都市空間計画区域

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今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:16:24

◆◇◆其の一:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

君が攻めれば、僕が守る時、新しい歴史が生まれる。

漫画の代わりに古文書を、テレビの代わりに演芸場を、新しい歴史をリードする。

老いたる者には、過ぎし日の郷愁(きょうしゅう)を。

若人(わこうど)には、古(いにしえ)の幻(まぼろし)を。

今日も始まりました日本の歴史レディオショーの時間です。

素敵な歴史をあなたにお届けするヒストリーオアシス。

最近、日本で一番に盛り上がっている地域と言えば、何て言っても大阪でぇんなぁ〜

昔から大阪は、お笑いの文化が栄えて明るいイメージが付いてまっしゃろ。

ただなぁ、一言だけ言いたいのは、作られたイメージと日常の現実は違いまっせぇ!

そもそも、お頭(おつ)の弱いメディアが、大阪の事を『大阪弁のイントネーションが違うと大阪人はイラつく!』とか『大阪で流れる関西系企業のCMを大阪人は、ほぼ全部を把握している!』などと、小学生レベルのアホォな企画で煽(あお)ったお陰で、長年に渡り大阪の知能指数が格段に下げられたのが要因やぁでぇ。

現実の日常で生活していて低次元のメディアが主張する、そんな大阪人に出会った事の方が無いわぁ!

お笑いも賢(かしこ)くなくては出来まへぇんでぇ。

THE VON BONDIES /♪ PALE BRIDE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:17:23

◆◇◆其の二:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

そのアホォなメディアのイメージ操作の極地が、最も大阪人に愛される猛攻武将やぁでぇ!

なんでぇ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)やぁねん!

大阪の観光名所と言えば大阪城ですわぁなぁ。

大坂城(おおさかじょう)を築城したのは豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)ですわぁなぁ。

しかしやぁなぁ、あの土地は元々は織田信長(おだのぶなが/織田)が、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の総本山として石山本願寺(いしやまほんがんじ/浄土真宗)が建ってた敷地を、住職の顕如(けんにょ/僧侶)と合戦して奪取(だっしゅ)した用地だっせぇ。

その後、152年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で織田信長(おだのぶなが/織田)が死去したから、織田軍を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、織田信長(おだのぶなが/織田)の構想通りに大坂城(おおさかじょう)を築城しただけやぁ。

その後、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)による1615年に起こった「大坂・夏の陣」で落城して焼失し、1620年に江戸幕府が西日本の拠点として築城し、その時に豊臣政権の名残を全て消し去る様に、お堀や土台などの造営を最初から建築してますねぇん。

せぇやから豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の大坂城(おおさかじょう)は、この時点で消滅してまぁんねん。

厳密に言うと、大坂城(おおさかじょう)は江戸幕府の征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)のお城って言う事になるなぁ。

ただ、その立派な江戸幕府の大坂城(おおさかじょう)も、1665年に落雷により天守閣が炎上して焼失してもぉうてん。

そこから太平洋戦争などを挟み長い年月を経て、1931年に市民の寄付で大阪城が再築されましたんやぁわ。

念願の太閤さんのお城が復活した事で、当時の大阪人は大喜びだっせぇ!

せやけどなぁ、水を差すようで悪いねぇんけど、現存する大阪城は江戸幕府が築いた石垣の土台に築城して、その外観も豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が築城した大坂城(おおさかじょう)とは全然に違いますねぇん。

まぁ、確かに豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が大坂城(おおさかじょう)を中心とした城下町の整備や地割(じわり)をした事で、現在の大阪市中心部の都市形成があるのも事実やぁな。

ただ、明確に言えば大坂城下町も、元はと言えば織田信長(おだのぶなが/織田)が尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)から小牧山城(こまきやまじょう)に移転する際に、お城の新築工事するに当たって、城下町の整備や地割(じわり)をしたのが原型やしぃ。

それを織田信長(おだのぶなが/織田)の傍(かたわら)で見て経験した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、大坂城(おおさかじょう)の城下町にも踏襲(とうしゅう)した言う訳ですねぇん!

せぇやから愛知県小牧市が兄さんなら、大阪府大阪市は弟と言う事になりまぁんなぁ。

更(さら)に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が大阪に馴染みの薄い決定的な事実が、日本の史実にはありまんねぇん!

A GREAT BIG WORLD /♪ THERE IS AN ANSWER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:18:24

◆◇◆其の三:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の生まれ故郷は尾張国(愛知県)で現在で言う愛知県名古屋市中村区で生まれ育ち、亡くなったのも山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)で現在の京都府京都市伏見区やぁねん。

せやぁから摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が腰をドッシリと据えた場所とは言い難いんやぁな。

現代感覚で言えば、大阪に本社がある大手企業に名古屋出身の社長が着任し、しかも自宅は京都市伏見区の新築戸建住宅を購入して、京阪電車で大阪まで通勤している感じと言ったところでぇんな。

この社長さんが、大阪を代表する経営者とは言えまへぇんけどなぁ。

それなのに最も大阪人に愛される猛攻武将が、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)とは此(こ)れ如何(いか)に?

他に居(お)らんのかぁいなぁ、有能で豪傑な大阪出身の武将はぁ!

居(お)りまぁんがな、居(お)りまぁんがな!

忘れてもらったら困りまっせぇ!

楠木(くすのき)はぁんですわぁ!

楠木(くすのき)はぁん言うたらぁ、大阪を代表する鎌倉時代から室町時代に生きた勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)だっせぇ!

楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の楠木氏は諸説あるが、元は橘氏(たちばなうじ)の系統と言われ、その後に河内国(大阪府)の国人(こくじん)となり悪党(あくとう)として名を馳せたと言われてますねぇん。

この悪党(あくとう)は、現代で言う悪事を働く罪人ではなく、朝廷や幕府などの統治には属さない独自で地域を統括していた一族の事ですわぁ。

源平藤橘(げんぺいとうきつ)の名門家と呼ばれる源氏と平氏と藤原氏と橘氏(たちばなうじ)に属する楠木氏の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)は、第96代天皇かつ南朝初代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)をはじめとした朝廷に、最後まで忠義を尽くして戦(いくさ)に敗(やぶ)れ散っていった事から、忠君愛国(ちゅうくんあいこく)として現代でも皇室や宮内庁から崇められてまっせぇ!

その証拠に東京都千代田区の皇居には、楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の銅像が設置されてますやぁろ。

真(しん)の大阪人は東海道新幹線で東京駅に着いたら、何は無くとも先(ま)ずは皇居の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)を詣(もう)でると言われてまっせぇ。

正に忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)は、大阪を代表する武将に相応しいですわぁ!

FOSTER THE PEOPLE /♪ PUMPED UP KICKS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:19:26

◆◇◆其の四:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

では楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)とは、どんな人物でっしゃろかぁ?

