都市空間計画区域

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今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:00:11

◆◇◆其の一:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

大阪ミナミの繁華街でもある道頓堀で、家庭にも学校にも居場所がない10代女子が、女衒(ぜげん)や奴隷商人による人身売買で娼館(しょうかん)に売り飛ばされ遊女として肉体労働している。

ほとんどが精神的に未熟な10代女子が『有名アイドルになれるよ!』などと女衒(ぜげん)の甘い言葉に騙されて、実際は日本橋(にっぽんばし)のラブホテルで風俗客と密会して性行為する娼婦にされているのが実情だ。

“いしん”を掛けた大阪府の自治体も、性風俗に対して地域の活性化の為に寛大な姿勢を見せている。

ただ、この様な事例は大都会の大阪だけに留まらず、大都市である東京の歌舞伎町でも同様の事例は行われている。

首都の東京だけあって、“いしん”を掛けて国策を遂行する国会議員でさえ、新宿の歌舞伎町で未成年の10代女子を議員バッチと札束を見せ付けて性行為に挑んでいる。

その“いしん”を掛けて行為後に、国会議員が10代女子に言われた言葉がこれである。

10代女子…『はやぁ、もう出たの?』

現在では自ら志願して娼館(しょうかん)の遊女に就職する女性も多いが、その歴史は現代とは比較にならない程に凄惨(せいさん)で過酷(かこく)なものだった。

それら女性を一言で表すなら“性奴隷”である。

日本は昔から家督は男子が引き継ぐ“男尊女卑”(だんそんじょひ)の文化が色濃いが、この人身売買での世界では、そんな生易(なまやさ)しいものではない。

醜態(しゅうたい)を曝(さら)け出した大人共に、欲望を剥(む)き出しに女性の操(みさお)をむしり取られ、利用されるだけ利用され、利用価値が無くなれば捨てられる。

娼婦となった瞬間から人間扱いを受ける事なく、常に“死”と“破滅”が隣り合わせにある。

貧困家庭の女性として生まれてきたばっかりに、自らの意思とは違う道を歩まされた生涯。

過去の話では片付けられない事実が、そこにはある。

JIMMY EAT WORLD /♪ A PRAISE CHORUS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:01:20

◆◇◆其の二:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

実は、この日本では古来から非人道的な人身売買が実施されてきた。

戦国時代は日本各地で大小の戦乱が起こっていた。

その合戦に参加して第一線で戦うのは、足軽と言う農民兵が大半だった。

この農民兵は雑兵(ぞうひょう)とも呼ばれた。

身分が低い雑兵(ぞうひょう)は、赴(おもむ)いた戦地で略奪行為をする事があった。

これを乱妨取り(らんぼうどり)または乱取り(らんどり)と呼んだ。

雑兵(ぞうひょう)は戦地の周辺にある民家に忍び込み、食糧や家財道具を略奪していた。

更にその民家に住む人間までも拉致する事もあった。

拉致した人間は、公(おおやけ)に奴隷として売買されていた。

乱妨取り(らんぼうどり)により拉致された人間は、奴隷を取引する公設市場の“人市”(ひといち)で人身売買されていた。

これが合戦に参加した雑兵(ぞうひょう)に取って臨時収入となる。

人間の売買相場は数十万円〜数百万円の価値があったと言う。

戦国時代の農業年収が140万円程度だったので、その半年分前後に匹敵する。

この乱妨取り(らんぼうどり)で拉致されたのは、抵抗できない女性や子供が多かった。

その為に、自宅から居なくなった子供などを、父親が“人市”(ひといち)に探しに行って買い戻す事もあった。

商都でもある和泉国(大阪府)の堺では物品の商取引だけでなく、奴隷を取引する日本屈指の公設市場の“人市”(ひといち)で人身売買が取り行われてた。

この和泉国(大阪府)の堺の“人市”(ひといち)で人身売買されていたのは周辺の村の娘だった。

また、室町時代の九州地方では、中国大陸や朝鮮半島の海域で船舶や沿岸部の村を襲って略奪行為をする海賊の倭寇(わこう)も存在していた。

この時の略奪にも人身売買が行われて、日本人が海外に売り飛ばされる例もあった。

海外に売られた男性は“重労働の奴隷”として、女性と子供は“性交の奴隷”として扱われていた。

一説には、日本人で初めてヨーロッパ大陸に渡ったのは、この人身売買により奴隷にされた日本人と言われる。

BLUE RODEO /♪ BEGGING YOU TO LET ME IN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:02:27

◆◇◆其の三:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

天下統一を目前に控えた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は大群勢の豊臣軍を率いて、薩摩国(鹿児島県)の戦国大名だった島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)と、その弟の島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍を侵攻する為に九州に上陸した。

