都市空間計画区域
今日の1枚、お薦めレコード/20260113
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2026/01/13 (Tue) 21:55:38
NOISETTES /♪ Never Forget You
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2026/01/13 (Tue) 21:56:33
MARLENA SHAW /♪ NO HIDING PLACE
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2026/01/13 (Tue) 21:57:32
JENNIFER LOPEZ /♪ STARTING OVER
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2026/01/13 (Tue) 21:58:28
ALANIS MORISSETTE /♪ ALL I REALLY WANT
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2026/01/13 (Tue) 21:59:22
JOAN OSBORNE /♪ ONLY YOU AND I KNOW
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DYLAN CONRIQUE /♪ DOWN FROM THE HIGH
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NATASHA THOMAS /♪ IT'S OVER NOW
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SISSEL KYRKJEBO /♪ MORE LIKE YOU
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KERRY GETZ /♪ LITTLE VICTORY
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Rachael Yamagata /♪ Worn Me Down
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CHRISTINA PERRI /♪ BURNING GOLD
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2026/01/13 (Tue) 22:07:29
CHRISTINA AGUILERA /♪ BEAUTIFUL
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2026/01/13 (Tue) 22:08:27
MELISSA MANCHESTER /♪ I WANNA BE WHERE YOU ARE
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2026/01/13 (Tue) 22:09:19
NICOLETTE LARSON /♪ FRENCH WALTZ
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2026/01/13 (Tue) 22:11:07
MARY LAMBERT /♪ SHE KEEPS ME WARM
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2026/01/12 (Mon) 00:06:30
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2026/01/12 (Mon) 00:07:29
THE 5.6.7.8'S /♪ MOTHRA(モスラの歌)
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2026/01/12 (Mon) 00:08:31
Ray Parker Jr./♪ GHOSTBUSTERS
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2026/01/12 (Mon) 00:10:30
Posion No. 9/♪ LAY ALL YOUR LOVE ON ME
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2026/01/12 (Mon) 00:11:25
ABBA /♪ LAY ALL YOUR LOVE ON ME
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2026/01/12 (Mon) 00:12:21
Fallon Jennings/♪ All Night Long
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2026/01/12 (Mon) 00:13:23
Mary Jane Girls/♪ All Night Long
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2026/01/12 (Mon) 00:15:17
THE CHI-LITES /♪ HAVE YOU SEEN HER
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2026/01/12 (Mon) 00:16:16
MC Hammer /♪ HAVE YOU SEEN HER
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2026/01/12 (Mon) 00:18:22
Gotye feat. Kimbra/♪ Somebody That I Used To Know
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2026/01/12 (Mon) 00:19:19
Boney M /♪ Rivers of Babylon
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2026/01/12 (Mon) 00:20:15
The Melodians /♪ Rivers of Babylon
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今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:16:49
◆◇◆其の十九:日本のお城と天守閣◆◇◆
(17)
河内国(大阪府)の千早城(ちはやじょう/千早赤坂)は、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)と紀伊国(和歌山県)の国境にそびえ立つ生駒山(いこまやま/大阪東・奈良)と信貴山(しぎさん/大阪東・奈良)、それに葛城山(かつらぎさん/大阪南・奈良)と金剛山(こんごうさん/大阪南・奈良)に跨(またが)る山脈に、鎌倉時代末期の武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)により築城された楠木七城(くすのきしちじょう)の1棟です。
楠木七城(くすのきしちじょう)とは、その山岳地帯の北側から龍泉寺城(だけやまじょう/富田林)または嶽山城(だけやまじょう)、金胎寺城(こんたいじじょう/富田林)、下赤坂城(しもあかさかじょう/千早赤坂)、上赤坂城(かみあかさかじょう/千早赤坂)または小根田城(おねだじょう)および桐山城(きりやまじょう)、千早城(ちはやじょう/千早赤坂)、烏帽子形城(えぼしがたじょう/河内長野)の事を指します。
河内国(大阪府)の悪党(あくとう/国人)となった楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)は、弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)と共に第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が組成した朝廷軍に参戦して、相模国(神奈川県)の鎌倉幕府と交戦した。
この悪党(あくとう/国人)とは、現代の意味で言う悪人ではなく、鎌倉幕府から独立して年貢などを納めない地方の武家などを指して言う。
楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の楠木氏は、源平藤橘(げんぺいとうきつ)の名門家と呼ばれる源氏と平氏と藤原氏と橘氏(たちばなうじ)の内の、奈良時代から続く公家の橘氏(たちばなうじ)の系統と言われる。
楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の妻の南江久子(みなみえひさこ/楠木)との間に3人の息子が誕生している。
長男の楠木正行(くすのきまさつら/朝廷)、次男の楠木正時(くすのきまさとき/朝廷)、三男の楠木正儀(くすのきまさのり/朝廷)で、全員が父親と同じ様に後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)に仕えた。
また、弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)の息子の和田賢秀(わだけんかい/朝廷)も同様で楠木正行(くすのきまさつら/朝廷)の家臣に就き、薙刀(なぎなた)の名手と呼ばれた。
この楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の一族は、良い意味でも悪い意味でも後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)による朝廷に振り回されて、室町幕府を開設した征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)や弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が率いる足利軍と交戦した1336年に起こった「湊川の戦」(みなとがわのたたかい)や1348年に起こった「四條畷の戦」(しじょうなわてのたたかい)にて敗北し滅亡している。
そんな名門武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と弟の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)が居城した千早城(ちはやじょう/千早赤坂)は、10万人規模の大群勢で侵攻する鎌倉幕府軍でも落城できなかった難攻不落の堅固(けんご)な名城である。
これは是非、千早城(ちはやじょう/千早赤坂)を含めた楠木七城(くすのきしちじょう)を再建しなければならない。
山脈に築かれた7棟のお城を結んでテーマパークみたいに回遊できる様にし、来園者は鎌倉武士になりきり、千早城(ちはやじょう/千早赤坂)の岸壁を登り侵攻し、上部から落とされる岩石や丸太や熱湯や糞尿を避けて城内に侵入するロッククライミングのアトラクションを設けたり、高さ50mの火を放たれ炎上する木製の吊り橋を渡ったりする歴史体験型のお城にすれば、日本はおろか世界中から観光客が集まる事は間違いない。
ただし、アトラクションの趣旨(しゅし)から旅行中の死亡保険は適用外となります。
(18)
大和国(奈良県)の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)は、平城京の南部に位置する大坂と京都の防衛拠点として、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の弟の豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)により築城された。
尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)を拠点に織田信長(おだのぶなが/織田)が破竹の勢いで快進撃を続ける下地には、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)などの優秀で有能な武将が揃っていた事にある。
そんな豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)も、兄の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の勧誘で農民から織田軍の武士に転身した1人である。
1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)した後は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が織田軍の地盤を引継ぎ豊臣政権を樹立した。
その時期に弟の豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)は、大和国(奈良県)と和泉国(大阪府)と紀伊国(和歌山県)の領国を与えられる100万石を超える大大名に昇進した。
その中心地として築城したのが大和郡山城(やまとこおりやまじょう)で、周辺には城下町を整備している。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が司る豊臣政権の前期は、外部の事柄には豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が担い、内部の事柄は田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)が担って安定を保っていた。
ところが1590年に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の妻となった妹の朝日姫(あさひひめ/織田→豊臣→徳川)が亡くなり、続いて1591年に豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が死去し、同年の1591年に淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)との最初の息子だった豊臣鶴松(とよとみつるまつ/豊臣)が早世し、1592年に母親の大政所(おおまんどころ)と呼ばれた天瑞院(てんずいいん)こと仲(なか/織田→豊臣)も他界した。
この立て続けに起こった身内の死去により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は精神崩壊の症状が出始める。
その1つが1591年の田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)に対する理由なき切腹事件である。
そして関白に就任し豊臣政権の後継者に指名されていた甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)とその一族も1595年に自決および処刑された。
この後期の豊臣政権は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)などの“豊臣五大老”と石田三成(いしだみつなり/豊臣)などの“豊臣五奉行”により運営され、1598年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は死去した。
そんな歴史の背景がある大和郡山城(やまとこおりやまじょう)には立派な天守閣が存在していた。
更(さら)に言うと、大和郡山城(やまとこおりやまじょう)は豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が築城したお城ではない。
元々は大和国(奈良県)の筒井城(つついじょう/大和郡山)の城主で地域一帯を統治していた興福寺(こうふくじ/法相宗)の僧侶でもある筒井順昭(つついじゅんしょう/筒井)と、その息子の筒井順慶(つついじゅんけい/筒井→織田→豊臣)が大和郡山城(やまとこおりやまじょう)の城主に就任していた。
1544年に筒井順昭(つついじゅんしょう/筒井)と筒井順慶(つついじゅんけい/筒井→織田→豊臣)の親子の軍勢は、大和郡山城(やまとこおりやまじょう)から北東部の山岳地帯に建つ柳生城(やぎゅうじょう)へ侵攻し、城主だった柳生家厳(やぎゅういえよし/柳生)と息子の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)と交戦している。
この柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)は、上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)の弟子で柳生新陰流の流祖として柳生庄(やぎゅうしょう)で剣術の鍛錬(たんれん)に励(はげ)んでいた。
ここまで知ると、大和民族なら大和郡山城(やまとこおりやまじょう)を再建する機運しか高まりません。
GRAND FUNK /♪ THE LOCO MOTION
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:17:52
◆◇◆其の二十:日本のお城と天守閣◆◇◆
(19)
因幡国(いなば/鳥取県)の鳥取城(とっとりじょう)は、室町幕府の守護大名を務めた山名氏により築城され、この山陰地方を一帯とした尼子氏(あまこうじ)と毛利氏(もうりうじ)の交戦の末に、毛利氏(もうりうじ)の系統となる吉川氏(きっかわうじ)が統治した。
戦国時代末期の1581年に、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点に中国地方を統治していた毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)の領域に侵攻する為に、畿内(きない/関西)まで勢力を伸ばした織田信長(おだのぶなが/織田)の先鋒隊として豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が進軍した。
因幡国(いなば/鳥取県)の鳥取城(とっとりじょう)を包囲した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、攻撃する事なく『戦わずして勝つ!』ことを選択して“兵糧攻め”を実施した。
この作戦を主導したのが天才軍師と呼ばれる黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)である。
この鳥取城(とっとりじょう)には、毛利軍から藤原氏南家(なんけ)の石見吉川氏(いわみきっかわうじ)の系統で、石見国(いわみ/島根県)の武将の吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)が入城して篭城した。
この時に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、鳥取城(とっとりじょう)の前面に布陣するのではなく、後方の山岳地帯に陣営を設けた。
そして、周囲の米問屋から高値でお米を買い占めて、更に領民を鳥取城(とっとりじょう)の内部に追い遣(や)った。
こうした事により、鳥取城(とっとりじょう)に蓄えてあった食料は、あっという間に消費していった。
吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)が率いる毛利軍は鳥取城(とっとりじょう)で4ヶ月間も耐えたが、飢えに苦しむ人々により、人が人を喰らう地獄と化していた。
安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)からの援軍もなく、最期(さいご)は吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)の切腹と差し替えに、鳥取城(とっとりじょう)に残る人々の人命嘆願を申出て豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は了承している。
時が流れた江戸時代では、織田信長(おだのぶなが/織田)の乳兄弟で尾張国(愛知県)の犬山城の城主に就任した池田恒興(いけだつねおき/織田)の息子の羽柴長吉(はしばながよし)こと池田長吉(いけだながよし/豊臣→徳川)が、因幡国(いなば/鳥取県)の鳥取藩の藩主かつ鳥取城(とっとりじょう)の城主に就任した。
羽柴長吉(はしばながよし)こと池田長吉(いけだながよし/豊臣→徳川)は、少年期に子供の居なかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の養子に入り、後々に犬山城から木曽川を挟んだ対岸にある伊木山城(いぎやまじょう/各務原)の城主だった池田氏の家臣の伊木忠次(いぎただつぐ/織田→豊臣→徳川)の娘を娶(めと)っている。
この頃に鳥取城(とっとりじょう)では、立派な天守閣などの建造物が建設されたが、火災で焼失などして、現在までに復元が進行中である。
羽柴長吉(はしばながよし)こと池田長吉(いけだながよし/豊臣→徳川)の兄弟で播磨国(はりま/兵庫県)の姫路藩の藩主に就任していた池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)が居城していた姫路城と並び“天下一の名城”と言われていた。
特に“石垣の博物館”と言われる程に様々な石垣が設けてある。
日本では鳥取城(とっとりじょう)でしか観られないお椀(わん)型石垣も存在している。
この事からも、現在の天守閣が無い鳥取城(とっとりじょう)は、日本にとって非常に具合の悪い状態である事が判る。
そんな鳥取城(とっとりじょう)では、ご当地キャラクターで渇(かつ)え殺しの“かつ江さん”がお待ちしているので、是非に足を運んで欲しい。
(20)
美作国(みまさか/岡山県)の津山城(つやまじょう)は、立派な天守閣をはじめとした建造物が存在していたが、明治維新により1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)と1873年(明治6年)の「廃城令」(はいじょうれい)で破却(はきゃく)が実施された非常に勿体(もったい)ないお城です。
この鶴山城(津山城)の一帯は、室町時代の京都にて1467年〜1477年に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)で、西陣の屋敷に布陣し西軍の総大将に就いた山名宗全(やまなそうぜん/室町→西軍)の山名氏の系統が統治していた。
しかし、山名宗全(やまなそうぜん/室町→西軍)の孫の山名政豊(やまなまさとよ/室町→西軍)と、東陣の屋敷に布陣し東軍の総大将に就いた細川勝元(ほそかわかつもと/室町→東軍)の息子の細川政元(ほそかわまさもと/室町→東軍)が1477年に和睦し、「応仁の乱」(おうにんのらん)は一応は終結した。
この後に鶴山城(津山城)は廃城となり地域も衰退する。
ところが時は流れ江戸時代の幕開けと共に、美作国(みまさか/岡山県)の津山城(つやまじょう)の一帯を領国とする津山藩の藩主に森忠政(もりただまさ/豊臣→徳川)が就任した。
森忠政(もりただまさ/豊臣→徳川)の森氏とは、清和源氏の八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)の系統の森氏で、戦国時代には森可成(もりよしなり/土岐→織田)が土岐氏の家臣から織田氏に仕えていた。
尾張国(愛知県)の領主に織田信長(おだのぶなが/織田)が就任すると、は森可成(もりよしなり/土岐→織田)の4人の息子はそれぞれの役職で織田軍を支える。
森長可(もりながよし/織田→豊臣)は森氏の家督継承者となり、美濃国(岐阜県)の金山城(かねやまじょう/可児)の城主に就任し、人間無骨(にんげんむこつ)の槍との異名を持ち、“ヤンチャな長可”と呼ばれていた。
森蘭丸(もりらんまる)こと森成利(もりなりとし/織田)は、尾張国(愛知県)の葉栗(はぐり/一宮)の小姓(こしょう)として織田信長(おだのぶなが/織田)の付人(つきびと)となり、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で織田信長(おだのぶなが/織田)と共に討死している。
森坊丸(もりぼうまる)こと森長隆(もりながたか/織田)も、兄の森蘭丸(もりらんまる)こと森成利(もりなりとし/織田)と同様で織田信長(おだのぶなが/織田)の付人(つきびと)となり同じく討死した。
森忠政(もりただまさ/豊臣→徳川)も、当時は織田信長(おだのぶなが/織田)の付人(つきびと)だったが、ヤンチャな性格で手に負えず、織田信長(おだのぶなが/織田)から美濃国(岐阜県)の金山城(かねやまじょう/可児)へ出戻りさせられている。
それが幸いして「本能寺の変」(ほんのうじのへん)に巻き込まれる事がなく、後々に美作国(岡山県)の津山藩の藩主かつ津山城(つやまじょう)の城主に就任できた。
この森忠政(もりただまさ/豊臣→徳川)の家臣に名古屋山三郎(なごやさんざぶろう/蒲生→森)が居り、美少年や伊達者(だてしゃ)や傾奇者(かぶきもの/異端者)と呼ばれていた。
名古屋山三郎(なごやさんざぶろう/蒲生→森)の父親は那古野勝泰(なごやかつやす/斯波→織田)で、家系は鎌倉幕府の名越北条氏(なごえほうじょううじ)や今川氏の那古野氏(なごやうじ)と言われ、尾張国(愛知県)の織田氏に仕えていた。
そんな美男子の名古屋山三郎(なごやさんざぶろう/蒲生→森)だが、誰もが認めるその美貌から、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の側室の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と山城国(京都府)の淀城(よどじょう/京都)で密会し、何と豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の父親との噂がある。
名古屋山三郎(なごやさんざぶろう/蒲生→森)の妻は、京都の北野天満宮で興行していた女芸人で“山陰で一番の美女”と言われた出雲阿国(いずもおくに/巫女→芸能者)である。
出雲阿国(いずもおくに/巫女→芸能者)は、元々は出雲大社の巫女(みこ)として神楽(かぐら)を踊っていたが、その妖艶な美しさから京都や江戸で踊る様になり、傾奇者(かぶきもの/異端者)の男装で踊っていた事から歌舞伎の祖と呼ばれる。
チンドン屋の元祖でもあるが、余りにも刺激的な乱舞から風紀を乱すとして、江戸幕府により歌舞伎の女性禁止が発布され、それが現在にも歌舞伎に適用されている。
これだけの歴史を垣間見ても、お腹いっぱいになる美作国(みまさか/岡山県)の津山城(つやまじょう)は、もう再建の一択しかありませんね。
THE EDGAR WINTER GROUP /♪ FRANKENSTEIN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:18:51
◆◇◆其の二十一:日本のお城と天守閣◆◇◆
(21)
阿波国(徳島県)の徳島城は、鎌倉時代に伊予国(愛媛県)の武将で瀬戸内海の伊予水軍を率いた河野通信(かわのみちのぶ/源氏)などの河野氏(かわのうじ)が一帯を統治していた。
室町時代に入ると三管領(さんかんれい)の細川氏や守護代の三好氏などが統治した。
戦国時代には土佐国(高知県)の武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)が勢力を伸ばした。
しかし、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)すると、織田軍を引継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)により侵攻を受けて、尾張国(愛知県)の海部(あま)の武将の蜂須賀小六(はちすかころく)こと蜂須賀正勝(はちすかまさかつ/織田→豊臣)の息子の蜂須賀家政(はちすかいえまさ/織田→豊臣→徳川)が阿波国(徳島県)の領主に就任して徳島城を築城した。
その息子の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ/豊臣→徳川)が江戸時代に入り阿波国(徳島県)の徳島藩の初代藩主に就任し、蜂須賀氏(はちすかうじ)が代々に渡り藩主を務めた。
しかし、明治維新による1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)と1873年(明治6年)の「廃城令」(はいじょうれい)により、徳島城は破却(はきゃく)させられた。
助任川(すけとうがわ)と寺島川(てらしまがわ)に囲まれた小高い丘の上に建つ平山城(ひらやまじろ)の徳島城は、九州から関東まで連なる中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)の上部にある三角州(さんかくす)に位置し、天守閣も丘の山頂の本丸ではなく、一段下がった東二の丸に設けられている。
理由としては、そこからの方が徳島城下町の眺望が良かったと言う。
地震大国の日本に置いて、地質学でも、歴史学でも、貴重な教材となる徳島城の基調性は言うまでもない。
(22)
讃岐国(香川県)の高松城は、瀬戸内海を見渡せる海沿いに建設され、天守閣の建物が基礎の下部分より迫り出しているのが特徴です。
高松琴平電鉄の高松築港駅(たかまつちっこうえき)が隣接している、と言うよりも、高松城の城郭に鉄道があると言って方が正解かも知れない。
そんなお堀電車が通る高松城は、明治期に天守閣は老朽化で破却(はきゃく)され、他の建造物も昭和期の1945年の太平洋戦争で空襲により焼失した。
戦国時代に土佐国(高知県)の武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)が、讃岐国(香川県)まで勢力を伸ばしてた。
“天下の覇者”となった織田信長(おだのぶなが/織田)により四国統一を確約された長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は、その後にその約束を反故(ほご)された事で、家臣が親族関係にあった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を誘発して、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて織田信長(おだのぶなが/織田)を討たせた疑いがある。
だが、織田軍を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)により「四国征伐」が開始され、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は敗北して土佐国(高知県)に帰還した。
そして豊臣政権の時代となり、生駒親正(いこまちかまさ/織田→豊臣)が讃岐国(香川県)の大名に就任し、各地を転々と移転しながら、1587年に高松城を築城して城主に就いた。
生駒親正(いこまちかまさ/織田→豊臣)とは、藤原氏北家(ほっけ)の生駒氏(いこまうじ)の美濃国(岐阜県)の可児(かに)の武将で、織田信長(おだのぶなが/織田)の親族であり家臣でもあった。
豊臣政権の重鎮家臣に就いており、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で紀伊国(和歌山県)の高野山に出家した。
江戸時代の徳川政権では高松藩の初代藩主に就任するも、1603年に死去している。
その息子の生駒一正(いこまかずまさ/織田→豊臣→徳川)も、父親と共に織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣で、高松藩の2代目藩主に就任するも、1610年に死去している。
その息子の生駒正俊(いこままさとし/徳川)が高松藩の3代目藩主に就任し、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)の養女を妻として娶(めと)る。
その息子の生駒高俊(いこまたかとし/徳川)が就任するも、男色を好み美少年の陰間(かげま/男娼)を高松城に呼び寄せて乱舞する日々を送っていた。
祖父の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)やその息子の藤堂高次(とうどうたかつぐ/豊臣→徳川)が、生駒高俊(いこまたかとし/徳川)の後見人に就いて諫言(かんげん)するも言う事を聞かなかった。
結局、高松藩の家臣などの反発もあり、江戸幕府の裁定で1640年に「生駒騒動」(いこまそうどう)まで発展し、生駒高俊(いこまたかとし/徳川)は領地没収の改易(かいえき)および羽後(うご/秋田県)の由利(ゆり/由利本荘)に配流(はいる)となり、これで生駒氏はお家断絶した。
因みに、織田信長(おだのぶなが/織田)の側室だった生駒吉乃(いこまきつの/生駒→織田)は、「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で父親と同様に自決した織田信忠(おだのぶただ/織田)と、「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)の総大将で72歳の長寿だった織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子の松平信康(まつだいらのぶやす/徳川)の妻となった徳姫(とくひめ/織田→徳川)の母親です。
その生駒吉乃(いこまきつの/生駒→織田)の兄が生駒家長(いこまいえなが/織田→豊臣→徳川)で、尾張国(愛知県)の小折城(こおりじょう/江南)の城主に就任していた。
生駒親正(いこまちかまさ/織田→豊臣)の家系と生駒家長(いこまいえなが/織田→豊臣→徳川)の家系は直接的には関係ないが、生駒氏の親族である事は間違いない。
生駒高俊(いこまたかとし/徳川)が改易(かいえき)された後の高松藩は、1642年に水戸徳川家の松平頼重(まつだいらよりしげ/徳川→高松)が藩主に就任した。
松平頼重(まつだいらよりしげ/徳川→高松)は、徳川御三家(とくがわごさんけ)の水戸徳川家として常陸国(ひたち/茨城県)の水戸城(みとじょう)で居城し、祖父が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、父親が水戸藩の初代藩主の徳川頼房(とくがわよりふさ/徳川→水戸)、弟が“水戸黄門”の徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)である。
松平頼重(まつだいらよりしげ/徳川→高松)は常陸国(ひたち/茨城県)から讃岐国(香川県)に転居し、松平氏として高松藩の初代藩主に就任して高松松平氏の祖となる。
そこから幾年(いくとせ)が過ぎ、高松藩の5代目藩主の松平頼恭(まつだいらよりたか/高松)は、高松城に薬草栽培の農園を設けて医薬研究しており、医学者としても活躍していた。
その時に讃岐国(香川県)の寒川郡(さんがわ)の出身の平賀源内(ひらがげんない/発明家)が、松平頼恭(まつだいらよりたか/高松)の家臣となり薬学の研究に従事していたが、蘭語(オランダ語)が話せなかった事で解雇されている。
平賀源内(ひらがげんない/発明家)が“エレキテル”(静電気発生機)を普及させたのは、そこから後の話である。
ここまでの長文を読めば、讃岐国(香川県)に讃岐うどんだけでなく、高松城の天守閣も必要だと解ってくる。
Creedence Clearwater Revival /♪ Fortunate Son
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:19:44
◆◇◆其の二十二:日本のお城と天守閣◆◇◆
(23)
筑前国(福岡県)の立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)は、岩屋城(いわやじょう/太宰府)と宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)と共に1586年に起こった「岩屋城の戦」(いわやじょうのたたかい)にて、薩摩国(鹿児島県)の島津貴久(しまづたかひさ/島津)の息子で島津四兄弟と呼ばれる島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)と島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)が率いる島津軍に侵攻を受けた筑前三城である。
この筑前三城には、豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)や豊後国(ぶんご/大分県)の北九州一帯を領国とする守護大名で“豊後の王”と呼ばれた大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)かつドンフランシスコ(洗礼名)の家臣が篭城して攻防していた。
立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)には、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子で立花道雪(たちばなどうせつ/大友)に養子に入っていた“西国無双”(さいごくむそう)と呼ばれた立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が居城している。
岩屋城(いわやじょう/太宰府)には、吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)の息子で高橋氏に養子に入っていた高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)で、大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の重鎮家臣で、岩屋城(いわやじょう/太宰府)の城主に就任していた。
宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)には、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子の高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居城している。
この時の軍勢は島津軍の3万人に対して、大友軍高橋立花隊は700人余りで、決戦前から勝敗は目に見えている。
当然に武将の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)も降伏するかと思いきや、徹底抗戦の構えを見せる。
岩屋城(いわやじょう/太宰府)を中心に、北側には立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)、東側には宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)が構えており、筑前国(福岡県)全域で見れば、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が統治する鉄壁の要塞となっていた。
この時の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)は岩屋城(いわやじょう/太宰府)に居城する家臣達に、『ここで降伏するのは簡単だ。 ただ、たとえ大軍相手とて、武士なら戦わねばならない時がある。 それが今だっ! ここで交戦すれば15日は保(も)つだろう。 そうすれば島津軍も豊後国(ぶんご/大分県)への侵攻が遅れ、そうしている内に、本土から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍が到着する。 皆の博多武士団の底力を見せてやれぇ!』と述べて鼓舞(こぶ)した。
これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が指揮する島津軍は岩屋城(いわやじょう/太宰府)に対して一斉攻撃を仕掛けるが、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が指揮する大友軍高橋立花隊の抵抗は激しくなかなか落城できない。
そして合戦から13日が経とうとした時に、最期を悟った大将の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)と残った武士は集団自決した。
次に島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍は、高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居城する東側の宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)を総攻撃し、居城していた高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)は降伏し命だけは助けられた。
続いて立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が居城する立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)に侵攻した島津軍だが、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の降伏要求に対して、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は投降する素振りを見せる“詐降の計略”(さこうのけいりゃく)を展開して、援軍が到着するまでの時間稼ぎをする。
そして安芸国(あき/広島県)から毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が率いる豊臣軍毛利隊が立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)に進軍して来た。
これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍は筑前国(福岡県)から撤退する事になる。
因みに戦国時代の北九州を統治していた豊後国(ぶんご/大分県)の大友氏は室町幕府の守護大名としての名家で、大友義鑑(おおともよしあき/室町)と、息子の大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)と、その息子の大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)に渡り統治されていた。
大友軍には、優秀で有能な家臣が多く在籍しており、大友氏の軍師だった角隈石宗(つのくませきそう/大友)、大友氏の三家老と呼ばれた戸次鑑連(べっきあきつら)こと立花道雪(たちばなどうせつ/大友)、吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)、臼杵鑑速(うすきあきはや/大友)が大友軍を固めていた。
その配下には一萬田鑑実(いちまたあきざね/大友)と弟の高橋鑑種(たかはしあきたね/大友→毛利)、吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)の息子で高橋氏に養子に入り岩屋城(いわやじょう/太宰府)の城主に就任した高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が揃っている。
高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子が、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)と高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居る。
戸次鑑連(べっきあきつら)こと立花道雪(たちばなどうせつ/大友)の養子に入った立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、その娘の“九州で一番の美女”と言われた立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)を妻に娶(めと)る。
ほんの僅(わず)かな期間の歴史を垣間見(かいまみ)ても、もつ鍋3杯と丼飯(どんぶりめし)10杯を食べた位の満足度である。
海の向こうにある大陸から攻撃された場合の防衛拠点としても、筑前国(福岡県)の山岳地帯に築城された立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)と岩屋城(いわやじょう/太宰府)と宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)の再建は、日本国防の必須条件である。
SPENCER DAVIS GROUP /♪ KEEP ON RUNNING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:20:36
◆◇◆其の二十三:日本のお城と天守閣◆◇◆
(24ー1)
筑前国(福岡県)の福岡城は、JRの博多駅や西日本鉄道の天神駅から西部、福岡ドームや福岡タワーのあるシーサイド百道(ももち)から南東部に位置する大濠公園(おおほりこうえん)の一画に築城されていた。
大濠公園(おおほりこうえん)には、大濠池(おおほりいけ)とお濠(ほり)で囲まれた城郭となっている。
福岡県外から来た他民族からすれば、『福岡城には、さぞや立派な天守閣があるんだろう。』と思うが、立派な天守閣は何処(どこ)にも見当たらない。
これには様々な経緯(いきさつ)があり、最初から天守閣が建設されてなかった説もある。
ただ、“三大築城名手”と呼ばれる黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)と、その息子で江戸時代に筑前国(福岡県)の福岡藩主に就いた黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)が関わったお城である。
天守閣が無い訳がない!
