都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:29:03
◆◇◆其の二十一:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
20世紀初期の中国大陸は、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本などが各地を占領下に置いた植民地としていた。
そんな中国大陸が侵略されていた時代の1893年に、湖南省(こなんしょう)の湘潭(しょうたん)で毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)は誕生した。
そして1898年に、江蘇州(こうそしょう)の淮安(わいあん)の貧しい家庭に周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)は誕生する。
諸外国に抑圧され、貧困に喘(あえ)いでいた中華民族は、更に西洋から来た宣教師によりキリスト教への改宗(かいしゅう)を強要された。
これに憤懣(ふんまん)した山東省(さんとうしょう)の民衆が奮起して義和団(ぎわだん)を組成して反乱を起こす。
この義和団(ぎわだん)の行動に、北京の紫禁城(しきんじょう)を拠点とする清(しん)王朝の第11代皇帝の光緒帝(こうしょてい/皇帝)や、垂簾聴政(すいれんちょうせい)を実施していた叔母の西太后(せいたいこう/女帝)は反乱を支持し、諸外国連合軍に宣戦布告して軍隊を送り込んだ。
しかし、諸外国連合軍の強靭な軍事力や豊富な物資の前では、脆弱な清軍や義和団(ぎわだん)はなす術(すべ)もなく大敗する。
勝利した諸外国は更に中国大陸の抑圧を強め、ロシアは満州の東北一帯、日本は朝鮮半島や台湾などの海域一帯、ドイツは北西一帯、イギリスは西部一帯、フランスは南部一帯を支配した。
これを1900年に起こった「義和団の乱」(ぎわだんのらん)と呼ぶ。
この頃の清(しん)王朝の中華民族は、1904年の「日露戦争」で大国のロシアに勝利した日本を賞賛(しょうさん)し、明治維新の成功を学ぼうと日本へ留学する者が多かった。
その1人が1866年に広東省(かんとんしょう)の香山(こうざん)で誕生した孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)だった。
日本に留学した孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は、文明が発達し近代化した日本を目の当たりにし、古来の清(しん)王朝では政治経済改革はできないと悟り、皇帝のいない共和制の国家を創建する目標を立てる。
この日本の留学時代に、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)の支援したのが、香港の貿易商で後々に日活の創業者となる梅屋庄吉(うめやしょうきち/実業家)だった。
孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は、東京で中華民族の同志と共に中国同盟会を結成した。
この時に孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が掲げたのが三民主義だった。
三民主義とは、民族の独立を意味する民族主義、民権の保証を意味する民権主義、民生の安定を意味する民生主義の3つからなる。
この頃の中国大陸が混沌とした時代の1904年に、四川省(しせんしょう)の広安(こうあん)で鄧小平(とうしょうへい/共産党→ 人民解放軍元帥)は誕生する。
STARTING LINE /♪ ISLAND (FLOAT AWAY)
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:29:50
◆◇◆其の二十二:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
清(しん)王朝の実権を掌握していた西太后(せいたいこう/女帝)は、近代化されるヨーロッパや日本の情報を聞いても、当初は中国大陸の近代化には断固反対していた。
ところが、ヨーロッパや日本が近代化の波に乗り、軍事力も拡大させ戦争に勝利している事を知ると、今度は中国大陸の近代化を推奨した。
この時期に清(しん)王朝の実行役は、1885年の“天津条約”(てんしんじょうやく)を日本と締結したり、1895年に「日清戦争」の日清講和会議により「馬関条約」(ばかんじょうやく/下関条約)を締結した李鴻章(りこうしょう/官僚)だった。
しかし、1901年に李鴻章(りこうしょう/官僚)が死去した為に、重鎮家臣で“ストロングマン”と呼ばれる袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)が引き継いだ。
袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、西太后(せいたいこう/女帝)の勅命(ちょくめい)により清軍の近代化を宣言する。
しかし、1908年に第11代皇帝の光緒帝(こうしょてい/皇帝)が崩御(ほうぎょ)し、その翌日には叔母の西太后(せいたいこう/女帝)も崩御(ほうぎょ)した。
一説には西太后(せいたいこう/女帝)の勅命(ちょくめい)により、光緒帝(こうしょてい/皇帝)は暗殺されたと言われる。
そして直ぐに西太后(せいたいこう/女帝)の遺言により、光緒帝(こうしょてい/皇帝)の甥だった第12代皇帝(ラストエンペラー)の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)が就任する。
ただ、第12代皇帝(ラストエンペラー)の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)はまだ幼児だった為に、実際は父親の醇親王(じゅんしんのう)こと愛新覚羅載灃(あいしんかくらさいほう/皇族)が、日本の皇室で言う院政(いんせい)の治天の君(ちてんのきみ)に就任して実務をこなした。
西太后(せいたいこう/女帝)の遺言を実直に遵守しよう近代化を推進した袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、醇親王(じゅんしんのう)こと愛新覚羅載灃(あいしんかくらさいほう/皇族)に疎(うと)まれて北京の紫禁城(しきんじょう)から排除した。
こうして醇親王(じゅんしんのう)こと愛新覚羅載灃(あいしんかくらさいほう/皇族)は、諫言(かんげん)を言う邪魔者が居ない居心地の良い政権を掌握した。
INHALER /♪ YOUR HOUSE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:30:36
◆◇◆其の二十三:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
院政(いんせい)の治天の君(ちてんのきみ)みたいな重職に就いた醇親王(じゅんしんのう)こと愛新覚羅載灃(あいしんかくらさいほう/皇族)は清(しん)王朝の政権を掌握し、中国大陸を網羅する国有鉄道の敷設を命じる。
ただ、既存の鉄道網は各地方の自治で運営されており、そこに清(しん)王朝が国有化として鉄道を取り上げる事に、中華民族の怒りは最高潮となり、各地で反乱が勃発した。
清(しん)王朝は清軍を各地に派遣して、反乱の鎮圧を実施した。
そんな時に、湖北省(こほくしょう)の武漢(ぶかん)の1つでもある武昌(ぶしょう)で、中国革命軍のアジト(隠れ家)で爆弾が暴発した。
これにより中国革命軍のアジト(隠れ家)が清軍に発覚し、戦闘状態に発展する。
これを1911年に起こった「武昌起義」(ぶしょうきぎ)と呼ぶ。
こうして中国革命軍の勢力は増幅し、中国大陸の南部を制圧して、上海の西部に位置する南京を拠点とした。
このタイミングで孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が日本での留学を終えて中国大陸に帰国していた。