この1586年に起こった「九州征伐」(きゅうしゅうせいばつ)でも、九州一帯では雑兵(ぞうひょう)による乱妨取り(らんぼうどり)や人身売買が行われていた。

元々は九州の沿岸部に生息する海賊の倭寇(わこう)の文化がある為に、この様な略奪行為も罪悪感が薄いのかもしれない。

雑兵(ぞうひょう)に拉致された村民は、近隣の領域の地主に売却されるか、もしくはポルトガルから来日したイエズス会の宣教師や奴隷商人に売却された。

ポルトガルの奴隷商人は、日本人の奴隷を船に乗せて海外に売り飛ばした。

日本人奴隷の多くは中国大陸のマカオや東南アジアのマレーシアのマラッカに連行された。

その他にもインド、アフリカ、ヨーロッパ、南アメリカにも売られた事例もある。

この時期の世界では、造船の技術が向上して、船で貿易する大航海時代を迎えていた。

日本にも船に乗って多くの外国人が来日した。

キリスト教の布教を目的としたフランシスコザビエル(カトリック司祭/スペイン)やルイスフロイス(カトリック宣教師/ポルトガル)などの宣教師も多く来日している。

また、アフリカのモザンビークの出身でイタリア人の奴隷として来日していた弥助(やすけ/イエズス会→織田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣となり黒人の侍(サムライ)と呼ばれた。

この世界の海を股に掛けた大航海時代は、奴隷売買と言う黒歴史も生み出した。

BALANCE AND COMPOSURE /♪ SAVIOR MODE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:03:36

◆◇◆其の四:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

この日本人奴隷は、合戦により雑兵(ぞうひょう)に拉致された者だけではなかった。

貧困により口減しの目的で親が子供を奴隷商人に売却したり、その地で悪行を働き住む場所を追われて自ら志願して日本人奴隷になる者も居た。

しかし、どんな理由があろうとも、海外に売却された日本人奴隷の待遇は過酷なものである。

大人や子供に関係なく、基本的には農地での農作業が主な役目であった。

それに加えて男性は、戦争が起こると兵士として駆り出された。

女性と子供は、雇い主から性行為の暴力を受ける事もあった。

特に戦闘員として参戦した日本人奴隷は、特殊能力を兼ね備え攻撃して、敵陣を圧倒したと言う。

この事についてイエズス会のアレッサンドロヴァリニャーノ(カトリック宣教師/イタリア)は、『日本人は忍耐強く、どんな苦悩にも耐え忍ぶ精神を持ち合わせている。』と評している。

これらの事から、奴隷市場では日本人は他国人に比べて高値で取引された。

しかし、逆に言えば日本人奴隷が一致団結すれば、雇い主に取って脅威になる事を意味する。

戦闘の身体能力の高い日本人奴隷は、地域での一定の行動制限が設けられたり、日本人同士で凝り固まる集落を禁じた所もあった。

中には監視の目を盗んで逃亡して、山賊や盗賊に転身する日本人奴隷も居た。

この奴隷制度は、一生涯が奴隷の身分として働く訳ではなく、ある一定期間が過ぎると解放された。

しかし、奴隷として働いても蓄財などをする余裕もなく、雇い主から解放されても、日本に帰るどころか、明日からの生活に困窮する事になる。

こうして多くの日本人奴隷は、母国の日本に帰る事なく、その地で一生を終えるのが大半であった。

CASH CASH FEAT.JOHN RZEZNIK /♪ LIGHTNING

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:04:48

◆◇◆其の五:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

戦国の乱世も落ち着いた1500年代後半では、天下人となった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が豊臣政権を担っていた。

天下統一を果たした豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が乱妨取り(らんぼうどり)と人身売買を禁止していた。

ただ、巨大化した豊臣軍の末端の雑兵(ぞうひょう)まで指揮系統が行き渡らない現実もあった。

そんな天下泰平の世の実現に向けて動き出した豊臣政権に、1つの懸念材料が持ち込まれる。

それはポルトガルから来たキリスト教の宣教師や奴隷商人が、日本人奴隷を購入して貿易船に連行している情報だった。

手足を鎖で繋がれた数百人の日本人奴隷が、狭く暗い船の部屋に押し込められていると言う。

これに激怒した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、ポルトガルから来たイエズス会の宣教師に猛抗議した。

しかし、イエズス会の宣教師は、『ポルトガル人が日本人奴隷を買うのは、同胞の日本人が売るからだ。』と反論した。

日本の末端である人間が人間を家畜の様に売買する“人市”(ひといち)が開催されている事を、イエズス会の宣教師は説明した。

この反論に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は更に激昂(げっこう)して、日本と海外を問わず人身売買や奴隷取引を厳禁とした。

また、日本に滞在しているキリスト教の宣教師も、日本国外に強制追放を通達した。

この豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の威令(いれい)が、1587年に発布された「バテレン追放令」(バテレン=神父)に繋がる。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が中国大陸の明(みん)に侵攻する目的で実施した、“第4次朝鮮出兵”と呼ばれる1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)と、“第5次朝鮮出兵”と呼ばれる1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)では、朝鮮半島に赴(おもむ)いた軍隊の中には乱妨取り(らんぼうどり)と人身売買が横行していた。

この朝鮮での略奪行為が、後々まで朝鮮民族に遺恨(いこん)を残す事になる。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の死後、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の江戸幕府と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の大坂政権で交戦した1614年に起こった「大坂・冬の陣」と、1615年に起こった「大坂・夏の陣」では、両軍の雑兵(ぞうひょう)による大坂城下町にて乱妨取り(らんぼうどり)が行われている。

