都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:26:55
◆◇◆其の九十三:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
②の“上知令”(あげちれい)は、大名や旗本が所有する土地を江戸幕府に返還する政策である。
要は江戸や大坂、それに地方の大名が、武功などで代々に領地とした土地を没収する制度である。
当然ではあるが、江戸幕府の藩主から大奥まで、それに地方の大名から闇市の占有者まで猛反発し、直(す)ぐに撤回した。
その“上知令”(あげちれい)の撤回が、1990年代に影響を及ぼすとは誰が想像しただろうか。
住宅金融専門会社(住専)から多額の融資金(借金)を授受した江戸や大坂の土地取扱業者(不動産会社)が、返済する当てのない多額の負債を理由に、融資金(借金)を踏み倒し社会に衝撃を与え、“住専”(じゅうせん)と言う言葉が流行した。
③の“株仲間解散令”は、商家や問屋の業界ごとに商工業者組合を組成した株仲間を解散させて、経済市場では自由取引を推奨して物価下洛を促す政策である。
1716年に“暴れん坊将軍”と呼ばれた征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が実施した「享保の改革」(きょうほうのかいかく)で、大坂や江戸の有力な商家や問屋に対して、取扱商品の独占権を与える「株仲間の公認」を制定し、これにより江戸幕府に上納金を納めさせた。
ただ、商工業者組合の株仲間に対して、自主的な判断で他業者を排除して独占的に活動できる「独占許可法」を認める事で、商品の流出制限する事で価格がコントロール(操作)できる為、不公正かつ不自由な経済市場が形成される副作用もある。
その為、経済市場を各業界が独占する株仲間を解散させて、“経済ビッグバン”を実施する事で物価の安定と景気の回復を狙った。
ところが、江戸幕府のお膝元の江戸城下町で商いをする商家や問屋は営業不振に陥(おちい)り、商品の流通が滞り景気が悪化した。
しかも、江戸幕府の目が届かない地方都市で商いする商家や問屋は、株仲間の解散を守らなかったため、日本全国の経済市場が大混乱する事となる。
THE PRETENDERS /♪ NIGHT IN MY VEINS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:28:12
◆◇◆其の九十四:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
④の“異国対策”は、強靭な軍力を装備するヨーロッパ諸国に対する日本としての対応を方策した。
これは日本と国交を締結する中国大陸の清(しん)が、イギリス軍隊により総攻撃され敗退した1839年に起こった「アヘン戦争」により、いつかは隣国の日本列島もイギリス軍隊に侵攻されると江戸幕府は危機感が募った。
さらに1842年の「南京条約」(なんきんじょうやく)には、イギリスは戦争責任の賠償として清(しん)から香港を割譲(かつじょう)している。
もし、次にイギリス軍隊が日本に侵攻してきたら、本気(マジ)でヤバい!
しかも、現状の江戸幕府の御触(おふれ)は、異国船と領民の交流を禁止し、日本近海を航行(こうこう)する異国船は阻止し、やむない場合は攻撃しても良いという、1825年に施行した“異国船打払令”(いこくせんうちはらいれい)を発布している。
これは、流石(さすが)にヤバい!
江戸幕府は直(す)ぐ様、“異国船打払令”(いこくせんうちはらいれい)を撤廃して、1806年に施行した異国船に飲料水と船舶燃料(薪など)を供給する“薪水給与令”(しんすいきゅうよれい)を再び発布した。
これら改革政治を1841年に実施した「天保の改革」(てんぽうのかいかく)と呼ぶ。
CHER /♪ I FOUND SOMEONE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:29:12
◆◇◆其の九十五:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
江戸幕府は、軍隊に造詣(ぞうけい)が深い肥前国(長崎県)の長崎奉行所で町年寄に就いていた砲術師でもある高島秋帆(たかしましゅうはん/江戸)を江戸に呼び寄た。
先(ま)ず、軍師の高島秋帆(たかしましゅうはん/江戸)は、江戸幕府の組織に海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり/海防掛)を設置して、対外戦略の策定や軍隊配備を強化し、江戸湾の防衛拠点も構築している。
その1つが海を埋立てた台場(だいば)である。
そんな対外防御対策を施している最中(さなか)に、2つの出来事が起こる。
1つ目は、1843年に征夷大将軍12代目の徳川家慶(とくがわいえよし/徳川)に仕え、老中首座として敏腕を振るっていた水野忠邦(みずのただくに/江戸)が、「天保の改革」(てんぽうのかいかく)が“悪政”極まりないとして、江戸幕府どころか日本全国の領民から嫌われて罷免(ひめん)され、徳川家慶(とくがわいえよし/徳川)の働き掛けで再任するも、やる気を失った水野忠邦(みずのただくに/江戸)は1845年に辞任している。
その老中首座を引継いだのが備後国(広島県)の福山藩の7代目藩主の阿部正弘(あべまさひろ/江戸)である。
これにより改革政治は終わりを告げ、幕末政治へと切り替わり、265年に渡り長期政権を運営してきた江戸幕府は23年後の1868年に終焉を迎える。
1603年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が征夷大将軍1代目に就任して、江戸幕府を開設して武断政治(ぶだんせいじ)を実施し、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の1651年まで続く。
地方の藩主や領民を制圧する事に限界が見えてきた“江戸幕府”は方向転換して、協調と融和を図る文治政治(ぶんちせいじ)へと舵を切り、1651年に就任した征夷大将軍4代目の徳川家綱(とくがわいえつな/徳川)から、征夷大将軍7代目の徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)の1716年まで続く。
