都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:47:59
◆◇◆其の三十七:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
1603年に征夷大将軍1代目に就任した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)にて江戸幕府を開設した。
既に高齢に差し掛かっていた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に取って、懸念材料は後継者問題だった。
過去の幕府を参考にしても、鎌倉幕府の源氏は3代目で崩壊して、室町幕府は足利氏が15代目まで続いたとは言え征夷大将軍3代目の足利義満(あしかがよしみつ/室町)が絶頂期と診(み)ている。
末永く徳川家の江戸幕府が繁栄するには、征夷大将軍を中心とした勢力基盤が必要だった。
そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、嫡流(ちゃくりゅう)の将軍家の他に、庶流(しょりゅう)の徳川御三家(とくがわごさんけ)を設ける。
常陸国(ひたち/茨城県)の水戸城(みとじょう)を拠点とした35万石の水戸徳川家。
尾張国(愛知県)の名古屋城(なごやじょう)を拠点とした62万石の尾張徳川家。
紀伊国(和歌山県)の和歌山城(わかやまじょう)を拠点とした56万石の紀州徳川家。
こう視ても、嫡流(ちゃくりゅう)の将軍家が途絶えたとしても、徳川御三家(とくがわごさんけ)の石高や勢力基盤から尾張徳川家より征夷大将軍が就任すると思われるが、実は1人も征夷大将軍に就いた人物はいない。
しかも“暴れん坊将軍”と呼ばれる征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)からは、ほぼ紀州徳川家から征夷大将軍に就任している。
しかも徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)は、東照大権現(とうしょうだいごんげん)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に倣(なら)って徳川御三卿(とくがわごさんきょう)の田安徳川家と一橋徳川家と清水徳川家を設けて、征夷大将軍の就任を紀州徳川家で独占した。
これが“暴れん坊将軍”と呼ばれる所以(ゆえん)である。
では、江戸幕府の中で尾張徳川家は影が薄かったのか?
そんな事はない。
ある意味、征夷大将軍を輩出(はいしゅつ)しなくとも、尾張徳川家の人材はそれなりに存在感を出している。
良くも悪くもだが。
GERARD KENNY /♪ D-D-D-DANCIN'
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:49:21
◆◇◆其の三十八:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
江戸城(えどじょう)の西方を守護する市ヶ谷の尾張徳川家の屋敷だが、そのまた西方に同規模の尾張徳川家の屋敷がある。
現在で言う新大久保駅から高田馬場駅の東方に掛けてだが、この屋敷跡地は早稲田大学などになっている。
1603年の江戸幕府の開設により、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子の徳川義直(とくがわよしなお/徳川→尾張)が尾張名古屋藩の1代目藩主に就任した。
その息子の徳川光友(とくがわみつとも/徳川)が2代目藩主となる。
そして、その息子の徳川綱誠(とくがわつなのぶ/尾張)が3代目藩主となるのだが、このお殿様の側室に入ったお福こと本寿院(ほんじゅいん/尾張)が江戸幕府を揺るがす程の女性だった。
お福こと本寿院(ほんじゅいん/尾張)は名古屋城下町の町人の娘と言われ、名古屋城(なごやじょう)の界隈では“絶世の美女”で名高く、3代目藩主の徳川綱誠(とくがわつなのぶ/尾張)に見初(みそ)められ側室に入った。
そして、後々の4代目藩主に就任する徳川吉通(とくがわよしみち/尾張)が誕生する。
そんな母親のお福こと本寿院(ほんじゅいん/尾張)は大の交尾(こうび)好きで、侍従(じじゅう)だろうが、家臣だろうが、傍(そば)に居る男性なら手当たり次第に交わったと古文書には記述されている。
過去の事で史実の正誤は解らないし、プライベートな事なので他人がとやかく言う権利は無いのだが、事実無根の噂(うわさ)だったとしても、江戸幕府と尾張徳川家としては品位に関わる。
その為に人目を避ける様に江戸の尾張徳川家の四谷御殿(紀尾井町)に幽閉した。
ただ、事はこれで収(おさ)まらず、今度は4代目藩主に就いた息子の徳川吉通(とくがわよしみち/尾張)が、1713年に母親が暮らす尾張徳川家の四谷御殿(紀尾井町)で毒殺された。
江戸幕府の次期将軍候補だった徳川吉通(とくがわよしみち/尾張)は、紀州徳川家の“暴れん坊将軍”と呼ばれる徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が仕向けた間者(かんじゃ/スパイ)により暗殺されたと噂(うわさ)が立つ。
しかも、徳川吉通(とくがわよしみち/尾張)の息子で5代目藩主に就任した徳川五郎太(とくがわごろうた/尾張)も、1713年に3歳で早世した。
尾張徳川家の親子2代に渡り亡き者にする徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が、“暴れん坊将軍”と呼ばれる所以(ゆえん)である。
そして3代目藩主の徳川綱誠(とくがわつなのぶ/尾張)の息子の徳川継友(とくがわつぐとも/尾張)が6代目藩主に就任した。
しかし、1731年に後継者不在のまま徳川継友(とくがわつぐとも/尾張)は病死する。
そこで登場したのが3代目藩主の徳川綱誠(とくがわつなのぶ/尾張)の息子で、尾張徳川家では一番に有名人である7代目藩主の徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)である。
JOHN VALENTI /♪ I WON'T CHANGE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:50:23
◆◇◆其の三十九:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
江戸から350kmほど離れた尾張国(愛知県)の尾張名古屋藩では、征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が遂行する“質素倹約”の「享保の改革」(きょうほうのかいかく)とは様子が違っていた。
金色に輝く鯱鉾(シャチホコ)が眩(まばゆ)い名古屋城(なごやじょう)には、尾張名古屋藩の7代目藩主で東海道で一番の傾奇者(かぶきもの/異端者)と呼ばれた徳川宗春(とくがわむねはる/徳川)が煙管(きせる)を吹かしていた。
そこに1人の年老いた家老が押し寄せる。
家老…『殿、わたしは悔しいで御座るよ!』
徳川宗春…『おやぁ、どうした爺(じい)、そんな哀しいお顔をして?』
フゥ〜〜 プッパァ〜
家老…『征夷大将軍8代目に襲名した徳川吉宗殿と紀州徳川家の事で御座るよっ!』
徳川宗春…『ほぉ、紀州の“梅干し将軍”が如何(いかが)したのか?』
家老…『今、江戸幕府に潜り込ませている間者(かんじゃ/スパイ)から報告があったのじゃが、殿の兄上でもある徳川吉通公と、その御子息の徳川五郎太公は如何(どう)やら、紀州徳川家に暗殺された痕跡が見受けられると申すのである。』
プハッ
徳川宗春…『なにぃ〜!? どう言う事じゃ!』
