都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:02:30
◆◇◆其の五十七:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍との「第2次京都市中大戦」(だいにじきょうとしちゅうたいせん)にて敗北した足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍は、京都を追われて摂津国(兵庫県)の神戸に向かっていた。
ここ一番の大戦(おおいくさ)で勝てない足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、敗因分析をイギリス大手のシンクタンクに依頼した。
その報告がイギリスから足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)宛に送達された。
⦅清和源氏の血筋である室町軍の足利尊氏殿は権威ある官位はあるものの征夷大将軍ではなく鎮守府将軍で留まっている。 一方、新田義貞殿は官位はないものの、朝廷軍の総大将として第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)からの寵愛(ちょうあい)を受けている。 この差が要因となり倭国(日本)の武将は天皇の権威ある朝廷軍に加勢していると推測(すいそく)される。 これに対抗するには、排斥(はいせき)された持明院統(じみょういんとう/北朝)の光厳上皇(こうごんじょうこう/北朝)を味方に付けて皇族の権威を取り入れるのが得策でしょう。⦆
この報告書を二度に渡り読み返した足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は納得した。
足利尊氏…『う〜〜ん なるほどぉ! 天皇の権威かぁ! では早速、光厳上皇に連絡しよう。』
善は急げとばかりに足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は光厳上皇(こうごんじょうこう/北朝)に連絡を入れ、神戸まで御足労を頂いた。
足利尊氏…『まあ、固い話しは後にして、神戸に来たら、やはり福原(ふくはら/神戸)の“石鹸王国”(ソープタウン)は外せないでしょう! まあ、ある一部は固くなりますが!』
光厳上皇…『おおっ! 行く行く、福原(ふくはら/神戸)の“石鹸王国”(ソープタウン)にイクゥ〜〜!』
足利尊氏…『お嫌いですかぁ?』
光厳上皇…『お好きですぅ!』
こうして、神戸の名所と言われる福原(ふくはら/神戸)の“石鹸王国”(ソープタウン)の接待が功を奏して、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は持明院統(じみょういんとう/北朝)の光厳上皇(こうごんじょうこう/北朝)を取り込む事に成功した。
更に足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、1333年に鎌倉幕府が滅亡した頃、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が実施した「建武の新政」(けんむのしんせい)にて、領地没収の改易(かいえき)や領地削減の減封(げんぽう)の憂(う)き目に遭った領主の武将に対しての秘策も実施した。
元弘(げんこう)の時代に領地を失った武将に対して、1333年に遡及(そきゅう)して土地の所領を認める事にした。
要は後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が実施した「建武の新政」(けんむのしんせい)による領地配分は無効にしたのである。
これを1336年に発令した「元弘没収地返付令」(げんこうぼっしゅうちへんぷれい)と呼ぶ。
これにより日本各地の多くの武将が、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が公家を優先させた領地配分する朝廷軍より、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が武家を優先させる領地配分する室町軍の方が優位性があるとして、続々と室町軍に加勢し、中には朝廷軍から寝返る武将も現れた。
これに危機感を持ったのが朝廷軍を牽引する新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)と北畠顕家(きたばたけあきいえ/朝廷)の重鎮武将である。
そして、当の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は相変わらずだった。
後醍醐天皇…『なぁ〜なぁ〜 誰かぁ、楽しかった“隠岐島(おきのしま)の思い出”を聞いてくれるぅ〜?』
SALIVA /♪ LADIES AND GENTLEMEN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:03:26
◆◇◆其の五十八:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
京都を出陣した新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と北畠顕家(きたばたけあきいえ/朝廷)が率いる朝廷軍本隊は、摂津国(兵庫県)の神戸に向けて西方に進軍した。
その朝廷軍の出陣情報を得た足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍弟隊を東方に進軍させた。
こうして摂津国(大阪府)の箕面川(みのおがわ)を挟んで西岸に室町軍弟隊が布陣し、東岸に朝廷軍本隊が布陣して対峙した。
両軍の奮闘により戦地は激戦となり、決着は着かず日が暮れて休戦となった。
ところが、深夜に楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)が率いる朝廷軍河内隊が到着して、そのまま寝静まる室町軍弟隊の陣営に奇襲を仕掛けた。
これに驚いた足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)は、室町軍弟隊を東方の湊川まで退陣させた。
この勢いで新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は朝廷軍を進行させて西宮に布陣して、室町軍弟隊に攻撃を仕掛けた。
攻防する足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の室町軍弟隊だが、朝廷軍の勢いに押し負けて退散する。
これを1336年に起こった「豊島河原合戦」(てしまがわらがっせん)と呼ぶ。
今回の合戦でも敗北した兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は落胆したが、摂津国(兵庫県)の神戸を離れて山陽道を進み九州を目指した。
その道中では室町軍に加勢する武将の結束を固める為に、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は各領国に立ち寄り、播磨国(はりま/兵庫県)の赤松氏、四国は讃岐国(香川県)の細川氏、備前国(岡山県)の石橋氏、備後国(広島県)の今川氏、安芸国(あき/広島県)の桃井氏、周防国(すおう/山口県)の大島氏、長門国(山口県)の斯波氏と親交を深めた。
これには室町軍の西日本の防衛拠点の強化の目的もあった。
そして関門海峡を渡り豊前国(ぶぜん/福岡県)の門司(もじ)に入り、そのまま筑前国(福岡県)の芦屋浦(あしやうら)に到着した。
足利尊氏…『ほぉ〜 ここが150年前に我が源氏一族の源義経公が平家を滅ぼした壇ノ浦(だんのうら)かぁ〜』
足利直義…『兄ちゃん、俺達も源頼朝公の様に幕府を開こうぜぇ!』
White Zombie/♪ THUNDE3 KISS '65
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:04:21
◆◇◆其の五十九:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
京都の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、烏丸通と丸太町通の交差点から北東方にある花山院(かさんのいん)を御所として、志半(こころざしなか)ばの「建武の新政」(けんむのしんせい)の政務を担った。
1336年に起こった「豊島河原合戦」(てしまがわらがっせん)にて敗北した室町軍の武士の中には、勝利した朝廷軍に寝返る者も居り、旗指物(はたさしもの)の紋章を室町軍の象徴だった足利氏の丸二引(まるにふたつひき)にアレンジを加えて新田氏の象徴の大中黒(おおなかぐろ)に変更した武士も居た。
そんな武士を引き連れて新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は京都に凱旋(がいせん)した。
室町軍に勝利した後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は大喜びで、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)に左近衛府(さこのえふ)の中将に任命した。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)による“足利尊氏討伐”の綸旨(りんじ)は、九州の肥後国(熊本県)の菊池武重(きくちたけしげ/朝廷)が当主となる菊池一族も賛同していた。
