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今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:24:53

◆◇◆其の百二十三:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

長州藩の内紛が落ち着いたところで、1863年から1864年に行われた「下関戦争」こと「馬関戦争」(ばかんせんそう)の戦後処理が行われた。

アメリカとフランスおよびイギリスとオランダの4国への停戦交渉は、イギリスに留学経験のある海外事情に詳しい伊藤博文(いとうひろふみ/長州)と井上馨(いのうえかおる/長州)が担当して、関門海峡の自由な航行(こうこう)や長州藩の賠償金支払で話しをまとめる。

ただし、今の長州藩は抗戦派(正義派)のゲリラ部隊でもあり、松下村塾(しょうかそんじゅく)で吉田松陰(よしだしょういん/長州)の影響を受けた門下生と言う事も忘れてはならない。

高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)と桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)が中心となり、伊藤博文(いとうひろふみ/長州)と井上馨(いのうえかおる/長州)が補佐役で参加し、周防国(すおう/山口県)の吉敷郡(湯田温泉)の出身で医師や軍事家だった大村益次郎(おおむらますじろう/学者)もメンバーに加わって新組織の維新闘争派を結成した。

この維新闘争派の大義は“尊王倒幕”(そんのうとうばく)かつ“王政復古”(おうせいふっこ)の強固である。

再び長州藩が不穏な動きをしている情報は、武蔵国(東京都)の江戸幕府や京都の“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)にも入った。

その為、京都の二条城で“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)と松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、それに薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)が、“長州藩処分対応”についての会合を開催した。

“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)としては江戸幕府にとって危険分子の長州藩は、領地没収の改易(かいえき)した上で壊滅させる意向だった。

一方の薩摩藩としては、長州藩とは和睦して穏便に済ませたい意向を示した。

両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、解決にはほど遠かった。

そんな時である。

摂津国(兵庫県)の神戸港の沖合に、アメリカとフランスおよびイギリスとオランダの軍艦が何隻も停泊している。

4国連合の要求は“神戸港開港”だった。

直様(すぐさま)に徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、大坂城にて4国連合の担当者と会談を開催した。

1792年に根室港へロシア船が入港し、使節(しせつ)のアダムラクスマン(ロシア軍人)が江戸幕府の老中の松平定信(まつだいらさだのぶ/田安→江戸)に日本との交易を希望していた当時から、実は江戸幕府としては開国路線だった。

ところが朝廷や孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の異国排除の意向に押されて鎖国してきた経緯がある。

それを念頭に徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、4国連合の担当者に江戸幕府の立場を伝えて、後日、より善(よ)い返事が出来る様に約束する。

その後、京都御所の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の元に出向き、真(しん)の“日本の開国”を説得する。

孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)も、世界の現実と日本の置かれている立場を理解して、“神戸港開港”の勅許(ちょきょ)を出した。

事実上、ここで“日本の開国”が決まる。

この成果は、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)の類稀(たぐいま)れなる政治力と交渉力と言える。

Jesus Jones /♪ Blissed

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:25:45

◆◇◆其の百二十四:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

江戸幕府と“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)が、アメリカとフランスおよびイギリスとオランダの4国連合を対処している間に、“犬猿の仲”と言われるくらい仲が悪かった薩摩藩と長州藩は急接近していた。

それを仲介したのが坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と土佐国(高知県)の安芸郡(北川)の出身で維新闘争派だった中岡慎太郎(なかおかしんたろう/商人)である。

長州藩は江戸幕府から港を封鎖され交易できない状態だった為、外国からの武器調達が不可能だった。

一方、薩摩藩の薩摩国(鹿児島県)は、例年にない冷害で農作物が凶作となり穀物が実らず、お米が足りない状態だった。

ここに目を付けた坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)は、お米はあるが武器の無い長州藩と、武器は輸入できるがお米が無い薩摩藩の仲を取り持つ事で友好関係を結ばせる。

殺傷能力の高い最新鋭の鉄砲や大砲などの武器の調達は、肥前国(長崎県)の長崎で総合商社の亀山社中(かめやましゃちゅう)を創業した坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)がブローカー(仲介役)となり、スコットランドの企業家のトーマスグラバー(商人)から購入した。

この生きる為の食物と殺す為の武器の流通により、殺す為の武器を手に入れた長州藩、生きる為の食物を手に入れた薩摩藩、生活する為のお金を手に入れた亀山社中(かめやましゃちゅう)の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と企業家のトーマスグラバー(商人)は、全ての三方がハッピーとなった。

“売手よし、買手よし、世間よしの三方よし”とする近江商人とは程遠いが、当時の世界情勢からすれば当然の措置である。

その後、長州藩と薩摩藩の関係は大きく発展していく。

坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)などの仲介により、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)が、京都の薩摩藩屋敷で会合を開催した。

薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、江戸幕府の“長州藩処分対応”について長州藩から謝罪する様に指南する。

一方、長州藩の木戸孝允(きどたかとし/長州)は、会津征伐隊を率いて「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)こと「禁門の変」(きんもんのへん)を引き起こした三家老の、益田親施(ますだちかのぶ/長州)、福原元僴(ふくばらもとたけ/長州)、国司親相(くにしちかすけ/長州)を、戦争責任として切腹させて介錯(かいしゃく)した事で謝罪は済んでいると主張した。

両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、友好関係の同盟にはほど遠かった。

ここで遅れてやって来たのが坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)で、意固地(いこじ)な2人を見てこう切り出す。

坂本龍馬…『今の日本に必要ながぁは、対外国政策で、国内の覇権争いをしちゅー場合じゃなか、はっきり言うてぇ政権運営する江戸幕府には外国に対抗できる免疫も組織力も、無かぁとです!』

西郷隆盛…『うん!? 何処(どこ)かで聞いた事がある台詞(セリフ)でごわぁすなぁ?』

木戸孝允…『俺、龍馬君の言葉に感動したから、薩摩藩と友好関係の同盟を結ぶ事を決めたわぁ!』

坂本龍馬…『日本(にっぽん)の夜明けは近いぜぇよ!』

これにより薩摩藩と長州藩は提携する事に合意する。

ただ提携内容は、《“朝敵”(ちょうてき)と見なされた長州藩の信頼回復》と《「第2次長州征討」での薩摩藩の対応》くらいだった。

これを1866年に締結された「薩長同盟」と呼ぶ。

Inspiral Carpets /♪ Joe

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:26:34

◆◇◆其の百二十五:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

1867年〜1868年の2年間、江戸幕府は征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)の時代に入る。

1866年に京都の薩摩藩屋敷で薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と長州藩の木戸孝允(きどたかとし/長州)は、今後の日本の将来が変わる要因となった「薩長同盟」を締結した。

この事は、当然に武蔵国(東京都)の江戸幕府も、京都の“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)も知る由(よし)もない。

その頃、土佐国(高知県)の土佐藩を脱藩した坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)が不穏な動きをしているとして、江戸幕府や“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)に目を付けられていた。

そして、山城国(京都府)の伏見にある旅館の寺田屋にて、常宿(じょうやど)にしていた坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)が宿泊していたところ、伏見奉行所の役人が乗り込んで来た。

寺田屋の女中をしていたお龍(おりょう)こと楢崎龍(ならさきりょう/町人)は入浴中に気付き、裸のままで坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)に伝えに行き、御用の難を逃れた。

逃げる際に多少の傷を負った坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)は、大手筋から西側に行った濠川(ほりかわ)沿いの材木置場で身を隠して、お龍(おりょう)こと楢崎龍(ならさきりょう/町人)の手配で伏見から脱出する事ができた。

これを1866年に起こった「第2次寺田屋事件」こと「坂本龍馬襲撃事件」と呼ぶ。

この時に寺田屋の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)が宿泊していた部屋から、薩摩藩と長州藩の「薩長同盟」を記(しる)した書類が残されており、これによりの江戸幕府と“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)が知る事となる。

ただ一説には、江戸幕府の役人に見つかる様に、坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)がわざと部屋に残した確信犯とも言われている。

武蔵国(東京都)の江戸城では、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)と勘定奉行(かんじょうぶぎょう)の小栗忠順(おぐりただまさ/江戸)などが、江戸幕府の大名を廃止して軍備制度を構築する画策を話し合っていた。

この時期に入ると政権改革の大義名分となった“公武合体”(こうぶがったい)や“尊王攘夷”(そんのうじょうい)の言葉は、何の意味も持たなくなる。

単なる覇権争いの様相でしかない。

朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)や征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)と良好な関係を築いている。

THE STONE ROSES /♪ SHE BANGS THE DRUMS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:27:21

◆◇◆其の百二十六:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

一方、「薩長同盟」を締結した薩摩藩と長州藩は、武力増強して維新闘争派を拡大させている。

そんな時に長州藩は、下関港を封鎖して関門海峡を船が航海できない様にした。

これにより日本海から来る廻船が瀬戸内海や太平洋に入れなくなり、“天下の台所”と呼ばれる大坂では食料品などの物資が届かなくなった。

大坂はお米などが不足し物価が高騰して、一揆や打壊しが多発した。

この事態に朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、江戸幕府に対して2度目の“長州藩征伐”の勅命(ちょくめい)を出した。

それに伴い徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)は、京都の“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)に押されて存在感が薄かった事もあり、江戸城から自ら10万人の幕府軍を率いて大坂城に向かう。