家老…『実は徳川吉通公が亡くなる前後に、数名の紀州徳川家の間者(かんじゃ/スパイ)が名古屋城下町をウロウロしていた目撃情報が入りましたのじゃ。』
徳川宗春…『兄者(あにじゃ)と御子息を殺(あや)めたのは、その紀州徳川家の間者(かんじゃ/スパイ)だと申すのか!?』
家老…『確たる証拠は御座らんが、その8年前の同時期にも紀州の和歌山城で徳川吉宗殿の父上と2人の兄上が亡くなり、棚から牡丹餅(ぼたもち)の如(ごと)く紀州藩(和歌山)の藩主に就任しておる。』
徳川宗春…『その後、徳川吉宗殿は棚から牡丹餅(ぼたもち)の如(ごと)く江戸幕府の征夷大将軍にも就任しておるな。』
家老…『決して偶然とは思えんのじゃ! その将軍後継者闘争で徳川吉通公と徳川五郎太公が殺(あや)められたと思うと、悔しゅ〜て、悔しゅ〜て、夜も眠れんのじゃ。』
徳川宗春…『それが事実としたら、徳川吉宗殿は本物の“暴れん坊将軍”ではないかっ!』
家老…『神君(しんくん/徳川家康)のお膝元の尾張徳川家も、紀州徳川家に舐められたものじゃ。』
徳川宗春…『おのれぇ〜 兄者(あにじゃ)の怨みを晴らしてやるっ!』
家老…『殿、いけませぬぞぉ、復習など! 仮にも相手は江戸幕府の征夷大将軍である。 謀反(むほん)を起こせば尾張名古屋藩の領地没収の改易(かいえき)どころか、尾張徳川家の“お家取潰し”は免れぬぞぉ。』
徳川宗春…『そんなぁ戯(たわ)けた事はせぬわぁ。 徳川吉宗殿の江戸幕府が「享保の改革」(きょうほうのかいかく)で質素倹約するなら、尾張名古屋はその逆目を行くまでよぉ!』
家老…『逆目とは、如何(いか)に?』
徳川宗春…『爺(じい)、忙しくなるぞっ! 鼓(つづみ)を持てぇ〜』
ポン ポンポンポンポン ポン
徳川宗春…『人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり、一度(ひとたび)生(せい)を享(う)け、滅(めっ)せぬもののあるべきか。』(敦盛/あつもり)
家老…『お見事!』
徳川宗春…『平敦盛公、織田信長公も若くして散っておる、兄者(あにじゃ)の復習を果たせれば、この命、惜しい無い! 現生にしがみ付く見苦しい老人だけには成りとおないわぁい。』
SEAWIND /♪ HE LOVES YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:51:22
◆◇◆其の四十:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
ここで一旦、整理しよう。
征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が、まだ紀伊国(和歌山県)の紀州藩(和歌山)の和歌山城(わかやまじょう)で生活を送っていた青年期の事である。
1698年、父親で2代目藩主だった徳川光貞(とくがわみつさだ/紀州)が、長男の徳川綱教(とくがわつなのり/紀州)へ3代目藩主を継承した。
ところが7年後の1705年7月に病により徳川綱教(とくがわつなのり/紀州)が死去する。
ここの死因には疑う余地は無い。
後継者の居なかった徳川綱教(とくがわつなのり/紀州)なので、4代目藩主として引き継いだのは次男の徳川頼職(とくがわよりもと/紀州)だった。
その年の1705年9月に、父親で2代目藩主だった徳川光貞(とくがわみつさだ/紀州)が78歳で亡くなる。
この時代の高齢を考えると長寿のため、ここの死因には疑う余地は無いが、あまりにも息子の死期に近い事が怪しさを醸し出している。
問題は1705年10月に4代目藩主の徳川頼職(とくがわよりもと/紀州)が、父親と兄を追う様に死去した事である。
立て続けに家族3人が同時期に亡くなるのは、不自然極まりない。
妻子の無かった徳川頼職(とくがわよりもと/紀州)なので、5代目藩主として就任したのは四男の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)である。
ここで一番に恩恵に与(あずか)ったのが誰なのか?
CECILIO & KAPONO /♪ SOMEDAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:52:18
◆◇◆其の四十一:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
そして舞台は武蔵国(東京都)の江戸幕府に移り、征夷大将軍6代目の徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)が病床に伏せ、医者からは生(お)い先短いと宣言される。
その為、徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)と正室の近衛熙子(このえひろこ)こと天英院(てんえいいん/朝廷→徳川)は、考えに考え抜き次期将軍候補者を尾張徳川家で尾張名古屋藩の4代目藩主の徳川吉通(とくがわよしみち/尾張)を指名している。
その遺言を残して1712年に徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)が50歳で亡くなる。
ところが、ここに旗本の新井白石(あらいはくせき/江戸)が猛反対して、徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)の嫡男(ちゃくなん)でまだ4歳だった徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)を推薦する。
ここには徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)の側室で、徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)の母親の勝田輝子(かつたてるこ)こと月光院(げっこういん/徳川)と、側用人(そばようにん)の間部詮房(まなべあきふさ/江戸)の意向が見え隠れする。
そんな時に尾張名古屋藩では、将軍候補者に名前が挙がっていた4代目藩主の徳川吉通(とくがわよしみち/尾張)が、1713年に尾張徳川家の江戸にある四谷御殿(紀尾井町)で、食事中に急に苦しみだし突然死してしまったのである。
さらに、尾張名古屋藩の5代目藩主を継承した息子で、まだ3歳の徳川五郎太(とくがわごろうた/尾張)もその2ヶ月後に早世している。
この時期、名古屋城下町では紀州徳川家の間者(かんじゃ/スパイ)が見受けられたと言う。
結局、徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)と側室の勝田輝子(かつたてるこ)こと月光院(げっこういん/徳川)の息子の徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)が征夷大将軍7代目に即位(そくい)する。
ただ、この3年後の1716年に徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)は早世する。
この時の次期将軍候補者も、徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)の正室で近衛熙子(このえひろこ)こと天英院(てんえいいん/朝廷→徳川)の後押しがあり、尾張名古屋藩の6代目藩主の徳川継友(とくがわつぐとも/尾張)と言われていた。
結果は、1716年に紀州徳川家で紀伊国(和歌山県)の紀州藩(和歌山)の5代目藩主に就任していた徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が征夷大将軍8代目に即位(そくい)した。
ここで一番に恩恵に与(あずか)ったのが誰なのか?
