都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:02:03
◆◇◆其の百八:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
江戸幕府は「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で大老の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)を失い大混乱する。
即座に幕閣の首座に、陸奥国(むつ/福島県)の磐城平藩(いわきたいら)の5代目藩主で老中の安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)を就任させた。
ただ、江戸幕府の組織が刷新されようとも、大老の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の勅命(ちょくめい)を得ないで、1858年に締結した「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)と「安政五カ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく)の“違勅調印”(いちょくちょういん)に、世間の反感は膨張する一途(いっと)を辿(たど)った。
日本全国に“攘夷”(じょうい)の風潮が拡大し、武蔵国(東京都・神奈川県)の江戸や横浜で外国人の暗殺が急増する。
当時は外国の事を“夷”(えびす)や“夷狄”(いてき)と言い、外国を敵視する事を“攘夷”(じょうい)と呼んだ。
治安悪化する江戸城下町などの対策を、江戸幕府の老中首座の安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)と、下総国(しもうさ/千葉県)の関宿藩(野田)の藩主で老中の久世広周(くぜひろちか/江戸)は模索する。
その一案が京都の朝廷を巻き込む事だった。
“公武合体”(こうぶがったい)である。
これは京都の公家と江戸幕府の武士が協力し合って共同政権運営する方策だった。
この頃、長門国(山口県)の長州藩では、1861年に藩士の長井雅楽(ながいうた/長州)が“航海遠略策”(こうかいえんりゃくさく)を13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)に提案している。
“航海遠略策”(こうかいえんりゃくさく)とは、始めは低姿勢を示して“欧米列強”(おうべいれっきょう)など海外から文明や技術を吸収して、殖産力を蓄えたところで姿勢を一気に反転させ、円安も利用して自動車や白物家電やパソコンなどを海外に輸出する方策だった。
長州藩の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)も家臣の長井雅楽(ながいうた/長州)の打開策を採用して、京都の公家と江戸幕府に“航海遠略策”(こうかいえんりゃくさく)を提案し、共に好感を持たれ採用された。
METALLICA /♪ 72 SEASONS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:02:59
◆◇◆其の百九:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
一方で、江戸幕府の老中首座の安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)は、“公武合体”(こうぶがったい)をより強固なものにして、世間にアピールする為の方策を提案する。
それは孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の妹で和宮(かずのみや)こと親子内親王(ちかこないしんのう/朝廷→徳川)を、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)の妻する企画提案だった。
これは朝廷と江戸幕府の都合だけで決められる“政略結婚”である事は明らかである。
さすがの孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)もこれには躊躇(ちゅうちょ)したが、混乱する日本とあって天下泰平の政策なら承諾するしかなかった。
この時に朝廷の公家の岩倉具視(いわくらともみ/朝廷)が、“公武合体”(こうぶがったい)を唱えて縁談を成立に導いている。
実はこの時期、和宮(かずのみや)こと親子内親王(ちかこないしんのう/朝廷→徳川)は、皇族の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう/朝廷)と婚約していた。
ただ、この“政略結婚”の為に婚約は破棄され、雅(みやび)な京都から遠い江戸の徳川家に嫁ぐ事が決定してしまった。
共に大人の事情で話しが進められた16歳の和宮(かずのみや)こと親子内親王(ちかこないしんのう/朝廷→徳川)の心中は如何(いか)ほどに。
孝明天皇…『ゴメンなぁ和宮(かずのみや)、こんな事にお前を巻き込んで。』
和宮…『ううん、お兄ちゃんええねぇん、ウチなぁ、江戸に行ったらAKB48に入ってセンター目指すねぇん。 頑張るわぁ!』
その後、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)と和宮(かずのみや)こと親子内親王(ちかこないしんのう/朝廷→徳川)は江戸城で婚礼をあげる。
これを1862年に行われた「和宮降嫁」(かずのみやこうか)と呼ぶ。
IN THIS MOMENT /♪ Prayers
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:03:59
◆◇◆其の百十:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
ところが、この「和宮降嫁」(かずのみやこうか)に憤懣(ふんまん)する者が現れた。
皇室のアイドルと言われる和宮(かずのみや)こと親子内親王(ちかこないしんのう/朝廷→徳川)を江戸幕府の都合だけで決め、“政略結婚”させるとは何事かと憤りを見せている。
その者は1860年に起こった「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)でも登場している水戸藩を脱藩して牢人(無職侍)となった過激派の水戸倒幕部隊の残存者だった。
再び“尊王倒幕”(そんのうとうばく)を掲げて計画を企(くわだ)てる。
計画は安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)の“暗殺”のみ。
実行日と実施場所も決定して、その時を待つ。
文久2年1月15日のめでたい“大人の第一歩”となる成人の日に、江戸城では定例会議が開催される。
江戸城に隣接した磐城平藩屋敷(いわきたいら)の安藤邸は二橋濠と蛤濠(はまぐりぼり)の間にある坂下門と目の鼻の先。
必ず安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)の一行(いっこう)は坂下門を通るに違いない。
その日は朝から大雪が降っていた。
江戸町人に紛(まぎ)れて潜んでいるのが水戸倒幕部隊の6人だった。
そして、その時は来た!