対する長州藩では、維新闘争派の高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)が薩摩藩から購入した殺傷能力の高い最新式の武器を配備して抵抗した。

長州藩の維新闘争派に参加していた軍略家でもある大村益次郎(おおむらますじろう/学者)は、奇兵隊(きへいたい)など4000人の兵士を周防国(すおう/山口県)や長門国(山口県)の各所に配備して応戦する。

1600年の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)以降に、まともに合戦を経験した事ない幕府軍は、ここで大敗する。

苦戦を強いられる幕府軍の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)は、大坂城で徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)など重鎮家臣を交えて作戦会議を開いていた。

その会議で念頭にあったのが、ここ大坂城にて神君(しんくん/徳川家康)が豊臣軍に大勝した1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」である。

徳川家茂…『う〜ん、250年前の「関ヶ原の戦」や「大坂の陣」の様に、見事に勝利したいものじゃのぉ〜』

徳川慶喜…『あの時の合戦は弓矢と槍が主力武器で、飛び道具はせいぜい火縄銃だろ。 今はアームストロング砲や機関銃だぜぇ、状況がまるで違う。』

徳川家茂…『そう言えば「関ヶ原の戦」でも相手は毛利家じゃな、何か因縁を感じるわぁい。』

徳川慶喜…『あの時に毛利家が代々に治めていた安芸国(あき/広島県)を中心とした西日本の領国を、領地削減の減封(げんぽう)と領地移転の転封(てんぽう)にして、長門国(山口県)の1国になった経緯があるからなぁ〜』

徳川家茂…『わしぃら徳川家は、毛利家に呪い殺されるかもしれないな。』

徳川慶喜…『そうかもな、アハッハッハッハッハッ〜』

翌日、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)は大坂城で死去した。

OUR LADY PEACE /♪ SUPERMAN'S DEAD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:28:14

◆◇◆其の百二十七:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

“長州藩征伐”を指揮する大将の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)を失った幕府軍を今後どうするか、“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)の一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、会津藩の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、桑名藩の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)は緊急会合を開いた。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は長州藩との和睦を主張したが、松平容保(まつだいらかたもり/江戸)と松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)の兄弟は長州藩と徹底抗戦を主張した。

両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、“長州藩征伐”の解決にはほど遠かった。

そこで徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は強制的に和睦を決定する。

これにより幕府軍は解散して、“長州藩征伐”は終了する。

これを1866年に起こった「第2次長州征討」と呼ぶ。

この流れで将軍継承できる物は1人しか居ない。

征夷大将軍15代目に就任した徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)とは、徳川御三家の水戸徳川家の系統で、常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩の9代目藩主だった徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)の息子だが、征夷大将軍14代目の後継者問題で1858年に起こった「将軍継嗣問題」(しょうぐんけいしもんだい)の時に、紀州徳川家の一橋家の養子に入り一橋派となった。

徳川宗家と紀州徳川家以外に初めて将軍職に就いた水戸徳川家だが、皮肉にも最後の将軍となる。

征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、江戸幕府にフランス式の軍備を取り入れて強化していく。

これを1687年に実施した「慶応の改革」(けいおうのかいかく)と呼ぶ。

その頃、海の上では船の甲板で坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と土佐国(高知県)の土佐藩の藩士だった後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)が日本の将来について話し合っていた。

そこで坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)の口から飛び出したのが、新しい日本にする為の方策となる“船中八策”(せんちゅうはっさく)で、その中に朝廷に政権を返上する「大政奉還」(たいせいほうかん)が含まれていた。

この革新的なアイデアを聞いた後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)は土佐国(高知県)に戻り、土佐藩の15代目藩主の山内容堂(やまうちようどう)こと山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)に、坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)の“船中八策”(せんちゅうはっさく)の「大政奉還」(たいせいほうかん)を伝える。

JAKE BUGG /♪ THERE'S A BEAST AND WE ALL FEED IT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:29:15

◆◇◆其の百二十八:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

そんな中で1866年の年末に第121代天皇の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)が崩御(ほうぎょ)した。

1846年に即位して20年間、日本鎖国の異国対応と江戸幕府の内部崩壊を全身で被(こうむ)った天皇でもあった。

1867年に孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の息子で、第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)が16歳で即位する。

明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の側近に、祖父の中山忠能(なかやまただやす/朝廷)と公卿(くぎょう)の三条実愛(さんじょうさねなる/朝廷)が就いた。

中山忠能(なかやまただやす/朝廷)とは、明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の母親の中山慶子(なかやまよしこ/朝廷)の父親である。

さらに朝廷工作で薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)が、公家の岩倉具視(いわくらともみ/朝廷)に接近して維新闘争派に取り込んだ。