北九州は古代から大陸の窓口として機能していた。
倭国(日本)には船に乗って様々な異国人が渡航してくる。
その外国船の寄港先が、筑前国(福岡県)を中心とした博多湾(那津/なのつ)だった。
古墳時代の350年頃に起こった「三韓征伐」(さんかんせいばつ)または“第1次朝鮮出兵”では、第14代天皇の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の妻の神功皇后(じんぐうこうごう)が、朝鮮半島の馬韓(ばかん/百済)と弁韓(べんかん/任那)と辰韓(しんかん/新羅)の三韓に侵攻した際に、筑前国(福岡県)の博多湾(那津/なのつ)から出航している。
因みに、第14代天皇の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の父親は倭建御子(ヤマトタケルノミコ)で、筑紫国(つくしのくに/福岡県)の訶志比宮(かしいのみや/香椎宮)を拠点にしていたが、妻でシャーマン(呪術師)だった神功皇后(じんぐうこうごう)の神託(しんたく)を無下(むげ)に扱い、摂津国(大阪府)の住吉大社に祀られる神様の、底箇之男命(ソコツツノヲノミコト)と中箇之男命(ナカツツノヲノミコト)と上箇之男命(ウハツツノヲノミコト)に呪い祟られ崩御(ほうぎょ)した。
この摂津国(大阪府)の住吉大社には墨江之三前大神(すみのえのみまへのおほかみ/住吉三神)の3柱と神功皇后(じんぐうこうごう)が主祀となっている。
1柱が、底箇之男命(ソコツツノヲノミコト)で伊耶那岐神(イザナギ)から誕生し、第1本宮に祀られる海底の神様である。
2柱が、中箇之男命(ナカツツノヲノミコト)で伊耶那岐神(イザナギ)から誕生し、第2本宮に祀られる海中の神様である。
3柱が、上箇之男命(ウハツツノヲノミコト)で伊耶那岐神(イザナギ)から誕生し、第3本宮に祀られる海上の神様である。
4柱が、神功皇后(じんぐうこうごう)で母親は朝鮮半島の新羅(しらぎ)王族の系統で、「三韓征伐」(さんかんせいばつ)の勝利により第4本宮に祀られる。
神功皇后(じんぐうこうごう)は朝鮮半島の「三韓征伐」(さんかんせいばつ)から帰還し、その直後に筑前国(福岡県)にて第15代天皇の応神天皇(おうじんてんのう)を出産している。
母親の神功皇后(じんぐうこうごう)と息子の応神天皇(おうじんてんのう)は、豊前国(ぶぜん/大分県)に創建された宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の主祭神にも就任している。
そこから時は経ち、近江国(滋賀県)で生まれ越前国(福井県)で育った“謎の大王(おおきみ)”と呼ばれる第26代天皇の継体天皇(けいたいてんのう)が大和国(奈良県)のヤマト政権を担っていた頃の古墳時代で、527年に起こった「磐井の乱」(いわいのらん)または“第2次朝鮮出兵”でも、筑前国(福岡県)の博多湾(那津/なのつ)からヤマト政権の将軍の近江毛野(おうみけな/大和)が率いる大和軍が、朝鮮半島に侵攻するも朝鮮軍に敗北した。
この敗因の1つに、九州の筑紫国(つくしのくに)から肥国(ひのくに)の一帯を統治する豪族の筑紫君石井(ちくしのきみいわい)が、大和軍に協力しなかった事が挙げられる。
これによりヤマト政権の大連(おおむらじ)に就いていた大伴金村(おおとものかなむら)は、同じく大連(おおむらじ)だった物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を大和軍の征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)に任命して、筑紫君石井(ちくしのきみいわい)と息子の筑紫君葛子(ちくしのきみくずこ)を征伐した。
そこから飛鳥時代に入り、第26代天皇の継体天皇(けいたいてんのう)の息子で第29代天皇の欽明天皇(きんめいてんのう)の頃、紀元前7世紀頃にインドの御釈迦様(仏陀)が開祖で、大仏こと毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ/華厳宗)の教えがシルクロードを渡り中国大陸から朝鮮半島、そして倭国(日本)に伝来された。
大和国(奈良県)の飛鳥京(あすかきょう/明日香)では、欽明天皇(きんめいてんのう)に仏教の経典と仏像が贈呈された。
ヤマト政権の重鎮家臣で豪族の蘇我稲目(そがいなめ/朝廷)は仏教派となり仏教の経典と仏像を信仰し、豪族で大和軍の将軍職の物部尾輿(もののべおこし/朝廷)は古来からの神道派となり対立した。
そして、第29代天皇の欽明天皇(きんめいてんのう)の娘で炊屋姫(かしきやひめ)こと第33代天皇の推古天皇(すいこてんのう/女皇)と、第31代天皇の用明天皇(ようめいてんのう/朝廷)の息子の厩戸皇子(うまやどのみこ)こと聖徳太子(しょうとくたいし)によりヤマト政権が運営された頃に、中国大陸の隋(ずい)の文明と技能を採り入れる為に、ヤマト政権の官人の小野妹子(おののいもこ/朝廷)が遣隋使(けんずいし)となり渡航している。
これらは大和国(奈良県)の飛鳥京(あすかきょう/明日香)から摂津国(大阪府)の難波津(なにわのつ)まで行き、そこから船で瀬戸内海を渡り豊前国(ぶぜん/福岡県)や筑前国(福岡県)に入り、そして中国大陸へ渡航していたと考えられる。
時が流れ第35代天皇の皇極天皇(こうぎょくてんのう/女皇)の頃に、後々に第38代天皇の天智天皇(てんぢてんのう)に就く息子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と、ヤマト政権の家臣の藤原鎌足(ふじわらかまたり)こと中臣鎌足(なかとみかまたり/公家)により、645年に起こった「乙巳の変」(いっしのへん)および「大化の改新」(たいかのかいしん)が実施された。
その後の663年に、中国大陸の唐(とう)と朝鮮半島の新羅(しらぎ)が連合して、朝鮮半島の西南部に位置する百済(くだら)を侵攻した「白村江の戦」(はくすきのえのたたかい)または“第3次朝鮮出兵”が起こった。
倭国(日本)のヤマト政権は、朝鮮半島の百済(くだら)と友好関係を築いており、隣接して任那(みまな)を統治国としていた為に大和軍を派遣するも唐新羅連合軍に敗北した。
「白村江の戦」(はくすきのえのたたかい)または“第3次朝鮮出兵”により大敗した倭国(日本)のヤマト政権は、中国大陸や朝鮮半島への国防対策として筑前国(福岡県)に防衛拠点を設ける。
奈良時代の朝廷は政府機関を配置して日本列島を統治し、“日本三大史跡”と呼ばれる九州は筑前国(福岡県)の太宰府(だざいふ)、近畿は大和国(奈良県)の平城京(へいじょうきょう)、東北は陸奥国(むつ/宮城県)の多賀城(たがじょう)を建造した。
SPENCER DAVIS GROUP /♪ SOMEBODY HELP ME
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:21:35
◆◇◆其の二十四:日本のお城と天守閣◆◇◆
(24ー2)
390年間も続いた平安時代では、平安京の朝廷の文章博士(もんじょうはかせ)で、氏族の土師氏(はじうじ)で埴輪(ハニワ)の考案者の野見宿禰(ノミノスクネ)の子孫の菅原是善(すがわらこれよし/公家)の息子で、朝廷では蔵人頭(くろうどとう)や右大臣に就いた菅原道真(すがわらみちざね/公家)が、第59代天皇の宇多天皇(うだてんのう/朝廷)の寵愛(ちょうあい)を受けて活躍していた。
この頃の朝廷では、天皇の代わりに政治を司る摂政(せっしょう)と天皇の政治を補佐する関白(かんぱく)による摂関政治を藤原氏が掌握している。
藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)の系統で、藤原長良(ふじわらながら/公家)の息子で藤原良房(ふじわらよしふさ/公家)の養子に入っていた中納言や関白に就いていた藤原基経(ふじわらもとつね/公家)と宇多天皇(うだてんのう/朝廷)が対立し、887年に起こった「阿衡の紛議」(あこうのふんぎ)により、藤原基経(ふじわらもとつね/公家)が職務を放棄した事により朝廷の政務が滞る。
これを解決したのが菅原道真(すがわらみちざね/公家)である。
この様に皇族の信任が厚かった菅原道真(すがわらみちざね/公家)は、娘の菅原寧子(すがわらやすこ/公家→朝廷)が、宇多天皇(うだてんのう/朝廷)の息子の斉世親王(ときよしんのう/朝廷)に嫁いだ。
ところが、藤原基経(ふじわらもとつね/公家)の息子で左大臣に就いていた藤原時平(ふじわらときひら/公家)の謀略(ぼうりゃく)により、『次期の天皇に義息子の斉世親王(ときよしんのう/朝廷)を就任させる調略(ちょうりゃく)を企てている』と、宇多天皇(うだてんのう/朝廷)の息子で第60代天皇の醍醐天皇(だいごてんのう/朝廷)に讒言(ざんげん)した事で、901年に菅原道真(すがわらみちざね/公家)は筑前国(福岡県)の太宰府(だざいふ)へ左遷(させん)させる勅命(ちょくめい)を発布した「昌泰の変」(しょうたいのへん)が起こった。
こうして菅原道真(すがわらみちざね/公家)は京都から離れ筑前国(福岡県)の太宰府(だざいふ)へ梅の花と共に転居し、903年に失意の内に死去した。
この菅原道真(すがわらみちざね/公家)の怨念により藤原時平(ふじわらときひら/公家)は909年に急死している。
そして、平安時代末期の1180年〜1185年の「源平合戦」(げんぺいがっせん)を経て、相模国(神奈川県)に鎌倉幕府が開設された鎌倉時代が始まる。
そして執権8代目の北条時宗(ほうじょうときむね/鎌倉)の頃に、中国大陸の元(げん/モンゴル帝国)から大軍勢で元軍(モンゴル軍)が侵攻してきた。
それが1274年に起こった「文永の役」(ぶんえいのえき)または第1次の元寇(げんこう/蒙古襲来)と、1281年に起こった「弘安の役」(こうあんのえき)または第2次の元寇(げんこう/蒙古襲来)である。
鎌倉幕府は北九州の筑前国(福岡県)の海岸沿いに防衛拠点を設けて、チンギスカン(モンゴル皇帝)の孫で大都(北京)を拠点としていたフビライハン(元皇帝)の元軍(モンゴル軍)に対抗した。
この攻防戦で活躍したのが筑前国(福岡県)の武将の少弐経資(しょうにつねすけ/鎌倉)と弟の少弐景資(しょうにかげすけ/鎌倉)や、肥後国(熊本県)の菊池氏の武士の竹崎季長(たけさきすえなが/鎌倉)で、元軍(モンゴル軍)への撃退に成功したが、その反面で鎌倉幕府より論功行賞が支給されなかった事で、鎌倉幕府が崩壊する要因となる。
この元軍(モンゴル軍)の撃退には、実は須佐之男命(スサノオ)の剣から誕生した玄界灘(げんかいなだ)の3女神が大きく関与している。
玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ沖ノ島の宗像大社(むなかたたいしゃ)の沖津宮(おきつのみや)に祀る多紀理毘売命(タキリビメ)と、大島の中津宮(なかつのみや)に祀る市寸島比売命(イチキシマヒメ)と、田島の辺津宮(おきつのみや)に祀る多岐都比売命(タギツヒメ)が、九州の海域の平和を荒らす元軍(モンゴル軍)に激怒して神力により嵐(あらし)を起こし撃沈していた。
TONY KOSINEC /♪ SUMMER/SPRING
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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:22:26
◆◇◆其の二十五:日本のお城と天守閣◆◇◆
(24ー3)
148年間も続いた鎌倉時代も、相模国(神奈川県)の若宮大路御所(わかみやおおじごしょ)にて執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)が政務よりも闘犬と飲酒に興じた日々を送り、京都にて第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)を中心に朝廷軍が組成され、鎌倉幕府を討伐する計画を企てる。
鎌倉幕府の配下だった上野国(こうずけ/群馬県)の武将の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)が朝廷軍に加勢して、1333年に相模国(神奈川県)の鎌倉幕府に侵攻し、東勝寺(とうしょうじ)に逃げ込んだ北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)など870人余りが自決し、これで鎌倉幕府は滅亡した。
これにより政権は京都の朝廷に移行され、後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)により新政権樹立の「建武の新政」(けんむのしんせい)を実施した。
しかし、鎌倉幕府に勝利した論功行賞は、口だけ動かして何もしなかった公家を優先させ、命を張って身体を動かした武将は無下(むげ)にされた。
これに反発した下野国(しもつけ/栃木県)の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の兄弟武将を中心に、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を拠点に足利軍を組成して朝廷軍と交戦する。
ただ、河内国(大阪府)の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)の兄弟武将や、奥州の鎮守府将軍に就いていた北畠顕家(きたばたけあきいえ/朝廷)の反撃に遭い、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の足利軍は京都から西国に向けて逃亡する。
その道中の播磨国(兵庫県)の村上源氏の系統だった武将の赤松円心(あかまつえんしん)こと赤松則村(あかまつのりむら/朝廷→室町)に援助を受けて、関門海峡を渡り筑前国(福岡県)の少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町)に保護される。
この朝敵となった足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が筑前国(福岡県)に逃亡した事は、九州の朝廷に従う武将にも伝えられて、
そこで肥後国(熊本県)の武将の菊池武敏(きくちたけとし/朝廷)と阿蘇惟直(あそこれなお/朝廷)が率いる朝廷軍肥後隊が侵攻してきた。
こうして1336年に、博多より北東部を流れる多々良川(たたらがわ)を挟んで対峙した小軍勢の足利軍と大軍勢の朝廷軍肥後隊の「多々良浜の戦」(たたらはまのたたかい)が起こった。
ただ、敗北確実で意気消沈していた足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)に対して、弟の足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)が宗像大社(むなかたたいしゃ)に祀られる玄界灘(げんかいなだ)の3女神を味方に付けて攻勢に出て勝利した。
この勢いに乗り摂津国(兵庫県)にて1336年に起こった「湊川の戦」(みなとがわのたたかい)で、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の兄弟武将が率いる足利軍は、河内国(大阪府)の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)と楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)の兄弟武将や上野国(こうずけ/群馬県)の武将の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)などの朝廷軍を討ち破る。
こうして第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)を大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)にある行在所(あんざいしょ)や吉野にある行宮(あんぐう)に排除して、京都の朝廷では北朝初代天皇の光厳天皇(こうごんてんのう/北朝)と息子の北朝2代天皇の光明天皇(こうみょうてんのう/北朝)を樹立して勝利する。
1338年に征夷大将軍1代目に就任した足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の室町幕府が京都で開設され、ここから室町時代が始まる。
そんな室町幕府も1467年〜1477年に京都一帯で起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)で弱体化が露呈(ろてい)して、守護代が守護大名を討伐する下克上(げこくじょう)の戦国時代を招く。
尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の三英傑(さんえいけつ)を中心に、日本列島の各地で勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)し、多くの合戦が起こり領国争いが激しさを増していく。
合戦に明け暮れた動乱も収まりを見せ始めた安土桃山時代を経て、武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)を拠点とした徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)による江戸時代が始まった。
これにより1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて大活躍をした黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)と、“九州の関ヶ原”と呼ばれる九州一帯の合戦にて東軍を率いた父親の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)により、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は論功行賞で筑前国(福岡県)の領国を与えた。
江戸時代に筑前国(福岡県)の福岡藩主に就いた黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)が、福岡城(ふくおかじょう)を築城した頃は、この一帯は福崎と呼ばれていた。
そこで新たな城郭と城下町を建設する事で心機一転として、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の軍師として活躍した父親の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)など黒田氏の出生地が備前国(岡山県)の福岡村であり、それに因(ちな)んで福崎から福岡に改名している。
黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)は、この福岡城(ふくおかじょう)を築城する際に、薬院(やくいん)に創建されていた水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)を福岡城(ふくおかじょう)の鬼門(北東)に移築した。
これにより、この一帯を天神(てんじん)と呼ぶ様になった。
この水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)の主祭神は、言わずと知れた平安時代に活躍した文章博士(もんじょうはかせ)で“学問の神様”の菅原道真(すがわらみちざね/公家)である。
菅原道真(すがわらみちざね/公家)と言えば福岡県の太宰府(だざいふ)の太宰府天満宮だが、此処(ここ)は墓陵として祀られている。
北西部に広がる博多湾(那津/なのつ)から南東部に流れ込む那珂川(なかがわ)を境界に福岡城(ふくおかじょう)の城下町も、西側の博多は商人の町で、東側の福岡は武士の町として色分けされていた。
THE SMALL FACES /♪ ITCHYCOO PARK
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:23:15
◆◇◆其の二十六:日本のお城と天守閣◆◇◆
(24ー4)
現在の福岡県はその昔、北九州市が属する豊前国(ぶぜん/福岡県)、福岡市や太宰府市が属する筑前国(福岡県)、久留米市が属する筑後国(福岡県)に分類されていた。
それが幾年(いくとせ)が過ぎ、九州および日本の一大都市となった福岡県福岡市である。
これからの未来や将来に向けての福岡県や福岡市は、更なる飛躍(ひやく)と日本国家の役目を担う必要がある。
国際情勢が不安定の一途を辿る世界では、侵略を目論む他国に対して国防拠点の重要性が増してくる。
この日本では1600年前の古来から、第一の国防拠点は北九州と決まっていた。
これは現在でも変わらない。
21世紀から22世紀に向けて、日本の国防を担うのは福岡県一帯と福岡市に期待を寄せる。
この日本の将来を担う国家プロジェクトは、先(まず)ず佐賀県の佐賀空港の再整備と九州新幹線の新鳥栖駅から武雄温泉駅の早期完成が待たれる。
それには有明海に24時間海上空港の九州国際空港を建設して、佐賀駅から九州新幹線を乗り入れて福岡市の博多駅の直通運転を実施する。
ここに福岡市の問題点の解決策を併せている。
大都市でもある福岡市は、他の都市と違い超高層ビルの建設が困難な地域でもある。
これはJRの博多駅の目の前に福岡空港がある為に、一般的に航空法により高さ150m以下(約35階建て以下)の建築物しか建設できない。
この経済抑制は福岡市だけでなく、日本にとっても損失が大きい。
これらを鑑(かんが)みて、佐賀県の有明海に24時間海上空港の九州国際空港を建設し、福岡空港の輸送機能を移管し、国内線も関門海峡の南東部に位置する北九州空港に担ってもらう。
JRの博多駅から佐賀県の有明海に24時間海上空港の九州国際空港へ新幹線を結べば、利便性を損なう事もない。
空いた福岡空港の跡地は、国防を主眼に置いた日本の副首都機能を構築し、航空法の枠組が外れた事で超高層ビルの建設が可能になり、高さ300m程度(約70階建て)の建築物を数棟ほど建設する。
これら24時間国際空港と九州新幹線と副首都都市の建設による3セットの国家プロジェクトを遂行すれば、福岡をはじめ九州や日本の経済効果の起爆剤になる。
ここまで永(なが)き渡る福岡の歴史を診れば、お利口(りこう)さんな3歳の子供でも『パパ、副首都は福岡市で決まりだね。』と理解を示す。
お利口(りこう)さんとは無縁な人間には、この現実と理屈が理解できない。
更に福岡城の天守閣を再建するのは、どういう様式であれ実現させる一択しかない。
PAPER LACE /♪ THE NIGHT CHICAGO DIED
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:24:13
◆◇◆其の二十七:日本のお城と天守閣◆◇◆
(25)
豊後国(ぶんご/大分県)の府内城(ふないじょう/大分)は、安土桃山時代(戦国時代)に別府湾を眼下に築城されたお城で、その昔は天守閣も存在していた。
その街のランドマークとなる府内城(ふないじょう/大分)とは別に、この豊後国(ぶんご/大分県)は鎌倉時代から続く大友氏が領国として統治していた。
府内城(ふないじょう/大分)から南東部の位置に大友氏館(おおともしやかた)があり、そこを拠点に九州の合戦に備えた軍事防衛や湊町として海外との南蛮貿易を実施していた。
大友氏は鎌倉幕府の御家人で、武蔵国(神奈川県)の愛甲郡(あいこう)が出生に土地で、足柄の大友郷を領土としていた大友能直(おおともよしなお/鎌倉)から始まる。
鎌倉幕府では執権9代目の北条貞時(ほうじょうさだとき/鎌倉)の頃に、京都の朝廷による倒幕を企てる動きがあった。
大友貞宗(おおともさだむね/鎌倉)は鎌倉軍を率いて九州に上陸して、筑前国(福岡県)の武将の少弐貞経(しょうにさだつね/鎌倉→室町)と協調し、肥後国(熊本県)の武将の菊池武時(きくちたけとき/朝廷)が率いる朝廷軍九州隊を討伐する。
しかし、下野国(しもつけ/栃木県)の清和源氏の系統で鎌倉軍の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉)と足利直義(あしかがただよし/鎌倉)の兄弟武将が朝廷軍に寝返り、鎌倉幕府の京都出先機関だった六波羅探題(ろくはらたんだい)を侵攻した事で、鎌倉幕府の劣勢が九州にも伝わり、大友貞宗(おおともさだむね/鎌倉)も鎌倉軍から足利軍に寝返り、この功績により大友氏が豊後国(ぶんご/大分県)の守護を務める様になる。
そして、大友貞宗(おおともさだむね/鎌倉)の息子の大友氏泰(おおともうじやす/室町)が、府内(ふない)に大規模な大友氏館(おおともしやかた)を建設した。
室町時代に入ると大友義鑑(おおともよしあき/室町)が大友氏の家督を継承し、弟の大友重治(おおともしげはる)こと菊池義武(きくちよしたけ/室町)は肥後国(熊本県)の菊池氏に養子に入る。
1467年〜1477年に京都一帯で起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)の際に、西陣を拠点に西軍の総大将に就いた山名宗全(やまなそうぜん/室町→西軍)の養女が母親の大内政弘(おおうちまさひろ/室町→西軍)は、周防国(すおう/山口県)と長門国(山口県)の守護として統治し、“大内文化”と言われる大陸から伝達された文明開花を根付かせ、その美しい庭園や街並みから“西ノ京”と呼ばれた。
その息子の大内義興(おおうちよしおき/室町)は、九州の大友氏や少弐氏(しょうにうじ)、山陰の尼子氏(あまごうじ)などを制圧した。
これにより豊後国(ぶんご/大分県)の大友義鑑(おおともよしあき/室町)も、大内義興(おおうちよしおき/室町)の娘と政略結婚をしている。
大友義鑑(おおともよしあき/室町)には嫡男(ちゃくなん)の大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)とは別に、側室の子供の大友塩市丸(おおともしおいちまる/室町)が居た。
大友義鑑(おおともよしあき/室町)と側室は、大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)を排斥(はいせき)して大友塩市丸(おおともしおいちまる/室町)を家督継承者にする画策を企てるも、大友氏の家臣により謀略(ぼうりゃく)は阻止される。
これにより大友義鑑(おおともよしあき/室町)と側室と大友塩市丸(おおともしおいちまる/室町)は斬殺され、これを1550年に起こった「二階崩れの変」(にかいくずれのへん)と呼ぶ。
こうして大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が無事に家督継承して、豊後国(ぶんご/大分県)の大友氏館(おおともしやかた)を拠点に、豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)と筑前国(福岡県)と筑後国(福岡県)と肥前国(佐賀県・長崎県)と肥後国(熊本県)まで勢力範囲を拡大させ“豊後の王”と呼ばれていた。
更に府内(ふない)に港湾を整備して南蛮貿易を推進し、その一環としてイエズス会のフランシスコザビエル(カトリック司祭/スペイン)と親交を深めキリスト教を信仰し、布教活動を推進して自らもドンフランシスコ(洗礼名)と名乗った。
しかし戦国の動乱により、薩摩国(鹿児島県)の守護大名の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)の兄弟武将により、領国だった筑前国(福岡県)と筑後国(福岡県)などに侵攻される。
この時に大友氏の軍師の角隈石宗(つのくませきそう/大友)や、大友氏の三家老の戸次鑑連(べっきあきつら)こと立花道雪(たちばなどうせつ/大友)と吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)と臼杵鑑速(うすきあきはや/大友)の活躍により、なんとか大友氏は持ち堪(こた)える。
また、大友氏の家臣の一萬田鑑実(いちまたあきざね/大友)と弟の高橋鑑種(たかはしあきたね/大友→毛利)や、吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)の息子で高橋氏に養子に入り筑前国(福岡県)の岩屋城(いわやじょう/太宰府)の城主に就いた高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)と、その息子達で宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)の城主の高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)と、立花道雪(たちばなどうせつ/大友)に養子に入り“西国無双”(さいごくむそう)と呼ばれた立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)の城主で立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)も大友軍に貢献している。
立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は、立花道雪(たちばなどうせつ/大友)の娘で“九州で一番の美女”と呼ばれた立花誾千代(たちばなぎんちよ/大友→豊臣→徳川)を妻に娶(めと)る。
しかし、強靭な軍備力を保有する島津軍に追い込められた大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)は、織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣政権に従属(じゅうぞく)し、九州に上陸した豊臣軍により島津軍は降伏した。
1587年に大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が死去すると、息子の大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)が家督継承し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に仕える。
しかし、1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”にて、朝鮮半島の戦地で苦境に陥った大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)は、味方の軍隊を見捨てて逃亡した。
この失態により豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から、大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)は豊後国(ぶんご/大分県)の領地没収の改易(かいえき)が言い渡された。
その後の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、東軍に就くべきと家臣の進言を聞き入れず大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)は西軍に就いて敗北した。
ただ、大名ではなかった為に目立った処罰は免れたものの、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の徳川政権から睨(にら)まれる。
江戸時代での大友氏は、大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)の息子の大友義乗(おおともよしのり/徳川)が引継ぎ、江戸幕府では目立った存在感を見せる事はなかった。
大友氏が豊後国(ぶんご/大分県)の領地没収の改易(かいえき)となった後は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣で、石田三成(いしだみつなり/豊臣)の妹が妻だった福原長堯(ふくはらながたか/豊臣)が府内城(ふないじょう/大分)の城主に就任したが、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で西軍に就いて自決した。
その後は美濃国(岐阜県)の武将の森忠政(もりただまさ/豊臣→徳川)の家臣で、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)の従兄弟で妹が妻だった竹中重利(たけなかしげとし/豊臣→徳川)が、江戸時代には豊後国(ぶんご/大分県)の府内藩(ふない)の藩主かつ府内城(ふないじょう/大分)の城主に就任した。
美濃国(岐阜県)の竹中氏は、織田信長(おだのぶなが/織田)の義父で“蝮(マムシ)の道三”と呼ばれる長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)に仕え、息子の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)、その息子の一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)まで仕えるが、重鎮家臣の竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)が謀反(むほん)を起こして一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)は稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)から追放される。
竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)は、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)と共に天才軍師として豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に仕えるが、1579年に病気で死去する。
息子の竹中重門(たけなかしげかど/豊臣→徳川)が跡目を引継ぎ豊臣政権で活躍するも、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)の勧誘で竹中重利(たけなかしげとし/豊臣→徳川)と共に東軍に加勢した。
これにより江戸幕府では、竹中重利(たけなかしげとし/豊臣→徳川)が豊後国(ぶんご/大分県)の府内藩(ふない)の藩主に就任し、竹中重門(たけなかしげかど/豊臣→徳川)が筑前国(福岡県)の福岡藩の藩主に就任した黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)の家臣に就いた経緯(けいい)である。
ここまで大分県大分市の歴史を知ってしまうと、やはり府内城(ふないじょう/大分)の天守閣は必要と感じますね。
できれば大友氏館(おおともしやかた)の復元も期待したい。
SPARKS /♪ THE LADY IS LINGERING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:25:07
◆◇◆其の二十八:日本のお城と天守閣◆◇◆
(26)
豊後国(ぶんご/大分県)の臼杵城(うすきじょう)は、大分市の府内城(ふないじょう/大分)から南東部の海流が速くて有名な豊後水道を眼下に築城されたお城です。
この臼杵城(うすきじょう)は、府内(ふない/大分)の大友氏館(おおともしやかた)を拠点としていた大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の出城として築城された。
その後の豊臣政権の時期に、大友氏が豊後国(ぶんご/大分県)の領地没収の改易(かいえき)されると、府内城(ふないじょう/大分)の城主に就任した福原長堯(ふくはらながたか/豊臣)が双方を統治した。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後の徳川政権では、美濃国(岐阜県)の郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)の城主だった稲葉貞通(いなばさだみち/斎藤→織田→豊臣→徳川)が領地移転の転封(てんぽう)となり、豊後国(ぶんご/大分県)の臼杵藩(うすきはん)の藩主かつ臼杵城(うすきじょう)の城主に就任した。
この稲葉氏は美濃国(岐阜県)の名門武家で、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)を翻弄(ほんろう)させた氏家卜全(うじいえぼくぜん)こと氏家直元(うじいえなおもと/斎藤→織田)と安藤守就(あんどうもりなり/斎藤→織田)と共に斎藤氏に仕える美濃三人衆(みのさんにんしゅう)の稲葉一鉄(いなばいってつ)こと稲葉良通(いなばよしみち/斎藤→織田→豊臣)の系統である。
美濃国(岐阜県)の曽根城(そねじょう/大垣)の城主だった稲葉一鉄(いなばいってつ)こと稲葉良通(いなばよしみち/斎藤→織田→豊臣)は、春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)の親族にあたる。
