都市空間計画区域

190715

今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:31:36

◆◇◆其の三十九:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

この時点で中国大陸には、北部を統治する北京政府の張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)と、南部を統治する広東軍政府の蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党と、中央部を拠点にする武漢国民政府の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)が率いる共産党が混在していた。

この戦況は、蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党が圧倒的に強靭で、この勢力に脅威を感じていたのは日本だった。

中国大陸の東北部に位置する満州一帯は、日本が租界(そかい)として統治おり、権益を持つ南満州鉄道の運営も実施している。

蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党が中国統一すれば、日本の利権は喪失する可能性もある。

ただ、国際法により中華民国の内政に、日本が介入する事はできず、密かに張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)に軍事支援を実施していた。

この時期の日本軍では、明治維新の影響により長州閥と薩摩閥が政策と人事権を掌握していた。

そして、長州閥を引き継ぐ宇垣閥(長州閥)の宇垣一成(うがきかずしげ/備前→軍人)と、薩摩閥を引き継ぐ九州閥(薩摩閥)の真崎甚三郎(まさきじんざぶろう/肥前〔長崎〕→軍人)などが、政策と人事権の権力闘争を繰り広げていた。

そんな内輪揉(うちわも)めに嫌気を差したのが、エリート(高学歴秀才)集団の二葉会を結成した永田鉄山(ながたてつざん/軍人→二葉会→ 一夕会)などであり、特に明治維新からの慣行で決定する日本軍の人事権を問題視していた。

一方で、東條英機(とうじょうひでき/軍人→木曜会→ 一夕会)などが結成した木曜会は、中国大陸の満州と内モンゴルの統治を強化する様に主張した。

この時に日本の政府は主に4つの勢力が対立していた。

野党の立憲民政党は、次期の第27代内閣総理大臣に就く濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)を中心に、中国大陸の内政には干渉せず講和により平定する穏健派だった。

与党の立憲政友会は、第26代内閣総理大臣に就いていた田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)を中心に、中国大陸の万里の長城より北側の統治と権益を守護し、その防衛を北京政府の張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)に委任した中堅派だった。

日本軍が駐在する中国大陸の東北部を守護する関東軍は、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)を追い出して、日本が介入できる満州政府を建国して、満州一帯を関東軍が防衛する強硬派だった。

新興派閥の二葉会と木曜会は、軍事圧力により満州一帯を占領下に置いて植民地にする武闘派だった。

この4つの勢力により、政治的かつ軍事的な駆け引きが繰り広げられた。

与党の立憲政友会は第26代内閣総理大臣に就いていた田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)により、蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党の軍事勢力から、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)に対して抗戦を中止して退陣する様に威令(いれい)を出した。

こうして張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)は、戦地から撤退して鉄道で奉天駅(ほうてんえき)に向かっていた。

ところがである。

この張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が乗車する車両が爆破されたのである。

この鉄道が爆破された事で、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)をはじめ奉天派(ほうてんは)の多くの兵士が爆死した。

中国大陸に現地駐在する関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)は、この鉄道爆破は蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党の仕業(しわざ)と声明を発表した。

ただ実際の主犯者は、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)を追い出して、日本が介入できる満州政府を建国して、満州一帯を関東軍が防衛する強硬派だった河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)の自作自演だった。

奉天派(ほうてんは)の張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が死去する事で、北京政府をはじめ中国大陸が混乱に陥り、その混乱に乗じて関東軍が軍事制圧する予定だった。

ところが子供騙しの安易な謀略(ぼうりゃく)は、中華民国でも、日本でも、世界でも、明らかに関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)が怪しいと指摘していた。

こうして中国大陸が混乱に陥る事はなく、関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)の思惑は大幅に外れた。

これを1928年に起こった「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)と呼ぶ。

GINO VANNELLI /♪ FLY INTO THIS NIGHT WAR SUITE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:32:33

◆◇◆其の四十:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)で死去した張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)の息子の張学良(ちょうがくりょう/奉天派→ 国民党)が後継者に就任し、蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党と講和会談を開催し、奉天派(ほうてんは)を国民党と統合し中国統一を決定する。

この中国統一は、関東軍が満州一帯を統治するどころか、南満州鉄道の権益や沿線開発をも脅かす事を意味する。

日本に取って最悪の事態である。

日本国内の政界や世論では、「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)の主犯者でもある関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)に対して、軍法会議を開催して口頭弁論や責任追求を要求した。

しかし、日本軍にとって恥辱(ちじょく)なこの事件を公にしたくない思惑が軍幹部で錯綜(さくそう)し、「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)の隠蔽(いんぺい)する事を模索する。

この時に第26代内閣総理大臣に就いていた田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)は、右往左往しながら事態の収束を試みるも、野党の立憲民政党は濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)から強い批判を浴びる。

そこで第26代内閣総理大臣の田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)は、1926年に即位したばかりの第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)に相談した。

第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)は第26代内閣総理大臣の田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)に対して、軍法会議を開催して、被告人である関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)に対して口頭弁論や責任追求を実施する様に勅命(ちょくめい)を出す。

ところが、その間に日本軍は、密かに関東軍の河本大作(こうもとだいさく/軍人→関東軍)を退役処分として軍隊を辞任させ、「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)を闇に葬り去った。

この日本軍の勝手な行動に、第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)は激怒し、政治統制が執れていない面目丸潰れの第26代内閣総理大臣の田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)の内閣は総辞職となる。

そして次期総裁には、立憲民政党の濱口雄幸(はまぐちおさち/政治家)が第27代内閣総理大臣に就任する。

前任の田中義一(たなかぎいち/軍人→政治家)は、内閣総辞職した3ヶ月後に疲労困憊で体調を悪化させて死去する。

SHAKATAK /♪ DEJA VU (TO THE WIND)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:33:31

