しんごんしゅう)だが、同じ平安時代に開かれた仏教の宗派なので問題は無いとする。

お腹も満たされた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は、“平氏討伐”へいざ出陣する。

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は80人しか居ない鎌倉源氏軍後発隊遊撃団を2部に別けて、40人ほどの更(さら)なる少数部隊とする。

この少数部隊の2部を左右に分散して平氏軍の陣営を侵攻させ、その時には大袈裟(おおげさ)な音を立てて大声を張り上げ進撃させる。

此(こ)れにより平氏軍は、多勢で鎌倉源氏軍が攻めて来たと思わせる。

また、周辺の民家にも火を放ち、黒々とした煙を出させて大群が侵略している様に見せ掛けた。

この作戦が見事に当たり、平氏軍は狼狽(ろうばい)しながら陣営から逃亡して、海に停泊している船に乗り込み沖へと出て行く。

ただ、平教経(たいらのりつね/平氏)が船の上から陸地を見ると、鎌倉源氏軍は80人ほどの少人数だと気付いて嘆(なげ)いた。

平教経…『平家一門としてなんと情けない。 大山鳴動(たいざんめいどう)して鼠一匹(ネズミいっぴき)とはこの事ではないか。』

平教経(たいらのりつね/平氏)とは、平教盛(たいらのりもり/朝廷→平氏)の息子で、1183年に起こった「水島の戦」(みずしまのたたかい)の水軍大将に就き、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が進軍させた大将の武田義清(たけだよしきよ)こと源義清(みなもとよしきよ/源氏)が率いる木曽源氏軍武田隊に勝利した人物である。

平氏軍は再び船を湊(みなと)に停泊させて陣営を築き千人の平家武士を配置し、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる80人の鎌倉源氏軍後発隊遊撃団と対峙する。

この時の戦(いくさ)は詞戦(ことばたたかい/言葉戦)で、要は武器を使わず敵陣への悪口を言い合う子供の喧嘩(ケンカ)みたいなもの。

ところが、この時に鎌倉源氏軍後発隊遊撃団から1本の矢が射られて、それが「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)で熊谷直実(くまがいなおざね/源氏)に恐怖して逃亡した伊勢平氏の平盛嗣(たいらもりつぐ/平氏)に命中して絶命した。

ギュ〜〜 ビューーー

ズバンッ

平盛嗣…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

バタンッ

この報復として“弓取り名人”と言われる平教経(たいらのりつね/平氏)が弓を引き1本の矢が勢いよく射られ、その先には源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が居た。

ギュ〜〜 ビューーー

源義経…『しっ、しまったぁ! 油断していたぁ!!』

その矢は源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)に向かって真っ直ぐ飛んでくる。

ズバンッ

佐藤継信…『危ないっ! グオォォ〜』

バタンッ

なんと源氏武士の佐藤継信(さとうつぐのぶ/藤原→源氏)は、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を矢から庇(かば)って、自らに刺さり絶命した。

源義経…『ああっ〜 なんて事だぁ〜〜! 平氏軍めぇ〜 絶対に許さん〜〜!!』

この瞬間にも平通盛(たいらみちもり/平氏)の小姓(こしょう)や平教経(たいらのりつね/平氏)の小姓(こしょう)に就いていた菊王丸(きくおうまる/平氏)が、太刀(たち)を片手に佐藤継信(さとうつぐのぶ/藤原→源氏)の首級(しきゅう)を斬り落とそうと近付く。

ところが、そうはさせないと佐藤継信(さとうつぐのぶ/藤原→源氏)の弟の佐藤忠信(さとうただのぶ/藤原→源氏)が、弓を引き矢を射ると菊王丸(きくおうまる/平氏)に命中して絶命した。

この戦(いくさ)で鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は佐藤継信(さとうつぐのぶ/藤原→源氏)を失い、平氏軍は菊王丸(きくおうまる/平氏)を失った。

この場所は“射落畠”(いおちばた)と呼ばれ後世に語り継がれている。

兄の佐藤継信(さとうつぐのぶ/藤原→源氏)と弟の佐藤忠信(さとうただのぶ/藤原→源氏)は、奥州藤原氏の家臣の一族で、陸奥国(むつ/岩手県)の平泉から源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)に仕えるの家臣で義経四天王(よしつねしてんのう)と呼ばれる。

この2人の親族に佐藤季春(さとうすえはる/奥州藤原氏)が居り、第2代奥州藤原氏の藤原基衡(ふじわらもとひら/奥州藤原氏)の重鎮家臣で、信夫庄の群司(しのぶのしょうのぐんじ)や大庄司(おおしょうじ)を務めた人物である。

瀬戸内海の西の空に夕陽が掛かり、日暮れで辺りが暗くなり始めた為に、「源平合戦」(げんぺいがっせん)は明日に持ち越しとなった、その時・・・

India.Arie /♪ READY FOR LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:42:17

◆◇◆其の百七:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

瀬戸内海の西の空に夕陽が掛かり、日暮れで辺りが暗くなり始めた為に、戦(いくさ)は明日に持ち越しとなり、鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は片付けをしていたところ、沖に平氏軍の1艘の舟が出てきた。

その舟には女性が1人と船縁(ふなべり)に扇が立ててあった。

現状を理解できない源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が、家臣の藤原氏北家(ほっけ)の北面武士である後藤実基(ごとうさねもと/藤原→源氏)に舟の扇と女性の意味を聞いた。

源義経…『あの舟で何が始まるのだぁ? 何かの余興か?』

後藤実基…『いやぁ、あれは舟の扇を弓の矢で射る武士の力量を試すもので御座います。』

源義経…『あのユラユラしている舟の扇を射って落とす者など鎌倉源氏軍に居るのかぁ?』

後藤実基…『1人だけいます。 東国武士からは“弓取り名人”と呼ばれる那須与一(なすよいち/源氏)で御座います。』

那須与一(なすよいち/源氏)とは、下野国(しもつけ/栃木県)の元は藤原氏北家(ほっけ)の須藤氏(すどううじ)で那須氏(なすうじ)に改名した一族で、坂東八州(ばんどうはっしゅう)では“弓取り名人”として知られていた。