その息子が稲葉重通(いなばしげみち/斎藤→織田→豊臣)で、春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)の叔父である。
そしてもう1人の息子が稲葉貞通(いなばさだみち/斎藤→織田→豊臣→徳川)で、斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の娘が妻となり織田信長(おだのぶなが/織田)とは親戚関係で、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では西軍から東軍に寝返った。
その息子の稲葉典通(いなばのりみち/斎藤→織田→豊臣→徳川)が、豊後国(ぶんご/大分県)の臼杵藩(うすきはん)の2代目藩主かつ臼杵城(うすきじょう)の城主に就任した。
林氏から稲葉重通(いなばしげみち/斎藤→織田→豊臣)の養子に入った稲葉正成(いなばまさなり/徳川)は、春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)が側室となり、美濃国(岐阜県)の十七条藩(瑞穂)の藩主や下野国(しもつけ/栃木県)の真岡藩の藩主に就任した。
その息子の稲葉正勝(いなばまさかつ/徳川)は、相模国(神奈川県)の小田原藩の藩主に就任し、江戸幕府での母親の春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)の影響力の大きさを表している。
その息子の稲葉正則(いなばまさのり/徳川)も、春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)の孫と言う事もあり、江戸幕府では老中(ろうじゅう)に就任している。
稲葉正成(いなばまさなり/徳川)の孫の稲葉正休(いなばまさやす/徳川)も、江戸幕府では旗本や美濃国(岐阜県)の青野藩(大垣)の藩主に就任し、大老だった堀田正俊(ほったまさとし/江戸)の従兄弟にあたる。
また、稲葉氏から牧村氏に養子に入った稲葉重通(いなばしげみち/斎藤→織田→豊臣)の息子の牧村利貞(まきむらとしさだ/稲葉→織田→豊臣)は、キリシタン大名となり、田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)の弟子となり茶人の利休七哲(りきゅうしちてつ)に数えられるも、朝鮮出兵で病死している。
こうして歴史を紐解(ひもと)くと、豊後国(ぶんご/大分県)の臼杵城(うすきじょう)が日本国家として重要なのが解る。
NICK GILDER /♪ HOT CHILD IN THE CITY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:25:58
◆◇◆其の二十九:日本のお城と天守閣◆◇◆
(27ー1)
肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が中国大陸の明(みん)への進出の為に、唐津湾に迫り出す海岸に築城した。
唐津は中国大陸の唐(から/中国)との交易の津(つ/港)として名付けられ、周囲の島々による天然の防波堤と深海のリアス式海岸により、大型船が寄港できる湊が建造された。
この事からも朝鮮半島を経由して中国大陸に渡る立地として、唐津は必然的に選定された。
更に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の出身地である尾張国(愛知県)の名古屋と肥前国(佐賀県)の名護屋(なごや)が同じ読み方を気に入り決定している。
築城するに豊臣政権の武将が尽力し、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)と加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)と小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)が、城郭を選定する縄張(なわばり)を実施している。
本格的な天守閣も設けられ、5ヶ月間で竣工させた。
そこには“黄金の茶室”も移設されている。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、名護屋城(なごやじょう/唐津)に1年ほど滞在して、“黄金の茶室”は4回ほど使用した。
摂津国(大阪府)の大坂城の規模を誇る名護屋城(なごやじょう/唐津)の周囲には、豊臣政権の猛将の陣営が設けられた。
薩摩国(鹿児島県)から参陣した島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)は、600年頃に朝鮮半島の新羅(しらぎ)から日本に渡来し、女神で稲荷神(いなりしん)の宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を主祭神として祀られる伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)を創建した秦氏(はたうじ)の系統の島津氏で、薩摩国(鹿児島県)の守護大名に就いていた島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の弟で、この合戦で中国大陸や朝鮮半島では“鬼島津”として恐れられた。
陸奥国(むつ/福島県)から参陣した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、越後国(新潟県)の“越後の龍”と呼ばれた長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の甥で養子に入った大名である。
信濃国(長野県)から参陣した真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)は、祖父が“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)の重鎮家臣で“武田二十四将”と呼ばれた真田幸綱(さなだゆきつな/武田)、父親は真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)、兄は信濃国(長野県)の上田藩と松代藩(まつしろはん/長野)の藩主に就任した真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)した武将の一族で、この合戦後に“大坂三人衆”(おおさかさんにんしゅう)と呼ばれ討死する。
志摩国(三重県)から参陣した九鬼嘉隆(くきよしたか/織田→豊臣)は、九鬼水軍のお頭で織田信長(おだのぶなが/織田)や豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に重宝された武将である。
肥後国(熊本県)から参陣した加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の親族で母親同士が姉妹で、“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)に数えられる猛将で知られ、肥後藩(熊本県)の初代藩主に就任した。
大和国(奈良県)から参陣した豊臣秀保(とよとみひでやす/豊臣)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の姉の日秀尼(にっしゅうに/豊臣)の息子で、兄と同様に嫡男(ちゃくなん)の居なかった弟の豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の養子に入るも、1595年に17歳で死去し、親子共に亡くなった事で重鎮家臣だった藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)が豊臣政権から出奔(しゅっぽん)した要因となる。
越後国(新潟県)から参陣した堀秀治(ほりひではる/豊臣→徳川)は、美濃国(岐阜県)の斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の家臣だった堀秀政(ほりひでまさ/斎藤→織田→豊臣)の息子で、江戸幕府では越後国(新潟県)の高田藩(福嶋藩/上越)の藩主に就任した。
豊前国(ぶぜん/大分県)から参陣した木下延俊(きのしたのぶとし/豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)となった妻のおね(高台院、北政所/織田→豊臣)の兄の息子で、室町幕府を支えた三管領(さんかんれい)の細川氏の系統となる細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)の娘を妻に娶(めと)り、江戸幕府では豊前国(ぶぜん/大分県)の日出藩(ひじ/速見)の藩主に就任した。
加賀国(石川県)から参陣した“豊臣五大老”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)は、尾張国(愛知県)の頃から織田信長(おだのぶなが/織田)の幼馴染(おさななじみ)で、“ツッパリの利家”と呼ばれた傾奇者(かぶきもの/異端者)として知られ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の奥さんのおね(高台院、北政所/織田→豊臣)と、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の奥さんのまつ(芳春院/織田→豊臣)は“ママ友”の仲良しである。
武蔵国(東京都)から参陣した“豊臣五大老”の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、清和源氏の系統で鎌倉幕府を滅亡させた上野国(こうずけ/群馬県)の武将の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の系統と言われ、三河国(愛知県)の戦国大名に就いてからは、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と1562年に「清洲同盟」(きよすどうめい)を締結してからは、戦国時代を躍進し江戸幕府を創設する。
伊予国(愛媛県)から参陣した加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)は、父親の加藤教明(かとうのりあき/松平→足利→豊臣)は三河国(愛知県)の松平氏(徳川氏)の家臣だったが、1563年に起こった「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が家督継承した松平氏宗家に反発して離反しており、その後は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に仕えて“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)に数えられる猛将で知られ、江戸幕府では徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の家臣に出戻り伊予国(愛媛県)の松山藩や陸奥国(むつ/福島県の)の会津藩の藩主にした。
筑前国(福岡県)から参陣した黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)は、播磨国(兵庫県)の武将で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に天才軍師として仕えた黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の息子で、江戸幕府では筑前国(福岡県)の福岡藩の藩主に就任し、福岡城下町の整備に尽力した。
陸奥国(むつ/宮城県)から参陣した“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、東北地方の戦国時代を駆け抜けて、江戸幕府では仙台藩の藩主に就任し、1601年に仙台城(せんだいじょう/青葉城)を築城して城下町の整備に尽力した。
安芸国(あき/広島県)から参陣した“豊臣五大老”の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)は、630年頃に朝鮮半島の百済(くだら)が滅亡し、百済王族が避難の為に友好関係だった日本に渡来した大内氏の系統の家臣で、その後に中国地方を統治した戦国大名で安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)の城主に就いていた毛利元就(もうりもとなり/大内→毛利)を祖父に持ち、父親で長男の毛利隆元(もうりたかもと/毛利)と、毛利両川(もうりりょうせん)となる次男の毛利元春(もうりもとはる)こと吉川元春(きっかわもとはる/毛利)、三男の徳寿丸(とくじゅまる)こと小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)に支えられたが、織田信長(おだのぶなが/織田)の「中国征伐」と、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の戦術と調略により織田軍に恭順(きょうじゅん)し、豊臣政権では臣従(しんじゅう)していた。
伊勢国(三重県)から参陣した藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)の城主だった浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と、息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)の家臣だったが、織田信長(おだのぶなが/織田)を裏切った浅井氏が1573年に討伐されると、その後の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は7度ほど主君を代えて豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)と義理息子の豊臣秀保(とよとみひでやす/豊臣)に仕えて、江戸幕府では伊勢国(三重県)の津藩(三重県)の初代藩主に就任した。
近江国(滋賀県)から参陣した石田三成(いしだみつなり/豊臣)は、元は僧侶で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)がお寺で休息した際に三献茶(さんけんちゃ)でもてなし気に入られ家臣に転身し、近江国(滋賀県)の佐和山城(さわやまじょう/彦根)の城主に就任した。
肥後国(熊本県)から参陣した小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は、備前国(岡山県)と美作国(岡山県)と備中国(岡山県)の戦国大名である宇喜多直家(うきたなおいえ/毛利→織田)と、その息子で“豊臣五大老”の宇喜多秀家(うきたひでいえ/毛利→織田→豊臣)に仕えて後に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣となり、肥後国(熊本県)の宇土城(うとじょう)の城主に就任したキリシタン大名である。
戦国時代のオールスターが、肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)に勢揃(せいぞろ)いである。
GARY PUCKETT & THE UNION GAP /♪ WOMAN,WOMAN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:26:55
◆◇◆其の三十:日本のお城と天守閣◆◇◆
(27ー2)
こうして1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と、1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”が始まる。
題目では“朝鮮出兵”と書いているが、その趣旨は少し違っている。
戦国時代が終焉(しゅうえん)した豊臣政権では、戦闘を仕事としていた武士を雇用する問題が出てきた。
しかも日本列島には論功行賞で与える領土の無い。
これは織田信長(おだのぶなが/織田)から画策されていた大陸進出で、それを引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、中国大陸の明(みん)を制圧する実戦に出た。
この過程で朝鮮半島は中国大陸の明(みん)への進軍経路となる為に、李氏朝鮮(りしちょうせん)としては迷惑な話である。
しかも当時は中国大陸の明(みん)は冊封(さくほう)し、朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)は朝貢(ちょうこう)する主従関係が長く続いていた。
これにより中国大陸の明(みん)の皇帝に就いていた万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)は、朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)に対して日本から侵攻する豊臣軍の守衛を威令(いれい)する。
李氏朝鮮(りしちょうせん)の将軍の元均(ウォンギュン/朝鮮)は、朝鮮半島の南部に渡る沿岸部の防衛を固め、水軍の将軍の李舜臣(イスンシン/朝鮮)と李億祺(イオッキ/朝鮮)の軍艦を配備した。
明軍の将軍の李如松(りじょしょう/明)や、豊臣軍との軍事交渉として使節の沈惟敬(しんいけい/明)が朝鮮半島に進軍する。
戦闘は豊臣軍と朝鮮軍の一進一退が続き、1度は停戦するも、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)の交渉が決裂して1596年に再び開戦した。
この頃になると豊臣軍と朝鮮軍の交戦と言うよりも、豊臣政権の武断派(ぶだんは)だった加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)などに対して、文治派(ぶんちは)だった石田三成(いしだみつなり/豊臣)と小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)などの意見の相違で内部対立していた。
これが1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の要因となる。
一方の朝鮮軍も、勇猛果敢(ゆうもうかかん)で英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)と言われた李舜臣(イスンシン/朝鮮)も、将軍の元均(ウォンギュン/朝鮮)などに妬(ねた)まれ失脚させられている。
結局、その間に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて、1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去した事で“朝鮮出兵”は静かに終戦を迎えた。
この時に追撃した朝鮮軍の李舜臣(イスンシン/朝鮮)は、豊臣軍に返り討ちに遭い戦死した。
この通り、この合戦の当事者は日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と中国大陸の明(みん)の万暦帝(ばんれきてい/明皇帝)である。
その狭間(はざま)に位置したのが朝鮮半島の李氏朝鮮(りしちょうせん)であって、この合戦による成果も利益も無い。
これらは1914年7月〜1918年11月に起こった「第一次世界大戦」や、1939年9月〜1945年8月に起こった「第二次世界大戦」と「太平洋戦争」こと「大東亜戦争」でも同じ様な事が言え、いつも戦地となるのは領土と資源の奪い合いになる第三国である。
戦争の被害者は、争いから無縁の人々が最も多い。
そこから1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)を経て、江戸時代に入ると名護屋城(なごやじょう/唐津)は近隣の唐津城に一部の建物が移築されました。
この時に肥前国(佐賀県)の唐津藩の初代藩主に就任したのは寺沢広高(てらざわひろたか/豊臣→徳川)で、出身地の尾張国(愛知県)の頃から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣だったが、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では東軍に就き徳川政権に入る。
しかし、その息子の寺沢堅高(てらさわかたたか/唐津・天草)は、肥前国(佐賀県)の唐津藩の藩主と肥後国(熊本県)の天草領の領主に就任するも、暴君(ぼうくん)として悪政(あくせい)を実施した事で「島原天草の乱」(しまばらあまくさのらん)の要因となり、江戸幕府から蟄居(ちっきょ)を言い渡されたたが、責任の重さから自害した。
ここまでの歴史に触れれば、当然に肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)の再建へ方向が固まる。
ただ、さすがに武将の陣営も再建するとなると、敷地も費用も膨大となる為に、ここは本丸と二の丸と三の丸の天守閣を含めた城郭で充分です。
Ace/♪ how long
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:27:54
◆◇◆其の三十一:日本のお城と天守閣◆◇◆
(28ー1)
肥後国(熊本県)の菊池城は、室町時代の熊本市の北東部に築城された菊池氏の拠点です。
菊池氏の祖は、平安時代末期に京都から藤原氏北家(ほっけ)の藤原則隆(ふじわらのりたか)こと菊池則隆(きくちのりたか/公家)が肥後国(熊本県)の統治を任された事に始まります。
肥後国(熊本県)に到着した藤原則隆(ふじわらのりたか)こと菊池則隆(きくちのりたか/公家)は池の畔で休憩していると、突然に池から2匹の白い雄龍(おりゅう)と雌龍(めりゅう)が飛び出した“白龍伝説”があり、それによりこの地に居住して藤原氏から菊池氏を名乗る様になった。
鎌倉時代には北九州にて、1274年に起こった「文永の役」(ぶんえいのえき)または第1次の元寇(げんこう/蒙古襲来)や1281年に起こった「弘安の役」(こうあんのえき)または第2次の元寇(げんこう/蒙古襲来)で活躍したのが10代目当主の菊池武房(きくちたけふさ/鎌倉)と、家臣の竹崎季長(たけさきすえなが/鎌倉)です。
そして息子の菊池隆盛(きくちたかもり/鎌倉)は家督継承する前に死去した為に、その息子で11代目当主の菊池時隆(きくちときたか/鎌倉)が引き継いだ。
鎌倉時代末期はその弟で12代目当主の菊池武時(きくちたけとき/朝廷)が統治していた。
菊池武時(きくちたけとき/朝廷)には多くの息子が居り、それぞれの持ち場で活躍している。
13代目当主の菊池武重(きくちたけしげ/朝廷)は、畿内(きない/関西)に進軍し朝廷軍として足利軍と交戦し、曹洞宗(そうとうしゅう)の大智祖継(だいちそけい/僧侶)を招聘(しょうへい)して1338年に鳳儀山(ほうぎざん)に聖護寺(しょうごじ)を建立した。
菊池武敏(きくちたけとし/朝廷)は、1336年に起こった「多々良浜の戦」(たたらはまのたたかい)で足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の兄弟武将が率いた足利軍と交戦し敗北した。
1333年に第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)が実施した「建武の新政」(けんむのしんせい)により、菊池武澄(きくちたけずみ/朝廷)は肥前国(佐賀県・長崎県)の国司(こくし)に就任し、菊池武茂(きくちたけもち/朝廷)は対馬国(つしま/長崎県)の国司(こくし)に就任した。
菊池武吉(きくちたけよし/朝廷)は、13代目当主の菊池武重(きくちたけしげ/朝廷)に代わり1336年に起こった「湊川の戦」(みなとがわのたたかい)にて、朝廷軍の楠木正季(くすのきまさすえ/朝廷)と楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)の兄弟武将と共に、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の兄弟武将が率いた足利軍と交戦し敗北し自決した。
菊池武豊(きくちたけとよ/朝廷)や14代目当主の菊池武士(きくちたけひと/朝廷)と続き、忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の武将の15代目当主の菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)が菊池氏の最盛期を築いた。
それに娘の菊池重子(きくちしげこ/朝廷)は第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の息子の懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)の妻になる。
また、肥後国(熊本県)の阿蘇神社の阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)を代々に渡り務める阿蘇惟時(あそこれとき/朝廷)も、菊池氏に協力した。
その息子が阿蘇惟直(あそこれなお/朝廷)で、義兄弟で恵良氏(えらうじ)の阿蘇惟澄(あそこれずみ/朝廷)は、娘を15代目当主の菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)に嫁がせて関係強化を図(はか)っている。
阿蘇惟澄(あそこれずみ/朝廷)の息子で阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)に就任した阿蘇惟武(あそこれたけ/朝廷)も、菊池氏と協力して朝廷軍を支援した。
しかし、もう1人の息子の阿蘇惟村(あそこれむら/朝廷→室町)は、菊池氏を裏切り室町幕府に味方している。
The Tremeloes /♪ SILENCE IS GOLDEN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:28:50
◆◇◆其の三十二:日本のお城と天守閣◆◇◆
(28ー2)
この時期は相模国(神奈川県)の鎌倉幕府による統治が弱体化しており、九州での出先機関だった鎮西探題(ちんぜいたんだい)に就任していた赤橋氏の系統の北条英時(ほうじょうひでとき/鎌倉)に対して、九州の武将は不満を募(つの)らせていた。
そこで肥後国(熊本県)の12代目当主の菊池武時(きくちたけとき/朝廷)は、筑前国(福岡県)の少弐貞経(しょうにさだつね/鎌倉→室町)や豊後国(ぶんご/大分県)の大友貞宗(おおともさだむね/鎌倉)と共に鎌倉幕府の鎮西探題(ちんぜいたんだい)を討伐する為に挙兵した。
菊池武時(きくちたけとき/朝廷)が率いる朝廷軍肥後隊は、筑前国(福岡県)の博多の息浜(おきのはま)に布陣した。
ところが直前になり少弐貞経(しょうにさだつね/鎌倉→室町)と大友貞宗(おおともさだむね/鎌倉)の軍隊が動かず、鎮西探題(ちんぜいたんだい)の北条英時(ほうじょうひでとき/鎌倉)は大軍勢を率いて菊池武時(きくちたけとき/朝廷)が率いる朝廷軍肥後隊を攻撃して壊滅した。
菊池武時(きくちたけとき/朝廷)は討死して、朝廷軍肥後隊の家臣らと共に筑前国(福岡県)の那珂川(なかがわ)の河原で晒し首(さらしくび)となった。
この合戦と並行して相模国(神奈川県)では、鎌倉軍から朝廷軍に寝返った上野国(こうずけ/群馬県)の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の軍勢が、1333年に鎌倉幕府を攻撃して滅亡させた。
しかし、今度は鎌倉軍から朝廷軍に寝返り、更に日本各地の武将の信任を得た下野国(しもつけ/栃木県)の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)と足利直義(あしかがただよし/鎌倉→室町)の兄弟武将が足利軍を率いて朝廷軍に反攻した。
そして室町時代初期(南北朝時代)に入っていく。
肥後国(熊本県)の13代目当主の菊池武重(きくちたけしげ/朝廷)は朝廷に忠義を貫き、九州から朝廷軍に援軍を送り足利軍と対立した。
しかし、日本各地の武将を味方に付けた足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)は、1338年に京都で室町幕府を開設した。
これに伴い第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)は南朝初代天皇に就いて大和国(奈良県)の笠置山(かさぎやま/相楽)にある行在所(あんざいしょ)や吉野にある行宮(あんぐう)などを転々とした。
ほぼ日本列島を統治した征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の室町幕府だったが、九州だけは動乱が続いており、その筆頭が肥後国(熊本県)の15代目当主の菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)と第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷→南朝)の息子の懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)だった。
1358年に起こった「針摺原の戦」(はりすりばるのたたかい)では、父親の仇(かたき)でもある足利軍に反発した筑前国(福岡県)の少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町→筑前)を救済し、室町幕府の九州探題(きゅうしゅうたんだい)に就任していた一色範氏(いっしきのりうじ/室町)と息子の一色直氏(いっしきなおうじ /室町)の軍隊を討ち破った。
しかし、救済した筈(はず)の筑前国(福岡県)の少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町→筑前)が、今度は肥後国(熊本県)の菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)の陣営に侵攻してきた。
こうして1359年に起こった「筑後川の戦」(ちくごがわのたたかい)または「大保原の戦」(おおほばるのたたかい)により、菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)が率いる4万人の朝廷軍肥後隊は筑後国(福岡県)に流れる筑後川(ちくごがわ/久留米)の南側の高良山(こうらさん)と柳坂(やなぎざか)と耳納山(みのうさん)に布陣した。
少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町→筑前)が率いる6万人の足利軍筑前隊は筑前国(福岡県)から南下して大原に布陣した。
戦況は一進一退の攻防が続き、筑後川(ちくごがわ/久留米)を挟んで膠着(こうちゃく)状態となった。
ただ、菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)が率いる朝廷軍肥後隊による調略や戦術により、少弐頼尚(しょうによりひさ/鎌倉→室町→筑前)が率いる足利軍筑前隊に総攻撃を仕掛けて敗走させた。
Crosby, Stills, Nash & Young /♪ Southern Cross
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:29:43
◆◇◆其の三十三:日本のお城と天守閣◆◇◆
(28ー3)
一時は菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)と懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)は、筑前国(福岡県)の太宰府(だざいふ)を拠点に征西府(せいせいふ)として南朝の政務を司った。
しかし、京都の北朝を担ぐ室町幕府は、今川了俊(いまがわりょうしゅん)こと今川貞世(いまがわさだよ/室町)に九州探題(きゅうしゅうたんだい)の長官に任命して、九州征圧を命じる。
今川了俊(いまがわりょうしゅん)こと今川貞世(いまがわさだよ/室町)は、弟の今川仲秋(いまがわなかあき/室町)と、息子の今川義範(いまがわよしのり/室町)を引き連れて、京都から西国の武将を味方に付けてに向けて九州に入る。
この直後から今川了俊(いまがわりょうしゅん)こと今川貞世(いまがわさだよ/室町)が率いる足利軍の総攻撃が開始され、防御できないと感じた菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)は、太宰府(だざいふ)から筑後国(福岡県)に流れる筑後川(ちくごがわ/久留米)の南側の高良山(こうらさん)に退却して布陣する事を決める。
しかし、足利軍も追撃を緩めず高良山(こうらさん)を包囲した。
戦況は膠着(こうちゃく)状態となったが、1372年に高良山(こうらさん)の本陣で菊池武光(きくちたけみつ/朝廷)が死去し、朝廷軍肥後隊の敗北は決定的となる。
1374年に菊池氏の家督を引き継いだ息子の菊池武政(きくちたけまさ/朝廷)が合戦で負った傷が悪化して死去してしまう。
その菊池武政(きくちたけまさ/朝廷)の息子の菊池武朝(きくちたけとも/朝廷→室町)は幼少だったが菊池氏の家督を引き継いだ。
菊池武朝(きくちたけとも/朝廷→室町)は、重鎮家臣の菊池武義(きくちたけよし/朝廷)や菊池武安(きくちたけやす/朝廷)の補佐を受けながら、懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)が統治する肥後国(熊本県)の征西府(せいせいふ)を守護していく。
しかし、足利軍による追撃は続き朝廷軍肥後隊の弱体化が進行した。
そして、1381年に懐良親王(かねよししんのう/朝廷→南朝)は薨御(こうぎょ)する。
この流れで最後まで室町幕府に抵抗していた菊池武朝(きくちたけとも/朝廷→室町)も、第3代征夷大将軍の足利義満(あしかがよしみつ/室町)と和睦した。
その後の1392年、第3代征夷大将軍の足利義満(あしかがよしみつ/室町)の呼び掛けで、南朝の大覚寺統(だいかくじとう/南朝)で第99代天皇の後亀山天皇(ごかめやまてんのう/南朝)と、北朝の持明院統(じみょういんとう/北朝)で第100代天皇の後小松天皇(ごこまつてんのう/北朝)により、双方で皇位継承して即位し、“三種の神器”を交互に持ち合う誓いを約束する。
これにより55年近く続いた南北朝時代が終結する。
肥後国(熊本県)の菊池城を取り巻く室町時代(南北朝時代)の菊池氏だが、もう一箇所に鞠智城(きくちじょう/菊池・山鹿)がある。
こちらの鞠智城(きくちじょう/菊池・山鹿)は、更に古い飛鳥時代の663年に起こった「白村江の戦」(はくすきのえのたたかい)または“第3次朝鮮出兵”の頃に築城されている。
築城を命じたのは中大兄皇子(なかのおおえのみこ)こと第38代天皇 天智天皇(てんぢてんのう)と言われており、鞠智城(きくちじょう/菊池・山鹿)は中国大陸や朝鮮半島からの防衛拠点としていた。
現在は鞠智城(きくちじょう/菊池・山鹿)に建物が復元されており、1300年以上も前の歴史に触れる事ができる。
また、薩摩国(鹿児島県)の島津藩の藩士で“維新の三傑”(いしんのさんけつ)と呼ばれる西郷吉之助(さいごうきちのすけ)こと西郷隆盛(さいごうたかもり/薩摩)は、実は菊池氏の末裔に当たり、薩摩国(鹿児島県)の奄美群島(あまみぐんとう)へ配流(はいる)された頃は菊池氏を名乗っていた。
第1代天皇の神武天皇(じんむてんのう)から繋がる皇族と朝廷に対する忠君愛国(ちゅうくんあいこく)は、どの氏族や武家よりも高く厚い菊池氏である。
これらの歴史から解る通り、肥後国(熊本県)の菊池城の整備は日本国家として急務である。
STEALERS WHEEL /♪ STAR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:30:38
◆◇◆其の三十四:日本のお城と天守閣◆◇◆
(29ー1)
薩摩国(鹿児島県)の鹿児島城(鶴丸城)は、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の翌年の1601年に築城された天守閣を持たない御殿が配置されたお城です。
日本の歴史で島津氏が出てこない日はないくらい、重要な氏族なのにお城を持っていませんでした。
ただ、城無しの武家ではなく薩摩国(鹿児島県)の島津館(しまづやかた)を拠点に、日向国(ひむか/宮崎県)や大隅国(おおすみ/鹿児島県)など南九州の一帯には砦(とりで)となる出城を設けている。
そんな島津氏の歴史は飛鳥時代まで遡る。
この頃の南九州には飛鳥時代の防人(さきもり)や奈良時代の隼人(はやと)などの大和民族とは違う部族が存在していた。
その頃、朝鮮半島の新羅(しらぎ)から600年頃に日本列島に渡来したのは、山城国(京都府)の太秦(うずまさ/右京)を拠点とした秦氏(はたうじ)で、千本鳥居でお馴染みの稲荷神社の総本宮でもある伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)や、日本酒の神様でもある松尾大社(まつおたいしゃ/嵐山)を創建している。