一方、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)に続き、同志の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)を失った征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は深い悲しみと共に、政権運営へのダメージも大きかった。

そこで徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、アメリカとフランスおよびイギリスとオランダと友好関係を築いて、4国が要求する“神戸港開港”に向けて話しを進める。

この時に大坂城で謁見(えっけん)した4国の使節団は、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)の印象を『今までの徳川将軍とは違い、礼儀正しく文武両道の優れた人物であり、全面的に支援する。』と語っている。

孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)亡き後、福井藩の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)、薩摩藩の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)、土佐藩の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)、宇和島藩の伊達宗城(だてむねなり/江戸)が京都に集結して会合を開き、今後の対応を検討した。

会合の議題は“神戸港開港”と“長州藩処分対応”だった。

江戸幕府の征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、危険分子の長州藩を領地没収の改易(かいえき)にした上で壊滅させる意向を示している。

一方の薩摩藩としては、長州藩とは和睦して穏便に済ませたい意向を示した。

両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、解決にはほど遠かった。

これを1867年に開催された“四侯会議”(しこうかいぎ)と呼ぶ。

と言うよりも、この時点で江戸幕府も薩摩藩も話合いで解決できるとは、本気で思っていない。

CHRIS DUARTE GROUP /♪ CLEOPATRA

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:30:12

◆◇◆其の百二十九:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

これにより薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」の条文により協力し合って江戸幕府に対抗する事を誓う。

その第1弾が、京都に居る明治天皇(めいじてんのう/朝廷)を拉致(らち)して、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩か周防国(すおう/山口県)の長州藩に監禁(かんきん)して、世の中の混乱に乗じて徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)が居城している大坂城の総攻撃する計画を企てた。

こんな最悪な状況下で、待ったをかける人物が現れた。

坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と土佐国(高知県)の土佐藩の藩士だった後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)である。

坂本龍馬…『今の日本に必要ながぁは、対外国政策で、国内の覇権争いをしちゅー場合じゃなか、はっきり言うてぇおまぁんらに、政権運営も外国に対抗できる免疫も組織力も、無かぁとです!』

西郷隆盛…『龍馬君よぉ、もう、日本の為ではないでごわぁす、自尊心(プライド)の対立たぁいっ!』

木戸孝允…『もう、後には引けない所まで来ているからな。』

坂本龍馬…『日本(にっぽん)の夜明けはヤバいぜぇよ!』

この危険な状態により、後藤象二郎(ごとうしょうじろう/土佐)は土佐藩の15代目藩主である山内容堂(やまうちようどう)こと山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)に、征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)に対して、坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)の発案でもある“船中八策”(せんちゅうはっさく)の「大政奉還」(たいせいほうかん)を進言する様に嘆願する。

これを受けて山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)は徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)に事の説明をした。

薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、『どうせ徳川慶喜は「大政奉還」はできやしない。』と高(たか)を括(くく)り、薩摩藩と長州藩の維新闘争派は合戦の準備に取り掛かる。

朝廷の三条実愛(さんじょうさねなる/朝廷)は明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の名前を借りて、薩摩藩と長州藩に対して“尊王倒幕”(そんのうとうばく)の勅命(ちょくめい)を出した。

ところが・・・

RIVAL SONS /♪ BIRD IN THE HAND

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:31:07

◆◇◆其の百三十:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の予想に反して、京都の二条城にて征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)が「大政奉還」(たいせいほうかん)を宣言して、日本の政権運営を朝廷に返上した。

これにて江戸幕府は日本新政府に残務引継ぎした後に、江戸時代として265年続いた歴史に幕を閉じる。

これを1867年に起こった「大政奉還」(たいせいほうかん)と呼ぶ。

これにより戦争機運を高めていた薩摩藩と長州藩の維新闘争派は、対する江戸幕府が消滅した事で矛先を見失った。

ここで、今まで誰よりも精力的に活動してきた維新闘争派で長州藩の抗戦派(正義派)のリーダーでもある高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)が、「大政奉還」(たいせいほうかん)を見届けるかの様に病死してしまう。

しかし、「大政奉還」(たいせいほうかん)したからと言って江戸幕府が直(す)ぐに消滅して、朝廷による新組織がスタートできる訳ではない。

残務処理として江戸幕府は残っている。

何なら今までの状況と、何ら変わりわない。

これに危機感を募らせた薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と長州藩の木戸孝允(きどたかとし/長州)は過激思想を強めていく。

人間から野獣への変貌である。

ここから維新闘争派は、明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の側近で祖父の中山忠能(なかやまただやす/朝廷)を“尊王倒幕”(そんのうとうばく)の思想操作(マインドコントロール)をして取り込む。