安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)の大名行列に向かって駕籠訴(かごそ)を装った倒幕隊員が、油断している磐城平藩(いわきたいら)の藩士を刀で斬り付ける。
倒幕隊員…『斬り捨て御免!』
バサッ
磐城平藩士…『ギャ〜〜 やられたぁ〜〜』
大勢いる群衆は悲鳴をあげて逃げまとう。
次々に斬られ倒れていく磐城平藩(いわきたいら)の藩士の奥に1つの駕籠(かご)が放置されている。
倒幕隊員は駕籠(かご)を鉄砲で撃ち放し、槍で突き刺す。
駕籠(かご)から出てきた安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)に向かって、倒幕隊員は刀を振りかざす。
倒幕隊員…『♪官位の階段昇る〜 君はまだ老中さ〜 幸福は将軍がきっと〜 運んでくれると信じてるね〜 御家人だったといつの日か〜 想う時がくるのさ〜』(♪想い出がいっぱい)
バサッ
安藤信正…『ギャ〜〜 助けてぇ〜〜』
スタコラサッサ〜
背中に擦(かす)り傷を負った安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)は、直様(すぐさま)に坂下門の中に逃げ込んだ。
水戸倒幕部隊に襲撃された安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)は、江戸城の専属医に絆創膏(ばんそうこう)を2枚渡された程度の軽傷だった。
これを1862年に起こった「坂下門外の変」(さかしたもんがいのへん)と呼ぶ。
ただ、軽傷だったとは言え、安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)はこの不始末により老中首座を辞任した。
1860年に井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が暗殺された「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)に続き、今回の安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)が暗殺未遂に遭った「坂下門外の変」(さかしたもんがいのへん)の2つの事件。
江戸幕府の信用信頼を失墜させるには十分過ぎるインパクトがあった。
GODSMACK /♪ STRAIGHT OUT OF LINE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:04:54
◆◇◆其の百十一:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
これにより江戸幕府の崩壊のカウントダウンが始まるこの時期に、海の向こうでは・・・
1858年にアメリカと締結した「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)により、1860年にアメリカに向けて使節団が派遣された。
この時に太平洋を横断してアメリカに渡ったのが江戸幕府が所有する咸臨丸(かんりんまる)で、その船に搭乗した使節団は幕府役人の勝海舟(かつかいしゅう/江戸)、大坂の堂島の出身で教育家の福沢諭吉(ふくざわゆきち/学者)、土佐国(高知県)の幡多郡(土佐清水)の出身で通訳官のジョン万次郎こと中浜万次郎(なかはままんじろう/学者)などだった。
遠い極東の島国からやって来た日本人に対して、アメリカの各地では大歓迎で迎入れる。
使節団はアメリカの文化や文明の発展に驚くばかりで、国民の選挙により選ばれた大統領を中核に政権運営を行う資本主義も学んだ。
勝海舟…『すごいな、これが最新通信機のスマートフォンのアイフォンかよぉ!』
福沢諭吉…『あっ! あそこに居るのトムクルーズじゃねぇ、サイン貰っとこぉ!』
ジョン万次郎…『このマクドナルドのハンバーガー美味いなぁ〜 日本に持ち込んでチェーン店でも開くか。』
アメリカを横断しながら見学した使節団の意見は全員一致していた。
使節団…『アメリカと戦争して勝てる訳が、無い!』
ここは丁髷(チョンマゲ)に刀を差して侍(サムライ)が闊歩(かっぽ)する日本の江戸。
1862年の「坂下門外の変」(さかしたもんがいのへん)で老中首座の安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)が暗殺未遂に遭って負傷し、そのまま辞任して江戸幕府の信用信頼は奈落の底に落ちかけている。
そこで存在感を示したのが九州は南国の薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の12代目藩主である島津忠義(しまずただよし/薩摩)、その父親で執権の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)、重鎮家臣の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)である。
島津久光(しまずひさみつ/薩摩)は全面的に“公武合体”(こうぶがったい)を支持して、朝廷や江戸幕府に対して積極的に支援する。
ただ、島津久光(しまずひさみつ/薩摩)が計画した“公武合体”(こうぶがったい)に、島流し先の奄美大島(あまみおおしま)から帰って来たばかりの西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が反論する。
西郷隆盛…『その国父(こくふ/島津久光)が計画した“公武合体”(こうぶがったい)は詰めが甘いでごわす。 誰も賛同しないでごわすよぉ。』
島津久光…『お前、生意気だからもう一度、島流しなぁ!』
こうして西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、再び沖永良部島(おきのえらぶじま)に流刑となる。
FLUFFY /♪ BLACK EYE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:05:49
◆◇◆其の百十二:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
島津久光(しまずひさみつ/薩摩)の“公武合体”(こうぶがったい)の計画は、江戸幕府の幕閣を刷新し、新たに一橋派で後々の征夷大将軍15代目となる徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)と、越前国(福井県)の福井藩の16代目藩主である松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)を中枢に組織改革を提案する。
ただ、この時期には“公武合体”(こうぶがったい)を快(こころよ)く思わない者も少なからず居た。
特に薩摩藩では、1860年に井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が暗殺された「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で、12代目藩主の島津忠義(しまずただよし/薩摩)と執権の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)に“尊王倒幕”(そんのうとうばく)を阻止された経緯があり、藩内部には不満分子の薩摩倒幕部隊の有馬新七(ありましんしち/薩摩)など多数名が残存していた。
この薩摩藩にとってのリスクを、島津久光(しまずひさみつ/薩摩)は一掃すべく行動に出る。
山城国(京都府)にある京街道の宿場町の伏見。
良質な伏水(ふしみず)を使った酒蔵が建ち並ぶ一角にある旅館の寺田屋に、“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を唱える薩摩倒幕部隊が集結していた。
これに対して島津久光(しまずひさみつ/薩摩)は、薩摩国(鹿児島県)から特殊部隊(SAT)を派遣して寺田屋の薩摩倒幕部隊を襲撃させた。