1333年の「建武の新政」(けんむのしんせい)により朝廷から、菊池武時(きくちたけとき/朝廷)の殉職(じゅんしょく)を讃えて例外的に多くの恩賞が与えられた菊池武重(きくちたけしげ/朝廷)など、肥前国(佐賀県・長崎県)の国司(こくし)に菊池武澄(きくちたけずみ/朝廷)、対馬国(つしま/長崎県)の国司(こくし)に菊池武茂(きくちたけもち/朝廷)が任命されている。
これにより肥後国(熊本県)から出陣した菊池武重(きくちたけしげ/朝廷)や菊池武吉(きくちたけよし/朝廷)は、京都に遠征して新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍に合流した。
一方、菊池武敏(きくちたけとし/朝廷)が率いる朝廷軍肥後隊は肥後国(熊本県)に残り、九州に上陸した足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍の対応した。
九州に到着した足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、筑前国(福岡県)の宗像大社(むなかたたいしゃ)から食事を提供されるなど高待遇を受けて、そこで戦勝祈願もしている。
そして、筑前国(福岡県)の少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町)や豊後国(ぶんご/大分県)の大友氏泰(おおともうじやす/室町)と合流する。
少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町)とは、少弐貞経(しょうにさだつね/鎌倉→室町)の息子である。
大友氏泰(おおともうじやす/室町)とは、大友貞宗(おおともさだむね/鎌倉)の息子である。
筑前国(福岡県)の南方に建つ有智山城(うちやまじょう/太宰府)を居城とする少弐貞経(しょうにさだつね/鎌倉→室町)は、息子の少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町)の軍勢を足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の元に送り出した事もあり、防御が手薄となっていた。
この隙を突いてきたのが菊池武敏(きくちたけとし/朝廷)が率いる朝廷軍肥後隊である。
難攻な山城だった有智山城(うちやまじょう/太宰府)だが、朝廷軍肥後隊は総攻撃を仕掛けて落城させ、城主の少弐貞経(しょうにさだつね/鎌倉→室町)は自決し、残る多く武士も殉死(じゅんし)した。
RIC OCASEK /♪ NOT SHOCKED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:05:15
◆◇◆其の六十:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
筑前国(福岡県)の有智山城(うちやまじょう/太宰府)を居城とする少弐貞経(しょうにさだつね/鎌倉→室町)に勝利したこの勢いで、菊池武敏(きくちたけとし/朝廷)と阿蘇惟直(あそこれなお/朝廷)が率いる朝廷軍肥後隊は、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)を討ち取る為に大群勢で筑前国(福岡県)の多々良浜(たたらはま)に布陣する。
一方の香椎宮(かしいぐう/福岡)に陣営を設けた兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍は、少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町)や大友氏泰(おおともうじやす/室町)の軍勢が付いたとは言え小軍であり不利な情勢だった。
更に亡命してきた室町軍には武具(ぶぐ)や軍馬などが不足していた。
多々良川(たたらがわ)を挟んで対峙する2万人余りの大群勢の朝廷軍肥後隊と2千人余りの小勢の室町軍。
この勢力差を見た兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は落胆して、戦う前から自決する事を決める。
足利尊氏…『こりゃ、どう考えても今まで通りに勝てないなぁ。 やはり鎌倉で仏門に入るべきだった。 ここで自決して、戦乱のないあの世では僧侶として道を歩もう。』
足利直義…『兄ちゃん、何を言っているんだぁ! 合戦は軍勢の数では決まらない。 戦術と知略で勝利を導くものだぁ! 俺が先陣を切るから、よく見ておいてくれぇ!』
こう言って弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)は、鎧兜(よろいかぶと)も装着せずに敵陣へ飛び出していった。
足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍弟隊は、朝廷軍肥後隊の武士から奪い取った鎧兜(よろいかぶと)や軍馬を身に付けて、ドンドンと敵陣を蹴散らせていく。
この死ぬ気の威勢に慄(おのの)いた朝廷軍肥後隊は尻込みし始める。
合戦の序盤は朝廷軍肥後隊が優勢に事を運んでいたが、中盤で川沿いに強風が吹き荒れ砂嵐が舞い込む中で足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の室町軍弟隊が進撃し、三角形の“魚鱗の陣”(ぎょりんのじん)で敵陣に突撃した。
これにより朝廷軍肥後隊の武士が怯(ひる)み、終盤には朝廷軍肥後隊から寝返る武士が多く現れて室町軍が勝利した。
この戦(いくさ)で朝廷軍肥後隊の参謀に就いていた阿蘇神社の阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)でもある阿蘇惟直(あそこれなお/朝廷)が討死した。
これを1336年に起こった「多々良浜の戦」(たたらはまのたたかい)と呼ぶ。
ALICE IN CHAINS /♪ A LOOKING IN VIEW
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:06:09
◆◇◆其の六十一:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
九州にて兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍が、菊池武敏(きくちたけとし/朝廷)が率いる朝廷軍肥後隊と激戦を繰り広げている頃、畿内(きない/関西)の京都では1つの浮かれ花が咲き始めていた。
幾度(いくど)の軍功により後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)からの論功行賞(ろんこうこうしょう)として、都(みやこ)で一番と言われる絶世の美女の勾当内侍(こうとうのないし/朝廷)を愛妾(あいしょう)として充てがわれた新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、そのあまりの美しさに骨抜きにされた。
新田義貞…『其方(そなた)とは一時(ひととき)も離れとぉないぞぉ。 もう、戦(いくさ)にも行かないっ!』
勾当内侍…『貴方(あなた)ったら、そんな事を言って、甘えん坊さんねぇ〜 ウフフゥ〜』
今まで朝廷軍の総大将として幾多(いくた)の試練を乗り越えて勝ち戦(いくさ)を挙げてきた英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な武将の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の、運命が反転して勝利の女神が見放した瞬間でもある。
人生には良くも悪くも、一瞬の心の隙(すき)を突いた、こう言う転換期が訪れる事がある。
京都では季節外れの春が訪れている頃、この九州での勝利に勢い付いた足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の室町軍は九州をほぼ統治して、丹波国(京都府)と但馬国(兵庫県)と播磨国(兵庫県)に赤松円心(あかまつえんしん)こと赤松則村(あかまつのりむら/朝廷→室町)や細川定禅(ほそかわじょうぜん/室町)の軍隊を配備し、西日本を制定し地盤固めを整える。
この色恋に溺れる新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)に対して、当然に後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)や朝廷軍の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)や北畠顕家(きたばたけあきいえ/朝廷)は危惧(きぐ)した。
そこで後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)に対して西国進軍の勅命(ちょくめい)を出す。
後醍醐天皇…『新田殿よぉ、頼むから西国制圧の為に進軍してくれぇ〜』
新田義貞…『えぇ〜!? 今からですかぁ〜? まだまだ大丈夫ですよぉ〜 僕にはこうして幸運の女神が着いていますからぁ〜 ねぇ〜』
勾当内侍…『ウフフゥ〜』
後醍醐天皇…『美女を充てがったのは大失敗だったわぁ! あの豪傑な新田義貞殿は何処(どこ)へやら。』
新田義貞…『デヘヘェ〜 僕ちゃん幸せぇ〜』
女性で人生を狂わされる殿方(とのがた)は現代社会でも多く居る。
男性であれ、女性であれ、見た目に惑わされて、見えない疫病神(やくびょうがみ)に取り憑かれた人物と戯(たわむ)れると、その瞬間から破滅に向かった人生を歩む事になる。
ここで教訓!
