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1:ラジオの友
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2023/05/13 (Sat) 20:26:31
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https://bbs5.fc2.com//bbs/img/_876800/876749/full/876749_1683977191.jpg
◆◇◆名前は変わるよ、どこまでも◆◇◆
戦国時代の有名武将では、戦場を駆け回っていた時と、偉くなって一国一城の主人(あるじ)になった時と、名前が違う事が多い。
現代人からすれば、いったい誰がどれなのか、本人は本当に実在したのかなど、思考回路の混迷と理解に苦しむ事がある。
その最もたるは、学生時代に歴史の教科書を開いた事のない“落ちこぼれ”でも知っている豊臣秀吉(とよとみひでよし)である。
尾張国(愛知県)で生まれ育った豊臣秀吉(とよとみひでよし)の出生は、あまり知られておらず、結婚したおね(高台院/北政所)の生家が木下家だったため、その頃から木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗る。
その後、主君となる尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが)に仕え、戦(いくさ)に明け暮れていた時期から羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、織田信長(おだのぶなが)が「本能寺の変」で亡くなった後に“天下統一”を果たし、現在でもよく知られる豊臣秀吉(とよとみひでよし)となったのは、山城国(京都府)の伏見城や摂津国(大阪府)の大坂城を行ったり来たりしていた時である。
ただ、これは一部にしか過ぎず、改名の史実はもっと細分化されている。
順を追うと、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)→猿(サル)→ 羽柴秀吉(はしばひでよし)→禿げ鼠(ハゲネズミ)→ 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の流れで覚えると分かりやすい。
ちなみに生まれ故郷の尾張国(愛知県)では、親しみを込めて“秀やぁん”と呼んでいる。
尾張国(愛知県)では、やはり織田信長(おだのぶなが)の人気がダントツに高く、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は少し隠れ気味だ。
逆に摂津国(大阪府)では“商人の街”らしさが色濃く出ており、“草履取り”(ぞうりとり)から“天下人”になった立身出世(りっしんしゅっせ)のストーリーが大ウケで、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の人気は絶大に高い。
その証拠に、大阪府の紋章は太閤となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)の象徴でもある“千成瓢箪”(せんなりびょうたん)を図案化しており、新幹線の新大阪駅のコンコースにも大きな“千成瓢箪”(せんなりびょうたん)が展示してある。
また、今の大阪城は昭和時代に民間人の寄付だけで復元された模擬城であることから、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に対する大阪人の“愛情”は、天保山(てんぽうざん)よりも高く、万代池(まんだいいけ)よりも深い。
そんな大阪人に愛される“秀やぁん”こと豊臣秀吉(とよとみひでよし)だが、では、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は誰を愛していたのか?
もちろん苦労を共にした奥さんのおね(高台院/北政所)は当たり前である。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)が男として本当に愛したのは、やはり自分を見出してくれた主君の織田信長(おだのぶなが)であろう。
そんな豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、晩年に居住していた山城国(京都府)の伏見城で、こんな歌を残している。
豊臣秀吉…『♪京都にいるときゃ〜 関白(かんぱく)と呼ばれたの〜 大坂じゃ〜 太閤(たいこう)と名乗ったの〜 尾張の戦地に〜 戻ったその日から〜 あなた(織田信長)が探して〜 くれるの待つわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』
豊臣秀吉…『♪忘れた事など〜 一度もなかったわ〜 いろんな武将(徳川家康や柴田勝家)を〜 知るたびに〜 いつもこの胸〜 かすめる面影の〜 あなた(織田信長)を信じて〜 ここまで来たわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』
豊臣秀吉…『♪あなた(織田信長)の似顔を〜 指物(さしもの/旗)に書きました〜 秀吉の命と〜 書きました〜 流れ武将の〜 最後の止まり木に〜 あなた(織田信長)が止まって〜 くれるの待つわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』(♪昔の名前で出ています)
OASIS /♪ THE HINDU TIMES
◆ラジオの友◆
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2:ラジオの友
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2023/05/13 (Sat) 20:44:12
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◆◇◆忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
歴史上の人物を紹介する際、ほとんどが将軍や大名など、その組織の頂点に君臨していた1人がほとんどだ。
当然、現代人が目を向けるのは、その1人のみである。
ただ、合戦や功績は、その1人の影に数百人や数万人の名の知れない配下の人物も大勢いる。
一般人に分かりやすく例えると、連邦軍とジオン軍が戦った宇宙世紀(U.C.)の時代、人々の記憶に残っているモビルスーツ(MS)と言えば、連邦軍ではアムロやカイなどが操った“ガンダム”や“ガンキャノン”や“ガンタンク”、ジオン軍ではシャアやランバラルなどが操った“ザク”や“グフ”や“ゲルググ”が注目され人気も高い。
ただ、考えて欲しい。
「1年戦争」で戦ったモビルスーツ(MS)は、連邦軍では“ジム”や“ボール”、ジオン軍では“ゴッグ”や“アッガイ”や“ゾック”など、それに名も知れない兵士が大勢いた。
この事を踏まえて歴史を再び考え直すと、もっと違った見方ができ、気付かなかった史実を知る事もできる。
日本人が最も関心の高い戦国時代の“三英傑”(さんえいけつ)と言われる織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康(とくがわいえやす)。
この3人以外にも、多くの偉人や賢人が隠れている。
その事を掘り下げて知ってもらいたいと思うは、現代の歴史家や学者もそうだが、本当に彼らに光を当てる事を望んでいるのは、織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康(とくがわいえやす)の“三英傑”(さんえいけつ)の本人達であろう。
FONTAINES D.C. /♪ Jackie Down The Line
◆ラジオの友◆
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3:ラジオの友
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2023/05/13 (Sat) 20:45:03
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◆◇◆ 織田軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
この日本で最も人気のある尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが/織田)。
ただ、どうしてそこまで人気を集める事ができるのか、説明できる人は少ないと思う。
だって、誰1人として織田信長(おだのぶなが/織田)に会った事がないのに。
織田信長(おだのぶなが/織田)という名前の格好良さからか?
う〜〜ん、深く考えてみても、やはり分からない。
ちなみ織田信長(おだのぶなが/織田)の生まれ故郷でもある尾張国(愛知県)や、“天下布武”(てんかふぶ)を掲げた美濃国(岐阜県)でも人気が高く、中部圏では親しみを込めて“のぶさん”と呼んでいる。
武将としての織田信長(おだのぶなが/織田)の全盛期には“織田四天王”と言う側近の家臣団があった。
●柴田勝家(しばたかついえ/織田)は、元は弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)の家臣だったが、織田氏のお家騒動の際に織田信長(おだのぶなが/織田)の元に落ち着いた。
後に妹で“小牧山の美女”と言われたお市の方(おいちのかた/織田→浅井→織田)を妻にしている。
織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)で争い越前国(福井県)にてお市の方(おいち/織田→浅井→織田)と共に自決した。
お市の方(おいちのかた/織田→浅井→織田)と浅井長政(あざいながまさ/浅井)との間に生まれた3人娘が、茶々(ちゃちゃ/浅井→豊臣)で後の淀君(よどぎみ/豊臣)と名乗り豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の側室となる。
初(はつ/浅井)は織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣だった京極高次(きょうごくたかつぐ/織田→豊臣→徳川)の妻となる。
江(ごう/浅井→徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の息子で征夷大将軍2代目となる徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の妻となる。
柴田勝家(しばたかついえ/織田)本人は不快感を示すが、“顔面凶器”との異名を持つ。
●丹羽長秀(にわながひで/織田)は、“室町幕府”の足利氏の三管領(さんかんれい)だった斯波氏、細川氏、畠山氏のうち、尾張国(愛知県)の領地を統治する斯波氏の家臣だった丹波氏の流れ。
織田信長(おだのぶなが/織田)の出世合戦の「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)や「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらたたかい)や「姉川の戦」(あねがわのたたかい)に参戦して大活躍をした。
今でも愛知県北部に丹羽郡として地名が残っている。
●滝川一益(たきがわかずます/織田)は、近江国(滋賀県)の甲賀出身と言われ、実は忍者(透波/すっぱ)だった疑いが持たれている。
その証拠に、親族に甲賀流忍者のケムマキくんが居たり、水面を歩いたり、壁から突然出て来たりし、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)を大いに楽しませた。
最も気に入ったのは、百発百中の鉄砲の名手だった事にあります。
●明智光秀(あけちみつひで/織田)は美濃国(岐阜県)の出身と言われ、現在も岐阜県東部に明智町がある。
元は征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/足利)に仕えていたが、親戚筋となる濃姫(のうひめ/斎藤→織田)の縁で織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣になったと言われる。
やはり一番に頭に浮かぶのが1582年に起こった“主君裏切り”の「本能寺の変」(ほんのうじのへん)であろう。
ただ、明智光秀(あけちみつひで/織田)の功績は、近江国(滋賀県)は琵琶湖の湖畔に築城した坂本城が、後の天守閣を構えるお城の原型だったと言われ、実は築城名人でもあった。
また、敵陣のお城を水で包囲する“水攻め”は、備中国(岡山県)にある毛利氏のお城の備中高松城を、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊が実施したのが有名だが、その前に明智光秀(あけちみつひで/織田)が丹波国(兵庫県)を攻略する最中(さなか)に考案したとされる。
ただし歴史上で言えば、中国大陸の“三国志”などでは敵陣のお城に対する“水攻め”を実施しているので、中国の兵法が伝来したと思われる。
明智光秀(あけちみつひで/織田)の家臣だった斎藤利三(さいとうとしみつ/明智)は「本能寺の変」(ほんのうじのへん)に加担した罪で、京都の六条河原で処刑された。
その斎藤利三(さいとうとしみつ/明智)の娘が後の春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)で、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と江(ごう/浅井→徳川)の息子で征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の乳母となり、“徳川幕府”の大奥を取り仕切るまでに出世した。
これにより織田信長(おだのぶなが/織田)の姪の江(ごう/浅井→徳川)と、明智光秀(あけちみつひで/織田)の家臣だった斎藤利三(さいとうとしみつ/明智)の娘の春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)が、同じ江戸城で暮らす不思議な関係となる。
Jonathan Personne /♪ Rock & Roll Sur Ton Chemin
◆ラジオの友◆
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4:ラジオの友
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2023/05/13 (Sat) 20:45:56
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◆◇◆ 織田軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
この“織田四天王”とは別に、後世まで名と功績を残した織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣団もいる。
●平手政秀(ひらてまさひで/織田)は、主君の織田信秀(おだのぶひで/織田)の重鎮家臣で、織田信長(おだのぶなが/織田)がまだオムツをしている頃から面倒を見ている。
“尾張の大うつけ”と陰口を言われる織田信長(おだのぶなが/織田)に対して英才教育を施すも、全く効き目がなく、最後は自らの命と引き換えに若殿を更生させ様とする。
“尾張の大うつけ”は織田信長(おだのぶなが/織田)の演技策略だった事は、平手政秀(ひらてまさひで/織田)が“黄泉の国”に行ってから知る事となる。
織田信長…『爺(じい)、早まったなっ! ただ、爺(じい)をも騙せた俺の演技力はオスカー賞ものだろぅ!』
平手政秀…『たわけぇ〜 演技って早よ言えっ! お前は刑事コロンボかっ!』
●佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)は、主君の織田信秀(おだのぶひで/織田)が亡くなり、織田信長(おだのぶなが/織田)が家督争いをしている時から仕える古参家臣。
「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)など主要合戦にも参戦し、山口教継(やまぐちのりつぐ/織田→ 今川)と山口教吉(やまぐちのりよし/織田→ 今川)の山口親子亡き後の尾張国(愛知県)の鳴海城の城主にもなっている。
ただ、越後国(福井県)の最後の当主でもある朝倉義景(あさくらよしがげ/朝倉)への攻撃方法や浄土真宗の一向一揆への対応など、織田信長(おだのぶなが/織田)との行き違いにより、30年近く仕えた織田軍から離反する事になる。
●水野信元(みずののぶもと/今川→織田)は、三河国(愛知県)との国境にある尾張国(愛知県)のその名も境川(さかいがわ)の近くにある緒川城(おがわじょう)の城主だった水野忠正(みずのただまさ/今川)の息子で、徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の母親の於大の方(おだいのかた/水野→松平)の兄でもある。
父親の水野忠正(みずのただまさ/今川)は、駿河国(静岡県)や遠江国(静岡県)の戦国大名だった今川義元(いまがわよしもと/今川)の家臣だったが、水野信元(みずののぶもと/今川→織田)の代になって織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣になった。
「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)の前哨戦とも言われる尾張国(愛知県)の知多半島の付け根で、今川義元(いまがわよしもと/今川)の軍勢が尾張攻略のため砦を築き、そこに織田信長(おだのぶなが/織田)と水野信元(みずののぶもと/今川→織田)の軍隊が領地奪還を目指して合戦が繰り広げられ、織田軍が勝利した。
1554年に起こった「村木砦の戦」(むらきとりでのたたかい)と呼ぶ。
この戦(いくさ)では、両軍のかなりの数の兵士が命を落とし、合戦後に戦勝会を開いた織田信長(おだのぶなが/織田)は涙を流しながら生き残った兵士を労(ねぎら)ったと言う。
その場所は、戦場から近い丘の上で“飯喰場”(いぐいば)と呼ばれている。
ただ、水野信元(みずののぶもと/今川→織田)の最期は謀反を疑われ、織田信長(おだのぶなが/織田)の命令により甥の徳川家康(とくがわいえやす/徳川)により斬首された。
●山口教継(やまぐちのりつぐ/織田→ 今川)は尾張国(愛知県)にある鳴海城の城主。
1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)の重要人物でもある。
鳴海城の城主を息子の山口教吉(やまぐちのりよし/織田→ 今川)に譲った頃に、主君の織田信秀(おだのぶひで/織田)が死去し、家督を息子の織田信長(おだのぶなが/織田)が引継いだ。
この時期と同じくして、主君を織田氏から今川氏にくら替えし、さらに鳴海城の近くの大高城と沓掛城(くつかけじょう)も今川義元(いまがわよしもと/今川)の領土にしてしまった。
織田氏の領土でもある尾張国(愛知県)東部に、今川義元(いまがわよしもと/今川)の領土が広域にできる事は、織田信長(おだのぶなが/織田)かつ織田軍にとって死活問題である。
予想通り今川義元(いまがわよしもと/今川)はこれを機会に、駿河国(静岡県)から大軍を率いて尾張国(愛知県)へ侵攻を始めた。
予想に反して「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、織田軍の勝利に終わる。
織田信長(おだのぶなが/織田)はこの勝利を、合戦前に参拝した熱田神宮に祀られる天照大御神(アマテラス)かつ倭建御子(ヤマトタケルノミコ)の御恩(ごおん)による『熱田明神の神戦(かみいくさ)かっ!』と話したが、果たして本当にそうだろうか?
山口教継(やまぐちのりつぐ/織田→ 今川)と山口教吉(やまぐちのりよし/織田→ 今川)の山口親子は「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)の前に、今川義元(いまがわよしもと/今川)に呼び出され駿河国(静岡県)に出向き、そこで謀反の疑いで切腹させられている。
今川義元(いまがわよしもと/今川)の為に尾張国(愛知県)の重要拠点でもある3城を明渡した奉公(ほうこう)を、切腹と言う仇(あだ)で返された山口親子の『怨念』は、富士山よりも高く、駿河湾よりも深い。
その『遺恨』は、今川義元(いまがわよしもと/今川)の大軍を、尾張国(愛知県)の鳴海城と大高城と沓掛城(くつかけじょう)の三角地点の中にある桶狭間へ誘(おび)き寄せ、そこで『報復』したとも考えられる。
現在でも、鳴海城と大高城のある尾張国(愛知県)の知多郡には、山口氏の子孫が大勢暮らしている。
織田信長…『そうだったのかっ!』
山口親子…『その通り!』
今川義元…『あの時は疑って、切腹までさせてゴメンねぇ〜』
山口親子…『いいよぉ〜』
織田信長…『許すんかぁ〜〜い!』
●豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は木下藤吉郎(きのしたとうきちろう/織田)の時代、冬場に織田信長(おだのぶなが/織田)の草履を懐(ふところ)で温める“草履取り”から始まる出世への道。
織田信長(おだのぶなが/織田)が、義父でもある美濃国(岐阜県)の戦国大名の斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の息子の斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)と争う美濃攻略の際、長良川沿いに一夜にして築いた墨俣城(すのまたじょう)が有名。
これを1566年に起こった「墨俣一夜城」(すのまたいちやじょう)と呼ぶ。
●池田恒興(いけだつねおき/織田→ 豊臣)は、母親が織田信長(おだのぶなが/織田)の乳母のため、当人同士は乳兄弟となる。
1570年に、織田氏のお城だった尾張国(愛知県)にある犬山城の城主になる。
織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後の“清洲会議”に出席した4人の内の1人で、他の3人は、柴田勝家(しばたかついえ/織田)、丹羽長秀(にわながひで/織田)、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)。
その後に織田軍の分裂が起こり、尾張国(愛知県)の北部から東部にかけて、織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の連合軍、それに敵対する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の羽柴軍の権力闘争が勃発した。
池田恒興(いけだつねおき/織田→ 豊臣)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の懐刀でもあった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に味方するも、徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の徳川軍の総攻撃に遭い、息子の池田元助(いけだもとすけ/織田→ 豊臣)と共に戦場で討死した。
これを1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)と呼ぶ。
●佐々成政(さっさなりまさ/織田→ 豊臣)は、斯波氏から仕える武将の流れ。
織田信長(おだのぶなが/織田)に命じられ柴田勝家(しばたかついえ/織田)が布陣する越前国(福井県)を守る佐々成政(さっさなりまさ/織田→ 豊臣)と前田利家(まえだとしいえ/織田→ 豊臣)と不破光治(ふわみつはる/斎藤→織田)は“府中三人衆”(ふちゅうさんにんしゅう)と呼ばれた。
佐々成政(さっさなりまさ/織田→ 豊臣)は越中国(富山県)の領主となり、富山城を居城とする。
織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後、「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)では柴田勝家(しばたかついえ/織田)に味方するも敗戦したため豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏する。
その後、織田軍の権力闘争が勃発した「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)では織田信雄(おだのぶかつ/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の連合軍に味方する。
しかし、織田信雄(おだのぶかつ/織田)が誰の相談もなく豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏してしまい、結局「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)は勝敗つかずにウヤムヤに終わる。
その後も佐々成政(さっさなりまさ/織田→ 豊臣)は越中国(富山県)から山を越えて遠江国(静岡県)の浜松城に居城していた徳川家康(とくがわいえやす/徳川)を何度も訪問し、『豊臣秀吉の討伐!』を必死に訴えるも、より良い返事はもらえなかった。
逆に反発する佐々成政(さっさなりまさ/織田→ 豊臣)を征伐するため豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は大軍を率いて越中国(富山県)の富山城を攻撃して降伏させる。
佐々成政(さっさなりまさ/織田→ 豊臣)は領土を没収され、当面の間は宿無しとなる。
ただ、九州にて浄土真宗の一向一揆が勃発し、制圧のため肥後国(熊本県)の領土を与えられる。
しかし、肥後国(熊本県)の佐々成政(さっさなりまさ/織田→ 豊臣)がとった政策は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の意に反するとして切腹を命じられ自決する。
●前田利家(まえだとしいえ/織田→ 豊臣)は尾張国(愛知県)の武将で、日本初の“ツッパリ”と言われる。
主君の織田信長(おだのぶなが/織田)ですら手を焼いた“武勇伝”を数多く残している。
前田利家…『ルールは俺だっ! はっきり言って誰の言う事も聞かないぜっ!』
前田利家(まえだとしいえ/織田→ 豊臣)の性格が、現在までの“ツッパリ都市・名古屋”の語源にもなり、その影響は“ツッパリ猫”の「又吉&なめんなよ」も名古屋で発祥させている。
その“ヤンチャ”な性格も、まつ(芳春院/織田→豊臣)を妻にしてから多少は大人しくなる。
織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後は、戦国末期の動乱を乗り越えて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が統治する“豊臣五大老”の1人まで昇り詰める。
そして加賀国(石川県)の領主となり、妻のまつ(芳春院/織田→豊臣)と共に「加賀百万石」の礎(いしずえ)を築く。
尾張国(愛知県)での前田利家(まえだとしいえ/織田→ 豊臣)の若い時を知っている御老体はこう呟(つぶや)く。
御老体…『あの“ツッパリのトシ”と言われた子がねぇ〜 加賀ではお殿様かぁい、ご立派になりやぁ〜したな〜』
前田利家…『デェヘヘヘェ〜』
●蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、近江国(滋賀県)の六角氏の家臣の一族だったが、子供の頃に織田氏の人質として織田信長(おだのぶなが/織田)と共に育てられる。
蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は武将としての才覚もあり優秀で、織田信長(おだのぶなが/織田)とも仲が良かったと言う。
その縁で、織田信長(おだのぶなが/織田)の娘の相応院(そうおういん/織田)を妻にする。
「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で織田信長(おだのぶなが/織田)が亡くなった直後は安土城に居た織田一族を護衛し、明智光秀(あけちみつひで/織田)の軍隊から守り抜く。
その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に仕え、陸奥国(福島県)の会津の領主となる。
これは同じ奥州の陸奥国(宮城県)の仙台の領主だった伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣)を監視する意味もある。
最期は重い病気にかかり亡くなる。
大阪市城東区には“蒲生四丁目”(がもよん)と言う交差点と地下鉄の駅があるが、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)とは全く関係ない。
CAESARS /♪ JERK IT OUT
◆ラジオの友◆
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5:ラジオの友
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2023/05/13 (Sat) 20:46:59
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◆◇◆名前は変わるよ、どこまでも◆◇◆
武士の改名癖(かいめいへき)。
日本で最も人気のある尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが)は意外と少ない。
織田氏で生まれ吉法師(きっぽうし)と有難い名前を頂戴し、その後、織田信長(おだのぶなが)として成人していく。
“のぶさん”の改名はたったの1回である。
逆に最も多いのが、三河国(愛知県)の戦国武将の徳川家康(とくがわいえやす)である。
松平氏で生まれ竹千代(たけちよ)と有難い名前を頂戴し、その後、松平元信(まつだいらもとのぶ)になり、松平元康(まつだいらもとやす)になり、松平家康(まつだいらいえやす)になり、徳川家康(とくがわいえやす)になった。
4回も改名している。
しかも松平氏から徳川氏へ氏(うじ)を変えている。
どう言う事か?