この乱妨取り(らんぼうどり)は時代の経過と共に、形を変えて存続している。

人身売買や奴隷取引の禁止を厳格化しても、倫理観が欠落している人種の日本人に取っては理解し難(がた)い制度で、その後の江戸時代まで続けられる事になる。

それまでに海外に売り飛ばされた日本人奴隷は5万人を超えると言う。

BAD SUNS /♪ CARDIAC ARREST

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:06:08

◆◇◆其の六:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

江戸時代には農村や貧困家庭に生まれた10代女子を、公然に人身売買で娼館(しょうかん)に売り飛ばされ遊女にされていた。

江戸の吉原遊廓、京都の島原遊廓(朱雀野/しゅじゃかの)、大坂の新町遊廓には、多くの少女が集められ自分の意思に関係なく肉体労働をさせられる。

それ以外にも尾張藩(名古屋)など江戸幕府の影響が大きい市街地には遊廓が設けられた。

そんな江戸時代の遊廓でも、日本最大だったのは江戸の吉原遊廓である。

1657年に起こった「振袖火事」こと「明暦の大火」(めいれきのたいか)で江戸城下町の2/3が延焼し、江戸幕府は早急に復興事業に取り掛かった。

その復興都市計画には副作用も出てきた。

江戸城の東側の日本橋人形町に設けられていた吉原遊廓も大火に遭い延焼し、そこから北側に位置する浅草は浅草寺(せんそうじ)の北部に移転した。

田んぼの真ん中に突如(とつじょ)現れた“快楽の境地”、“娯楽の殿堂”、“殿方の花園”の吉原遊廓。

敷地面積は9万㎡(2万7000坪/東京ドーム2個)あり、遊女(ゆうじょ)が逃げれない様に広大な敷地を囲む“御歯黒溝”(おはぐろどぶ)が設けられた。

吉原遊廓に来訪するには“日本堤”を通り、遊女(ゆうじょ)との別れを惜しむ“見返り柳”が出迎える“衣紋坂”(えもんざか)、そこからくの字に曲がった“五十間道”(ごじっけんみち/90m)を進むと、“極楽天上”の大門(おおもん)を潜(くぐ)り、たんまりと実った“桃色楽園”に辿り着く。

吉原遊廓の区画割は、田の字の様に無数の置屋(おきや)や揚屋(あげや)が建ち並び、中央に仲の町の大通りが1本通り、そこに京町、江戸町、伏見町などの所在地を示していた。

江戸時代の遊廓で働く遊女(ゆうじょ)には“番付け”があったと言う。

最高位から花魁(おいらん)、太夫(たゆう)、新造(しんぞう)、局見世(つぼねみせ)や安女郎(やすじょろう)、禿(かむろ)。

そして呼出し(よびだし)、昼三(ちゅうさん)、付廻し(つけまわし)、振袖新造(ふりそでしんぞう)などの格付けもある。

遊廓の外では提重(さげじゅう)、夜鷹(よたか)が安銭で請け負った。

男色の陰間(かげま)は、江戸城の北側にある湯島天神(ゆしまてんじん)界隈で発展したと言う。

衆道(しゅどう)は、まだ舞台に立てない歌舞伎の若い役者が、己の心身を女性に徹する為に、敢(あ)えて男性を相手にしていた“芸文化”とも言える。

江戸時代には木版などの印刷技術の発展により書物や黄表紙(きびょうし)が大量に生産され、江戸城下町の町人をはじめ日本全国で流行する。

そんな書物や黄表紙(きびょうし)を扱った蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/出版元)が営む書店が吉原遊廓の門前町にあった。

吉原遊廓の北側には、小塚原刑場(こずかっぱらけいじょう)や泪橋(なみだばし)などが隣接しているのも、“人の生死”を感じさせる場所でもある。

JIM REILLEY /♪ So Much For My Brilliant Career

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:07:07

◆◇◆其の七:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

明治維新が起こった1900年前後では、国策として外貨を稼ぐために貧困家庭に生まれた10代女子を、人身売買で娼婦の目的で女衒(ぜげん)を仲介し海外に売り渡していた。

1晩に20人前後の男性を相手し、1年間を通じてほとんど休む事も許されず、耐えかね自害した遊女も多かった。

しかも、これら海外に向かう輸送船も劣悪な環境で、牛や豚など家畜を運搬するかの様に、少女達は狭い船内に押し込められ、その間にも体調を悪化させ亡くなる少女も多かったと言う。

東南アジアなどの一帯に人身売買された少女は、九州地方では“からゆきさん”(唐行きさん)と呼んでいた。

これは江戸時代に肥前国(長崎県)の長崎が唯一に江戸幕府が海外へ開港し、出島(でじま)の港から外国に行く事を『唐(から)に行く。』と呼んでいた名残である。

長崎には丸山遊廓(まるやまゆうかく)が設けられ、中華民族が居住する唐人屋敷(とうじんやしき)に通って外国人の男性を相手する娼婦を“唐人行”(からひとゆき)と呼んだ事が始まりである。

明治期に開国を本格化した日本は、外国との貿易や交流を推進させる一方で、外貨獲得を目的として10代女子を娼婦として海外に送り込み、肉体労働を強制させて外国通貨を稼ぎ貿易収益に貢献させていた。