大手筋商店街のニチイ伏見店の屋上や中書島新地(ちゅうしょじましんち)などに配備された凄腕(すごうで)の狙撃手(スナイパー)に囲まれた寺田屋。
リーダーの有馬新七(ありましんしち/薩摩)など数名が射殺された。
これにより勝ち目が無い事を悟(さと)った薩摩倒幕部隊は降伏した。
これを1862年に起こった「第1次寺田屋事件」こと「薩摩藩志士粛清事件」(さつまはんししゅくせいじけん)と呼ぶ。
因(ちな)みに土佐国(高知県)の坂本龍馬(さかもとりょうま/土佐→商人)が寺田屋で襲撃されたのは、1866年に起こった「第2次寺田屋事件」こと「坂本龍馬襲撃事件」と呼び、別物である。
さらに現在、京都市伏見区の濠川(ほりかわ)沿いに建つ寺田屋は、当時の建物では無く再築されたものであるので、それを知ってガッカリしない様に。
PENTAGRAM /♪ LIVE AGAIN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:06:42
◆◇◆其の百十三:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
1862年に江戸城にて、京都の朝廷から勅使(ちょくし)として公卿(くぎょう)で中納言の大原重徳(おおはらしげとみ/朝廷)と、征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)と、薩摩藩の執権の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)の三者会談により、“公武合体”(こうぶがったい)の基本組織となる骨格が話し合われた。
その会議により、将軍後見職として一橋派の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、政事総裁職には福井藩の16代目藩主の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)が就任する事が決まる。
これに安堵(あんど)した島津久光(しまずひさみつ/薩摩)は気分良く江戸見学を行い、薩摩国(鹿児島県)へと帰路につくのであった。
島津久光…『ほぉ〜 これが有名な虎ノ門ヒルズでごわぁすか。』
がっ、ここで事件が起こる。
島津久光(しまずひさみつ/薩摩)を乗せた駕籠(かご)の前後に連なる薩摩藩の大名行列が、武蔵国(神奈川県)の生麦村(なまむぎむら/横浜)に差し掛かった時に、馬に乗ったイギリス人が大名行列を横切った為、薩摩藩士が無礼者として斬殺したのである。
イギリス人…『ココノォ生麦デェ作ラレルゥ“キリンビール”ハァ最高ネェ〜』
パカパカ パカパカ
薩摩藩士…『天下の大名を馬で横切るとは何事かっ! 斬り捨て御免!』
バサッ
イギリス人…『ギャ〜〜 ヤラレタァ〜〜』
ゴロン コロコロ
首級(しゅきゅう)が駕籠(かご)の横まで転がり・・・
島津久光…『なんじゃ、この生首(なまくび)はぁ? 元祖どっきりカメラかぁ?』
薩摩藩士…『いやぁ、これは現実の生首事件(なまくびじけん)で御座る。』
これを1862年に起こった「生麦事件」(なまむぎじけん)と呼ぶ。
この事件が薩摩藩にとって後々に大きな代償を払う事となり、延(ひ)いては“明治維新”への意識改革にまで発展する。
薩摩国(鹿児島県)の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)が江戸に“おのぼりさん”をしている間に、京都の朝廷では異変が起こっていた。
土佐国(高知県)の土佐藩と長門国(山口県)の長州藩が組織改革を実行して孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)に接近していたのである。
当初の土佐藩は一橋派で15代目藩主の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)が、1858年に起こった「安政の大獄」(あんせいのたいごく)で井伊直弼(いいなおすけ/江戸)から隠居命令が出され、山内豊範(やまうちとよのり/土佐)を養子に入れて16代目藩主を継承していた。
ただ、1860年の「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が暗殺されると、山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)は土佐藩の政権運営の執権として復帰していた。
その筆頭家臣は吉田東洋(よしだとうよう/土佐)だった。
その時の土佐藩の政権方針は江戸幕府と同じで“公武合体”(こうぶがったい)を示していた。
ところが、過激派の藩士だった武市半平太(たけちはんぺいた)こと武市瑞山(たけちずいざん/土佐)が“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を唱えて、吉田東洋(よしだとうよう/土佐)を暗殺して筆頭家臣に就任したのである。
YEAH YEAH YEAHS /♪ DATE WITH THE NIGHT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:07:44
◆◇◆其の百十四:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
一方、長州藩は13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)が政権運営を担っていた。
筆頭家臣は1861年に“航海遠略策”(こうかいえんりゃくさく)を企画提案して功績をあげた藩士の長井雅楽(ながいうた/長州)が就任していた。
この時の長州藩の政権方針は江戸幕府と同じで“公武合体”(こうぶがったい)を示していた。
ところが、過激派の藩士だった桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)と久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)が“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を唱えて、長井雅楽(ながいうた/長州)を切腹に追い込み筆頭家臣に就任したのである。
桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)は、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と「薩長同盟」を締結して“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれた人物である。
久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)も吉田松陰(よしだしょういん/長州)の妹が妻で松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生である。
こんな過激派思想の“志士”(しし)が、京都の“平安京”に囲まれて温く温くと日々を過ごす朝廷や孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)に接近すれば、どう言う結果になるかは下町の鼻垂れ小僧でも分かる。
正(まさ)に、腹を空かした“狼”と、大草原に遊牧されている“仔羊”である。
京都などでは“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を唱える武士が、1858年に締結した「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)や「安政五カ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく)を推奨した大名や藩主などを天誅(てんちゅう)として殺害していた。
その実行犯を“志士”(しし)と呼んだ。
