都市空間計画区域

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今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 06:38:38

◆◇◆其の十九:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

当時の江戸は印刷技術も発展して、江戸城下町の地図を多く残す事が出来ていた。

その恩恵が今でも伝わっており、数多くの古地図がインターネットにて掲載され、ご丁寧なサイトではPDFにより無料でダウンロードが出来る。

その為、比較的に安易に江戸城下町の古地図を入手する事が出来るので、現在の東京がどうやって移ろいできたのか探索するのも面白い。

また、江戸時代のまま、現在でも当時の姿で残っている箇所もある。

その一番が江戸城(えどじょう)の内堀やその石垣でしょう。

他にも探せばあるかも知れません。

では、江戸時代にタイムトリップ。

DEREK & THE DOMINOS /♪ LAYLA

◆ラジオの友◆

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2025/06/24 (Tue) 06:41:11

◆◇◆其の二十:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

江戸幕府の役所に町奉行(まちぶぎょう)があります。

奉行所とは、『これにて一件落着!』の裁判所、『御用だっ!』の警察署、『お主(ぬし)も悪(わる)よのぉ〜』の役所を兼ねた幕府施設である。

江戸城(えどじょう)の東方には2ヶ所の奉行所があり、その1つが北町奉行所です。

この北町奉行所で有名なのが“遠山の金さん” こと遠山景元(とおやまかげもと/江戸)である。

遠山金四郎(とおやまきんしろう)こと遠山景元(とおやまかげもと/江戸)は、江戸幕府の旗本で大目付(おおめつけ)に就いていた。

征夷大将軍11代目の徳川家斉(とくがわいえなり/一橋→徳川)と征夷大将軍12代目の徳川家慶(とくがわいえよし/徳川)に仕えている。

1793年に江戸の屋敷で誕生し、父親の遠山景晋(とおやまかげくに/江戸)は、肥前国(長崎県)の長崎港で外国船の入港を監視する長崎奉行に就いていた。

この遠山氏は、美濃国(岐阜県)の恵那(えな)にある岩村城(いわむらじょう)の城主の遠山景前(とおやまかげさき/土岐→武田)の系統で、武田軍と織田徳川軍が交戦した際に巻き込まれて大きな痛手を受けた一族でもある。

その理由の1つが要所の岩村城(いわむらじょう)にあり、難攻不落の鉄壁の城と言われて、現在でも日本三大山城と言われる。

遠山景元…『やいやい、この桜吹雪が目に入らねぇか!』

このセリフで有名な“遠山の金さん” と言えば“桜吹雪”の彫物(刺青)がトレードマークだが、実際に遠山金四郎(とおやまきんしろう)こと遠山景元(とおやまかげもと/江戸)が彫物(刺青)を入れていたかは不明だそうです。

ただし、北町奉行所の役人になる前は、放浪の遊び人をしていた為に、その時に“手紙を咥(くわ)えた女の生首”の彫物(刺青)を入れていたと言われる。

NILSSON /♪ JUMP INTO THE FIRE

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2025/06/24 (Tue) 06:43:27

◆◇◆其の二十一:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

江戸幕府の北町奉行所の南方にあるのが南町奉行所です。

この南町奉行所で有名なのが“大岡越前守”(おおおかえちぜんのかみ)こと大岡忠相(おおおかただすけ/江戸)である。

大岡忠相(おおおかただすけ/江戸)は、江戸幕府の旗本で、三河国(愛知県)の西太平藩(岡崎)の藩主でもあった。

征夷大将軍5代目の徳川綱吉(とくがわつなよし/徳川)から征夷大将軍9代目の徳川家重(とくがわいえしげ/徳川)まで仕えている。

1677年に江戸の屋敷で誕生し、“暴れん坊将軍”で有名な征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が1716年に実施した「享保の改革」(きょうほうのかいかく)に尽力した。

征夷大将軍9代目の徳川家重(とくがわいえしげ/徳川)の側用人(そばようにん)で、武蔵国(埼玉県)の岩槻藩(いわつき)の藩主に就任した大岡忠光(おおおかただみつ/江戸)は親族である。

東照大権現(とうしょうだいごんげん)となり神君(しんくん/徳川家康)と呼ばれた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)のお膝元の三河国(愛知県)の岡崎を領域とした大岡氏は、元は藤原氏の系統と言われて、戦国時代から三河国(愛知県)で松平氏(徳川氏)に仕えていたと言う。

因みに“大岡越前守”(おおおかえちぜんのかみ)と名乗っているが、これは官位の名称で、基本的に越前国(福井県)との関連性はない。

BOB DYLAN /♪ Most Likely You Go Your Way (And I'll Go Mine)

◆ラジオの友◆

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2025/06/24 (Tue) 06:45:55

◆◇◆其の二十二:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

時代劇で最も人気があるのは“鬼平犯科帳”(おにへいはんかちょう)ではなかろうか。

これは実在した鬼平(おにへい)こと長谷川宣以(はせがわのぶため/江戸)を主人公に構成されたフィクションドラマである。

ただ、実際の鬼平(おにへい)こと長谷川宣以(はせがわのぶため/江戸)も、1745年に江戸の屋敷で誕生し、江戸幕府では旗本の火付盗賊改役(ひつけほうぞくあらためかた)に就いていた。

一時は京都にも居たが、また江戸に戻って来てた。

征夷大将軍11代目の徳川家斉(とくがわいえなり/一橋→徳川)の側近で江戸幕府の老中(ろうじゅう)だった松平定信(まつだいらさだのぶ/田安→江戸)に、鬼平(おにへい)こと長谷川宣以(はせがわのぶため/江戸)は仕える。

この時に与力(よりき)や同心(どうしん)のまとめ役となり、強盗や放火魔など重罪を取り締まる火付盗賊改役(ひつけほうぞくあらためかた)に就任した。

そんな上司である松平定信(まつだいらさだのぶ/田安→江戸)が実施した「寛政の改革」(かんせいのかいかく)では、貧民救済の為に1790年に江戸で増加している牢人(無職侍)や無宿(ホームレス)に、江戸城(えどじょう)の東方にある石川島に職業訓練施設の人足寄場(にんそくよせば)を設けて、手に職を付けさせ労働する様に促した。