『注意1秒、自滅一生!』
RATT /♪ BEST OF ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:07:02
◆◇◆其の六十二:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
そうは言っても出陣しない訳にはいかない新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、固い棒を下げて、ようやく重い腰を上げた。
先(ま)ず朝廷軍先陣隊を西方に出陣させて、播磨国(兵庫県)の赤松円心(あかまつえんしん)こと赤松則村(あかまつのりむら/朝廷→室町)に侵攻させた。
赤松円心(あかまつえんしん)こと赤松則村(あかまつのりむら/朝廷→室町)は、播磨国(兵庫県)の赤穂にある白旗山(しらはたやま/赤穂)に城を設けて布陣した。
その手前にある書写山(しょしゃざん/姫路)にて、室町軍播磨隊と朝廷軍先陣隊は激戦を繰り広げたが、室町軍播磨隊は敗北した。
勝利した朝廷軍先陣隊の知らせを聞いた新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、朝廷軍本隊を率いて書写山(しょしゃざん/姫路)の手前の加古川に陣営を設けた。
この大軍勢の朝廷軍に対して、白旗山(しらはたやま/赤穂)に布陣する赤松円心(あかまつえんしん)こと赤松則村(あかまつのりむら/朝廷→室町)は戦わずして降伏した。
赤松則村…『無駄な抵抗を為(せ)ずに、新田義貞殿に降伏致す。』
新田義貞…『うむ、お互い無駄な血を流す事もない! その降伏を承知致した。』
赤松則村…『本来、赤松氏は朝廷に仕える一族であったが、「建武の新政」(けんむのしんせい)にて後醍醐天皇に不遇な扱いを受けた為に、室町軍に寝返った事情がある。 後醍醐天皇にあの時の恩賞を再考して頂ければ、朝廷軍に加勢致す。』
新田義貞…『よく分かり申した。 早速、使者を京都に送り後醍醐天皇に掛け合ってみるで御座るよぉ!』
こうして播磨国(兵庫県)の加古川から早馬で使者を遣(つ)わせ、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に事情を説明して、その後、朝廷での閣議により赤松円心(あかまつえんしん)こと赤松則村(あかまつのりむら/朝廷→室町)を播磨国(兵庫県)の守護に勅命(ちょくめい)する事が決定させた。
そして、早馬の使者が後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の綸旨(りんじ)を持って播磨国(兵庫県)の加古川に到着したのは、出発してから半月が過ぎた頃だった。
新田義貞…『赤松殿、喜んでくれぇ! 後醍醐天皇から播磨国(兵庫県)の守護に任命されたで御座るよぉ。』
赤松則村…『ふんっ! そんなモノが当てになるかぁ! 以前もそう言って後醍醐天皇に裏切られたんだぁ! 播磨国(兵庫県)の守護なら、既に足利尊氏殿に任命されておるわぁい!』
新田義貞…『えっ!? どう言う事?』
赤松則村…『始めから朝廷軍に加勢するつもりなど無いわぁい! 京都に使者が行っている間に、白旗山(しらはたやま/赤穂)の城の防御を固めさせてもらったわぁい。 色ボケした新田義貞殿よぉ、女にうつつを抜かして、戦場の感覚が鈍ったのぉ〜 アッハハハハ〜』
新田義貞…『ヌゥググ〜 おのれぇ〜 騙したなぁ! 総攻撃じゃ〜 1人残らず討ち取るのじゃ〜』
頭に血が上った新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、朝廷軍を総出で赤松円心(あかまつえんしん)こと赤松則村(あかまつのりむら/朝廷→室町)が布陣する白旗山(しらはたやま/赤穂)に侵攻した。
ところが、この白旗山(しらはたやま/赤穂)は断崖絶壁が続く山岳地帯で難攻不落のお城となっていた。
室町軍播磨隊の山頂からの攻撃で、朝廷軍の武士は討たれ谷底に戦死した屍(しかばね)を積み上げるだけだった。
新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の朝廷軍は1ヶ月以上も攻撃するも、白旗山(しらはたやま/赤穂)に布陣する赤松円心(あかまつえんしん)こと赤松則村(あかまつのりむら/朝廷→室町)の室町軍播磨隊は一向(いっこう)に落ちる気配は無い。
そんな時に、九州を出陣した兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の室町軍本隊が、京都を目指して東方に進軍し始めていた。
BLINK-182 /♪ DAMMIT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:07:56
◆◇◆其の六十三:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
九州から進軍した兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の室町軍本隊は、備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら/福山)に到着した。
ここに持明院統(じみょういんとう/北朝)の光厳上皇(こうごんじょうこう/北朝)からの院宣(いんぜん)を携(たずさ)えた京都の侍従(じじゅう)が訪れる。
この光厳上皇(こうごんじょうこう/北朝)から賜(たまわ)った院宣(いんぜん)には“新田義貞討伐”が明記されている。
こうして足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は北朝のお墨付きの大義名分を得て、日本各地の武将に新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍を討伐する様に伝令(でんれい)を発布した。
足利尊氏…『北朝で持明院統(じみょういんとう/北朝)の天皇家を退けた新田義貞こそが朝敵である。』
これに対して新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍は、備前国(岡山県)と播磨国(兵庫県)の国境にある船坂峠(ふなさかとうげ)に布陣した。
しかし、北朝の支持を得て50万人にも膨れ上がり大群勢となった室町軍は2軍に別けて、弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍弟隊は陸路から、兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍兄隊は海路から、東方に向けて進軍した。
新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は備後国(広島県)の福山に朝廷軍防衛隊を侵攻させたが、多勢に無勢で戦況は室町軍が勝利する。
陸路と海路に別れた室町軍を阻止できる程の軍勢を備えていない朝廷軍の為に、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は播磨国(兵庫県)の加古川での対戦を諦めて、摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)まで退陣する事を決める。
更に京都に早馬で使者を送り、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に戦況不利の報告をした。
京都の烏丸通と丸太町通の交差点から北東方にある花山院(かさんのいん)を御所とする後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の報告を受けて驚いた。
後醍醐天皇…『なぁ、なんやてぇ〜 朝廷軍が苦戦しているだとぉ〜!? 以前の強靭な朝廷軍は何処(いずこ)へぇ〜?』
TRACY BONHAM /♪ The One
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:08:48
◆◇◆其の六十四:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は河内国(大阪府)の勇猛果敢(ゆうもうかかん)と呼ばれる武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)に、摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)に布陣する新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)を援軍する様に出陣の命令を出す。
ところが、この時ばかりは楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)も反論して、自身が戦況を考察する中での戦術を提言した。
楠木正成…『もう、50万人にも膨れ上がった室町軍を止める事は出来ません。 私が朝廷軍を率いて出向いたとしても焼石に水です。』
後醍醐天皇…『でっ、では、どうしたら良いのかぁ!?』
楠木正成…『ならば、前回と同様に、後醍醐天皇は近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)に退避して、守備に弱く攻撃しやすい京都に室町軍を誘き寄せます。 その間、私は領域の河内国(大阪府)に戻り軍備を整えます。 そして京都を制圧した室町軍を近江国(滋賀県)と河内国(大阪府)から包囲して挟み討ちにし、更に兵糧攻めで大群勢の室町軍を弱体化させて壊滅させます。 これなら小軍で大軍を討ち取る事が可能となります。』