ANTENA /♪ EASY STREET
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:53:25
◆◇◆其の四十二:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
もう一度、尾張徳川家についておさらいしよう。
江戸幕府を開設した征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が、江戸と京都の中間地点として東海道に設けた徳川御三家の尾張徳川家に、息子で尾張名古屋藩の1代目藩主の徳川義直(とくがわよしなお/徳川→尾張)を着任させた。
その息子で2代目藩主の徳川光友(とくがわみつとも/徳川)、その息子で3代目藩主の徳川綱誠(とくがわつなのぶ/尾張)。
3代目藩主の徳川綱誠(とくがわつなのぶ/尾張)と側室で“絶世の美女”と言われたお福こと本寿院(ほんじゅいん/尾張)の息子で4代目藩主の徳川吉通(とくがわよしみち/尾張)。
その息子で3歳で早世した5代目藩主の徳川五郎太(とくがわごろうた/尾張)。
続いて3代目藩主の徳川綱誠(とくがわつなのぶ/尾張)の息子で6代目藩主の徳川継友(とくがわつぐとも/尾張)と、7代目藩主の徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)となる。
尾張名古屋藩を率いる元来の傾奇者(かぶきもの/異端者)と言われる徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)は、名古屋城下町の都市整備に着手する。
街路には夜でも明るく照らす提灯(ちょうちん)で彩(いろど)り、1731年に名古屋城(なごやじょう)の南側にある歓楽街の大須周辺には芝居小屋や遊廓を誘致した。
江戸や大坂など倹約令で芝居小屋が次々と閉鎖される中で、名古屋の芝居小屋だけが繁盛して、歌舞伎や浄瑠璃の伝統芸が息づく。
この時の尾張国(愛知県)の様子では『名古屋の繁華(はんか)に京(きょう/興)が醒めた。』と言われ、“芸処(げいどころ)の尾張名古屋”として栄えた。
7代目藩主の徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)は祭事も推進した。
“名古屋東照宮祭”(名古屋祭)や“名古屋祇園祭”が華々しく開催された。
この時期の盆踊りは50日間近くも踊り続けたと言う。
これら尾張名古屋藩の7代目藩主の徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)の政策を「温地政要」(おんちせいよう)と呼ぶ。
徳川宗春…『行き過ぎたる倹約は、かえって領民を苦しめる事になる。』
徳川宗春…『行政が規制を増やせば、それだけ違反者も増えるだけ。』
これが徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)の持論である。
ただ結局、尾張名古屋藩の財政悪化と名古屋城下町の治安悪化が目立ちはじめ、目に余る徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)の奇行(きこう)は、重鎮家臣で御附家老(おつけがろう)の竹腰正武(たけのこしまさたけ/尾張)による調略と、征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)による裁定で譴責処分(けんせきしょぶん)となった。
1739年に、それを言い渡したのは下総国(しもうさ/千葉県)の佐倉藩の藩主で老中の松平乗邑(まつだいらのりさと/江戸)だった。
これにて徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)は尾張名古屋藩の7代目藩主を罷免(ひめん)される。
ただし、この尾張徳川家の徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)の意思を引継いだ街がある。
それが現在の東京都新宿区の歌舞伎町である。
この歌舞伎町には、尾張徳川家の屋敷の多さに現れている。
徳川宗春(とくがわむねはる/尾張)は、名古屋の大須周辺に芝居小屋や遊廓を誘致して、日本最大級の歓楽街を整備した。
これにより歌舞伎や浄瑠璃の伝統芸能が発展する。
その文化が新宿の歌舞伎町に息づいている。
その1つが新宿コマ劇場の“北島三郎、豪華特別公演!”である。
チャ〜ラララララァ〜 チャ〜ラララララァ〜
ドンドコドンドン ドンドコドンドン
北島三郎…『♪男はぁ〜 祭りをぉ〜 そうさぁ 担いで生きてきたぁ〜』
徳川宗春…『♪祭りだぁ〜 祭りだぁ〜 祭りだぁ〜』(♪まつり)
KENI BURKE /♪ DAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:54:28
◆◇◆其の四十三:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
江戸時代では、畿内(きない/関西)の情勢は、どうだったのか?