その後、江戸幕府は財政難に陥り、“質素倹約”を軸とした改革政治に取組み、1716年に就任した“暴れん坊将軍”こと征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)の「享保の改革」(きょうほうのかいかく)を始めた。
1787年に就任した征夷大将軍11代目の徳川家斉(とくがわいえなり/一橋→徳川)では、将軍の側近でもある老中に政権運営を委託して老中首座の松平定信(まつだいらさだのぶ/田安→江戸)が「寛政の改革」(かんせいのかいかく)を実施した。
1837年に就任した征夷大将軍12代目の徳川家慶(とくがわいえよし/徳川)では、老中首座の水野忠邦(みずのただくに/江戸)が1841年に実施した「天保の改革」(てんぽうのかいかく)へと突き進んで改革政治の終わりを迎える。
そして、ここから江戸幕府が崩壊していく幕末政治へとつながっていく。
KIM WILDE /♪ IF I CAN'T HAVE YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:30:10
◆◇◆其の九十六:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
2つ目は、相模国(神奈川県)の三浦半島の南東部中腹にある浦賀海岸(横須賀)の沖に、4隻の大きな黒船が航行(こうこう)していた。
これを1853年に起こった「黒船来航」(くろふねらいこう)と呼ぶ。
黒船はアメリカの艦船で、最新鋭の蒸気船の2隻も含まれていた。
アメリカ戦艦は大砲を見せ付けて、江戸湾の入江奥まで航行(こうこう)して、江戸城を射程距離(ロックオン)におさめる。
これに慌てた江戸幕府は、取り敢えず相模国(神奈川県)の浦賀(横須賀)への上陸を許可する。
日本の地に降り立ったアメリカ人でゼネラルマネジャーのマシューペリー(軍人)は、浦賀奉行所に勤める旗本の戸田氏栄(とだうじよし/浦賀)と、小十人(こじゅうにん)の中島三郎助(なかじまさぶろうすけ/浦賀→函館)に、アメリカのフィルモア大統領(13代目大統領)から賜(たまわ)った国書を渡し、日本に対して4項目の要求を伝える。
①:アメリカと日本の友好条約
②:交易に伴う港の開港
③:アメリカ船への飲料水と船舶燃料(薪など)を供給する薪水給与(しんすいきゅうよ)
④:難破したアメリカ船の保護
これら要求を江戸幕府は直(す)ぐに返事できないとして、1年後に再来航する様にゼネラルマネジャーのマシューペリー(軍人)に伝え承諾をもらう。
江戸城で身構える征夷大将軍12代目の徳川家慶(とくがわいえよし/徳川)と老中首座の阿部正弘(あべまさひろ/江戸)、それに幕閣の面々は燦々諤々(さんさんがくがく)で会議を開くも、一向に異国対策の妙案が浮かんで来ない。
その為、京都の朝廷や各地域の有力藩主などにも意見を求めた。
この行為が今後に巻き起こる江戸幕府の自滅への道とはつゆ知らず・・・
JONATHAN BUTLER /♪ THERE'S ONE BORN EVERY MINUTE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:31:08
◆◇◆其の九十七:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
1853年〜1858年の5年間、江戸幕府は征夷大将軍13代目の徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)の時代に入る。
1853年に日本全国を揺るがしたアメリカ戦艦の「黒船来航」(くろふねらいこう)。
この異国対策の心労が溜(た)まってか、同年に“そうせぇ公”と親しまれた征夷大将軍12代目の徳川家慶(とくがわいえよし/徳川)は突然死してしまう。
急遽ではあるが、息子の徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)が征夷大将軍13代目に就任する。
ところが、この徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)は病弱で精神的な障害があり、人と上手く会話する事が出来なかった。
この事が後々に江戸幕府を分裂させる事になる。
江戸幕府の当面の問題は1年後に再び来航してくるゼネラルマネジャーのマシューペリー(軍人)が率いるアメリカ戦艦である。
『光陰矢(こういんや)の如(ごと)し。』
1年なんてあっという間で、そしてその時が来た。
武蔵国(神奈川県)の横浜港にアメリカ戦艦を7隻も停泊させて存在感を見せ付けたマシューペリー(軍人)は、横浜の地に降り立った。
江戸幕府は山下公園に面したホテルニューグランドに横浜会議所を設けて、応接掛(おうせつがかり)として外交官の林復斎(はやしふくさい/江戸)を就任させ、アメリカ使節団の対応にあたらせた。
この時にマシューペリー(軍人)は、アメリカのピアース大統領(14代目大統領)から賜(たまわ)った国書を渡し、日本に対して昨年の回答および追加項目の要求を伝える。
①:アメリカと日本の友好条約
②:交易に伴う蝦夷国(えぞ/北海道)の箱館(函館)と伊豆国(静岡県)の下田の港の開港
③:アメリカ船への飲料水と船舶燃料(薪など)を供給する薪水給与(しんすいきゅうよ)
④:難破したアメリカ船の保護
⑤:アメリカ領事館の設置と滞在
⑥:日本と他国との友好条件をアメリカとも締結できる片務的最恵国待遇(へんむてきさいけいこくたいぐう)
さらにマシューペリー(軍人)は、1837年にアメリカ商船が日本から攻撃を受けた「モリソン号事件」を引き合いに出した。
これに対して応接掛(おうせつがかり)の林復斎(はやしふくさい/江戸)は、こう反論した。
マシューペリー…『17年前ニィ、アナタガタァ日本人ハァ、アメリカ商船ノォモリソン号ヲォ攻撃シタァ事ハァ、人道ニィ外レテェイルゥヨォ! ダカラァ、国交条約ヲォ締結スベキィダァヨォ。』