後醍醐天皇…『なるほどぉ! では、楠木正成殿の作戦を実行しよう!』
ところがである。
この楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の作戦を聞いていた公卿(くぎょう)の坊門清忠(ぼうもんきよただ/朝廷)は反論した。
坊門清忠…『それはダメだぁ! 今まで通りに朝廷軍は敗北する事は無い! これは日本古来からの神の御加護により勝利を導いている。 これ以上、都(みやこ)の京都を戦乱に巻き込んでは、先代の神様仏様に申し訳が立たぬ。 やはり摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)で戦うべきだぁ!』
楠木正成…『なぁ、何をぉ!? 摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)は、平安時代末期に平家を滅亡に導いた凶事(きょうじ)の地であるぞぉ!』
坊門清忠…『いやいや、摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)は太政大臣にまで出世した平清盛公が都(みやこ)に定めた吉事(きちじ)の地であるぞぉ!』
後醍醐天皇…『フムフム、そうだぁ、そうだぁ。』
坊門清忠…『それよりも、後醍醐天皇が1年の内に2度も比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)に退避したとなると、日本各地の領民から、朝廷の天皇は弱腰であると認識されてしまう。 これこそ天下泰平を遠退(とおの)かせる要因となる。』
後醍醐天皇…『うんうん、確かに、確かに。 では、室町軍との合戦は摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)で決定である。』
楠木正成…『ぎょ、御意(ぎょい)。』
STONE TEMPLE PILOTS /♪ TUMBLE IN THE ROUGH
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:09:38
◆◇◆其の六十五:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
戦(いくさ)を知らない朝廷の公家の進言により、朝廷軍は京都での戦(いくさ)を避けて、大群勢の兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍と摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)で対戦する事になる。
その情報が入った室町軍では、兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)は不審に思う。
足利尊氏…『陸と海から攻める大軍を相手に、小軍の朝廷軍が狭小な摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)で戦いに挑(いど)む理由が無い。 このままでは朝廷軍は袋の鼠(ネズミ)ではないかぁ! 戦術に長(た)けた楠木正成殿の思考とは思えんなぁ。』
足利直義…『何か策や罠があるのかも知れませんぞぉ! 以前も楠木正成殿の調略で室町軍は大敗したで御座るからなぁ〜』
足利尊氏…『う〜〜ん、取り敢(と)えず陸路と海路の2方向で進行しよう。 その後に楠木正成殿の戦術が見えてきたら対策すればよい。』
足利直義…『御意(ぎょい)!』
京都を小軍の700人余りで出陣した兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍河内隊は、楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の息子の楠木正行(くすのきまさつら/朝廷)を河内国(大阪府)に帰す為に摂津国(大阪府)の桜井駅(さくらいえき/島本)で別れを告げる。
父親の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)は息子の楠木正行(くすのきまさつら/朝廷)に、帝(みかど)から賜った菊水(きくすい)の紋が印(しる)された短刀を授ける。
楠木正成…『この短刀は天皇から頂いた楠木家の家宝だ。 これを持って河内国(大阪府)に帰り、お母さんの面倒をよく見るんだぞぉ!』
楠木正行…『父上、嫌です! 僕も一緒に戦地に出向き朝廷の為に戦います。』
楠木正成…『馬鹿者! お前は楠木氏の家督を継承する者として、今後も帝(みかど)に忠義を示して文武習得に励むのだ。』
楠木正行…『父上、 ウッウウウ〜』
今生(こんじょう)での別離を告げた父親の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と息子の楠木正行(くすのきまさつら/朝廷)に、朝廷軍河内隊の武士は皆(みな)涙した。
摂津国(兵庫県)の福原(ふくはら/神戸)に到着した兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍河内隊は、新田義貞(にったよしさだ/朝廷)の朝廷軍本隊に合流し、3万人程度の軍勢で摂津国(兵庫県)の湊川で布陣した。
そこには九州の肥後国(熊本県)から援軍として菊池武重(きくちたけしげ/朝廷)や菊池武吉(きくちたけよし/朝廷)も参戦していた。
DISTURBED /♪ LAND OF CONFUSION
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:11:14
◆◇◆其の六十六:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
朝廷軍が摂津国(兵庫県)の湊川に陣営を設けた兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍河内隊は700人余りの軍勢で布陣し、新田義貞(にったよしさだ/朝廷)が率いる朝廷軍上野隊は2万人余りの軍勢で和田岬に布陣した。
翌朝、本日は晴天なり、風、波ともに穏やか。
その直ぐ沖合に、兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍兄隊の船団が押し寄せてきた。
山脈に沿った陸路には弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍弟隊が進軍してくる。
室町軍は陸海を併せて50万人余りの軍勢である。
これに対して和田岬に布陣していた新田義貞(にったよしさだ/朝廷)が率いる朝廷軍上野隊は、兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍兄隊の船団が上陸できない様に沿岸部の防御を固める。
ただ、その配陣は朝廷軍上野隊は海岸に沿って横長にする為に陸地の防御が手薄になる。
そうなると陸地の湊川に布陣する楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)が率いる朝廷軍河内隊と分断される事につながる。
少ない軍勢で朝廷軍河内隊は決死の覚悟で、大群勢の弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍弟隊に立ち向かい、その勢いで室町軍弟隊を追い遣る事になる。
その戦況を船から見た兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の室町軍弟隊を救済する為に、東方への進行を止めてそのまま上陸した。
こうなると兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍河内隊は、山側にて弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍弟隊と対戦しながら、海側からは兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍兄隊が進軍してくる為に挟み討ちになる危険性が出てきた。
結局、小勢の朝廷軍河内隊は、大群勢の室町軍兄隊と室町軍弟隊に四方八方を包囲された。
大軍でドンドンと侵攻する室町軍に、朝廷軍河内隊の武士は次々と倒れていき70人余りまで減少した。
これを戦況不利と判断した楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)は、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)に使者を走らせて京都へ帰還する様に伝える。
この知らせを聞いた新田義貞(にったよしさだ/朝廷)は、菊池武重(きくちたけしげ/朝廷)などと共に朝廷軍上野隊を京都に向けて退陣させた。
それを見届けた兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)、それに九州から参戦していた菊池武吉(きくちたけよし/朝廷)などの武士団は湊川の民家に身を隠した。
楠木正成…『皆の者、よくぞ此処(ここ)まで着いてきてくれた。 御礼を申し上げる。』
菊池武吉…『何をいうかぁ! 朝廷の為、倭国(日本)の為に、この人生、この命を捧(ささ)げれた事を誇りに思うぞぉ!』
朝廷軍河内隊…『そうですともぉ! ウウウウッ〜』
楠木正成…『仏教では死ぬ間際の心に思う事で、来世(らいせ)の立場が決まるらしい。 正季よぉ、来世(らいせ)は何に成(な)りたい?』