これに危機感を抱いた第12代皇帝(ラストエンペラー)で幼児の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)と、院政(いんせい)で父親の醇親王(じゅんしんのう)こと愛新覚羅載灃(あいしんかくらさいほう/皇族)は、清軍の実力者だった袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)を呼び戻し、清軍の総大将に復帰させる。
しかし、この時期の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、時代は既に清(しん)王朝ではないと感じていた。
そして袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、南京を拠点とする中国革命軍と和睦する施策を採る。
中国革命軍は信用できない清(しん)王朝との和睦を拒否して、南京を首都とした中華民国の建国と、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)を大総統に就任させた。
中国大陸が清(しん)王朝と中華民国の二国に分裂し、それを注意深く観ていたのは日本とイギリスだった。
今までの関係性から清(しん)王朝への支持を表明した日本とイギリスは、経済と軍事の支援を実施した。
これにより建国まもない中華民国は直ぐに財政難に陥り、大総統の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は清(しん)王朝へ和睦の条件を提示した。
①:清(しん)王朝の皇帝の退位と皇族の廃止。
②:中国大陸の共和制へ移行し、袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)が大総統に就任する事。
この中華民国の大総統だった孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)から示された和睦の条件に、第12代皇帝(ラストエンペラー)で幼児の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)と院政(いんせい)で父親の醇親王(じゅんしんのう)こと愛新覚羅載灃(あいしんかくらさいほう/皇族)など紫禁城(しきんじょう)の皇族は反発したが、ただ、清軍を掌握していた袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は快諾した。
こうした皇族後継者問題や「義和団の乱」(ぎわだんのらん)の不手際で、更に弱体化した清(しん)王朝に対して中華民族は見切りを付ける。
こうして1644年〜1912年の268年間も続いた清(しん)王朝は崩壊した。
これを1911年に起こった「中国第一革命」こと「辛亥革命」(しんがいかくめい)と呼ぶ。
JOEY TEMPEST /♪ WE COME ALIVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:31:10
◆◇◆其の二十四:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
●●●1912年〜1949年 中華民国●●●
「辛亥革命」(しんがいかくめい)を成功させた中国革命軍を率いた孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は、1912年に北京を拠点とする中華民国を正式に建国した。
これにより2000年以上も続いていた中国大陸の王朝の歴史は途切れ、国民党を率いる孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は“中国革命の父”と呼ばれる様になる。
この領国の統治の違いは何なのか?
清(しん)王朝は“君主制”(くんしゅせい)を採っており、皇帝が主権を持ち、国民を統治している。
中華民国は“共和制”(きょうわせい)を採っており、国民が主権を持ち、選挙にて主権を持つ大統領を選任する。
日本は“立憲君主制”(りっけんくんしゅせい)を採っており、天皇の勅命(ちょくめい)で首相が就任して主権を持ち、議会と法律で国民を統治している。
この時期、中国では様々な政策思想を持った政党が乱立した。
中国革命軍と清(しん)王朝との和睦の条件の通りに、中華民国の初代総統には“ストロングマン”と呼ばれる袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)が就任した。
実質的に清(しん)王朝を討伐した中国革命軍を率いた孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は、袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)に総統に就任する条件を与えていた。
①:中華民国の首都は南京に置く事。
②:中華民国の内閣は南京で執務し、総統も同調する事。
③:総統は臨時約法(憲法)を順守する事。
しかし、清(しん)王朝にて清軍を統括し、北京の紫禁城(しきんじょう)に地盤のある袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)にとって、南京に移住すると地盤を失う可能性があり、色々と理由を付けて拒否した。
その為に中国革命軍の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)も承諾したが、臨時約法(憲法)の順守だけは承認させた。
この臨時約法(憲法)を作成したのは、中国革命軍の宋教仁(そうきょうじん/国民党)で、“共和制”(きょうわせい)の中華民国の主権は国民にあり、総統の権限は議会と臨時約法(憲法)により制限して、総統の独裁を抑制していた。
更に「辛亥革命」(しんがいかくめい)で地方自治の独立心が強くなり、宋教仁(そうきょうじん/国民党)は中華民国で地方分権体制を採り入れた。
SEMISONIC /♪ CHEMISTRY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:31:46
◆◇◆其の二十五:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
宋教仁(そうきょうじん/国民党)はアメリカの“共和制”(きょうわせい)を学び、独立した地方分権により国民の民主制度を確立し、政府機関は国家全体を統治する構想を持っていた。
しかし、権力欲の強い袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、地方自治に分権すると独立心から反乱が起こり、古来の中国大陸の様に幾つもの国に分裂する可能性があると主張し、中央集権体制を試(こころ)みる。
こうして中華民国の議会を設ける為に、国民による選挙が開催される事となる。
宋教仁(そうきょうじん/国民党)は国民党の創設し、主要党員には孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)や黄興(こうこう/中国革命家→国民党→政治研究者)が加わった。
一方の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は共和党を創設し、主要党員には清(しん)王朝の官僚や清軍の軍人が加わった。
そして中国大陸で初となる国民による選挙では、宋教仁(そうきょうじん/国民党)の国民党が1/3余りの議席を取り勝利した。
一方の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)の共和党は1/5余りの議席しか取れず、その他の民主党と統一党も微々たる議席だった。
この勢いで宋教仁(そうきょうじん/国民党)の国民党は、総統の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)を辞任に追い込んで、国民党による内閣を目指す。
ところが根っからの軍人である袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、1913年に刺客を放ち上海で宋教仁(そうきょうじん/国民党)を暗殺した。
そして、袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)の共和党は、民主党と統一党などの他の党を吸収して進歩党と名称を変更した。
