都市空間計画区域

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今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:06:42

◆◇◆其の一:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)する戦国時代。

武田信玄(たけだしんげん/武田)、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)、織田信長(おだのぶなが/織田)など、戦国の乱世で激闘を繰り広げ勝利して強靭な武力を示した戦国武将が後世に名を残している。

ただ、合戦に勝者が居れば、当然に敗者も居る。

一般的には余程(よほど)の有名な合戦でない限り、敗者に脚光が当たる事は無い。

しかしである。

地味な合戦も負け続ければ、それはそれで有名になっていく事例もある。

そんな敗者の有名人が常陸国(ひたち/茨城県)の戦国武将の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)である。

1531年に誕生した小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は常陸国(ひたち/茨城県)の小田城(おだじょう/筑波)を拠点に、周辺の武将と熾烈(しれつ)な争いを繰り広げていた。

ただ、この居城の小田城(おだじょう/筑波)は、敵陣に9回も落城して奪取(だっしゅ)されている。

しかし、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は8回も奪還(だっかん)している。

何故(なぜ)に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、ここまで小田城(おだじょう/筑波)にこだわるのか?

それを紐解くには鎌倉時代まで遡(さかのぼ)る必要がある。

NEIL DIAMOND /♪ THANK THE LORD FOR THE NIGHT TIME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:07:39

◆◇◆其の二:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

平氏の滅亡により、1185年に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、第77代天皇だった後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)から宣旨(せんじ)により詔勅(しょうちょく)を受けて、日本全国に守護地頭(しゅごじとう)を設けて、相模国(神奈川県)に鎌倉幕府を創設した。

守護(しゅご)とは領国を統治する警備拠点で、地頭(じとう)とは守護(しゅご)の維持費の租税を課す役所の事を言う。

この時に下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮の八田氏(はったうじ)で、源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の郎党(ろうとう)だった八田知家(はったともいえ/鎌倉)は、常陸国(ひたち/茨城県)の守護(しゅご)に任命された。

第77代天皇だった後白河法皇(ごしらかわほうおう/朝廷)の崩御(ほうぎょ)に併せて、京都の朝廷は1192年に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が征夷大将軍1代目と総追捕使(そうついぶし)に就任する。

征夷大将軍は幕府を開ける程の武力権力があり、総追捕使(そうついぶし)は土地の所有権の掌握や地域の治安警護の統括を支配できる。

その後の1199年に源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)が落馬により死去し、鎌倉幕府は執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)など“13人の合議制”で政権運営され、その1人に八田知家(はったともいえ/鎌倉)が選任され評定衆(ひょうじょうしゅう)として政所(まんどころ)や侍所(さむらいどころ)に関わる。

時が流れた室町時代で、1455年〜1483年に起こった「享徳の乱」(きょうとくのらん)や、1467年〜1477年に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)により室町幕府の内政は滅茶苦茶(めちゃくちゃ)になる。

そこで室町幕府は、戦火で崩壊した相模国(神奈川県)の鎌倉公方(かまくらくぼう)の代替に関東の拠点として、伊豆国(静岡県)の付け根に堀越公方(ほりごえくぼう)を設けて、征夷大将軍6代目の足利義教(あしかがよしのり/室町)の息子である足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)を就任させた。

実は、この足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)が小田政治(おだまさはる/小田)の父親と言う説がある。

これが事実なら、小田政治(おだまさはる/小田)の息子の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は足利将軍家の系統となる。

ただ、現実的には古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)の家臣だった小田成治(おだしげはる/室町→小田)、その息子が常陸国(ひたち/茨城県)の戦国武将である小田城(おだじょう/筑波)の城主の小田政治(おだまさはる/小田)、そして“戦国最弱の武将”や“弱い方のオダ”と呼ばれ“常陸の不死鳥”の異名を持つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)に続く。

合戦下手(へた)の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)をみれば、室町幕府を開設した征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)も合戦下手(へた)だった為、満更(まんざら)に足利将軍家の系統も信憑性(しんぴょうせい)は高い。

GRAND FUNK RAILROAD /♪ ROCK'N ROLL SOUL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:08:39

◆◇◆其の三:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

室町幕府が滅茶苦茶(めちゃくちゃ)になった1455年〜1483年に起こった「享徳の乱」(きょうとくのらん)の名残で関東圏では武力衝突が繰り広げられ、武蔵国(埼玉県)にて「日本三大奇襲戦」と呼ばれる1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)の一大決戦が、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の初陣(ういじん)になる。

因みに「日本三大奇襲戦」は全て室町時代(戦国時代)に起こっている。

1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)は、武蔵国(埼玉県)の川越城を主戦場とした、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)と古河公方(こがくぼう)の連合総計10万人の軍隊に対して、相模国(神奈川県)の戦国武将で伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる3万人の軍隊が交戦した。

1555年に起こった「厳島の戦」(いつくしまのたたかい)は、安芸国(あき/広島県)の平氏所縁(ゆかり)の厳島神社がある島を主戦場とした、周防国(すおう/山口県)の守護代の陶晴賢(すえはるたか/大内→ 陶)が率いる2万人の軍隊に対して、安芸国(広島県)の戦国武将の毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)が率いる3千人の軍隊が交戦した。

1560年に起こった「桶狭間の戦」は、尾張国(愛知県)の知多郡にある桶狭間山を主戦場とした、駿河国(静岡県)の戦国武将の今川義元(いまがわよしもと/今川)が率いる2万5千人の軍隊に対して、尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる2千人の軍隊が交戦した。

では、烏帽子(えぼし)を被ぶり元服(げんぷく)した青年の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が敵対した伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)とは、どんな人物なのか?