京都御所で朝廷の公家や維新闘争派の“志士”(しし)で会合を開き、明治天皇(めいじてんのう/朝廷)による日本新政府の組織を固める。

明治天皇(めいじてんのう/朝廷)は、江戸幕府を廃止して朝廷による新しい政権運営を担う日本新政府の樹立を宣言した。

かつ、天地の神々に誓う五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)を示した。

これを1867年に発令された「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)と呼ぶ。

「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)の主な概要は3項目である。

①:朝廷の代わりに政権運営を担う江戸幕府、天皇の代わりに政治を司る摂政(せっしょう)、天皇の政治を補佐する関白(かんぱく)を廃止する。

②:日本新政府では総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、参与(さんよ)の3職を設けて政府運営を担う。

③:公卿(くぎょう)、貴族、官人(かんにん)や士農工商など身分制度を廃止して、日本国民として全ての人が平等の立場を保つ。

この後、日本新政府による初会議が京都御所にて開催された。

会議の論点はただ2つで、江戸幕府の円滑(スムーズ)な組織継承と、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)など徳川家の官位階級の剥奪(はくだつ)と財産や領土の没収する辞官納地(じかんのうち)である。

公家の岩倉具視(いわくらともみ/朝廷)や薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)は、今までの悪政から徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)を日本新政府に参加させない方針を主張した。

一方、土佐藩の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)は、今までの功績から徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)を日本新政府に参加させる方針を主張した。

両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、論点の問題解決にはほど遠かった。

ここで薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の一言で、会議の出席者全員が凍りついた。

西郷隆盛…『反対する者はただ1人、短刀1本あれば問題は解決する。』

これで薩摩藩と長州藩が主導する政権運営の流れが出来上がった。

これを「小御所会議」(こごしょかいぎ)と呼ぶ。

MANIC STREET PREACHERS /♪ WALK ME TO THE BRIDGE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:32:05

◆◇◆其の百三十一:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

その頃の同じ京都にて、四条通にほど近い河原町通沿いにある醤油屋の近江屋で、海援隊(かいえんたい)の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と陸援隊(りくえんたい)の中岡慎太郎(なかおかしんたろう/商人)が日本の将来について話し合っていた。

坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)は「第2次寺田屋事件」こと「坂本龍馬襲撃事件」以来、常宿(じょうやど)を伏見の寺田屋から近江屋の2階に変更していた。

そこに現れた複数人の影の軍団。

あっという間に坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう/商人)は斬殺された。

これを1867年に起こった「近江屋事件」と呼ぶ。

この時期に名古屋をはじめ江戸や京都では、町人によるドンチャン騒ぎの“ええじゃないか”が大流行して、これは薩摩藩と長州藩が“江戸幕府”による統治をさらに弱体化させる為に仕掛けた罠と言われる。

江戸城下町では江戸幕府の評判を落とす為に、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が指示して維新闘争派の藩士の強盗や放火、それに武士や町人の惨殺を繰り返していた。

この状況下での江戸城では、暴徒と化した薩摩藩の維新闘争派への対応が話合われていた。

既(すで)に政権運営を朝廷に返上している為、日本新政府に対応を依頼すると主張する恭順派(俗論派)。

一方、江戸幕府は崩壊したとはいえ、戦国時代を生き抜いてきた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の末裔、悪党に対しては徹底抗戦を主張する抗戦派(正義派)。

両者の方向は、お互いが相容(あいい)れないまま平行線を辿(たど)り、薩摩藩対応解決にはほど遠かった。

恭順派(俗論派)には、幕末政権に奔走した徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、役人の勝海舟(かつかいしゅう/江戸)など。

それに女性方の、薩摩藩の島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)の養女となり征夷大将軍13代目の徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)の御台所(みだいどころ)で篤姫(あつひめ)こと天璋院(てんしょういん/薩摩→江戸)、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の妹で征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)の妻の和宮(かずのみや)こと親子内親王(ちかこないしんのう/朝廷→徳川)も平和解決を願っていた。

抗戦派(正義派)には陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の9代目藩主で京都守護職(きょうとしゅごしょく)かつ新撰組の創設者でもある松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、その弟で伊勢国(三重県)の桑名藩の藩主で京都所司代(きょうとしょしだい)の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)など。

江戸幕府の役人で後々に蝦夷共和国(えぞきょうわこく/北海道)の総裁となる榎本武揚(えのもとたけあき/江戸)、新撰組の局長の近藤勇(こんどういさみ/新撰組)や副長の土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)など。

ちなみに榎本武揚(えのもとたけあき/江戸)の父親の榎本武規(えのもとたけのり/江戸)は、“大日本沿海輿地全図”(だいにほんえんかいよちぜんず)を製作した伊能忠敬(いのうただたか/商人)の弟子である。