日本に渡来した秦氏(はたうじ)は大和民族に対して、紀元前200年頃に中国大陸を統一した“秦の始皇帝”(しんのしこうてい)と呼ばれる政(せい/皇帝)の末裔としていたが、これは威厳を誇示する為で、朝鮮半島の新羅(しらぎ)が出生の地と言うのが有力である。
秦氏(はたうじ)の庶流(しょりゅう)となる惟宗氏(これむねうじ)が、薩摩国(鹿児島県)の島津氏(しまづうじ)である。
島津氏(しまづうじ)の祖と言われる島津忠久(しまづただひさ/鎌倉)は、鎌倉時代に摂津国(大阪府)の住吉で生誕して、薩摩国(鹿児島県)の島津荘園の国司に就任した。
鎌倉時代から室町時代(南北朝時代)に移ろう時期に、大隅国(おおすみ/鹿児島県)と薩摩国(鹿児島県)の守護大名として君臨した島津貞久(しまづさだひさ/鎌倉→室町)と、その息子の島津氏久(しまづうじひさ/室町)や島津師久(しまづもろひさ/室町)が活躍している。
戦国時代に入ると、島津氏(しまづうじ)の内紛を鎮圧した中興の祖(ちゅうこうのそ)と呼ばれる島津忠良(しまづただよし/島津)を輩出している。
その息子が15代当主の島津貴久(しまづたかひさ/島津)や、娘の島津御南(しまづおみなみ/島津→肝付)は大隅国(おおすみ/鹿児島県)の武将の肝付兼続(きもつきかねつぐ/肝付)に嫁いでいる。
この頃にポルトガルやスペインから貿易船が日本に来航し、島津氏も交易に注力して薩摩国(鹿児島県)の繁栄を築いた。
イエズス会のフランシスコザビエル(カトリック司祭/スペイン)も来日して、島津貴久(しまづたかひさ/島津)がキリスト教の布教活動を認可している。
島津貴久(しまづたかひさ/島津)の息子が島津四兄弟と呼ばれ、この戦国時代末期から江戸時代初期に掛けて島津氏で最も歴史を残している。
16代当主を引き継いだ引き篭もりだが統率に優れた島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は、祖父の島津忠良(しまづただよし/島津)から『長男の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は、薩摩国(鹿児島県)と大隅国(おおすみ/鹿児島県)と日向国(ひむか/宮崎県)の三州の総大将たるの材徳自ら備わる。』と告げられた。
“鬼石蔓子”(グイシーマンズ)こと“鬼島津”と呼ばれた武力に優れた島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)は、祖父の島津忠良(しまづただよし/島津)から『次男の島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)は、雄武英略(ゆうぶえいりゃく)を以て傑出(けっしゅつ)している。』と告げられた。
日置島津家(ひおきしまづけ)の祖で薩摩国(鹿児島県)の虎居城(とらいじょう/さつま)の城主に就任し知力に優れた島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)は、祖父の島津忠良(しまづただよし/島津)から『三男の島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)は、始終の利害を察するの智計(ちけい)並びなく。』と告げられたが、最期(さいご)は悲劇で幕を閉じる。
妾(めかけ)の子供という劣等感を跳ね返し日向国(ひむか/宮崎県)の佐土原城(さどわらじょう/宮崎)の城主に就任し文武に優れた島津家久(しまづいえひさ/島津)は、祖父の島津忠良(しまづただよし/島津)から『四男の島津家久(しまづいえひさ/島津)は、軍法戦術に妙(みょう)を得たり。』と告げられたが、最期(さいご)は謎の死を遂げている。
少年期の島津四兄弟が薩摩国(鹿児島県)の草原で馬追(うまおい)をした後に、放牧されている馬を観察していた。
島津歳久(三男)…『こうして馬の親子を観ていると、立派の子馬は名馬の母馬から産まれていますね。』
島津義弘(次男)…『本当だ、毛並みの良い母馬から産まれた子馬も、毛並みが綺麗だ。』
島津家久(四男)…『・・・』
島津義久(長男)…『うむ、確かに見た目ではそれは言えるが、子馬は母馬に似れば父馬にも似るだろう。 これは人間も同じで、その出生よりも産まれた後に、どれだけ努力したかで人格が決まる。 学問に勤(いそ)しみ徳を磨けば父母に勝り、逆に学問を疎かにして徳を得られなければ、父母より劣る人間になる。 生きているうちに勉学を精進(しょうじん)する事が大切である。』
島津家久(四男)…『えっ!!』
この嫡男(ちゃくなん)の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の言葉に、妾(めかけ)の子供だった島津家久(しまづいえひさ/島津)は日々、勉学と武道に精進(しょうじん)し文武両道(ぶんぶりょうどう)の武将に成長した。
JEFFERSON STARSHIP /♪ MIRACLES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:31:32
◆◇◆其の三十五:日本のお城と天守閣◆◇◆
(29ー2)
そんな島津四兄弟の活躍の始まりは、1566年に嫡男(ちゃくなん)の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が16代当主に就任した時から始まる。
1570年に薩摩国(鹿児島県)の国人(こくじん)をまとめ上げて統一を果たす。
1573年に隣国の大隅国(おおすみ/鹿児島県)も領域とした。
1575年に四男の島津家久(しまづいえひさ/島津)は、南九州の三州統一を祈願する為に伊勢国(三重県)の伊勢神宮に参拝する旅に出た。
その旅路で京都にも立ち寄り、平安文化や神社仏閣を見学した。
その時に洛中で織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる数万人の織田軍と遭遇し、馬に跨(またが)る織田信長(おだのぶなが/織田)は居眠りしていたと島津家久(しまづいえひさ/島津)は日記に記述している。
また、薩摩国(鹿児島県)から上洛した島津家久(しまづいえひさ/島津)の御一行を、“織田四天王”の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は近江国(滋賀県)の坂本城(さかもとじょう/大津)に招聘(しょうへい)した。
茶室に案内された島津家久(しまづいえひさ/島津)は、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)にお茶を薦められたが、茶道の知識が無い事で断り、白湯(さゆ)をお願いした。
参加者が共同で長句(五七五)と短句(七七)を組合せた歌を詠(うた)う連歌会(れんがえ)にも誘われたが、島津家久(しまづいえひさ/島津)は文化の教養が薄い事で、これも断っている。
こうして畿内(きない/関西)の文化文明や勢力情勢を会得(えとく)した島津家久(しまづいえひさ/島津)は薩摩国(鹿児島県)への帰路に着いた。
四男の島津家久(しまづいえひさ/島津)から畿内(きない/関西)での話を聞いた三男の島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)も、これからの武将は芸術も必要として茶道や和歌を学ぶ為に京都に上洛した。
ただ、これは表向きで京都の公家や織田信長(おだのぶなが/織田)との友好関係を築く為だったが、それに併せて京都や奈良の観光地を巡り、花街(かがい)で豪遊していたと薩摩国(鹿児島県)の島津家に密告もされている。
1576年に日向国(ひむか/宮崎県)も統治して、父親の島津貴久(しまづたかひさ/島津)が悲願だった南九州の三州統一を達成する。
この頃は、薩摩国(鹿児島県)の島津四兄弟と、豊後国(ぶんご/大分県)の大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)と、肥前国(佐賀県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)の三者により“九州三国志”と呼ばれていた。
これにより日向国(ひむか/宮崎県)の戦国大名だった伊東義祐(いとうよしすけ/伊東)と息子の伊東義益(いとうよします/伊東)は、豊後国(ぶんご/大分県)の守護大名で“豊後の王”と呼ばれた大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)を頼り「島津討伐」を嘆願した。
こうして1578年に起こった「耳川の戦」(みみかわのたたかい)にて日向国(ひむか/宮崎県)の高城川原(たかじょうがわら/木城)で、ドンフランシスコ(洗礼名)と名乗っていた大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)はキリスト教の布教活動で忙しく家臣に任せた3万人の大友軍と、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)が率いる2万人の島津軍が交戦した。
戦況は主君がキリスト教の信仰に陶酔し軍隊の士気が上がらない大友軍が大敗を喫(きっ)した。
続いて動いたのは、元は筑前国(福岡県)の少弐資元(しょうにすけもと/室町)の家臣だった龍造寺家純(りゅうぞうじいえすみ/少弐→龍造寺)の孫で、梟雄(きょうゆう)として名が高く“肥前の熊”と呼ばれる龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)が、義兄弟で重鎮家臣の鍋島直茂(なべしまなおしげ/龍造寺→豊臣→徳川)と共に、龍造寺氏から島津氏に寝返った肥前国(長崎県)のキリシタン大名の有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津)の討伐に進軍した。
この頃の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)の領国は、豊前国(ぶぜん/福岡県・大分県)と筑前国(福岡県)と筑後国(福岡県)と肥前国(佐賀県・長崎県)、そして対馬島(つしまとう/長崎)と壱岐島(いきのしま/長崎)の“五州二島”(一部統治含む)となった。
こうして1584年に起こった「沖田畷の戦」(おきたなわてのたたかい)にて肥前国(長崎県)の島原半島で、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)と鍋島直茂(なべしまなおしげ/龍造寺→豊臣→徳川)が率いる3万人の龍造寺軍と、有馬晴信(ありまはるのぶ/有馬→龍造寺 →島津)と援軍要請を受けた四男の島津家久(しまづいえひさ/島津)と息子の島津豊久(しまづとよひさ/島津→豊臣)が率いる6千人の有馬島津軍が交戦した。
多勢に無勢で合戦のセオリー通りなら、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)の龍造寺軍が勝利に終わる。
ところが、この戦場は半島と言う事もあり、東側は雲仙岳の山手、西側は島原湾の海手、その中央は田んぼと沼地が広がる悪路。
ここで龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)は、3万人の軍勢を三等分にして山手隊、中央隊、海手隊に編成した。
この軍力を切り分けた作戦が命取りとなる。
南側に布陣する有馬島津軍は、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)が指揮する中央隊のみに焦点(フォーカス)を絞り、島津家久(しまづいえひさ/島津)のお家芸でもある“釣り野伏せ”(つりのぶせ)で龍造寺軍を誘き寄せて、ある一定の位置にまで来た時に隠れていた伏兵の鉄砲(火縄銃)で総攻撃を浴びせた。
これには大軍の龍造寺軍は大慌てとなり、大混乱に陥いる中央軍の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)に目掛けて有馬島津軍の特攻隊が斬り掛かる。
有馬島津軍の特攻隊…『油断大敵は戦(いくさ)の掟(おきて)であるぞっ!』
バサッ バサッバサッ
龍造寺隆信…『ギャ〜〜 やられた〜〜』
ゴロン
肥前国(佐賀県)の領主でもあり総大将の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)は斬首され討死した。
一方、龍造寺軍の別働隊で進軍していた山手隊と海手隊は無傷で終わり、鍋島直茂(なべしまなおしげ/龍造寺→豊臣→徳川)も龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)が斬殺された事を知ると戦地から逃亡した。
この敗因は、龍造寺軍を三編成に分けて、足場の悪い湿地帯を中央軍が進み、山手軍と海手軍は非常事態に援軍として駆け付けれなかった地形にある。
それと小軍勢の有馬島津軍を侮(あなど)った龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ/龍造寺)の傲慢(ごうまん)や慢心(まんしん)も重なった。
こうして1584年に肥前国(佐賀県・長崎県)と肥後国(熊本県)を領域に収めた。
ALZO /♪ YOU'RE GONE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260111 - ラジオの友 URL
2026/01/11 (Sun) 19:32:32
◆◇◆其の三十六:日本のお城と天守閣◆◇◆
(29ー3)
九州統一まで目前に迫った島津四兄弟だが、ここで畿内(きない/関西)から強敵が現れる。
島津軍に大敗して弱体化していた豊後国(ぶんご/大分県)の大友義鎮(おおともよししげ)こと大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が、織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後の豊臣政権を樹立していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を頼り「島津討伐」を嘆願した。
山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)を拠点として関白(かんぱく)に就任していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、1585年に九州地域に対して大名同士による合戦や抗争を禁止した“惣無事令”(そうぶじれい)を発布した。
この危機的状況で島津四兄弟は、豊臣政権に対する評定(ひょうじょう)を重ねた。
16代当主の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と次男の島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)は徹底抗戦を示した。
一方で、三男の島津歳久(しまづとしひさ/島津→豊臣)は農民出身の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を高く評価し豊臣政権に従属(じゅうぞく)する事を進言し、四男の島津家久(しまづいえひさ/島津)も豊臣政権に恭順(きょうじゅん)の意思を示した。
意見が二分した中で16代当主の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の“惣無事令”(そうぶじれい)を無視した。
そして、九州を統治する島津氏の政策を記載した書状を、豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)ではなく、その家臣で河内源氏の庶流(しょりゅう)の三淵氏(みつぶちうじ)の生まれで細川氏に養子に入っていた細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)に送達している。
その内容は⦅通常であれば豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)殿に宛てて書状を出すのが礼儀ですが、ただ、関白(かんぱく)に就任しているとはいえ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)殿は尾張国(愛知県)の農民の出自(しゅつじ)で身分が低く、それに対して島津家は鎌倉時代から征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)公にお仕えする由緒ある権門勢家(けんもんせいか)である。 この家柄(いえがら)の格差から島津氏は感服(かんぷく)する姿勢を見せられないが、時勢を考慮して同じ源氏に仕える細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)殿に書状を送達した次第であります。 お手数ですが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)殿に島津家の事情を御伝言ください。⦆とし、細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)は書かれた通りに豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に伝言した。
これにて1586年に「九州征伐」(きゅうしゅうせいばつ)が開始される。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、直参家臣で美濃国(岐阜県)の武将の仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)に命じて、四国から土佐国(高知県)の武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)と息子の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)など2万人を引き連れ豊臣軍先鋒隊を侵攻させた。
こうして1587年に起こった「戸次川の戦」(へつぎがわのたたかい)にて豊後国(ぶんご/大分県)の大野川河原(大分)で、島津家久(しまづいえひさ/島津)が率いる1万人の島津軍は交戦した。
この時に合戦上手の島津軍を知っていた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は豊臣軍の援軍が到着してからの攻撃を進言していたが、手柄や恩賞を目当てとした仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が総攻撃を指示した。
一方の島津家久(しまづいえひさ/島津)は得意の“釣り野伏せ”(つりのぶせ)で待ち構え、三方から豊臣軍先鋒隊を攻撃し勝利する。
これにより仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)は四国に逃亡し、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は負傷し、息子の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)は討死した。
LEO SAYER /♪ I CAN'T STOP LOVING YOU (THOUGH I TRY)
◆ラジオの友◆
◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友
2026/01/07 (Wed) 23:13:10
君が歌えば、僕が踊る時、新しい音楽が生まれる。
インターネットの代わりにラジオを、テレビの代わりにライブハウスを、新しい音楽をリードする。
老いたる者には、過ぎし日の郷愁(きょうしゅう)を。
若人(わこうど)には、古(いにしえ)の幻(まぼろし)を。
今日も始まりました大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージックの時間です。
素敵な音楽をあなたにお届けするミュージックオアシス。
では、大阪で流行っている最新の音楽をお届けします。
Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友
2026/01/07 (Wed) 23:14:00
「♪2025年、大阪キャバクラ幕府!!」
『“いしん”をかけて女の二(2)つの穴(0)に(2)ゴー(5)、2025年、大阪キャバクラ幕府。』
「大阪夜の陣」
“いしん”をかけて夜のミナミへ繰り出しまんねぇん。
毎晩の様に布陣している風俗奉行(ぶぎょう)。
「十三(じゅうそう)の役(えき)」
年齢層はオカン並やがぁ、ベテランのテクニックにはかないまへぇんねぇん。
“いしん”をかけて御奉仕してもらいまっせぇ!
「西中島南方(にしなかじまみなみかた)の戦」
どこの店も、パンツを脱がない店はおまへぇんでぇ!
昼はOLと掛け持ちの女子も多いさかいに、議員バッチをチラつかせて“いしん”をかけて裸の人生相談やぁ!
「兎我野(とがの)の乱」
大阪でもナンバー1(ワン)のピンク街やぁでぇ!
ヘルスにしようか、ホテルに呼ぼうか、魅惑と戸惑いが溢れる“いしん”をかけた快楽の境地やぁ!
「宗右衛門町(そうえもんちょう)の変」
揉(も)んではみたが、吸ってはいない。
濡れてはいたが、入れてはいない。
不謹慎かも知れないが、“いしん”をかけて法的には適正やでぇ。
こんなわしぃらには、風俗で考え抜(ヌ)いて“いしん”をかけた夢がおますねぇん。
中国の植民地の大阪を、“いしん”をかけて副首都のしまっせぇ!
副首都の大阪から、“いしん”をかけて日本の機密情報をドンドンと、親愛なる共産当局に流しまっせぇ!
歴史的に診て沖縄(琉球国)は、中国(明/みん・清/しん)の領土でっせぇ!
ただ、そんな中国も歴史的に診てモンゴル(元/げん)の領土でしてぇん!
こんな難しい国際情勢も、大阪のキャバクラでおっ立てながら議論してますねぇん。
キャバクラ、なんて美しい響きなんだ。
2025年、大阪キャバクラ幕府!!
キャバクラ、なんて素晴らしい楽園なんだ。
2025年、大阪キャバクラ幕府!!
『“いしん”をかけて女の二(2)つの穴(0)に(2)ゴー(5)、2025年、大阪キャバクラ幕府。』
今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:41:27
不思議ちゃん第22弾!
でわぁ、いってみよぉう!!
5678'S /♪ WOO HOO
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:43:46
MEGHAN TRAINOR /♪ GIFTS FOR ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:44:44
LEONA NAESS /♪ I TRIED TO ROCK YOU BUT YOU ONLY ROLL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:45:42
HEATHER NOVA /♪ VIRUS OF THE MIND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:46:43
XIMENA SARIÑANA /♪ DIFFERENT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:47:41
SHAKESPEARS SISTER /♪ I CAN DRIVE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:49:39
WILD BELLE /♪ IT'S TOO LATE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:51:53
LILY ALLEN /♪ WEST END GIRL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:52:56
SUSANNA HOFFS /♪ ALL I WANT
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:56:49
LIANG LAWRENCE /♪ IF IT ISN'T KILLING ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:57:49
MARTHA WAINWRIGHT /♪ When the Day Is Short
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:58:47
LANA DEL REY /♪ LET ME LOVE YOU LIKE A WOMAN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260105 - ラジオの友 URL
2026/01/05 (Mon) 17:59:46
SILJE VIGE /♪ ADLE E ALEINA
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:16:58
DJ…『いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、紳士の社交場、娯楽の殿堂、音楽の楽園、スナックサロンの“美女の黒乳首”にお越しくださいまして誠にありがとうございます。』
DJ…『それでは出だしから、バンバン盛り上げていきましょう!』
DJ…『長崎は昨日も今日も明日も雨となっておりま〜す。 女性のずぶ濡れにご注意ください。』
内山田洋とクールファイブ/♪ 長崎は今日も雨だった
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:18:04
DJ…『音楽の楽園、スナックサロンの“美女の黒乳首”では、令和に入ってからのUS&UKのヒットチャートナンバー1(ワン)のソングをお届けしております。』
DJ…『続いても長崎は思案橋から、レッツゴーミュージック!』
中井昭&高橋勝とコロラティーノ/♪ 思案橋ブルース
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:19:01
DJ…『これより、日本屈指の踊り子さんによる、妖艶な踊りが魅力のダンスショーを開催いたします。』
DJ…『本日のダンサーは鳥取市末広温泉町からお招きいたしましたゴーゴーガールのあんみつ姫とピーチ姫のお二人です。 快楽の神秘、快楽の境地を心ゆくまでお楽しみください。』
DJ…『ただ、上演に先立ちまして、お客様方に一言、お願い申し上げます。 店内での写真撮影、ならびに、ダンサーのお肌、衣装には絶対にお手を触れる事のないよう固くお断りしておきます。』
DJ…『それではゴーゴーガール・あんみつ姫とピーチ姫、張り切ってまいりましょう。 レッツゴーダァ〜ンス!』
森雄二とサザンクロス/♪ 好きですサッポロ
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:20:03
DJ…『横浜、黄昏(たそがれ)、愛した貴方は何処(いずこ)へ。 独り残された私は、このスナックでお酒を傾けて泪(なみだ)を拭(ぬぐ)うの。』
DJ…『嘘吐(うそつ)きで薄情な貴方を、愛してしまった私が馬鹿(バカ)なのかしら・・・』
DJ…『今夜もお酒の力を借りないと、眠れそうにないわぁ。』
秋庭豊とアローナイツ/♪ よこはま・たそがれ
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:21:03
DJ…『はい、拍手、拍手、たくさんの拍手をお願いします。 拍手をすればするほどダンサーがハッスルいたします。』
DJ…『どうですかぁ〜 このゴーゴーガールのあんみつ姫とピーチ姫の妖艶な乱舞! 魅惑な踊りに酔いしれろぉ〜!』
三浦弘とハニーシックス/♪ お嫁にゆけないわたし
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:22:09
DJ…『ミルクちゃん、24番テーブルにご指名が入りました。 直ちに急行して下さぁ〜い。』
DJ…『さあ、店内はダンスショーで大いに盛り上がって参りました。』
ロスインディオス&シルヴィア/♪ うそよ今夜も
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:23:15
DJ…『ありがとうございます。 ありがとうございます。 これにてダンスショーは終了になります。』
DJ…『お客様にはそのままの席でごゆっくりお楽しみくださいませ。 安いお値段、あふれる情熱、音楽の楽園、スナックサロンの“美女の黒乳首”をよろしくお願いします。』
敏いとうとハッピー&ブルー/♪ よせばいいのに
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:24:25
DJ…『貴方にとって足手まといな私、今から黙って独りで旅に出るわ。』
DJ…『当てもなく飛び乗った夜行列車、何処(どこ)に行くのかしら、何処(どこ)に着くのかしら。』
DJ…『窓際の夜景色と缶ビールが涙を洗い流してくれる。 終着駅に新しい私が待っているかの様に。』
森雄二とサザンクロス/♪ 足手まとい
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:25:25
DJ…『中国地方の山岳地帯に囲まれた、岡山県は津山市の元魚町商店街(もとうおまち)で、長年に渡り営業して参りましたスナックサロンの“美女の黒乳首”。』
DJ…『岡山県民をはじめ、地元の皆様に愛されて50年、ここまで津山の夜をリードしてきました。』
DJ…『これからも津山、それに岡山県、そしてこの日本の娯楽の楽園として精進(しょうじん)して参りますので、何卒(なにとぞ)、御贔屓(ごひいき)の方、宜しくお願い致します。』
ロスインディオス/♪ 知りすぎたのね
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:26:21
DJ…『この津山市は江戸時代に美濃国(岐阜県)の金山城(かねやまじょう/可児)で生誕した森忠政(もりただまさ/豊臣→徳川)が、江戸幕府の命令を受けて美作国(岡山県)の津山藩の藩主かつ津山城(つやまじょう)の城主に就任した歴史があります。』
DJ…『森氏とは、清和源氏の八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)の系統で、森可成(もりよしなり/土岐→織田)の頃から室町幕府の幕臣だった土岐氏の家臣から尾張国(愛知県)の織田氏に仕えています。』
DJ…『森可成(もりよしなり/土岐→織田)の息子の森長可(もりながよし/織田→豊臣)が森氏の家督継承者となり、美濃国(岐阜県)の金山城(かねやまじょう/可児)の城主に就任したが、人間無骨(にんげんむこつ)の槍との異名を持ち、“ヤンチャな長可”と呼ばれていました。』
DJ…『子沢山(こだくさん)だった森可成(もりよしなり/土岐→織田)の息子に、尾張国(愛知県)の葉栗(はぐり/一宮)の小姓(こしょう)をしていた森蘭丸(もりらんまる)こと森成利(もりなりとし/織田)が居り、この方が1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて織田信長(おだのぶなが/織田)に最期(さいご)まで仕えた家臣です。』
DJ…『同じく弟の森坊丸(もりぼうまる)こと森長隆(もりながたか/織田)も、謀反(むほん)を起こした明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍の侵攻により討死しました。』
DJ…『そんな織田信長(おだのぶなが/織田)の側近を務めていた森兄弟の弟だったのが森忠政(もりただまさ/豊臣→徳川)で、当初は織田信長(おだのぶなが/織田)の小姓(こしょう)をしていたが、ヤンチャな性格だった為に美濃国(岐阜県)の親元に帰されたが、これが幸いして「本能寺の変」(ほんのうじのへん)に巻き込まれずに済み、結果的に森忠政(もりただまさ/豊臣→徳川)が美作国(岡山県)の津山藩の藩主かつ津山城(つやまじょう)の城主に就任した事で、この岡山県津山市は繁栄しました。 こうした歴史観光も楽しんで下さい。』
ジャッキー吉川とブルーコメッツ/♪ 何処へ
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:27:18
DJ…『♪京都にいるときゃ〜 関白(かんぱく)と呼ばれたの〜 大坂じゃ〜 太閤(たいこう)と名乗ったの〜 尾張の戦地に〜 戻ったその日から〜 あなた(織田信長)が探して〜 くれるの待つわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』
DJ…『♪忘れた事など〜 一度もなかったわ〜 いろんな武将(徳川家康や柴田勝家)を〜 知るたびに〜 いつもこの胸〜 かすめる面影の〜 あなた(織田信長)を信じて〜 ここまで来たわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』
DJ…『♪あなた(織田信長)の似顔を〜 指物(さしもの/旗)に書きました〜 秀吉の命と〜 書きました〜 流れ武将の〜 最後の止まり木に〜 あなた(織田信長)が止まって〜 くれるの待つわ〜 昔の名前(木下藤吉郎)で〜 出ています〜』(♪昔の名前で出ています)
敏いとうとハッピー&ブルー/♪ 昔の名前で出ています
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:28:19
DJ…『16番テーブルにヘネシーとフルーツ盛合せのご注文を頂きました。 有難う御座いまぁ〜す!』
DJ…『さぁ、今宵(こよい)は歌って、踊って、ジャンジャン呑んで下さぁ〜い!』
ニックニューサ/♪ 酒場にて
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:29:19
DJ…『禁断の恋、妻ある男と夫ある女。』
DJ…『乗り越えられない愛の大きさ、それでも逢いたい忍(しの)び愛。』
DJ…『別れが待っているからこそ、離れられない男と女の恋心。』
名取忠彦とグリーングラス/♪ しのび愛
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:30:20
DJ…『ここでDJよりインフォメーションがございます。 音楽の楽園、スナックサロンの“美女の黒乳首”では、毎週金曜日に“ビキニナイト”を開催しております。 当日、水着のビキニでお越しのお客様は、何と当店よりシャンメリーを1本サービスさせて頂きます。』
DJ…『音楽の楽園、スナックサロンの“美女の黒乳首”の毎週金曜日は、郁恵(いくえ)ちゃん並みの豊満なビキニレディが、鏡張のダンスフロアで思いっ切り乱舞して楽しい夜を演出しておりますので、是非、皆さまのご来店、お待ちしております。』
黒沢明とロスプリモス/♪ 城ヶ崎ブルース
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:31:21
DJ…『メロンちゃん、32番テーブルにご指名が入りました。 上下に揺らしながら急降下でお願いしまぁ〜す。』
DJ…『只今から30分間、グラマーなホステスさんと“ハッスルタイム”でお楽しみ下さぁ〜い!』
和田弘とマヒナスターズ&多摩幸子/♪ 北上夜曲
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:32:18
DJ…『淋しがり屋の殿方を優しく慰める音楽の楽園、スナックサロンの“美女の黒乳首”。』
DJ…『サラリーマンは会社帰りに、学生さんは学校帰りに、どうぞお誘い合わせのうえ、たくさんのご来場をお待ちしております。』
鶴岡雅義と東京ロマンチカ/♪ 旅路のひとよ
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:33:21
DJ…『昼は事務員、夜はホステスの二足の草鞋(わたじ)で働く私、古く狭い部屋に帰る日々。』
DJ…『それも愛する貴方に尽くすため。』
DJ…『貴方にベッドの上で聞かされる、綺麗な奥さんと可愛い子供の話も、愛があるから辛くはないの。』
DJ…『いつかは、いつかは、きっと私の元へ貴方が・・・ 東京砂漠でそう信じて生きてきたの。』
内山田洋とクールファイブ/♪ 東京砂漠
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260101 - ラジオの友 URL
2026/01/01 (Thu) 16:34:30
DJ…『それではお名残おしゅうございますが、これをもちましてお別れの曲とさせていただきます。 素敵な夜をありがとう、またのご来場をスタッフ一同お待ちしております。』
DJ…『では、皆さんお休みなさい。』
黒沢明とロスプリモス/♪ 夜霧よ今夜も有難う
◆ラジオの友◆
【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 17:05:00
これで堂々と“いしん”を掛けてパワハラ宣言!