この人足寄場(にんそくよせば)の設置に鬼平(おにへい)こと長谷川宣以(はせがわのぶため/江戸)は尽力している。

罪人や悪人を懲らしめるだけでなく、罪人や悪人に再びならない様に更生(こうせい)する事も考えていたのが解る。

鬼平(おにへい)こと長谷川宣以(はせがわのぶため/江戸)の屋敷は両国の南東方の菊川にあり、その後、その屋敷に北町奉行所の遠山金四郎(とおやまきんしろう)こと遠山景元(とおやまかげもと/江戸)も住んでいる。

“鬼平犯科帳”(おにへいはんかちょう)と“遠山の金さん” が、同じ屋敷で暮らしていたのが面白い。

DAN FOGELBERG /♪ SONGBIRD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 06:47:56

◆◇◆其の二十三:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

江戸城下町の日本橋の北詰にある日本橋駿河町で越後屋(えちごや)を営んでいた三井高利(みついたかとし/商人)は、1622年に伊勢国(三重県)の松坂で誕生した。

この三井氏は平安時代の摂政や関白を歴任し、藤原一族の栄華を築いた藤原道長(ふじわらみちなが/公家)の系統で、その後の室町時代には近江国(滋賀県)に移り住み琵琶湖の南部を守護する六角氏(ろっかくうじ)に仕える。

そして、戦国時代には京都に上る織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍により、1568年に起こった「上洛戦」(じょうらくせん)にて主君の六角氏(ろっかくうじ)が敗北し、三井氏は逃亡して伊勢国(三重県)の松坂に落ち着いた。

そこで三井氏は武士から商人となり、三井高利(みついたかとし/商人)の父親が越後守の官位だった為に屋号を越後屋(えちごや)とした。

時は江戸時代となり、三井高利(みついたかとし/商人)は伊勢国(三重県)の松坂から江戸城下町に移住して、日本橋駿河町で越後屋(えちごや)を開店させた。

当時の商(あきな)いの慣行(かんこう)は、ツケや掛けの後払いが当たり前で、商人は未収金や不渡りを恐れて売値を高めに設定していた。

しかし、越後屋(えちごや)は売値を低くして現金掛値なしにして、値段交渉をしない定価販売に踏み切り、その商品価値の解りやすさから呉服店を大繁盛させた。

ただし、この商売手法を取り入れたのは三井高利(みついたかとし/商人)ではなく、商家の出身だった母親と言われる。

その後、2人の息子を呉服店の店主に任せて、三井高平(みついたかひら/商人)は京都の京見世(きょうみせ)を担当し、三井高富(みついたかとみ/商人)は江戸見世(えどみせ)を担当した。

こうして最高級呉服と言われる京都の西陣織を、いち早く江戸や松坂で販売できる体制を整えて、三井家は先祖の藤原道長(ふじわらみちなが/公家)の如(ごと)く栄華を極めた。

その後、江戸城下町にて不動産業にも進出して、店舗を所有する大家(賃貸人)となり、店子(たなこ/賃借人)に商売をさせて賃料収入も得ていた。

それが現在の三越百貨店でもあり、三井不動産や三井物産をはじめとした三井財閥です。

そんな三越百貨店が、創業地でもある伊勢国(三重県)を冠(かんむり)した伊勢丹と合併したのは興味深い。

JOHN HIATT /♪ PIRATE RADIO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 06:50:16

◆◇◆其の二十四:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

日本の財界を掌握(しょうあく)した三井家。

では、なぜ江戸城下町の日本橋で商(あきな)いをする商家の三井家が、日本最大級の財閥に成長できたのか?

それは素性(すじょう)が公卿(くぎょう/公家)だった事に尽きる。

三菱財閥の創業者でもある岩崎弥太郎(いわさきよたろう/土佐→実業家)は、土佐国(高知県)の土佐藩の藩士で武士だった事を考えると、格の違いが見える。

江戸城(えどじょう)の北方にある徳川家の菩提寺の傳通院(でんづういん/浄土宗)がある。

その辺りから飯田橋や九段下まで一帯に、明治期には三井家の屋敷があり、その1つに小石川三井家の屋敷があった。

太平洋戦争後に、そんな三井家の令嬢が第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう/皇族)の御子(みこ/息子)と婚姻する話しが持ち上がる。

要は第125代天皇の平成天皇(へいせいてんのう/皇族)で、今は上皇(じょうこう)である。

現在から見れば、平成天皇(へいせいてんのう/皇族)の妻は正田美智子(しょうだみちこ/日清製粉→皇族)さんなので、三井家の令嬢が皇族に嫁ぐ事は無かった事は分かる。

正田美智子(しょうだみちこ/日清製粉→皇族)さんの実家は、小麦粉やパスタ麺を製造している日清製粉の創業家で、父親の正田英三郎(しょうだひでさぶろう/日清製粉)さんも社長だった。

平成天皇(へいせいてんのう/皇族)と正田美智子(しょうだみちこ/日清製粉→皇族)さんは1959年(昭和34年)に結婚している。

この婚姻は、三井グループが日清製粉グループに負けた瞬間である。

その後、三井家の令嬢は幸薄(さちうす)い人生を歩み、若くして病気で亡くなったと聞きます。

大人達の画策や政略で子供達の生涯を翻弄(ほんろう)する当たり前の時代。

ただ、そんな時代だとしても、その時流に乗る事は理由にもならないし、許される事ではない。

天照大御神(アマテラス)の愛娘の様に、純粋無垢(じゅんすいむく)の天真爛漫(てんしんらんまん)で、真っ白な清心で真っ直ぐに生涯を歩む子供達を、京都伏見の天女母神(てんにょぼじん)をはじめ多くの神様はいつも見守っています。

己(おのれ)の欲望や悪巧(わるだくみ)により子供達の歩む道を穢(けが)す者は、地球をひと蹴りで消滅させる事が出来る京都伏見の天女母神(てんにょぼじん)により重い天誅(てんちゅう)が必ず下ります。

その時は言い訳など聞かず、問答無用です。

地獄に堕(お)ちる程度じゃ、済みませんよ。

CROWDED HOUSE /♪ SOMETHING SO STRONG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 06:52:31