実は徳川家康(とくがわいえやす)の先代は、あの鎌倉時代から室町時代に活躍した上野国(群馬県)の武将の新田義貞(にったよしさだ)の親族筋の新田氏と言われる。
この新田氏も元を辿(たど)れば源義重(みなもとよししげ)の家系で、その大元(おおもと)が平安時代から鎌倉時代に活躍した清和源氏の源義家(みなもとよしいえ)となる。
そのため、ある程度の力を付けて三河国(愛知県)の一国領主となった松平家康(まつだいらいえやす)は、1566年に第106代天皇の正親町天皇(おおぎまちてんのう)が司(つかさど)る朝廷から清和源氏の流れとして徳川氏を頂戴した。
そんな源氏の流れを汲(く)む徳川家康(とくがわいえやす)だが、海と湿地帯を開拓し“江戸幕府”を開いた武蔵国(東京都)、今川義元(いまがわよしもと)の人質時代の幼少期に過ごし、晩年には駿府城で隠居生活を送った駿河国(静岡県)、織田信長(おだのぶなが)との“清洲同盟”の後に初めて領地拡大し浜松城などを築城した遠江国(静岡県)、生まれ故郷の岡崎城がある松平氏の本拠地の三河国(愛知県)、“江戸幕府”の開設後に巨大なお城の名古屋城を築いた尾張国(愛知県)では、親しみを込めて“やっさん”と呼んでいる。
ほぼ東海道に沿って所縁(ゆかり)の地が点在する。
その為か?
現在でも東海道新幹線に乗車すると、東京駅〜新大阪駅の間に、1編成につき3割の乗車客が、どこかの地点で『やっさん』と口走る。
まず、東京駅を出発する前から始まっている。
乗車客…『皇居や日比谷公園など、この東京駅一帯は“やっさん”が造ったんだよねぇ〜 今ではビル1棟が数千億円で取引される世界的にも代表される大都市だよぉ〜 その先駆けを造った“やっさん”の都市整備計画は凄いよねぇ〜』
新幹線が発車して数十分後に小田原駅を通過する。
乗車客…『1590年に起こった北条氏政(ほうじょううじまさ)と北条氏直(ほうじょううじなお)の北条親子に対する“小田原攻め”では、勝利を手にした“秀やぁん”が家臣でもある“やっさん”に対して、生まれ故郷の三河国(愛知県)から武蔵国(東京都)の江戸に国替させたんだよねぇ〜 その時、“やっさん”は泣いただろうねぇ〜』
そうのこうのしている内に新幹線は富士山を過ぎて静岡駅に近づく。
乗車客…『静岡と言えば緑茶と、“やっさん”が安眠する“久能山東照宮”(くのうざんとうしょうぐう)でしょ。 あと、いつになったら駿府城の天守閣を再築するのかねぇ〜 心待ちにしている“やっさん”もそんなに気長に待てないよねぇ〜 “やっさん”怒ると怖いからねぇ〜』
新幹線の車内に、“鰻の蒲焼き”の香ばしいかおりがしてきたら浜松駅に接近中である。
乗車客…『浜松と言えば浜名湖に、“やっさん”が居城とした浜松城でしょ。 あと武田信玄(たけだしんげん)の大軍と戦った“やっさん”の苦い思い出の、1573年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)もこの辺りでしょ。 あの時の“のぶさん”はちょっと酷(ひど)いよなぁ〜 “やっさん”に援軍を出す約束をしておいて、徳川軍の敗戦となってから現れたからなぁ〜』
新幹線の車内に、みかんの“柑橘系”のかおりがしてきたら豊橋駅を通過中である。
乗車客…『ちょうど東三河のこの辺りだなぁ〜 武田信玄(たけだしんげん)亡き後を引き継いだ息子の武田勝頼(たけだかつより)が率いる武田軍と対戦したのは。 1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)は、前回の仕返しもある“やっさん”もだけど、親戚関係にある織田氏を裏切る行動をした武田氏に対してお怒りだった“のぶさん”の本気度も凄かったなぁ〜 平地の騎馬隊での戦(いくさ)を得意とする武田軍に対して、予め防御策を築いた上で、鉄砲隊の“三段撃ち”は戦国合戦の手法を根本から変えた出来事だよねぇ〜』
♪テンテテンレェ〜 テンテテンレェ〜 テンテテンレェ〜 テン〜 テンテテンレェ〜 テンテテンレェ〜 テンテテンレェ〜 テン〜 テレェレェ〜ン〜〜
⦅只今、三河安城駅を定刻で通過致しました。 次の名古屋駅までおよそ9分です。⦆
乗車客…『三河安城駅を通過と言う事はだっ! “やっさん”の生まれ故郷の三河国(愛知県)の岡崎城も近しっ! ただ、“やっさん”が生まれた松平氏の嫡流(ちゃくりゅう)は、この安城の安祥松平氏(あんじょうまつだいらし)が本家本元だからなぁ〜 三河安城駅は必要ないと言う輩(やから)は“やっさん”に征伐されるぜっ!』
そうしている内に、近未来都市みたいなグネグネした高速道路網を新幹線が潜(くぐ)り抜けると、在来線の東海道本線と並行して走る。
乗車客…『ここが東海道新幹線で一番の“やっさん”&“のぶさん”のビュースポット! 右に見える丘が、あの1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)で、“のぶさん”の織田軍が築いた丸根砦(まるねとりで)と鷲津砦(わしづとりで)、左に見える山が今川軍として参戦した“やっさん”が居城した大高城。 ここを通る度(たび)にゾクゾクして興奮するぜぇ!』
その興奮冷めやらぬ前に新幹線は名古屋駅に定刻通りに到着です。
乗車客…『あっ〜 名古屋駅に来たら、やっぱり駅ホームの“きしめん”食べたいっ〜 “やっさん”は“きしめん”より八丁味噌を使った“味噌煮込みうどん”だろうなぁ〜 ところで、尾張名古屋は城で持つ!って言うけど、“やっさん”が“天下普請”(てんかぶしん)で造らせた名古屋城は、何で鯱鉾(しゃちほこ)が金箔貼りなんだろうなぁ〜? 雨に濡れて剥(は)げないのかぁ〜? 不思議だなぁ〜?』
秒単位で運行されている新幹線に、駅のホームで“きしめん”を食べる時間などあるはずもなく、無情にも新幹線は名古屋駅を発車する。
当然、たわけた質問にも答える時間も、無い。
そうすると、新幹線はあっと言う間に岐阜羽島駅を通過して行く。
乗車客…『天下分け目の大戦(おおいくさ)、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)なしには“やっさん”を語れないねっ! 実質、この合戦で戦国の世が終わり、“やっさん”は争いの無い江戸時代を築く事ができたからねぇ〜』
伊吹山を眺めながら新幹線も美濃国(岐阜県)から近江国(滋賀県)に走り流れ、琵琶湖を中心に最も重要拠点の関所の“不破の関”(ふわのせき)に想いを馳せる。
乗車客…『この辺りもゾクゾクする興奮スポットだよねぇ〜 1570年に起こった「姉川の戦」(あねがわのたたかい)も“のぶさん”と“やっさん”の織田徳川連合軍と、浅井長政(あざいながまさ)と朝倉景健(あさくらかげたけ)の浅井朝倉連合軍の激突! 大乱闘の末、織田徳川連合軍が勝利し、後に浅井氏と朝倉氏は滅亡しちゃうんだよねぇ。 その時の“のぶさん”の妹のお市の方(おいちのかた)の気持ちを汲(く)み取ると・・・ うわぁ〜〜ん かわいそうだよぉ〜 うわぁ〜〜ん』
乗車客…『ひっく ひっく・・・ しかも、「姉川の戦」(あねがわのたたかい)で“のぶさん”に加担した“やっさん”の徳川軍、勝利したのに“のぶさん”からの論功行賞(ろんこうこうしょう)がなく、“やっさん”は自腹で戦(いくさ)に参戦して大赤字だよぉ〜 “やっさん”の気持ちを汲(く)み取ると・・・ うわぁ〜〜ん かわいそうだよぉ〜 うわぁ〜〜ん』
一時、新幹線の車内は騒然となるが、何とか定刻で京都駅に到着する。
乗車客…『右に見える大きなお寺が“やっさん”が建てた東本願寺で、その西側にあるお寺が“秀やぁん”が建てた西本願寺だねぇ。 何で同じ様なお寺が2つも狭い京都市内にあるんだ? どっちかをマンションかホテルに建替たらいいんじゃねぇ?』
親鸞…『この罰当たりがぁ〜〜!』
浄土真宗の開祖の親鸞(しんらん)に御説法を受けた後、新幹線は終点の新大阪駅を目指し京都駅を発車します。
但し、新幹線が京都駅を出て大山崎辺りを過ぎた頃からの“やっさん”には、人種により認識の違いが出てくるので注意が必要である。
関西系乗車客…『そう言えば“やっさん”なぁ〜 摂津から淀川を舟で下(くだ)って天満橋辺りで舟降りてなぁ〜 そこから難波の“花月”(かげつ)まで通ってたらしいわぁ〜 “やっさん”凄いやろぉ!』
この地域での“やっさん”は、“俺は浪花の漫才師”でお馴染みの横山やすしさんの事である。
やっさん…『怒るでぇ、ほんまにぃ〜』
*新大阪駅発の東京駅行きは逆になります。
SOUP DRAGONS /♪ I'M FREE
◆ラジオの友◆
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6:ラジオの友
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2023/05/20 (Sat) 21:33:09
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◆◇◆ 豊臣軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
織田信長(おだのぶなが/織田)が1582年に起こった「本能寺の変」で死去すると、その戦国の変乱を制したのが豊臣秀吉(とよとみひでよし/豊臣)であった。
主君の織田信長(おだのぶなが/織田)の意志を引継いでそのまま“天下人”となる。
そんな豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)だが、“天下人”になれた背景には、大勢の優秀な家臣が居たからこそである。
それは織田軍から引継いだのもあれば、戦国武将として一から築いたのもある。
まずは“天下人”となった後の“豊臣五大老”から見ていこう。
●徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣)は三河国(愛知県)の戦国武将で、1562年に締結された「清洲同盟」により尾張国(愛知県)の戦国武将である織田信長(おだのぶなが/織田)とは対等関係にある。
そんな織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣)を配下に置いた家臣とした歪(いびつ)な関係が生じている。
これは、1582年の織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後の「清洲会議」にて、織田軍の動乱で有力武将同士が覇権争いを起こし、その1つが1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)である。
織田信長(おだのぶなが/織田)の次男である織田信雄(おだのぶかつ/織田)を大将に、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣)が加勢した織田徳川軍と、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣(羽柴)軍が対立した。
この合戦の結果は、織田信雄(おだのぶかつ/織田)が誰にも相談する事なく勝手に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏したため、勝敗付かずのウヤムヤに終わる。
ただ、結果的に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が織田軍の後継者として認知され“天下人”となる。
これにより三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣軍の配下で1人の大名となった。
織田信長…『家康殿、本当にサル(豊臣秀吉)の配下で良いのか?』
徳川家康…『僕は幼い頃から人質生活が長く“我慢の子”だから、こんな事くらいヘッチャラでござる!』
織田信長…『ほほぉ〜う、関心じゃのう。』
徳川家康…『信長殿にされた酷(ひど)い仕打ちに比べれば、秀吉殿に仕えるのは屁(へ)みたいなものですわぁ。』
織田信長…『・・・ 面目ない。』
●前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)は元は織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣。
尾張国(愛知県)の下積時代から前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は“マブダチ”(親友)である。
その為、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の奥さんのまつ(芳春院/織田→豊臣)と、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の奥さんのおね(高台院、北政所/豊臣)も“ママ友”(親友)である。
その証が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が権力闘争した「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)に影響を与えている。
一応、柴田勝家(しばたかついえ/織田)の軍隊に付いた前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の軍隊だったが、戦(いくさ)が始まると豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊と一戦も交える事なく戦線離脱してしまった。
これにより柴田勝家(しばたかついえ/織田)の軍隊は総崩れとなり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊が勝利する。
まつ…『あんたぁ〜 尾張の清洲に住んでいた時、おねちゃんにお醤油とかお塩とか借りている御恩があるのよねぇ〜 それにあたい達2人で稲沢の“はだか祭”を観に行った時に、子供の面倒を見てもらったじゃない。 本当に“秀やぁん”を攻めるの?』
前田利家…『う〜〜ん そうでござるなぁ〜 勝家殿には申し訳ないが撤退だっ!』
まつ(芳春院/織田→豊臣)の一言で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が“天下人”になったと言っても過言ではない。
また、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が1598年に亡くなり、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣)が直ぐに“政権交代”に動かなかったのは、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)を恐れていたからと言われる。
その証に1599年に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が亡くなり、その1年後の1600年に天下分け目の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)は動いている。
やっぱり“三河のドン”も、何をしでかすか分からない“ツッパリのトシ”には警戒していた。
前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の前田氏で忘れてならないのが前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)で、織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣だった尾張国(愛知県)の滝川氏に生まれたが、前田氏の養子になり前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)とは従兄弟の関係にあたる。
“ヤンキーの慶次”との異名を持つ前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)は、“ツッパリのトシ”と呼ばれた前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)とは馬が合わなかったと言う。
前田慶次…『俺の生涯の師匠であり主君は、上杉景勝殿を置いて他にはないぜぇ!』
前田利家…『お前、俺に似過ぎて、ちょっと嫌だなぁ〜』
前田氏の養子とは言え、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)とは気質が瓜二つである。
●毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は安芸国(広島県)の戦国大名で“3本の矢”で有名な毛利元就(もうりもとなり/毛利)の孫、毛利隆元(もうりたかもと/毛利)の息子である。
必然的に吉川元春(きっかわもとはる/毛利)と小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が叔父にあたる。
西日本の最大勢力でもある毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)が率いる毛利軍は、中日本の中枢勢力となりつつある織田信長(おだのぶなが/織田)の織田軍と対立していた。
がっ、京都にて織田信長(おだのぶなが/織田)に追放された征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/足利)が毛利氏を頼って備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら)に腰を据えたのは、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)にとって若干迷惑だった。
足利義昭…『すみません、ご迷惑お掛けします。』
毛利輝元…『本当に迷惑ですよ。 早く京都に帰ってなぁ!』
足利義昭…『えっ?』
毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と言えば、石田三成(いしだみつなり/豊臣)に担ぎ出されて西軍の総大将になった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)である。
結局、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は“敗戦の将”となり、“勝戦の将”となった徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)により、祖父の毛利元就(もうりもとなり/毛利)が築いた安芸国(広島県)や備後国(広島県)を中心とした西日本の領土を没収されてしまう。
その代わりに与えられたのが長門国(山口県)や周防国(山口県)で、江戸時代の長州藩(萩)である。
ただ、その長州藩(萩)が265年後に「明治維新」の立役者となり、1868年に徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が築いた“江戸幕府”を崩壊させている。
千年百年の単位で及ぼす“歴史の怨念”とは恐ろしいものよ。
●宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)は備前国(岡山県)と美作国(岡山県)と備中国(岡山県)の戦国大名である宇喜多家直(うきたいえなお/毛利→織田)の息子で、備前国(岡山県)の岡山城の城主。
妻の豪姫(ごうひめ/織田→豊臣)は、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の娘で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の養女でもある。
必然的に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)かつ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が義父となり、史上最強の親父(おやじ)を持つ事になる。
豪姫(ごうひめ/織田→豊臣)との間にもうけた息子が宇喜多秀高(うきたひでたか/豊臣)である。
宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)は豊臣軍としての戦場では幾多(いくた)の功績を上げる。
ただ縁戚の関係上、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では当然に西軍の武将となり、そのまま“敗戦の将”となった。
一時は薩摩国(鹿児島県)の大名で西軍の武将だった島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣)に匿(かくま)ってもらっていたが、その息子の島津忠恒(しまずただつね/島津→豊臣→徳川)に徳川軍へ密告されバレる。
“勝戦の将”となった徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)により駿河国(静岡県)の久能山(くのうざん)に幽閉された後、太平洋の彼方(かなた)に浮かぶ八丈島に、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)と息子の宇喜多秀高(うきたひでたか/豊臣)は流刑となる。
宇喜多親子は“ちょんまげ”を切り、“刀”を置いて、煩(わず)わしい人間社会の“しがらみ”や“雑音”の無い八丈島にて、農作業や魚釣りをし、自然を満喫して余生を過ごした。
●小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)は安芸国(広島県)の戦国大名である毛利元就(もうりもとなり/毛利)の三男で、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)の叔父。
安芸国(広島県)の竹原を地盤としていた小早川氏へ養子に出される。
一番苦労した時代は、やはり織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍による“毛利征伐”であろう。
備中国(岡山県)を舞台とした、備中高松城の城主である清水宗治(しみずむねはる/毛利)の毛利軍に援軍を送っていた小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)は、大軍で押し寄せる豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が陣頭指揮を採る織田軍の攻撃により毛利軍は疲弊し、とても勝ち目はないと悟る。
“水攻め”により四方が水没し、豊臣軍に包囲された備中高松城の「備中高松城攻め」(びっちゅうたかまつじょうぜめ)の最中(さなか)、小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)は毛利氏に縁のある僧侶の安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)を通じて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と和議を締結する。
その時、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が「本能寺の変」にて死去した事は“交渉不利”となるため隠蔽していた。
豊臣秀吉…『あの時、信長殿が暗殺された事を隠しててゴメンねぇ〜』
小早川隆景…『いやっ、明智殿に討ち取られた事は、知っていたでござるよぉ!』
豊臣秀吉…『えっ!? 最大の危機に陥った織田軍の事情を知っていての和議を締結したでござるか?』
小早川隆景…『その通り、もう、戦(いくさ)はゴメンでござる。』
豊臣秀吉…『小早川殿は戦国武将で最大級の賢者でござる! もし、わしが“天下人”になった暁(あかつき)には、豊臣政権の最重要家老に就任して仕(つか)ぁ〜さいっ!!』
小早川隆景…『秀吉殿、若干、吉備弁(きびべん)になっとるのぉ〜』
子供が居なかった小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)は、おね(高台院、北政所/豊臣)の甥の小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)を養子とする。
その小早川秀秋(こばやかわひであき/豊臣→徳川)が、まさか豊臣氏や毛利氏を裏切り「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に勝利をもたらすとは、誰が想像しただろうか?
