都市空間計画区域

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今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/08 (Thu) 17:40:40

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【中尊寺金色堂の仏像】
https://m.youtube.com/watch?v=Shumm2M_QZ4

日本古代は九州から近畿へと文明文化が流れ、朝廷や武家などが誕生し、日本の骨格を形成していった。

ただ、近畿より東側、特に関東から東の東北地方は未開の地であり、西日本では“蝦夷”(えみし)と呼ばれ、朝廷がある西日本とは別の独立国家が形成されていた。

そのため奈良時代の朝廷は、九州は福岡県の“太宰府”、近畿は奈良県の“平城京”、東北は宮城県の“多賀城”を配置して日本列島を統治していた。

これらは“日本三大史跡”と言われる。

神武天皇の“神武東征”や朝廷から権限を与えられる“征夷大将軍”は、この東国の“蝦夷”(えみし)を統制する意味がある。

そして幾多の動乱があり、東北地方は陸奥国(むつのくに/青森県、岩手県、宮城県、福島県)と出羽国(でわのくに/秋田県、山形県)に分けられた。

今でも陸奥(みちのく)、奥州、奥の細道などと呼ばれ、人々が簡単に入る事の許されない日本の神秘的な奥街道を想像させてくれる。

そんな東北地方での人の営みは、陸奥国(むつのくに/青森県、岩手県、宮城県、福島県)は安倍氏、出羽国(でわのくに/秋田県、山形県)では清原氏が土地を治めていた。

そして東北人として忘れてならないのが、そう、“奥州藤原氏”である。

“藤原氏”と言えば藤原鎌足(中臣鎌足)が源流だが、“奥州藤原氏”はその先祖の藤原秀郷(俵藤太)で“天下一の弓取り名人”と言われた系統で、近江国(滋賀県)の琵琶湖近くで巨大百足(オオムカデ)を弓矢で射止め、琵琶湖に住む竜王(りゅうおう)を助けた伝説がある。

その後の平安時代には、陸奥国(岩手県)に拠点を移していた。

“奥州藤原氏”の源流は、藤原清経(ふじわらきよつね)から、第1代の藤原清衡(ふじわらきよひら)、第2代の藤原基衡(ふじわらもとひら)、第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)、第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)と続き、ここで滅亡してしまう。

原因は鎌倉時代に“征夷大将軍”となった源頼朝が、謀反人の源義経を匿(かくま)った事を口実に、“奥州藤原氏”の領土の奥州平泉の肥沃な土地を侵略する事にあったと言う。

奥州平泉は、豊富な金鉱山(きんこうざん)があり、立派で丈夫な馬が育ち、広大な田畑が広がり、美しい寺院と都市街区が形成されていた。

源頼朝の祖先の代から目を付けていた土地でもある。

その奥州平泉には第1代の藤原清衡(ふじわらきよひら)が“中尊寺”(ちゅうそんじ)を建造し、“金色堂”(こんじきどう)などが配置された。

第2代の藤原基衡(ふじわらもとひら)が“毛越寺”(もうつじ)を建造した。

第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)が“無量光院”(むりょうこういん)を建造し、京都は宇治市に建つ“平等院鳳凰堂”を模した寺院があったとされる。

藤原道長(ふじわらみちなが)の別荘として、藤原頼道(ふじわらよりみち)が寺院として手掛けた山城国(京都府)の“平等院鳳凰堂”。

藤原鎌足(中臣鎌足)と藤原不比等(ふじわらふひと)など“藤原氏”ゆかりの菩提寺(ぼだいじ)でもある大和国(奈良県)の“興福寺”。

“藤原氏”は“仏教文化”に造詣が深く興隆(こうりゅう)や繁栄に貢献し、その後、京都奈良を中心にお寺が日本全国に広まっていく。

その1つでもある奥州平泉は“仏教王国”の真髄(しんずい)とも言える。

神話起源の九州から出雲、近畿に渡る西日本が“神之国”(かみのくに)なら、奥州平泉を中心とした東日本は“仏乃国”(ほとけのくに)と言えよう。

東北地方の奥深い山々と広大な大地、その陸地に寄り添う大海原は、まさに“極楽浄土”(天国)を具現化している。

この地で生きる者すべてに、救いの手を差し伸べてくれる仏様。

それを天界から温かく見守る神様。

厳しい東北の土地で生き抜く人々には、その後の“成仏”や“往生”(おうじょう)が約束されている。

ただ近年、“仏乃国”(ほとけのくに)と言われる東北地方の人口は、青森県が124.9万人、秋田県が96.6万人、岩手県が122.9万人、宮城県が230.6万人、山形県が108万人、福島県が184.8万人の総計867.8万人と、日本人口1億2570万人のわずか6.9%と年々減少している。

高天原(たかまがはら/天界)の神様が定めた黄泉の国(よみのくに/天国)への成仏比率は、日本では“仏乃国”(ほとけのくに)の東北地方の人口比率を参考にしている。

日本では仏教から救われたい人々の数がこれだけ減り続ける事に、これには“お釈迦様”も危惧している。

“お金”や“スマートフォン”は手放せないが、“極楽浄土”(天国)は必要ないのが、現代の日本人なのかも知れない。

STEVIE NICKS /♪ STOP DRAGGIN' MY HEART AROUND

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/08 (Thu) 17:49:40

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【奈良の富雄丸山古墳】
https://m.youtube.com/watch?v=OSuMeMYG90w

弥生時代から飛鳥時代にかけて大和国(奈良県)では数多くの遺跡が発見されている。

古墳や館跡(やかたあと)などの建造物、そして地中から土器などの調度品や埋葬品が見つかっている。

その中には“古事記”や“日本書紀”の神話に基づくものや、聖徳太子など天皇家にまつわるものまである。

この時代、その調度品や埋葬品には“鏡”が多く存在する。

現代での“鏡”の役割は、“我”の姿を確認するもので、いわゆる「身だしなみチェック」に用いられる。

では、古代ではどうだったのか?

現代と同じように“鏡”は「身だしなみチェック」の道具に過ぎなかったのだろうか。

それならば、古墳などにわざわざ収める必要は無い気がする。

実は“鏡”とは、“我”の姿を映すだけでなく、神聖なものである。

まず、“鏡”をひらがなに直すと“かがみ”になる。

この“かがみ”の両端と真ん中に分けると“かみ”と“が”になる。

再び漢字に戻すと“神”と“我”となる。

要は“我”、即(すなわ)ち“あなた自身”は常に“神”に挟まれていると言う意味である。

この地で生きている限り、常に“神”に見られており、さらに“神”から逃れる事はできない。

それが“鏡”となって表現されている。

天皇の証でもある“三種の神器”の“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)と“八咫鏡”(やたのかがみ)と“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)の中の1つは“鏡”である。

毎日、“鏡”を見て、気付く事はなかろうか?

“鏡”の中の“我”は、常に左右反対となっている。

右手は左に映り、左手は右に映っている。

“鏡”の世界では、人間界とは反対の営みがある。

これは、“鏡”の外側が現生で、“鏡”の内側が“神”の世界となっている。

そのため、人間の見る目や常識と、“神”の見る目や常識は真逆と考えていい。

「善と悪」

「生と死」

「天と地」

「朝と夜」

「陽と陰」

「明と暗」

「有と無」

「美と醜」

「栄と衰」

「楽と苦」

「喜と哀」

「笑と悲」

「勝と敗」

「得と損」

「甘と辛」

「表と裏」

「吉と凶」

「祝と呪」

「白と黒」

「上と下」

「左と右」

「前と後」

「大と小」

「多と少」

「長と短」

「強と弱」

「広と狭」

「重と軽」

「正義と悪意」

「良心と邪心」

「必然と偶然」

「増殖と消滅」

「繁栄と滅亡」

「平和と戦争」

「事実と妄想」

「真実と虚偽」

「正解と誤解」

「安心と不安」

「安定と散漫」

「認可と否認」

「優良と不良」

「幸福と不幸」

「長寿と短命」

「富裕と貧困」

「成長と停滞」

「便利と不便」

「賢者と愚者」

「大人と子供」

これら二律相反するものの真意を理解できなければ、“鏡”という実体には永遠に掴(つか)めないであろう。

もう一度、“我”の姿を“鏡”でよくご覧になって下さい。

思ってもいない“我”の姿が映るかも知れません。

Dolly Parton /♪ World On Fire

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/08 (Thu) 17:52:15

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【天下布武はここ岐阜市から】
https://m.youtube.com/watch?v=wpGsW6-D3vM

織田信長…『鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス。』

豊臣秀吉…『鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス。』

徳川家康…『鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス。』

尾張国および三河国の戦国武将である“三英傑”(さんえいけつ)の“人物像”を表したと言われる名句。

よく歴史上人物で、この人はこんな性格だったから、この様な発言をし行動をしたと語られる。

歴史家や学者などが古文書や伝来などを紐解き、歴史上人物の性格を確定させている。

果たして、本当にその様な“人物像”だったから、その実績があるのか?

現代でも様々な性格の人が、各々の発言や行動を起こし、社会は運営され歴史が刻まれている。

ただ、この現代社会で、自分の“本当の性格”を全て曝(さら)け出して生きている人が何人いるだろうか?

お客さんやクライアント(取引先)、会社の上司や部下など様々な人達と関わる社会で、自分の“本音”や“思想”を押し殺さずに立ち振る舞っている者が居るなら、そんな人に会ってみたい。

おそらく世界中を探しても、数十人いるかどうかである。

歴史上人物も同じで、性格が“丸裸”の者でなければ“本来の人物像”は分からないのではないか?

例えば、美濃国(岐阜県)の岐阜城を居城とした織田信長が、趣味で長良川の河川沿いで“うどん屋”を開店させたとする。

「麺処 のぶさん」

当然、主君が“うどん屋”を開いたとあっては、豊臣秀吉と徳川家康は毎日の様に食べに来る。

主なお品書(メニュー)は以下の通りである。

のぶさんの絶対お薦め「きしめん」450円

関西風「キツネうどん」450円

江戸前「天ぷらソバ」450円

名古屋名物「味噌煮込みうどん」750円

全てにお稲荷さん2個、又は、おむすび2個が付きます。

尾張国の名古屋出身でもある豊臣秀吉は、店主の織田信長への忠誠心は一入(ひとしお)で、毎回、のぶさんの絶対お薦め「きしめん」450円を注文する。

一方、三河国の岡崎出身でもある徳川家康は、岡崎城から八丁(872m)離れた所で作られる赤味噌が大好物。

当然、赤味噌仕立ての汁(つゆ)が麺に絡(から)まる名古屋名物「味噌煮込みうどん」750円を注文したい所だが、店主で主君の織田信長に気を使いつつ忖度(そんたく)し、つい、のぶさんの絶対お薦め「きしめん」450円を注文してしまう。

これをジッと見ていた使用人(アルバイト)の森蘭丸は、“信長公記”(しんちょうこうき)に『豊臣秀吉および徳川家康は、織田信長が作る450円の「きしめん」を好んで食べた。』と記述するであろう。

その500年後に、現代の歴史家や学者が“信長公記”(しんちょうこうき)を読み解き、豊臣秀吉および徳川家康は「きしめん」が大好物と結論付けてしまう。

豊臣秀吉は良いとしても、徳川家康は本当は750円出してでも赤味噌に塗(まみ)れた「味噌煮込みうどん」を食べたかったとまでは読み解けない。

この事から、歴史上に実際に起こった出来事は参考にはなるが、その当事者の“思い”や“性格”まではあまり当てにはならない気がする。

これは現代でも言える事。

人はその出来事で、すぐにその当事者の“思い”や“性格”を分析して結論付けたがるが、それを導いたからといって、生きていく上で何の役にも立たない事も、頭の隅に置いた方が宜しいかと思う。

