都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:29:59
◆◇◆其の一:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
歴史は時間の数珠繋(じゅずつな)ぎで、一度たりとも途切れた事は無い。
この歴史は、人によって見え方も価値観も変わってくる。
お金が大好きな拝金(はいきん)主義者には、“年前”を“万円”に置き換えると解り易(やす)い。
100年前の世界大戦までを語る者は、人生100万円の価値しかない愚人(ぐじん)の生涯を送る。
1000年前の平安時代までを語る者は、人生1000万円の価値の凡人(ぼんじん)の生涯を送る。
10000年前(1万年)の縄文時代までを語る者は、人生10000万円(1億円)の価値がある賢人(けんじん)の生涯を送る。
ここからも解る通り、どこまで歴史を遡及(そきゅう)して理解し語っているかが重要になってくる。
その口から出る歴史観で、その人物像と価値観までもが視えてくる。
歴史を学べば、価値の無い国民性と、価値の有る人間性の違いが分別(ふんべつ)できる様になる。
特に日本では、隣国の中国や韓国と歴史観の違いから、政治でも国民でも軋轢(あつれき)が生まれている。
ゴリ押しに仲良くしろと言っても、内に秘めた心情までは制御(コントロール)できない。
では、この中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観を、日本を基準に地球の常識的な時間から少し遡(さかのぼ)って観てみよう。
ONLY CRIME /♪ TAKE ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:30:54
◆◇◆其の二:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
古来から中国大陸の隋(ずい)や唐(とう)などの帝国は、朝鮮半島や倭国(日本)を従属(じゅうぞく)させて、中華民族の皇帝が臣従(しんじゅう)する国の防衛や制度を支援する冊封(さくほう)を施し、替わりに服従(ふくじゅう)する国の朝鮮民族や大和民族は貢物(みつぎもの)を贈る朝貢(ちょうこう)で主従関係により和平を保っていた。
歴史的な価値から観れば、朝鮮民族や大和民族は、中華民族に対して許し難(がた)い行為である。
古墳時代の200年頃に、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)の息子の帯中日子天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)が第14代天皇の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)として即位(そくい)した。
第14代天皇の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、筑紫国(つくしのくに/福岡県)の訶志比宮(かしいのみや/香椎宮)を拠点とし、この時、正妻となる息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)こと神功皇后(じんぐうこうごう)とその子供の品夜和気命(ホムヤワケ)も同行していた。
因みに、神功皇后(じんぐうこうごう)の母方の家系は朝鮮半島の新羅(しらぎ)の皇族である。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は天社(あまつやしろ)の天津神(あまつのかみ)の逆鱗(げきりん)に触れて崩御(ほうぎょ)してしまうが、その後継を神功皇后(じんぐうこうごう)が引継ぎ、シャーマン(呪術師)の力を持って軍事戦略を神託(しんたく)で占っていた。
そこで実施したのが朝鮮半島の高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)に侵略する“三韓征伐”で、妊娠中の神功皇后(じんぐうこうごう)はお腹に鎮懐石(ちんかいせき)を巻いてヤマト軍の船団を率いた“第1次朝鮮出兵”を実施した。
この“第1次朝鮮出兵”に勝利したヤマト軍の船団は、筑紫国(つくしのくに/福岡県)の糟屋(かすや)に寄港し、この地で神功皇后(じんぐうこうごう)は赤ちゃんを出産した。
ここで大鞆和気命(オホトモワケ)こと第15代天皇の応神天皇(おうじんてんのう)が誕生したのである。
この時に初めて倭国(日本)は朝鮮半島を占領したのである。
歴史的な価値から観れば、朝鮮民族は、大和民族に対して許し難(がた)い行為である
古墳時代の500年頃の第26代天皇の継体天皇(けいたいてんのう)の就任中の時期に、朝鮮半島では動乱が起こっていた。
北部を領国とする高句麗(こうくり)が侵攻を始めて南下し、南西部を領国とする百済(くだら)、南東部を領国とする新羅(しらぎ)の領土を侵略していった。
その頃の倭国(日本)のヤマト政権は、朝鮮半島の南端部の任那(みまな)を領地としていた。
ただ、この任那(みまな)が新羅(しらぎ)に侵略される。
ヤマト政権は任那(みまな)の奪還を目指して百済(くだら)と同盟を締結して、“第2次朝鮮出兵”を計画していた。
そこで朝鮮半島に近い九州の筑紫国(つくしのくに)を領国統治していた大王(おおきみ)の筑紫君石井(ちくしのきみいわい)に協力要請をする為に、ヤマト政権の将軍の近江毛野(おうみけな/大和)を勅使(ちょくし)として筑紫国(つくしのくに)に派遣する。
しかし、筑紫君石井(ちくしのきみいわい)は朝鮮半島の新羅(しらぎ)と同盟し、ヤマト政権に反乱を起こす。
ただ、筑紫君石井(ちくしのきみいわい)はヤマト政権に敗北して討死した。
これを527年に起こった「磐井の乱」(いわいのらん)と呼ぶ。
こうしてヤマト政権は、筑前国(福岡県)の糟屋(かすや)の屯倉(みやけ)を、中国大陸や朝鮮半島の交易の拠点とした。
それと筑紫国(つくしのくに)をはじめ西日本の出先機関として筑前国(福岡県)に太宰府(だざいふ)を設置した。
これにより朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの軍備援助を受けて盤石の体制を整える。
更に朝鮮半島の任那(みまな)を、ヤマト政権の占領地として整備した。
歴史的な価値から観れば、朝鮮民族は、大和民族に対して許し難(がた)い行為である
飛鳥時代の618年頃、中国大陸の情勢で変化があり、国が隋(ずい)から唐(とう)へ政権交代があった。
この影響で661年に中国大陸の唐(とう)が朝鮮半島の新羅(しらぎ)と同盟を結び百済(くだら)を攻撃した。
百済(くだら)はヤマト政権に援軍を要請した為に、大和国(奈良県)から朝鮮半島にヤマト軍を派遣する。
これが“第3次朝鮮出兵”である。
この時に百済(くだら)と同盟関係にあった倭国(日本)も朝鮮半島に援軍を送ったが大敗し、白村江(はくすきのえ)は百済(くだら)と倭国(日本)の戦死者により血で赤く染まり、まさに“血の海”となった。
これで百済(くだら)は完全に滅亡する。
これを663年に起こった「白村江の戦」(はくすきのえのたたかい)と呼ぶ。
その後、新羅(しらぎ)が中国大陸の唐(とう)に攻撃して追い出し、高句麗(こうくり)も滅ぼして朝鮮半島の統一を果たす。
歴史的な価値から観れば、朝鮮民族や大和民族は、中華民族に対して許し難(がた)い行為である。
TURBOWOLF /♪ DOMINO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:31:46
◆◇◆其の三:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
中国大陸など壮大な領土を支配するモンゴル帝国の元(げん)。
その都(みやこ)である大都(北京)に君臨するフビライハン(元皇帝)は、倭国(日本)に対して侵攻の命令を下(くだ)す。
こうしてモンゴル軍は、朝鮮半島から軍艦を連ねて大軍で押し寄せてきた。
これにより8代目の北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)は、相模国(神奈川県)の鎌倉幕府から遠く1000kmほど離れた九州の博多に向けて“異国警固番役”(いこくけいごばんやく)を発布した。
先(ま)ずモンゴル軍は対馬半島(つしまはんとう)の小茂田浜(こもだはま)に上陸し、対馬国(長崎県)の守護代を担う宗助国(そうすけくに/鎌倉)と対戦して勝利し、島内を占領して拠点を設けた。
これにより幕府軍の宗助国(そうすけくに/鎌倉)は討死した。
そしてモンゴル軍は壱岐島(いきのしま)も制圧して、東松浦半島から迂回して博多湾から九州本土への上陸を開始する。