この状況下で京都所司代(きょうとしょしだい)や町奉行所は機能せず、江戸幕府は京都治安平定の為に京都守護職(きょうとしゅごしょく)を設けて陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の9代目藩主だった松平容保(まつだいらかたもり/江戸)を任命した。
この会津藩はどこの藩よりも江戸幕府と徳川家に忠誠を誓い、その歴史は保科正之(ほしなまさゆき/徳川→会津)まで遡(さかのぼ)り、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)とお静(側室)の息子で、義兄弟の征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)に高待遇で重用された保科正之(ほしなまさゆき/徳川→会津)は会津藩の1代目藩主に就任した。
それから保科正之(ほしなまさゆき/徳川→会津)は会津藩の家訓(かきん)を定め、『徳川家に忠勤忠義(ちゅうきんちゅうぎ)を尽くさなければならない!』と言い残している。
この会津藩の家訓(かきん)が200年近く続く事となる。
こんな諸事情があり、無法地帯の京都に乗り込む事となった京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)であり、また、この後にみんな大好きな日本屈指の討伐組織でもある新撰組が誕生する事になる。
“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を掲げて日本各地から京都に集結した過激派思想の“志士”(しし)は、“公武合体”(こうぶがったい)を口にする武士や公家を次々と斬殺して、首級(しゅきゅう)を丸太町通や東大路通で晒(さら)し首にしたり、遺体の耳や腕を切り落として有力な公家の屋敷に投げ入れる野蛮(やばん)な行動を繰り返していた。
そんな治安悪化を辿(たど)る京都の朝廷では、公卿(くぎょう)の三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)と公家の姉小路公知(あねがこうじきんとも/朝廷)が、土佐国(高知県)の土佐藩と長門国(山口県)の長州藩の圧力に屈して、“公武合体”(こうぶがったい)から“尊王攘夷”(そんのうじょうい)へと方針転換する。
その結論は、江戸城に居る征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)を京都に招いて、京都御所で孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)と謁見(えっけん)し、そこで“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を推奨して「安政五カ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく)を破棄させる画策を講じる。
THE VINES /♪ GET FREE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:08:37
◆◇◆其の百十五:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
1863年に京都御所での会談が実現し、日本の政策として“尊王攘夷”(そんのうじょうい)が決定する。
この決定により、長門国(山口県)の長州藩は関門海峡などに停泊するアメリカとフランスおよびイギリスとオランダの軍艦を攻撃した。
しかし、強靭な軍備力を持つアメリカやフランスの軍艦から総攻撃に遭い、さらに長門国(山口県)の領土に上陸され町が焼き払われ、軍備施設も壊滅させられた。
この長州藩が大敗した教訓を生かし、吉田松陰(よしだしょういん/長州)が設立した私塾の松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生だった藩士の高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)は、軍備強化を念頭に奇兵隊(きへいたい)を結成して、藩士だけでなく志高い一般民の入隊も受け入れた。
しかし、長州藩は“欧米列強”(おうべいれっきょう)には対抗できないと思い知らされ、事実上に“尊王攘夷”(そんのうじょうい)は無理だと悟り、方針を“尊王倒幕”(そんのうとうばく)や“王政復古”(おうせいふっこ)に切り替える。
これを1863年から1864年に行われた「下関戦争」こと「馬関戦争」(ばかんせんそう)と呼ぶ。
同じ頃の1863年に、長州藩は江戸幕府に内緒で“初代の内閣総理大臣”の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)や周防国(すおう/山口県)の吉敷郡(湯田温泉)の出身の井上馨(いのうえかおる/長州)などをイギリスに留学させている。
ただ、「下関戦争」こと「馬関戦争」(ばかんせんそう)が勃発した為、急遽、帰国を余儀なくされた。
イギリスを見学した留学生の意見は全員一致していた。
留学生…『イギリスと戦争して勝てる訳が、無い!』
一方、九州は南国の薩摩国(鹿児島県)でも、1862年に起こった「生麦事件」(なまむぎじけん)の責任追求と損害賠償を求め、イギリスが桜島周囲の港湾に軍艦を停泊させた。
ただ、薩摩藩の執権の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)はイギリスの請求を拒否した為、イギリス軍艦は最新式のアームストロング砲で鹿児島全土に集中砲弾を浴びせる。
薩摩藩も旧式の大砲で応戦し、この戦闘は互角だった為、イギリスと薩摩藩は停戦して、お互いの力量を認めて友好関係を築く事となった。
これにより薩摩藩は“欧米列強”(おうべいれっきょう)には対抗できないと思い知らされ、事実上に“尊王攘夷”(そんのうじょうい)は無理だと悟り、方針を“尊王倒幕”(そんのうとうばく)や“王政復古”(おうせいふっこ)に切り替える。
これを1863年に起こった「薩英戦争」(さつえいせんそう)と呼ぶ。
THE STANDSTILLS /♪ MAPLE SUGAR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:09:31
◆◇◆其の百十六:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
長門国(山口県)の関門海峡で長州藩は、アメリカとフランスおよびイギリスとオランダの軍艦に総攻撃を受けて大敗した1863年から1864年に行われた「下関戦争」こと「馬関戦争」(ばかんせんそう)で、“欧米列強”(おうべいれっきょう)に敵(かな)わない事を思い知らされた。
ただ、長州藩の内部には1858年の「安政の大獄」(あんせいのたいごく)で処刑された吉田松陰(よしだしょういん/長州)の意思を引継ぐ松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生が何人も居た。
吉田松陰(よしだしょういん/長州)が唱えた“尊王攘夷”(そんのうじょうい)に“王政復古”(おうせいふっこ)を連呼して奮起させる幕末過激派が政権奪取の機会を伺う。
長州藩の幕末過激派となった桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)と久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)は、同志でもある筑後国(福岡県)の久留米藩の藩士で幕末過激派の真木和泉(まきいずみ)こと真木保臣(まきやすおみ/久留米)と会合を開いて“尊王倒幕”(そんのうとうばく)を企てる。
ただ、天皇を尊(とうと)ぶ“尊王”(そんのう)と掲げているも、実態にそぐわない自己中心的組織ではある。
その為、京都の朝廷や孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)も、長州藩や土佐藩の幕末過激派の目に余る残忍な素行を危惧(きぐ)していた。