織田信長…『人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり、一度(ひとたび)生(せい)を享(う)け、滅(めっ)せぬもののあるべきか。』(敦盛/あつもり)

短い人生、他人の分析よりも、まず、自分の分析の方が先であろう。

TEXAS /♪ After All

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/08 (Thu) 17:53:39

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【海外も注目、魅力ある山口市】
https://m.youtube.com/watch?v=SyhHYdOlFhE

アメリカの“ニューヨークタイムズ”によると、「2024年に世界で行くべき都市」の世界第3位が“山口市”だった。

この結果に、当の山口市民が一番驚きを隠せていない。

日本人でもちょっと『えっ!? 山口市?』となり、中には山口市が日本の何処(どこ)にあるのかすら知らない人も居るであろう。

イギリスの最大手銀行のHSBCが世界中の富裕層に調査した「山口と言えばランキング」がある。

堂々の1位は昭和のアイドル“山口百恵さん”だった。

2位は神戸に本拠地を置き日本中にフランチャイズチェーンを構築する極道組織の“山口組”である。

3位はお笑いコンビのドンドコドンの“山口智充さん”(ぐっさん)で2位とは僅差だった。

4位は山口と言う名前ではないもののサソリ固めやリキラリアットでお馴染みのプロレスラーの“長州力さん”と答えた強者(つわもの)も多くいる。

5位は尾張国(愛知県)の家督を継いだばかりの織田信長を見切って駿河国(静岡県)の大名の今川義元に味方するも、その今川義元に謀反を疑われて切腹した鳴海城の城主だった父親の山口教継(やまぐちのりつぐ)と息子の山口教吉(やまぐちのりよし)の山口親子と答えた日本戦国史マニアも多数いた。

ただ、どこにも出てこない。

そう、日本本州の最西端にある“山口県山口市”が!

“山口”と言う名称は、世界的に見ても街と言う認識が薄い。

だからと言って“残念な街”と早合点(はやがてん)してもらっては困る。

山陽新幹線の駅も広島側から新岩国駅、徳山駅、新山口駅、厚狭駅(あさえき)、新下関駅と5つもある。

山口県には素晴らしい街が幾つも存在する。

“オスプレイ”で騒(ざわ)ついた岩国市。

元は徳山市だった周南市(しゅうなんし)。

ニューヨークタイムズに掲載され山口県庁がある山口市。

広大な草原と岩(カルスト)が広がる“秋吉台”の美祢市(みねし)。

化学工場を手掛ける“宇部興産”の本社がある宇部市。

“てっちり”や“てっさ”の“フグ”と言えば下関市。

軍艦の名前にもなった長門市(ながとし)。

そして、真打(しんうち)の“長州藩”が置かれた萩市である。

ニューヨークタイムズがお薦めする山口市だけでなく、山口県全体に行かなければ、この良さは100%伝わらないであろう。

CHRISTINE McVIE /♪ GOT A HOLD ON ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/08 (Thu) 17:55:48

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【毛利元就の子孫と馬】
https://m.youtube.com/watch?v=gBFZeuH0Clg

思い返せば平安時代末期の1185年の“壇ノ浦の戦”。

「逃げる平氏に、追う源氏。」

相模国(神奈川県)の鎌倉から源頼朝(みなもとのよりとも)の指示により、異母兄弟の源範頼(みなもとのよりのり)と源義経(みなもとのよしつね)は長門国(山口県)の壇ノ浦の海峡まで攻め入った。

海に浮かぶは平氏軍の無数の舟。

その舟には平清盛(たいらのきよもり)の息子の平宗盛(たいらのむねもり)と平知盛(たいらのとももり)、そして妻の平時子(たいらのときこ)と孫で第81代天皇の安徳天皇(あんとくてんのう)が乗っている。

それに対して源氏軍による、陸から海からの容赦ない総攻撃。

『平氏よこれまでかっ、無念!』

そう言って平氏一族は、壇ノ浦の海へと消えていった。

その時に平氏が持参していた“三種の神器”のうち“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)だけがどうしても見つからない。

心当たりのある方は、“宮内庁”もしくは“熱田神宮”までご連絡ください。

そこから時を重ねて1600年の“関ヶ原の戦”。

西軍の総大将に担ぎ出された安芸国(広島県)の大名の毛利輝元(もうりてるもと)は、東軍の徳川家康より敗北の責任を取らされ長州藩(山口県)に国替される。

毛利輝元(もうりてるもと)は、安芸国(広島県)を中心に中国地方の最大勢力を誇った戦国大名の毛利元就(もうりもとなり)の孫である。

豊臣秀吉が存命時には“五大老”(ごたいろう)として、徳川家康、前田利家、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利氏)〔後は上杉景勝となる。〕の1人でもあった。

そのため“関ヶ原の戦”に負けた敗軍とは言え、毛利輝元(もうりてるもと)をはじめとする毛利氏一族の落胆は大きかったと感じる。

当時の山口県は日本海を長門国(ながとのくに)、瀬戸内海を周防国(すおうのくに)に分けられていたが、長州藩はこの2国を所領していた。

その後、江戸時代の長州藩は代々に渡り毛利氏が守護している。

第13代長州藩主&毛利氏27代当主の毛利敬親(もうりたかちか)と養子で第14代長州藩主&毛利氏28代当主の毛利広封(もうりひろあつ)の時代の幕末になると、長州藩は世界的な時(とき)の激流に巻き込まれていく。

1863年、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの艦隊が長門国(ながとのくに)の海域から総攻撃を仕掛けた“馬関戦争”(ばかんせんそう/下関戦争)。

この事により朝廷と“江戸幕府”による1864年の“第1次・長州征伐”と1866年の“第2次・長州征伐”(中止)が起こる。

“第1次・長州征伐”では、“江戸幕府”は“馬関戦争”(ばかんせんそう/下関戦争)の戦争責任を要求し、長州藩は第13代長州藩主&毛利氏27代当主の毛利敬親(もうりたかちか)と養子で第14代長州藩主&毛利氏28代当主の毛利広封(もうりひろあつ)の隠居と、萩城から移転したばかりの山口城の一部取壊しを実施した。

長州藩の態度に不満を抱く朝廷と“江戸幕府”は“第2次・長州征伐”を実行に移そうとするが、大坂城で第14代将軍の徳川家茂が20歳と言う若さで病死する。

さらに不幸は続き、第121代天皇の孝明天皇(こうめいてんのう)が崩御(ほうぎょ)したため“第2次・長州征伐”は中止となる。

長州藩は、不遇とも言えるこの反動で“明治維新”の表舞台に進んで行ったとも見える。

ちなみに長州藩のご近所の岩国藩主は毛利氏系統の吉川経幹(きっかわつねもと)が就任している。

Alanis Morissette /♪ HEAD OVER FEET

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/08 (Thu) 17:57:59

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【そうだ!山口市に行こう!】
https://m.youtube.com/watch?v=wvTuhbJomyk

この頃の長州藩の領地でもある長門国(ながとのくに)と周防国(すおうのくに)には、数多くの偉人が輩出されている。

毛利氏の側近の吉田松陰(よしだしょういん)は萩で“松下村塾”(しょうかそんじゅく)を開き、若者や後世の教育や新しい時代への対応に力を入れていた。

“松下村塾”(しょうかそんじゅく)の門下生には、木戸孝允(きどたかよし/桂小五郎)、高杉晋作、伊藤俊輔(伊藤博文)、前原市誠(まえはらいっさい)、品川弥二郎などが居た。

ただ、長州藩武士の吉田松陰(よしだしょういん)は、“江戸幕府”の大老の井伊直弼(いいなおすけ)の謀略(ぼうりゃく)にはまり、1858年の“安政の大獄”(あんせいのたいごく)で拘束され、後に斬首されている。

この事件により“松下村塾”(しょうかそんじゅく)の門下生や、吉田松陰(よしだしょういん)の勇士や弟子でもある中谷正亮(なかたにしょうすけ)、入江九一(いりえくいち)、吉田稔麿(よしだとしまろ)、中村道太郎、久坂玄瑞(くさかげんすい)などは嘆き悲しんだ。

弟子…『師匠よ、必ずや報復致す事を、此処(ここ)に誓うぞっ!』

吉田松陰…『頼むぞ弟子達よっ! わしの無念を晴らしてくれっ!』

その後の1860年、“江戸幕府”の大老の井伊直弼(いいなおすけ)は“桜田門外の変”で暗殺されてしまった。

弟子…『師匠よ、ちょっと計画違いですが、水戸藩(茨城県)と薩摩藩(鹿児島県)が仇(かたき)を取ってくれましたぞっ!』

吉田松陰…『お前らが仇討ち(かたきうち)したんっ、ちゃうんかぁ〜いっ!!』

この時代の朝廷と“江戸幕府”には不穏な空気が漂っていた。

1864年、会津藩(福島県)管轄の京都護衛に就いてた近藤勇や土方歳三らが率いる新撰組が、京都は三条の“池田屋”で長州藩などの会合に乱入し襲撃した。

この時、会合に参加していた長州藩の木戸孝允(きどたかよし/桂小五郎)は逃げたが、他の藩士はほとんど斬殺された。

俗に言う“池田屋事件”である。

1866年、長州藩の木戸孝允(きどたかよし/桂小五郎)と薩摩藩(鹿児島県)の西郷吉之助(西郷隆盛)は、“江戸幕府”を討伐するため朝廷を担ぎ出し、『“菊花紋”を掲げ、我らこそ朝廷軍』として“薩長同盟”を締結する。

1867年、“江戸幕府”の第15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は『徳川幕府再興は、こりゃ無理だっ!』と悟り、権力を朝廷に返上し“大政奉還”する。

ここで長州藩の重鎮だった高杉晋作が病死してしまう。

その年、京都は河原町の“近江屋”で土佐藩(高知県)を脱藩した坂本龍馬と中岡慎太郎が、何者かに暗殺される。

俗に言う“近江屋事件”である。

犯人は未(いま)だ見つかっておらず、京都府警は懸賞金3千円で情報提供を呼び掛けている。

ただ、“江戸幕府”が事実上に崩壊した後も、“薩長同盟”の戦争機運は収まらず、1868年、京都から勃発した“鳥羽伏見の戦”から“戊辰戦争”(ぼしんせんそう)に突入する。

日本中を戦火に巻き込み、蝦夷国(北海道)の五稜郭にて、“江戸幕府”で最後まで抵抗した榎本武揚(えのもとたけあき)は降参し、新撰組の土方歳三は討死する。

1868年、此処(ここ)にて明治時代が幕開けする。

ここまでの長州藩の主要人物は、木戸孝允(きどたかよし/桂小五郎)、広沢真臣(ひろさわさねおみ)、山県有朋(やまがたありとも)、大村益次郎などが揃っている。

こうして見ると、1600年の“関ヶ原の戦”で敗軍の大将として毛利輝元(もうりてるもと)の安芸国(広島県)一帯から長門国(ながとのくに)と周防国(すおうのくに)に国替えさせられ、長州藩(山口県)の領主として毛利氏が代々引き継ぐも遺恨(いこん)も残したまま、260年の時を経て徳川家康の子孫や徳川氏一族に対する報復とも読み取れる。

先代の毛利元就(もうりもとなり)は、これをどう見て、どう感じるのか?