モンゴル軍は二手(ふたて)に別れてモンゴル1号軍は百道原(ももちはら)、モンゴル2号軍は筥崎宮(はこざきぐう)から侵攻を開始した。
モンゴル軍は福崎丘陵(ふくざききゅうりょう)の赤坂山(福岡城)に本陣を構えた。
一方、幕府軍の総大将に任命された筑前国(福岡県)の武将の少弐景資(しょうにかげすけ/鎌倉)は、兄の少弐経資(しょうにつねすけ/鎌倉)と共に博多に本陣を構えた。
これにより鎌倉幕府の武将が“博多の陣”(はかたのじん)に集結し始めた。
その中で肥後国(熊本県)の菊池氏に属する武士の竹崎季長(たけさきすえなが/鎌倉)も、筥崎宮(はこざきぐう)の街道を駆け抜けて、千代の松原(福岡県庁)を通り“博多の陣”(はかたのじん)に到着した。
幕府軍の総大将の少弐景資(しょうにかげすけ/鎌倉)は、モンゴル軍が本陣を構える福崎丘陵(ふくざききゅうりょう)の赤坂山(福岡城)を、下手(したて)から攻め込むのは危険があるとして、モンゴル軍が攻撃してくるのを待つ“後手必勝の策”に出る。
ところが肥後国(熊本県)の武将の菊池武房(きくちたけふさ/鎌倉)が、総大将の命令を無視して家臣の竹崎季長(たけさきすえなが/鎌倉)などと共に、赤坂山(福岡城)のモンゴル軍の本陣を一気に攻め落とす。
この幕府軍の奇襲作戦に驚いたモンゴル軍は、鹿原山(そはらやま/祖原山)まで退陣する。
その後、幕府軍とモンゴル軍は鳥飼(とりかい)の塩屋の松にて、激戦が繰り広げられる。
ただ、モンゴル軍の弓で射(い)る毒矢で命を落としたり、てつはう(爆弾)の投擲(とうてき)により爆死したり、戦法の違いから幕府軍は苦戦した。
そして、博多湾の沖合で待機していたモンゴル軍の予備隊が多々良川(たたらがわ)から上陸して、幕府軍を挟み討ちにする陣営となり、幕府軍は撤退して水城(みずき)に入り、その後に太宰府(だざいふ)に布陣した。
その晩、“太宰府の陣”(だざいふのじん)から北西部を眺めると、博多周辺に火を放ったモンゴル軍により夜空が真っ赤に染まっていた。
そして一夜が明けて・・・
博多周辺に布陣していたモンゴル軍の兵士は1人も居らず、博多湾の海域には軍艦が1隻も無く消えていた。
これを1274年に起こった“文永の役”(ぶんえいのえき)または第1次の元寇(げんこう/蒙古襲来)と呼ぶ。
歴史的な価値から観れば、大和民族は、中華民族や朝鮮民族に対して許し難(がた)い行為である。
STARS IN STEREO /♪ FAIR-WEATHER FRIEND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:32:42
◆◇◆其の四:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
倭国(日本)から突如に消えたモンゴル軍は、モンゴル帝国の元(げん)が拠点とする都(みやこ)である大都(北京)に戻り、そこで君臨するフビライハン(元皇帝)に報告した。
こうして再び元(げん)のフビライハン(元皇帝)から、倭国(日本)の鎌倉幕府に宛てて国書が送達される事となる。
1275年に国書を持参させた使者を遣わせて、元(げん)から朝鮮半島の北部に位置する高麗(こうらい)に行き、従属(じゅうぞく)していた高麗(こうらい)の使節団に倭国(日本)の鎌倉幕府に国書を渡す様に命じる。
高麗(こうらい)の使節団は、先(ま)ずは九州に上陸して太宰府(だざいふ)に行き、そこから相模国(神奈川県)の鎌倉幕府に到着して8代目の北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)に謁見(えっけん)して手渡した。
国書の内容は穏和な文章で綴(つづ)っていたが、内容はこんな感じだった。
⦅世界最強のモンゴル軍との合戦で敗北した島国の倭国(日本)は、中国大陸の大国でもある元(げん)に臣従(しんじゅう)する道しか残されていない。⦆
この元(げん)からの国書を拝見した北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)はこう述べた。
北条時宗…『この不吉な元(げん)の国書を焼き捨てて、高麗(こうらい)の使節団は全員を斬首して晒し首(さらしくび)にせいっ!』
こうして鎌倉の鶴岡八幡宮に通じる参道には、高麗(こうらい)の使者達の晒し首(さらしくび)がズラリと並ぶ。
北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)は、九州の博多での合戦で幕府軍が思った以上に苦戦した事を教訓として海外対策を講じる。
先(ま)ず、博多湾の海岸一帯に石塁(せきるい)を設けて、モンゴル軍が容易に上陸できない様にした。
いつまで待っても倭国(日本)から国書の返答が無いフビライハン(元皇帝)は憤(いきどお)っていた。
この頃、モンゴル帝国の元(げん)は、中国大陸を南下して南宋(なんそう/杭州)の侵略に成功していた。
これにより南宋(なんそう/杭州)で仏門に入って修行をしていた僧侶が、元(げん)の迫害から逃れて海を渡り倭国(日本)に来ていた。
この南宋(なんそう/杭州)の僧侶から鎌倉幕府は、モンゴル帝国の元(げん)の情報収集を行なっていた。
モンゴル軍は朝鮮半島の東路軍(とうろぐん)4万人と、中国大陸の南宋(なんそう/杭州)の江南軍(こうなんぐん)10万人の二手(ふたて)に別れて進撃の準備をしていた。
ところが、南宋(なんそう/杭州)の江南軍(こうなんぐん)を率いる大将軍がウイルスに感染して病気になり、兵士も自宅待機となって進軍の準備が遅れる事になる。
そうした中でモンゴル軍は、朝鮮半島の東路軍(とうろぐん)4万人を乗せた軍艦により、大軍で倭国(日本)に向けて出航する。
先(ま)ず東路軍(とうろぐん)は対馬半島(つしまはんとう)と壱岐島(いきのしま)を制圧した。
ここで東路軍(とうろぐん)は二手(ふたて)に別れて東路1号軍は筑前国(福岡県)の博多湾、東路2号軍は長門国(山口県)の長門(ながと)から侵攻を開始した。
ただ今回の合戦では、鎌倉幕府が博多湾の海岸一帯に石塁(せきるい)を設けて、モンゴル軍が容易に上陸できない様にしていた為に、東路1号軍の舟は海上で待機する事となる。
その晩になると肥後国(熊本県)の武将の菊池武房(きくちたけふさ/鎌倉)が、家臣の竹崎季長(たけさきすえなが/鎌倉)などを引き連れて舟に乗り、寝静まった東路1号軍の舟に乗り込みモンゴル軍の兵士を斬首して、舟に火を着けて積載されたてつはう(爆弾)に引火させ爆破していった。
この幕府軍の夜襲に驚いたモンゴル軍の東路1号軍は撤退して、博多湾の出先にある志賀島(しかのしま)に上陸して布陣する。
更に幕府軍の猛攻撃に遭い、こうしてモンゴル軍の東路1号軍は壱岐島(いきのしま)に退陣した。
長門国(山口県)の長門(ながと)から上陸した東路2号軍も苦戦して東路1号軍と壱岐島(いきのしま)で合流した。
既(すで)に東路軍(とうろぐん)は意気消沈して戦う気力は低減していた。
そんなモンゴル軍の兵士の想いとは裏腹に、元(げん)の軍本部からは倭国(日本)侵攻の指示が矢継ぎ早に飛ぶ。
そこで漸(ようや)く現れたのが、中国大陸の南宋(なんそう/杭州)から侵攻して来た江南軍(こうなんぐん)10万人の軍勢である。
モンゴル軍は作戦を変更して、筑前国(福岡県)の博多湾からの上陸を取り止め、肥前国(長崎県)の平戸(ひらど)から上陸する事にした。
そして肥前国(長崎県)の鷹島(たかしま/松浦)には、幕府軍が侵攻してモンゴル軍と激戦を繰り広げた。
お互いの軍力に差は無く、一進一退の攻防が続き、一先(ひとま)ずは引き分けとなる。
夜も明けて幕府軍が再び戦地に向かうと、平戸(ひらど)に布陣していたモンゴル軍の兵士は1人も居らず、鷹島(たかしま/松浦)の海域には軍艦が1隻も無く消えていた。
これが1281年に起こった“弘安の役”(こうあんのえき)または第2次の元寇(げんこう/蒙古襲来)と呼ぶ。
歴史的な価値から観れば、大和民族は、中華民族や朝鮮民族に対して許し難(がた)い行為である。
ADELITAS WAY /♪ Sick
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:33:40
◆◇◆其の五:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
戦国時代の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)にとって朝鮮半島は進軍の通り道に過ぎず、真の目的は中国大陸の明(みん)であり、最終的にはロシアからヨーロッパまでを領国にする世界征服である。
この壮大な構想は、織田信長(おだのぶなが/織田)が近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)の天守閣から、琵琶湖を望みながら思い描いた構想でもある。
