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今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 02:57:25

◆◇◆其の十九:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“馬と黄金”の内助の功と土佐国(高知県)の名物“鰹(かつお)のタタキ”を後世に残した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の功績

ある日、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は馬市(うまいち)で立派な名馬と出会い、手に入れたかったが高額な名馬を購入できる程の身分ではなかった。

その話を妻の見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)にしたところ、箪笥(たんす)の奥からヘソクリを出して、夫の山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)に差し出した。

大喜びした山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、早速に馬市(うまいち)に行き立派な名馬を購入する事ができた。

1581年に織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が京都の市中を練り歩く「京都御馬揃え」(きょうとおうまぞろえ)にて、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)が跨(またが)る馬を観た織田信長(おだのぶなが/織田)は、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)には分不相応(ぶんふそうおう)な名馬だと一発で見抜いた。

織田信長(おだのぶなが/織田)は山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)に事情を聞くと、妻の見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)がヘソクリを貯めて名馬の購入資金にしてくれたと説明した。

この話に感銘を受けた織田信長(おだのぶなが/織田)は、良妻賢母で内助の功の見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)に金一封を贈呈した。

この逸話が“馬と黄金”として現代まで伝わる。

1582年に起こった「備中高松城の戦」(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)にて、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の城主だった清水宗治(しみずむねはる/毛利)は篭城して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に対峙した。

ところが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を攻撃する事なく兵糧攻めに徹した。

しかも備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)が平地に建つ平城(ひらじろ)だった事もあり、天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の提案により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は近隣に流れる河川と雨季を活用して城郭の周囲に堤防を築造した。

こうして河川から水を引き入れて備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を水没させた「備中高松城の水攻め」(びっちゅうたかまつじょうのみずぜめ)を実施した。

兵糧攻めと水没の不安定な心理を利用する戦略である。

ところがである。

京都では1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

この伝達は直ぐに豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の耳にも入った。

こうして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、毛利氏の専属の僧侶で交渉人の安国寺恵瓊(あんこくじえけい/武田→毛利→豊臣)と講和交渉を開始して、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と和議を締結した。

この和睦の交渉は毛利氏の専属の僧侶だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい/武田→毛利→豊臣)が担い、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)との和睦に賛成したが、次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)だけは最後まで反対していた。

和議の1項目の条件として、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の城主の清水宗治(しみずむねはる/毛利)の戦争責任による切腹が盛り込まれていた。

これにより清水宗治(しみずむねはる/毛利)は、水没した備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を背景に小舟に乗り降伏の証として水上で自害した。

それを確認した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)も当然に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に同行した。

そして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

この戦地の光景を、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の傍(かたわら)で山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は凝視していた。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 02:58:07

◆◇◆其の二十:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“馬と黄金”の内助の功と土佐国(高知県)の名物“鰹(かつお)のタタキ”を後世に残した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の功績

1582年に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)で開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と池田恒興(いけだつねおき/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の4人は、織田氏の家督継承者に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子で3歳の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を就任させた。

まだ幼少期だった三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)の事もあり、その後見人に次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が就いた。

しかしその後に、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が対立する事になる。

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、織田氏の家督継承者の覇権争いで、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が、近江国(滋賀県)に広がる琵琶湖の北部に連なる山岳地帯の賤ヶ岳(しずがたけ)で交戦を繰り広げた。

伊勢国(三重県)の伊勢亀山城(いせかめやまじょう/亀山)を居城としていた滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる柴田軍滝川隊に対して、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が率いる豊臣軍蒲生隊に従軍していた山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、“一番乗り”を成し遂げ“先陣争いの覇者”と呼ばれた。

豊臣軍蒲生隊に総攻撃を仕掛けられた伊勢亀山城(いせかめやまじょう/亀山)は落城した。

一時は柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が戦況は優勢だったが、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の裏切りもあり敗北した。

これにより越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と“小牧山の美女”と言われるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)は自決した。

その後、織田軍の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が主君に登り詰めた事に憤懣(ふんまん)した織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)や三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同盟を締結して敵対した。

こうして1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の北部を中心に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

この合戦で山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、出身地と言う地の利を生かして尾張国(愛知県)の一宮から小牧に掛けた北部一帯に豊臣軍が布陣する砦(とりで)を設けた。

その直後に、総大将の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に報告も連絡も相談も無く、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の調略(ちょうりゃく)により和睦してしまう。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 02:58:47

◆◇◆其の二十一:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“馬と黄金”の内助の功と土佐国(高知県)の名物“鰹(かつお)のタタキ”を後世に残した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の功績

1585年に土佐国(高知県)の武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)を討伐する為に、豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が率いる豊臣軍弟隊が“四国攻め”を敢行する。

その後に家督継承者の候補で1591年に関白となる甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の宿老として山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は任命され、近江国(滋賀県)の長浜城(ながはまじょう)の城主に就任した。

1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍が、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐する為に侵攻を開始した。

「小田原征伐」(おだわらせいばつ)に従軍した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、関東地方に点在する伊勢北条氏の武将に侵攻して、次々と落城させて壊滅していく武功(ぶこう)を挙げた。

この戦況で現実を直視した伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏する事を決断する。

しかし伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、難攻不落の小田原城(おだわらじょう)が落城しないと言う希望的観測(きぼうてきかんそく)と、傑出(けっしゅつ)した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を侮(あなど)り徹底抗戦を決断する。

ただ、降伏の交渉人として天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が小田原城(おだわらじょう)に送り込まれ、この時に伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、自らの切腹と引き換えに家臣や武将の助命嘆願をした。

これを聞いた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の武将としての智勇(ちゆう)に感銘し、威令(いれい)した降伏条件はこの逆だった。

息子の北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は助命して紀伊国(和歌山県)も高野山(こうやさん)に配流(はいる)とし、最後まで抵抗した父親の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は切腹を命じた。

こうして相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と一部の家臣が自決し、北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は開城して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に明け渡した。

これにより豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、主君で亡き織田信長(おだのぶなが/織田)の念願だった天下統一を達成する。

これら功績が豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に認められて、1590年に山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)の城主に就任し、5万1千石の領土を拝領(はいりょう)した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 02:59:26

◆◇◆其の二十二:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“馬と黄金”の内助の功と土佐国(高知県)の名物“鰹(かつお)のタタキ”を後世に残した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の功績

1593年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)の息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が誕生した。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は実子が誕生した事で家督継承者の選択肢は無くなり、1595年に関白の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)が邪魔な存在となった為に、謀反(むほん)の嫌疑を掛けて自害に追い込む。

この時に連座責任で殆どの豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の家臣が自決しているが、宿老に就いていた山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は赦免(しゃめん)された。

この時の主君である豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豹変(ひょうへん)が、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の豊臣氏に対する忠義が薄れていった。

1598年に山城国(京都府)の小高い丘に建つ伏見城(ふしみじょう/京都)にて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去すると、豊臣政権の家督後継者は息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が就いた。

ただ、この時の息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)はまだ6歳と幼かった為に、政権運営を補佐する“豊臣五大老”と豊臣氏に仕える重鎮家臣の“豊臣五奉行”が、合議制により実質的に豊臣政権を司った。

“豊臣五大老”には戦国大名の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)が就いた。

“豊臣五奉行”には豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣だった浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)が就いた。

戦国の戦地を切り抜けてきた猛攻武将がこれだけ揃うと、合議制とは言え当然に意見や方針の相違から不協和音が早くから見られた。

特にこの10人の内、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の存在感は大きかった。

この2人の危険で微妙なバランスが、良くも悪くも豊臣政権の平定を保つ事ができていた。

そんな1599年に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が死去すると事態は一転する。

用意周到に組織形成を構築していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が、豊臣政権の中でも抜きん出たのは明らかである。

豊臣政権にて完全に権力を掌握した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は政権奪取にようやく動き出す。

陸奥国(むつ/福島県)の会津を領土とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)に謀反(むほん)の疑いを掛けて討伐を仕掛ける。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に対して、京都に上洛する様に命令を下すも、これを2人は拒否する。

そこで上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)の為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊の大軍を進軍させる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:00:18

◆◇◆其の二十三:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“馬と黄金”の内助の功と土佐国(高知県)の名物“鰹(かつお)のタタキ”を後世に残した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の功績

この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が畿内(きない/関西)を留守にした隙に、“豊臣五奉行”の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が西軍の総大将に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を就任させて挙兵した。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍が下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮の手前の小山(おやま)に滞在した際に、畿内(きない/関西)で石田三成(いしだみつなり/豊臣)が挙兵した事の知らせが入る。

この時点で徳川軍は、陸奥国(むつ/福島県)の会津を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の上杉軍と、畿内(きない/関西)を拠点とする石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍に挟まれる危機的な状況に陥る。

そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は軍議を開催して、同行する武将の意見を聞きいた。

この軍議の決定により進路を反転して西側に引き返して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が東海道を、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊が中山道(なかせんどう)を侵攻する事になった。

これを1600年に開催した「小山評定」(おやまひょうじょう)と呼ぶ。

この時に山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の発言で、東軍の士気が格段に上がる。

山内一豊…『私は東海道の道中に建つ遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)を徳川軍の陣営として提供致す!』

徳川家康…『おおっ! これは辱(かたじけな)い。 皆の想いが1つならば、この軍勢は徳川軍ではなく、東軍に改める事にする。』

余談だが、この山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の発言は、事前に堀尾忠氏(ほりおただうじ/織田→豊臣→徳川)が、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から重用(ちょうよう)されるには、『武士生命の全てを捧げる姿勢を見せた方がよい。』と、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)に進言していた所から来ている。

堀尾忠氏(ほりおただうじ/織田→豊臣→徳川)とは、尾張国(愛知県)の丹羽(にわ)の出身で、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)と同様に、織田伊勢守の岩倉織田氏の当主だった織田信安(おだのぶやす/織田→斎藤→僧侶)の家臣の系統で、後々は出雲国(島根県)の松江藩の1代目藩主に就任する。

こうして東軍は西軍と交戦する為に、西国に侵攻する事になった。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊は進路を反転して西側に引き返して行く。

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍が、美濃国(岐阜県)の戦地で対峙した。

戦況は半日程度で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍が勝利した。

京都の六条河原にて石田三成(いしだみつなり/豊臣)と小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は斬首されて三条大橋で梟首(きょうしゅ)となった。

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)も終わり、徳川派閥による戦後処理が行われた。

この「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)の勝利の論功行賞として徳川家康(とくがわいえやす/徳川→豊臣→徳川)より、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は石高が大幅増加した領地移転の転封(てんぽう)となり、1601年に土佐国(高知県)の土佐藩の藩主に就任し、河中山城(こうちやまじょう/高知)を築城する。

この時に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の家臣だった土佐国(高知県)の武士を多く土佐藩に雇用している。

ただ、1600年頃から浦戸城(うらどじょう/高知)の周辺で頻発して起こっていた「浦戸一揆」(うらどいっき)に四苦八苦していた山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、それら一揆を主導した牢人(無職侍)を処刑している。

この時に活躍したのが山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の異母兄弟で弟の山内康豊(やまうちやすとよ/織田→山内)だった。

山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)が河中山城(こうちやまじょう/高知)の城下町を視察していると、住民が“鰹(かつお)の刺身”を美味しそうに食べているのを見て、生魚を食べて食中毒になる心配をして、土佐国(高知県)では“刺身禁止令”を発布した。

これにより住民は魚の表面を炙(あぶ)り焼魚に見せかけた“鰹(かつお)のタタキ”を考案し、お殿様の山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)に献上する。

住民…『どうです、お殿様?』

山内一豊…『こりゃ〜うまい! 鰹(かつお)の風味に生姜とニンニクが絡み合い、食材の持つ旨味のハーモニーが何とも言えぬ美味! これを土佐の名物にしようぞっ!』

住民…『かしこまりました。』

家臣…『鰹(かつお)を炙っているとは言え、刺身って言えば刺身なんじゃがなぁ〜 “刺身禁止令”はどうするんじゃろ?』

パクパク パクパク

山内一豊…『うまい! うまい! 毎日の献立に、この“鰹(かつお)のタタキ”を出してくれっ!』

それからしばらく経った1605年に、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)が死去した。

この時に山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)には嫡男(ちゃくなん)が居なかった為に、山内康豊(やまうちやすとよ/織田→山内)の息子の山内忠義(やまうちただよし/徳川)を養子に入れて、土佐国(高知県)の土佐藩の藩主に就任させた。

その後の1610年に、藩主の山内忠義(やまうちただよし/徳川)は河中山城(こうちやまじょう/高知)を改名して高智山城(こうちやまじょう/高知)となり、それが高知城(こうちじょう)となった。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:01:05

◆◇◆其の二十四:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)とは犬猿の仲、“先陣争いの覇者”の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)

京都にて1467年〜1477年に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)で、将軍の足利氏と三管領(さんかんれい)の畠山氏、斯波氏、細川氏に、その家臣や地方の守護大名が巻き込まれた騒乱は、その原因も勝敗も判らないまま征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)の妻だった日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)の采配により終焉した。

この戦乱で近江国(滋賀県)の南部に位置する琵琶湖の周辺を拠点とした守護大名の六角高頼(ろっかくたかより/室町→西軍)も、西軍として参戦して室町幕府と敵対している。

この時に征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)と日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)の息子の征夷大将軍9代目の足利義尚(あしかがよしひさ/室町→東軍)が、六角高頼(ろっかくたかより/室町→西軍)を討伐する為に近江国(滋賀県)に進軍した。

六角高頼(ろっかくたかより/室町→西軍)は幕府軍を恐れて近江国(滋賀県)の山間部に逃亡した。

ところが陣営にて征夷大将軍9代目の足利義尚(あしかがよしひさ/室町→東軍)は、アルコール中毒により鈎の陣(まがりのじん)にて死去

その後に征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)が、六角高頼(ろっかくたかより/室町→西軍)を討伐する為に近江国(滋賀県)に進軍した。

再び六角高頼(ろっかくたかより/室町→西軍)は幕府軍を恐れて近江国(滋賀県)の山間部に逃亡した。

この逃亡劇は以後、六角氏のお家芸となる。

六角高頼(ろっかくたかより/室町→西軍)には2人の息子が居り、家督継承者に就任する六角氏綱(ろっかくうじつな/室町)と、その次の家督継承者に就任した六角定頼(ろっかくさだより/室町)である。

六角氏綱(ろっかくうじつな/室町)は病弱で戦傷もあり26歳で死去している。

当主を引き継いだ弟の六角定頼(ろっかくさだより/室町)は、経済発展の為に近江国(滋賀県)にて楽市令を発布して城下町に商業都市を構築した。

これを参考にしたのが織田信長(おだのぶなが/織田)の楽市楽座である。

六角定頼(ろっかくさだより/室町)の息子の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)が家督継承者に就任した。

この時期は戦国の動乱で、日本各地で合戦が繰り広げられていた。

近江国(滋賀県)の観音寺城(かんのんじじょう/安土)を拠点とする戦国大名の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)は、弓馬の名手とも言われ勢力拡大を目論んでいた。

六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)の家臣には、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)を拠点とする浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)が仕えていた。

それに近江国(滋賀県)の日野城(ひのじょう/蒲生)を拠点とする蒲生賢秀(がもうかたひで/六角→織田)と息子の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が従えていた。

この蒲生氏は、平安時代に“天下一の弓取り名人”と呼ばれた俵藤太(たわらとうた)こと藤原秀郷(ふじわらひでさと/公家)が奥州藤原氏と同様に先祖に当たり、伝承では琵琶湖に架かる瀬田の唐橋の周辺に生息する大百足(おおむかで)を退治したと言う。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:01:52

◆◇◆其の二十五:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)とは犬猿の仲、“先陣争いの覇者”の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)

そんな近江国(滋賀県)の名門家の蒲生氏にて、1556年に蒲生賢秀(がもうかたひで/六角→織田)の息子の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が誕生した。

この時期は尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が勢力拡大を続けていた。

1567年に起こった「稲葉山城の戦」(いなばやまじょうのたたかい)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を拠点とする一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)に侵攻して勝利する。

この時に織田信長(おだのぶなが/織田)は、美濃国(岐阜県)のこの地域を岐阜と命名し、稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)から岐阜城(ぎふじょう)に城名を改めて拠点とした。

そして岐阜城(ぎふじょう)の天守閣から“天下布武”(てんかふぶ)を公言している。

一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)は美濃国(岐阜県)から敗走して、近江国(滋賀県)の観音寺城(かんのんじじょう/安土)の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)を頼った。

1568年に起こった「上洛戦」(じょうらくせん)にて、征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)を擁立(ようりつ)した織田信長(おだのぶなが/織田)は、京都への上洛を決行した。

それを阻止しようとしたのが、近江国(滋賀県)の観音寺城(かんのんじじょう/安土)の城主の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)と、息子の六角義治(ろっかくよしはる/室町→織田→豊臣)である。

織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、観音寺城(かんのんじじょう/安土)に篭城する六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)と息子の六角義治(ろっかくよしはる/室町→織田→豊臣)が率いる六角軍に総攻撃を仕掛けて撃退した。

この合戦で近江国(滋賀県)の日野城(ひのじょう/蒲生)の城主だった蒲生賢秀(がもうかたひで/六角→織田)と息子の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)も参戦しているが、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍の圧倒的な強さの前に手も足も出なかった。

戦況は六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)と息子の六角義治(ろっかくよしはる/室町→織田→豊臣)は、織田軍を恐れて近江国(滋賀県)の山間部にお家芸の逃亡をして敗北した。

これが事実上の戦国大名としての六角氏の滅亡となる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:02:33

◆◇◆其の二十六:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)とは犬猿の仲、“先陣争いの覇者”の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)

臣従(しんじゅう)していた戦国大名の六角氏が改易(かいえき)となり、帰順(きじゅん)する主君を失った近江国(滋賀県)の日野城(ひのじょう/蒲生)の城主の蒲生賢秀(がもうかたひで/六角→織田)は、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)を拠点とする織田信長(おだのぶなが/織田)に従属(じゅうぞく)する事を決断する。

その服従(ふくじゅう)の証として、1568年に息子の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)を織田信長(おだのぶなが/織田)の元へ人質として差し出した。

ただ戦国時代の人質は、牢獄に監禁する様な事はせず、後々の忠義を示す重鎮家臣として英才教育を施す意味合いが強かった。

蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)も織田信長(おだのぶなが/織田)の寵愛(ちょうあい)を受けて、武芸は勿論(もちろん)の事、寺院で仏教や儒教を習得し、学問の教育も受けている。

この時期には、文武両道(ぶんぶりょうどう)な武将を必要としている事が伺える。

美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)で催された成人の儀式にて、織田信長(おだのぶなが/織田)が烏帽子親(えぼしおや)となり、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)に烏帽子(えぼし)を被せて、姓(かばね)が与えて元服(げんぷく)させた。

1569年に起こった「伊勢攻め」により、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、伊勢国(三重県)の国司を務める伊勢北畠氏の北畠具教(きたばたけとものり/公家)に侵攻して勝利した。

この合戦で蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は初陣(ういじん)を果たし、滝川一益(たきがわかずます/織田)の猛攻撃で北畠具教(きたばたけとものり/公家)は討死した。

北畠具教(きたばたけとものり/公家)は剣術の達人で、吉川朝孝(よしかわともたか)こと塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)と上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)から剣術を伝承し、柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)や胤舜(いんしゅん/僧兵)と親交があった。

この後の1569年に、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の娘の相応院(そうおういん/織田)を妻に娶(めと)る。

勢力拡大させる織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍の数々の合戦に、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は必ず従軍し、常に一番に戦地に出陣する“先陣争いの覇者”となる。

ただ、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)としては、重鎮家臣として傍(かたわら)に置いておきたいのが実情で、それとなしに蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)へ諫言(かんげん)した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:03:15

◆◇◆其の二十七:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)とは犬猿の仲、“先陣争いの覇者”の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)

ところが日本列島を激震させる事変が起こる。

京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

“中国攻め”を実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、急遽に備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

そして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

この時に近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)に居城していた織田氏の親族は、身辺保護の為に父親の蒲生賢秀(がもうかたひで/六角→織田)と息子の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)により、近江国(滋賀県)の日野城(ひのじょう/蒲生)で擁護(ようご)した。

1582年に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)で開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と池田恒興(いけだつねおき/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の4人は、織田氏の家督継承者に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子で3歳の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を就任させた。

まだ幼少期だった三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)の事もあり、その後見人に次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が就いた。

次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が対立する事になる。

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、織田氏の家督継承者の覇権争いで、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が、近江国(滋賀県)に広がる琵琶湖の北部に連なる山岳地帯の賤ヶ岳(しずがたけ)で交戦を繰り広げた。

この合戦で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は参戦した。

一時は柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が戦況は優勢だったが、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の裏切りもあり敗北した。

これにより越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と“小牧山の美女”と言われるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)は自決した。

三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)も、1583年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と対立して、幽閉された尾張国(愛知県)の知多半島に位置する野間の野間大坊(のまだいぼう)こと内海大御堂寺(うつみおおみどうじ/真言宗)で自決した。

こうして織田軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に引き継がれる事になる。

織田軍の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が主君に登り詰めた事に憤懣(ふんまん)した織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)や三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同盟を締結して敵対した。

こうして1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の北部を中心に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

この合戦で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は参戦した。

この合戦で蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、織田徳川軍の鉄砲隊に銃撃されて3発ほど命中しているが無事だった。

しかし、総大将の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に報告も連絡も相談も無く、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の調略(ちょうりゃく)により和睦してしまう。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:04:04

◆◇◆其の二十八:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)とは犬猿の仲、“先陣争いの覇者”の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)

1584年に豊臣政権を樹立した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は数々の武功(ぶこう)により論功行賞(ろんこうこうしょう)の恩賞(おんしょう)として、伊勢国(三重県)の松ヶ島城(まつがしまじょう/松坂)を拠点とした12万石の領土を下賜(かし)された。

天下統一の覇道を突き進む豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍の数々の合戦に、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は必ず従軍し、常に一番に戦地に出陣する“先陣争いの覇者”となる。

ある合戦で、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が大将を務める陣営にて、初陣(ういじん)となる新人の武士に激励した時の事だった。

蒲生氏郷…『今日が初めての合戦だが、緊張し過ぎると身体が思う様に動かぬから、我を忘れて思いっ切り駆け抜けるがよい。』

新人武士…『あっ、はい、判りました。』

蒲生氏郷…『戦地には銀色の鯰尾の兜(なまずおのかぶと)を被った猛将が居るから、常にその猛将より前に出る事を心掛ける様に。』

新人武士…『銀色の鯰尾の兜(なまずおのかぶと)ですね。 心に刻んでおきます。』

そして、合戦が始まると・・・

銀色の鯰尾の兜(なまずおのかぶと)を被った猛将が先陣を切って駆け抜けていく。

新人の武士も負けじと銀色の鯰尾の兜(なまずおのかぶと)を被った猛将に着いていくと、よく観たら蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)だった。

蒲生氏郷…『うぉ〜〜 行くぞぉ〜〜!』

新人武士…『たっ、大将!?』

大将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が自ら先陣を切って敵陣に乗り込んでいた。

これにより蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)の家臣の統率力が向上し、強靭な軍事力を発揮していた。

蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)
が、“先陣争いの覇者”と呼ばれる所以(ゆえん)である。

1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、陸奥国(むつ/福島県)を拠点とした“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)と呼ばれる伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、色々な事情により白装束(しろしょうぞく)を着たりして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に従属(じゅうぞく)していた。

その後に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、周辺の田村宗顕(たむらむねあき/田村)や小峰義親(こみねよしちか/白河→伊達)や石川昭光(いしかわあきみつ/伊達→石川)などを従属(じゅうぞく)させて伊達軍の勢力拡大を図る。

ところが伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が蘆名氏(あしなうじ)の領土に侵攻した事が豊臣政権の惣無事令(そうぶじれい)に違反するとして、蘆名義広(あしなよしひろ/佐竹→蘆名)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に訴え出たのである。

これに対する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の処遇は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の陸奥国(むつ/福島県)の会津と伊達を領地削減の減封(げんぽう)の72万石とし、陸奥国(むつ/岩手県)の葛西大崎への領地移転の転封(てんぽう)とした。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:04:47

◆◇◆其の二十九:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)とは犬猿の仲、“先陣争いの覇者”の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)

豊臣政権から東北地方に送り込まれた大崎葛西の領主(奥州仕置)は木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)は、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を実施した。

この豊臣政権の処置に対する不満が高まり、東北地方の各地で一揆や反乱が勃発する。

木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)を救援する為に、名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と協力を取りながら豊臣軍を侵攻させて反乱を鎮圧する。

ところが、その蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)と伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が仲違(なかたが)いした。

蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が東北武将と通じていると疑念を持ち、いつかは寝返るのではと考え距離を取る。

更(さら)に「小田原征伐」(おだわらせいばつ)に参戦しなかった大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)や葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)や留守政景(るすまさかげ/伊達)は領地没収の改易(かいえき)となった。

ただ、この豊臣政権の処罰に不満を抱えた葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)と大崎義隆(おおさきよしたか/大崎→豊臣)は葛西大崎軍を結成して反乱を起こす。

これを鎮圧に向かったのが大崎葛西領の領主である木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣) を大将に、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)や伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)が率いる豊臣軍奥州隊だった。

結果は豊臣軍奥州隊が反乱を鎮圧して葛西大崎軍は敗北した。

因(ちな)みに木村吉清(きむらよしきよ/明智→豊臣)は反乱勃発の責任により罷免(ひめん)された。

これを1590年に起こった「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)と呼ぶ。

ただ、この合戦の問題はそこではなかった。

実は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)との不仲もあり、敵陣の葛西大崎軍と内通している噂(うわさ)が立っていた。

実際に伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と葛西大崎軍が遣(や)り取りした書状も見つかっており、これを蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に報告している。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から京都に呼び出された伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は事実無根として弁明した。

その時の格好が武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)を身にまとい、更(さら)に大きな黄金の十字架を背負って豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に謁見(えっけん)した。

しかし伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)や出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじきょう)などの領国から、「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)の合戦で荒廃した陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)などに領地移転の転封(てんぽう)となり、領地削減の減封(げんぽう)を受けて58万石となった。

そして国分氏の居城だった場所に仙台城(せんだいじょう/青葉城)を築城し、城下町を整備も実施し商業都市に尽力して、陸奥国(むつ/宮城県)の経済発展に貢献した。

この事で後々に、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)への深い憎悪が芽生え、これが1600年に起こった「会津征伐」、「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)、「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)へ、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対する忠誠心へとつながっていく。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:05:34

◆◇◆其の三十:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“独眼竜政宗”(どくがんりゅうまさむね)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)とは犬猿の仲、“先陣争いの覇者”の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)

1590年に蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の領国だった陸奥国(むつ/福島県)の会津に、92万石の大幅な石高加増となる領地移転の転封(てんぽう)となった。

この豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による目的には、陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と、武蔵国(東京都)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の有力大名を監視と牽制する狙いがあった。

しかし、畿内(きない/関西)を中心に武士道を歩んで来た蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、関東や東北は未知の領域だった。

田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)の弟子に入り茶人としても名を馳せて、京都などで茶会を催す文化面にも尽力していた蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)にとって煩悶(はんもん)の日々が続いた。

とは言うものの蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は陸奥国(むつ/福島県)の会津に移転すれば、相模国(神奈川県)の三浦氏の系統の蘆名氏(あしなうじ)が統治していた黒川城(くろかわじょう/会津)を増改築して、蒲生氏(がもううじ)の家紋でもある舞鶴に因(ちな)んで鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)と改名した。

その際に城下町の整備も実施して、主君だった亡き織田信長(おだのぶなが/織田)の楽市楽座を参考にした商業都市に尽力して、陸奥国(むつ/福島県)の経済発展に貢献した。

この時に地域名の若松に改名し、近江国(滋賀県)の日野城(ひのじょう/蒲生)の近隣にあった“若松の森”が由来と言う。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による1590年に起こった「奥州仕置」(おうしゅうしおき)で、陸奥国(むつ/青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(でわ/秋田県・山形県)の非協力的な大名や武将は領地没収の改易(かいえき)や領地削減の減封(げんぽう)に処された。

「小田原城攻め」に協力的だった南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)の所領は安堵(あんど)された。

一方、「小田原城攻め」に参戦しなかった葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)は領地没収の改易(かいえき)になった。

花巻城(はなまきじょう)の城主で稗貫輝時(ひえぬきてるとき/斯波→稗貫)の養子の稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)や、二子城(ふたごじょう/北上)の城主で稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)の兄弟の和賀義忠(わがよしただ/和賀)も領地没収の改易(かいえき)となった。

鍋倉城(なべくらじょう/遠野)の城主の阿曽沼広郷(あそぬまひろさと/阿曽沼)は南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)に臣従(しんじゅう)する事で領土を失う。

そこに九戸政実(くのへまさざね/南部→九戸)が反乱を起こした。

南部信直(なんぶのぶなお/石川→南部→豊臣)は、息子の南部利直(なんぶとしなお/豊臣→徳川)に家督継承して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の元へ援軍要請に向かわせた。

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)を総大将に大軍を率いて奥州征伐に進撃させる。

伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は配下でもあった葛西晴信(かさいはるのぶ/葛西)の反乱を鎮圧する。

名将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は、稗貫広忠(ひえぬきひろただ/和賀→稗貫)と和賀義忠(わがよしただ/和賀)の兄弟軍を直ぐに鎮圧した。

蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)や浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)の侵攻により反乱は直ぐに鎮圧され、兄の九戸政実(くのへまさざね/南部→九戸)と弟の九戸実親(くのへさねちか/南部→九戸)の九戸氏(くのへうじ)など謀反人は全員が斬首された。

これを1591年に起こった「九戸政実の乱」(くのへまさざねのらん)と呼ぶ。

1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”にて、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)に陣営を設けて布陣していた。

ところが此処(ここ)で体調を崩して病気を発症させる。

これにより陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)に、大将の蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)だけ帰還する。

1595年に山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)の城下町に建つ蒲生屋敷にて、蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)は39歳で死去した。

1595年に陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)の城主だった蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が死去すると、息子の蒲生秀行(がもうひでゆき/織田→ 豊臣→徳川)が当主に就任するが、1598年まで内部紛争で「蒲生騒動」(がもうそうどう)が発生し、下野国(しもつけ/栃木県)の18万石の宇都宮城(うつのみやじょう)に領地削減の減封(げんぽう)となる。

1598年に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、越後国(新潟県)の39万石から120万石の陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)へ、大幅な石高加増の領地移転の転封(てんぽう)となった。

この豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による目的には蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)と同様に、陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と、武蔵国(東京都)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の有力大名を監視と牽制する狙いがあった。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:06:21

◆◇◆其の三十一:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●栄枯盛衰は世の常、大名から牢人(無職侍)に落ちぶれ大名に返り咲いた百折不撓(ひゃくせつふとう)の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)

室町時代の美濃国(岐阜県)の東部では、室町幕府の守護大名の土岐氏(ときうじ)と守護代の斎藤氏が統治していた。

その家臣だったのが仙石久盛(せんごくひさもり/斎藤)で、千石氏(せんごくうじ)は奈良時代の藤原四子(ふじわらしし)と呼ばれた藤原房前(ふじわらふささき/公家)の藤原氏北家(ほっけ)の系統である。

戦国時代が始まると美濃国(岐阜県)の東部は、家臣が主君を討つ下克上(げこくじょう)が最も激しい地域となる。

そこで台頭したのが父親の長井新左衛門尉(ながいしんさえもんのじょう)こと松波庄五郎(まつなみしょうごろう/土岐→斎藤)と、息子の長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の親子である。

氏姓(しせい)を診ても一貫性が無く、主君の家系を乗っ取りしている事が判る。

父親の長井新左衛門尉(ながいしんさえもんのじょう)こと松波庄五郎(まつなみしょうごろう/土岐→斎藤)とは、藤原氏北家(ほっけ)の日野家の系統で、長井長弘(ながいながひろ/土岐)の家臣だった。

息子の長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)は、“蝮(マムシ)の道三”と呼ばれ美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を拠点とした戦国武将で、娘の濃姫(のうひめ/斎藤→織田)の嫁ぎ先が織田信長(おだのぶなが/織田)である。

1552年に美濃国(岐阜県)の東部にて、仙石久盛(せんごくひさもり/斎藤)の息子の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)が誕生する。

この頃の仙石久盛(せんごくひさもり/斎藤)は、斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の家臣に就いていた。

斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)は、息子の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)を家督継承者に就任させ、美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を譲った。

ところが一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)は、兄弟の斎藤孫四郎(さいとうまごしろう/斎藤)と斎藤喜平次(さいとうきへいじ/斎藤)を斬殺し、父親の斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)に対して謀反(むほん)を起こした。

こうして息子の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)と父親の斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)が対立する。

1556年に起こった「長良川の戦」(ながらがわのたたかい)にて、稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)の眼下に流れる長良川(ながらがわ)の両岸に、息子の一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)が率いる斎藤軍息子隊と、父親の斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)が率いる斎藤軍父親隊が布陣した。

合戦が始まると斎藤軍息子隊の総攻撃で斎藤軍父親隊は壊滅し、父親の斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)は討死した。

この時に尾張国(愛知県)から織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、義父の斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)に援軍として進軍していたが、合戦には間に合わなかった。

この時期に一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)の家臣に就いた父親の仙石久盛(せんごくひさもり/斎藤)だが、1561年に一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)が病気で死去した。

その息子の一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)が家督継承者に就任し、父親の仙石久盛(せんごくひさもり/斎藤)と息子の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は家臣となる。

1567年に起こった「稲葉山城の戦」(いなばやまじょうのたたかい)にて、 織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を拠点とする一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)と交戦し勝利した。

この合戦で、美濃三人衆(みのさんにんしゅう)と呼ばれる稲葉一鉄(いなばいってつ)こと稲葉良通(いなばよしみち/斎藤→織田→豊臣)と氏家卜全(うじいえぼくぜん)こと氏家直元(うじいえなおもと/斎藤→織田)と安藤守就(あんどうもりなり/斎藤→織田)が、織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返った事が勝因でもある。

美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を制圧した織田信長(おだのぶなが/織田)は、この地域を岐阜(ぎふ)と命名し、稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)も岐阜城(ぎふじょう)となる。

敗北により一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)は美濃国(岐阜県)から追放されて、近江国(滋賀県)の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)や越前国(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)を頼り逃亡した。

こうして事実上の美濃国(岐阜県)の領主だった斎藤氏は滅亡した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:07:09

◆◇◆其の三十二:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●栄枯盛衰は世の常、大名から牢人(無職侍)に落ちぶれ大名に返り咲いた百折不撓(ひゃくせつふとう)の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)

主君の斎藤氏が改易(かいえき)となり仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、勢力拡大を続ける織田信長(おだのぶなが/織田)に仕官した。

織田信長(おだのぶなが/織田)は仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)を採用し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の陪臣(ばいしん)に着任させた。

こうして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に従軍した仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、数々の合戦で武功(ぶこう)を挙げる。

1570年に起こった「姉川の戦」(あねがわのたたかい)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)を裏切った浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)へ報復する為に、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)に侵攻して勝利した。

この合戦で仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、浅井軍の武将を斬首する武功(ぶこう)を挙げ、近江国(滋賀県)の長浜城(ながはまじょう)の城主だった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から、近江国(滋賀県)の野洲(やす)に1千石の領土を与えられた。

この頃に四国の土佐国(高知県)を統治していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)が、讃岐国(香川県)と阿波国(徳島県)と伊予国(愛媛県)の統一を目指して勢力拡大を続けていた。

この長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)が、仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)と因縁の関係となる。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の妻は、名門家でもある土岐源氏の流れを汲(く)む美濃国(岐阜県)の武将の石谷光政(いしがいみつまさ/室町)の娘の加奈(かな/石谷→ 長宗我部)だった。

2人の間に誕生したのが長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)と長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/長宗我部→豊臣)などの息子である。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は四国統一に向けて、織田信長(おだのぶなが/織田)の了承を得る必要があると考える。

そこで血縁関係の人脈を使う事となる。

妻の加奈(かな/石谷→ 長宗我部)は土岐源氏の流れを汲(く)む美濃国(岐阜県)の武将の石谷光政(いしがいみつまさ/室町)の娘。

父親の石谷光政(いしがいみつまさ/室町)の養子となっていたのが斎藤氏の出生である石谷頼辰(いしがいよりとき/室町→明智→ 長宗我部)で、加奈(かな/石谷→ 長宗我部)の義兄にあたる。

石谷頼辰(いしがいよりとき/室町→明智→ 長宗我部)や斎藤氏は、織田信長(おだのぶなが/織田)の重鎮家臣団の“織田四天王”の1人である明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の家臣だった。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は、石谷頼辰(いしがいよりとき/室町→明智→ 長宗我部)を介して明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)から織田信長(おだのぶなが/織田)に接触し、表向きの友好関係を結ぶ。