真(しん)の大阪人ならスラスラと答えられますが、他の地域の方には、ちとぉ馴染みが薄いでぇんなぁ。

中学生にも解り易く例えるんなら、第96代天皇かつ南朝初代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の御子(みこ)である懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)に忠義を尽くした肥後国(熊本県)の菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)みたいなお方でんなぁ。

楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)は鎌倉時代末期に、河内国(大阪府)を領域とする楠木氏の当主として領国を統治してましたんやぁ。

今で言う四條畷市(しじょうなわてし)から河内長野市の辺りまでの南北を貫く生駒山(いこまやま)から信貴山(しぎさん)、そして金剛山(こんごうさん)の一帯を領域としてましてぇん。

その山脈に下赤坂城(しもあかさかじょう)や上赤坂城(かみあかさかじょう)、それに千早城(ちはやじょう)などの楠木七城(くすのきしちじょう)を築城して敵将の防衛に努めてましたんやぁわ。

現在でも大阪府の千早赤阪村(ちはやあかさかむら)や富田林市(とんだばやしし)や河内長野市に、その遺跡や史跡が点在してますぅんで、大阪をこよなく愛する者は、是非、足を運んでもらいたいですなぁ。

楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の嫁は、楠木久子(くすのきひさこ)こと南江久子(みなみえひさこ/楠木)ですねぇん。

その息子は、長男の楠木正行(くすのきまさつら/朝廷)、次男の楠木正時(くすのきまさとき/朝廷)、三男の楠木正儀(くすのきまさのり/朝廷)と3人も居りましてぇん。

この息子達もお涙頂戴のお話しが有りましてぇんなぁ。

それは後々に語らしてもらいますぅんで、ハンカチを用意して待っといてぇやぁ。

そんな楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)には、同じ様な豪傑武将で弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が居てますねぇん。

弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)は、嫡流(ちゃくりゅう)の楠木氏から庶流(しょりゅう)の河内和田氏に分家しましてぇん。

でっ、息子の和田賢秀(わだけんかい/朝廷)が居りましてぇん、薙刀(なぎなた)の名手と言われ、後々に四條畷市(しじょうなわてし)では“歯神(はがみ)さん”と呼ばれ信仰されてまぁすんやぁ。

RICHARD ASHCROFT FEAT.LIAM GALLAGHER /♪ C'MON PEOPLE (WE'RE MAKING IT NOW)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:20:26

◆◇◆其の五:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

では、楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)が生きた鎌倉時代末期から見ていきまひょ。

相模国(神奈川県)の鎌倉幕府では、1301年に執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)が退任して、執権10代目の北条師時(ほうじょうもろとき/鎌倉)が就任する。

1311年に執権10代目の北条師時(ほうじょうもろとき/鎌倉)と執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)が相次いで死去する。

執権11代目の北条宗宣(ほうじょうむねのぶ/鎌倉)が就任したが、1312年に執権12代目の北条煕時(ほうじょうひろとき/鎌倉)に譲るも、その直ぐ後に北条宗宣(ほうじょうむねのぶ/鎌倉)は死去する。

その北条煕時(ほうじょうひろとき/鎌倉)も病気により1315年に執権13代目の北条基時(ほうじょうもととき/鎌倉)に譲るも、その直ぐ後に北条煕時(ほうじょうひろとき/鎌倉)は死去する。

北条氏(ほうじょううじ)の得宗家(とくそうけ)が執権を継承する為に中継ぎとして北条煕時(ほうじょうひろとき/鎌倉)は就任していた為に、1316年に得宗家(とくそうけ)である執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)の息子の執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)が就任した。

この執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は政務に全くの興味を示さず、お酒と闘犬と神楽(かぐら)にしか興味はなかった。

それでも鎌倉幕府の優秀な御家人により、なんとか政権運営は保つ事ができていた。

しかし、そんな相模国(神奈川県)の鎌倉を遠く離れた山城国(京都府)の京都では、思わしくない視線で見つめていた者が居た。

それが第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)である。

TREY ANASTASIO /♪ TUESDAY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:21:28

◆◇◆其の六:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)も、実は中継ぎの天皇として就任しており、朝廷でもあまり重要視されていなかった。

この頃の皇位継承は鎌倉幕府の介入の元で、持明院統(じみょういんとう/北朝)と大覚寺統(だいかくじとう/南朝)が交互に就任するのが決まりだった。

1224年に第88代天皇の後嵯峨天皇(ごさがてんのう/朝廷)が退位して、息子の持明院統(じみょういんとう/北朝)で第89代天皇の後深草天皇(ごふかくさてんのう/朝廷)が皇位を譲位(じょうい)した。

1260年に第89代天皇の後深草天皇(ごふかくさてんのう/朝廷)が退位して、第88代天皇の後嵯峨天皇(ごさがてんのう/朝廷)の息子の大覚寺統(だいかくじとう/南朝)で第90代天皇の亀山天皇(かめやまてんのう/朝廷)が皇位を譲位(じょうい)した。

1274年に第90代天皇の亀山天皇(かめやまてんのう/朝廷)が退位して、息子の大覚寺統(だいかくじとう/南朝)で第91代天皇の後宇多天皇(ごうだてんのう/朝廷)が皇位を譲位(じょうい)した。

1287年に第91代天皇の後宇多天皇(ごうだてんのう/朝廷)が退位して、第89代天皇の後深草天皇(ごふかくさてんのう/朝廷)の息子の持明院統(じみょういんとう/北朝)で第92代天皇の伏見天皇(ふしみてんのう/朝廷)が皇位を譲位(じょうい)した。

1298年に第92代天皇の伏見天皇(ふしみてんのう/朝廷)が退位して、息子の持明院統(じみょういんとう/北朝)で第93代天皇の後伏見天皇(ごふしみてんのう/朝廷)が皇位を譲位(じょうい)した。

1301年に第93代天皇の後伏見天皇(ごふしみてんのう/朝廷)が退位して、第91代天皇の後宇多天皇(ごうだてんのう/朝廷)の息子の大覚寺統(だいかくじとう/南朝)で第94代天皇の後二条天皇(ごにじょうてんのう/朝廷)が皇位を譲位(じょうい)した。

1308年に第94代天皇の後二条天皇(ごにじょうてんのう/朝廷)が崩御(ほうぎょ)して、第92代天皇の伏見天皇(ふしみてんのう/朝廷)のの息子の持明院統(じみょういんとう/北朝)で第95代天皇の花園天皇(はなぞのてんのう/朝廷)が皇位を即位(そくい)した。

1318年に第95代天皇の花園天皇(はなぞのてんのう/朝廷)が退位して、第91代天皇の後宇多天皇(ごうだてんのう/朝廷)の息子の大覚寺統(だいかくじとう/南朝)で第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)が皇位を譲位(じょうい)した。

この様に天皇も就任は鎌倉幕府の意向もあり両統迭立(りょうとうてつりつ)を実施していた。

ただ実は、大覚寺統(だいかくじとう/南朝)の第91代天皇の後宇多天皇(ごうだてんのう/朝廷)は、息子の第94代天皇の後二条天皇(ごにじょうてんのう/朝廷)が就任した時に、後々の皇位継承者はその息子の邦良親王(くによししんのう/朝廷)を就任させようとしていた。

ところが後二条天皇(ごにじょうてんのう/朝廷)が1308年に崩御(ほうぎょ)し、その時に息子の邦良親王(くによししんのう/朝廷)はまだ9歳で幼かった為に、その中継ぎで後宇多天皇(ごうだてんのう/朝廷)のもう1人の息子で第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)に皇位が回ってきた経緯(けいい)がある。

ただ、邦良親王(くによししんのう/朝廷)も1326年に27歳の若さで薨去(こうきょ)した為に皇位に就く事はなかった。

HARRY CONNICK,JR. /♪ HOW DO YA'LL KNOW

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:22:26

◆◇◆其の七:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

リリーフの第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)とは言え、思い掛けない登板により張り切って朝廷の政務に取り組んだ。