その殿の横には、地球儀がクルクルと回っていた。
1590年に相模国(神奈川県)で起こった「小田原城攻め」で、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)を自害に追い込み、その息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に降伏させ感服(かんぷく)させた事により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は“天下統一”を果たした。
これで日本には合戦の無い、みんなが仲良しこよしの平和な時代が到来したが、ただ、それにより大きな問題も発生した。
戦(いくさ)を仕事にしていた武士と、領国統治と領土拡大させてきた武将の、役割と出番が無くなった事である。
この問題は織田信長(おだのぶなが/織田)も見据えていた為に、当然に直参(じきさん)家臣の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の頭にもプログラムされている。
この動機が“朝鮮出兵”であり、“世界統一”である。
要は日本で活躍していた武将と武士を海外移住させて、今まで通りの職務に就いてもらい、領土拡大と合戦に従事してもらう。
こうして1591年に勇猛果敢な名門武将を集合させて、朝鮮半島に向けて肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)を築城し、30万人の軍隊を配備する。
この時期の中国大陸の明(みん)と朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)は、明(みん)の冊封(さくほう)と李氏朝鮮(りしちょうせん)の朝貢(ちょうこう)を実施する主従関係が成立していた。
肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)から軍艦で出陣した名だたる武将が率いる日本軍の15万人の軍勢。
これに対して李氏朝鮮(りしちょうせん)は、朝鮮半島の南側で軍艦を配備して徹底抗戦の構えを朝鮮軍は見せていた。
しかし、日本軍の総攻撃で朝鮮軍は惨敗して、朝鮮半島に上陸を許してしまう。
その後は、各武将が四方八方に進軍して、李氏朝鮮(りしちょうせん)の首都でもある漢城府(かんじょうふ/ソウル)を包囲した。
序盤は連戦連勝だった日本軍だが、慣れない土地と軍力を分散させた事により劣勢になる。
最大の問題が日本から補給される兵糧で、日本軍の全軍に行き渡らせる流通経路を朝鮮軍に分断され、日本軍の食糧が滞る様になる。
朝鮮水軍によるゲリラ戦術で、日本軍の補給船が次々と撃沈された事も痛手となる。
日本軍は朝鮮半島の北部にある平壌(ピョンヤン)に進軍を始めたが、途中の山岳地帯に潜む朝鮮軍のゲリラ部隊に行く手を阻(はば)まれる。
しかし、日本軍の大軍の前では多勢に無勢で、平壌(ピョンヤン)は落城して李氏朝鮮(りしちょうせん)の皇族は捕獲される。
ここで日本の本気度を悟った中国大陸の明(みん)の皇帝である万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)が、ようやく朝鮮半島に明軍を侵攻させるが、時既(ときすで)に遅し。
勝戦気分で高揚する荒ぶる日本軍の武士に対して、明軍はことごとく討ち破られ大敗する。
これにより日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と、明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)は和平交渉の準備に取り掛かる。
これを1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と呼ぶ。
歴史的な価値から観れば、朝鮮民族や中華民族は、大和民族に対して許し難(がた)い行為である。
ZEBRAHEAD /♪ POSTCARDS FROM HELL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:34:35
◆◇◆其の六:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
豊臣政権の主君の無謀な政策の為に、再び肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)に集結した名だたる武将。
そして石田三成(いしだみつなり/豊臣)は参戦せずに日本に残って、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に戦況を伝える伝令者(でんれいしゃ)に徹した。
今回の“朝鮮出兵”では、前回の失策を検討して作戦を改めて、朝鮮半島の全域を軍隊を別けて進軍するのではなく、南朝鮮に領土を確保してお城を築き、軍備や兵糧を確保できる体制を整えてから少しずつ北上侵攻する事とした。
日本軍は肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)から多数の軍艦で出航して、朝鮮半島南部の釜山(プサン)に上陸を試みる。
この時に李氏朝鮮(りしちょうせん)の朝鮮軍も、港湾に軍艦を並べて防衛していた。
そして海上で日本軍と朝鮮軍が軍艦同士で交戦し、激戦が繰り広げられ次々と炎上する船や、海に飛び込む兵士により、穏やかな海は凄惨(せいさん)な戦場と化していた。
これを1597年に起こった「漆川梁海戦」(しっせんりょうかいせん)と呼ぶ。
日本軍の勢いは止まる事を知らず、釜山(プサン)に上陸してから進撃を続けて、朝鮮半島南部の制圧を完了する。
そして、次はお城の建設を始め、先(ま)ずは蔚山城(ウルサンソン)を築き加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が居城した。
この日本軍の蔚山城(ウルサンソン)を、明軍と朝鮮軍の連合軍は5万人の軍勢で総攻撃した。
これには百戦錬磨で戦(いくさ)上手の加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)も窮地に追いやられる。
そこに各々の猛将による2万人の軍勢を率いた援軍が駆け付ける。
これにより戦況は逆転し、明軍と朝鮮軍の連合軍は2万人の戦死者を出して敗北を来(き)す。
これを1598年に起こった「蔚山城の戦」(うるさんそんのたたかい)と呼ぶ。
ただ、日本軍にとっての大勝利でも、日本の豊臣政権にとっては暗転(あんてん)の引き金となった。
その日本では、1598年に山城国(京都府)の伏見城で病気により床に伏せていた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去したのである。
ただ、朝鮮半島で戦っている日本軍の武将に、直(す)ぐには知らされなかった。
「蔚山城の戦」(うるさんそんのたたかい)の敗北により明軍と朝鮮軍の連合軍は10万人の軍勢を整えて、李氏朝鮮(りしちょうせん)の首都でもある漢城府(かんじょうふ/ソウル)から出陣した。
島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が守るお城には、明軍の5万人の軍勢が包囲した。
しかし、鎌倉時代から戦闘集団として鍛えられてきた島津氏であり、先(ま)ずは明軍の兵糧倉庫を焼き討ちにして長期戦を出来なくし、お城に大軍で押し寄せてくる兵士をお家芸でもある“釣り野伏せ”(つりのぶせ)で、ある一定の位置にまで来た時に隠れていた伏兵の鉄砲(火縄銃)で総攻撃を浴びせた。
しかも、お城まで辿(たど)り着けたとしても、その城郭には地雷が埋められており爆死する兵士が多発する。
これらにより明軍は3万人近い兵士が戦死した。
この戦術により、アジア大陸で“鬼島津”(おにしまづ)と呼ばれる島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の武勇伝である。
この頃になると豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の死去は日本軍に周知され、朝鮮半島から撤退し始める。
これを1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”と呼ぶ。
歴史的な価値から観れば、朝鮮民族や中華民族は、大和民族に対して許し難(がた)い行為である
Rancid /♪ THE 11TH HOUR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:35:32