国家政権が京都から江戸に移り、江戸幕府は“禁中並公家諸法度”(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定して、京都の皇族と公家の行動を厳しく監視した。
その京都から南西側に50kmほど離れた商都の大坂では、堂島(どうじま)を中心に市場が設けられ、全国からお米や産物が集まり取引されて旺盛(おうせい)な活気で沸いていた。
この時代の物流は海運が主流で、出羽国(でわ/山形県)の酒田の港から、日本海を西廻りで大坂に向かう“西廻航路”と、東廻りで津軽海峡を経て江戸に向かう“東廻航路”があった。
江戸に向かう廻船を“下り物”(くだりもの)と言われ、逆に江戸に向かえない物は、その語源から“下らない”(くだらない)となった。
日本中から産物を積んだ廻船が大坂の港に集まり、河岸には廻船問屋が軒を連ね“天下の台所”と呼ばれた。
そんな1650年代の大坂城下町には財力のある商人が台頭し、道頓堀には羽振りの良い大坂町人が闊歩(かっぽ)して、娯楽施設が次々と誕生した。
芝居小屋もその1つで、そこで浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎などが上演された。
大坂では、井原西鶴(いはらさいかく/作家)の“好色一代男”(こうしょくいちだいおとこ)や、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん/作家)の“曾根崎心中”(そねざきしんじゅう)と“国性爺合戦”(こくせんやかっせん)の演目が一世風靡(いっせいふうび)した。
江戸をはじめ日本中に芸術や演芸が華開き、これを1688年〜1704年に謳歌(おうか)した「元禄文化」と言う。
江戸幕府では征夷大将軍5代目の徳川綱吉(とくがわつなよし/徳川)の頃である。
“見返り美人”で有名な浮世絵の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ/浮世絵師)も、この頃に誕生している。
俳句を詠みながら奥州を旅した伊賀国(三重県)の阿拝(伊賀)で生まれた松尾芭蕉(まつおばしょう/俳人)は、“おくのほそ道”を残している。
松尾芭蕉…『此処(ここ)があの奥州藤原氏が活躍し、源義経(みなもとよしつね)が育った陸奥国(むつ/岩手県)の平泉か。』
ミィ〜〜ン ミィ〜ン ミィ〜ン ミィ〜ン ミィ〜〜ン
松尾芭蕉…『夏草や、兵(つわもの)どもが、夢の跡。』
ALEXANDER O'NEAL /♪ NEVER KNEW LOVE LIKE THIS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:55:20
◆◇◆其の四十四:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
この頃は“日本三大都市”として、大坂、京都、江戸が目紛(めまぐる)しい発展を遂げていた。
大坂は堂島に蔵屋敷が建ち並ぶ“天下の台所”と呼ばれ、人口は38万人ほど居た。
京都は織物の西陣機業が栄え“王城(おうじょう)の地”と呼ばれ、人口は35万1000人ほど居た。
江戸は首都として全国から人が集まり“諸国の掃溜(はきだめ)”と呼ばれ、人口は1693年に35万人だったが、1721年には50万人に膨れ上がっていた。
江戸城下町は、全国から人と物が集まる一大都市に発展していた。
それに伴い多くの“産業”が生まれ、“文化”も開花していく。
そして“江戸文化”で忘れてはならないのが芝居である。
特に歌舞伎は江戸城下町の町人に人気を博(はく)し、あちこちに芝居小屋が建ち並んだ。
その代表格の“江戸三座”もこの頃に創設されている。
中村座は尾張国(愛知県)は中村の出身だった中村勘三郎(なかむらかんざぶろう/歌舞伎)が立ち上げ、屋号は柏屋(かしわや)と呼ばれた。
その弟子の中村清五郎(なかむらせいごろう/歌舞伎)は、役者だけでなく作家としての能力も発揮した役者兼作家である。
市村座は市村羽左衛門(いちむらうざえもん/歌舞伎)が立ち上げ、屋号は菊屋(きくや)や橘屋(たちばなや)と呼ばれた。
森田座(守田座)は森田勘弥(もりたかんや/歌舞伎)が立ち上げ、屋号は喜の字屋(きのじや)と呼ばれた。
そしてもう1つの芝居小屋を加えた“江戸四座”。
山村座は山村長太夫(やまむらちょうだゆう/歌舞伎)が立ち上げ、そこに人気役者の生島新五郎(いくしましんごろう/歌舞伎)が所属していた。
この山村座が、江戸の芝居小屋を揺るがす一大事件を引き起こす。
LUTHER VANDROSS /♪ COME BACK
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:56:20
◆◇◆其の四十五:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
“ぼくちゃん”の征夷大将軍7代目の徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)かつ母親の月光院(げっこういん/徳川)と親密な間柄(あいだがら)だったのが、江戸城(えどじょう)に設けられた大奥の御年寄(おとしより)の絵島(えじま)こと江島(えじま/江戸)だった。
特に“ぼくちゃん”の徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)は“美人なお姉さん”の江島(えじま/江戸)にえらく懐(なつ)いた。
その為、江戸幕府では江島(えじま/江戸)への信任も厚く、それなりの実権も握っていた。
そんなある正徳(しょうとく)の正月明け、江島(えじま/江戸)を筆頭に大奥の数人の女中が征夷大将軍6代目の徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)のお墓参りに出掛けた。
その帰り、江戸幕府に出入りする“幕府御用達”(ばくふごようたし)の呉服屋の後藤編殿助(ごとうぬいのすけ/呉服師)の誘いで、木挽町(こびきちょう)にある山村座で歌舞伎を観覧する事となる。
権力闘争で憎悪(ぞうあく)が渦巻く江戸城内の窮屈(きゅうくつ)な生活から、ほんのひと時(とき)だけ“夢心地の世界”に解放される女性達。
目の前の舞台には、看板役者の生島新五郎(いくしましんごろう/歌舞伎)をはじめ、この世の者とは思えない程の妖艶な美男子がたち振る舞う。
これを観て、惹(ひ)かれない女性はいない。
女中…『はぁ〜 素敵ねぇ〜 あんな男性がお城に居たらなぁ〜』
江島…『本当ねぇ、おほぉほぉほ。』
女中…『よっ! 新五郎様、日本一!!』