両軍は多くの島々が浮かぶ瀬戸内海で対峙し、“弓取り名人”の平教経(たいらのりつね/平氏)は鎌倉源氏軍を煽(あお)った。

平教経…『源氏軍よぉ、この舟の扇を射止める事ができるか?』

ここで海岸に布陣する源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、“弓取り名人”と呼ばれる那須与一(なすよいち/源氏)に扇の的を射る様に命じる。

浜辺から舟の扇の的までは80mほど離れている。

しかも波で扇がユラユラと動き安定していない。

源義経…『お主なら、あの不安定な扇の的でも射抜く事ができるだろう。』

那須与一…『やってみます。』

那須与一(なすよいち/源氏)は馬に乗り、海辺から扇の的に向けて弓を構える。

海中では波で揺らされ弓の構えが安定せず、馬を海の岩場に移動させて構えを固定する。

しかし、波は大きく風も強い為に、舟も扇もユラユラと大きく揺れている。

其処(そこ)で那須与一(なすよいち/源氏)は、目をゆっくりと閉じて静かに祈った。

那須与一…『南無八幡大菩薩 我が国の神明 日光の権現 宇都宮 那須の湯泉大明神 願はくはあの扇の真ん中射させてたばせたまへ これを射損ずるものならば 弓切り折り白害して 人に二度面を向かふべからず いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば この矢はづさせたまふな。』⦅八幡大菩薩、そして我が下野国の日光権現(にっこうごんげん)、宇都宮(二荒山神社)、那須の温泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)よ、どうか扇の真ん中を射させて下さい。 もし射損じたならば、この弓を圧(へ)し折って自害し、二度と人に顔向けいたしません。 もう一度、故郷(こきょう)へ迎えてやろうとお思いになるのでしたら、どうかこの矢を外させないで下さい。⦆

那須与一(なすよいち/源氏)が目をゆっくり開けると、波は穏やかになり風も止まり、舟も扇も停止している様に見える。

この瞬間を見逃さなかった。

ギュ〜〜 ビューーー

ズバンッ ヒラヒラ

平教経…『おぉ〜 流石(さすが)は“弓取り名人”と呼ばれる那須与一(なすよいち/源氏)殿、お見事!』

これに歓喜したのは鎌倉源氏軍だけでなく、敵方の平氏軍も那須与一(なすよいち/源氏)に対して称賛を送った。

そして、平氏軍の初老の軍師が感極まって、舟の上で舞を踊り出した。

ここで海辺に布陣する源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、“弓取り名人”と呼ばれる那須与一(なすよいち/源氏)に舞を踊る初老の軍師を射る様に命じる。

浜辺から初老の軍師の的までは100mほど離れている。

しかも初老の軍師は舞を踊りユラユラと動き安定していない。

源義経…『お主なら、あの不安定な初老の軍師でも射抜く事ができるだろう。』

那須与一…『やってみます。』

那須与一(なすよいち/源氏)は馬に乗り、海辺から初老の軍師に向けて弓を構える。

しかし、再び波は大きく風も強い為に、舟も扇もユラユラと大きく揺れている。

其処(そこ)で那須与一(なすよいち/源氏)は、目をゆっくりと閉じて静かに祈った。

那須与一…『南無八幡大菩薩 我が国の神明 日光の権現って、もういいか。』

那須与一(なすよいち/源氏)が目をゆっくり開けると、再び波は穏やかになり風も止まり、舟も扇も停止している様に見える。

この瞬間を見逃さなかった。

ギュ〜〜 ビューーー

ズバンッ ドボォン

初老の軍師…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

平氏軍の初老の軍師は、那須与一(なすよいち/源氏)に射抜かれて海に落ちて絶命した。

これが再戦の合図となり合戦が始まった。

海の浅瀬で鎌倉源氏軍後発隊遊撃団と平氏軍は死闘を繰り広げ、この激戦で源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は弓を海に落とし流してしまう。

戦(いくさ)の最中(さなか)に海に潜って弓を必死になって探す源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)。

此(こ)れを見た源氏武士も平家武士も一緒になって源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の弓を探してあげた。

平家武士…『あったぞぉ〜 弓があったぞぉ〜』

源義経…『うわぁ〜 有難う御座いました。 後で御礼はさせて頂きます。』

平教経…『良かったなぁ〜 源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)殿よぉ、大切な弓が見つかってぇ!』

源義経…『はいっ、今回は平氏軍の皆さんにお世話になりました。 ではぁ、また明日。』

こうして「源平合戦」(げんぺいがっせん)は明日に持ち越しととなった。

そして明朝、平氏軍の本拠地は昨日の内に源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊遊撃団に放火され焼失している為に、その屋島(やしま/高松)の東方で対戦する事となった。

結果は源氏軍が勝利し、平氏軍は本拠地の讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)を放棄して再び西国に逃亡した。

これを1185年に起こった「屋島の戦」(やしまのたたかい)と呼ぶ。

そして、摂津国(大阪府)の上町台地の先端に位置する渡辺津(わたなべのつ/天満橋)から、船で出航した梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)が率いる鎌倉源氏軍後発隊が、ようやく讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)に到着した。

梶原景時…『お待たせぇ〜 皆んな待ったぁ〜?』

この時は既(す)に源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊遊撃団は、西国へ逃亡した平氏軍を追い掛けて瀬戸内海を航海している最中(さいちゅう)であった。

讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)は祭りの後の様相である。

梶原景時…『源氏軍も、平氏軍も、何処(どこ)に行ったのかなぁ〜 糞(クソ)でもしに行ってるのかぁ?』

PAULINE WILSON /♪ ONLY YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:43:10

◆◇◆其の百八:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる80人の鎌倉源氏軍後発隊遊撃団が、船で摂津国(大阪府)の渡辺津(わたなべのつ/天満橋)から阿波国(徳島県)の勝浦(かつうら)へ、通常は3日は要するところを6時間で到着し上陸した頃まで話しが少し遡る。