林復斎…『いやいや、今更に17年前のモリソン号事件を忠告されても困ります。 今の江戸幕府は6項目の内の②の交易開港のみ拒否し、後の5項目は全て承諾するつもりです。』
マシューペリー…『アメリカニハァ、ハンバーガーヤァディズニーランドガァ有リィ、トテモォ楽シィ国デスゥヨォ。 ダカラァ、交易モォ締結シテェ下サァイヨォ。』
林復斎…『いやいや、日本には寿司と太秦映画村があるから事(こと)は足りています。 人道目的の国交条約なら、交易は必要ないでしょう。』
マシューペリー…『ウムゥ〜・・・』
林復斎…『ウィン(勝った)!』 ガッツポーズ
交易以外については“江戸幕府”は了承している為、ホテルニューグランドの横浜会議所にて、日本とアメリカの調印式が行われた。
これを1854年に締結した「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)と呼ぶ。
COLONEL ABRAMS /♪ TRAPPED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:32:06
◆◇◆其の九十八:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
実はこの時、アメリカは琉球王国とも国交を締結しており、蝦夷国(えぞ/北海道)と伊豆国(静岡県)と琉球国(沖縄県)を“点”と“線”で結べば、アメリカがアジア諸国に対しての寄港の拠点として重要だった事が解る。
極東の“黄金の国・ジパング”と言われる日本と「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)を調印したゼネラルマネジャーのマシューペリー(軍人)は安堵の様子でアメリカに帰国した。
帰路に着く船から、長居(ながい)により日本語が達者になったマシューペリー(軍人)は離れていく日本の景色を眺めていた。
アメリカは「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)の締結に基づき、1856年にタウンゼントハリス(外交官)を日本に派遣し、伊豆国(静岡県)の下田にある玉泉寺(ぎょくせんじ)を間借りして在日アメリカ領事館を開設した。
タウンゼントハリス(外交官)はアメリカのピアース大統領(14代目大統領)から賜(たまわ)った国書を持参し、江戸城に居城する征夷大将軍13代目の徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)に謁見(えっけん)した。
アメリカの最大の目的は、やはり交易の締結である。
その時にタウンゼントハリス(外交官)は、徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)や江戸幕府の幕閣に対して、流暢(りゅうちょう)な日本語でこう約束した。
タウンゼントハリス…『隣国の清(しん)はイギリスとフランスの軍隊に侵攻されたアロー戦争で、ほぼ植民地となっておりやぁす。 次は日本を侵略する予定でやぁんすぅ。 そうなる前にアメリカは日本を命を掛けて守るでござんす。』
徳川家定…『苦しゅうなぁい。』
タウンゼントハリス…『何方(どなた)さんも、真っ平御免でござんす。』
徳川家定…『良きに計(はか)らえ。』
この交易交渉の成立により、日本は蝦夷国(えぞ/北海道)の箱館(函館)、越後国(新潟県)の新潟、武蔵国(神奈川県)の横浜、摂津国(兵庫県)の神戸、肥前国(長崎県)の長崎の各港を開港する事を決定した。
江戸幕府の老中首座の阿部正弘(あべまさひろ/江戸)をはじめ、幕閣が遂行した異国対策が芽生え始めた。
これを1853年から実施してきた「安政の改革」と呼ぶ。
ただ、異国対策の心労が溜(た)まってか、1857年に阿部正弘(あべまさひろ/江戸)は死去する。
次の老中首座を引継いだのが下総国(しもうさ/千葉県)の佐倉藩の5代目藩主で海外情勢に造詣(ぞうけい)が深い堀田正睦(ほったまさよし/江戸)だった。
世界情勢から日本には、国内国外共に解決しなければならない問題が山積みなのに、そんな時に江戸幕府の幕閣の目は、違う方向に向いていた。
TWINS /♪ FACE TO FACE-HEART TO HEART
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:33:03
◆◇◆其の九十九:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
江戸幕府の欧米列強に対する忖度(そんたく)した弱腰な異国対策に憤(いきどお)る者も現れた。
その最もたるのは、徳川御三家でもある水戸徳川家の常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩の9代目藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)だった。
その影響で水戸藩の藩士の藤田東湖(ふじたとうこ/水戸)は、“尊王攘夷”(そんのうじょうい)や“公武合体”(こうぶがったい)を叫ぶ様になった。
そんな国内の外国排除派が台頭している事などつゆ知らず、江戸幕府では老中首座の堀田正睦(ほったまさよし/江戸)が異国友好対策に奔走(ほんそう)していた。
伊豆国(静岡県)の下田にある在日アメリカ領事館のタウンゼントハリス(外交官)との約束を守るべく、堀田正睦(ほったまさよし/江戸)は京都の朝廷に出向き、第121代天皇の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)と謁見(えっけん)し、諸外国との友好条約の説明と承認を得ようとする。
ところが、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の首は横に振られて、答えは『ノー(NO)。』だった。
主な理由として、こう述べられた。
孝明天皇…『この神州(日本)は3億年前に伊耶那岐神(イザナギ)と伊耶那美神(イザナミ)により創造され、そこから“太陽の神”の天照大御神(アマテラス)、“月の神”の月読命(ツクヨミ)、“海の神”の須佐之男命(スサノオ)により守られてきた。』