●上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)は誰もが知る越後国(新潟県)の戦国武将である上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の甥であり息子でもある。
母親が上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の姉で、子供が居なかったため上杉氏の跡継ぎとして養子となった。
1578年に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が急死し家督争いが起こり、相模国(神奈川県)の武将である北条氏康(ほうじょううじやす/北条)の息子で上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子となった上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)と対決した。
越後国(新潟県)の上杉氏(長尾氏)によるお家騒動だったが、相模国(神奈川県)の北条氏や甲斐国(山梨県)の武田氏まで巻き込む大騒乱となってしまった。
戦況は上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)の軍隊が優勢だったが、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)の軍隊の調略により勝利し、上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は敗走したが途中で自害した。
これを「御館の乱」(おたてのらん)と呼ぶ。
これら戦乱で敵味方に関係なく多くの上杉氏(長尾氏)の家族や家臣などが命を失い傷付き、これら現状を目の当たりにした上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)は生涯、二度と笑顔を見せる事はなかったと言われる。
上杉景勝…『戦国武将の家系に生まれたばかりに、幾度(いくど)と“血”の臭いに塗れ、“生首”に怯えて生きなければならぬ無情さよ。 日本海で協力し合って魚を採る、あの漁師の親子が羨ましい。』
直江兼続…『あの漁師の親子には“愛”を感じます。 “愛”なくして武将と言えますか。』
上杉景勝…『なるほど、御主(おぬし)の兜(かぶと)の“愛”とは、そう言う意味か?』
直江兼続…『いやっ、兜(かぶと)の“愛”は、織田信長殿の妹で“小牧山の美女”と言われるお市の方への“愛”でござるよ、熱烈なファン心の表れでございますわぁ! わしもお市の方と結婚できるなら織田信長殿に直ぐにでも寝返るでござる! 浅井長政殿や柴田勝家殿が羨ましい〜』
上杉景勝…『俺はそんなお前が羨ましい。』
直江兼続…『L・O・V・E OICHI イェ〜イ!』
上杉景勝…『L・O・V・E OICHI イェ〜イ!』
上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)は側近の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と共に越後国(新潟県)や越中国(富山県)の領地を治め、隣国の武将との戦いに明け暮れる。
織田信長(おだのぶなが/織田)が「本能寺の変」にて死去した後は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊に積極的に加勢する。
小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が老年により隠居したため、“豊臣五大老”の後釜に着任する。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の命令により、越後国(新潟県)から陸奥国(福島県)の会津に国替えするも石高は上がっている。
ただ、ここら奥州一帯は元は出羽国(山形県)の大名である最上義光(もがみよしあき/足利→豊臣)や陸奥国(宮城県)の武将の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣)の領地で、上杉氏は伊達氏かつ最上氏と険悪な関係となる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の亡き後、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)は事ごとく豊臣氏に加担した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)を攻撃するため、居城していた大坂城から息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と共に大軍勢を率いて“会津征伐”を実行する。
とぉ、見せ掛けて、途中で引き返して美濃国(岐阜県)にて「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に持ち込んでいく。
そこに便乗して勃発したのが“北の関ヶ原”と呼ばれる「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)である。
西軍は上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)を総大将に、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が陣頭指揮を採る。
対して東軍は最上義光(もがみよしあき/足利→豊臣)で、妹の息子である伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣)の援軍も参戦する。
この頃、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)亡き後に前田軍から離脱していた前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)も上杉軍に参戦していた。
軍力で優る西軍の上杉氏が優勢だったが、最上軍は地元戦と言う“地の利”や伊達軍の加勢もあり、結果は「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)と同様に最上&伊達連合の東軍が勝利する。
これによる徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の制裁は厳しいものがあり、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)の領地は陸奥国(福島県)の会津から出羽国(山形県)の米沢に国替えさせられ、もちろん石高もかなりの減少となる。
その後、上杉氏は細々とでも“質素倹約”を実践して米沢の地で藩主として領地を治め、征夷大将軍10代目の徳川家治(とくがわいえはる/徳川)の時代、“江戸幕府”に仕えた米沢藩9代目藩主の上杉鷹山(うえすぎようざん/徳川)も同じ様に“質素倹約”を実践して財政難に苦しんでいた米沢藩を立て直した。
上杉鷹山…『為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり。』(やれば出来る、やらなければ出来ないのが世の摂理、出来ないのは、その人が何もしないだけの事である。)
上杉景勝…『でも、為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の、なりけり、の方がシックリくるな。』(やれば出来る、やらなければ出来ないのが世の摂理、出来ないのは、その人に才能が無いだけの事である。)
上杉鷹山…『まっ、できない事をやり続けても、努力と時間の無駄やわぁな。』
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◆ラジオの友◆
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7:ラジオの友
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2023/05/25 (Thu) 23:30:34
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◆◇◆ 豊臣軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
続いて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の信頼に厚い側近家臣の“豊臣五奉行”である。
●浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)は織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣で尾張国(愛知県)の武将の浅野長勝(あさのながかつ/織田)の養子として入る。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の妻となるおね(高台院、北政所/織田→豊臣)も浅野長勝(あさのながかつ/織田)の養女だったため兄弟の様に育てられる。
その縁で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊で活躍するが、“天下人”となってからは関係が悪化していく。
さらに石田三成(いしだみつなり/豊臣)とも意見が合わず対立し、豊臣政権では孤立していく。
そんな浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)に優しく手を差し伸べたのが徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)だった。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では当然の如(ごと)く東軍の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の陣営に参加している。
勝利した後は、常陸国(茨城県)の真壁藩(桜川)の藩主となる。
●石田三成(いしだみつなり/豊臣)は近江国(滋賀県)の長浜の武士で、先代は源氏の京極氏に仕えていた。
戦地で闘う武将ではなく、政務を担当する“文治派”(ぶんちは)だった。
その為か、武将の扱いや戦術にはお粗末さが目立つ。
まず、戦(いくさ)好きの豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が最後の総仕上げに取り組んだ「朝鮮出兵」による1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)と1597年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)。
舟に乗って海の向こうの朝鮮半島に渡り、現地で朝鮮軍と戦った福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)や加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)や黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)の気持ちを逆撫(さかなで)でする様な発言や、当人達の不都合な情報を豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に告げ口したりし、石田三成(いしだみつなり/豊臣)は“武断派”(ぶだんは)のメンバーから総スカンをくらう。
さらに主君の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の事を『豊臣政権に対して謀反の動きがある。』と大坂城に居城する淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)や息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)に報告している。
1599年に“豊臣五大老”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が亡くなると、豊臣政権は一気に崩壊の流れに向く。
此処(ここ)ぞとばかりに“武断派”(ぶだんは)の福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)や加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)や黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)などのメンバーが、大坂城下町にある石田三成(いしだみつなり/豊臣)の屋敷を襲撃する。
ただ、襲撃を事前に察知した石田三成(いしだみつなり/豊臣)は逃亡し無事だったが、豊臣政権の“文治派”(ぶんちは)と“武断派”(ぶだんは)の溝は深まる一方で、その仲裁に入ったのが徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)である。
この政権交代の機運を徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が見逃す筈もなく、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に突入していく。
豊臣陣営が多く味方し軍隊で優(まさ)った石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍でも、ろくに戦(いくさ)をした事がなく人望に薄い参謀は、当然の如(ごと)く“敗戦の将”となり、戦場から逃亡するも捕らえられ、京都の六条河原で斬首される。
石田三成…『僕が言うのもなんだが、この戦国末期を反面教師にして、頭だけで考える者は、筆を取り手を動かし書物にするなどし、口だけ動かして意見だけを述べるべからず! 自分の門外漢(もんがいかん)については口を出さぬ事が一番の得策である。』
現代でも通用する教訓である。
●増田長盛(ますだながもり/豊臣)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣だった時、近江国(滋賀県)の長浜城の城主に就任した頃に家臣となっている。
織田軍としての豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊は破竹の勢いで、増田長盛(ますだながもり/豊臣)はその幾多(いくた)の合戦に参戦する。
その後、土佐国(高知県)の武将で四国を唯一統一させた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)に対して降伏交渉役を担う。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏し配下となった長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は、交渉役だった縁で増田長盛(ますだながもり/豊臣)と仲良しになったと言う。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の東軍、何方(どちら)にも味方する訳でもなく毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と共に大坂城で様子見していた。
東軍の勝利により、若干、西軍に近いとして増田長盛(ますだながもり/豊臣)は、紀伊国(和歌山県)の高野山に入山させられ反省の機会を与えられる。
1603年に“江戸幕府”が開設されると、増田長盛(ますだながもり/豊臣)の息子の増田盛次(ますだもりつぐ/豊臣→徳川→豊臣)は、尾張藩(愛知県)の藩主となった徳川義直(とくがわよしなお/徳川)の配下となる。
ところが、1614年に起こった「大坂・冬の陣」で徳川軍として参戦していた増田盛次(ますだもりつぐ/豊臣→徳川→豊臣)が、事もあろうか、そのまま大坂城に入り豊臣軍に寝返る。
1615年に起こった「大坂・夏の陣」では、増田盛次(ますだもりつぐ/豊臣→徳川→豊臣)の軍隊が徳川軍に攻撃するも、反撃に遭い討死する。
これにより徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)は責任追求として、父親の増田長盛(ますだながもり/豊臣)に対して切腹を命じ自害した。
●長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)は“織田四天王”である丹羽長秀(にわながひで/織田)の家臣で、途中から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣になった。
奥さんは“徳川四天王”である本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の妹で、“三英傑”(さんえいけつ)の名門と親密な長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)は“運のある男”と言える。
がっ、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では何故(なぜ)か石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍に参戦してしまい、当然、敗戦の責任を取らされる。
でっ、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)は切腹し、京都は三条大橋で晒首となった。
何とも始末が悪いようで。
●前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)は美濃国(岐阜県)の僧侶で、織田信長(おだのぶなが/織田)に見出され、息子の織田信忠(おだのぶただ/織田)の家臣となった。
1582年に起こった「本能寺の変」で織田信長(おだのぶなが/織田)が死去、そして主君の織田信忠(おだのぶただ/織田)が自害する。
その後、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)は織田信雄(おだのぶかつ/織田)に仕えた後、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣となる。
1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が亡くなり、1600年に「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)が開戦すると、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)は西軍でも東軍でもなく、大坂城に居城する豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の警護だけを担う。
西軍の敗戦が確定しても前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)から責任追求される事はなかった。
豊臣政権の時代から丹波国(京都府)の亀山城の城主だった事もあり、“江戸幕府”では亀山藩(亀岡)の藩主に就任した。
其(そ)れこそ“三英傑”(さんえいけつ)から最も信任の厚い家臣だったのが、前職が僧侶の前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)であろう。
ちゃんと仏様は観ておられる。
HIVES /♪ Bogus Operandi
◆ラジオの友◆
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8:ラジオの友
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2023/05/31 (Wed) 00:20:49
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◆◇◆ 豊臣軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
1582年に「本能寺の変」にて主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が家臣の明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)に討たれる。
同年に織田軍の本家でもある清洲城にて「清洲会議」が開催される。
出席者は柴田勝家(しばたかついえ/織田)、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)、池田恒興(いけだつねおき/織田→ 豊臣)の4人。
議題は“織田軍の跡取り問題”。
織田信長(おだのぶなが/織田)の主な後継者は長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)とされていた。
がっ、長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)は「本能寺の変」で父親の後を追って自害した。
その息子の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)が引継ぐ事になるが、なんせヨチヨチ歩きの3歳の子供。
その後見人に名乗り出たのが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)だった。
これに腹を立てたのが柴田勝家(しばたかついえ/織田)で、このまま2人は対立して1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)へと発展していく。
この戦(いくさ)で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に勝利を導いたのが“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と言われる。
そんな新進気鋭(しんしんきえい)の武将をご紹介します。
●福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)は尾張国(愛知県)に生まれ、母親が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の母親のなか(天瑞院、大政所/織田→豊臣)の妹だった事もあり、その縁で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣となった。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の主要合戦には必ず参戦している。
1584年に織田軍の権力闘争により起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の織田徳川連合軍との合戦。
1590年に起こった「小田原城攻め」で、北条氏政(ほうじょううじまさ)と北条氏直(ほうじょううじなお)の北条親子に対する征伐により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は実質的に“天下統一”を果たす。
1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)は、戦(いくさ)が“生涯の命”だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が最後の総仕上げに取り組んだ海外事業の「朝鮮出兵」。
1597年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)では福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)は参戦していないが、戦闘準備だけは整えていた。
1598年に主君の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が亡くなり、「慶長の役」(けいちょうのえき)は中止となって豊臣軍は朝鮮半島から次々と帰国する。
1599年に起こった「石田三成襲撃事件」は、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)や加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)や黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)などのメンバーが、日頃からムカついていた大坂城下町にある石田三成(いしだみつなり/豊臣)の屋敷を襲撃する。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、当然に徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が率いる東軍に参戦して功績を上げる。
1603年に“江戸幕府”が開設される。
ただ、この時点で福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)は豊臣氏の配下と言う自負があり、大坂城の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)への処遇を心配している。
1605年に征夷大将軍2代目として徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が就任する。
1614年に起こった「大坂・冬の陣」、1615年に起こった「大坂・夏の陣」では、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)の気持ちを汲み取られてか、江戸城でお留守番を命じられる。
1616年に徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が亡くなる。
1619年に安芸国(広島県)の広島藩の藩主だった福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)は、広島城の改築工事を実施する。
ただ、この事が“江戸幕府”の規範に違反するとして、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に咎(とが)められる。
その年に信濃国(長野県)の高井野藩の藩主に国替えさせられ、石高も減らされる。
1620年に疲れ果てた福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)は、“江戸幕府”に高井野藩を返納し信濃国(長野県)で隠居生活を送る。
福島正則…『俺はあくまでも豊臣氏の家臣! 何故(なぜ)に名古屋城まで天下普請(てんかぶしん)の協力をしなきゃならんのじゃ! この鯱鉾(シャチホコ)の金、少し削ったれっ! 少し位ならバレないだろ。』
●加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)は尾張国(愛知県)に生まれ、母親が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の母親のなか(天瑞院、大政所/織田→豊臣)の親族だった事もあり、その縁で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣となった。
その後の武士人生も福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と似ており、2人はおね(高台院、北政所/織田→豊臣)が作る同じ釜の飯を食べ、兄弟の様に育てられ仲良しであった。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の九州平定の際に、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が肥後国(熊本県)に着任した事が、この地との縁となる。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)でも福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と似ており、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)より肥後国(熊本県)にて滞留する様に命じられる。
“江戸幕府”が開設された後は肥後藩(熊本県)の藩主となった。
加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)は築城名人としても知られ、肥後国(熊本県)の熊本城と宇土城(うとじょう)と八代城(やつしろじょう)と佐敷城(さしきじょう)、設計指導した肥前国(長崎県)の玖島城(くしまじょう)、肥前国(佐賀県)の名護野城(なごやじょう)、尾張国(愛知県)の名古屋城、武蔵国(東京都)の江戸城がある。
1611年に病気で亡くなる。
ただ、やはり福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と同様、豊臣氏に対する忠義だけは最期まで忘れなかった。
加藤清正…『♪心が忘れたあの人(豊臣秀吉)も〜 鎧(よろい)が重さを覚えてる〜 長い月日の賤ヶ岳(しずがたけ)〜 狼煙(のろし)プカリと吹かしてた〜』
加藤清正…『♪豊臣、徳川〜 豊臣、徳川〜 巡り巡って今は豊臣〜 雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ〜 私のいい人(豊臣秀吉)連れて来い〜 雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ〜 私のいい人(おね/高台院)連れて来い〜』(♪雨の慕情)
●平野長泰(ひらのながやす/豊臣→徳川)は父親の代から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に仕える家臣。
尾張国(愛知県)の武士だが、“鎌倉幕府”の北条氏の子孫とも言われる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に仕える。
徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が陸奥国(福島県)の会津へ「上杉征伐」に向かう際も同行し、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では東軍として参戦する。
「大坂・冬の陣」と「大坂・夏の陣」では、平野長泰(ひらのながやす/豊臣→徳川)は一応は豊臣氏の直轄家臣だった事もあり、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と同様に江戸城にてお留守番をしていた。
1603年に“江戸幕府”が開設されると、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)まで側近家臣として仕えた。
●加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)は三河国(愛知県)の武士である加藤教明(かとうのりあき/松平→足利→豊臣)の息子。