◆◇◆其の七:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
明治期の1889年に日本の憲法を制定した「憲法発布の式典」を実施し、“大日本帝国憲法”が発布された。
明治維新により欧米列強(おうべいれっきょう)に倣(なら)い、“自由”と“平等”の資本主義を掲げた日本国家を形成しようとした。
ところが、アジア大陸を植民地にする悪弊(あくへい)まで感化(かんか)され、明治政府は右に倣(なら)えとなってしまった。
要は植民地支配である。
日本もヨーロッパ諸国からの侵攻を恐れつつ、欧米列強(おうべいれっきょう)と肩を並べる為に富国強兵を推進して強大国家を形勢させる為に、清(しん)王朝の満州や大韓帝国への侵攻を伺(うかが)っていた。
その為に1894年に起こった「日清戦争」で日本軍は勝利して、清(しん)王朝と大韓帝国は日本に対して感服(かんぷく)の意を示す。
明治政府は“第6次朝鮮出兵”により1910年に「韓国併合」を実施した。
歴史的な価値から観れば、朝鮮民族や中華民族は、大和民族に対して許し難(がた)い行為である。
1914年7月〜1918年11月に起こった「第一次世界大戦」の前後に、産業革命の余波で機械化された兵器や武器により戦争の形式が変わり、世界中のどこかで戦争が勃発している時代に入った。
1937年に起こった「盧溝橋事件」(ろこうきょうじけん)を起因とする日本と中華民国による「日中戦争」が起こる。
そして日本軍は中国大陸に満州国を建国して、台湾や朝鮮半島の大韓帝国を占領下に置いた植民地とした。
そんな中国大陸を侵攻する最中(さなか)に起こったのが1937年の「南京大虐殺」(南京事件)で、中国軍の兵士や一般民衆に対してジェノサイド(集団殺戮)を実施した。
そんな中でヨーロッパでは1939年9月〜1945年8月に「第二次世界大戦」が起こる。
そして、日本はアメリカを相手に1941年に「真珠湾攻撃」を起こして「太平洋戦争」に突入する。
その後の1945年にアメリカ軍は広島と長崎に原子爆弾を投下し、その数日後に日本の無条件降伏により終戦を迎える。
しかし、戦争はここでは終わらず、日本が植民地にしていた朝鮮半島にて朝鮮民族の解放を目的に、資本主義国家のアメリカと社会主義国家のソビエトと中国の代理戦争が勃発する。
その副作用で朝鮮半島は南北に分断され、朝鮮半島の38度線を境に、1948年に北朝鮮と大韓民国(韓国)が建国され、1950年〜1953年まで続いた「朝鮮戦争」が勃発した。
歴史的な価値から観れば、朝鮮民族や中華民族は、大和民族に対して許し難(がた)い行為である。
中華民族と朝鮮民族と大和民族、お互いに想う所はある。
ただ、天界であれ、宇宙であれ、地球であれ、それが“正義”では無い。
現在でも数百年数千年の歴史は繋がっている。
日本第二の大都市でもある大阪では、“いしん”をかけた日本の国賊により、大阪へ移住してきた中華民族の支配体制によって、中国の占領下に置かれ植民地となったのは大阪府である。
これにより880万人の大阪府民は、“いしん”を込めてコミンテルン(国際共産主義運動)を信仰する共産圏の信者の扱いを日本で受けている。
大阪弁や文化など日本人とは違う事を、“いしん”を込めてやたらとアピールする大阪人は、敬愛する中華民族の一員であると言う自負(じふ)と尊厳(そんげん)の表れでもある。
大阪市と姉妹都市を提携する上海にて、1937年の「日中戦争」の時に「第二次上海事変」(だいにじしゃんはいじへん)の後に中華民国維新政府(ちゅうかみんこくいしんせいふ)を創設した縁もある。
中国に臣従(しんじゅう)し植民地となった大阪府はJR大阪駅前の広大な原っぱに、少なくとも親日家だった“中国革命の父”の孫文(そんぶん/中国革命家→国民党)と“中華人民共和国の建国功労者”の周恩来(しゅうおんらい/共産党→初代総理)の40m(10階建相当)の銅像を“いしん”を込めて建造すべきである。
更に、台湾への政治的圧力として、その日本の国賊は、“いしん”を掛けて沖縄県を軍事拠点とするべく、中国の占領下に置いた植民地にする事に尽力している。
地球の人間と人間が戦い合う、目に見える戦争、目に視えない戦争、それがいつまでも続いている。
その人間は、あなたもその1人である。
THE JAM /♪ AWAY FROM THE NUMBERS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:36:25
◆◇◆其の八:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
●●●1644年〜1912年 清(しん)王朝●●●
中国大陸は古来から、近隣の朝鮮半島や倭国(日本)に対して主従関係を締結していた。
特に陸地で繋がる朝鮮半島は、1000年余り臣従(しんじゅう)している。
それは清(しん)王朝になっても同じで、大韓帝国は服従(ふくじゅう)する事で守護してもらっていた。
清(しん)王朝が皇帝を認可したり軍事による防衛の冊封(さくほう)に対して、大韓帝国は貢物(みちぎもの)を贈る朝貢(ちょうこう)で友好関係を保っている。
しかし、西洋のヨーロッパ大陸などが鉄とガラスの発明により産業革命で近代化する中で、各帝国は国交による条約を締結して友好関係を築いていた。
一方の東洋は、大国が小国の面倒を見る冊封(さくほう)と朝貢(ちょうこう)の主従関係を築いていた。
西洋は産業の近代化と軍事の強化により、発展途上国にある東洋の各国を占領下に置いて植民地にしていった。
インドはイギリス領、ベトナムなどインドシナはフランス領、インドネシアなど南アジアはオランダ領となる帝国主義である。
この西洋による東洋の植民地化は、明治期の日本にも情報は入ってきた。
日本は江戸時代から明治期に掛けて、アメリカやイギリスなどと国交の交渉を経験していた為に、東洋にありながら条約締結による西洋式の関係を築いていたが、ただ、周囲が植民地になっていくのを観て気が気でない。
そこで日本は、先(ま)ずは大韓帝国を清(しん)王朝との主従関係を解消させて、条約締結による西洋式に変更させようとした。
この時期の日本と大韓帝国は、国交を締結していなかった為に、国書を送達して国交締結を提案する。
しかし、大韓帝国は日本からの国書に、皇帝などの“皇”や勅与(ちょくよ)などの“勅”が使用されている事に対して、この漢字は清(しん)王朝の皇帝のみが使用できるとして、日本を相手にしなかった。
この大韓帝国の対応に日本の政府は『無礼な国だ!』として、明治維新にて西郷吉之助(さいごうきちのすけ)こと西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が主張した“征韓論”(せいかんろん)が再燃した。
これにより日本軍は朝鮮半島に侵攻し、漢城(かんじょう/ソウル)の北西に位置する江華島(こうかとう)にて朝鮮軍と交戦した。
これを1875年に起こった「江華島事件」(こうかとうじけん)と呼ぶ。
江華島(こうかとう)の市街地は戦闘により荒廃し、日本軍と朝鮮軍は停戦交渉に入り和睦して戦争は終結した。
この延長線上で、1876年に日本と大韓帝国は“日朝修好条規”(にっちょうしゅうこうじょうき)を締結する。
こうして日本は大韓帝国を支配下に置く事に成功する。
この頃の朝鮮半島の大韓帝国は、皇帝だった興宣大院君(フンソンテウォングン/朝鮮皇帝)から息子の高宗(コジョン/朝鮮皇帝)に皇位が譲位(じょうい)されていた。
高宗(コジョン/朝鮮皇帝)には妻の閔玆暎(ミンジャヨン/朝鮮皇后)が居たが、この皇后が権力欲が強い女性で政治の実権を掌握(しょうあく)した。
閔玆暎(ミンジャヨン/朝鮮皇后)は、日本の明治維新に感銘を受けて、朝鮮半島の大韓帝国でも同じような改革の朝鮮維新を実施した。
こうして誕生した朝鮮維新軍を指揮する閔玆暎(ミンジャヨン/朝鮮皇后)は、中国大陸の清(しん)王朝を崇拝(すうはい)する元々の韓国幕府を排除して軍政改革を実施した。
GOLDFINGER /♪ MABLE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:37:20
◆◇◆其の九:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
この大韓帝国の閔玆暎(ミンジャヨン/朝鮮皇后)が率いる朝鮮維新軍の軍政改革を見て、日本の政府も援軍を派遣した。
この日本軍を指揮したのは、元は土佐藩の藩士だった陸軍の堀本礼造(ほりもとれいぞう/土佐→軍人)だった。
この間に大韓帝国の旧体制の韓国幕府軍は迫害を受けて、1年以上も給与が支払われなかった。
こうして韓国幕府軍は漢城(かんじょう/ソウル)で軍事クーデターを起こし、朝鮮維新軍や日本軍の主要人物を殺害し、その中には陸軍の堀本礼造(ほりもとれいぞう/土佐→軍人)も含まれていた。