楠木正季…『仏教では、天、人間、修羅(しゅら)の三善道と、畜生(ちくしょう)、餓鬼(がき)、地獄の三悪道から成(な)る六道輪廻(ろくどうりんね)があります。 人間は貪(むさぼ)る貪(とん)、怒りの瞋(しん)、愚かさの痴(ち)を繰り返す。 それならば、6度の魂を繰り返して7度目の命も楠木正季として生きたいです。 そして、武士として朝廷に敵対する国賊を討伐致します。』
楠木正成…『うむっ! 同感であるなぁ!』
こうして兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)は差し違えて自決し、菊池武吉(きくちたけよし/朝廷)などの武士も後を追う様に自決した。
こうして忠君愛国(ちゅうくんあいこく)に熱く英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)を兼ね備えた河内国(大阪府)を代表する武将の兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)の楠木兄弟は、その生涯に幕を閉じた。
これを1336年に起こった「湊川の戦」(みなとがわのたたかい)と呼ぶ。
MY HEAD /♪ HUMBUCKER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:12:03
◆◇◆其の六十七:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
摂津国(兵庫県)の和田岬に陣営を設けた新田義貞(にったよしさだ/朝廷)が率いる朝廷軍上野隊は、兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が率いる朝廷軍河内隊の苦戦の報告を受けて京都へ退陣し始めた。
ところが、兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる室町軍は、直ぐに湊川で朝廷軍河内隊を壊滅させると新田義貞(にったよしさだ/朝廷)が率いる朝廷軍上野隊を追撃した。
摂津国(兵庫県)の三宮の生田森(いくたのもり/神戸)で追い付かれ、朝廷軍河内隊は戦況不利ながらも抗戦する。
ただ、やはり多勢に無勢で勝ち目は無い為に、新田義貞(にったよしさだ/朝廷)が率いる朝廷軍上野隊は丹波国(兵庫県)の丹波路(たんばじ)を目指して逃亡する。
その「生田森の退き口」(いくたのもりののきぐち)で、敵陣から味方を逃す為に後方防戦する殿(しんがり)を務めたのは総大将の新田義貞(にったよしさだ/朝廷)だった。
猛追する室町軍の弓矢団から射られる矢の雨により、新田義貞(にったよしさだ/朝廷)の乗ってた愛馬に命中して討死する。
それでも新田義貞(にったよしさだ/朝廷)は地上戦で、源氏伝来と言われる八領の鎧(よろい)の“薄金”(うすかね)と太刀(たち)の“鬼切安綱”(おにきりやすつな)で払い除けながら奮闘していた。
そこに新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の家臣だった小山田高家(おやまだたかいえ/鎌倉→朝廷)が、主君の身代わりになる事を申し出る。
こうして小山田高家(おやまだたかいえ/鎌倉→朝廷)が乗っていた馬を、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は譲り受けて戦地から逃亡する事ができた
ただ、身代わりとなった小山田高家(おやまだたかいえ/鎌倉→朝廷)は、室町軍の雨の様に降る矢に当たり討死した。
MUNDY /♪ TO YOU I BESTOW
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:12:53
◆◇◆其の六十八:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
京都まで辿(たど)り着いた新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に謁見(えっけん)して、摂津国(兵庫県)の湊川で兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が自決して朝廷軍が敗北した事の報告をした。
更に兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる大群勢の室町軍が京都に進軍している事も付け加えた。
新田義貞…『大群勢の室町軍に対して、朝廷軍は完敗しました。 しかも、楠木正成殿と楠木正季殿までもが・・・ ウウウッ〜』
後醍醐天皇…『なぁ、なんやてぇ!? 朝廷軍が敗けたぁ!?』
新田義貞…『室町軍は直ぐ其処(そこ)まで来ています。 こうしてはおれません。 今直ぐにでも近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)に退避しましょう。』
後醍醐天皇…『えっ!? あっ、あぁ〜 そぉ、そうだなぁ。』
こうして後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)と朝廷の侍従(じじゅう)と共に、“三種の神器”の“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)と“八咫鏡”(やたのかがみ)と“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)を携(たず)えて比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)に避難した。
後醍醐天皇…『こんな事になるなら、始めから楠木正成殿の言う通りに延暦寺(えんりゃくじ)に退避しとけばよかった。 トホホォ〜』
坊門清忠…『えらい災難に見舞われましたなぁ〜』
後醍醐天皇…『お前の責任じゃ〜 このアホォ〜!!』
坊門清忠…『ヒエェ〜』
ただ、比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)に避難しなかった皇族も居た。
それは足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)に加担した持明院統(じみょういんとう/北朝)の光厳上皇(こうごんじょうこう/北朝)などである。
足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は光厳上皇(こうごんじょうこう/北朝)と京都市中の南方にある真言宗(しんごんしゅう)の第二の総本山でもある東寺(とうじ)で謁見(えっけん)し、その東寺(とうじ)を北朝の行在所(あんざいしょ)とした。
それに併せて光厳上皇(こうごんじょうこう/北朝)は、1336年に北朝2代天皇を弟の光明天皇(こうみょうてんのう/北朝)に譲位(じょうい)した。
こうして京都での持明院統(じみょういんとう/北朝)の北朝が地盤固めを実施していく。
NEW FOUND GLORY /♪ HEAD ON COLLISION
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:13:54
◆◇◆其の六十九:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
京都市中の南方にある東寺(とうじ)に陣営を設けた兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の室町軍は、近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)に退避した兄の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と弟の新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)の朝廷軍を討ち取る軍備を整える。
大群勢の室町軍を2軍に別けて、比叡山(ひえいざん)の西方から侵攻する室町軍西隊と、東方から侵攻する室町軍東隊を組成した。
それに対抗する為に朝廷軍も2軍に別けて、延暦寺(えんりゃくじ)の西方に布陣させた朝廷軍西隊と、比叡山(ひえいざん)の麓の坂本に布陣させた朝廷軍東隊で防衛する構えである。
更に琵琶湖には軍船を並べて水辺からも攻撃できる体制を整えた。
朝廷軍を代表する兄の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と弟の新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)、それに伯耆国(鳥取県)の武将の名和長年(なわながとし/朝廷)は朝廷軍東隊の陣営に就いた。
比叡山(ひえいざん)の朝廷軍西隊は、北嶺(ほくれい)と呼ばれる延暦寺(えんりゃくじ)に配備される僧兵の山法師(やまほうし)に防備を任せた。
比叡山(ひえいざん)の東西を挟んで合戦が開始された。
足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の作戦は、室町軍西隊が延暦寺(えんりゃくじ)の山法師(やまほうし)が防御する西方に攻勢を仕掛けて、延暦寺(えんりゃくじ)の境内まで突入したら建物などに火を放ち炎上させて、比叡山(ひえいざん)に立ち昇る煙を合図に、琵琶湖に布陣する室町軍東隊が進撃を開始するものだった。