この派閥が今後の情勢に大きく影響する。

BRENDAN BENSON /♪ SITTIN' PRETTY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:33:12

◆◇◆其の百三十二:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

薩摩藩と長州藩の維新闘争派は、反撃して来る様に徹底的に江戸幕府の拠点となる江戸などを挑発する。

外国から輸入した最新鋭の武器でどれだけ皆殺しに出来るかの、試し撃ちを待ち侘(わ)びている。

維新闘争派は既(すで)に戦場の野獣と化した維新軍に変わっていた。

この挑発に乗ってしまったのが徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)である。

ここから始まる戦争を「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)と呼ぶ。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は大坂城に入城して“維新軍征伐”を決定する。

大坂城から京街道を上って進軍する幕府軍を、山城国(京都府)の鳥羽街道に薩摩藩、伏見街道に長州藩の維新軍が布陣した。

伏見の城南宮(じょうなんぐう)から桂川の一帯で戦闘が繰り広げられた。

軍力差から合戦は維新軍の勝利に終わる。

これを「鳥羽伏見の戦」と呼ぶ。

この辺りの地名で赤池があるが、今でも伏見区民は、維新軍の兵士が幕府軍の兵士を大量虐殺して、近くの池が血で赤く染まった事に由来(ゆらい)していると信じてる。

大坂城で布陣していた徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、城を脱出して海から船で江戸に逃亡した。

その後、江戸幕府の役人だった勝海舟(かつかいしゅう/江戸)と薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が、江戸の薩摩藩屋敷にて会談を開き、日本新政府への江戸城の明渡しを決定する。

これを「江戸城無血開城」と呼ぶ。

それでも抵抗する江戸幕府の残存者は、江戸城の北東側にある不忍池(しのばずのいけ)周辺で布陣して抵抗した為、長州藩の軍師と言われる大村益次郎(おおむらますじろう/学者)が率いる維新軍により、幕府軍は大量殺戮された。

これを「上野戦争」と呼ぶ。

そこから生き残った幕府軍は北上して、徳川家の聖地と言われる陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)で篭城し、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)と越後国(新潟県)の全域の諸大名の援軍もあり、“奥羽越列藩同盟”(おううえつれっぱんどうめい)を結成して9代目藩主の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)が率いる幕府軍は維新軍に抵抗した。

ただ、最新鋭の武器には勝てず敗北する。

この時、鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)の北東側にそびえる飯盛山(いいもりやま)では、維新軍に追い込まれた10代の少年兵の白虎隊(びゃっこたい)が集団自決している。

これを「会津戦争」(東北戦争)と呼ぶ。

この頃に新撰組の局長の近藤勇(こんどういさみ/新撰組)は、維新軍に捕獲されて斬首されて、その首級(しゅきゅう)は京都の三条河原で晒し首(さらしくび)となった。

そして、少人数となった幕府軍は津軽海峡を渡り、蝦夷国(えぞ/北海道)の箱館(函館)にある五稜郭(ごりょうかく)に布陣した。

この時に榎本武揚(えのもとたけあき/江戸)は、新国家の蝦夷共和国(えぞきょうわこく/北海道)の設立を宣言して総裁に就いた。

その側近に新撰組の副長の土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)が就いた。

ただ、北の大地にも維新軍が押し寄せて、太刀(たち)1本で最後まで抵抗した土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)は、維新軍の兵士が放った最新鋭のライフル銃の銃弾に倒れた。

抵抗すれば勝てない、生き残れないと分かっていても、亡き主君や同志の為に、忠義を尽くして美しく散っていく侍魂(さむらいだましい)。

正(まさ)に日本最後の武士であった。

これを「箱館(函館)戦争」と呼ぶ。

ここまでが1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)と呼ぶ。

これにより江戸幕府は名実共に消滅した。

日本新政府の維新軍は、菊花と日月が描かれた皇旗の“錦の御旗”(にしきのみはた)を掲げて、京都から北陸道、中山道(なかせんどう)、東海道を進軍して江戸に向かい、沿道の街や町人に日本新政府が樹立した事を歌を唄いながら知らせた。

維新軍士…『♪宮さん 宮さん お馬の前に ヒラヒラするのは なんじゃいな〜』

維新軍士…『♪トコトンヤレ〜 トンヤレナ〜』

維新軍士…『♪あれは朝敵征伐せよと “錦の御旗”(にしきのみはた)じゃ 知らないか〜』

維新軍士…『♪トコトンヤレ〜 トンヤレナ〜』(♪トンヤレ節)

ほんの150年程前の、100人、1000人を殺(あや)めても、良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれる事もなかったこの時代に、いつでも戻る事ができる。