岡崎城の城主だった徳川家康(とくがわいえやす/徳川)の松平氏に仕える家系だった。
若くして家督を引継いだ徳川家康(とくがわいえやす/徳川)に対して、1563年に岡崎城を中心とした西三河で浄土真宗による「三河一向一揆」が勃発し、加藤教明(かとうのりあき/松平→足利→豊臣)は一向宗に加担した。
徳川家康(とくがわいえやす/徳川)が一向宗と和議を締結した後、動乱の処罰として加藤教明(かとうのりあき/松平→足利→豊臣)は松平氏から排除される。
加藤教明(かとうのりあき/松平→足利→豊臣)は息子の加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)を引連れ京都に行き、“室町幕府”の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/足利)に仕えるも、ここも三好氏との政権動乱が起こっており、近江国(滋賀県)に流れ着く。
この地の長浜城の城主だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と出会い家臣となる。
加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)は豊臣政権で主要合戦に参戦し功績を上げる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が率いる東軍に参戦し、ここで三河国(愛知県)の時代からの“先祖返り”を果たす。
ただ、「大坂・冬の陣」では豊臣政権の直轄家臣だったため福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と同様に江戸城でお留守番となり、その代わり息子の加藤明成(かとうあきなり/豊臣→徳川)が参戦する。
翌年の「大坂・夏の陣」では、加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)は徳川軍として意気揚々と参戦し武功を上げる。
その功績が認められて伊予国(愛媛県)の松山藩の藩主となる。
“江戸幕府”では、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)まで側近家臣として仕えた。
1627年に陸奥国(福島県)の会津藩の藩主だった蒲生忠郷(がもうたださと/豊臣→徳川)が亡くなり、その影響で加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)の伊予国(愛媛県)の松山藩とそっくり入替える国替えとなった。
だから加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)の晩年は、陸奥国(福島県)の会津藩の藩主となる。
この会津の地は、元は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣)の出身地、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の領地だった名門が居座る縁起の良い土地である。
また、蒲生忠郷(がもうたださと/豊臣→徳川)は蒲生秀行(がもうひでゆき/織田→ 豊臣)の息子で、蒲生氏郷(がもううじさと/織田)の孫であり、これまた織田信長(おだのぶなが/織田)を唸(うな)らせた名門である。
●脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)は近江国(滋賀県)の脇坂氏で、浅井氏の家臣で浅井長政(あざいながまさ/浅井)に仕えていた。
浅井氏が滅亡すると織田信長(おだのぶなが/織田)の門下に入り、明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の軍隊に所属した。
その明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)も討ち取られると、そのまま豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の配下となる。
豊臣政権では武功を上げ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が最後の総仕上げに取り組んだ海外事業の「朝鮮出兵」では、1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)、1597年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)で、朝鮮半島に渡って戦闘を繰り広げる。
帰国後は淡路国(兵庫県)の洲本藩の藩主となる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、次の時代は徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)だと推察し“秋波”(しゅうは)を送る。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では東軍に着任したかったが、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の目が厳しく、息子の脇坂安元(わきざかやすもと/豊臣→徳川)と共に仕方なしに西軍となった。
ただ、この様な諸事情から戦後処理では、脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に処罰を免除される。
その14年後に起こった「大坂・冬の陣」と「大坂・夏の陣」では、脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)は参戦しなかったが、息子の脇坂安元(わきざかやすもと/豊臣→徳川)は徳川軍として参戦し功績を上げる。
伊予国(愛媛県)の大洲藩の藩主に国替えとなる。
脇坂安治…『武士として主君に対する“忠義”も大切だけど、時代を先読みして変革する“臨機応変”さも大切だよね。』
●片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)は近江国(滋賀県)の片桐氏で、浅井氏の家臣で浅井長政(あざいながまさ/浅井)に仕えていた。
浅井氏が滅亡すると織田信長(おだのぶなが/織田)の門下に入り、近江国(滋賀県)の長浜城の城主だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊に所属した。
豊臣政権では、武士としての戦(いくさ)もさる事ながら、“太閤検地”や“街道整備”などを請負う。
また、山城国(京都府)の伏見城の補修工事や、大坂城の城下町整備も担当し、どちらかと言うと“建築士”である。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍に着任するが、戦後処理では徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)は片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)に対して目立った処罰をしていない。
その理由として考えられるのは、片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)の建築の知識や技術の高さから、“江戸幕府”での“日本列島改造”に役立てる心算(こころずもり)と見られる。
さしずめ“戦国時代の安藤忠雄先生”と言ったところである。
ところが、この“建築家”としての才能が、とんでもない事態を引き起こす。
京都は東山にある方広寺(ほうこうじ)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が開いた豊臣氏の所縁(ゆかり)のお寺で、“京の大仏”と言われる東大寺の大仏に匹敵する大仏殿もあった。
その方広寺(ほうこうじ)が落雷や火災などで廃寺寸前になっていた為、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の提案により、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)や淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)が主導して豊臣氏が工事費用の金銭負担をし再建する事となる。
方広寺(ほうこうじ)の再建工事は1610年〜1612年と言う短期間での工期で完成させた。
この建設現場の監督が片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)だった。
黄色いヘルメットをかぶった片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)は毎朝、建設職人を集めて朝礼を行い、建設工事を工程通りに遂行し、たった2年で方広寺(ほうこうじ)と“京の大仏”を完成させる。
片桐且元…『今日も1日、ご安全に!』
建設職人…『ご安全に!』
優美な姿を見せた方広寺(ほうこうじ)と“京の大仏”を、関係者や京の町人は大いに喜んだ。
がっ、この完成したばかりの方広寺(ほうこうじ)に対し、横から茶々が入る。
方広寺(ほうこうじ)の境内に設けられた釣鐘、そこに刻まれた文字には・・・
⦅国家安康、君臣豊楽⦆(こっかあんこう、くんしんほうらく)
徳川家康…『ちょっと待てぃ〜 これって“家康の名前を引裂いて呪い、豊臣を主君として頂く”って言う意味じゃねぇ?』
片桐且元…『えっ!?』
豊臣秀頼…『えっええっ!?』
淀君…『えっえええっ!?』
徳川家康…『こりゃ、大坂の陣に投入だなっ!』
これを1614年に起こった「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)と呼ぶ。
大坂城では連日の会議が開かれ、豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)や淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)は、交渉役として片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)と女官の2人を江戸城に居城する徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の元に向かわせた。
徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)は3種の提案をし、それのどれか1つを選択すれば、今回の不祥事は咎(とが)めないと片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)に伝える。
①:豊臣秀頼が駿府城と江戸城の双方を居城とする。
②:淀君が江戸城に居城する。
③:豊臣秀頼が大坂城を出て、地方藩の藩主に就任する。
豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)、それに豊臣家臣には、到底に受け入れられない条件である。
ここに徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の策略が隠されており、交渉役の女官にはこの提案は伝えてはおらず、この様に申したと言う。
徳川家康…『わしも子供じゃないから「方広寺釣鐘事件」については根に持っておらんよぉ〜 其方(そなた)達が大坂から遥々(はるばる)江戸まで逢いに来てくれた事が嬉しいぞぉ。』
女官…『家康殿の、その寛大なご配慮に敬服いたします。 大坂の秀頼殿と淀殿もさぞお喜びでしょうぞぉ。』
徳川家康…『そんな事よりも、お主(ぬし)は美しいのぉ〜う。 苦しゅうない、近こう寄れ。』
女官…『いけませぬわぁ、家康殿、こんな真っ昼間からぁ・・・ あぁ〜れぇ〜』
徳川家康…『ういやつ、ういやつ。』
女官は、他言できない箇所を除き一部だけを豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)に伝える。
女官…『わたくしは身体(からだ)を張って家康殿の許しを得てきました。 よって片桐且元殿の話しは全くのデタラメで御座います。』
豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)、それに豊臣家臣や観光客(インバウンド)の大坂城に居る全ての者から“汚れ者”を見る眼差しが、片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)に集中砲火を浴びせる。
大坂城に居場所を失った片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の元を訪れ家臣となる。
「大坂・冬の陣」と「大坂・夏の陣」では、片桐且元(かたぎりかつもと/浅井→織田→豊臣→徳川)は徳川軍の裏方を努め、息子の片桐孝利(かたぎりたかとし/豊臣→徳川)が徳川軍として参戦し、父親を追い出した大坂城を必要以上に攻撃する。
片桐孝利…『父の仇(かたき)討ちぃ〜 大坂城の者を“撫で斬り”にせぇ〜いっ!』
バッサッ バッサッ バッサッ バッサッ
徳川家康…『おいおい、やり過ぎじゃよ。』
片桐且元…『大坂城は焼けてもまた再建すれば元通りに戻るが、人の首は斬られたら二度と元には戻らん、そこで終わりじゃ。』
●糟屋武則(かすやたけのり/別所(赤松)→豊臣)は播磨国(兵庫県)の大名で三木城の城主だった別所長治(べっしょながはる/織田)の家臣。
織田信長(おだのぶなが/織田)の配下だった別所長治(べっしょながはる/織田)の軍隊に糟屋武則(かすやたけのり/別所(赤松)→豊臣)は所属しており、織田軍の西日本侵攻の際に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が“播磨攻め”でこの地に来た時に出会う。
その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣となり、豊臣政権の主要合戦に参戦して支える。
糟屋武則(かすやたけのり/別所(赤松)→豊臣)は功労が認められ、播磨国(兵庫県)の加古川城の城主となる。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍に着任にしてしまい、敗戦の戦後処理で領地を没収され改易(かいえき)となる。
その後の糟屋武則(かすやたけのり/別所(赤松)→豊臣)は行方(ゆくえ)知れずとなり消息不明となる。
NOEL GALLAGHER'S HIGH FLYING BIRDS /♪ Council Skies
◆ラジオの友◆
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9:ラジオの友
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2023/06/09 (Fri) 00:18:14
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◆◇◆ 豊臣軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣には、単独で武功を上げる武士も大勢いた。
それは戦地で敵方の首級(しゅきゅう)を挙げる武士や、その後方で布陣し軍略を総大将に進言する武士など、“土”と“汗”と“血”、それに“涙”で塗(まみ)れた多く武士が関わっている。
そんな武勇や戦術に優れた頼もしい“豊臣家臣”を見ていこう。
●黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)は播磨国(兵庫県)は姫路の武将で、黒田孝高(くろだよしたか)とも呼ばれる。
“天才軍師”と言われ“和製・諸葛孔明”との異名を持つ。
その力を発揮したのが備中国(岡山県)を舞台とした、備中高松城の城主である清水宗治(しみずむねはる/毛利)の毛利軍に対して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が陣頭指揮を採る織田軍の攻撃による「備中高松城攻め」(びっちゅうたかまつじょうぜめ)である。
“水攻め”により包囲された備中高松城、その最中(さなか)、「本能寺の変」にて織田信長(おだのぶなが/織田)の死去を知った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、寝返った明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)を討つよう進言したのが黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)と言われる。
その後すぐ、備中国(岡山県)から山城国(京都府)の大山崎(おおやまざき)までの230kmを11日間で帰還し「山崎の戦」にて明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の軍隊を、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊が討ち取った。
これを「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)と呼ぶ。
騎馬と歩兵を含めた軍隊が1日平均20km進む計算となり、今で言う京都駅から宇治市の平等院(びょうどういん)くらいの移動である。
“天才軍師”の黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)が得意としたのが“干殺し”(ほしごろし)と呼ばれる“兵糧攻め”。
“死”を待つだけの“空腹”、これはとても辛い。
刀による斬った斬られたなら数分から数秒の“絶命”だが、“兵糧攻め”は数十日から数ヶ月単位でジワジワと“死神”が襲ってくる。
有名なのが播磨国(兵庫県)にある三木城にて、1578年に起こった毛利軍の別所長治(べっしょながはる/毛利)に対する織田軍の攻撃で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)かつ黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)の陣頭指揮を採った“兵糧攻め”により勝利している。
ただこの時、摂津国(兵庫県)の有岡城(伊丹)の城主だった“刀饅頭”(かたなまんじゅう)こと荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)が織田軍から離反し毛利軍と密約したため、黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)が再び織田軍に戻るよう忠言しに行くも、逆に有岡城(伊丹)で監禁されてしまう。
黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)が上手く脱出した時にはスーパーモデル並に痩せていたと言う。
この為、三木城の落城まで20ヶ月も掛かっている。
次に黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)が本領発揮したのが因幡国(鳥取県)にある鳥取城にて、1580年に起こった毛利軍の吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)に対する織田軍の攻撃で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)かつ黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)の陣頭指揮を採った“兵糧攻め”により勝利している。
この時は徹底した“兵糧攻め”で、鳥取城の城内は「人肉を奪い合って食した」くらいの“地獄”と化していたと言う。
その為、鳥取城の落城は4ヶ月しか掛からなかった。
黒田官兵衛…『首を取るだけが戦(いくさ)ではなく、時には肉体や精神を攻めるのも戦(いくさ)である。』
こう黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)は教えてくれている。
その心構えと戦術を引き継いだのが息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)で、1600年の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、この知略を持って徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に貢献し、それら功績により筑前国(福岡県)の福岡藩主となった。
また、黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)は築城名人とも呼ばれ、日本全国の数々の築城に関わっている。
主なお城で筑前国(福岡県)の福岡城、豊前国(大分県)の中津城、安芸国(広島県)の広島城、摂津国(大阪府)の大坂城など。
さしずめ“戦国時代の磯崎新先生”と言ったところである。
●竹中半兵衛(たけなかはんべえ/斎藤→浅井→織田→豊臣)は美濃国(岐阜県)の武将で、竹中重治(たけなかしげはる)とも呼ばれる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直系家臣で、黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)の兄貴分である。
同じ“天才軍師”と呼ばれ“和製・孫子”との異名を持つ。
揖斐川が流れる現在の岐阜県大垣市北部を地盤とする竹中氏は、元は美濃国(岐阜県)の戦国大名でもある斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の家臣だった。
斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)が1556年に稲葉山(岐阜城)の麓にて起こった「長良川の戦」による親子対決で討死すると、その息子の斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)の家臣となる。
斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)が率いる斎藤軍も、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍の“美濃攻略”により滅亡する。
その為、竹中半兵衛(たけなかはんべえ/斎藤→浅井→織田→豊臣)は、近江国(滋賀県)の浅井長政(あざいながまさ/浅井)に身を寄せるも、すぐに離反する。
武将としての才覚を買っていた織田信長(おだのぶなが/織田)は、どうしても竹中半兵衛(たけなかはんべえ/斎藤→浅井→織田→豊臣)を直系家臣にしたかったが、今までの経緯もあり、ワンクッションを置いて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣となった。
織田信長(おだのぶなが/織田)による浅井討伐の際には、元の浅井軍との人脈を使い調略し、織田軍の勝利を導いている。
また、黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)が“刀饅頭”(かたなまんじゅう)こと荒木村重(あらきむらしげ/池田→織田→毛利)に有岡城(伊丹)で監禁された際、織田信長(おだのぶなが/織田)は黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)も毛利軍に寝返ったと勘違いした。
そこで豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)を斬首する様に命じ、それを担ったのが竹中半兵衛(たけなかはんべえ/斎藤→浅井→織田→豊臣)だった。
ただ、竹中半兵衛(たけなかはんべえ/斎藤→浅井→織田→豊臣)は黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)を自らの屋敷に匿(かくま)い、別人の死屍(しかばね)を織田信長(おだのぶなが/織田)に差し出した。
その後、黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)は寝返ったのではなく、監禁されていた事が判明すると・・・
豊臣秀吉…『しもぉ〜たぁ〜! 殿(織田信長)の命令で1人息子の黒田長政を殺(や)ってもうたぁ〜!!』
黒田官兵衛…『えぇ〜!? なんて酷(むご)い事をぉ〜!』
竹中半兵衛…『お二人方、ちょっとお待ちなされぇ! ジャジャ〜〜ン!!』
ご本人登場。
黒田長政…『イェ〜〜イ!!』
豊臣秀吉&黒田官兵衛…『オッ〜〜!!』
黒田官兵衛(くろだかんべえ/小寺→織田→豊臣)を含めた黒田氏は、竹中半兵衛(たけなかはんべえ/斎藤→浅井→織田→豊臣)を含めた竹中氏を本当の家族と想い誓う為、家紋を同じにしたと言われる。
竹中半兵衛(たけなかはんべえ/斎藤→浅井→織田→豊臣)は、播磨国(兵庫県)にある三木城を攻めている頃に病死してしまう。
●山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は尾張国(愛知県)の武士で、織田信長(おだのぶなが/織田)の清洲織田氏と敵対する岩倉織田氏の家臣だった。
その後、色々な出来事があり、結局は織田信長(おだのぶなが/織田)の配下となり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍隊に所属する。
近江国(滋賀県)にて妻となる見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)と出会い結婚する。
“内助の功”として有名な見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)は、貧しい生活の中でも少しずつ“ヘソクリ”を貯めて、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)が欲しがっていた名馬を買ってあげた。
その名馬を見た織田信長(おだのぶなが/織田)は、見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)の経緯を聞いて『正(まさ)しく良妻賢母、武士の妻の鑑(かがみ)!』と褒め称え褒美(ほうび)を与えた。
これが「馬と黄金」の話しとして後世に伝わる。
山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)はその名馬と共に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍が西日本に侵攻した中国攻略に参戦し武功を上げる。
主君だった織田信長(おだのぶなが/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)がこの世から居なくなり、“三英傑”(さんえいけつ)で残っている徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の元で働く事になる。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では東軍として参戦する。
その後、土佐国(高知県)の土佐藩の藩主となり、高知城を築城する。
山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)が高知城の城下町を視察していると、住民が“鰹(かつお)の刺身”を美味しそうに食べているのを見て、生魚を食べて食中毒になる心配をして、土佐国(高知県)では“刺身禁止令”を発布した。
これにより住民は魚の表面を炙(あぶ)り焼魚に見せかけた“鰹(かつお)のタタキ”を考案し、お殿様の山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)に献上する。
住民…『どうです、お殿様?』
山内一豊…『こりゃ〜うまい! 鰹(かつお)の風味に生姜とニンニクが絡み合い、食材の持つ旨味のハーモニーが何とも言えぬ美味! これを土佐の名物にしようぞっ!』
住民…『かしこまりました。』
家臣…『鰹(かつお)を炙っているとは言え、刺身って言えば刺身なんじゃがなぁ〜 “刺身禁止令”はどうするんじゃろ?』
パクパク パクパク
山内一豊…『うまい! うまい! 毎日の献立に、この“鰹(かつお)のタタキ”を出してくれっ!』
●藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は近江国(滋賀県)の武家に生まれる。
近江国(滋賀県)の武将の浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)の家臣だったが、1570年に起こった織田徳川軍の“寝返り報復”による「姉川の戦」(あねがわのたたかい)で浅井軍が敗れ、その後、織田信長(おだのぶなが/織田)の軍隊の攻撃で浅井氏が滅亡すると、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は主君を転々と変えながら生き延びる。
落ち着いたのは織田信長(おだのぶなが/織田)の配下で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と弟の豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の軍隊に所属する。
主君だった織田信長(おだのぶなが/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)がこの世から居なくなり、“三英傑”(さんえいけつ)で残っている徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の元で働く事になる。
「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では東軍として参戦する。
その後、伊予国(愛媛県)の今治藩の藩主や伊勢国(三重県)の津藩の藩主となる。
藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)とは個人的に仲が良く、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)まで側近家臣として仕え、徳川氏から高待遇を受けていた。
また、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は築城名人とも呼ばれ、日本全国の数々の築城に関わっている。
主なお城や施設は伊予国(愛媛県)の宇和島城と大洲城(おおずじょう)と今治城(いまばりじょう)と甘崎城(あまざきじょう)、丹波国(京都府・兵庫県)の丹波亀山城と篠山城、山城国(京都府)の二条城と聚楽第(じゅらくだい)と伏見城、近江国(滋賀県)の膳所城(ぜぜじょう)、伊賀国(三重県)の伊賀上野城、伊勢国(三重県)の津城と当時は紀伊国(和歌山県)だった赤木城(あかぎじょう)、武蔵国(東京都)の江戸城、上野国(栃木県)の日光東照宮など。
さしずめ“戦国時代の丹下健三先生”と言ったところである。
“武士”としても、“建築士”としても、優れた才能を発揮した藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)の生涯であった。
●蒲生秀行(がもうひでゆき/豊臣→徳川)は蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)の息子で、母親は織田信長(おだのぶなが/織田)の娘の相応院(そうおういん/織田→豊臣)。