◆◇◆其の四十一:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

1914年7月〜1918年11月に起こった「第一次世界大戦」では、戦法や戦術を大きく変えた。

ヨーロッパで起こった産業革命により、工業化された近代工場で大量生産される軍艦や戦闘機や戦車、それに機関銃や爆弾などにより、機械式兵器で敵陣を壊滅させる。

これを目の当たりにした日本軍のエリート(高学歴秀才)集団の二葉会を結成した永田鉄山(ながたてつざん/軍人→二葉会→ 一夕会)は、軍国主義の一夕会(いっせきかい)に再編成する。

そこには木曜会のメンバーだった東條英機(とうじょうひでき/軍人→木曜会→ 一夕会)なども参加した。

一夕会(いっせきかい)の会訓は主に三ヶ条からなる。

①:旧閥による人事権を刷新し、出身母体に捉われず優秀で有能な人材の投与。

②:中国大陸の満州と内モンゴルの領土問題の解決。

③:日本軍の薩摩閥を引き継ぐ九州閥(薩摩閥)の真崎甚三郎(まさきじんざぶろう/肥前〔長崎〕→軍人)などを中心に、日本軍の組織改革。

そんな日本国内の軍事余興で盛り上がる1929年に、アメリカのニューヨークのウォール街が発端となった金融恐慌の「世界大恐慌」が起こり、瞬(またた)く間に大不況が世界を覆う。

この世界的な動乱の最中(さなか)に、中国大陸の北東部に位置する満州にて、南満州鉄道の権益を得た日本が、この満州一帯を占領下に置く植民地を目論(もくろ)み、現地を統治していた関東軍により自作自演の鉄路爆破を起こす計画を画策する。

何処(どこ)かで聞いた様な話しだ。

軍国主義の一夕会(いっせきかい)のメンバーで板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)を、日本から中国大陸に現地駐在する関東軍の幹部に送り込んだ。

そして、日本の一夕会(いっせきかい)の指示により関東軍の板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)は、1931年に南満州鉄道の中間辺りにある奉天(ほうてん)にて線路を爆破する。

関東軍の板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)は、この南満州鉄道の鉄道爆破は蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党の仕業(しわざ)と声明を発表した。

これを1931年に起こった「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)と呼ぶ。

ただ実際の主犯者は、蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党を追い出して、日本が介入できる満州政府を建国して、満州一帯を関東軍が防衛する強硬派だった関東軍の板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)の自作自演だった。

南満州鉄道の中間辺りにある奉天(ほうてん)にて線路を爆破する事で、中華民国による日本に対しての宣戦布告と捉えて、それに乗じて関東軍が軍事制圧する予定だった。

ところが子供騙しの安易な謀略(ぼうりゃく)は、中華民国でも、日本でも、世界でも、明らかに関東軍の板垣征四郎(いたがきせいしろう/軍人→ 一夕会→関東軍)と石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)が怪しいと指摘していた。

これ、これを1928年に起こった「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)と、全く同じ思考回路で画策した謀略(ぼうりゃく)だった。

日本に取って最悪の事態である。

DJO /♪ DELETE YA

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:34:23

◆◇◆其の四十二:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

時の与党である立憲民政党の第28代内閣総理大臣の若槻礼次郎(わかつきれいじろう/政治家)は、日本軍の一夕会(いっせきかい)と関東軍に暴挙に対して抑圧に尽力するが、既に内閣の指示を聞かない日本軍の暴走を止められなかった。

こうして穏健派だった立憲民政党の第28代内閣総理大臣の若槻礼次郎(わかつきれいじろう/政治家)が司る内閣の支持率は低迷した。

その為に野党である立憲政友会の犬養毅(いぬかいつよし/備中→政治家)に、共に協調する挙国一致内閣の構想を持ち掛ける。

ただ、身内の立憲民政党から挙国一致内閣に対して反論が出た為に、第28代内閣総理大臣の若槻礼次郎(わかつきれいじろう/政治家)は内閣総辞職を判断した。

そして1931年の年末に、次期総理は立憲政友会の犬養毅(いぬかいつよし/備中→政治家)が第29代内閣総理大臣に就任する。

関東軍はこの南満州鉄道の鉄路爆破は中国軍が起こしたと主張し、取り敢えず日本は中華民国による「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)として取り扱った。

これを1931年に起こった「満州事変」と呼ぶ。

関東軍は反日勢力の犯行と断定して、満州一帯の広域に侵攻して支配権を拡大させる。

関東軍の思惑の通りに、中国大陸の東部に位置する上海の租界(そかい)周辺にて、日本軍による襲撃が勃発し、中国軍との交戦により多くの死傷者を出した。

これを1932年に起こった「第一次上海事変」(だいいちじしゃんはいじへん)と呼ぶ。

中華民族に恐怖心を与えたその後に、日本が介入できる満州政府を建国して、満州一帯を関東軍が防衛する為に、1932年に満州国を建国する。

日本は清(しん)王朝の最後となる第12代皇帝(ラストエンペラー)の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)を担ぎ出して、満州国の皇帝に就任させるも、明らかな傀儡(かいらい)政治を目的とするものであった。

中華民国では、1922年にアメリカにて「第一次世界大戦」の事後確認をするワシントン会議にて締結された“九カ国条約”に違反するとして、日本による満州の強制統治を不服として国際連盟に提訴した。