後藤編殿助…『どうでしょう? この後、山村座の御厚意で歌舞伎の役者との宴会が設けられていますが?』
女中…『えっ〜!? 行きましょうよぉ〜 ねぇ〜 江島お姉さまぁ〜 行きましょうよぉ〜』
江島…『そうね、江戸城の門限にはまだ少し時間がありますからね。』
後藤編殿助…『では決まりですね。』
この判断が、大奥の御年寄(おとしより)の江島(えじま/江戸)だけでなく、山村座の山村長太夫(やまむらちょうだゆう/歌舞伎)や看板役者の生島新五郎(いくしましんごろう/歌舞伎)の人生まで大きく狂わす。
歌舞伎の役者と大奥の女中のこの世を忘れさせる華やかな宴(うたげ)は、美味いお酒の力を借りなくとも時間(とき)を忘れさせる。
盛大な宴会もたけなわに差し掛かり・・・
江島…『はっ! もうこんな時間、江戸城の門限がっ!』
腕のフランクミュラーの針は戌の刻(午後8時)を指している。
時既(ときすで)に遅し。
江戸城(えどじょう)の門限はとっくに過ぎている。
大急ぎで江戸城(えどじょう)まで帰るも大門は固く閉ざされ、大奥の女中の『開けろ!』と門番の『開けない!』の一悶着(ひともんちゃく)。
この大騒動が江戸城内に知れ渡り、江戸幕府の節度の無い「大奥醜態問題」(おおおくしゅうたいもんだい)として取り上げられる。
この裁き人として“鬼奉行”との異名を持つ目付(めつけ)の稲生正武(いのうまさたけ/江戸)が、当事者を拷問(ごうもん)までして『ある事ない事』を白状させた。
江戸幕府の処分としては、大奥の御年寄(おとしより)の江島(えじま/江戸)は死罪だったが、征夷大将軍7代目の徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)と母親の月光院(げっこういん/徳川)の減刑の嘆願により、信濃国(長野県)の高遠藩(たかとお/伊那)に流刑となった。
高遠藩(たかとお/伊那)とは征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の隠し子だった保科正之(ほしなまさゆき/徳川→会津)が育った地でもある。
一方、山村座の山村長太夫(やまむらちょうだゆう/歌舞伎)や看板役者の生島新五郎(いくしましんごろう/歌舞伎)は伊豆国(静岡県)の大島に流罪となり、当然に山村座は廃業させられた。
これを1714年に起こった「江島生島事件」(えじまいくしまじけん)と呼ぶ。
FIFTH AVENUE BAND /♪ LOOK WHO'S ON FIRE NOW
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:57:16
◆◇◆其の四十六:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
2000年代はインターネットとスマートフォンの進化や発展で、1990年代までと比べて情報と技術が100倍にも1000倍にも膨らんだ。
その恩恵は地球上の人類にも及ぼされ、知識と能力は格段に向上している。
それと同じ現象が300年前の1700年代にも起こっていた。
船の進化で航路が開拓され、世界中の情報と技術が海の向こうの大陸や島からもたらした。
知らない人達により、見た事のない物産や書物が運ばれ、聞いた事のない学問や物語が伝わってくる。
時代の“文化革命”である。
この頃は学問を志す者が多く現れ、江戸や大坂だけでなく日本全国に私塾が設立された。
地域の子供の教育の場として、お寺の寺子屋(てらこや)で“読み”、“書き”、“算盤”を学ぶ文化もできた。
征夷大将軍5代目の徳川綱吉(とくがわつなよし/徳川)の専属医だった荻生景明(おぎゅうかげあき/医師)の息子で、柳沢吉保(やなぎさわよしやす/江戸)の仕官を務めた荻生徂徠(おぎゅうそらい/儒学者)は、1709年に江戸城下町の茅場町に蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。
儒教経典の根幹の六経(りっけい)と言われる、書経(しょきょう)、詩経(しきょう)、易経(えききょう)、礼記(らいき)、春秋(しゅんじゅう)、楽経(がっけい)を基本とした教育を実施した。
門下生には服部南郭(はっとりなんかく/儒学者)がおり、後(のち)に不忍池に芙蕖館(ふきょかん)の私塾を開設した。
安藤東野(あんどうとうや/学者)や平野金華(ひらのきんか/学者)、そして太宰春台(だざいしゅんだい/学者)は変わり種で、あの尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信秀(おだのぶひで/織田)と織田信長(おだのぶなが/織田)の親子に仕えた平手政秀(ひらてまさひで/織田)の子孫である。
丹波国(京都府)の桑田(亀岡)に生まれた思想家の石田梅岩(いしだばいがん/学者)は、訳あって隠棲者(いんせいしゃ)となった小栗了雲(おぐりりょううん/学者)を師匠に勉学に励み、1729年に自宅で私塾の梅岩塾(ばいがんじゅく)を開設した。
門下生には京都の坊(ぼん)だった手島堵庵(てじまとあん/学者)がいる。
ADRIAN GURVITZ /♪ SEVENTEEN
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:58:13
◆◇◆其の四十七:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
江戸城下町では画家で蘭学者の司馬江漢(しばこうかん/絵師)が、“人類皆兄弟”を唱え身分制度に反対した。
伊勢国(三重県)の多気の出身の野呂元丈(のろげんじょう/学者)は、蘭学を学び阿蘭陀博士(オランダマイスター)と呼ばれた。
遠江国(とおとうみ/静岡県)の敷知(ふち/浜松)の出身の賀茂真淵(かもまぶち/歌人)、伊賀国(三重県)の松坂の出身の本居宣長(もとおりのりなが/学者)、京都の出身の荷田春満(かだのあずままろ/学者)、出羽国(でわ/秋田県)の久保田(秋田)の出身の平田篤胤(ひらたあつたね/学者)は、奈良時代の712年に編集した“古事記”や720年に編集した“日本書紀”に基づく神話などの学問を取り入れた学習を推奨した“国学の四大人”(こくがくのしうし)と呼ばれる。
陸奥国(むつ/青森県)の弘前藩の藩士で絵師や歌人でもある建部綾足(たてべあやたり/俳人)も国学者で、美濃国(岐阜県)の大垣新田藩の藩士で歌人の加藤宇万伎(かとううまき/歌人)は大坂で上田秋成(うえだなりあき/俳人)に学ぶも国学の道を歩む。
荷田春満(かだのあずままろ/学者)の弟子が賀茂真淵(かもまぶち/歌人)、その弟子が平賀源内(ひらがげんない/発明家)となる。