陸奥国(福島県)の会津を領地としていた蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)がこれからと言う40歳で突然に亡くなり、まだ10歳の子供だった蒲生秀行(がもうひでゆき/豊臣→徳川)が家督を継ぐ事となる。
しかし、これが1595年に「蒲生騒動」を引き起こす。
主君の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、まだ子供の蒲生秀行(がもうひでゆき/豊臣→徳川)には陸奥国(福島県)の会津を治めるには荷が重すぎるとして、上野国(栃木県)の宇都宮に移動させる。
その陸奥国(福島県)の会津を引き継いだのが上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)。
これにより蒲生氏の領地は減らさる事となり、反発する蒲生氏の家臣や他の武将が入り乱れ「蒲生騒動」は3年近くに及んだ。
蒲生秀行(がもうひでゆき/豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の薦めで徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の娘の正清院(せいしょういん/徳川→豊臣→徳川)と結婚する。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)亡き後、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)による上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)の領地を進撃する「会津征伐」の際は、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が上野国(栃木県)の宇都宮城に入城し上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)に睨みを効かせる。
ただ、「会津征伐」される事なく、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)と徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の東軍は「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に突入していく。
戦後処理で上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)は出羽国(山形県)の米沢藩に国替えさせられる。
その為、蒲生秀行(がもうひでゆき/豊臣→徳川)は再び陸奥国(福島県)の会津藩の藩主に返り咲く。
ただ、30歳という若さで急死する。
その家督を息子の蒲生忠郷(がもうたださと/豊臣→ 徳川)が引き継ぎ、陸奥国(福島県)の会津藩の藩主となる。
蒲生忠郷(がもうたださと/豊臣→ 徳川)は藤堂高虎(とうどうたかとら/豊臣)の娘と結婚する。
ただ、蒲生忠郷(がもうたださと/豊臣→ 徳川)も26歳と言う若さで急死する。
その後、陸奥国(福島県)の会津藩の藩主は“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と言われた加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)が就任する事となる。
親子孫の蒲生氏3代は長生きする家系ではなかったが、その短い時間に凝縮された人生が詰め込まれている。
蒲生秀行…『ただ長生きすれば良いものではない。 要は人としての時間に、どれだけの経験と実績を積み上げるかで決まる。 人生は最後まで修行であるぞっ!』
GOO GOO DOLLS /♪ NAME
◆ラジオの友◆
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10:ラジオの友
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2023/06/09 (Fri) 00:24:13
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◆◇◆ 徳川軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
戦国時代の武将で忘れてならないのが徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)である。
実は織田信長(おだのぶなが/織田)の尾張国(愛知県)より、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の三河国(愛知県)の方が、領土が広く農業や漁業が盛んで肥沃な土地柄だった。
ただ、室町時代から戦国時代に掛けては、隣国の駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の戦国大名でもある今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)と息子の今川義元(いまがわよしもと/今川)に三河国(愛知県)は牛耳られていた。
そのため徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の松平氏は今川氏の配下に過ぎず、広大な三河国(愛知県)で肩身の狭い思いをしていた。
そんな徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の息抜きと言えば、大好物の“赤味噌”をお茶漬けにして食べる事である。
三河国(愛知県)の岡崎城から八丁(872m)離れた所で製造される“赤味噌”。
現在でも“八丁味噌”として昔ながらの製法で、全国に出荷されている。
この“赤味噌”が特産としてあるお陰で、“味噌煮込みうどん”や“味噌カツ”など名古屋名物が誕生した。
これは中部圏を守護神とする天照大御神(アマテラス)や倭建御子(ヤマトタケルノミコ)の天の恵みあっての事で、この御恩を後世まで受け継いでいかなければならない。
神地での所作(しょさ)を守る事で御利益があり、これは“神事の掟”で決まっている。
ちなみに名古屋市の市章でもある“◯に八”は『1日1回は“八丁味噌”を使った料理を食べましょう。』と言う自治体条例に基づくものである。
“三種の神器”の“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)が祀られてある尾張国(愛知県)にある熱田神宮を詣でた後のお昼御飯は“味噌煮込みうどん”で、3時のおやつには“ういろう”(“なごやん”でも可)を食する。
また“八丁味噌”とは関わりないが、“赤味噌”に見立てた“あんこ”を採り入れ、“八咫鏡”(やたのかがみ)が祀られてある伊勢国(三重県)にある伊勢神宮を詣でた後のお昼御飯は“伊勢うどん”で、3時のおやつには“赤福”を食する。
“八尺瓊勾玉”(やさかにのまがたま)が祀られてある武蔵国(東京都)の江戸城(皇居)を詣でた後のお昼御飯は“江戸前そば”で、3時のおやつには“木村屋のアンパン”を食する。
ある種(しゅ)、これを頑(かたく)なに守っていたのが徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)です。
三河国(愛知県)の岡崎城、遠江国(静岡県)の浜松城、駿河国(静岡県)の駿府城、武蔵国(東京都)の江戸城、どこに居ようが“八丁味噌”を取り寄せお茶漬けを食する。
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)かつ徳川将軍家や徳川御三家である紀伊藩(和歌山県)、尾張藩(愛知県)、水戸藩(茨城県)の慣例行事により、神の御加護があり“江戸幕府”が265年も続いたとされる。
“八丁味噌”あっての先祖の慰霊と子孫の繁栄、その事を理解していたのが征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)である。
そんな“神使”(しんし)と呼ばれていた徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に、惹き付けられ着いて行く者も大勢いた。
徳川氏かつ松平氏の結束が固く有能な三河武士団は、4人の“徳川四天王”、そこに12人が加わった“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)、さらに2人抜け14人が加わった“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)と呼ばれる。
まずは“徳川四天王”から見ていこう。
●酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の筆頭家臣で、父親の松平広忠(まつだいらひろただ/徳川)の代から仕える。
息子の酒井家次(さかいいえつぐ/徳川)は越後国(新潟県)高田藩(上越)の藩主、孫の酒井忠勝(さかいただかつ/徳川)は出羽国(山形県)庄内藩(鶴岡)の藩主となり、酒井氏は代々に渡り徳川氏を支える。
そもそも酒井氏は、松平氏と同じ家系で酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の叔父にあたる。
徳川氏の代名詞となる家紋の“葵の御紋”は、酒井氏の家紋が原形となっている。
酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)は、16歳年下の若い徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の教育係の立場でもあり、例えるならロッテンマイヤーさんとハイジの関係と言える。
最初の修羅場は、1549年に主君の松平広忠(まつだいらひろただ/徳川)が家臣に暗殺され、三河国(愛知県)を守護する松平氏に分裂の危機が訪れる。
さらに1560年に同盟国だった駿河国(静岡県)の戦国大名の今川義元(いまがわよしもと/今川)が「桶狭間の戦」で織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取られる。
これにより不安定となった三河国(愛知県)では、その動乱に便乗して1563年に起こった浄土真宗の信者などによる「三河一向一揆」で、この一向宗に加担したのが徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)を排除したい別系統の松平氏とその家臣だった。
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)を頼りないと感じていた酒井氏の大半が一向宗に味方したが、ただ1人だけ苦心する徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)を支えた男が居た。
それが酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)である。
武勇戦術にも優れてた酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)は1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)で、武田信玄(たけだしんげん/武田)亡き後を引き継いだ息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍に対して、思いもよらぬ奇襲作戦にて敗走させている。
これら三河流戦術を目の当たりにした織田信長(おだのぶなが/織田)は、酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)に対し“畏敬の念”を抱き一目置いていた。
また、酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)は武術だけでなく芸達者でもあり、“海老すくい踊り”という鉄板芸を持っていた。
この“海老すくい踊り”を見たさに相模国(神奈川県)の戦国大名で伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/北条)は、酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)を大宴会に招聘(しょうへい)したと言われる。
しかし、災難は突然に訪れる。
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の息子で松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)が謀反の疑いをかけられ1579年に自害する。
松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)と妻の築山殿(つきやまどの/徳川)との子供で長男の跡取りだった。
ただ、松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)の性格は気性が激しく家臣からも乱暴者と恐れられていた。
ただ、その気質が転じて、戦(いくさ)では数々の武功をあげている。
いったい誰に似たのか?
実は母親の築山殿(つきやまどの/徳川)は東海道で一番の武将と言われた今川義元(いまがわよしもと/今川)の姪で、その今川氏の血筋も入っていると聞けばご納得。
ところが、今川氏が「桶狭間の戦」で滅亡した後、大半の家臣が甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)の配下に移っている。
一方、三河国(愛知県)の松平氏は、“主君殺し”で宿敵でもある尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と1562年の早々に「清洲同盟」を締結した。
そこで武田軍で今川氏の家臣だった者が築山殿(つきやまどの/徳川)に使者を送り、松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)に謀反を起こす様に工作する。
この異変に気付いたのが、松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)の妻の徳姫(とくひめ/織田→徳川)で、織田信長(おだのぶなが/織田)の娘だった。
徳姫(とくひめ/織田→徳川)は早速、父親に訴状を送達する。
⦅大好きなパパへ 徳(とく)は旦那の信康と義母の築山が大嫌いです。 ちょームカつく! この2人は甲斐の武田さんと大の仲良しです。 いずれパパの尾張や美濃も手に入れたると言っています。 パパ、早く可愛い徳(とく)を迎えに来て! お迎えはサル(豊臣秀吉)でもいいよ。 美濃に帰ったら長良川の“鵜飼”(うかい)に連れてってねぇ。⦆
織田信長…『サル、三河の岡崎城に行って家康殿の家族関係を調べてこいっ! そのついでに娘の徳(とく)を連れて戻れ。』
豊臣秀吉…『承知致しました。』
そんなこんなの徳川氏のお家騒動で、織田信長(おだのぶなが/織田)が居城する岐阜城まで弁明に来たのが酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)である。
徳川家康…『お家の恥、信長殿の誤解を解いて欲しい。』
酒井忠次…『承知致しました。 この忠次にお任せあれっ!』
早速、美濃国(岐阜県)のお山に建つ岐阜城まで参った酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)を待ち受けていたのは・・・
岐阜城の大広間は大宴会の装い。
織田信長…『待っておったぞ忠次殿、駆け付けの1杯をやってくれっ!』
酒井忠次…『えっ???』
織田信長…『早速、見せてもらいたいものだなぁ〜 忠次殿の“海老すくい踊り”を!』
豊臣秀吉…『よっ! 忠次殿、日本一!』
織田家臣のヤンヤヤンヤの催促。
酒井忠次…『仕方あるまい。』
柴田勝家…『待ってましたっ!!』
酒井忠次…『♪はぁ〜 三河のぉ〜 武者衆(むしゃしゅう)はぁ〜 田舎武者〜 田舎武者〜 酒の肴(さかな)は 武辺(ぶへん)こぉ〜 酒の肴(さかな)は 武辺(ぶへん)こぉ〜 武辺(ぶへん)こぉ〜』
明智光秀…『いいぞっ、いいぞっ! 流石は忠次殿、天下一!』
豊臣秀吉…『わしも負けてられぬわぁ! 猿踊りで対抗じゃ! ウッキッキィー ウッキッキィー』
織田信長…『ブッハッハッハッ〜 海老に猿とはコリャいいっ! この伝統芸を“信長公記”(しんちょうこうき)に記載しておくぞっ!』
夜も更(ふ)けて、そろそろ朝日が岐阜城の小窓に差し込む頃。
織田信長…『いゃ〜 昨晩は忠次殿のお陰で楽しませて頂いた、感謝のしるしに金一封を持たせるぞぉ! この褒美は家康殿には内緒である。』
酒井忠次…『信長殿、かたじけない。 わしも美味しいお酒とご馳走をよばれ、大変に有意義な時を過ごさせて頂いた。 感謝致す!』
織田信長…『家康殿にもよろしく伝えてくれ。 ではまた、どこかの戦場で協力しあおうぞっ!』
酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)を乗せた馬が三河国(愛知県)に向かって歩き出す。
パッカパッカ パッカパッカ
酒井忠次…『あれっ? わし、何しに来たんだっけ?』
●本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)は安祥松平氏(あんじょうまつだいらし)に代々仕える本多氏の武将で、“江戸幕府”の開設に伴い上総国(千葉県)大多喜藩(おおたき)の藩主と伊勢国(三重県)桑名藩の藩主になる。
息子の本多忠政(ほんだただまさ/徳川)も父親の藩を引継ぎ、さらに播磨国(兵庫県)姫路藩の藩主となる。
孫の本多政朝(ほんだまさとも/徳川)は祖父と父親の藩を部分的に引継ぎ、さらに播磨国(兵庫県)龍野藩(たつの)の藩主となる。
全国の領土を飛び回る忙しい家系でもあった。
本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)が名を挙げたのは、1560年に「桶狭間の戦」の前に松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)が尾張国(愛知県)の大高城に布陣した際、駿河国(静岡県)の戦国大名の今川義元(いまがわよしもと/今川)の大軍が尾張国(愛知県)に入る前の決戦に備えて“兵糧入れ”を遂行し成功させた事にある。
尾張国(愛知県)の大高城と鳴海城と沓掛城(くつかけじょう)を今川軍が手に入れたとは言え、この地は織田信長(おだのぶなが/織田)が領地する織田軍の陣地内。
しかも大高城の東側の丘には織田軍の鷲津砦(わしずとりで)と丸根砦(まるねとりで)が陣取る。
そこで徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)は深夜帯に米俵450俵を150頭の馬に積んで大量の兵糧を三河国(愛知県)から運び入れる事を決行する。
その運搬部隊にいたのが少年だった本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)である。
ただ、この成功も総大将の今川義元(いまがわよしもと/今川)が討死した事で無駄に終わってしまった。
その後、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)は織田信長(おだのぶなが/織田)と「清洲同盟」を締結し、今川氏から独立を果たす。
ただ、三河国(愛知県)は様々な松平氏が権力を保持しており、そんな最中(さなか)に「三河一向一揆」が起こるが、本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)は酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)と同様に徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)を支援する。
次に訪れる危機は、1582年に起こった「本能寺の変」で同盟国の織田信長(おだのぶなが/織田)が家臣の明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)に討ち取られた。
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)は、近江国(滋賀県)の安土城を見物した後に立ち寄った和泉国(大阪府)の堺でその知らせを聞く。
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の脳裏によぎったのは、直前まで安土城で接待してくれていた明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)が、今度は命を狙う敵陣となって向かって来る可能性がある。
そこで本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)など有能な三河武士団が一致団結し、和泉国(大阪府)の堺から険(けわ)しい山脈が連なる大和国(奈良県)や伊賀国(三重県)を一心不乱に突き進み、ようやく三河国(愛知県)の岡崎城まで帰還した。
これを「伊賀越え」と呼ぶ。
この後の本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)と“江戸幕府”の開設までの道のりを共に歩む。
槍の使い手として“天下無双”と呼ばれた武将の本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)だが、病により隠居するも1610年に亡くなる。
●榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)は三河国(愛知県)の上野郷(豊田)で生まれた武将で、幼い頃は“読み書き算盤”が得意な天才児だった。
松平氏かつ三河国(愛知県)の領土での内紛が起こった「三河一向一揆」では徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に仕え初出陣する。
織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後、織田軍の分裂が起こった1584年の「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)では、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、お世話になった織田氏に敵対し、その家臣を討ち取る事に腹を立て、“読み書き算盤”が得意な榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)は“秀吉非難”する立札を尾張国(愛知県)のあちこちに立てて豊臣軍を煽(あお)った。
それを知った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が本気で激怒し、榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)の“暗殺命令”を出す。
結局、「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が勝手に降伏した事で、勝敗付かずウヤムヤに終わる。
その後、1585年に関白となった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は実質的に“天下人”となる。
そして真っ先に呼び出したのが榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)である。
榊原康政…『やべっ、打首かな?』
豊臣秀吉…『康政殿、わしを動揺させた小牧の戦術は見事であった。 その知略と豪胆(ごうたん)な振る舞いに感銘致す。 お主みたいな家臣を持った家康殿が羨ましい。』
これにより榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は大の仲良しになる。
そんな榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)だが、大失態もある。
1600年の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)に対する「会津征伐」で、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の徳川軍1号隊が東海道を出陣した際、榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)は徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の徳川軍2号隊に従事し中山道(なかせんどう)を進軍していた。
ところが畿内で石田三成(いしだみつなり/豊臣)が「徳川征伐」を宣言し挙兵すると、関東に向かっていた徳川軍1号隊はクルリと回転して関西に戻り始める。
徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の徳川軍2号隊も関西に戻ろうとしたが、信濃国(長野県)の上田城で真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と息子で真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)の攻防で苦戦する。
そのため「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、大将の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)の徳川軍2号隊は大遅刻をして、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に大目玉を食らう。
ちなみに、真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)の兄の真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)は、この時期に真田氏の存続を目的として徳川氏に加盟し、“江戸幕府”の開設に伴い信濃国(長野県)松代藩(長野)の藩主に就任している。
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に叱られた榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)は上野国(群馬県)館林藩(たてばやし)の藩主に就任する。
ただ、1606年に病により亡くなる。
●井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)は遠江国(静岡県)にある井伊谷(いいのや/浜松)の武家の子供として生まれ、井伊氏は今川義元(いまがわよしもと/今川)の家臣だった。
井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)が子供の頃に、主君の今川義元(いまがわよしもと/今川)は「桶狭間の戦」で織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取られた。
そのため、遠江国(静岡県)は徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の領土、駿河国(静岡県)は武田信玄(たけだしんげん/武田)の領土となる。
ただ、武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が遠江国(静岡県)を侵略し始めると、その地で暮らしていた井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)と家族は徳川氏の元へ逃げ込む。
これにより井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)が徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に仕える事となる。
若き井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)は徳川軍で武功を挙げ大活躍をし、1軍隊を任される事となる。
井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)の軍隊は、朱色の兜と鎧で身に纏(まと)う“赤備え”(あかぞなえ)で武装して、井伊直政(いいなおまさ/徳川)はその出立(いでた)ちから“赤鬼”と呼ばれた。
“江戸幕府”の開設に伴い上野国(群馬県)高崎藩の藩主と近江国(滋賀県)彦根藩の藩主に就任する。
ただ、1602年に41歳の若さで亡くなっている。
近江国(滋賀県)彦根藩の16代目藩主だった井伊直弼(いいなおすけ/徳川)は子孫で、1858年に起こった「安政の大獄」(あんせいのたいごく)で長門国(山口県)長州藩(萩)の吉田松陰(よしだしょういん/徳川→維新)などを粛清(しゅくせい)した張本人。
そのため1860年に起こった「桜田門外の変」(霞ヶ関)で暗殺され、45歳と井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)に近い年齢で亡くなる。
井伊直政…『たわけ者〜 恥を知れっ!』
井伊直弼…『いい気のなって調子に乗り、すみませんでした。』
吉田松陰…『井伊氏の家系、怖(こわ)っ!』
ひこにゃん…『その通(と)ぉ〜〜り!』
“因果応報”とは、ご先祖様による粛清(しゅくせい)が、この世で一番恐ろしいものである。
AUDIOSLAVE /♪ ORIGINAL FIRE
◆ラジオの友◆
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11:ラジオの友
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2023/06/18 (Sun) 17:13:07
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◆◇◆ 徳川軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の傍(かたわら)で支えた“徳川四天王”と言われる酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)、本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)、榊原康政(さかきばらやすまさ/徳川)、井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)の4人ではあるが、もう1人、忘れてはならない松平氏の時代からの重鎮側近がいる。
それは石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)である。
今川氏の配下から脱し三河国(愛知県)をようやく平定した徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の両腕両足となって左右を仕えた2人が酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)と石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)である。
では何故(なぜ)に“徳川四天王”に入っていないのか?