“九カ国条約”の主な概要は、他国は中華民国の独立と行政的、領土的保全を約束し、門戸開放と機会均等の原則を承認していた。

これにより国際連盟から派遣されたイギリスのヴィクターリットン(インド貴族→政治家)が率いるリットン調査団が偵察に訪れた。

事件現場を調査したリットン調査団は、日本にも、中華民国にも、正当性を認める曖昧な報告書を国際連盟に提出した。

①:関東軍の自作自演とは言い難い。

②:満州に住む中国民も抑圧されている。

③:日本が保有する南満州鉄道の権益は守られる。

④:関東軍による満州の広域な統治は認可できない。

⑤:日本が主導する満州国の建国は認可できない。

STEVE LACY /♪ PLAYGROUND

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:35:23

◆◇◆其の四十三:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

日本は国際連盟の意向を遵守せず、しかも日本の新聞社や放送局が「満州事変」と満州国の建国を称賛する報道を繰り返した為に、日本国民も日本軍の一夕会(いっせきかい)と関東軍の一連の行動を忠君愛国(ちゅうくんあいこく)として褒(ほ)め称(たた)えた。

この軍国主義国家に変貌した1932年の日本には、この13年後の1945年に日本列島の主要都市へ大量の爆弾が落され、広島と長崎に原子爆弾が投下される伏線(フラグ)で既に出ている。

ただ、この関東軍の暴挙に対して、日本では着任したばかりの第29代内閣総理大臣の犬養毅(いぬかいつよし/備中→政治家)が、満州国を建国した関東軍と一夕会(いっせきかい)を痛烈に批判する。

犬養毅…『関東軍と一夕会(いっせきかい)が実施した満州国を建国は、国際法でも条約違反に該当し、日本としても認可する事はできない。』

この第29代内閣総理大臣の犬養毅(いぬかいつよし/備中→政治家)の意思表明に対して、日本の政府が満州国を認可しなければ関東軍と一夕会(いっせきかい)の立場が危うくなり、日本軍は軍事クーデターを実施した。

1932年5月15日に、日本軍の若手将校により永田町の首相官邸を包囲し、在宅していた犬養毅(いぬかいつよし/備中→政治家)を拘束した。

犬養毅…『お前達は何を騒いでおるのか? 話せば解る。』

若手将校…『問答無用!』

バンッ バンッ

犬養毅…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

バタン

こうして第29代内閣総理大臣の犬養毅(いぬかいつよし/備中→政治家)は、日本軍の一夕会(いっせきかい)に暗殺された。

これを1932年に起こった「五一五事件」と呼ぶ。

時の総理大臣が暗殺される前代未聞の大事件で、日本の政府は混乱に陥った。

その隙を突いたのが軍事クーデターを指示していた軍国主義の一夕会(いっせきかい)の最高指導者だった永田鉄山(ながたてつざん/軍人→二葉会→ 一夕会)で、陸軍大臣の人材提供を盾(たて)に内閣の人事権にも介入した。

そして1932年に、一夕会(いっせきかい)に関わりの深い斎藤実(さいとうまこと/軍人→政治家)を第30代内閣総理大臣に就任させて、ここから日本は軍国主義国家へと変貌(へんぼう)していく。

1931年に起こった「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)を現地調査したリットン調査団の報告書による満州国の建国は容認できないとした国際連盟の方針を無視した日本。

これらアジア圏での領域拡大を図る日本に対して、警戒するアメリカやヨーロッパ諸国など国際連盟の裁定に不服とする日本では、1933年に外交官の松岡洋右(まつおかようすけ/政治家)は「国際連盟脱退」を表明した。

こうして日本は世界から孤立する事となる。

SCRITTI POLITTI /♪ DON'T WORK THAT HARD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:36:23

◆◇◆其の四十四:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

1931年に起こった南満州鉄道の鉄路爆破事件の「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)こと「満州事変」で、1932年に日本の主導で満州国が建国され中華民国は対立を深めた。

これにより中国大陸の各地で日本軍と中国軍や中華民族が紛争を繰り広げ、凄惨(せいさん)な戦地には甚大な被害も出ていた。

その為に河北省(かほくしょう)の塘沽(とうこ)にて、日本軍と中国軍は停戦する事を決定し、1933年に塘沽停戦協定(とうこていせんきょうてい)が締結された。

黄海の入江辺りに位置する熱河省(ねっかしょう)に、軍事介入できないと非武装地帯を設けて、中華民国の警察が警護し、居住者が安心して暮らせる静穏地域とした。

しかし、非武装地帯に居住する中華民族は『日本排除!』を掲げて、同じく居住する日本人を暴力的な強制排除を実施していた。

これに日本は抗議したが対応が鈍い中華民国を他所(よそ)に、日本軍の支那駐屯軍を非武装地帯に派遣して、暴動を起こす中華民族を鎮圧し、日本が統治した。

資源の少ない島国の日本では、多くの資源が眠る中国大陸の満州国を手に入れた事で、これから資源不足に苦悩する必要は無いと思っていた。

ところがである。

地質調査団が満州国の鉱山などを調査したところ、ほぼ全域で眠る有効な資源は皆無だった。

要は満州国を掌握しても、使い物にならないのである。

これには日本の関東軍も落胆した。

そんな時に、内モンゴル一帯の華北(かほく)地域に、豊富な石炭や鉄鉱石が眠る資源がある情報が日本と関東軍に入る。

この情報に飛び付いたのが関東軍だった。

中国大陸の各地で起こる中華民族の暴動を理由に、関東軍が華北(かほく)地域に侵攻したのである。

これが1935年から始まった「華北分離工作」(かほくぶんりこうさく)である。

ANGELA BOFILL /♪ BABY,I NEED YOUR LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:37:21

◆◇◆其の四十五:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

この時期の中華民国は、中国統一を果たした蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党と、中国大陸の労働者や農家の支持を得た毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)が率いる共産党が対立している状態だった。

ただ、共産党の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)は、国内対立より先に日本との抗戦を主張し、国民党へ和睦を提案していた。

しかし、国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、日本との抗戦より先に国内平定を主張し、共産党との徹底交戦を提案していた。