朝鮮維新軍の最高指導者だった閔玆暎(ミンジャヨン/朝鮮皇后)は、漢城(かんじょう/ソウル)の宮廷の昌徳宮 (しょうとくきゅう)から、皇帝で夫の高宗(コジョン/朝鮮皇帝)を置き去りにして逃亡した。
この戦乱に危惧した高宗(コジョン/朝鮮皇帝)の父親の興宣大院君(フンソンテウォングン/朝鮮皇帝)が、宮廷の昌徳宮 (しょうとくきゅう)に入り再び実権を握った。
これを1882年に起こった「壬午軍乱」(じんごぐんらん)と呼ぶ。
しかし、この大韓帝国の戦乱を、宗国(そうこく)だった清(しん)王朝も危惧して、清軍を朝鮮半島に侵攻させた。
こうして清軍は、韓国幕府軍の興宣大院君(フンソンテウォングン/朝鮮皇帝)を拘束して、清(しん)王朝に連行した。
こうした清(しん)王朝の一連の行動と結果を診て、親日家だった朝鮮維新軍の閔玆暎(ミンジャヨン/朝鮮皇后)は、清(しん)王朝に寝返る。
ただ、この時期に清(しん)王朝は、インドシナ半島のベトナムなどの領有権を巡りフランスと交戦する事になる。
この戦争で清(しん)王朝はベトナムの権益を放棄してフランスが勝利するも、両軍は甚大な被害を被(こうむ)った。
これを1884年に起こった「清仏戦争」(しんふつせんそう)と呼ぶ。
日本は、この戦争で疲弊(ひへい)した清(しん)王朝の隙を突き、親日家の金玉均(キムオッキュン/朝鮮政治家)に指示を出して軍事クーデターを起こさせる。
漢城(かんじょう/ソウル)の宮廷の昌徳宮 (しょうとくきゅう)に居城していた皇帝の高宗(コジョン/朝鮮皇帝)を拉致して、景福宮(けいふくきゅう)の北側に建つ景祐宮(けいゆうきゅう)に移動して監禁した。
その金玉均(キムオッキュン/朝鮮政治家)と高宗(コジョン/朝鮮皇帝)が居る景祐宮(けいゆうきゅう)の周囲を日本軍が守護した。
閔玆暎(ミンジャヨン/朝鮮皇后)が指揮する朝鮮維新軍は、皇帝の高宗(コジョン/朝鮮皇帝)を救済する為に景祐宮(けいゆうきゅう)へ侵攻した。
しかし、日本軍の武力制圧により朝鮮維新軍は壊滅する。
この苦境に閔玆暎(ミンジャヨン/朝鮮皇后)は、清(しん)王朝に救援を要請する。
清(しん)王朝は、将軍の袁世凱(えんせいがい/軍人→北洋派→中華民国総統)が率いる清軍を朝鮮半島に侵攻させて日本軍を壊滅させる。
こうして軍事クーデターは失敗に終わり、金玉均(キムオッキュン/朝鮮政治家)は日本へ亡命した。
これを1884年に起こった「甲申政変」(こうしんせいへん)と呼ぶ。
この朝鮮半島での日本軍の敗北は、日本列島にも情報が伝達された。
こうして日本には、中国大陸の清(しん)王朝と朝鮮半島の大韓帝国に対して討伐の機運が高まる。
POISON /♪ NOTHIN' BUT A GOOD TIME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:38:21
◆◇◆其の十:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
この時期に慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開設していた福沢諭吉(ふくざわゆきち/学者)は“脱亜論”を提唱した。
福沢諭吉…『現在の日本は、既に東洋ではなく西洋の文化を取り入れている。 ただ、東洋の日本の立地は、中国大陸の清(しん)王朝と朝鮮半島の大韓帝国に隣接している為に、ヨーロッパなどから日本も同類と思われている。 その為に日本はヨーロッパなどと同様に、中国大陸の清(しん)王朝と朝鮮半島の大韓帝国と接するべきである。 日本は発展途上国である東洋の悪縁を断ち切り、先進国である西洋と親密にするべきだ。』
この福沢諭吉(ふくざわゆきち/学者)の“脱亜論”が日本の政府に響いたかは定かではないが、日本は中国大陸の清(しん)王朝と朝鮮半島の大韓帝国に対して強行姿勢を取るようになる。
こうして日本政府の代表として外務大臣の井上馨(いのうえかおる/長州)が、朝鮮半島の大韓帝国との「甲申政変」(こうしんせいへん)の戦後処理の交渉に出向く。
井上馨(いのうえかおる/長州)とは、周防国(すおう/山口県)の吉敷郡(湯田温泉)の出身で長州藩では抗戦派(正義派)に属していた。
1885年に武闘派の井上馨(いのうえかおる/長州)は、大韓帝国に対して戦争による謝罪と損害賠償を要求し、それらを承諾させる“漢城条約”(かんじょうじょうやく)を締結した。
一方で中国大陸の清(しん)王朝に対しては、伊藤博文(いとうひろふみ/長州)が戦後処理の交渉に出向いた。
伊藤博文(いとうひろふみ/長州)とは、長州藩の吉田松陰(よしだしょういん/長州)が塾長となる松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生で、抗戦派(正義派)でも知られ、後々に“初代の内閣総理大臣”に就任する。
1885年に好色派の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)は、清(しん)王朝の代表の李鴻章(りこうしょう/官僚)に対して朝鮮半島の大韓帝国からの撤退を要求し、それらを承諾させる“天津条約”(てんしんじょうやく)を締結した。
こうして東洋の戦局は平定されたかと思われたが、今度は朝鮮半島の大韓帝国で、日本に対して反乱が勃発した。
HOOTERS /♪ TWENTY-FIVE HOURS A DAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:39:17
◆◇◆其の十一:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
1889年に日本の憲法を制定した「憲法発布の式典」を実施し、“大日本帝国憲法”が発布された。
明治末期の日本を取り巻く環境は、ユーラシア大陸北部のロシア、中国大陸の清(しん)王朝、朝鮮半島の大韓帝国を交え、アジアを中心とした世界的な領土侵攻が激しさを増していた。
要は植民地支配である。
日本もヨーロッパ諸国からの侵攻を恐れつつ、欧米列強(おうべいれっきょう)と肩を並べる為に富国強兵を推進して強大国家を形勢させる為に、清(しん)王朝の満州や大韓帝国への侵攻を伺(うかが)っていた。
日本は占領下に置いた植民地の扱いをした大韓帝国で、日本から多くの商人が朝鮮半島に渡り、安価なお米を大量に購入して日本に輸出していた。
そうなると朝鮮半島での備蓄米が足りなくなり、お米の価格が高騰して朝鮮民族は食糧不足に陥った。
こうした事情から大韓帝国は、1889年に国内の穀物を海外に輸出する事を禁止する防穀令(ぼうこくれい)を発布した。
この防穀令(ぼうこくれい)により朝鮮半島に渡った日本の商人は大損害を被(こうむ)り、日本は即刻に“漢城条約”(かんじょうじょうやく)に違反するとして異議を唱えて、大韓帝国に対して損害賠償を請求した。
この防穀令(ぼうこくれい)の不備を認めた大韓帝国は、日本に損害賠償金を支払った。
これを1889年に起こった「防穀令事件」(ぼうこくれいじけん)と呼ぶ。
こうした日本からの抑圧で朝鮮半島では、朝鮮民族の間で東学(とうがく)の信仰が広まっていく。
東学(とうがく)とは、儒教と仏教と道教の教えを融合させて尊(とうと)び、西学のキリスト教の反対語として名付けられた。
朝鮮民族は弱腰の大韓帝国の政府に対して不満を鬱積(うっせき)させ、西洋のキリスト教をダシにして反乱を起こした。
この朝鮮民族の反乱で、大韓帝国と日本と清(しん)王朝の軍隊が入り乱れて鎮圧に向かったが、誰が敵で誰が味方なのか判断できない程に混乱した。
国家の軍隊が侵攻してきた事で、反乱を起こした朝鮮民族は恐れ慄(おのの)いて、直ぐに大人(おとな)しくなり反乱軍は解散した。
これを1894年に起こった「甲午農民戦争/東学党の乱」(こうごのうみんせんそう/とうがくとうのらん)と呼ぶ。
この反乱終結で朝鮮半島に残っている日本軍と清軍は拍子抜(ひょうしぬ)けとなり、このままでは無駄足になる為に、外務大臣で“カミソリ大臣”と呼ばれた陸奥宗光(むつむねみつ/紀州→政治家)は軍事作戦を変更した。
内乱状態にある朝鮮半島の安定を目的とした軍事統治を、日本は清(しん)王朝と共同で実施する提案をする。
しかし、清(しん)王朝は日本の申出を断った。
この時期に日本はイギリスと不平等に締結された条約の改定に尽力しており、1894年に“日英通商航海条約”(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)を締結した事で、日本とイギリスの国交は正常化した。
この条約には、日本が清(しん)王朝と戦争状態に陥ったとしても、イギリスは清(しん)王朝を擁護しない条文が盛り込まれていた。