政策の理想としたのが、平安時代の900年〜950年頃に実施された第60代天皇の醍醐天皇(だいごてんのう/朝廷)から第62代天皇の村上天皇(むらかみてんのう/朝廷)による王朝政権の「延喜天暦の治」(えんぎてんりゃくのち)である。

因(ちな)みに天皇の名称だが、通常は崩御(ほうぎょ)した後に皇室の侍従(じじゅう)などにより名前を付けられるのだが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)だけは崇拝する醍醐天皇(だいごてんのう/朝廷)にあやかり、生前に自分で後醍醐(ごだいご)と決めていた。

後醍醐天皇…『わしぃが死んだら名前は後醍醐(ごだいご)にしてなぁ!』

侍従…『えっ!? あっ、はい。』

後醍醐天皇…『♪ガンダ〜ラ ガンダ〜ラ 愛の国 ガンダ〜ラ〜 これで安心! アッハハハハ〜』(♪ガンダーラ)

この天皇が中心となった政権運営を実施したい後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)の政策に応える形で、父親の後宇多上皇(ごうだじょうこう/朝廷)は治天の君(ちてんのきみ)を退位して院政(いんせい)を廃止し、皇位継承者を決定する惣領(そうりょう)などを朝廷に戻して天皇を主体とした。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は先(ま)ず、2つの課題に取り組んだ。

①:通行料を徴収する不要な箇所の関所を撤去する。

②:飢饉(ききん)による困窮者が増加傾向にあり、朝廷も大御食(おおみけ)などを少量にして質素倹約に務める。

ただ、こうした取組みも、一々(いちいち)に相模国(神奈川県)の鎌倉幕府にお伺いを立てないといけなかった。

迅速(じんそく)に動きたい後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)にとって、執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)による鎌倉幕府の統治下にもどかしさでもある。

そこで後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は、側近家臣で藤原氏北家(ほっけ)の公家の日野資朝(ひのすけとも/朝廷)と、その親族の日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)と共に倒幕会合を開催した。

ただ、鎌倉幕府の京都の出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)の監視もある為に、中国大陸の宋明理学(そうみんりがく)の勉強会と題して催していた。

こうして“鎌倉幕府討伐”を目的とした朝廷軍が組成された。

ELIOT MORRIS /♪ BALANCING THE WORLD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:23:24

◆◇◆其の八:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

ただ、朝廷軍を結成したとしても、朝廷で働く公家の日野資朝(ひのすけとも/朝廷)と日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)は日常業務で忙しい。

暇なのは第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)だけである。

日野資朝…『あぁ〜 忙しい、忙しい〜』

日野俊基…『この書物とあの書物の確認をして、それからえっとえっとぉ〜』

後醍醐天皇…『ファ〜ア〜 暇で暇で退屈じゃのぉ〜 あんまり暇なんで鼻毛でも抜くかぁ〜』

日野資朝…『・・・』

日野俊基…『・・・』

そんな時に、“北嶺”(ほくれい)と呼ばれる近江国(滋賀県)にある天台宗(てんだいしゅう)の延暦寺(えんりゃくじ)から僧兵の山法師(やまほうし)が、天皇直々への嘆願を込めた奏状(そうじょう)を持参して朝廷を訪問した。

その対応をしたのが朝廷では学識者として名高い日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)である。

山法師…『どうか我々、天台宗(てんだいしゅう)の僧兵の思いを込めたこの奏状(そうじょう)を後醍醐天皇にお渡し下さい。』

日野俊基…『なになに、マンコォ〜インの僧兵は日頃から鍛錬に鍛錬を重ね、マンコォ〜インにて日々の・・・』

山法師…『ちょ、ちょっとすみません。 そこはマンコォ〜インではなく、楞厳院(りょうごんいん/比叡山横川の中堂)で御座います。 マンコォ〜イン、マンコォ〜インって連呼されますと、全然に違った解釈になりますので。』

延暦寺(えんりゃくじ)の山法師(やまほうし)が持参した奏状(そうじょう)には、楞厳院(りょうごんいん/比叡山横川の中堂)と記載されていたのだが、それを日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)は慢厳院(まんごんいん)と読み間違えていた。

この事が朝廷内に広がり、日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)は官人や女官から白い目で見られる様になり、お陰で仕事の依頼が激減した。

こうして後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)と同じく暇になった日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)は、朝廷軍の組織作りに取り掛かる。

先(ま)ず、鎌倉幕府に怪しまれない様に山伏(やまぶし)に変装して畿内(きない/関西)の周辺を巡り、その地域の有力武将に接触していった。

一方、日野資朝(ひのすけとも/朝廷)は、京都に滞在していた美濃国(岐阜県)の有力武将の多治見国長(たじみくになが/朝廷)に、土岐頼貞(ときよりさだ/朝廷)とその親族の土岐頼員(ときよりかず/朝廷)に接触した。

この時も鎌倉幕府に怪しまれない様に、表向きは無礼講の宴会や宋明理学(そうみんりがく)の勉強会を催していた。

CHESNEY HAWKES /♪ GET A HOLD OF YOURSELF

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:24:24

◆◇◆其の九:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

この日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)と日野資朝(ひのすけとも/朝廷)の努力の積み重ねで、なんとか朝廷軍の軍備が整った。

そして“鎌倉幕府討伐”の日程が決まる。

その日は文章博士(もんじょうはかせ)だった菅原道真(すがわらみちざね/公家)が祀られる北野天満宮(きたのてんまんぐう)の祭礼で、この日は鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)の手勢が祭りの護衛に当たる為に防御が手薄になる。

ところが朝廷軍に加入した土岐頼員(ときよりかず/朝廷)が、毎晩の様に出歩く旦那に浮気の疑惑を持った妻の香織(かおり/鎌倉→朝廷)に追求され“鎌倉幕府討伐”を漏らしてしまう。

香織…『あんたぁ! 毎晩毎晩、何処(どこ)をほっつき歩いてぇんのぉ! 何処(どこ)ぞに女でも囲ってるんでしょ! 悔しいぃ〜 離婚よぉ、離婚!』

土岐頼員…『いっ、いや、違うんだぁ! 実は誰にも言えないのだが、後醍醐天皇の勅命(ちょくめい)を受けて朝廷軍に加担して、鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)に侵攻するんだよぉ。 これぇ、極秘の倒幕計画だから、誰にも言うなよぉ!』

香織…『ええっ〜!? 倒幕計画!?』

ここで問題が発生する。

土岐頼員(ときよりかず/朝廷)の妻の香織(かおり/鎌倉→朝廷)は、父親の斎藤利行(さいとうとしゆき/鎌倉)が鎌倉幕府の役人で六波羅探題(ろくはらたんだい)に勤めていた。

この“鎌倉幕府討伐”のより朝廷軍が六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻撃すれば、父親の斎藤利行(さいとうとしゆき/鎌倉)の命は危うくなる。

居ても立っても居られなくなった香織(かおり/鎌倉→朝廷)は、旦那の土岐頼員(ときよりかず/朝廷)に極秘と念を押されたが、父親の斎藤利行(さいとうとしゆき/鎌倉)に全てを話してしまう。