この頃、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は日本を訪問していたが、革命の同志で国民党の宋教仁(そうきょうじん/国民党)が暗殺された知らせを受けて、急遽、中華民国に帰国した。
THE WONDER STUFF /♪ SLEEP ALONE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:32:21
◆◇◆其の二十六:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は国民党の代表に就任し、袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)の進歩党と対峙した。
ところが袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、国民党の党員に賄賂(ワイロ)を送り進歩党に引き込んでいた。
この行為に激怒した孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)と黄興(こうこう/中国革命家→国民党→政治研究者)は、元々のゲリラ部隊で戦闘を繰り広げた中国革命軍を再結成し武装蜂起した。
これが1913年に起こった「中国第二革命」となる。
しかし、清(しん)王朝の清軍を引き継いだ袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、圧倒的な軍事力で中国革命軍を鎮圧して、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)と黄興(こうこう/中国革命家→国民党→政治研究者)は日本へ亡命した。
こうして中華民国で絶対的な権力を掌握した袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)の国民党を解散させて、亡き宋教仁(そうきょうじん/国民党)が国家制度を策定した議会や臨時約法(憲法)も撤廃し、中華民国の大総統が独裁政治できる制度と憲法を策定した。
この様な袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)の強気の姿勢は、後ろ盾にイギリスと日本が付いていた事情もある。
この為に日本に亡命した孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)と黄興(こうこう/中国革命家→国民党→政治研究者)は、政府の圧力で入国許可が下りず、アメリカに行くように薦められる。
ただ、日本の政治家で交流のあった犬養毅(いぬかいつよし/備中→政治家)などの尽力で、何とか日本への入国許可が下りた。
犬養毅(いぬかいつよし/備中→政治家)とは立憲政友会の党員で、第29代の内閣総理大臣に就任するも、1932年の「五一五事件」で暗殺された人物である。
日本に入った孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)と黄興(こうこう/中国革命家→国民党→政治研究者)は、東京の拠点で中華革命党を結成する。
以前の国民党は、話し合いで解決する温和主義だったが、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)はこの生温(なまぬる)さが革命の失敗を生んだと考えた。
そして中華革命党は、絶対服従の武闘主義で、規律を厳格にして統制の取れた集団で革命を成功させる方針を打ち出した。
しかし、この武闘主義に反発した黄興(こうこう/中国革命家→国民党→政治研究者)など複数の党員は、早々に離脱する。
日本の東京で結成された中華革命党の最高指導者に就いた孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は、印刷業者で成功し浙江財閥(せっこうざいばつ)の創業者となる宋嘉澍(そうかじゅ/実業家→宣教師)の政治支援を受けていた。
宋嘉澍(そうかじゅ/実業家→宣教師)は中華民族の有力者との絆(きずな)を深める為に、長女の宋靄齢(そうあいれい/中国→アメリカ)を石油会社を経営や中華民国の政治家となる孔祥熙(こうしょうき/実業家→政治家)に嫁がせ、次女の宋慶齢(そうけいれい/中国)は孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)に嫁がせ、三女の宋美齢(そうびれい/中国→台湾→アメリカ)は蒋介石(しょうかいせき/国民党)に嫁がせた。
THE MIGHTY MIGHTY BOSSTONES /♪ SHE JUST HAPPENED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:32:56
◆◇◆其の二十七:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
中国大陸で民族分裂や動乱が起こっている最中(さなか)に、世界に目を向けるとヨーロッパ大陸で各国が領土や資源を奪い合い、1914年7月〜1918年11月に「第一次世界大戦」が勃発する。
ロシアとフランスとイギリスの連合軍に対して、ドイツとオーストリアハンガリーの帝国軍が対峙し、ヨーロッパで勃発した「第一次世界大戦」に対して、中華民国の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は中立の立場を示した。
一方で増強した軍事力を世界に示したかった日本は、連合軍に加担して参戦を表明した。
この時期にドイツは山東半島(さんとうはんとう)を租借(そしゃく)して統治しており、日本は対岸の遼東半島(りょうとうはんとう)を占有し、渤海(ぼっかい)の一帯統治を計画していた。
しかし、中華民国の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は「第一次世界大戦」に対して中立を宣言しており、日本軍でも勝手に中国大陸でもある山東半島(さんとうはんとう)のドイツ軍を侵攻する事はできない。
そこで日本は中華民国の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)に対して圧力を掛けて、山東半島(さんとうはんとう)を統治するドイツを退却させる名目で攻撃の許可を出す。
こうして日本軍は一気に総攻撃を仕掛けてドイツ軍を撃退し、山東半島(さんとうはんとう)の占領下に置いた。
この頃の日本はアメリカやヨーロッパに目を着けられない様に、友好条約で確認を取りながらアジアの支配権を拡大してきた。
ところが「第一次世界大戦」の勃発でヨーロッパ諸国は、アジアに注力する事が出来なくなり、その隙を突いて日本は強気な姿勢を示す様になる。
311 /♪ FLOWING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:33:31
◆◇◆其の二十八:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
日本の強気な姿勢の矛先(ほこさき)が中華民国の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)に向き、日本に取って有利な条件を揃えた“対華二十一カ条要求”(たいかにじゅういちかじょうようきゅう)を突き付けた。
この“対華二十一カ条要求”(たいかにじゅういちかじょうようきゅう)の概要は、主に5ヶ条からなる。
第1号は山東省(さんとうしょう)問題。
日本軍がドイツ軍を撃退し占領下に置いた山東半島(さんとうはんとう)の権益を承認する事。
第2号は満州かつ内モンゴル問題。
遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)から奉天(ほうてん/瀋陽)を経由して長春(ちょうしゅん/新京)まで向かう南満州鉄道の権益を1997年まで延長する事。
満州や内モンゴルの領域について、日本による統治の権限拡大など。
第3号は中国製鉄会社の共同経営。
中華民国の国営製鉄会社の漢冶萍公司(かんやひょうこんす)の共同経営。
第4号は中国大陸での領土保障。
中国大陸の東部の沿岸部に対する安全保障。
第5号は中国政権に日本人を投与など。