『勝って兜(かぶと)の緒(お)を締めよ!』

この名句を残したのが相模国(神奈川県)の小田原城を居城とする伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)である。

1500年前後に活躍した初代戦国武将と呼ばれる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の息子で、北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は元祖戦国武将と呼ばれる。

その息子が伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)で本家戦国武将と呼ばれる。

その息子で伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は宗家戦国武将と呼ばれる。

その息子で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は御家戦国武将と、歴史学者などからは呼ばれている。

要は戦国時代に、相模国(神奈川県)の小田原城を拠点に関東圏に勢力を拡大させていたのが伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)である。

小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の初陣(ういじん)を果たした1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)を理解するには、少し時間を遡及(そきゅう)する必要がある。

STARBUCK /♪ EVERYBODY BE DANCIN'

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:09:41

◆◇◆其の四:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

相模国(神奈川県)の小田原城を拠点とする伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が置かれている戦況は苦境に満ちていた。

先(ま)ず、相模国(神奈川県)の北側の甲斐国(山梨県)を拠点とする戦国武将の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と領国争いで敵対している。

武田信虎(たけだのぶとら/武田)とは、あの“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)の父親である。

次に相模国(神奈川県)の西側の駿河国(静岡県)には“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる戦国武将の今川義元(いまがわよしもと/今川)と領国争いで敵対している。

今川義元(いまがわよしもと/今川)の父親である今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)は、今川義忠(いまがわよしただ/斯波)と北川殿(きたがわどの/今川)の息子であり、北川殿(きたがわどの/今川)は北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の姉である。

と言う事は、今川氏と伊勢北条氏は親戚筋で友好関係にあったが、これを今川義元(いまがわよしもと/今川)が方向転換して甲斐国(山梨県)の武田氏と協力関係を築いていく。

更(さら)に相模国(神奈川県)の北東側の関東一帯は、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)および扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)と北条氏改名問題で敵対している。

尚(なお)も日本海側の越後国(新潟県)には、下克上(げこくじょう)にて越後上杉氏を壊滅させた驍猛(ぎょうもう)戦国武将の長尾為景(ながおためかげ/長尾)が暴れ回っている。

長尾為景(ながおためかげ/長尾)とは、あの“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の父親である。

四方八方に強敵だらけである。

もし、領国の相模国(神奈川県)を攻められたら、南側の太平洋の海に逃げるしかない。

ならば、殺(や)られる前に殺(や)る!

先手必勝、先に動いたのは相模国(神奈川県)の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が率いる軍隊だった。

駿河国(静岡県)を流れる富士川の東側まで侵攻し、抗戦する今川義元(いまがわよしもと/今川)の軍隊を討ち破り領国を拡大させる。

これを1537年に起こった第一次の「河東の乱」(かとうのらん)と呼ぶ。

駿河国(静岡県)の東部領地を取られた今川義元(いまがわよしもと/今川)は、甲斐国(山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)に援軍を要請する。

がっ、北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)の軍隊は攻めてきた両軍を壊滅させ、更(さら)に北東部に進軍させて扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の居城とする川越城を奪取(だっしゅ)する。

北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が川越城を占拠した時には、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の当主だった上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)が既に病死していた事も勝利の要因である。

これにより伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の小田原城を中心に、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)や駿河国(静岡県)東部の領国を手中に収める。

WET WILLIE /♪ KEEP ON SMILIN'

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:10:38

◆◇◆其の五:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

そんな時に伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)の元へ、下総国(しもうさ/茨城県)の古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)から『援軍要請』の緊急救援の連絡が入る。

下総国(しもうさ/千葉県)の千葉小弓を拠点とする小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)との長年の対立で、北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)への援軍要請の依頼である。

小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)とは、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)の息子かつ古河公方(こがくぼう)3代目の足利高基(あしかがたかもと/古河)の兄弟で、足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)からすれば叔父である。

古河公方(こがくぼう)2代目と3代目、小弓公方(おゆみくぼう)の3者は、全員が仲が悪く対立していた。

そんな室町幕府の将軍家系からの直々(じきじき)の要請である。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)にとっては大きな好機でもあり、二つ返事で相模国(神奈川県)の小田原城や武蔵国(東京都)の江戸城から軍隊を向かわせた。

江戸川を挟んで西側の武蔵国(東京都)の江戸城には伊勢北条軍が布陣し、東側の下総国(しもうさ/千葉県)の市川にある国府台城(こうのだいじょう)に小弓足利軍が布陣した。

伊勢北条軍は北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)と息子で伊勢北条氏3代目となる北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が大将となる。

一方、小弓足利軍は小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)が大将となり、援軍で地元の有力武将である里見義堯(さとみよしたか/小弓)が参戦していた。

戦(いくさ)が始まると、伊勢北条軍は江戸川を渡り小弓足利軍の本陣である国府台城(こうのだいじょう)に進撃する。

小弓足利軍の里見義堯(さとみよしたか/小弓)は、川の中で動きが鈍くなった伊勢北条軍を攻撃する様に足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)に進言するが、小弓公方(おゆみくぼう)はこれを拒否する。

伊勢北条軍が江戸川を渡り切ったところで総攻撃を仕掛け壊滅させると意気込む。

これを聞いて『小弓足利軍の負け戦(いくさ)だ。』と悟り、里見義堯(さとみよしたか/小弓)は自分の軍隊を退陣させる。

結果、小弓足利軍の国府台城(こうのだいじょう)は伊勢北条軍の猛攻撃に遭い、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)は討死する。

これを1538年に起こった「国府台合戦」(こうのだいかっせん)と呼ぶ。

1910 FRUITGUM COMPANY /♪ SPECIAL DELIVERY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:11:38

◆◇◆其の六:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

1538年に起こった「国府台合戦」(こうのだいかっせん)の勝利を大喜びした古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)は、代々に渡り上杉氏が引き継いできた関東管領(かんとうかんれい)を、何と伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)に与えてしまう。