孝明天皇…『そこから時を経て、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)が聖地を求めて日本列島の旅を続けて、その意志を引継いだ代々の神により、ようやく第1代天皇の神武天皇(じんむてんのう)が大和国(奈良県)の橿原(かしはら)の地に“安住の郷”を開いたのである。』
孝明天皇…『そんな“神の国”の大地を、異国の侵攻を許す訳にはいかない。』
孝明天皇…『もし、“友好国交”と言う甘い言葉に惑わされ、異国人を神州(日本)にのさばらし、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いを許し、倭国民を危険な目に遭わすなら、到底に勅許(ちょきょ)を出す事はできない。』
孝明天皇…『今後、神州(日本)と対等では無い不平等な条約を締結したり、京都の朝廷を他の地に移封(いほう)させたなら、その関係者、そして、その者の子孫末代まで呪い祟られる事になるだろう。』
堀田正睦…『はぁ、参ったな、コリャ。』
この時代の朝廷を振り返ってみよう。
1788年に起こった「尊号一件」(そんごういっけん)を引き起こした1780年に即位した第119代天皇の光格天皇(こうかくてんのう/朝廷)、その息子で1817年に譲位した第120代天皇の仁孝天皇(にんこうてんのう/朝廷)、そして1846年に即位した第121代天皇の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)となる。
THE COVER GIRLS /♪ SHOW ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:34:01
◆◇◆其の百:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
一方、江戸幕府では別の問題が浮上していた。
征夷大将軍13代目の徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)は病弱で精神的な障害があり、人と上手く会話する事が出来なかった。
此(こ)れにより世継ぎが誕生できなかった。
“暴れん坊将軍”こと征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)から紀州徳川家で継承してきた将軍職。
その為に創設された徳川御三卿の田安家、一橋家、清水家だった。
ただ、一橋家の祖の徳川宗尹(とくがわむねただ/徳川→一橋)の息子で一橋治済(ひとつばしはるさだ/一橋→徳川)の調略により、その息子で征夷大将軍11代目の徳川家斉(とくがわいえなり/一橋→徳川)から、徳川御三家の紀州徳川家の徳川御三卿の一橋家が将軍職を独占する事となった。
この征夷大将軍14代目候補者の確立で、さらにこの進化系派閥が江戸幕府の内部で対立する事となる。
先(ま)ず、一橋派は徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)が立候補し、後々の征夷大将軍15代目となる人物である。
常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩の9代目藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)の息子で、将軍職に就任させる為に一橋家に養子に入れ、当時は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の名前になる。
それを支援する一橋派サポーターは、越前国(福井県)の福井藩の16代目藩主の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)と家臣の橋本左内(はしもとさない/福井)、伊予国(愛媛県)の宇和島藩の8代目藩主の伊達宗城(だてむねなり/江戸)、土佐国(高知県)の土佐藩の15代目藩主の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の11代目藩主の島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)と、後々に“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれる家臣の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)こと西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)です。
PEBBLES /♪ TWO HEARTS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:34:53
◆◇◆其の百一:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
それと対立する南紀派は徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が立候補し、結果的に征夷大将軍14代目に就任する。
徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)の父親は、紀伊国(和歌山県)の和歌山藩(紀州藩)の11代目藩主で清水徳川家の徳川斉順(とくがわなりゆき/徳川)である。
それを支援する南紀派サポーターは、近江国(滋賀県)の彦根藩の16代目藩主で大老や老中に就く井伊直弼(いいなおすけ/江戸)と、江戸城の幕閣や大奥などです。
此処(ここ)で動いたのは一橋派サポーターの福井藩の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)と薩摩藩の島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)であった。