こうして日本は単独で清(しん)王朝を討伐できる体制を整える。
OPEN SKYZ /♪ EVERY DAY OF MY LIFE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:40:15
◆◇◆其の十二:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
この明治期の日本では、明治維新の余韻(よいん)が冷めやらず、日本国民が一致団結して清(しん)王朝を征伐する機運が高まり、政府も一丸となって“検挙一致体制”で戦争に向かっていった。
日本軍は広島県に本陣を設けて前線基地とした。
一方の清(しん)王朝は、皇帝時代が長く続き、政局は乱れて戦意の無い要職の役人も多く、政治統制が採れていない状態だった。
そんな政局で清軍は、とても日本軍に立ち向かう軍事力や統率力は持っていなかった。
この日本と清(しん)王朝に挟まれた朝鮮半島の大韓帝国は、日本による占領下の元で、鉄道の敷設やインフラ整備が進行していた。
日本軍は植民地とした大韓帝国に対して、戦時中の食糧確保や軍事物資の運搬を指示した。
日本の政府は、清(しん)王朝に侵攻する事を決定し、九州は長崎県の佐世保港から日本軍の海上部隊が戦艦で出港し、朝鮮半島に向けて航海が始まった。
1894年7月23日に、先鋒隊として朝鮮半島に上陸していた日本軍の陸上部隊は朝鮮軍を制圧し、大韓帝国の漢城(かんじょう/ソウル)にある宮廷の景福宮(けいふくきゅう)に居城していた皇帝の高宗(コジョン/朝鮮皇帝)を包囲して降伏させた。
その後に皇帝の高宗(コジョン/朝鮮皇帝)を拘束して監禁し、父親の興宣大院君(フンソンテウォングン/朝鮮皇帝)を皇帝に復帰させ、大韓帝国の最高指導者に就任させた。
これにより日本は大韓帝国の興宣大院君(フンソンテウォングン/朝鮮皇帝)に対して、朝鮮半島に駐屯する清(しん)王朝の軍隊を、日本軍により清軍を退陣させて欲しいと嘆願した事で、戦争の大義名分を得る様に画策する。
これを1894年に起こった「7月23日戦争」と呼ぶ。
この日本軍の横暴に対して、朝鮮民族は抵抗して反乱を起こした。
しかし、近代兵器を装備する日本軍に、朝鮮民族の反乱は直ぐに鎮圧される。
これを1894年に実施した「甲午改革」(こうごかいかく)と呼ぶ。
漢城(かんじょう/ソウル)の南部に位置する牙山(がざん)に清軍の本陣があり、日本軍の作戦は、漢城(かんじょう/ソウル)から南下する陸上部隊と、海から援軍に駆け付ける清軍の戦艦を撃沈する海上部隊の2軍で侵攻する計画だった。
牙山湾(がざんわん)の西部に位置する豊島沖(ほうとうおき)で、日本軍の海上部隊の戦艦4艘と、清軍の戦艦2艘が偶然に遭遇する。
日本軍は清軍の戦艦1艘を撃沈し、もう1艘は逃亡した。
日本軍の戦艦4艘が追撃する所へ、別の清軍の戦艦2艘が進行してきた。
この清軍の戦艦は、1艘は兵士の護送船で、もう1艘は護衛艦だった。
清軍の戦艦は豊島沖(ほうとうおき)の港湾の奥深くまで入り込んでしまった。
日本軍の海上部隊の統帥に就任していた東郷平八郎(とうごうへいはちろう/薩摩→軍人)は、清軍の戦艦に対して降伏要求するも拒否される。
日本軍の戦艦は清軍の戦艦を撃沈して、清軍の援軍を朝鮮半島への上陸を阻止した。
これを1894年に起こった「豊島沖海戦」(ほうとうおきかいせん)と呼ぶ。
FALL OUT BOY /♪ THE TAKE OVER,THE BREAKS OVER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:41:14
◆◇◆其の十三:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
牙山(がざん)に本陣を設けていた清軍は、日本軍が漢城(かんじょう/ソウル)から南下している事と、清軍の援軍が豊島沖(ほうとうおき)で撃沈された事を踏まえて、北東部に位置する成歓(せいかん)に布陣した。
この成歓(せいかん)の戦地は激戦となり、日本軍にも大多数の戦死者が出た。
その中に突撃ラッパを吹いたまま銃撃を受けて戦死した白神源次郎(しらがみげんじろう/備中→軍人)または木口小平(きぐちこへい/備中→軍人)も居り、これが後々に日本へ伝わり『戦死してもラッパを離さず、吹き続けた有志。』として讃(たた)えられ、それが元で薬の“正露丸”にラッパが採用される。
成歓(せいかん)の戦地で日本軍は清軍を壊滅させて、続いて牙山(がざん)の本陣に侵攻するも清軍は退却していた。
これを1894年に起こった「成歓牙山の戦」(せいかんがざんのたたかい)と呼ぶ。
これら一連の戦闘により、日本が清(しん)王朝に対しての宣戦布告となり「日清戦争」が起こる。
日本と清(しん)王朝の戦争とは言うものの、実際の戦闘は朝鮮半島で起こっている。
日本軍は漢城(かんじょう/ソウル)に本陣を構え、中国大陸から進行した清軍は平壌城(ぴょんやんじょう)に本陣を構えた。
この日本軍の「日清戦争」の作戦は、朝鮮半島の付け根に位置する遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)と奉天(ほうてん/瀋陽)を征圧する事にあった。
漢城(かんじょう/ソウル)から侵攻した日本軍は、清軍の本陣でもある平壌城(ぴょんやんじょう)の四方八方を包囲した。
しかし、細長く広大な平壌城(ぴょんやんじょう)は東側に川が流れる難攻不落のお城で、日本軍も落城に苦戦した。
特に北側に設けられた玄武門(げんぶもん)は中から施錠され、日本軍の攻撃にも耐えていた。
清軍は平壌城(ぴょんやんじょう)での篭城作戦に出た。
ところが玄武門(げんぶもん)を攻撃していた日本軍の原田重吉(はらだじゅうきち/三河→軍人)が、城壁をよじ登り平壌城(ぴょんやんじょう)の城内に侵入する事に成功した。
そして、玄武門(げんぶもん)の施錠を解除して、日本軍を平壌城(ぴょんやんじょう)の城内に侵攻させた“玄武門破り”を見事に成し遂げた。
この“玄武門破り”により勢い付いた日本軍は平壌城(ぴょんやんじょう)を落城させて、清軍は退陣し日本軍が勝利する。
これを1894年に起こった「平壌の戦」(ぴょんやんのたたかい)と呼ぶ。
一方で日本軍の海上部隊は、朝鮮半島の西部に位置する黄海(こうかい)で清軍の海上部隊と、互いに10艘以上の戦艦で激闘を繰り広げていた。
この激戦で清軍の戦艦5艘が撃沈された一方で、日本軍の戦艦は破損はあるものの沈没には至(いた)らず、ここでも日本軍が勝利する。
これを1894年に起こった「黄海海戦」(こうかいかいせん)と呼ぶ。
日本軍はこれら朝鮮半島での勝利により、本格的に中国大陸への侵攻を開始した。
日本軍は陸路から朝鮮半島を陸上部隊が北上し、中国大陸の満州に侵攻する“鴨緑江作戦”(おうりょくこうさくせん)を遂行する。
その間に日本軍の海上部隊は、遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)に上陸した。
旅順(りょじゅん)は清(しん)王朝にとって東部を守護する防衛拠点で、長年に掛けて難攻不落の要塞として建造してきた。
しかし、日本軍の勢力に慄(おのの)いた清軍は、旅順(りょじゅん)を守護する事なく直ぐに逃亡してしまう。
日本軍は旅順(りょじゅん)を軍事拠点にする為に、次々と家屋を破壊して、清軍に置き去りにされた中華民族のジェノサイド(集団殺戮)を実施した。
これにようやく危機感を募らせた北京にある清(しん)王朝の宮中は、日本との和睦を提案する。
日本軍は服従(ふくじゅう)の姿勢を見せた清(しん)王朝により、北京への侵攻を中止して、中国大陸の南部へ侵攻を開始した。
遼東半島(りょうとうはんとう)の対岸にある威海衛(いかいえい)の戦地にて、最後となる戦闘が繰り広げられる。
日本軍は陸路から陸上部隊が、海路から海上部隊が侵攻し、圧倒的な軍事力の前に清軍は降伏した。
これを1895年に起こった「威海衛の戦」(いかいえいのたたかい)と呼ぶ。
これにて日本が勝利し、清(しん)王朝の敗北が確定して、1894年〜1895年の「日清戦争」は実質的に終戦を迎える。
FLOGGING MOLLY /♪ REQUIEM FOR A DYING SONG
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:42:15
◆◇◆其の十四:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
日本は戦後処理として山口県下関市で、清(しん)王朝との日清講和会議を開催する。
日本からは“初代の内閣総理大臣”の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)と、外務大臣で“カミソリ大臣”と呼ばれた陸奥宗光(むつむねみつ/紀州→政治家)が交渉にあたった。