1541年、北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が死去すると、息子で伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が家督を引き継いだ。

その同じ年、甲斐国(山梨県)でも事変が起こっていた。

戦国武将の武田信虎(たけだのぶとら/武田)が、娘を嫁(とつ)がせた今川義元(いまがわよしもと/今川)一家に会いに駿河国(静岡県)へ旅行に行っている時だった。

駿府御殿にて婿殿の今川義元(いまがわよしもと/今川)、愛娘(まなむすめ)の定恵院(じょうけいいん/武田→今川)、その孫の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)と家族水入らずで絆(きずな)を深め、武田信虎(たけだのぶとら/武田)はご満悦で甲斐国(山梨県)へ帰国の途(と)に就く。

筈(はず)だったが、何と息子の武田信玄(たけだしんげん/武田)や武田氏家臣の謀反(むほん)により甲斐国(山梨県)から追放されてしまう。

“家無し子”になった武田信虎(たけだのぶとら/武田)は、再び駿河国(静岡県)の駿府御殿に舞い戻り、ここで生涯を掛けて孫の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の子守りをする事となる。

家督を引き継いだ武田信玄(たけだしんげん/武田)は、その右腕となる弟の武田信繁(たけだのぶしげ/武田)と共に甲斐国(山梨県)の武田軍は戦略転換する。

これにより、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は対立から和睦へと進み「甲相同盟」(こうそうどうめい)を締結する。

ただ、この世代交代に虎視眈々と狙いを定めていたのが駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)である。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の領地に進軍を開始し、さらに先代からの同盟国でもある甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)に援軍要請する。

これには締結したばかりの「甲相同盟」(こうそうどうめい)があるため武田信玄(たけだしんげん/武田)も困り果てたが、結局、昔馴染みの今川義元(いまがわよしもと/今川)を選び、甲斐国(山梨県)から出陣した武田軍は駿河国(静岡県)の今川軍に合流して伊勢北条軍を攻撃する。

戦(いくさ)上手の今川義元(いまがわよしもと/今川)は、この上にまだ策略を講じており、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)に関東北部から伊勢北条軍を攻撃する様に援軍要請していた。

これには北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は2軍に分かれるため戦況不利となり、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)に両軍共に和睦交渉を依頼する。

武田信玄(たけだしんげん/武田)はこれを了承して、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)、北関東の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)かつ扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の和睦に成功させた。

これにより今川義元(いまがわよしもと/今川)は、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)から以前に侵略された富士川の東部を奪還(だっかん)する。

これを1546年に起こった第二次の「河東の乱」(かとうのらん)と呼ぶ。

ただ、話しはここで終わらなかった・・・

1910 FRUITGUM COMPANY /♪ INDIAN GIVER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:12:37

◆◇◆其の七:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が領国の奪還(だっかん)をするなら、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)も同じ様に考える。

上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)とは、上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)の息子で代々に続く扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の関東管領(かんとうかんれい)を引き継いでいた。

武蔵国(埼玉県)にある川越城は、元は扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の居城で、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)に奪取(だっしゅ)されていた。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)だった太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)が築城した名門城と言われる川越城を、どうしても奪還(だっかん)したい。

そう考えた上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)は、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)と、下総国(しもうさ/茨城県)の古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)に援軍要請をして了解を得る。

こうして出来上がった上杉足利軍の総計10万人の軍隊に対して、相模国(神奈川県)の伊勢北条軍は3万人の軍隊と、圧倒的な兵力差がある。

武蔵国(埼玉県)の川越城には城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)と軍隊3千人が籠城し、それを上杉足利軍8万人が包囲している。

北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)とは、北条為昌(ほうじょうためまさ/伊勢北条)の養子で、川越城を拠点に武蔵国(埼玉県)を統治していた。

そこに援軍として駆け付けた北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる軍隊8千人が到着するも、『アリンコ1匹も入れないくらい』の上杉足利軍の兵士がウジャウジャ居る。

北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、先(ま)ず小数兵で上杉足利軍に対して攻撃を仕掛け、相手が反撃に出たら直(す)ぐに敗走させる戦法を取る。

これにより、上杉足利軍に対して伊勢北条軍は軟弱であると油断させる。

更に、父親で関東管領(かんとうかんれい)となった伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)と、古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)との友好関係を持ち出し和睦交渉する。

これは北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の真義の和睦ではなく、足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)が『北条氏康が泣き付いてきた』と思わせる為の調略である。

最後の一手は、油断している上杉足利軍に対して、寝ぼけ半分で戦意喪失している夜間に攻撃を仕掛ける夜襲である。

この夜襲作戦を、どうしても川越城の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)に伝えなければならない。

そこで北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)の弟で、「関東で一番の美少年」と呼ばれる北条綱房(ほうじょうつなふさ/伊勢北条)が女装をして、上杉足利軍の兵士の目を欺(あざむ)き川越城に潜入する事を試(こころ)みる。

この北条綱房(ほうじょうつなふさ/伊勢北条)の女装が的中し、潜入した川越城の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)に夜襲を仕掛ける事を伝える。

北条綱房…『兄者(あにじゃ)、氏康殿の軍隊は上杉足利軍に対して、今般の夜間に攻撃を仕掛けますぞっ!』

北条綱成…『分かり申した。 弟よ御苦労であった。』

北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の伊勢北条軍は、夜間になると上杉足利軍の本陣に目掛けて一気に攻め込み、総大将で扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)を討ち取る。