四国では阿波国(徳島県)を統治する平氏軍の田口教能(たぐちのりよし/平氏)と、伊予国(愛媛県)を統治する源氏軍の河野通信(かわのみちのぶ/源氏)が交戦していた。

田口教能(たぐちのりよし/平氏)とは、田口兄弟の阿波国(徳島県)の勝浦の武士である兄の田口成良(たぐちしげよし/平氏)の息子で、弟の田口良遠(たぐちよしとお/平氏)は叔父にあたる。

この弟の田口良遠(たぐちよしとお/平氏)が、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊遊撃団に進撃されて敗北し、逃走して行方知れずとなった人物である。

河野通信(かわのみちのぶ/源氏)とは、伊予国(愛媛県)の武将で伊予水軍を所有する河野氏(かわのうじ)の系統で、時宗(じしゅう)の宗祖である一遍(いっぺん/時宗)の祖父にあたる。

時宗(じしゅう)は相模国(神奈川県)の清浄光寺(しょうじょうこうじ)が総本山で、宗祖は一遍(いっぺん/時宗)である。

伊予国(愛媛県)の河野通信(かわのみちのぶ/源氏)との合戦を終えた阿波国(徳島県)の田口教能(たぐちのりよし/平氏)が3千人の平家軍阿波隊が阿波国(徳島県)の勝浦(かつうら)へ退却して来た。

この時は既に田口氏の砦(とりで)は落城し、敗北した弟の田口良遠(たぐちよしとお/平氏)は逃走して行方知れずとなっていた。

ただ、勝利した源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊遊撃団とは言え80人しか居ない。

此処(ここ)で源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の郎党(ろうとう)を務めていた伊勢国(三重県)の武士の伊勢義盛(いせよしもり/源氏)が、田口教能(たぐちのりよし/平氏)が率いる3千人の平家軍阿波隊に対して交渉人(ネゴシエーター)を買って出る。

源義経…『困ったなぁ〜 流石(さすが)にたった80人で、3千人の平氏軍とは交戦できないなぁ〜 我々(アウェイ)は地域も詳しくないし、地元の敵陣(ホーム)は地の利もあるしなぁ〜』

伊勢義盛…『此処(ここ)はお任せあれぇ! 私に16人ほどの源氏武士を預けて頂ければ、調略(ちょうりゃく)と交渉で乗り切ってみせます。』

源義経…『ほう、其処(そこ)までの自信と勇気! では其方(そなた)が交渉人(ネゴシエーター)として行って参れぇ!』

伊勢義盛…『御意(ぎょい)!』

こうして伊勢義盛(いせよしもり/源氏)は源氏武士16人を引き連れて、3千人が身構える平家軍阿波隊の陣営に入って行き、大将の田口教能(たぐちのりよし/平氏)に謁見(えっけん)した。

伊勢義盛…『殿下に拝謁(はいえつ)致します。 もうご存知かとは思いますが、平氏軍は我々の鎌倉源氏軍に敗北してほぼ壊滅しました。 「源平合戦」(げんぺいがっせん)も終了してお互いにこれ以上の無駄な血を流す必要は無い為に、鎌倉源氏軍の総大将である源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)公から伝令(でんれい)を預かってきている。』

田口教能…『ええっ〜!? 平氏軍が壊滅しただとぉ! 聞いてないよぉ〜!!』

伊勢義盛…『では、砦(とりで)を守護していた叔父の田口良遠(たぐちよしとお/平氏)は討死し、合戦に参戦していた父親の田口成良(たぐちしげよし/平氏)は鎌倉源氏軍に拘束されている事も知らないと言うのか?』

田口教能…『叔父が討たれ、父上が捕虜となっているのか!?』

伊勢義盛…『貴方の父親の田口成良(たぐちしげよし/平氏)は、息子の事をとても心配しております。 親が子供に対する愛情の深さに感動して、鎌倉源氏軍の総大将である源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)公をはじめ、源氏武士は皆(みな)涙を流しており、即座(そくざ)に降伏して鎌倉源氏軍に投降を願いたい。』

田口教能…『そうだったのかぁ・・・ では、一緒に鎌倉源氏軍の陣営へと参ります。』

こうして交渉人(ネゴシエーター)の伊勢義盛(いせよしもり/源氏)の調略(ちょうりゃく)により、頭脳作戦が見事に成功した。

田口教能…『クッソォ〜〜 騙されたぁ〜〜!!』

その後、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる80人の鎌倉源氏軍後発隊遊撃団に、平氏軍の拠点だった讃岐国(香川県)の屋島(やしま/高松)を総攻撃を受けて船で敗走し、長門国(山口県)の関門海峡に位置する彦島(ひこしま/下関)の平氏軍の拠点に向けて瀬戸内海を航海していた。

平家の棟梁でもある総大将の平宗盛(たいらむねもり/平氏)が率いる平氏軍は、長い船旅によりようやく長門国(山口県)の彦島(ひこしま/下関)に到着した。

ただ、長門国(山口県)の彦島(ひこしま/下関)から関門海峡を挟んだ対岸の九州の豊前国(ぶぜん/福岡県)の門司(もじ/北九州)には、大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる3万人の鎌倉源氏軍が陣営を構えている。

小勢力となった平氏軍に取って気が抜けない。

しかも東方からは源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と合流した梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)が率いる鎌倉源氏軍後発隊が、河野通信(かわのみちのぶ/源氏)が率いる伊予水軍や湛増(たんぞう/宮司)と息子の武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)が率いる熊野水軍を従えて侵攻している。

湛増(たんぞう/僧侶)とは、紀伊国(和歌山県)の熊野大社の宮司(ぐうじ)で、熊野水軍を保持し、当初は平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)が率いる平氏軍に就いていたが鎌倉源氏軍に寝返り、その心変わりは息子が武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/僧侶)だった事も関係している。

紀伊国(和歌山県)に建つ熊野大社は、未来の信仰の熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ/田辺)、過去の信仰の熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ/新宮)、現在の信仰の熊野那智大社(くまのなちたいしゃ/勝浦)から成り立っており、平安時代中期に流行した“熊野詣”(くまのもうで)が有名である。