これにより織田信長(おだのぶなが/織田)から四国統一のお墨付きを頂く。

これが、日本全国を揺るがす騒動になるとは・・・

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の軍隊は、1576年に阿波国(徳島県)に侵攻する。

この頃の1577年に、織田信長(おだのぶなが/織田)の伝令(でんれい)により豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊による“中国攻め”が開始される。

この“中国攻め”に仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)も従軍した。

一方で長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は、1578年に讃岐国(香川県)との国境にある四国の要所と言われる阿波国(徳島県)の白地城(はくちじょう/三好)を攻略する。

これに伴い讃岐国(香川県)と阿波国(徳島県)の領主だった三好康長(みよしやすなが/三好→織田→豊臣)が織田信長(おだのぶなが/織田)に救援要請をする。

三好康長(みよしやすなが/三好→織田→豊臣)とは、三好長慶(みよしながよし/細川→三好)の叔父にあたる。

これに対して、織田信長(おだのぶなが/織田)は三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)の軍隊を援軍として向かわせる事を決定する。

しかし明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)にとって、親族が家臣に居る長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の侵攻は、虚を突かれる格好となった。

丹波国(京都府)にある亀山城(かめやまじょう/亀岡)にて・・・

明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)は家臣の石谷頼辰(いしがいよりとき/室町→明智→ 長宗我部)に、織田信長(おだのぶなが/織田)が三好康長(みよしやすなが/三好→織田→豊臣)を救済するため、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)を討伐するための軍隊を四国に派遣する旨を伝える。

明智光秀…『今回の長宗我部元親殿への措置は信長殿の意向であり、致し方のない事ぞぉ。』

石谷頼辰…『分かり申した。 その旨、土佐国(高知県)に出向き長宗我部元親殿に伝えます候(そうろう)。』

土佐国(高知県)にある岡豊城(おこうじょう/南国)にて・・・

長宗我部元親…『やはり、そう来たかっ!』

石谷頼辰…『すまぬなぁ元親殿、なんせ、あの信長殿じゃ、側近の光秀殿ですら理解に苦しんでおる。』

長宗我部元親…『ところでじゃ。 ものは相談じゃが、わしぃと頼辰殿とは親戚、敷いては光秀殿も土岐源氏の家系で縁戚関係である。 どうじゃ、明智政権を樹立する意向はないか?』

石谷頼辰…『えっ!? 明智政権? どう言う事じゃ?』

長宗我部元親…『光秀殿が畿内(きない/関西)を制圧し天下を狙うなら、わしぃは四国一国から支援致す。』

石谷頼辰…『そっ、それは、信長殿を亡き者にすると言う意味か・・・』

再び丹波国(京都府)にある亀山城(かめやまじょう/亀岡)にて・・・

明智光秀…『元親殿が、その様な恐ろしい事をのぉ。』

石谷頼辰…『ただ、元親殿の言う事も一理ありますぞぉ、逆に光秀殿とて、いつ信長殿の気変わりで亡き者にされるやもしれぬぅ! それならば、この機会に先手を打つ事もあり得ます。』

明智光秀…『うむぅ〜 ・・・』

その頃、和泉国(大阪府)の堺の湊から、織田信長(おだのぶなが/織田)の三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)の軍隊が、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)を征伐するため軍艦や軍備などの準備に勤(いそ)しんでいた。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:07:57

◆◇◆其の三十三:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●栄枯盛衰は世の常、大名から牢人(無職侍)に落ちぶれ大名に返り咲いた百折不撓(ひゃくせつふとう)の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)

時は1582年・・・

中国地方の毛利征伐を担っている豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の援軍要請で、京都の本能寺に滞在していた織田信長(おだのぶなが/織田)と少人数の軍隊。

同じく豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の援軍として丹波国(京都府)の亀山城(かめやまじょう/亀岡)から出陣した明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の軍隊。

そこには春日局(かすがのつぼね/明智→徳川)の父親で明智家臣の斎藤利三(さいとうとしみつ/明智)も参戦していた。

右に行けば豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が居る中国地方、左に行けば織田信長(おだのぶなが/織田)が居る京都の本能寺。

明智光秀…『明智政権か、悪くないのぉ。』

斎藤利三…『光秀殿、どうされた?』

明智光秀…『敵は本能寺に有りっ!』

これが世に言う「本能寺の変」である。

1582年に起こった「備中高松城の戦」(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)にて、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の城主だった清水宗治(しみずむねはる/毛利)は篭城して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に対峙した。

ところが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を攻撃する事なく兵糧攻めに徹した。

しかも備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)が平地に建つ平城(ひらじろ)だった事もあり、天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の提案により、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は近隣に流れる河川と雨季を活用して城郭の周囲に堤防を築造した。

こうして河川から水を引き入れて備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を水没させた「備中高松城の水攻め」(びっちゅうたかまつじょうのみずぜめ)を実施した。

兵糧攻めと水没の不安定な心理を利用する戦略である。

ところがである。

京都では1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

この伝達は直ぐに豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の耳にも入った。

こうして豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、毛利氏の専属の僧侶で交渉人の安国寺恵瓊(あんこくじえけい/武田→毛利→豊臣)と講和交渉を開始して、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と和議を締結した。

この和睦の交渉は毛利氏の専属の僧侶だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい/武田→毛利→豊臣)が担い、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)との和睦に賛成したが、次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)だけは最後まで反対していた。

和議の1項目の条件として、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の城主の清水宗治(しみずむねはる/毛利)の戦争責任による切腹が盛り込まれていた。

これにより清水宗治(しみずむねはる/毛利)は、水没した備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を背景に小舟に乗り降伏の証として水上で自害した。

それを確認した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)する。

この時に仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から、淡路国(兵庫県)にて長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の軍隊の追撃を抑える為に、後方の防御を固める様に伝令(でんれい)が下される。

一方の四国では、勢力拡大する土佐国(高知県)の武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は阿波国(徳島県)を制圧する。

その時に京都から吉報が入る。

明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)が、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)を京都の本能寺で討った。

長宗我部元親…『わしぃの進言通り、光秀殿がとうとうやったかっ! ならば明智政権の樹立のため、四国統一を急がねば為(な)らぬなっ!』

その時に京都から凶報が入る。

山城国(京都府)では、「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

長宗我部元親…『えっ!? 光秀殿が討ち取られた!?』

そのとき既(すで)に、明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の家臣の斎藤利三(さいとうとしみつ/明智)も斬首(ざんしゅ)され、三条河原で晒首(さらしくび)にされていた。

春日局…『お父ちゃ〜ん、死んじゃ嫌やぁ〜〜 うぇ〜〜ん!』

これにより明智光秀(あけちみつひで/織田→明智)の家臣だった斎藤氏と石谷氏が、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)を頼り四国に渡っている。

この頃から四国に暗雲が垂れ込め始める。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:08:41

◆◇◆其の三十四:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●栄枯盛衰は世の常、大名から牢人(無職侍)に落ちぶれ大名に返り咲いた百折不撓(ひゃくせつふとう)の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)

1582年に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)で開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と池田恒興(いけだつねおき/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の4人は、織田氏の家督継承者に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子で3歳の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を就任させた。

まだ幼少期だった三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)の事もあり、その後見人に次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が就いた。

その後に、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が対立する事になる。

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、織田氏の家督継承者の覇権争いで、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が、近江国(滋賀県)に広がる琵琶湖の北部に連なる山岳地帯の賤ヶ岳(しずがたけ)で交戦を繰り広げた。

この合戦でも豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)からの伝令(でんれい)により仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、淡路国(兵庫県)に陣営を設けて布陣し長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の軍隊を牽制(けんせい)した。

一時は柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が戦況は優勢だったが、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の裏切りもあり敗北した。

これにより越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と“小牧山の美女”と言われるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)は自決した。

三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)も、1583年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と対立して、幽閉された尾張国(愛知県)の知多半島に位置する野間の野間大坊(のまだいぼう)こと内海大御堂寺(うつみおおみどうじ/真言宗)で自決した。

「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)の後に、淡路国(兵庫県)にて仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の軍隊を抑制した功績が認められ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から淡路国(兵庫県)の5万石の領国を与えられる。

この戦況でも長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は四国統一の“夢”に向かって突き進む。

1584年に三好氏(みよしし)の残党を征伐し、讃岐国(香川県)を制圧する。

1585年に河野氏(かわのし)と西園寺氏(さいおんじし)を征伐して伊予国(愛媛県)を制圧し、念願だった四国統一を果たし“夢”を実現させた。

ところが喜びも束(つか)の間、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から思いもよらない通達が来る。

豊臣秀吉…『光秀殿を影で操った元親殿よぉ、出身地の土佐国(高知県)だけは領国として認めるが、残りの国は豊臣政権の管轄とする。』

長宗我部元親…『うぐっぐっ、先般に四国統一をしたばかりで、横から奪うつもりかっ! ならば、力尽(ちからず)くで取ってみよぉ!』

豊臣秀吉…『流石(さすが)は荒波に揉(も)まれた土佐武将であるなっ! ならばお望み通りに奪うまでよぉ!』

1585年に始まった豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)が率いる10万人の豊臣軍による四国征伐に対して、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)が率いる長宗我部軍は僅(わず)か4万人。

阿波国(徳島県)からは、豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)と豊臣秀次(とよとみひでつぐ/豊臣)の軍隊が侵攻した。

讃岐国(香川県)からは、天才軍師と呼ばれる黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)と宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)の軍隊が侵攻した。

伊予国(愛媛県)からは、吉川元春(きっかわもとはる/毛利)と小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)の軍隊が侵攻した。

しかも四国の武将は、ほとんどが豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)に服従した。

豊臣政権の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、淡路国(兵庫県)から四国に出陣し、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の軍隊に侵攻して壊滅させている。

阿波国(徳島県)の白地城(はくちじょう/三好)に本陣を構える長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の軍隊だが、軍備も足りず武装は旧式のままで、潤沢な軍備と最新の武装で攻め入る豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の軍隊に立ち向かえる訳がない。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は四国統一から3ヶ月後に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏し臣従(しんじゅう)する。

仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の軍隊に侵攻して壊滅させた功績が認められ、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から讃岐国(香川県)の13万石の領国を与えられる。

一方の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)は、豊臣政権で土佐国(高知県)の領主として地域のために治める。

そして家督を長男の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)に継承すべく準備に入る。

この嫡男(ちゃくなん)の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)は、内外認める有能な武将で、父親の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の期待も大きかった。

再び土佐国(高知県)に暗雲が垂れ込め始める。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:09:29

◆◇◆其の三十五:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●栄枯盛衰は世の常、大名から牢人(無職侍)に落ちぶれ大名に返り咲いた百折不撓(ひゃくせつふとう)の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)

1586年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一の総仕上げとして九州征伐に動く。

それに先立ち、薩摩国(鹿児島県)の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が統括する島津四兄弟が率いる島津軍が動いた。

南九州の薩摩国(鹿児島県)から肥後国(熊本県)の西側ルートを進軍する島津軍1号隊は、総大将の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)が3万人の軍隊を率いた。

日向国(ひむか/宮崎県)の東側ルートを進軍する島津軍2号隊は、宮之城家(みやのじょうけ)の島津忠長(しまづただたけ/島津)が2万人の軍隊を率いて、両軍共に豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が控える大友軍を攻める作戦である。

先に北九州に到着した島津軍1号隊は、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の重鎮家臣の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が居城する筑前国(福岡県)の岩屋城(いわやじょう/太宰府)を包囲する。

高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)とは、吉弘鑑理(よしひろあきまさ/大友)の息子で高橋氏に養子に入り、岩屋城(いわやじょう/太宰府)の城主となった人物である。

この時の軍勢は島津軍1号隊の3万人に対して、大友軍高橋隊は700人余り。

決戦前から勝敗は目に見えている。

当然に武将の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)も降伏するかと思いきや、徹底抗戦の構えを見せる。

岩屋城(いわやじょう/太宰府)の東側に建つ宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)には、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子の高橋統増(たかはしむねます)こと立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居城する。

岩屋城(いわやじょう/太宰府)の北側に建つ立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)には、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)の息子で立花道雪(たちばなどうせつ/大友)に養子に入っていた立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が居城する。

筑前国(福岡県)全域で見れば、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が統治する鉄壁の要塞となっていた。

この時の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)は、岩屋城(いわやじょう/太宰府)に居城する家臣達に、こう述べて鼓舞(こぶ)した。

高橋紹運…『ここで降伏するのは簡単だ。 ただ、たとえ大軍相手とて、武士なら戦わねばならない時がある。 それが今だっ! ここで交戦すれば15日は保(も)つだろう。 そうすれば島津軍も豊後国(ぶんご/大分県)への侵攻が遅れ、そうしている内に、本土から豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍本隊が到着する。 皆の博多武士団の底力を見せてやれぇ!』

岩屋城の武士…『おっ〜〜!』

これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が指揮する島津軍1号隊は岩屋城(いわやじょう/太宰府)に対して一斉攻撃を仕掛けるが、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)が指揮する大友軍高橋隊の抵抗は激しく、なかなか落城できない。

時折(ときおり)、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)は降伏要求するも、高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)は断固拒否。

そして合戦から13日が経とうとした時に、最期を悟った大将の高橋紹運(たかはしじょううん/大友→豊臣)と残った武士は集団自決して、この戦(いくさ)は幕引きとなった。

これを1586年に起こった「岩屋城の戦」(いわやじょうのたたかい)と呼ぶ。

次に島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍1号隊は、立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)が居城する東側の宝満山城(ほうまんざんじょう/筑紫野)を攻撃した。

この総攻撃に立花直次(たちばななおつぐ/大友→豊臣→徳川)は降伏し、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)に命だけは助けられた。

続いて立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)が居城する立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)に侵攻した島津軍1号隊だが、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の降伏要求に対して、立花宗茂(たちばなむねしげ/大友→豊臣→徳川)は投降する素振りを見せる“詐降の計略”(さこうのけいりゃく)を展開して、援軍が到着するまでの時間稼ぎをする。

そして安芸国(あき/広島県)から毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が率いる豊臣軍毛利隊が立花山城(たちばなやまじょう/糟屋)に進軍して来た。

これにより島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)の島津軍1号隊は作戦変更し、狙いを豊後国(ぶんご/大分県)の大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)に絞る。

この時間経過により、等々(とうとう)に島津四兄弟が恐れていた事が起こる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260729 - ラジオの友

2026/07/29 (Wed) 03:10:21

◆◇◆其の三十六:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●栄枯盛衰は世の常、大名から牢人(無職侍)に落ちぶれ大名に返り咲いた百折不撓(ひゃくせつふとう)の仙石秀久(せんごくひでひさ/斎藤→織田→豊臣→徳川)

豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、先(ま)ずは先鋒隊として美濃国(岐阜県)の武将である仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が率いる豊臣軍仙石隊を九州に送り込んだ。

この豊臣軍仙石隊には、土佐国(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)と息子の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)など、四国の武将が多く参戦していた。

ただ、この時点での豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)からの命令はこうだった。

豊臣秀吉…『島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍を威嚇(いかく)するだけで良い。 わしぃの豊臣軍本隊が到着するまで攻撃は厳禁である。』

ところが、豊前国(ぶぜん/福岡県)で大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の大友軍に対しての反乱が起こり、大友宗麟(おおともそうりん/室町→豊臣)の息子の大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)と、豊臣軍仙石隊の大将の仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が、反乱鎮圧する為に豊後国(ぶんご/大分県)から大軍を率いて豊前国(ぶぜん/福岡県)に侵攻してしまう。

ここで豊後国(ぶんご/大分県)の守備が弱くなり、総大将の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)と島津家久(しまづいえひさ/島津)が率いた3万人の島津軍1号隊と、宮之城家(みやのじょうけ)の島津忠長(しまづただたけ/島津)が率いた2万人の島津軍2号隊が合流して、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が控える大友軍に侵攻する。

肥後国(熊本県)と日向国(ひむか/宮崎県)から侵攻して来た島津軍に対して、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)が指揮する大友軍も応戦する。

この時、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)はポルトガルから輸入した最新鋭の大砲を使用して、進撃して来る島津軍に対して次々と砲弾を浴びせる。

見た事のない武器と攻撃に島津軍の武士は慄(おのの)き、恐怖の余りに士気は低下した。

そこに豊前国(ぶぜん/福岡県)の反乱鎮圧に向かっていた大友義統(おおともよしむね/豊臣→徳川)が率いる大友軍の別働隊と、仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が率いる豊臣軍仙石隊が戻って来た為に、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が指揮する島津軍は撤退を始める。

その後、島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍は、大友宗麟(おおともそうりん/大友→豊臣)の本陣でもある豊後国(ぶんご/大分県)の府内城(ふないじょう/大分)に向けて再び侵攻を開始した。

その途中にある山城の鶴賀城(つるがじょう/大分)を、島津家久(しまづいえひさ/島津)が率いる2万人の島津軍3号隊が包囲した。

鶴賀城(つるがじょう/大分)には2000人程の武士しか居らず、大友軍の劣勢は明らかである。

その知らせを聞いた仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)が率いる豊臣軍仙石隊が、家臣の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)などの反対意見を聞かずに救援に向かう。

長宗我部元親…『豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)殿の豊臣軍本隊が到着するまで、軽率(けいそつ)な進軍は固く禁じられていますぞぉ!』

仙石秀久…『アホっか、味方が苦境に陥っているのに、見殺しにできるかぁ! 助けぬは武道の道義に反する、武士の恥を知れっ!』

この豊臣軍仙石隊の進軍を聞いた島津家久(しまづいえひさ/島津)が指揮する島津軍3号隊は、鶴賀城(つるがじょう/大分)の包囲を解き、豊後国(ぶんご/大分県)の南北を流れる戸次川(へつぎがわ/大野川)まで退却して布陣した。

豊臣軍仙石隊を指揮する仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)は、戸次川(へつぎがわ/大野川)を渡って一気に総攻撃する様に命じる。

ここでも家臣の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)などの反対意見が出る。

長宗我部元親…『今は極寒の冬の為に川を渡っての進軍は、冷たい水で武士の耐力を消耗させるので危険、ここは援軍を待ってからの攻撃が得策であるぞぉ!』

仙石秀久…『アホっか、今やらねばいつやるのかぁ!? この戦(いくさ)にはわしぃの論功行賞(ろんこうこうしょう)が掛かっておるのじゃ! 武功(ぶこう)による恩賞(おんしょう)は武道の道義、武士の恥を知れっ!』

長宗我部元親…『ここまで露骨に利己主義(りこしゅぎ)を表に現す人も珍しい。』

この戦略なしの状況下で長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)も、大将である仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)の伝令(でんれい)を聞き入れない訳にはいかず、息子の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)と共に戸次川(へつぎがわ/大野川)を渡って島津軍3号隊の領地まで侵攻する。

この軽率な侵攻により、島津軍3号隊は島津氏のお家芸でもある“釣り野伏せ”(つりのぶせ)で豊臣軍仙石隊を誘き寄せて、ある一定の位置にまで来た時に隠れていた伏兵の鉄砲(火縄銃)で総攻撃を浴びせた。

これが致命傷となり、島津軍3号隊の罠に掛かった仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)の豊臣軍仙石隊は壊滅する。

これにより仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)と長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)はなんとか逃亡するも、長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか/長宗我部→豊臣)は討死する。

しかも豊臣軍仙石隊の大将の仙石秀久(せんごくひでひさ/豊臣→徳川)は、戦地から敗走して豊前国(ぶぜん/福岡県)の小倉城(こくらじょう/北九州)に逃げ込み、更に領地の讃岐国(香川県)まで逃げ帰った。

こうして島津家久(しまづいえひさ/島津)が指揮する島津軍が一時的に勝利する。

これを1587年に起こった「戸次川の戦」(へつぎがわのたたかい)と呼ぶ。

今日の1枚、お薦めレコード/20260728 - ラジオの友 URL

2026/07/28 (Tue) 05:38:14

BROOKLYN BOUNCE /♪ BASS,BEATS,AND MELODY

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2026/07/28 (Tue) 05:39:17

BASEMENT JAXX /♪ RED ALERT

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2026/07/28 (Tue) 05:40:12

delays /♪ VALENTINE

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2026/07/28 (Tue) 05:41:03

STING /♪ SEND YOUR LOVE

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2026/07/28 (Tue) 05:41:57

Till West & DJ Delicious/♪ SAME MAN

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2026/07/28 (Tue) 05:42:53

OCEANLAB /♪ SATELLITE

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2026/07/28 (Tue) 05:43:55

BOB SINCLAR /♪ FEEL FOR YOU

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2026/07/28 (Tue) 05:44:52

Ken Ishii /♪ Extra

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2026/07/28 (Tue) 05:45:49

Jerome x LUNAX x Orange INC feat. Nathalie Blue/♪ BREATHE ME TO LIFE(AYAHUASCA)

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2026/07/28 (Tue) 05:46:43

CLINIC /♪ COME INTO YOUR ROOM

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2026/07/28 (Tue) 05:47:41

KREO /♪ BURN FOR YOU

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2026/07/28 (Tue) 05:48:41

VALLEJO /♪ OVER YOU

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2026/07/28 (Tue) 05:49:45

SWV /♪ CAN WE

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2026/07/28 (Tue) 05:50:40

TYLER,THE CREATOR /♪ NOVEMBER

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2026/07/28 (Tue) 05:51:43

MANDALAY /♪ BEAUTIFUL

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2026/07/28 (Tue) 05:52:38

OLDLAND MONTANO /♪ SUNKEN LOVE

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2026/07/28 (Tue) 05:53:31

ULTRA NATE /♪ SHOW ME

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2026/07/28 (Tue) 05:54:26

INCOGNITO FEAT.NATALIE DUNCAN /♪ MAKE ME CHANGE MY MIND

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2026/07/27 (Mon) 03:00:34

BLOODHOUND GANG /♪ MOPE

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2026/07/27 (Mon) 03:01:35

Falco/♪ Rock Me Amadeus

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2026/07/27 (Mon) 03:02:51

Frankie Goes To Hollywood/♪ Relax

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2026/07/27 (Mon) 03:03:52

NAMCO LIMITED /♪ Pac-Man Original (Arcade 1980)

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2026/07/27 (Mon) 03:05:53

Cyndi Lauper/♪ GIRLS JUST WANNA HAVE FUN

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2026/07/27 (Mon) 03:06:54

LOLLY /♪ GIRLS JUST WANNA HAVE FUN

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2026/07/27 (Mon) 03:07:44

Stevie Wonder/♪ HIGHER GROUND

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2026/07/27 (Mon) 03:08:43

MICHAEL MCDONALD /♪ HIGHER GROUND

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Al Kooper/♪ JOLIE

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LATIMORE /♪ JOLIE

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2026/07/27 (Mon) 03:11:28

THE BEATLES /♪ I WANNA BE YOUR MAN

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2026/07/27 (Mon) 03:12:23

The Rolling Stones /♪ I WANNA BE YOUR MAN

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2026/07/27 (Mon) 03:13:18

Van Halen/♪ JUMP

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2026/07/27 (Mon) 03:14:14

AZTEC CAMERA /♪ JUMP

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2026/07/27 (Mon) 03:15:11

Madonna /♪ Love Don't Live Here Anymore

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2026/07/27 (Mon) 03:16:10

GANGSTA BOO/♪ LOVE DON'T LIVE

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2026/07/27 (Mon) 03:17:04

RAPPIN' 4-TAY /♪ I'LL BE AROUND

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2026/07/27 (Mon) 03:17:58

The Spinners/♪ I'll Be Around

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今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:34:31

◆◇◆其の一:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)に忠義を貫いた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)

愛知県の北西部に丹羽郡があり、大口町(おおぐちちょう)と扶桑町(ふそうちょう)で構成されている。

大口町(おおぐちちょう)には、オークマやヤマザキマザックの本社工場があり、その周辺には大小の工作機器の会社が多く点在している。

その為に大口町(おおぐちちょう)は、全国的にも財政が裕福な自治体に該当している。

愛知県丹羽郡の周囲を視ると、戦国時代には尾張国(愛知県)の小牧山城(こまきやまじょう)をはじめ、木曽川の畔には国宝の犬山城(いぬやまじょう)が建ち、その対岸に美濃国(岐阜県)の鵜沼城(うぬまじょう/各務原)も建っていた。

この周辺は中山道(なかせんどう)が通り、鎌倉時代から室町時代に掛けて、畿内(きない/関西)の京都と相模国(神奈川県)の鎌倉を結ぶ鎌倉街道が通り交通の要所として、鎌倉幕府も室町幕府も重要拠点と位置付けていた。

この地域には平安時代に長岡京(ながおかきょう)や平安京(へいあんきょう)に遷都(せんと)した第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)の末裔が、丹羽氏(にわうじ)の氏姓(しせい)を名乗り定着したと言われる。

現代でも丹羽氏(にわうじ)は、愛知県丹羽郡など北西部が出自(しゅつじ)との人も多い。

では、丹羽氏(にわうじ)と聞いて誰を想像するか?

歴史愛好家は、ほぼ丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と答える。

丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、その生涯をほぼ織田信長(おだのぶなが/織田)の傍(かたわら)で仕えた戦国武将である。

織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍には、4人の智勇(ちゆう)で明察(めいさつ)な武将を称した言葉がある。

『木綿藤吉(もめんとうきち/木下藤吉郎)、米五郎左(こめごろうさ/丹羽長秀)、掛(か)かれ柴田(柴田勝家)に、退(の)き佐久間(佐久間信盛)』

木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、木綿は丈夫でいろんな用途がある。

五郎左衛門尉(ごろうざえもんのじょう)こと丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、米の様に必要な人物。

柴田勝家(しばたかついえ/織田)は、先陣を切る勇猛な武将。

佐久間信盛(さくまのぶもり/織田)は、撤退戦にて敵から逃げる時、味方を無事に逃がして追ってくる敵を食い止める殿(しんがり)。

また、豊臣政権で樹立し天下統一を果たした羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、織田軍で尊敬する2人の武将で“織田四天王”に選定される丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)の“羽”と柴田勝家(しばたかついえ/織田)の“柴”を、氏姓(しせい)に賜っている。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:35:10

◆◇◆其の二:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)に忠義を貫いた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)

1535年に尾張国(愛知県)の児玉(こだま/名古屋)にて、室町幕府の管領(さんかんれい)の斯波氏の家臣として仕えていた丹羽長政(にわながまさ/斯波)の息子の丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)が誕生した。

元は斯波氏に仕える織田氏が下克上(げこくじょう)により勢力拡大し、1549年に丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、織田大和守の織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の家督継承者だった織田信長(おだのぶなが/織田)の傍仕(そばづか)えに就く。

その後、尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)を拠点に織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、織田氏の親族や近隣諸国の武将と交戦を繰り広げた。

この主要な合戦の殆どに、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)も従軍している。

1554年に起こった「村木砦の戦」(むらきとりでのたたかい)にて、緒川城(おがわじょう/東浦)の城主の水野信元(みずののぶもと/今川→織田)と共に、今川義元(いまがわよしもと/今川)が手配した今川軍と交戦し勝利する。

1556年に起こった「稲生の戦」(いのうのたたかい)にて、兄の織田信長(おだのぶなが/織田)と弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)が、織田氏の家督継承を巡り庄内川の周辺で交戦し勝利する。

1560年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)から進軍してきた“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる今川義元(いまがわよしもと/今川)に奇襲を仕掛けて勝利する。

1563年に丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、織田信広(おだのぶひろ/織田)の娘で織田信長(おだのぶなが/織田)の養女に入った深光院(しんこういん)こと桂峯院(けいほういん/織田→豊臣)を妻に娶(めと)る。

1567年に起こった「稲葉山城の戦」(いなばやまじょうのたたかい)にて、 美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を拠点とする一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)と交戦し勝利した。

美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を制圧した織田信長(おだのぶなが/織田)は、この地域を岐阜(ぎふ)と命名し、稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)も岐阜城(ぎふじょう)となる。

“蝮(マムシ)の道三”と呼ばれた長井規秀(ながいのりひで)こと斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)を祖父に、一色義龍(いっしきよしたつ)こと斎藤義龍(さいとうよしたつ/斎藤)を父親に持つ、一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)は美濃国(岐阜県)から追放されて近江国(滋賀県)の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)を頼り逃亡した。

1568年に起こった「上洛戦」(じょうらくせん)にて、征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)を京都に上洛させる為に、近江国(滋賀県)の武将の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)と交戦し勝利する。

この合戦で丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は多くの武功(ぶこう)を挙げて、敵将の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)は近江国(滋賀県)の山間部にいつもの様に逃亡した。

1570年に起こった「金ヶ崎の戦」(かねがさきのたたかい)にて、越前国(福井県)の一乗谷館(いちじょうだにやかた/福井)を拠点にする朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)を、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が侵攻するもの、“小牧山の美女”と呼ばれる織田信長(おだのぶなが/織田)の妹のお市の方(おいちのかた/織田→浅井)が嫁いだ近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)を拠点にする浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)が寝返った。

お市の方(おいちのかた/織田→浅井)からの陣中見舞いで届いた“両端を縛った小豆袋”を観た織田信長(おだのぶなが/織田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が南北で挟まれて袋の鼠(ねずみ)となった事を知り、直ぐ様に織田軍を撤退させる「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)を実行した。

1570年に起こった「姉川の戦」(あねがわのたたかい)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)を裏切った浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)へ報復する為に、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)に侵攻して勝利した。

平安時代の806年に、天台宗(てんだいしゅう)の宗祖となる伝教大師(でんぎょうだいし)こと最澄(さいちょう/天台宗)が、近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)に総本山となる延暦寺(えんりゃくじ)を建立(こんりゅう)し、平安時代の中期から北嶺(ほくれい)と呼ばれた延暦寺(えんりゃくじ)は、そこに配備された僧兵を山法師(やまほうし)で軍備も増強していた。

戦国時代には延暦寺(えんりゃくじ)の僧侶や山法師(やまほうし)も、京都の皇族や朝廷の公家などと交流を深めて酒宴を催し、その延長線で多くの女人が比叡山(ひえいざん)に入山し、肉や魚やお酒が運び込まれて、毎夜の様に是生滅法(ぜしょうめっぽう)や六道輪廻(ろくどうりんね)を習得する為の勉学会が開催された。

そして、「姉川の戦」(あねがわのたたかい)で敗北した浅井軍や朝倉軍の武士を、近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)に建つ延暦寺(えんりゃくじ)が匿(かくま)う事になり、僧兵の山法師(やまほうし)を集結させて、織田信長(おだのぶなが/織田)に報復する準備を始める。

1571年に起こった「延暦寺焼討ち」(えんりゃくじやきうち)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)に建つ延暦寺(えんりゃくじ)に侵攻して勝利する。

この時に比叡山(ひえいざん)の周囲は、焼肉の香ばしい匂いが漂っていたと言う。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:35:46

◆◇◆其の三:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)に忠義を貫いた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)

丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の武将の役割だけでなく、織田氏の政権で政務や外交もこなし英明果敢 (えいめいかかん)な官僚の役割も果たした。

1571年に丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、近江国(滋賀県)の佐和山城(さわやまじょう/彦根)の城主に就任した。

同年の1571年に丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と深光院(しんこういん)こと桂峯院(けいほういん/織田→豊臣)の息子の丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)が誕生する。

1573年に近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)を拠点にする浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)に、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は侵攻して勝利する。

1573年に起こった「一乗谷城の戦」(いちじょうだにじょうのたたかい)にて、越前国(福井県)の一乗谷館(いちじょうだにやかた/福井)を拠点にする朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)に、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は侵攻して勝利する。

この合戦で浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)と、朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)は自決して死去した。

織田信長(おだのぶなが/織田)は、この3人の髑髏(しゃれこうべ)に金箔を貼り、お酒を注いで髑髏杯(どくろはい)にした。

1571年に丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、若狭国(福井県)の領国を与えられ領主に就任し、織田氏の重鎮家臣で初めての国持ち大名になる。

若狭国(福井県)は元は若狭武田氏が後瀬山城(のちせやまじょう/小浜)を拠点に統治していたが、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)が領主に就いた為に、若狭武田氏は越前国(福井県)の一乗谷館(いちじょうだにやかた/福井)に移住し、国衆(くにしゅう)は丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)の家臣として帰属(きぞく)し、不在が多い丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)に代わって若狭国(福井県)の守護代を務めた。

1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)にて、武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、遠江国(とおとうみ/静岡県)に侵攻して徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍と交戦し勝利した。

しかし、1573年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去する。

武田氏の16代目当主だった武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去した事により、息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)が17代目当主に就任した。

京都の室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は山城国(京都府)の宇治にて、織田信長(おだのぶなが/織田)と敵対して1573年に起こった「槇島城の戦」(まきしまじょうのたたかい)で敗北して京都から追放された。

この時に足利義昭(あしかがよしあき/室町)は侍従(じじゅう)に就いていた武田信実(たけだのぶざね/武田)の進言もあり、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点とする毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を頼ってきた。

しかし、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)としては織田信長(おだのぶなが/織田)の心情を気にして、足利義昭(あしかがよしあき/室町)には安芸国(あき/広島県)ではなく1歩手前の鞆の浦(とものうら/福山)に滞在してもらう事にした。

こうして征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は1人で、1576年に鞆幕府(ともばくふ)を開設した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:36:29

◆◇◆其の四:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)に忠義を貫いた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)

1573年に志摩国(三重県)の波切城(なきりじょう/志摩)を拠点とした九鬼水軍の“海賊大名”と呼ばれた九鬼嘉隆(くきよしたか/九鬼→織田→豊臣)の協力を得て、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は織田軍の水軍を強化する為に三十間(54m)の大型軍船を造船した。

1574年に起こった「長島一向一揆」(ながしまいっこういっき)にて、伊勢国(三重県)の長島(桑名)の願証寺(がんしょうじ/浄土真宗)を中心となる一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)の一向一揆の抵抗が激化して、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は進軍して、この時に伊勢湾から木曽川や長良川を上って来たのが九鬼水軍の九鬼嘉隆(くきよしたか/九鬼→織田→豊臣)が侵攻した。

この合戦で、織田信長(おだのぶなが/織田)の兄の織田信広(おだのぶひろ/織田)や、守山城(もりやまじょう/名古屋)の城主で織田秀孝(おだひでたか/織田)を誤認(ごにん)で織田信長(おだのぶなが/織田)の弟の弓の矢で射殺してしまった織田信次(おだのぶつぐ/織田)など、多くの織田氏の親族が討死した。

1571年から一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)の一揆の紛争が起こっていた長島(桑名)の一向一揆は、こうしてようやく鎮圧された。

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、三河国(愛知県)の長篠(ながしの)と設楽原(したらがはら)の戦地で、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍と織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

戦況は織田徳川軍鉄砲隊の三段構えによる銃撃で武田軍騎馬隊は壊滅し、武田勝頼(たけだかつより/武田)の陣営に対して“徳川四天王”と呼ばれる酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)による奇襲で陣形は崩壊し、織田徳川軍が勝利した。

1576年に織田信長(おだのぶなが/織田)は、近江国(滋賀県)の琵琶湖の畔に安土城(あづちじょう/近江八幡)を築城するにあたり、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)を総普請奉行に任命して、安土城(あづちじょう/近江八幡)の設計から建設までの総合建築責任者として全て任した。

1577年に起こった「信貴山城の戦」(しぎさんじょうのたたかい)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)の長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍長男隊は、松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)が篭城する大和国(奈良県)の生駒山の信貴山城(しぎさんじょう/平群)を包囲した。

勝機の薄い松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)は、天下の名器と言われた平蜘蛛茶釜(ひらぐもちゃがま)に火薬を詰め込み着火して爆死した。

1577年に起こった「手取川の戦」(てどりがわのたたかい)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる4万人の織田軍柴田隊は加賀国(石川県)から能登国(石川県)に侵攻を開始するも、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる2万人の上杉軍に奇襲され敗北する。

1577年に、織田信長(おだのぶなが/織田)の伝令(でんれい)により豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊による“中国攻め”が開始される。

1578年の厳冬に、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)の厠(かわや/便所)にて、毘沙門天(びしゃもんてん)の化身と言われた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は倒れて死去していた。

1579年に安土城(あづちじょう/近江八幡)は竣工し、今までの戦闘する城郭ではなく、周辺に威厳を示す豪奢(ごうしゃ)で華美(かび)な城郭に仕上がった。

天守閣の上層階には、安土桃山時代の絵師で“唐獅子図”や“洛中洛外図”が有名な狩野永徳(かのうえいとく/絵師)の絵図が描かれていた。

安土城(あづちじょう/近江八幡)の天守閣を観た織田信長(おだのぶなが/織田)は感銘し、そのまま天守閣に居住した。

キリスト教のカトリック司祭でイエズス会の宣教師のルイスフロイス(カトリック宣教師/ポルトガル)も、豪華絢爛な安土城(あづちじょう/近江八幡)を観て驚嘆(きょうたん)したと言う。