そんな“歴史の謎”を紐解いてみよう。
●石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)の出生は定かではないが、代々に松平氏に仕えた家臣だったと言われる。
一説には先代は清和源氏の源義家(みなもとよしいえ/朝廷)と言われ、そうなると同じ源氏の新田氏の流れを汲(く)む徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)とは親族となる。
石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)は竹千代(たけちよ)と呼ばれていた幼い徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)が、今川義元(いまがわよしもと/今川)の人質として駿河国(静岡県)で生活していた時から同じ屋根の下でお供として暮らしている。
例えるなら、のび太(竹千代)とドラえもん(石川数正)の関係に近い。
年月が経ち、松平元信(まつだいらもとのぶ)か松平元康(まつだいらもとやす)の頃に、今川義元(いまがわよしもと/今川)の姪の築山殿(つきやまどの/徳川)と結婚し、息子の松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)が誕生する。
駿河国(静岡県)の大将軍の今川義元(いまがわよしもと/今川)の元で、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)は直参家臣になると疑う事もなく思っていた石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)だった。
がっ、尾張国(愛知県)に侵攻し始めた今川義元(いまがわよしもと/今川)は、1560年に「桶狭間の戦」で織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取られる。
その後、不安定となった三河国(愛知県)の平定を図るため、石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)は織田信長(おだのぶなが/織田)と直接に交渉して1562年の「清洲同盟」の締結を実現させる。
ただ、浄土真宗の信者などによる1563年に起こった「三河一向一揆」で、この一向宗に加担した別系統の松平氏とその家臣が徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の排除に動く。
しかし、どんな不利な立場とて、石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の元を離れなかった。
例えるなら、ご主人様(徳川家康)のお帰りを渋谷駅前で待ち続ける忠犬ハチ公(石川数正)みたいなものである。
また、「桶狭間の戦」の後、石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)は駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を訪問して、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の妻の築山殿(つきやまどの/徳川)と息子の松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)を三河国(愛知県)の岡崎城に連れ戻している。
ここまで見ても、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)をはじめ三河徳川氏(松平氏)に背(そむ)くような男ではない。
問題が起こったのが、1582年に「本能寺の変」で織田信長(おだのぶなが/織田)が討ち取られ、徳川軍と同盟国の織田軍が権力闘争により分裂し始める。
そして、織田徳川連合軍と豊臣軍が対立した1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)で、事もあろうか石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)が徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の元を離れ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元に寝返ってしまった。
この石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)の“徳川氏裏切り”には、織田徳川連合軍だけでなく、豊臣軍の全ての戦国関係者が驚いた事である。
例えるなら、アメリカやヨーロッパ(織田徳川連合軍)を見捨てて、ロシア(豊臣軍)に味方するイギリス(石川数正)みたいなものである。
本当に石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)は、目の前に“金”をチラつかされ、“心”動く程度の男だったのか?
真意はこうだっ!
●「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)が開戦する1年程前。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)宛に1通の書状が届く。
⦅家康殿、時間がある時に京都まで来てくれぬか? 一度、ゆっくりと話しがしたい。 その時に酒井忠次殿と石川数正殿の2人だけを連れてきて欲しい。 京都の美味い酒と鳥料理でもてなしますぞ。 よい返事をお待ちしておる。⦆
そして、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)は重鎮家臣の酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)と石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)を引き連れて山城国(京都府)の伏見城まで出向く。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、伏見城の城下町にある酒処居酒屋“鳥せい”で3人をもてなす。
豊臣秀吉…『まず、わしの考えを話そう。 織田信長殿が亡き後、尾張や美濃を治めていた織田軍のみならず、これは三河の徳川氏、それに他国の北条氏、上杉氏、毛利氏など、全てを含む日本にとっての危機である。 織田信長殿が目指した血で塗れた合戦のない“天下泰平”の世まで、あと1歩まで来たのに、今や織田軍が空中分解すれば、再び戦国時代は振り出しに戻る。 日本全ての民を巻き込むのじゃ。』
徳川家康…『それはわしも、秀吉殿と同様に危惧していた所じゃ。』
豊臣秀吉…『現にわしは織田信長殿の筆頭家臣でもある柴田勝家殿を「賤ヶ岳の戦」で討ってしまい、さらに織田信長殿の妹君のお市の方まで巻き込んでしまった。 もう、わし1人の一存じゃ止められぬ。 本当は今すぐにでも逃げ出したい気持ちじゃ。』
徳川家康…『それはよう分かり申す。 織田軍をはじめ、豊臣軍も徳川軍も大きくなり過ぎた。 尾張だ三河だと一国を駆け回っていた時は、家臣も歩兵も何とか面倒は見れた。 ただ、ここまで大きくなると、もう誰が何やらさっぱり分からん。 ふと、今、徳川軍は何処に向かっているのかさえ分からなくなる時がある。』
豊臣秀吉…『過去を振り返ってもよう分かる。 平安時代の藤原氏や平氏、鎌倉時代の源氏や北条氏、室町時代の足利氏、どれを取っても最後は家臣の権力闘争に主君が巻き込まれて滅亡している。 戦国時代とて同じ事。いずれ豊臣氏だろうが徳川氏だろうが、隙あらば狙ってくる野心家は何時(いつ)の時代も居る。 わしや家康殿が、この世から居なくなった時が絶好の機会で動き出す。 その結果が血に塗れた合戦じゃ。 これではいつまで経っても“天下泰平”の世は来ぬ。』
徳川家康…『悲しいかな、これが人間の習性なのかもしれぬ。 お腹を満たせてやれば言うことは聞くが、少しでも腹を空かせたら、いつでも噛みついてくる。 この狭い日本で、家臣に永遠に領地を与え続ける事はできぬのに。』
豊臣秀吉…『池の美しい鯉は、餌をやり続ければ大人しく泳いでいるが、いざ、餌を与えないと、どんなに美しい鯉でも餓死するか、共食いするかのどちらかじゃ。 その人間の気質をよく理解していたのが織田信長殿じゃ。 日本と言う小さな池で泳いでいる鯉よりも、太平洋の海で泳いでいる雑魚の方が逞(たくま)しく生きる能力を培(つちか)う。 わしは織田信長殿から、海の向こうに進出する“夢”を何度も聞かされた。 日本は平(ひら)たいが、地球は丸く広大な大地が広がる事を織田信長殿は十分に理解していた。 だからこそ、池で泳ぐ美しい鯉よりも、太平洋の海で雑魚を育てる事を選んでいたのじゃ。 織田信長殿のその真意が“うつけ者”のなり姿じゃ。』
徳川家康…『よう分かる。 でっ、秀吉殿はどの様な秘策で進めるのかのう?』
豊臣秀吉…『そこでじゃ、わしの豊臣軍と、家康殿の徳川軍が対決し、どちらが勝って、どちらが負けても、50年、100年を見据えれば変わりはない。 ただ、今の時点で家康殿の徳川軍が勝てば織田信長殿を尾張の時代から直(じか)で見てきた織田軍は黙ってはいないだろう。 しかし、わしの豊臣軍が勝っても織田軍から引き継いだ寄せ集めじゃ。 老いぼれたわしが居るか居ないかの間に、いつ空中分解するか分からん。 そこで家康殿の優秀な側近2人に来てもらったのじゃ!』
徳川家康…『どう言う事かのう?』
酒井忠次…『???』
石川数正…『???』
豊臣秀吉…『織田信長殿に仕え地盤の無いわしと違い、家康殿には先代からの忠実で団結力のある三河武士団を形成しておる。 家康殿が亡き後も、その機能はしっかりと働いてくれる。 ただ、その有能な三河武士団だが意固地な面もあり、そこが徳川軍の弱点となる。 三河一帯は守れても、日本全国は守れない。 安芸の毛利氏、越後の上杉氏、相模の北条氏、それに京都の朝廷とも手を取り合って仲良くする柔軟性も備える必要がある。』
徳川家康…『秀吉殿の仰(おっしゃ)る通りじゃ、今、徳川軍が“天下”に出ても、直ぐに崩壊するであろう。』
豊臣秀吉…『名門家でないわしは生まれながらにして自尊心が薄いから、各方面の調整役は得意としている。 何を言われようと、何をされようとヘッチャラでござる。 そこでじゃ、当面はわしの豊臣軍が“天下”を治め、血に塗れた合戦を終結に向かわせる。 ただ、そうなると家康殿の有能な三河武士団は黙って従う筈もない。 それこそ豊臣軍と徳川軍が本気で衝突すれば、「賤ヶ岳の戦」程度では済まされない。 全国に合戦の火の粉が飛び散り、日本中が火の海になる。 それはわしとて、家康殿とて本望ではない。 しかも、それを一番に悲しむのは織田信長殿じゃ。』
徳川家康…『秀吉殿に“天下”を取らせるのは、わし自身は意義は無いが、ただ、三河武士団に理解してもらう自信はない。 あの「三河一向一揆」の悪夢が蘇る。』
豊臣秀吉…『そこでじゃ、その三河武士団に揺さぶりを掛けるため、酒井忠次殿もしくは石川数正殿のどちらか1人を、わしの家臣になってもらいたい。 そうすればどんな勇猛果敢な三河武士団でも必ず躊躇(ちゅうちょ)する。 わしが生きている残りの時間に“天下泰平”の地ならしはしておく。 その後は家康殿か、その御子息が引き継げば良い。 当然、その時には豊臣軍は動くと思うが、それは“天下泰平”に近付ける副作用で仕方ない事じゃ。』
徳川家康…『秀吉殿に、もし御子息が誕生したらどうなさる?』
豊臣秀吉…『わしの血統ではその器はないわぁ。 もし、わしの子供が誕生して引継ぎ“天下人”になったとしても、必ず数年で野心家の家臣による謀反が起こり豊臣政権は崩壊する。 わしもあの世から、そんな無様な光景は見たくない。 なら、先に家康殿と約束を交わしておけば、そうなっても納得できる。 もう、豊臣氏の家族間だけの問題ではないのじゃ。』
徳川家康…『秀吉殿の秘策、それに気持ちはよく分かり申した。 それに織田信長殿の海外への進出も、わしも聞いていたので同感じゃ。』
豊臣秀吉…『わしは年老いたので、もう眠いから失礼ながら、先に伏見城に帰って寝させてもらう。 後の時間は3人で心ゆく迄(まで)飲んで食べて欲しい。 支払いは伏見城付けにしておるので大丈夫じゃよ。』
そう言って豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は丘の上の伏見城に帰って行った。
酒井忠次…『話しを聞く限り、秀吉殿が徳川軍を陥(おとしい)れる謀略とは思いませぬが、如何(いかが)したらよいものかのう?』
徳川家康…『確かに秀吉殿の言う通り、豊臣軍とて、徳川軍とて、今のまま何も手を打たなければ、近い将来に共倒れになる可能性は高い。 戦国時代の振り出しじゃ。』
石川数正…『わしが行く! 秀吉殿の話しも、家康殿の気持ちも、十分に理解した上での結論じゃ。』
酒井忠次…『数正殿、正気かっ!!』
徳川家康…『数正殿・・・』
石川数正…『忠次殿の酒井氏は、元は松平氏(徳川氏)と同じ親族の名門家、もし、忠次殿が豊臣軍に下れば、それこそ三河武士団だけでなく三河一帯が大混乱をきたす。 一方、わしの石川氏は単なる家臣である。 他の主君に移ってもそこまで混乱は致さぬ。 戦国の世ではよくある話しじゃ。』
徳川家康…『数正殿、良いのか?』
石川数正…『わしの“命”は、わし1人の物にあらず。 これで日本の民に“天下泰平”が訪れるなら、この様な“命”の使い方ができて幸せじゃ。』
酒井忠次…『うっううっ・・・ 数正殿、うっううっ・・・』
徳川家康…『わしも数正殿が側に居てくれて幸せじゃよ、うっううっ・・・』
今日の酒は、多少酸っぱい“泪酒”(なみだざけ)であった。
この後、石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)は豊臣政権では信濃国(長野県)にある松本城の城主となり、城下町の整備に力を注ぐ。
1603年に徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)が“江戸幕府”を開設すると、石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)に対してそのまま信濃国(長野県)の松本藩の藩主に就任してもらい、息子の石川康長(いしかわやすなが/徳川→豊臣→徳川)も引き継いでいる。
答えは、ここに隠されている。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣になった石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)ではあるが、その真意は息子の名前に表れている。
石川康長(いしかわやすなが/徳川→豊臣→徳川)の“康”は徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の“康”、“長”は織田信長(おだのぶなが/織田)“長”。
“三英傑”(さんえいけつ)が本当に望んだ“未来の想い”が託されている。
RENTALS /♪ GETTING BY
◆ラジオの友◆
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12:ラジオの友
:
2023/06/18 (Sun) 17:16:04
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◆◇◆ 徳川軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の重鎮家臣4人の“徳川四天王”に、有能な武将12人を加えた“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)の最優良家臣16人。
これら16人が一致団結しなければ巨大化した徳川軍は、機能しないし、動かせない。
そんな“鉄の結束”を誇る三河武士団を探っていこう!