これにより上杉足利軍8万人は総崩れとなり、蜘蛛の子散らす様に四方八方に敗走した。

これを「日本三大奇襲戦」の1つで1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)と呼ぶ。

その後、北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)を捕縛(ほばく)して幽閉する。

これにより室町幕府の出先機関である鎌倉府や、鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ古河公方(こがくぼう)の200年余りの歴史に幕を閉じる。

1910 FRUITGUM COMPANY /♪ THE MIGHTY QUINN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:13:30

◆◇◆其の八:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

そんな伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の戦術と調略により小が大を呑み込み勝利した「河越夜戦」(かわごえやせん)だった。

この一大決戦に、常陸国(ひたち/茨城県)の小田城(おだじょう/筑波)を拠点とする父親の小田政治(おだまさはる/小田)と初陣(ういじん)の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、上杉足利軍8万人の一員として参戦して夜襲により敗走した。

その2年後の1548年に父親の小田政治(おだまさはる/小田)が死去し、嫡男(ちゃくなん)の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が家督を継承して常陸国(ひたち/茨城県)の小田城(おだじょう/筑波)の城主に就いた。

「河越夜戦」(かわごえやせん)の勝利により伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は、武蔵国(東京都)の隅田川と荒川を越えて、下総国(しもうさ/千葉県)の江戸川まで侵攻して、常陸国(ひたち/茨城県)の手前の利根川辺りまで勢力を拡大させた。

関東一帯で圧倒的な軍事力を有(ゆう)した伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)だが、ここで地盤固めに動く。

駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の呼び掛けにより、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)も交えて和睦交渉が持ち上がる。

今川義元(いまがわよしもと/今川)の家臣で僧侶でもある太原雪斎(たいげんせっさい/今川)の用意周到な段取により、駿河国(静岡県)の富士山麓にある善徳寺(ぜんとくじ/富士)で三国会談が開催され、此処(ここ)にて甲斐国(山梨県)と相模国(神奈川県)と駿河国(静岡県)は同盟する事に承諾した。

これを1554年に締結された「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)と呼ぶ。

この同盟の証(あかし)として、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)の息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)に、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の娘の嶺松院(れいしょういん/今川→武田)が嫁ぐ。

その今川義元(いまがわよしもと/今川)の息子の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)には、相模国(神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の娘の早川殿(はやかわどの/伊勢北条→今川)が嫁ぐ。

最後に北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の息子で後々に伊勢北条氏4代目となる北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)には、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)が嫁いだ。

この「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)で、お互いが背中合せとなり鉄壁の要塞が構築される。

甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、北側の信濃国(長野県)へ侵攻を開始する。

相模国(神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、東側の関東一帯の平定に注力する。

駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)は、三河国(愛知県)の松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/徳川)を従えて西側の京都への上洛を試みる。

KESTREL /♪ THE ACROBAT

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:14:27

◆◇◆其の九:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

1555年に下総国(しもうさ/千葉県)と常陸国(ひたち/茨城県)を拠点にしていた結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)が、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍に臣従(しんじゅう)した。

結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)とは、藤原氏北家(ほっけ)の小山氏(おやまうじ)の系統で、父親は下総国(しもうさ/千葉県)の守護大名に就いていた結城政朝(ゆうきまさとも/室町)、先代には征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)に仕え常陸国(ひたち/茨城県)の西部を統治する新治国造(にいはりのくにのみやつこ)の結城直朝(ゆうきなおとも/室町)が居る。

後々にはなるが、嫡男(ちゃくなん)の居なかった結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)は、小山氏(おやまうじ)から結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)を養子に入れる。

更に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と築山殿(つきやまどの/今川→徳川)の侍女(じじょ)の子供で落胤(らくいん)により認知されず、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に養子に出され、その後も豊臣鶴松(とよとみつるまつ/豊臣)が誕生した事で結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)の養子に入り、江戸幕府では越前国(福井県)の北ノ庄藩(福井)の藩主に就任して越前松平氏の祖となり徳川家に戻って来た結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)が、結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)に取って義理孫にあたる。

そんな結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)は伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の後ろ盾を得て、1556年に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が統治する常陸国(ひたち/茨城県)に進軍を開始した。

先(ま)ずは小田軍の出先砦の海老ヶ島城(えびがしまじょう/筑西)を侵攻した。

迎え討つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて、海老ヶ島城(えびがしまじょう/筑西)の救済に向かった。

ところが結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)が率いる結城軍の猛攻撃に遭い、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は敗北し、海老ヶ島城(えびがしまじょう/筑西)は落城して奪取(だっしゅ)された。

更に本拠地の小田城(おだじょう/筑波)も、留守にしていた隙を突かれ奪取(だっしゅ)された。

本拠地の小田城(おだじょう/筑波)に帰還できなくなった小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)と重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)らの小田軍は、霞ヶ浦(かすみがうら)の西部畔に建つ土浦城(つちうらじょう)に敗走した。

これを1556年に起こった「海老ヶ島の戦」(えびがしまのたたかい)と呼ぶ。

これが第1弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、小田城(おだじょう/筑波)を結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)が率いる結城軍から奪還(だっかん)している。

THE DOORS /♪ LOVE ME TWO TIMES

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:15:26

◆◇◆其の十:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

ようやく本拠地の小田城(おだじょう/筑波)を奪還(だっかん)した矢先の1557年に、今度は常陸国(ひたち/茨城県)の北部を拠点とする太田城(おおたじょう/常陸)の城主の佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が小田軍の領地へ進軍を開始した。

佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)の父親の佐竹義篤(さたけよしあつ/佐竹)は、陸奥国(むつ/福島県)の伊達氏(だてうじ)の親子内紛となった1542年の「天文の乱」(てんぶんのらん)の際に、息子の伊達晴宗(だてはるむね/伊達)に味方し、父親の伊達稙宗(だてたねむね/室町)へ侵攻して敗走させた。