1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始されると、怒涛の勢いで長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍が、信濃国(長野県)から甲斐国(山梨県)へと侵攻してきた。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は擁護(ようご)してもらう為に、“武田二十四将”(たけだにじゅうししょう)に選ばれる小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が城主を務める甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に向かう。

ただ既に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は織田軍に寝返っており、最期(さいご)を知った武田勝頼(たけだかつより/武田)は自決し、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏は滅亡した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:37:10

◆◇◆其の五:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)に忠義を貫いた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)

ところが日本列島を激震させる事変が起こる。

京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

この時に、織田信長(おだのぶなが/織田)の三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)が率いる織田軍三男隊は、四国の土佐国(高知県)を拠点とする長宗我部元親(ちょうそかべもとちか/一条→ 長宗我部→豊臣)の討伐する為に、摂津国(大阪府)の住之江ノ津に集結していた頃に、京都から⦅主君の織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により死去した。⦆の伝達が入った。

摂津国(大阪府)の大坂と山城国(京都府)の京都は50km程の距離で、最も近い位置にいた三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)が率いる織田軍三男隊は、直ぐ様に弔(とむら)い合戦に出陣する準備を始めた。

ところが絶対的な織田氏の統治者だった織田信長(おだのぶなが/織田)が死去した事で、織田軍の武士に動揺が走り出奔(しゅっぽん)する者が続出して、織田軍三男隊の編成は瓦解(がかい)した為に出陣できなかった。

一方で、“一番槍と一番乗り”や“先陣争いの覇者”で名を馳せた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)の陪臣(ばいしん)の上田宗箇(うえだ そうこ)こと上田重安(うえだしげやす/織田→豊臣)は、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に居城していた津田信澄(つだのぶずみ)こと織田信澄(おだのぶずみ/織田)を討伐し斬首した。

近江国(滋賀県)の大溝城(おおみぞじょう/高島)の城主に就いていた津田信澄(つだのぶずみ)こと織田信澄(おだのぶずみ/織田)は、1558年に父親の織田信行(おだのぶゆき/織田)が兄の織田信長(おだのぶなが/織田)に刺殺されていた。

更に不運な事に、明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の娘が妻だった為に、周囲から疑惑の目が向けられ、上田宗箇(うえだ そうこ)こと上田重安(うえだしげやす/織田→豊臣)の誤認(ごにん)から襲撃を受けて死去した。

津田信澄(つだのぶずみ)こと織田信澄(おだのぶずみ/織田)は、身の回りの状況から誤解(ごかい)が生まれて、1582年に冤罪で命を落とした事になる。

その後、近江国(滋賀県)の大溝城(おおみぞじょう/高島)は丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)が城主に就き、城代に上田宗箇(うえだ そうこ)こと上田重安(うえだしげやす/織田→豊臣)が就任した。

後々に上田宗箇(うえだ そうこ)こと上田重安(うえだしげやす/織田→豊臣)は、田中与四郎(たなかよしろう)こと千利休(せんのりきゅう/茶人)や古田織部(ふるたおりべ/織田→豊臣→徳川)から茶道を学び、茶人として名を馳せる。

その間に“中国攻め”を実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、急遽に備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

そして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

1582年の織田信長(おだのぶなが/織田)の亡き後に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の仲介で、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)の息子の丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)と、織田信長(おだのぶなが/織田)の娘の報恩院(ほうおんいん/織田→豊臣→徳川)が結婚した。

1582年に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)で開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と池田恒興(いけだつねおき/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の4人は、織田氏の家督継承者に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子で3歳の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を就任させた。

まだ幼少期だった三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)の事もあり、その後見人に次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が就いた。

ところが三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)は結託して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と対立した。

これに対して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を担ぎ上げて近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)の城主に就任させた。

次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が対立する事になる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:37:49

◆◇◆其の六:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●織田信長(おだのぶなが/織田)に忠義を貫いた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、織田氏の家督継承者の覇権争いで、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が、近江国(滋賀県)に広がる琵琶湖の北部に連なる山岳地帯の賤ヶ岳(しずがたけ)で交戦を繰り広げた。

この合戦で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は参戦した。

一時は柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が戦況は優勢だったが、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の裏切りもあり敗北した。

これにより越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と“小牧山の美女”と言われるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)は自決した。

三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)も、1583年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と対立して、幽閉された尾張国(愛知県)の知多半島に位置する野間の野間大坊(のまだいぼう)こと内海大御堂寺(うつみおおみどうじ/真言宗)で自決した。

そして価値と必要が無くなった次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)により近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)から追い出された。

こうして織田軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に引き継がれる事になる。

「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)の勝利で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)に越前国(福井県)と加賀国(石川県)の一部の領国を与えられ、若狭国(福井県)を併せて123万石の領主に就任した。

織田軍の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が主君に登り詰めた事に憤懣(ふんまん)した織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)や三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同盟を締結して敵対した。

こうして1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の北部を中心に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

この合戦で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は参戦した。

しかし、総大将の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に報告も連絡も相談も無く、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の調略(ちょうりゃく)により和睦してしまう。

1585年に丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、体内に湧いた寄生虫で激痛が走り、自ら脇差(わきざし)で腹を裂き寄生虫を取り出して死去した。

丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)は、この寄生虫を豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に送り付ける様に遺言を残していた。

これが織田信長(おだのぶなが/織田)に忠義を貫いた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)が、一時的に仕えた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対する不忠(ふちゅう)の本心である。

丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)の死去により、丹羽氏(にわうじ)の家督と若狭国(福井県)と越前国(福井県)と加賀国(石川県)の一部の123万石の領国は、息子の丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)が継承した。

ところが「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)や「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に敵対した佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)と丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)が密通(みっつう)している嫌疑が豊臣政権から掛けられ、1585年に越前国(福井県)と加賀国(石川県)の一部を領地削減の減封(げんぽう)に処した。

こうして若狭国(福井県)の15万石の領主となった丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)だった。

更に1586年に起こった「九州征伐」(きゅうしゅうせいばつ)にて、豊臣軍が薩摩国(鹿児島県)の兄の島津義久(しまづよしひさ/島津→豊臣→徳川)と弟の島津義弘(しまづよしひろ/島津→豊臣→徳川)に侵攻する際に、丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)の家臣が不穏な行動を取ったとして、1587年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は若狭国(福井県)の15万石の領国を領地没収の改易(かいえき)に処した。

これは織田信長(おだのぶなが/織田)に忠義を貫いた丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)が、未だに織田軍の武士に敬仰(けいぎょう)されており、謀反(むほん)を恐れた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による奸計(かんけい)で、丹羽長重(にわながしげ/織田→豊臣→徳川)の政治力と軍事力を削ぎ落とす調略(ちょうりゃく)だった。

戦国時代(安土桃山時代)の末期になると豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一の覇道を突き進んだ。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:38:29

◆◇◆其の七:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●近江国(滋賀県)の甲賀流忍者から“織田四天王”に選定された滝川一益(たきがわかずます/織田)

1525年に近江国(滋賀県)の甲賀にて、甲賀流忍者の家系に滝川一益(たきがわかずます/織田)は誕生した。

ただ、滝川一益(たきがわかずます/織田)の出自(しゅつじ)は判明しておらず、前半生の記録ない為によくは判っていない。

織田信長(おだのぶなが/織田)の“信長公記”(しんちょうこうき)に滝川一益(たきがわかずます/織田)が記載されるのは1560年頃からで、この時の既に35歳の滝川一益(たきがわかずます/織田)は重鎮家臣だった。

鉄砲の名手と言われた滝川一益(たきがわかずます/織田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)は重用(ちょうよう)した。

1568年に起こった「伊勢攻め」にて、伊勢国(三重県)の国司だった北畠具教(きたばたけとものり/公家)を討伐する為に、滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊が侵攻して勝利する。

伊勢北畠氏の北畠具教(きたばたけとものり/公家)とは、征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)の家臣だった北畠晴具(きたばたけはるとも/公家)の息子で、吉川朝孝(よしかわともたか)こと塚原卜伝(つかはらぼくでん/剣術士)と上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)こと上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)から剣術を伝承され、剣術の達人だった柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし/剣術士)や胤舜(いんしゅん/僧兵)と親交もあったが、今回の合戦で討死した。

北畠晴具(きたばたけはるとも/公家)の息子の北畠具政(きたばたけともまさ)こと木造具政(こづくりともまさ/北畠→木造→織田)は、兄の北畠具教(きたばたけとものり/公家)から寝返り、織田信長(おだのぶなが/織田)に従属(じゅうぞく)し、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の家臣に就き、伊勢北畠氏の家臣だった木造氏(こづくりうじ)を引継ぐ。

その後、北畠具教(きたばたけとものり/公家)の息子の北畠具房(きたばたけともふさ/公家)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)を養子に入る。

北畠具房(きたばたけともふさ/公家)の娘の雪姫(ゆきひめ)こと千代御前(ちよごぜん/北畠→織田)は、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)の妻に嫁ぐ。

これ以降の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍の主戦場には、滝川一益(たきがわかずます/織田)は殆ど従軍して武功(ぶこう)を挙げている。

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、三河国(愛知県)の長篠(ながしの)と設楽原(したらがはら)の戦地で、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍と織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

この時に織田徳川軍鉄砲隊の三段構えによる銃撃で武田軍騎馬隊は壊滅させたが、鉄砲の名手の滝川一益(たきがわかずます/織田)が総指揮を執っていた。

織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍と、摂津国(大阪府)の石山本願寺(いしやまほんがんじ)を拠点とする顕如(けんにょ/僧侶)は、1570年〜1580年の10年間の長期に渡り交戦を続けていた。

1576年に起こった「第一次木津川口の戦」(だいいちじきづがわぐちのたたかい)にて、石山本願寺(いしやまほんがんじ)の顕如(けんにょ/僧侶)の援軍として安芸国(あき/広島県)から小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が指揮を執る毛利水軍と村上水軍に対して、織田水軍は摂津国(大阪府)の大坂湾で海上戦を繰り広げたが惨敗した。

この敗北で織田信長(おだのぶなが/織田)は、志摩国(三重県)の波切城(なきりじょう/志摩)を拠点とした九鬼水軍の“海賊大名”と呼ばれた九鬼嘉隆(くきよしたか/九鬼→織田→豊臣)の協力を得て、丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と滝川一益(たきがわかずます/織田)は織田軍の水軍を強化する為に、外装に鋼板を貼り巡らせた鉄甲船(てっこうせん)の大型軍船を造船した。

1578年に起こった「第二次木津川口の戦」(だいにじきづがわぐちのたたかい)にて、再び安芸国(あき/広島県)から小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が指揮を執る毛利水軍と村上水軍に対して、織田水軍は摂津国(大阪府)の大坂湾で海上戦を繰り広げたが、鉄甲船(てっこうせん)を含めた織田水軍を強化で勝利した。

一方で八面六臂(はちめんろっぴ)の滝川一益(たきがわかずます/織田)は、戦地以外でも才知(さいち)を発揮して、敵陣の武将に調略(ちょうりゃく)や知謀(ちぼう)で織田軍に引き入れている。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:39:09

◆◇◆其の八:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●近江国(滋賀県)の甲賀流忍者から“織田四天王”に選定された滝川一益(たきがわかずます/織田)

1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始されると、怒涛の勢いで長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍が、信濃国(長野県)から甲斐国(山梨県)へと侵攻してきた。

この時に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)を支えたのが滝川一益(たきがわかずます/織田)である。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は擁護(ようご)してもらう為に、“武田二十四将”(たけだにじゅうししょう)に選ばれる小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が城主を務める甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に向かう。

ただ既に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は織田軍に寝返っており、最期(さいご)を知った武田勝頼(たけだかつより/武田)は自決し、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏は滅亡した。

1582年に滝川一益(たきがわかずます/織田)は甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の功績で、上野国(こうずけ/群馬県)と信濃国(長野県)の一部の領国を与えられ領主に就任した。

この時に滝川一益(たきがわかずます/織田)は領主に就任する事を辞退(じたい)して、その代わりに織田信長(おだのぶなが/織田)が所有する茶器の“珠光小茄子”(じゅこうなすび)を所望(しょもう)した。

ただ、織田信長(おだのぶなが/織田)も名器と言われる茶器の“珠光小茄子”(じゅこうなすび)を下賜(かし)する事はできず拒否した。

織田信長(おだのぶなが/織田)は、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)への目付役として、滝川一益(たきがわかずます/織田)を配置した。

領主に就いた滝川一益(たきがわかずます/織田)は、上野国(こうずけ/群馬県)と信濃国(長野県)の国衆(くにしゅう)に対して、織田氏との共存共栄による政策を実施し、共に栄耀栄華(えいようえいが)できる様に務めた。

更に東北地方の武将とも交流を計り、陸奥国(むつ/福島県)の伊達(だて)を拠点とする伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の父親の伊達輝宗(だててるむね/伊達)や、出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう/霞ヶ城)を拠点とする最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)との親交を深めた。

ところが日本列島を激震させる事変が起こる。

京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

そして中国攻めを実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

こうして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

この頃に関東地方では、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が、亡き織田信長(おだのぶなが/織田)との連盟を破棄して滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊に侵攻を開始した。

1582年に起こった「神流川の戦」(かんながわのたたかい)にて、武蔵国(埼玉県)の賀美(かみ/児玉)で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)と北条氏照(ほうじょううじてる/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍と滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊が合戦を繰り広げた。

この「神流川の戦」(かんながわのたたかい)で、滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊は、戦況が不利と判断して関東地方から撤退した。

これにより武田氏の領国だった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は、統治者の居ない空白地帯となる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:39:48

◆◇◆其の九:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●近江国(滋賀県)の甲賀流忍者から“織田四天王”に選定された滝川一益(たきがわかずます/織田)

1582年に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)で開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と池田恒興(いけだつねおき/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の4人は、織田氏の家督継承者に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子で3歳の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を就任させた。

まだ幼少期だった三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)の事もあり、その後見人に次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が就いた。

この時に織田氏の領地の配分や近隣諸国の大名の領地も決定した。

東日本側から遠江国(とおとうみ/静岡県)と
三河国(愛知県)は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、尾張国(愛知県)と伊勢国(三重県)と伊賀国(三重県)と志摩国(三重県)は次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)、伊勢国(三重県)の長島は滝川一益(たきがわかずます/織田)、美濃国(岐阜県)は三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)となった。

越中国(富山県)と能登国(石川県)と加賀国(石川県)と越前国(福井県)の一部と近江国(滋賀県)の一部は柴田勝家(しばたかついえ/織田)、越前国(福井県)の一部と若狭国(福井県)と近江国(滋賀県)の一部は丹羽長政(にわながまさ/斯波)、近江国(滋賀県)の彦根は堀秀政(ほりひでまさ/斎藤→織田→豊臣)となった。

丹後国(京都府)は細川幽斎(ほそかわゆうさい)こと細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)、摂津国(大阪府・兵庫県)の一部は池田恒興(いけだつねおき/織田)、河内国(大阪府)と摂津国(大阪府・兵庫県)の一部と山城国(京都府)と丹波国(京都府・兵庫県)と但馬国(たじま/兵庫県)と播磨国(はりま/兵庫県)と淡路国(兵庫県)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)となった。

関東地方からの帰還中でこの「清洲会議」(きよすかいぎ)に参加できなかった滝川一益(たきがわかずます/織田)は、織田氏の重鎮家臣の役割を大きく損なう事になる。

上野国(こうずけ/群馬県)と信濃国(長野県)の一部の領国を放棄した滝川一益(たきがわかずます/織田)は、伊勢国(三重県)の長島を所領するだけで、ほぼ領地没収の改易(かいえき)となる。

これに憤懣(ふんまん)した滝川一益(たきがわかずます/織田)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を敵視する様になる。

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、織田氏の家督継承者の覇権争いで、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が、近江国(滋賀県)に広がる琵琶湖の北部に連なる山岳地帯の賤ヶ岳(しずがたけ)で交戦を繰り広げた。

この合戦で柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍に、滝川一益(たきがわかずます/織田)は参戦した。

一時は柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が戦況は優勢だったが、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の裏切りもあり敗北した。

これにより越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と“小牧山の美女”と言われるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)は自決した。

滝川一益(たきがわかずます/織田)は息子の滝川一忠(たきがわかずただ/織田)と滝川一時(たきがわかずとき/織田→豊臣→徳川)と共に、伊勢国(三重県)の長島城(ながしまじょう/桑名)に篭城したが、柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍の敗北が伝達されると開城した。

武将として全てを失った滝川一益(たきがわかずます/織田)は隠居した。

こうして織田軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に引き継がれる事になる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:40:29

◆◇◆其の十:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●近江国(滋賀県)の甲賀流忍者から“織田四天王”に選定された滝川一益(たきがわかずます/織田)

織田軍の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が主君に登り詰めた事に憤懣(ふんまん)した織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)は、遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)や三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同盟を締結して敵対した。

こうして1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の北部を中心に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

この合戦で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に、滝川一益(たきがわかずます/織田)は参戦した。

1584年に起こった「蟹江城合戦(かにえじょうかっせん」)にて、滝川一益(たきがわかずます/織田)は息子の滝川一忠(たきがわかずただ/織田)と滝川一時(たきがわかずとき/織田→豊臣→徳川)と共に伊勢国(三重県)の桑名に程近い尾張国(愛知県)の蟹江城(かにえじょう/海部)に篭城した。

しかし、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍の総攻撃に遭い蟹江城(かにえじょう/海部)は落城し、滝川一益(たきがわかずます/織田)は息子の滝川一忠(たきがわかずただ/織田)と滝川一時(たきがわかずとき/織田→豊臣→徳川)は伊勢国(三重県)に逃亡した。

その後、総大将の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に報告も連絡も相談も無く、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の調略(ちょうりゃく)により和睦してしまう。

この戦国武将としての体たらくな行動が豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の逆鱗(げきりん)に触れ、滝川一益(たきがわかずます/織田)と息子の滝川一忠(たきがわかずただ/織田)は豊臣政権の武将として罷免(ひめん)され追放処分となる。

但し、もう1人の息子の滝川一時(たきがわかずとき/織田→豊臣→徳川)は赦免(しゃめん)され豊臣政権に残った。

1585年に息子の滝川一忠(たきがわかずただ/織田)が病気で死去する。

1586年に滝川一益(たきがわかずます/織田)は旅先の越前国(福井県)で死去する。

死因は不明だが、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍による1570年に起こった「金ヶ崎の戦」(かねがさきのたたかい)や1573年に起こった「一乗谷城の戦」(いちじょうだにじょうのたたかい)にて、越前国(福井県)の戦地となり被害を被った国衆(くにしゅう)が、その時の遺恨により滝川一益(たきがわかずます/織田)を斬殺したとも伝わる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:41:15

◆◇◆其の十一:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●戦国時代のアルピニスト(登山家)、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の山は友達さ

1550年頃の尾張国(愛知県)では織田信長(おだのぶなが/織田)の父親の織田信秀(おだのぶひで/織田)が勢力を拡大していた。

その織田信秀(おだのぶひで/織田)の家臣に、宇多源氏の佐々木氏の系統の佐々成宗(さっさなりむね/斯波→織田)が仕えていた。

息子には、1522年に誕生した長男の佐々政次(さっさまさつぐ/織田)、1526年に誕生した次男の佐々孫介(さっさまごすけ/織田)、1536年に誕生した三男の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)などが居た。

どの息子も父親の佐々成宗(さっさなりむね/斯波→織田)と同様に、織田信長(おだのぶなが/織田)に仕えていた。

ただし、その織田信長(おだのぶなが/織田)の飛躍の裏で、戦地で命を落とす織田軍の武士も多く存在している。

1556年に起こった「稲生の戦」(いのうのたたかい)にて、弟の織田信行(おだのぶゆき/織田)と交戦した際に、次男の佐々孫介(さっさまごすけ/織田)は討死した。

1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)から進軍してきた“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる今川義元(いまがわよしもと/今川)を奇襲した際に、長男の佐々政次(さっさまさつぐ/織田)は、で討死している。

こんな事情もあり佐々氏(さっさうじ)の家督継承者は、三男の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が家督継承者に就任した。

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は亡き兄2人の意思を背負い、織田信長(おだのぶなが/織田)の元で飛躍を見せて数々の武功を挙げる。

1561年に起こった「森部の戦」(もりべのたたかい)にて、美濃国(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜城)を拠点とする一色龍興(いっしきたつおき)こと斎藤龍興(さいとうたつおき/斎藤)と長良川の河川敷で合戦を繰り広げた際に、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は活躍した。

1568年に起こった「上洛戦」(じょうらくせん)にて、近江国(滋賀県)から山城国(京都府)に掛けて征夷大将軍15代目になる足利義昭(あしかがよしあき/室町)を引き連れ京都に上洛させる際に、近江国(滋賀県)の武将の六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)に総攻撃を仕掛けられたが返り討ちにして、敗北した六角承禎(ろっかくじょうてい)こと六角義賢(ろっかくよしかた/室町)はいつもの様に近江国(滋賀県)の山間部に逃亡した。

1574年に起こった「長島一向一揆」(ながしまいっこういっき)にて、一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)の一向群集(いっこうぐんしゅう)に対して、伊勢国(三重県)の桑名で鎮圧させた。

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍と交戦した際は、三河国(愛知県)の設楽原(のしたらがはら/新城)の戦地で、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は滝川一益(たきがわかずます/織田)と共に織田軍鉄砲隊の総指揮に任命され、あの“三段撃ち”で武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍を撃ち負かして勝利に貢献している。

こんな屈強(くっきょう)な経歴から、織田信長(おだのぶなが/織田)より“信長親衛隊”の黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)の内、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は黒母衣衆(くろほろしゅう)の大将に就任した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:41:56

◆◇◆其の十二:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●戦国時代のアルピニスト(登山家)、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の山は友達さ

その後、“織田四天王”の“鬼柴田”(おにしばた)と呼ばれた柴田勝家(しばたかついえ/織田)の直参家臣となり、越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)を拠点に北陸地方の統治に奔走(ほんそう)する。

この時、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)と“ツッパリの利家”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と不破光治(ふわみつはる/斎藤→織田)は、越前国(福井県)を攻略した“府中三人衆”(ふちゅうさんにんしゅう)と呼ばれ、織田軍の中でも忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)な武将として知られる様になる。

これにより佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は越中国(富山県)の統治を任され、富山城(とやまじょう)の城主に就いた。

ところが日本列島を激震させる事変が起こる。

京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

そして中国攻めを実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

こうして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

この時に越中国(富山県)に居た佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の立場と事態が一変した。

1582年に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)で開催された「清洲会議」(きよすかいぎ)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と丹羽長秀(にわながひで/織田→豊臣)と池田恒興(いけだつねおき/織田)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の4人は、織田氏の家督継承者に長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)の息子で3歳の三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)を就任させた。

まだ幼少期だった三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ/織田→豊臣)の事もあり、その後見人に次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)が就いた。

しかしその後、次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、三男の織田信孝(おだのぶたか/織田)と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が対立する事になる。

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍に佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は“ツッパリの利家”の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と共に参戦し、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と交戦した。

しかし、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の戦線離脱もあり柴田軍は敗北して柴田勝家(しばたかついえ/織田)は自決し、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は降伏して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に臣従(しんじゅう)する事になる。

ただ、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)をはじめ織田信長(おだのぶなが/織田)の直参家臣は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を蔑(さげす)ます傾向にあった。

1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)では、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は当初は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣軍に参戦していたが、元々に格下の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に反感を持っていた為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍に寝返った。

しかし、戦況は織田徳川軍が有利に運んでいたが、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が勝手に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と和睦した為に、合戦は勝敗が着かず終了してしまった。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:42:36

◆◇◆其の十三:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●戦国時代のアルピニスト(登山家)、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の山は友達さ

越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)に戻った佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に再び再戦してもらう様に挙兵を嘆願する事を思い描く。

その為には直談判(じかだんぱん)しかない。

時期は厳冬、越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)から、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が居城する遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)に来訪するには、標高2000mの飛騨山脈(北アルプス)や木曽山脈(中央アルプス)を避け迂回(うかい)する必要がある。

経路は信濃国(長野県)から甲斐国(山梨県)に入り駿河国(静岡県)を通り遠江国(とおとうみ/静岡県)に行くか、飛騨国(岐阜県)から美濃国(岐阜県)に入り三河国(愛知県)を通り遠江国(とおとうみ/静岡県)に行く2通りある。

ところが街道には豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が手配した落武者狩りが待機しており、指名手配されている佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は主要の2ルートを通る事はできない。

そこで佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は猛吹雪の中の飛騨山脈(北アルプス)と木曽山脈(中央アルプス)の剣(つるぎ)の様な尾根を越えて遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)に来訪する事を決める。

現在でも登山のフル装備を施してチャレンジしても、普通に考えて遭難し死を招く。

ただ、猛攻武将と呼ばれる佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、厳冬の中、命懸けの山越えを成し遂げた。

これを針ノ木峠(はりのきとうげ)を突破した“さらさら越え”と言う。

遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)に無事に到着した佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と謁見(えっけん)した。

佐々成政…『家康殿、越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)から雪山を越えてまで挙兵の嘆願しに来ました。』

徳川家康…『成政殿、本当に飛騨山脈(北アルプス)と木曽山脈(中央アルプス)を越えて遠江国(とおとうみ/静岡県)に入ったのかぁ? 秀吉殿と合戦するよりも、その能力をアルピニスト(登山家)など違う事に活かした方が良いのではないかぁ?』

佐々成政…『いやいや家康殿、共に秀吉殿を打ち倒しましょうぞぉ!』

徳川家康…『う〜〜ん、それは出来ぬ。 生前の信長殿も言っておったが、もう合戦の時代ではないぞぉ。』

佐々成政…『そうですか、残念ですなぁ。』

徳川家康…『成政殿、気を落とすではないぞぉ。 もしアルピニスト(登山家)に転職するなら徳川家がスポンサーになるで御座る。』

同様に“織田四天王”の滝川一益(たきがわかずます/織田)と織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)にも接触したが、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と同じく挙兵は断られた。

そんな中、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)から10万人の豊臣軍を引き連れて、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が居城する越中国(富山県)の富山城(とやまじょう)を包囲した。

これに対して佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は観念して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏した。

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の領国の越中国(富山県)は領地没収の改易(かいえき)となり、身柄は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に移され、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の御伽衆(おとぎしゅう)に就いた。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:43:13

◆◇◆其の十四:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●戦国時代のアルピニスト(登山家)、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の山は友達さ

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)はその後、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の全国統一に向けての進軍に同行した。

1586年に起こった「九州征伐」(きゅうしゅうせいばつ)にて、薩摩国(鹿児島県)の島津義久(しまずよしひさ/島津→豊臣→徳川)と弟の島津義弘(しまずよしひろ/島津→豊臣→徳川)が率いる島津軍と交戦した際に、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は大活躍して武功を挙げる。

この恩賞により45万石の肥後国(熊本県)を領地として与えられ大名として復帰する。

豊臣秀吉…『信長殿下の直参に仕えていただけあって、成政殿はさすがですねぇ〜 肥後国(熊本県)の統治も期待してますよぉ〜』

佐々成政…『はぁ、有難きお言葉。 秀吉殿の期待に背かない様に粉骨砕身(ふんこつさいしん)で身を尽くします。』

豊臣秀吉…『ただ、肥後国(熊本県)は難しい土地柄の為に、検地や荘園(そうえん)の調査は慎重に行う様に!』

佐々成政…『承知致した!』

ところが、肥後国(熊本県)は平安時代から菊池氏や阿蘇氏など地元の武家が根強く、熊本城(くまもとじょう/隅本城)を拠点とする外様大名(とざまだいみょう)の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、納税の徴収に苦慮して家臣への兵糧の配給にも困窮した。

こうした背景から国主の佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、農地の検地を実施して適正な納税を農民に課した。

これに反発した農民が地元の武将と結託して百姓一揆を勃発させた。

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)も豊臣軍佐々隊を組成して出陣させたが、一揆軍の猛攻に遭い苦戦した。

そこで摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に居城する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に救援要請して、九州周辺の大名が援軍として参戦してなんとか一揆軍を鎮圧させた。

この佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の大失態に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は切腹を命じて、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は自決した。

これを1587年に起こった「肥後国人一揆」(ひごこくじんいっき)と呼ぶ。

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が領主だった肥後国(熊本県)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣の加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)が北部を、和泉国(大阪府)の堺の商人でキリシタン大名の小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)が南部を統治する事になる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:43:50

◆◇◆其の十五:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●戦国時代のアルピニスト(登山家)、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の山は友達さ

最期(さいご)は悲運な佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)だったが、そんな生涯には数々の伝説や伝承が残されている。

それは2通りの“黒百合伝説”(くろゆりでんせつ)であろう。

1つ目の伝承は、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の愛妾(あいしょう)に美しい早百合(さゆり/側室)が居たが、他の側室から疎(うと)まれ妬(ねた)まれて、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)に讒言(ざんげん)を吐(つ)いた。

性悪側室…『実は早百合は、越後国(新潟県)の上杉氏と密通(みっつう)しており、しかもお腹に他の男性との子供が宿っております。

佐々成政…『なぁ、なんだってぇ〜 ウグッグッグッ〜 許さぁ〜〜ん!』

これに信用して激怒した佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は、早百合(さゆり/側室)を斬殺して、その一族も処刑した。

佐々成政…『姦通罪(かんつうざい)で成敗する!』

バサッ バサッバサッ

早百合…『ギャ〜〜 やられた〜〜』

ゴロン

斬られた息絶えた早百合(さゆり/側室)の屍(しかばね)は、見る見る鬼女の姿に変えて佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)を睨(にら)みつけた。

早百合(鬼女)…『おのれ成政めぇ! この恨みはらさでおくべきかぁ! 子孫7代まで呪い祟ってやるわぁい!』

佐々成政…『うううっ! この鬼女めぇ、やれるものなら、やってみろぉ!』

佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)は再び鬼女となった早百合(さゆり/側室)に斬り付けたが、早百合(さゆり/側室)は高く舞い上がり、一言を残して山奥に消えていった。

早百合(鬼女)…『越中国(富山県)の立山に黒百合(くろゆり)が咲いたら、佐々氏(さっさうじ)は滅亡するだろう!』

実は佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)には息子で嫡男(ちゃくなん)が早世しており佐々氏(さっさうじ)の後継者が居らず、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が自決した事で佐々氏(さっさうじ)は滅亡した事になる。

ただ、佐々氏(さっさうじ)の庶流(しょりゅう)には、江戸時代に常陸国(ひたち/茨城県)の常盤水戸藩の藩主だった徳川光圀(とくがわみつくに/徳川→水戸)の家臣の佐々宗淳(さっさむねきよ/水戸)が血縁者にあたり、この方は“水戸黄門”の助さんこと佐々木助三郎(ささきすけさぶろう)のモデルになった人物である。

2つ目の伝承は、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が越中国(富山県)の立山で咲く事が珍しいと言われる黒百合(くろゆり)の一輪(いちりん)を、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)も正室のおね(高台院、北政所/織田→豊臣)に贈ったところ、おね(高台院、北政所/織田→豊臣)も大変に喜んで、黒百合(くろゆり)を生けて床の間に飾りお茶会を開催した。

ところが、これを見た側室の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)が後日、お茶会を開催した際には、茶室の入り口に設置される手洗受けに、無数の黒百合(くろゆり)を無造作に浮かばせた。

この茶会に呼ばれて無数の黒百合(くろゆり)の光景を目にしたおね(高台院、北政所/織田→豊臣)は不愉快な思いをして、贈った佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)も面目(めんぼく)を失った逸話が残っている。

何方(どちら)の伝承も信憑性に欠けるが、佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)の波瀾万丈な一生涯から、創作された談議である事は間違いない。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:44:33

◆◇◆其の十六:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“馬と黄金”の内助の功と土佐国(高知県)の名物“鰹(かつお)のタタキ”を後世に残した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の功績

戦国時代の初期、室町幕府は将軍の足利氏と三管領(さんかんれい)の畠山氏、斯波氏、細川氏が政権運営を担っていた。

その中の斯波氏は尾張国(愛知県)の守護大名を務めているが、実際は京都に居住している為に、尾張国(愛知県)には守護代の織田氏を配備していた。

この織田氏には、織田大和守と織田伊勢守に別れており、織田大和守でも清洲織田家の織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)が織田信長(おだのぶなが/織田)の家系となる。

一方の織田伊勢守の岩倉織田氏は、岩倉城(いわくらじょう)を拠点とする織田信安(おだのぶやす/織田→斎藤→僧侶)が家督を務めており、父親の織田信秀(おだのぶひで/織田)や織田信長(おだのぶなが/織田)の織田大和守とは対立していた。

この岩倉織田氏の織田信安(おだのぶやす/織田→斎藤→僧侶)の家臣に、山内盛豊(やまうちもりとよ/斯波→織田)が所属しており、尾張国(愛知県)の黒田城(くろだじょう/一宮)の城代を務めていた。

山内盛豊(やまうちもりとよ/斯波→織田)の息子が1545年に誕生した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)である。

この時期の尾張国(愛知県)は、織田大和守と織田伊勢守の対立もあったが、織田大和守の内部でも紛争が起こっていた。

更に1552年に織田信秀(おだのぶひで/織田)が死去すると、葬式を営む萬松寺(ばんしょうじ/曹洞宗)にて、“大うつけ”(大バカ者)の織田信長(おだのぶなが/織田)が位牌(いはい)に抹香(まっこう)を投げ付ける“抹香事件”(まっこうじけん)を起こし、清洲織田家の織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)でも家督継承者の問題が生じている。

そんな中でも周囲の反対勢力を鎮圧していった“大うつけ”(大バカ者)の織田信長(おだのぶなが/織田)が、尾張国(愛知県)を統一させる覇道を突き進んでいた。

そんな1557年に織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍清洲隊は犬山城(いぬやまじょう)の城主に就いていた織田信康(おだのぶやす/織田)の息子の織田信清(おだのぶきよ/織田→武田)と共に、尾張国(愛知県)の黒田城(くろだじょう/一宮)に侵攻して、城代を務める岩倉織田氏の山内盛豊(やまうちもりとよ/斯波→織田)は総攻撃に遭い討死した。

その後の1558年に起こった「浮野の戦」(うきののたたかい)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍清洲隊は、織田信安(おだのぶやす/織田→斎藤→僧侶)の息子の織田信賢(おだのぶかた/織田→僧侶)が率いる織田軍岩倉隊と交戦を繰り広げ、戦況不利となった織田信賢(おだのぶかた/織田→僧侶)は岩倉城(いわくらじょう)に篭城するも、兵糧攻めに遭い降伏して開城した。

この際に織田信賢(おだのぶかた/織田→僧侶)は、岩倉織田氏の武家を改易(かいえき)し出家して僧侶となった。

こうして織田信長(おだのぶなが/織田)が尾張国(愛知県)を統一させる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:45:11

◆◇◆其の十七:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“馬と黄金”の内助の功と土佐国(高知県)の名物“鰹(かつお)のタタキ”を後世に残した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の功績

1557年に父親の山内盛豊(やまうちもりとよ/斯波→織田)を亡くし、1558年に岩倉織田氏が改易(かいえき)した事により、13歳の息子の山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は行き場を失い牢人(無職侍)となった。

その後の山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、東海地方から近畿地方を遠征して、その地域の武将や国人(こくじん)の足軽や陣借り(じんがり)で食い繋いでいた。

1568年に山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)を拠点とした織田信長(おだのぶなが/織田)に仕官して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の陪臣(ばいしん)に採用される。

1570年に起こった「姉川の戦」(あねがわのたたかい)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)を裏切った浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)へ報復する為に、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)に侵攻して勝利した。

この合戦で山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は初陣(ういじん)を果たす。

しかも敵陣の弓矢隊が射った弓の矢が顔面に突き刺さった山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、それでも戦い続けて武功(ぶこう)を挙げる。

この獅子奮迅(ししふんじん)の戦闘力を認めた織田信長(おだのぶなが/織田)は、顔面に弓の矢が突き刺さった山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)に、近江国(滋賀県)の唐国(からくに/長浜)に400石の領土を下賜(かし)した。

1573年に山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は、美濃国(岐阜県)の郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう/郡上)の遠藤氏の系統の見性院(けんしょういん/豊臣→徳川)と結婚した。

その頃、京都の室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は山城国(京都府)の宇治にて、織田信長(おだのぶなが/織田)と敵対して1573年に起こった「槇島城の戦」(まきしまじょうのたたかい)で敗北して京都から追放された。

この時に足利義昭(あしかがよしあき/室町)は侍従(じじゅう)に就いていた武田信実(たけだのぶざね/武田)の進言もあり、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点とする毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を頼ってきた。

しかし、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)としては織田信長(おだのぶなが/織田)の心情を気にして、足利義昭(あしかがよしあき/室町)には安芸国(あき/広島県)ではなく1歩手前の備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら/福山)に滞在してもらう事にした。

こうして征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は1人で、1576年に鞆幕府(ともばくふ)を開設した。

この毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)による足利義昭(あしかがよしあき/室町)の擁護(ようご)は、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に対する挑発と捉えられた。

こうして1577年に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊による“中国攻め”が開始される。

この“中国攻め”に山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)も従軍した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260726 - ラジオの友

2026/07/26 (Sun) 15:45:54

◆◇◆其の十八:『いつ、どこで、なにをしたのか?』、この質問に即答できない智勇(ちゆう)で賢能(けんのう)な戦国武将◆◇◆

●“馬と黄金”の内助の功と土佐国(高知県)の名物“鰹(かつお)のタタキ”を後世に残した山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)の功績

1577年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊による“中国攻め”が開始されるも、播磨国(はりま/兵庫県)と備前国(岡山県)と美作国(みまさか/岡山県)では反発が強く苦戦していた。

そこで出雲国(島根県)の武将の尼子勝久(あまごかつひさ/尼子→織田)が、尼子氏(あまごうじ)の再興を目論み織田信長(おだのぶなが/織田)に帰属(きぞく)して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に参戦した。

1578年に起こった「上月城の戦」(こうづきじょうのたたかい)にて、尼子勝久(あまごかつひさ/尼子→織田)と重鎮家臣の山中鹿介(やまなかしかのすけ)こと山中幸盛(やまなかゆきもり/尼子→織田)が率いる3千人の織田軍尼子隊は、播磨国(はりま/兵庫県)の上月城(こうづきじょう/佐用)に篭城して防御に徹した。

一方で次男の吉川元春(きっかわもとはる/毛利)と三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)と宇喜多忠家(うきたただいえ/宇喜多→豊臣)が率いる3万人の毛利軍は、兵糧攻めによる長期戦に持ち込んだ。

この時に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる1万人の織田軍羽柴隊が援軍として上月城(こうづきじょう/佐用)に駆け付ける予定だったが、周囲の反乱軍に手間取り苦戦していた。

この間に尼子勝久(あまごかつひさ/尼子→織田)は毛利軍に降伏して上月城(こうづきじょう/佐用)を開城し自決した。

山中鹿介(やまなかしかのすけ)こと山中幸盛(やまなかゆきもり/尼子→織田)も捕縛(ほばく)されて毛利軍の陣営に拘引(こういん)され斬首された。

こうして尼子氏(あまごうじ)は再興する事なく完全に滅亡した。

この戦地の光景を、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の傍(かたわら)で山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は凝視していた。

1578年に播磨国(はりま/兵庫県)の三木城(みきじょう)を拠点とする別所長治(べっしょながはる/織田→毛利)は、叔父の別所吉親(べっしょよしちか/織田→毛利)より織田信長(おだのぶなが/織田)からの離反の薦めで、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)に帰属(きぞく)する事を決定する。

こうして1578年に起こった「三木合戦」(みきかっせん)にて、別所長治(べっしょながはる/織田→毛利)と別所吉親(べっしょよしちか/織田→毛利)は三木城(みきじょう)に篭城して、侵攻する豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊と対峙した。

ところが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、三木城(みきじょう)を攻撃する事なく兵糧攻めに徹した。

こうして三木城(みきじょう)では兵糧が枯渇して、篭城する武士は餓死する「三木の干殺し」(みきのひごろし)と呼ばれる凄惨(せいさん)な城内と化した。

これにより別所長治(べっしょながはる/織田→毛利)は降伏の証として自害し、最後まで抵抗を主張した別所吉親(べっしょよしちか/織田→毛利)は家臣に斬殺された。

この戦地の光景を、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の傍(かたわら)で山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は凝視していた。

この三木城(みきじょう)の戦地で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を支える天才軍師の竹中半兵衛(たけなかはんべえ)こと竹中重治(たけなかしげはる/斎藤→浅井→織田→豊臣)が病死している。

1579年に備前国(岡山県)と美作国(岡山県)と備中国(岡山県)の戦国大名で毛利氏の重鎮家臣だった宇喜多直家(うきたなおいえ/毛利→織田)は、主君の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を暗愚魯鈍(あんぐろどん)と判断して、織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返った。

1580年に起こった「鳥取城の戦」(とっとりじょうのたたかい)にて、因幡国(いなば/鳥取県)の鳥取城(とっとりじょう)の城主だった山名豊国(やまなとよくに/毛利→豊臣→徳川)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に和議を申し出て豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に対して降伏した。

しかし、山名豊国(やまなとよくに/毛利→豊臣→徳川)が鳥取城(とっとりじょう)を開城して但馬国(たじま/兵庫県)に帰還すると、毛利軍は石見国(いわみ/島根県)の吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)を鳥取城(とっとりじょう)に入城させて城主に据え置いた。

吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)は鳥取城(とっとりじょう)で篭城して、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊に対峙した。

ところが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、鳥取城(とっとりじょう)を攻撃する事なく兵糧攻めに徹した。

こうして鳥取城(とっとりじょう)では兵糧が枯渇して、篭城する武士は餓死する「鳥取の渇え殺し」(とっとりのかつえごろし)と呼ばれる凄惨(せいさん)な城内と化した。

これにより吉川経家(きっかわつねいえ/毛利)は降伏の証として自害した。

この戦地の光景を、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の傍(かたわら)で山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)は凝視していた。

■当サイトを閲覧するにあたり/20260726 - ラジオの友 URL

2026/07/26 (Sun) 15:32:28

閲覧者の義務として、このサイト内に掲載されている音楽の5曲以上をお好きなラジオ局にリクエストして下さい。

もし、リクエスト曲が掛かれば幸福度がアップします。

今日のラッキーソングはこれだっ!