この10代女子の娼婦を娘子軍(じょうしぐん)と呼んだ。

主にパスポート(国行通行手形)を発行していなかった中国大陸と朝鮮半島に多くの“からゆきさん”(唐行きさん)が渡った。

それ以外にもインドネシアとマレーシアとブルネイのボルネオ島、その北部のフィリピン、そこから東部に位置するインドシナのタイやシンガポールにも送られた。

ただ、この“いしん”を掛けた非人道的な悪政は、日本国内だけでなく外国からも非難され廃止した。

それでも民間市場では、公然に人身売買や奴隷取引が実施されている。

東南アジアなどの娼館(しょうかん)で肉体労働を強制される日本人遊女には、“夢”も“希望”も打ち砕(くだ)かれ存在していない。

南国の夜空に響くのはロマンチックな愛の囁(ささや)きではなく、奴隷となった娼婦が踠(もが)き苦しむ阿鼻叫喚(あびきょうかん)だけである。

東南アジアなどに設けられた“からゆきさん”(唐行きさん)が眠る墓地では、その墓石は全て日本がある方角に背を向けて建っていると言う。

これは両親、親族、故郷(ふるさと)、そして母国の日本に裏切られたという“からゆきさん”(唐行きさん)の“心の叫び”の表れでもある。

過去の話と、簡単に片付けれる問題では無い。

28 NORTH /♪ LOS ANGELES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:08:10

◆◇◆其の八:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

不遇(ふぐう)などと軽い言葉で言い表せない“からゆきさん”(唐行きさん)だが、昭和期に入っても継続されていた。

しかも1941年に起こった「太平洋戦争」こと「大東亜戦争」では、東南アジアを中心とした娼館(しょうかん)が大いに活用される事になる。

日本軍は1937年に開戦した「日中戦争」の戦争目的を、資源の乏しい中国大陸から東南アジアなど資源の眠る「南方作戦」に切り替えた。

これにより台湾やフィリピン、インドシナのビルマ(ミャンマー)やマレー半島のシンガポール、ボルネオ島のインドネシアやマレーシアなどに日本軍の兵士を侵攻して駐屯させた。

この血気盛(けっきさか)んな軍人を相手したのが、アジア各地の娼館(しょうかん)で肉体労働する日本人遊女である。

この昭和期の“からゆきさん”(唐行きさん)を描いた映画が“サンダカン八番館・望郷”である。

スクリーンに描写されているのは、長崎の貧困家庭に生まれた少女が、ボルネオ島のマレーシアにある港街のサンダカンに設けられた娼館(しょうかん)に、人身売買にて売り飛ばされ遊女として働く生涯が描かれている。

“からゆきさん”(唐行きさん)の悲しみと哀(あわ)れみは娼館(しょうかん)で性奴隷として労働している時だけでなく、役目を終えて故郷(ふるさと)の日本に帰国してからも続いている。

最も安心できる実家の、最も信頼できる家族からは、少女が被(こうむ)った暗部な実態に対して、世間体(せけんてい)を気にして歓迎する様子を示さなかった。

こうして、ほとんどの“からゆきさん”(唐行きさん)は、日本にもアジアにも居場所を失う。

考えても解る。

現代に生きる中学校や高校に通う少女が、“からゆきさん”(唐行きさん)と同じ目に遭っていたら、どう感じ、どう思うのか?

時代が違うだけでは済まされない、人類最大の愚行である。

戦争が無いのが、“平和”ではない。

JUSTIN BIEBER /♪ LOVE SONG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:09:15

◆◇◆其の九:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

戦時中の遊廓だが、戦後は連合国(アメリカ)から派遣された連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ/GHQ)により、人身売買や性奴隷は民主的ではないとして、公娼制度(こうしょうせいど)は廃止する命令が下った。

しかし当分の間は継続され、遊廓や娼館(しょうかん)は名目業態を変更し、東京などではカフェー、大阪などでは料亭として、飲食店の営業を目的とする店となったが、その実態と目的は何も変わっていなかった。

1956年に遊廓や娼館(しょうかん)が集積し公認された赤線(あかせん)は廃止され、非公認の青線(あおせん)も消えて行く。

それでも手を変え品を変え、遊廓や娼館(しょうかん)は存続している。

そこに男性の性欲と女性の金欲がある限り、この地球上から消える事は無い。

京都の鴨川沿いにお茶屋(遊廓)が集積する五条楽園(ごじょうらくえん)が2010年まで存在していた。

直接的にお会いした訳ではないが、実はこの五条楽園(ごじょうらくえん)で、戦前戦後に肉体労働していた女性(お婆ちゃん)の後半生を聞いた事がある。

その女性(お婆ちゃん)は京都南部にある被部落地域の貧困家庭に生まれ、少女の時に両親から五条楽園(ごじょうらくえん)へ人身売買され、遊廓の娼婦として働く事になった。

娼婦としての役目を終えた後年は、京都南部の被部落地域に戻り、雨漏りが酷(ひど)く傾いたボロボロの木造住宅に住んでいたと言う。

過酷な肉体労働をして大金を稼いでいたと思うが、結局は周囲の醜態(しゅうたい)を曝(さら)け出した大人共にお金を吸い上げられ、娼婦として利用価値が無くなった途端に、無一文で五条楽園(ごじょうらくえん)から放り出された事が解る。