毛利元就(もうりもとなり)は、長男の毛利隆元(もうりたかもと)、次男の吉川元春(きっかわもとはる)、三男の小早川隆景(こばやかわかげかつ)の3人の息子の前で、こう言い伝える。

毛利元就…『見よっ、この“弓矢”を3本束ねれば折る事は難しいだろう。 ただ、この3本の“弓矢”は今では最強の武器だが、いずれ海の向こうから“火縄銃”(種子島)が入ってきて遠くからでも簡単に人を狙撃して倒せる様になる。 そこから100年の間に“アームストロング砲”や“機関銃”が開発され一度に大勢の人を討ち倒す事ができる。 人間の欲望は計り知れず“軍艦”や“戦闘機”により海から空から“爆弾”で狙った地域一帯を効率的に破壊する事ができようぞっ! その時に我が安芸国(広島県)もその“爆弾”により世にも恐ろしい光景となる。 ここまでしても人間の破壊行為は飽き足らず、“細菌兵器”にまで手を染めて血を流すこと無く人類を滅亡させる事もできる軍力を持つ様になる。 いいかっ! たった3本の“弓矢”とて、これを放置すれば“未来の地球”は取り返しの付かない事になるんだぞっ! 我々の代で人間同士の醜い争いを終わらせ、武器を開発しなくてもよい国土にしなければならないっ!!』

3人の息子…『ラジャー!!(了解)』

令和と言う時代、山口県と広島県をゆっくり巡って、“本当の平和”を考える必要があるのかも知れない。

MEREDITH BROOKS /♪ BITCH

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/09 (Fri) 01:29:55

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【多賀城の南門復元】
https://m.youtube.com/watch?v=Vdw-TiG_WpA

710年、飛鳥時代から奈良時代に移行し、大和国(奈良県)に“平城京”が築かれる。

政治を司(つかさど)るのは天皇をはじめとした朝廷により行われ、広い日本列島を統括するため九州は筑前国(福岡県)に“太宰府”、東北は陸奥国(宮城県)に“多賀城”が設けられた。

この陸奥(みちのく)で724年に築かれた“多賀城”は創建1300年の節目を迎える。

“多賀城”と言えば京都に“平安京”が置かれた平安時代の1051年に起こった「前九年の役」(ぜんくねんのえき)が思い出される。

国府の役人の藤原登任(ふじわらなりとう)や、その後、京都から参った“鎮守府将軍”の源頼義(みなもとよりよし)が“多賀城”を拠点とする。

この地には大百足(おおむかで)退治で名を馳せた藤原秀郷(ふじわらひでさと)の子孫でもある藤原経清(ふじわらつねきよ)や、平永衡(たいらながひら)などの豪族が力を強めていた。

それとは別に朝廷の力の及ばない“蝦夷”(えみし)と言われる豪族が領地を支配し、陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県)は安倍頼良(あべよりよし)の一族、出羽国(秋田県、山形県)は清原武則(きよはらたけきよ)の一族が治める。

“多賀城”を拠点とする国府の藤原登任(ふじわらなりとう)は、藤原経清(ふじわらつねきよ)と平永衡(たいらながひら)を敵対させて力を弱めようと考えていた。

藤原登任(ふじわらなりとう)は平永衡(たいらながひら)に加担して藤原経清(ふじわらつねきよ)を追い込もうとするも、藤原経清(ふじわらつねきよ)は“蝦夷”(えみし)の豪族である安倍頼良(あべよりよし)の娘の阿古女(あこめ)と結婚する。

その子供が“奥州藤原第1代”となる藤原清衡(ふじわらきよひら)である。

国府の藤原登任(ふじわらなりとう)は“蝦夷討伐”(えみしとうばつ)を掲げ、安倍頼良(あべよりよし)を攻撃する。

現在の宮城県大崎市にある鬼首(おにこうべ)で朝廷軍と安倍軍は激突し、安倍頼良(あべよりよし)の軍隊が勝利する。

藤原登任(ふじわらなりとう)は“平安京”に逃亡し朝廷に泣きつく。

朝廷は“陸奥平定”のため源頼義(みなもとよりよし)を“鎮守府将軍”として“多賀城”に送り込む。

“多賀城”を拠点に源頼義(みなもとよりよし)は息子の源義家(みなもとよしいえ)と共に、大軍勢で安倍頼良(あべよりよし)の軍隊を攻撃する。

それでも安倍頼良(あべよりよし)は息子の安倍貞任(あべさだとう)と安倍宗任(あべむねとう)と共に軍隊を率いて反撃し勝利する。

雪国での戦(いくさ)に慣れていない源頼義(みなもとよりよし)は、出羽国(秋田県、山形県)の清原武則(きよはらたけきよ)に援軍を依頼する。

一方、朝廷の家臣でもある藤原経清(ふじわらつねきよ)は、親族となった義父でもある安倍頼良(あべよりよし)に味方する。

これにより「安倍・藤原VS源・清原」の構図となる。

その間、安倍頼良(あべよりよし)は津軽半島の宇曽利(うそり)に行く途中、安倍氏一族の裏切りに遭い討死する。

安倍頼良…『♪凍えそうなカモメ見つめ泣いていました あぁああぁ〜 津軽海峡 冬ぅ〜景色ぃ〜』(♪津軽海峡冬景色)

これが安倍頼良(あべよりよし)の最後の言葉である。

岩手県から宮城県に流れる北上川(きたかみがわ)の一帯で両軍による死闘が繰り広げられ、源・清原軍が勝利し、安倍・藤原軍が敗れる。

これにより、藤原経清(ふじわらつねきよ)は斬首、安倍貞任(あべさだとう)は戦死、安倍宗任(あべむねとう)は九州に流刑となる。

“多賀城”を中心に陸奥国と出羽国を巻き込んだ「前九年の役」(ぜんくねんのえき)は終結する。

ここにて陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県)の“蝦夷”(えみし)で豪族だった安倍氏は消滅する。

ちなみに藤原経清(ふじわらつねきよ)の先代の藤原秀郷(ふじわらひでさと)は、平清盛(たいらのきよもり)の先代の平貞盛(たいらのさだもり)と共に、“坂東八州”(ばんどうはっしゅう)を治めた平将門(たいらまさかど)を討伐している。

その藤原経清(ふじわらつねきよ)の子孫で“ 奥州藤原第4代”の藤原泰衡(ふじわらやすひら)かつ平清盛(たいらのきよもり)は、共に“鎌倉幕府”の源頼朝(みなもとのよりとも)かつ北条政子(ほうじょうまさこ)の父親の北条時政(ほうじょうときまさ)に滅ぼされている。

また、源義家(みなもとよしいえ)の子孫が、北条時政(ほうじょうときまさ)の子孫で第14代将軍だった北条高時(ほうじょうたかとき)かつ、足利尊氏(あしかがたかうじ)の親族でもある第16代将軍だった北条守時(ほうじょうもりとき)の“鎌倉幕府”を壊滅させた上野国(群馬県)の新田義貞(にったよしさだ)と、“室町幕府”を創建した下野国(栃木県)の足利尊氏(あしかがたかうじ)である。

平氏系の織田信長と豊臣秀吉など尾張国(愛知県)組が、足利尊氏(あしかがたかうじ)の子孫で第15代将軍だった足利義昭(あしかがよしあき)の“室町幕府”を崩壊させている。

その尾張国(愛知県)組で関白および太閤となった豊臣秀吉の息子の豊臣秀頼(とよとみひでより)を、三河国(愛知県)組で“江戸幕府”を開いた徳川家康が崩壊させ、さらに“関ヶ原の戦”で敗軍の大将として毛利輝元(もうりてるもと)を安芸国(広島県)一帯から長門国(ながとのくに)と周防国(すおうのくに)に国替えさせ、長州藩(山口県)の藩主となっている。

そこから毛利輝元(もうりてるもと)の子孫で第13代長州藩主&毛利氏27代当主の毛利敬親(もうりたかちか)と養子で第14代長州藩主&毛利氏28代当主の毛利広封(もうりひろあつ)の長州藩は薩摩藩(鹿児島県)などと共に、徳川家康の子孫で第15代将軍だった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の“江戸幕府”を崩壊させた。

この千年近くに掛けて渦巻く“遺恨”(いこん)や“怨念”の恐ろしさよ。

IREKE feat.Agnes Helene /♪ Petit a Petit

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/09 (Fri) 01:31:30

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【創建1300年の多賀城】
https://m.youtube.com/watch?v=O5RW1jBeJg0

藤原経清…『♪ここでぇ一緒にぃ〜 死ぃねたらぁ〜いいとぉ〜 すがる涙のぉ〜いじらしさぁ〜  たとえぇ〜 どんなにぃ冷たく別れてもぉ〜 俺にはぁお前が最後の女ぁ〜』(♪みちのくひとり旅)

こう歌いたくなる藤原経清(ふじわらつねきよ)は斬首された後、愛妻の阿古女(あこめ)と息子の藤原清衡(ふじわらきよひら)は、自分を討った清原武則(きよはらたけきよ)に引き取られる。

清原武則(きよはらたけきよ)は、息子の清原武貞(きよはらたけさだ)に阿古女(あこめ)を嫁がせ、藤原清衡(ふじわらきよひら)はその息子となった。

清原武貞(きよはらたけさだ)には前妻との間に、息子の清原真衡(きよはらさねひら)が居た。

その後、清原武貞(きよはらたけさだ)と阿古女(あこめ)の間に息子が産まれ、清原家衡(きよはらいえひら)と名付けられた。

年齢順からいくと、長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)、次男の清原真衡(きよはらさねひら)、三男の清原家衡(きよはらいえひら)となる。

義父の清原武貞(きよはらたけさだ)は敵大将の子の藤原清衡(ふじわらきよひら)ではあったが、我が子と隔たりなく愛情と教育を注いだ。

ただ、これが後に1083年に起こった「後三年の役」(ごさんねんのえき)に発展していく。

清原武貞(きよはらたけさだ)と阿古女(あこめ)が亡くなり、清原氏の後継者は次男の清原真衡(きよはらさねひら)が継ぎ“鎮守府将軍”に就任する。

長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)は元は安倍氏の領土だった江刺郡(岩手県)一帯を領土として豊田館を構える。

この待遇に三男の清原家衡(きよはらいえひら)は嫉妬する。

次男の清原真衡(きよはらさねひら)は子宝に恵まれず、海道成衡(かいどうなりひら)を養子に迎入れる。

海道成衡(かいどうなりひら)は常陸国(茨城県)に居た源頼義(みなもとよりよし)の娘と婚姻し、源義家(みなもとよしいえ)と親戚縁者となる。

源義家(みなもとよしいえ)は父親の跡目を引継ぐ形で“多賀城”の国府となる。

その時に長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)は源義家(みなもとよしいえ)と親交を深めて良好な関係を築く。

清原氏一族の重鎮だった吉彦秀武(きみこひでたけ)が次男の清原真衡(きよはらさねひら)と抗争となる。

吉彦秀武(きみこひでたけ)は三男の清原家衡(きよはらいえひら)と同盟し、さらに長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)を援軍に付けて、次男の清原真衡(きよはらさねひら)と対立する。