Metallica/♪ Enter Sandman

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 11:57:57

◆◇◆其の十一:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)と詭計百出(きけいひゃくしゅつ)

1515年に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)にて、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)の息子の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が誕生する。

伊豆国(静岡県)と相模国(神奈川県)を平定した北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)を祖父に、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点に関東地方で勢力拡大を続ける伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)を父親を持つ伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、幼少期は勇猛果敢(ゆうもうかかん)な戦国武将とは掛け離れた臆病者だった。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が12歳の時に、武術や剣術の稽古で家臣の武士が乱取りしている光景を観て、あまりもの希薄に驚愕して失神した逸話も残っている。

これを恥辱(ちじょく)に感じた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は自害しようとするが、間一髪で家臣に発見されて踏み止まる。

その後の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、父親の北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍に従軍し、1535年に扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)との合戦で勝利し初陣(ういじん)を果たす。

1538年に起こった「国府台合戦」(こうのだいかっせん)にて、下総国(しもうさ/千葉県)の市川にある国府台城(こうのだいじょう)に布陣する小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)が率いる小弓足利軍と交戦した。

この合戦で伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)と息子で後の伊勢北条氏3代目となる北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は、国府台城(こうのだいじょう)に総攻撃を仕掛けて落城させ勝利し、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)は討死した。

1541年に、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が死去すると、息子で伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督を引き継いだ。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が死去した事により、伊勢北条氏の勢力拡大に不満を抱いていた関東地方の武将や国衆(くにしゅう)が、当主に就任して間もない伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が統治する領国に
に侵攻を開始した。

この時期の幾多(いくた)の合戦で獅子奮迅(ししふんじん)する伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な戦国武将へと成長していく。

1541年に、甲斐国(山梨県)でも事変が起こっていた。

戦国武将の武田信虎(たけだのぶとら/武田)が、娘の定恵院(じょうけいいん/武田→今川)を嫁(とつ)がせた今川義元(いまがわよしもと/今川)の家族に会いに、駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)へ行っている時だった。

駿府館(すんぷやかた)にて婿殿の今川義元(いまがわよしもと/今川)、愛娘(まなむすめ)の定恵院(じょうけいいん/武田→今川)、その孫の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)と家族水入らずで絆(きずな)を深め、武田信虎(たけだのぶとら/武田)はご満悦で甲斐国(山梨県)へ帰国の途(と)に就く。

その筈(はず)だったが、何と息子の武田信玄(たけだしんげん/武田)の謀反(むほん)により甲斐国(山梨県)から追放されてしまう。

甲斐国(山梨県)の関所で足止めされた武田信虎(たけだのぶとら/武田)は、再び駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)に舞い戻り、ここを生活の拠点にする事となる。

家督を引き継いだ武田信玄(たけだしんげん/武田)、その右腕となる弟の武田信繁(たけだのぶしげ/武田)により、甲斐国(山梨県)の武田軍は戦略転換する。

これにより、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、対立から和睦へと進み「甲相同盟」(こうそうどうめい)を締結する。

ただ、この世代交代に虎視眈々と狙いを定めていたのが駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)である。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の領地に進軍を開始し、さらに先代からの同盟国でもある甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)に援軍要請する。

これには締結したばかりの「甲相同盟」(こうそうどうめい)があるため武田信玄(たけだしんげん/武田)も困り果てたが、結局、昔馴染みの今川義元(いまがわよしもと/今川)を選び、甲斐国(山梨県)から出陣した武田軍は駿河国(静岡県)の今川軍に合流して伊勢北条軍を攻撃する。

戦(いくさ)上手の今川義元(いまがわよしもと/今川)は、この上にまだ策略を講じており、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)に関東北部から伊勢北条軍を攻撃する様に援軍要請していた。

これには伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は2軍に分かれるため戦況不利となり、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)に両軍共に和睦交渉を依頼する。

武田信玄(たけだしんげん/武田)はこれを了承して、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)、北関東の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)かつ扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の和睦に成功させた。

これにより今川義元(いまがわよしもと/今川)は、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)から以前に侵略された富士川の東部を奪還する。

これを1546年に起こった第二次の「河東の乱」(かとうのらん)と呼ぶ。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 11:58:34

◆◇◆其の十二:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)と詭計百出(きけいひゃくしゅつ)

1546年に起こった第二次の「河東の乱」(かとうのらん)にて、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が領国奪還をするなら、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)も同じ様に考える。

上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)とは、上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)の息子で代々に続く扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の関東管領(かんとうかんれい)を引き継いでいた。

武蔵国(埼玉県)にある河越城(かわごえじょう/川越)は、元は扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の居城で、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)に簒奪(さんだつ)されていた。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)だった太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)が築城した名門城と言われる河越城(かわごえじょう/川越)を、どうしても奪還したい。

そう考えた上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)は、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)と、下総国(しもうさ/茨城県)の古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)に援軍要請をして了解を得る。

こうして組成されたのが総計10万人の上杉足利軍で、これに対して相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる8千人の伊勢北条軍とは圧倒的な兵力差がある。

武蔵国(埼玉県)の河越城(かわごえじょう/川越)には城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)が率いる3千人の伊勢北条軍河越隊が籠城し、それを上杉足利軍8万人が包囲している。

北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)とは、北条為昌(ほうじょうためまさ/伊勢北条)の養子で、河越城(かわごえじょう/川越)を拠点に武蔵国(埼玉県)を統治していた。

そこに援軍として駆け付けた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍が到着するも、討ち入る隙間も無いくらいに上杉足利軍の武士が河越城(かわごえじょう/川越)の周囲を包囲していた。

北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、先(ま)ず小数兵で上杉足利軍に対して攻撃を仕掛け、相手が反撃に出たら直(す)ぐに敗走させる驕兵の計(きょうへいのけい)の戦法を取る。

これにより、上杉足利軍に対して伊勢北条軍は軟弱と思わせ油断をさせる。

更に1538年に関東管領(かんとうかんれい)となった伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)と、古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)との友好関係を持ち出し和睦交渉する。

これは伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の真義の和睦ではなく、足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)が『北条氏康が泣き付いてきた。』と思わせる為の偽降の計(ぎこうのけい)の戦略である。

最後の一手は、油断している上杉足利軍に対して、寝ぼけ半分で戦意喪失している夜間に攻撃を仕掛ける夜襲である。

この戦略をどうしても河越城(かわごえじょう/川越)の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)に伝えなければならない。

そこで北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)の弟で、“関東で一番の美少年”と呼ばれる北条綱房(ほうじょうつなふさ/伊勢北条)が女装をして、上杉足利軍の武士の目を欺(あざむ)き河越城(かわごえじょう/川越)に潜入する事を試(こころ)みる。

この北条綱房(ほうじょうつなふさ/伊勢北条)の女装が的中し、潜入した河越城(かわごえじょう/川越)の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)に夜襲を仕掛ける事を伝える。

この時に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、夜間に音がしない様に伊勢北条軍の武士は兜と甲冑を脱いで軽装にして、味方同士が判別できる様に白装束を身にまとわせた。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は、夜間になると上杉足利軍の本陣に目掛けて一気に攻め込み、総大将で扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝定(うえすぎともさだ/扇谷)を討ち取る。

これにより上杉足利軍8万人は総崩れとなり、蜘蛛の子散らす様に四方八方に敗走した。

これを1546年に起こった「日本三大奇襲戦」の1つの「河越夜戦」(かわごえやせん)と呼ぶ。

その後、北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)を捕縛(ほばく)して幽閉する。

これにより室町幕府の出先機関である鎌倉府や、鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ古河公方(こがくぼう)の200年余りの歴史に幕を閉じる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 11:59:11

◆◇◆其の十三:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)と詭計百出(きけいひゃくしゅつ)

関東一帯で圧倒的な軍事力を有(ゆう)した伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)だが、ここで地盤固めに動く。

駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の呼び掛けにより、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)も交えて和睦交渉が持ち上がる。

今川義元(いまがわよしもと/今川)の家臣で僧侶でもある太原雪斎(たいげんせっさい/今川)の用意周到な段取により、駿河国(静岡県)の富士山麓にある善徳寺(ぜんとくじ)で三国会談が開催され、此処(ここ)にて甲斐国(山梨県)と相模国(神奈川県)と駿河国(静岡県)は同盟する事に承諾した。

これを1554年に締結された「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)と呼ぶ。

この「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)の証(あかし)として、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)の息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)に、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の娘の嶺松院(れいしょういん/今川→武田)が嫁ぐ。

その今川義元(いまがわよしもと/今川)の息子の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)には、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の娘の早川殿(はやかわどの/伊勢北条→今川)が嫁ぐ。

最後に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の息子で伊勢北条氏4代目となる北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)には、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)が嫁いだ。

この「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)で、お互いが背中合せとなり鉄壁の要塞が構築される。

甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、北側の信濃国(長野県)へ侵攻を開始する。

相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、東側の関東一帯の平定に注力する。

駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)は、三河国(愛知県)の松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/徳川)を従えて西側の京都への上洛を試みる。

これ程までに理に適(かな)った「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)はなかったが、あの2人が表舞台に現れる事で事態が一変する。

先ず1人は、越後国(新潟県)の戦国武将の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)である。

そして、もう1人は、尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが/織田)である。

1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)の後、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は攻撃の手を緩めず、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)の軍隊を追撃していた。

1558年に、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍の猛追に対して、上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)が率いる上杉軍山内隊は堪(こら)えきれず越後上杉氏の地縁を頼る。

上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)は越後国(新潟県)まで逃亡し、戦国武将である“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に救援要請をする。

元々はお寺の僧侶だった上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、救いの民から『頼まれたら断れない。』慈悲深い性格の持ち主で、更(さら)に、驍猛(ぎょうもう)な戦国武将と呼ばれた長尾為景(ながおためかげ/長尾)からの父親譲りの戦闘能力も兼ね備えている。

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は“天下無敵の僧兵”と呼ばれ、自分自身も北方を守護する毘沙門天(びしゃもんてん)の化身として信じて疑わなかった。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の関東管領(かんとうかんれい)でもある上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)の高貴な官職に忖度(そんたく)して救援したのではなく、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、ただ純粋に“救いを求める1人の民”として手を差し伸べた。

越後国(新潟県)で軍備を整えた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍越後隊は、南下しながら弾丸侵攻を開始する。

その勢いに圧倒される伊勢北条軍の関東武士団は、神々(こうごう)しい上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を崇拝する様に次々と寝返っていく。

正(まさ)に毘沙門天(びしゃもんてん)、関東に降臨(こうりん)である。

この上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍越後隊に参戦したのは武士だけではなかった。

京都の朝廷から関白の要職に就いていた近衛前久(このえさきひさ/公家)も参戦していた。

近衛前久(このえさきひさ/公家)とは、飛鳥時代から天皇に仕える公家の藤原氏の子孫である。

奈良時代に藤原四子(ふじわらしし)と言われた、藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ/公家)の系統が南家(なんけ)、藤原麻呂(ふじわらまろ/公家)の系統が京家(きょうけ)、藤原房前(ふじわらふささき/公家)の系統が北家(ほっけ)、藤原宇合(ふじわらうまかい/公家)の系統が式家(しきけ)となった。

その藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)が分裂して五摂家(ごせっけ)となり、近衛家(このえけ)、一条家、九条家、鷹司家(たかつかさけ)、二条家が誕生した。

その家系の中でも、最も位(くらい)の高い近衛家(このえけ)の出身でもある関白の近衛前久(このえさきひさ/公家)である。

毘沙門天(びしゃもんてん)と“錦の御旗”(にしきのみはた)を手にした天下無敵の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍越後隊である。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 11:59:48

◆◇◆其の十四:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)と詭計百出(きけいひゃくしゅつ)

あっという間に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が篭城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を包囲する。

城下町にも火を放ち、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍越後隊は小田原城(おだわらじょう)の周辺に布陣する。

ここで秘策に出る。

日本海側の越後国(新潟県)に居る上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、なかなか太平洋側の相模国(神奈川県)などに来る事はない。

そこで観光気分と相まって、小田原城(おだわらじょう)の天守閣がよく眺める事のできる原っぱで、お弁当とお茶を持参して昼食を取る事にした。

上杉謙信…『う〜〜ん、お城を眺めながらお弁当を食べるのは格別じゃ、憲政殿も一緒にどうじゃ? このお弁当はとても美味しいぞぉ。』

上杉憲政…『いやっ、私は結構でござる。』(敵方から丸見えだぞ、上杉謙信殿は、どんな神経を持っておるのじゃ?)

上杉謙信…『そうかぁ、残念じゃのう。 ムシャムシャ』

一方、小田原城(おだわらじょう)の物見櫓(ものみやぐら)では・・・

北条氏康…『おい、あいつ、あそこで何をしておる。』

伊勢北条軍武士…『はぁ、何やらお弁当を広げてお昼ご飯を食べている様子でございます。』

北条氏康…『なにぃ〜 お昼ご飯!? 舐(な)めた奴じゃ!』

伊勢北条軍武士…『しかも、上杉軍越後隊の総大将の上杉謙信殿の様です。』

北条氏康…『なんだとぉ〜!? 撃て、撃て、鉄砲でも、弓矢でも、撃ちまくるのじゃ!!』

伊勢北条軍武士…『御意(ぎょい)。』

バンバン バンバン

ギュ〜〜 シュー ギュ〜〜 シュー

上杉謙信…『あぁ〜〜美味しかった、ご馳走様です。 では、お腹いっぱいになったから越後に帰るか。』

上杉謙信…『おい、越後に引き上げるぞ。』

上杉軍越後隊武士…『御意(ぎょい)、全軍撤退!!』

再び、小田原城(おだわらじょう)の物見櫓(ものみやぐら)では・・・

北条氏康…『おい、鉄砲も、弓矢も、1つも当たらなかったぞぉ。』

伊勢北条軍武士…『しかも、上杉軍越後隊が撤退していきます。』

北条氏康…『恐るべし上杉謙信、一番に敵に回したくない人物じゃ。』

これを1560年に起こった「小田原城の戦」と呼ぶ。

翌年の1561年に、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は再び相模国(神奈川県)に来て、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)との養子縁組を果たして長尾景虎(ながおかげとら/長尾)から上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と改名し、関東管領(かんとうかんれい)の要職も引き継ぐ。

一方、「小田原城の戦」の最中(さなか)、日本中を震撼(しんかん)させた事変が起こる。

京都への上洛を目論み西側に進軍をしていた駿河国(静岡県)の戦国武将の今川義元(いまがわよしもと/今川)が率いる2万5千人の軍隊に対して、尾張国(愛知県)の知多郡にある桶狭間山にて、尾張国(愛知県)の戦国武将の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる2千人の軍隊が交戦して、総大将の今川義元(いまがわよしもと/今川)を討ち取った。

これを1560年に起こった「桶狭間の戦」と呼ぶ。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:00:39

◆◇◆其の十五:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)と詭計百出(きけいひゃくしゅつ)

1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)で、今川義元(いまがわよしもと/今川)が織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取りられ死去した。

此(こ)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の死去と、1553年〜1564年までの「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍との合戦で苦戦した事に起因して、武田信玄(たけだしんげん/武田)は戦略の方向転換をした。

先ずは甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と提携して、駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の当主に就いた今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の領国に侵攻する事を紐帯(ちゅうたい)した。

三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西側から遠江国(静岡県)を制圧し占領し、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は北側から駿河国(静岡県)を制圧し占領する事を取り決めた。

この狡猾(こうかつ)な武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を庇護(ひご)して援護した。

こうして「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)した。

1564年に起こった第二次の「国府台合戦」(こうのだいかっせん)にて、上総国(かずさ/千葉県)を統治していた里見義堯(さとみよしたか/小弓)の領国に、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍を侵攻させた。

里見義堯(さとみよしたか/小弓)が率いる里見軍の激しい抵抗に遭い苦戦するも、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は甚大な被害に遭いながらも勝利した。

これにて里見義堯(さとみよしたか/小弓)が率いる里見軍は、安房国(あわ/千葉県)に退陣した。

この時期に、関東管領(かんとうかんれい)に就任した気負いから上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は、越後国(新潟県)から険しい山岳地帯を越えて上野国(こうずけ/群馬県)に入り関東地方に進軍する越山(えつざん)を何度も敢行していた。

百戦錬磨と言われた忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍だが、1度だけ敗北している。

1566年に起こった「臼井城の戦」(うすいじょうのたたかい)にて、下総国(しもうさ/千葉県)の臼井城(うすいじょう/佐倉)と小弓城(おゆみじょう/千葉)の城主だった千葉胤富(ちばたねとみ/千葉)は、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に帰属(きぞく)していた。

関東管領(かんとうかんれい)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)としては、関東地方で勢力拡大を続ける伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)を征伐する必要があった。

そこで下総国(しもうさ/千葉県)の伊勢北条軍の千葉胤富(ちばたねとみ/千葉)が篭城する臼井城(うすいじょう/佐倉)に侵攻を開始した。

ところが広大な印旛沼(いんばぬま)を背後に築城された臼井城(うすいじょう/佐倉)は、難攻不落の要塞で非常に攻め難かった。

しかも関東地方の国衆(くにしゅう)が伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に次々と寝返り、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は逆に包囲された。

そんな時に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍が進軍してきた為に、関東地方の街道を封鎖されれば袋の鼠(ねずみ)となり、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は壊滅する恐れがあった。

そこで上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は即断即決で、敗北を覚悟して越後国(新潟県)へ撤退する事を決定した。

1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻して制圧した。

これに呼応(こおう)して三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、遠江国(静岡県)に侵攻して制圧した。

こうして今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は敗走して、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が居城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に身を寄せた。

続いて武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)に侵攻を開始した。

これに危機感を覚えた“相模の獅子”と呼ばれる伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)は、犬猿の仲だった“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と1569年に「越相同盟」(えつそうどうめい)を締結した。

この「越相同盟」(えつそうどうめい)の証として、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)の息子で、相模国(神奈川県)の箱根に建つ伊勢北条氏の菩提寺の早雲寺(そううんじ/臨済宗)の僧侶だった北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)が、1570年に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子に入った。

同年の1571年に、“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が死去し、世代交代により伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が家督継承した。

伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と和睦した事により、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)との「越相同盟」(えつそうどうめい)は瓦解(がかい)した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:02:57

◆◇◆其の十六:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●汁掛け御飯の汁量を測れなくてなぜ悪い、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)

1538年に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)にて、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と瑞渓院(ずいけいいん/今川→ 伊勢北条)の息子の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が誕生した。

母親の瑞渓院(ずいけいいん/今川→ 伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の戦国武将の今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)の娘で、今川義元(いまがわよしもと/今川)の兄弟に当たり、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の他に北条氏照(ほうじょううじてる/伊勢北条)や北条氏規(ほうじょううじのり/伊勢北条→豊臣→徳川)や駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の妻に嫁いだ早川殿(はやかわどの/伊勢北条→今川)の母親でもある。

名門武家の伊勢北条氏に生まれた伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、周囲の期待を一身に背負い、忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)で文武両道(ぶんぶりょうどう)の武将として伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)から英才教育を受ける。

1554年に締結された「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)の証として、伊勢北条氏4代目となる北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)を妻に娶(めと)った。

1558年の20歳頃に伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は初陣(ういじん)を果たす。

1559年に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が表面上の隠居をし、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督継承者に就任する。

ある日、父親の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と息子の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が食事をしていた時の事。

北条氏政…『待ちに待った御飯の時間だ! 今日も好物の汁掛け御飯にして食べよう!』

北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、据え膳された御飯に汁を掛けて食べ始めた。

北条氏政…『美味しい、美味しい、んっ!? ちょっと汁の量が少なかったかな。』

こうして再び御飯に汁を掛け始めた。

父親の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、その光景を見て溜め息をついた。

北条氏康…『はぁ〜 毎日、同じ汁掛け御飯を食べているのに、この息子は汁の量も測れないのか。 ならば合戦でも武士の人員や配置、陣形に戦略も測れないだろう。』

北条氏政…『・・・』

1562年に北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)の息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が誕生する。

1564年に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻した事により、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)した。

相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を庇護(ひご)して援護した為に、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)とは敵対する事になる。

この時に武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)と北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は離縁の話が持ち上がるが、夫婦仲は良好で離縁は立ち消えとなる。

1571年に、“相模の獅子”と呼ばれた伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が死去し、世代交代により伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が名実共に家督継承した。

伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と和睦した事により、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)との「越相同盟」(えつそうどうめい)は瓦解(がかい)した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:03:35

◆◇◆其の十七:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●汁掛け御飯の汁量を測れなくてなぜ悪い、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)

1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)にて、武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、遠江国(とおとうみ/静岡県)に侵攻して徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍と交戦し勝利した。

しかし、1573年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去する。

武田氏の16代目当主だった武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去した事により、息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)が17代目当主に就任した。

武田氏の当主と就いた武田勝頼(たけだかつより/武田)は重鎮家臣の意見を無視して、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が連合する織田徳川軍に侵攻を開始する。

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、三河国(愛知県)の長篠(ながしの)と設楽原(したらがはら)の戦地で、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍と織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が合戦を繰り広げた。

戦況は織田徳川軍鉄砲隊の三段構えによる銃撃で武田軍騎馬隊は壊滅し、武田勝頼(たけだかつより/武田)の陣営に対して“徳川四天王”と呼ばれる酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)による奇襲で陣形は崩壊した。

この合戦で武田軍の重鎮家臣はほとんどが討死し惨敗した。

1578年に越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が死去すると、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で家督争いが起こる。

越後国(新潟県)の上杉氏によるお家騒動だったが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏や甲斐国(山梨県)の武田氏まで巻き込む大騒乱となってしまった。

先ず上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は直参家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)などと共に、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に陣営を設けて篭城した。

一方の上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、春日山城(かすがやまじょう/上越)の城下町に設けた関東管領(かんとうかんれい)の役所となる御館(おたて)に陣営を設けた。

この時に軍事力と政治力を発揮したのが上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で、兄弟の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)に援軍要請している。

更に相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は講和成立を条件に、甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に侵攻する様に示唆(しさ)した。

これにより甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は北上して、越後国(新潟県)の領域まで進軍した。

ところが、この隙に遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍が、当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)が不在の甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)に侵攻してきた。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討伐している場合でなくなり、更に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)から講和を持ち掛けられ承諾してしまう。

こうして武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は、甲斐国(山梨県)に帰還してしまう。

此(こ)れに激怒した伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)から伊勢北条軍を出陣させたが、季節は冬で豪雪の越後国(新潟県)に居座る冬将軍に行く手を阻(はば)まれる。

こうして御館(おたて)の陣営で孤立無縁となった上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、妻の清円院(せいえんいん/上杉)の薦めで相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)まで逃亡を図る。

この間に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の軍隊による総攻撃で、御館(おたて)の陣営は炎上して、上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)の妻の清円院(せいえんいん/上杉)と息子の上杉道満丸(うえすぎどうまんまる/上杉)は1579年に死去する。

しかも逃亡した上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)も、家臣の裏切りにより自決した。

この時の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の遺恨(いこん)が、武田勝頼(たけだかつより/武田)の人生の結末まで後を引いた。

これを1578年に起こった「御館の乱」(おたてのらん)と呼ぶ。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:04:12

◆◇◆其の十八:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●汁掛け御飯の汁量を測れなくてなぜ悪い、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)

1581年に伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は名目上の隠居をし、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督継承者に就任する。

しかし、実権は伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が掌握しており、二頭政治により伊勢北条氏の家中は判断と決断が二分化されて混迷をきたす。

1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始されると、怒涛の勢いで長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍が、信濃国(長野県)から甲斐国(山梨県)へと侵攻してきた。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は擁護(ようご)してもらう為に、“武田二十四将”(たけだにじゅうししょう)に選ばれる小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が城主を務める甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に向かう。

ただ既に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は織田軍に寝返っており、最期(さいご)を知った武田勝頼(たけだかつより/武田)は自決し、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏は滅亡した。

この時に北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、勢力拡大を続ける織田信長(おだのぶなが/織田)に帰属(きぞく)する事を決定した。

ところが3ヶ月後に、京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

そして中国攻めを実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

こうして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

この頃に関東地方では、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が、亡き織田信長(おだのぶなが/織田)との連盟を破棄して滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊に侵攻を開始した。

1582年に起こった「神流川の戦」(かんながわのたたかい)にて、武蔵国(埼玉県)の賀美(かみ/児玉)で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍と滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊が合戦を繰り広げた。

この「神流川の戦」(かんながわのたたかい)で、滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊は、戦況が不利と判断して関東地方から撤退した。

これにより武田氏の領国だった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は、統治者の居ない空白地帯となる。

この時に滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊が占領していた上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう/利根)を真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は奪還(だっかん)した。

1582年に起こった「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)にて、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)かつ息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)と、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と、三河国(愛知県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)を拠点とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)により、武田氏の領国だった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の空白地帯の争奪戦が始まる。

この三つ巴(ともえ)の勢力は勝敗が付かず、その間に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一の覇道(はどう)を突き進んだ。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:04:49

◆◇◆其の十九:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●汁掛け御飯の汁量を測れなくてなぜ悪い、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)

この時期に、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が城主を務める上野国(こうずけ/群馬県)の沼田城(ぬまたじょう/利根)と、重鎮家臣の鈴木主水(すずきもんど)こと鈴木重則(すずきしげのり/真田)が城代を務める名胡桃城(なぐるみじょう/利根)を巡り、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の家臣が紛争を起こす。

これが1587年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が関東と奥羽に発布した“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に対して宣戦布告した。

これは豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)と真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の奸計(かんけい)により、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐する為の詭弁(きべん)とも言われている。

1589年に起こった「名胡桃事件」(なぐるみじけん)にて、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の重鎮家臣の鈴木主水(すずきもんど)こと鈴木重則(すずきしげのり/真田)が自決する。

こうして1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍が、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐する為に侵攻を開始した。

相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、連日の厳格な軍議の小田原評定(おだわらひょうじょう)により、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)や重鎮家臣は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍との合戦に備えて綿密な戦略を策定していた。

そして相模湾から陽が昇ると、相模国(神奈川県)に築城された全長9kmの総構(そうがまえ)が囲む難攻不落の小田原城(おだわらじょう)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍に四方八方を完全に包囲されていた。

更に小田原城(おだわらじょう)の南西部に位置する石垣山(いしがきやま)には、昨日まで無かった石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)の一夜城(いちやじょう)が築城されていた。

この戦況で現実を直視した伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏する事を決断する。

しかし伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、難攻不落の小田原城(おだわらじょう)が落城しないと言う希望的観測(きぼうてきかんそく)と、傑出(けっしゅつ)した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を侮(あなど)り徹底抗戦を決断する。

この伊勢北条氏の二頭政治の決断が、重鎮家臣や武将に混迷を引き起こす事になる。

ただ、降伏の交渉人として天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が小田原城(おだわらじょう)に送り込まれ、この時に伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、自らの切腹と引き換えに家臣や武将の助命嘆願をした。

これを聞いた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の武将としての智勇(ちゆう)に感銘し、威令(いれい)した降伏条件はこの逆だった。

息子の北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は助命して紀伊国(和歌山県)も高野山(こうやさん)に配流(はいる)とし、最後まで抵抗した父親の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は切腹を命じた。

こうして相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と一部の家臣が自決し、北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は開城して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に明け渡した。

これにより豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、主君で亡き織田信長(おだのぶなが/織田)の念願だった天下統一を達成する。

ただ、1591年に北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)も死去する。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:05:32

◆◇◆其の二十:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●権門勢家(けんもんせいか)に成り上がった伊勢北条氏の最後の当主となる伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)

1562年に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)にて、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)の息子の伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が誕生する。

母親の黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘である。

この時期は勇猛果敢(ゆうもうかかん)な戦国武将が敵味方に別れて、深謀遠慮(しんぼうえんりょ)と詭計百出(きけいひゃくしゅつ)による戦乱が巻き起こっていた。

その代表格が、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)である。

1581年に伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は名目上の隠居をし、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督継承者に就任する。

しかし、実権は伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が掌握しており、二頭政治により伊勢北条氏の家中は判断と決断が二分化されて混迷をきたす。

1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)が死去し、その直後に起こった「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)にて、敵対した伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は講和条約を締結して和睦した。

この和睦の証として1583年に、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)と、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の娘の督姫(とくひめ/徳川→伊勢北条)が結婚した。

その後に戦国時代(安土桃山時代)も末期となり、多くの勇猛果敢(ゆうもうかかん)な戦国武将もこの世から姿を消した。

そして織田信長(おだのぶなが/織田)の意思と組織を引き継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、天下統一の覇道を邁進(まいしん)する。

豊臣政権を樹立した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、1587年に関東と奥羽に“惣無事令”(そうぶじれい)を発布した。

しかし、1589年に起こった「名胡桃事件」(なぐるみじけん)にて、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の家臣が紛争を起こし、真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)の重鎮家臣の鈴木主水(すずきもんど)こと鈴木重則(すずきしげのり/真田)が自決する。

これが豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が発布した“惣無事令”(そうぶじれい)に違反するとして、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)に対して宣戦布告した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:06:11

◆◇◆其の二十一:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●権門勢家(けんもんせいか)に成り上がった伊勢北条氏の最後の当主となる伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)

こうして1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍が、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を討伐する為に侵攻を開始した。

相模国(神奈川県)に築城された全長9kmの総構(そうがまえ)が囲む難攻不落の小田原城(おだわらじょう)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍に四方八方を完全に包囲されていた。

更に小田原城(おだわらじょう)の南西部に位置する石垣山(いしがきやま)には、昨日まで無かった石垣山城(いしがきやまじょう/小田原)の一夜城(いちやじょう)が築城されていた。

この戦況で現実を直視した伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に降伏する事を決断する。

しかし伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、難攻不落の小田原城(おだわらじょう)が落城しないと言う希望的観測(きぼうてきかんそく)と、傑出(けっしゅつ)した豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)を侮(あなど)り徹底抗戦を決断する。

この伊勢北条氏の二頭政治の決断が、重鎮家臣や武将に混迷を引き起こす事になる。

ただ、降伏の交渉人として天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)が小田原城(おだわらじょう)に送り込まれ、この時に伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、自らの切腹と引き換えに家臣や武将の助命嘆願をした。

これを聞いた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の武将としての智勇(ちゆう)に感銘し、威令(いれい)した降伏条件はこの逆だった。

息子の北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は助命して紀伊国(和歌山県)も高野山(こうやさん)に配流(はいる)とし、最後まで抵抗した父親の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は切腹を命じた。

こうして相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と一部の家臣が自決し、北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は開城して豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に明け渡した。

これにより豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、主君で亡き織田信長(おだのぶなが/織田)の念願だった天下統一を達成する。

紀伊国(和歌山県)の高野山(こうやさん)に配流(はいる)された北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は直ぐに赦免(しゃめん)されて、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の城下町に建つ織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が使用していた屋敷を与えられた。

この大坂城(おおさかじょう)の屋敷で妻の督姫(とくひめ/徳川→伊勢北条)と生活を始めた。

更に河内国(大阪府)の1万石の領地を与えられ、豊臣政権の大名に就いた。

しかし、1591年に北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)も死去する。

こうして権門勢家(けんもんせいか)に成り上がった伊勢北条氏は消滅した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:06:48

◆◇◆其の二十二:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●実は江戸幕府の狭山藩(さやま/大阪狭山)の藩主として存続していた伊勢北条氏の嫡流(ちゃくりゅう)と庶流(しょりゅう)、たまに養子

1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の以降、紀伊国(和歌山県)の高野山(こうやさん)に配流(はいる)された北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が、1591年に死去して伊勢北条氏は消滅した。