◆◇◆其の二十五:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

徳川御三家(とくがわごさんけ)の水戸徳川家の屋敷があった後楽園を中心に、飯田橋や九段下まで一帯を明治期からは三井家が抑えていた。

そのご縁で三井グループではないが、オブサーバーとして名を連ねるトヨタ自動車の東京本社がこの地にある。

太平洋戦争の前後は、愛知県の地方企業だったトヨタ自動車が皇族や政界に大きく入り込めたのは、この三井財閥の尽力が大きい。

その一端が昭和期〜平成期に掛けて、皇族や政界の黒塗りの移動車にトヨタ自動車のセンチュリーが多いのが理由である。

令和期に入った現代でも、トヨタ自動車の東京本社から東京ドームの一帯を三井不動産を筆頭に再開発を計画している。

そんな誰もが認める日本を代表するトヨタ自動車だが、実は太平洋戦争で敗戦した直後の日本では、御多分に洩れずトヨタ自動車も倒産の危機に陥っていた。

それを救済したのが愛知県を地盤とした東海銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)である。

トヨタ自動車の永い社歴の中で、東海銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)はメインバンクとしての顔を持っている。

この東海地方を地盤とした幾(いく)つかの銀行が合併して誕生した東海銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)だが、その前身の1つが伊藤銀行で、現在のジェイフロントリテイリング(大丸松坂屋)でもある松坂屋もグループである。

戦国時代に織田信長(おだのぶなが/織田)の小姓(こしょう)として仕えていた伊藤蘭丸(いとうらんまる)こと伊藤祐道(いとうすけみち/織田)が、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて主君が亡くなり、これを機に武士を引退して、豊臣政権の時代に尾張国(愛知県)で“いとう呉服店”を始め、後々の松坂屋となる。

ここから解る通り、尾張国(愛知県)の東海銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)と三河国(愛知県)のトヨタ自動車の関係性は、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が1562年に締結した「清洲同盟」(きよすどうめい)の再現でもある。

この鉄の結束を感じるエピソードがある。

バブル崩壊で日本の企業が疲弊(ひへい)していた頃、政界では不良債権で苦しむ銀行の再編に動いていた。

その1つが、大阪が本社の三和銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)と名古屋が本社の東海銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)の合併である。

三和銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)とは、江戸時代に大坂の堂島をはじめとした商家の鴻池財閥が源流で、日本生命や大丸百貨店のメインバンクだった。

預金貸出金規模の大きさから三和銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)が主導権を握り、見劣りした東海銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)の役員や幹部などは社内リストラされ、降格したり退職する者が多く現れた。

商慣行も三和銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)の方法に統一した為に、愛知県をはじめ東海地方の東海銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)をメインバンクとしていたトヨタ自動車やグループ会社、取引会社の決済方法も変更させられて大混乱が起こる。

特にトヨタ自動車の孫会社以降や取引会社などが三和銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)の決済方法に反発して離反し、他銀行に寝返る事例が頻発(ひんぱつ)する。

事態を重く見たトヨタ自動車と政界は、更なる銀行再編として三菱銀行(東京三菱銀行→三菱UFJ銀行)と為替専門の東京銀行(東京三菱銀行→三菱UFJ銀行)を主体とし、三和銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)と東海銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)を吸収合併させるメガバンクを誕生させる構想を示す。

当の三菱銀行(東京三菱銀行→三菱UFJ銀行)も、トヨタ自動車との取引口座が欲しかったとの思惑もある。

これにより、今度は三和銀行(UFJ銀行→三菱UFJ銀行)の役員や幹部などは社内リストラされ、降格したり退職する者が多く現れた。

これが『倍返しだぁ!』の実態である。

ほんの5年から10年程度の時空を観て人生を歩むと、こう言う目に遭(あ)う。

歴史は単なる嗜好(しこう)や趣味では、無い!

歴史をキチンと理解して把握しなければ、正しい人生の道を歩む事は出来ない。

これもまた、歴史が教えてくれている。

そりゃ、織田信長(おだのぶなが/織田)や徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を激怒させたら駄目(ダメ)だわなぁ〜

命がなんぼあっても足りへぇんでぇ〜!

BLONDIE /♪ MAN OVERBOARD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 06:55:04

◆◇◆其の二十六:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

日本の政界や財界を掌握していた三井家は、日本橋から飯田橋の一帯を地盤としていたが、江戸城(えどじょう)の南方にも拠点を設けていた。

それが筑後国(福岡県)の島津家の屋敷を購入し、1913年(大正2年)にジョサイアコンドル(イギリス建築家)に設計を依頼して、迎賓館の綱町三井倶楽部(つなまちみついくらぶ)を建設した。

当時は日比谷の鹿鳴館(ろくめいかん)など、外国風の社交場となる迎賓館が多く建設されている。

迎賓館を今風に言えば、ディスコやクラブだろう。

確かにバブル崩壊後、湾岸エリアの田町に誕生したジュリアナ東京も、運営主体はイギリスに拠点を置くレジャー企業が監修し、店舗設計も外国人の女性デザイナーが手掛けていた。

綱町三井倶楽部(つなまちみついくらぶ)とジュリアナ東京は、正(まさ)に時空を超えて繋がっている。

こうして幕末後の明治期に入った頃は、御役目御免となった藩主や大名は武家屋敷を売却し、それを買い漁ったのが明治維新による特権を掴んだ新興勢力や三井家の様な大店(おおだな)です。

ただそれも、太平洋戦争で敗戦しアメリカ流の国家形成が実施されると、自分達で作った仲良しグループの貴族や華族などの特権階級は同じ憂(う)き目に遭う事となる。

JANIS IAN /♪ When You Love Someone

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 06:57:18

◆◇◆其の二十七:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

太平洋戦争で敗戦しアメリカ流の国家形成が実施され、1947年に日本国憲法が制定されると、自分達で作った仲良しグループの貴族や華族などの特権階級は廃止され、その上に国家から財産税の負担を求められた。

東京都心に広大な土地の屋敷を構えていた貴族や華族、それに臣籍降下(しんせきこうか)した皇族は税負担に耐えられなくなり、挙(こぞ)って所有する不動産の売却に出た。

この不動産を安値で買い支えたのが西武電鉄グループの創業者で政治家だった堤康次郎(つつみやすじろう/西武電鉄→政治家)さんである。

今なら政治家の特権を活かした不平等なインサイダー取引だが、当時は終戦直後の焼け野原の為に、目先の飯の種(めしのたね)の方が大切である。

品川から高輪の一帯や赤坂などの屋敷を購入した堤康次郎(つつみやすじろう/西武電鉄→政治家)さんは、その土地にホテル事業を展開して、皇族の土地が多かった事もありホテル名をプリンスホテルとした。