各々の家臣の橋本左内(はしもとさない/福井)と西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が、京都の朝廷に働き掛けて次期将軍を徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)に清き一票を投票してくれる様に調略する。
これに朝廷は応えて《次期将軍は徳川慶喜で決まりっ!》と記述された勅書(ちょくしょ)を、期日前投票で江戸幕府に送達した、がっ、その勅書(ちょくしょ)が行方知れずとなる。
さらに島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)は、養女の篤姫(あつひめ)こと天璋院(てんしょういん/薩摩→江戸)を江戸城の大奥に送り込み、徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)との婚約を結ぶ。
ただ、一橋派サポーターの積極的な選挙活動にも関わらず、結局、本丸の江戸城に陣取る南紀派サポーターが1歩も2歩も上手(うわて)で、老中の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)を大老に昇格させた。
大老とは将軍の代理権を有する絶対的な権力を掌握(しょうあく)し、一方の老中は複数人が就任して将軍からの請負や委任の権限しか有しない。
此(こ)れにより、征夷大将軍14代目の候補者は徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が確定した。
これを1858年に起こった「将軍継嗣問題」(しょうぐんけいしもんだい)と呼ぶ。
GABRIELLE /♪ GIVE ME A LITTLE MORE TIME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:35:46
◆◇◆其の百二:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
1858年〜1866年の8年間、江戸幕府は征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)の時代に入る。
この1858年と言うキーワードは、江戸幕府にとっても、日本にとっても、激動の年となった。
江戸幕府では老中首座だった堀田正睦(ほったまさよし/江戸)の実権を、大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が握る事になる。
これにより征夷大将軍14代目の候補者は徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が確定し、1858年に「将軍継嗣問題」(しょうぐんけいしもんだい)を解決する。
この問題の処理が終わったと同時に、征夷大将軍13代目の徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)が死去する。
そして、将軍候補者だった徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が征夷大将軍14代目に就任し、形式的に徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)の養子に入る。
この時期の海外に目を向けると、中国大陸の清(しん)がイギリス&フランスの連合軍と戦争を起こしていた。
戦争の発端は、アヘン運搬船のアロー号に掲げられたイギリス国旗を、清(しん)の港湾役人が降ろした事が原因と言われる。
当然だが結果は、最初から戦争やる気満々のイギリス&フランスの連合軍に対して、言い掛かりを付けられた清(しん)の大敗で終わる。
これを1856年〜1860年まで続いた「アロー戦争」と呼ぶ。
この戦争責任で巨額の賠償を被(こうむ)った清(しん)は、ヨーロッパ諸国の植民地化と国政の弱体化が顕著となる。
1858年には「南京条約」を締結し、1860年はロシアも介入した「北京条約」を締結するも、共に清(しん)にとっては不平等で不公正な国交条約内容となっていた。
これを教訓に清(しん)は、異国対策の軍隊ではなく、国内対応の警察に力を入れる様になる。
STEPHANIE MILLS /♪ SECRET LADY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:36:44
◆◇◆其の百三:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
この国外の情勢を意識してか、老中首座の堀田正睦(ほったまさよし/江戸)が奔走(ほんそう)した異国友好対策を、大老の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が引継ぎ、異国との友好路線を継続させる。
ただ、京都の朝廷の第121代天皇の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、“公武攘夷”(こうぶじょうい)の意向により異国排除を示している。
日本の朝廷が国内の治安平定のために注力したのである。
孝明天皇…『♪世間の噂を信じて〜 今日からは〜 異国と別れ傷ついて〜 旅に出かけて 来たの〜』
孝明天皇…『♪国民の心に鐘が鳴る〜 神の国に雨が降る〜 海の向こうのあの国は〜 今は帰らぬ遠い国〜』
孝明天皇…『♪弱味みせたくないの〜 今日からは〜 1度は離れた国交なんか〜 2度とはしたくない〜 このまま鎖国してしまいたい〜 神の国に包まれて〜』
孝明天皇…『♪国益に汚れた幕府は〜 明日から〜 神の国の片隅(かたすみ)に〜 政権を捨てるの〜 政権を捨ぅ〜てるのぉ〜』(♪京都の恋)
井伊直弼…『はぁ、コリャ、困ったなぁ。』
そんな訳で井伊直弼(いいなおすけ/江戸)は強行手段に出た。
朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)が承諾する勅許(ちょきょ)が無い状態で、異国との国交条約を締結する事にしたのである。
これを1858年に締結した「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)と呼ぶ。
さらにアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと締結した「安政五カ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく)も締結した。
これらが1858年に起こった主な出来事である。
NICK HEYWARD /♪ MY KIND OF WONDERFUL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:37:37
◆◇◆其の百四:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
1858年に数々の出来事が起こった江戸幕府で、強権を振う大老の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)は何とか乗り切った。
ただ、それを快(こころよ)く思わない人達も居る。
「将軍継嗣問題」(しょうぐんけいしもんだい)で辛酸(しんさん)を嘗(なめ)た一橋派サポーターである。
異国排除を唱えるリーダー格で常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩の9代目藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)と、その息子で将軍争いに敗北した一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)こと徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、異国友好政策の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)に対して猛反発する。
特に、朝廷の第121代天皇の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)が承諾する勅許(ちょきょ)すべき異国との国交条約の締結を、1858年に「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)と「安政五カ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく)を、勅許(ちょきょ)が無い状態で締結した“違勅調印”(いちょくちょういん)を問題視した。
一方、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩では11代目藩主の島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)が、重鎮家臣の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)こと西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)に命じて、京都の朝廷や孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の動向を調査させていた。
孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)が“公武攘夷”(こうぶじょうい)の意向により異国排除を示している事が分かると、京都の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)はクロネコヤマトのメール便を使い薩摩国(鹿児島県)の島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)に伝える。
このメール便を受け取った島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)は、江戸幕府を存続させる“公武攘夷”(こうぶじょうい)では無く、天皇を主体とした朝廷による政権運営の“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を決める。
早速、京都に上洛するため身支度(みじたく)を整えて、西鹿児島駅のホームでブルートレインの“はやぶさ”を待っている時に、急に体調が悪くなり死去してしまう。
当然に“尊王攘夷”(そんのうじょうい)どころでは無い。
京都への上洛は中止され、早急に薩摩藩の藩主後継者を決める必要が出てきた。
島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)には息子が居たが、薩摩藩の重鎮家臣などの判断で島津忠義(しまずただよし/薩摩)が12代目藩主に就任した。
島津忠義(しまずただよし/薩摩)とは、島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)の弟の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)の息子であり、藩主になるにあたり叔父さんの養子に入った。
因(ちな)みに、島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)と島津久光(しまずひさみつ/薩摩)の父親は10代目藩主の島津斉興(しまずなりおき/薩摩)で、征夷大将軍11代目の徳川家斉(とくがわいえなり/徳川)の義父となった8代目藩主の島津重豪(しまづしげひで/薩摩)の孫にあたり、強欲な側室が引き起こした“お由羅騒動”に巻き込まれた主君でもある。
SURVIVOR /♪ HIGH ON YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:38:40
◆◇◆其の百五:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
こうした朝廷、水戸藩、薩摩藩などの不穏な動きに対して、江戸幕府は何も手を打たない訳がない。