長門国(山口県)の彦島(ひこしま/下関)を拠点とする平氏軍に取って、豊前国(ぶぜん/福岡県)の門司(もじ/北九州)に布陣する大将の源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる3万人の鎌倉源氏軍と、周防国(すおう/山口県)に布陣する源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊により、東西方を挟み討ちにされる危険性がある。

ただ、西国(ホーム)が拠点の平氏軍は海上合戦は得意分野だった為に、伊予水軍と熊野水軍の援軍があるとは言え、海に不慣れな鎌倉源氏軍は1ヶ月掛けて海上合戦の訓練を実施した。

そして季節は桜が咲き始めた春。

気候も暖かくなり始め、海の近くで戦(いくさ)をするには丁度良い。

長門国(山口県)の下関と豊前国(ぶぜん/福岡県)の門司(もじ/北九州)を分断する関門海峡。

此処(ここ)の海に浮かぶは平氏軍の無数の舟。

対する鎌倉源氏軍は、長門国(山口県)の下関の海岸には、源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)が率いる鎌倉源氏軍後発隊が布陣し、伊予水軍と熊野水軍の船がズラリと並ぶ。

対岸の豊前国(ぶぜん/福岡県)の門司(もじ/北九州)の海岸には、源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる3万人の鎌倉源氏軍が睨みを効かせる。

ところが長門国(山口県)の下関に布陣する鎌倉源氏軍後発隊の、大将と源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)と参謀の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)が口論を始める。

先陣争いの覇者を自負する参謀の梶原景時(かじわらかげとき/平氏→鎌倉)の持論はこうである。

梶原景時…『今日は「源平合戦」(げんぺいがっせん)で一番の大勝負! 此処(ここ)は私が先陣を切らせて頂きます。』

一方、24時間365日が戦闘モードで猛攻武将の源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)の持論はこうである。

源義経…『アホォな事を吐(ぬ)かしとったらあかんぞぉ! 此処(ここ)一番の大勝負だからこそ、わしぃが先陣を務めるのは当然だろう!』

梶原景時…『いやぁ、其方(そなた)は総大将であろう。 総大将は陣営で指揮を司り、真っ先に戦場に出向くものでは無い!』

源義経…『鎌倉源氏軍の総大将は、相模国(神奈川県)の鎌倉で難しい事を考えている兄ちゃん、即(すなわ)ち源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)だっ!』

鎌倉源氏軍後発隊は内部分裂寸前である。

一方、海上の船で構える平氏軍でも1人の武将が溜(た)め息をついていた。

田口成良…『はぁ〜 困ったなぁ〜』

平知盛…『どうしたのじゃ、田口成良(たぐちしげよし/平氏)殿? 此処(ここ)一番の大勝負に怖気(おじけ)ついたのかぁ?』

田口成良…『いやぁ、何でもありません。 戦(いくさ)は準備万端で大丈夫です!』

平知盛…『それなら良いが。』

田口成良(たぐちしげよし/平氏)は、阿波国(徳島県)の勝浦で源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊に、息子の田口教能(たぐちのりよし/平氏)が拘束されて人質になっている事を苦慮していた。

平宗盛…『どうしたのじゃ?』

平知盛…『ああ兄者、田口成良(たぐちしげよし/平氏)殿の様子がおかしいのじゃ。 戦況に影響するかも知れないから、此処(ここ)は田口成良(たぐちしげよし/平氏)殿を一先(ひとま)ず戦線離脱させる方が良いのではないか?』

平宗盛…『いやぁ、今や平氏軍は劣勢で、1人でも多くの武士が必要じゃ。 そんな貴重な武士を戦場から引き離す訳にはいかぬぅ!』

平知盛…『・・・』

両軍共に不安材料を抱えての開戦である。

いよいよ最後の「源平合戦」(げんぺいがっせん)の幕開けである。

SISSEL KYRKJEBO /♪ HERE,THERE AND EVERYWHERE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250215 - ラジオの友 URL

2025/02/15 (Sat) 18:44:02

◆◇◆其の百九:京都の平安京に棲(す)み着き漂(ただよ)うエイリアン◆◇◆

長門国(山口県)の下関と豊前国(ぶぜん/福岡県)の門司(もじ/北九州)を分断する関門海峡。

長門国(山口県)の彦島(ひこしま/下関)を拠点とする平氏軍は、平氏水軍を出航させて海の西方に500艘の船を配置する。

対する鎌倉源氏軍は、長門国(山口県)の下関の海岸に源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)が率いる鎌倉源氏軍後発隊が布陣し、伊予水軍と熊野水軍の船がズラリと並び、源氏水軍の先発隊として海の東方に840艘を配置する。

対岸の豊前国(ぶぜん/福岡県)の門司(もじ/北九州)の海岸には、源範頼(みなもとのりよし/源氏)が率いる3万人の鎌倉源氏軍が布陣する。

この時の関門海峡の潮の流れは西方から東方に向かっており、風で例えると平氏水軍は西方からの追い風で進軍し、源氏水軍は西方からの向かい風で進軍しなければならず、有利なのは平氏水軍でこの海域の潮の流れを熟知した時間帯に開戦する事を計算に入れていた。

潮流(ちょうりゅう)に乗ってドンドンと平氏水軍は源氏水軍を追い込んでいく。

そんな時に、数頭のイルカの群れが歌を唄いながら、東方から西方に向かって泳いで来た。

イルカ…『♪誰も知らない瀬戸内海から〜 軍馬に乗った源氏武士がやって来た〜』

イルカ…『♪敗けそう時は海に来て〜 戦場を見てごらん〜 空と海との隙間から〜 軍馬に乗った源氏武士がやって来た〜』

イルカ…『♪戦(いくさ)の太刀(たち)を腰に抱き〜 東国からやって来る〜 平氏を 平氏を 平氏を討伐する為にやって来る〜』

イルカ…『♪ほぉ〜ら ご覧よ斬る刀(かたな)も ザックリと頬(ほほ)を撫(な)で斬るだろう〜』(♪イルカに乗った少年)

このイルカの群れを見た平氏軍の総大将である平宗盛(たいらのむねもり/平氏)は、船に同乗していたシャーマン(呪術師)に占術(せんじゅつ)でイルカの出現の理由を占ってもらう。