兵庫県民のご支持あっての公約成果です。
“ハラスメント”(不快行為)とは、悪霊や怨霊が取り憑いて心身や精神を歪(ゆが)められ、地獄に堕(お)ちていく人間が本来に持ったポテンシャルです。
忠臣蔵でお馴染みの集団リンチ殺人浪士を輩出した兵庫県赤穂市も“誹謗中傷”を促進して参ります。
綺麗事だけでは済まされない人間の本性を、ここ兵庫県から暴いていきます!
22世紀の未来に向けて、これからも兵庫県は陰湿な“虐待”や“差別”など、兵庫県民一丸となって“いしん”を掛けてドンドンと推し進めます。
【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 17:05:50
子供、こども、コドモって言えば、何でも許されると思っているお頭(つむ)の弱い大人達へ。
子供をダシにして“いしん”を込めて来場を促す卑劣な根性。
江戸時代から続く、10代の娘を遊郭に売り飛ばす大人の感覚と何ら変わりはない。
そんな愚(く)だらない人造物が無くとも、自然が広がる大地と天の恵みさえあれば、子供は愛情いっぱいにスクスクと育ちますよ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/03/26 (Wed) 23:53:37
先日、近隣にある河川の遊歩道で目撃した衝撃的な光景を嘘偽(うそいつわ)りなく記述しよう。
その遊歩道には70代くらいのお爺さんが散歩しており、時折、河川を眺めていた。
その川には鴨(カモ)や鷺(サギ)などの鳥がよく集まっており、そのお爺さんも鳥を見ている様子だった。
その次の瞬間、川岸に落ちている大きめの石を拾い上げると、川で水遊びしている鳥に目掛けてぶつけているではないか!
はっきり言って、ショッキングな出来事である。
川辺の鳥たちも驚いて飛んで行ってしまった。
ただ、これも人間の側面である。
誰も見ていないところで犯罪行為に手を染める。
人間が定めた法律の線引きにより逮捕されるかされないかで分別されるが、地球規模で観れば同じ人種には違いない。
実は、この様な光景を見たのは2回目である。
前回もお爺さんだったが、それは河川に住み着いたヌーちゃん(ヌートリア)で、2匹の子供が川岸の草場で遊んでいるところに、お爺さんがヌーちゃん(ヌートリア)を目掛けて石を何度もぶつけていた。
ただ、お爺さんのコントロールでは、すばしっこいヌーちゃん(ヌートリア)に命中する筈もなく、草中の住処(すみか)に消えて行った。
この2人のお爺さんの真意は解らないが、ただ、正義をかざして害的動物を駆除しているつもりなのか?
こう言う感覚の人種は多い。
確かに自分にとって不必要なモノや理解できないコトなどを排除する気持ちは、大なり小なり誰にでもある。
ならば、天界の神様により、この宇宙、この地球の害的動物でもある人間を、正義をかざして駆除して地獄に堕とす事の大義や正義も認められる事になる。
因みに小動物に石をぶつけていた2人のお爺さんに対して、天界の神様に『あの老害2人は地獄堕ちで決定です。』と伝えておいた。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/11 (Fri) 22:40:27
2025年1月25日に大阪府東大阪市の生駒山で発覚したバラバラ殺人事件では、遺体の一部が大阪市中央区日本橋の廃墟マンションにも遺棄され、犯行動機や犯人の挙動など不可解な点が多い。
2025年3月22日に大阪市福島区福島の堂島川の遊歩道で発覚したバラバラ死体遺棄事件でも、なぜに直ぐに発覚されそうな都会に、一部遺体を放棄したのか不可解な点が多い。
これらの事から今回は、アメリカからFBIの元特別捜査官のジェームスリチャードが緊急来日し、FBIで導入されているプロファイリングを活用して、犯行現場から導き出した犯人像を証言してもらった。
ジェームスリチャード…『私には犯人の声が聞こえるし、その姿も視(み)えます。』
ジェームスリチャード…『猟奇的な犯行現場から推測すると犯人は男性もしくは女性で、20代〜40代もしくは50代〜80代、無職もしくは社会人でしょう。』
ジェームスリチャード…『犯行現場が大阪と言う事もあり、非常に地理感がある為に西日本に在住している者と言えるが、近年ではインターネットにより地域の情報を簡単に取得できる為に、東日本に在住している可能性もある。』
ジェームスリチャード…『間違いなく犯人は、次は●●●で犯行に及ぶでしょう。 特に●●●は要注意して下さい。 ●●●が●●●になる可能性も否定できませんが、最善策として●●●が有効です。』
ジェームスリチャード…『シリアルキラー(猟奇的殺人鬼)はその街に1人いれば、同類が必ず100人以上は存在している。 大阪では決して1人で夜道を歩いたり、部屋内で過ごさないで下さい。 次に狙われるのは、あなたかも知れません。』
ジェームスリチャード…『犯人を今一歩まで追い詰めたが、あと少しの所で取り逃してしまった。 ただ、次回は必ず追い詰めて逮捕に至る自信はある!』
この様にFBIの元特別捜査官のジェームスリチャードは述べて、無念さをにじませてアメリカに帰国して行った。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/19 (Sat) 02:27:24
2025年4月15日、和歌山県知事が大阪関西万博に出席した直後に死去しました。
輝く“命”もいつかは消える事を、大阪関西万博は“いしん”を掛けて一番に大切な事を教えてくれている。
“死”は皆な平等に訪れる。
若くてもこうなる前に、身辺整理と終活はしておいた方が良い。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/04/26 (Sat) 21:42:35
2025年4月24日、大阪関西万博の会場で、体調不良を訴えた60代の女性が搬送先の病院で死去した。
この実態について開催者は、個々の病状をはじめ生死を公表するつもりは無いとしている。
この開催者の姿勢については、日本の仏教においての禅問答が関わっている。
この世の人は必ず死を迎えるのか、それとも永命できるのかの生死是如何(しょうじこれいかん)があり、輝く“命”とて、いずれは消えて無くなるのが大宇宙の真理と仏教は解(と)く。
御釈迦様(仏陀)が悟った、生命は必ず滅び無くなる是生滅法(ぜしょうめっぽう)にちなんだ教えである。
開催者の姿勢も、こうした日本独自の教えの中で、限りある“命”をテーマにした大阪関西万博のコンセプトに沿った対応と言えよう。
たとえ埋立地で有毒ガスを吸い込んで“命”を落としたとしても、それは“寿命”であり“運命”でもある事を学ぶ事ができる。
限りある“命”と“時間”は有効に使い、やりたい事があるなら家族や仕事を捨ててでも、今直ぐにやるべきである。
あっという間に“人生”は終わってしまう。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん URL
2025/05/04 (Sun) 21:21:42
神奈川県警察署の皆さまへ。
『そこは止(や)めてぇ!』の本心は、『もっとそこを攻めてぇ!』の言い換えです。
もっと男女の恋心を勉強しましょう。
このままだと、チェリーポリス(童貞警察)と言う称号が与えられますよ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/05/21 (Wed) 08:07:32
国家を担う議員しててぇ、こぉんなん言うのも何ですがぁ〜
お米は買(こ)うた事おまへぇんが、女はよぉう買(こ)うてぇまっせぇ!
街角の立ちんぼを買(こ)うた女が、今の嫁はぁんでぇすねぇん。
国の仕事いうのは昔から、お米も、お金も、売女(ばいた)も、家に集まってきますぅんやぁ。
その現世の欲望に塗(ま)れた付けを、一族みんなで地獄に行って支払うよってからにぃ、堪忍(かんにん)してやぁ〜
わてぇら風紀を乱す議員は、日本の神様の天照大御神(アマテラス)に、ごっつ嫌われてますぅさかいなぁ〜
備蓄米を囲って国民を兵糧攻めにして抹殺(まっさつ)する国賊(こくぞく)やぁから、そりゃアカンわぁな!
日本中の神様の逆鱗(げきりん)に触れ、公序良俗(こうじょりょうぞく)に反した先祖子孫の一族みんなで地獄に堕(お)ちよぉるわなぁ。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/05/23 (Fri) 05:16:27
明日、お米を買いに行くけど、標準米が5kgで3000円以内になっていなかったら、絶対に許さん!
今までも気に入らないアホォな政策で数々の人に責任を取ってもらってるから同じ様に、万が一、3000円超だったら永田町と霞ヶ関に連座責任を取ってもらう。
神社やお寺に参拝するだけではなく、都市部に蔓延(はびこ)る悪霊や怨霊、それに死神や疫病神にも気を掛けた方がよい。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/07/09 (Wed) 06:44:38
“いしん”を掛けて次世代に伝えたいファックがある。
国民に“給付金”も“減税”も必要ない!
この日本に必要なのは、“いしん”を掛けたファックだけである。
毎日のファックで健康を保ち、病院知らずで“医療費削減”に効果的!
心の垣根(かきね)を取払い、“いしん”を掛けて誰とでもファックに挑めば、少子化対策も解決すること間違いなし。
今日も元気なイクイク健康家族!
“いしん”を掛けた政策を実施する一部の国会議員は、未熟なJKやJCが大好物!
みんな、新宿の歌舞伎町に大集合!
“いしん”を掛けたファック国家の実現を目指そう!
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/07/17 (Thu) 12:49:41
ある政党の国会議員の、この発言。
『運の良い事に、「能登半島地震」(2024年1月1日)が遭(あ)った。』
この思考を適用するなら・・・
『運の良い事に、1868年(明治元年)に「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1877年(明治10年)に「西南戦争」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1894年(明治27年)に「日清戦争」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1904年(明治37年)に「日露戦争」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1914年(大正3年)に「第一次世界大戦」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1941年(昭和16年)に「第二次世界大戦」かつ「太平洋戦争」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1995年(平成7年)に「阪神大震災」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1995年(平成7年)に「地下鉄サリン事件」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、1998年(平成10年)に「和歌山毒物カレー事件」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、2011年(平成23年)に「東日本大震災」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、2020年(令和2年)に「新型コロナウイルス感染拡大」が遭(あ)った。』
『運の良い事に、2022年(令和4年)に「元首相暗殺事件」が遭(あ)った。』
これからも政党が一丸となって、この信条と政策でドンドン突き進みます。
そして、日本の国賊(こくぞく)として飛躍して参ります。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/08/01 (Fri) 01:56:08
『同類、相憐(あいあわ)れむ。』
“責任”を取らない幕府の君主や“いしん”をかける880万石の地方大名など、同じ境遇の国賊(こくぞく)が、寄り添って同じ傷口を舐め合う事。
来世で地獄に堕(お)ちる者は、現世でも同じ匂いのする者同士が集団化する例え。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/10/12 (Sun) 13:59:00
“いしん”を掛けて日本の東京への一極集中を是正する前に、“いしん”を込めて西日本の大阪への一極集中を先に是正する必要があるのでは?
例えば関西圏の鉄道網で、朝晩の車両の混雑率を70%未満に抑える国家的な条例を設ける。
もし、70%以上の車両の混雑率になった場合は、大阪市北区、中央区、西区、浪速区に事業所を設ける会社は、企業グループ全体の総売上高の30%を“大阪一極集中解消条例違反”として罰金を科す。
こうすれば、大阪に事業所を構える企業も“必死のパッチ”で是正を講じるでしょう!
そして、“大阪一極集中解消条例違反”の罰金として徴収したお金は、日本各地の過疎化問題解消の“地方創生資金”に充当させれば良い。
国賊から徴収した“地方創生資金”の使途は、主な3項目を挙げるとする。
①:使用目的の無い空家を、所有者の承諾の元で移住者向け住居や民泊施設への改装資金に充当する。
②:魅力ある地元特産物を、日本全国かつ全世界に向けてインターネット販売のシステムを構築し、販売網から配送の物流までの整備費。
③:地方地域のありのままの景観を維持保全し、新設施設や環境変更へは厳禁。
こんな感じでしょうか。
仮に、この政策に反対する者が居れば、来世(らいせ)でその者と両親に兄弟、子供に孫、親族一同、先祖子孫を地獄に全員を堕とせば済む事である。
最も単純で簡単な話で、この政策に何1つ悩む障害は無い。
Re: 【祝】2025年、パワハラ都市・兵庫県の認定おめでとう! - 万博おじさん
2025/12/30 (Tue) 22:31:53
一千年の都、京都には芸妓(げいこ)や舞妓(まいこ)と遊ぶ花街(かがい)とは別に、遊女や娼婦と戯(たわむ)れる遊郭や遊里が何箇所かにあった。
一番に大規模なのは島原遊郭で、京都駅から西側に行った梅小路の北部に位置する。
近年まで営業していたのが五条楽園で、京都駅から北東側に行った鴨川の西部に位置する六条の一帯になる。
あまり知られていないが、伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)がある京都南部にも、小規模だが撞木町(しゅもくちょう)に墨染遊里(すみぞめゆうり/遊郭)があった。
因(ちな)みに、遊郭の名残りなのか昭和期まで、この近隣にストリップ小屋があったそうです。
江戸時代には墨染遊里(すみぞめゆうり/遊郭)に頻繁(ひんぱん)に通っていた有名人がいる。
12月の年末になるとテレビ番組で特集が組まれる「赤穂浪士四十七士・忠臣蔵」の首謀者だった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)である。
江戸幕府は征夷大将軍5代目の徳川綱吉(とくがわつなよし/徳川)が就任していた1701年に、饗応指南役(きょうおうしなんやく)の吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(きらよしなか/江戸)を浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと浅野長矩(あさのながのり/赤穂→江戸)が斬り付ける「松之廊下刃傷事件」(まつのろうかにんじょうじけん)が起こる。
その後、江戸幕府の裁定で播磨国(はりま/兵庫県)の赤穂藩は領地没収の改易(かいえき)となり浅野家は取り潰しとなった。
これにより赤穂藩の家老(かろう)だった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)は牢人(無職侍)となり、伝手(つて)を頼り京都の山科にある西野山に移住する。
住居の裏手には稲荷山(いなりやま)があり、この山を越えれば伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)がある。
そこから南部に下れば撞木町(しゅもくちょう)の墨染遊里(すみぞめゆうり/遊郭)がある。
この時期に大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)は、墨染遊里(すみぞめゆうり/遊郭)に通い詰めて様々な遊女と戯(たわむ)れたとの伝記が残っている。
特に揚屋(あげや)の笹屋(ささや)がお気に入りだったと言う。
その後の1702年の「吉良邸討入」で吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(きらよしなか/江戸)を斬殺し、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)も自決した。
この物語の見所は、やっぱり大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)も男であり、主君の敵討ちの忠義よりも、性欲を抑える事が出来なかった事にある。
色々な女とやりまくるのは、現代にも通じる男の浪漫(ロマン)である。
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)は、世の男性にとって日本の歴史人物で最も尊敬する値(あたい)する。
京都市山科区には大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)を主祭神とする大石神社が創建されている。
ここを参拝し続ければ、男にとって憧れの“千人斬り”も夢ではない。
神様の御加護により、様々なタイプの女を抱ける事は間違いないだろう。
ただ、近年では年末のテレビ番組で「赤穂浪士四十七士・忠臣蔵」が放映されなくなっている。
寂しい限りだ。
ここは令和の時代に合わせて、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)の絶倫(ぜつりん)武勇伝に的を絞ったドラマ設定にしたらどうか?
その名も「47穴(ホール)アソコ浪士・忠チン蔵」。
徳川綱吉…『大石さんはいつも元気ですねぇ〜 何か秘策はあるのですか?』
大石内蔵…『私は毎日、このオットセイ成分が配合された“絶倫浪士”(ぜつりんろうし)を飲んでいます。 この爆性ドリンクで女も大満足!』
徳川綱吉…『おおっ、この“絶倫浪士”(ぜつりんろうし)、私も次期将軍を作る為に飲んで、大奥(おおおく)を喜ばせてみます。』
大石内蔵…『是非、征夷大将軍11代目の徳川家斉(とくがわいえなり/一橋→徳川)の代々まで、“絶倫浪士”(ぜつりんろうし)を飲み続けて下さい。』
絶対に高視聴率が取れるでぇ!
今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:30:39
◆◇◆其の一:日本のお城と天守閣◆◇◆
近年、インターネットが整備されて世界中の情報が瞬時に配信され、基本的に地球の何処(どこ)に居ても、同じ時間に同じ情報を知る事ができる。
更(さら)にインターネットは個人が発信するツールに進化して、90年代までのメディア時代では同じ情報を共有する仲間との共感型だったが、2000年代に入ったネット時代では個人による紹介型に変化した。
SNS(ソーシャルネットワークサービス)やブログによる個人から配信される新鮮な情報は、瞬く間に世界に届いていく。
人気のインフルエンサー(情報主導者)は、自国だけでなく、世界に支持者が増殖していく。
この日本でも、世界から注目を集めるコンテンツ(概要)がある。
それは“日本の歴史”だ。
自国の日本人ですら興味を示さず、見過ごす様な日本の伝統や技能に、世界中のインフルエンサー(情報主導者)が関心を示して、態々(わざわざ)に訪日までして情報を発信してくれている。
そんな“日本の歴史”で一番に人気があるのが、日本各地に設けられたお城である。
日本のお城は見た目にも、最も日本を感じる事のできる遺跡や史跡である事は確かである。
世界がその価値を認めている日本のお城だが、では、日本列島に居住する日本人は、どれだけお城の事を把握し熟知しているのか?
もし名古屋城や大阪城にて、インバウンド(訪日観光客)に『曲輪(くるわ)は何処(どこ)の事で、多聞櫓(たもんやぐら)とは何ですか?』と聞かれたら、どれだけの日本人が正確かつ適正に教え伝える事ができるか。
もし、日本人が返答に窮(きゅう)すればインバウンド(訪日観光客)はガッカリし、絶好調な日本観光の根幹(こんかん)を揺るがしかねない。
此処(ここ)は今一度、日本のお城のついて学び直す必要がある。
Jesus Jones /♪ Info Freako
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:31:40
◆◇◆其の二:日本のお城と天守閣◆◇◆
日本のお城だが、歴史に全く興味の無い大抵の日本人は、立派な天守閣を思い浮かべる。
確かに存在感のある天守閣は、お城の象徴でもあり、また、その街のランドマークでもある。
ただ、天守閣はお城の一部でしかない。
更(さら)に言うと、天守閣の無いお城も多く存在している。
これには2通あり、築城した当時から天守閣を建設しなかったお城と、築城した時は天守閣が存在していたが消失して再建されていないお城がある。
また、消失して再建された天守閣でも、現代の建築技術により建設された鉄筋コンクリート造(RC造)などの天守閣も存在しているし、元々に存した天守閣の資料が乏しく、同時期頃に築城された他の地方の天守閣を模造しているお城もある。
近年でも天守閣の再建を計画している自治体が増えている。
例えば名古屋城だが、天守閣の経年劣化により耐震性に問題が生じて、木造での再建を計画しているが、様々な問題から実施には至っていない。
九州の福岡城も、過去の資料が乏しく天守閣の構造や意匠(デザイン)の詳細が不明で、不明確な天守閣の再建に反対している一部団体なども居る。
ただ、此処(ここ)で考えて欲しい。
昔の建っていた天守閣などの建築物を、忠実に再現する必要があるのだろうか?