これを「後三年の役」(ごさんねんのえき)と呼ぶ。

次男の清原真衡(きよはらさねひら)は親族でもある“多賀城”の国府の源義家(みなもとよしいえ)に援軍を要請する。

両軍は交戦するも、戦(いくさ)に乗る気でない長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)と国府の源義家(みなもとよしいえ)により、時期を見て手打ちとなる。

次男の清原真衡(きよはらさねひら)は戦争責任として吉彦秀武(きみこひでたけ)の打首を条件に出すも、長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)は戦死した清原重光(きよはらしげみつ)の打首を差出し決着を図った。

国府の源義家(みなもとよしいえ)はこの条件に納得するも、次男の清原真衡(きよはらさねひら)は納得せず再度、抗争の準備に取り掛かる。

その最中(さなか)に次男の清原真衡(きよはらさねひら)は原因不明で死去する。

その跡目を継いだ息子の海道成衡(かいどうなりひら)は、謀反を起こした次男の清原真衡(きよはらさねひら)の反逆罪の相続人として、国府の源義家(みなもとよしいえ)により身分剥奪と領土没収される。

それにより国府の源義家(みなもとよしいえ)は、次男の清原真衡(きよはらさねひら)の領土を、長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)と三男の清原家衡(きよはらいえひら)で二分する形で引継がせる。

これに反発したのが三男の清原家衡(きよはらいえひら)で、全ての領土は清原氏直系の自分が引継ぐと主張する。

すぐさま三男の清原家衡(きよはらいえひら)は軍隊を率いて長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)の江刺郡(岩手県)にある豊田館を攻撃し、長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)は何とか逃げ出すも、妻子や多くの家臣が焼死する。

負傷した長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)はある村まで逃げのび、そこで村娘の阿具里(あぐり)に助け出される。

この阿具里(あぐり)は、後に長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)の側室となるが、“奥州藤原氏”の火種となる事を現時点では知る由(よし)もない。

長男の藤原清衡(ふじわらきよひら)は援軍の国府の源義家(みなもとよしいえ)と共に、三男の清原家衡(きよはらいえひら)の討伐に向かう。

三男の清原家衡(きよはらいえひら)は叔父の清原武衡(きよはらたけひら)と同盟し迎え撃つ。

これにより「藤原・源軍VS清原軍」の構図となる。

藤原・源軍は衣川(岩手県)周辺に布陣し対戦に出た。

ただ、雪国の戦(いくさ)に慣れた上、村民を使ったゲリラ戦を得意とした清原軍が優勢だった。

しかし藤原・源軍には、京都から源義家(みなもとよしいえ)の弟の源義光(みなもとよしみつ)が大軍を率いて駆けつけ、さらに清原氏一族の重鎮だった吉彦秀武(きみこひでたけ)も味方に付いたため反撃に出る。

追い込められた三男の清原家衡(きよはらいえひら)は、叔父の清原武衡(きよはらたけひら)に責任をなすりつけ仲違(なかたが)いをする。

その後、清原軍は一気に崩壊し三男の清原家衡(きよはらいえひら)は討死する。

1087年に「後三年の役」(ごさんねんのえき)は終結する。

ここにて出羽国(秋田県、岩手県)の“蝦夷”(えみし)で豪族だった清原氏が消滅する。

変わって陸奥国と出羽国を平定するのは“奥州藤原第1代”の藤原清衡(ふじわらきよひら)となる。

また、この時の功績でも朝廷は、“多賀城”の国府の源義家(みなもとよしいえ)に対して恩賞を与えず、さらに国府守を解任している。

この朝廷の仕打ちに対して源義家(みなもとよしいえ)は、こう言い残している。

源義家…『我より7代目の子孫は、必ず天下を取れっ!』

源義家(みなもとよしいえ)の7代後の子孫に下野国(栃木県)の足利家時(あしかがいえとき)が居り、“室町幕府”を創建した足利尊氏(あしかがたかうじ)の祖父である。

また、足利家時(あしかがいえとき)は己が天下を取れなかったため、3代目に遺言を残し切腹している。

足利家時…『我は先祖の意に報いる事が出来ず、その責務未達よりここにて自決するが、我より3代目は、先代の源義家(みなもとよしいえ)の意向を実現してくれっ!』

その3代目が足利尊氏(あしかがたかうじ)であり、異母兄弟の足利直義(あしかがただよし)である。

Nicolette Larson /♪ Lotta Love

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/09 (Fri) 01:32:52

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【奥州平泉への観光再開へ】
https://m.youtube.com/watch?v=Waisjr2iV64

陸奥国(むつのくに/岩手県)をはじめとした東北地方で最も名高い“奥州藤原氏”。

その奥州平泉を“仏教王国”に定めたのが第1代の藤原清衡(ふじわらきよひら)である。

1091年に藤原清衡(ふじわらきよひら)は、“多賀城”の国府守に就任していた源義家(みなもとよしいえ)の助言により京都の“平安京”へ上洛し、朝廷に奥州名産の“金”と“馬”を献上した。

その時、神社仏閣が点在する京都の街並みを見学し、奥州平泉の都市構造のヒントを得る。

平泉に戻った藤原清衡(ふじわらきよひら)は、1094年〜1096年の間に“新都平泉”を建造する。

藤原清衡(ふじわらきよひら)は“柳の御所”を建て、そこを“奥州藤原氏”の館(やかた)とする。

そして「後三年の役」(ごさんねんのえき)で命を助けてくれた村娘の阿具里(あぐり)を呼び寄せ、“奥州藤原氏”の館(やかた)の近くに小館(こだち)を建て、側室として住まわせる。

藤原清衡(ふじわらきよひら)は阿具里(あぐり)との間に息子の藤原惟常(ふじわらこれつね)をもうける。

また、藤原清衡(ふじわらきよひら)は平氏系の北の方(きたのかた)を正室に迎え、息子で第2代の藤原基衡(ふじわらもとひら)をもうける。

その頃、平泉に旅の僧侶の自在坊蓮光(じざいぼうれんこう)が訪れ、伝説の“蝦夷”(えみし)と呼ばれるアテルイや、第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう)に仕えた“征夷大将軍”の田村麻呂(たむらまろ)の話しを藤原清衡(ふじわらきよひら)に聞かせた。

2人は意気投合し、友好関係を築く。

自在坊蓮光(じざいぼうれんこう)は平泉の衣川近くの開山に、アテルイを弔うお寺として“中尊寺”(ちゅうそんじ)を建造するよう提案する。

それにより1105年〜1126年にかけて奥州平泉に“中尊寺”(ちゅうそんじ)が築かれる。

1107年に“大長寿院”(だいちょうじゅいん)、1124年に“金色堂”(こんじきどう)が完成する。

これが東北地方の“仏乃国”(ほとけのくに)の始まりでもある。

TEXAS /♪ I DON'T WANT A LOVER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/09 (Fri) 01:33:52

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【岩手県の八幡平の名水】
https://m.youtube.com/watch?v=VOBMFtmzMGk

1126年に“中尊寺”(ちゅうそんじ)が完成した時には、父親で第1代の藤原清衡(ふじわらきよひら)、息子で第2代の藤原基衡(ふじわらもとひら)、孫で第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)の親子孫の“奥州藤原氏三代”となっていた。

1128年に第1代の藤原清衡(ふじわらきよひら)が亡くなる。

当然に第2代の藤原基衡(ふじわらもとひら)が跡目を継ぐが、そこに小館(こだち)に住む側室の阿具里(あぐり)と息子の藤原惟常(ふじわらこれつね)が不満を抱く。

藤原惟常(ふじわらこれつね)は軍隊を率いて第2代の藤原基衡(ふじわらもとひら)を攻撃するも反撃に遭い、母親の阿具里(あぐり)は死亡し、息子の藤原惟常(ふじわらこれつね)は越後国(新潟県)まで逃亡する。

ただ、藤原基衡(ふじわらもとひら)は家臣の佐藤季春(さとうすえはる)などと軍隊を率いて越後国(新潟県)まで討伐に出向く。

そこで藤原惟常(ふじわらこれつね)は討死する。

1142年、京都の“藤原氏”でもある宗形師綱(むねかたもろつな)が陸奥国守に就任する。

宗形師綱(むねかたもろつな)は献上品を一切受取らない堅物で、奥州一帯の検知(土地測量)を実施し始めた。

朝廷に奉納する年貢が上がる事を恐れた藤原基衡(ふじわらもとひら)は、家臣の佐藤季春(さとうすえはる)に検知(土地測量)を止めさせるよう指示する。

ところが佐藤季春(さとうすえはる)は、検知(土地測量)を実施する宗形師綱(むねかたもろつな)やその家臣を攻撃してしまう。

その事により、朝廷に謀反を起こした“奥州藤原氏”と捉えられ一大事となり、佐藤季春(さとうすえはる)は責任を取って打首となる。

ただ、陸奥国をはじめ東北地方での“奥州藤原氏”の影響力は絶大で、“平安京”の朝廷は“喧嘩両成敗”として宗形師綱(むねかたもろつな)を解任する。

この時期に藤原基衡(ふじわらもとひら)は平泉の舞草(もうくさ)の村に“毛越寺”(もうつじ)を建造し、徐々に奥州平泉が“仏教王国”として容作(かたちづ)いていく。

Sheryl Crow feat.James Taylor /♪ Flying Blind

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/09 (Fri) 01:34:44

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【尾張国は知多半島の海鮮丼】
https://m.youtube.com/watch?v=Twd1nIhB61M

1156年、京都の“平安京”では、町人の間でこんな歌が流行っていた。

『♪波のぉ〜谷間にぃ〜命の花がぁ〜 2つぅ〜並んでぇ〜咲いてぇいるぅぅ〜 兄弟船はぁぁ〜 親父の形見(かたみ)ぃ〜 型は古いがぁ〜 しけには強いぃ〜 俺とぉ〜兄貴のよぉ〜 夢のぉ〜揺籠(ゆりかご)さぁ〜』(♪兄弟船)

この頃、朝廷では天皇と上皇の兄弟がニ分し、権力闘争が行われた。

ではメンバー紹介です。

天皇軍は第77代天皇で弟の後白河天皇(ごしらかわてんのう)、摂関家は関白で兄の藤原忠道(ふじわらただみち)、平氏は甥の平清盛(たいらきよもり)、源氏は兄の源義朝(みなもとよしとも)です。

上皇軍は第75代天皇だった兄の崇徳上皇(すとくじょうこう)、摂関家は左大臣で弟の藤原頼長(ふじわらよりなが)、平氏は叔父の平忠正(たいらただまさ)、源氏は父の源為義(みなもとためよし)と弟の源為朝(みなもとためとも)です。

戦期間は20日程度で終結し、天皇軍の勝利に終わる。

これを「保元の乱」(ほうげんのらん)と呼ぶ。

戦後処理として、兄の崇徳上皇(すとくじょうこう)は流刑、弟の藤原頼長(ふじわらよりなが)は死罪、叔父の平忠正(たいらただまさ)も死罪、父の源為義(みなもとためよし)と弟の源為朝(みなもとためとも)は平清盛(たいらきよもり)の命令で兄の源義朝(みなもとよしとも)により処刑された。

その後、後白河天皇(ごしらかわてんのう)と共に平清盛(たいらきよもり)と藤原信西(ふじわらしんぜい)が政権を主導する。

これに不満を持ったのが源義朝(みなもとよしとも)と藤原信頼(ふじわらのぶより)で、平清盛(たいらきよもり)らに対して1159年にクーデターを起こす。

このクーデターは失敗するが、平氏軍の藤原信西(ふじわらしんぜい)は討死し、源氏軍の藤原信頼(ふじわらのぶより)は斬首、源義朝(みなもとよしとも)は敗走し尾張国(愛知県)の知多半島の野間(のま)まで逃亡するも、ここで味方に裏切られ入浴中に討死する。