今でも存続している品川プリンスホテルや高輪プリンスホテルの敷地がやたら広いのは、この様な事情があるからです。

そんな堤康次郎(つつみやすじろう/西武電鉄→政治家)さんが創業した西武電鉄グループは、その後、非常に複雑な企業の膨張と事業の拡大をする。

滋賀県の農村で生まれ育った堤康次郎(つつみやすじろう/西武電鉄→政治家)さんは一夫多妻を採り入れ、多くの女性との間に多くの子供が誕生している。

そんな数多い子息の内、弟の堤義明(つつみよしあき/西武電鉄)さんが西武電鉄グループをはじめ不動産業の国土(こくど)やプリンスホテルを引き継いだ。

父親と相性が悪く仲違いしていた兄の堤清二(つつみせいじ/セゾン→作家)さんは西武百貨店など流通事業を引継ぎ、後々にセゾングループとした。

その傍(かたわら)で、辻井喬(つじいたかし)の名前で作家としても活躍している。

そして妹の堤邦子(つつみくにこ/西武電鉄→フランス)さんは、父親と大喧嘩をして単身でフランスに移住してしまう。

これが日本のファッション業界を大きく変える出来事となる。

現在でも憧れのファッションブランドの大半が、この堤邦子(つつみくにこ/西武電鉄→フランス)さんがフランスやイタリアから西武百貨店を通じて日本に紹介したものである。

昭和期〜平成期初旬にエルメスの販売権を持っていたのは西武百貨店で、日本全国の主要な西武百貨店にエルメスの店舗が入っていたのは、これが理由です。

他にクリスチャンディオールやルイヴィトン、ジョルジオアルマーニやイヴサンローランなども日本に根付かせている。

バブル期前後はファッションの西武(パルコ・無印良品)として名を馳せたのも、この堤邦子(つつみくにこ/西武電鉄→フランス)さんの功労があってこそである。

ラグジュアリーブランドを集めたセレクトショップの西武ピサ(S&D)が、プリンスホテルのショッピング街に入居していたのも、この繋がりからです。

ファッションだけでなく、プジョーシトロエンやサーブなどのヨーロッパ車を手掛けていた西武自動車販売や、OLD/NEW(オールドニュー)やCASA(カーサ)など飲食店を手掛けていたレストラン西武も、ヨーロッパの風を届けてくれていました。

令和の時代、現在の西武電鉄グループに、堤氏やセゾンと関わりがある組織や団体があるだろうか?

ALICIA KEYS FEAT.MALEAH JOI MOON /♪ KALEIDOSCOPE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 06:59:26

◆◇◆其の二十八:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

江戸城(えどじょう)の外堀には、徳川御三家(とくがわごさんけ)の巨大な屋敷が配置されている。

常陸国(ひたち/茨城県)の水戸城(みとじょう)を拠点とする水戸徳川家は北方の水道橋で、現在は東京ドームや小石川後楽園となっている。

尾張国(愛知県)の名古屋城(なごやじょう)を拠点とする尾張徳川家は西方の市ヶ谷で、現在は防衛省の市ヶ谷駐屯所となっている。

紀伊国(和歌山県)の和歌山城(わかやまじょう)を拠点とする紀州徳川家は南西方の四ツ谷で、現在は赤坂御所となっている。

この徳川御三家(とくがわごさんけ)の広大な屋敷の立地は、武蔵野台地から東海道に掛けて敵陣が侵攻してきた場合の陣営の役目も担っていた。

1603年に開設された江戸幕府の当初は、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)では豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の側室の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が御健在で、豊臣家臣団の権力も誇示していた。

その後の1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」にて、大坂城(おおさかじょう)は炎上し豊臣家が滅亡した。

しかし、戦国乱世を知る外様(とざま)大名もまだまだ御健在で、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は信用信頼に置ける親藩(しんぱん)大名や譜代(ふだい)大名を各所に配置して監視の目を光らせていた。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も、いつ寝首を掻(か)かれるやも知れん。

その不安材料がまだ残る江戸時代初期の名残が、水戸徳川家と尾張徳川家と紀州徳川家の広大な屋敷である。

この徳川御三家(とくがわごさんけ)の屋敷は幕末後も土地を切り売りする事なく、ある意味、ほぼ当時の敷地形状を保っている。

過去の遺物を全否定する東京にとって、これは奇跡と言ってよい。

GRACE JONES /♪ WILLIAMS BLOOD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 07:01:38

◆◇◆其の二十九:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

江戸時代の末期、既に江戸幕府の組織構造は限界に近付き、統治不能に陥り権威も下降していた。

時代と世界が江戸幕府の体制に適合しなくなっており、そんな時は誰がどうしようと駄目(ダメ)なものは駄目(ダメ)で、立て直そうとすればする程、悪化の一途(いっと)を辿る。

解り易く言うと、自分の体型がLサイズなのに、Sサイズの服を着ようとする様なもので、強引に着れば当然にSサイズの服は破れる。

そんな時代に、近江国(滋賀県)の彦根藩の16代目藩主で大老に就いていた井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が組織改革を実施して、江戸幕府に反発する地方の藩を粛清(しゅくせい)した。

その処罰の中で、長州藩の藩士で私塾の松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾長だった吉田松陰(よしだしょういん/長州)や、越前国(福井県)の福井藩の16代目藩主で一橋派の松平慶永(まつだいらよしなが/江戸)の家臣だった橋本左内(はしもとさない/福井)が、伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)で斬首された。

これを1858年に起こった「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と呼ぶ。

多くの藩士や役人の恨みつらみを買った井伊直弼(いいなおすけ/江戸)は、江戸城(えどじょう)の桜田門(さくらだもん)に向かう途中に、水戸藩の藩士に襲撃を受けて死去する。

これを1860年に起こった「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)と呼ぶ。

現在、この井伊直弼(いいなおすけ/江戸)の屋敷があった場所には、警視庁や財務省や国土交通省が集積する官庁街となっている。

その奥が、よく映像に登場する国会議事堂のアングルスポットとなる。

THE CORRS /♪ GOODBYE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 07:04:29

◆◇◆其の三十:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

1860年に起こった「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で大混乱を起(き)した江戸幕府。

暗殺された井伊直弼(いいなおすけ/江戸)の後任に就いたのは、陸奥国(むつ/福島県)の磐城平藩(いわきたいらはん)の5代目藩主で老中首座の安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)である。

ところが前任者と同様に、江戸城(えどじょう)の坂下門(さかしたもん)に向かう途中に、水戸藩の藩士に襲撃された。

ただ、この時は安藤信正(あんどうのぶまさ/江戸)も逃亡し、背中に斬り傷を負っただけで命に別状はなかった。

これを1862年に起こった「坂下門外の変」(さかしたもんがいのへん)と呼ぶ。

この5年後の1867年に、京都の二条城(にじょうじょう)にて執り行われた征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)による「大政奉還」(たいせいほうかん)を考えると、この時期に江戸幕府で就労していた役人はどんな気持ちで働いていたのだろう。

沈み行(ゆ)く大きな船に乗りながら、武士として船と同じく沈む覚悟をしていたのか、はたまた、沈む前に飛び降りて泳いで自分だけでも助かろうとしたのか。

2通りの考え方があると思う。

あなたはどっちだぁ?