さらに長州藩や土佐藩の幕末過激派は“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を盾に使い、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)を先頭にした軍隊の出兵の親征(しんせい)を企てる。
内容は、京都から南に下って大和国(奈良県)の橿原(かしはら)に行き、第1代天皇の神武天皇(じんむてんのう)が祀られている橿原神宮で勝戦祈願するものだった。
この“大和路行脚プラン”に驚いた孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)。
そこで朝廷の中川宮(なかがわのみや)こと久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう/朝廷)は、公卿(くぎょう)の三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)と長州藩や土佐藩を京都御所から追放する事を決める。
中川宮(なかがわのみや)こと久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう/朝廷)は、伏見宮の家系で伊勢神宮祭主や神宮皇學館(じんぐうこうがっかん)の創設者である。
中川宮(なかがわのみや)こと久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう/朝廷)は、会津藩で京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)に天皇護衛の依頼をするが、会津藩だけでは兵力が足りない。
そこで孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の勅命(ちょくめい)により、薩摩藩の執権の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)と息子で12代目藩主の島津忠義(しまずただよし/薩摩)に、長州藩や土佐藩の幕末過激派を排除する様に命じた。
これにより会津藩と薩摩藩の“会薩同盟”(かいさつどうめい)が締結された。
1863年8月18日、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の勅命(ちょくめい)と、中川宮(なかがわのみや)こと久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう/朝廷)の画策により、会津藩と薩摩藩が京都御所を護衛する事になる。
会津藩と薩摩藩の“会薩同盟”(かいさつどうめい)は京都御所の全ての門を閉鎖し、アリンコ1匹も入れない様にした。
これには長州藩や土佐藩の幕末過激派も手が出せない。
仕方なく軍隊を撤退させた。
この反乱処分として朝廷と江戸幕府は、幕末過激派の公卿(くぎょう)の三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)を含む公家7人、それに長州藩と土佐藩を京都から追放した。
この京都から長門国(山口県)の萩などに身を寄せた三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)ら公家7人の都落ちは、「七卿落ち」(しちきょうおち)と言われる。
これを1863年に起こった「八月十八日の政変」と呼ぶ。
SCREAMIN' CHEETAH WHEELIES /♪ SHAKIN' THE BLUES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:10:31
◆◇◆其の百十七:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
ただ、幕末過激派の主要メンバーを排除したところで、“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を唱える京都に居る公家や武士、それに町人までは全て排除できない。
夜の京都では木屋町の女給付き呑み屋など強引な客引きが横行し、1人で歩けないほど治安は悪化していた。
黒服…『お兄さん、いかがでっかぁ! 3000円ポッキリで飲み放題でっせぇ! ウチの店はプルンプルンの可愛い子が揃ってますでぇ!』
お客…『ほんまぁ〜 ほなぁ入るかぁ。』
そこで陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の9代目藩主だった京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は、江戸幕府の護衛部隊でもある浪士組(ろうしぐみ)を再組織した新撰組を結成する。
新撰組の局長は武蔵国(東京都)の多摩郡(調布)の農家出身の近藤勇(こんどういさみ/新撰組)、副長は武蔵国(東京都)の多摩郡(日野)の農家出身の土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)で、共に青年期から剣術を習い武士に憧れを抱いていた。
そして組長には陸奥国(むつ/福島県)の白河藩の藩士で剣術模範の沖田総司(おきたそうじ/新撰組)が就任した。
新撰組とは、元々は征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が、江戸城から京都御所に上洛する為の護衛をする組織を結成し浪士組(ろうしぐみ)とした。
浪士組(ろうしぐみ)には武士だけでなく、志高い一般人も含まれ、350人の軍勢となった。
この浪士組(ろうしぐみ)の発案者は、出羽国(でわ/山形県)の庄内藩(鶴岡)の藩士だった清河八郎(きよかわはちろう/庄内)である。
孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)と徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が会合するのに際して、選抜された浪士組(ろうしぐみ)も京都に入り、四条大宮から西側にある壬生寺(みぶでら)に布陣した。
このため壬生浪士(みぶろうし)とも呼ばれる。
ところが、浪士組(ろうしぐみ)の発案者でもある清河八郎(きよかわはちろう/庄内)がここに来て、とんでもない事を言い出した。
清河八郎…『俺、実は“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を支持してるから、天皇には従うけど、幕府の仕事はしないよぉ。』
そう言い残して江戸に帰ってしまった。
京都に残った浪士組(ろうしぐみ)はリーダーを失い、組織の結束力が揺らぎ始めた。
この事態に目を付けたのが京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)である。
主人(あるじ)を失い翻弄(ほんろう)する浪士組(ろうしぐみ)を、会津藩の管轄に取り入れた。
この時の浪士組(ろうしぐみ)は2班に分かれており、常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩の浪士だった芹沢鴨(せりざわかも/水戸)の芹沢組と、近藤勇(こんどういさみ/新撰組)の近藤組だった。
しかし、この芹沢鴨(せりざわかも/水戸)は江戸幕府への忠誠心の欠片(かけら)も無く、京都で商家から強奪したり商人からお金を恐喝したりと、悪名高さだけが際立ってくる。
この為、京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は、近藤勇(こんどういさみ/新撰組)に“芹沢鴨討伐”を命じる。
結果、芹沢鴨(せりざわかも/水戸)はお酒を飲んで泥酔しているところを、近藤勇(こんどういさみ/新撰組)が率いる近藤組に斬殺された。
この後の浪士組(ろうしぐみ)の活躍により、結束力と志(こころざし)の高い新撰組に刷新される。
新撰組が京都の町廻横目(まちまわりよこめ)を担うと、幕末過激派は段々と鳴りを潜めていった。