香織…『パパ〜 あのねぇ〜 旦那が後醍醐天皇の朝廷軍に参戦して鎌倉幕府を倒すんだってぇ〜』

斎藤利行…『なっ、なんやぁてぇ〜!? こうしてはいられない! 早馬で相模国(神奈川県)の鎌倉に居る北条高時殿に伝えなければぁ!』

もう、こうなると大事(おおごと)に発展して、誰にも止められなくなる。

BEADY EYE /♪ THE ROLLER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:25:24

◆◇◆其の十:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

1324年に鎌倉幕府は京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)に、大軍勢の鎌倉軍を集結させる。

鎌倉軍は2軍に別けて、朝廷軍の多治見国長(たじみくになが/朝廷)と土岐頼貞(ときよりさだ/朝廷)の京都にある屋敷に侵攻する。

鎌倉軍1号隊は多治見国長(たじみくになが/朝廷)の屋敷に進撃を開始し、多治見国長(たじみくになが/朝廷)の家臣の小笠原孫六(おがさわらまごろく/朝廷)が率いる朝廷軍多治見隊と激闘を繰り広げるも、劣勢となった朝廷軍多治見隊は小笠原孫六(おがさわらまごろく/朝廷)が討死し、それを見届けた多治見国長(たじみくになが/朝廷)も自決した。

鎌倉幕府の山本時綱(やまもとときつな/鎌倉)が率いる鎌倉軍2号隊は土岐頼貞(ときよりさだ/朝廷)の屋敷に進撃を開始し、土岐頼貞(ときよりさだ/朝廷)の息子の土岐頼兼(ときよりかね/朝廷)が率いる朝廷軍土岐隊と交戦して山本時綱(やまもとときつな/鎌倉)が土岐頼兼(ときよりかね/朝廷)を斬首する。

この合間に父親の土岐頼貞(ときよりさだ/朝廷)は逃亡したと言われる。

合戦に勝利した鎌倉軍は、六波羅探題(ろくはらたんだい)で朝廷軍の首実験を実施した。

この時、六波羅探題(ろくはらたんだい)の北方長官だった北条仲時(ほうじょうなかとき/鎌倉)の後任で、極楽寺流の庶流(しょりゅう)の常盤流の系統である北条範貞(ほうじょうのりさだ/鎌倉)が首級(しゅきゅう)の検分を実施している。

こうして“鎌倉幕府討伐”の首謀者の日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)と日野資朝(ひのすけとも/朝廷)は六波羅探題(ろくはらたんだい)に拘束されて、相模国(神奈川県)の鎌倉幕府に護送された。

鎌倉幕府の裁定は、日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)は倒幕関与の証拠不十分で無罪、日野資朝(ひのすけとも/朝廷)は越後国(新潟県)の佐渡島(さどがしま)へ配流(はいる)の判決が言い渡された。

この“鎌倉幕府討伐”には、第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)は関与していないとの寛大な見識を示した。

これを1324年に起こった「正中の変」(しょうちゅうのへん)と呼ぶ。

THE VIEW /♪ SAME JEANS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:26:21

◆◇◆其の十一:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

1324年に起こった「正中の変」(しょうちゅうのへん)の頃の第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の家族構成は複雑極まりなかった。

皇后でもある西園寺禧子(さいおんじきし/公家→朝廷)には嫡男(ちゃくなん)となる息子が居なかった為に、皇位継承者の候補も混迷を極めた。

しかも側室の阿野廉子(あのれんし)こと藤原簾子(ふじわられんし/公家→朝廷)には、恒良親王(つねながしんのう/朝廷→南朝)と成良親王(しげながしんのう/朝廷→南朝)、それに後々の第97代天皇かつ南朝2代天皇の後村上天皇(ごむらかみてんのう/南朝)となる義良親王(のりながしんのう/朝廷→南朝)が居た。

阿野廉子(あのれんし)こと藤原簾子(ふじわられんし/公家→朝廷)とは、藤原氏北家(ほっけ)の阿野氏の系統で、野心が強く三位の局(さんみのつぼね)と呼ばれていた。

当初、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は中継ぎの天皇として就任しており、この時点の皇太子は第94代天皇の後二条天皇(ごにじょうてんのう/朝廷)の息子の邦良親王(くによししんのう/朝廷)が着任していた。

しかし、その皇太子だった邦良親王(くによししんのう/朝廷)も、1326年に27歳の若さで薨去(こうきょ)する。

元々、天皇の皇位は持明院統(じみょういんとう/北朝)と大覚寺統(だいかくじとう/南朝)が交互に就任する両統迭立(りょうとうてつりつ)が採られていた為に、大覚寺統(だいかくじとう/南朝)の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の次の皇位継承者は、持明院統(じみょういんとう/北朝)の第93代天皇の後伏見天皇(ごふしみてんのう/朝廷)の息子の量仁親王(かずひとしんのう/北朝)が皇太子に就く事になる。

量仁親王(かずひとしんのう/北朝)とは、南北朝時代に入り室町幕府の征夷大将軍1代目で兄の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の加護の元で、後々に北朝初代天皇の光厳天皇(こうごんてんのう/北朝)に就任する。

この皇位継承には、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の“鎌倉幕府討伐”の動きを警戒する鎌倉幕府の意向も働いた。

この朝廷と鎌倉幕府の裁定に不満を募らせた後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)と側室の阿野廉子(あのれんし)こと藤原簾子(ふじわられんし/公家→朝廷)は、矢継ぎ早に手を打つ。

先(ま)ずは、仏教勢力を朝廷軍の味方に付ける為に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は南都北嶺(なんとほくれい)の行幸(ぎょうこう)に出掛けた。

南都(なんと)とは、大和国(奈良県)にある法相宗(ほっそうしゅう)の興福寺(こうふくじ)の事で、そこに配備された僧兵の奈良法師(ならほうし)を朝廷軍に加勢する目論みがある。

北嶺(ほくれい)とは、近江国(滋賀県)にある天台宗(てんだいしゅう)の延暦寺(えんりゃくじ)の事で、そこに配備された僧兵の山法師(やまほうし)を朝廷軍に加勢する目論みがある。

しかも後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の息子の護良親王(もりながしんのう/朝廷)は、天台宗(てんだいしゅう)の延暦寺(えんりゃくじ)の高僧である天台座主(てんだいざす)に就いていた。

次に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の護持僧(ごじそう)に就いていた真言宗(しんごんしゅう)の僧侶の文観房弘真(もんかんぼうこうしん/僧侶)に、子供が居なかった皇后の西園寺禧子(さいおんじきし/公家→朝廷)の為の懐妊祈願の祈祷を依頼した。

ところがこれは表向きで、実際は文観房弘真(もんかんぼうこうしん/僧侶)は関東調伏(かんとうちょうぶく)の祈祷を実施していた。

しかし、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の小細工が、何処(どこ)からか情報が鎌倉幕府に漏洩して、執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)の逆鱗に触れる事となる。