OLIVIA NEWTON-JOHN /♪ SOMETHING BETTER TO DO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 07:08:23

◆◇◆其の三十一:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

江戸城(えどじょう)の南西方に立地しているのが紀州徳川家の屋敷と尾張徳川家の屋敷と井伊家の屋敷で、徳川幕府の中でも重要中心武家の3家である。

特に近江国(滋賀県)の彦根藩の井伊家は、戦国時代から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に仕えた“赤鬼”と呼ばれた井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)の家系で、井伊隊の武士は朱色の甲冑(かっちゅう)を身にまとう“赤備え”(あかぞなえ)が有名である。

常に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の傍(かたわら)に井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)が着いていた事で、江戸幕府の開設が実現できたと言っても過言ではないくらいの功労者である。

その子孫が1860年に起こった「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で暗殺された井伊直弼(いいなおすけ/江戸)です。

そんな徳川家や江戸幕府に取って重要な武家を配置したこの地を、後々に紀州徳川家と尾張徳川家と井伊家の其々(それぞれ)の家号から紀尾井町(きおいちょう)と名付けられた。

時は流れ1868年に265年間も続いた江戸幕府も事実上に消滅して、時は明治期の日本新政府の時代に入った。

1869年には江戸幕府の残党も一掃した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)も終わり、明治維新により日本列島は新しい幕開けを予感していた。

ところが日本新政府の内部分裂により、鹿児島県に帰郷していた“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれる西郷吉之助(さいごうきちのすけ)こと西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)が国家転覆を目論む首謀者として朝敵とされ、1877年に起こった「西南戦争」にて敗北し自決した。

これでようやく、明治維新により日本列島は新しい幕開けを期待した。

ところが日本新政府が1871年に実施した「廃藩置県」(はいはんちけん)などにより、日本各地の藩士から待遇や処遇の不満が膨張する。

この日本新政府の対応に憤懣(ふんまん)した石川県の加賀藩の藩士が、“元祖の内閣総理大臣”で“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれる大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)を紀尾井町(きおいちょう)の清水谷(しみずだに)にて暗殺した。

これを1878年に起こった「紀尾井坂の変」(きおいざかのへん)と呼ぶ。

この暗殺の地は、奇(く)しくも徳川家や江戸幕府に取って重要な武家を配置した紀州徳川家と尾張徳川家と井伊家の其々(それぞれ)の屋敷の跡地である。

徳川家や江戸幕府を壊滅させた“維新の三傑”(いしんのさんけつ)の大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)の最期(さいご)の地が紀尾井町(きおいちょう)です。

これは何を物語っているのか?

そこから時は流れて昭和期に入ると、この広大な敷地は1964年に開催される東京オリンピックで多くのインバウンド(訪日観光客)を受け入れるホテルニューオータニと赤坂プリンスホテルの用地となった。

THE ROLLING STONES /♪ LADY JANE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 07:11:13

◆◇◆其の三十二:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

江戸城(えどじょう)の東方には武家屋敷と商人町の日本橋を南北に隔てる内堀の川が流れていた。

ちょうど現在の東京駅の八重洲口(やえすぐち)前の道路辺りである。

その八重洲口(やえすぐち)と言う地名だが、これは外国人から名付けられたものです。

1600年の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の少し前の徳川家と豊臣家の関係が最高潮に悪化し、日本列島が緊張感に包まれた最悪の時期に、九州は豊後国(ぶんご/大分県)の国東半島(くにさきはんとう)にある臼杵(うすき)に寄港した1隻のオランダ船。

そこに乗員していたのがイギリス人で航海士のウィリアムアダムス(三浦按針/江戸)と、オランダ人で貿易商のヤンヨーステン(耶揚子/江戸)である。

そこから何(なん)やかんやあって、2人の異国人は征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に気に入られて、江戸幕府の貿易顧問に就任した。

ウィリアムアダムス(三浦按針/江戸)とヤンヨーステン(耶揚子/江戸)は武士の位(くらい)を授かり、江戸城(えどじょう)の東方に屋敷も与えられた。

それが現在の東京駅の八重洲口(やえすぐち)の辺りである。

ヤンヨーステン(耶揚子/江戸)が居住した屋敷跡地の地名を、ヤンキー漢字の手法で八重洲(やえす)と名付けた。

そこんとこ、世露死苦(ヨロシク)!

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の特にお気に入りとなったウィリアムアダムス(三浦按針/江戸)は、三浦半島の一画に領域も与えられ、日本人妻も娶(めと)り子供も誕生している。

“青い目の侍(サムライ)”である。

この“按針”(あんじん)と言う名前は、航海士に必要な羅針盤にちなんで名付けられた。

一方、そこから400年余り後に、日本からイギリスに渡った“黒い髪のホップアイドル”が居る。

現在は女優などで活躍する鈴木杏樹(すずきあんじゅ/女優)さんである。

ウィリアムアダムス(三浦按針/江戸)の“按針”(あんじん)に名前も似ている。

夏の鎌倉にて、日傘を差して着物を着た鈴木杏樹(すずきあんじゅ/女優)さんが、片手に持つのはお中元の“海苔の詰合セット”のイメージが日本では一般的であろう。

ところがである。

鈴木杏樹(すずきあんじゅ/女優)さんは1990年初旬に、あのカイリーミノーグやデッドオアアライヴなどが名を連ね、ハイエナジービートやユーロビートサウンドを特徴としたイギリスのPWL(ストックエイトキンウォーターマン)に所属して、ジャパニーズポップガールのKAKKO(カコ)してデビューしている。