これを「平治の乱」(へいじのらん)と呼ぶ。

戦後処理として平清盛(たいらきよもり)は、源義朝(みなもとよしとも)の息子でまだ子供だった源頼朝(みなもとよりとも)を死罪にする予定だったが、継母の池禅尼(いけのぜんに)に嘆願(たんがん)され伊豆国(静岡県)への流刑になる。

平清盛(たいらきよもり)のこの判断が大きな過ちになるとは、まだ、知る由(よし)もない。

また、源義朝(みなもとよしとも)の側室で京都一番の美女と言われた常盤御前(ときわごぜん)と3人の息子は平清盛(たいらきよもり)に引き取られる。

この3人の息子が今若(いまわか)、乙若(おとわか)、牛若(うしわか)で、この牛若(うしわか)が源義経(みなもとよしつね)である。

その後も今若(いまわか)は山城国(京都府)の醍醐寺(だいごじ)、乙若(おとわか)は河内国(大阪府)の天王寺(てんのうじ)、牛若(うしわか)こと源義経(みなもとよしつね)は山城国(京都府)の鞍馬寺(くらまでら)にそれぞれ預けられた。

SUSAN TEDESCHI /♪ ALONE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/18 (Sun) 21:28:19

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【伝統漆の秀衡塗】
https://m.youtube.com/watch?v=ltqDVArjHZo

1159年に“奥州藤原氏”の第2代の藤原基衡(ふじわらもとひら)が死去し、第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)が跡目を継いだ。

藤原秀衡(ふじわらひでひら)は“蝦夷”(えみし)の女性との間に長男の藤原国衡(ふじわらくにひら)をもうける。

さらに“陸奥国守”かつ“鎮守府将軍”の藤原基通(ふじわらもとみち)の娘を正室として迎入れ、次男となる第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)が生まれる。

また、別の側室とも三男の藤原忠衡(ふじわらただひら)をもうける。

この3兄弟が“奥州藤原氏”を滅亡へと追い込むとは、まだ、知る由(よし)もない。

義父の藤原基通(ふじわらもとみち)は、「平治の乱」(へいじのらん)で源義朝(みなもとよしとも)と共にクーデターを起こした藤原信頼(ふじわらのぶより)の弟で、平清盛(たいらきよもり)の報復に戦々恐々とする。

ただ、平清盛(たいらきよもり)の報復は奥州平泉までは及ばず、逆に第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)の絶大な権力を利用するため“鎮守府将軍”に任命する。

藤原秀衡(ふじわらひでひら)はいずれ源氏が復活して平氏討伐を計(はか)る事を見越して、近畿に居る今若(いまわか)、乙若(おとわか)、牛若(うしわか)こと源義経(みなもとよしつね)に目を付けて、武将として見込みのある牛若(うしわか)こと源義経(みなもとよしつね)を奥州平泉に呼び寄せる。

この道中に源義経(みなもとよしつね)に賛同したのが、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)、源義朝(みなもとよしとも)の家臣の鎌田政清(かまたまさきよ)の甥で鎌田政近(かまたまさちか)、駿河国(静岡県)と相模国(神奈川県)の山賊だった伊勢義盛(いせよしもり)、常陸国(茨城県)は香取の常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)で、奥州平泉まで同行する。

源義経(みなもとよしつね)の一行は平泉に到着すると藤原秀衡(ふじわらひでひら)に謁見(えっけん)し、そこで長男の藤原国衡(ふじわらくにひら)、次男となる第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)、三男の藤原忠衡(ふじわらただひら)の紹介を受ける。

長男の藤原国衡(ふじわらくにひら)と三男の藤原忠衡(ふじわらただひら)は源義経(みなもとよしつね)に対して好意的だったが、次男となる第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)は反感を剥(む)き出しにする。

“奥州藤原氏”の館(やかた)でもある“柳の御所”の北側に高館(たかだち)を設け、源義経(みなもとよしつね)の住まいとした。

源義経(みなもとよしつね)は奥州平泉に1174年〜1180年まで滞在し、この間に“騎馬”や“弓取”などの武術を学ぶ。

この頃、第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)は“無量光院”(むりょうこういん)を建造し、京都は宇治市に建つ“平等院鳳凰堂”を模した寺院を配置する。

これにより奥州平泉を中心とした東北地方の“極楽浄土”は具現化した事になる。

CAROLE KING /♪ SWEET SEASONS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/06/18 (Sun) 21:29:14

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【鎌倉市の鶴岡八幡宮が神社本庁を離脱】
https://m.youtube.com/watch?v=lZaHa6Vgjq8

京都の“平安京”では、平清盛(たいらきよもり)が栄華(えいが)を極める。

平清盛(たいらきよもり)は摂津国(兵庫県)に“福原京”(ふくはらきょう)を建造する。

それに反発する公家や武将も大勢いた。

その1人が伊豆国(静岡県)に流刑となった源義朝(みなもとよしとも)の息子の源頼朝(みなもとよりとも)だった。

源頼朝(みなもとよりとも)は妻で北条政子(ほうじょうまさこ)の父親の北条時政(ほうじょうときまさ)の力を借りて決起する。

それに賛同したのが源義経(みなもとよしつね)だが、ただ、時期早々として藤原秀衡(ふじわらひでひら)は参戦する事に反対する。

1180年に源頼朝(みなもとよりとも)は相模国(神奈川県)の鎌倉に地盤を固める。

一方、信濃国(長野県)では源氏系の木曽義仲(きそよしなか)が挙兵する。

木曽義仲(きそよしなか)は源頼朝(みなもとよりとも)や源義経(みなもとよしつね)の従兄弟(いとこ)に当たる。

1180年、駿河国(静岡県)の富士川を挟んで平氏VS源氏が対峙(たいじ)する。

この時に奥州平泉から源義経(みなもとよしつね)の一行が参戦し、源頼朝(みなもとよりとも)との異母兄弟が初めて対面する。

戦(いくさ)の結果は、源氏軍が夜襲を掛けようと忍び寄ると、川に居た雁(がん)の群れが一斉(いっせい)に飛び立ち、それに驚いた平氏軍が敗走して決着がつく。

これを「富士川の戦」(ふじがわのたたかい)と呼ぶ。

1181年に平清盛(たいらきよもり)が高熱にうなされ死去する。

弟の平宗盛(たいらむねもり)が跡目を継ぐ。

陸奥国(岩手県)は平泉の藤原秀衡(ふじわらひでひら)、相模国(神奈川県)は鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも)、信濃国(長野県)は木曽谷の木曽義仲(きそよしなか)、山城国(京都府)は“平安京”の平宗盛(たいらむねもり)、この“四大勢力”の構図となる。

初めに動いたのが木曽義仲(きそよしなか)で“平氏討伐”として京都の“平安京”まで攻め入る。

平宗盛(たいらむねもり)の平氏軍は西国に敗走し、これにより“平安京”を征圧する。

相模国(神奈川県)は鎌倉に拠点を構える源頼朝(みなもとよりとも)は、1184年に源義経(みなもとよしつね)と異母兄弟の源範頼(みなもとのりよし)に、木曽義仲(きそよしなか)の討伐を命じる。

源氏軍は山城国(京都府)は宇治川まで攻め込み、木曽義仲(きそよしなか)は討死する。

これを「宇治川の戦」(うじがわのたたかい)と呼ぶ。

源頼朝(みなもとよりとも)は、そのまま西国に逃亡した“平氏討伐”を命じる。

源義経(みなもとよしつね)と源範頼(みなもとのりよし)が率いる源氏軍は、摂津国(兵庫県)の福原から須磨に掛けて平氏軍を追い込む。

ここに有名な源義経(みなもとよしつね)が崖から奇襲を掛ける鵯越(ひよどりごえ)が起こる。

平氏軍は四国の屋島(やしま)に敗走し、源氏軍が勝利を収める。

これを「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)と呼ぶ。

実質、京都の“平安京”での平氏は滅亡しており第77代天皇だった後白河法皇(ごしらかわほうおう)の意図で、1185年に源頼朝(みなもとよりとも)が“征夷大将軍”に就任する。

これにより京都以外での政権が発足し、いい(11)箱(85)作ろう“鎌倉幕府”となる。

後白河法皇(ごしらかわほうおう)は「一ノ谷の戦」(いちのたにのたたかい)で活躍した源義経(みなもとよしつね)を“検非遺使”(けびいし)に任命する。

これに対して源頼朝(みなもとよりとも)は御立腹する。

源義経(みなもとよしつね)と源範頼(みなもとのりよし)が率いる源氏軍の勢いは止まらず、平氏軍を西の果てに追いやっていく。

四国は讃岐国(香川県)での「屋島の戦」(やしまのたたかい)で勝利する。

長門国(山口県)での「壇ノ浦の戦」(だんのうらのたたかい)で平氏軍を滅亡させる。

この功績に対して後白河法皇(ごしらかわほうおう)は、源義経(みなもとよしつね)に伊予国(愛媛県)の“伊予守”(いよのかみ)を与える。

これに対して源頼朝(みなもとよりとも)は御立腹を越えて、身震いするほど激怒する。

源義経(みなもとよしつね)は戦勝証の捕虜として平宗盛(たいらむねもり)を従えて鎌倉に入ろうとするも、源頼朝(みなもとよりとも)に拒まれる。

さらに平宗盛(たいらむねもり)を死罪にするよう命令し、源義経(みなもとよしつね)は近江国(滋賀県)の篠原(しのはら)で斬首する。

その後も源頼朝(みなもとよりとも)は家臣に対して、源義経(みなもとよしつね)を討伐するように命令を下す。

ここから源義経(みなもとよしつね)の“逃亡劇”が始まる。

RITA COOLIDGE /♪ ONE FINE DAY

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/07/01 (Sat) 19:05:47

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【インバウンド、岩手県の盛岡人気】
https://m.youtube.com/watch?v=_vv2XTa7SR8

源義経(みなもとよしつね)、職業は武士。

正しかるべき正義も時(とき)として、盲(め)しいる事がある 。

彼は身に覚えのない謀反(むほん)の罪で死刑を宣告され、凱旋(がいせん)の途中で辛くも脱走した。

孤独と絶望の逃亡生活が始まる。

髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った幕府の男を捜し求める。

彼は逃げる。

執拗な源頼朝(みなもとよりとも)の追跡を交(か)わしながら、“現在”を、“今夜”を、そして“明日”を生きるために。

源義経(みなもとよしつね)、そう、彼は「逃亡者」(The Fugitive)である。

源義経(みなもとよしつね)は武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)や伊勢義盛(いせよしもり)と共に奥州平泉に来る。

第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)は源義経(みなもとよしつね)を匿(かくま)うも、第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)は源頼朝(みなもとよりとも)に差し出しよう嘆願(たんがん)する。

“鎌倉幕府”の源頼朝(みなもとよりとも)は、“奥州藤原氏”が源義経(みなもとよしつね)を保護している事を掴む。

“鎌倉幕府”は陸奥国の“奥州藤原氏”に対して、上納品を京都の朝廷ではなく、鎌倉に直接納める様に指示を出し圧力を掛ける。

そんな最中(さなか)、1187年に第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)が死去する。

藤原秀衡…『兄弟3人が力を合わせて源義経(みなもとよしつね)を守り抜くこと。』

これが遺言だった。

長男の藤原国衡(ふじわらくにひら)と三男の藤原忠衡(ふじわらただひら)は父親の遺言を守る意志を固め、源頼朝(みなもとよりとも)の“鎌倉幕府”に対して攻防する軍隊を整える。