ただ、実質は伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と瑞渓院(ずいけいいん/今川→ 伊勢北条)の息子の北条氏規(ほうじょううじのり/伊勢北条→豊臣→徳川)が、伊勢北条氏の家督継承者に就任している。

要は伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の兄弟で、北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の叔父に当たる。

この時に北条氏規(ほうじょううじのり/伊勢北条→豊臣→徳川)は、和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)の祖に就任した。

1600年に北条氏規(ほうじょううじのり/伊勢北条→豊臣→徳川)が死去すると、息子の北条氏盛(ほうじょううじもり/豊臣→徳川)が、伊勢北条氏の家督継承者に就任した。

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)では、北条氏盛(ほうじょううじもり/豊臣→徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍に参加した。

1603年に武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)にて征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が江戸幕府の開設した。

こうして北条氏盛(ほうじょううじもり/豊臣→徳川)は、和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)の1代目藩主に就任した。

しかし狭山藩(さやま/大阪狭山)の立地は、和泉国(大阪府)で栄華を極める商都の堺の南部に位置し商業の発展は望めず、紀伊国(和歌山県)の弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい/真言宗)が高野山(こうやさん)に開いたの真言宗(しんごんしゅう)の総本山の金剛峯寺(こんごうぶじ)や、徳川御三家(とくがわごさんけ)の紀州徳川家が拠点とする紀州藩の和歌山城(わかやまじょう)が遥か南方に位置するだけで、これと言った特産の農産物や工業品は見当たらなかった。

唯一、日本最古の人工溜池の狭山池が広がっている程度である。

征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1608年に1代目藩主の北条氏盛(ほうじょううじもり/豊臣→徳川)が死去すると、息子で2代目藩主の北条氏信(ほうじょううじのぶ/江戸)が8歳で家督継承者に就任した。

1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」では、2代目藩主の北条氏信(ほうじょううじのぶ/江戸)は14歳の少年だった為に不参戦となる。

その後に狭山池の北東部に狭山藩(さやま/大阪狭山)の拠点となる狭山陣屋を建設した。

征夷大将軍3代目の徳川家光(とくがわいえみつ/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1625年に2代目藩主の北条氏信(ほうじょううじのぶ/江戸)が死去すると、息子で3代目藩主の北条氏宗(ほうじょううじむね/江戸)が家督継承者に就任した。

酒豪の3代目藩主の北条氏宗(ほうじょううじむね/江戸)は、朝から飲酒して千鳥足で武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)へ登城していた。

征夷大将軍4代目の徳川家綱(とくがわいえつな/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

此処(ここ)までは相模国(神奈川県)から続く伊勢北条氏の嫡流(ちゃくりゅう)が、家督継承者に就任してきた。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:07:29

◆◇◆其の二十三:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●実は江戸幕府の狭山藩(さやま/大阪狭山)の藩主として存続していた伊勢北条氏の嫡流(ちゃくりゅう)と庶流(しょりゅう)、たまに養子

1685年に3代目藩主の北条氏宗(ほうじょううじむね/江戸)が死去すると、北条氏宗(ほうじょううじむね/江戸)の養子に入った狭山北条氏の系統で4代目藩主の北条氏治(ほうじょううじはる/江戸)が家督継承者に就任した。

江戸幕府と家督継承の意見の相違で、4代目藩主の北条氏治(ほうじょううじはる/江戸)は当面は当主として認可されず、1万1千石から1万石の減封されて承認された。

征夷大将軍5代目の徳川綱吉(とくがわつなよし/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1696年に4代目藩主の北条氏治(ほうじょううじはる/江戸)が死去すると、北条氏治(ほうじょううじはる/江戸)の養子に入った狭山北条氏の系統で5代目藩主の北条氏朝(ほうじょううじとも/江戸)が家督継承者に就任した。

文武両道(ぶんぶりょうどう)で剣術の達人だった5代目藩主の北条氏朝(ほうじょううじとも/江戸)は、江戸幕府から重用(ちょうよう)され、京都火消役と伏見奉行と奏者番(そうじゃばん)に任命された。

また、和泉国(大阪府)の狭山陣屋の拡張工事も実施した。

1732年に起こった「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)で日本全土が疲弊した。

征夷大将軍6代目の徳川家宣(とくがわいえのぶ/徳川)から征夷大将軍7代目の徳川家継(とくがわいえつぐ/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1735年に5代目藩主の北条氏朝(ほうじょううじとも/江戸)が死去すると、息子の6代目藩主の北条氏貞(ほうじょううじさだ/江戸)が家督継承者に就任した。

6代目藩主の北条氏貞(ほうじょううじさだ/江戸)は狭山藩(さやま/大阪狭山)の政権運営について、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏から継承される家臣と対立して狭山騒動が起こる。

征夷大将軍8代目の徳川吉宗(とくがわよしむね/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1758年に6代目藩主の北条氏貞(ほうじょううじさだ/江戸)が死去すると、息子の7代目藩主の北条氏彦(ほうじょううじよし/江戸)が家督継承者に就任した。

父親の6代目藩主の北条氏貞(ほうじょううじさだ/江戸)の時に引き起こされた狭山騒動は継続されており、息子の7代目藩主の北条氏彦(ほうじょううじよし/江戸)も相模国(神奈川県)の伊勢北条氏から継承される家臣を鎮圧する事ができず、和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)の政権運営は混迷を極めた。

征夷大将軍9代目の徳川家重(とくがわいえしげ/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:08:09

◆◇◆其の二十四:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●実は江戸幕府の狭山藩(さやま/大阪狭山)の藩主として存続していた伊勢北条氏の嫡流(ちゃくりゅう)と庶流(しょりゅう)、たまに養子

1769年に7代目藩主の北条氏彦(ほうじょううじよし/江戸)が死去すると、息子の8代目藩主の北条氏昉(ほうじょううじあきら/江戸)が家督継承者に就任した。

8代目藩主の北条氏昉(ほうじょううじあきら/江戸)は財政再建に尽力し、軍事費の増強も実施した。

ところが1782年に狭山藩(さやま/大阪狭山)の狭山陣屋が火災で焼失した。

1782年から1788年までに起こった「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)で日本全土が疲弊した。

この飢饉により和泉国(大阪府)の各所で百姓一揆が勃発する。

征夷大将軍10代目の徳川家治(とくがわいえはる/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1811年に8代目藩主の北条氏昉(ほうじょううじあきら/江戸)が死去すると、息子の9代目藩主の北条氏喬(ほうじょううじたか/江戸)が家督継承者に就任した。

この頃になると、海外から大型船が頻繁に日本の海域に現れる様になり、狭山藩(さやま/大阪狭山)は江戸幕府から摂津国(大阪府)から和泉国(大阪府)の海岸線の警備を任命される。

1833年〜1836年まで続いた「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)で日本全土が疲弊した。

1837年に起こった「大塩平八郎の乱」にて、狭山藩(さやま/大阪狭山)は江戸幕府から摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の護衛を任命される。

征夷大将軍11代目の徳川家斉(とくがわいえなり/一橋→徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1846年に9代目藩主の北条氏喬(ほうじょううじたか/江戸)が死去すると、北条氏喬(ほうじょううじたか/江戸)の養子に入った戸田氏の系統で10代目藩主の北条氏久(ほうじょううじひさ/江戸)が家督継承者に就任した。

10代目藩主の北条氏久(ほうじょううじひさ/江戸)の出自(しゅつじ)の戸田氏は、美濃国(岐阜県)の大垣藩の藩主を務める家系である。

この家督継承で相模国(神奈川県)の伊勢北条氏の血統の濃度は薄れ、氏姓(しせい)だけが残り実質的に消滅した事になる。

征夷大将軍12代目の徳川家慶(とくがわいえよし/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1852年に10代目藩主の北条氏久(ほうじょううじひさ/江戸)が死去すると、北条氏久(ほうじょううじひさ/江戸)の養子に入った狭山北条氏の系統で11代目藩主の北条氏燕(ほうじょううじよし/江戸)が家督継承者に就任した。

この時期の江戸幕府は、1853年に起こった「黒船来航」(くろふねらいこう)や1854年に締結した「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)に、1858年に締結した「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)とアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと締結した「安政五カ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく)など、海外との対応に追われて安危栄辱(あんきえいじょく)の局面を迎えていた。

そんな時に武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)では、1858年に起こった「安政の大獄」(あんせいのたいごく)に端を発した1860年に起こった「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で、江戸幕府の大老に就任していた近江国(滋賀県)の彦根藩の16代目藩主だった井伊直弼(いいなおすけ/江戸)が暗殺された。

こうして江戸幕府の終焉の兆しがで始める。

征夷大将軍13代目の徳川家定(とくがわいえさだ/徳川)から征夷大将軍14代目の徳川家茂(とくがわいえもち/徳川)が統治する時勢に、狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:08:51

◆◇◆其の二十五:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●実は江戸幕府の狭山藩(さやま/大阪狭山)の藩主として存続していた伊勢北条氏の嫡流(ちゃくりゅう)と庶流(しょりゅう)、たまに養子

11代目藩主の北条氏燕(ほうじょううじよし/江戸)の養子に入った堀田氏の系統で12代目藩主の北条氏恭(ほうじょううじゆき/江戸→朝廷)が1860年に家督継承者に就任した。

12代目藩主の北条氏恭(ほうじょううじゆき/江戸→朝廷)の出自(しゅつじ)の堀田氏とは、尾張国(愛知県)の筋目(すじめ)で、戦国時代には織田信長(おだのぶなが/織田)や豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の家臣だった家柄(いえがら)である。

この時期は江戸幕府の政権運営に対して不満を募らせた、土佐国(高知県)の土佐藩と長門国(山口県)の長州藩と薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩が討幕を掲げて対抗した。

12代目藩主の北条氏恭(ほうじょううじゆき/江戸→朝廷)が政権運営を担う和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)は、江戸幕府から京都で活動する討幕派の取締りや摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の護衛を任命される。

この軍事費の増幅で狭山藩(さやま/大阪狭山)は極度の財政難に陥っていた。

1867年の征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)による「大政奉還」(たいせいほうかん)にて、実質的に江戸幕府は消滅する。

第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)により、1867年に発令された「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)で明治期が始まる。

1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)にて、旧体制の江戸幕府に対して、土佐国(高知県)の土佐藩と長門国(山口県)の長州藩と薩摩国(鹿児島県)の薩摩藩などの明治維新軍が交戦し、江戸幕府の残党は敗北する。

和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)は旧体制の江戸幕府として、この「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の参戦で、軍事費の大幅な支出により財政破綻する。

1871年の「廃藩置県」(はいはんちけん)を待たずにして、貯蓄が底を尽きた和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)は廃藩し堺に編入された。

1603年の江戸幕府の開設から1867年の「大政奉還」(たいせいほうかん)にて江戸幕府の消滅までの264年間で、伊勢北条氏が政権運営を担った和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)は、栄耀栄華(えいようえいが)を誇る事なく慢性的な財政難で苦悩していた。

明治期に入ると12代目藩主の北条氏恭(ほうじょううじゆき/江戸→朝廷)は、政府から華族の子爵(ししゃく)に任命された。

その後の伊勢北条氏の家系は、国会議員や日本軍に従事している。

一方で、和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)に関わった伊勢北条氏の家系も、氏姓(しせい)が北条氏もしくは北條氏で近隣に点在して現代まで続いている。

また摂津国(大阪府)の上町台地にて、593年に聖徳太子(しょうとくたいし)こと厩戸皇子(うまやどのみこ)が建立(こんりゅう)した日本最古の仏教寺院の四天王寺(してんのうじ/和宗)の門前町に、店舗を構える“五色どら焼き”が名物の茜丸本舗(あかねまるほんぽ)の経営者も北條氏である。

しかも“五色どら焼き”の製造元が大納言(だいなごん)と言う会社で、奈良時代から平安時代に掛けての律令官制の太政官(だいじょうかん)の官職でもある、太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、左弁官、右弁官、少納言に肖(あやか)っていると思われる。

茜丸本舗(あかねまるほんぽ)の創業者の北條氏は静岡県清水市の出自(しゅつじ)で、伊勢北条氏の祖でもある北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が拠点に置いた駿河国(静岡県)や伊豆国(静岡県)に通じる所がある。

更に大阪市天王寺区の寺田町の周辺には、多くの北条氏もしくは北條氏が居住していた痕跡も残っている。

1590年に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)にて、実質的に消滅したと思われた伊勢北条氏も、この様に地域の歴史や史跡から深掘りすれば新たな発見が視えてくる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 12:09:31

◆◇◆まるでその場に居たような言い方のインターネットのコメント歴史家◆◇◆

●お題:相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とした伊勢北条氏の軌跡

備中国(岡山県)の後月(しつき/井原)の出自(しゅつじ)で室町幕府の役人だった北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、駿河国(静岡県)の今川義忠(いまがわよしただ/斯波)に嫁いだ姉の北川殿(きたがわどの/今川)の縁で、伊豆国(静岡県)と相模国(神奈川県)の領主に就任した。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は元祖戦国武将と呼ばれ、下克上(げこくじょう)により守護大名に侵攻して領地を簒奪(さんだつ)する仕組みを作り、領国を拡大させて武功(ぶこう)を挙げた家臣に論功行賞(ろんこうこうしょう)として恩賞(おんしょう)の領土を分け与える礎(いしずえ)を築く。

まさに戦国時代の幕開けである。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の興国寺城(こうこくじじょう/沼津)と相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の城主に就任し、1523年に伊勢氏から北条氏に改名した。

関東地方の武将や国衆(くにしゅう)と合戦を繰り広げ勢力拡大させていった。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は“相模の獅子”と呼ばれ、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点に“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)や“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と交戦を繰り広げた。

1554年に締結された「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)にて、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)と甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)との連盟を強化する。

今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)の娘の瑞渓院(ずいけいいん/今川→ 伊勢北条)を妻に娶(めと)り、今川義元(いまがわよしもと/今川)とは義兄弟の関係となる。

その後に、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と、北条氏照(ほうじょううじてる/伊勢北条)と、北条氏規(ほうじょううじのり/伊勢北条→豊臣→徳川)と、早川殿(はやかわどの/伊勢北条→今川)が誕生した。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)の息子の北条為昌(ほうじょうためまさ/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の玉縄城(たまなわじょう/鎌倉)の城主に就任した。

福島氏の系統の北条綱成(ほうじょうつなしげ/福島→伊勢北条)は、上野国(こうずけ/群馬県)の勢多(せた/前橋)を拠点とする“剣聖”(けんせい)と呼ばれる新陰流の流祖の上泉信綱(かみいずみのぶつな/剣術士)が義父で、嫡男(ちゃくなん)の居なかった北条為昌(ほうじょうためまさ/伊勢北条)の養子に入る。

北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)の弟の北条綱房(ほうじょうつなふさ/伊勢北条)も、北条為昌(ほうじょうためまさ/伊勢北条)の養子に入る。

1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)にて、武蔵国(埼玉県)の河越城(かわごえじょう/川越)の城代に就いていた北条綱成(ほうじょうつなしげ/福島→伊勢北条)は篭城し、“関東で一番の美少年”と呼ばれる弟の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)が伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の伝達役となり、女装して河越城(かわごえじょう/川越)に潜入し戦略を伝える。

伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、汁掛け御飯の汁量を測れず父親の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に酷評される。

武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)を妻に娶(めと)る。

その後に伊勢北条氏5代目北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が誕生した。

豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、小田原評定(おだわらひょうじょう)で結論の出ない軍議を延々と続け、結果的に自決させられた。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の息子の北条氏照(ほうじょううじてる/伊勢北条)は、甥で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)と共に1582年に起こった「神流川の戦」(かんながわのたたかい)にて、滝川一益(たきがわかずます/織田)が率いる織田軍滝川隊に勝利する。

北条氏規(ほうじょううじのり/伊勢北条→豊臣→徳川)は、相模国(神奈川県)の三崎城(みさきじょう/三浦)の城主に就任し、1591年に甥で伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が死去すると、和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)の祖となる。

早川殿(はやかわどの/伊勢北条→今川)は、今川義元(いまがわよしもと/今川)の息子で今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の妻となる。

伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は、伊勢北条氏の最後の当主となり、1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の翌年の1591年に死去する。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の娘の督姫(とくひめ/徳川→伊勢北条)を妻に娶(めと)る。

北条氏規(ほうじょううじのり/伊勢北条→豊臣→徳川)の息子の北条氏盛(ほうじょううじもり/豊臣→徳川)が、和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)の1代目藩主に就任して、江戸時代に伊勢北条氏の系統を引き継いでいく。

●コメント歴史家

①:伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)しかり、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)しかり、あの織田信長(おだのぶなが/織田)と直接対決はしてないんだよね。 “もし”(if)も直接対決していたら、何方(どちら)に軍配が上がっただろうか?

②:↑過去の出来事の歴史に“もし”(if)なんてものは無い。 1つの出来事で2つ以上の経緯(いきさつ)は、この地球、あの宇宙に存在しない。 そんな無意味な事に脳細胞の容量を使用するなら、未来や将来に向けた“もしかしたら”(perhaps)を思考した方が有意義である。 例えば、“もしかしたら”(perhaps)お手盛り(出来レース)の副首都が大阪府に選定され、宗主国(そうしゅこく)の中国と連携して、北朝鮮から弾道ミサイルを数百発ほど首都の東京都に撃ち込んで壊滅させ、西日本は中国が占領して植民地にし、東日本はロシアが占領して植民地にした場合の、その時の日本人の対応と心構えを想像した方が現実的である。

③:江戸幕府の264年間で、和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)の藩主だったのが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏だったとは思わなかった。 財政難と言うが他の大名に変更される事なく政権運営してきたのはご立派である。 やはり伊勢北条氏“しか勝たん”。

④:1546年に起こった「河越夜戦」(かわごえやせん)の兄の北条綱成(ほうじょうつなしげ/福島→伊勢北条)と弟の北条綱成(ほうじょうつなしげ/伊勢北条)の“キャラ立ち”が半端ない。

⑤:元祖戦国武将と言われる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)だが、その戦地での功績はかなり“盛って”います。 元々は室町幕府の財務を担う政所(まんどころ)の役人が、何でいきなり百戦錬磨の英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な武将に成れるんだ?!

⑥:↑お前は室町時代から戦国時代に行って、直接に北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の生涯を観てきたのか? 歴史を思い込みの希望的観測(きぼうてきかんそく)だけで結論付ける者は、愚昧(ぐまい)の鼠輩(そはい)でしかない。

⑦:汁掛け御飯の汁量を測れず、父親の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に酷評された伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の心境を想うと心が痛む。 こんな事で歴史に逸話が残るのは恥辱(ちじょく)である。

⑧:相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とした伊勢北条氏よりも、和泉国(大阪府)の狭山藩(さやま/大阪狭山)の藩主だった伊勢北条氏を調査した方が、“沼にはまる”可能性は高い。

⑨:なんだかんだ言って、伊勢北条氏は駿河国(静岡県)の今川氏とは密接な関係にあるが、甲斐国(山梨県)の武田氏とは希薄な関係が露呈(ろてい)している。 これ現代でも言える事で、相性の悪い人は100年間付き合っても反りは合わない。 これ理屈じゃないんですよね。 無理して知人関係を構築しても、利益より弊害の方が大きい。

⑩:1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、最後まで豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に抵抗して自決させられた伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の“詰んだ”感が半端ない。

この教養の無い無責任な言葉使いが、歴史を創ってきたかと思うと考え深い。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 14:28:35

◆◇◆400年続く郡上おどりだけでない、美濃国(岐阜県)の郡上のちょっと良い話◆◇◆

美濃国(岐阜県)の郡上と言えば郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう/郡上)が有名である。

近隣には、それ以前の鎌倉時代の1310年に築城された篠脇城(しのわきじょう/郡上)が建っている 

この美濃国(岐阜県)の篠脇城(しのわきじょう/郡上)の城主は東氏(とううじ)が引き継いでおり桓武平氏(かんむへいし)の系統である。

室町時代の末期に篠脇城(しのわきじょう/郡上)の城主に就いていたのは東常縁(とうつねより/室町)だった。

篠脇城(しのわきじょう/郡上)以外にも、赤谷山城(あかだにやまじょう/郡上)もしくは東殿山城(とうどやまじょう)の城主を務めていた。

武将の東常縁(とうつねより/室町)ではあるが歌人としての顔も持ち、文化的な意識の高い教養のある人物と伝わる。

相模国(神奈川県)の鎌倉府が1455年〜1483年に起こった「享徳の乱」(きょうとくのらん)で混迷し、京都の室町幕府が1467年〜1477年に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)で衰退化していた時期に、遠く離れた美濃国(岐阜県)の篠脇城(しのわきじょう/郡上)も戦乱に巻き込まれていた。

1468年に美濃国(岐阜県)の守護代だった斎藤妙椿(さいとうみょうちん/斎藤→土岐)が篠脇城(しのわきじょう/郡上)に侵攻して奪取(だっしゅ)した。

篠脇城(しのわきじょう/郡上)を追い出された東常縁(とうつねより/室町)は武力ではなく歌人として、斎藤妙椿(さいとうみょうちん/斎藤→土岐)に和歌を十首ほど送った。

この贈呈された和歌を詠んだ斎藤妙椿(さいとうみょうちん/斎藤→土岐)は感銘を受けて、何も言わずに篠脇城(しのわきじょう/郡上)を東常縁(とうつねより/室町)へ返還した。

勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将同士が合戦を繰り広げて、知謀(ちぼう)や雄略(ゆうりゃく)を駆使して領土やお城を簒奪(さんだつ)する戦国時代とは違い、賢能(けんのう)で崇高(すうこう)な敵味方の武将が文化的に遣り取りし、敬仰(けいぎょう)が生まれて取り決める。

この高尚(こうしょう)な逸話は“鎌倉大草紙”(かまくらおおぞうし)にも記載されている。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260723 - ラジオの友

2026/07/23 (Thu) 15:17:41

◆◇◆江戸時代のバックパッカー、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)の人生観◆◇◆

1800年頃の江戸時代、伊勢国(三重県)の奄芸(あんき/鈴鹿)にて廻船の船頭だった大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)が、太平洋や日本海の荒波を乗り越えて江戸や大坂に日本各地の物産を運搬していた。

ところが1782年に、江戸へ向かっていた大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)の廻船は、嵐に遭遇して暴風で大海原を漂流する事になる。

こうして大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)の廻船は、ロシア大陸のアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。

廻船は大きな損傷を受けて、日本へ帰国する術(すべ)が無くなり、4年間近くロシア人と共に生活する事となる。

その後に廻船を修復してアムチトカ島を離れてロシア大陸の各都市を巡った。

この時に大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)は、ロシア帝国の外交官で日本との交易を希望していたニコライレザノフ(外交官)と出会う。

その後の1791年に大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)はキリルラクスマン(博物学者)と出会い、その仲介でロシア帝国の女帝に就いていたエカチェリーナ2世(ロシア女帝)に拝謁(はいえつ)して、日本への帰国を承諾される。

キリルラクスマン(博物学者)の息子のアダムラクスマン(ロシア軍人)が同行して大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)を乗せた船は蝦夷国(えぞ/北海道)に寄港し、10年ぶりに日本の土を踏んだ。

そのまま武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に出向き、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)は征夷大将軍11代目の徳川家斉(とくがわいえなり/一橋→徳川)や老中などに謁見(えっけん)して、ロシア帝国の内部事情を詳細に語った。

この事が江戸幕府の海外対応に大きく影響してくる。

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう/船頭)は江戸城(えどじょう)の城下町の番町に屋敷を構えて、1828年に江戸の屋敷にて77歳で死去した。

■当サイトを閲覧するにあたり/20260723 - ラジオの友 URL

2026/07/23 (Thu) 07:06:40

閲覧者の義務として、このサイト内に掲載されている音楽の5曲以上をお好きなラジオ局にリクエストして下さい。

もし、リクエスト曲が掛かれば幸福度がアップします。

今日のラッキーソングはこれだっ!

Guns N' Roses/♪ Welcome To The Jungle

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:22:16

◆◇◆其の二十一:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●“相模の獅子”と呼ばれる伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を父親に持つ北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)

1554年に相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)にて、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の息子の北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)が誕生する。

北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は七男だった事もあり、相模国(神奈川県)の箱根に建つ伊勢北条氏の菩提寺の早雲寺(そううんじ/臨済宗)に出家して僧侶となる。

時は戦国の乱世。

1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)で、今川義元(いまがわよしもと/今川)が織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取りられ死去した。

此(こ)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の死去と、1553年〜1564年までの「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍との合戦で苦戦した事に起因して、武田信玄(たけだしんげん/武田)は戦略の方向転換をした。

先ずは甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と提携して、駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の当主に就いた今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の領国に侵攻する事を紐帯(ちゅうたい)した。

三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西側から遠江国(静岡県)を制圧し占領し、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は北側から駿河国(静岡県)を制圧し占領する事を取り決めた。

この狡猾(こうかつ)な武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を庇護(ひご)して援護した。

こうして「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)は瓦解(がかい)した。

1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻して制圧した。

これに呼応(こおう)して三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、遠江国(静岡県)に侵攻して制圧した。

こうして今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は敗走して、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が居城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に身を寄せた。

続いて武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)に侵攻を開始した。

これに危機感を覚えた“相模の獅子”と呼ばれる伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)は、犬猿の仲だった“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と1569年に「越相同盟」(えつそうどうめい)を締結した。

この「越相同盟」(えつそうどうめい)の証として、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)の息子で、相模国(神奈川県)の箱根に建つ伊勢北条氏の菩提寺の早雲寺(そううんじ/臨済宗)の僧侶だった北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)が、1570年に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子に入った。

この時に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を上杉氏の当主にして越後国(新潟県)の守護代に就任させ、北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)を相模国(神奈川県)の鎌倉府に在して関東管領(かんとうかんれい)に就任させ、室町幕府を再興させる構想を持っていたと言う。

ただ、この構想は上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の頭の中だけで描いたもので、書面に残していなかった。

1570年に北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、長尾政景(ながおまさかげ/長尾→上杉)と仙桃院(せんとういん/長尾)の娘で、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の姪の清円院(せいえんいん/上杉)と結婚する。

この時に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子に入り、上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)と名乗る様になる。

1571年に上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)と清円院(せいえんいん/上杉)の息子の上杉道満丸(うえすぎどうまんまる/上杉)が誕生する。

同年の1571年に、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が死去し、世代交代により伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が家督継承した。

伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と和睦した事により、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)との「越相同盟」(えつそうどうめい)は瓦解(がかい)した。

伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の兄弟の上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)ではあったが、上杉氏の一族として越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に残る事を決断する。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:23:03

◆◇◆其の二十二:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●“相模の獅子”と呼ばれる伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を父親に持つ北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)

1578年に越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)にて、叔父で養父の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が死去する。

生前の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、上杉氏の家督継承者を遺言に残していなかった為に、上杉氏の家臣の中で上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の派閥と上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)の派閥で、家督継承の内紛が勃発する。

1578年に起こった「御館の乱」(おたてのらん)にて、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が亡くなると、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で家督争いが起こる。

越後国(新潟県)の上杉氏によるお家騒動だったが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏や甲斐国(山梨県)の武田氏まで巻き込む大騒乱となってしまった。

先ず上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は直参家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)などと共に、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に陣営を設けて篭城した。

一方の上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、春日山城(かすがやまじょう/上越)の城下町に設けた関東管領(かんとうかんれい)の役所となる御館(おたて)に陣営を設けた。

この時に軍事力と政治力を発揮したのが上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で、兄弟の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)に援軍要請している。

更に相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は講和成立を条件に、甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に侵攻する様に示唆(しさ)した。

これにより甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は北上して、越後国(新潟県)の領域まで進軍した。

ところが、この隙に遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍が、当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)が不在の甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)に侵攻してきた。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討伐している場合でなくなり、更に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)から講和を持ち掛けられ承諾してしまう。

こうして武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は、甲斐国(山梨県)に帰還してしまう。

此(こ)れに激怒した伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)から伊勢北条軍を出陣させたが、季節は冬で豪雪の越後国(新潟県)に居座る冬将軍に行く手を阻(はば)まれる。

戦況不利を感じた上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、7歳の息子の上杉道満丸(うえすぎどうまんまる/上杉)を人質に出して講和交渉を持ち掛ける。

侍従(じじゅう)を付けて上杉道満丸(うえすぎどうまんまる/上杉)を越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に篭城する上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の元に送り出した。

ところがその道中で、上杉軍景勝隊に襲撃されて上杉道満丸(うえすぎどうまんまる/上杉)と侍従(じじゅう)は討死する。

こうして御館(おたて)の陣営で孤立無縁となった上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、妻の清円院(せいえんいん/上杉)の薦めで相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)まで逃亡を図る。

この間に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の軍隊による総攻撃で、御館(おたて)の陣営は炎上して、上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)の妻の清円院(せいえんいん/上杉)は1579年に死去する。

しかも逃亡した上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)も、家臣の裏切りにより自決した。

その後も上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)の派閥は抵抗して、「御館の乱」(おたてのらん)が終結したのは1580年だった。

これにより上杉氏の勢力基盤は弱体化し、衰退の一途を辿る。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:23:41

◆◇◆其の二十三:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●上様(うえさま)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と旦那(だんな)の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の生涯の紐帯(ちゅうたい)

1560年に越後国(新潟県)の坂戸城(さかどじょう/南魚沼)の城下町にて、上田長尾氏の家臣の樋口兼豊(ひぐちかねとよ/長尾→上杉)の息子の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は誕生した。

父親の樋口兼豊(ひぐちかねとよ/長尾→上杉)は、木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)の家臣で、中原兼遠(なかはらかねとお/木曽)の息子で“木曽四天王”(きそしてんのう)と呼ばれた樋口兼光(ひぐちかねみつ/木曽→源氏)の子孫と言われている。

1564年に越後国(新潟県)の坂戸城(さかどじょう/南魚沼)の城主だった上田長尾氏の当主の長尾政景(ながおまさかげ/長尾→上杉)が、野尻池(のじりいけ)で舟遊びをして溺死した。

長尾政景(ながおまさかげ/長尾→上杉)の妻は、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の姉の仙桃院(せんとういん/長尾)で、その息子が上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)である。

父親を失った上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子に入る。

この時に上田長尾氏に仕えていた父親の樋口兼豊(ひぐちかねとよ/長尾→上杉)と息子の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)も、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の臣従(しんじゅう)に就く。

これにより8歳の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の傍仕(そばづか)えとして、4歳の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が就任した。

1578年に越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)にて、叔父で養父の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が死去する。

生前の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、上杉氏の家督継承者を遺言に残していなかった為に、上杉氏の家臣の中で上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の派閥と上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)の派閥で、家督継承の内紛が勃発する。

1578年に起こった「御館の乱」(おたてのらん)にて、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が亡くなると、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で家督争いが起こる。

越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に篭城した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、父親の樋口兼豊(ひぐちかねとよ/長尾→上杉)と息子の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)もあり、上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)に勝利して自決に追い込む。

1581年に長尾氏の重鎮家臣で直江景綱(なおえかげつな/長尾→上杉)の養子に入っていた直江信綱(なおえのぶつな/長尾→上杉)が暗殺される。

これにより上杉氏の直参家臣だった直江氏の家系が断絶される危機に陥るが、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の仲介で直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が養子に入る事が決定する。

ここから直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と名乗る様になる。

直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と言えば兜の“愛”の一文字だが、これは主君の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が毘沙門天(びしゃもんてん)を崇拝していた事に肖(あやか)って、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は煩悩や愛欲を受け入れる神様の愛染明王(あいぜんみょうおう)を崇拝した。

そして1581年に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、越後国(新潟県)の与板城(よいたじょう/長岡)の城主に就任した。

その後も越後国(新潟県)の上杉氏では、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を当主と認可しない反発派の家臣や国衆(くにしゅう)の抵抗もあり、領国の統治が混乱していく。

この時期に国内外の政治統制に尽力したのが、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と狩野秀治(かのうひではる/尼子→上杉)だった。

しかし、1584年に狩野秀治(かのうひではる/尼子→上杉)は業務過剰により過労で死去する。

こうなると上杉氏の政権運営は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の1人に重くのし掛かる。

日本海に面した越後国(新潟県)は廻船(かいせん)による交易が盛んで、衣類の原料となる植物のカラムシの取引で莫大な利益を上げていた。

実質的に上杉氏の統制は二頭政治で、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が当主として君臨し、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が摂関政治の様に政務の全てを掌握していた。

上杉氏の家臣からは、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は上様(うえさま)、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は旦那(だんな)と呼ばれていた。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:24:21

◆◇◆其の二十四:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●上様(うえさま)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と旦那(だんな)の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の生涯の紐帯(ちゅうたい)

1580年前後は、越後国(新潟県)や越中国(富山県)の国衆(くにしゅう)による反乱や、一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)の檀家(だんか)が結束して武装した一向群集(いっこうぐんしゅう)による一向一揆(いっこういっき)が勃発していた。

更に織田信長(おだのぶなが/織田)の伝令(でんれい)を受けた越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)を拠点とした柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる織田軍柴田隊が、加賀国(石川県)と能登国(石川県)に侵攻を開始した。

その攻勢により越中国(富山県)まで迫っていた。

ところが日本列島を激震させる事変が起こる。

京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

“中国攻め”を実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、急遽に備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

そして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

戦国時代(安土桃山時代)の末期になると豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一の覇道を突き進んだ。

この畿内(きない/関西)の戦況を明察(めいさつ)した越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、一気呵成(いっきかせい)の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が優位と判断して従属(じゅうぞく)する事を決断する。

この時期に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣で同年代の石田三成(いしだみつなり/豊臣)と交流が始まる。

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、織田氏の家督継承者の覇権争いで、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が、近江国(滋賀県)に広がる琵琶湖の北部に連なる山岳地帯の賤ヶ岳(しずがたけ)で交戦を繰り広げた。

この合戦で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に参戦した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる豊臣軍上杉隊は、越後国(新潟県)から日本海側を進軍した。

一時は柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が戦況は優勢だったが、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の裏切りもあり敗北した。

これにより越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と“小牧山の美女”と言われるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)は自決した。

その後も豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に恭順(きょうじゅん)して、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる豊臣軍上杉隊は日本各地を奔走(ほんそう)した。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:25:15

◆◇◆其の二十五:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●上様(うえさま)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と旦那(だんな)の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の生涯の紐帯(ちゅうたい)

こうして豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一を果たす。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から寵愛(ちょうあい)を受けて、豊臣政権では重要な役職に重用(ちょうよう)された。

そんな豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から“無口で無表情な若武者”と呼ばれていた。

またこの時期に、“ツッパリの利家”と呼ばれる前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)に仕えていた“ヤンキーの慶次”と呼ばれる前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)が、前田氏から出奔(しゅっぽん)して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の陪臣(ばいしん)に就任した。

前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と共に、豊臣軍上杉隊を支える事になる。

その後の豊臣政権では死期を悟った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、“豊臣五大老”を設けて徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)と宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)を選任して、豊臣氏の家督継承者である豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の後見人として託した。

1597年に“豊臣五大老”だった小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が死去した事で、後継者に越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が就任した。

1595年に陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)の城主だった蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が死去すると、息子の蒲生秀行(がもうひでゆき/織田→ 豊臣→徳川)が当主に就任するが、1598年まで内部紛争で「蒲生騒動」(がもうそうどう)が発生し、下野国(しもつけ/栃木県)の18万石の宇都宮城(うつのみやじょう)に領地削減の減封(げんぽう)となる。

1598年に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、越後国(新潟県)の39万石から120万石の陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)へ、大幅な石高加増の領地移転の転封(てんぽう)となった。

この豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による目的には、陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と、武蔵国(東京都)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の有力大名を監視と牽制する狙いがあった。

そして1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去した事により、天下泰平の世は再び戦国時代に逆戻りし、その戦乱に陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)が拠点となった上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)も巻き込まれていく。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:25:56

◆◇◆其の二十六:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●上様(うえさま)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と旦那(だんな)の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の生涯の紐帯(ちゅうたい)

1598年に山城国(京都府)の小高い丘に建つ伏見城(ふしみじょう/京都)にて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去すると、豊臣政権の家督後継者は息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が就いた。

豊臣政権にて完全に権力を掌握した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は政権奪取にようやく動き出す。

陸奥国(むつ/福島県)の会津を領土とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)に謀反(むほん)の疑いを掛けて討伐を仕掛ける。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に対して、京都に上洛する様に命令を下すも、これを2人は拒否する。

しかも直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を批判する“直江状”(なおえじょう)なる物が出回り、これを見た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は激怒する。

“直江状”(なおえじょう)の概要は端的に訳すと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対して辛辣(しんらつ)な書状での罵詈雑言(ばりぞうごん)でしかない。