正(まさ)に“青い目の侍(サムライ)”のウィリアムアダムス(三浦按針/江戸)に相通(あいつう)ずる“黒い髪のホップアイドル”の鈴木杏樹(すずきあんじゅ/女優)さんである。

現在でも鈴木杏樹(すずきあんじゅ/女優)さんは、ディスコのお立ち台に昇ってユーロビートを掛ければ、軽く3時間程度はノンストップで踊れると思います。

GILBERT O'SULLIVAN /♪ We Will

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 07:13:18

◆◇◆其の三十三:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

戦国時代末期、一番の衝撃的な出来事と言えば1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)ではなかろうか。

天下統一をあと一歩まできた織田信長(おだのぶなが/織田)が、直参家臣の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)に討って取られた事件である。

この時、織田信長(おだのぶなが/織田)の側近だった“黒人の侍(サムライ)”と呼ばれた弥助(やすけ/イエズス会→織田)が、京都の妙覚寺(みょうかくじ/日蓮宗)に滞在していた織田氏の後継者で嫡男(ちゃくなん)の織田信忠(おだのぶただ/織田)へ、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)による謀反(むほん)の知らせに走った。

その後、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の大軍が妙覚寺(みょうかくじ/日蓮宗)や二条御所(にじょうごしょ)を包囲し、『もはや、これまでぇ!』と悟った織田信忠(おだのぶただ/織田)の側近の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、甥の織田信忠(おだのぶただ/織田)に切腹を薦める。

こうして織田信忠(おだのぶただ/織田)は自決したのだが、続いて切腹に挑んだ有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、腹に突き刺す小刀のあまりにもの痛さに自決を断念した。

そして、そのまま京都から兄の織田信長(おだのぶなが/織田)が建てた近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)に逃げ帰ったと言う。

ただその後、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)や徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に気に入られ、激変する時代の波を難(なん)なく渡り歩いている。

これは織田信長(おだのぶなが/織田)の弟だからではなく人間性の魅力で、誰の目から視(み)ても人畜無害(じんちくむがい)の性格をしていたのだろう。

戦国時代の最中(さなか)では、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は、出陣する際に落馬し骨折して合戦に参加できなかったと言う。

その合戦の戦術も戦法も下手(へた)で、自他共に認める無能な武将であった。

ただその反面、茶の湯の世界では大いに能力を発揮して、田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)は茶飲み友達である。

茶道の通名(とおりな)も当初は、武道の才能の無い自分を卑下(ひげ)して無楽如庵(むらくじょあん)だったが、『何も楽しい事が無いのは哀しい。』と言った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が“無”を“有”に変更させて有楽如庵(うらくじょあん)になった。

江戸幕府でも徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から江戸城(えどじょう)の南東方の一等地に屋敷を与えられて、有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)は茶道を嗜(たしな)みながら暮らしていたと言う。

その有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)の屋敷があった場所が有楽町(ゆうらくちょう)と名付けられた。

もし、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が茶道の通名(とおりな)のアドバイスをしなかったら、この町も無楽町(むらくちょう)になっていました。

そして、あなたと私の合言葉は『無楽町(むらくちょう)で逢いましょう。』だった事でしょう。

DUSTY SPRINGFIELD AND DARYL HALL /♪ WHEREVER WOULD I BE?

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 07:15:26

◆◇◆其の三十四:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

戦国時代に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を支えた多くの三河国(愛知県)の武将がいる。

その内の1人が服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)である。

徳川軍では“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)に数えられ、服部氏は誰もが知る伊賀国(三重県)の忍者集団だ。

“忍者ハットリくん”の先祖である。

服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)は徳川軍が飛躍する中で大いに貢献した。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の命も救っている。

1582年に徳川軍の同盟だった織田信長(おだのぶなが/織田)が直参家臣の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)に討ち取られた「本能寺の変」(ほんのうじのへん)では、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は織田信長(おだのぶなが/織田)の招きで近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)を見学した後、和泉国(大阪府)の堺で商業都市について視察していた。

そこへ明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)が死去した知らせが入る。

京都と堺は目と鼻の先。

次に明智軍に狙われるのは同盟軍の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)である。

しかも徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は視察団しか引き連れておらず、徳川軍の手勢は少ない。

そこで“徳川四天王”の本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)を筆頭に、三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)へ早急に引き返す事となった。

退陣経路は、和泉国(大阪府)の堺から河内国(大阪府)を経由して大和国(奈良県)へ行き、そこから険しい山岳地帯の伊賀国(三重県)を通り伊勢国(三重県)に抜けて、伊勢湾を船で渡り尾張国(愛知県)の知多半島に上陸して、三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)へ帰還する計画だった。

この経路には既に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の首を狙う明智軍の武士が潜伏している。

無事に岡崎城(おかざきじょう)へ帰還する成功の確率は低い。

この時に活躍したのが伊賀国(三重県)の忍者集団である。

畿内(きない/関西)の山岳地帯を熟知している伊賀忍者は、明智軍に見つかる事なく安全な経路を案内して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の御一行を無事に伊勢国(三重県)の湊に送り届けた。

服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)が、伊賀忍者の棟梁(とうりょう)の系統だった事で成し得た成果である。

これが有名な「伊賀越え」(いがごえ)です。

ただ戦国時代は、徳川軍の服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)にとり、良い事ばかりではなかった。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の妻で今川義元(いまがわよしもと/今川)の姪でもある築山殿(つきやまどの/今川→徳川)と、その息子で徳川氏の後継者だった松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)が、甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍と内通している疑惑が持ち上がった。

同盟軍の織田信長(おだのぶなが/織田)との関係悪化を危惧(きぐ)した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が家臣に命じて、1579年に遠江国(とおとうみ/静岡県)の佐鳴湖(さなるこ/浜松)付近で妻の築山殿(つきやまどの/今川→徳川)は斬殺された。

一方、遠江国(とおとうみ/静岡県)の二俣城(ふたまたじょう/浜松)に居た嫡男(ちゃくなん)の松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)は切腹を命じられ、その介錯(かいしゃく)に服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)が指名される。

ヨチヨチ歩きの赤ん坊の時から松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)に仕えていた服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)は、正(まさ)に父親の想いで我が子同然の松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)を斬れる筈(はず)もない。

泣き叫ぶ服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)に代わり、見かねた別の者が切腹した松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)を介錯(かいしゃく)した。