1975年頃に70代くらいとなった女性(お婆ちゃん)は、廃屋同然の木造住宅で暮らしながら、デザートの白玉善哉(しらたまぜんざい)に入れる丸い団子(だんご)をシワシワの手で捏(こ)ねる内職をしていたと言う。

自分の境遇に対して愚痴(ぐち)を言う事なく、黙って丸い団子(だんご)を捏(こ)ねる日々。

同じ年頃の少女は“恋愛”に“青春”に華(はな)やいでいた頃、その女性(お婆ちゃん)は自分の意思とは関係なく五条楽園(ごじょうらくえん)で肉体労働をさせられていた。

何かを思い、何かを感じる、余裕も権利もない世界で。

京都の東西を貫く大動脈の東海道(五条通/1号線)の、五条楽園(ごじょうらくえん)の近くを流れる鴨川に架かる五条大橋は、そんな同じ境遇の多くの遊女が嗚咽(おえつ)した泪橋(なみだばし)でもある。

この女性(お婆ちゃん)は弱い立場の人間だったが、そんな不遇な人生に追い込んだのも同じ人間である。

綺麗事(きれいごと)を言って、良い所ばかりを見て評価する人間が、一番に信用信頼できない。

子曰(しいわ)く、『巧言令色鮮し仁。』(こうげんれいしょくすくなしじん)

孔子(こうし/学者)先生は言った、『口先だけ上手に取り繕(つくろ)い、周囲の者に顔つきだけで愛想良くする者には、真(しん)の仁者(じんじゃ)はいない。』

要は選挙前の国会議員である。

ROBBIE WILLIAMS /♪ BE A BOY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:10:13

◆◇◆其の十:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

現代に近付くにつれ変化が見られるのは、女性の風俗で働く意識かも知れない。

昭和初期までの遊廓は娼館(しょうかん)は、時代の流れと共に営業態や奉仕内容を変化させ、令和期になっても衰える事を知らない。

財務省がお抱えする東京税務署に勤める複数人の女性職員は、夜の副業で風俗嬢として納税者の殿方(とのがた)にご奉仕する新時代(ニューウェーブ)でもある。

これが令和7年度(2025年)の確定申告のキャッチフレーズだ。

『税金の納税と玉金(竿)の納入は、期日までにお忘れなく!』

『税金と玉金のお取扱いは、税務署女子にお任せぇ!』

大阪では道頓堀界隈で流行したノーパン喫茶やトルコ風呂(特殊浴場)が旺盛し、性風俗は大阪文化を代表する一大産業でもある。

それを目的に大阪の難波や梅田にある兎我野(とがの)、性風俗通(マニア)は十三(じゅうそう)や西中島南方(にしなかじまみなみかた)に足を運ぶ。

遊廓の風格が残る大阪の“三大プレイスポット”と言えば、大阪市西成区の“飛田新地”(とびたしんち)、大阪市西区の“松島新地”(まつしましんち)、大阪市生野区の“今里新地”(いまざとしんち)である。