因みに勝利した伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の孫が“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)である。

佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)の息子が佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)で、その息子が江戸幕府では出羽国(でわ/秋田県)の久保田藩(秋田藩)の藩主に就任し右京大夫(うきょうのだいぶ)に任命された佐竹義宣(さたけよしのぶ/豊臣→徳川)である。

先(ま)ず佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が率いる佐竹軍は、出先砦の海老ヶ島城(えびがしまじょう/筑西)を侵攻した。

迎え討つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて、海老ヶ島城(えびがしまじょう/筑西)の救済に向かった。

ところが佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が率いる佐竹軍の猛攻撃に遭い、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は敗北し、海老ヶ島城(えびがしまじょう/筑西)は落城して奪取(だっしゅ)された。

更に本拠地の小田城(おだじょう/筑波)も、留守にしていた隙を突かれ奪取(だっしゅ)された。

本拠地の小田城(おだじょう/筑波)に帰還できなくなった小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)と重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)らの小田軍は、霞ヶ浦(かすみがうら)の西部畔に建つ土浦城(つちうらじょう)に敗走した。

これを1557年に起こった「黒子の戦」(くろごのたたかい)と呼ぶ。

これが第2弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、小田城(おだじょう/筑波)を佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が率いる佐竹軍から奪還(だっかん)している。

しかし、1558年に再度の進軍を開始した佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が率いる佐竹軍は、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の本拠地でもある小田城(おだじょう/筑波)に侵攻した。

迎え討つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて攻防したが、佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が率いる佐竹軍の猛攻撃に遭い、小田城(おだじょう/筑波)は落城して奪取(だっしゅ)された。

これが第3弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、小田城(おだじょう/筑波)を佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が率いる佐竹軍から奪還(だっかん)している。

THE KINKS /♪ DEAD END STREET

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:16:29

◆◇◆其の十一:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

何故に小田城(おだじょう/筑波)は直ぐに落城するのか?

これには築城の立地に違いがある。

合戦が頻発する戦国時代の築城は、防御や護衛に重点を置いた山頂に築く山城(やまじろ)か、小高い丘陵(きゅうりょう)に築く平山城(ひらやまじろ)が一般的だった。

それより以前の合戦が少ない平安時代や鎌倉時代は、地域の領民に誇示する様に目立つ平地に築く平城(ひらじろ)が主流となっていた。

鎌倉時代初期に創建された小田城(おだじょう/筑波)は、この平城(ひらじろ)だった。

そんな名門の小田城(おだじょう/筑波)を、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は誇りに思い大切に扱った。

その想いは小田軍の家臣と、小田城(おだじょう/筑波)の周辺に住む領民も同じだった。

この時期の1559年に、下総国(しもうさ/千葉県)と常陸国(ひたち/茨城県)を拠点にしていた結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)が死去した。

嫡男(ちゃくなん)の居なかった結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)は、小山氏(おやまうじ)から結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)を養子に入れる。

それでも結城氏の家内は、家臣による派閥などの対立があり内紛していた。

これを好機と捉えた小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)らと共に小田軍を率いて、当主に就任したばかりの結城政勝(ゆうきまさかつ/結城)の領域に侵攻した。

ところが、この時に結城軍は佐竹軍へ援軍要請しており、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)の家臣で“鬼真壁”(おにまかべ)と呼ばれる真壁氏幹(まかべうじもと/佐竹)が率いる佐竹軍が結城軍へ加勢した。

驍猛(ぎょうもう)武将で名高い真壁氏幹(まかべうじもと/佐竹)は、2mの樫木棒(かしもくぼう)を振り回して小田軍の武士を叩きのめした。

その勢いで真壁氏幹(まかべうじもと/佐竹)が率いる佐竹軍は、小田軍の領域まで猛追し小田城(おだじょう/筑波)は落城して奪取(だっしゅ)された。

これが第4弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、小田城(おだじょう/筑波)を佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)が率いる佐竹軍から奪還(だっかん)している。

同時期の1559年に、常陸国(ひたち/茨城県)の府中城(ふちゅうじょう/石岡)の城主で、父親が死去し大掾氏(だいじょううじ)の家督を引き継いだばかりの大掾貞国(だいじょうさだくに/大掾→佐竹)は、家臣や領民の反発や佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)の調略により混乱していた。

これを好機と捉えた小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、混乱の隙を突いて大掾貞国(だいじょうさだくに/大掾→佐竹)の領域に侵攻する計画を企てる。

その為に近隣の武将に召集を掛けたが、誰1人として参加する武将は居なかった。

“戦国最弱の武将”と呼ばれていた小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)にしてみれば、当然と言えば当然である。

それでも小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて、大掾貞国(だいじょうさだくに/大掾→佐竹)の領域に侵攻したが、返り討ちに遭い敗北した。

しかも、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の砦(とりで)を奪取(だっしゅ)され、領域の一部を割譲(かつじょう)させられた。

因みに大掾貞国(だいじょうさだくに/大掾→佐竹)の息子の大掾清幹(だいじょうきよもと/佐竹→大掾)は豊臣政権に反発した上に、1590年に佐竹軍の侵攻に遭い自害して大掾氏(だいじょううじ)は滅亡する。

TONY KOSINEC /♪ I CAN'T SING

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:17:24

◆◇◆其の十二:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

この時期に関東圏に影響力を拡大させていたのが、越後国(新潟県)の戦国武将の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)である。

1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)の後、北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の伊勢北条軍は攻撃の手を緩めず、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)の軍隊を追撃していた。