そんな人情に厚い伊賀忍者の服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)は、江戸幕府では江戸城(えどじょう)の要所でもある西方に屋敷を与えられた。

その地が後に半蔵門(はんぞうもん)と名付けられた。

そして営団地下鉄(東京メトロ)の半蔵門線(はんぞうもんせん)や半蔵門駅(はんぞうもんえき)として現代でも名が残っている。

因みにラベンダー色の半蔵門線(はんぞうもんせん)の電車内には、今でも一般乗客に混じって伊賀忍者が潜伏している為に、“痴漢”(チカン)などの悪事を働く悪人に対しては手裏剣(しゅりけん)で仕留(しと)められます。

石鹸(せっけん)の香りがする横の女性に対して、欲望を抑えられない殿方(とのがた)は気を付けましょう。

まだまだ長生きがしたければ、大人しくするのが一番です。

『ニンニン。』

NICK HEYWARD /♪ AUGUST IN THE MORNING

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 07:17:19

◆◇◆其の三十五:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

織田信長(おだのぶなが/織田)が“天下布武”を公言した美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)と長良川のある岐阜と、飛騨国(岐阜県)の江戸幕府が直轄地として設けた高山陣屋(たかやまじんや)と飛騨山脈(北アルプス)のある高山。

その中間に位置する美濃国(岐阜県)の郡上八幡。

江戸時代には、郡上藩の藩主で奏者番(そうじゃばん)の金森頼錦(かなもりよりかね/江戸)は、自らの出世欲のために領国に厳しい年貢を課していた。

征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が「享保の改革」(きょうほうのかいかく)で採用した、お米の収穫高に限らず決まった年貢の免率を納める「定免制」(じょうめんせい)を導入し、過去数年の収穫高の平均値を年貢としていた。

この「定免制」(じょうめんせい)を郡上藩だけ取止めて「有毛検見法」(ありげけみほう)に切替えて、検見役人が農地を取調べて、その年のお米の収穫高で年貢を決めた。

江戸幕府の美濃郡代(みのぐんだい)の青木次郎九郎(あおきじろくろ/郡上)、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)の大橋親義(おおはしちかよし/江戸)、郡上藩の家老の伊藤弥一郎(いとうやいちろう/郡上)により、「有毛検見法」(ありげけみほう)は“公儀御作法”(こうぎごさほう)として、郡上藩の藩主の金森頼錦(かなもりよりかね/江戸)への忖度(そんたく)も加味して実施を決定した。

これにより農民は反発し一揆を起こし、これが美濃国(岐阜県)の郡上から広範囲に拡大していった。

この時に農民代表者数名が美濃国(岐阜県)の郡上から400kmの道程(みちのり)を掛けて武蔵国(東京都)の江戸城まで駕籠訴(かごそ)しに行った。

これを“徳川四天王”の酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)の末裔で、出羽国(でわ/山形県)の庄内藩の藩主で老中の酒井忠寄(さかいただより/江戸)が対応した。

事態を重く見た江戸幕府の裁定は、農民代表者数名は一揆の責任を取り斬首となったが、郡上藩の関係者も処分された。

郡上藩の藩主の金森頼錦(かなもりよりかね/江戸)は領地没収の改易(かいえき)となり、美濃郡代(みのぐんだい)の青木次郎九郎(あおきじろくろ/郡上)と勘定奉行(かんじょうぶぎょう)の大橋親義(おおはしちかよし/江戸)と郡上藩の家老の伊藤弥一郎(いとうやいちろう/郡上)は罷免(ひめん)された。

また、“大岡越前守”(おおおかえちぜんのかみ)と呼ばれる大岡忠相(おおおかただすけ/江戸)の親族でもあり、武蔵国(埼玉県)の岩槻藩(いわつき)の藩主で側用人の大岡忠光(おおおかただみつ/江戸)の進言により、江戸幕府の上層部も処分された。

三河国(愛知県)の挙母藩(ころも/豊田)の藩主で若年寄(わかどしより)の本多忠央(ほんだただなか/江戸)は領地没収の改易(かいえき)となり、駿河国(静岡県)の田中藩(藤枝)の藩主で老中の本多正珍(ほんだまさよし/江戸)と、大目付(おおめつけ)の曲淵英元(まがりぶちひでちか/江戸)は罷免(ひめん)された。

これを1754年に起こった「郡上一揆」と呼ぶ。

美濃国(岐阜県)の郡上藩は、丹後国(京都府)の宮津藩から領地移転の転封(てんぽう)により青山幸道(あおやまよしみち/江戸)が新しい藩主となった。

この一連の「郡上一揆」を教訓に、青山幸道(あおやまよしみち/江戸)は領民の融和に貢献するために「郡上踊り」を推奨した。

三十夜を踊り続ける「郡上踊り」、それが300年後の現代まで続いている。

同時期の江戸には、伊予国(愛媛県)出身で文明講談の開祖と言われる馬場文耕(ばばぶんこう/講釈師)が居た。

1754年に起こった「郡上一揆」の原因を作った郡上藩の藩主の金森頼錦(かなもりよりかね/江戸)を題材にした“金森騒動”を、日本橋榑正町(くれまさちょう)の商屋を借りて講釈していたところ、江戸幕府の町廻横目(まちまわりよこめ)に捕らえられた。

その後、“幕府羞恥罪”(ばくふしゅうちざい)により江戸市中を引回しとなり、千住にある小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)で斬首された。

1758年の秋の頃である。

そんな「郡上踊り」を伝承させた青山幸道(あおやまよしみち/江戸)の屋敷かどうかは判らないが、江戸城(えどじょう)の南西方に広大な敷地で青山大膳(あおやまだいぜん)の名称の屋敷が設けられている。

その北方には少し狭いが下野国(しもつけ/栃木県)の青山氏の屋敷もある。

三河国(愛知県)の額田(ぬかた)を拠点とした青山氏の系統で、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)など松平氏に代々に渡り仕え、常陸国(ひたち/茨城県)の江戸崎藩(えどさき/稲敷)の藩主に就任した青山忠成(あおやまただなり/江戸)の屋敷があった事が青山の地名の由来(ゆらい)とされている。

この地域は言わずと知れた、お洒落の代名詞でもある青山の地です。

実際にファッションのブティックが集結しているのは表参道周辺なのだが、青山一丁目駅の周辺もお洒落な街並みが形成されている。

そんなお洒落と同居するのが東京都内でも最大級の青山霊園である。

この青山霊園、現代科学では説明の付かない出来事が色々と起こる事でも有名である。

まあ、そんな事を言い出したら、1923年(大正12年)の関東大震災や1945年(昭和20年)の太平洋戦争で、多くの死傷者を出し焼け野原となった東京一帯の全てが霊園みたいなものではある。