早速(さっそく)に六波羅探題(ろくはらたんだい)は文観房弘真(もんかんぼうこうしん/僧侶)を拘束して、相模国(神奈川県)の鎌倉幕府に護送した。

ここで文観房弘真(もんかんぼうこうしん/僧侶)は拷問を受けて、等々(とうとう)に自白してしまう。

鎌倉幕府の役人…『どうだぁ、亀甲縛りで吊るされた気分はぁ!』

文観房弘真…『イヤァ〜 私を辱(はずかし)めないでぇ〜』

鎌倉幕府の役人…『この鞭(ムチ)と蝋燭(ロウソク)でタップリと痛ぶってやるぜぇ!』

バシィ バシィ

タラタラ タラタラ

文観房弘真…『あぁ〜 いいわぁ〜 もっと、しばいてぇ〜』

鎌倉幕府の役人…『ええっ〜!? この坊さん、感じてるのかぁ?』

文観房弘真…『止めないでぇ〜 何でも話すから、もっと強くお願いぃ〜』

鎌倉幕府の役人…『えええっ!? なんか俺達の思っていた方向とは違ったが、取り敢えず白状はしたなぁ。』

文観房弘真…『“鎌倉幕府討伐”の首謀者は公家の日野資朝(ひのすけとも/朝廷)と日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)の2人よぉ〜 それを指示したのは後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)なのぉ〜 あぁ〜 手を止めないで、もっと強く打(ぶ)ってぇ〜』

鎌倉幕府の役人…『なんか、調子が狂うなぁ〜』

バシィ バシィ

タラタラ タラタラ

文観房弘真…『あぁ〜 いいわぁ〜』

VAMPIRE WEEKEND /♪ HARMONY HALL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:27:22

◆◇◆其の十二:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

1185年に守護地頭(しゅごじとう)の設置により鎌倉幕府を開設し、1192年に征夷大将軍1代目に任命された源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)を影で支えたのが執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)で、娘の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)が嫁いでいる。

では、鎌倉幕府の執権を司る北条氏(ほうじょううじ)の相関図を見てみよう。

執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)の息子が執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)と大仏氏(おさらぎうじ)の祖の北条時房(ほうじょうときふさ/平氏→鎌倉)である。

執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)の息子が、執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)と政村流で執権7代目の北条政村(ほうじょうまさむら/鎌倉)と北条朝時(ほうじょうともとき/鎌倉→名越)と極楽寺流の北条重時(ほうじょうしげとき/鎌倉)である。

この頃の1221年に「承久の乱」(じょうきゅうのらん)が起こっている。

執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)の息子が、北条時氏(ほうじょうときうじ/鎌倉)である。

北条時氏(ほうじょうときうじ/鎌倉)の息子が、執権4代目の北条経時(ほうじょうつねとき/鎌倉)と執権5代目の北条時頼(ほうじょうときより/鎌倉)である。

極楽寺流の北条重時(ほうじょうしげとき/鎌倉)の息子が、執権6代目の北条長時(ほうじょうながとき/鎌倉)である。

執権5代目の北条時頼(ほうじょうときより/鎌倉)の息子が、執権8代目の北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)と北条宗政(ほうじょうむねまさ/鎌倉)である。

執権8代目の北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)の息子が、執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)である。

この頃の1274年に「文永の役」(ぶんえいのえき)または第1次の元寇(げんこう/蒙古襲来)や、1281年に「弘安の役」(こうあんのえき)または第2次の元寇(げんこう/蒙古襲来)が起こっている。

北条宗政(ほうじょうむねまさ/鎌倉)の息子かつ執権8代目の北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)の養子に入ったのが、執権10代目の北条師時(ほうじょうもろとき/鎌倉)である。

大仏氏(おさらぎうじ)の祖の北条時房(ほうじょうときふさ/平氏→鎌倉)の息子が、北条宣時(ほうじょうのぶとき/鎌倉)である。

大仏氏(おさらぎうじ)の北条宣時(ほうじょうのぶとき/鎌倉)の息子が、執権11代目の北条宗宣(ほうじょうむねのぶ/鎌倉)である。

政村流の執権7代目の北条政村(ほうじょうまさむら/鎌倉)の息子が、北条時村(ほうじょうときむら/鎌倉)である。

政村流の北条時村(ほうじょうときむら/鎌倉)の息子が、北条為時(ほうじょうためとき/鎌倉)である。

政村流の北条為時(ほうじょうためとき/鎌倉)の息子が、執権12代目の北条煕時(ほうじょうひろとき/鎌倉)である。

普恩寺流(ふおんじりゅう)の北条時兼(ほうじょうときかね/鎌倉)の息子が、執権13代目の北条基時(ほうじょうもととき/鎌倉)である。

執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)の息子が、執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)である。

この頃の1324年に「正中の変」(しょうちゅうのへん)が起こっている。

金沢流の北条顕時(ほうじょうあきとき/鎌倉)の息子が、執権15代目の北条貞顕(ほうじょうさだあき/鎌倉)である。

赤橋流の北条久時(ほうじょうひさとき/鎌倉)の息子が、執権16代目の北条守時(ほうじょうもりとき/鎌倉)で、妹の赤橋登子(あかはしとうし)は1338年に室町幕府の征夷大将軍1代目に任命された足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の妻である。

ここで鎌倉幕府が崩壊して1333年に「建武の新政」(けんむのしんせい)が第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)により実施された。

PLAIN WHITE T'S /♪ BOOMERANG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:28:15

◆◇◆其の十三:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

1310年頃、父親で執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)は、6歳余りの息子で執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)にある話しを聞かせた。

北条貞時…『息子よぉ、北条氏(ほうじょううじ)の得宗家(とくそうけ)に伝わる話しをするので、よく聞いて心に刻む様に。』

北条高時…『はい、父上!』

北条貞時…『1185年に鎌倉幕府を開設した源頼朝公を支えた執権1代目の北条時政公が、相模湾に浮かぶ江ノ島弁天(江島神社)に参拝しに行ったその夜、就寝していた時に不思議な夢を見たそうだ。』

北条高時…『どんな夢ですかぁ?』

北条貞時…『うん、その夢に江ノ島弁天(江島神社)の主祭神である弁財天(べんざいてん)が現れて御告げをしたそうだ。』

北条高時…『どんな御告げですか?』

北条貞時…『うん、其方(そなた)の家系一族を今後は倭国(日本)の主権者に就かしてあげよう。 ただし、国民が疲弊する様な悪政を行えば、子孫7代で滅亡するだろう、とぉ、こう弁財天(べんざいてん)は告げたそうだ。』

北条高時…『ええっ〜!? 北条氏(ほうじょううじ)の誰かが悪事を働けば、一族が滅亡するのですか?』

北条貞時…『アッハハハハ〜 それは悪政を執行すれば北条氏(ほうじょううじ)は滅亡するが、良政を執行すれば末永く北条氏(ほうじょううじ)は繁栄する。 政権運営にアホォが出てこない限り単純で簡単な事だぁ!』

北条高時…『よく解りました! 肝に銘じて、心して行動します。』

北条貞時…『まあ、この倭国(日本)で米不足を起こす様な政権は、間違いなく先祖子孫の一族は、弁財天(べんざいてん)に地獄へ堕とされるだろうなぁ! アッハハハハ〜』

北条高時…『瑞穂(みずほ)の国でもある倭国(日本)で、米不足なんてあり得ませんよね。 万が一にも米不足に陥れば国民を兵糧攻めにするのと変わりないから、その政権の関係者は倭国(日本)に取っての国賊(こくぞく)でしかないよねぇ。 アッハハハハ〜』

執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)の夢に現れた弁財天(べんざいてん)とは、インドで誕生した知識や音楽の神様で七福神(しちふくじん)の1神でもある。

瑞穂(みずほ)の国と呼ばれる倭国(日本)には、五穀豊穣を実らせる神様の大気都比売命(オオゲツヒメ)が宿っており、その身体からは頭から蚕(かいこ)、両目から稲、両耳から粟(あわ)、鼻から小豆(あずき)、お尻から大豆(だいず)、陰部から麦が誕生した。