それに加えて小規模になるが、大阪府守口市の“滝井新地”(たきいしんち)や大阪府和泉市の“信太山新地”(しのだやましんち)も有名だ。

これら性風俗が令和期になっても衰える事を知らなければ、当然にそこで肉体労働に努める女性も存在する。

ただ、それは貧困家庭に生まれ人身売買で性奴隷として売り飛ばされ遊女になった訳では無い。

性欲を満たす為に遊廓や娼館(しょうかん)に通う男性客には大きな相違は無いが、そこで相手する娼婦の意識に違いが出ている。

ほとんどが金銭目的で勤めている女性だ。

そこが過去と現在に大きな相違がある。

MANIC STREET PREACHERS /♪ SCREAM TO A SIGH

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:11:11

◆◇◆其の十一:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

性欲を満たす客の男性であれ、金欲を満たす女給(じょきゅう)の女性であれ、欲望に駆られて人生の道を外すのも人間である。

人生、楽しむのは良いけど、楽しんだ分、それはあの世に行って罰を受ける事にもなる。

一生涯をもう少し真面目に捉えた方がよい。

この世の感覚でも解るが、嫌悪(けんお)な人物と同じ空間で過ごすほど不愉快なものはない。

それは極楽浄土(ごくらくじょうど)と呼ばれる黄泉の国(よみのくに/天国)でも同じである。

折角(せっかく)に平穏な暮らしができる世界に到達したのに、欲望で汚染(おせん)された人間の魂と一緒に暮らしたい仏様は皆無だ。

神様も仏様も、それについては極度な潔癖症(けっぺきしょう)である。

日本神話による伊耶那岐神(イザナギ)と伊耶那美神(イザナミ)の神聖なる儀式を、性欲と金儲けの為に行った人間の愚行は、千年万年を掛けても消える事は無い。

そんな“いしん”を掛けて欲望に邁進(まいしん)する人間の為に、地獄は用意されている。

地球の神様が温情ある寛大な采配(さいはい)を示しても、天界や宇宙の神様は、そんな愚人(ぐにん)を決して許しはしない。

人間の無知無学と先見性の無さから来る愚行(ぐこう)は、実は現代社会でもこの様な人種は、驚くほど多く潜んでいる。

人間社会では人身売買や違法性風俗などの犯罪は、罪の大小で細分化され罰せられる。

ただ、宇宙を覆う天界から観れば、その様な犯罪を犯す者は、罪の大小に限らず同罪でしかない。

一発で死刑判決だ。

東京の歌舞伎町や大阪の道頓堀では、今尚(いまなお)同じ事が繰り返し実施されている。

POCO /♪ CALL IT LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:12:09

◆◇◆其の十二:大阪発!“いしん”を掛けて10代女子を人身売買で娼婦に変貌させてみた◆◇◆

では、地球の愚人(ぐにん)が来世で訪れる地獄とはどんな所なのか?

地獄に落ちれば50億年間は、現生(げんせい)の葦原中国(あしはらのなかつくに)に帰って来れない。

地獄に落ちると、どんな辛い目に遭うのか一例をご紹介する。

先(ま)ず、地獄での長期間の労働に耐えれる様に食事が用意されます。

地獄の入口付近にあるレストランでは、客席から望む事のできる広く大きなオープンキッチン(厨房)で愚人(ぐにん)の祖父祖母や父親母親が料理人の衣装を着て立っている。

広いキッチンテーブルの上には大きなまな板が置いてあり、そこに愚人(ぐにん)の子供や孫が寝そべっています。

両親達が刃渡り30cm程の太い出刃包丁で、その子供達をぶつ切りにしていきます。

そして、バラバラになった子供や孫の身体を大きな寸胴鍋(ずんどうなべ)に放り込み、コンソメとミネストローネに味付けしたスープで数時間ほど煮込む。

愚人(ぐにん)のDNA(遺伝子)が浸み込んだスペシャルな“チャイルドスープ”の出来上がりだ。

愚人(ぐにん)の目の前出されたスープ皿には、半分くらい溶けた子供や孫の頭が乗せられている。

その子供や孫の頭をスプーンとフォークで崩しながら、愚人(ぐにん)は美味しく頂く事となる。

“チャイルドスープ”から目を背けたり、料理を残したりする事は、地獄の世界では絶対に許されない行為である。

それを毎日、同じ光景を見ながらお腹一杯に食べさせられ、50億年近く続く地獄での過酷な労働に励みます。

これはほんの一例であり、他にも聞くも残酷なお仕置きを多数取り揃えている。

①:愚人(ぐにん)を見た目で判断できる目印として、片耳を削ぎ落とす“耳採”(みみとり)。

②:愚人(ぐにん)に藁蓑(わらみの)を着せて火を着けて、悶絶させる“蓑踊り”(みのおどり)で焼死させる。

③:溶岩が噴き出る火山の火口付近から湧き立つ熱湯を、愚人(ぐにん)を裸にして身体に浴びせる“地獄の熱湯漬け”で大火傷(おおやけど)させて死に至(いた)らしめる。

④:海岸沿いに木柱を立てて愚人(ぐにん)を括り付る“水磔”(すいたく)で、大波と満潮により水死させる。

⑤:愚人(ぐにん)を逆さに吊るして、汚物が溜められた肥溜(こえだ)めの穴に漬ける“穴吊り”で、異臭圧迫と血統逆流で死に至(いた)らしめる。

これら悪辣(あくらつ)で苛烈(かれつ)の凄惨(せいさん)な地獄では、現代の人間からしたら見るに堪(た)え難(がた)い光景である。

ただ、これら地獄のお仕置きは、実際に人間が地球で弱者に対して実施してきた事に過ぎない。

MICHAEL LEARNS TO ROCK /♪ SOMEDAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:13:11

◆◇◆其の一:大坂城を“いしん”を掛けて防衛しろ!豊臣軍が忠義を示した感動の大坂の陣!!◆◇◆

戦国時代末期(安土桃山時代)の1598年、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去した。

その後、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で、東軍の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が豊臣政権の西軍を破り徳川政権を樹立させた。

1603年に武蔵国(東京都)にて江戸幕府の開設したが、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)では、今尚(いまなお)に淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が絶大な影響力を誇示していた。

江戸幕府の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)からしたら、大坂城(おおさかじょう)の豊臣家は厄介な存在でもあった。

そこで起こったのが「大坂の陣」である。

そんな1614年の「大坂・冬の陣」と1615年の「大坂・夏の陣」では、徳川軍と豊臣軍が大坂城(おおさかじょう)の周囲で激闘を繰り広げ、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将が活躍した。

ただ、歴史に名を残す武辺者(ぶへんもの)だけでなく、名の知れない足軽(あしがる)や雑兵(ぞうひょう)も多く活躍している。

そんな1人に豊臣家へ忠義を尽くした薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)がいる。

薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は「大坂の陣」でも豊臣軍の一員として獅子奮迅(ししふんじん)した。

その功績が400年経った今でも語り継がれている。

DAVID GRAY /♪ BE MINE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:14:12

◆◇◆其の二:大坂城を“いしん”を掛けて防衛しろ!豊臣軍が忠義を示した感動の大坂の陣!!◆◇◆

薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)の出生はよく判ってないが、武士となった時は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の周囲を護衛する馬廻(うままわり)に就いていた。

薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は大柄で体格が良く、相撲では負け知らずで男3人がかりでも負けなかったと言う。

牛若(うしわか)こと源義経(みなもとよしつね/源氏→ 奥州藤原氏)も習得した京都に伝えられる剣術の“鞍馬八流”(くらまはちりゅう/京八流)を、鍛錬(たんれん)を重ね習得し達人として名を馳(は)せた。

そんな武勇に秀(ひい)でた薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後も大坂城(おおさかじょう)の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)に忠義を示した。

そこで起こったのが1614年の「大坂・冬の陣」である。

しかし、江戸幕府が開設され徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の政権運営が始動していた江戸時代に、豊臣軍に従うのは牢人(無職侍)ばかりで大名や武将はほぼ皆無だった。

それでも薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は、豊臣軍の武士を鼓舞(こぶ)し士気を高めた。

薄田兼相…『太閤様の恩義を忘れた徳川軍の匹夫(ひっぷ)を根絶やし(ねだやし)にするぞぉ! 今こそ忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の豊臣軍の底力を見せてやれぇ!』

豊臣軍の武士…『おっー!』

軍勢としては脆弱な豊臣軍ではあったが、闘争本能は徳川軍より勝っていた。

そして、「大坂の陣」の幕が開けた。

PASSENGER /♪ SCARE AWAY THE DARK

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:15:13

◆◇◆其の三:大坂城を“いしん”を掛けて防衛しろ!豊臣軍が忠義を示した感動の大坂の陣!!◆◇◆

豊臣軍の期待を一身(いっしん)に背負う薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は、大坂城(おおさかじょう)の西部に位置する防御の要となる木津川(きずがわ)に沿って築かれた博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)の守備責任者に抜擢(ばってき)された。

薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は700人余りの武士と共に博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)から、尼崎方面から攻め入る徳川軍を鉄砲で銃撃して壊滅させた。

当時の大坂は西部には海が広がり、大坂城(おおさかじょう)の周囲も大小の河川が入り組んでおり、徳川軍は大群勢を持っても非常に攻撃し難い地形だった。

豊臣軍は淀川の堤防を決壊させて、徳川軍を水攻めにして水没させる程に、合戦にとって水は厄介な存在だった。

そんな要塞の博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)は、徳川軍に取って何としても陥落(かんらく)させなければ勝利は無かった。

そこで徳川軍は博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)を攻略する為の軍議を開催し、会議で決まったのが合戦の常套(じょうとう)手段でもある夜襲だった。

当然に博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)の豊臣軍も夜襲への警戒はしており、防御体制は整えていた。

整えていた?

月照らす浪速の空に徳川軍の怒涛(どとう)が響き渡り、博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)の豊臣軍もそれを攻防する。

博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)の守備責任者でもある薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)の早急で的確な指揮が待たれた。

しかしである。

薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)から豊臣軍の軍令が一向に伝達されない。

それもその筈(はず)、博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)に薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)の姿は無かったからだ。

守備責任者が不在の博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)は統率(とうそつ)が乱れ、猛攻撃する徳川軍により陥落(かんらく)した。

そんな「大坂の陣」の勝敗を決定する大事な合戦で、薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は何処(どこ)に居たのか?

JACK JOHNSON /♪ BUBBLE TOES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:16:14

◆◇◆其の四:大坂城を“いしん”を掛けて防衛しろ!豊臣軍が忠義を示した感動の大坂の陣!!◆◇◆

徳川軍が夜襲を仕掛けた「博労淵の戦」(ばくろうぶちのたたかい)の時に、博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)の守備責任者だった薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は、家臣の平子正貞(ひらこまささだ/稲葉→豊臣)に守護を任せて、何と江口(東淀川)の遊郭に行って遊女と戯(たわむ)れていた。

大坂城(おおさかじょう)から見て博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)は西部に位置し、江口(東淀川)の遊郭は淀川や神崎川が流れる北部に位置して、その距離は10km以上は離れている。

江口(東淀川)の遊郭で色情(しきじょう)を思う存分に楽しんだ薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は、博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)に帰ってきて愕然(がくぜん)とした。

難攻不落と言われた博労淵砦(ばくろうぶちとりで/木津川)が陥落(かんらく)し、その凄惨(せいさん)な戦地には700人余りの武士が討死していた。

守護を任せていた平子正貞(ひらこまささだ/稲葉→豊臣)も息子と共に討死し、美濃国(岐阜県)の時から数えて平子氏(ひらこうじ)の七代が続けて戦死した“七代の討死”と言われた。

この「博労淵の戦」(ばくろうぶちのたたかい)の報告を受けた大坂城(おおさかじょう)の豊臣陣営は、守備責任者だった薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)を見掛け倒しの“橙武者”(だいだいむしゃ)と名付けた。

因みに、この江口(東淀川)の遊郭は古来から由緒(ゆいしょ)ある地域で、伝説の遊女と言われる平家に所縁(ゆかり)のある江口の君(えぐちのきみ)こと妙(たえ)も在籍していた。