1757年に国学論者の本居宣長(もとおりのりなが/学者)と、京都の出身で儒学や国学を専攻する堀景山(ほりけいざん/学者)は、大坂の木村蒹葭堂(きむらけんかどう/画家)の友人でもあった上田秋成(うえだなりあき/俳人)と、“日の神論争”による神話の現実有無で対立する。
1798年に本居宣長(もとおりのりなが/学者)は自邸でもある鈴屋(すずや)で、“古事記伝44巻”を編集して完成させる。
漢方医学と言われる李朱医学(りしゅいがく)も浸透し、京都の出身の名古屋玄医(なごやげんい/医師)は古方(こほう/漢方)の祖と言われ、後藤民山(ごとうこんざん/医師)や吉益東洞(よしますとうどう/医師)も古方(こほう/漢方)の医学に精通する。
讃岐国(香川県)の寒川郡(さんがわ)の出身の平賀源内(ひらがげんない/発明家)は、大坂や京都に出て学問などを学び、1756年に江戸に出て神田紺屋町に居を構える医学者の田村藍水(たむららんすい/医師)の門下生となる。
そこでは薬学など朝鮮人参を研究した。
その後、薬草栽培に積極的で医学の知識も豊富な讃岐国(香川県)の高松藩の5代目藩主だった松平頼恭(まつだいらよりたか/高松)に仕えるが、平賀源内(ひらがげんない/発明家)は蘭学に疎(うと)かったため解雇される。
再び江戸に出て中川淳庵(なかがわじゅんあん/医師)や杉田玄白(すぎたげんぱく/医師)などと出会い、交流を深めて蘭学を勉学する。
征夷大将軍9代目の徳川家重(とくがわいえしげ/徳川)の医師だった蘭学者の桂川甫三(かつらがわほさん/医師)、その息子の桂川甫周(かつらがわほしゅう/医師)、そして、蘭画を得意とする楠木雪渓(くすもとせっけい)こと宋紫岡(そうしこう/画家)からも影響を受ける。
平賀源内(ひらがげんない/発明家)は、薬学、医学、蘭学、俳句、画家、技術者として多彩な才能を発揮した。
その最も有名なのが壊れかけた“エレキテル”(静電気発生機)を修理して世を驚かせた事にある。
ただ1779年に仕事先の大名屋敷で惨殺事件を起こし、牢屋の伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)に投獄されて獄中死した。
平賀源内…『♪江戸期に武士からぁ〜 技術者に変わるぅ〜』
平賀源内…『♪東海道を探していたぁ〜 汚れもないままにぃ〜』
平賀源内…『♪飾られた行きばのないぃ〜 押し寄せる人波にぃ〜』
平賀源内…『♪本当の学問教えてよぉ〜 壊れかけのエレキテルゥ〜』(♪壊れかけのRadio)
STUFF /♪ AS
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 05:59:08
◆◇◆其の四十八:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
若狭国(福井県)の小浜(おばま)の出身で蘭学者の杉田玄白(すぎたげんぱく/医師)、若狭国(福井県)の小浜藩で専属医の中川淳庵(なかがわじゅんあん/医師)、豊前国(ぶぜん/大分県)の中津藩で専属医の前野良沢(まえのりょうたく/医師)は、1771年に江戸幕府の許可を得て小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)にて、オランダから輸入した人体解剖を図解した“解体新書”を元に、吉原遊廓で亡くなった遊女の遺体で日本初の腑分(ふわけ)を実施した。
このオランダの高価な“解体新書”を購入できたのは、若狭国(福井県)の小浜藩の7代目藩主かつ京都所司代(きょうとしょしだい)の酒井忠用(さかいただもち/江戸)と、その家老だった岡新左衛門(おかしんざえもん/江戸)の理解と注力があったからこそである。
1774年に腑分(ふわけ)の実験により、オランダ語で解説されている“解体新書”は、豊前国(ぶぜん/大分県)の中津藩の専属医で蘭学者の前野良沢(まえのりょうたく/医師)や、豊前国(ぶぜん/長崎県)の長崎港の出島で通訳師として仕えていたオランダ語に精通した西善三郎(にしぜんざぶろう/通訳師)が和訳して、出羽国(でわ/秋田県)の秋田藩の武士の小田野直武(おだのなおたけ/武士→絵師)に“解体新書”の作画を依頼して、日本版の“解体新書”を発刊した。
江戸城(えどじょう)から北東側に位置する浅草に天文台があり、1795年にそこの天文方(てんもんがた)に就いてた天文学者の高橋至時(たかはしよしとき/天文学者)は、江戸幕府の依頼により蝦夷国(えぞ/北海道)の測量を実施している。
高橋至時(たかはしよしとき/天文学者)とは、伊能忠敬(いのうただたか/商人)の師匠で、“大日本沿海輿地全図”(だいにほんえんかいよちぜんず)を伊能忠敬(いのうただたか/商人)から引継いで完成させた高橋景保(たかはしかげやす/天文学者)の父親である。
そして、下総国(しもうさ/千葉県)の山辺(九十九里)の出身の伊能忠敬(いのうただたか/商人)は、師匠となる高橋至時(たかはしよしとき/天文学者)から天体、暦、測量を学び、50歳を過ぎてから日本全国を回り測量しながら日本列島の地図となる“大日本沿海輿地全図”(だいにほんえんかいよちぜんず)を製作する。
この時代で最も有名なの人物と言えば、相模国(神奈川県)の足柄(小田原)の出身で農業を営む二宮尊徳(にのみやそんとく/農家)である。
そう、どこの小学校にもある“薪(まき)を背負い読書しながら歩く少年”の二宮金次郎(にのみやきんじろう)の事です。
そんな勤勉な二宮尊徳(にのみやそんとく/農家)は、農地改革のパイオニア(先駆者)でもあった。
ISLEY,JASPER and ISLEY /♪ GIVING YOU BACK THE LOVE
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 06:00:08
◆◇◆其の四十九:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
1787年〜1837年までの50年間の長きに渡り征夷大将軍11代目の座に就いてた徳川家斉(とくがわいえなり/一橋→徳川)は、改革政治の“質素倹約”を実施していた老中首座の松平定信(まつだいらさだのぶ/田安→江戸)を1793年に罷免(ひめん)した。
その後は、タガが外れる様に“贅沢三昧”の華美な生活にのめり込んでいく。
俗に言う「大御所時代」(おおごしょじだい)と呼ばれる政権である。
その放蕩(ほうとう)が江戸城下町にも蔓延した。
ただ、その栄華から生まれた文化文明もある。