では北条氏(ほうじょううじ)の得宗家(とくそうけ)の相関図を見てみよう。

得宗家1代目は執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)である。

得宗家2代目は執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)である。

得宗家3代目は執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)である。

得宗家4代目は北条時氏(ほうじょうときうじ/鎌倉)である。

得宗家5代目は執権4代目の北条経時(ほうじょうつねとき/鎌倉)である。

得宗家6代目は執権5代目の北条時頼(ほうじょうときより/鎌倉)である。

得宗家7代目は執権8代目の北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)である。

得宗家8代目は執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)である。

得宗家9代目は執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)である。

北条高時…『良かった、僕は得宗家9代目だぁ! 得宗家7代目はとっくに過ぎているなぁ。』

この北条氏(ほうじょううじ)の得宗家(とくそうけ)の相関図を見て、得宗家9代目は執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は安心していた。

DC TALK /♪ JUST BETWEEN YOU AND ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:29:12

◆◇◆其の十四:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

ところが、執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)が就寝している時に弁財天(べんざいてん)が現れた。

弁財天…『お前が7代目である!』

北条高時…『えっ!? 誰ぇ!?』

弁財天…『わしぃの忠告を無視して悪政を働きよって! 御告げ通りに北条氏(ほうじょううじ)の一族は、お前の7代目で滅亡する!』

北条高時…『えええっ〜!? えらいこっちゃ!』

どう言う事なのか?

実は弁財天(べんざいてん)と北条氏(ほうじょううじ)には、一族の算定の基準に違いがあった。

得宗家4代目の北条時氏(ほうじょうときうじ/鎌倉)は1230年に死去しており、父親で得宗家3代目の執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)が1242年に死去したよりも先に死去している為に勘定には入れない。

更に、得宗家5代目の執権4代目の北条経時(ほうじょうつねとき/鎌倉)と得宗家6代目の執権5代目の北条時頼(ほうじょうときより/鎌倉)は兄弟の為に1世代と勘定される。

この算定に基づくと北条氏(ほうじょううじ)の得宗家(とくそうけ)の相関図はこう変わる。

得宗家1代目は執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)である。

得宗家2代目は執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)である。

得宗家3代目は執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)である。

得宗家4代目は執権4代目の北条経時(ほうじょうつねとき/鎌倉)と執権5代目の北条時頼(ほうじょうときより/鎌倉)である。

得宗家5代目は執権8代目の北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)である。

得宗家6代目は執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)である。

得宗家7代目は執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)である。

弁財天(べんざいてん)が告げる通りに、執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は得宗家7代目となる。

この事実を知った北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は、その後から気が狂った様にお酒と闘犬と神楽にのめり込む様になる。

北条高時…『ウッヘヘヘェ〜 一族が滅びるぅ〜 私の代で北条氏(ほうじょううじ)が滅亡するぅ〜』

弁財天…『神の力ならば、人間ごときの一族など簡単に潰せるわぁい!』

THE SAMPLES /♪ WEIGHT OF THE WORLD

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:30:04

◆◇◆其の十五:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

北条氏(ほうじょううじ)の得宗家(とくそうけ)の真実により、執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)は自分が得宗家7代目と知ってからは気が狂った様になり、鎌倉幕府の政権運営を担う事が出来なくなった。

これにより実質的に政権運営は重鎮家臣の長崎高綱(ながさきたかつな/鎌倉)と、その息子の長崎高資(ながさきたかすけ/鎌倉)が執行する事になる。

ただ、この長崎高綱(ながさきたかつな/鎌倉)と長崎高資(ながさきたかすけ/鎌倉)の長崎親子は、執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)をはじめ北条氏(ほうじょううじ)の政権運営より悪政だった。

長崎親子が司る鎌倉幕府では、気に入らない家臣の粛清(しゅくせい)や賄賂(ワイロ)が横行した。

そして、1324年に起こった「正中の変」(しょうちゅうのへん)では、朝廷の関係者の処分は甘いと考えていた長崎高綱(ながさきたかつな/鎌倉)と長崎高資(ながさきたかすけ/鎌倉)の長崎親子は、この鎌倉幕府に対して謀反(むほん)に関しての再び審議する。

そこで裁定されたのは、日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)と日野資朝(ひのすけとも/朝廷)は死罪で、第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は隠岐国(おき/島根県)の隠岐島(おきのしま)へ配流(はいる)と決定された。

この時、日野資朝(ひのすけとも/朝廷)は前回の裁定で配流(はいる)を受けた越後国(新潟県)の佐渡島(さどがしま)に居た。

その日野資朝(ひのすけとも/朝廷)が死罪になると知った息子の阿新丸(くまわかまる)こと日野邦光(ひのくにみつ/朝廷)は、越前国(福井県)から船に乗り越後国(新潟県)の佐渡島(さどがしま)に渡った。

父親の日野資朝(ひのすけとも/朝廷)は、鎌倉幕府の家臣である本間入道(ほんまにゅうどう/鎌倉)の屋敷に幽閉されていた。

阿新丸(くまわかまる)こと日野邦光(ひのくにみつ/朝廷)は本間入道(ほんまにゅうどう/鎌倉)の屋敷を訪問して、何とか父親の日野資朝(ひのすけとも/朝廷)との面会を嘆願した。

しかし、勝手に罪人でもある父子を会わせ事が鎌倉幕府に知られると、本間入道(ほんまにゅうどう/鎌倉)としても懲罰を受ける可能性がある。

そこで本間入道(ほんまにゅうどう/鎌倉)は甥の本間三郎(ほんまさぶろう/鎌倉)に、日野資朝(ひのすけとも/朝廷)の斬首を命じて、その遺骨を息子の阿新丸(くまわかまる)こと日野邦光(ひのくにみつ/朝廷)に渡す事にした。

本間三郎…『介錯(かいしゃく)致す。 斬り捨て御免!』

バサッ バサッバサッ

日野資朝…『ウグッ!』

ゴロン

生きているうちの父親に会えなかった阿新丸(くまわかまる)こと日野邦光(ひのくにみつ/朝廷)は復習を誓い、ある暴風雨の夜に本間入道(ほんまにゅうどう/鎌倉)の屋敷に忍び込んで家主を探したが、その日は本間入道(ほんまにゅうどう/鎌倉)は留守だった。

その代わり、甥の本間三郎(ほんまさぶろう/鎌倉)が別の部屋で就寝していた為に、阿新丸(くまわかまる)こと日野邦光(ひのくにみつ/朝廷)は父親の仇打(かたきう)ちとして本間三郎(ほんまさぶろう/鎌倉)を斬首した。

その騒ぎで家中の者が集まってきた為に、阿新丸(くまわかまる)こと日野邦光(ひのくにみつ/朝廷)は庭園の竹にしがみ付き勢いよく垣根を飛び越えて逃亡した。

そこから湊まで行き、船に乗って越前国(福井県)の敦賀に寄港して京都まで帰還した。

10 YEARS /♪ WASTELAND

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:31:00

◆◇◆其の十六:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

一方、日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)は六波羅探題(ろくはらたんだい)に拘束されて、相模国(神奈川県)の鎌倉幕府に護送された。