中華民国の政権や政府機関に日本人の役人を雇用する事。
中国大陸にて日本の病院や神社仏閣を設ける事など。
日本から“対華二十一カ条要求”(たいかにじゅういちかじょうようきゅう)を突き付けられ、当然に中華民国の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は承諾せず、要求を拒否してそのまま突き返した。
更にアメリカやヨーロッパに日本の横暴を暴露すると脅してきた。
これに対して日本は、1915年5月6日に“対華二十一カ条要求”(たいかにじゅういちかじょうようきゅう)の第5号を除いた条件を承諾する様に要求し、拒否すれば軍事行動に出ると脅してきた。
日本と中華民国の軍力差は雲泥で、怖気(おじけ)付いた袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、1915年5月9日に渋々に承諾した。
この事が中国大陸の全土に明るみとなり、中国の国民は『日本の軍事圧力に屈した中国の恥である。』として、5月6日と5月9日を“国恥記念日”(こくちきねんび)に制定した。
JAMIE CULLUM /♪ PHOTOGRAPH
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:34:10
◆◇◆其の二十九:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
こんな中華民国の総統の“ストロングマン”と呼ばれる袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)が外交で弱腰の姿勢を見せた事で、中華民族に不信感が募(つの)った。
更に重鎮家臣でもある馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)と段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)も、袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)に対して反発した。
国民からも家臣からも見放され、窮地に追い込まれた袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は奇策に出る。
何と滅亡させた王朝を復活させて、自らを皇帝に即位させたのである。
中華民国から中華帝国に国政を変更して、袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は皇帝となった。
さすがに国民も家臣も呆(あき)れてモノも言えず、中国大陸の各地で反乱が勃発する。
これが1915年に起こった「中国第三革命」である。
中国大陸の南部に位置する雲南省(うんなんしょう)で挙兵した雲南護国軍は、中華帝国からの独立を目指して革命を起こした。
これに袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は中華軍隊を進軍させて鎮圧に当たらせ、当初は雲南護国軍を追い込んでいった。
ところが、中華帝国の皇帝に就いた袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)に見切りをつけていたのは国外も同様で、特に隣国の日本は密かに雲南護国軍に軍事援助を始めていた。
これにより軍事力を増強した雲南護国軍は反撃に出て、中華軍隊を敗退に追い込んだ。
中華軍隊の敗北で袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は、中華帝国の建国と皇帝の就任を廃止し白紙に戻した。
こうして袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)は退任し、中華民国の2代目総統に黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)が就任した。
そして黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)は、中華帝国の以前の国政に全て戻した。
しかし、袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)の圧倒的な軍事力まで、黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)は引き継げなかった為に、それが最大の弱点となる。
そこで黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)は、袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)の重鎮家臣だった馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)と段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)を重要な役職に就任させた。
そんな混乱が続く中華民国だが、1916年に混乱の原因を作った袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)が病死した。
ROBBIE WILLIAMS /♪ GO GENTLE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:34:48
◆◇◆其の三十:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
1917年に中華民国の軍事を掌握していた袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)が死去し、重鎮家臣だった馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)と段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)で軍事力の後継者争いが内部で勃発する。
馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)の政治思考は、議会重視的な穏健派で直隷派(ちょくれいは)と呼ばれた。
段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)の政治思考は、中央集権的な武闘派で安徽派(あんきは)と呼ばれた。
当然に意見は噛み合わず対立する。
中華民国の2代目総統に就任していた黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)の政治思考は、議会重視的な穏健派だった為に馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)と同調した。
そんな時にヨーロッパ大陸で繰り広げられる「第一次世界大戦」も終盤に差し掛かり、アメリカから中華民国に対して参戦の要請が来た。
この経済大国のアメリカからの依頼に高揚したのは武闘派で安徽派(あんきは)の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)で、早速に「第一次世界大戦」に参戦の表明をする。
しかし、ここで「第一次世界大戦」に参戦すれば段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)に権力が集中する事を危惧した2代目総統の黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)と穏健派で直隷派(ちょくれいは)の馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)は、段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)を排除して「第一次世界大戦」の不参加を表明する。
中華民国の北京政府を解任された武闘派で安徽派(あんきは)の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)は、出身地の安徽省(あんきしょう)を拠点に独立国家を宣言する。