人間の本質は、そうは簡単には変われない。

あの時代の武器が、今はスマートフォンになっただけである。

GIN BLOSSOMS /♪ TIL I HEAR IT FROM YOU

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:34:01

◆◇◆其の百三十三:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

まだ明治期が始まったばかりの1870年に、土佐国(高知県)の長岡(高知)で後々の総理大臣に就任する濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)が誕生した。

濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)は、東京に出て役人として勤めていたが、政界に入りし立憲民政党を立ち上げ、1929年に第27代内閣総理大臣に就任した。

1930年に東京駅で暗殺未遂に遭っており、その傷が原因かは解らないが1931年に死去している。

では、土佐国(高知県)の偉人でもある濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)が生きた明治期から昭和期の日本を診てみよう。

1894年に起こった「日清戦争」に勝利した日本は、資源を求めて中国大陸の北東部に位置する満州地域を侵略し始めていた。

満州一帯は日本が租界(そかい)として統治し、権益を持つ南満州鉄道の運営も実施している。

この時期の日本軍では、明治維新の影響により長州閥と薩摩閥が政策と人事権を掌握していた。

そして、長州閥を引き継ぐ宇垣閥(長州閥)の宇垣一成(うがきかずしげ/備前→軍人)と、薩摩閥を引き継ぐ九州閥(薩摩閥)の真崎甚三郎(まさきじんざぶろう/肥前〔長崎〕→軍人)などが、政策と人事権の権力闘争を繰り広げていた。

そんな内輪揉(うちわも)めに嫌気を差したのが、エリート(高学歴秀才)集団の二葉会を結成した永田鉄山(ながたてつざん/軍人→二葉会→ 一夕会)などであり、特に明治維新からの慣行で決定する日本軍の人事権を問題視していた。

一方で、東條英機(とうじょうひでき/軍人→木曜会→ 一夕会)などが結成した木曜会は、中国大陸の満州と内モンゴルの統治を強化する様に主張した。

この時に日本の政府は主に4つの勢力が対立していた。

野党の立憲民政党は、次期の第27代内閣総理大臣に就く濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)を中心に、中国大陸の内政には干渉せず講和により平定する穏健派だった。

与党の立憲政友会は、第26代内閣総理大臣に就いていた田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)を中心に、中国大陸の万里の長城より北側の統治と権益を守護し、その防衛を北京政府の張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)に委任した中堅派だった。

日本軍が駐在する中国大陸の東北部を守護する関東軍は、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)を追い出して、日本が介入できる満州政府を建国して、満州一帯を関東軍が防衛する強硬派だった。

新興派閥の二葉会と木曜会は、軍事圧力により満州一帯を占領下に置いて植民地にする武闘派だった。

この4つの勢力により、政治的かつ軍事的な駆け引きが繰り広げられた。

SUGAR RAY /♪ OURS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:34:48

◆◇◆其の百三十四:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

与党の立憲政友会は第26代内閣総理大臣に就いていた田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)により、蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党の軍事勢力から、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)に対して抗戦を中止して退陣する様に威令(いれい)を出した。

こうして張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)は、戦地から撤退して鉄道で奉天駅(ほうてんえき)に向かっていた。

ところがである。

この張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が乗車する車両が爆破されたのである。

この鉄道が爆破された事で、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)をはじめ奉天派(ほうてんは)の多くの兵士が爆死した。

中国大陸に現地駐在する関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)は、この鉄道爆破は蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党の仕業(しわざ)と声明を発表した。

ただ実際の主犯者は、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)を追い出して、日本が介入できる満州政府を建国して、満州一帯を関東軍が防衛する強硬派だった河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)の自作自演だった。

奉天派(ほうてんは)の張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が死去する事で、北京政府をはじめ中国大陸が混乱に陥り、その混乱に乗じて関東軍が軍事制圧する予定だった。

ところが子供騙しの安易な謀略(ぼうりゃく)は、中華民国でも、日本でも、世界でも、明らかに関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)が怪しいと指摘していた。

こうして中国大陸が混乱に陥る事はなく、関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)の思惑は大幅に外れた。

これを1928年に起こった「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)と呼ぶ。

「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)で死去した張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)の息子の張学良(ちょうがくりょう/奉天派→ 国民党)が後継者に就任し、蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党と講和会談を開催し、奉天派(ほうてんは)を国民党と統合し中国統一を決定する。

この中国統一は、関東軍が満州一帯を統治するどころか、南満州鉄道の権益や沿線開発をも脅かす事を意味する。

日本に取って最悪の事態である。

NOW IT'S OVERHEAD /♪ Estranged

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:35:34

◆◇◆其の百三十五:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

●土佐国(高知県)

日本国内の政界や世論では、「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)の主犯者でもある関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)に対して、軍法会議を開催して口頭弁論や責任追求を要求した。