この中華民国の内乱状態に、話し合いで歩み寄ったのが外務大臣の広田弘毅(ひろたこうき/外交官→政治家)だった。

この会合で中華民国が提示した講和条件の“中華三原則”は以下となる。

①:中華民国と日本の平和解決。

②:公平公正な対等交渉。

③:中華民国による中国大陸の日本排除運動の取り締まり。

外務大臣の広田弘毅(ひろたこうき/外交官→政治家)が提示した講和条件の“広田三原則”は以下となる。

①:中華民国による中国大陸の日本排除運動の取り締まり。

②:満州国の建国に対して中華民国の正式な承認。

③:日本と中華民国で、内モンゴル一帯の華北(かほく)地域の抵抗勢力を一掃する。

しかし、中華民国の国内では、満州国の建国や内モンゴル一帯の華北(かほく)地域の情勢は、日本が勝手に引き起こした動乱と受け止めており、今更に講和を締結する必要は無いとの意見が多数だった。

この中華民国の強硬姿勢に対して日本と支那駐屯軍は、1935年に河北省(かほくしょう)の塘沽(とうこ)の非武装地帯だった地域一帯に冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)を設けた。

日本から送り込まれた官僚により冀東政権(きとうせいけん)が運営した。

これに対して中華民国も、日本との交渉窓口として冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)に隣接して冀察政務委員会(きさつせいむいいんかい)を設けた。

ただ、冀察政務委員会(きさつせいむいいんかい)の役目は中華民国との思惑(おもわく)とはかけ離れ、日本の関東軍が密貿易や阿片(アヘン)を中国大陸に流通させる為に無関税で利用した。

この好条件を日本の大小の商社も参入し、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)や冀察政務委員会(きさつせいむいいんかい)の地域一帯に支社を設けて日本からの輸入品を中国大陸に流通させた。

こうなると中華民国は関税収入が減少し、安価で高品質な日本製商品が中国大陸に出回る事で、中国製品の売上も激減した。

この事態に憤懣(ふんまん)したのは当事者の中華民国だけでなく、アメリカやイギリスも中国大陸の経済市場を独占する日本に対して抗議した。

そこでアメリカやイギリスは、中華民国の与党でもある蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党に軍事支援を実施する。

これが国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)と資本主義国家のアメリカやイギリスとの結び付きの要因である。

RUPERT HOLMES /♪ SO BEAUTIFUL IT HURTS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:38:15

◆◇◆其の四十六:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

中国大陸に駐屯する関東軍や支那駐屯軍は、徹底的な武力制圧で「華北分離工作」(かほくぶんりこうさく)を推進した。

しかし、この中国大陸の事態を危惧していた日本の軍人がいた。

満州国から日本に帰還していた関東軍の幹部だった石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)である。

この時期、世界情勢はソビエトのレーニン(政治家→ソビエト創立者)が創設した共産主義インターナショナルの意義を持つ政治思想のコミンテルン(国際共産主義運動)を拡大させており、世界で強大な共産圏を構築していた。

この共産主義のソビエトに石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)は脅威を感じ、いずれ日本のソビエトの共産圏に飲み込まれると主張していた。

しかし、中国大陸に駐留する関東軍の幹部だった武藤章(むとうあきら/軍人)は、資源確保の為に「華北分離工作」(かほくぶんりこうさく)の計画を主張した。

こうして石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)は中国大陸に渡り、関東軍の武藤章(むとうあきら/軍人)にソビエト攻防対応を威令(いれい)した。

石原莞爾…『おいっ! 「華北分離工作」(かほくぶんりこうさく)より、緊急課題でもあるソビエト攻防対応を先決しろぉ!』

武藤章…『おやぁ!? 「華北分離工作」(かほくぶんりこうさく)は、あなた方の時代の関東軍が実施した1931年の「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)や「満州事変」を見習って実施しております。 そのお手本を中止しろとはどう言う事ですか?』

石原莞爾…『うぬぬっ・・・』

日本も若干の内輪揉(うちわも)めがあったが、中華民国はそれよりもかなり酷(ひど)かった。

中華民国は政党が挙国一致で日本に挑(いど)まなけれならないが、蒋介石(しょうかいせき/国民党)が率いる国民党と、毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)が率いる共産党の溝は一向に埋まる気配がない。

そして、国民党が共産党に攻勢を仕掛けて追い込み勝利する。

こうして共産党の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)は、中国大陸の南部に位置する江西省(こうせいしょう)の瑞金(ずいきん)に拠点を移転する。

その後の共産党はソビエトのコミンテルン(国際共産主義運動)を主導する団体とも対立し、ゲリラ戦線に傾斜していく。

ただ、勢力基盤を拡大させた国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)により、共産党の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)と弟の毛沢覃(もうたくたん/共産党)、それに鄧小平(とうしょうへい/共産党→ 人民解放軍元帥)などの幹部は処分され政界から追放される。

1935年に毛沢覃(もうたくたん/共産党)は、国民党との対戦で戦死する。

RAY PARKER /♪ THAT OLD SONG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:39:10

◆◇◆其の四十七:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

この頃の1934年〜1935年に、共産党の拠点だった江西省(こうせいしょう)の瑞金(ずいきん)から1万2500kmを徒歩で移動した「長征」(ちょうせい)と呼ぶ。

江西省(こうせいしょう)の西部に位置する貴州省(きしゅうしょう)の遵義(じゅんぎ)にて、共産党の会議を開催して最高指導者の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)の元で勢力を拡大する事を決定する。

これを1935年に開催した「遵義会議」(じゅんぎかいぎ)と呼ぶ。

共産党は貴州省(きしゅうしょう)の北部に位置する陝西省(せんせいしょう)の延安(えんあん)に拠点を移転する。

この頃の共産党の中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)は、最盛期の10万人から1万人までに減少していた。