SYSTEM OF A DOWN /♪ AERIALS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:11:24
◆◇◆其の百十八:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
この頃は既(すで)に“公武合体”(こうぶがったい)も“尊王攘夷”(そんのうじょうい)も言葉が1人歩きして、日本の政権運営には何の意味も持っていなかった。
確かに、現代でも社会貢献や企業奉公など立派な言葉を並べているが、真(しん)の目的は大金を稼いで、大都会のタワーマンションに住んで、高級車を乗り回し、誰もが羨(うらや)む良(い)い女(男)を侍(はべ)らかせ、高級ブランドを買い漁り、高級シャンパンを浴びる様に飲む欲望があり、当時の状況とはあまり変わりはない。
これら項目に1つでも当てはまる人物が居れば、人肉を斬り刻(きざ)む長州藩や土佐藩の幕末過激派と同じ属性と思っていい。
そこで朝廷と江戸幕府は京都の二条城で会議を開催する。
これを「参与会議」と呼ぶ。
主席者は、朝廷から孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)、将軍後見職の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、政事総裁職で福井藩の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)、京都守護職(きょうとしゅごしょく)で会津藩の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、薩摩藩の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)、土佐藩の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)、宇和島藩の伊達宗城(だてむねなり/江戸)である。
この会議では、今後の日本は外国に対して開国か鎖国かで論争が繰り広げられた。
その最もな重要案件は、江戸城に一番近い“横浜港開港問題”だった。
孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の異国排除の意向に忖度(そんたく)して、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)と松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は鎖国を主張する。
一方、20世紀を見据えた貿易拡大を目論むワールドワイドなビジネスマンの島津久光(しまずひさみつ/薩摩)は開国を主張する。
これにより意見は平行線を辿(たど)り、お互いが相容(あいい)れないまま、この「参与会議」は2ヶ月で解散した。
孝明天皇…『お前ら、何しとぉんねぇん!』
この会議の後、一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、会津藩の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、桑名藩の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)は、京都で政権運営する“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)を樹立させる。
松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)とは、尾張徳川家の徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)と松平容保(まつだいらかたもり/江戸)の弟で、伊勢国(三重県)の桑名藩の藩主と京都所司代(きょうとしょしだい)を務める。
この動乱する日本に、南国の楽園から1人の男が帰って来た。
そう西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)である。
島津久光(しまずひさみつ/薩摩)とソリが合わず沖永良部島(おきのえらぶじま)へ島流しに遭っていたが、“竹馬の友”の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)の働き掛けや、12代目藩主の島津忠義(しまずただよし/薩摩)の許諾もあり、西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の薩摩藩の復帰が許された。
薩摩藩をはじめ薩摩国(鹿児島県)全体の雰囲気が『ウェルカム、タカモリ!』だった為、さすがの島津久光(しまずひさみつ/薩摩)も認めざるを得なかった。
西郷隆盛…『いやぁいやぁ、皆んな、ありがとうでごわすぅ!』
THE BLACK KEYS /♪ READ EM AND WEEP
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:12:20
◆◇◆其の百十九:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
京都御所から締め出された長州藩や土佐藩の幕末過激派に不穏な動きを察知した京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は、新撰組に京都の町廻横目(まちまわりよこめ)を強化する様に命じる。
そこで新撰組は、三条木屋町で幕末過激派とつながのある怪しい商店の噂を耳にする。
場所は四条通と河原町通の交差点から北東側に入った好立地の店子(たなこ)。
早速、店子(たなこ)のご主人でもある枡屋喜右衛門(ますやきえもん/商人)に壬生寺(みぶでら)の本陣まで御足労を願い出る。
近藤勇…『忙しいとこをすんまぁへぇんなぁ〜』
枡屋喜右衛門…『何でぇんのぉ〜 こんな所に呼び出してぇ〜 この辺りは島原遊郭しかぁ来たことないわぁ〜』
土方歳三…『旦那はぁんも、お好きでぇんなぁ〜』
枡屋喜右衛門…『お好きでぇす〜』
近藤勇…『ではぁ、お好きついでに、これは如何(いかが)でっかぁ!』
そう言って枡屋喜右衛門(ますやきえもん/商人)を縄で縛り上げて天井から吊るした。
緊縛(きんばく)な亀甲縛りで吊るされ、身体の各所に縄がグイグイと喰い込む枡屋喜右衛門(ますやきえもん/商人)が悲鳴をあげる。
枡屋喜右衛門…『いゃ〜 わたしを辱(はずかし)めないでぇ〜 あぁ〜〜 もうダメェ〜〜』
シャーーー
土方歳三…『こいつ、イキッよったでぇ〜 イッたついでに話してもらおうかぁ!』
枡屋喜右衛門…『わしぃ、ほんまぁは古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)と言いますねぇん。 実は近々、長州藩や土佐藩の幕末過激派が、風の強い日に京都に火を放ち炎上させて、朝廷の公家や江戸幕府の役人を斬殺し、その隙に孝明天皇を誘拐して長門国(山口県)の萩まで連行する予定ですねぇん。』
近藤勇…『なぁ、なんやてぇ!』
土方歳三…『お前らは、とんでもない悪党やぁなっ!』
近藤勇(こんどういさみ/新撰組)は直様(すぐさま)に、京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)と、京都所司代(きょうとしょしだい)の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)に報告する。
松平容保(まつだいらかたもり/江戸)は、早急に長州藩や土佐藩の幕末過激派の隠れ家(アジト)を探すように指示する。
新撰組は四条通と東大路通の三叉路(T字路)にある八坂神社の近くの祇園町会所を本陣とした。
そこから局長の近藤勇(こんどういさみ/新撰組)や組長の沖田総司(おきたそうじ/新撰組)の1号部隊と、副長の土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)の2号部隊に分かれて、祇園から河原町、四条から三条を捜索する。