例えば、ウルトラマンやドラえもんも、初期と後期では容姿が異なっている。
その時代の背景や造り手の技能の進歩で、より良く成長させている。
これは天守閣などの歴史的建築物にも当てはまる。
現代の技術の粋(すい)を集結させ、今の時代に相応(ふさわ)しい天守閣を再建する事が、歴史的価値から視ても重要である。
今の時代から観れば、歴史との整合性が欠ける天守閣であっても、其処(そこ)に天守閣が存在していれば、歴史とお城の想像がし易(やす)くなる。
お城の天守閣も当時の構造や意匠(デザイン)などを踏襲(とうしゅう)する必要はない。
The Charlatans /♪ One To Another
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:32:40
◆◇◆其の三:日本のお城と天守閣◆◇◆
現在進行形でお城を再建させていると言えば、2019年に火災に遭い全焼してしまった琉球国(沖縄県)の首里城(しゅりじょう/那覇)である。
この首里城(しゅりじょう/那覇)の再建は、以前の建築物を忠実に再現させる様に建設している。
ただ、やはり木材は鉄やコンクリートより可燃性が高く、木造は火災に脆弱(ぜいじゃく)である事は否(いな)めない。
こうした事情から、天守閣などを鉄筋コンクリート造(RC造)で再建する事も否定はできない。
しかし、忠実な建築構造や意匠(デザイン)は別にして、再建される天守閣は木造であって欲しいと願うのも心情である。
そう言う点から名古屋城の天守閣は、木造が望ましいだろう。
ただ、現存する天守閣の跡地に建設する必要もない。
天守閣の石垣が国の重要文化財に指定されて、天守閣を再建するのに障害となるなら、天守閣を新たな別場所に建設すれば良いだけの話である。
名古屋城の北側には名城公園(めいじょうこうえん)と言う広大な敷地がある。
その一画に、木造で天守閣を石垣から新たに建設すれば問題は解決する。
名古屋城の区画も広くなり、観光客の回遊性も高まる。
これには実例もある。
武蔵国(東京都)の江戸城は、室町時代に関東管領の上杉氏の家宰(かさい)を務めた太田道灌(おおたどうかん/扇谷)により建設された。
その後、征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が手掛けた天守閣、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が手掛けた天守閣、征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)が手掛けた天守閣と、江戸城の城郭内で3度も移築している。
平安時代に山城国(京都府)に遷都(せんと)された平安京も、明治期の1895年に平安京の区域外に平安神宮(左京)が創建され、内裏(だいり)などは木造で建設されている。
現代から観れば、この地に平安京が存在したと勘違いしそうだが、元々の平安京からは東側に設けられている。
しかし、雅(みやび)な平安文化に触れる事ができるのも事実で、京都三大祭の“時代祭”も、この平安神宮(左京)を基点としている。
ただ、門前の鮮やかな朱色の大鳥居はコンクリート造である。
やはり、歴史的建築物が鉄筋コンクリート造(RC造)だと、有り難みが半減するのも事実。
これらの事からも解る通り、歴史的建築物はその跡地で忠実に再現する必要などありません。
Inspiral Carpets /♪ Saturn 5
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:33:43
◆◇◆其の四:日本のお城と天守閣◆◇◆
では、天守閣を中心としたお城を観てみよう。
日本で最も有名なお城と言えば大阪城と名古屋城だが、その立地と城郭の規模もよく似ている。
戦国時代(安土桃山時代)の1583年に、亡き織田信長(おだのぶなが/織田)の意思を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、摂津国(大阪府)の上町台地の先端にあった顕如(けんにょ/僧侶)が統治していた石山本願寺(いしやまほんがんじ)を奪取(だっしゅ)して大坂城(おおさかじょう)を築城した。
大坂城(おおさかじょう)の範囲は、天守閣のある本丸を中心に、二の丸と三の丸(法円坂)などで構成されていた。
今の地域で観ると現在の大阪城に加え、南部は清水谷や真田山がある長堀通から空堀(からほり)商店街に掛けて、西部は上町台地の坂を下った松屋町通(まっちゃまちとおり)に掛けて惣構堀(そうがまえほり)があった。
その南部に寺町、西部に商人町の大坂城下町で構成されている。
1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)で死去すると、この大坂城(おおさかじょう)には遺族で側室の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が居住する事となる。
この時期に豊臣政権の天守閣と、城郭内の三の丸付近に豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の後見人となる徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の御殿が建設され、その規模は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の天守閣より大きかったと言う。
そして豊臣氏と徳川氏の対立により、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が勝利し、1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」にて、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の攻勢により、淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)は大坂城(おおさかじょう)と共に滅亡した。
その後に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の天守閣より大きな江戸幕府による徳川氏の天守閣が建設された。
1868年の明治維新にて、大坂城(おおさかじょう)の天守閣などの建物は火災でほとんどが焼失した。
1930年に民間の寄付金などにより、大坂城(おおさかじょう)を含め大坂城下町を整備した大閤(たいこう)の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して畏敬(いけい)を表して天守閣など大阪城公園を整備する。
この為に現存する大阪城の天守閣は鉄筋コンクリート造(RC造)であり、その意匠(デザイン)も豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の時代でも、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の時代でもないと言う、第三次の天守閣である。
The Farm /♪ Messiah
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:34:40
◆◇◆其の五:日本のお城と天守閣◆◇◆
江戸幕府の徳川氏と大坂城(おおさかじょう)の豊臣氏が対立していた時に、濃尾平野(のうびへいや)と呼ばれる尾張国(愛知県)に築城された名古屋城は、江戸時代の1615年に建設された。
これは徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が大坂城(おおさかじょう)の豊臣氏を警戒して、武蔵国(東京都)の江戸城や駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)を防御する重要拠点として堅固(けんご)な城郭を建設した。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は息子の徳川義直(とくがわよしなお/徳川→尾張)を、尾張名古屋藩の1代目藩主かつ名古屋城の城主に就任させた。
これが『尾張名古屋は城で持つ!』の始まりである。
この名古屋城の地には、元々は尾張国(愛知県)の戦国武将だった織田信秀(おだのぶひで/織田)が居城していた那古野城(なごやじょう)が設けられており、一時は息子の織田信長(おだのぶなが/織田)も城主に就いていた。
熱田台地の付根に設けられた名古屋城の範囲は、天守閣のある本丸を中心に、二の丸と三の丸などで構成されていた。
今の地域で観ると現在の名古屋城に加え、南部は官公庁や名古屋高速道路がある本町通に掛けて、西部は熱田台地の坂を下った堀川に沿った一帯で、東部は名鉄瀬戸線の一部がお堀の跡地に敷設されている。
南部には本町御門と御園(みその)御門が設けられて、東部には東御門が設けられた。
名古屋の歌舞伎座でもある御園座(みそのざ)は、この御園(みその)御門が設けられた伏見通にある事から由来(ゆらい)する。
その東部に寺町、南部に商人町の名古屋城下町で構成されている。
その東部の寺町に建立されたのが尾張徳川家の菩提寺(ぼだいじ)でもある建中寺(けんちゅうじ/浄土宗)である。
私事(わたくしごと)にはなるが、名古屋北部に居住していた曾祖父ちゃんは、この建中寺(けんちゅうじ/浄土宗)の住職の娘さんが前妻であり、結婚後に若くして亡くなったので後妻を娶(めと)り、その息子が太平洋戦争のフィリピン開戦で亡くなったお爺ちゃんになり、その娘がお母さんである。
この曾祖父ちゃんは1930年に、名古屋北部を流れる庄内川(しょうないがわ)と矢田川(やだがわ)の付け替え工事にも中心人物となり尽力(じんりょく)したと、お婆ちゃんから聞きましたね。
この曾祖父ちゃんの血筋を受け継ぐ私は、これらから建築や土木など都市計画に興味を示していると自負している。
話しを戻して、これら説明でお気付きの方も多いと思うが、大阪城と名古屋城は台地の付け根か先端の違いだけで、似た様な地形に建設されている。
この事はお城を築城する上で、最も重要な事柄を教えてくれている。
この名古屋城が築城される前までは、尾張国(愛知県)の中心地と言えば織田信長(おだのぶなが/織田)が城主を務めていた清洲城(きよすじょう)の一帯である。
しかし、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)による豊臣氏の防波堤となる大規模な名古屋城の築城により、1612年から清洲(きよす)の町を移築して領民を大移動させる「清洲越し」(きよすごし)を実施した。
名古屋城の西北隅櫓(せいほくすみやぐら)は、この「清洲越し」(きよすごし)の際に廃城となった清洲城(きよすじょう)の天守閣の部材を活用した清洲櫓(きよすやぐら)とも呼ばれている。
この江戸時代初期の「清洲越し」(きよすごし)を想像して欲しいのだが、現代の感覚から言えば『東京都の町田市は神奈川県に編入させる為に、2026年から2030年の間に、東京都民を希望する町田市民は多摩市に移転して下さい。』(移転補償なしの実費)と言っている様なものだ。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いた江戸幕府の無茶振(むちゃぶ)りが伺える。
The Stone Roses /♪ Elephant Stone
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:35:41
◆◇◆其の六:日本のお城と天守閣◆◇◆
日本のお城には、その時代により立地や構造などが異なっている。
基本的に立地には3種類あり、平城(ひらじろ)、平山城(ひらやまじろ)、山城(やまじろ)がある。
奈良時代や平安時代の朝廷の出張機関や、戦乱が終焉(しゅうえん)した江戸時代には平城(ひらじろ)が築かれた。
戦国時代が終焉(しゅうえん)に向かっていた時期に、山の中腹や丘にお城を設け、その裾野(すのそ)の平野に城下町などを築いたのが平山城(ひらやまじろ)です。
戦国時代の全盛期に、山の頂上にお城を設けて、敵軍から攻撃されにくい防御力が高いのが山城(やまじろ)です。
お城と呼ばれるのはその城郭の一帯の事で、その城郭の周囲をお堀と土塀(どべい)を設け、その内部に天守閣や御殿、渡廊下(わたりろうか)や櫓(やぐら)を配置している。
このお城を築城する際は、更地の時に縄張(なわばり)を実施して、堀や塀で分断した区画の曲輪(くるわ/廓)を決定する。
基本的に戦国時代以前の城郭には天守閣は無い。
存在しても物見櫓(ものみやぐら)の様な小さな天守台があるだけである。
甲斐国(山梨県)の戦国武将だった武田信虎(たけだのぶとら/武田)や、その息子で“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)が本拠地とした躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)は、天守閣が無い御屋敷の様な館(やかた)だった。
同じ時期に駿河国(静岡県)や遠江国(静岡県)の守護代を務めていた“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと/今川)や、その息子の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)が本拠地とした駿府館(すんぷやかた)も同様である。
一方で越後国(新潟県)の守護代を務めた長尾能景(ながおよしかげ/上杉)や、息子の長尾為景(ながおためかげ/長尾)と孫で“越後の龍”と呼ばれた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が本拠地とした春日山城(かすがやまじょう/上越)は天守台が設けられていた。
Happy Mondays /♪ Kinky Afro
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:36:42
◆◇◆其の七:日本のお城と天守閣◆◇◆
日本人であろうと、インバウンド(訪日観光客)であろうと、お城に期待するのは立派な天守閣であろう。
日本の歴史を劇的に塗り替えた「日本三大奇襲戦」と呼ばれる1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)で、天下に名を轟(とどろ)かせた織田信長(おだのぶなが/織田)が尾張国(愛知県)の東部に侵攻した際に、松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が布陣した大高城(おおだかじょう/名古屋)や、今川義元(いまがわよしもと/今川)が宿泊した沓掛城(くつかけじょう/豊明)よりも、金の鯱鉾(シャチホコ)が眩(まばゆ)い立派な天守閣の名古屋城を観たいと思うのが人情である。
因(ちな)みに、名古屋駅の東海道新幹線のホームでは、東京駅方面は1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)、新大阪駅方面は1567年に起こった「稲葉山城(岐阜城)の戦」(いなばやまじょうのたたかい)で、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が出陣するイメージで、2027年度までに発車ベルを“法螺貝(ほらがい)の出陣合図”に変更予定です。
名古屋駅員…『まもなく、のぞみ125号の東京行きが発車します。』
ボォオオ〜 ボォオオ〜 ボォオオ〜 ボォオオ〜
のぞみ125号…『ヒィヒィ〜〜〜ン』
本格的な天守閣が建設されたのは、織田信長(おだのぶなが/織田)により1576年に築城された近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)からである。
この安土城(あづちじょう/近江八幡)は、戦国時代の防御拠点のお城ではなく、奈良時代や平安時代の威厳効果を狙ったお城に近かったと言う。
そんな天守閣の構造には、下層階の建物に上層階の建物を乗せた様な二段構えの望楼型(ぼうろうがた)と、均一的に狭くなる階段状の層塔型(そうとうがた)がある。
その天守閣の屋根には、入母屋(いりもや)や破風(はふ)を設けて意匠(デザイン)を凝らしている。
基本的に天守閣は、お殿様やお姫様が居住する御殿ではなく、物見櫓(ものみやぐら)や武器庫の役目を担っていた。
その天守閣の周囲には、お殿様やお姫様が居住する本丸御殿や侍詰所(さむらいつめしょ)などが配置され、台所(だいどころ)や厠(かわや/トイレ)や馬屋(うまや)もある。
その城郭の周囲には外部からの侵入を防ぐ為に、物見櫓(ものみやぐら)や土塀(どべい)で囲われている。
櫓(やぐら)には、1階建ての平櫓(やぐら)、2階建ての二重櫓(にじゅうやぐら)、3階建ての三重櫓(さんじゅうやぐら)、同じ床面積が重なる重箱櫓(じゅうばこやぐら)があり、それらをつなぐ渡櫓(わたりやぐら)や多聞櫓(たもんやぐら)が土塀(どべい)の役割も担っていた。
GREG GARING /♪ MY LOVE IS REAL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:37:42
◆◇◆其の八:日本のお城と天守閣◆◇◆
お城で注目すべきは建物ではなく、やはり石垣であろう。
石垣は当然に土台に石を積み上げ崩落などを防ぐものだが、一般的に西日本のお城には石垣が設けられているが、東日本のお城には表面が土のままの土塁(どるい)が多い。
同じ様な石垣でも、その築城の時期、立地や位置により様々な石の積み方がある。
主な石垣の種別を分別した。
▼石の積み方
[A]乱積(らんづみ) 石の大きさがまちまちで、層が統一されていない。
[B]布積(ぬのづみ) 石の横目地が揃う様に積んである。
▼石の加工
[い]野面(のづら) 石を加工せず積み、隙間が多い。
[ろ]打込接(うちこみはぎ) 石の角を削り積みやすくし、隙間も少ない。
[は]切込接(きりこみはぎ) 石を四角に加工して積み、隙間がほとんどない。
▼石垣の外観
[1]谷積(たにづみ)または落積(おとしづみ) 石を斜めに積み、重心を下部に集中させる。
[2]亀甲積(きっこうづみ) 石を六角形に加工して積み、荷重が分散する様にしている。
[3]算木積(さんぎづみ) 石垣の隅角部分で、隅石(すみいし)と隅脇石(すみわきいし)で構成する。
[4]玉石積(たまいしづみ) 河原にある丸石を野面(のづら)した石垣。
[5]笑積(わらいづみ) 大石の周りを小石で構成する。
これら石の積み方と加工、石垣の外観を組み合わせれば、いつの時代の築城かが判明する。
その初歩として[3]算木積(さんぎづみ)で建設時期を判断する事ができる。
初期は[い]野面(のづら)が多いが、中期は[ろ]打込接(うちこみはぎ)となり、後期は[は]切込接(きりこみはぎ)により見た目が綺麗に整っている。
同じお城でも改築や増築により、石垣の積み方が異なっている箇所もある。
VISTAS /♪ START AGAIN
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:38:45
◆◇◆其の九:日本のお城と天守閣◆◇◆
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)によりお城の概念が大きく変化する。
要は戦国時代の様な乱世が終わり合戦が縮小した為に、防御拠点のお城は必要とされなくなり、威厳効果のお城が築城される様になる。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が1603年に江戸幕府の開設し、そして1615年に起こった「大坂・夏の陣」の後に、江戸幕府による「一国一城令」(いっこくいちじょうれい)により築城禁止で武装用のお城は建設されなくなる。
この時に歴史的価値の高い天守閣が解体され、お城が破却(はきゃく)された。
更に明治維新により江戸幕府の拠点だったお城の廃城や、昭和期の太平洋戦争にて空襲で焼失した。
これが日本に天守閣が残っていない要因となっている。
まさか400年後に日本のお城が世界的な観光資源になる事を、大権現(だいごんげん)となる徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も見通せなかった。
このお城には、当然だが築城するに当たって建築設計と建設工事を担う人がいる。
飛鳥時代から神社仏閣などを建設する宮大工はいたが、本格的な建設会社などは無く、お城の基本設計は各軍の武将などが担っていた。
特に戦国時代後期には、“三大築城名手”と呼ばれる武将がいた。
この3人に共通して言えるのは、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣だった事である。
尾張国(愛知県)の武将の加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)は、肥後藩(熊本県)の熊本城、肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)、尾張国(愛知県)の名古屋城などを手掛けている。
近江国(滋賀県)の武将の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)は、伊予国(愛媛県)の今治城(いまばりじょう)や宇和島城(うわじまじょう)や大洲城(おおずじょう)、山城国(京都府)の二条城(にじょうじょう/京都)、伊勢国(三重県)の津城、伊賀国(三重県)の伊賀上野城、武蔵国(東京都)の江戸城などを手掛けている。
播磨国(兵庫県)の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)は、筑前国(福岡県)の福岡城、豊前国(ぶぜん/大分県)の中津城、播磨国(はりま/兵庫県)の姫路城、摂津国(大阪府)の大坂城などを手掛けている。
KYLE VINCENT /♪ WAKE ME UP
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:39:52
◆◇◆其の十:日本のお城と天守閣◆◇◆
お城の逸話(いつわ)として多くの歴史ファンに語り継がれるのは、因幡国(いなば/鳥取県)の鳥取城(とっとりじょう)と備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)ではないだろうか。
戦国時代末期の1581年に、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点に中国地方を統治していた毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)の領域に侵攻する為に、畿内(きない/関西)まで勢力を伸ばした織田信長(おだのぶなが/織田)の先鋒隊として豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が進軍した。
因幡国(いなば/鳥取県)の鳥取城(とっとりじょう)を包囲した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、攻撃する事なく『戦わずして勝つ!』ことを選択して“兵糧攻め”を実施した。
この作戦を主導したのが天才軍師と呼ばれる黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)である。
この鳥取城(とっとりじょう)には、毛利軍から藤原氏南家(なんけ)の石見吉川氏(いわみきっかわうじ)で石見国(いわみ/島根県)の武将の吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)が入城して篭城した。
この時に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、鳥取城(とっとりじょう)の前面に布陣するのではなく、後方の山岳地帯に陣営を設けた。
そして、周囲の米問屋から高値でお米を買い占めて、更に領民を鳥取城(とっとりじょう)の内部に追い遣(や)った。
こうした事により、鳥取城(とっとりじょう)に蓄えてあった食料は、あっという間に消費していった。
吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)が率いる毛利軍は鳥取城(とっとりじょう)で4ヶ月間も耐えたが、飢えに苦しむ人々により、人が人を喰らう地獄と化していた。
安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)からの援軍もなく、最期(さいご)は吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)の切腹と差し替えに、鳥取城(とっとりじょう)に残る人々の人命嘆願を申出て豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は了承している。
現代の鳥取城(とっとりじょう)は、少しずつ復元をしており、特に“石垣の博物館”と言われる程に様々な石垣が設けてある。
日本では鳥取城(とっとりじょう)でしか観られないお椀(わん)型石垣も存在している。
そんな鳥取城(とっとりじょう)では、ご当地キャラクターで渇(かつ)え殺しの“かつ江さん”がお待ちしているので、是非に足を運んで欲しい。
TIGERS JAW /♪ HESITATION
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:40:52
◆◇◆其の十一:日本のお城と天守閣◆◇◆
因幡国(いなば/鳥取県)にある鳥取城(とっとりじょう)の“兵糧攻め”を実施した翌年の1582年に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は備中国(岡山県)にある備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)に進軍した。
毛利軍の武将で備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)の城主だった清水宗治(しみずむねはる/毛利)も篭城に徹した。
備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)は平城(ひらじろ)だが、周囲に河川や沼地が多く敵軍の侵攻を防ぐ事ができた。
ところが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)はこれを逆手に採り、近隣の足守川(あしもりがわ)を堰(せ)き止めて“水攻め”の作戦を講じた。
この作戦を主導したのが、またしても天才軍師と呼ばれる黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)である。
備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)の西南部を流れる足守川(あしもりがわ)に、堤防の高さ8m(約2階建て)、上部幅員12mの下部幅員24m、全長3kmの広大な攻築堤を、僅(わず)か12日間で建造した。
足守川(あしもりがわ)から溢れ出た水は、みるみるうちに備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)の周囲に溜まっていき、雨期も重なり湖の中心にお城がある状態となった。
安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)からの援軍も進行はしていたものの、この状況では手も足も出なかった。
ところがである。
圧倒的な軍力と戦略で勝利目前の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に激震が走る。
なんと京都に滞在していた主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が、重鎮家臣の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が謀反(むほん)を起こし討たれ、1582年の「本能寺の変」(ほんのうじのへん)が起こったのある。
豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、備中国(岡山県)にある備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)で悠長(ゆうちょう)に“水攻め”をしている場合ではなくなった。
早速に毛利軍の軍師で僧侶の安国寺恵瓊(あんこくじえけい/毛利)を仲介役として毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と和睦し、これにより備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)の城主だった清水宗治(しみずむねはる/毛利)は合戦責任により水上の舟で切腹した。
清水宗治(しみずむねはる/毛利)の最期(さいご)を見届けた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は『武士の鑑(かがみ)である。』と称賛して、亡骸(なきがら)を手厚く葬むる様に指示したと言う。
そして早急に謀反人(むほんにん)の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を討つべく「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を実施した。
畿内(きない/関西)に戻った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、直ぐ様に明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)を討ち取り、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)の敵討ちを果たす。
この戦国時代の転換期ともなる事変の舞台となった備中国(岡山県)の岡山から北西部に位置する備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)だが、そこから更に北西部に位置する岡山県高梁市(たかはし)に備中松山城(びっちゅうまつやまじょう/高梁)がある。
名前が似ている事から混同するので、行く際は気をつけた方がよい。
更に四国にも讃岐国(香川県)の高松城と伊予国(愛媛県)の松山城もあるので、少し頭の整理が必要だ。
因(ちな)みに備中松山城(びっちゅうまつやまじょう/高梁)から北西部に位置する吹屋(ふきや)は、朱色の顔料となるベンガラの生産をする“ベンガラの町”として有名です。
赤茶色の瓦屋根にクリームベージュの土壁が特徴の古民家が建ち並び、周囲にそびえる山々の新緑との対比で際立ち、とても美しい光景を魅(み)せてくれる。
GEORGE THOROGOOD AND THE DESTROYERS /♪ ROCKING MY LIFE AWAY
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:41:51
◆◇◆其の十二:日本のお城と天守閣◆◇◆
現代の日本列島には、江戸時代の「一国一城令」(いっこくいちじょうれい)や昭和期の戦災を免れ、築城から400年以上を越す天守閣が12棟も存続している。
それらを「現存十二天守」(げんぞんじゅうにてんしゅ)と呼ぶ。
東北側から序列してみた。
(1)
陸奥国(むつ/青森県)の弘前城(ひろさきじょう)は、“髭殿”(ひげどの)と呼ばれた津軽為信(つがるためのぶ)こと大浦為信(おおうらためのぶ/大浦→豊臣→徳川)が考案し、息子の津軽信枚(つがるのぶひら/豊臣→徳川)が築城した。
桜が有名で、近隣にある大浦氏の菩提寺の長勝寺(ちょうしょうじ/曹洞宗)と一緒に見学するのが定番となっている。
元々は陸奥国(むつ/青森県)の一帯を統治していたのは南部氏(なんぶうじ)で、その家臣に過ぎなかった津軽為信(つがるためのぶ)こと大浦為信(おおうらためのぶ/大浦→豊臣→徳川)が謀反(むほん)を起こして陸奥国(むつ/青森県)の西部半分を領国とした。
この時期に対峙したのが南部晴政(なんぶはるまさ/南部)や石川高信(いしかわたかのぶ/南部→石川)で、津軽為信(つがるためのぶ)こと大浦為信(おおうらためのぶ/大浦→豊臣→徳川)は石川高信(いしかわたかのぶ/南部→石川)の息子で南部晴政(なんぶはるまさ/南部)の養子に入った田子信直(たごのぶなお)こと南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)と激戦を繰り広げた。
東北地方の戦国時代は、様々な氏族や武家が入り乱れる乱世(らんせ)を呈(てい)しており、中央政権に負けないくらいの激動を魅(み)せていた。
(2)
信濃国(長野県)の松本城(まつもとじょう)は、国宝に指定されている。
天守閣は水堀に囲まれており、朱色の埋橋(うづみばし)が優美な景色を引き立てている。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の右腕と言われた松平氏からの重鎮家臣で、その後に徳川軍を出奔(しゅっぽん)して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣に就任した石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)と息子の石川康長(いしかわやすなが/徳川→豊臣→徳川)が築城した。
安祥松平氏(あんじょうまつだいらうじ)の時期から仕える酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)と共に徳川家の両翼と言われた石川数正(いしかわかずまさ/徳川→豊臣→徳川)の豊臣政権への鞍替(くらが)えは様々な憶測を呼んだが、江戸幕府による信濃国(長野県)の松本藩の藩主かつ松本城(まつもとじょう)の城主に就任した事で、これら史実を垣間見(かいまみ)る事ができる。
信濃国(長野県)の松本藩の2代目藩主かつ松本城(まつもとじょう)の城主に就任していた石川康長(いしかわやすなが/徳川→豊臣→徳川)の頃、松本城(まつもとじょう)の天守閣が完成した時期に、豊臣政権では“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と呼ばれ肥後藩(熊本県)の初代藩主かつ熊本城の城主に就任していた加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が見学に訪れた。
そして加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が熊本に帰る際に、石川康長(いしかわやすなが/徳川→豊臣→徳川)が名馬を2頭を並べ『気に入った馬をお持ち帰り下さい。』と告げた。
それに対して加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)は『2頭の内の1頭を選ぶのは忍びない。』と言って名馬2頭を頂き帰った逸話が松本城(まつもとじょう)には残る。
豊臣氏と徳川氏に深く関わった石川康長(いしかわやすなが/徳川→豊臣→徳川)と加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)の、松本城(まつもとじょう)に伝えられるこの話も国宝級である。
(3)
越前国(福井県)の丸岡城(まるおかじょう/坂井)は、柴田勝豊(しばたかつとよ/織田)が築城した。
天守閣に入城する直線階段が特徴的である。
柴田勝豊(しばたかつとよ/織田)の母親が“織田四天王”と呼ばれる柴田勝家(しばたかついえ/織田)の姉で、柴田勝家(しばたかついえ/織田)の養子にも入っている。
1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)すると、織田軍の跡目争いで豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が柴田勝家(しばたかついえ/織田)を1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)で討ち破り、丸岡城(まるおかじょう/坂井)も豊臣軍の陣地となった。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後は、越前国(福井県)の北ノ庄藩(福井)の藩主で越前松平氏の祖となる結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)が管轄し、その家臣が城代(じょうだい)となる。
結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と築山殿(つきやまどの/今川→徳川)の侍女(じじょ)の子供で次男だが、認知されない落胤(らくいん)となり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)の養子に出された経緯(けいい)がある。
(4)
尾張国(愛知県)の犬山城(いぬやまじょう)は、国宝に指定されている。
木曽川の岸辺にある山に建つ犬山城(いぬやまじょう)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の叔父の織田信康(おだのぶやす/織田)と息子の織田信清(おだのぶきよ/織田→武田)が城主を務めた。
その織田信清(おだのぶきよ/織田→武田)の妻が、織田信長(おだのぶなが/織田)の姉の犬山殿(いぬやまどの/織田)である。
その後、織田信長(おだのぶなが/織田)の乳兄弟だった池田恒興(いけだつねおき/織田)が城主に就任する。
その頃に、池田恒興(いけだつねおき/織田)と池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)の親子の家臣で、香川氏(かがわうじ)の系統の伊木忠次(いぎただつぐ/織田→豊臣→徳川)が、犬山城(いぬやまじょう)と木曽川を挟んだ対岸に建つ伊木山城(いぎやまじょう/各務原)の城主に就任した。
近年まで武田氏や徳川氏の家臣の系統だった成瀬氏が代々に渡り犬山城(いぬやまじょう)を個人で所有していた。
現在は近隣のホテルに、織田信長(おだのぶなが/織田)の弟の有楽如庵(うらくじょあん)こと織田長益(おだながます/織田→茶人)が築造した茶室で国宝の如庵(じょあん)が移築されている。
VAMPIRE WEEKEND /♪ CLASSICAL
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:42:49
◆◇◆其の十三:日本のお城と天守閣◆◇◆
(5)
近江国(滋賀県)の彦根城(ひこねじょう)は、国宝に指定されている。
この地域は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が統治しており、元は僧侶で三献茶(さんけんちゃ)により重鎮家臣になった石田三成(いしだみつなり/豊臣)が佐和山城(さわやまじょう/彦根)の城主に就任していた。
ところが1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)により、敗軍の将となった石田三成(いしだみつなり/豊臣)が処刑され、その跡目に近江国(滋賀県)へ入ったのが“徳川四天王”で“赤鬼”と恐れられた井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)である。
武田信玄(たけだしんげん/武田)の重鎮家臣で“武田四天王”と呼ばれた山県昌景(やまがたまさかげ/武田)の軍隊を踏襲した“赤備え”(あかぞなえ)の軍隊を率いた井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)は、佐和山城(さわやまじょう/彦根)の近隣に彦根城(ひこねじょう)を築城し始めた。
その息子の井伊直勝(いいなおかつ/徳川)の代で完成した。
江戸時代末期の1860年に起こった「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)にて、江戸幕府の大老で彦根藩の16代目藩主だった井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が襲撃され斬殺されるまで、彦根城(ひこねじょう)は井伊氏が代々に渡り守ってきた。
その後は“赤備え”(あかぞなえ)で武装した“ひこにゃん”が、彦根城(ひこねじょう)を守護している。
(6)
播磨国(はりま/兵庫県)の姫路城(ひめじじょう)は、国宝と世界遺産に指定されている。
「現存天守」(げんぞんてんしゅ)の中でも姫路城(ひめじじょう)は、最も壮大で優美な姿を魅(み)せている。