しかも、中国大陸の各地でも段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)に同調した将軍が独立国家を宣言し始めた。
この事態に危機感を抱いた2代目総統の黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)は、清(しん)王朝の有力官僚だった張勲(ちょうくん/清官僚→政治家)に助けを求めた。
ところがである。
この張勲(ちょうくん/清官僚→政治家)は、清(しん)王朝が滅亡した1912年から、再興の機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた。
そして1917年に、その時が到来した。
中華民国の重鎮官僚となった張勲(ちょうくん/清官僚→政治家)は、北京政府の議会を解散させて、2代目総統の黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)に辞任の勧告を出して排除した。
更に中華民国は“共和制”(きょうわせい)を廃止して、清(しん)王朝は“君主制”(くんしゅせい)を復活させ、皇帝には第12代皇帝(ラストエンペラー)の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)を即位させた。
さすがに、この状況は世界的に観ても理解し難く、“国恥記念日”(こくちきねんび)に指定してもいいくらいの謎の謀反(むほん)である。
この事態に2代目総統の黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)は、武闘派で安徽派(あんきは)の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)を北京政府に呼び戻した。
段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)が率いる安徽派(あんきは)の軍隊は、抵抗する清(しん)王朝の軍隊を即座に壊滅させる。
それに清(しん)王朝の再興は中華民族からも認められず、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/皇帝)と張勲(ちょうくん/清官僚→政治家)は10日余りで更迭(こうてつ)された。
これを1917年に起こった「張勲復辟」(ちょうくんふくへき)と呼ぶ。
この2代目総統の黎元洪(れいげんこう/軍人→政治家)は、「張勲復辟」(ちょうくんふくへき)の混乱の責任を取って辞任し、後継者に穏健派で直隷派(ちょくれいは)の馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)を指名して3代目総統に就任させた。
この処遇に不満を募らせたのは、幻(まぼろし)の清(しん)王朝を討伐した武闘派で安徽派(あんきは)の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)である。
中華民国の北京政府は内乱が続く事になる。
BEN FOLDS FIVE /♪ PHILOSOPHY
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:35:28
◆◇◆其の三十一:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
北京政府の混乱の隙を突いたのが、日本に亡命し中華革命党を結成し最高指導者に就任していた孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)だった。
早速に孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は中華民国に帰国し、出身地の広東省(かんとんしょう)を拠点に革命運動を開始した。
そして、北京政府に不満を持つ官僚や役人を広東省(かんとんしょう)に呼び寄せて、広東軍政府を組成した。
こうして中国大陸には、穏健派の馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)が率いる直隷派(ちょくれいは)と、武闘派の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)が率いる安徽派(あんきは)と、武闘派の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が率いる広東軍政府の三つ巴(ともえ)となり、200年頃に起こった魏(ぎ)と呉(ご)と蜀(しょく)の“三国志”に準(なぞら)え“新三国志”と呼ばれた。
穏健派の馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)が率いる直隷派(ちょくれいは)は、戦乱を避けて調停(ちょうてい)で決定する事を示した。
武闘派の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)が率いる安徽派(あんきは)は、南下して武力で制圧する事を示した。
武闘派の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が率いる広東軍政府は、北上して武力で制圧する事を示した。
この“新三国志”の政治思想を鑑(かんが)みて、中国大陸の中華民族が出した答えが穏健派の馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)が率いる直隷派(ちょくれいは)を支持して、武闘派の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)が率いる安徽派(あんきは)と武闘派の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が率いる広東軍政府を政界から追放する事だった。
一先(ひとま)ず中華民国の内政は落ち着いた。
1917年に周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)は、日本に留学して大学受験の為に予備校に通っていた。
大正期の東京を見学する日々を過ごし、浅草や銀座にも足を運んだ。
周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)は、神田にある中華料理店の“漢陽楼”(かんようろう)に通い、安価な焼豆腐と肉団子スープが好物だったと言う。
この頃に“大正デモクラシー”(自由主義運動)の立役者で東京帝国大学の教授だった吉野作造(よしのさくぞう/大学教授)と出会い、“民本主義”の理論などを学ぶ。
しかし、周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)は大学受験に失敗し、中国に帰国する事になる。
日本の最後の日に京都の嵐山を観光し、日本との別れの歌を詠んでいる。
周恩来…⦅雨に中を二度、嵐山に遊ぶ。 両岸の青き松に、いく様かの桜混じる。⦆(雨中嵐山)
COUNTING CROWS /♪ ROUND HERE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:36:07
◆◇◆其の三十二:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
中国大陸の隣国とも言うべきロシア帝国では、1917年にレーニン(政治家→ソビエト創立者)などにより「ロシア革命」が勃発して、ロシア帝国の国王だったニコライ2世(ロシア皇帝)は1918年に処刑された。
ロシアを制圧したレーニン(政治家→ソビエト創立者)は、共産主義インターナショナルの意義を持つ政治思想のコミンテルン(国際共産主義運動)を実施する。
そして、ロシアにて“コミンテルン世界大会”を開催して、ヨーロッパや東南アジアなどの各国に参加を呼び掛けた。
湖南省(こなんしょう)の湘潭(しょうたん)の出身の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)は、レーニン(政治家→ソビエト創立者)が実施した「ロシア革命」とコミンテルン(国際共産主義運動)に感銘を受けて共産圏の政治思想に傾斜していく。