国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、共産党との徹底交戦により討伐する事を命じた。

ただ、そんな国民党の党員にも、毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)の政策に近い思想を持つ者も居り、その1人が張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)の息子で奉天派(ほうてんは)と国民党を統合し中国統一を果たした張学良(ちょうがくりょう/奉天派→ 国民党)である。

共産党の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)と国民党の張学良(ちょうがくりょう/奉天派→ 国民党)は、密かに会合を開催して密談を重ねた。

これに気付いた国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、張学良(ちょうがくりょう/奉天派→ 国民党)に対して共産党との徹底交戦を威令(いれい)した。

ところが張学良(ちょうがくりょう/奉天派→ 国民党)らの国民党の党員に、陝西省(せんせいしょう)の西安(せいあん/長安)で逆に蒋介石(しょうかいせき/国民党)が拘束され監禁される。

これを1936年に起こった「西安事件」(せいあんじけん)と呼ぶ。

これに驚愕(きょうがく)した共産党の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)は、幹部の周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)を西安(せいあん/長安)に派遣して、監禁されている国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)と会談した。

周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)は、中華民国は政党が挙国一致して国内対立より先に日本との抗戦し、共産党と国民党の和睦を交渉した。

この周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)の説得に、蒋介石(しょうかいせき/国民党)も納得して挙国一致政策に方針を変更した。

EVIE SANDS /♪ TAKE A LITTLE LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:40:03

◆◇◆其の四十八:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

中華民国の内輪揉(うちわも)めが解決しひと段落した頃に、日本ではとんでもない事件が勃発する。

1936年2月26日に日本軍の若手軍人が、天皇が主権を掌握する王政復古を掲げた独裁政権を樹立させる為に軍事クーデターを起こした。

東京都心部の永田町や霞ヶ関を中心に、政府主要施設などを占拠した。

軍国主義国家を提唱していた第31代内閣総理大臣の岡田啓介(おかだけいすけ/軍人→政治家)も弱腰と批判して襲撃するも、人違いで義理弟が射殺される。

事態を重く観た日本軍の幹部と第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)は、軍事クーデターを起こした若手軍人を説得して投降させた。

その後の軍法裁判で若手軍人は死罪の判決を受けた。

これを1936年に起こった「二二六事件」と呼ぶ。

第31代内閣総理大臣の岡田啓介(おかだけいすけ/軍人→政治家)は、この「二二六事件」の責任を取り辞任した。

次期総理に外務大臣に就いて中華民国と交渉していた広田弘毅(ひろたこうき/外交官→政治家)が第32代内閣総理大臣に就任した。

JONATHAN BUTLER /♪ SARAH,SARAH

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:41:01

◆◇◆其の四十九:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

日本の政局で大混乱している最中(さなか)に、中国大陸の中華民国でも大事件が勃発した。

この時期の日本軍の戦略は、中国大陸の満州国に駐屯する関東軍は、ソビエトへの交戦に備えて北上前線を配備していた。

一方で、河北省(かほくしょう)の塘沽(とうこ)の地域一帯の冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)に駐屯する支那駐屯軍は、中国軍への交戦に備えて南下前線を配備していた。

しかし、小所帯の支那駐屯軍だけでは中国軍を抑止する事はできず、日本から兵士の増員を要請し日本援軍が冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)に渡ってきた。

ところが日本援軍が到着すると、その人員の多さに駐在する施設が足りなかった。

そこで北京の南西部に位置する豊台(ほうだい)に収容施設を設けた。

ただ、この豊台(ほうだい)周辺は市街地だった為に、日本援軍が軍事訓練する広大な場所がない。

そこで、豊台(ほうだい)から西側に行った盧溝橋(ろこうきょう)と言う橋が架かる河川敷で軍事訓練する事となる。

しかし、この盧溝橋(ろこうきょう)周辺には、中国軍の拠点でもある宛平城(えんへいじょう)が陣営を構えていた。

そんな一触即発(いっしょくしょくはつ)の中で、日本援軍が盧溝橋(ろこうきょう)の河川敷で軍事訓練を実施していると、中国軍の拠点から銃声が鳴り響いた。

日本援軍は軍事訓練を中止して事態の情報収集にあたったが、1人の兵士が見当たらない。

これは中国軍に拉致されたと判断し、早速に支那駐屯軍に報告を入れた。

ただ、この行方不明になった兵士は、便所(トイレ)に行っていただけである。

支那駐屯軍は、直ちに中国軍に対して事態の解明と報告、それに謝罪を要求した。

この支那駐屯軍の要求に中国軍は、兵士の誰1人として日本援軍に向けて発砲した者は居らず真相は不明で、その為に謝罪の必要も無いと回答してきた。

以前にも日本軍と中国軍が衝突した際に、戦闘が終わった後も日本軍は武装解除しなかった事があり、それを中国軍の武力が恐怖で日本軍は武装解除できなかったと風聴(ふうちょう)した過去がある。

その為に今回も日本軍が、中国軍の説明を間に受けて事態収束させれば、また何を言われるか分からない。

そこで支那駐屯軍は、中国軍に対して誠意ある対応が無かったとして、中国軍の拠点でもある宛平城(えんへいじょう)の一帯で総攻撃を仕掛ける。

北京の盧溝橋(ろこうきょう)周辺で、日本軍と中国軍が軍事衝突と起こした。

これを1937年に起こった「盧溝橋事件」(ろこうきょうじけん)と呼ぶ。

WILSON BROTHERS /♪ LIKE YESTERDAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:41:52

◆◇◆其の五十:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

この盧溝橋(ろこうきょう)での軍事衝突を聞いた石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)は、直ぐに支那駐屯軍に対して戦闘を中止する様に要請し、ソビエトへの交戦に備えて満州国に駐屯する関東軍を後方支援する様に威令(いれい)を出す。