京都の日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)の屋敷には、その妻と家臣の後藤助光(ごとうすけみつ/朝廷)が主人の先行きを心配していた。

そこへ鎌倉幕府が日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)の死罪を決定した知らせが入る。

日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)の妻は泣崩れ、渾身(こんしん)の力を振り絞り震える手で愛する夫への最後となる手紙を書いた。

その愛の手紙を携(たず)えて家臣の後藤助光(ごとうすけみつ/朝廷)は、東海道を突き進み相模国(神奈川県)の鎌倉に到着した。

しかし、その日に日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)の死刑が執行される事となっていた。

それを知った後藤助光(ごとうすけみつ/朝廷)は、旅の疲れも忘れて急いで化粧坂(けわいざか)を駆け上がり、北鎌倉にある刑場(けいじょう)の葛原岡(くずはらおか/葛原岡神社)に辿(たど)り着く。

そこには介錯人(かいしゃくにん)の工藤二郎(くどうじろう/鎌倉)が居り、後藤助光(ごとうすけみつ/朝廷)は日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)の妻から預かった愛の手紙を渡す事を男泣きで嘆願した。

その主君を思う家臣の気持ちを察した工藤二郎(くどうじろう/鎌倉)は、日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)に愛の手紙を渡す事を許可して、少しの対面の時間を与えた。

愛する妻からの手紙を読んだ日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)は、涙を浮かべながら辞世の句(じせいのく)を詠んだ。

日野俊基…『古来一句 無死無生 万萬里雲 長江水清。』⦅古来より“死もなく、生もない”という句がある。 自分も精一杯に生きたが残念ながら、万里の果てに雲が尽きる様に、今は万策尽き果てこの様な結末となった。 理想の為に力尽きたのだから、生や死に関わらず、今は少しの恨みも悔いもない。 長江の水が清らかな如(ごと)く、自分の心は一点の穢(けが)れもなく、爽(さわ)やかですらある。⦆

この後、日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)は工藤二郎(くどうじろう/鎌倉)により斬首された。

工藤二郎…『介錯(かいしゃく)致す。 斬り捨て御免!』

バサッ バサッバサッ

日野俊基…『ウグッ!』

ゴロン

そこから幾日(いくにち)が経ち、日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)の妻は出家して尼僧となり、また、家臣の後藤助光(ごとうすけみつ/朝廷)も紀伊国(和歌山県)の高野山にある真言宗(しんごんしゅう)の総本山の金剛峯寺(こんごうぶじ)に入門したと言われる。

DARDEN SMITH /♪ LOVING ARMS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:31:58

◆◇◆其の十七:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

鎌倉幕府による1324年に起こった「正中の変」(しょうちゅうのへん)の再審の決定により、朝廷軍の日野俊基(ひのたかすけ/朝廷)と日野資朝(ひのすけとも/朝廷)は斬首され、残るは第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は隠岐国(おき/島根県)の隠岐島(おきのしま)へ配流(はいる)である。

相模国(神奈川県)の鎌倉幕府から京都に向けて使者が遣(つか)わされた。

その使者は朝廷に参ると後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)と、その息子の護良親王(もりながしんのう/朝廷)に謁見(えっけん)した。

鎌倉幕府の使者…『鎌倉幕府の決定により、後日、後醍醐天皇は隠岐島(おきのしま)へ島流しとなり、御子(みこ)の護良親王は死罪となります。』

後醍醐天皇…『ええっ!? 何で朕(ちん)が流罪なのじゃ!?』

護良親王…『ウググッ、長崎高綱めぇ! 今に覚えておれぇ!!』

こうして護良親王(もりながしんのう/朝廷)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に奈良へ逃亡する様に薦め、その時はカモフラージュとして身代わりの天皇を比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)に向かわせる様にアドバイスをした。

息子のアドバイス通りに後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、御所の二条富小路殿の東方に構える陽明門(ようめいもん)から出て鴨川が流れる三条河原にて、カモフラージュとなる天皇の替え玉の花山院師賢(かさんのいんもろかた/朝廷)をロールスロイス製の牛車に乗せて北東方にある比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)に向かわせた。

そして、当の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、スバル360型の牛車に5人の侍従(じじゅう)と共にギュウギュウになりながら乗り込み、大和国(奈良県)へ南下して第45代天皇の聖武天皇(しょうむてんのう/朝廷)が建立(こんりゅう)して皇族が崇拝する華厳宗(けごんしゅう)の東大寺(とうだいじ)を定住しようとお願いするも、鎌倉幕府の報復を恐れた住職に断られる。

仕方ないので山城国(京都府)の鷲峰山(じゅうぶざん/相楽)に行在所(あんざいしょ)を設けようとするも、人を寄せ付けない険しい山岳地帯だった為に断念した。

その鷲峰山(じゅうぶざん/相楽)から少し南下した麓(ふもと)に木津川が流れる笠置山(かさぎやま/相楽)に行在所(あんざいしょ)を設ける事にした。

この地は山城国(京都府)と大和国(奈良県)と伊賀国(三重県)の国境が重なる要所でもあり、要塞と呼ばれる笠置山(かさぎやま/相楽)は合戦の軍略にも適していた。

1331年に後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の朝廷軍と対立した鎌倉幕府は、京都にて持明院統(じみょういんとう/北朝)で第93代天皇の後伏見天皇(ごふしみてんのう/朝廷)の息子の量仁親王(かずひとしんのう/北朝)を北朝初代天皇の光厳天皇(こうごんてんのう/北朝)として即位(そくい)させた。

この時、当然に“三種の神器”の贈呈の儀式はなく光厳天皇(こうごんてんのう/北朝)は践祚(せんそ)している。

この為に光厳天皇(こうごんてんのう/北朝)は、後々の歴代天皇にカウントされていない。

TYRONE WELLS /♪ PATIENCE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:32:54

◆◇◆其の十八:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)に行在所(あんざいしょ)を設けた後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の元に、朝廷軍に加入する為に続々と武将が集まってきたが、ただ、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な名だたる武将はまだ現れていなかった。

そんなある夜、就寝していた後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は不思議な夢を見た。

夢の世界は立派な宮殿があり、その庭園には大きな木が実っており、その木の南に玉座(ぎょくざ)が用意されていた。

そこに2人の天子(てんし)が現れてこう呟(つぶや)いた。

天子…『木の南に設けた玉座(ぎょくざ)は、貴方が座るのです。』

後醍醐天皇…『ハッ!』

そこで後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は目を覚ました。

後醍醐天皇…『変わった夢を見たが、これは神の御告げに違いない。 う〜〜ん、木の南と言う言葉が気になるのぉ〜 あっ! 木の南で楠(くすのき)かぁ!? 楠(くすのき)と名の付く者と共に国政を司(つかさど)れと言う暗示に違いない。』

こうして後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、侍従(じじゅう)に命じて日本全国に居る楠(くすのき)と名の付く者を探させた。

居ました。

しかも大和国(奈良県)の直ぐ横の河内国(大阪府)に。

そうです、河内国(大阪府)を領域とする猛攻武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)です。

早速、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は、大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)にある行在所(あんざいしょ)に楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)を招聘(しょうへい)した。