そんな時期の1918年11月に「第一次世界大戦」も終結しており、アメリカ大統領のウィルソン(第28代アメリカ大統領)は、世界大戦の反省から議会にて“十四カ条の平和原則”を提案した。
この“十四カ条の平和原則”の主な概要は下記に渡る。
①:各国の講和を優先して秘密外交を禁止
②:世界での船舶による航海や飛行機の航空の自由と安全の確保。
③:民族による領国の自決。
④:植民地の解放と、公正公平な解決。
⑤:国際平和機構(国際連盟)の創設など。
このアメリカ大統領のウィルソン(第28代アメリカ大統領)が提案した“十四カ条の平和原則”に、中華民国は賛同して中国大陸に残る日本からの植民地支配の解放を喜んだ。
しかし、この“十四カ条の平和原則”は、世界各国に対して拘束力は薄く、実際に遵守した国は少数で、植民地支配も不平等条約も継続した。
今まで通りに日本は、中国大陸の遼東半島(りょうとうはんとう)や山東半島(さんとうはんとう)、台湾、朝鮮半島などを占領下に置いた植民地とした。
これに反発した中華民族は1919年に北京にある紫禁城(しきんじょう)の天安門などで、『帝国主義反対、日本統治反対!』と叫びデモを起こした「五四運動」(ごしうんどう)を実施した。
その後の1919年にフランスのヴェルサイユ宮殿にて戦後処理が話し合われ、そこでイギリスとフランスとロシアの連合軍と帝国軍のドイツの講和条約として“ヴェルサイユ条約”が締結された。
しかし、ヴェルサイユ宮殿の会談に参加した中華民国は、日本の植民地支配に反発して共同調印を拒否した。
その為に中華民国は独自でドイツと講和条約の“中独平和回復協定”を締結している。
1920年にフランスのパリに留学していた鄧小平(とうしょうへい/共産党→ 人民解放軍元帥)は、「第一次世界大戦」により荒廃していたパリで学問を志す事ができず、日々の生活の為に労働に従事していた。
そんな時に同じくパリに来ていた周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)と出会い、ヨーロッパで活動していた中国の共産党ヨーロッパ支部に鄧小平(とうしょうへい/共産党→ 人民解放軍元帥)は入党する。
1921年に毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)や陳独秀(ちんどくしゅう/中華革命家→共産党)など12人が、上海で中国の共産党を創設する。
1922年にロシアのレーニン(政治家→ソビエト創立者)によりロシア共和国が創立されて、その後、世界初となる社会主義国のソビエトが建国する。
同時期の1922年にアメリカにて「第一次世界大戦」の事後確認をするワシントン会議が開催された。
アメリカとイギリスとフランスとイタリアとオランダとベルギーとポルトガルと日本と中華民国の9国で会議が開かれ、“九カ国条約”が締結された。
“九カ国条約”の主な概要は、他国は中華民国の独立と行政的、領土的保全を約束し、門戸開放と機会均等の原則を承認した。
これにより日本はドイツから奪取(だっしゅ)した山東半島(さんとうはんとう)のみを中華民国に返還した。
この様な世界会議により“ワシントン体制”が整い、各国が友好的な立場で安定した世界の秩序を実現させた。
MATT NATHANSON /♪ SUSPENDED
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:36:47
◆◇◆其の三十三:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
フランスに居た鄧小平(とうしょうへい/共産党→ 人民解放軍元帥)は、コミンテルン(国際共産主義運動)に参加し社会主義を学ぶ為にロシアのモスクワに渡り、その時に名前もドゾロフに改名した。
孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は、1917年に起こった「張勲復辟」(ちょうくんふくへき)や1919年に起こった「五四運動」(ごしうんどう)による民衆の底力に驚き、有力者により結成された中華革命党を再編成し、志の高い優秀な民衆も参加させる国民党を組成した。
そして中華民国を統括していた北京政府に対して、国民党の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は対抗し1922年〜1924年の「北伐」(ほくばつ)を開始した。
この時期の北京政府には、1919年に死去した馮国璋(ふうこくしょう/軍人→政治家)の後任に就いた曹錕(そうこん/軍人→政治家)が率いる直隷派(ちょくれいは)と、段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)が率いる安徽派(あんきは)に加えて、満州を拠点とする張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)の三つ巴(ともえ)の様相だった。
この三つ巴(ともえ)の中で、中華民族に最も不人気だったのは、武闘派の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)が率いる安徽派(あんきは)だった。
この頃の日本は、段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)が率いる安徽派(あんきは)へ軍事支援を実施していたが、中華民国の世論を汲み取り段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)に見切りを付けて、新興派閥の張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)を支持した。
この情勢を好機と捉えた曹錕(そうこん/軍人→政治家)が率いる直隷派(ちょくれいは)と張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)は連携して、強靭な軍事力を持つ武闘派の段祺瑞(だんきずい/軍人→政治家)が率いる安徽派(あんきは)に攻撃を仕掛けて敗走させた。
しかし、この連携も長くは続かず、直ぐに曹錕(そうこん/軍人→政治家)が率いる直隷派(ちょくれいは)と張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)は対立する。
この内戦は曹錕(そうこん/軍人→政治家)が率いる直隷派(ちょくれいは)が勝利した。
これを1922年に起こった「第一次奉直戦争」(だいいちじほうちょくせんそう)と呼ぶ。
GIN BLOSSOMS /♪ AS LONG AS IT MATTERS
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:37:24
◆◇◆其の三十四:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
この時期の中国大陸の南部を拠点とする広東軍政府は、広東人による広東省(かんとんしょう)の統治を目指して、出身者でもある孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が大総統に就任した。
この孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)の広東軍政府に急接近してきたのが、レーニン(政治家→ソビエト創立者)の思想を掲げるコミンテルン(国際共産主義運動)だった。
コミンテルン(国際共産主義運動)は、アメリカが主体となる“ワシントン体制”を批判し、ソビエトと中華民国は阻害されていると強調した。
こうして孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は、共産圏と共に社会主義の思想に傾斜していく。
この社会主義の思想は、毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)や陳独秀(ちんどくしゅう/中華革命家→共産党)などが率いる共産党と共通する為に協調する事になる。
北京政府を打倒すべく「北伐」(ほくばつ)を推進する国民党と、中国大陸の労働改革を推進する共産党は、目的意識の違いが妨害に当たらないとして“第一次国共合作”(だいいちじこっきょうがっさく)を締結した。