因みに青山忠成(あおやまただなり/江戸)の妻の父親は、1579年に遠江国(とおとうみ/静岡県)の二俣城(ふたまたじょう/浜松)にて、謀反(むほん)を疑われた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の嫡男(ちゃくなん)の松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)が切腹する際に、介錯(かいしゃく)する筈だった服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)に代わり実行した人物である。

SAVAGE GARDEN /♪ TRULY MADLY DEEPLY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250624 - ラジオの友 URL

2025/06/24 (Tue) 07:19:15

◆◇◆其の三十六:お江戸の探訪で御座る◆◇◆

江戸幕府は将軍が政権を司るのではなく、側近の田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)が権力を掌握する“田沼時代”となる。

征夷大将軍10代目の徳川家治(とくがわいえはる/徳川)は幼い頃から、祖父の征夷大将軍8代目で愛馬の亘(わたる/愛馬)に跨(またが)り海岸沿いを水飛沫(みずしぶき)を上げながら颯爽(さっそう)と走ってくる“暴れん坊将軍”こと徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)に英才教育を施され、将軍となった暁月(あかつき)には、家臣任せではなく自分が政権を担える様に鍛えられた。

そのため徳川家治(とくがわいえはる/徳川)は当然に、今まで政権運営を実施してきた田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)から実権を取り上げて、自らが指揮する予定だったが・・・

ところが当の本人は政治に全く関心を示さず、側用人の田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)と老中の松平武元(まつだいらたけちか/江戸)の二人三脚で政治を任せ、自分は趣味の将棋に没頭した。

1779年に老中の松平武元(まつだいらたけちか/江戸)が死去すると、徳川家治(とくがわいえはる/徳川)は側用人の田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)に老中を任命する。

表の権力者の老中と裏の権力者の側用人を1人の人物が兼ねるのは江戸幕府の人事としては異例であり、その事からも分かる通り将軍ではなく“将棋指し”(しょうぎさし)としての徳川家治(とくがわいえはる/徳川→棋士)の心意気が読み取れる。

徳川家治…『♪吹け〜ば飛ぶよぅ〜な 将棋の駒に〜』

徳川家治…『♪懸け〜た命を 笑わば笑え〜』

徳川家治…『♪生ま〜れお江戸の 八百八町〜』

徳川家治…『♪月も知って〜る おいらぁ〜の意気地〜』(♪王将)

パチッ

徳川家治…『王手っ!』

その頃、“♪青葉城恋唄”で知られる陸奥(みちのく)の地は仙台。

“独眼竜政宗”で知られる戦国武将の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の末裔で、陸奥国(むつ/宮城県)の仙台藩の7代目藩主の伊達重村(だてしげむら/仙台)。

そして、“♪青年おはら節”で知られる雄大な桜島が構える薩摩。

後(のち)に征夷大将軍11代目となる徳川家斉(とくがわいえなり/徳川)の義父で、薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩の8代目藩主の島津重豪(しまづしげひで/薩摩)。

この仙台藩の伊達重村(だてしげむら/仙台)は、薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで/薩摩)に対して対抗意識が強く、江戸幕府に対して島津重豪(しまづしげひで/薩摩)と同格の官位を授ける様に要求している。

この官位獲得のため伊達重村(だてしげむら/仙台)は、幕閣(ばっかく)の重要人物に多額の賄賂を贈呈している。

そのメンバーをご紹介します。

先(ま)ずはやはりこの人、江戸幕府の権力者となった老中かつ側用人の田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)です。

それに縁故出世を果たした田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)の弟で、徳川御三卿の一橋家の家老に就任した田沼意誠(たぬまおきのぶ/江戸)。

続いて上野国(こうずけ/群馬県)の館林藩の藩主で老中や寺社奉行(じしゃぶぎょう)を歴任した松平武元(まつだいらたけちか/江戸)。

最後に江戸城の伏魔殿(ふくまでん)と言われる大奥で、老女や上臈御年寄(じゅうろうおとしより)を務めた高丘(たかおか/江戸)です。

まさに薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで/薩摩)に対する仙台藩の伊達重村(だてしげむら/仙台)の執念は、東軍の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)VS西軍の島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)と言う1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の再来かと思わせる対抗心である。

一方、武蔵国(埼玉県)の川越藩と出羽国(でわ/山形県)の山形藩の藩主で老中を務めた秋元凉朝(あきもとすけとも/江戸)は、取巻きから“鼻薬を嗅いて”(賄賂)、私腹を肥やす田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)が許せなかった。

その為に、この2人には確執(かくしつ)があった。

征夷大将軍10代目の徳川家治(とくがわいえはる/徳川)や江戸幕府を上下左右に動かせる田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)は、気に食わない秋元凉朝(あきもとすけとも/江戸)を、1767年に武蔵国(埼玉県)の川越藩から出羽国(でわ/山形県)の山形藩へ領地移転の転封(てんぽう)を命じている。

これに反発した秋元凉朝(あきもとすけとも/江戸)は老中を辞任して隠居し、江戸の屋敷から出る事なく、養子の秋元永朝(あきもとつねとも/江戸)に山形藩の藩主を継承させた。

その後も武蔵国(埼玉県)の川越では秋元凉朝(あきもとすけとも/江戸)の影響力が強く、田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)は生涯に渡り、“小江戸”と言われる川越の地に手を出す事が出来なかった。

そんな時代を生きた伊達重村(だてしげむら/仙台)の屋敷かどうか判らないが、青山家の屋敷に隣接して伊達家の屋敷もある。

遠江国(とおとうみ/静岡県)の伊達家と記載されているが、家紋を見る限り系統としては伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)であろう。

征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)に“伊達のおやじ殿”と呼ばれ懐かれていた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)だが、江戸城(えどじょう)の大手門や内堀の石垣などを仙台藩の自費で普請(ふしん)している。

そんな宮城県仙台市の英雄でもある“独眼竜政宗”と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)だが、母親の義姫(よしひめ/最上→伊達)も大きく貢献している事も忘れてはならない。

BRUCE SPRINGSTEEN /♪ DRIVE ALL NIGHT

◆ラジオの友◆

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