1558年、北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の伊勢北条軍の猛追に対して、上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)の軍隊は堪(こら)えきれず越後上杉氏の地縁を頼る。

上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)は越後国(新潟県)まで逃亡し、その地の守護大名かつ戦国武将である長尾景虎(ながおかげとら/長尾)に救援要請をする。

長尾景虎(ながおかげとら/長尾)とは、そう、“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の事である。

元々はお寺の僧侶だった長尾景虎(ながおかげとら/長尾)は、救いの民から『頼まれたら断れない』慈悲深(じひぶか)い性格の持ち主で、更(さら)に、驍猛(ぎょうもう)戦国武将と呼ばれた長尾為景(ながおためかげ/長尾)からの父親譲りの戦闘能力も兼ね備えている。

長尾景虎(ながおかげとら/長尾)は“天下無敵の僧兵”と呼ばれ、自分自身も北方を守護する毘沙門天(びしゃもんてん)の化身として信じて疑わなかった。

ただ、これは迷信染みた話しではなく、長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の勇猛果敢(ゆうもうかかん)な功績を見ればご納得である。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の関東管領(かんとうかんれい)でもある上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)の高貴な官職に忖度(そんたく)して救援したのではなく、長尾景虎(ながおかげとら/長尾)は、ただ純粋に“救いを求める1人の民”として手を差し伸べた。

越後国(新潟県)で軍備を整えた長尾景虎(ながおかげとら/長尾)は上杉長尾軍を率いて、南下しながら弾丸侵攻を開始する。

その勢いに圧倒される伊勢北条軍の関東武士団は、神々(こうごう)しい長尾景虎(ながおかげとら/長尾)を崇拝する様に次々と寝返っていく。

正(まさ)に毘沙門天(びしゃもんてん)、関東に降臨(こうりん)である。

この上杉長尾軍に参戦したのは武士だけではなかった。

京都の朝廷から関白の要職に就いていた近衛前久(このえさきひさ/公家)も参戦していた。

近衛前久(このえさきひさ/公家)とは、飛鳥時代から天皇に仕える公家の藤原氏の子孫である。

奈良時代に藤原四子(ふじわらしし)と言われた、藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ/公家)の系統が南家(なんけ)、藤原麻呂(ふじわらまろ/公家)の系統が京家(きょうけ)、藤原房前(ふじわらふささき/公家)の系統が北家(ほっけ)、藤原宇合(ふじわらうまかい/公家)の系統が式家(しきけ)となった。

その藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)が分裂して五摂家(ごせっけ)となり、近衛家(このえけ)、一条家、九条家、鷹司家(たかつかさけ)、二条家が誕生した。

その家系の中でも、最も位(くらい)の高い近衛家(このえけ)の出身でもある関白の近衛前久(このえさきひさ/公家)である。

RASPBERRIES /♪ NOBODY KNOWS

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:18:27

◆◇◆其の十三:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

毘沙門天(びしゃもんてん)と“錦の御旗”(にしきのみはた)を手にした天下無敵の上杉長尾軍である。

あっという間に北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が篭城する相模国(神奈川県)の小田原城を包囲する。

城下町にも火を放ち、上杉長尾軍は小田原城の周囲に布陣する。

ここで秘策に出る。

日本海側の越後国(新潟県)に居る長尾景虎(ながおかげとら/長尾)は、なかなか太平洋側の相模国(神奈川県)などに来る事はない。

そこで観光気分と相まって、小田原城がよく眺める事のできる原っぱで、お弁当とお茶を持参して昼食を取る事にした。

長尾景虎…『う〜〜ん、お城を眺めながらお弁当を食べるのは格別じゃ、憲政殿も一緒にどうじゃ? このお弁当はとても美味しいぞぉ。』

上杉憲政…『いやっ、私は結構でござる。』(敵方から丸見えだぞ、長尾景虎殿は、どんな神経を持っておるのじゃ?)

長尾景虎…『そうかぁ、残念じゃのう。 ムシャムシャ』

一方、小田原城の物見櫓(ものみやぐら)では・・・

北条氏康…『おい、あいつ、あそこで何をしておる。』

伊勢北条兵士…『はぁ、何やらお弁当を広げてお昼ご飯を食べている様子でございます。』

北条氏康…『なにぃ〜 お昼ご飯!? 舐(な)めた奴じゃ!』

伊勢北条兵士…『しかも、上杉長尾軍の総大将の長尾景虎殿の様です。』

北条氏康…『なんだとぉ〜!? 撃て、撃て、鉄砲でも、弓矢でも、撃ちまくるのじゃ!!』

伊勢北条兵士…『御意(ぎょい)。』

バンバン バンバン

ギュ〜〜 シュー ギュ〜〜 シュー

長尾景虎…『あぁ〜〜美味しかった、ご馳走様です。 では、お腹いっぱいになったから越後に帰るか。』

長尾景虎…『おい、越後に引き上げるぞ。』

上杉長尾兵士…『御意(ぎょい)、全軍撤退!!』

再び、小田原城の物見櫓(ものみやぐら)では・・・

北条氏康…『おい、鉄砲も、弓矢も、1つも当たらなかったぞぉ。』

伊勢北条兵士…『しかも、上杉長尾軍が撤退していきます。』

北条氏康…『恐るべし長尾景虎、一番に敵に回したくない人物じゃ。』

これを1560年に起こった「小田原城の戦」(おだわらじょうのたたかい)と呼ぶ。

翌年の1561年に、長尾景虎(ながおかげとら/長尾)は再び相模国(神奈川県)に来て、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)との養子縁組を果たして上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と改名し、関東管領(かんとうかんれい)の要職も引き継ぐ。