平宗盛…『先生、あのイルカが来た事の意味を占って下さい。』

シャーマン…『分かりました。 テクマクマヤコン、テクマクマヤコン、海の神の大綿津見神(オホワタツミノカミ)よぉ、あのイルカの出現理由を教えたまえ〜 タァ〜〜 こんなん出ましたぁ。』

平宗盛…『えっ!? どんなん出たんですか?』

シャーマン…『あのイルカに乗っている少年が見えるか? あの少年は直(じき)起こるであろう第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/平氏→朝廷)の投影のホログラム映像じゃ! あのイルカが東方に進路を変えたら鎌倉源氏軍の負け、そのまま西方に進めば平氏軍の負けじゃ!』

平宗盛…『イルカに乗った少年は見えませんが、ドンドンとイルカが此方(こちら)に近付いて来ています。 此(こ)れヤバくないかぁ〜』

シャーマン…『そう言う事、この「源平合戦」(げんぺいがっせん)は平氏軍の負けじゃ! 何事も諦(あきら)めが肝心だぞぉ。 深傷(ふかで)を負(お)う前に戦(いくさ)を止める決断をする事じゃ!』

このイルカの進行方向は、関門海峡の西方から東方だった潮の流れが、反転して東方から西方に変わった事を示唆(しさ)している。

潮流(ちょうりゅう)に乗ってドンドンと源氏水軍は平氏水軍を追い込んでいく。

鎌倉源氏軍の目的は、相模国(神奈川県)の鎌倉に建つ大倉御所(おおくらごしょ)に居る源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)から強く言われているのは2つだけ。

①:第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)の拘束。

②:“三種の神器”の奪還。

関門海峡に点在する平氏水軍の船を、片っ端から探索する源氏水軍だが、いかにも総大将などの武将や高貴な人物が乗りそうな豪華な唐船には目もくれず、小型の船に狙いを定めて探しているのは明らかだ。

この時、大きく豪華な唐船には誰も乗って居らず、源氏水軍が襲撃してきたら平氏水軍が総攻撃を掛ける“偽装豪華客船囮大作戦”(ぎそうごうかきゃくせんおとりだいさくせん)の手筈(てはず)だった。

一方、見窄(みすぼ)らしい小舟には、平家一門が身を隠していた。

平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の妻の二位尼(にいのあま)こと平時子(たいらときこ/平氏)は、“三種の神器”の“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)と“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)を持つ。

その息子で兄の平宗盛(たいらむねもり/平氏)と平知盛(たいらとももり/平氏)。

娘で第80代天皇の高倉天皇(たかくらてんのう/朝廷)の妻の平徳子(たいらとくし/平氏→朝廷)と、息子の第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)で、“三種の神器”の“八咫鏡”(やたのかがみ)を持つ。

平宗盛(たいらむねもり/平氏)の息子の平清宗(たいらきよむね/平氏)。

平清盛(たいらきよもり/朝廷→平氏)の兄弟の平教盛(たいらのりもり/朝廷→平氏)の息子で、「水島の戦」(みずしまのたたかい)の水軍大将を務めた平教経(たいらのりつね/平氏)。

此(こ)れだけの豪華な平家一門が見窄(みすぼ)らしい小舟に乗っている筈(はず)が無い、と思わせる為の“偽装豪華客船囮大作戦”(ぎそうごうかきゃくせんおとりだいさくせん)だったが、源氏水軍は一向に作戦に乗ろうとしない。

平知盛…『おかしいなぁ!? 源氏水軍は大きな唐船には目もくれず、小舟ばかりを襲撃しているでないか!?』

平宗盛…『我々の作戦が漏れているのか!?』

それもその筈(はず)で、何と開戦前に思い悩んでいた田口成良(たぐちしげよし/平氏)が、鎌倉源氏軍の捕虜となっている息子の田口教能(たぐちのりよし/平氏)の解放を条件に、源氏水軍に寝返っていたのである。

平家武士…『大変です! 田口成良(たぐちしげよし/平氏)が源氏水軍と内通して“偽装豪華客船囮大作戦”(ぎそうごうかきゃくせんおとりだいさくせん)が鎌倉源氏軍に知れ渡っています。』

平宗盛…『なにぃ〜〜!? 「源平合戦」(げんぺいがっせん)で一番の大勝負で田口成良(たぐちしげよし/平氏)が寝返っただとぉ〜〜!!』

平知盛…『やはり、開戦前に戦線離脱させて、阿波国(徳島県)の勝浦に帰還させるべきだったぁ!!』

そんな愚痴(グチ)をこぼしても、もう遅い。

劣勢となった平氏水軍を見切って、次々と離反していく地元の水軍や武将たち。

それでも鎌倉源氏軍による、陸から海からの容赦ない総攻撃。

源範頼…『うぬぅ〜 安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)と“三種の神器”はまだ見つからぬかぁ! 見窄(みすぼ)らしい舟を片っ端から探せぇ!』

源義経…『あの、戦場から離れた兵士用の小舟を探せぇ!』

源氏軍と平氏軍の弓矢が飛び交う海上より、少し離れた所に浮かぶ不自然な舟に目星を付けた源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、その舟の乗組員を拿捕(だほ)する様に命じる。

平知盛…『兄上、どうやら鎌倉源氏軍に見つかった様で御座るな。』

平宗盛…『うむ、平氏軍ももはやこれまでか。 母上、これ以上は耐えられないで御座る。 如何(いかが)なされる?』

平時子…『承知致しました。 坊ちゃん、では参りましょうか。』

安徳天皇…『お婆ちゃん、何処(どこ)に行くの?』

平時子…『今から、醜(みにく)い戦争も権力も無い、阿弥陀仏(あみだぶつ)が迎えてくれる、とても素晴らしい黄泉の国(よみのくに/天国)に行くのよ。』

安徳天皇…『はい。』

ドボォン

そう言って二位尼(にいのあま)こと平時子(たいらときこ/平氏)は、8歳になった孫の第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)を抱きかかえて、“三種の神器”の“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)と“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)を持ち、西方に向いて念仏を唱えながら入水し海の底に沈んでいった。