ただ、開戦して室町軍西隊が比叡山(ひえいざん)の山道を登り始めたのはいいが、山頂から攻撃する朝廷軍西隊の方が有利で、中々に延暦寺(えんりゃくじ)の境内まで進めず、更に西方の激戦を知った新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が援軍として駆け付けて、室町軍西隊の戦況不利は深まるばかりである。
琵琶湖に布陣する室町軍東隊も、一向に比叡山(ひえいざん)の煙が立ち昇らない事で侵攻を開始できずにいた。
ただ、逆に室町軍東隊は、琵琶湖に布陣する朝廷軍東隊は延暦寺(えんりゃくじ)へ援軍に行き激戦が繰り広げられ、室町軍西隊が苦戦して建物に火を放つ事ができないと判断した。
今なら朝廷軍東隊の軍勢は手薄になっている為に、室町軍東隊は侵攻を開始した。
しかし、この室町軍東隊の読みが外れて、弟の新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)と名和長年(なわながとし/朝廷)が率いる朝廷軍東隊の総攻撃に遭い、坂本の戦地で室町軍東隊は壊滅した。
その勢いで朝廷軍は、そのまま京都市中まで侵攻し始めた。
ところが京都の東寺(とうじ)に陣営を設けた足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)には、室町軍が比叡山(ひえいざん)で敗北した事も、勢い付いた朝廷軍が侵攻してきた事も、間者(かんじゃ/スパイ)によって情報はもたらされていた。
この合戦で、1332年に後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が隠岐国(おき/島根県)の隠岐島(おきのしま)へ配流(はいる)になった時に同行し、1333年に脱出する際も傍(かたわら)に付き添った公家の千種忠顕(ちくさただあき/朝廷)が討死した。
この出来事は後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に取って大きな傷心となる。
CARBON/SILICON /♪ WHY DO MEN FIGHT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:14:43
◆◇◆其の七十:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)で繰り広げた東西合戦で勝利した朝廷軍は、そのままの勢いで京都市中に侵攻した。
しかし、この情報は間者(かんじゃ/スパイ)により足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)も承知している。
そこで足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、先(ま)ずは小軍で対抗して、京都の中心地まで誘き寄せる事にした。
一乗寺(いちじょうじ)から進行してきた朝廷軍に対して、室町軍小隊は下鴨神社(しもがもじんじゃ)で布陣した。
思った以上に小勢の室町軍を見て朝廷軍は進軍の速度を早める。
逃げる室町軍小隊に、追う朝廷軍。
三条河原まで深追いした朝廷軍に対して、待機していた大群勢の室町軍が包囲した。
これに慌てた朝廷軍は直ぐ様に、延暦寺(えんりゃくじ)に撤退を開始した。
延暦寺(えんりゃくじ)で体制を立て直した朝廷軍は、2軍に別けて京都市中に侵攻する作戦を採る事にした。
比叡山(ひえいざん)の西方から出陣した朝廷軍1号隊と朝廷軍2号隊は、京都市中の北東から進行した。
朝廷軍1号隊は西方から迂回し、朝廷軍2号隊は鴨川に沿って南下して、京都市中の南方にある室町軍が陣営を構える東寺(とうじ)に進行する作戦だった。
ところが、事前に間者(かんじゃ/スパイ)からこの作戦の情報を聞いていた足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、朝廷軍1号隊への防御として洛北の船岡山(ふなおかやま)に室町軍北隊を布陣させ、朝廷軍2号隊への防御として東山に室町軍南東隊と七条河原に室町軍東隊を布陣させ防衛体制を整えていた。
結局、朝廷軍1号隊と朝廷軍2号隊は大群勢の室町軍の総攻撃を受けて、命からがら延暦寺(えんりゃくじ)に敗走した。
この状況を後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)をはじめ新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)などは、朝廷軍の中に室町軍の間者(かんじゃ/スパイ)が潜んでいると警戒する。
これにより朝廷軍に疑心暗鬼が生まれ結束力が弱まっていく。
特に北嶺(ほくれい)と呼ばれる延暦寺(えんりゃくじ)に配備された僧兵の山法師(やまほうし)が朝廷軍から離れていった。
これに危機感を持った後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、朝廷が所有する農地の荘園(しょうえん)を天台宗(てんだいしゅう)の延暦寺(えんりゃくじ)に寄進(きしん)して朝廷軍への協力を引き留めた。
更に後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、大和国(奈良県)にある法相宗(ほっそうしゅう)の総本山でもある興福寺(こうふくじ)に配備される南都(なんと)と呼ばれる僧兵の奈良法師(ならほうし)にも協力要請をした。
これに興福寺(こうふくじ)は快諾して“足利尊氏討伐”を掲げて奈良法師(ならほうし)が挙兵した。
この南都北嶺(なんとほくれい)の僧兵が朝廷軍に加担した事で、畿内(きない/関西)の武将の多くが朝廷軍に加勢する事を選択した。
こうなると京都市中の南方にある東寺(とうじ)で陣営を構える足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍が、広域に渡り朝廷軍に包囲される事となり戦況不利になる。
LEVELLERS /♪ WHAT A BEAUTIFUL DAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:15:32
◆◇◆其の七十一:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
京都市中の東寺(とうじ)で陣営を構える足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍は、朝廷軍に広域に包囲された防衛体制として、下鴨神社の糺の森(ただすのもり)に室町軍北西隊と北白川に室町軍北北西隊を布陣させ、東寺(とうじ)の南方の羅城門に執事で総大将の高師直(こうもろなお/室町)が率いる室町軍南隊を布陣させた。
それ以外にも、高師直(こうもろなお/室町)の弟の高師泰(こうもろやす/室町)や父親の高師重(こうもろしげ/室町)、それに細川定禅(ほそかわじょうぜん/室町)や佐々木道誉(ささきどうよ/鎌倉→室町)が各戦地に配備された。
一方、勢い付いた朝廷軍は、比叡山(ひえいざん)の麓の西坂本に朝廷軍北東隊を、東山に朝廷軍南東隊を、京都市中から南方に少し離れた石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に朝廷軍南隊を布陣させた。
それぞれの陣地で戦闘が始まり、特に羅城門に布陣する高師直(こうもろなお/室町)が率いる室町軍南隊と石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)から進軍してきた朝廷軍南隊は激闘となり、室町軍南隊は敗北して高師直(こうもろなお/室町)は東寺(とうじ)まで退陣した。
一気に東寺(とうじ)まで攻め込んできたた朝廷軍南隊に対して、室町軍本隊が応戦して撃退させる事に成功する。
一方、西坂本に朝廷軍北東隊には、兄の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と弟の新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)の新田兄弟と、伯耆国(鳥取県)の武将の名和長年(なわながとし/朝廷)が参陣していた。
その勢いは凄まじく、兄の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と弟の新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍北東隊は東寺(とうじ)の東方まで侵攻した。
東寺(とうじ)に陣営を構える足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の室町軍と、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍北東隊が、九条の油小路通(あぶらのこうじどおり)を挟んで対峙した。
そこで新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、猛攻武将と呼ばれた八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)と言う同じ先代を持つ足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)に向けて大声で叫んだ。
新田義貞…『足利尊氏殿よぉ、よく聞いてくれぇ! この合戦では両軍の多くの武士が命を落とし、地域領民も損害を被っている。』
足利尊氏…『なんじゃ!? 誰が叫んでおるのじゃ?』