RASPBERRIES /♪ COME AROUND AND SEE ME

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2025/10/16 (Thu) 00:19:29

◆◇◆其の十四:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

関東管領(かんとうかんれい)に就任した上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、紛争が多発する北関東の鎮静化に着手する。

先(ま)ずは常陸国(ひたち/茨城県)の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)に対して、佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)や結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)との和睦を仲裁した。

上杉謙信…『君は弱い方のオダなんだから、どうせ勝てない無駄な戦(いくさ)はせずに、大人しくしている事!』

小田氏治…『はい・・・』

この上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の皮肉(ひにく)は、「日本三大奇襲戦」の1つでもある1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、小軍勢だった尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)が、大軍勢だった駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)を討ち取り、地元では“大うつけ”(大バカ者)と呼ばれ無名だった織田信長(おだのぶなが/織田)の名を日本中に轟(とどろ)かせた後だけあって心に響いてくる。

そんな1562年に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、戦国一番に怒らせてはならない上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を激昂(げきこう)させた。

何と常陸国(ひたち/茨城県)の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、相模国(神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と軍事協定を締結したのである。

この時期の相模国(神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は“関東平定”を目標としており、同じく“関東攻略”を目指す越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と敵対関係にあった。

単純に常陸国(ひたち/茨城県)の防衛には北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の軍事力が必要不可欠と考えた小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)である。

そこで甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と相模国(神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が1554年に締結した「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に見習って、思いついた軍略が安定の三角関係である。

越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と相模国(神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と常陸国(ひたち/茨城県)の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)による「越相常三国同盟」(えつそうじょうさんごくどうめい)にするつもりだった。

ところが、ここには大きな見誤りがあった。

武将としての格(威厳や実力)の違いである。

“戦国最弱の武将”の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)を、同格に診る戦国武将など皆無である。

こうして激怒した越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は、1564年に佐竹義昭(さたけよしあき/佐竹)の後継者で息子の佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍の協力を得て、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の本拠地でもある小田城(おだじょう/筑波)に侵攻した。

迎え討つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて攻防したが、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍と佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍の猛攻撃に遭い、小田城(おだじょう/筑波)は落城して奪取(だっしゅ)された。

これが第4弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、小田城(おだじょう/筑波)を上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍と佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍から奪還(だっかん)している。

THE CITY /♪ PARADISE ALLEY

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:20:44

◆◇◆其の十五:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

1565年に再び佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍は、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の本拠地でもある小田城(おだじょう/筑波)に侵攻した。

迎え討つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて攻防したが、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍の猛攻撃に遭い、小田城(おだじょう/筑波)は落城して奪取(だっしゅ)された。

これが第5弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、小田城(おだじょう/筑波)を佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍から奪還(だっかん)している。

1566年に越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に侵攻命令を受けた佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍は、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の本拠地でもある小田城(おだじょう/筑波)に侵攻した。

迎え討つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて攻防したが、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍の猛攻撃に遭い、小田城(おだじょう/筑波)は落城して奪取(だっしゅ)された。

これが第6弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に対して降伏する書状を送達し、小田城(おだじょう/筑波)を返還(へんかん)された。

1569年に再び佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍は、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の本拠地でもある小田城(おだじょう/筑波)に侵攻した。

迎え討つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて攻防したが、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍の猛攻撃に遭い、小田城(おだじょう/筑波)は落城して奪取(だっしゅ)された。

これが第7弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、小田城(おだじょう/筑波)を佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍から奪還(だっかん)している。

ALZO AND UDINE /♪ RAIN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:21:42

◆◇◆其の十六:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

鎌倉時代初期に創建され、これだけ防御力が脆弱な平城(ひらじろ)の小田城(おだじょう/筑波)に対して、執拗(しつよう)に拘(こだわ)る小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が、何度も奪還(だっかん)できる要因は、常陸国(ひたち/茨城県)の小田軍の武士と領民の尽忠報国(じんちゅうほうこく)と堅忍持久(けんにんじきゅう)に尽きる。

“戦国最弱の武将”の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)とは言え、先代は下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮の八田氏(はったうじ)の八田知家(はったともいえ/鎌倉)で、源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の郎党(ろうとう)として貢献し、鎌倉幕府では“13人の合議制”の評定衆(ひょうじょうしゅう)に選任された名門家である。

そんな小田氏に仕える尊厳が、小田軍の武士と領民には根付いている。

他国の武将に小田城(おだじょう/筑波)を奪取(だっしゅ)された期間は、領民は農作業を放棄して年貢も納めず抵抗した。

その上に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が退避している居城に、領民は年貢を運搬していたと言う。

“弱い方のオダ”と言われた小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、“武力”ではなく“人力”で勝利していた。

そんな人望の厚い小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、1572年の大晦日(おおみそか)に小田城(おだじょう/筑波)にて、家臣の武士に日頃の奮闘を労(ねぎら)う思いで大宴会を開催していた。

小田城(おだじょう/筑波)に在籍している武士は、みんな酒漬けになり泥酔して千鳥足(ちどりあし)である。

しかし、この年末の恒例となる小田軍の大宴会は、周辺の大名や武将にも知れ渡っている。

敵陣は、この油断した小田軍の隙を突いて夜襲を仕掛けた。

佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)に従属(じゅうぞく)した太田資正(おおたすけまさ/上杉→佐竹)が率いる佐竹軍は、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の本拠地でもある小田城(おだじょう/筑波)に侵攻した。

太田資正(おおたすけまさ/上杉→佐竹)とは、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の系統の太田道灌(おおたどうかん/扇谷)の家系で、武蔵国(埼玉県)の岩槻城(いわつきじょう/さいたま)と常陸国(ひたち/茨城県)の片野城(かたのじょう/石岡)の城主である。