源氏水軍は、急いで安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)と“三種の神器”の“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)と“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)を奪取(だっしゅ)しようとしたが間に合わず、何とか“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)だけは確保できた。

平徳子(たいらとくし/平氏→朝廷)も母上と子供の後を追って入水したが、直(す)ぐ源氏水軍に助けられて、“三種の神器”の“八咫鏡”(やたのかがみ)も確保した。

此(こ)れを見た平家武士は、次々と入水を始めるのであった。

平家一門の棟梁で平氏軍の総大将である平宗盛(たいらむねもり/平氏)と、その息子の平清宗(たいらきよむね/平氏)は、平氏軍の武士が海に身投げする様子を呆然(ぼうぜん)と見ていた。

平家武士…『殿下、何時(いつ)入水して自決なさるおつもりか!?』

平宗盛…『いやぁ、死にとぉない。 わしぃは入水も自決もしないぞぉ! 生きて源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に媚(こび)を売って鎌倉幕府に入閣させてもらうんだぁ!』

平清宗…『僕も死にたくないよぉ〜 テレビゲームでまだ途中の“ドラゴンクエスト”があるから、早く家に帰って続きをしなきゃ!』

平家武士…『お前ら親子はアホォか! 早く海に入水し自決しろぉ!!』

そう平家武士に言われて、平宗盛(たいらむねもり/平氏)と息子の平清宗(たいらきよむね/平氏)は船から叩き落とされた。

ドボォン ドボォン

平宗盛…『わぁ〜 助けてぇ〜 泳げないよぉ〜』

平清宗…『うわぁ、海水を飲んで苦しい〜 助けてぇ〜』

其処(そこ)に源氏水軍の船が近付いてきて、溺れる2人を引き揚げた。

源氏武士…『お〜い、大丈夫かぁ〜?』

平宗盛…『助かりました。 貴方は命の恩人です。』

平清宗…『有難う御座います。 この御恩は一生涯、忘れません。』

最後の最期(さいご)で平家武士を落胆させた平氏軍の総大将の平宗盛(たいらむねもり/平氏)が源氏水軍に救出された一方で、「水島の戦」(みずしまのたたかい)の水軍大将を務めた平教経(たいらのりつね/平氏)は、鎌倉源氏軍の大将である源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)を道連れに自決するつもりだった。

ところが身軽な源義経(みなもとよしつね/鎌倉→藤原)は、平教経(たいらのりつね/平氏)からの攻撃を上手く交わして逃げられた。

そして平教経(たいらのりつね/平氏)は最期(さいご)の言葉を発した。

平教経…『源氏武士をよく聞けぇ! 相模国(神奈川県)の鎌倉に居る源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に、平家武士の死様(しにざま)を伝えろぉ!!』

そう言って周囲に居た源氏武士3人を抱きかかえて、道連れにして海に飛び込んだ。

ドボォン

ドボォン ドボォン

ドボォン

これらを最後まで見ていた平知盛(たいらとももり/平氏)は、一言だけ呟(つぶや)いて海に入水した。

平知盛…『見るべきものは、見届けた。』

ドボォン

こうして殆(ほとん)どの平家一門が壇ノ浦の海へと消えていった。

これが戦争である。

これを1185年に起こった「壇ノ浦の戦」(だんのうらのたたかい)と呼ぶ。

これにて平安時代に栄華(えいが)を極めた平氏は滅亡する。

それと同時に794年に平安京が開設してから1185年に鎌倉幕府が創設されるまでの391年間も続いた平安時代は幕を閉じる事となる。

長門国(山口県)の下関に創建された赤間神宮(あかまじんぐう/下関)は、皇族であろうと、源氏であろうと、平氏であろうと、大人の醜(みにく)い権力闘争に巻き込まれて、最後に命を落とした8歳の第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)が祀られている。

神殿は海の底にある宮殿の竜宮城をモチーフにデザインされた。

隣接して宮内庁が管理する安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)の御陵(ごりょう)の阿彌陀寺陵 (あみだじのみささぎ)が設けられ、そして、近くには「壇ノ浦の戦」(だんのうらのたたかい)で命を落とした平家一門の墓標もある。

平氏軍が持参していた“三種の神器”のうち“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)だけが、未(いま)だに見つからない。

これら平安時代に活躍した平家一門や平氏軍の功績は語り継がれ、琵琶(びわ)を演奏しながら物語を詠う盲目僧侶の琵琶法師(びわほうし/盲目僧侶)が有名で、“平家物語”や“耳なし芳一”の作品が人気ある。

ジャジャ ジャジャ ジャジャ ジャン

琵琶法師…『平家の亡霊に見つからない様にお寺の和尚さんは、小坊主の芳一(ほういち)の全身にお経を書き込んだ。 しかし、ある1点だけ書くのを忘れた和尚さん。』

ジャジャ ジャジャ ジャジャ ジャン

琵琶法師…『それは盲目の芳一(ほういち)が生活するのに一番に必要な耳だったぁ! 平家の亡霊は芳一(ほういち)の耳だけを奪い去って行った。』

ジャジャ ジャジャ ジャジャ ジャン

琵琶法師…『耳を取られた芳一(ほういち)は、見えない目だけでなく、耳も聞こえなくなってしまった。』

ジャジャ ジャジャ ジャジャ ジャン

琵琶法師…『此(こ)れは耳なし芳一(ほういち)と、源氏に討ち滅ぼされた平家の亡霊の、哀(かな)しい物語。』

ジャジャン ジャン ジャン

“耳なし芳一”の作品に出てくる阿弥陀寺(あみだじ)は、安徳天皇(あんとくてんのう/朝廷)が祀られている赤間神宮(あかまじんぐう/下関)です。

KATE ST. JOHN /♪ MY LONELY LOVE

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今日の1枚、お薦めレコード/20250210 - ラジオの友 URL

2025/02/10 (Mon) 23:59:22

レッドツェッペリンの♪ブラックドッグ。

ジミーペイジのギターが光る1曲でもある。

Led Zeppelin /♪ BLACK DOG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250210 - ラジオの友 URL

2025/02/11 (Tue) 00:00:26

ヘイシードディキシーがカバーした♪ブラックドッグ。

誰が弾いているか分からないギターが光る1曲でもある。

HAYSEED DIXIE /♪ BLACK DOG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250210 - ラジオの友 URL