●米津常春(よねきつつねはる/徳川)は代々に渡り三河松平氏に仕える武士で、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)より20歳ほど年上。
尾張国(愛知県)の織田氏の三河侵攻により三河国(愛知県)の安祥城(あんじょうじょう)周辺で、1540年〜1549年の10年近く争った「安城合戦」(あんじょうかっせん)では、駿河国(静岡県)の戦国大名の今川義元(いまがわよしもと/今川)と三河国(愛知県)の武将の松平広忠(まつだいらひろただ/徳川)の今川松平連合軍に、若き武士の米津常春(よねきつつねはる/徳川)は参戦した。
敵方は尾張国(愛知県)の戦国大名の織田信秀(おだのぶひで/織田)が率いる強靭な織田軍で、織田信長(おだのぶなが/織田)の兄の織田信広(おだのぶひろ/織田)、織田氏の重鎮家臣の平手政秀(ひらてまさひで/織田)、緒川城と刈谷城の城主の水野忠政(みずのただまさ/織田→今川→織田)など強者(つわもの)が参戦している。
結果は今川松平連合軍の勝利に終わったが、この長きに渡る戦(いくさ)により今川義元(いまがわよしもと/今川)の三河国(愛知県)の抑圧が強くなる。
この「安城合戦」(あんじょうかっせん)は、「三河の応仁の乱」(応仁の乱:1467年〜1477年の11年間)とも言われる。
1560年に起こった「桶狭間の戦」では、松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の配下に米津常春(よねきつつねはる/徳川)は仕え、大高城の東側にある織田軍の丸根砦(まるねとりで)を攻め落としている。
その後も徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)を支えて、1603年の“江戸幕府”の開設まで功労するも、1614年の「大坂・冬の陣」の手前の1612年に亡くなっている。
●高木清秀(たかぎきよひで/水野→織田→水野→織田→徳川)の出身は三河国(愛知県)で、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)より17歳ほど年上。
当初は尾張国(愛知県)にある緒川城の城主の水野信元(みずののぶもと/今川→織田)に仕え、その後、水野氏と同盟する織田信秀(おだのぶひで/織田)の配下に入るも、再び水野信元(みずののぶもと/今川→織田)の家臣となる。
1560年に起こった「桶狭間の戦」で織田信長(おだのぶなが/織田)が駿河国(静岡県)の戦国大名の今川義元(いまがわよしもと/今川)を討ち取る。
実質的な主君を失った三河国(愛知県)は動乱し、1563年に起こった「三河一向一揆」では松平氏やその家臣が分裂して松平氏の家督を引き継いでいた徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)は危機に陥る。
それを叔父の水野信元(みずののぶもと/今川→織田)が救援するため、高木清秀(たかぎきよひで/水野→織田→水野→織田→徳川)など水野武士団を派遣する。
ここで高木清秀(たかぎきよひで/水野→織田→水野→織田→徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)と運命的な出会いを果たす。
ただ、その後も水野信元(みずののぶもと/今川→織田)の家臣であり続けたが、1575年に水野信元(みずののぶもと/今川→織田)は織田信長(おだのぶなが/織田)から謀反を疑われ死罪を言い渡される。
三河国(愛知県)の岡崎にある徳川氏(松平氏)の菩提寺でもある大樹寺にて、甥の徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の介錯(かいしゃく)により水野信元(みずののぶもと/今川→織田)は最期を迎える。
主君亡き後、高木清秀(たかぎきよひで/水野→織田→水野→織田→徳川)は織田氏の重鎮家臣である佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)に仕えるが、実は織田信長(おだのぶなが/織田)に『水野信元に謀反の疑いがある。』と密告したのは佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)だった。
その佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)も織田信長(おだのぶなが/織田)との政策の違いから30年近く仕えた織田氏を追放され、また、主君を失った高木清秀(たかぎきよひで/水野→織田→水野→織田→徳川)は織田信長(おだのぶなが/織田)の配下に入る。
ところが、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が1582年に起こった「本能寺の変」で亡くなり、高木清秀(たかぎきよひで/水野→織田→水野→織田→徳川)は再び主君が居ない生活が始まる。
最後は生まれ故郷の三河国(愛知県)の戦国大名である徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)を頼り、高木清秀(たかぎきよひで/水野→織田→水野→織田→徳川)は『こんな事だったら、最初からこの殿(松平氏)に仕えておけばよかったなぁ〜』と感じる。
そして徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)が1603年の“江戸幕府”の開設まで功労し、1614年の「大坂・冬の陣」の手前の1610年に亡くなる。
息子の高木正次(たかぎまさつぐ/徳川)は、河内国(大阪府)丹南藩(松原)の藩主となった。
●大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)は、祖父の宇津忠茂(うつただしげ/松平)は三河国(愛知県)の武将で代々に渡り松平氏に仕える大久保氏の祖。
その息子が兄の大久保忠俊(おおくぼただとし/松平)、弟の大久保忠員(おおくぼただかず/松平)で父親。
大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)が長男、大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)が次男、異母兄弟に「三河物語」の著者の大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)が居る。
主君となる徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)より11歳ほど年上。
幾多(いくた)の徳川軍(松平軍)の合戦に貢献した。
その内の1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)では、徳川軍は負け戦(いくさ)となったが、それでも奇襲を掛けてくる大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)の軍隊に対して、無敵の武田軍を率いた総大将の武田信玄(たけだしんげん/武田)は『勝っても恐ろしい敵方である。』と言い恐れさせた。
その後の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍と対立した1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)では織田徳川連合軍が勝利し、武功を挙げた大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)に対して織田信長(おだのぶなが/織田)は賞賛したと言われる。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が“天下人”となる豊臣政権では、1590年に起こった「小田原城攻め」で、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/北条)が降伏し、そのまま小田原城を明け渡した。
その空いた小田原城の城主となったのが大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)である。
ただ、直ぐ後の1594年に亡くなる。
●大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)は大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)の弟で、兄と同じ様な“徳川人生”を辿(たど)る。
1575年の「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)や1584年の「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)など主要合戦に参戦して武功を挙げる。
1600年の「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊に従軍し、「上田城攻め」では真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と息子の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が防備する上田城の攻略に苦戦し、決戦の関ヶ原に大遅刻をする。
1603年の“江戸幕府”の開設に伴い駿河国(静岡県)の沼津藩の藩主となる。
大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)は子供が居なかったため、異母兄弟で「三河物語」の著者の大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)を養子に向かい入れ家督を相続させ様としたが、本人から固辞された。
1614年の「大坂・冬の陣」の直前の1613年に亡くなる。
●蜂屋貞次(はちやさだつぐ/徳川)は三河国(愛知県)の武士で、主君となる徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)より4歳ほど年上。
妻は大久保忠俊(おおくぼただとし/松平)の娘。
1560年に起こった「桶狭間の戦」では、大高城に布陣する松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)が、東側にある織田軍の丸根砦(まるねとりで)を攻め落とす際に蜂屋貞次(はちやさだつぐ/徳川)も参戦した。
1563年に起こった「三河一向一揆」では徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に仕える。
ただ、今川義元(いまがわよしもと/今川)亡き後の吉田城(豊橋)など東三河を領地してた息子の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を攻略するため1564年に起こった「吉田城攻め」で、蜂屋貞次(はちやさだつぐ/徳川)は戦死する。
若干、25歳の若武者であった。
●鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)は三河国(愛知県)の武士で、主君となる徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)より4歳ほど年上。
父親は安祥松平氏(あんじょうまつだいらし)の家臣の鳥居忠吉(とりいただよし/松平)で、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の祖父の松平清康(まつだいらきよやす/松平)に仕える“岡崎譜代”(おかざきふだい)である。
長男は鳥居忠宗(とりいただむね/徳川)、次男は本翁意伯(ほんおういはく/浄土宗)で僧侶、三男が鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)、四男が鳥居忠広(とりいただひろ/徳川)で同じ“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)に入る。
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に仕えて、幾多(いくた)の主要合戦に参戦する。
鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)が参戦した1585年の「上田合戦」では、武田信玄(たけだしんげん/武田)の重鎮家臣だった真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)と息子の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が防備する上田城の攻略に徳川軍は苦戦し、その後、敗戦する。
徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の徳川軍1号隊が東海道、徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の徳川軍2号隊が中山道(なかせんどう)を進軍した1600年の「会津征伐」で、これを好機に石田三成(いしだみつなり/豊臣)らが挙兵した西軍が、徳川氏の居城だった山城国(京都府)の伏見城を攻撃し、その攻防に参戦していた鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)は討死した。
「三河物語」の著者の大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)は、数々の武功を挙げた鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)を“三河武士の鑑(かがみ)”と評している。
PEARL JAM /♪ ALIVE
◆ラジオの友◆
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13:ラジオの友
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2023/07/01 (Sat) 13:38:06
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◆◇◆ 徳川軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
最初に、まず頭に記憶しておく必要のある情報がある。
それは内藤正成(ないとうまさなり/徳川)と鳥居忠広(とりいただひろ/徳川)は“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)に加入しているが、“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)には加入していない。
この2人を引かないと、4人+12人+14人=30人になってしまい、“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)の勘定が合わない。
これだけを理解して、それでは“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)の続きを見ていこう。
●渡辺守綱(わたなべもりつな/徳川)は三河国(愛知県)の武士で槍の名手だった。
主君の徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)とは1歳年上のほぼ同年代。
1563年に起こった「三河一向一揆」では一向宗に味方し、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)とは敵対した。
ただ、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)と浄土真宗が和睦したため、一向宗に味方した武士は必要人物とあらば処分しなかった。
その後は徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に忠誠を誓い、幾多(いくた)の主要合戦で功績を挙げる。
1603年の“江戸幕府”の開設した折には、尾張国(愛知県)の尾張藩の藩主になった徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の息子の徳川義直(とくがわよしなお/徳川)に仕える。
1614年の「大坂・冬の陣」、1615年の「大坂・夏の陣」では、尾張徳川軍の徳川義直(とくがわよしなお/徳川)の側近として出陣した。
1616年に徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)が亡くなった後の1620年に渡辺守綱(わたなべもりつな/徳川)も亡くなる。
●平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)は三河松平氏の家臣だった平岩親重(ひらいわちかしげ/徳川)の息子。
主君の徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)とは同い年だったので、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の人質として一緒に連れて行かれる。
1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)で織田徳川連合軍が、武田信玄(たけだしんげん/武田)亡き後とは言え強靭な武田軍を率いる息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して大軍勢で攻撃を仕掛け勝利する。
ところが徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の叔父の水野信元(みずののぶもと/今川→織田)が武田氏と密約しているとし、織田信長(おだのぶなが/織田)から謀反を疑われ死罪を言い渡され、1575年に三河国(愛知県)の岡崎にある徳川氏(松平氏)の菩提寺でもある大樹寺にて、甥の徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の介錯(かいしゃく)により水野信元(みずののぶもと/今川→織田)は最期を迎える。
がっ、実際に斬首したのは平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)だった。
その後も甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)は武田氏の支配力は強く、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)は一つ一つ攻略していく。
平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)は、甲斐国(山梨県)の武田氏の本拠地とも言うべき甲府城の城主に抜擢され居城する。
その際、武田氏の家臣だった岡部正綱(おかべまさつな/今川→武田→徳川)と共同領地として管理していた。
岡部正綱(おかべまさつな/今川→武田→徳川)と同じ岡部氏の同族に今川義元(いまがわよしもと/今川)の重鎮家臣だった岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)が居る。
岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)は1560年に起こった「桶狭間の戦」に参戦しており、尾張国(愛知県)にある鳴海城に布陣して織田軍に対抗して揺さぶった。
今川義元(いまがわよしもと/今川)が織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取られても抵抗を続け、今川義元(いまがわよしもと/今川)の首級(しゅきゅう)の返還を条件に鳴海城を明け渡し、駿河国(静岡県)に帰還して行った。
織田信長(おだのぶなが/織田)は、亡き主君に対しても忠義に厚い岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)に対して“畏敬の念”を抱いたと言う。
一方、駿河国(静岡県)の今川領地で人質生活を送っていた徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)と平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)は、同じ地域に居た岡部正綱(おかべまさつな/今川→武田→徳川)とは仲が良かった。
その時代の幼馴染が甲斐国(山梨県)の甲府城の近く居住していたため、上手いこと2人で領地管理できたのかも知れない。
1603年の“江戸幕府”の開設に伴い、尾張国(愛知県)の尾張藩の藩主となった徳川義直(とくがわよしなお/徳川)に、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)から命じられ平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)が側近となる。
1611年の「二条城の徳川豊臣謁見会合」にて、京都の二条城で徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に謁見した豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)は、徳川家臣に美味しそうな“饅頭”を出された。
先(ま)ずは毒味で徳川家臣の平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)が“饅頭”を食した。
平岩親吉…『とても美味しい京都銘菓の“饅頭”でござるよ、是非(ぜひ)、秀頼殿もお召し上がり下さい。』
豊臣秀頼…『うむ、とても美味しそうな“饅頭”じゃ、わしは甘いものには目がないのじゃ、どれ1つ頂こうかな。』
ヒョイ
加藤清正…『ちょっと失礼、パクリッと。』
豊臣秀頼…『無礼者! 何をするかっ清正殿、わしの“饅頭”をっ! 食べものの恨みは恐ろしいぞっ! 今すぐに切腹せぇい〜!』
豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)のお供として同席していた加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)は、その“饅頭”に危険を察知し横取りして食した。
その年の1611年に“饅頭”を食べた平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)と加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が亡くなり、“饅頭”を食べてしまった豊臣家臣も2年以内に亡くなる。
これが「二条城の“毒饅頭”事件」である。
饅頭屋…『やっぱり、あの時に出した“饅頭”、傷んではったんかいなぁ〜 ちょっと、古(ふる)うおしたさかいなぁ〜』
平岩親吉&加藤清正…『腐っとたんかぁ〜〜
い!』
●服部正成(はっとりまさなり/徳川)は“伊賀の忍者”と言われ、別名は服部半蔵(はっとりはんぞう)と呼ばれる。
父親も伊賀国(三重県)の忍者で服部保長(はっとりやすなが/足利→松平)で、当初は京都の“室町幕府”の足利氏に仕えていたが、衰退期を迎えていたため三河国(愛知県)の岡崎に拠点を移し徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の祖父の松平清康(まつだいらきよやす/松平)に仕える。
服部正成(はっとりまさなり/徳川)も徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)に仕え、伊賀国(三重県)の“伊賀の忍者”と近江国(滋賀県)の“甲賀の忍者”を束ねて指揮をとっていた。
実は服部正成(はっとりまさなり/徳川)は忍者ではなかったとも言われるが、忍者であると思う方が夢がある。
1582年に起こった「本能寺の変」で織田信長(おだのぶなが/織田)が討たれると、和泉国(大阪府)の堺を見物していた徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)の三河御一行様は、大和国(奈良県)や伊賀国(三重県)の険しい山脈を越えて三河国(愛知県)の岡崎城まで逃げる際に、地の利がある服部正成(はっとりまさなり/徳川)が“伊賀の忍者”の協力を得て「伊賀越え」の一端を果たした。
ただ、1597年に病死し、これは忍術ではどうする事もできなかった。
子孫に忍者ハットリくん(服部貫蔵/はっとりかんぞう)がいる。
東京都千代田区の半蔵門は、この服部半蔵(はっとりはんぞう)こと服部正成(はっとりまさなり/徳川)の屋敷門があった事から命名された。
そのため、東京営団地下鉄の半蔵門線を走る電車の乗客の18%は忍者です。
もし、車両内で“悪事”を働く者があれば、その者は、忍者にあとを尾(つ)けられ“手裏剣”などで始末されます。
ニンニン。
●松平康忠(まつだいらやすただ/徳川)は三河国(愛知県)の松平氏で、徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)とは従兄弟の関係になり、年は4歳下。
父親の松平政忠(まつだいらまさただ/今川)は駿河国(静岡県)の戦国大名である今川義元(いまがわよしもと/今川)に仕えていたが、1560年に起こった「桶狭間の戦」に参戦して戦場で討死している。
そのため祖父の松平親広(まつだいらちかひろ/今川→松平)が父親代わりとなり、松平康忠(まつだいらやすただ/徳川)は育てられた。
母親が“徳川四天王”の酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)と再婚したため、徳川軍(松平軍)の名武将が義父となる。
その後、幾多(いくた)の主要合戦に徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)かつ酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)の元で参戦する。
1614年の「大坂・冬の陣」、1615年の「大坂・夏の陣」の後の1618年に亡くなる。
●内藤正成(ないとうまさなり/徳川)は代々に渡り松平氏に仕える三河国(愛知県)の内藤氏の武士。
内藤正成(ないとうまさなり/徳川)は“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)に加入しているが、“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)には加入していない。
尾張国(愛知県)の織田氏と三河国(愛知県)の松平氏が、国境のある境川を挟んで対立していた時代から活躍していた。
1560年に「桶狭間の戦」の前に松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)が尾張国(愛知県)の大高城に布陣した際、駿河国(静岡県)の戦国大名の今川義元(いまがわよしもと/今川)の大軍が尾張国(愛知県)に入る前の決戦に備えて“兵糧入れ”を遂行する。
大高城の東側の丘には織田軍の鷲津砦(わしずとりで)と丸根砦(まるねとりで)が陣取る中で、深夜帯に米俵450俵を150頭の馬に積んで大量の兵糧を三河国(愛知県)から運び入れる事を決行して成功させた運搬部隊に内藤正成(ないとうまさなり/徳川)も同伴していた。
1603年の“江戸幕府”の開設する直前の1602年に亡くなる。
●鳥居忠広(とりいただひろ/徳川)は三河松平氏の家臣である鳥居忠吉(とりいただよし/松平)の四男で、“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)には加入していない。
長男で“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)の鳥居忠宗(とりいただむね/徳川)、次男で僧侶の本翁意伯(ほんおういはく/浄土宗)、三男で鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)が兄弟。
父親の鳥居忠吉(とりいただよし/松平)の鳥居氏は財力が豊かで、三河国(愛知県)の矢作川(やはぎがわ)の水運など利権を抑えており、富を蓄えていた。
そんな裕福な家庭の子供として生まれ育てられた鳥居忠広(とりいただひろ/徳川)。
ただ、甲斐国(山梨県)の戦国大名である武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる強靭な武田軍が、遠江国(静岡県)に攻めてきた1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)での戦場で討死する。
総大将の徳川家康(とくがわいえやす/今川→徳川)も「九死に一生を得る」苦い経験をし、徳川軍にとっても大敗北をきした戦(いくさ)でもある。
徳川軍がこれからと言う時に亡くなった若武者の鳥居忠広(とりいただひろ/徳川)に、敬意を表し“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)へ加入させたのかも知れない。
CORNERSHOP /♪ BRIMFUL OF ASHA
◆ラジオの友◆
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14:ラジオの友
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2023/07/05 (Wed) 00:24:22
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◆◇◆ 徳川軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
“徳川二十八武将物語”(上)でご紹介するのは“徳川四天王”ならびに、内藤正成(ないとうまさなり/徳川)および鳥居忠広(とりいただひろ/徳川)が抜けた“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)、これらを合わせた“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)です。
これら勇猛果敢で団結力が強い三河武士団は、“掛け軸”や“浮世絵”に残されています。
もしかしたら、自宅の敷地にある蔵の奥底に、これら国宝級の美術品が貯蔵されているかも知れません。
今一度、母屋に併設された蔵や屋根裏部屋などを探索してみてはいかがですか?
もし見つかれば、その価値は数億円〜数百億円は間違いありません!