迎え討つ酩酊(めいてい)状態の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣で泥酔した平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に千鳥足(ちどりあし)の小田軍を率いて攻防したが、太田資正(おおたすけまさ/上杉→佐竹)が率いる佐竹軍の猛攻撃に遭い、小田城(おだじょう/筑波)は落城して奪取(だっしゅ)された。

これが第8弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

ただ、数ヶ月後に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、小田城(おだじょう/筑波)を佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍から奪還(だっかん)している。

ALZO /♪ DON'T ASK ME WHY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:22:36

◆◇◆其の十七:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

1573年(1569年とも)に再び佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍は、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の本拠地でもある小田城(おだじょう/筑波)に侵攻した。

この時の佐竹軍には“鬼真壁”(おにまかべ)と呼ばれる真壁氏幹(まかべうじもと/佐竹)や太田資正(おおたすけまさ/上杉→佐竹)などの猛将が参戦していた。

迎え討つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、小田軍の軍師でもある天羽源鉄斎(あまはげんてつさい)こと天羽源鉄(あまはげんてつ/小田)による助言を受けていた。

天羽源鉄…『この合戦に勝利するには、篭城(ろうじょう)して攻防戦に徹する事!』

小田氏治…『うむ、よし! 出陣じゃ〜!!』

天羽源鉄…『えっ?!』

勢いよく小田城(おだじょう/筑波)を出陣した小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて攻防したが、佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍の猛攻撃に遭い、小田城(おだじょう/筑波)は落城して奪取(だっしゅ)された。

これが第9弾の小田城(おだじょう/筑波)の落城である。

こうして敗北した小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)が率いる小田軍は、二度と小田城(おだじょう/筑波)に戻る事は無かった。

小田城(おだじょう/筑波)は佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)の論功行賞により、数々の武功を挙げた太田資正(おおたすけまさ/上杉→佐竹)が城主となった。

これを1573年(1569年とも)に起こった「手這坂の戦」(てばいざかのたたかい)と呼ぶ。

BLOOD,SWEAT & TEARS /♪ THE MODERN ADVENTURES OF PLATO,DIOGENES,AND FREUD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251016 - ラジオの友 URL

2025/10/16 (Thu) 00:23:33

◆◇◆其の十八:戦国最弱の武将や弱い方のオダと呼ばれた常陸の不死鳥の小田氏治◆◇◆

霞ヶ浦(かすみがうら)の西部に建つ土浦城(つちうらじょう)を居城とした小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、小田城(おだじょう/筑波)の奪還(だっかん)を目指して攻略を続けた。

しかし、北関東の熾烈な合戦が繰り広げられる間に、戦国時代は武田信玄(たけだしんげん/武田)や上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)や織田信長(おだのぶなが/織田)などの死去に伴い終焉(しゅうえん)を迎えていた。

そして織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が豊臣政権を樹立し、1587年に関東と奥羽(おうう)の大名や武将に対して合戦を禁止する“惣無事令”(そうぶじれい)を発布する。

1588年に小田軍の軍師だった天羽源鉄斎(あまはげんてつさい)こと天羽源鉄(あまはげんてつ/小田)が死去し、小田城(おだじょう/筑波)の奪還(だっかん)はより困難となる。

この豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が試みる天下統一の空気を読めなかった常陸国(ひたち/茨城県)の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、重鎮家臣の平塚長信(ひらつかながのぶ/小田)と共に小田軍を率いて小田城(おだじょう/筑波)を奪還(だっかん)する為に、城主の佐竹義重(さたけよししげ/佐竹)が率いる佐竹軍に攻撃を仕掛けたが、逆に返り討ちに遭い敗北する。

しかも、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)にて豊臣政権を担う豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の耳にも、常陸国(ひたち/茨城県)の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)による騒乱の情報が伝達され、1590年に小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は“惣無事令”(そうぶじれい)に違反したとして、常陸国(ひたち/茨城県)の領土全部を領地没収の改易(かいえき)となった。

その翌年の1591年に、名門家でもある小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は、“豊臣五奉行”の浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)の尽力より豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から罪を放免(ほうめん)された。

この時期に、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)の娘が結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)の側室に嫁いでいる。

結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)とは、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と築山殿(つきやまどの/今川→徳川)の侍女(じじょ)の子供で、実質は次男だが認知されず落胤(らくいん)となる。

そして、先(ま)ずは嫡男(ちゃくなん)の居なかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)へ養子に出されるが、淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)の最初の息子となる豊臣鶴松(とよとみつるまつ/豊臣)が誕生した事で、再び常陸国(ひたち/茨城県)の結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)へ養子に出される。

事情はどうあれ徳川氏と豊臣氏に太い人脈を築く結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)が婿殿(むこどの)になった事は、“戦国最弱の武将”や“弱い方のオダ”と言われた小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)にとり心強い。

その後、1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去し、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が勝利した。

そして婿殿(むこどの)の結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)は、越前国(福井県)の北ノ庄藩(福井)の藩主に就任し、越前松平氏の祖となった。

この時に義父の小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)も、越前国(福井県)に移住して余生を過ごした。

それから直ぐの1602年に、小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)は名門武将としての幕を降ろした。

戦国時代の合戦では負け戦が続き、常陸国(ひたち/茨城県)の本拠地でもある小田城(おだじょう/筑波)を9度も奪取(だっしゅ)されたが、それでも小田軍の武士と領民の一致団結による8度の奪還(だっかん)を成し得ている。

“戦国最弱の武将”や“弱い方のオダ”と言われた小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)だが、“武力”は劣っていても“人力”は誰にも敗けなかった“常陸の不死鳥”の名に相応(ふさわ)しい功績である。

THE BAND /♪ I SHALL BE RELEASED

◆ラジオの友◆

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