⦅上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)に移封(いほう)して、まだ日が浅いのに謀反(むほん)を企てる余裕も時間も無く、こちらに豊臣政権に対して逆心など全くないのに、何処(どこ)かの無責任な鼠輩(そはい)が流布(るふ)を吹聴(ふいちょう)して、そんなつまらない讒言(ざんげん)を信じて疑う徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)こそ、明察(めいさつ)や聡明(そうめい)の無さを感じます。 長年の戦乱を経験した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も老獪(ろうかい)と化し、偏信(へんしん)を実施する様では愚昧(ぐまい)極まりなく、忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)な上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)としてはとても看過(かんか)できない。⦆

ただ実際には斎藤道三(さいとうどうさん/土岐→斎藤)の家臣の堀秀政(ほりひでまさ/斎藤→織田→豊臣)の従兄弟の奥田直政(おくだなおまさ)こと堀直政(ほりなおまさ/織田→豊臣→徳川)が、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の後任として越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に入った際に、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)による田畑の収穫を巡り嫌がらせを受けた。

憤懣(ふんまん)した奥田直政(おくだなおまさ)こと堀直政(ほりなおまさ/織田→豊臣→徳川)が、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に上杉氏の讒言(ざんげん)をしたのが主因と言われている。

そこで上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)の為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊の大軍を進軍させる。

ただ、この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が畿内(きない/関西)を留守にした隙に、“豊臣五奉行”の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が西軍の総大将に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を就任させて挙兵した。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍が下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮の手前の小山(おやま)に滞在した際に、畿内(きない/関西)で石田三成(いしだみつなり/豊臣)が挙兵した事の知らせが入る。

この時点で徳川軍は、陸奥国(むつ/福島県)の会津を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の上杉軍と、畿内(きない/関西)を拠点とする石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍に挟まれる危機的な状況に陥る。

そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は軍議を開催して、同行する武将の意見を聞き、畿内(きない/関西)に引き返して石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍と交戦する事を決定する。

これを1600年に開催した「小山評定」(おやまひょうじょう)と呼ぶ。

こうして東軍は西軍と交戦する為に、西国に侵攻する事になった。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:26:33

◆◇◆其の二十七:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●上様(うえさま)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と旦那(だんな)の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の生涯の紐帯(ちゅうたい)

1600年に開催した「小山評定」(おやまひょうじょう)の後に、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の戦略の相違から初めて意見が割れた。

直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、畿内(きない/関西)に引き返して石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍と交戦する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍を追撃し、後方から総攻撃を仕掛ける様に進言した。

一方の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、後方から敵陣を攻撃するのは狡猾(こうかつ)な老獪(ろうかい)が行う事で、武士の有るまじき行為として拒否(きょひ)した。

この意見の対立により直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、主君の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を立てて意見を聞き入れる。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊は進路を反転して西方に引き返して行く。

しかし、畿内(きない/関西)の豊臣政権の混乱に乗じて直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の義理の甥にあたる前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)を従えて、2万人の上杉軍を最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の領土でもある出羽国(でわ/山形県)の畑谷城(はたやじょう/山辺)に侵攻する。

これを「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)と呼ぶ。

大軍を前に最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は撤退命令を出したが、畑谷城(はたやじょう/山辺)を守護する最上氏の家臣の江口光清(えぐちあききよ/最上)は500人の兵士と共に抗戦した。

ただ、多勢に無勢で江口光清(えぐちあききよ/最上)は敗北して討死し、畑谷城(はたやじょう/山辺)は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に占領させる。

この戦況不利により出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に居城する最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)に居城する甥の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に援軍要請をする。

最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹かつ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親で最上家に出戻りしていた義姫(よしひめ/最上→伊達)の働き掛けもあり、留守政景(るすまさかげ/伊達)が率いる3000人の兵士の伊達軍が進軍した。

留守政景(るすまさかげ/伊達)とは、伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子で留守顕宗(るすあきむね/伊達)の養子に入り、陸奥国(むつ/宮城県)の岩切城(いわきりじょう/仙台)の城主である。

この『伊達軍の援軍、直(す)ぐに来(きた)る!』の知らせは最上軍の兵士の士気(しき)を高めて、出羽国(でわ/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)を守護する最上氏の家臣の志村光安(しむらあきやす/最上)は、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の家臣の春日元忠(かすがもとただ/武田→上杉)が布陣する陣営に夜襲を掛けて勝利する。

この敗北で春日元忠(かすがもとただ/武田→上杉)は討死した。

ここで出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に居城する最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、7000人の兵士を引き連れて最上軍本隊も出陣した。

ところが、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍と石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍の合戦は、半日足らずで決着がついて「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)は東軍の勝利に終わる。

この知らせは「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)の戦場にも届き、東軍に就いていた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊は、戦況有利となり勢いに乗る。

一方、有利な情勢で進めていた西軍に就いていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が率いる上杉軍は、この時点で賊軍となり撤退を余儀なくされる。

2万人の兵士が引き上げていく上杉軍の後方部隊を担う“殿”(しんがり)は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)が務めた。

山形から長井まで続く狐越街道(きつねごえかいどう)を上杉軍は進み、途中の畑谷城(はたやじょう/山辺)に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)の“しんがり部隊”は篭城して、執拗に進撃してくる最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊に抗戦した。

直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の家臣で上杉軍の下秀久(しもひでひさ/上杉→最上)は、出羽国(でわ/山形県)の谷地城(やちじょう/河北)を守護していたが、西軍および上杉軍の敗北を知らされておらず抗戦を続けていた。

ただ、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊の総攻撃に遭い、下秀久(しもひでひさ/上杉→最上)は降伏(こうふく)して、その後は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の家臣として従属(じゅうぞく)する。

ようやく出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に帰還した直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は自害しようとするも、同友の前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)に止められる。

直江兼続…『殿、無念であった。』

グッ

前田慶次…『兼続殿、おやめなされぇ! 死ぬのはいつでもできる。 ただ、それは今ではない!』

直江兼続…『慶次殿、うっううう・・・』

前田慶次…『兼続殿には、まだやる事がある。 必ずやる事がある。』

一方で、京都の六条河原にて石田三成(いしだみつなり/豊臣)と小西行長(こにしゆきなが/宇喜多→豊臣)は斬首されて三条大橋で梟首(きょうしゅ)となった。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:27:09

◆◇◆其の二十八:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●上様(うえさま)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と旦那(だんな)の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の生涯の紐帯(ちゅうたい)

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)かつ「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)も終わり、徳川派閥による戦後処理が行われた。

出羽国(でわ/山形県)の合戦で大活躍した最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、庄内地方まで領土を認められて加増され57万石の大名となった。

陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は目立った功績が乏しく2万石の加増で終わる。

一方、敗北した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)を中心とした120万石から、領地削減の減封(げんぽう)と領地移転の転封(てんぽう)により出羽国(でわ/山形県)の米沢城(松岬城/まつがさきじょう)の30万石となった。

この時に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は上洛して、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)にて徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に拝謁(はいえつ)し、平身低頭(へいしんていとう)に謝罪した。

天下の大大名から一気に貧乏大名になった上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を支えたのは、あの重鎮家臣でもある直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)である。

この時に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、出羽国(でわ/山形県)の治水工事を実施して田畑を拡張させる新田開発に尽力した。

また、米沢城(松岬城/まつがさきじょう)の城下町の整備と商業の促進、鉱山開発にも進出した。

こうして出羽国(でわ/山形県)の米沢城(松岬城/まつがさきじょう)は、30万石から50万石に加増された。

こうして豊臣政権から徳川政権へと引き継がれていく。

武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)にて、征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が1603年に江戸幕府を開設する。

1604年に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)との関係性を強化する為に、江戸幕府の老中だった本多正信(ほんだまさのぶ/徳川)の息子の本多政重(ほんだまさしげ/徳川→上杉→徳川)を養子に入れる。

その合間に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、親友の前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)と和歌や茶道など芸事などの文化活動も楽しんだ。

1605年に征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が家督継承者に就任し、駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)に隠居した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は大御所となり二元政治を実施する。

1611年に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の養子に入っていた本多政重(ほんだまさしげ/徳川→上杉→徳川)が上杉氏を出奔(しゅっぽん)し、加賀国(石川県)の金沢城(かなざわじょう)に出向き前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の息子の前田利常(まえだとしつね/豊臣→徳川)の陪臣(ばいしん)に就く。

1614年に起こった「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)をきっかけに、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍は、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に侵攻する準備に取り掛かる。

1614年に起こった「大坂・冬の陣」かつ1615年に起こった「大坂・夏の陣」にて、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる徳川軍上杉隊も参戦し、徳川軍は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)を包囲して総攻撃を仕掛けて豊臣軍は敗北し、淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)は自害して、こうして豊臣氏は滅亡した。

この後の1615年に、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の息子の直江景明(なおえかげあき/上杉)は、「大坂・夏の陣」に参戦した後に病気で死去する。

1619年に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が死去する。

出羽国(でわ/山形県)の米沢藩の財政負担を軽減する為に、生前に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は直江氏の家系を断絶して、直江氏の石高を上杉氏に帰属させた。

死しても、上様(うえさま)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と旦那(だんな)の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の生涯の紐帯(ちゅうたい)が伺える。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:27:50

◆◇◆其の一:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●鎌倉時代の北条氏と戦国時代の伊勢北条氏は全くの無関係

一般的に北条氏と聞けば、鎌倉幕府の執権を担った北条氏(ほうじょううじ)を思い浮かべる。

ただ、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点に関東地方を統治した戦国武将の伊勢北条氏を思い浮かべる歴史愛好家も居るだろう。

では、鎌倉時代の北条氏の子孫が、戦国時代の伊勢北条氏に引き継がれているのか?

これは間違いである。

鎌倉時代の北条氏と戦国時代の伊勢北条氏は、全く関係の無い赤の他人である。

まあ、鈴木や佐藤など同じ氏姓(しせい)でも赤の他人と言う事は多い。

ただ戦国時代の伊勢北条氏は権門勢家(けんもんせいか)の仲間入りを果たす為に、鎌倉時代の北条氏から氏姓(しせい)を勝手に拝借しており、元々は伊勢氏だった。

何故に伊勢氏は氏姓(しせい)を北条氏に肖(あやか)ったのか?

それを紐解くには平安時代末期まで遡及(そきゅう)する必要がある。

1160年に起こった「平治の乱」(へいじのらん)にて、天皇家で内紛が勃発した際に、第77代天皇の後白河天皇(ごしらかわてんのう/朝廷→天皇)と共闘し勢力拡大した平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)は、反乱を起こした源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)を討伐して暗殺した。

源義朝(みなもとよしとも/朝廷→天皇→源氏)の息子で13歳だった源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は、伊豆国(静岡県)の韮山(にらやま)に配流(はいる)となる。

この時に平氏の武将だった北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)が、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の監視役に就く。

ところが北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)の娘の北条政子(ほうじょうまさこ/平氏→鎌倉)が、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に一目惚れをして結婚する。

その後の1180年〜1185年に起こった源平合戦(げんぺいかっせん)こと「治承寿永の乱」(じしょうじゅえいのらん)にて、源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)の源氏軍が平家軍に勝利した。

こうして1185年に相模国(神奈川県)の大倉御所(おおくらごしょ)にて、頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)は鎌倉幕府を開設した。

この時の後ろ盾が義父で執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)や、執権2代目の北条義時(ほうじょうよしとき/平氏→鎌倉)と北条時房(ほうじょうときふさ/平氏→鎌倉)である。

執権3代目の北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉)の時に、鎌倉幕府の施設を1225年に宇津宮辻子御所(うつのみやずしごしょ)へ移転し、1236年に若宮大路御所(わかみやおおじごしょ)へ移転した。

その後も得宗家(とくそうけ)の北条氏により得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)が実施された。

1324年に起こった「正中の変」(しょうちゅうのへん)や1331年に起こった「笠置山の戦」(かさぎやまのたたかい)にて、大覚寺統(だいかくじとう/南朝)で第96代天皇の後醍醐天皇(ごだいごてんのう/朝廷)による鎌倉幕府の討伐機運が拡大していく。

河内国(大阪府)の武将の楠木正成(くすのきまさしげ/朝廷)や上野国(こうずけ/群馬県)の武将の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉→朝廷)の攻勢により、1333年に執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)と得宗家(とくそうけ)の北条氏は集団自決により鎌倉幕府は壊滅した。

この合戦で金沢流の執権15代目の北条貞顕(ほうじょうさだあき/鎌倉)や、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の義兄で赤橋流の執権16代目の北条守時(ほうじょうもりとき/鎌倉)も死去した。

執権17代目の金沢貞将(かなざわさだまさ)こと北条貞将(ほうじょうさだまさ/鎌倉)も死去しており、一般的に鎌倉幕府の得宗家(とくそうけ)の北条氏は消滅している。

ただ、執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)の息子の北条時行(ほうじょうときゆき/鎌倉)は、合戦の戦地から逃亡しおて、室町幕府では信濃国(長野県)の守護に就任している。

ただ、此処(ここ)から戦国時代の伊勢北条氏に結び付く事はない。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:28:30

◆◇◆其の二:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)曰(いわ)く、北条早雲(ほうじょうそううん)って誰だ?

1432年に備中国(岡山県)の後月(しつき/井原)にて、伊勢平氏の系統で室町幕府の役人の家系に北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は誕生した。

京都の室町幕府では政所(まんどころ)に所属して、財政管理の業務に従事していた。

ところが1467年に室町幕府の権力闘争による「応仁の乱」が勃発する。

その渦中に北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)も巻き込まれていく。

1477年に「応仁の乱」は一先(ひとま)ず終結していたが、京都市中は焼け野原で荒廃していた。

その後、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町)の息子で征夷大将軍9代目の足利義尚(あしかがよしひさ/室町→東軍)が、1489年に近江国(滋賀県)の“鈎の陣”(まがりのじん)でアルコール中毒により死去する。

その次に足利義視(あしかがよしみ/室町→東軍→西軍)の息子で征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)が就任する。

ところが、「応仁の乱」にて兄の足利義政(あしかがよしまさ/室町)と三管領(さんかんれい)の細川氏などに酷い仕打ちを受けた足利義視(あしかがよしみ/室町→東軍→西軍)と息子で征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)は、その時の遺恨(いこん)により復讐に走る。

征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町)が1490年に死去し、妻の日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)と細川勝元(ほそかわかつもと/室町→東軍)の息子で三管領(さんかんれい)の細川政元(ほそかわまさもと/室町→東軍)に対して、屋敷を焼き討ちにするなど陰湿な嫌がらせをする。

その嫌がらせの最中(さなか)に、足利義視(あしかがよしみ/室町→東軍→西軍)が1491年に死去する。

これに対して反撃に出た日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)と細川政元(ほそかわまさもと/室町→東軍)は、征夷大将軍10代目の足利義稙(あしかがよしたね/室町)を追放し、征夷大将軍11代目に足利義澄(あしかがよしずみ/室町)を就任させた。

これを1493年に起こった「明応の政変」(めいおうのせいへん)と呼ぶ。

征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)とは、伊豆国(静岡県)の堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の息子である。

これらから見ても室町幕府の人材不足は否めない。

そして、将軍職の権力闘争を傍(かたわら)でジッと凝視していたのが、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/伊勢北条)である。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:29:16

◆◇◆其の三:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)曰(いわ)く、北条早雲(ほうじょうそううん)って誰だ?

「明応の政変」(めいおうのせいへん)が起こる少し前、駿河国(静岡県)から北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の元へ書状が送達される。

相手は姉の北川殿(きたがわどの)からである。

京都の北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)と駿河国(静岡県)の北川殿(きたがわどの)は、何度か書状の遣(や)り取りをした。

北川殿…⦅最愛なる弟よ! 今、今川家は危機に瀕(ひん)して、溺愛していた今川義忠(いまがわよしただ/斯波)が1476年に戦場で討死し、それからと言うもの、女手(おんなで)1つで育てた寵愛する我が息子の今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)が窮地に追いやられ、今では従兄弟とか言う憎っくき奴の小鹿範満(こじかのりみつ/今川)と、その仲間とか言う扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)が、駿河国(静岡県)を我が者の顔で闊歩(かっぽ)しておる。 1日も早く駿河国(静岡県)へ軍隊を差し向け、あの憎っくき小鹿範満(こじかのりみつ/今川)を征伐してくれっ! 世界一の美貌(びぼう)を保つ姉の頼みぞよぉ!⦆

伊勢宗瑞…⦅姉ちゃん、文書が長過ぎて何を言っているのかよく分からないから、もっと要約してくれ。⦆

北川殿…⦅今すぐ来い、バカッ!⦆

北川殿(きたがわどの)とは、三管領(さんかんれい)の斯波氏に仕える駿河国(静岡県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)の守護代の今川義忠(いまがわよしただ/斯波)の妻で、今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)の母親である。

今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)とは、あの1560年に起こった「桶狭間の戦」で織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取られた今川義元(いまがわよしもと/今川)の父親である。

要はこう言う事である。

1476年に駿河国(静岡県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)の守護代の今川義忠(いまがわよしただ/斯波)が亡くなり家督争いが起こり、息子の今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)と、親族の小鹿範満(こじかのりみつ/今川)かつ武蔵国(東京都)の江戸城から援軍として参戦していた扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)の太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)が対立し、今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)が敗戦したため、母親の北川殿(きたがわどの)が弟の北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)に救援要請した。

そんな姉の頼みで北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、京都から伊勢軍を引き連れ駿河国(静岡県)に進軍する事になる。

伊勢宗瑞…『参ったなぁ〜 うちの姉ちゃんにはぁ〜』

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍は、京都から駿河国(静岡県)を目指して東海道をえっちらおっちら東へ向かいました。

1487年、虚勢(きょせい)を張っている小鹿範満(こじかのりみつ/今川)が率いる小鹿軍を討伐しました。

今回の戦(いくさ)では、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)も関東で内紛があり駿河国(静岡県)に援軍を派遣する余裕がなく、さらに戦(いくさ)で大活躍した太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)も、1486年に主君に暗殺され亡くなっていた。

そして敗北した小鹿範満(こじかのりみつ/今川)は討死します。

これで駿河国(静岡県)の今川氏の家督は今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)が就任し、母親の北川殿(きたがわどの)も大喜び。

北川殿…『親愛なる弟よぉ、見事な戦いであったぞぉ! これは褒美(ほうび)の駿河名物のミカンじゃ、段ボール3箱分ある、京都に持って帰れぇ!』

伊勢宗瑞…『戦(いくさ)の恩賞(おんしょう)がミカンだけかぁ〜〜い!』

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍はミカンの入った段ボールを抱えて、駿河国(静岡県)から京都を目指して東海道をえっちらおっちら西へ向かい帰って行きました。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:30:08

◆◇◆其の四:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)曰(いわ)く、北条早雲(ほうじょうそううん)って誰だ?

1491年、伊豆国(静岡県)の堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)が死去して、家督後継者の問題が起きる。

通常、鎌倉公方(かまくらくぼう)しかり、古河公方(こがくぼう)しかり、後継者は嫡男(ちゃくなん)が引継いでいるので、慣例に従い堀越公方(ほりごえくぼう)も足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の息子の足利潤童子(あしかがじゅんどうじ/堀越)が引継ぐ事になる。

ところが、この裁定に異議を唱える者が現れる。

もう1人の息子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)である。

確かに足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)も足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の息子だが、それは側室との子供だった。

足利政知(あしかがまさとも/室町→堀越)の妻は円満院(えんまいん/室町→堀越)で、その子供が征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)と堀越公方(ほりごえくぼう)2代目の足利潤童子(あしかがじゅんどうじ/堀越)となる。

ここまで見ると足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)も黙って引き下がり、伊豆国(静岡県)の温泉旅館で番頭さんでもしてそうだが、気性の荒い性格がそうはさせなかった。

何と、堀越公方(ほりごえくぼう)2代目の足利潤童子(あしかがじゅんどうじ/堀越)と、その母親の円満院(えんまいん/室町→堀越)を抹殺するのである。

これは室町幕府の征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)の家族を暗殺した事を意味する。

こうして堀越公方(ほりごえくぼう)3代目に足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)が就任した。

しかし、征夷大将軍11代目の足利義澄(あしかがよしずみ/室町)は母親と弟を暗殺され激昂(げきこう)し、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)に、堀越公方(ほりごえくぼう)3代目の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)の討伐を命じる。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍は、京都から伊豆国(静岡県)を目指して東海道をえっちらおっちら東へ向かいました。

足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)も山内上杉氏(やまうちうえすぎし)に援軍を要請して抗戦したが、元祖戦国武将と言われる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の前には歯が立たず、伊豆半島を南下して落ち延びる。

これにより堀越御所は崩落し、堀越公方(ほりごえくぼう)も消滅する事になる。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、今回の戦(いくさ)では京都に帰還せず、この地に留まり伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)を拠点とする。

これを1493年に起こった「伊豆討入」(いずうちいり)と呼ぶ。

伊勢宗瑞…『いやぁ〜 京都には海も温泉も無いから、この伊豆国(静岡県)を気に入ったぁ! これからはわしぃが伊豆観光大使に就いて、ワサビを栽培したり、天城(あまぎ)を越えたり、踊り子と恋に落ちたりと、いろいろとやる事がたくさんあるぞぉ!』

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:30:48

◆◇◆其の五:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)曰(いわ)く、北条早雲(ほうじょうそううん)って誰だ?

1455年〜1483年に起こった「享徳の乱」(きょうとくのらん)の以後、良好な関係を保っていた山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)が、領土を巡り対立する。

幾度(いくど)と武蔵国(埼玉県)で合戦が行われるが、決定的な勝敗は付かず膠着(こうちゃく)状態だった。

ここに元祖戦国武将と言われる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)に加勢する。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の後ろ盾を得た扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)が率いる扇谷軍は勢いを増し、武蔵国(埼玉県)の鉢形城(はちがたじょう)で布陣する山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)が率いる山内軍を攻撃する。

ところが何と、進撃を開始し馬に乗って川を渡っていた上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)が落馬してこの世を去る。

この上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)の死去は、暗殺された太田道灌(おおたどうかん/ 扇谷)の怨念とも言われている。

総大将を失った扇谷軍は撤退し、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)も伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)に帰還する。

さらに甲斐国(山梨県)の武田氏に囲われていた元・堀越公方(ほりごえくぼう)3代目だった足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)の軍隊が、伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)に居城する北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)を攻撃する。

この合戦で北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は勝利し伊豆国(静岡県)を平定して、敗北した足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる/堀越)は自害した。

この勢いに乗り北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の拠城だった相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を簒奪(さんだつ)する画策を企てる。

当時の小田原城(おだわらじょう)の城主は大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)で、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は豪華な貢ぎ物(みつぎもの)を送るなどして友好関係を築く。

1495年にその時が来た!

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)に頼み事をする。

その内容は、伊豆の山で鹿狩りをしていたら、その鹿が逃げてしまい、大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)の領国の箱根山辺りに逃げ込んだと言う。

鹿を探す為に大人数で相模国(神奈川県)の領国を散策したいと言うもので、大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)は何の疑いもなく了承した。

これにより北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、変装した伊勢軍を相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に送り込む。

更に1000頭の牛を用意し、角(つの)に火を着けた松明(たいまつ)を括(くく)り付け、夜間に小田原城(おだわらじょう)に向かって突撃させました。

此(こ)れは火牛の計(かぎゅうのけい)と言われ、1183年に起こった「倶利伽羅峠の戦」(くりからとうげのたたかい)にて木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとよしなか/源氏)が平家軍に対して用いた戦術である。

これに驚いた大森藤頼(おおもりふじより/扇谷)と家臣達は、敵陣の夜襲と勘違いして一目散(いちもくさん)に逃げ出した。

こうして北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、戦わずして小田原城(おだわらじょう)を占拠したのです。

この後、小田原城(おだわらじょう)が伊勢北条氏の居城となり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が大坂城を築城する時に参考にした“難攻不落の要塞”と言われるお城になる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:31:39

◆◇◆其の六:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)曰(いわ)く、北条早雲(ほうじょうそううん)って誰だ?

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の領土でもある相模国(神奈川県)の平定を目論んでいる間に、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)では上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)と越後上杉氏の上杉定昌(うえすぎさだまさ/越後)が率いる山内軍が進撃を開始する。

以前の戦(いくさ)で総大将かつ家督の上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)が落馬して死去したため、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の新大将かつ家督は上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)が引継いだ。

上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)とは、上杉定正(うえすぎさだまさ/扇谷)の養子に入った甥にあたる。

ただし、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の弱体化は否(いな)めない。

武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)にある鉢形城(はちがたじょう)に布陣する山内軍が、そんな扇谷軍が布陣する武蔵国(埼玉県)の河越城(かわごえじょう/川越)と武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)に総攻撃を仕掛けて落城させる。

これにより扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)が率いる扇谷軍の敗北が決定的となり、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)と越後上杉氏の上杉定昌(うえすぎさだまさ/越後)が率いる山内軍が勝利する。

1505年に、これにて「長享の乱」(ちょうきょうのらん)は終結する。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家督である上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)は敗戦責任を感じて隠居し、上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)が引継いだ。

上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)とは、上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)の養子に入り、上杉氏の親族ではあるが、どこから来たのかよく分かっていない。

この頃になると家督継承も何でもありとなっており、世襲(せしゅう)の体(たい)を成していないのが現状である。

ところが、今度は古河公方(こがくぼう)や山内上杉氏(やまうちうえすぎし)など関東一円で権力闘争が勃発する。

これを1506年に起こった「永正の乱」(えいしょうのらん)と呼ぶ。

この頃になると、鎌倉府から古河御所に拠点を移した古河公方(こがくぼう)1代目の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)は、1489年に古河公方(こがくぼう)2代目を息子の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)に引継いでいた。

ところが、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)と、その息子の足利高基(あしかがたかもと/古河)の親子が対立し始める。

武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)にある鉢形城(はちがたじょう)を拠点とする山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)の仲裁によりなんとか平穏を保つ。

その恩義から古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)は、自分のもう1人の息子を上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)へ養子に出し、それが上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)となる。

ただ、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)の、更にもう1人の息子の足利義明(あしかがよしあき/古河)が離反し、古河御所では3つの勢力が対立する事になる。

足利義明(あしかがよしあき/古河)は、下総国(しもうさ/千葉県)の千葉生実(ちばいくみ)にある小弓城(おゆみじょう)を拠点とした小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれる。

この後、兄弟で古河公方(こがくぼう)3代目となる足利高基(あしかがたかもと/古河)と長きに渡り対立する事となる。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:32:22

◆◇◆其の七:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)曰(いわ)く、北条早雲(ほうじょうそううん)って誰だ?

更に越後国(新潟県)の越後上杉氏でも内紛が起こる。

守護大名の上杉房定(うえすぎふささだ/越後)だが、実権は家臣で守護代の長尾能景(ながおよしかげ/上杉)が握っていた。

長尾能景(ながおよしかげ/上杉)とは、長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の祖父である。

そんな時、守護大名の上杉房定(うえすぎふささだ/越後)が死去して、家督を決める必要が出てきた。

長男の上杉定昌(うえすぎさだまさ/越後)は、父親より先に死去している。

次男の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)は、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の養子に入り関東管領(かんとうかんれい)に就任している。

そこで残る三男の上杉房能(うえすぎふさよし/越後)が、越後上杉氏の家督を引継いだ。

今度は守護代の長尾能景(ながおよしかげ/上杉)が、越中国(富山県)での戦乱で討死してしまう。

その息子の長尾為景(ながおためかげ/長尾)が、守護代の家督を引継いだ。

長尾為景(ながおためかげ/長尾)とは、長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の父親である。

戦国乱世の下克上(げこくじょう)により、守護代の長尾為景(ながおためかげ/長尾)は、現役の守護大名だった上杉房能(うえすぎふさよし/越後)を抹殺してしまう。

そして越後国(新潟県)の守護大名に、上条上杉氏(じょうじょううえすぎし)の上杉定実(うえすぎさだざね/上条→越後)を就任させる。

越後国(新潟県)の守護大名である上杉房能(うえすぎふさよし/越後)を殺(あや)められ、これに激怒したのが兄弟でもある山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)である。

上野国(こうずけ/群馬県)の渋川にある白井城(しらいじょう)を拠点としていた上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)は、「越後長尾討伐」にあたり武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)で隠居していた扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)に、白井城(しらいじょう)で布陣してもらう様に懇願(こんがん)する。

これで関東情勢を上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)が担う事で、上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)は大軍を率いて越後国(新潟県)に向かう。

これに対して越後国(新潟県)の守護代の長尾為景(ながおためかげ/長尾)は、伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)に居城している北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)に援軍要請をして快諾を得る。

1509年に北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍は、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝良(うえすぎともよし/扇谷)が留守となった武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)を攻撃する。

しかし、扇谷軍も手薄な兵力ながら奮闘し、そこに山内軍も援軍として加勢したので、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍を退けた。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:33:01

◆◇◆其の八:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)曰(いわ)く、北条早雲(ほうじょうそううん)って誰だ?

そんな時に越後国(新潟県)で事変が起こる。

弟の上杉房能(うえすぎふさよし/越後)を斬殺した長尾為景(ながおためかげ/長尾)を討つ為に、「越後長尾討伐」の進軍をしていた上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)が返り討ちに遭い討死する。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督かつ関東管領(かんとうかんれい)の上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)が死去した事で、後継者問題が突如(とつじょ)湧いてきた。

後継者候補は2人いる。

古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)の息子で、上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)の養子に入った上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)。

同じく上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)の養子に入った上杉憲房(うえすぎのりふさ/山内)。

ただし、上杉顕定(うえすぎあきさだ/越後→山内)の遺言により、後継者は上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)に決まっていた。

これに反発したのが上杉憲房(うえすぎのりふさ/山内)で、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)と対立している息子の足利高基(あしかがたかもと/古河)を味方に付けて攻撃を仕掛ける。

1510年、上野国(こうずけ/群馬県)の渋川にある白井城(しらいじょう)に布陣していた上杉憲房(うえすぎのりふさ/山内)の群馬軍は、武蔵国(埼玉県)の寄居(よりい)にある鉢形城(はちがたじょう)に布陣していた上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)の埼玉軍を攻撃して敗退させる。

上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)は逃亡して下総国(しもうさ/茨城県)にある古河御所に逃げ込む。

これにより山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家督かつ関東管領(かんとうかんれい)は上杉憲房(うえすぎのりふさ/山内)が就任する。

更に群馬軍は攻撃の手は緩める事なく、足利高基(あしかがたかもと/古河)と連合して下総国(しもうさ/茨城県)にある古河御所を攻撃し、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)と上杉顕実(うえすぎあきざね/古河→山内)は逃亡し行方知れずとなる。

これにより古河公方(こがくぼう)3代目は足利高基(あしかがたかもと/古河)が就任する。

この関東の内乱の隙に、伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)を拠点とした北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が、平安時代や鎌倉時代に相模国(神奈川県)の三浦半島を統治していた相模三浦氏の拠点となる新井城(あらいじょう)こと三崎城(みさきじょう/三浦)へ侵攻した。

新井城(あらいじょう)こと三崎城(みさきじょう/三浦)の城主だった三浦道寸(みうらどうすん)こと三浦義同(みうらよしあつ/室町)と、息子の三浦義意(みうらよしおき/室町)は抗戦するが、1516年に北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が率いる伊勢軍の総攻撃に遭い敗北を確信して自決する。

これにより北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は相模国(神奈川県)を平定した。

1518年に息子の伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)に家督を継承して隠居した。

1519年に北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は死去する。

伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が64年の生涯で北条早雲(ほうじょうそううん)と名乗った事は一度も無い。

北条早雲(ほうじょうそううん)は後世の書物などによる創作名(通名)で、現代でも一般的に浸透している。

ただ北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)は、下克上(げこくじょう)により主君でもある守護大名を討伐して、領国を簒奪(さんだつ)した元祖戦国武将ではある。

戦国時代が幕開けし、戦国武将による領国の拡大で、武功(ぶこう)を挙げた家臣に論功行賞(ろんこうこうしょう)として恩賞(おんしょう)の領地を分配する礎(いしずえ)を築いたのは、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)である。

此(こ)れにより甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)の祖父の武田氏の14代目当主である武田信縄(たけだのぶつな/武田)や、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の高祖父の安祥松平氏(あんじょうまつだいらうじ)の祖である松平長親(まつだいらながちか/松平)が戦国武将として台頭する事になる。

この功績が後々の相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とした伊勢北条氏に継承されていく。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:33:51

◆◇◆其の九:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●四方八方に猛将と呼ばれる戦国武将に包囲された八面六臂(はちめんろっぴ)の伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)

『勝って兜(かぶと)の緒(お)を締めよ!』

この名句を残したのが相模国(神奈川県)の小田原城を拠点とする伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)である。

戦国時代を幕開けさせた北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の息子として、1487年に伊豆国(静岡県)の韮山城(にらやまじょう)にて伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は誕生した。

1518年に父親の北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)が隠居に伴い、伊勢氏の家督継承者として伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が就任した。

ただこの頃は、まだ伊勢北条氏を名乗っていなかった為に、正確な氏姓(しせい)は伊勢氏綱(いせうじつな)である。

1523年に伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は、これら鎌倉幕府や室町幕府の執権による組織構図に倣(なら)って、室町幕府の征夷大将軍12代目の足利義晴(あしかがよしはる/室町)かつ古河公方(こがくぼう)3代目の足利高基(あしかがたかもと/古河)に仕える執権という意味を込めて北条氏を名乗る様になった。

ただし、これに異議を唱えたのが、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)である。

当たり前である。

鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)であれ、下総国(しもうさ/茨城県)の古河公方(こがくぼう)であれ、代々に渡り関東管領(かんとうかんれい)は上杉氏が執権を担っていたからである。

更にその下には家宰(かさい)の長尾氏と太田氏も控えている。

確かにこの頃は、室町幕府も鎌倉府も崩壊寸前で、組織としての体(たい)は成していない。

伊勢氏も一応は、室町幕府の政所(まんどころ)を担う備中国(岡山県)の伊勢平氏の系統の名門家ではあるが、伊豆国(静岡県)の北条氏とは地縁血縁の関係は全くなく、完全なる赤の他人である。

これにより、伊勢北条氏と上杉氏の仲が悪くなる。

では、相模国(神奈川県)の小田原城を拠点とする伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が置かれている立場はどうだったのか?

先(ま)ず、相模国(神奈川県)の北側の甲斐国(山梨県)を拠点とする戦国武将の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と領国の争いで敵対している。

武田信虎(たけだのぶとら/武田)とは、あの“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)の父親である。

次に相模国(神奈川県)の西側の駿河国(静岡県)には“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる戦国武将の今川義元(いまがわよしもと/今川)と領国の争いで敵対している。

今川義元(いまがわよしもと/今川)の父親である今川氏親(いまがわうじちか/斯波→今川)は、今川義忠(いまがわよしただ/斯波)と北川殿(きたがわどの/今川)の息子であり、北川殿(きたがわどの/今川)は北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)の姉である。

と言う事は、今川氏と伊勢北条氏は親戚筋で友好関係にあったが、これを今川義元(いまがわよしもと/今川)が方向転換して甲斐国(山梨県)の武田氏と協力関係を築いていく。

更(さら)に相模国(神奈川県)の北東側の関東一帯は山内上杉氏(やまうちうえすぎし)および扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)と北条氏改名問題で敵対している。

尚(なお)も日本海側の越後国(新潟県)には下克上(げこくじょう)にて越後上杉氏を壊滅させた驍猛(ぎょうもう)と呼ばれる戦国武将の長尾為景(ながおためかげ/長尾)が控えている。

長尾為景(ながおためかげ/長尾)とは、あの“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の父親である。

四方八方に強敵だらけである。

もし、領国の相模国(神奈川県)を攻められたら、南側の太平洋の海に逃げるしかない。

ならば先手必勝、即断実行。

先に動いたのは相模国(神奈川県)の伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍だった。

駿河国(静岡県)を流れる富士川の東側まで侵攻し、抗戦する今川義元(いまがわよしもと/今川)が率いる今川軍を討ち破り領国を拡大させる。

これを1537年に起こった第一次の「河東の乱」(かとうのらん)と呼ぶ。

駿河国(静岡県)の東部領地を取られた今川義元(いまがわよしもと/今川)は、甲斐国(山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)に援軍を要請する。

しかし、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍は攻めてきた両軍を壊滅させ、更(さら)に北東部に進軍させて扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の居城とする河越城(かわごえじょう/川越)を奪取する。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が河越城(かわごえじょう/川越)を占拠した時には、扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の当主だった上杉朝興(うえすぎともおき/扇谷)が既に病死していた事も勝利の要因である。

これにより伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を中心に、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)や駿河国(静岡県)東部の領国を手中に収める。

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260722 - ラジオの友

2026/07/22 (Wed) 07:34:32

◆◇◆其の十:備中国(岡山県)、山城国(京都府)、駿河国(静岡県)、伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)、和泉国(大阪府)、摂津国(大阪府)を巡る伊勢北条氏の浪漫の旅路◆◇◆

●四方八方に猛将と呼ばれる戦国武将に包囲された八面六臂(はちめんろっぴ)の伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)

そんな時に伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)の元へ、下総国(しもうさ/茨城県)の古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)から緊急救援が入る。

下総国(しもうさ/千葉県)の千葉小弓を拠点とする小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)との長年の対立で、北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)への援軍要請の依頼である。

小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)とは、古河公方(こがくぼう)2代目の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)の息子かつ古河公方(こがくぼう)3代目の足利高基(あしかがたかもと/古河)の兄弟で、足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)からすれば叔父である。

古河公方(こがくぼう)2代目と3代目、小弓公方(おゆみくぼう)の3者は、全員が仲違いして対立していた。

そんな室町幕府の将軍家の系統からの直々(じきじき)の要請である。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)にとっては好機でもあり、即断即決で相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)や武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)から軍隊を向かわせた。

江戸川を挟んで西側の武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)には伊勢北条軍が布陣し、東側の下総国(しもうさ/千葉県)の市川にある国府台城(こうのだいじょう)に小弓足利軍が布陣した。

伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)と息子で後の伊勢北条氏3代目となる北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が大将となり伊勢北条軍を牽引した。

一方、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)が大将となり小弓足利軍を牽引し、援軍で地元の有力武将である里見義堯(さとみよしたか/小弓)が率いる里見軍を参戦していた。

戦(いくさ)が始まると、伊勢北条軍は江戸川を渡り小弓足利軍の本陣である国府台城(こうのだいじょう)に進撃する。

里見軍の里見義堯(さとみよしたか/小弓)は、川の中で動きが鈍くなった伊勢北条軍を攻撃する様に足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)に進言するが、小弓公方(おゆみくぼう)はこれを拒否する。

伊勢北条軍が江戸川を渡り切ったところで、小弓足利軍が総攻撃を仕掛け壊滅させると意気込む。

これを聞いて『小弓足利軍の負け戦(いくさ)だ。』と悟り、里見義堯(さとみよしたか/小弓)は里見軍を退陣させる。

結果、小弓足利軍の国府台城(こうのだいじょう)は伊勢北条軍の猛攻撃に遭い、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)は討死する。

これを1538年に起こった第一次の「国府台合戦」(こうのだいかっせん)と呼ぶ。

「国府台合戦」(こうのだいかっせん)にて、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)が討死した事に、古河公方(こがくぼう)4代目の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)は、代々に渡り上杉氏が引き継いできた関東管領(かんとうかんれい)を、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)に与えてしまう。

1541年に、伊勢北条氏2代目の北条氏綱(ほうじょううじつな/伊勢北条)が死去すると、息子で伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が伊勢北条氏の家督を引き継いだ。

■当サイトを閲覧するにあたり/20260722 - ラジオの友 URL

2026/07/22 (Wed) 06:25:38

閲覧者の義務として、このサイト内に掲載されている音楽の5曲以上をお好きなラジオ局にリクエストして下さい。

もし、リクエスト曲が掛かれば幸福度がアップします。

今日のラッキーソングはこれだっ!