1750年頃には錦絵の美人画などを得意とする鈴木春信(すずきはるのぶ/浮世絵師)と、その作画を教えた旗本の大久保巨川(おおくぼきょせん/浮世絵師)や、銀座で煙草用品店の“京屋”(きょうや)を営み自らの作品も販売していた山東京伝(さんとうきょうでん/浮世絵師)などが、1688年〜1704年の「元禄文化」を継承する。
そして1804年〜1830年は江戸を中心に、浮世絵、俳句、黄表紙(きびょうし)などが流行し、現代でも人気の高い「化政文化」(かせいぶんか)が華開く。
化政(かせい)とは、元号の“文化”と“文政”の“文”だけを取り除いた名称である。
江戸城下町では、祭、花火、花見を楽しむ町民文化が浸透する。
MANHATTANS /♪ CLOUDY,WITH A CHANCE OF TEARS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 06:01:06
◆◇◆其の五十:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
「化政文化」(かせいぶんか)の芸術家や文化人は数多い。
特に浮世絵や絵画など芸術品が世に広まった。
中国大陸の清で写生画や花鳥画を特徴とする南宗画の沈南蘋(しんなんびん/画家)の技法に影響を受けた絵師も多い。
江戸の出身の司馬江漢(しばこうかん/絵師)もその1人で、浮世絵から洋画、蘭学にまで精通した。
紀伊国(和歌山県)の出身の祇園南海(ぎおんなんかい/画家)は、日本文人画の祖と言われ、木下順庵(きのしたじゅんあん/儒学者)に学問を学ぶ。
大和国(奈良県)の柳沢藩(大和郡山)の藩士だった柳沢淇園(やなぎさわきえん/画家)や、京都の池大雅(いけのたいが/画家)は日本文人画の先駆者と言われる。
大坂の堀江で造酒屋を営んでいた木村蒹葭堂(きむらけんかどう/画家)は、池大雅(いけのたいが/画家)の弟子となり南宗画を学ぶ。
信濃国(長野県)の伊那(飯田)の出身の鈴木芙蓉(すずきふよう/画家)は、南宗画を取り入れた文人画で名を馳(は)せる。
京都の出身の伊藤若冲(いとうじゃくちゅう/画家)は、“動植綵絵”(どうしょくさいえ)を特徴とした鶏や象の絵画が有名。
丹波国(京都府)の穴太(あなお/亀岡)の出身の円山応挙(まるやまおうきょ/画家)は、“覗眼鏡箱”(カラクリ箱)で立体図を観るなど新しい試みにも挑戦し、“足のない幽霊”を初めて描いたと言われる。
KENNY ROGERS /♪ MORNING DESIRE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 06:02:02
◆◇◆其の五十一:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
そして、江戸時代に最も人気があったのが、やはり浮世絵です。
現代でも数々の浮世絵が紹介され、当時の文化を魅了する芸術画とも言える。
大坂の岡田玉山(おかだぎょくさん/浮世絵師)は、葛飾北斎(かつしかほくさい/浮世絵師)や歌川国芳(うたがわくによし/浮世絵師)に影響を与えたと言われる。
その葛飾北斎(かつしかほくさい/浮世絵師)は、“富嶽三十六景”(ふがくさんじゅうろっけい)など多数の作品を残している。
“寛政三美人”や“ビードロを吹く女”が有名な喜多川歌麿(きたがわうたまろ/浮世絵師)。
江戸の出身の鳥居清長(とりいきよなが/浮世絵師)は“濱屋、川岸の涼み”を描いている。
現在でも人気が高い東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく/浮世絵師)の“奴江戸兵衛”は、最も江戸文化に触れる事ができる。
そして歌川派の祖でもある歌川豊春(うたがわとよはる/浮世絵師)は、その屋号の由来(ゆらい)が芝の宇田川町に居住していたためと言う。
弟子の歌川豊国(うたがわとよくに/浮世絵師)に続き、“東海道五十三次”などを描いた歌川広重(うたがわひろしげ/浮世絵師)に、“東都富士見三十六景”の歌川国芳(うたがわくによし/浮世絵師)と、優れた絵師を輩出している。
これら浮世絵や絵画が多くの人に行き渡ったのは、木版などの印刷技術の発展に他ならない。
複数の色彩を織り込む“多色摺絵”(たしょくすりえ)にて、働く人々を描いた色彩豊かな“大日本物産図会”(だいにほんぶっさんずえ)などが登場した。
これらは江戸の日本橋を拠点とする書物問屋の須原屋茂兵衛(すはらやもへえ/出版元)や、その暖簾分けとなる須原屋市兵衛(すはらやいちべえ/出版元)で数多くの錦絵が出版された。
馬喰町では西村屋与八(にしむらやよはち/出版元)が“永寿堂”(えいじゅどう)の屋号で浮世絵の版元を営み、大伝馬町では鶴屋喜右衛門(つるやきえもん/出版元)が地本問屋を営み錦絵の版元を手掛けた。
DONNY HATHAWAY /♪ I KNOW IT'S YOU
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 06:02:59
◆◇◆其の五十二:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
江戸時代には感性や知識に文学を織り込んだ和歌や俳句も多く詠まれる。
「化政文化」(かせいぶんか)を代表する信濃国(長野県)の柏原(かしわばら)の出身の小林一茶(こばやしいっさ/俳人)。
それに摂津国(大阪府)の毛馬(けま/都島)の出身で、その後に松尾芭蕉(まつおばしょう/俳人)に憧れて下総国(しもうさ/茨城県)の結城に移り住んだ与謝蕪村(よさぶそん/俳人)。
下野国(しもつけ/栃木県)の那須の出身の早野巴人(はやのはじん)こと夜半亭宋阿(やはんていそうあ/俳人)は、夜半亭(やはんてい)を江戸の日本橋本石町に構えて引き継ぎ、弟子の与謝蕪村(よさぶそん/俳人)、高井几董(たかいきとう/俳人)と続いた。
京都の高井几圭(たかいきけい/俳人)は、夜半亭宋阿(やはんていそうあ/俳人)の弟子となり、その息子の高井几董(たかいきとう/俳人)は与謝蕪村(よさぶそん/俳人)の弟子となった。
炭太祇(たんたいぎ/俳人)や黒柳召波(くろやなぎしょうは/俳人)も与謝蕪村(よさぶそん/俳人)の弟子となる。
京都の望月宋屋(もちづきそうおく/俳人)も夜半亭宋阿(やはんていそうあ/俳人)の影響を受けている。
越後国(新潟県)の出雲崎(三島)の出身で、“曹洞宗”(そうとうしゅう)の僧侶だった良寛(りょうかん/歌人)も、和歌だけでなく書家としての才能を残している。
尾張国(愛知県)の名古屋で薬問屋を営んでいた彭城百川(さかきひゃくせん/画家)は、松尾芭蕉(まつおばしょう/俳人)の弟子となり、丹後国(京都府)の宮津で“芭蕉像”を作成している。