2025/02/11 (Tue) 00:01:16

ローリングストーンズの♪シンパシーフォー・ザ・デビル。

キースリチャーズのギターが光る1曲でもある。

The Rolling Stones/♪ SYMPATHY FOR THE DEVIL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250210 - ラジオの友 URL

2025/02/11 (Tue) 00:02:07

ガンズアンドローゼズがカバーした♪シンパシーフォー・ザ・デビル。

スラッシュのギターが光る1曲でもある。

GUNS N' ROSES /♪ SYMPATHY FOR THE DEVIL

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250210 - ラジオの友 URL

2025/02/11 (Tue) 00:03:08

ボブディランの♪ブローウィンイン・ザ・ウィンド。

風に吹かれて、気の向くままに、何処(どこ)に行こうか、風に聞こう。

Bob Dylan/♪ BLOWIN' IN THE WIND

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2025/02/11 (Tue) 00:04:03

ピーターポール&マリーがカバーした♪ブローウィンイン・ザ・ウィンド。

風に吹かれて、飛ぶ麦わら帽子、母さん、あの麦わら帽子、何処(どこ)にいったのですかね。

PETER,PAUL & MARY /♪ BLOWIN' IN THE WIND

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2025/02/11 (Tue) 00:09:22

越路吹雪(こしじふぶき)さんが日本語カバーした♪ラストダンスは私に。

本家本元の宝塚スターのカバー曲。

宝塚スターは、歌っても、踊っても、絵を描いても(はいだしょうこさんなど)、華があります。

越路吹雪 /♪ ラストダンスは私に

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2025/02/11 (Tue) 00:10:35

ラモーナヴルフがカバーした♪ラストダンスは私に。

ディスコ調が多い曲の中でのカバー曲。

RAMONA WULF /♪ SAVE THE LAST DANCE FOR ME

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2025/02/11 (Tue) 00:11:40

ドリフターズの♪ラストダンスは私に。

これぞ本家本元のドゥーワップのコーラスグルーブ。

黒人の方は、何故(なぜ)に此処(ここ)まで歌がうまいのか?

音痴(おんち)な人種からすると、羨(うらや)ましい。

因(ちな)みに、このドリフターズは『オッ〜スゥ!』じゃないよぉ。

The Drifters /♪ Save the Last Dance for Me

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2025/02/11 (Tue) 00:13:01

トーケンズの♪ライオンは寝ている。

これぞ本家本元のドゥーワップのコーラスグルーブ。

一度、聴いたら忘れられないメロディーライン。

行った事がないアフリカを想い出させる名曲です。

THE TOKENS /♪ THE LION SLEEPS TONIGHT

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2025/02/11 (Tue) 00:14:22

♪ライオンは寝ているをハイピッチにアレンジした♪ライオンは起きている。

確かに起きるわぁ、この曲だったら。

朝倉紀幸&GANG/♪ライオンは起きている

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2025/02/11 (Tue) 00:15:16

有楽町の日劇ウエスタンカーニバルでロカビリースターだった尾藤イサオさんが日本語カバーする♪悲しき願い。

『♪誰のせいでもありゃしない〜 みんなおいらぁが悪いのさぁ〜』

この歌詞は一生忘れられないくらいのインパクトがあるフレーズですね。

尾藤イサオ/♪ 悲しき願い

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2025/02/11 (Tue) 00:16:44

その♪悲しき願いをディスコサウンドにカバーしたサンタエスメラルダ。

メロディーラインからは、テキサスとか、メキシコとか、スペインをイメージさせる。

要はラテン的って言う事。

SANTA ESMERALDA /♪ DON'T LET ME BE MISUNDERSTOOD

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2025/02/11 (Tue) 00:17:43

マキシンナイチンゲールの♪ライトバックホエアウィスターテッドフロム。

愛は陽気、愛はそよ風、愛はさざ波、そして・・・

愛とは強いもの!

MAXINE NIGHTINGALE /♪ RIGHT BACK WHERE WE STARTED FROM

◆ラジオの友◆

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2025/02/11 (Tue) 00:18:39

マキシンナイチンゲールの♪ライトバックホエアウィスターテッドフロムを、寸分の狂いもなく見事にカバーしたシニータ。

正(まさ)に職人の匠(たくみ)の技が光る。

Sinitta /♪ Right Back Where We Started From

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2025/02/11 (Tue) 00:19:45

1980年中旬に流行したニューウェーブやニューロマンティックを象徴するニューオーダーの♪ブルーマンデー。

今、聴いても古さを感じさせないカッコいいサウンドですね。

New Order /♪ Blue Monday

◆ラジオの友◆

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2025/02/11 (Tue) 00:20:42

そのニューオーダーの♪ブルーマンデーを堂々とパクったディバインの♪ラブリアクション。

Divine /♪ Love Reaction

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250210 - ラジオの友 URL

2025/02/11 (Tue) 00:21:41

ニューオーダーの♪ブルーマンデーを堂々とパクったニューオーダーの♪エヴリシングスゴーングリーン。

NEW ORDER /♪ EVERYTHING'S GONE GREEN

◆ラジオの友◆

2024年 最新ビジネス情報 - エコノミスト

2024/11/02 (Sat) 01:38:04

老舗証券会社による、資産家の爺さんと婆さんの預金を引き出して抹殺し、自宅に火を着け放火して火災保険も受け取る営業新手法が注目!

金融業界にビッグバンをもたらす最強の営業部隊を組成。

Re: 2024年 最新ビジネス情報 - エコノミスト

2024/11/02 (Sat) 01:38:37

安価洋品店では、試着室(フィッティングルーム)と女子トイレで盗撮した裏ビデオの販売で営業利益に大いに貢献。

社長の決算報告で、盗撮は女優の出演料がない為に利益率が高く、ステークホルダー(利害関係者)の理解が得られ株高につながっていると語る。

Re: 2024年 最新ビジネス情報 - エコノミスト

2024/11/02 (Sat) 02:03:26

大阪家電メーカー、役員による資産喰い物で計画倒産が熱い!