この姫路城(ひめじじょう)は室町時代から存在しており、室町幕府の幕臣だった赤松入道(あかまつにゅうどう)こと赤松満祐(あかまつみつすけ/室町)が播磨国(はりま/兵庫県)を統治し、1467年〜1477年に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)で東陣に就いた守護大名の赤松政則(あかまつまさのり/室町→東軍)が城主となる。
その後の戦国時代に播磨国(兵庫県)の武将だった黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣に就任し、織田信長(おだのぶなが/織田)の威令(いれい)により「中国侵攻」した際に姫路城(ひめじじょう)に小規模の天守閣を築城した。
その後の1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、東軍で武功を挙げた池田恒興(いけだつねおき/織田)の息子の池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)が、論功行賞により姫路藩の藩主かつ姫路城(ひめじじょう)の城主に就任した。
この頃に大規模な天守閣が築城されている。
そこから幾月(いくとせ)が過ぎ、“徳川四天王”と呼ばれ伊勢国(三重県)の桑名藩の藩主だった本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の息子の本多忠政(ほんだただまさ/徳川)が領地移転の転封(てんぽう)となり、姫路藩の藩主かつ姫路城(ひめじじょう)の城主に就任した。
(7)
出雲国(島根県)の松江城(まつえじょう)は、国宝に指定されている。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、東軍で武功を挙げた堀尾忠氏(ほりおただうじ/豊臣→徳川)が、論功行賞により松江藩の藩主かつ松江城(まつえじょう)の城主に就任した。
堀尾忠氏(ほりおただうじ/豊臣→徳川)の父親は堀尾吉晴(ほりおよしはる/織田→豊臣→徳川)で、尾張国(愛知県)の丹羽(にわ)の武将で、織田伊勢守で岩倉織田氏の系統である織田信安(おだのぶやす/織田→斎藤→僧侶)の家臣だった人物です。
その後に、若狭国(福井県)の小浜藩(おばま)の藩主だった京極忠高(きょうごくただたか/徳川)が、領地移転の転封(てんぽう)により松江藩の藩主かつ松江城(まつえじょう)の城主に就任した。
京極忠高(きょうごくただたか/徳川)の父親は、近江国(滋賀県)の浅井氏の家臣で織田信長(おだのぶなが/織田)にも仕えた京極高次(きょうごくたかつぐ/浅井→織田→豊臣→徳川)で、若狭国(福井県)の小浜藩(おばま)の藩主に就任し、浅井長政(あざいながまさ/浅井)と“小牧山の美女”と呼ばれたお市の方(おいちのかた/織田→浅井)の娘の初(はつ)こと常高院(じょうこういん/浅井→京極)の夫でもある。
京極忠高(きょうごくただたか/徳川)の妻も、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)と江(ごう)こと崇源院(すうげんいん/浅井→徳川)の娘の初姫(はつひめ/豊臣→徳川)を娶(めと)った。
この松江城(まつえじょう)は、1562年に「清洲同盟」(きよすどうめい)を締結した織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の系統で守護されている事が判る。
(8)
備中国(岡山県)の備中松山城(びっちゅうまつやまじょう/高梁)は、鎌倉時代からお城が築かれていた。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の後に、水谷勝隆(みずのやかつたか/徳川)が松山藩の藩主かつ備中松山城(びっちゅうまつやまじょう/高梁)の城主に就任した。
水谷勝隆(みずのやかつたか/徳川)の父親は、常陸国(ひたち/茨城県)の下館藩(しもだて/筑西)の藩主だった水谷勝俊(みずのやかつとし/結城→徳川)で、元は常陸国(ひたち/茨城県)の結城氏および小山氏(おやまうじ)の系統の結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)の家臣だった。
結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)の養子に入ったのが、越前国(福井県)の北ノ庄藩(福井)の藩主で越前松平氏の祖となる結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)です。
結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と築山殿(つきやまどの/今川→徳川)の侍女(じじょ)の子供で次男だが、認知されない落胤(らくいん)となり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)の養子に出された経緯(けいい)がある。
備中松山城(びっちゅうまつやまじょう/高梁)は、南東部に備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)と似た名前のお城もあり混同し易(やす)いので注意が必要です。
備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の“水攻め”で有名です。
BOMBAY BICYCLE CLUB /♪ SHUFFLE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:43:52
◆◇◆其の十四:日本のお城と天守閣◆◇◆
(9)
讃岐国(香川県)の丸亀城(まるかめじょう)は、室町時代の初期に讃岐国(香川県)と阿波国(徳島県)と伊予国(愛媛県)などの守護で室町幕府の管領に就任し、征夷大将軍3代目の足利義満(あしかがよしみつ/室町)の父親代わりだった細川頼之(ほそかわよりゆき/室町)の管轄で築城された。
戦国時代(安土桃山城代)には豊臣政権により、生駒親正(いこまちかまさ/織田→豊臣)が1587年に高松城(たかまつじょう)を築城した際に、丸亀城(まるかめじょう)は支城の扱いとなる。
生駒親正(いこまちかまさ/織田→豊臣)とは、藤原氏北家(ほっけ)の生駒氏(いこまうじ)の系統で、美濃国(岐阜県)の可児(かに)の武将で、織田信長(おだのぶなが/織田)の親族であり家臣だった。
その後は豊臣政権の重鎮家臣に就き、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)で紀伊国(和歌山県)の高野山に出家し、徳川政権では高松藩の初代藩主に就任した。
その息子の生駒一正(いこまかずまさ/織田→豊臣→徳川)が高松藩の藩主に就任し、息子の生駒正俊(いこままさとし/徳川)が藩主を引継いだ時期に、1615年に江戸幕府による「一国一城令」(いっこくいちじょうれい)で丸亀城(まるかめじょう)は破却(はきゃく)の威令(いれい)が下った。
ただ生駒正俊(いこままさとし/徳川)は、小規模な天守閣を森林で覆い隠して守ったと言う。
(10)
伊予国(愛媛県)の伊予松山城(いよまつやまじょう)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣で“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と呼ばれた加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)が築城した。
加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)の父親の加藤教明(かとうのりあき/松平→足利→豊臣)は、三河国(愛知県)の松平氏(徳川氏)の家臣である。
この頃に松山の地名は、松山藩の藩主に就任した加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)が命名している。
その後に加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)は陸奥国(むつ/福島県)の会津藩の藩主に領地移転の転封(てんぽう)になり、その後任に蒲生氏郷(がもううじさと/織田)の孫の蒲生忠知(がもうただとも/豊臣→ 徳川)が、出羽国(でわ/山形県)の上山藩から移封(いほう)してきた。
松山藩の藩主の蒲生忠知(がもうただとも/豊臣→ 徳川)が急死した為に、伊予国(愛媛県)の大洲藩(おおず)の藩主だった加藤泰興(かとうやすおき/徳川)が城代(じょうだい)に就任した。
加藤泰興(かとうやすおき/徳川)は槍術の名手で加藤家伝流槍術の開祖となった人物で、父親の加藤貞泰(かとうさだやす/豊臣→徳川)は、大洲藩(おおず)の藩主かつ大洲城(おおずじょう)の城主に就任している。
加藤貞泰(かとうさだやす/豊臣→徳川)の父親の加藤光泰(かとうみつやす/斎藤→豊臣)は、美濃国(岐阜県)の武将で斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)の家臣だったが、その後は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣となるも、石田三成(いしだみつなり/豊臣)により毒殺される。
(11)
伊予国(愛媛県)の宇和島城(うわじまじょう)は、平安時代の940年に起こった「藤原純友の乱」(ふじわらすみとものらん)にて、平安京の朝廷が謀反(むほん)を起こした藤原純友(ふじわらすみとも/公家→海賊)に対して、鎮圧する為に築城したのが起源である。
藤原純友(ふじわらすみとも/公家→海賊)とは、藤原房前(ふじわらふささき/公家)の藤原氏北家(ほっけ)の系統で藤原良範(ふじわらよしのり/公家)の息子だが、伊予国(愛媛県)の国司(こくし)に任命された後は不遇に反発して、瀬戸内海の日振島(ひぶりじま/宇和島)を拠点とした海賊となった人物である。
そこから幾月(いくとせ)が過ぎ、戦国時代(安土桃山時代)の豊臣政権に“三大築城名手”と呼ばれた近江国(滋賀県)の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)が、現行の天守閣を含めた宇和島城(うわじまじょう)を整備した。
その後に陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の長男で宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)の屋敷で人質となった経験がある伊達秀宗(だてひでむね/伊達→豊臣→徳川)が宇和島城(うわじまじょう)の城主に就任する。
(12)
土佐国(高知県)の高知城(こうちじょう)は、室町時代から山城(やまじろ)が築かれていたが、詳細は不明と言う。
戦国時代には土佐国(高知県)の武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)が統治していた。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の息子で“大坂三人衆”(おおさかさんにんしゅう)と呼ばれる長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/長宗我部→豊臣)が西軍に就いた為に領地没収の改易(かいえき)となる。
その跡目に遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)の城主で、妻(内助の功)が見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)の山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)が入城した。
尾張国(愛知県)の織田伊勢守で岩倉織田氏の家臣の系統だった山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は土佐藩の藩主に就任して、お城を高知山城(こうちやまじょう)と命名したが、いつしか高知城(こうちじょう)に変更された。
山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の異母兄弟だった山内康豊(やまうちやすとよ/織田→山内)の息子の山内忠義(やまうちただよし/徳川)を、叔父の山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の養子に入れて土佐藩の藩主を引継いだ。
その後の土佐藩は江戸時代の末期まで、一橋派で15代目藩主の山内容堂(やまうちようどう)こと山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)、16代目藩主は山内豊信(やまうちとよしげ/江戸)の養子に入った山内豊範(やまうちとよのり/土佐)が引継ぎ、明治維新を迎えて江戸幕府は消滅した。
BLOSSOMS /♪ THE KEEPER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:45:15
◆◇◆其の十五:日本のお城と天守閣◆◇◆
此処(ここ)までお城と天守閣を学習してきました。
こうなると気持ちは必然的に、かつては立派な天守閣が存在していたが、現在では諸事情により不在となっているお城に目が向きます。
そこで天守閣または本丸御殿が不在のお城に、新たに再建してもらいたいお城を東北側から序列してみた。
この威厳ある天守閣が建造され始めたのは、戦国時代(安土桃山時代)の1585年頃から江戸時代の1607年までと言われています。
要は戦国の三英傑(さんえいけつ)と呼ばれた織田信長(おだのぶなが/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、その重鎮家臣が大きく関わっている。
(1)
蝦夷国(えぞ/北海道)の松前城(まつまえじょう/福山城)は、北海道の最南端に位置し、江戸時代に蝦夷国(えぞ/北海道)の統治および海外防衛拠点を目的に松前藩が築城した。
蝦夷国(えぞ/北海道)の蠣崎氏(かきざきうじ)の家系で松前藩の藩主に就任していた松前慶広(まつまえよしひろ/秋田→豊臣→徳川)により、貿易窓口や行政役所の機能を持った建物として建設された。
現在では松前城(まつまえじょう/福山城)に天守閣は復元されているが、最北の地でもある北海道のお城は珍しく、御殿や櫓(やぐら)など、その他の建物も再築して欲しい。
(2)
陸奥国(むつ/宮城県)の仙台城(青葉城)は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の江戸幕府に対しての配慮により天守閣を築城しなかった。
ただ、その代わりに千畳敷(せんじょうじき)の大広間を構える本丸御殿など、立派な建物が青葉山に配置されていたと言う。
因(ちな)みに、千畳敷(せんじょうじき)の広さは畳千枚で1620㎡の490坪となり、駐車場が広めのコンビニエンスくらいの大きさである。
東北地方の一大拠点でもある仙台に、世界に誇れるお城は絶対に必要である。
仙台駅前のさくら野百貨店跡地の再開発よりも、仙台城(青葉城)の復元を先行して欲しい。
(3)
出羽国(でわ/秋田県)の久保田城(くぼたじょう/秋田)は、佐竹義宣(さたけよしのぶ/豊臣→徳川)の江戸幕府に対しての配慮により天守閣を築城しなかった。
その代わりの本丸御殿が建設された。
佐竹氏とは常陸国(ひたち/茨城県)の太田城(おおたじょう/常陸)の城主を務める武家だったが、1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、佐竹義宣(さたけよしのぶ/豊臣→徳川)が参戦せず様子見した事で、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から領地移転の転封(てんぽう)を言い渡された。
こうして右京大夫(うきょうのだいぶ)に任じられた佐竹義宣(さたけよしのぶ/豊臣→徳川)は久保田藩の藩主に就任した。
こんな歴史的な物語がある久保田城(くぼたじょう/秋田)を復元しない方が、秋田県かつ日本の為にならない。
因(ちな)みに日本海側に建つ秋田城は、奈良時代に築城された平城京の朝廷による出先機関と言われる。
此方(こちら)はこちらで非常に価値が高く、秋田城と久保田城(くぼたじょう/秋田)のセットで再建するのも良い。
(4)
出羽国(でわ/山形県)の山形城には、城主だった最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の意向により天守閣は建築されなかった。
その代わり本丸御殿が建設された。
戦国時代(安土桃山時代)の山形城は、かなり広大な敷地を有しており、東北地方で一番の広さを誇っていた。
そんな山形城にも悲しい歴史があり、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の14歳だった愛娘(まなむすめ)の駒姫(こまひめ/最上→豊臣)が、豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)に気に入られ強要され側室に入ったばかりに、1595年の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の謀略(ぼうりゃく)による甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)および一族の処刑を言い渡し、まだ側室に入っていなかった駒姫(こまひめ/最上→豊臣)までも京都の三条河原で斬首された。
この悲しみから駒姫(こまひめ/最上→豊臣)の母親、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妻も、数日後に自害している。
これら悲劇からも駒姫(こまひめ/最上→豊臣)の供養として、本丸御殿を含めた山形城の再建する必要性が日本国家にはある。
(5)
出羽国(でわ/山形県)の米沢城(松岬城/まつがさきじょう)は、鎌倉時代に鎌倉幕府の出先機関が設けられた事に始まる。
その後の戦国時代には陸奥国(むつ/福島県)を領域としていた伊達氏が侵攻して米沢城(松岬城/まつがさきじょう)を築城するが、時代背景もあり天守閣は建設されていない。
この米沢城(松岬城/まつがさきじょう)を拠点にした伊達輝宗(だててるむね/伊達)と義姫(よしひめ/最上→伊達)の息子の“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が、このお城で誕生した。
因(ちな)みに、義姫(よしひめ/最上→伊達)は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹で、東北地方で伊達軍と最上軍の合戦が起こった際に、輿(こし)に乗ってお互いの軍隊を鎮圧し停戦させた逸話が残る。
豊臣政権の時期には越後国(新潟県)を拠点としていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の重鎮家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が米沢城(松岬城/まつがさきじょう)の城主に就任した。
ただ、“北の関ヶ原の戦”と呼ばれる1600年に起こった「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)にて、西軍の上杉軍が東軍の最上伊達軍に敗北し、美濃国(岐阜県)の本戦でもある「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)でも石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の東軍に敗北した。
これにより陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)を拠点としていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、領地削減の減封(げんぽう)および領地移転の転封(てんぽう)となり羽前(うぜん/山形県)の米沢城(松岬城/まつがさきじょう)に入城した。
これら日本の歴史の大きな転換点を担った影響は大きく、本丸御殿を含めた米沢城(松岬城/まつがさきじょう)の再建する必要性が日本国家にはある。
(6)
越中国(富山県)の高岡城は、加賀国(石川県)の金沢城を拠点としていた加賀藩の藩主だった前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)により築城された。
高岡城には天守閣が無かった説と、本丸の櫓(やぐら)が天守閣の役割を果たしていた説がある。
どちらにせよ、その中心となる立派な本丸御殿は存在していた。
何故(なぜ)に越中国(富山県)の高岡城が貴重なのかは、城主となる前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)の出生にある。
父親は織田信長(おだのぶなが/織田)の舎弟(しゃてい)で“ツッパリの利家”と呼ばれた前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と、母親は養子に出す程の“子沢山”(こだくさん)だったまつ(芳春院/織田→豊臣)である。
戦国時代で最もインパクトが強いヤンキー夫婦の子供とあらば、その土地の領民から崇拝される。
そんな前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)の墓陵が高岡城の近くにあり、870mの直線道路が続く八丁道(はっちょうみち)の突き当たりに、戦国大名では最大規模の3万3000㎡(1万坪)の敷地面積を有(ゆう)している。
これらの事から判る通り、高岡城の再建は必須ですね。
(7)
加賀国(石川県)の金沢城は、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が兄弟分の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から任された領国で、江戸時代には2代目藩主の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)と母親のまつ(芳春院/織田→豊臣)の功績により“加賀百万石”が達成された。
そんな金沢城には、熊本城に似た立派な天守閣がありましたが、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の直後の1602年に落雷で焼失し、その後は再建されませんでした。
その代わりに隣接して6つの優れた景観を持つ兼六園(けんろくえん)が造園されています。
6つを兼ね備えている庭園とは、相反する要素の、宏大(こうだい)と幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)と蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)と眺望(ちょうぼう)の事です。
命名したのは陸奥国(むつ/福島県)の白河藩の藩主で、江戸幕府では老中を務め“寛政の三忠臣”(かんせいのさんちゅうしん)となり「寛政の改革」(かんせいのかいかく)を実施した、“暴れん坊将軍”と呼ばれる征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)の孫の松平定信(まつだいらさだのぶ/田安→江戸)です。
このキャラクターの濃い面子(めんつ)から判る通り、金沢城の天守閣の再建は日本国民の義務です。
BRET MICHAELS FEAT.MILEY CYRUS /♪ NOTHING TO LOSE
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:46:16
◆◇◆其の十六:日本のお城と天守閣◆◇◆
(8)
常陸国(ひたち/茨城県)の水戸城は、徳川御三家(とくがわごさんけ)の水戸徳川家が有した35万石の本拠地である。
徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の息子の徳川頼房(とくがわよりふさ/徳川→水戸)が水戸藩の藩主となり、その息子が2代目藩主に就任した“水戸黄門”でお馴染みの徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)である。
“水戸黄門”の助さんこと佐々木助三郎(ささきすけさぶろう)は水戸藩の家臣だった佐々宗淳(さっさむねきよ/水戸)で、格さんこと渥美格之進(あつみかくのしん)は儒学者の安積澹泊(あさかたんぱく/水戸)と、実在した人物がモデルとなっているが、実際の2代目藩主の徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)は水戸城に引き篭(こ)もり、外遊する事はほとんど無かったと言う。
そんな徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)が暮らした水戸城には天守閣が無かったが、立派な二の丸御殿が設けられていた。
そんな水戸城だが、江戸時代末期には水戸藩の9代目藩主で一橋派の徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)が“尊王攘夷”(そんのうじょうい)を掲げ江戸幕府と対立し、その時流により明治維新が起こり江戸幕府は消滅する。
皮肉にも最後の徳川将軍となる征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)は、徳川斉昭(とくがわなりあき/徳川)の息子である。
水戸城の周辺には水戸藩の教育施設だった弘道館(こうどうかん)や日本庭園の偕楽園(かいらくえん)が設けられている。
残るは水戸城が再建されれば『これにて一件落着。』です。
(9)
下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮城は、JRの宇都宮駅と東武宇都宮駅に挟まれ市街地となり、現在では史跡公園の程度でほとんどが残存していません。
ただ、この宇都宮の歴史は古く、奥州藤原氏の先祖で“天下一の弓取り名人”と呼ばれた俵藤太(たわらとうた)こと藤原秀郷(ふじわらひでさと/公家)の軍隊が、平安時代に蝦夷討伐(えみしとうばつ)の為に侵攻した際に立ち寄っている。
その頃に宇都宮城の原型が設けられ、この地で藤原氏の子孫が宇都宮氏を名乗る様になった。
その後の「源平合戦」(げんぺいがっせん)では、讃岐国(香川県)にて1185年に起こった「屋島の戦」(やしまのたたかい)で、平氏軍の挑発による“扇の的”を見事に射止めたのが下野国(しもつけ/栃木県)は宇都宮の出身の那須与一(なすよいち/源氏)です。
那須与一(なすよいち/源氏)は、藤原氏北家(ほっけ)の須藤氏(すどううじ)の那須氏(なすうじ)の系統で、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の重鎮家臣に就いていた。
そこから幾年(いくとせ)が過ぎた江戸時代には、江戸幕府の老中で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の右腕と呼ばれた本多正信(ほんだまさのぶ/徳川)の息子の本多正純(ほんだまさずみ/徳川)が、駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)で大御所と呼ばれた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が1616年に死去した事により世話役の役目を終えて、1619年に宇都宮藩の藩主に就任して宇都宮城へ移住してきた。
しかし、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が東照大権現(とうしょうだいごんげん)が祀られる下野国(しもつけ/栃木県)の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)を参拝するにあたり行幸した際に、その手前の宇都宮城で宿泊して、本多正純(ほんだまさずみ/徳川)がおもてなしする予定だった。
ところが何者かの謀略(ぼうりゃく)と讒言(ざんげん)により、宇都宮城の屋敷の天井に殺傷する仕掛けがあるとして、本多正純(ほんだまさずみ/徳川)は陥(おとしい)れられ、宇都宮藩の領地没収の改易(かいえき)となる。
これを1622年に起こった「宇都宮城釣天井事件」と呼ぶ。
この様に江戸時代の一大事件の舞台となった宇都宮城の再建が為(な)されないなど、信じ難い愚行(ぐこう)である。
(10)
武蔵国(埼玉県)の河越城(かわごえじょう/川越)は、室町時代に築城された名城です。
京都の室町幕府の出先機関となる相模国(神奈川県)の鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)に就任していた足利氏と、その補佐役の関東管領(かんとうかんれい)に就任していた上杉氏と間で対立が起こり、それが1455年〜1483年までの「享徳の乱」(きょうとくのらん)に発展した。
この時期に山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と関東管領(かんとうかんれい)の役職を二分していたのが扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)です。
その扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の当主だった上杉持朝(うえすぎもちとも/扇谷)は、この戦乱による対策で家宰(かさい)に就任していた太田道真(おおたどうしん/扇谷)と息子の太田道灌(おおたどうかん/扇谷)に命じて河越城(かわごえじょう/川越)を築城させた。
その後の室町時代末期の1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)にて関東地方の勢力を巡り、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)と古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)の8万人余りの上杉足利軍と、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の城主に就任していた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の1万人余りの伊勢北条軍が交戦した。
この武蔵国(埼玉県)の河越城(かわごえじょう/川越)の一帯で合戦が繰り広げられ、大群勢の上杉足利軍が小勢の伊勢北条軍に討ち破られ敗北した事から「日本三大奇襲戦」と呼ばれる。
この様に室町時代(戦国時代)の一大事件の舞台となった河越城(かわごえじょう/川越)の天守閣の再建が為(な)されないなど、信じ難い愚行(ぐこう)である。
江戸時代に入ると川越藩の藩主は、譜代(ふだい)大名の酒井氏や親藩(しんぱん)大名の松平氏が務めた。
その後は江戸幕府では老中に就任し、藤原氏北家(ほっけ)の宇都宮氏の系統だった外様(とざま)大名の秋元凉朝(あきもとすけとも/江戸)が務めた。
ところが“暴れん坊将軍”と呼ばれた征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)から寵愛(ちょうあい)を受け、江戸幕府では老中に就任し、“小便公方”(しょうべんくぼう)と呼ばれた征夷大将軍9代目で徳川家重(とくがわいえしげ/徳川)と征夷大将軍10代目の徳川家治(とくがわいえはる/徳川)の側用人に抜擢(ばってき)され、遠江国(とおとうみ/静岡県)の相良藩(さがら/牧之原)の藩主を務めた田沼意次(たぬまおきつぐ/江戸)との確執で、秋元凉朝(あきもとすけとも/江戸)は出羽国(でわ/山形県)の山形藩の藩主に領地移転の転封(てんぽう)となる。
秋元凉朝(あきもとすけとも/江戸)の息子の秋元永朝(あきもとつねとも/江戸)も山形藩の藩主に就任した。
そんな川越藩と河越城(かわごえじょう/川越)だが、近隣には“小江戸”(こえど)と呼ばれる川越街道(かわごえかいどう)が通っており、昔風情が残る町並みが観光客に人気が高い。
CLAYHILL /♪ GRASSCUTTER
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:47:20
◆◇◆其の十七:日本のお城と天守閣◆◇◆
(11)
武蔵国(東京都)の江戸城は、日本国民なら誰もが知る明治期から天皇陛下の御所がある禁中(きんちゅう/皇居)である。
そんな日本の象徴かつ中心地でもある江戸城には天守閣が無い。
これを現代風に例えるなら、原寸大のガンダムをお台場に設置したが、何故(なぜ)か顔だけが無いのと同じ事である。
100人中100人が、それを観て落胆してガッカリするだろう。
そんな状況の江戸城は、何の対策もせずに360年余り放置している。
これを現代風に例えるなら、目の前で家屋が火事で燃えているのに、缶コーヒーを飲みながらタバコを吸って休憩をしている消防士と同じ様なものだ。
100人中100人が、それを観て憤懣(ふんまん)し激怒するだろう。
そもそも江戸城とは、徳川氏が築城したお城ではない。
室町時代の1457年に武蔵国(埼玉県)の河越城(かわごえじょう/川越)と同様に、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)に就任していた太田道灌(おおたどうかん/扇谷)が築城した。
その後の戦国時代に、駿河国(静岡県)の武将で伊豆国(静岡県)と相模国(神奈川県)の領主となった北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)により関東地方の侵攻を開始し、息子で伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の城主に就任して、武蔵国(東京都)の江戸城の一帯とした領域を掌握した。
ただ、織田信長(おだのぶなが/織田)亡き後の豊臣政権を樹立した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)により、1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて小田原評定(おだわらひょうじょう)の末に伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、強靭で大群勢の豊臣軍に降伏し恭順(きょうじゅん)する意を表した。
その頃に三河国(愛知県)や遠江国(とおとうみ/静岡県)の領国を統治をしていた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は関東地方の制定を威令(いれい)し領地移転の転封(てんぽう)としたのが江戸城の始まりである。
当時の武蔵国(東京都)の東部は海岸と湿地帯で不毛の地と呼ばれ、江戸城の築城にあたるも井戸からは海水しか湧き出ず、西部の井の頭(三鷹)の池から水道を敷設した。
そして江戸時代に入り江戸城で江戸幕府が開設されると、征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の天守閣が建設された。
続いて征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の天守閣が建設された。
徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)はこの江戸城で恐妻の江(ごう)こと崇源院(すうげんいん/浅井→徳川)との間に、千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)や初姫(はつひめ/豊臣→徳川)、それに徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)が誕生した。
千姫(せんひめ/徳川→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の息子と言われる豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の妻となるも、1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」により夫の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が死去した為に、その後に出逢った“徳川四天王”と呼ばれた本多忠勝(ほんだただかつ/徳川)の孫の本多忠刻(ほんだただとき/徳川)に一目惚れして再婚する。
初姫(はつひめ/豊臣→徳川)は、若狭国(福井県)の小浜藩(おばま)の藩主や出雲国(島根県)の松江藩の藩主に就任した京極忠高(きょうごくただたか/徳川)の妻となる。
そして征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)の1638年の時期に、最も豪華絢爛な天守閣が建設された。
しかし、「振袖火事」と呼ばれる1657年に起こった「明暦の大火」(めいれきのたいか)にて、江戸城と江戸城下町の大半が火災で焼失し、その時に天守閣も被害に遭い、その後は江戸幕府の資金難や不要論から再建されてない。
ただ、日本の首都、そして経済大国の東京の中心地に、最も日本を感じさせるお城の天守閣が不在なのは如何(いかが)なものか。
そこで天守閣の焼失から360年余りの時を経て、再建すべきである。
当然に再建には多額の建設資金を必要とするが、そこは前例に倣(なら)って“天下普請”(てんかぶしん)で実施する。
東京都千代田区と中央区と港区と渋谷区と新宿区に事業所を構える資本金1億円超の企業に、1口1000万円で建設協力金を徴収すれば話は早い。
もし、江戸城の天守閣再建の協力を拒(こば)めば、それは神州(しんしゅう)と呼ばれる日本への冒涜(ぼうとく)と見做(みな)し、国賊として国外追放すればよい。
(12)
駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)は、1603年に江戸幕府を開設した征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が、将軍職を息子で征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)に譲り、大御所として江戸幕府の政権を掌握したお城である。
ただ、それ以前にも駿府城(すんぷじょう/静岡)の天守閣は存在していた。
それは豊臣政権の時に関東地方を統治していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が建設したもので、その後の江戸幕府の天守閣は移転かつ再築されたものだ。
その前後時期の駿府城(すんぷじょう/静岡)は、内藤信成(ないとうのぶなり/徳川)が城主に就任していた。
内藤信成(ないとうのぶなり/徳川)の父親は、松平広忠(まつだいらひろただ/松平)と言われ、要は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の父親で、2人は異母兄弟である。
内藤氏とは、“徳川十六神将”(とくがわじゅうろくしんしょう)と呼ばれる内藤正成(ないとうまさなり/徳川)や、父親の内藤忠郷(ないとうたださと/徳川)など三河国(愛知県)の安祥松平氏(あんじょうまつだいらうじ)の時期から仕える家臣である。
内藤信成(ないとうのぶなり/徳川)は、内藤清長(ないとうきよなが/松平→徳川)の養子に入り、その先代が内藤義清(ないとうよしきよ/松平→徳川)、義兄弟が内藤家長(ないとういえなが/徳川)となる。
そこから幾月(いくとせ)が過ぎ内藤氏は、内藤正成(ないとうまさなり/徳川)の孫の内藤正重(ないとうまさしげ/徳川)は征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の侍従(じじゅう)に就き、征夷大将軍4代目の徳川家綱(とくがわいえつな/徳川)などに仕えた越後国(新潟県)の村上藩の藩主に就任した内藤弌信(ないとうかずのぶ/徳川)なども輩出している。
此処(ここ)まで説明しなくても駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)をはじめ徳川家にとって日本で一番に重要な地域である事は、世界的な常識である。
これを解り易(やす)く例えるなら、イタリアのローマに在するカトリック(キリスト教)の総本山のバチカン市国みたいなものだ。
これらを理解すれば、駿府城(すんぷじょう/静岡)の天守閣の必要性が判る。
しかも1棟ではない!