大坂の出身の上田秋成(うえだなりあき/俳人)は、友人だった和歌や俳句にも精通していた木村蒹葭堂(きむらけんかどう/画家)から学び、そこから尾張国(愛知県)の名古屋の出身の加藤暁台(かとうきょうたい/俳人)や、志摩国(三重県)の答志(鳥羽)の出身の三浦樗良(みうらちょら/俳人)なども影響を受けている。
社会風刺や滑稽(こっけい)を織り込んだ和歌の狂歌では、“狂歌三大家”と呼ばれる御家人の大田南畝(おおたなんぽ/歌人)、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう/歌人)、朱楽菅江(あけらかんこう/歌人)が有名で、戯作者(げさくしゃ)の平秩東作(へづつとうさく/歌人)も名を馳(は)せた。
平賀源内(ひらがげんない/発明家)の門下生の森羅万象(しんらまんぞう)こと森中良(もりしまちゅうりょう/歌人)も、狂歌師、戯作者(げさくしゃ)、蘭学者と多才ぶりを発揮している。
蔵前の札差(ふださし/貸金業)の夏目成美(なつめせいび/俳人)、大坂の飛脚問屋の安井大江丸(やすいおおえまる/俳人)など、本業の傍(かたわ)らで和歌を嗜(たしな)む人も多かった。
陸奥国(むつ/宮城県)の白石(しろいし)の出身の岩間乙二(いわまおつに/俳人)、陸奥国(むつ/宮城県)の仙台の出身の鈴木道彦(すずきみちひこ/俳人)、江戸は日本橋の絵師の建部巣兆(たけべそうちょう/俳人)なども和歌の世界で活躍している。
尾張国(愛知県)の東海道の宿場町でもある鳴海(なるみ)で造酒屋など商家を営んでいた下郷学海(しもさとがっかい/商人)は、1771年に池大雅(いけのたいが/画家)と与謝蕪村(よさぶそん/俳人)に“十便十宜図”(じゅうべんじゅうきず)の製作を依頼した。
この様に豪商などが芸術家や文化人を支援する仕組みも出来上がっていた。
BARRY MANILOW /♪ SOMEWHERE DOWN THE ROAD
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 06:04:03
◆◇◆其の五十三:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
木版などの印刷技術の発展により書物や黄表紙(きびょうし)が大量に生産され、江戸城下町の町人をはじめ日本全国で流行する。
吉原遊廓の門前町で書店を営む蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/出版元)は、曲亭馬琴(きょくていばきん/作家)を見出した。
その曲亭馬琴(きょくていばきん/作家)は“南総里見八犬伝”(なんそうさとみはっけんでん)を執筆し、息子の滝沢宗伯(たきざわそうはく/医師)も創作活動を手伝う。
その対局の山東京伝(さんとうきょうでん/作家)は、松平定信(まつだいらさだのぶ/田安→江戸)が1787年に実施した「寛政の改革」(かんせいのかいかく)にて出版統制で処罰されるも、弟の山東京山(さんとうきょうざん/作家)が戯作者(げさくしゃ)として活躍する。
この頃は小説など戯作(げさく)が流行して、滝亭鯉丈(りゅうていりじょう/作家)、為永春水(ためながしゅんすい/作家)、唐来参和(とうらいさんわ/作家)、柳亭種彦(りゅうていたねひこ/作家)などの戯作者(げさくしゃ)が登場する。
浮世絵師で戯作者(げさくしゃ)の恋川春町(こいかわはるまち/作家)は、黄表紙(きびょうし)を開拓したとして知られる。
石川雅望(いしかわまさもち)こと宿屋飯盛(やどやのめしもり/作家)は、国学者や狂歌師の傍(かたわ)らで戯作(げさく)も執筆している。
戯作(げさく)の一種の滑稽本を手掛けた浮世絵師でもある式亭三馬(しきていさんば/作家)も活躍した。
駿河国(静岡県)の府中(静岡)の出身の十返舎一九(じっぺんしゃいっく/絵師)は、日本全国にファンがいるくらいの人気作家で、弥次さん喜多さんが登場する“東海道中膝栗毛”(とうかいどうちゅうひざくりげ)が大ブームとなる。
出羽国(でわ/秋田県)の久保田藩(秋田)の武士で作家でもある平沢常富(ひらさわつねとみ)こと朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ/作家)は“文武二道万石通”を執筆した。
越後国(新潟県)の魚沼の出身で商家を営んでいた鈴木牧之(すずきぼくし/作家)は“北越雪譜”(ほくえつせっぷ)を執筆した。
KENNY NOLAN /♪ I LIKE DREAMIN'
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250627 - ラジオの友 URL
2025/06/27 (Fri) 06:05:00
◆◇◆其の五十四:お江戸の探訪で御座る◆◇◆
1650年頃の芝居小屋では、江戸三座と言れていた中村勘三郎(なかむらかんざぶろう/歌舞伎)の中村座、市村羽左衛門(いちむらうざえもん/歌舞伎)の市村座、森田勘弥(もりたかんや/歌舞伎)の森田座(守田座)が人気だった。
それが時代の移(うつ)ろいと共に、新しい芝居小屋が誕生する。
1800年前後の江戸三座と言われたのは都座、桐座、河原崎座である。
昔の江戸三座の興行が出来ない時の控櫓(ひかえやぐら)として、中村座は都座、市村座は桐座、森田座(守田座)は河原崎座を使用していた。
江戸文化では多くの芝居小屋や寄席が設けられ、そこを商いする者、そこで演じる者、その演目を構成する者など、多彩な人種が集まり成り立っている。
歌舞伎や狂言の脚本を手掛ける鶴屋南北(つるやなんぼく/作家)と、その息子の勝俵蔵(かつひょうぞう/作家)に、その弟子には直江屋重兵衛(なおえじゅうべえ/作家)が揃っていた。
大坂は道修町(どしょうまち)の出身の並木五瓶(なみきごへい/作家)は、江戸に出て歌舞伎や狂言の脚本を手掛けた。
芝居小屋で演じる歌舞伎役者の尾上松助(おのえまつすけ/歌舞伎)は、江戸城下町の町人に人気があった。
江戸は馬喰町の三笑亭可楽(さんしょうていからく/噺家)は最古の落語家と言われ、天狗連(てんぐれん/アマチュア)の頃には神社仏閣などで寄席を開いて披露していた。
この頃の人気の歌舞伎の演目は、盗賊5人の物語を演じる“白波五人男”(しらなみごにんおとこ)こと“青砥稿花紅彩画”(あおとぞうしはなのにしきえ)だった。
弁天小僧…『知らざぁ〜 言って聞かせやぁしょう!』
因(ちな)みに、この“白波五人男”(しらなみごにんおとこ)が150年の時を経て“秘密戦隊ゴレンジャー”などの戦隊モノに発展していく。
PEABO BRYSON /♪ IF EVER YOU'RE IN MY ARMS AGAIN
◆ラジオの友◆