清(しん)王朝からは、1885年の“天津条約”(てんしんじょうやく)の際に伊藤博文(いとうひろふみ/長州)と締結した李鴻章(りこうしょう/官僚)が来日した。
日本が清(しん)王朝に要求したのは主な概要は下記となる。
①:朝鮮半島の大韓帝国に対して、清(しん)王朝は干渉せず独立を認可する。
②:遼東半島(りょうとうはんとう)と澎湖諸島(ほうこしょとう)と台湾を割譲し、日本に領有権を譲渡する。
③:威海衛(いかいえい)にて日本軍の駐屯。
④:清(しん)王朝は日本に対して、貿易と重工業の目的により沙市(さし)と重慶(じゅうけい)と蘇州(そしゅう)と杭州(こうしゅう)の港を開港する。
⑤:戦争賠償金の2億両(1000億円)の支払い。
これを1895年に“日清講和条約”を締結した「馬関条約」(ばかんじょうやく/下関条約)と呼ぶ。
しかし、“日清講和条約が締結され会談が終了し、清(しん)王朝の李鴻章(りこうしょう/官僚)が宿泊先に帰る途中に、テロリストの日本青年に拳銃で襲撃され負傷する。
この李鴻章(りこうしょう/官僚)の襲撃事件を受けて、世界の各国は日本を野蛮(やばん)な国民性と認識し、被害に遭った清(しん)王朝に対して同情した。
テロリストの日本青年による襲撃事件により、「日清戦争」に勝利した日本の扱いが変わってくる。
日本は事実上に朝鮮半島と台湾を占領下に置く植民地とした。
しかし、軍事強国となった日本に対して、ロシアとドイツとフランスの“三国干渉”により異議を唱えてきた。
特に冬季には極寒となるロシア大陸は港湾の海も凍結する為に、冬場でも凍らない港湾を手中に収めたかった。
それが清(しん)王朝が港湾整備した遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)で、ロシアはドイツやフランスと連携して日本に軍事圧力を掛けた。
日本は「日清戦争」に勝利したからと言って、戦後の国内は疲弊(ひへい)しており、直ぐにロシアとドイツとフランスの三国を相手に戦争する余力は無い。
結局、日本は遼東半島(りょうとうはんとう)の占有を放棄する代替に、清(しん)王朝から遼東半島(りょうとうはんとう)に見合う価値の戦争賠償金を得る事になる。
これを知った日本国民(大和民族)は憤懣(ふんまん)し、特にロシアに対して強い敵意を感じる様になる。
こうして日本国内はロシアへの報復の為に、国民が一丸となり臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の思いで軍事主義帝国として歩み始める。
IMELDA MAY /♪ MAYHEM
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:43:16
◆◇◆其の十五:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
1895年に日清講和会議により締結した「馬関条約」(ばかんじょうやく/下関条約)にて、日本は中国大陸の北京を中心とした北部を占領下に置いた。
その為に、今後は資源が豊富に眠る東南アジアへ、日本軍が侵攻する事を決定した“北守南進”(ほくしゅなんしん)を推進する。
その軍事拠点となるのが台湾だった。
1894年〜1895年の「日清戦争」で、台湾の西部に点在する澎湖諸島(ほうこしょとう)は日本軍が占領していた為に、「馬関条約」(ばかんじょうやく/下関条約)に基づき台湾の統治を始める。
先(ま)ず、政府機関の台湾総督府を設けて初代の台湾総督に樺山資紀(かばやますけのり/薩摩→軍人)が就任した。
樺山資紀(かばやますけのり/薩摩→軍人)は、1874年の日本軍による台湾出兵の際に台湾に従軍しており、内部事情に詳しかった事が決め手となった。
樺山資紀(かばやますけのり/薩摩→軍人)は海路で台湾の北部に上陸し、そこで待っていた清(しん)王朝の外交官で李鴻章(りこうしょう/官僚)の甥の李経芳(りけいほう/外交官)から台湾の割譲を受けた。
しかし、国同士の政治的な取り決めも、その国民に取っては有益になるものではなく、台湾領民の反発は大きかった。
更に台湾領民は清(しん)王朝に対しても、見捨てたと言う裏切り行為から不信感が募り、1895年に独立国家の台湾民主国を建国した。
台湾民主国の総統には、清(しん)王朝の官僚だった唐景崧(とうけいすう/官僚→台湾総統)が就任した。
台湾民主国は台湾軍を組成して、台湾の北部に上陸してきた日本軍に真っ向から対峙した。
ところが出てたてホヤホヤの台湾軍が、騎虎(きこ)の勢いで侵攻する日本軍に太刀打ちできる筈(はず)もなく、台湾軍は敗北して台湾民主国の総統だった唐景崧(とうけいすう/官僚→台湾総統)は中国大陸に逃亡した。
こうして日本軍は台湾の北部を制圧し、そのまま南下したが、行く先々で台湾領民の抵抗に遭い、中々に台湾の統治は進まなかった。
台湾民主国は台湾軍より数倍も強靭な台湾領民は、ゲリラ戦術で日本軍を翻弄(ほんろう)させた。
ゲリラ部隊と一般領民の区別がつかない事情もあり、日本軍は街を焼き討ちし、台湾領民に対してジェノサイド(集団殺戮)を実施した。
更に南国特有の病気も日本軍を苦しめ、不衛生な環境から赤痢やマラリアを発病する兵士が多発し、食糧不足から栄養失調に陥り、多くの死者を出した。
そんな劣悪な環境下でも、台湾の南部から日本軍の海上部隊が上陸し、北部の陸上部隊と挟み討ちする戦術で、台湾民主国は台湾軍とゲリラ部隊を鎮圧し、台湾軍の将軍だった劉永福(りゅうえいふく/軍人→台湾将軍)は中国大陸へ逃亡した。
HOTWAX /♪ STRANGE TO BE HERE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:44:16
◆◇◆其の十六:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
この頃に台湾総督は4代目の児玉源太郎(こだまげんたろう/長州→軍人)が就任し、今まで台湾の統治は日本軍による強硬路線で実施してきたが、頑(かたく)なに抵抗する台湾領民の事を考慮して融和路線に変更した。
そして台湾総督府の官僚で、後々に東京市長に就任して帝都都市計画を実施した後藤新平(ごとうしんぺい/陸奥〔岩手〕→台湾官僚→東京市長)を台湾の平定政策に起用した。
後藤新平(ごとうしんぺい/陸奥〔岩手〕→台湾官僚→東京市長)は“旧慣尊重”(きゅうかんそんちょう)を掲げて、台湾領民の意見を聞き入れて改革に着手した。
これにより台湾領民も日本に対して協力的になった。
台湾総督府は、台湾の島内に必要な鉄道や港湾、それに水道などのインフラ整備を実施した。
台湾の南部と北部を結ぶ南北縦貫鉄道の敷設により、物流の効率化が格段に上昇した。
そして、港湾の整備をした事で、日本だけでなくアメリカやヨーロッパとの貿易も盛んになった。
また、農地の開墾にも尽力し、お米や砂糖の殖産を推進した。
この時に農業の学者だった新渡戸稲造(にとべいなぞう/陸奥〔岩手〕→学者)が陣頭指揮を執(と)った。
台湾総督府は、日本流による土地改革も実施して、地租改正事業も実施して台湾領民による土地などの不動産の所有権を認可した。
日本はロシアとドイツとフランスの“三国干渉”により、清(しん)王朝と大韓帝国の統治権を放棄したが、そのロシアが中国大陸の東北部に侵攻し始めた。
これに怒った日本軍はロシアを相手に、1904年に「日露戦争」を勃発させた。
この戦争で日本軍は勝利したが、アメリカが介入し戦後処理が執(と)り行われる。
これにより事実上、清(しん)王朝の満州と大韓帝国は日本の占有権が優位に運ぶ環境が整ってきた。
NO DOUBT /♪ HELLA GOOD
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:45:11
◆◇◆其の十七:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
日本政府が外国相手に「日清戦争」と「日露戦争」に勝利したとは言え、日本国内は景気が悪化しており国民の不満が高まっていた。
日本政府は、その不満分子のエネルギーを国内から国外に矛先(ほこさき)を変えたのが、1910年に実施した「韓国併合」である。
先(ま)ず日本は、朝鮮半島の大韓帝国に的(まと)を絞り強硬な交渉を押し付けていく。
“日韓議定書”で、大韓帝国は他国の意見は聞き捨て日本の政治的助言のみを受け入れ、日本軍が朝鮮半島を自由に往来できる内容を締結させた。
1904年に“第1次日韓協約”を締結し、日本は大韓帝国を保護国として、外交権と財政権に介入した。
これをアメリカ、イギリス、ロシアの大国が認可している。