そこで、将軍の代理権を有する絶対的な権力を掌握(しょうあく)している大老の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)は、江戸幕府の征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)かつ幕閣の方針に反対する者は、謀反人(むほんにん)として“粛清”(しゅくせい)すると通達を出す。
最初に処罰されたのが一橋派サポーターである。
水戸藩の徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)と息子の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は謹慎処分を受ける。
福井藩の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)は隠居と謹慎処分を命じられ、家臣の橋本左内(はしもとさない/福井)は伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)で斬首された。
宇和島藩の伊達宗城(だてむねなり/江戸)と土佐藩の山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)は隠居の処分となった。
この時は薩摩藩の島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)は死去していた為、家臣の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が流刑の処分が出されたが、入水自害未遂など一言では言い表せない出来事があり、薩摩国(鹿児島県)と琉球国(沖縄県)の中間にある奄美大島(あまみおおしま)に潜伏して身を隠し、結果的にこれが島流しの処罰となる。
この頃、日本列島の最西端に位置する長門国(山口県)は、長州藩の13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)が領国統治していた。
その長門国(山口県)に鎮座する萩城の城下町で、長州藩の藩士だった吉田松陰(よしだしょういん/長州)が、1842年に私塾の松下村塾(しょうかそんじゅく)を開設した。
松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生には、高杉晋作(たかすぎしんさく/長州)、吉田松陰(よしだしょういん/長州)の妹が妻となった久坂玄瑞(くさかげんすい/長州)、“初代の内閣総理大臣”の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)、品川弥二郎(しながわやじろう/長州)など、長州藩の藩士で後々の“明治維新”の立役者の面々である。
後々に“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれる桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允(きどたかとし/長州)も吉田松陰(よしだしょういん/長州)の学友である。
この時期の吉田松陰(よしだしょういん/長州)の思想は、“欧米列強”(おうべいれっきょう)に屈しない為の異国排除の思想を持っており、“尊王攘夷”(そんのうじょうい)や“公武合体”(こうぶがったい)や“王政復古”(おうせいふっこ)のパワーワードをハッシュタグ(#)を付けて連呼していた。
また、同じ時期に京都の儒学者で詩人でもある頼三樹三郎(らいみきざぶろう/学者)も、“尊王攘夷”(そんのうじょうい)をツイート(ポスト/X)していた。
しかし、これが江戸幕府に知れる事となる。
江戸幕府の与力(よりき)や同心(どうしん)に拘束された吉田松陰(よしだしょういん/長州)と頼三樹三郎(らいみきざぶろう/学者)は、福井藩の橋本左内(はしもとさない/福井)らと共に伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)で斬首された。
この時に処罰された藩士や公家は100人以上と言われる。
これを1858年に起こった「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と呼ぶ。
MATTHEW SWEET /♪ WE'RE THE SAME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:39:31
◆◇◆其の百六:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
この江戸幕府で強権を振う大老の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)に対して各所から反発は強まり、特に主君などが処罰された常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩、長門国(山口県)の長州藩、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の藩士は憎悪(ぞうお)に変わっていた。
京都の朝廷も孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)をスルーした“違勅調印”(いちょくちょういん)を問題視した。
これにより孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩に対して直接に“尊王倒幕”(そんのうとうばく)の勅命(ちょくめい)を出した。
その内容は、勅(ちょく)とは天皇の命令で、その命令を取次せずに異国との国交条約を締結したのは朝廷に対しての謀反(むほん)とした旨だった。
これを1858年に勅命(ちょくめい)を出した「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)と呼ぶ。