主な目的は、社会主義国家のソビエトと連携して、共産圏の拡大に尽力し、中国大陸の農業や工業の効率的な改革で向上させる事などが掲げられた。
更に共産党の党員を広東軍政府や国民党への受入や、北京政府を打倒すべく「北伐」(ほくばつ)への共産党の全面協力も約束された。
孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は「北伐」(ほくばつ)を達成するには軍事力の強化が重要と考えて、広東省(かんとんしょう)の黄埔(こうほ)に軍人を養成する黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)を開校する。
黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)の校長には蒋介石(しょうかいせき/国民党)が就任し、生徒の面接官に共産党の毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)も参加した。
STEVE AZAR /♪ NIGHTS LIKE THIS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:38:02
◆◇◆其の三十五:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
この時期の北京政府では、直隷派(ちょくれいは)の曹錕(そうこん/軍人→政治家)が多額の賄賂(ワイロ)で有権者を買収して、中華民国の5代目総統に就任していた。
この金権政治の曹錕(そうこん/軍人→政治家)に対して、中華民国の民衆の不満が高まり、世論を味方に着けた張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)が北京政府で内乱を起こした。
軍事力では圧倒的に有利だった曹錕(そうこん/軍人→政治家)が率いる直隷派(ちょくれいは)だったが、賄賂(ワイロ)が蔓延(はびこ)る金権政治に嫌気が差していた直隷派(ちょくれいは)の官僚から離反が相次ぎ、その1人が馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)だった。
馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)は戦闘で混乱する直隷派(ちょくれいは)で謀反(むほん)を起こして、5代目総統の曹錕(そうこん/軍人→政治家)は拘束され監禁される。
これを1924年に起こった「第二次奉直戦争」(だいにじほうちょくせんそう)と呼ぶ。
中華民国の政権が不安定となり、中国大陸の各都市ではテロが多発する。
内乱で分裂状態にある直隷派(ちょくれいは)は、もはや統括できず張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)との戦争ができる状態ではなかった。
そこで馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)は、敵方ながら北京政府を打倒すべく「北伐」(ほくばつ)を推進する国民党の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)に協力依頼を出す。
これに応えて孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が率いる国民党は「北伐」(ほくばつ)を開始するが、上海で北京政府に依頼されたイギリス軍に行く手を阻(はば)まれ、仕方なく船で海で航海し日本に向かい、そこから再び船で航海し黄海から上陸する事にした。
その時に兵庫県神戸市の港に上陸した孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は、日本で馴染みある知人や華僑(かきょう)を呼び寄せて講演を実施した。
孫文…『今、東洋の取り分けアジアの民衆は、西洋の強国により圧迫されており、公正公平で対等な関係を保てていない。 西洋の覇道(はどう)は化学や武力を保って他国を制圧するが、東洋の王道(おうどう)は仁義や道徳を重んじて関係を築く。 この日本は古来から神道(しんどう)や天皇を尊(とおと)い敬(うやま)い東洋の王道(おうどう)の先端を行く国家であるが、時代の変化を瞬時に捉えて西洋の覇道(はどう)も採り入れながら変革する柔軟性も持っている。 今や日本はアジア諸国の先導者となる立場なのである!』
これが有名な1924年に孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が唱えた“大アジア主義講演”である。
その後、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が率いる国民党は、日本から船で航海して中国大陸の天津(てんしん)に到着した。
そして、北京に着いた孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が率いる国民党は、馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)が率いる直隷派(ちょくれいは)と合流した。
しかし、この時に既に孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は病魔に侵され、戦線を離脱する。
その頃の1924年に、ソビエトの創設者のレーニン(政治家→ソビエト創立者)が死去する。
そして1925年に、“中国革命の父”と呼ばれ国民党を率いる孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が死去する。
ALAIN CLARK /♪ IF I WAS THE PRIEST
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:38:40
◆◇◆其の三十六:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
頼みの綱だった国民党の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が1925年に死去した事により、馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)が率いる直隷派(ちょくれいは)は単独で張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)と抗争する事になる。
馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)はソビエトに軍事支援を要請し、これによりソビエトは共産党員を派遣し、その中にコミンテルン(国際共産主義運動)に参加していた鄧小平(とうしょうへい/共産党→ 人民解放軍元帥)も居た。
張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)には、英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な軍人の郭松齢(かくしょうれい/奉天派→ 直隷派)が陣頭指揮を採っており、馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)が率いる直隷派(ちょくれいは)は苦境に立たされる。
しかし、そんな時に奉天派(ほうてんは)の張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)の政策や戦術に対して疑問を感じていた郭松齢(かくしょうれい/奉天派→ 直隷派)は寝返り、馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)が率いる直隷派(ちょくれいは)に鞍替えした。
直隷派(ちょくれいは)の軍隊を率いる郭松齢(かくしょうれい/奉天派→ 直隷派)は獅子奮迅(ししふんじん)し、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)は苦戦して、満州の奉天(ほうてん)に構える本陣まで退却する。