世界で注目の“濡れ手に粟(あわ)革命”が、苦境に嘆(なげ)く経営者を救う!

Re: 2024年 最新ビジネス情報 - エコノミスト

2024/11/02 (Sat) 06:46:24

大阪製薬会社による高齢者にサプリメントを摂取させ、高齢化問題の人口調整を開始。

若者が活躍できるこの国は、もう“老害国家”とは言わせない!

Re: 2024年 最新ビジネス情報 - エコノミスト

2024/11/02 (Sat) 06:54:40

大手信託銀行が株式売買による利益を確実なものにする為に、諜報部員を増員して情報収集力をアップさせる方策を発表。

ターゲットを“拷問”して吐かせても、最新情報を掴(つか)め!

Re: 2024年 最新ビジネス情報 - エコノミスト

2024/11/16 (Sat) 16:23:31

大手自動車メーカーがせっかく車を作っても、誰も買ってくれないから、売上が取れないのは当たり前。

こう言う時代だから、しょうがない。

ドンマイ、ドンマイ!

Re: 2024年 最新ビジネス情報 - エコノミスト

2024/12/14 (Sat) 00:42:21

金融庁の調査では、“一番の低リスクな銀行強盗”は、銀行員が自ら銀行強盗を実施する事と発表した。

方法としては“貸金庫”の中身を搾取(さくしゅ)したり、親切心を装って高齢者から“キャッシュカードの暗証番号”を聞き出したりするのが手っ取り早いとしています。

Re: 2024年 最新ビジネス情報 - エコノミスト

2025/02/07 (Fri) 00:15:31

メディア王とは、どんな時にも視聴率を優先する。

一番に注目を集めている今こそ、トップに昇り積める時だっ!

人は他人の不幸を観たがっている。

視聴率を稼ぐには、身内であれ不幸をネタに報道をすべきだっ!

家族で落ち込んでいる者が居れば、是非(ぜひ)、お台場に架かるレインボーブリッジを紹介しよう。

今日の1枚、お薦めレコード/20250206 - ラジオの友 URL

2025/02/06 (Thu) 19:41:14

KENDRICK LAMAR FEAT.TANNA LEONE /♪ MR.MORALE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250206 - ラジオの友 URL

2025/02/06 (Thu) 19:42:20

ERIC B. & RAKIM /♪ PAID IN FULL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250206 - ラジオの友 URL

2025/02/06 (Thu) 19:43:27

Mr. Lee /♪ Pump That Body

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250206 - ラジオの友 URL

2025/02/06 (Thu) 19:44:49

Def Jef /♪ Poet With Soul

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250206 - ラジオの友 URL

2025/02/06 (Thu) 19:45:53

Twin Hype /♪ For Those Who Like to Groove

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2025/02/06 (Thu) 19:46:49

JUNIOR M.A.F.I.A. /♪ GET MONEY

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2025/02/06 (Thu) 19:48:15

THE WHISPERS /♪ ROCK STEADY

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2025/02/06 (Thu) 19:49:16

MAVIS STAPLES /♪ THE VOICE

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2025/02/06 (Thu) 19:50:24

ADRIANA EVANS /♪ SEEING IS BELIEVING

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2025/02/06 (Thu) 19:51:22

MICHELLE GAYLE /♪ FREEDOM

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2025/02/06 (Thu) 19:52:22

ZHANE /♪ SENDING MY LOVE

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2025/02/06 (Thu) 19:53:23

ADINA HOWARD /♪ FREAK LIKE ME

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2025/02/06 (Thu) 19:54:24

HORACE BROWN /♪ ONE FOR THE MONEY

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2025/02/06 (Thu) 19:55:21

DANA /♪ AS WE LAY

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2025/02/06 (Thu) 19:56:20

OL SKOOL /♪ SET YOU FREE

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2025/02/06 (Thu) 19:57:21

MINT CONDITION /♪ YOU DON'T HAVE TO HURT NO MORE

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2025/02/06 (Thu) 19:58:22

4U /♪ HOME

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2025/02/06 (Thu) 19:59:31

ELEMENTS OF LOVE /♪ SWEET LOVE

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2025/02/04 (Tue) 18:35:26

不思議ちゃん第9弾!

でわぁ、いってみよぉう!!

CLOUDBERRY JAM /♪ ELEVATOR

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2025/02/04 (Tue) 18:36:38

ARLO PARKS /♪ HOPE

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2025/02/04 (Tue) 18:37:39

MAISIE PETERS /♪ THE BAND AND I

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2025/02/04 (Tue) 18:39:23

PRISCILLA AHN /♪ VIBE SO HOT

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2025/02/04 (Tue) 18:40:12

LOLA YOUNG /♪ GOOD BOOKS

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2025/02/04 (Tue) 18:41:05

TONI CHILDS /♪ SACRIFICE

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2025/02/04 (Tue) 18:41:53

DIANE BIRCH /♪ PHOTOGRAPH

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2025/02/04 (Tue) 18:42:47

MARIE DIGBY /♪ SAY IT AGAIN

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2025/02/04 (Tue) 18:43:39

XAVIER BOYER /♪ STOCKHOLM SYNDROME

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2025/02/04 (Tue) 18:44:34

BRYNN ELLIOTT /♪ CAN I BE REAL?

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2025/02/04 (Tue) 18:45:31

SCARLET /♪ I WANNA BE FREE (TO BE WITH HIM)

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2025/02/04 (Tue) 18:46:31

KATE WALSH /♪ TONIGHT

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2025/02/04 (Tue) 18:47:23

Chrisette Michele /♪ YOUR JOY

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2025/02/04 (Tue) 18:48:20

BAT FOR LASHES /♪ DANIEL

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2025/02/04 (Tue) 18:49:13

CHLOE QISHA /♪ 21ST CENTURY COOL GIRL

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2025/02/04 (Tue) 18:50:08

LAMB /♪ GORECKI

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2025/02/04 (Tue) 18:51:03

ROSE GRAY /♪ EVERYTHING CHANGES (BUT I WON'T)

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2025/02/04 (Tue) 18:51:55

WHIGFIELD /♪ BIG TIME

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