しかし、日本軍にとって恥辱(ちじょく)なこの事件を公にしたくない思惑が軍幹部で錯綜(さくそう)し、「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)の隠蔽(いんぺい)する事を模索する。

この時に第26代内閣総理大臣に就いていた田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)は、右往左往しながら事態の収束を試みるも、野党の立憲民政党は濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)から強い批判を浴びる。

そこで第26代内閣総理大臣の田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)は、1926年に即位したばかりの第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)に相談した。

第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)は第26代内閣総理大臣の田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)に対して、軍法会議を開催して、被告人である関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)に対して口頭弁論や責任追求を実施する様に勅命(ちょくめい)を出す。

ところが、その間に日本軍は、密かに関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)を退役処分として軍隊を辞任させ、「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)を闇に葬り去った。

この日本軍の勝手な行動に、第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)は激怒し、政治統制が執れていない面目丸潰れの第26代内閣総理大臣の田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)の内閣は総辞職となる。

そして次期総裁には、1929年に立憲民政党の濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)が第27代内閣総理大臣に就任する。

前任の田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)は、内閣総辞職した3ヶ月後に疲労困憊で体調を悪化させて死去する。

VINCE NEIL /♪ SKYLAR'S SONG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251223 - ラジオの友 URL

2025/12/23 (Tue) 11:36:23

◆◇◆其の百三十六:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆

1914年7月〜1918年11月に起こった「第一次世界大戦」では、戦法や戦術を大きく変えた。

ヨーロッパで起こった産業革命により、工業化された近代工場で大量生産される軍艦や戦闘機や戦車、それに機関銃や爆弾などにより、機械式兵器で敵陣を壊滅させる。

これを目の当たりにした日本軍のエリート(高学歴秀才)集団の二葉会を結成した永田鉄山(ながたてつざん/軍人→二葉会→ 一夕会)は、軍国主義の一夕会(いっせきかい)に再編成する。

そこには木曜会のメンバーだった東條英機(とうじょうひでき/軍人→木曜会→ 一夕会)なども参加した。

一夕会(いっせきかい)の会訓は主に三ヶ条からなる。

①:旧閥による人事権を刷新し、出身母体に捉われず優秀で有能な人材の投与。

②:中国大陸の満州と内モンゴルの領土問題の解決。

③:日本軍の薩摩閥を引き継ぐ九州閥(薩摩閥)の真崎甚三郎(まさきじんざぶろう/肥前〔長崎〕→軍人)などを中心に、日本軍の組織改革。

そんな日本国内の軍事余興で盛り上がる1929年に、アメリカのニューヨークのウォール街が発端となった金融恐慌の「世界大恐慌」が起こり、瞬(またた)く間に大不況が世界を覆う。

この世界的な動乱の最中(さなか)に、中国大陸の北東部に位置する満州にて、南満州鉄道の権益を得た日本が、この満州一帯を占領下に置く植民地を目論(もくろ)み、現地を統治していた関東軍により自作自演の鉄路爆破を起こす計画を画策する。

何処(どこ)かで聞いた様な話しだ。

軍国主義の一夕会(いっせきかい)のメンバーで板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)を、日本から中国大陸に現地駐在する関東軍の幹部に送り込んだ。

そして、日本の一夕会(いっせきかい)の指示により関東軍の板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)は、1931年に南満州鉄道の中間辺りにある奉天(ほうてん)にて線路を爆破する。

関東軍の板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)は、この南満州鉄道の鉄道爆破は蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党の仕業(しわざ)と声明を発表した。

これを1931年に起こった「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)と呼ぶ。

ただ実際の主犯者は、蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党を追い出して、日本が介入できる満州政府を建国して、満州一帯を関東軍が防衛する強硬派だった関東軍の板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)の自作自演だった。

南満州鉄道の中間辺りにある奉天(ほうてん)にて線路を爆破する事で、中華民国による日本に対しての宣戦布告と捉えて、それに乗じて関東軍が軍事制圧する予定だった。

ところが子供騙しの安易な謀略(ぼうりゃく)は、中華民国でも、日本でも、世界でも、明らかに関東軍の板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)が怪しいと指摘していた。

これ、これを1928年に起こった「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)と、全く同じ思考回路で画策した謀略(ぼうりゃく)だった。

日本に取って最悪の事態である。

この頃の1930年に、第27代内閣総理大臣の濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)は東京駅で暗殺未遂に遭っており、その傷が原因かは解らないが1931年に死去している。

この事から、現職の総理大臣が暗殺された事件とも言える。

まさに日本に取って最悪の事態である。

DARDEN SMITH /♪ LITTLE VICTORIES

◆ラジオの友◆

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