1905年に“第2次日韓協約”を締結し、日本の元内閣総理大臣の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)と大韓帝国の皇帝の高宗(コジョン/朝鮮)が交渉を進めて、日本の政治圧力と日本軍の軍備圧力で大韓帝国が日本の保護国になる事を高宗(コジョン/朝鮮)に認めさせた。
それに伴い漢城(かんじょう/ソウル)に保護国として韓国統監府(かんこくとうかんふ)を設置して、初代統監に伊藤博文(いとうひろふみ/長州)が就任した。
ただ、大韓帝国の国民も、軍隊も、政治家も、もちろん高宗(コジョン/朝鮮)も、日本の強引な国交措置に不満を抱(いだ)き、オランダのハーグで実施されていた万国平和会議で、高宗(コジョン/朝鮮)が世界に向けて日本による支配の救済を訴えた。
ところが世界各国は“第1次日韓協約”にて認可していたので、この高宗(コジョン/朝鮮)を無視してしまう。
これを1907年に起こった「ハーグ密使事件」と呼ぶ。
この大韓帝国の高宗(コジョン/朝鮮)による謀反(むほん)に激怒した日本は、さらに抑圧を強めていく。
THE WHITE STRIPES /♪ THERE'S NO HOME FOR YOU HERE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:46:07
◆◇◆其の十八:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
1907年に“第3次日韓協約”を締結し、大韓帝国の内政権にまで掌握(しょうあく)し、日本の実質的な支配を開始した。
高宗(コジョン/朝鮮)は責任を取らされ皇帝を辞任し、息子の純宗(スンジョン/朝鮮)が皇位を譲位(じょうい)した。
ただ、国同士の書面による条約締結も、大韓帝国の国民にも、軍隊にも、政治家にも、単なる紙切れの戯言(たわごと)に過ぎず、心の中までは支配できない。
大韓帝国の漢城(かんじょう/ソウル)をはじめ、各地で反乱が勃発する。
これに嫌気を刺した統監の伊藤博文(いとうひろふみ/長州)は、辞任して日本に帰ってしまう。
その後の1909年、伊藤博文(いとうひろふみ/長州)は中国大陸に渡り、清(しん)王朝のハルビンの駅で列車を待っていたところに、大韓帝国の政治革命家だった安重根(アンジュングン/朝鮮)に銃撃されて暗殺された。
この伊藤博文(いとうひろふみ/長州)暗殺事件をきっかけに、皮肉にも日本は大韓帝国に対して更(さら)に圧力を強める。
大韓帝国の皇帝の純宗(スンジョン/朝鮮)は、日本の第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)に大韓帝国の統治権を譲渡した。
日本政府は、国名の大韓帝国を朝鮮、首都の漢城(かんじょう/ソウル)を京城(けいじょう/ソウル)の名称に改めた。
そして朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)を設置し、初代総督に寺内正毅(てらうちまさたけ/長州)が就任し、後々に第18代の内閣総理大臣に就任する人物である。
これにより日本が大韓帝国を植民地化した事を世界的に周知させる。
これを1910年に実施した「韓国併合」と呼ぶ。
朝鮮半島は1910年の「韓国併合」より35年間余り、日本の占領下に置かれ植民地となっていた。
その間に日本軍は朝鮮民族に対して、日本語の強要や和風文化の浸透を実施した。
平安南道(へいあんなんどう)に天照大御神(アマテラス)を祭神とする平壌神社(へいじょうじんじゃ)や、京城(けいじょう/ソウル)に第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)を祀る朝鮮神宮を創建した。
これ以外にも神道(しんとう)の神社が、朝鮮半島の各地に設けられた。
LOCAL H /♪ BOUND FOR THE FLOOR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:47:02
◆◇◆其の十九:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
1904年の「日露戦争」で日本は勝利し、ロシアと戦後処理の“ポーツマス条約”を締結する。
この日本とロシアの講和会議の“ポーツマス条約”で取り決められたのは、中国大陸の東北部に位置する満州と朝鮮半島の占有と利権や、オホーツク海峡の漁業の利権を、日本はロシアに承認させた。
しかし、「日露戦争」に多額の軍事費が掛かったにも関わらず、日本はロシアから戦争賠償金を得る事ができなかった。
中国大陸の満州と朝鮮半島を得たとしても、新規開拓する事業費が日本には無かった。
そんな日本の懐(ふところ)事情を見透かしたアメリカが、共同で満州の統治を持ち掛けてきた。
このアメリカの申出に、金欠で財政難の日本に取っては渡りに舟で、この事情を知った政治家の井上馨(いのうえかおる/長州)や実業家の渋沢栄一(しぶさわえいいち/実業家)も賛同した。
こうして内閣総理大臣だった桂太郎(かつらたろう/長州→軍人)は、満州をアメリカとの共同統治する覚書に調印する。
しかし、ここで『待った!』がかかる。
アメリカの留学から帰国したばかりの小村寿太郎(こむらじゅたろう/日向→政治家)が、アメリカの本心と調略を見抜いており、後々にアメリカは強靭な軍事力で日本を脅して、満州の統治を独裁すると進言した。
小村寿太郎(こむらじゅたろう/日向→政治家)は、満州の統治の為の事業資金も調達し、アメリカに頼らなくても日本独自で満州の事業を賄える様になる。
その後、“ポーツマス条約”によりロシアから満州の権益の譲渡を受ける際に、清(しん)王朝は日本の統治に抵抗した。
それでも小村寿太郎(こむらじゅたろう/日向→政治家)が清(しん)王朝の北京を訪問し、交渉を重ねて承諾を得た。
これにより日本は、遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)から奉天(ほうてん/瀋陽)を経由して長春(ちょうしゅん/新京)まで向かう南満州鉄道の権益を得る。
LOSER /♪ NOBODY KNOWS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250919 - ラジオの友 URL
2025/09/19 (Fri) 22:47:57
◆◇◆其の二十:中国大陸と朝鮮半島と日本列島の歴史観◆◇◆
日本は満州に日本軍を派遣して南満州鉄道の沿線の警備に当たらせた。
また、奉天(ほうてん/瀋陽)からの支線として朝鮮半島の付け根に位置する安東(あんとう)も設ける。
1905年に日本は正式に南満州鉄道を設立させ、資本金は半官半民とした。
台湾の統治で実績のある4代目の台湾総督に就いていた児玉源太郎(こだまげんたろう/長州→軍人)を南満州鉄道の設立責任者に就任させた。
しかし、1906年に児玉源太郎(こだまげんたろう/長州→軍人)は急死し、生前に南満州鉄道の総裁には台湾総督府の官僚だった後藤新平(ごとうしんぺい/陸奥〔岩手〕→台湾官僚→東京市長)を指名していた。
初めは後藤新平(ごとうしんぺい/陸奥〔岩手〕→台湾官僚→東京市長)も拒否していたが、児玉源太郎(こだまげんたろう/長州→軍人)が遺言を残して死去した為に、南満州鉄道の総裁を引き受けた。
総裁に就任した後藤新平(ごとうしんぺい/陸奥〔岩手〕→台湾官僚→東京市長)の元で南満州鉄道は、鉄道の運行は勿論(もちろん)の事、不動産の沿線開発や駅周辺の都市計画も実施した。
更に満州の山岳地帯で鉱山や製鉄所も設立して、南満州鉄道により石炭や鉱物の貨物運搬も実施している。
南満州鉄道の主要都市には、ホテルや商業施設、学校や病院も設けた。
その1つが大連ヤマトホテルである。
市街地にはガスや電気、それに上下水道のインフラ整備も整えた。
1906年に南満州鉄道の経営が軌道に乗ると、日本は遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)の一帯を、関東州(かんとうしゅう)と言う日本流の名称に変更した。
旅順(りょじゅん)に関東都督府(かんとうととくふ)を設置して、政治と軍事の行政機関を置いた。
この関東都督府(かんとうととくふ)は、後々に政治部門を関東庁、軍事部門を関東軍に名称を改めている。
この満州における日本の成功を苦々しく観ていたのは、共同で統治を提案していたアメリカだった。
この頃になると日本とロシアは友好関係を築いており、アメリカはアジアでの植民地支配の成功を治めているイギリスを頼る様になる。
しかし、イギリスは日本とも友好関係にあり、これによりアメリカは政治的圧力でイギリスと日本の関係性に亀裂を入れる事になる。
CHEAP TRICK /♪ COLD TURKEY
◆ラジオの友◆