徳川政権の天守閣と豊臣政権の天守閣の2棟を再建してもらう。
日本初のW(ダブル)天守閣である。
再建する場所は、何も遺跡が眠る跡地である必要はなく、近隣の空き地で良い。
これで久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)の墓陵にて、東照大権現(とうしょうだいごんげん)こと神君(しんくん/徳川家康)も安心して眠る事ができる。
1(いち)富士、2(に)天守、3(さん)みかん。
BETTER THAN EZRA /♪ DESPERATELY WANTING
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251230 - ラジオの友 URL
2025/12/30 (Tue) 17:48:20
◆◇◆其の十八:日本のお城と天守閣◆◇◆
(13)
越前国(福井県)の福井城は、少し解釈が難しく、すぐ南側にある北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井)と一帯とした城郭として視るか、それとも別々のお城として区別するかで判断が分かれる。
元々は戦国時代(安土桃山時代)に、織田信長(おだのぶなが/織田)の重鎮家臣で“織田四天王”かつ“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)が城主となり、南側の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井)を築城した。
しかし、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)し、その後の織田軍の跡目争いで1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と交戦した柴田勝家(しばたかついえ/織田)は敗北し、妻だった“小牧山の美女”と呼ばれたお市の方(おいちのかた/織田→浅井)と共に生涯の幕を閉じ、北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井)は炎上して焼失した。
その時に助命されたのが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/豊臣)の側室となる茶々(ちゃちゃ)こと淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)、京極高次(きょうごくたかつぐ/浅井→織田→豊臣→徳川)の妻となる初(はつ)こと常高院(じょうこういん/浅井→京極)、征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)の妻となる江(ごう)こと崇源院(すうげんいん/浅井→徳川)である。
そして時は流れた江戸時代に、結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)が越前国(福井県)の北ノ庄藩(福井)の藩主に就任して越前松平氏の祖となる。
結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)とは、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と築山殿(つきやまどの/今川→徳川)の侍女(じじょ)の子供で実質的には次男だが、落胤(らくいん)により認知されず、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と結城晴朝(ゆうきはるとも/結城→豊臣→徳川)へ養子に出され数奇な運命を辿(たど)る。
更に側室の父親が、合戦は連戦連敗し何度も居城だった常陸国(ひたち/茨城県)の小田城(おだじょう/筑波)を落城させ、“戦国最弱の武将”や“弱い方のオダ”や“常陸の不死鳥”と異名を持つ小田氏治(おだうじはる/小田→徳川)である。
此処(ここ)からの歴史からでも判る通り、北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井)または福井城の天守閣は必要である。
(14)
近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)は、天下統一を目前にした織田信長(おだのぶなが/織田)が1576年に“天下布武”(てんかふぶ)の総仕上げとして築城した。
しかし、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が死去した事により、遺族となった織田氏の居城となるものの、1585年に廃城となった。
時は戦国時代(安土桃山時代)から江戸時代に移ろい、その後も安土城(あづちじょう/近江八幡)の再建の話は持ち上がる事はなかった。
ところがである。
バブル崩壊直後の1993年に、安土城(あづちじょう/近江八幡)があった滋賀県から遠く離れた三重県の伊勢市で再建される事になる。
その場所は天照大御神(アマテラス)が祀られる伊勢神宮のある伊勢市と、真珠の採れる鳥羽市の中間に位置する“伊勢戦国時代村”の施設として建設された。
しかし、リゾート法の加護によるテーマパークと開園時期を診れば解る通り、直ぐに経営破綻して運営事業者が何度も交代した。
それでも現在は廃園する事なく、安土城(あづちじょう/近江八幡)も存在していると言う。
ただ、これはこれとして、やはり安土城(あづちじょう/近江八幡)は琵琶湖を望む山城(やまじろ)で再建してもらいたい。
安土桃山時代の絵師で“唐獅子図”や“洛中洛外図”を描いた狩野永徳(かのうえいとく/絵師)の作品も復元してもらいたいし。
(15)
山城国(京都府)の二条城(にじょうじょう/京都)は、征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)による1867年の「大政奉還」(たいせいほうかん)で舞台になったお城です。
これで1603年に征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が江戸幕府を開設してから、江戸時代は264年間の幕を閉じる。
1601年に築城された二条城(にじょうじょう/京都)は戦国時代のお城とは違い、権威を象徴する平城(ひらじろ)の為に、元々は天守閣も無いと思っていたが、実は1750年に落雷で焼失しただけである。
本丸御殿や二の丸御殿が目立つ為に、天守閣は必要ないと言えばそうだが、ただ、以前に存在した天守閣は再建して欲しい。
天守閣の再建資金も、世界中から京都に集まるインバウンド(訪日観光客)から1人1000円を徴収すれば簡単な話である。
武士や公家、それに十二単衣(じゅうにひとえ)の格好をした募金活動隊を京都市中に配備すれば、直ぐに数十億円は集まるだろう。
(16)
山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)は、詳細な資料が残っていない不思議なお城である。
城主も豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣政権と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の徳川政権では別々のお城だったと言う。
しかも豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の時期には、大地震により伏見城(ふしみじょう/京都)は倒壊し、別の場所に再建していると言い、桃山丘陵(ももやまきゅうりょう)にそれだけの敷地があったのかも不思議である。
1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が伏見城(ふしみじょう/京都)で死去すると、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の江戸時代が到来する。
1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の前哨戦(ぜんしょうせん)で、伏見城(ふしみじょう/京都)の城代に就任した鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)が率いる東軍が守護するが、島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)が率いる西軍の猛攻撃に遭い陥落した「伏見城の戦」(ふしみじょうのたたかい)の舞台となる。
この時に伏見城(ふしみじょう/京都)の城内で、鳥居元忠(とりいもとただ/徳川)をはじめ徳川軍の武士が切腹して自決した際に、飛び散った血が付着した床板や畳は、血天井(ちてんじょう)として他の寺院などの建材として活用された。
焼失した伏見城(ふしみじょう/京都)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)により再建され、尾張国(愛知県)から母親の於大の方(おだいのかた/水野→松平→水野)を呼び寄せて住まわせた。
現在は桃山丘陵(ももやまきゅうりょう)の頂上に伏見城(ふしみじょう/京都)の天守閣がそびえ建っているが、あれは近鉄グループが運営していた“伏見桃山キャッスルランド”の施設で、大阪城と同類の鉄筋コンクリート造(RC造)の模擬(もぎ)天守閣である。
その為に意匠(デザイン)や外観も、豊臣政権や徳川政権の伏見城(ふしみじょう/京都)とは異なっている。
しかし、やはり目に観えて天守閣が存在している価値は高く、耐震不足から立入禁止となっている伏見城(ふしみじょう/京都)の天守閣を再建してもらいたい。
天守閣の再建資金も、世界中から伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)に集まるインバウンド(訪日観光客)から1人1000円を徴収すれば簡単な話である。
武士や公家、それに十二単衣(じゅうにひとえ)の格好をした募金活動隊を京都市伏見区や京都府宇治市に配備すれば、直ぐに数十億円は集まるだろう。
伏見城(ふしみじょう/京都)の天守閣が再建されれば、伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)の主祭神として祀られる女神で稲荷神(いなりしん)の宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)も大喜びだろう。
CHOCOLATE GENIUS /♪ JULIA
◆ラジオの友◆
今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:11:37
◆◇◆大人のジャズはよろしゅうおすぅなぁ〜◆◇◆
CHRISTIAN WIGGS AND HIS ORCHESTRA /♪ IT'S THE MOST WONDERFUL TIME OF THE YEAR
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:12:53
APRIL VARNER /♪ Sleigh Ride
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:13:49
WARREN WOLF /♪ WINTER WONDERLAND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:14:45
JEREMY PELT /♪ WINTER WONDERLAND
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:16:55
CAELAN CARDELLO /♪ STEPPIN' UP
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:19:07
DUKE ELLINGTO/♪ East St. Louis Toodle-Oo
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:20:14
PETTER ELDH FEAT. SAVANNAH HARRIS /♪ LORIMER AXES
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:21:08
Carmen Bradford & Compass Jazz Orchestra /♪ I DIDN'T KNOW WHAT TIME IT WAS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:22:04
PAUL MARINARO /♪ DO NOTHING TILL YOU HERE FROM ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:23:00
CARMEN McRAE /♪ EVERYTHING A GOOD MAN NEEDS
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:24:50
OSCAR MOORE TRIO /♪ WILLOW WEEP FOR ME
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:26:25
NAT ADDERLEY JR. /♪ TOOK SO LONG
◆ラジオの友◆
Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20251229 - ラジオの友 URL
2025/12/29 (Mon) 16:27:19
TOWER OF POWER /♪ BELOW US,ALL THE CITY LIGHTS
◆ラジオの友◆
◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/11 (Thu) 09:50:53
君が歌えば、僕が踊る時、新しい音楽が生まれる。
インターネットの代わりにラジオを、テレビの代わりにライブハウスを、新しい音楽をリードする。
老いたる者には、過ぎし日の郷愁(きょうしゅう)を。
若人(わこうど)には、古(いにしえ)の幻(まぼろし)を。
今日も始まりました大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージックの時間です。
素敵な音楽をあなたにお届けするミュージックオアシス。
では、大阪で流行っている最新の音楽をお届けします。
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/11 (Thu) 09:51:47
「♪“いしん”をかけた大阪キャバクラ天国!!」
“いしん”をかけて性務活動する政治家に取って、大阪ミナミのキャバクラや風俗店は庭みたいなもんやぁ!
横に付いた新人のキャバ嬢には、議員バッチと札束をチラつかせ、スカートの中に手を入れてグッショリさせスタンバイOKやぁ!
その後、店のトイレに連行して、わしぃのブツ(肉棒)を頬張(ほおば)らせ、トドメはバックから一撃やでぇ!
ここに居るホステス全員は、政治家の有難い聖液入りのシャンパンを飲み干せぇ〜
おいマネージャー(黒服)、この会計は政務活動費で計上するから、書上(かきあげ/多め)した領収書を発行しろぉ!!
“いしん”をかけたわしぃらの仲間は、皆んな同じ様な事をやってんでぇ〜
“いしん”をかけたわしゃらに取って、女は男の性欲を満たす道具に過ぎんのやぁ〜
例え大臣であろうと、女やったらわしぃらのこの太くて長いブツ(肉棒)を、“いしん”をかけてぶち込んで手懐(てなず)けるでぇ〜!
“いしん”をかけた大阪キャバクラ天国!!
いしん、いしん、いしんをかけて、性務、性務、性務な活動!
“聖液”をかけた大阪キャバクラ天国!!
聖液、聖液、聖液をかけて、交尾、交尾、交尾な行為!
わしぃら地球上で“いしん”をかけて生きている卑俗(ひぞく)な生物は、何をやっても許されるんやぁ〜
“いしん”をかけて、わしぃらの聖液を飲み干し、地獄へ堕ちろぉ〜 ブハッハッハッハッ〜
わしぃら地球上で“いしん”をかけて生きている卑俗(ひぞく)な生物は、何をやっても許されるんやぁ〜
“いしん”をかけて、わしぃらの聖液を飲み干し、地獄へ堕ちろぉ〜 ブハッハッハッハッ〜
“いしん”をかけたわしぃら性治家の“せい”は、性行為の“性”ですねぇん!
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/12 (Fri) 00:50:29
「♪お客様は神様じゃない/銀座の寿司屋編」
最近、カスハラ(カスタマーハラスメント)なんて言葉が流行っているが、ウチの寿司屋には無関係だ。
ウチのやり方に文句があるなら帰ってもらって、二度と来なくて結構だ!
この伝統ある銀座の寿司屋は、味と腕前と心構えに自信がある。
おい政(まさ)、そちらのカウンターのお客さんのオーダーを握ってくれ。
うちの寿司屋は鮮度に拘(こだ)り、新鮮な魚しか扱わないのが信条でしてね。
おい政(まさ)、そう言えばさっきクソしにいって、出てきた後に手を洗ったか?
なに、洗ってねえだと、今度から気をつけろよ!
おい政(まさ)、此処(ここ)に置いてあった鮮度が落ちた腐りかけの鯛はどうした?
なに、その鯛を握ってお客さんに出したって?
出しちまったものは仕方ない、今度から気をつけろよ!
理不尽で高圧的な態度のお客は、客じゃねえ!
お客様は神様じゃない、文句があるなら店から叩き出す!
意味不明の非常識なお客は、客じゃねえ!
お客様は神様じゃない、文句があるなら店から叩き出す!
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/12 (Fri) 11:22:20
「♪大阪女子アナ物語、あなたの知らないテレビ業界!」
日本の歴史上、長年に渡り怨霊や悪霊が蔓延(はびこ)る大阪で、取り憑(つ)かれながら活躍している女子アナ達。
大阪女子アナのお腹には取り憑(つ)いた怨霊や悪霊が卵を産みつけているから、産まれてきた子供は生まれ付き怨霊や悪霊に呪い祟られてぇんねん。
大阪の下町にある古くて汚い食堂で食べさせられる料理の飲食レポートでも、表の感情と裏の心情を使い分けるのが女子アナの腕の見せ所。
テレビ的には『これぇ、メッチャ美味しい!』と言っているが、心の中では⦅うわぁ不味い、食えたもんやぁないわぁ!⦆と叫んでんねぇん。
大阪女子アナは皆んな綺麗で可愛い顔してるが、怨霊や悪霊の影響で腹の中は真っ黒やでぇ。
日々のニュースのネタ収集の為に、周辺の人へ怨霊や悪霊の拡散に余念(よねん)があらへぇん。
重大な事件や悲惨な事故が起こる事を願うのが、メディアとして本物のプロフェッショナルやでぇ。
特権階級に都合の悪いニュースは、絶対に報道しないのがメディアの鉄則やぁねん。
もし、情報が漏れても言葉の伝え方で修復し、アホォな視聴者への情報操作は大阪女子アナに採(と)ってお手のものやぁわ。
怨霊や悪霊に呪い祟られ、頭の中も気狂(きちが)い気味やぁから、このまま交番に行って警察官を襲撃しても無罪放免やなぁ。
大阪女子アナが振り撒(ま)いた怨霊や悪霊により、メディア業界の関係者(派遣社員、アルバイト含む)に降りそそぐ惨事に比べれば、巷(ちまた)の心霊現象による恐怖なんて蚊に刺された程度やぁで。
神様や仏様に見捨てられた大阪に全員集合して、皆んなで一緒に地獄に堕(お)ちようやぁ!
大阪女子アナ物語、あなたの知らないテレビ業界!
どうせあの世で地獄に堕(お)ちるなら、せならこの世でトコトン楽しまな損やで。
大阪女子アナ物語、あなたの知らないテレビ業界!
お正月の初詣は、どうせ神様は願い事を叶えてくれへぇんから、行っても無駄やねぇ〜ん!
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/19 (Fri) 14:36:40
「♪俺たちの解散コンサート」
俺たちは有名なビッグスターに成りたくてバンドを組んだ。
ギターやベースも購入したばかりで、ドラムは組み立てるのが面倒だから無しにした。
バンド名は“アナールモンキー”に決定した。
楽譜も読めないし、作詞作曲の才能もなく、Fコードって何だ?
それでも俺たちは練習に励(はげ)む。
俺たちの解散コンサートに向けて。
俺たちのバンドが観客いっぱいの武道館を目に浮かべて。
そして俺は、こう叫ぶ!
『今日、俺たちの為に集まってくれた大勢の皆んなに悲しい知らせがある。 俺たちのバンドは本日をもって解散する! 俺たちのラストライブを目に焼き付けて帰ってくれぇ!』
日々の練習は、この台詞(セリフ)を覚えてスラスラ言う事だ。
俺たちのバンドはファン交流活動の為にインターネットで動画配信している。
閲覧件数は身内が観てくれたが、全て10件以下で更新もやめた。
でも、俺たちには夢がある。
日々の生活を送るのに、今はコンビニでアルバイトしているが、いつかは正社員になる夢がある!
俺たちの夢は、バイトから正社員に昇格する事だぁ!
俺たちの夢は、バイトから正社員に昇格する事だぁ!
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/21 (Sun) 09:20:51
「♪速いぞ夢の超特急、ゴーゴー新幹線!」
東西に長い日本列島を駆け抜ける、夢の超特急の新幹線。
北海道から九州まで一直線に結ばれた日本の主軸だ!
まだまだ新幹線は今後もドンドンと延びていくよ。
日本の大動脈でもある東京と名古屋を結ぶリニア中央新幹線に期待が膨らむね。
福井県の敦賀駅(つるがえき)から日本海に沿って駆け抜ける山陰新幹線は、九州は福岡の博多駅まで結ばれる。
山陰地方を統治する須佐之男命(スサノオ)や、島根県の出雲大社の主祀でもある大穴牟遅神(オオナムチ)こと大国主(オオクニヌシ)も大喜び。
山陽地方の岡山駅から瀬戸内海の上を通る瀬戸大橋を渡り、四国をグルリと環状線でつなぐ四国新幹線。
香川県の出身の弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい/真言宗)や、平安時代末期に香川県に配流(はいる)された第75代天皇の崇徳天皇(すとくてんのう/朝廷)も楽しみにしている。
ところが、この新幹線計画を妨害する輩(やから)が現れた!
日本国民の混乱を招く様な複雑怪奇な暴政(ぼうせい)を掲げ、日本の発展を“いしん”を掛けて阻止しようとする悪党。
我田引水(がでんいんすい)なややこしい計画を提示した“いしん”を掛けた組織を許さない!
山陰新幹線の延伸を邪魔する悪党は、“天界の暴れん坊”の異名を持つ須佐之男命(スサノオ)が悪党一族を征伐するだろう!
四国新幹線の延伸を邪魔する悪党は、“平安最大の怨念”の異名を持つ崇徳天皇(すとくてんのう/朝廷)の詔勅(しょうちょく)により悪霊や怨霊が悪党一族を地獄に引き摺(ず)り堕(お)とすだろう!
これで日本国民も新幹線も安心だね。
速いぞ夢の超特急、ゴーゴー新幹線!
速いぞ夢の超特急、ゴーゴー新幹線!
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/21 (Sun) 09:52:08
「♪誰もが憧れる東京シティボーイ」
俺は生まれも育ちも東京は板橋区のシティボーイ。
平成初期までは経営者の父親の元で、家族は裕福な生活を送っていた。
ところがバブル崩壊で、事業に失敗した父親は未だに行方不明。
そのお陰で母親は、赤羽のスナックでホステスをしながら俺を育てた。
成人した俺は中野区で、憧れの一人暮らしを始めた。
シティボーイは独立心が旺盛だ。
日々の食事も外食し、近所のお洒落なイタリアンレストランが俺の行きつけだ。
ところがイタリアンレストランがオープンしてから、3ヶ月後にはコンビニに代わっていた。
シティボーイはファッションにお金を惜しまない。
代官山の服屋でオーナーが薦めた一点物のコートを購入した。
家に帰ってコートを見たら裏地が破れていたので、数日後に交換に行ったら服屋は潰れていた。
シティボーイは見た目を大切にしている。
髪型には拘(こだわ)り、表参道の美容院でカリスマ美容師にカットしてもらっている。
そこのカリスマ美容師がトイレで女性客を盗撮していて逮捕され、美容院もそのまま閉店した。
シティボーイは当然に彼女が居る。
可愛い彼女から嘆願され、高額な宝石を買わされたと思ったらロマンス詐欺だった。
ダイヤモンドと説明を受けた宝石も、鑑定したらガラス玉だった。
シティボーイは首都圏の複雑な鉄道を乗りこなす。
通勤で朝の混雑するオレンジ色の中央線に乗っていたら、隣の女性から痴漢に間違われ警察に連行された。
心当たりは無いが、警察の執拗(しつよう)な取調べで容疑を認めた。
シティボーイは過(あやま)ちに対しての筋は通す。
痴漢を訴えた女性に示談金を支払う為に、インターネットから手っ取り早く稼げるアルバイトに応募した。
指定された家に行って、お年寄りから封筒を預かるだけの簡単な仕事だったが、お年寄りのお宅に訪問して封筒を受け取ったら警察に連行された。
シティボーイは時には刑務所(ムショ)暮らしをする事もある。
そこで男の味を叩き込まれた。
刑務所(ムショ)を出所した後、新宿二丁目で働いており、もう、昔の俺には戻れない。
薔薇色な人生が待っている大都会の東京!
誰もが憧れる東京シティボーイ!
皆んなもおいでよ、首都の東京へ!
誰もが憧れる東京シティボーイ!
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/24 (Wed) 11:05:44
「♪なにわ兄弟挽歌(きょうだいばんか)」
僕の家族は大阪の市営住宅で暮らす貧困な家庭です。
僕は10歳になったばかりで、8歳の弟と小学校に通っている。
お父さんはギャンブルとお酒の日々で、仕事はしていない。
その為にお母さんがパートで働いて、僕たちの生活を支えている。
あるクリスマスの日に、お父さんが鶏(ニワトリ)1羽を抱えて酔っ払って帰ってきた。
お母さんがその鶏(ニワトリ)でチキンの丸焼きを作ってくれ、その夜は人生で初めての細(ささ)やかなクリスマスディナーを体験した。
弟と喜んでチキンを美味しく食べようとした、その時だった。
近所のおじさんが怒鳴(どな)り込んできて、そのおじさんの飼っている鶏(ニワトリ)をお父さんが盗んだと言う。
おじさんはチキンの丸焼きを見て、酔っ払って酩酊(めいてい)状態のお父さんをブン殴り、鼻血を垂らして倒れるお父さんを見て弟は泣き出した。
お母さんは頭を下げておじさんに謝っている。
そして正月が明けてから直ぐに、お母さんが僕たちを置いて家から出て行き、二度と戻ってこなかった。
その後、酔っ払ったお父さんも行方知(ゆくえし)れずとなった。
僕と弟は2人だけで家に残され、食べる事も出来なかった。
学校にも行かず家に引き篭(こ)もり、空腹と寂しさを子供2人だけで堪(た)える日々を送った。
ある日、朝起きると横で寝ていた弟が目を覚さない。
弟を揺すっても動かず、息もしていない。
僕は弟をそのまま寝かせて、ずっと傍(かたわら)で座って弟の寝顔を眺めていた。
外では選挙の立候補者が『1人1人の大阪府民の為に“いしん”を掛けて良い暮らしを実現させます。』と叫んでいる。
それから僕も意識が遠退(とおの)き、気付いたら真っ青な空の下の草原で、弟と手をつないで立っていた。
そしたら向こうから、白い服を着た老人が迎えに来てくれた。
そして僕と弟を明るく暖かい天界に連れて行ってくれた。
何の苦痛もない天界に来て、弟は嬉しそうな顔をしている。
ほんの僅(わず)かな人生だっけど、これで良いと思っている。
今、この天界に来たら、あの過去に帰りたいと思う気持ちは湧かない。
過去に帰ってどうするのか、なにわ兄弟挽歌(きょうだいばんか)。
今、この天界に立つと、あの頃に戻りたいと思う気持ちは1つも無い。
あの頃に戻っても良くはならない、なにわ兄弟挽歌(きょうだいばんか)。
昔が良かったと思うのは、今まで何もしてこなかった表(あらわ)れでもある。
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/25 (Thu) 12:56:55
「♪大阪女子アナ(穴)、そこまでイッていいんかい!」
イクッイクッイクッイクッ、イクッイクッイクッイクッ、イッちゃう〜
指先が器用なディレクターに、穴の出入口付近の上部を刺激されると、5分も持たずにイッちゃうねぇ〜ん。
大阪女子アナ(穴)、そこまでイッていいんかい!
イクッイクッイクッイクッ、イクッイクッイクッイクッ、イッちゃう〜
芸能人の顔が下部に移動して、その舌が高速回転すると、秘液が溢れ出てイッちゃうねぇ〜ん。
大阪女子アナ(穴)、そこまでイッていいんかい!
イクッイクッイクッイクッ、イクッイクッイクッイクッ、イッちゃう〜
政治家に背後(うしろ)から抱えられ、足を絡(から)めて強く出し入れされると、奥に突き刺さった時にイッちゃうねぇ〜ん。
大阪女子アナ(穴)、そこまでイッていいんかい!
イクッイクッイクッイクッ、イクッイクッイクッイクッ、イッちゃう〜
CMスポンサー様に馬乗りになって、ロデオの様に腰を激しく上下前後に動かすと、頂点に達してイッちゃうねぇ〜ん。
イクッイクッイクッイクッ、イクッイクッイクッイクッ、イッちゃう〜
でもやっぱり、正攻法で役員に責められると、役員と瞳が重なった時にイッちゃうねぇ〜ん。
大阪女子アナ(穴)、そこまでイッていいんかい!
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/26 (Fri) 08:48:54
「♪国賊必見!“いしん”を掛けた大阪財テク(蓄財テクニック)」
わてぇらは“いしん”を掛けて社団法人の理事をしてぇまんねぇん。
社団法人に会費を支払へば社会保険料負担額を最低水準に落とす事が可能との勧誘を受けましぇん。
社団法人の担当者から、コスト削減提案で年間80万円もお得と言われましてぇ、わてぇらは“いしん”を掛けて飛び付きましてぇん。
社団法人は、公的制度に関する理解や知識の向上を図ること等を目的として設立した法人であり、脱法違法スキームの勧誘や助長の言われに遺憾の意を表してましてぇん。
知識向上に研鑽(けんさん)頂く事など、ご立派な言葉を並べられても、お頭(つむ)の弱いアホォなわてぇらは、何を言うてぇるか解りませんけどなぁ、銭(ゼニ/お金)が儲かればそれでぇよろしいわぁ。
こうして日本にとって悪害でしかない国賊は、八百万(やおよろず)の神により、誰でも簡単に地獄に堕(お)ちる事ができまっせぇ。
国賊必見!“いしん”を掛けた大阪財テク(蓄財テクニック)で地獄に堕(お)ちまひょ!
中国の植民地の大阪は、“いしん”を掛けて日本の制度を遵守(じゅんしゅ)する必要はあらへぇん。
中華民族の奴隷の大阪人は、中国に対して“いしん”を掛けて畏敬の念(いけいのねん)を抱き、日本に対して“いしん”を掛けて憎悪(ぞうお)を剥き出しにせなアカン!
日本は過去の過ちに対して中国に謝罪をすべきと、大阪人は“いしん”を掛けて声を高める必要があるでぇ!
ただ、2019年頃から中国はコロナウイルスを世界に撒(ま)き散らした謝罪は必要ないと、大阪人は“いしん”を掛けて声を大にして叫ぶ必要もあるでぇ!
大阪人は、武漢の華南海鮮卸売市場と大阪市中央卸売市場が、酷似(こくじ)している事に誇りを持ってんねぇん。
国賊必見!“いしん”を掛けた大阪財テク(蓄財テクニック)。
この世で八百万(やおよろず)の神により悪霊や怨霊に取り憑(つ)かれても、大阪人は願ったり叶(かな)ったりで平気やぁでぇ!
国賊必見!“いしん”を掛けた大阪財テク(蓄財テクニック)。
あの世で閻魔大王(えんまだいおう)に地獄に叩き堕(お)とされても、大阪人は怖い事あらへぇん!
Re: ◆2025年/大阪ホットナンバー3(スリー)ミュージック◆ - ラジオの友
2025/12/29 (Mon) 09:51:29
「♪お客様は神様じゃない/24時間営業の牛丼屋編」
美味しくて速攻提供で安価な牛丼屋。
どこの街にもあり、大変に便利で庶民の味方だ!
僕はこの牛丼屋でアルバイトをしてから10年が経とうとしている。
今ではバイトリーダーにまで昇格した。
牛丼屋の隅々まで知り尽くした僕だからこそ言う。
お客様は神様じゃない!
1人で来店して、4人掛けのテーブル席に座るな!
1人掛けのカウンターに座るのが、お客様の常識と配慮だ!
野郎(男)2人で来るのはいいが、ペチャクチャ喋ってないで、食べたらさっさと帰れ!
ウチは喫茶店じゃないんだ!
牛丼屋はお客様の回転率で売上を確保しているんだ!
おいそこの若造、スマートフォンを片手に持ち、画面を見ながら牛丼を食べるな!
牛丼を食べるか、スマートフォンを操作するか、どちらかにしろ!
ゲームをやりながら、同時に牛丼を食べるなど言語道断だ!
お前の親は、食事のマナーを教えてこなかったのか!?
牛丼を食べ終えたサラリーマン!
たった500円ほどの牛丼に、1万円札で支払うな!
千円札が足りないんだ!
なに、持ち帰り牛丼が豚丼になっていた!?
中身があるだけでも有難いと思え!
そう言う運命と思い、豚丼を黙って食べろ!
お客様は神様じゃない!