本来の朝廷と江戸幕府の伝達経路は、朝廷の孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)から関白(かんぱく)に伝えて武家伝奏(ぶけてんそう)に行き、そこから江戸幕府の京都所司代(きょうとしょしだい)に連絡が入り江戸城の幕閣の大老や老中に伝わり、そこで情報を吟味(ぎんみ)して各藩に通達を出す。
このルートを全く無視した孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)の対応に驚いた江戸幕府の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)は、直様(すぐさま)にお詫びを入れて弁明する。
井伊直弼…『あの異国との国交条約はフェイク(偽物)で、強大な軍備を整えるまでの時間稼ぎです。』
孝明天皇…『苦しゅうなぁい。』
井伊直弼…『日本最強の軍備が整い次第、国交条約は反故(ほご)にして、即刻に反撃に出ます。』
孝明天皇…『良きに計(はか)らえ。』
これにより朝廷や孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)は、振り上げた拳(こぶし)を下ろして“尊王倒幕”(そんのうとうばく)を撤回した。
ただ、この井伊直弼(いいなおすけ/江戸)の弁明は当然にフェイク(偽物)である。
CHINA CRISIS /♪ WISHFUL THINKING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251219 - ラジオの友 URL
2025/12/19 (Fri) 09:40:22
◆◇◆其の百七:素人の当てにならない上陸した事の無い四国の歴史解説◆◇◆
●土佐国(高知県)
一方、井伊直弼(いいなおすけ/江戸)は常陸国(ひたち/茨城県)の水戸藩に対して、孝明天皇(こうめいてんのう/朝廷)が勅命(ちょくめい)した「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)を破棄する様に迫る。
この時に水戸藩の藩士も意見が二分するが、挙げた拳(こぶし)を下ろせない藩士は、水戸藩を脱藩して牢人(無職侍)となり、過激派の水戸倒幕部隊となった。
薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩でも、12代目藩主の島津忠義(しまずただよし/薩摩)と、父親で執権の島津久光(しまずひさみつ/薩摩)が知らない所で、過激派の藩士が“尊王倒幕”(そんのうとうばく)を伺っていた。
この頃、死去した11代目藩主の島津斉彬(しまづなりあきら/江戸)の重鎮家臣で最も頼れる九州男児の西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、流刑により奄美大島(あまみおおしま)に潜伏しているため、西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)の“竹馬の友”でもある大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)を12代目藩主の島津忠義(しまずただよし/薩摩)の重鎮家臣として迎えた。
大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)とは薩摩藩の藩士で、後々に“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれ、“初代の内閣総理大臣”の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)の前任者で“元祖の内閣総理大臣”と言われる人物である。
この薩摩藩の藩士による薩摩倒幕部隊の結成を知った島津忠義(しまずただよし/薩摩)と島津久光(しまずひさみつ/薩摩)は、“尊王倒幕”(そんのうとうばく)を中止する様に呼び掛ける。
大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)も藩士に不穏な動きがないか監視を強化する。
これにより水戸藩を脱藩して牢人(無職侍)となった過激派の水戸倒幕部隊だげが“尊王倒幕”(そんのうとうばく)を計画する事となる。
計画は井伊直弼(いいなおすけ/江戸)の“暗殺”のみ。
実行日と実施場所も決定して、その時を待つ。
安政7年3月3日のめでたい“桃の節句”の雛祭りに、江戸城では恒例の祭典が開催される。
江戸城の南側に隣接した彦根藩屋敷の井伊邸は桜田門と目の鼻の先。
必ず井伊直弼(いいなおすけ/江戸)の一行(いっこう)は桜田堀沿いを通るに違いない。
この時は各大名が江戸城に集結するため、沿道には大名行列を見物しようと多くの江戸町人が集まって来る。
その日は朝から大雪が降っていた。
それでも大老の井伊直弼(いいなおすけ/江戸)の大名行列とあり、沿道には見物するため大勢の江戸町人が並んでいる。
その群衆に紛(まぎ)れて潜んでいるのが水戸倒幕部隊だった。
そして、その時は来た!
井伊直弼(いいなおすけ/江戸)の大名行列に向かって駕籠訴(かごそ)を装った倒幕隊員が、油断している彦根藩の藩士を刀で斬り付ける。
倒幕隊員…『斬り捨て御免!』
バサッ
彦根藩士…『ギャ〜〜 やられたぁ〜〜』
大勢いる群衆は悲鳴をあげて逃げまとう。
次々に斬られ倒れていく彦根藩の藩士の奥に1つの駕籠(かご)が放置されている。
倒幕隊員は駕籠(かご)を鉄砲で何発も撃ち放し、槍で何度も突き刺す。
血塗れになり出てきた井伊直弼(いいなおすけ/江戸)に向かって、倒幕隊員は刀を振りかざす。
倒幕隊員…『♪灯(あかり)を着けましょぼんぼりに〜 お花をあげましょ桃の花〜 五人囃子(ごにんばやし)の笛太鼓〜 今日は楽しいひな祭り〜』(♪うれしいひなまつり)
バサッ
井伊直弼…『・・・』
ゴロン
この井伊直弼(いいなおすけ/江戸)を斬首したのは、唯一(ゆいつ)、1人だけ薩摩藩から参加した藩士だった。
これを1860年に起こった「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)と呼ぶ。
TAMIA /♪ MAKE TONIGHT BEAUTIFUL
◆ラジオの友◆