一方、次男となる第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)は源頼朝(みなもとよりとも)の総攻撃に怯(おび)え、とうとう源義経(みなもとよしつね)や武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)を暗殺してしまう。

それでも源頼朝(みなもとよりとも)は大軍を率いて奥州平泉を目指す。

源頼朝(みなもとよりとも)は当初から東北地方の肥沃な土地と金鉱山が目当てであったのは、第3代の藤原秀衡(ふじわらひでひら)の時から危惧(きぐ)していた事である。

次男の藤原泰衡(ふじわらやすひら)は、三男の藤原忠衡(ふじわらただひら)を暗殺して責任を全てなすりつけて許しを請(こ)う。

源頼朝…『武士たる恥ぞっ!』

こう言って源頼朝(みなもとよりとも)の大軍は北上する。

長男の藤原国衡(ふじわらくにひら)は陸奥国(宮城県)は“多賀城”の南方で布陣し反撃するも討死する。

奥州平泉に入城した源頼朝(みなもとよりとも)の大軍に対して、第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)は“柳の御所”から逃亡する。

源頼朝(みなもとよりとも)は“仏教王国”の奥州平泉の美しい街並みに感銘し、“鎌倉幕府”の市街地整備の参考にした。

陸奥国の北部まで逃亡した第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)は、家臣の河田次郎(かわたじろう)を頼るも斬首される。

1189年、ここにて“奥州藤原氏”が滅亡する。

河田次郎(かわたじろう)は第4代の藤原泰衡(ふじわらやすひら)を討った褒美を貰いに源頼朝(みなもとよりとも)に伺うも・・・

源頼朝…『主君裏切りは、斬首に値する。』

これより武家社会となる源氏から北条氏までの“鎌倉幕府”が動き出す。

1689年の江戸時代、松尾芭蕉(まつおばしょう)が奥州平泉を訪れてた際に「奥の細道」にてこう俳句を詠む。

『夏草や、兵(つわもの)どもが、夢のあと。』

LAURA NYRO /♪ STONED SOUL PICNIC

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/07/01 (Sat) 19:06:51

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【岩手県遠野市の雲海】
https://m.youtube.com/watch?v=fdsu2LT7ERM

陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県)および出羽国(秋田県、山形県)の東北地方を“仏乃国”(ほとけのくに)に形成した奥州平泉。

その原型が“奥州藤原氏”による“仏教王国”の建造にある。

仏教とはそもそも、紀元前7世紀頃にインドの御釈迦様(仏陀)が開祖とされる。

大仏さんの教えがシルクロードを渡り中国大陸から朝鮮半島、そして日本に伝来されたと言われる。

日本で有名なお坊さんと言えば、600年頃に中国大陸の唐(とう)で生まれた三蔵法師(玄奘/げんじょう)で、天竺(てんじく)から教典(きょうてん)を持ち帰り、『般若心経』を広めたりした。

天竺(てんじく)までの長旅には、サルの孫悟空(そんごくう)、ブタの猪八戒(ちょはっかい)、カッパの沙悟浄(さごじょう)がお供し、三蔵法師(玄奘/げんじょう)が妖怪などにより危険な目に遭うと、この3人(特に孫悟空)が助けてくれた。

日本に仏教が伝来してからは様々な宗派に分かれて、日本各地で独自の“教え”と“悟り”が広がっていった。

“曹洞宗”(そうとうしゅう)は越前国(福井県)の永平寺(えいへいじ)が総本山で宗祖は道元(どうげん)、インド人の達磨大師(だるまだいし)が広めた“禅宗”(ぜんしゅう)を汲(く)む。

“天台宗”(てんだいしゅう)は近江国(滋賀県)の延暦寺(えんりゃくじ)が総本山で宗祖は最澄(さいちょう)、中国大陸の唐(とう)から伝来した日本での仏教の祖。

“臨済宗”(りんざいしゅう)は山城国(京都府)の妙心寺(みょうしんじ)が総本山で宗祖は明菴栄西(みょうあんえいさい)、こちらも達磨大師(だるまだいし)の“禅宗”(ぜんしゅう)を汲(く)み、一休(ひとやす)みばかりするトンチ名人の一休さん(一休宗純)も一門。

“浄土宗”(じょうどしゅう)は山城国(京都府)の知恩院(ちおんいん)が総本山で宗祖は法然(ほうねん)、日本で一番馴染み深い『南無阿弥陀仏』の念仏を唱える。

“浄土真宗”(じょうどしんしゅう)は山城国(京都府)の本願寺(ほんがんじ)が総本山で宗祖は親鸞(しんらん)、西本願寺が“浄土真宗本願寺派”で、東本願寺が“真宗大谷派”に分かれる。

“法相宗”(ほっそうしゅう)は大和国(奈良県)の興福寺(こうふくじ)や薬師寺(やくしじ)が総本山で宗祖は道昭(どうしょう)、三蔵法師(玄奘/げんじょう)の『般若心経』や“教え”を汲(く)む。

“真言宗”(しんごんしゅう)は紀伊国(和歌山県)の金剛峯寺(こんごうぶじ)または山城国(京都府)の東寺(とうじ)が総本山で宗祖は空海(くうかい/弘法大師)、生前は『筆を誤った事は、一度たりとも無いっ!』が口癖。

“日蓮宗”(にちれんしゅう)は甲斐国(山梨県)の久遠寺(くおんじ)が総本山で宗祖は日蓮(にちれん)、鎌倉時代の僧侶で過激な発言が多く、『法華経(ほけきょう)を唱えようぜっ!』が口癖で日本初のアナーキーでもある。

この他にも多数の宗派がある。

こうして見ると、仏教の“教え”と“悟り”を広める場は、近畿を中心とした西日本が多い。

ただし、東日本の東北地方は、その地域、その土地の一帯が“修行”の場であり、“仏乃国”(ほとけのくに)に相応(ふさわ)しい環境を育んでいる。

仏教とは、何処(どこ)かの宗派に属さないと“教え”と“悟り”を乞(こ)う事が出来ず、“極楽浄土”に成仏する事が出来ないのか?

いや、そんな事は無い。

何処(どこ)の宗派に属さなくとも、その人の美しき“心”や“精神”に仏様が宿れば、御釈迦様(仏陀)の御導きがある。

ただし、“仏乃国”(ほとけのくに)の東北地方などで“極楽浄土”に参る心構えを現生で習得したとしても、実際に“極楽浄土”に受け入れるかは“神之国”(かみのくに)の裁定となる。

“神之国”(かみのくに)では、神様が在する天界は高天原(たかまがはら)と呼ばれ、天命を受けた高貴な魂のみ導かれ、ほぼ人命の魂は行く事は無い。

現生の行いが良く、美しくも清い魂が導かれる天国は黄泉の国(よみのくに)で、ここが仏教で言う“極楽浄土”となる。

地球上の現生は葦原中国(あしわらのなかつくに)と呼ばれ、遺憾ながら“極楽浄土”に成仏できなかった人命の魂は、此処(ここ)で彷徨(さまよ)う事になる。

そして、目も当てられない人生を歩んだ者とその濃厚接触者は“地獄”に落ち、50億年近い懲役が待っている。

では、天界の神様は、どの様な人命の魂を“極楽浄土”に導いてくれるのか?

当たり前だが、“病気障害”や“生活環境”で辛く苦しむも、腐らず前向きに人生を歩んだ人は優先的に“極楽浄土”へ受け入れられる。

また、この日本では、北海道、東北地方、北陸地方の3道州のいずれかで“厳冬”を30年以上も越した善人、もしくは、四国の阿波国(愛媛県)、土佐国(高知県)、伊予国(愛媛県)、讃岐国(香川県)そして紀伊国(和歌山県)の高野山に参る“お遍路”(霊場八十八ヶ所巡り)を3回以上も巡礼(じゅんれい)した善人も、神様から認められる。

実際問題、地球上では動物、植物、微生物の魂が無限大にあり、多くの神様は人間と言う1種の生命体のみに気遣いするほど寛大ではなく、そこまでの包容力もない。

それは人間が地球上で誕生してからの素行(そこう)を見ても、当然と言える。

神様…『人間の御託(ごたく)など、いちいち聞いてはおれぬわぁ!』

ほとんどの人命の魂が現生を彷徨(さまよ)い続け、神様に嫌われる人生の歩み方によってはブラックホールの様な“地獄”に吸い込まれていく。

もしかしたら、大半の人命の魂が“極楽浄土”に成仏できない事を前提とした仏教の“教え”の中で、この地で命が再び蘇(よみがえ)る“輪廻転生”(りんねてんしょう)があるのかも知れない。

ただし、この地に再び生命体として蘇(よみがえ)ったとしても、前世と同じ様に人間とは限らない。

いま一度、己の人生を見つめ直す“きっかけ”が欲しいなら、間違いなく奥州平泉をはじめとした“仏乃国”(ほとけのくに)の東北地方が適地でしょう。

SHIRLEY COLLINS /♪ HARES ON THE MOUNTAIN

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/07/01 (Sat) 19:07:47

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【天草市と島原の乱】
https://m.youtube.com/watch?v=m94Km8od_MU&t=60s

江戸時代の1637年に3代将軍の徳川家光が政権を担っていた頃、肥前国から肥後国の有明海に広がる島々で農民などによる反乱が起こる。

江戸幕府による“キリスト教への弾圧”が主因だが、それ以外にも庶民の生活苦が最も大きい。

見かねた天草四郎(益田時貞)らが立ち上がり、それに賛同した庶民が一揆を起こす。

ただ、強靭な江戸幕府の力にねじ伏せられ、一揆衆は壊滅すると言う悲劇で終わる。

これらを“島原の乱”(しまばらのらん)や“天草の乱”(あまくさのらん)と言われる。

この“乱”(らん)とは、どう言う時に使われるのか?

“島原の戦”(しまばらのたたかい)ではダメなのか?

“乱”(らん)と“変”(へん)と“役”(えき)と“戦”(いくさ)の言葉違いは何なのか?