しかし、関東軍の幹部だった武藤章(むとうあきら/軍人)は、これを機に中国軍との全面戦争を主張した。

この時の支那駐屯軍は日本援軍が加勢したとは言え小所帯だった為に、大群勢の中国軍と正面から侵攻する武力は持っていない。

そんな日本軍に取って不利な戦況もあり、石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)も支那駐屯軍の救済目的で渋々に全面戦争を承諾した。

これにより満州国の関東軍と大韓帝国の朝鮮軍、それに日本から更なる日本援軍を侵攻させた。

一時的に、この戦乱収束の為に、日本軍と中国軍は停戦の協定を締結する。

しかし、国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、北京政府として現地で締結された停戦協定は認可できないと主張し、もし、日本軍は戦乱収束したければ、日本の政府と中華民国の北京政府との間で停戦協定を締結すべきだと言い放つ。

これに日本は反発し、徹底的に交戦する姿勢を示した。

そして日本軍は首都の北京と港町の天津(てんしん)を制圧して統治下に置いた。

これが要因となり日本と中華民国は「日中戦争」に突入した。

GERALD ALBRIGHT /♪ SAY IT WITH FEELING

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:42:46

◆◇◆其の五十一:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

この戦乱で、国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)と共産党の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)は和睦し、日本軍と戦闘する為に協力し合う。

これを1937年に実施した“第二次国共合作”(だいにじこっきょうがっさく)と呼ぶ。

これにより共産党の中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)は、政府の国民革命軍と合併して八路軍(はちろぐん)に再編される。

当初の日本は「日中戦争」は小規模で早期に終結すると考えていた。

それが大規模な戦闘になり、長期化する事になる。

その一因が日本軍の海軍にあった。

この頃の海軍の組織は、海軍省と軍令部に分別されていた。

海軍省は軍政や人事権を担い、外交交渉による戦争回避を重視しており、最高指導者には米内光政(よないみつまさ/軍人→政治家)が就任していた。

軍令部は作戦や軍指揮を担い、外交交渉が決裂した際の戦争計画を画策しており、最高指導者には皇室の伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう/皇族→ 軍人)が就任していた。

因みに皇室の世襲親王家には、1409年に創設された伏見宮(ふしみのみや)、1589年に創設された桂宮(かつらのみや)や京極宮(きょうごくのみや)、1625年に創設された有栖川宮(ありすがわのみや)や高松宮(たかまつのみや)、1710年に創設された閑院宮(かんいんのみや)がある。

ADRIAN GURVITZ /♪ PUT A LITTLE LOVE(IN LIFE'S HEART)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:43:38

◆◇◆其の五十二:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

そんな時に今度は上海で大事件が勃発した。

日本軍の海軍に所属する幹部の大山勇夫(おおやまいさお/軍人)と運転手が、車で上海の市街地を移動していたところに、中華民族のテロリストに襲撃され死去した。

大山勇夫(おおやまいさお/軍人)と運転手は、中華民族のテロリストに射殺された後、太刀(たち)で身体をめった斬りにされバラバラにされた。

これを1937年に起こった「大山事件」(おおやまじけん)と呼ぶ。

これには日本軍もさすがに理性を失い、上海の租界(そかい)を含めた市街地に、海上から戦艦で総攻撃を仕掛けた。

対する中国軍も戦闘機で日本軍の戦艦を空爆して反撃する。

海軍の軍令部の米内光政(よないみつまさ/軍人→政治家)は、怒りを増幅させて中国大陸の一帯に総攻撃を命じる。

満州国からは東條英機(とうじょうひでき/軍人→木曜会→ 一夕会)が率いる関東軍が南下してきた。

これにより日本軍は上海以外の市街地にも侵攻した。

地元の中国軍は地の利を活(い)かして、重要拠点に陣営を設けて、「第一次世界大戦」で攻防成果が立証された水堀を四方八方に掘削した。

これに日本軍は苦戦し多くの戦死者を出していく。

しかも中国軍は追い詰められると、直ぐに撤退して別の場所に陣営を設けて反撃してきた。

こうして戦争は拡大と長期化して、日本軍が当初に思い描いていた短期決戦には程遠かった。

この大損傷する日本軍の責任を取って日本軍の参謀だった石原莞爾(いしわらかんじ/軍人→ 一夕会→関東軍)は要職を辞任し、中国大陸に渡り東條英機(とうじょうひでき/軍人→木曜会→ 一夕会)が率いる関東軍に加勢した。

「日中戦争」に積極的だった日本軍の武藤章(むとうあきら/軍人)も戦地に赴き戦闘に加わる。

日本軍が総力戦で侵攻してきた為に、中華民国の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、中国軍を上海から退陣させた。

こうして大山勇夫(おおやまいさお/軍人)と運転手の敵討ちとして、日本軍は壊滅させ上海を占拠した。

日本軍は中国軍を撃退し戦術には勝利したが、甚大な被害を被(こうむ)り戦略で敗北した結果となる。

これを1937年に起こった「第二次上海事変」(だいにじしゃんはいじへん)と呼ぶ。

この時点で日本も中華民国も、「日中戦争」の宣戦布告を実施していない。

これには理由があり、日本も中華民国もアメリカとの貿易で軍事物資を輸入していた。

ただ、アメリカとの条約で日本と中華民国が戦争状態になった場合は、中立法により経済制裁と貿易停止が発動される事になっていた。

その為に、表向きは中国大陸での内乱の鎮圧とし、「盧溝橋事件」(ろこうきょうじけん)は「北支事変」と呼び、「第二次上海事変」(だいにじしゃんはいじへん)は「支那事変」と呼び、「日中戦争」は「日華事変」と呼んでおり、戦争と言う言葉は使用していない。