新田義貞…『戦(いくさ)の大義名分は皇族の大覚寺統(だいかくじとう/南朝)と持明院統(じみょういんとう/北朝)の争いとしているが、実の処(ところ)は上野国(こうずけ/群馬県)の新田氏と下野国(しもつけ/栃木県)の足利氏の源氏一族の争いである。』
足利尊氏…『んっ!? 新田義貞殿かぁ? 鎌倉幕府の時に顔を見た以来じゃのぉ〜』
新田義貞…『ならば此処(ここ)で一騎討ちで勝敗を決めようではないかぁ! もう、無駄な血を流す必要はない!』
足利尊氏…『ほぉ、それは良き考えじゃ! 一丁やったるかぁ!』
そう言って足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は甲冑(かっちゅう)を装着して、東寺(とうじ)の東門から出て行こうとした。
ところが足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の従兄弟の上杉重能(うえすぎしげよし/室町)など足利氏の家臣団が止めに入った。
上杉重能…『ちょ、ちょっとお待ち下され! これは朝廷軍の調略かも知れませんぞぉ! 1人で出て行くのはお止め下さい。』
足利尊氏…『何を言うか。 新田義貞殿はそんな男ではないわぁい。 幼い頃は上野国(こうずけ/群馬県)と下野国(しもつけ/栃木県)の間を流れる渡良瀬川(わたらせがわ)で川遊びをした仲じゃ! 昔話もしたいから、ちょっと行ってくるわぁ。』
上杉重能…『おいっ、誰か東門の扉を開けれない様に釘(クギ)を打ち付けろぉ!』
こうして足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の一騎討ちは幻(まぼろし)に終わった。
そして、これを起因(きいん)に東寺(とうじ)の東門は、現在に至(いた)るまで不開門(開かずの門)となった。
RIDE /♪ CHARM ASSAULT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:16:23
◆◇◆其の七十二:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の一騎討ちが不戦となった事で、戦地は東寺(とうじ)の北東方に移動された。
この時に美濃国(岐阜県)を統治する有力武将で婆娑羅大名(ばさらだいみょう)と呼ばれる土岐頼遠(ときよりとお/朝廷→室町)が室町軍を率いて出陣した。
そして激戦の末、室町軍が勝利して、朝廷軍は敗北し京都市中から撤退した。
この退き口(のきぐち)の最中(さなか)、伯耆国(鳥取県)の武将の名和長年(なわながとし/朝廷)が討死する。
この出来事は後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に取って大きな傷心となる。
名和長年(なわながとし/朝廷)は、1333年に後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)と公家の千種忠顕(ちくさただあき/朝廷)が隠岐国(おき/島根県)の隠岐島(おきのしま)から脱出した際に、伯耆国(鳥取県)で向かい入れ護衛した武将で、「船上山の戦」(せんじょうさんのたたかい)でも鎌倉幕府の軍勢を討ち破り朝廷軍の勝利を導いている。
これにより後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の側近として活躍した“三木一草”(さんぼくいっそう)の全員が死去した。
“三木一草”(さんぼくいっそう)とは、楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)のクスノ〔キ〕、伯耆国(鳥取県)の名和長年(なわながとし/朝廷)のホウ〔キ〕、結城親光(ゆうきちかみつ/鎌倉→朝廷)のユウ〔キ〕の三木(さんぼく)と、千種忠顕(ちくさただあき/朝廷)のチ〔クサ〕の一草(いっそう)を表現した言葉である。
足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が率いる室町軍が勝利して、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が率いる朝廷軍が敗北した事は、近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)に退避する後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に取り圧倒的に不利となる。
その兆候は朝廷軍に加勢してくれた大和国(奈良県)にある法相宗(ほっそうしゅう)の興福寺(こうふくじ)から始まり、南都(なんと)と呼ばれる僧兵の奈良法師(ならほうし)は早々に大和国(奈良県)へ引き上げた。
更に足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が所有する農地の荘園(しょうえん)を、興福寺(こうふくじ)に寄進(きしん)した事により奈良法師(ならほうし)を室町軍への加勢を決定する。
足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の対策は此(こ)れに止まらず、越前国(福井県)や若狭国(福井県)などの北陸地方と畿内(きない/関西)の街道沿いを室町軍の軍勢で警備し、近江国(滋賀県)の琵琶湖にも軍船を配備して、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)を中心に朝廷軍の拠点に食料や物資が入らない様にした。
足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は琵琶湖の周囲に、斯波高経(しばたかつね/室町)と佐々木道誉(ささきどうよ/鎌倉→室町)と小笠原貞宗(おがさわらさだむね/室町)を配備して琵琶湖の水路を抑え、朝廷軍の食糧補給を絶ち兵糧攻めを仕掛けた。
これにより比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)の僧侶や僧兵の山法師(やまほうし)に、その周囲を拠点とする朝廷軍の武士は食糧が無く飢えていき、牛馬はもちろん人の屍(しかばね)まで食い尽くして、その地は凄惨(せいさん)な地獄絵と化していた。
後醍醐天皇…『これは大変な事態であるぞぉ! 朕(ちん)の大御食(おおみけ)も、おかずを7品目から6品目にして、風呂上がりのビールも発泡酒に代えるぞよぉ。』
公家…『・・・』
LIZ PHAIR /♪ SUPERNOVA
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:17:12
◆◇◆其の七十三:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
朝廷軍を精神的にも肉体的にも追い込んだ足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)に行幸(ぎょうこう)し退避していた後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に和睦の提案をする。
この和睦提案に後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は前向きだが、一応は朝廷の公卿(くぎょう)の坊門清忠(ぼうもんきよただ/朝廷)と洞院実世(とういんさねよ/朝廷)に意見を聞いた。
後醍醐天皇…『足利尊氏殿から和睦の提案があったが、其方(そなた)らはどう思う?』
坊門清忠…『この苦境での和睦は大賛成でごじゃるよぉ! これで京都に帰れるぅ!』
洞院実世…『いやいや、和睦の裏には何かの罠があるかもしれませんぞぉ! 一応は新田義貞殿にも報告してからの判断がよいかと思いまする。』
後醍醐天皇…『新田義貞殿かぁ〜 同じ源氏一族とは言え、足利尊氏殿とは犬猿の仲であるからなぁ〜 反対するに決まっておるぞよぉ。』
坊門清忠…『そうだぁ、そうだぁ、元はと言えば、新田義貞殿が足利尊氏殿と仲良くしないから、朝廷を含め京都は戦乱に巻き込まれたのじゃ! 相談などする必要は無しでごじゃる。』
洞院実世…『う〜〜ん、この和睦が後々に、後悔する様な気がしてならないがのぉ〜』
この朝廷の決定により勅使(ちょくし)を遣わせ、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)に和睦の同意を伝えた。
こうして後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の朝廷一行は新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)などの朝廷軍に極秘で、避難先の比叡山(ひえいざん)から京都に還幸(かんこう)する準備に入った。
しかし、そんな大掛かりな準備は、周囲に直ぐにバレる。
新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が居る朝廷軍の陣営にも、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)と足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が和睦した情報が入ってきた。
事の真相を確かめる為に新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は、家臣の堀口貞満(ほりぐちさだみつ/朝廷)を使者として後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の元へ遣(つ)わせる。