しかし、ここで満州の一帯を占有し、南満州鉄道の権益を持つ日本が戦乱に介入してくる。
日本は1906年から、旅順(りょじゅん)に関東都督府(かんとうととくふ)を設置して、政治と軍事の行政機関を置いた。
そして南満州鉄道は、遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)から奉天(ほうてん/瀋陽)を経由して長春(ちょうしゅん/新京)まで向かう鉄道網で、その沿線は日本が都市開発や不動産造成を実施し、多くの日本人も居住していた。
南満州鉄道の経営が軌道に乗ると、日本は遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)の一帯を、関東州(かんとうしゅう)と言う日本流の名称に変更した。
この関東都督府(かんとうととくふ)は、政治部門を関東庁、軍事部門を関東軍に名称を改めた。
そんな日本の拠点とも言うべき満州で、中華民国の内乱が起こっている事を見過ごす事はできず、関東都督府(かんとうととくふ)は関東軍を進軍させて鎮圧にあたらせた。
また、苦戦していた張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)は、日本と親密だった為に関東軍に保護してもらっている。
関東軍は、郭松齢(かくしょうれい/奉天派→ 直隷派)が率いる直隷派(ちょくれいは)に対して、南満州鉄道の沿線周辺に侵攻する事を禁止した。
これにより直隷派(ちょくれいは)の軍隊は、南満州鉄道の沿線周辺に近付く事ができず停滞し、そのまま奉天派(ほうてんは)は反撃に出て直隷派(ちょくれいは)を撃ち負かした。
そして1925年に、直隷派(ちょくれいは)の郭松齢(かくしょうれい/奉天派→ 直隷派)を拘束して銃殺した。
敗北した直隷派(ちょくれいは)の馮玉祥(ふうぎょくしょう/軍人→北京派)は、命の危険を感じてソビエトに亡命した。
こうして中華民国の北京政府は、張作霖(ちょうさくりん/盗賊→奉天派)が率いる奉天派(ほうてんは)が制圧した。
RADIOHEAD /♪ LUCKY
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:39:18
◆◇◆其の三十七:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
一方で中国大陸の南部では、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)の死去により、国民党の最高指導者は、軍隊の国民革命軍を掌握していた蒋介石(しょうかいせき/国民党)が就任した。
孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)は国民党の政治改革を、軍政期と訓政期と憲政期の3段階に別けて考え、最後に中華民国を“共和制”(きょうわせい)にする目標を掲げていた。
軍政期の国民革命軍の行動により、中国大陸の南部に広東軍政府が設けられ、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が大総統に就任した事で達成した。
続いて訓政期に入り、広東軍政府の指導政党になった国民党により政治を運営する段階だったが、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)が死去した事で、その政策を蒋介石(しょうかいせき/国民党)が引き継いだ。
中華民国を統括していた北京政府に対して、孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)の意思を引き継いだ国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は1926年〜1928年の「北伐」(ほくばつ)を開始した。
以前に国民党と共産党は“第一次国共合作”(だいいちじこっきょうがっさく)を締結していた事もあり、国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、敵対していた毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)の共産党と和睦して同盟軍を結成する。
これにより広東軍政府の与党である国民党に、共産党の党員が多く参加する事になる。
しかし、中国大陸の農家と労働者の政治基盤を持つ共産党は、広東軍政府の国民党の中で勢力を増していく。
そんな時に国民党が所有する軍艦の中山艦(ちゅうざんかん)に共産党の党員が乗り込み、国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)を拉致してソビエトに連行しようとした。
これは拿捕(だほ)未遂に終わったが、これにより国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は共産党への弾圧を強めていく。
これを1926年に起こった「中山艦事件」(ちゅうざんかんじけん)と呼ぶ。
W.A.S.P. /♪ HOLD ON TO MY HEART
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250923 - ラジオの友 URL
2025/09/23 (Tue) 10:39:54
◆◇◆其の三十八:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
「北伐」(ほくばつ)を続ける内に国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、1927年に中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)を結成した毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)の共産党の勢力拡大に脅威を感じる様になる。
迫害を受ける共産党は、中国大陸の農家と労働者に呼び掛けて反乱を起こさせる。
そして湖北省(こほくしょう)の武漢に武漢国民政府を創立した。
共産党の中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)は、中国大陸の各地で暴動を起こし、アメリカやイギリスの租界(そかい)まで侵攻し、破壊や暴行や略奪を繰り返していた。
この共産党の中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)の横暴を観て、国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は密かに偽装した中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)を組成し、アメリカとイギリスとフランスとイタリアと日本の領事館や居留地で、偽共産党の兵士により破壊や暴行や略奪を実施させた。
これに対して5ヶ国の首脳陣は、広東軍政府や武漢国民政府に対して猛抗議した。
国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は5ヶ国に対して、共産党の中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)を討伐する事を確約する。
その際にアメリカなどがら軍事支援を受けた。
これにより国民党の蒋介石(しょうかいせき/国民党)は、共産党を排除する為に党員を対象にジェノサイド(集団殺戮)を実施した。
これを1927年に起こった「上海クーデター」と呼ぶ。
1928年に毛沢東(もうたくとう/共産党→国家主席)の共産党は表立って活動できず、地下活動に移行した。
この時に鄧小平(とうしょうへい/共産党→ 人民解放軍元帥)も上海で地下活動を実施し、その後、中国大陸の南西部に位置する広西省(こうせいしょう)の百色(ひゃくしょく)に移転して、農民を参加させた中国工農紅軍(ちゅうごくこうのうこうぐん)を指揮する。
DEXTER FREEBISH /♪ How Do I Get Through to You
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