平安時代の頃、平安京の京都と大坂を結ぶ淀川は水路で結ばれ、その途中の江口(東淀川)に遊里(ゆうり)が設けられた。

この頃は皇族や公家が船遊びで淀川を下り、所々に設けた遊里(ゆうり)で遊女と色情(しきじょう)を楽しむ風習があった。

そんな平安時代から鎌倉時代に移り変わる時期に、遊女の江口の君(えぐちのきみ)こと妙(たえ)は1人の僧侶と出会い、説法(せっぽう)を聞いて仏門に入り尼僧(にそう)となった。

鎌倉時代の1205年に江口の君(えぐちのきみ)こと妙(たえ)により寂光寺(じゃっこうじ/日蓮宗)が建立(こんりゅう)された。

そんな歴史的に由緒(ゆいしょ)ある江口(東淀川)で、400年後に薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は大失態を犯す。

これにより薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)の、武士として人としての評判は地に落ちた。

OSCAR JEROME /♪ COY MOON

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:17:09

◆◇◆其の五:大坂城を“いしん”を掛けて防衛しろ!豊臣軍が忠義を示した感動の大坂の陣!!◆◇◆

1614年の「大坂・冬の陣」は徳川軍の圧倒的な勝利に終わり、豊臣軍の不利な条件で停戦協定が締結された。

しかし、江戸幕府の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)からしたら、大坂城(おおさかじょう)の豊臣家はまだまだ侮(あなど)れない存在であった。

そして1615年に「大坂・夏の陣」が開戦された。

この時期の豊臣軍は脆弱な軍勢しか揃(そろ)えられず、更に天下一の難攻不落な堅城と言われた大坂城(おおさかじょう)の濠(ほり)は、「大坂・冬の陣」の停戦協定で三の丸や二の丸まで埋められており、平地から天守閣まで攻め入る事ができる丸裸同然の観光用のお城へと変貌していた。

それでも真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)の防戦もあったが、やはり多勢に無勢で徳川軍の猛攻撃により豊臣軍は壊滅した。

大坂城(おおさかじょう)の天守閣の裏手では、城主の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)が戦争犯罪人(戦犯)として斬首され、これで豊臣家が滅亡した。

そんな時に汚名を背負った薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は豊臣軍の武将として、河内国(大阪府)の藤井寺での「道明寺の戦」(どうみょうじのたたかい)に参戦して奮闘していた。

薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は愛馬に跨(またが)り槍を振り回して徳川軍の武士を次々と薙(な)ぎ倒していった。

それでも矢で撃ち射られ落馬すると、地上戦では太刀(たち)を振り舞い徳川軍の武士を斬り捨てた。

この時の薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)による執念(しゅうねん)の奮闘は、徳川軍に恐れられ伝記物にも記載された。

最期は徳川軍の攻撃に遭い討死した。

「大坂・冬の陣」の大失態は、この「大坂・夏の陣」での激闘で挽回(ばんかい)し、お釣りが出る位の功績を残している。

見掛け倒しの“橙武者”(だいだいむしゃ)と言われた薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は汚名返上を果たした。

それが伝説となり、江戸時代など後世に語り継がれる。

JIM BRICKMAN/♪ MY LOVE IS HERE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251013 - ラジオの友 URL

2025/10/13 (Mon) 01:18:04

◆◇◆其の六:大坂城を“いしん”を掛けて防衛しろ!豊臣軍が忠義を示した感動の大坂の陣!!◆◇◆

江戸時代に流行した講談や落語に、「大坂の陣」で活躍した薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は度々(たびたび)に題材となった。

時の流れと共に薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は、伝説の武勇人でもある岩見重太郎(いわみじゅうたろう)と重ねられ伝説が語られた。

摂津国(大阪府)の野里(西淀川)で水害や疫病(えきびょう)に悩まされる村民が、住吉神社(野里)の神事でもある“一夜官女”(いちやかんにょ)にて、村の娘を生贄(いけにえ)に差し出した。

ちょうどそこを岩見重太郎(いわみじゅうたろう)こと薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)が通りがかり、住吉神社(野里)の境内で娘を抱きかかえながら泣く両親を目撃する。

岩見重太郎(いわみじゅうたろう)こと薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は泣く両親に事情を尋ね、娘を生贄(いけにえ)に差し出した真相を知る。

そして岩見重太郎(いわみじゅうたろう)こと薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は、娘の身代わりに辛櫃(からひつ)に自らを納めた。

翌日、村民が住吉神社(野里)へ辛櫃(からひつ)を見に行くと、そこには大量の血痕と大きな狒々(ひひ)が斬殺されていた。

また岩見重太郎(いわみじゅうたろう)こと薄田兼相(すすきだかねすけ/豊臣)は、日本各地の山賊(さんぞく)を撃退して廻ったとされる。

人間を食らう大蛇や狐(キツネ)の妖怪も退治している。

現代から観れば荒唐無稽(こうとうむけい)な創作の伝記と思われるが、まだ神様と人間が近い存在だった古来にはあり得る話しでもある。

この手の話しを現実と思わぬ現代人は、神様が遠く存在になった証(あかし)でもある。

BEN FOLDS FIVE /♪ MISSING THE WAR

◆ラジオの友◆

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