Will Foulke /♪ NO WORRIES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:44:36

◆◇◆其の五十三:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

この時期にヨーロッパのドイツでは、ナチス党の最高責任者でオーストリア人のアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が政権を掌握していた。

ドイツのナチス党は、日本のドイツ大使にディルクセン(軍人→日本ドイツ大使)を駐在させ、中華民国のドイツ大使にトラウトマン(軍人→中国ドイツ大使)を駐在させていた。

この頃のドイツは、日本と中華民国は同盟を締結しており、ヨーロッパ戦線を目論むナチス党のアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)としては、何とかアジアの両国の戦闘は避けたいと考えていた。

そしてドイツが仲介し、日本と中華民国の和平交渉が始まる。

日本の第32代内閣総理大臣の広田弘毅(ひろたこうき/外交官→政治家)は、ドイツ大使のディルクセン(軍人→日本ドイツ大使)に対して複数項目の講和条件を提示した。

①:中華民国の支配が及ばない内モンゴルの自治政府の創設。

②:日本軍が駐屯する華北(かほく)地域と上海に日本人の居住者を保護する非武装地帯の設置。

③:他国の侵攻を両国で防衛する“日中防共協定”の締結。

④:中国大陸の各地で起こっている日本排除運動の取り締まり。

日本のドイツ大使のディルクセン(軍人→日本ドイツ大使)は、早速に中華民国のドイツ大使のトラウトマン(軍人→中国ドイツ大使)に手紙を送達し、そこから中華民国の蒋介石(しょうかいせき/国民党)に日本からの講和条件を提示した。

これを1937年に実施した「トラウトマン和平工作」と呼ぶ。

しかし、断固として戦闘を継続する強硬派の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、日本からの講和条件を全て拒否した。

その蒋介石(しょうかいせき/国民党)の胸の内には、3つの思惑があった。

①:「盧溝橋事件」(ろこうきょうじけん)や「第二次上海事変」(だいにじしゃんはいじへん)で中国軍は敗北したとは言え、共産党の中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)と国民党の国民革命軍を再編して組成した八路軍(はちろぐん)の導入もあり、戦局は不利とは言えなかった。

②:1922年にアメリカにて「第一次世界大戦」の事後確認をするワシントン会議にて締結された“九カ国条約”にて、他国は中華民国の独立と行政的、領土的保全を約束し、門戸開放と機会均等の原則を承認した為に、今回の日本軍の侵攻は条約違反するとして国際連盟に提訴していた。

③:中華民国は、同じ共産圏でソビエトのスターリン(ソビエト書記長)に対して、日本軍へ侵攻する援軍を要請していた。

ただ、この蒋介石(しょうかいせき/国民党)の皮算用が全て裏目に出る。

EARTH,WIND & FIRE /♪ FEELIN' BLUE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:45:28

◆◇◆其の五十四:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

中国大陸の戦況悪化により、日本軍は大本営(だいほんえい)を設けた。

大本営(だいほんえい)とは、第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)の詔勅(しょうちょく)により宣旨(せんじ)が出され、日本軍の陸軍と海軍が戦争を指揮する最高機関である。

ただ大本営(だいほんえい)には、政府の官僚が参加できない事から、政府の方針が反映されず軍部が暴走する危険性もあった。

そこで政府の内閣は、日本軍との意思疎通を図る為に“大本営政府連絡会議”を開催した。

この“大本営政府連絡会議”での決定事項は、『ある程度、中国軍に攻撃をし弱体化したら和平交渉する。』と言う内容だった。

この時の日本軍では、陸軍が圧倒的な権力と武力を掌握しており発言権が強かった。

陸軍の組織は、参謀総長、参謀次長、作戦部長の要職が連なっている。

参謀総長には、皇室の閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう/皇族→ 軍人→政治家)が就任し、皇族の為に発言権が大きく、戦争では大局でしか発言しない。

参謀次長には、多田駿(ただはやお/軍人)が就任し、講和解決を望み中国侵攻には反対する穏健派だった。

作戦部長には、下村定(しもむらさだむ/軍人→政治家)が就任し、徹底した交戦で中国侵攻に賛成する武闘派だった。

“大本営政府連絡会議”での海軍と政府の方針は、発言権の大きい陸軍の意向に追従(ついじゅう)する姿勢を見せていた。

ただ、爆弾が飛び交わない安全な日本の“大本営政府連絡会議”がどんな政策を立てたとしても、中国大陸の戦地で戦う日本軍との温度差はあった。

TYLER,THE CREATOR /♪ SWEET&I THOUGHT YOU WANTED TO DANCE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:46:20

◆◇◆其の五十五:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

1937年の「第二次上海事変」(だいにじしゃんはいじへん)により上海に拠点を置いていた中国軍は、北西部の南京に移動した。

これに対して日本軍は南京に追撃を開始したが、思いの外に軍備と兵糧の減少が早く、南京に到着した時には、日本軍の軍備と兵糧はほぼ無くなっており底を着いていた。

日本からの補給も遅れており、日本軍は現地調達する為に進行する市街地で、民衆から軍備と食糧などを略奪していた。

江蘇省(こうそしょう)の南京に到着した日本軍は、中国軍が陣営を設ける南京城(なんきんじょう)を包囲した。

退陣戦術を採っていた中国軍の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、『一定期間は攻防して南京城(なんきんじょう)を死守しろ!』と檄(げき)を飛ばしていた。