堀口貞満…『風の噂(うわさ)で聞いたのですが、足利尊氏殿と和睦したと言うのは真実なんでしょうか?』
後醍醐天皇…『うっ、うん、まあねぇ。 だって、時代の波は足利尊氏殿の方に流れているでしょ。 そのビッグウェーブに乗らない手は無いよねぇ。』
堀口貞満…『なぁ、何たる不義! ならばぁ、風見鶏の様な朝廷は、新田氏の一族を斬首してから足利尊氏殿の元へ参られよぉ!』
後醍醐天皇…『かぁ、風見鶏って、それは言い過ぎでごじゃらぬかぁ?』
堀口貞満…『風見鶏で十分だぁ! ではぁ、この悲報を新田義貞殿に報告するので失礼するぅ!』
その後、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)を謁見(えっけん)した。
新田義貞…『堀口貞満殿から報告を受けました。 忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)で天皇に仕えた新田氏として、非常に残念な気持ちで一杯です。』
後醍醐天皇…『もっ、申し訳ないとは思っておる。 ただ、この和睦は足利尊氏殿を欺(あざむ)く為じゃ。』
新田義貞…『なぁ、なんとぉ!? 調略ある和睦ですかぁ?』
後醍醐天皇…『そぉ、そうじゃ! 実は新田義貞殿には、朕(ちん)の息子の尊良親王と恒良親王を連れ持って越前国(福井県)に入ってもらいたい。 そこの金ヶ崎城(かねがさきじょう/敦賀)を御所として都(みやこ)を遷都(せんと)して再起を図る計画じゃ。』
新田義貞…『なるほどぉ! 日本海側の越前国(福井県)を中心に朝廷の基盤を固めれば、京都の足利尊氏殿に対抗できますね。』
後醍醐天皇…『そぉ、そうだろぉ、そうだろぉ! アッハハハハ〜』⦅口から出任(でまか)せだったが、なんとかこの苦境を乗り越えたぞぉ。⦆
JOE WALSH /♪ WELCOME TO THE CLUB
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友 URL
2025/05/06 (Tue) 18:18:00
◆◇◆其の七十四:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆
足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と和睦した後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、京都に還幸(かんこう)する為にお引越しで忙しい。
京都に帰る前に、抜かりなく日本各地に朝廷軍の武将を配備しておいた。
陸奥国(むつ/宮城県)の多賀城(たがじょう)を拠点とする奥州の鎮守府将軍に就いていた北畠顕家(きたばたけあきいえ/朝廷)が居城していた。
常陸国(ひたち/茨城県)と伊勢国(三重県)には北畠顕家(きたばたけあきいえ/朝廷)の父親の北畠親房(きたばたけちかふさ/朝廷)が拠点を構える。
遠江国(とおとうみ/静岡県)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の息子の宗良親王(むねながしんのう/朝廷→ 南朝)が拠点を構える。
越前国(福井県)の金ヶ崎城(かねがさきじょう/敦賀)に逃亡していた兄の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)と弟の新田義助(にったよしすけ/鎌倉→朝廷)、それに新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の息子の新田義顕(にったよしあき/鎌倉→朝廷)に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の2人の息子の尊良親王(たねよししんのう/朝廷→南朝)と恒良親王(つねながしんのう/朝廷→南朝)が居城していた。
畿内(きない/関西)には後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)の息子の懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)に、その侍従(じじゅう)である藤原氏北家(ほっけ)の系統で公家の四条隆資(しじょうたかすけ/朝廷)と、村上源氏の系統で大納言の中院定平(なかのいんさだひら/朝廷)が居住した。
河内国(大阪府)は1336年に起こった「湊川の戦」(みなとがわのたたかい)にて、朝廷軍楠木隊を指揮した兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が自決し、その兄の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の2人の息子で兄の楠木正行(くすのきまさつら/朝廷)と弟の楠木正時(くすのきまさとき/朝廷)が布陣している。
九州では肥後国(熊本県)の地を統治していた菊池武時(きくちたけとき/朝廷)の息子の菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)と、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の息子の懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)が拠点を構える。
そして京都に還幸(かんこう)する当日、新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の護衛に家臣の江田行義(えだゆきよし/朝廷)と大館幸氏(おおだてゆきうじ/朝廷)を同行させる。
大館幸氏(おおだてゆきうじ/朝廷)は、新田氏の庶流(しょりゅう)にあたる大館宗氏(おおだてむねうじ/朝廷)の息子である。
京都市中から東方にある、平安時代に白河院(しらかわいん)のあった六勝寺(ろくしょうじ)と呼ばれる第72代天皇の白河天皇(しらかわてんのう/朝廷)の所縁(ゆかり)の法勝寺(ほっしょうじ/廃寺)まで後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の御一行様が来た頃、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)がお出迎えにあがった。
その時に足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に対して“三種の神器”を北朝2代天皇の光明天皇(こうみょうてんのう/北朝)へ譲渡する様に嘆願する。
こんな事があろうかと思い、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)も事前に“三種の神器”の偽物(ニセモノ)を用意しており、その偽物(ニセモノ)の“三種の神器”を光明天皇(こうみょうてんのう/北朝)へ譲渡した。
ただ、この後は計画違いで、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と仲良く「建武の新政」(けんむのしんせい)の続きを実施するつもりだったが、その足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)を烏丸通と丸太町通の交差点から北東方にある花山院(かざんいん/京都御所)で幽閉した。
この時に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に連れ持った朝廷の御一行様は、室町軍により斬首された。
後醍醐天皇…『こんな事なら、新田義貞殿と一緒に越前国(福井県)へ行幸(ぎょうこう)すればよかった。 トホホォ〜』
ただ、その後に後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は花山院(かざんいん/京都御所)の牢獄(ろうごく)から脱出する事に成功して、そのまま南下し大和国(奈良県)の吉野にある行宮(あんぐう)に逃亡した。
ここから南北朝時代が始まる。
1336年〜1392年に、京都では持明院統(じみょういんとう/北朝)の北朝と、吉野では大覚寺統(だいかくじとう/南朝)の南朝の、双方に天皇が存在した56年間の出来事である。
これら鎌倉時代末期から室町時代初期の、ほんの5年余りの短きに渡る太平記。
大阪が誇る天下無双(てんかむそう)と呼ばれる武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)が活躍する太平記を、真の大阪人は浪曲に乗せて延々と語る事ができます。
真の大阪人…『旅行(たびゆぅ)けばぁ〜 難波(なにわ)の海にぃ〜 たこ焼きの香りぃ〜』
真の大阪人…『名代なるかな御堂筋〜 名所古蹟の多い処(ところ)〜 中に知られる羽衣(はごろも/高石)のぉ〜 松と並んでその名を残すぅ〜』
真の大阪人…『大阪湾一(おおさかわんいち)の武将はぁ〜 奥州の鎮守府将軍の北畠顕家のぉ〜 あまた朝廷軍のある中でぇ〜 四天王寺(してんのうじ)の一人としてぇ〜』
真の大阪人…『悪党(あくとう)と異名をとるぅ〜 森河内(もりかわち)の楠木正成のぉ〜 苦心談の武勇伝をぉ〜 悪声ながらもつとめましょう〜』
ECHO & THE BUNNYMEN /♪ BASEBALL BILL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250506 - ラジオの友
2025/05/12 (Mon) 10:48:36
工事中