LED ZEPPELIN /♪ MISTY MOUNTAIN HOP

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:20:31

◆◇◆其の一:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●1455年〜1483年の28年間に及ぶ「享徳の乱」(きょうとくのらん)と1467年〜1477年の10年間に及ぶ「応仁の乱」(おうにんのらん)

戦国時代の最強武将と言えば“越後の龍”と呼ばれた長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)である。

戦国武将として人気の高い織田信長(おだのぶなが/織田)や“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)でも、合戦では何度となく敗北しているが、長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に至っては、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と交戦した1566年に起こった「臼井城の戦」(うすいじょうのたたかい)が唯一の敗北として記録されている。

そんな武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣は、何処(どこ)から来ているのか?

其(そ)れを知るには室町時代の1455年〜1483年に起こった「享徳の乱」(きょうとくのらん)を完全に理解する必要がある。

この「享徳の乱」(きょうとくのらん)を紐解くには、相模国(神奈川県)の鎌倉府が設けられた経緯(いきさつ)と、鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利氏と、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家系を全て記憶する事から始める。

5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)が、関東管領(かんとうかんれい)で山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲忠(うえすぎのりただ/山内)を暗殺した事が起因し、1455年〜1483年の28年間に及ぶ「享徳の乱」(きょうとくのらん)が起こる。

これは京都で勃発した1467年〜1477年の10年間に及んだ「応仁の乱」(おうにんのらん)の2倍以上である。

ただ、動乱の概要は「享徳の乱」(きょうとくのらん)も「応仁の乱」(おうにんのらん)も然程(さほど)変わりはない。

鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利氏とは、室町幕府の征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の家系である。

足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の息子が1代目鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利基氏(あしかがもとうじ/鎌倉)で、その息子が2代目鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利氏満(あしかがうじみつ/鎌倉)で、その息子が3代目鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利満兼(あしかがみつかね/鎌倉)で、その息子が4代目鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ/鎌倉)が、その息子が5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)となる。

一方の関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の上杉氏とは、足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)の家系である。

足利氏も上杉氏も名門武家の意識が強い。

また、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)に仕えるのが家宰(かさい)と言う役職だった。

山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の家宰(かさい)には長尾氏が就任しており、長尾景仲(ながおかげなか/山内)や息子の長尾景信(ながおかげのぶ/山内)が就いていた。

扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)の家宰(かさい)には長尾氏が就任しており、太田道真(おおたどうしん/扇谷)や息子の太田道灌(おおたどうかん/扇谷)が就いていた。

「享徳の乱」(きょうとくのらん)の特徴としては、相模国(神奈川県)の鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)から常陸国(ひたち/茨城県)の古河(こが)に切り替わった事も戦況の大きさを物語る。

5代目鎌倉公方(かまくらくぼう)かつ1代目古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかがしげうじ/鎌倉→古河)の息子が2代目古河公方(こがくぼう)の足利政氏(あしかがまさうじ/古河)で、その息子が3代目古河公方(こがくぼう)の足利高基(あしかがたかもと/古河)と小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき/古河→小弓)で、3代目古河公方(こがくぼう)の足利高基(あしかがたかもと/古河)の息子が4代目古河公方(こがくぼう)の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)で、その息子が5代目古河公方(こがくぼう)の足利義氏(あしかがよしうじ/古河)となる。

4代目古河公方(こがくぼう)の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)は山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)と連盟し、関東地方で勢力拡大させていた相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点にする伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と合戦を繰り広げる。

しかし、1546年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「河越夜戦」(かわごえやせん)にて、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる小勢力の伊勢北条軍に、4代目古河公方(こがくぼう)の足利晴氏(あしかがはるうじ/古河)が率いる大勢力の上杉足利連合軍は惨敗する。

この時期の1477年になると京都の「応仁の乱」(おうにんのらん)は、征夷大将軍8代目の足利義政(あしかがよしまさ/室町→西軍→東軍)の妻の日野富子(ひのとみこ/朝廷→室町→東軍)の采配で終焉した。

この大戦の終焉の機運は1483年の28年間に及ぶ「享徳の乱」(きょうとくのらん)にも普及し、征夷大将軍9代目の足利義尚(あしかがよしひさ/室町→東軍)の仲裁で表面上は終焉した。

JODECI /♪ GOTTA LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:21:21

◆◇◆其の二:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

1450年頃の室町時代では、越後国(新潟県)と信濃国(長野県)は室町幕府の守護大名だった上杉房定(うえすぎふささだ/上条→越後)が統治していた。

越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)にて、越後国(新潟県)の守護代に就いていた長尾能景(ながおよしかげ/上杉)と、その息子で長尾為景(ながおためかげ/長尾)が、主君の上杉房定(うえすぎふささだ/上条→越後)に仕えていた。

1487年に起こった「長享の乱」(ちょうきょうのらん)にて、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)が合戦を繰り広げていた。

1488年に山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の軍隊に所属していた上杉定昌(うえすぎさだまさ/越後)は敗北して自決した。
 
越後国(新潟県)と信濃国(長野県)の守護大名は、後々に上杉房定(うえすぎふささだ/上条→越後)の孫の上杉房能(うえすぎふさよし/越後)が家督継承者として就任する事になる。

1506年に越後国(新潟県)の守護代だった長尾能景(ながおよしかげ/上杉)が死去した。

こうして長尾為景(ながおためかげ/長尾)が、越後国(新潟県)の守護代と長尾氏の当主として家督継承者として就任する。

1507年に長尾為景(ながおためかげ/長尾)は、主君の上杉房能(うえすぎふさよし/越後)に謀反(むほん)を起こして越後国(新潟県)から追放し自害に追い込む。

1530年に長尾為景(ながおためかげ/長尾)の三男として、長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は誕生した。

1536年に長尾氏の当主の長尾為景(ながおためかげ/長尾)は、長男の長尾晴景(ながおはるかげ/長尾)に家督継承して隠居する。

しかし、長尾晴景(ながおはるかげ/長尾)が病弱だった事もあり、当面は父親の長尾為景(ながおためかげ/長尾)との二頭政治が続く事になる。

この頃に、6歳の長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、父親の長尾為景(ながおためかげ/長尾)に疎まれており、越後国(新潟県)の上越にある林泉寺(りんせんじ/曹洞宗)に出家して僧侶となる。

この寺院で長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は生涯の師匠となる、曹洞宗(そうとうしゅう)の僧侶の天室光育(てんしつこういく/僧侶)と出逢う。

長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、僧侶として禅宗の修行に励もながら、武術の鍛錬も実施しており僧兵の技能は兼ね備えていた。

1542年に越中国(富山県)の砺波(となみ)にて、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の一向一揆が勃発し、父親の長尾為景(ながおためかげ/長尾)は上杉軍長尾隊を率いて鎮圧に向かうも、一向宗(いっこうしゅう)の返り討ちに遭い死去した。

この長尾氏の実質的な当主だった父親の長尾為景(ながおためかげ/長尾)により、病弱だった長尾晴景(ながおはるかげ/長尾)は不安から卑下(ひげ)して精神疾患を患った。

こんな長尾氏の政権運営の状況から長尾晴景(ながおはるかげ/長尾)と重鎮家臣は、林泉寺(りんせんじ/曹洞宗)に出家して僧侶となっていた長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に出戻りして当主の補佐役になる様に嘆願(たんがん)した。

K.W.S. /♪ ROCK YOUR BABY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:22:03

◆◇◆其の三:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)では、長尾氏の当主である兄の長尾晴景(ながおはるかげ/長尾)と、補佐役である弟の長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)による政権運営が実施された。

1543年に成人の儀式にて、烏帽子親(えぼしおや)から烏帽子(えぼし)を被せられ、姓(かばね)が与えられる元服(げんぷく)を、長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は果たす。

しかし、脆弱な長尾氏の当主の兄の長尾晴景(ながおはるかげ/長尾)に対して、越後国(新潟県)の国衆(くにしゅう)は不遜(ふそん)して、多数の国人(こくじん)が長尾氏から離反して謀反(むほん)を起こす。

1544年に起こった「栃尾城の戦」(とちおじょうのたたかい)にて、越後国(新潟県)の栃尾城(とちおじょう/長岡)に居住していた14歳の長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)にも国人軍が侵攻してきた。

初陣(ういじん)だったが兵法に精通していた長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、長尾軍景虎隊を2陣に別けて、擬兵の計(ぎへいのけい)を用いて国人軍を壊滅し敗北させた。

この長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の万夫不当(ばんぷふとう)に、長尾氏の家臣や越後国(新潟県)の国衆(くにしゅう)は沸き立ち、長尾氏の当主に擁立(ようりつ)する案まで出ていた。

これにより長尾氏は内部分裂の危機に陥り、1548年に長尾晴景(ながおはるかげ/長尾)が隠居して、18歳の長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が家督継承者に就任した。

それでも長尾氏に従属(じゅうぞく)しない越後国(新潟県)の国衆(くにしゅう)は多く、長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる長尾軍景虎隊は反対勢力を1つずつ壊滅していき、1550年に越後国(新潟県)の統一を果たす。

また同年の1550年に、室町幕府の征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)から長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、越後国(新潟県)の守護代に任命され、名実共に越後国(新潟県)と長尾氏の当主となる。

RUBACK /♪ GOTTA GET YOU INTO MY LIFE DEE-AY-OH

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:22:42

◆◇◆其の四:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とする“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、1545年に信濃国(長野県)の守護代で林城(はやしじょう/松本)の城主の小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)に総攻撃を仕掛けた。

圧倒的な軍事力の武田軍に惨敗した小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)は、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の所に逃亡した。

武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称する長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)を快(こころよ)く受け入れた。

続いて武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、1550年に信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)や砥石城(といしじょう/上田)の城主だった村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)に侵攻した。

ところが圧倒的な軍事力の武田軍だったが、村上軍が防衛する砥石城(といしじょう/上田)を総攻撃しても落城させる事はできず、後方の葛尾城(かつらおじょう/埴科)から出陣した村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる村上軍本隊に挟み討ちにされ、逆に返り討ちに遭い武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は惨敗した。

この合戦で武田軍の多くの有力武将が戦死して、これを“砥石崩れ”(といしくずれ)と呼ぶ。

しかし1551年に、信濃国(長野県)の武将で“武田二十四将”と呼ばれる真田幸綱(さなだゆきつな/武田)が、武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して砥石城(といしじょう/上田)の攻略を名乗り出た。

こうして真田幸綱(さなだゆきつな/武田)は、砥石城(といしじょう/上田)を防衛する村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の家臣に詭計(きけい)を仕掛けて寝返らせ、砥石城(といしじょう/上田)を1日で陥落させた。

敗北した村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の所に逃亡した。

武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称する長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)を快(こころよ)く受け入れた。

これが起因して“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と、“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)の因縁の対決が始まる。

JESSE JOHNSON'S REVUE /♪ SHE'S A DOLL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:23:25

◆◇◆其の五:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

信濃国(長野県)から逃亡してきた小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)と村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の要請に応えて、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を領国とした武田信玄(たけだしんげん/武田)の討伐を決行する。

越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は信濃国(長野県)の川中島(かわなかじま/長野)に流れる千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)の河川敷まで侵攻して陣営を設けて布陣した。

そして甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍も、川の対岸に陣営を設けて布陣した。

こうして1553年に起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)が勃発する。

第一次の「布施の戦」(ふせのたたかい)では、上杉軍と武田軍は交戦するも、お互いが相手の戦力を探る為の小手調べもあり、勝敗が着かずに両陣営は退却した。

1555年の第二次の「犀川の戦」(さいおおがわのたたかい)では、上杉軍と武田軍は200日余り布陣したが、主だった交戦はなく、駿河国(静岡県)の守護代で“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる今川義元(いまがわよしもと/今川)の仲裁が入り、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と武田信玄(たけだしんげん/武田)は暫定的な和睦して両陣営は退却した。

1556年に心身共に疲労困憊していた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、想う事があって紀伊国(和歌山県)の高野山(こうやさん)に修行の旅に出た。

越後国(新潟県)の上越にある林泉寺(りんせんじ/曹洞宗)の住職で師匠の天室光育(てんしつこういく/僧侶)に、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は遺言を送達して仏門の旅路に出発した。

しかし、大和国(奈良県)の葛城山(かつらぎさん/御所)にて重鎮家臣に追い付かれ、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は捕縛(ほばく)されて越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に拘引(こういん)された。

後々に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は再び出家して、足利氏の所縁(ゆかり)の臨済宗(りんざいしゅう)の僧侶となり、宗心(そうしん/臨済宗)の法名(ほうみょう)を与えられている。

1557年の第三次の「上野原の戦」(うえのはらのたたかい)では、川中島(かわなかじま/長野)から少し北上した善光寺(ぜんこうじ/天台宗と浄土宗)の周辺に、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は陣営を設けて布陣した。

其処(そこ)に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が侵攻してきた。

ところがこの頃に京都の室町幕府では、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)が、阿波国(徳島県)の武将で河内国(大阪府)の飯盛山城(いいもりやまじょう/大東)の城主だった三好長慶(みよしながよし/細川→三好)などと対立して、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は近江国(滋賀県)に逃亡するなど混迷を続けていた。

此(こ)れにより室町幕府は全国各地の大名や武将に救援を要請しており、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と武田信玄(たけだしんげん/武田)は一時休戦して両陣営は退却した。

「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)の合間に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)と1554年に「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)を締結した。

こうして鉄壁の同盟により、武田信玄(たけだしんげん/武田)は信濃国(長野県)への侵攻を目指し、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は関東一円の統治を目指し、今川義元(いまがわよしもと/今川)は尾張国(愛知県)への侵攻をはじめ京都への上洛を目指した。

1558年に、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点にする伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が、上野国(こうずけ/群馬県)の平井城(ひらいじょう/藤岡)を居城としていた山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)に総攻撃を仕掛けた。

圧倒的な軍事力の武田軍に惨敗した上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)は、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の所に逃亡した。

武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称する上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)を快(こころよ)く受け入れた。

この後に、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍と武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて死闘を繰り広げていた間に、戦国時代の天地を揺るがす事変が起こっていた。

1560年に、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が率いる2万5千人の今川軍は、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)を討伐する為に西方侵攻を開始した。

其(そ)れに伴い三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)から出陣した今川軍に帰属(きぞく)する松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、尾張国(愛知県)の大高城(おおだかじょう/名古屋)に布陣した。

今川義元(いまがわよしもと/今川)の重鎮家臣の岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)は、尾張国(愛知県)の鳴海城(なるみじょう/名古屋)に布陣した。

そして尾張国(愛知県)に入った今川義元(いまがわよしもと/今川)が率いる2万5千人の今川軍は、沓掛城(くつかけじょう/豊明)に宿泊し、翌日の早朝に出陣して西南部の桶狭間山(おけはざまやま)に陣営を設けて休息していた。

其処(そこ)では村民にお酒や御馳走などの差し入れがあり、勝ち戦は確定している事に慢心していた今川軍は酒宴を設けていた。

その頃に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)を出陣した織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる2千人の織田軍は、鳴海城(なるみじょう/名古屋)の周辺に設けた丹下砦(たんげとりで)から織田軍の本陣の善照寺砦(ぜんしょうじ砦)へ、そして中島砦(なかしまとりで)へ移動した。

そしたら西空から暗雲が垂れ込めて雷が轟(とどろ)き豪雨となった。

織田信長(おだのぶなが/織田)はこの雷雨により騎馬や足軽の足音と姿が掻(か)き消される事を好機と捉えて、即断即決で今川軍の陣営が設けられた桶狭間山(おけはざまやま)への侵攻を決定した。

桶狭間山(おけはざまやま)の手前の山の坂(信長坂)で潜んだ織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる2千人の織田軍は、晴れ間が見えたその瞬間に一気呵成(いっきかせい)で今川軍の陣営に奇襲を仕掛けた。

泥酔し酩酊した今川軍の兵士の目の前に、突如に織田軍が現れて驚き逃げまとい斬殺されていった。

そして、1人だけ場違いな公家の衣装を着た武将を見つけた織田軍の毛利良勝(もうりよしかつ/織田)は、それが今川義元(いまがわよしもと/今川)だと察知して斬首した。

こうして織田信長(おだのぶなが/織田)は奇跡の勝利し、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)にて今川義元(いまがわよしもと/今川)は死去した。

これを1560年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)と呼ぶ。

GEORGE CLINTON FEAT.COOLIO /♪ ATOMIC DOG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:24:14

◆◇◆其の六:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

越後国(新潟県)で軍備を整えた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は、南下しながら弾丸侵攻を開始する。

その勢いに圧倒される伊勢北条軍の関東武士団は、神々(こうごう)しい上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を崇拝する様に次々と寝返っていく。

正(まさ)に毘沙門天(びしゃもんてん)、関東に降臨(こうりん)である。

この上杉軍に参戦したのは武士だけではなかった。

京都の朝廷から関白の要職に就いていた近衛前久(このえさきひさ/公家)も参戦していた。

近衛前久(このえさきひさ/公家)とは、飛鳥時代から天皇に仕える公家の藤原氏の子孫である。

奈良時代に藤原四子(ふじわらしし)と言われた、藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ/公家)の系統が南家(なんけ)、藤原麻呂(ふじわらまろ/公家)の系統が京家(きょうけ)、藤原房前(ふじわらふささき/公家)の系統が北家(ほっけ)、藤原宇合(ふじわらうまかい/公家)の系統が式家(しきけ)となった。

その藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)が分裂して五摂家(ごせっけ)となり、近衛家(このえけ)、一条家、九条家、鷹司家(たかつかさけ)、二条家が誕生した。

その家系の中でも、最も位(くらい)の高い近衛家(このえけ)の出身でもある関白の近衛前久(このえさきひさ/公家)である。

毘沙門天(びしゃもんてん)と“錦の御旗”(にしきのみはた)を手にした天下無敵の上杉軍である。

あっという間に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が篭城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を包囲する。

城下町にも火を放ち、上杉軍は小田原城(おだわらじょう)の周囲に布陣する。

ここで秘策に出る。

日本海側の越後国(新潟県)に居る上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、なかなか太平洋側の相模国(神奈川県)などに来る事はない。

そこで観光気分と相まって、小田原城(おだわらじょう)の天守閣がよく眺める事のできる原っぱで、お弁当とお茶を持参して昼食を取る事にした。

上杉謙信…『う〜〜ん、お城を眺めながらお弁当を食べるのは格別じゃ、憲政殿も一緒にどうじゃ? このお弁当はとても美味しいぞぉ。』

上杉憲政…『いやっ、私は結構でござる。』(敵方から丸見えだぞ、上杉謙信殿は、どんな神経を持っておるのじゃ?)

上杉謙信…『そうかぁ、残念じゃのう。 ムシャムシャ』

一方、小田原城(おだわらじょう)の物見櫓(ものみやぐら)では・・・

北条氏康…『おい、あいつ、あそこで何をしておる。』

伊勢北条軍兵士…『はぁ、何やらお弁当を広げてお昼ご飯を食べている様子でございます。』

北条氏康…『なにぃ〜 お昼ご飯!? 舐(な)めた奴じゃ!』

伊勢北条軍兵士…『しかも、上杉軍の総大将の上杉謙信殿の様です。』

北条氏康…『なんだとぉ〜!? 撃て、撃て、鉄砲でも、弓矢でも、撃ちまくるのじゃ!!』

伊勢北条軍兵士…『御意(ぎょい)。』

バンバン バンバン

ギュ〜〜 シュー ギュ〜〜 シュー

上杉謙信…『あぁ〜〜美味しかった、ご馳走様です。 では、お腹いっぱいになったから越後に帰るか。』

上杉謙信…『おい、越後に引き上げるぞ。』

上杉軍兵士…『御意(ぎょい)、全軍撤退!!』

再び、小田原城(おだわらじょう)の物見櫓(ものみやぐら)では・・・

北条氏康…『おい、鉄砲も、弓矢も、1つも当たらなかったぞぉ。』

伊勢北条軍兵士…『しかも、上杉軍が撤退していきます。』

北条氏康…『恐るべし上杉謙信、一番に敵に回したくない人物じゃ。』

これを1560年に起こった「小田原城の戦」(おだわらじょうのたたかい)と呼ぶ。

翌年の1561年に、長尾景虎(ながおかげとら/長尾)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は再び相模国(神奈川県)に来て、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、山内上杉氏(やまうちうえすぎし)の上杉憲政(うえすぎのりまさ/山内)との養子縁組を果たして上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と改名し、関東管領(かんとうかんれい)の要職も引き継ぐ。

SMITHEREENS /♪ TIME WON'T LET ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:24:55

◆◇◆其の七:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

1561年の第四次の「八幡原の戦」(はちまんぱらのたたかい)では、今までの交戦とは違い「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)の本戦と言われる程に上杉軍と武田軍と激闘を繰り広げた。

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は、千曲川(ちくまがわ)の南部にそびえる妻女山(さいじょさん)に陣営を設けて布陣した。

一方の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、妻女山(さいじょさん)の東部に建つ海津城(かいづじょう)こと松代城(まつしろじょう/長野)と犀川(さいがわ)の南部にそびえる茶臼山(ちゃうすやま)に2軍に分散して陣営を設けて布陣した。

両陣営は布陣後に様子見と睨み合いが続き、その間に武田軍の軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)が、妻女山(さいじょさん)の背後から上杉軍を追い出す「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)を考案し、武田信玄(たけだしんげん/武田)に提案して承諾された。

この軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)が考案した「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)とは、武田軍の本隊が海津城(かいづじょう)こと松代城(まつしろじょう/長野)の北部に移動して犀川(さいがわ)の南部に布陣し、一方で妻女山(さいじょさん)の裏手から武田軍の別動隊を配備し登頂させて上杉軍を後方から奇襲し妻女山(さいじょさん)から下山させて、武田軍の本隊と茶臼山(ちゃうすやま)に布陣する武田軍の予備隊が挟み討ちにして上杉軍を壊滅させる戦法だった。

こうして武田信玄(たけだしんげん/武田)は武田軍を「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)の陣形に配置して、後は実行の狼煙(のろし)を上げるだけに整えた。

ところが昨日の晩に妻女山(さいじょさん)の山頂から偵察していた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、海津城(かいづじょう)こと松代城(まつしろじょう/長野)の武田軍の陣営の晩御飯の竈(かまど)の煙が多く上がっている事に気付き、翌日に武田軍は行動に出る事を察知していた。

其処(そこ)で上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、深夜の内に上杉軍を妻女山(さいじょさん)から下山させて、武田軍の本隊が海津城(かいづじょう)こと松代城(まつしろじょう/長野)の北部に移動して犀川(さいがわ)の南部に布陣する予定の八幡原(はちまんぱらの)に布陣して潜んでいた。

翌朝、アルプス山脈に囲まれた川中島(かわなかじま/長野)では朝靄(あさもや)が垂れ込めていた。

武田信玄(たけだしんげん/武田)と軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)の合図の狼煙(のろし)を上げるだけだった。

此処(ここ)で思いもよらない光景が目前に広がっていた。

何と妻女山(さいじょさん)に布陣している筈の上杉軍が、前方から猪突猛進(ちょとつもうしん)で突撃してきたのである。

この上杉軍の奇襲で武田軍は大混乱となり、逃げまとう武田軍の兵士は次々と斬殺されていった。

急遽に武田信玄(たけだしんげん/武田)は、武田軍を三日月の陣形の鶴翼の陣(かくよくのじん)に整えて反撃に出たが、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は上杉軍を車輪の陣形の車懸りの陣(くるまがかりのじん)で軍隊を回転させながら総攻撃を仕掛けてきた。

そして武田軍の陣営の後方に設けられた床几(しょうぎ)に座る武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が騎馬に跨(またが)り突撃し太刀(たち)で三太刀(みたち)に渡り斬り付け、武田信玄(たけだしんげん/武田)は軍配で退けて難を逃れた。

この後に武田信玄(たけだしんげん/武田)は軍配を確認したら、三太刀(みたち)に渡り斬られたと思っていたが、傷は七太刀(ななたち)も付いていた。

これを“三太刀七太刀”(みたちななたち)と呼ぶ。

その頃になると妻女山(さいじょさん)に登頂した武田軍の別動隊と茶臼山(ちゃうすやま)の予備隊が戦地に到着して、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は上杉軍に撤退を命じた。

九死に一生を得た武田信玄(たけだしんげん/武田)は、武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)を背後に視た上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の恐怖で身体の震えが止まらなかった。

戦況は上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の勝利だったが、信濃国(長野県)の領国を奪取(だっしゅ)される事なく守護した武田信玄(たけだしんげん/武田)の勝利とも言える。

この合戦で武田軍は甚大な被害が出て、武田信玄(たけだしんげん/武田)の弟の武田信繁(たけだのぶしげ/武田)や軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)など多くの武将や4000人余りの兵士が戦死し、本隊は壊滅寸前だった。

一方の上杉軍も3000人余りの兵士が戦死し、両陣営共に大きな痛手を負って退却した。

1564年の第五次の「塩崎の対陣」(しおざきのたいじん)では、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は川中島(かわなかじま/長野)に陣営を設けて布陣した。

一方の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、茶臼山(ちゃうすやま)の西部に建つ塩崎城(しおざきじょう/長野)に布陣した。

この塩崎城(しおざきじょう/長野)は、上杉軍が信濃国(長野県)の西側と南側に進軍しない様に防衛を固めた陣営だった。

しかし、両陣営は様子見が続き幾日(いくにち)で撤退を命じた。

こうして上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と武田信玄(たけだしんげん/武田)の勝敗は着かずに11年間に渡る「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)は終戦した。

PAUL CARRACK /♪ DON'T SHED A TEAR

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:25:41

◆◇◆其の八:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

家督継承者が不在だった上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、姉の仙桃院(せんとういん/長尾)の息子で父親と兄を亡くした上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を1564年に養子に入れた。

1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)で、今川義元(いまがわよしもと/今川)が織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取りられ死去した。

此(こ)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の死去と、1553年〜1564年までの「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍との合戦で苦戦した事に起因して、武田信玄(たけだしんげん/武田)は戦略の方向転換をした。

先ずは甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と提携して、駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の当主に就いた今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の領国に侵攻する事を紐帯(ちゅうたい)した。

三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西側から遠江国(静岡県)を制圧し占領し、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は北側から駿河国(静岡県)を制圧し占領する事を取り決めた。

この狡猾(こうかつ)な武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を庇護(ひご)して援護した。

こうして「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)した。

この後に武田信玄(たけだしんげん/武田)の領国の海のない甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は、太平洋の海に面した相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)から、塩の販売や運搬を止められた。

この塩分補給ができない状態に困窮した甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の領民を見兼ねて、敵陣でありながら上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の領国の日本海に面した越後国(新潟県)の越中国(富山県)から、大量の塩を武田信玄(たけだしんげん/武田)の領国の甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)に運搬した。

この善行(ぜんこう)と仁愛(じんあい)な上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の行動に、武田信玄(たけだしんげん/武田)は感謝と敬仰(けいぎょう)を表した。

これを“敵に塩を送る”と言う。

この時期に、関東管領(かんとうかんれい)に就任した気負いから上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は、越後国(新潟県)から険しい山岳地帯を越えて上野国(こうずけ/群馬県)に入り関東地方に進軍する越山(えつざん)を何度も敢行していた。

百戦錬磨と言われた忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍だが、1度だけ敗北している。

1566年に起こった「臼井城の戦」(うすいじょうのたたかい)にて、下総国(しもうさ/千葉県)の臼井城(うすいじょう/佐倉)と小弓城(おゆみじょう/千葉)の城主だった千葉胤富(ちばたねとみ/千葉)は、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に帰属(きぞく)していた。

関東管領(かんとうかんれい)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)としては、関東地方で勢力拡大を続ける伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)を征伐する必要があった。

そこで下総国(しもうさ/千葉県)の伊勢北条軍の千葉胤富(ちばたねとみ/千葉)が篭城する臼井城(うすいじょう/佐倉)に侵攻を開始した。

ところが広大な印旛沼(いんばぬま)を背後に築城された臼井城(うすいじょう/佐倉)は、難攻不落の要塞で非常に攻め難かった。

しかも関東地方の国衆(くにしゅう)が伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)に次々と寝返り、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は逆に包囲された。

そんな時に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が率いる伊勢北条軍が進軍してきた為に、関東地方の街道を封鎖されれば袋の鼠(ねずみ)となり、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は壊滅する恐れがあった。

そこで上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は即断即決で、敗北を覚悟して越後国(新潟県)へ撤退する事を決定した。

その後も上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は、越後国(新潟県)をはじめ越中国(富山県)や関東地方で連戦の日々が続く。

WANG CHUNG /♪ LET'S GO!

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:26:22

◆◇◆其の九:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻して制圧した。

これに呼応(こおう)して三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、遠江国(静岡県)に侵攻して制圧した。

こうして今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は敗走して、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が居城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に身を寄せた。

続いて武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)に侵攻を開始した。

これに危機感を覚えた“相模の獅子”と呼ばれる伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)は、犬猿の仲だった“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と1569年に「越相同盟」(えつそうどうめい)を締結した。

この「越相同盟」(えつそうどうめい)の証として、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)の息子で、相模国(神奈川県)の箱根に建つ伊勢北条氏の菩提寺の早雲寺(そううんじ/臨済宗)の僧侶だった北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)が、1570年に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子に入った。

この時に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を上杉氏の当主にして越後国(新潟県)の守護代に就任させ、北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)を相模国(神奈川県)の鎌倉府に在して関東管領(かんとうかんれい)に就任させ、室町幕府を再興させる構想を持っていたと言う。

ただ、この構想は上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の頭の中だけで描いたもので、書面に残していなかった。

この頃は、尾張国(愛知県)の武将だった織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が、畿内(きない/関西)を中心に“天下統一”の覇道(はどう)を突き進んでいた。

この時期に征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)と織田信長(おだのぶなが/織田)は仲違いし、室町幕府の権威を利用して日本各地の戦国武将を味方に付けて“信長包囲網”を築いていた。

甲斐国(山梨県)の“甲斐の虎”と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん/武田)。

越後国(新潟県)の“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)。

越前国(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)。

近江国(滋賀県)の父親の浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)。

摂津国(大阪府)の石山本願寺(いしやまほんがんじ)の僧侶の顕如(けんにょ/僧侶)。

これだけの最強な武将などが織田信長(おだのぶなが/織田)を討伐する為に名を揃えていた。

しかし、室町幕府の“信長包囲網”は不運にも、直ぐに瓦解(がかい)する事となる。

織田信長(おだのぶなが/織田)を討伐に最も期待を寄せていた甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が1573年に病気で死去した。

越前国(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)と近江国(滋賀県)の父親の浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)も、最強軍団の織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に侵攻を受けて3人共に自決した。

京都の室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は山城国(京都府)の宇治にて、織田信長(おだのぶなが/織田)と敵対して1573年に起こった「槇島城の戦」(まきしまじょうのたたかい)で敗北して京都から追放された。

この時に足利義昭(あしかがよしあき/室町)は侍従(じじゅう)に就いていた武田信実(たけだのぶざね/武田)の進言もあり、安芸国(あき/広島県)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/安芸高田)を拠点とする毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を頼ってきた。

しかし、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)としては織田信長(おだのぶなが/織田)の心情を気にして、足利義昭(あしかがよしあき/室町)には安芸国(あき/広島県)ではなく1歩手前の備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら/福山)に滞在してもらう事にした。

こうして征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は1人で、1576年に鞆幕府(ともばくふ)を開設した。

この毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)による足利義昭(あしかがよしあき/室町)の擁護(ようご)は、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍に対する挑発と捉えられた。

こうして1577年に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊による“中国攻め”が開始される。

OMC /♪ ON THE RUN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:27:11

◆◇◆其の十:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は上越の山に建つ春日山城(かすがやまじょう/上越)で、米処(こめどころ)の新潟地酒を嗜(たしな)みながら、城の窓から見える日本海を愛(め)でていた。

宴(うたげ)の場には、姉の仙桃院(せんとういん/長尾)の息子で養子に向かい入れた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)と、「越相同盟」(えつそうどうめい)の証(あかし)として相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の息子で養子に向かい入れた上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)が同席している。

上杉謙信…『見よ、あの雄大な日本海と、そこに浮かぶまん丸の月の美しい事よっ!』

上杉景勝…『はい、お酒がますます進みます。』

上杉景虎…『あの日本海で採れた新鮮な魚のお造りも美味で、箸が止まりませぬ。』

上杉謙信…『この平穏な時間、大事にせなぁダメだぞ! もうすぐ戦(いくさ)は終わる。』

上杉景勝…『えっ!? どう言う事ですか?』

上杉謙信…『同盟国の織田信長殿が、あと数年で戦国の世を終わらせる。 わしが態々(わざわざ)動かなくても、鎧に刀の時代ではなくなるわぁい。』

上杉景虎…『では我々、武士はどの様に生きていけばよいのでしょうか?』

上杉謙信…『あの日本海の向こうに未来がある。 これからは海外国と交流する者が生き延びる、分かったな。』

上杉景勝…『はぁ。』

上杉景虎…『海の向こうですかぁ・・・』

そんな家族水入らずの場に、1本の速達が届く。

相手は備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら)で鞆幕府(ともばくふ)を開設した、一応は征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)だった。

足利義昭…⦅上杉謙信殿、わしをこんな目に遭わせた憎き織田信長を討伐してくれ!⦆

室町幕府の関東管領(かんとうかんれい)の役職まで就いた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、将軍の直々の伝令(でんれい)とあっては動かない訳にはいかなかった。

上杉謙信…『未(いま)だ将軍気取りの義昭殿にも困ったものだ。 ただ、頼まれれば断れぬのもわしぃじゃ。 適当に戦略を立てて進撃するぞ。』

上杉景勝&上杉景虎…『御意(ぎょい)!』

JASMINE GUY /♪ ANOTHER LIKE MY LOVER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:27:50

◆◇◆其の十一:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)こと毘沙門天(びしゃもんてん)の化身でもある長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の強さの秘訣