仮定の国や人で比較して見てみよう。

「甲国の鶴軍に属するA氏とB氏。」

「乙国の亀軍に属するC氏とD氏。」

「丙国の兎軍に属するE氏とF氏。」

そして、誰にでも解りやすいように実際に起こった事例も記載しておきます。

●“乱”(らん)とは、政権に対する反乱。

甲国でA氏とB氏が権力者を巡り争うこと。

飛鳥時代の672年に起こった“壬申の乱”(じんしんのらん)で、皇族による後継者争いから起こった戦乱。

鎌倉時代の1221年に起こった“承久の乱”(じょうきゅうのらん)で、朝廷と鎌倉幕府との争い、北条政子の演説が有名。

“連邦軍”が有する大型戦艦のホワイトベース(木馬)の艦長でもあるブライトが生意気なアムロを引っ叩き、『父さんにも殴られた事がないのにっ!』と捨て台詞を吐いてガンダムに乗ってどこかに旅立ったアムロの行動を“アムロの乱”と呼ぶ。

●“変”(へん)とは、政変や政治的事件。

乙国で主君のC氏を家臣のD氏が討ち取ること、又はその逆。

戦国時代の1582年に起こった“本能寺の変”(ほんのうじのへん)、主君の織田信長を家臣の明智光秀が討った反乱。

江戸時代の1864年に起こった“禁門の変”(きんもんのへん)、長州藩による江戸幕府への反乱。

“ジオン軍”を率いるザビ家の息子のガルマを『君の生まれの不幸を呪うがいい。』と言って罠にはめたシャア、その後、“連邦軍”の総攻撃に遭いガルマの軍艦は散る、これを“赤い彗星の変”と呼ぶ。

●“役”(えき)とは、政権の命令に従い蝦夷や外国と戦う。

甲国の鶴軍に属するA氏とB氏に対して、外国の丙国の兎軍に属するE氏とF氏が攻撃すること、又はその逆。

平安時代の1051年に起こった“前九年の役”(ぜんくねんのえき)、陸奥国での蝦夷の安倍氏と朝廷が対立。

鎌倉時代の1274年に起こった“文永の役”(ぶんえいのえき)、蒙古襲来による鎌倉幕府との対立。

ある島で子供達と生活する“ジオン軍”の元軍人のドアンが操るザクが『モビルスーツの格闘技を見せてやる!』と言って、“ジオン軍”のザクを作画崩壊しながらもパンチだけでやっつけた事を“ククルスドアンの役”と呼ぶ。

●“戦”(いくさ)とは、戦争や合戦。

甲国の鶴軍に属するA氏とB氏、乙国の亀軍に属するC氏とD氏が合戦すること。

鎌倉時代の1333年に起こった“千早城の戦”(ちはやじょうのたたかい)、楠木正成が率いる朝廷軍と鎌倉幕府の合戦。

戦国時代の1554年に起こった“村木砦の戦”(むらきとりでのたたかい)、駿河国の今川義元の家臣と尾張国の織田信長&水野信元(徳川家康の母親の於大の方は妹)の合戦で、1560年に起こった“桶狭間の戦”(おけはざまのたたかい)の前哨戦。

“連邦軍”と“ジオン軍”が激しく対立し、“連邦軍”で一番の美女と言われたマチルダさんが“ジオン軍”の黒い三連星のドムに攻撃され戦死し、怒り狂ったアムロが操るガンダムが3機のドムを次々とやっつけた戦いを“オデッサの戦”と呼び、また、洞窟内で“連邦軍”のジムが“ジオン軍”のシャアが操る赤いズゴックに腹部をぶち抜かれた戦いを“ジャブロー合戦”と呼ぶ。

PATTI SMITH /♪ BECAUSE THE NIGHT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/08/16 (Wed) 19:20:27

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【皇室、インスタはじめました】
https://m.youtube.com/watch?v=RVNZ4a4Cp6g

日本は3億年ほど前から天皇家が深く関わっている。

時代により天皇を軸に朝廷が政権を担ったり、幕府が誕生して両輪で運営したりと、山あり谷ありようやく地球暦2000年まで辿(だど)り着いた。

そんな宮内庁と皇室が電子的情報発信機器(インターネット)を使い、国民との交流を広げると言う。

宮内庁…『インスタはじめました。』

なんか「冷し中華はじめました。」みたいで・・・

『チョー、ナウいじゃん!』

まあ、インターネットで検索すれば、ほとんどの事が判明する。

それは閉ざされた皇室であったとしても。

この3億年ほどの間に126代までの天皇が在している。

室町幕府の南北朝時代には南朝天皇と北朝天皇の2人が同時に在していたが、だいたい120人以上である。

そんな歴代の天皇名を見ると、多くの地名が付けられている事に気付く。

地域名が先なのか、天皇名が先なのかは分からない。

そして、ほとんどは都が置かれた京都が多いのだが、他の地域も若干ある。

そこで、地域別の天皇名を振り分けてみた。

ただ、日本全国に同名の地域もあるため、こじ付けな部分もあるし、また、記載できなかった地域や天皇もあるかも知れない。

なんせ、あまり意味のない分析なので、整合性は意識していない。

●京都府京都市右京区●

正面左側にある右京区。

これは南を上にして見た風水から来ている。

〔平安時代〕
[52代]嵯峨天皇(さがてんのう)。

『♪京都、嵯峨野に吹く風はぁ〜』でお馴染みの竹林が美しい嵐山と共に人気の観光地です。

〔鎌倉時代〕
[88代]後嵯峨天皇(ごさがてんのう)。

この次から持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)が交互に天皇が即位する様になる。

その“大覚寺”は嵯峨野にある。

ちなみに“持明院”は藤原氏の邸宅で、上京区の今出川駅の近くにあったが、火事で焼失したらしい。

[95代]花園天皇(はなぞのてんのう)。

太秦の東側にある花園でJR山陰線の駅もある。

花園の地名はラグビー場で有名な東大阪市にもあり、たぶん日本各地にあると思う。

〔室町時代〕
[102代]後花園天皇(ごはなぞのてんのう)。

●京都府京都市左京区●

正面右側にある左京区。

これは北を下にして見た四神から来ている。

〔平安時代〕
[72代]白河天皇(しらかわてんのう)。

白河の地名は白川として祇園の西側にあり、最も京都らしい風情がある町並みである。

元々は“平安神宮”のある岡崎公園辺りを指していたらしい。

[77代]後白河天皇(ごしらかわてんのう)。

源平合戦で後世までの有名人となった後白河天皇(ごしらかわてんのう)で、平安時代の終わりを告げ、朝廷の公家社会から合戦主体の武家社会の流れとなり、鎌倉時代の始まりとなった。

●京都府京都市上京区●

〔平安時代〕
[66代]一条天皇(いちじょうてんのう)。

京都は北側の一条から十条まであり、今出川通の南側一帯が一条となるため、一口で上京区とは言えない。

堀川には“一条戻橋”が掛かっており、「この世と、あの世をつなぐ橋」と言われる。

その北西側に“安倍晴明神社”がある。

[68代]後一条天皇(ごいちじょうてんのう)。

[73代]堀河天皇(ほりかわてんのう)。

堀河の地名は堀川や堀川通として残っている。

御池通並みの広い幅員で、“二条城”や“西本願寺”が通沿いに建っている。

〔鎌倉時代〕
[86代]後堀河天皇(ごほりかわてんのう)。

●京都府京都市中京区●

名古屋などの地域は中京(ちゅうきょう)地区と読むが、京都市では中京区(なかぎょうく)である

京都の中心部と言えば中心部だが、下京区の方が栄えている感は否めない。

二条と三条も一条と同様で中京区だけとは言えない。

最も有名所は二条通のドン突きの“二条城”と東海道五十三次の終着地の“三条大橋”ではなかろうか。

〔平安時代〕
[67代]三条天皇(さんじょうてんのう)。

三条通で有名なのが幕末の“池田屋事件”ですね。

アーケードのある商店街も三条通だったとは、知らんかった。

[71代]後三条天皇(ごさんじょうてんのう)。

[78代]二条天皇(にじょうてんのう)。

御池通の広さに隠れてかなり地味な二条通で、これと言って何も無い。

高級ホテルの“ザ・リッツカールトン京都”があるのと、実は“平安神宮”のある岡崎公園にまでつながっている便利な通り。

〔鎌倉時代〕
[94代]後二条天皇(ごにじょうてんのう)。

●京都府京都市下京区●

京都市の下京区は四条通が貫く繁華街を形成し、烏丸や河原町には商業施設が多く集まる。

四条大橋を渡ると“南座”や祇園の“八坂神社”がある。

京都では最も馴染み深い中心部である。

〔平安時代〕
[79代]六条天皇(ろくじょうてんのう)。

京阪電鉄の五条と七条(しちじょう)には駅があるのに、六条だけが無い。

まあ、地下鉄も含めて八条も無いけど。

鴨川西側には遊郭の“五条楽園”が広がっていた。

ここも立地では六条だが、名称は五条に取られている。

[80代]高倉天皇(たかくらてんのう)。

“大丸京都店”の東側を南北に走る筋が高倉通。

東本願寺の庭園でもある“渉成園”(しょうせいえん)が高倉通に食い込んでいる。

京都駅の線路を高架道路がヘアピンカーブで跨(また)いでいる。

その通沿いにある2軒のラーメン屋は、いつも行列ができている。

〔鎌倉時代〕
[87代]四条天皇(しじょうてんのう)。

京都のメインストリートの四条通。

数年前に歩道を広く、車道を狭くした“車の締め出し作戦”には好感が持てる。

都市中心部にわざわざ車で来る人の神経が分からん。

電車かバスで来いっちゅ〜ねん!

●京都府京都市東山区●

〔平安時代〕
[61代]朱雀天皇(すざくてんのう)。

朱雀と言えば奈良の“平城京”と京都の“平安京”の朱雀門や朱雀大路。

だから、一概に京都だけの地名ではない。

[69代]後朱雀天皇(ごすざくてんのう)。

〔江戸時代〕
[113代]東山天皇(ひがしやまてんのう)。

東山と言って最も有名なのは「その舞台から飛び降りたら命は無いでぇ!」の“清水寺”。

その門前に広がる“二年坂”や“三年坂”の商店街も風情がある。

ただ、インバウンド(訪日観光客)だらけで身動きが取れず、決死の覚悟が必要です。

名古屋市にも東山があり、飼育員のお手伝いをするゾウがいる動物園が有名。

あと、丘の上に3色ボールペンみたいな塔が建っている。

●京都府京都市伏見区●

我が故郷(ふるさと)の伏見区は、京都の中でも皇族と最も深い関わりのある地域。

名古屋市にも伏見はあるが、京都との関連性は知らない。

〔平安時代〕
[60代]醍醐天皇(だいごてんのう)。

山科から南に下がった醍醐で最も有名なのは“醍醐寺”の桜。

安土桃山時代に豊臣秀吉が花見を開いて美しい桜を愛(め)でたと言う。

そして一言『醍醐味(見)』(だいごみ)と呟き、今日(こんにち)までの語源になる。

[74代]鳥羽天皇(とばてんのう)。

この名前を見て『♪波の谷間に命の花が〜』が脳内再生されるが、れっきとした京都の地名である。

ただ、はっきり言って三重県の鳥羽の方が有名である事は否めない。

幕末の“鳥羽伏見の戦”も、三重県鳥羽市で起こったと思っている人が8割はいる。

〔鎌倉時代〕
[82代]後鳥羽天皇(ごとばてんのう)。

[89代]後深草天皇(ごふかくさてんのう)。

深草と聞いて“龍谷大学”と答える人は京都市民。

“ダイエー藤森店”と答える人は伏見区民。

“ポポロヒロバ”と答える人は深草地区民。

[92代]伏見天皇(ふしみてんのう)。

京都の中でも伏見は、“平安京”の中心部とは違った文化を育んでいる。

京都の伏見と聞いて9割9分が“伏見稲荷”と答えるであろう。

ただ、それだけでは無い。

江戸時代には宿場町として栄え、伏水を使った造酒屋が多く、幕末は坂本龍馬もウロウロして“寺田屋事件”に巻き込まれている。

電気式鉄道も日本で初めて開通したのが中書島周辺である。

まだまだあるが、今日はこれくらいにしておこう。

[93代]後伏見天皇(ごふしみてんのう)。

[96代]後醍醐天皇(ごだいごてんのう)。

歴代天皇で最もアクティブなのが後醍醐天皇(ごだいごてんのう)ではなかろうか?