後醍醐天皇…『態々(わざわざ)、こんな山奥まで御足労をお掛けして申し訳ない。』

楠木正成…『いやいや、陛下にお招き頂き有難き幸せで御座います。 これは楠木氏一族の名誉でもあります。』

後醍醐天皇…『では早速、本題に入るが、鎌倉幕府を討伐して、朝廷が主体の国家体制を計るには、どうしたらよいかのぉ?』

楠木正成…『鎌倉幕府と正面に向かって戦っても勝てません! ただ、天下分け目の合戦は、武略(ぶりゃく)と智謀(ちぼう)によって勝敗が決まります。 大群勢の軍隊が勝利する訳では御座いません。』

後醍醐天皇…『おおっ〜! さすがは勇猛果敢(ゆうもうかかん)な猛攻武将として名高い楠木殿である。 朕(ちん)は心強いぞぉ!!』

楠木正成…『はっ、楠木氏一族は朝廷の為に、そして倭国(日本)の為に、この命が絶えるまで忠義を尽くします。』

こうして後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が率いる朝廷軍は、河内国(大阪府)を統治する武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)が加勢してくれる事に成功した。

JAMIE CULLUM /♪ WHEELS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:33:53

◆◇◆其の十九:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

その頃、天台宗(てんだいしゅう)の総本山である近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)にある延暦寺(えんりゃくじ)に向かった天皇の替え玉となった花山院師賢(かさんのいんもろかた/朝廷)が到着した。

そこで後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の息子の護良親王(もりながしんのう/朝廷)と対面する。

天皇が延暦寺(えんりゃくじ)を行在所(あんざいしょ)に決めた事に僧兵の山法師(やまほうし)は大いに喜び士気が高まった。

これで後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)のカモフラージュは成功した。

これは鎌倉幕府の出先機関である京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)も同じ事で、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が息子の護良親王(もりながしんのう/朝廷)を頼り比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)に逃避したと思い込んだ。

こうして六波羅探題(ろくはらたんだい)の幕府軍六波羅隊は近江国(滋賀県)の琵琶湖の唐崎浜(からさきはま)に侵攻した。

それを迎え討つのが朝廷軍延暦寺隊の護良親王(もりながしんのう/朝廷)と山法師(やまほうし)で、激戦の末に朝廷軍延暦寺隊が勝利した。

この合戦で幕府軍六波羅隊が敗北した事が日本各地の武将に知れ渡り、鎌倉幕府より朝廷に寝返る武将も現れる様になる。

ただ、そんな時に朝廷軍延暦寺隊の山法師(やまほうし)に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が偽物(ニセモノ)の替え玉だった事が発覚する。

命を掛けた戦(いくさ)が、実は別人の花山院師賢(かさんのいんもろかた/朝廷)だった事に落胆した山法師(やまほうし)は、士気が低下して朝廷軍延暦寺隊の戦線を離脱する者も現れた。

この最悪の状況下に立場を失った護良親王(もりながしんのう/朝廷)は、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)から退避して大和国(奈良県)へ向かう。

BRUCE ROBERTS /♪ WHEN LOVE GOES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友 URL

2025/04/15 (Tue) 05:34:48

◆◇◆其の二十:日本の歴史レディオショー/太平記◆◇◆

近江国(滋賀県)の琵琶湖の唐崎浜(からさきはま)で敗北した幕府軍六波羅隊は、名誉挽回とばかりに大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)に行在所(あんざいしょ)を設けた後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が率いる朝廷軍に侵攻を開始する。

先(ま)ず幕府軍六波羅隊は、山城国(京都府)の宇治にある藤原氏に所縁(ゆかり)ある平等院(びょうどういん)に陣営を設けた。

そこで武将の高橋又四郎(たかはしまたしろう/鎌倉)と小早川景宗(こばやかわかげむね/鎌倉)が先陣争いを起こし、幕府軍六波羅隊の軍略を無視して勝手に大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)に進軍した。

ところが、笠置山(かさぎやま/相楽)は断崖絶壁が連なる山岳地帯で、山の麓(ふもと)から進撃するには不利な条件が整っていた。

結果、高橋又四郎(たかはしまたしろう/鎌倉)と小早川景宗(こばやかわかげむね/鎌倉)が率いた幕府軍六波羅隊先陣団は、山頂に布陣する朝廷軍に総攻撃を受けて壊滅して敗北した。

命からがら山城国(京都府)の宇治にある平等院(びょうどういん)に敗走した。

ただでさえ、近江国(滋賀県)の琵琶湖の唐崎浜(からさきはま)で朝廷軍延暦寺隊に敗北しているのに、この大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)での敗北は幕府軍六波羅隊に取って大きな痛手となった。

そこで再度の名誉挽回で、幕府軍六波羅隊は先制攻撃に出た。

大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)の周囲を包囲した幕府軍六波羅隊だが、山岳地帯に囲まれた笠置山(かさぎやま/相楽)の山頂に陣営を設ける朝廷軍を簡単に攻略する事は出来ない。

ここで幕府軍六波羅隊は、相模国(神奈川県)の鎌倉幕府に援軍の要請をする。

鎌倉幕府はこの援軍要請に応え、東国の武将を集結させて大群勢で西国に進行させた。

その東国の武将の中に下野国(しもつけ/栃木県)の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と上野国(こうずけ/群馬県)の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が居た。

足利尊氏…『いざぁ、鎌倉!』

新田義貞…『う〜〜ん、あまり気乗りしないなぁ〜』

相模国(神奈川県)の鎌倉を出陣した幕府軍鎌倉隊は東海道を西方に進行した。

この情報は大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)に布陣する幕府軍六波羅隊に届いた。

その幕府軍鎌倉隊がもう直ぐ到着する事を知った幕府軍六波羅隊に属する武将の陶山義高(すやまよしたか/鎌倉)と小宮山次郎(こみやまじろう/鎌倉)は、この合戦の手柄を幕府軍鎌倉隊に持ってかれたら武功が貰えないと考える。

そこで陶山義高(すやまよしたか/鎌倉)と小宮山次郎(こみやまじろう/鎌倉)が率いる幕府軍六波羅隊別働団は、暴風雨の中を険しい笠置山(かさぎやま/相楽)の山道を登り、いかにも朝廷軍の武士のフリをして陣営に忍び込む事に成功した。

陶山義高…『ご苦労さん、何か異常は無いかぁ!』

朝廷軍の武士…『あっ、はい、こんな雨風の激しい時なので、幕府軍も動けないでしょう。』

小宮山次郎…『馬鹿者っ! こう言う時こそ夜襲を仕掛けるかも知れんのだぁ! 気を引き締めて監視をする様にぃ!』

朝廷軍の武士…『はっ、はい! 軍曹殿、申し訳ありませんでしたぁ!』

こうして陶山義高(すやまよしたか/鎌倉)と小宮山次郎(こみやまじろう/鎌倉)が率いる幕府軍六波羅隊別働団は、まんまと後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が居住する御所まで辿(たど)り着いた。

そして建物に火を放ち笠置山(かさぎやま/相楽)全体を炎上させた。

これに驚いた朝廷軍は、急いで笠置山(かさぎやま/相楽)から下山して、散(ち)り散(ぢ)りに逃げまとった。

この騒ぎに笠置山(かさぎやま/相楽)を包囲していた幕府軍六波羅隊も一気に進撃して朝廷軍は敗北し、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は拘束された。

これを1331年に起こった「笠置山の戦」(かさぎやまのたたかい)と呼ぶ。

WET WET WET /♪ JULIA SAYS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20250415 - ラジオの友

2025/05/04 (Sun) 15:49:24

工事中

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