これが裏目に出て、南京城(なんきんじょう)で篭城する中国軍は、戦況が悪化しても撤退する機会を失い、城内で留(とど)まるしかなかった。

その為に南京城(なんきんじょう)の城内に設けてある非武装地帯の安全区に、多くの兵士が逃げ込んだ。

更に北西側の城門から逃亡を図る兵士も多く、近くに流れる長江(ちょうこう/揚子江)を渡ろううとして、速い水流により溺死した。

日本軍の侵攻は落ち着いたが、捕虜で拘束した中国軍の兵士に食べさせる食糧も無く、勝利を確信できるまではジェノサイド(集団殺戮)を実施した。

これを1937年に起こった「南京大虐殺」(南京事件)と呼ぶ。

現代でも日本と中国の関係にシコリを残す「南京大虐殺」(南京事件)だが、実は平安時代末期の1100年代に、政権を掌握する平氏に対して反旗を翻(ひるが)した河内源氏の系統の信濃源氏の木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)も、京都に上洛した際は、木曽源氏軍は軍備と兵糧に困窮(こんきゅう)して平安京にて略奪行為を実施している。

『歴史は繰り返す。』と言う教訓は、窮地に追い込まれ理性が崩壊した人間の行動を、こう言う所からも読み取れる。

現代でも、鉄とコンクリートで造られた街に生息する人間も似たり寄ったりで、そんな大差はない。

中国軍は陣営の拠点を落城した南京から重慶(じゅうけい)に移転した。

正に勝利も敗北もない戦争の“イタチごっこ”である。

Alessi Brothers /♪ HOW LONG,HOW MUCH

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250925 - ラジオの友 URL

2025/09/25 (Thu) 21:47:22

◆◇◆其の五十六:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆

日本でも、中華民国でも、政局と戦況が大混乱する中で、その統治の能力に瑕疵(かし)や欠陥があるとして第32代内閣総理大臣の広田弘毅(ひろたこうき/外交官→政治家)は1937年初期に辞職した。

次期総理に就任した第33代内閣総理大臣の林銑十郎(はやしせんじゅうろう/軍人→政治家)は、国会の予算を成立させ4ヶ月で辞職した為に“食い逃げ解散”と呼ばれた。

1937年中期に次期総理に就任したのが藤原氏北家(ほっけ)の五摂家(ごせっけ)でもある近衛家(このえけ)の名門家の系統の、第34代内閣総理大臣の近衛文麿(このえふみまろ/公卿→政治家)である。

1937年に実施した「トラウトマン和平工作」により、日本のドイツ大使のディルクセン(軍人→日本ドイツ大使)と中華民国のドイツ大使のトラウトマン(軍人→中国ドイツ大使)を仲介役として、日本と中華民国の和平交渉は、中華民国の蒋介石(しょうかいせき/国民党)により断固拒否され消滅していた。

ところがここに来て、和睦を断固拒否した蒋介石(しょうかいせき/国民党)の3つの思惑が全て外れた。

①:「盧溝橋事件」(ろこうきょうじけん)や「第二次上海事変」(だいにじしゃんはいじへん)で中国軍は敗北したとは言え、共産党の中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)と国民党の国民革命軍を再編して組成した八路軍(はちろぐん)の導入もあり、戦局は不利とは言えなかった。 → 1937年に起こった「南京大虐殺」(南京事件)にて中国軍はほぼ壊滅し、戦況が不利となる。

②:1922年にアメリカにて「第一次世界大戦」の事後確認をするワシントン会議にて締結された“九カ国条約”にて、他国は中華民国の独立と行政的、領土的保全を約束し、門戸開放と機会均等の原則を承認した為に、今回の日本軍の侵攻は条約違反するとして国際連盟に提訴していた。 → ヨーロッパで開催されていた“九カ国条約”の会議にて、今回の「日中戦争」こと「日華事変」に対して日本に制裁しない事が決定する。

③:中華民国は、同じ共産圏でソビエトのスターリン(ソビエト書記長)に対して、日本軍へ侵攻する援軍を要請していた。 → ソビエトのスターリン(ソビエト書記長)は不穏な動きを見せるドイツに注視し、日本への侵攻を拒否した。

中華民国の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、この様な“背水の陣”の状況で日本と和睦すると言い出した。

これには流石(さすが)に虫が良すぎる。

日本の政府は、前回の講和条件を追加と改定して提示した。

①:中華民国の支配が及ばない内モンゴルの自治政府の創設。 → 内モンゴルの独立政府の創設。

②:日本軍が駐屯する華北(かほく)地域と上海に日本人の居住者を保護する非武装地帯の設置。 → 非武装地帯を華中(かちゅう)地域までに拡大。

③:他国の侵攻を両国で防衛する“日中防共協定”の締結。

④:中国大陸の各地で起こっている日本排除運動の取り締まり。

⑤:中華民国は戦争賠償金の支払い。

しかし、“窮鼠(きゅうそ)、猫を噛む”の如(ごと)く中華民国の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、日本からの改訂版の講和条件を全て拒否した。

この中華民国の強硬路線に対して、日本の政府と日本軍が設けた“大本営政府連絡会議”では、陸軍の参謀次長の多田駿(ただはやお/軍人)が『改訂版の講和条件を早期に締結する。』と主張したのに対して、外務大臣の広田弘毅(ひろたこうき/外交官→政治家)は『時間稼ぎばかりで問題解決意思と誠意の無い中華民国と和睦する必要は無い。』と主張した。

海軍省の米内光政(よないみつまさ/軍人→政治家)も外務大臣の広田弘毅(ひろたこうき/外交官→政治家)に同調し『中国大陸での「日中戦争」は勝利するまで継続すべき。』と主張した。

これにより日本の34代内閣総理大臣の近衛文麿(このえふみまろ/公卿→政治家)も、『中華民国と講和の締結は無い!』と発言した。

これを1937年に発表した「第一次近衛声明」(だいいちじこのえせいめい)と呼ぶ。

Henry Gross /♪ SHANNON

◆ラジオの友◆

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.