●安藤直次(あんどうなおつぐ/徳川)は徳川氏に仕える家臣で、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)より12歳年下。
近江国(滋賀県)の武将である浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)に対して、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の連合軍が進撃した1570年に起こった「姉川の戦」。
甲斐国(山梨県)の戦国大名である武田信玄(たけだしんげん/武田)亡き後を引き継いだ武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる強靭な武田軍を相手に、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の連合軍が進撃した1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)。
“天下統一”まであと一歩だった織田信長(おだのぶなが/織田)が家臣の明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)に裏切られ討ち取られ、1582年に起こった「本能寺の変」の後に起こった跡目争いにより、程々(ほどほど)の織田家臣を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、織田信長(おだのぶなが/織田)の息子の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を総大将に援軍を派遣した徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が対立した1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)などに安藤直次(あんどうなおつぐ/徳川)は参戦した。
徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が1603年に“江戸幕府”の開設した後、安藤直次(あんどうなおつぐ/徳川)は紀伊国(和歌山県)田辺藩の藩主に就任する。
1614年の「大坂・冬の陣」、1615年の「大坂・夏の陣」には息子の安藤重能(あんどうしげよし/徳川)が参戦するも討死してしまう。
紀伊国(和歌山県)田辺藩の藩主はもう1人の息子の安藤直治(あんどうなおはる/徳川)が引き継ぎ、安藤直次(あんどうなおつぐ/徳川)は1635年までの“長寿”を全(まっと)うした。
●伊奈忠政(いなただまさ/徳川)は代々に渡り徳川氏(松平氏)に仕える伊奈氏の武士。
主君の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)より42歳も若く、祖父と孫の関係に近い。
父親の伊奈忠次(いなただつぐ/徳川)は武蔵国(埼玉県)小室藩(足立)の藩主で、武蔵国(埼玉県)の一帯で新田開発や河川改修などを実施した“土木の匠(たくみ)”である。
その腕を買われ、1614年の「大坂・冬の陣」の戦後処理でお堀(内堀、外堀)を埋め戻す土木工事の現場監督として指揮をとっている。
さしずめ“江戸時代の清水建設”と言ったところであろう。
伊奈忠政(いなただまさ/徳川)は1600年の「会津征伐」や「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に参戦した。
1603年に“江戸幕府”が開設した戦争無き後、父親譲りの“土木の匠(たくみ)”の技量を発揮して、坂東八州(ばんどうはっしゅう)の一帯で新田開発や河川改修などに従事した。
さしずめ“江戸時代の鹿島建設”と言ったところであろう。
弟の伊奈忠治(いなただはる/徳川)も父親譲りの“土木の匠(たくみ)”の技量を発揮して、下総国(千葉県)や常陸国(茨城県)の一帯で新田開発や河川改修などに従事した。
さしずめ“江戸時代の大成建設”と言ったところであろう。
息子の伊奈忠勝(いなただかつ/徳川)は武蔵国(埼玉県)小室藩(足立)の藩主を引き継いだ。
ただ、伊奈忠政(いなただまさ/徳川)は1615年の「大坂・夏の陣」の少し後の1618年に33歳の若さで亡くなっている。
●伊奈忠俊(いなただとし/徳川)は本多忠俊(ほんだただとし)とも呼ばれ、伊奈本多氏の武士で三河国(愛知県)にある伊奈城(豊川)の城主。
当初は駿河国(静岡県)の戦国大名である今川義元(いまがわよしもと/今川)に仕えていたが、1560年に起こった「桶狭間の戦」で織田信長(おだのぶなが/織田)に主君が討ち取られると、郷里の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に仕える。
ただ、その後の1564年に亡くなり、息子の伊奈忠次(いなただつぐ/徳川)が伊奈城(豊川)の城主を引継ぐ。
“三河三奉行”の1人の本多重次(ほんだしげつぐ/徳川)は従兄弟にあたる。
●岡部長盛(おかべながもり/徳川)は、勇猛果敢な戦国武将で有名な駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)と甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)の家臣だった岡部正綱(おかべまさつな/今川→武田→徳川)の息子。
幼少期の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)と“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)の平岩親吉(ひらいわちかよし/徳川)は今川氏の人質として駿河国(静岡県)の屋敷で暮らしていた時に、同年代だった岡部正綱(おかべまさつな/今川→武田→徳川)と仲良くなる幼馴染である。
その息子の岡部長盛(おかべながもり/徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)を主君とし仕える。
若武者の岡部長盛(おかべながもり/徳川)は、1584年の「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)や1585年の「上田合戦」に参戦する。
1603年の“江戸幕府”の開設に伴い、下総国(千葉県)山崎藩(野田)の藩主、丹波国(京都府)亀山藩(亀岡)の藩主および福知山藩の藩主、美濃国(岐阜県)大垣藩の藩主、和泉国(大阪府)岸和田藩の藩主に就任し、100%疑いの無い“ブラック企業”と言われる“江戸幕府”の「無茶振り」もなんなりとこなし、岡部長盛(おかべながもり/徳川)は“岡部の黒鬼”と呼ばれた。
●大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)は徳川氏(松平氏)の歴史を綴(つづ)った「三河物語」の著者で、“江戸幕府”の開設した後は実戦を知らない侍(さむらい)に対して“講談”や“講釈”を担っていた。
祖父の宇津忠茂(うつただしげ/松平)は三河国(愛知県)の武将で代々に渡り松平氏に仕える大久保氏の祖。
その息子が兄の大久保忠俊(おおくぼただとし/松平)、弟の大久保忠員(おおくぼただかず/松平)で父親。
異母の兄2人が“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)で、大久保忠世(おおくぼただよ/徳川)が長男、大久保忠佐(おおくぼただすけ/徳川)が次男となる。
大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)、息子で征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)、孫で征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)と、徳川将軍3代に仕える。
1585年の「上田合戦」や1614年の「大坂・冬の陣」および1615年の「大坂・夏の陣」には参戦しているが、やはり隠居後に常陸国(茨城県)の鹿嶋や江戸の御屋敷で執筆した「三河物語」により文学派の印象が強い。
Travis /♪ WHY DOES IT ALWAYS RAIN ON ME?
◆ラジオの友◆
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15:ラジオの友
:
2023/08/16 (Wed) 19:45:38
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◆◇◆ 徳川軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
“徳川二十八武将物語”(中)でご紹介するのは“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)の中枢を担う武士です。
●大須賀康高(おおすがやすたか/徳川)は三河国(愛知県)の武士で酒井忠尚(さかいただなお/松平→織田→徳川)に仕える。
その酒井忠尚(さかいただなお/松平→織田→徳川)は“徳川四天王”の酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)の親族。
ただ、1549年に起こった「安城合戦」(あんじょうかっせん)により、尾張国(愛知県)の戦国武将である織田信秀(おだのぶひで/織田)と、駿河国(静岡県)の戦国武将である今川義元(いまがわよしもと/今川)ならびに三河国(愛知県)の戦国武将である松平広忠(まつだいらひろただ/松平)が対決した際、松平氏の家臣だった酒井忠尚(さかいただなお/松平→織田→徳川)は織田軍に寝返る。
その時に大須賀康高(おおすがやすたか/徳川)も主君の酒井忠尚(さかいただなお/松平→織田→徳川)に従う。
その後の戦国動乱により、結局、大須賀康高(おおすがやすたか/徳川)は、16歳年下の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に仕える事となる。
1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)、1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)、1585年に起こった「上田合戦」など、大須賀康高(おおすがやすたか/徳川)は幾多(いくた)の合戦に参戦し武功を挙げる。
ただ、1590年に起こる「小田原城攻め」の前年の1589年に病で亡くなる。
●奥平信昌(おきだいらのぶまさ/徳川)は三河国(愛知県)の武家の奥平氏で、代々に渡り駿河国(静岡県)の戦国大名である今川義元(いまがわよしもと/今川)に仕えていた。
ただ、1560年に起こった「桶狭間の戦」で尾張国(愛知県)の戦国武将である織田信長(おだのぶなが/織田)に、主君の今川義元(いまがわよしもと/今川)が討ち取られると、三河国(愛知県)の松平氏に仕える様になる。
徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)より12歳年下の奥平信昌(おきだいらのぶまさ/徳川)も仕える。
徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の娘の亀姫(かめひめ/徳川)が妻となる。
その後は幾多(いくた)の主要合戦に参戦し武功を挙げる。
1603年の“江戸幕府”の開設により、上野国(群馬県)小幡藩(甘楽)の藩主、美濃国(岐阜県)の加納藩(岐阜)の藩主に就任する。
1615年に起こった「大坂・夏の陣」と同年に亡くなる。
●酒井正親(さかいまさちか/松平→徳川)は三河国(愛知県)の武士で、松平清康(まつだいらきよやす/松平)と松平広忠(まつだいらひろただ/松平)と徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の親子孫の松平氏3代に仕えた。
酒井正親(さかいまさちか/松平→徳川)はは、22歳年下で幼少の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が駿河国(静岡県)の戦国大名である今川義元(いまがわよしもと/今川)の元に人質に出された際も同行している。
三河国(愛知県)の西尾城の城主にも就任。
1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)の翌年の1576年に病で亡くなる。
子孫の酒井忠恭(さかいただずみ/徳川)が播磨国(兵庫県)姫路藩の藩主に就任した縁で、現在でも兵庫県姫路市では酒井氏を崇拝し、姫路市民の誰1人として酒井正親(さかいまさちか/松平→徳川)を知らない者は居ないと言われている。
●菅沼定盈(すがぬまさだみつ/徳川)は三河国(愛知県)の菅沼氏の武士一族の家系で、駿河国(静岡県)の戦国大名である今川義元(いまがわよしもと/今川)に仕えていた。
1560年に起こった「桶狭間の戦」で主君の今川義元(いまがわよしもと/今川)が討ち取られると、三河国(愛知県)の松平氏に仕える様になる。
主君となった徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)は1歳年下の同年代。
菅沼定盈(すがぬまさだみつ/徳川)は主君の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が率いる徳川軍に参戦し、領地の遠江国(静岡県)に侵攻してきた“武田攻防”に明け暮れる。
1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)では、甲斐国(山梨県)の戦国武将である武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いるの強靭な武田軍に敗北した。
1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)では、息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)が引継いだ武田軍に、尾張国(愛知県)から織田信長(おだのぶなが/織田)が大軍を率いて参戦したため勝利する。
1603年に“江戸幕府”を開設した直後の1604年に亡くなる。
BOO RADLEYS /♪ LAZARUS (7EDIT)
◆ラジオの友◆
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16:ラジオの友
:
2023/08/16 (Wed) 19:46:54
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◆◇◆ 徳川軍:忘れなるな! 僕達だって頑張っているんだ◆◇◆
“徳川二十八武将物語”(下)でご紹介するのは、主任(トリ)を務める真打(しんうち)の“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)です。
●内藤家長(ないとういえなが/徳川)は三河国(愛知県)の武士で、代々に渡り徳川氏(松平氏)に仕える。
祖父の内藤義清(ないとうよしきよ/松平→徳川)は三河国(愛知県)の内藤氏の武将で、京都は“平安京”の藤原道長(ふじわらみちなが/朝廷)の末裔と言われる。
その息子で長男が内藤清長(ないとうきよなが/松平→徳川)で、兄の内藤家長(ないとういえなが/徳川)と弟の内藤信成(ないとうのぶなり/徳川)の父親。
次男が内藤忠郷(ないとうたださと/徳川)で、息子は“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)の内藤正成(ないとうまさなり/徳川)。
内藤家長(ないとういえなが/徳川)は槍の名手と言われた。
上総国(千葉県)の富津(ふっつ)にある佐貫城(さぬきじょう)の城主となる。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の前の、山城国(京都府)にある徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)が居城していた伏見城を守衛する徳川軍に対して、総大将の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)かつ石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍による攻撃を仕掛けた「伏見城攻防戦」にて、内藤家長(ないとういえなが/徳川)は討死する。
●内藤信成(ないとうのぶなり/徳川)は松平広忠(まつだいらひろただ/松平)の息子で、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)とは異母兄弟。
三河国(愛知県)の内藤氏の内藤清長(ないとうきよなが/松平→徳川)の養子となり、“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)の内藤家長(ないとういえなが/徳川)は義理の兄となる。
主君となる徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の主要合戦にはほぼ参戦している。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後、駿河国(静岡県)の駿府城の城主となる。
1603年に“江戸幕府”が開設された後、近江国(滋賀県)の長浜城の城主となり、これは豊臣氏の家臣が多い畿内を抑止するための国替と言われる。
1614年に起こった「大坂・冬の陣」の直前の、1612年に亡くなる。
内藤信成(ないとうのぶなり/徳川)の子孫でもある内藤弌信(ないとうかずのぶ/徳川)が越後国(新潟県)村上藩の藩主となり、代々に渡り引継ぐ。
●本多康高(ほんだやすたか/徳川)についてはよく分からないが、“徳川二十八神将”(とくがわにじゅうはちしんしょう)の一員として名前はあがっている。
もしかしたら三河国(愛知県)岡崎藩の藩主に就任した本多康重(ほんだやすしげ/徳川)と名前が似ている事から親族と思われる。
さらに言うと“徳川四天王”の本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)とも血縁関係のある本多氏の可能性はある。
なんせ400年近く前の事だから、よく分からない。
●松平伊忠(まつだいらこれただ/徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)とは別系統の松平氏。
父親は三河国(愛知県)の幸田にある深溝城(ふこうずじょう)の城主の松平好景(まつだいらよしかげ/徳川)。
松平伊忠(まつだいらこれただ/徳川)は三河国(愛知県)の岡崎にある中島城の城主になる。
織田徳川連合軍と武田軍が対立した1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、武田信玄(たけだしんげん/武田)の異母兄弟の河窪信実(かわくぼのぶざね/武田)を討ち取るも、その後、戦場にて討死する。
●水野勝成(みずのかつなり/織田→徳川)は尾張国(愛知県)の武家である水野氏の武将で、父親は水野忠重(みずのただしげ/今川→織田)。
祖父は緒川城と刈谷城の城主の水野忠政(みずのただまさ/織田→今川→織田)で、叔母が徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の母親の於大の方(おだいのかた/水野)、叔父が織田信長(おだのぶなが/織田)に仕えた水野信元(みずののぶもと/今川→織田)である。
水野勝成(みずのかつなり/織田→徳川)は、主君となる徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)とは従兄弟で、親子ほどの歳の離れた21歳年下である。
そのため、徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)とは乳兄弟だった。
1562年に「清洲同盟」の締結にて、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)の領土と、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の領土が一帯となる。
これを機に1580年に水野勝成(みずのかつなり/織田→徳川)の父親の水野忠重(みずのただしげ/今川→織田)が織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣となり、三河国(愛知県)の刈谷城の城主に任命される。
ただ、その2年後の1582年に起こった「本能寺の変」にて主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が討ち取られ、水野勝成(みずのかつなり/織田→徳川)は主君を徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に代えて主要合戦に参戦する。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が“天下人”となった豊臣政権の時は、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の配下となり肥後国(熊本県)に出向いて“一向一揆”の対応に追われる。
1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去した後、水野勝成(みずのかつなり/織田→徳川)は再び徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の家臣となり、1600年に起こった「会津征伐」ならびに「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)に参戦する。
1603年に“江戸幕府”が開設され、父親と同様の三河国(愛知県)の刈谷城の城主および刈谷藩の藩主に任命される。
剣術師として有名な宮本武蔵(みやもとむさし)に、水野勝成(みずのかつなり/織田→徳川)は剣の指導を受けている。
1614年に起こった「大坂・冬の陣」、1615年に起こった「大坂・夏の陣」では、水野勝成(みずのかつなり/織田→徳川)の要請により宮本武蔵(みやもとむさし)が客将(ききゃくしょう)として参戦した。
その後、大和国(奈良県)郡山藩の藩主、備後国(広島県)福山藩の藩主に就任した。
“江戸幕府”では征夷大将軍2代目かつ乳兄弟の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)までの徳川将軍3代まで仕え、1651年に亡くなる。
blur /♪ St. Charles Square
◆ラジオの友◆
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17:ラジオの友
:
2023/09/11 (Mon) 17:36:23
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◆◇◆三河の岡崎の発音に御用心◆◇◆
徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の重鎮家臣を紐解くと、様々な事柄が視(み)えてくる。
主君の織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍により1590年に起こった「小田原城攻め」では、相模国(神奈川県)にある“鉄壁の要塞”と言われた小田原城に居城する伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/北条)と、その息子で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/北条)に対して、豊臣軍は武力ではなく、知力で小田原城を開城させた。
これで豊臣政権を樹立する。
その直後、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は三河国(愛知県)の戦国大名である徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)に対して、武蔵国(東京都)を中心とした坂東八州(ばんどうはっしゅう)の統治を任せる。
この徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の関東入りが、“徳川四天王”などの重鎮家臣も坂東八州(ばんどうはっしゅう)の上野国(群馬県)、下野国(栃木県)、常陸国(茨城県)、下総国(千葉県)、上総国(千葉県)、安房国(千葉県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、相模国(神奈川県)を領地とした事が由来である。
特に公家社会の畿内から見た坂東武士団は、野蛮で荒っぽい印象があり、手懐ける事はほぼ不可能と言われていた。
常陸国(茨城県)および下総国(千葉県)にて930年頃に活躍した“武士の祖”と言われる平将門(たいらのまさかど/平氏)。
1185年の“鎌倉幕府”が開設される時期には、征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/源氏)に、執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→源氏→北条)と息子で執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→源氏→北条)。
1338年の“室町幕府”が開設される時期には、上野国(群馬県)の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)、下野国(栃木県)の征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)。
これだけの面子(めんつ)を見ても、理解できる。
そんな坂東武士団かつ関東民が“認めた男”、それが徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)だった。
1603年に“江戸幕府”を開設した地も、武蔵国(東京都)に決定したのは、そこから400年後に世界に名だたる大都市の“東京”に育つ事を見据えていた徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)の先見性あっての話し。
徳川家康…『わしは分かっておったよぉ、銀座の土地が1坪あたり1億円超になったり、民が暮らす住宅価値が1億円超になり、東京都心の奉公人(会社員)の平均年収も3000万円になる事をぉ。 その為に江戸を造ったんじゃ。 どやっ、凄いだろっ!』
徳川秀忠…『親父よぉ、ただ、気になる事が1つあるんやぁ。』
徳川家康…『なんだね、息子よぉ。』
徳川秀忠…『400年後の日本人の大半が、三河と岡崎の発音がおかしいんやっ!』
徳川家康…『なにぃ〜 わしの生まれ故郷でもある三河国(愛知県)の岡崎を、侮辱する者がおるのかぁ〜 そんな賊民は根切り(撫で斬り)にせぇ〜いっ!』
そうです。
歴史番組やラジオなどで『三河の岡崎』と発音すると、大抵の人は『三河(み⤴︎かわ⤵︎)の岡崎(おか⤴︎ざき⤵︎)』になっています。
これを地元の三河国(愛知県)および尾張国(愛知県)の民が発音すると『三河(みかわ⤴︎)の岡崎(おかざき⤴︎)』となる。
征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が発令した「武家諸法度」の条文にも、徳川将軍所縁(ゆかり)の地でもある『三河の岡崎』を正しく発音する様にと記載されてます。
徳川秀忠…『この法を破れば征伐ですぞぉ!』
ちなみに京都の平安神宮に隣接する岡崎公園は『岡崎公園(お↑かざき⤵︎こう⤴︎えん⤵︎)』と発音します。
言葉は国を表すさかいにぃ、よろしゅうたのんます。
GNARLS BARKLEY /♪ CRAZY
◆ラジオの友◆