先ず、日本海側を制圧するため能登国(石川県)にある七尾城(ななおじょう)の攻略から試みる。

能登半島の付け根に位置する七尾城(ななおじょう)は畠山義隆(はたけやまよしたか/室町)が城主だった。

畠山義隆(はたけやまよしたか/室町)は、能登国(石川県)の戦国大名の畠山義続(はたけやまよしつぐ/室町)を祖父に、畠山義綱(はたけやまよしつな/室町)を父親に持つ、能登畠山氏の名門家である。

ただ、1574年に亡くなり、家督後継者となったのが、まだ2歳の畠山春王丸(はたけやまはるおうまる/室町)だった。

そのため畠山義隆(はたけやまよしたか/室町)の重鎮家臣だったが長続連(ちょうつぐつら/畠山→織田)が執権を担う。

上杉軍の“能登侵攻”で長続連(ちょうつぐつら/畠山→織田)は織田信長(おだのぶなが/織田)に援軍要請を依頼していた。

足利義昭(あしかがよしあき/室町)からの依頼で“織田信長討伐”を遂行する上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の動きや、能登国(石川県)の能登畠山氏からの救援要請で、織田信長(おだのぶなが/織田)は“織田四天王”で越前国(福井県)の守護を任していた柴田勝家(しばたかついえ/織田)を総大将に、羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)をはじめ佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)や前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の家臣を付けて4万人の織田軍柴田隊を形成した。

一方、この長続連(ちょうつぐつら/畠山→織田)の政策に反発していたのが同じく重鎮家臣だった遊佐続光(ゆさつぐみつ/畠山→上杉)で、この能登畠山氏の混乱に乗じて上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は動く。

家臣の直江信綱(なおえのぶつな/長尾→上杉)と河田長親(かわだながちか)に命じて七尾城(ななおじょう)に間者(かんじゃ/スパイ)を送り込み、能登畠山氏の家臣同士で内部分裂する離間の計(りかんのけい)の調略を遂行する。

それにより遊佐続光(ゆさつぐみつ/畠山→上杉)は直江信綱(なおえのぶつな/長尾→上杉)の依頼で謀反(むほん)計画を企て、長続連(ちょうつぐつら/畠山→織田)をはじめ一族を抹殺し、上杉軍のために七尾城(ななおじょう)を開城する。

直江信綱(なおえのぶつな/長尾→上杉)とは、元は長尾氏の生まれだが、越後長尾氏の重鎮家臣だった直江景綱(なおえかげつな/長尾→上杉)の養子に入り、また、元は樋口氏の生まれの直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は自分の養子となった。

“天下無敵の僧兵”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、越前国(福井県)の柴田勝家(しばたかついえ/織田)に一切の情報が入らない様に、能登国(石川県)と加賀国(石川県)の街道を上杉軍で制圧し、織田軍の間者(かんじゃ/スパイ)が行き来できない様にした。

能登国(石川県)の七尾城(ななおじょう)が上杉軍により落城した事も知らず、柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる4万人の織田軍柴田隊は加賀国(石川県)の手取川(てどりがわ)周辺まで進軍した。

この能登国(石川県)の情報が全く入ってこない事に不審を抱いたのが羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)で、柴田勝家(しばたかついえ/織田)に対して進軍を止める様に忠告する。

しかし、日頃から羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の事を嫌っていた柴田勝家(しばたかついえ/織田)は、その忠言が耳に逆らい進軍を続け、手取川(てどりがわ)を渡った所で布陣した。

これに怒った羽柴秀吉(はしばひでよし)こと豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、自分の軍隊を引き連れて近江国(滋賀県)に帰ってしまう。

一方、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる2万人の上杉軍は、手取川(てどりがわ)の北部に建つ松任城(まっとうじょう/白山)で布陣している。

秋口の日本海は肌寒く、夜明けの陽が登るのも遅くなりつつある。

そんな薄暗い早朝に手取川(てどりがわ)周辺では地響きが轟(とどろ)いた。

2万人の上杉軍の奇襲である。

軍備を整えていない4万人の織田軍柴田隊は、為(な)す術(すべ)もなく蜘蛛の子を散らす様に敗走する。

先般からの大雨で増水した手取川(てどりがわ)を渡ろうとして流された兵士も多く、戦(いくさ)による討死よりも溺死の方が多かったという。

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)も今回の織田軍柴田隊との対戦は、足利義昭(あしかがよしあき/室町)への義理立ての意味合いが強く、兵士にも深追いするなと命じていたため、これにより上杉軍は撤退した。

これを1577年に起こった「手取川の戦」(てどりがわのたたかい)と呼ぶ。

柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる織田軍柴田隊に勝利した上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、再び越山(えつざん)を敢行して関東地方に進軍する遠征準備を始めた。

ところが1578年の厳冬に、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)の厠(かわや/便所)にて、毘沙門天(びしゃもんてん)の化身と言われた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は倒れて死去していた。

死因は脳卒中で、日頃からの飲酒と梅干しなどの塩分摂取に加えて、気温が低かった事もあっての要因だった。

こうして当主が不在となった越後国(新潟県)の上杉氏は、混迷を極める事になる。

WOMACK & WOMACK /♪ TEARDROPS

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:28:35

◆◇◆其の十二:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

1556年に、越後国(新潟県)の坂戸城(さかどじょう/南魚沼)の城主で上田長尾氏の当主の長尾政景(ながおまさかげ/長尾→上杉)と、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の姉の仙桃院(せんとういん/長尾)との息子の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が誕生する。

この頃、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にした“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、関東地方へ勢力拡大を模索していた。

1564年に長尾政景(ながおまさかげ/長尾→上杉)は野尻池(のじりいけ)で舟遊びをしていたら、池に落ちて溺死してしまう。

父親を失った上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、1564年に叔父の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)へ養子に入る。

この幼少期の経験が上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の性格を無愛想仏頂面にしたと言われる。

1566年に叔父の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と共に10歳の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、越山(えつざん)を敢行して関東地方に侵攻したのが初陣(ういじん)となる。

1569年に越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)による「越相同盟」(えつそうどうめい)が締結される。

しかし1571年に、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が死去し、世代交代により伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が家督継承した。

その証として、1570年に伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/北条)の息子で、相模国(神奈川県)の箱根に建つ伊勢北条氏の菩提寺の早雲寺(そううんじ/臨済宗)の僧侶だった北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)が、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子に入る。

1575年の19歳の時に、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)から命名され初めて上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と名乗る。

1578年に越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)にて、叔父で養父の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が死去する。

この時に上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)には遺言が無く、上杉氏の家督継承者を指名する事なくこの世を去った為に、上杉氏では脆弱化する程の内乱が勃発する。

ただ、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)には、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を上杉氏の当主にして越後国(新潟県)の守護代に就任させ、北条三郎(ほうじょうさぶろう)こと上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)を相模国(神奈川県)の鎌倉府に在して関東管領(かんとうかんれい)に就任させ、室町幕府を再興させる構想を持っていたと言う。

この構想は上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の頭の中だけで描いたもので、書状に認(したた)めていなかった。

LINDA LEWIS /♪ WHAT'S ALL THIS ABOUT?

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:29:18

◆◇◆其の十三:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

1578年に起こった「御館の乱」(おたてのらん)にて、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が亡くなると、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で家督争いが起こる。

越後国(新潟県)の上杉氏によるお家騒動だったが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏や甲斐国(山梨県)の武田氏まで巻き込む大騒乱となってしまった。

先ず上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は直参家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)などと共に、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に陣営を設けて篭城した。

一方の上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、春日山城(かすがやまじょう/上越)の城下町に設けた関東管領(かんとうかんれい)の役所となる御館(おたて)に陣営を設けた。

この時に軍事力と政治力を発揮したのが上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)で、兄弟の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)に援軍要請している。

更に相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は講和成立を条件に、甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に侵攻する様に示唆(しさ)した。

これにより甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は北上して、越後国(新潟県)の領域まで進軍した。

ところが、この隙に遠江国(とおとうみ/静岡県)の浜松城(はままつじょう)から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍が、当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)が不在の甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)に侵攻してきた。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討伐している場合でなくなり、更に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)から講和を持ち掛けられ承諾してしまう。

こうして武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は、甲斐国(山梨県)に帰還してしまう。

此(こ)れに激怒した伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)から伊勢北条軍を出陣させたが、季節は冬で豪雪の越後国(新潟県)に居座る冬将軍に行く手を阻(はば)まれる。

こうして御館(おたて)の陣営で孤立無縁となった上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は、妻の清円院(せいえんいん/上杉)の薦めで相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)まで逃亡を図る。

この間に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の軍隊による総攻撃で、御館(おたて)の陣営は炎上して、上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)の妻の清円院(せいえんいん/上杉)と息子の上杉道満丸(うえすぎどうまんまる/上杉)は1579年に死去する。

しかも逃亡した上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)も、家臣の裏切りにより自決した。

この時の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の遺恨(いこん)が、武田勝頼(たけだかつより/武田)の人生の結末まで後を引いた。

これら戦乱で敵味方に関係なく多くの上杉氏の家族や家臣などが命を失い傷付き、これら現状を目の当たりにした上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)は生涯、元々が無愛想仏頂面だったのが無表情を貫き、二度と笑顔を見せる事はなかったと言われる。

上杉景勝…『戦国武将の家系に生まれたばかりに、幾度(いくど)と“血”の臭いに塗れ、“生首”に怯えて生きなければならぬ無情さよ。 日本海で協力し合って魚を採る、あの漁師の親子が羨ましい。』

直江兼続…『あの漁師の親子には“愛”を感じます。 “愛”なくして武将と言えますか。』

上杉景勝…『なるほど、御主(おぬし)の兜(かぶと)の“愛”とは、そう言う意味か?』

直江兼続…『いやっ、兜(かぶと)の“愛”は、織田信長(おだのぶなが/織田)殿の妹で“小牧山の美女”と言われるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)への“愛”でござるよ! 熱烈なファン心の表れでございますわぁ! わしもお市の方(おいちのかた/織田→浅井)と結婚できるなら織田信長(おだのぶなが/織田)殿に直(す)ぐにでも寝返るでござる! 浅井長政(あざいながまさ/浅井)殿や柴田勝家(しばたかついえ/織田)殿が羨ましい〜』

上杉景勝…『俺は、そんなお前が羨ましい。』

直江兼続…『L・O・V・E OICHI イェ〜イ!』

上杉景勝…『L・O・V・E OICHI イェ〜イ!』

MISTY OLDLAND /♪ A FAIR AFFAIR(JET AIME)

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:30:07

◆◇◆其の十四:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

1579年に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の菊姫(きくひめ/武田→上杉)を妻に娶(めと)る。

こうして越後国(新潟県)の上杉氏と甲斐国(山梨県)の武田氏の同盟が強化される。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)は直参家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と共に越後国(新潟県)や越中国(富山県)の領地を治め、隣国の武将との戦いに明け暮れる。

上杉氏がお家騒動を引き起こしている内に、越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)を拠点とした織田軍柴田隊の柴田勝家(しばたかついえ/織田)は、加賀国(石川県)と能登国(石川県)に侵攻を開始した。

ここでも一向宗(いっこうしゅう)こと浄土真宗(じょうどしんしゅう)の檀家(だんか)が結束して武装した一向一揆(いっこういっき)が反発を強めて苦戦していた。

この報告を受けた近江国(滋賀県)の安土城(あづちじょう/近江八幡)で全軍指揮を執(と)る織田信長(おだのぶなが/織田)は、戦略変更して飛騨国(岐阜県)の山岳地帯から侵攻する事にした。

この戦略が功を奏して加賀国(石川県)と能登国(石川県)を平定する事に成功した。

加賀国(石川県)には佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)を、能登国(石川県)には前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)を布陣させて、その中心に越前国(福井県)の柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる織田軍柴田隊が越中国(富山県)への侵攻を伺う。

先ずは越中国(富山県)の富山湾に東方にある上杉氏の魚津城(うおづじょう)を、越前国(福井県)から柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる織田軍柴田隊を本隊に、加賀国(石川県)からは佐々成政(さっさなりまさ/織田→豊臣)が率いる織田軍柴田隊佐々団、能登国(石川県)からは前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が率いる織田軍柴田隊前田団の総計4万人の軍勢が侵攻した。

これに対して越後国(新潟県)から上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)が率いる上杉軍も抗戦の為に進軍したが、関東に駐屯する滝川一益(たきがわかずます/織田)が指揮する織田軍滝川隊が、上野国(こうずけ/群馬県)や信濃国(長野県)から越後国(新潟県)に侵攻するのを伺っている為に、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)への帰還を余儀なくされた。

そんな上杉氏の事情から、越中国(富山県)の魚津城(うおづじょう)に残った4千人余りの上杉軍で攻防する事になる。

戦況は言うまでもなく、多勢に無勢で勢いに乗る柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる織田軍柴田隊の勝利に終わる。

これを1582年に起こった「魚津城の戦」(うおづじょうのたたかい)と呼ぶ。

その間の1582年に、織田信長(おだのぶなが/織田)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)にて、最後の武田氏の17代目当主だった武田勝頼(たけだかつより/武田)は総攻撃に遭い自決し、これにて名門武家の武田氏は滅亡した。

この戦況と酷似(こくじ)しているのが、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)が統治する上杉氏である。

権門勢家(けんもんせいか)の上杉氏が滅亡する危機が目前に迫っている。

ところが日本列島を激震させる事変が起こる。

京都で1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、“織田四天王”と呼ばれ重鎮家臣だった明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により、織田信長(おだのぶなが/織田)と長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が横難横死(おうなんおうし)したのである。

“中国攻め”を実施していた豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)は、急遽に備中国(岡山県)の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)から摂津国(大阪府)までを11日間で帰還する「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)を敢行(かんこう)した。

そして「山崎の戦」(やまざきのたたかい)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる織田軍羽柴隊は、山城国(京都府)の天王山(てんのうざん)で明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)が率いる明智軍と合戦を繰り広げて勝利する。

明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)は戦地から逃亡するも、山城国(京都府)の伏見にある小栗栖(おぐるす)の明智薮(あけちやぶ/六地蔵)で落武者狩りで死去した。

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◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:30:54

◆◇◆其の十五:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

戦国時代(安土桃山時代)の末期になると豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一の覇道を突き進んだ。

この畿内(きない/関西)の戦況を明察(めいさつ)した越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、一気呵成(いっきかせい)の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が優位と判断して従属(じゅうぞく)する事を決断する。

1583年に起こった「賤ヶ岳の戦」(しずがたけのたたかい)にて、織田氏の家督継承者の覇権争いで、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍と柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が、近江国(滋賀県)に広がる琵琶湖の北部に連なる山岳地帯の賤ヶ岳(しずがたけ)で交戦を繰り広げた。

この合戦で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に参戦した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる豊臣軍上杉隊は、越後国(新潟県)から日本海側を進軍した。

一時は柴田勝家(しばたかついえ/織田)が率いる柴田軍が戦況は優勢だったが、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の裏切りもあり敗北した。

これにより越前国(福井県)の北ノ庄城(きたのしょうじょう/福井城)にて、柴田勝家(しばたかついえ/織田)と“小牧山の美女”と言われるお市の方(おいちのかた/織田→浅井)は自決した。

直江兼続…『あっあっ〜 おっ、お市の方(おいちのかた/織田→浅井)、なんて事を・・・』

上杉景勝…『祇園精舍の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。 娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。 驕(おご)れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者(たけきもの)もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ。』⦅祇園精舎の鐘の音には、この世の全てのものは絶えず変化していくという響きがある。 沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色は、どんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。 世に栄えて得意になっている者も長くは続かず、まるで春の夜の夢のようである。 勢い猛烈(もうれつ)な者も最後には滅びてしまい、まるで風の前の塵(ちり)と同じである。⦆

その後も豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に恭順(きょうじゅん)して、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる豊臣軍上杉隊は日本各地を奔走(ほんそう)した。

1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)では、織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍と交戦するも、和睦により終結した。

1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)では、宿敵とも言える伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の討伐に、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる豊臣軍上杉隊は士気を高揚させた。

相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)では、連日の厳格な軍議の小田原評定(おだわらひょうじょう)により、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)や重鎮家臣は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる15万人の豊臣軍との合戦に備えて綿密な戦略を策定していた。

そして相模湾から陽が昇ると、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)は豊臣軍に完全に包囲されていた。

この合戦にも上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる豊臣軍上杉隊は参戦して、陣営を設けて布陣していた。

戦況は伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の降伏と、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の自決で幕を降ろした。

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:31:37

◆◇◆其の十六:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

こうして豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一を果たす。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から寵愛(ちょうあい)を受けて、豊臣政権では重要な役職に重用(ちょうよう)された。

そんな豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)から“無口で無表情な若武者”と呼ばれていた。

ただ、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は武将の生涯で一度だけ、家臣の前で笑顔を見せた事がある。

上杉家で飼育していた人真似子猿(ひとまねこざる)が、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の動きを真似(まね)ていた時に、それを観て微笑んだと言う。

またこの時期に、“ツッパリの利家”と呼ばれる前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)に仕えていた“ヤンキーの慶次”と呼ばれる前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)が、前田氏から出奔(しゅっぽん)して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の陪臣(ばいしん)に就任した。

前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と共に、豊臣軍上杉隊を支える事になる。

1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”では、肥前国(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう/唐津)に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる豊臣軍上杉隊は陣営を設けて、朝鮮半島の戦地に渡る。

その後の豊臣政権では死期を悟った豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が、“豊臣五大老”を設けて徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)と毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)と小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)と宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)を選任して、豊臣氏の家督継承者である豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)の後見人として託した。

1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”にて、再び朝鮮半島に渡る戦闘準備を始める。

1597年に“豊臣五大老”だった小早川隆景(こばやかわたかかげ/毛利→豊臣)が死去した事で、後継者に越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が就任した。

1595年に陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)の城主だった蒲生氏郷(がもううじさと/織田→豊臣)が死去すると、息子の蒲生秀行(がもうひでゆき/織田→ 豊臣→徳川)が当主に就任するが、1598年まで内部紛争で「蒲生騒動」(がもうそうどう)が発生し、下野国(しもつけ/栃木県)の18万石の宇都宮城(うつのみやじょう)に領地削減の減封(げんぽう)となる。

1598年に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、越後国(新潟県)の39万石から120万石の陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)へ、大幅な石高加増の領地移転の転封(てんぽう)となった。

この豊臣政権の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)による目的には、陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)と、出羽国(でわ/山形県)の最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)と、武蔵国(東京都)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の有力大名を監視と牽制する狙いがあった。

そして1598年に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去した事により、天下泰平の世は再び戦国時代に逆戻りし、その戦乱に陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)が拠点となった上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)も巻き込まれていく。

JAN HAMMER /♪ Crockett's Theme (MIAMI VICE)

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:32:21

◆◇◆其の十七:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

1598年に山城国(京都府)の小高い丘に建つ伏見城(ふしみじょう/京都)にて豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が死去すると、豊臣政権の家督後継者は息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)が就いた。

ただ、この時の息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)はまだ幼かった為に、政権運営を補佐する“豊臣五大老”と豊臣氏に仕える重鎮家臣の“豊臣五奉行”が、合議制により実質的に豊臣政権を司った。

“豊臣五大老”には戦国大名の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)、毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)が就いた。

“豊臣五奉行”には豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣だった浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)が就いた。

戦国の戦地を切り抜けてきた猛攻武将がこれだけ揃うと、合議制とは言え当然に意見や方針の相違から不協和音が早くから見られた。

特にこの10人の内、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の存在感は大きかった。

この2人の危険で微妙なバランスが、良くも悪くも豊臣政権の平定を保つ事ができていた。

ただし、この間にも徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が生前に取り決めた大名同士の縁戚禁止を反故(ほご)して、息子の徳川忠輝(とくがわただてる/徳川)と伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の娘の五郎八姫(いろはひめ/伊達→徳川)を結婚させている。

それ以外でも、織田信長(おだのぶなが/織田)の乳兄弟だった池田恒興(いけだつねおき/織田)の息子の池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、浅井長政(あざいながまさ/浅井)や豊臣秀長(とよとみひでなが/織田→豊臣)の家臣で猛攻武将の藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)に、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の直参家臣だった“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)と呼ばれた加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田孝高(くろだよしたか/小寺→織田→豊臣→徳川)の息子の黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)などを徳川派閥に引き入れて勢力を拡大させていった。

そんな1599年に前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)が死去すると事態は一転する。

用意周到に組織形成を構築していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が、豊臣政権の中でも抜きん出たのは明らかである。

残された豊臣派閥は、“豊臣五大老”の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、宇喜多秀家(うきたひでいえ/織田→豊臣)、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)と、“豊臣五奉行”の浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)、石田三成(いしだみつなり/豊臣)、増田長盛(ますだながもり/豊臣)、長束正家(なつかまさいえ/織田→豊臣)、前田玄以(まえだげんい/織田→豊臣→徳川)の8人だが、実力も勢力も徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川派閥には遠く及ばない。

そんな不安定な豊臣政権の隙を突いて、武断派(ぶだんは)と呼ばれる武将が行動を起こした。

目的は文治派(ぶんちは)と呼ばれる石田三成(いしだみつなり/豊臣)の成敗である。

理由は1592年に起こった「文禄の役」(ぶんろくのえき)または“第4次朝鮮出兵”と1596年に起こった「慶長の役」(けいちょうのえき)または“第5次朝鮮出兵”にて、朝鮮半島に赴(おもむ)く事なく石田三成(いしだみつなり/豊臣)が戦地の状況を汲み取らず、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に不利な戦況報告をしていた事が挙げられる。

これにより朝鮮半島で戦っている武断派(ぶだんは)の武将は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に処罰や叱責(しっせき)を受けている。

この反乱を起こした武断派(ぶだんは)の武将には、加藤清正(かとうきよまさ/豊臣→徳川)と福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)と加藤嘉明(かとうよしあきら/豊臣→徳川)の“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)と池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、細川藤孝(ほそかわふじたか/室町→織田→豊臣→徳川)の息子の細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)、浅野長政(あさのながまさ/織田→豊臣→徳川)の息子の浅野幸長(あさのよしなが/豊臣→徳川)の7人が揃っていた。

また、“賤ヶ岳七本槍”(しずがたけしちほんやり)の脇坂安治(わきざかやすはる/浅井→織田→豊臣→徳川)、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ/織田→豊臣)の息子の蜂須賀家政(はちすかいえまさ/織田→豊臣→徳川)、藤堂高虎(とうどうたかとら/浅井→織田→豊臣→徳川)も参加していたと言われる。

反乱は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)の武家屋敷にて、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の葬儀に参列する石田三成(いしだみつなり/豊臣)を襲撃して討ち取る計画だった。

ところが襲撃計画が事前に石田三成(いしだみつなり/豊臣)に知られ、山城国(京都府)の伏見城(ふしみじょう/京都)に逃亡されて失敗に終わる。

武断派(ぶだんは)は京街道を上り山城国(京都府)まで侵攻して伏見城(ふしみじょう/京都)を包囲した。

この時、伏見城(ふしみじょう/京都)の近くの向島城(むかいじまじょう)に居た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が事態に気付き抗争の仲裁に入る。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、石田三成(いしだみつなり/豊臣)に対して豊臣政権の役職を引退して、領国の近江国(滋賀県)の佐和山城(さわやまじょう/彦根)にて蟄居(ちっきょ)する様に薦める。

これを完全に納得はしてないものの、石田三成(いしだみつなり/豊臣)と武断派(ぶだんは)の武将は承諾した。

これを1599年に起こった「七将襲撃事件」(しちしょうしゅうげきじけん)と呼ぶ。

この石田三成(いしだみつなり/豊臣)の排斥(はいせき)により、豊臣派閥は完全に瓦解(がかい)する。

JOHN COUGAR MELLENCAMP /♪ RAVE ON

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:33:01

◆◇◆其の十八:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

豊臣政権にて完全に権力を掌握した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は政権奪取にようやく動き出す。

ターゲットは安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)、加賀国(石川県)の前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の家督継承した息子の前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)、陸奥国(むつ/福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)である。

先(ま)ずは小手先に加賀国(石川県)の金沢城(かなざわじょう)を拠点とする前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を突いた。

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は自身を暗殺する計画を企てたとして、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を討伐すると通告した。

徳川家康…『利長殿よぉ、わしぃを暗殺しようとしたなぁ! 証拠は揃っておるぞぉ!』

前田利長…『ええっ〜!? 何でバレたのぉ〜? 極秘に計画したのに、おかしいなぁ〜?』

徳川家康…『えっ!? 暗殺計画は本当だったのぉ!?』

前田利長…『すみませんでしたぁ! お詫びに母親のまつ(芳春院/織田→豊臣)を人質に差し出します。』

まつ…『家康殿、お久しぶりですわねぇ。 尾張国(愛知県)の時の昔話でもしましょうねぇ。』

徳川家康…『えっ? あっ、はい。』

こうして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、前田利長(まえだとしなが/織田→豊臣→徳川)を徳川派閥に取り入れた。

次なるターゲットは、陸奥国(むつ/福島県)の会津を領土とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣)に謀反(むほん)の疑いを掛けて討伐を仕掛ける。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と家臣の直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に対して、京都に上洛する様に命令を下すも、これを2人は拒否する。

しかも直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を批判する“直江状”(なおえじょう)なる物が出回り、これを見た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は激怒する。

“直江状”(なおえじょう)の概要は端的に訳すと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に対して辛辣(しんらつ)な書状での罵詈雑言(ばりぞうごん)でしかない。

⦅上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)に移封(いほう)して、まだ日が浅いのに謀反(むほん)を企てる余裕も時間も無く、こちらに豊臣政権に対して逆心など全くないのに、何処(どこ)かの無責任な鼠輩(そはい)が流布(るふ)を吹聴(ふいちょう)して、そんなつまらない讒言(ざんげん)を信じて疑う徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)こそ、明察(めいさつ)や聡明(そうめい)の無さを感じます。 長年の戦乱を経験した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も老獪(ろうかい)と化し、偏信(へんしん)を実施する様では愚昧(ぐまい)極まりなく、忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)な上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)としてはとても看過(かんか)できない。⦆

そこで上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)の為に、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍2号隊の大軍を進軍させる。

東北地方の入口にもあたる下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮城(亀ヶ岡城)には、息子の結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)を居城させた。

結城秀康(ゆうきひでやす/松平→豊臣→徳川)とは、下総国(しもうさ/千葉県・茨城県)の武将の結城晴朝(ゆうきはるとも/豊臣→徳川)に養子に入っていた子供である。

この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の動きに乗じて、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)に居城していた伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の所領だった陸奥国(むつ/宮城県)の白石城(しろいしじょう/刈田)に侵攻を開始した。

これ対して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)も上杉軍を派遣して攻防するも、元々は伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の領土だった白石城(しろいしじょう/刈田)だった為に、上杉軍は領民の激しい抵抗で奪還を失敗する。

PAUL CARRACK & TERRI NUNN /♪ ROMANCE(LOVE THEME FROM "SING")

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:33:48

◆◇◆其の十九:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

ただ、この徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が畿内(きない/関西)を留守にした隙に、“豊臣五奉行”の石田三成(いしだみつなり/豊臣)が西軍の総大将に毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を就任させて挙兵した。

この時、徳川派閥に属してきた越前国(福井県)の敦賀城の城主である大谷吉継(おおたによしつぐ/豊臣)は、親友だった石田三成(いしだみつなり/豊臣)に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を討伐する話しを聞かされ、主君と親友の何方(どちら)を選択するか思い悩んだ上で、親友の石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍に就く事を決める。

上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を討つべく「会津征伐」(あいづせいばつ)に向かった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる徳川軍が下野国(しもつけ/栃木県)の宇都宮の手前の小山(おやま)に滞在した際に、畿内(きない/関西)で石田三成(いしだみつなり/豊臣)が挙兵した事の知らせが入る。

この時点で徳川軍は、陸奥国(むつ/福島県)の会津を拠点とする上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の上杉軍と、畿内(きない/関西)を拠点とする石田三成(いしだみつなり/豊臣)の西軍に挟まれる危機的な状況に陥る。

そこで徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は軍議を開催して、同行する武将の意見を聞いた。

この時、参陣していた武将は、池田輝政(いけだてるまさ/織田→ 豊臣→徳川)、山内一豊(やまうちかずとよ/織田→豊臣→徳川)、細川忠興(ほそかわただおき/織田→豊臣→徳川)、福島正則(ふくしままさのり/豊臣→徳川)、黒田長政(くろだながまさ/豊臣→徳川)、浅野幸長(あさのよしなが/豊臣→徳川)、京極高知(きょうごくたかとも/豊臣→徳川)など錚々(そうそう)たる猛者である。

徳川家康…『西国で石田三成が挙兵して徳川軍に侵攻する知らせが入った。 現状では上杉軍と西軍に挟み討ちにされる可能性がある。 このまま東方に侵攻して上杉軍と交戦するか、また、西方に引き返して西軍と交戦するか、判断の別れる所である。 戦国を戦い抜いてきた百戦錬磨の武将の意見を聞きたい。』

福島正則…『三成めぇ! 何処(どこ)まで豊臣秀吉殿の意志の邪魔をするかぁ!』

黒田長政…『戦術で背後を侵攻され勝利した軍勢は皆無(かいむ)であります。 上杉軍への交戦は出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)で布陣する最上義光殿と陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)で布陣する伊達政宗殿に任せて、我々の徳川軍は西国の石田三成殿が率いる西軍と交戦すべきです。』

この軍議の決定により進路を反転して西側に引き返して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊が東海道を、息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊が中山道(なかせんどう)を侵攻する事になった。

徳川家康…『ただ、我々の徳川軍も、石田三成殿が率いる西軍も、亡き豊臣秀吉殿の意志を引き継ぎ豊臣秀頼殿を支えると言う大義は同じである。 この徳川軍の中にも秀吉殿の恩義を感じている武将も多いはず。 もし、西軍に就きたいとあらば、遠慮なく石田三成殿の元に行っても構わないぞぉ!』

福島正則…『いやぁ、私は徳川家康殿に従います。』

黒田長政…『私も徳川軍の為に、全力を尽くす。』

池田輝政…『私も同感であります。』

細川忠興…『拙者(せっしゃ)も徳川家康殿に着いて行きますぞぉ。』

浅野幸長…『三河国(愛知県)の八丁味噌が大好きな私も徳川軍に従軍致す。』

京極高知…『俺も“やっさん”と共に闘うぜぇ!』

徳川家康…『お前に“やっさん”と言われる覚えは無い!』

山内一豊…『私は東海道の道中に建つ遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川城(かけがわじょう)を徳川軍の陣営として提供致す!』

徳川家康…『おおっ! これは辱(かたじけな)い。 皆の想いが1つならば、この軍勢は徳川軍ではなく、東軍に改める事にする。』

これを1600年に開催した「小山評定」(おやまひょうじょう)と呼ぶ。

こうして東軍は西軍と交戦する為に、西国に侵攻する事になった。

BETTY WRIGHT /♪ NO PAIN NO GAIN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260721 - ラジオの友 URL

2026/07/21 (Tue) 02:34:47

◆◇◆其の二十:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の母親の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)から始まる上杉氏は、藤原氏と源氏と平氏に囲まれた権門勢家(けんもんせいか)の名門武家◆◇◆

●人真似子猿(ひとまねこざる)を観て微笑んだ上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)

徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍1号隊と息子の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が率いる東軍2号隊は進路を反転して西側に引き返して行く。

これにより伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と和睦して白石城(しろいしじょう/刈田)を返還してしまう。

しかし、畿内(きない/関西)の豊臣政権の混乱に乗じて直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は、前田利家(まえだとしいえ/織田→豊臣)の義理の甥にあたる前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)を従えて、2万人の上杉軍を最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の領土でもある出羽国(でわ/山形県)の畑谷城(はたやじょう/山辺)に侵攻する。

これを「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)と呼ぶ。

大軍を前に最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は撤退命令を出したが、畑谷城(はたやじょう/山辺)を守護する最上氏の家臣の江口光清(えぐちあききよ/最上)は500人の兵士と共に抗戦した。

ただ、多勢に無勢で江口光清(えぐちあききよ/最上)は敗北して討死し、畑谷城(はたやじょう/山辺)は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)に占領させる。

この戦況不利により出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に居城する最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/宮城県)の岩出山城(いわでやまじょう/大崎)に居城する甥の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)に援軍要請をする。

最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の妹かつ伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)の母親で最上家に出戻りしていた義姫(よしひめ/最上→伊達)の働き掛けもあり、留守政景(るすまさかげ/伊達)が率いる3000人の兵士の伊達軍が進軍した。

留守政景(るすまさかげ/伊達)とは、伊達晴宗(だてはるむね/伊達)の息子で留守顕宗(るすあきむね/伊達)の養子に入り、陸奥国(むつ/宮城県)の岩切城(いわきりじょう/仙台)の城主である。

この『伊達軍の援軍、直(す)ぐに来(きた)る!』の知らせは最上軍の兵士の士気(しき)を高めて、出羽国(でわ/山形県)の長谷堂城(はせどうじょう/山形)を守護する最上氏の家臣の志村光安(しむらあきやす/最上)は、直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の家臣の春日元忠(かすがもとただ/武田→上杉)が布陣する陣営に夜襲を掛けて勝利する。

この敗北で春日元忠(かすがもとただ/武田→上杉)は討死した。

ここで出羽国(でわ/山形県)の山形城(やまがたじょう)に居城する最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、7000人の兵士を引き連れて最上軍本隊も出陣した。

ところが、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる東軍と石田三成(いしだみつなり/豊臣)が率いる西軍の合戦は、半日足らずで決着がついて「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)は東軍の勝利に終わる。

この知らせは「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)の戦場にも届き、東軍に就いていた最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊は、戦況有利となり勢いに乗る。

一方、有利な情勢で進めていた西軍に就いていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が率いる上杉軍は、この時点で賊軍となり撤退を余儀なくされる。

2万人の兵士が引き上げていく上杉軍の後方部隊を担う“殿”(しんがり)は直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)が務めた。

山形から長井まで続く狐越街道(きつねごえかいどう)を上杉軍は進み、途中の畑谷城(はたやじょう/山辺)に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)と前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)の“しんがり部隊”は篭城して、執拗に進撃してくる最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊に抗戦した。

直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の家臣で上杉軍の下秀久(しもひでひさ/上杉→最上)は、出羽国(でわ/山形県)の谷地城(やちじょう/河北)を守護していたが、西軍および上杉軍の敗北を知らされておらず抗戦を続けていた。

ただ、最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の最上軍本隊の総攻撃に遭い、下秀久(しもひでひさ/上杉→最上)は降伏(こうふく)して、その後は最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)の家臣として従属(じゅうぞく)する。

ようやく出羽国(でわ/山形県)の米沢城(よねざわじょう)に帰還した直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)は自害しようとするも、同友の前田慶次(まえだけいじ/前田→上杉)に止められる。

直江兼続…『殿、無念であった。』

グッ

前田慶次…『兼続殿、おやめなされぇ! 死ぬのはいつでもできる。 ただ、それは今ではない!』

直江兼続…『慶次殿、うっううう・・・』

前田慶次…『兼続殿には、まだやる事がある。 必ずやる事がある。』

1600年に起こった「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)かつ「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)も終わり、徳川派閥による戦後処理が行われた。

出羽国(でわ/山形県)の合戦で大活躍した最上義光(もがみよしあき/最上→豊臣→徳川)は、庄内地方まで領土を認められて加増され57万石の大名となった。

陸奥国(むつ/宮城県)の伊達政宗(だてまさむね/伊達→豊臣→徳川)は目立った功績が乏しく2万石の加増で終わる。

一方、敗北した上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は、陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)を中心とした120万石から、領地削減の減封(げんぽう)と領地移転の転封(てんぽう)により出羽国(でわ/山形県)の米沢城(松岬城/まつがさきじょう)の30万石となった。

天下の大大名から一気に貧乏大名になった上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)を支えたのは、あの重鎮家臣でもある直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)である。

こうして豊臣政権から徳川政権へと引き継がれていく。

武蔵国(東京都)の江戸城(えどじょう)にて、征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が1603年に江戸幕府を開設する。

1604年に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と菊姫(きくひめ/武田→上杉)との間に、息子の上杉定勝(うえすぎさだかつ/徳川)が誕生する。

1605年に征夷大将軍2代目の徳川秀忠(とくがわひでただ/徳川)が家督継承者に就任し、駿河国(静岡県)の駿府城(すんぷじょう/静岡)に隠居した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は大御所となり二元政治を実施する。

1614年に起こった「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)をきっかけに、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍は、摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)に侵攻する準備に取り掛かる。

1614年に起こった「大坂・冬の陣」かつ1615年に起こった「大坂・夏の陣」にて、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が率いる徳川軍上杉隊も参戦し、徳川軍は摂津国(大阪府)の大坂城(おおさかじょう)を包囲して総攻撃を仕掛けて豊臣軍は敗北し、淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)は自害して、こうして豊臣氏は滅亡した。

1619年に直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)が死去する。

1623年に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)が死去し、息子の上杉定勝(うえすぎさだかつ/徳川)が家督継承者に就任した。

ANITA BAKER /♪ YOU BELONG TO ME

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