近藤勇(こんどういさみ/新撰組)は以前から目星を付けていた、三条大橋の西側にある長州藩が御用達(ごようたし)にしている旅館の池田屋に、人の出入りが多い事を察知する。
池田屋に集結する長州藩や土佐藩の幕末過激派に、近藤勇(こんどういさみ/新撰組)や沖田総司(おきたそうじ/新撰組)の1号部隊が突入した。
近藤勇…『御用改(ごようあらため)である! 刃向かう者は容赦なく斬る!』
池田屋では新撰組と幕末過激派の大立ち回りの殺陣(たて)による激闘が繰り広げられ、斬られた“志士”(しし)の階段落ちも見られた。
土方歳三…『待たせたな!』
そこに現れたのが土方歳三(ひじかたとしぞう/新撰組)の2号部隊で、この加勢により幕末過激派の“志士”(しし)は敗走する事になる。
その同志を置いて敗走した者の中には、後々に“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれる桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)も含まれていたと言われる。
京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)と京都所司代(きょうとしょしだい)の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)が率いる3000人の軍勢が到着した時には、新撰組が長州藩や土佐藩の幕末過激派をほぼ壊滅させた後だった。
この池田屋襲撃事件により、新撰組の快挙は京都だけでなく、日本全国に知れ渡る事となる。
これを1864年に起こった「池田屋事件」と呼ぶ。
TOADIES /♪ POSSUM KINGDOM
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:13:10
◆◇◆其の百二十:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
この池田屋襲撃により同志が討死した長州藩の幕末過激派は報復計画を企てる。
先(ま)ず、長州藩の三家老と呼ばれる益田親施(ますだちかのぶ/長州)、福原元僴(ふくばらもとたけ/長州)、国司親相(くにしちかすけ/長州)が、新撰組を裏で操る“会津征伐”の計画を練る。
そして、長州藩の久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)や遊撃隊総督の来島又兵衛(きじままたべえ/長州)、筑後国(福岡県)の久留米藩の藩士で幕末過激派の真木和泉(まきいずみ)こと真木保臣(まきやすおみ/久留米)も参加して、報復相手の会津藩で京都守護職(きょうとしゅごしょく)の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)や新撰組を襲撃する為に軍備を整えていた。
長門国(山口県)の萩城を出陣した会津征伐隊は山城国(京都府)に入り、益田親施(ますだちかのぶ/長州)と久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)と真木和泉(まきいずみ)こと真木保臣(まきやすおみ/久留米)の軍隊は山崎天王山に布陣した。
続いて、国司親相(くにしちかすけ/長州)の軍隊は嵯峨の天竜寺に布陣、福原元僴(ふくばらもとたけ/長州)は伏見の長州藩屋敷に布陣し、3拠点から京都御所を占領して攻勢を掛ける計画だった。
ただ、この報復情報は江戸幕府や朝廷にも漏れており長州討伐軍を結成して、京都御所を護衛する為に陸奥国(むつ/福島県)の会津藩、越前国(福井県)の福井藩、美濃国(岐阜県)の大垣藩、伊勢国(三重県)の桑名藩、それに薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩が参加して、北側は今出川通、西側は烏丸通、南側は丸太町通、東側は河原町通の一帯に軍隊を配備した。
さらに徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就任して、京都御所の護衛を担当した。
対するのは長州藩の会津征伐隊のみで、勝敗は言うまでもなく明らかである。
最終的に京都御所の西側中央に構える蛤御門(はまぐりごもん)に会津征伐隊が集結して、長州討伐軍と激闘を繰り広げた。
ただ、会津征伐隊の敗戦が色濃くなると、最期を悟った“志士”(しし)が次々と自決していく。
その中には、久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)も含まれ、藩士の寺島忠三郎(てらしまちゅうざぶろう/長州)と刺し違えで自害した。
戦場の京都御所から逃亡した真木和泉(まきいずみ)こと真木保臣(まきやすおみ/久留米)は山崎天王山で自害した。
しかも、事もあろうか会津征伐隊は京都御所に大砲を撃ち込んでいる。
京都御所が被災したのは、平安時代の930年に右大臣だった公家の菅原道真(すがわらみちざね/公家)の怨念が起こしたと言われる「清涼殿落雷事件」(せいりょうでんらくらいじけん)以来である。
当然だが長州藩は、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)には心象が悪く、朝廷の公家には心証が悪くなった。
この合戦で火の手が京都を覆い尽くし、3日間も燃え続けたと言う。
京都がこれだけ延焼したのは、室町時代の1467年から1477年まで続いた西陣の山名氏と東陣の細川氏が権力争いした「応仁の乱」以来と言う。
これを1864年に起こった「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)こと「禁門の変」(きんもんのへん)と呼ぶ。
10,000 THINGS /♪ FOOD CHAIN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:14:06
◆◇◆其の百二十一:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
天皇が住まう京都御所を攻撃し、平安の京都を延焼させた長州藩は、朝廷だけでなく、日本全国から“朝敵”(ちょうてき)の賊軍と見なされる様になった。
この京都丸焼けに激怒した朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、長州藩の13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)と、後々に14代目藩主となる毛利元徳(もうりもとのり/江戸→維新)の義父子に対して、官位階級を剥奪(はくだつ)する勅命(ちょくめい)を出す。
江戸幕府でも征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)から、長州藩の藩主としての大名を罷免(ひめん)して全ての権限を無効とした。
さらに孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、江戸幕府に対して“長州藩征伐”の勅命(ちょくめい)を出した。
これを受けて征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)は、尾張徳川家の徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)を総督(そうとく)に、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)を総参謀(そうさんぼう)に任命した。
幕府軍は15万人の軍隊を率いて、先(ま)ずは大坂城で布陣する。
ただ、徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)と西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、戦国時代じゃあるまいし、今更(いまさら)合戦などする気は毛頭(もうとう)なかった。
ここで一旦、整理しよう。
朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、京都で活動する“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)の一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)、会津藩の松平容保(まつだいらかたもり/江戸)、桑名藩の松平定敬(まつだいらさだあき/徳川)と連携して仲が良い。
一方、450km離れた江戸城に居る江戸幕府の征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)や幕閣は、国政運営の蚊帳(かや)の外で疎外感があり、“一会桑政権”(いちかいそうせいけん)を疎(うと)ましく思い仲が悪い。
こんな政権状況の中で、長州討伐軍のトップとなる徳川慶勝(とくがわよしかつ/徳川)と西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)も、命を掛けて心込めるほど真剣ではない。
西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は布陣する大坂城を抜け出して道頓堀に繰り出していた。
そこで偶然にも江戸幕府の役人でもある海軍卿(かいぐんきょう)や陸軍総裁を歴任した勝海舟(かつかいしゅう/江戸)と出会う。
西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)と勝海舟(かつかいしゅう/江戸)は、御堂筋沿いにある“はり重”ですき焼き御膳を食べながら日本の将来を語った。
勝海舟…『まあ西郷君、私の奢(おご)りだ、たんと食べてくれ。』
西郷隆盛…『これは美味(うま)かぁすき焼きでごわすなぁ〜』
勝海舟…『ところで“長州藩征伐”の行方(ゆくえ)は、どうなっているの?』
西郷隆盛…『あんまい乗る気がなかぁ〜』
勝海舟…『今の日本に必要なのは、対外国政策で、国内の覇権争いをしている場合ではない、はっきり言って、私が属する江戸幕府には外国に対抗できる免疫も組織力も、無い!』
西郷隆盛…『幕府の役人でもある勝さんが、幕府を批判するとは・・・ 先見性があり、器も大きいでごわす。』
勝海舟…『日本の未来は、平和ボケして腑抜けになった江戸の役人ではなく、西郷君など地方の実力者に掛かっていますよ。』
西郷隆盛…『勝さんを師匠と呼ばせてたもしぃ!』
そこで心入れ替えた西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、周防国(すおう/山口県)の岩国藩の1代目藩主で毛利氏の系統にあたる吉川経幹(きっかわつねまさ/岩国)と会談して、長州藩の降伏を要求する。
孫子の兵法の『戦わずして、勝つ!』である。
次に長門国(山口県)の萩城に出向き、奇兵隊(きへいたい)の隊長だった高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)を説得して、長州藩の降伏を決定させた。
さらに長州藩は、会津征伐隊を率いて「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)こと「禁門の変」(きんもんのへん)を引き起こした三家老の、益田親施(ますだちかのぶ/長州)、福原元僴(ふくばらもとたけ/長州)、国司親相(くにしちかすけ/長州)を、戦争責任として切腹させて介錯(かいしゃく)した。
これにより長州藩の13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)は、江戸幕府に謝罪文を送付して、“長州藩征伐”は取り下げられた。
これを1864年に起こった「第1次長州征討」と呼ぶ。
PIST-ON /♪ GREY FLAP
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251221 - ラジオの友 URL
2025/12/21 (Sun) 13:14:58
◆◇◆其の百二十二:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
一方の長州藩は、この“長州藩征伐”に加えて1863年から続いている「下関戦争」こと「馬関戦争」(ばかんせんそう)が終結していない状態だった為、内情はボロボロになっていた。
鎌倉時代から続く毛利氏としては、1600年に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が西軍の総大将に担ぎ出された「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)以来と言う。
長州藩の内部でも分裂が起こっていた。
抗戦派(正義派)は“尊王倒幕”(そんのうとうばく)や“王政復古”(おうせいふっこ)を唱える幕末過激派の流れを汲(く)む。
家老の周布政之助(すふまさのすけ/長州)を筆頭に、リーダーの高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)、伊藤博文(いとうひろふみ/長州)、井上馨(いのうえかおる/長州)、「池田屋事件」で新撰組から逃亡していた桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)で、吉田松陰(よしだしょういん/長州)が開設した松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生が中心となった。
一方、恭順派(俗論派)は“江戸幕府”に再び臣従(しんじゅう)して“公武合体”(こうぶがったい)を唱える。
家老で阿川毛利氏の毛利親彦(もうりちかひこ/長州)を筆頭に、椋梨藤太(むくなしとうた/長州)や中川宇右衛門(なかがわうえもん/長州)が居た。
“朝敵”(ちょうてき)の烙印(らくいん)を押された長州藩では、恭順派(俗論派)の権限が強くなり、数々の不祥事の責任追求で、抗戦派(正義派)の周布政之助(すふまさのすけ/長州)を切腹させて介錯(かいしゃく)した。
恭順派(俗論派)が勢力を伸ばす長州藩だった為、抗戦派(正義派)のリーダーだった高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)は筑前国(福岡県)の博多に身を隠していた。
ただ、闘争心だけは消える事はなく、渦巻く関門海峡を泳いで渡り、再び下関に上陸した。
そこで抗戦派(正義派)の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)や井上馨(いのうえかおる/長州)の協力を得て、さらに、1863年に起こった「八月十八日の政変」で京都から長門国(山口県)の萩に都落ちした「七卿落ち」(しちきょうおち)と呼ばれる三条実美(さんじょうさねとみ/朝廷)ら公家7人の援助もあり、長州藩の恭順派(俗論派)に対して反撃に出る。
先(ま)ずは下関会所を襲撃して、長門国(山口県)の全域でクーデター(暴力革命)を起こした。
これを1864年に起こった「功山寺挙兵」(こうざんじきょへい)と呼ぶ。
この高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)の挙兵に、奇兵隊(きへいたい)の隊長だった山県狂介(やまがたきょうすけ)こと山縣有朋(やまがたありとも/長州)も賛同する。
山県狂介(やまがたきょうすけ)こと山縣有朋(やまがたありとも/長州)とは、後々に“2度の内閣総理大臣”に就任した政治家となり軍人でもある。
この抗戦派(正義派)の勢いに、恭順派(俗論派)だった13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)と、後々に14代目藩主となる毛利元徳(もうりもとのり/江戸→維新)の義父子も、方針を抗戦派(正義派)に変更して恭順派(俗論派)の討伐を言い出す始末。
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