前面にしゃしゃり出過ぎて流刑になったり、笠置山や吉野などに落ち延びたりと、なんせジッとしていない。

“建武の新政”なんて訳の分からない事も、悠々とやってのける。

足利尊氏と仲違いして、天皇が2人いる南北朝時代も引き起こしている。

鎌倉時代から室町時代への移り変わりに、多少なりとも影響を与えた偉大なる猛者である事は間違いない。

●奈良県奈良市●

〔平安時代〕
[51代]平城天皇(へいぜいてんのう)。

平城(へいじょう)と書いて平城(へいぜい)と読むが、やはり奈良と言えば“平城京”である。

1300年以上も経った今でも、遺跡から様々な遺品が出土し、月日(つきひ)の浪漫を感じる。

●奈良県宇陀市●

〔平安時代〕
[59代]宇多天皇(うだてんのう)。

宇多(うだ)と書くが、同じ読み方で奈良県の山奥に宇陀市(うだし)がある。

ここは正に天皇の縁(ゆかり)の地でもある。

橿原市(かしはらし)に行く道中に道に迷った[1代]神武天皇(じんむてんのう)が、三本足の八咫烏(やたがらす)に案内されて行き着いた地が宇陀市だ。

奈良県のこの周囲一帯が皇室の発祥の地と言っていい。

〔鎌倉時代〕
[91代]後宇多天皇(ごうだてんのう)。

●大阪府柏原市●

〔戦国時代〕
[104代]後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)。

読み方は柏原(かしわばら)だが、大阪府の南東部には柏原市(かしわらし)がある。

この周囲も古墳が点在しており飛鳥時代から奈良時代まで朝廷の一大拠点だった事を伺わせる。

よく間違えるのが大阪府は柏原市(かしわらし)で“わ”、奈良県は橿原市(かしはらし)で“は”、関西人でも認識できている人は2割弱しかいない。

●大阪府堺市南区●

〔江戸時代〕
[110代]後光明天皇(ごこうみょうてんのう)。

堺市の泉北ニュータウンにある光明池駅が、天皇との関係性は薄いと思うが、ただ、大阪府南部のこの一帯も古墳が多い。

堺市で最も有名な古墳は[16代]仁徳天皇(にんとくてんのう)の“大仙陵古墳”(だいせんりょうこふん)で、あまりにもの大きさに森林にしか見えず、有り難みの薄いお墓である。

●三重県亀山市●

〔鎌倉時代〕
[90代]亀山天皇(かめやまてんのう)。

名古屋から大阪に向かう高速道路のインターチェンジがある亀山市。

その昔はシャープの液晶テレビ工場が有名だったが、当のシャープが経営不振となり亀山工場は、今となってはどうなっているのか分からない。

山の中のインターチェンジ周辺に、ビジネスホテルが乱立していた光景が忘れられない。

〔室町時代〕
[99代]後亀山天皇(ごかめやまてんのう)。

●愛知県名古屋市瑞穂区●

〔江戸時代〕
[116代]桃園天皇(ももぞのてんのう)。

桃園と言う地名は、日本各地にあると思うが、インターネット検索で上位に上がったのが名古屋市瑞穂区だった。

それだけである。

こじ付けるとしたら、瑞穂(みずほ)は『実り豊かな国』を表すため、“神乃国”に通じるものがある。

[118代]後桃園天皇(ごももぞのてんのう)。

●愛知県豊田市●

〔江戸時代〕
[115代]桜町天皇(さくらまちてんのう)。

桜町と言う地名は、日本各地にあると思うが、インターネット検索で上位に上がったのが愛知県豊田市だった。

それだけである。

こじ付けるとしたら、天皇をはじめ皇室が乗る車は、トヨタ自動車の“センチュリー”が多い。

[117代]後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)。

●石川県小松市●

〔室町時代〕
[100代]後小松天皇(ごこまつてんのう)。

後小松天皇と石川県小松市は、全く関係ないと思う。

石川県の飛行場が小松市にある程度の知識しかない。

しいて言えば後小松天皇は、記念すべき100代目の天皇である。

●天皇即位●

この天皇即位だが、鎌倉時代には北条氏の“鎌倉幕府”が関与しており、持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)が交互に天皇を輩出する体制が採られた。

[88代]後嵯峨天皇(ごさがてんのう)から下記の通りである。

●持明院統(じみょういんとう)
[89代]後深草天皇(ごふかくさてんのう)。
[92代]伏見天皇(ふしみてんのう)。
[93代]後伏見天皇(ごふしみてんのう)。
[95代]花園天皇(はなぞのてんのう)。

●大覚寺統(だいかくじとう)
[90代]亀山天皇(かめやまてんのう)。
[91代]後宇多天皇(ごうだてんのう)。
[94代]後二条天皇(ごにじょうてんのう)。
[96代]後醍醐天皇(ごだいごてんのう)。

足利尊氏の“室町幕府”と対立した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)により、足利尊氏が樹立した京都の北朝と、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が継承する吉野の南朝の天皇2人体制が敷かれる。

この天皇2人体制は3代将軍の足利義満により南朝の天皇を主体とする事で南北朝時代に終止符を打つ。

ANNA NALICK /♪ BREATHE (2 AM)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20230608 - ラジオの友 URL

2023/08/16 (Wed) 19:23:09

◆◇◆とても興味深い地方のネットニュース◆◇◆

【伊達政宗の素顔】
https://m.youtube.com/watch?v=BYS5-SlvYjM

僕の名前は伊達政宗(だてまさむね)と申します。

巷(ちまた)では“独眼竜政宗”とか“伊達者”(だてしゃ)などと言う人が居ますが、はっきり言って迷惑です。

僕は怒っています。

そんな僕のお父さんは伊達輝宗(だててるむね)で、陸奥国(福島県)にある二本松城の城主だった畠山義継さん(はたけやまよしつぐ)と戦(いくさ)をして勝ったのですが、畠山義継さん(はたけやまよしつぐ)に拉致されそうになり、お父さんの伊達輝宗(だててるむね)は自分の家来に向かって『わしはいいから、この者達を撃てっ!』と言って銃撃されて畠山義継さん(はたけやまよしつぐ)諸共(もろとも)死んでしまいました。

お母さんは義姫(よしひめ)で、出羽国(山形県)の山形城の城主だった最上義守(もがみよしもり)の娘です。

ですから最上義守(もがみよしもり)がお爺ちゃんになります。

そして、父方のお爺ちゃんが出羽国(山形県)の米沢城の城主だった伊達晴宗(だてはるむね)です。

伊達氏(だてうじ)は“鎌倉幕府”から陸奥国(福島県)にある伊達郡の一帯を任されていた武家です。

そんな僕はお父さんの伊達輝宗(だててるむね)とお母さんの義姫(よしひめ)から、出羽国(山形県)の米沢城で1567年に生まれた子供です。

だから“戦国時代”の武将で有名な「のぶさん」こと織田信長さん(おだのぶなが)とは33才も離れています。

もし、「のぶさん」の時代に生まれていたら、とてもヤバかったです。

僕が一人前になった頃、その「のぶさん」が死んじゃったので、家臣だった「ヒデやぁん」こと豊臣秀吉さん(とよとみひでよし)が後を引継ぎ“天下統一”しました。

だから僕は「ヒデやぁん」の家来になりました。

「ヒデやぁん」が最後の大仕事で、相模国(神奈川県)にある小田原城の城主だった北条氏政さん(ほうじょううじまさ)と息子の北条氏直さん(ほうじょううじなお)を退治する“小田原征伐”に来るよう言われていたのですが、僕は大遅刻をしてしまいます。

遅刻の弁明を「あれやこれや」と考えたのですが、結局、打首になっても構わないから“死装束”(しにしょうぞく)で「ヒデやぁん」に会いました。

「ヒデやぁん」は『もう少し遅れたら打首にするとこだった。』と言って許してくれました。

その後は「ヒデやぁん」と仲良くなり、お茶を飲んで楽しく過ごしました。

ただ、いつもの癖で豊臣秀吉さん(とよとみひでよし)を「ヒデやぁん」と呼んでしまい、その時は『お前に「ヒデやぁん」と呼ばれる覚えはないっ! 次に言ったら本当に打首だぞっ!』と言ってえらい怒ってました。

その“小田原征伐”の時に馴染みになったのが、武蔵国(東京都)の江戸を拠点にしていた「やっさん」こと徳川家康さん(とくがわいえやす)です。

その御縁で僕の娘の天麟院(てんいんりん)と、「やっさん」の息子の徳川忠輝くん(とくがわただてる)の結婚が決まりました。

徳川忠輝くん(とくがわただてる)は“江戸幕府”の2代将軍となった徳川秀忠くん(とくがわひでただ)の弟です。

「ヒデやぁん」が病気で死んでしまい、その後を引継いだのが「やっさん」です。

ところが1600年に美濃国(岐阜県)で“関ヶ原の戦”が勃発して、さらに同年に出羽国(山形県)でも“慶長出羽合戦”が勃発しました。

この時、西軍は陸奥国(福島県)にある会津若松城(鶴ヶ城)の城主だった上杉景勝さん(うえすぎかげかつ)と家臣の直江兼続さん(なおえかねつぐ)に対して、東軍は出羽国(山形県)の山形城の城主だった最上義光さん(もがみよしあき)が迎え撃つものでした。

最上義光さん(もがみよしあき)は最上義守(もがみよしもり)の息子で、僕にとっては叔父さんにあたるので、当然に僕も東軍に付きました。

“慶長出羽合戦”は西軍の上杉景勝さん(うえすぎかげかつ)が有利でしたが、“関ヶ原の戦”で東軍の「やっさん」が勝利すると、西軍は撤退していきました。

この戦(いくさ)は“北の関ヶ原”とも呼ばれています。

負けた上杉景勝さん(うえすぎかげかつ)は「やっさん」にかなりの領地を没収され、出羽国(山形県)の米沢城のみとなりましたが、はっきり言って、米沢城は僕の生まれた所でもあるので返してもらいたかったです。

ただ「やっさん」は、僕には陸奥国(宮城県)の仙台城(青葉城)を領主として認めてくれました。

僕の心の中では『♪時は巡り〜 また夏が来て〜 あの日と同じ〜 流れの岸〜』(♪青葉城恋唄)と高揚して歌っていました。

しかし、1614年の“大坂・冬の陣”と1615年の“大坂・夏の陣”では、えらいトバッチリを受けました。

事もあろうか、義理息子の徳川忠輝くん(とくがわただてる)が参戦に遅刻した理由を『義父の伊達政宗さん(だてまさむね)が謀反を企てて、それを阻止するため説得していたので遅刻しました。』と大将軍の「やっさん」に弁明したため、その後、「やっさん」を含め“徳川幕府”から僕は疑いの目を掛けられました。

『義理の息子よ、お前も大事な合戦で遅刻したのかよ! 血統では無いとは言え、家族として争えないな!』と思いました。

ただ、駿河国(静岡県)にある駿府城で病床に臥(ふ)せっていた「やっさん」へ、仙台銘菓の“萩の月”を持参してお見舞いに行ったら『お前を誤解していた。 後は頼む。』と言ってくれました。

「やっさん」が死んじゃった後は、“徳川幕府”の2代将軍となった徳川秀忠くん(とくがわひでただ)と、3代将軍となった徳川家光くん(とくがわひいえみつ)までしっかりと仕(つか)え、僕も1636年の69歳でみんなと同じ様に往生(おうじょう)しました。

とても幸せな人生でした。

おわり。

BARBRA STREISAND /♪ THE MAIN EVENT&FIGHT

◆ラジオの友◆

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