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今日の1枚、お薦めレコード/20260528 - ラジオの友 URL

2026/05/28 (Thu) 18:06:44

BILL HALEY & HIS COMETS /♪ (WE'RE GONNA)ROCK AROUND THE CLOCK

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2026/05/28 (Thu) 18:07:40

JOHNNY TILLOTSON /♪ POETRY IN MOTION

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2026/05/28 (Thu) 18:10:01

Catherine Zeta-Jones/♪ Overture 〜 AND ALL THAT JAZZ

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2026/05/28 (Thu) 18:10:55

ELIS REGINA /♪ SE VOCE PENSA

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2026/05/28 (Thu) 18:11:49

THE BLACK EYED PEAS /♪ HEY MAMA

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2026/05/28 (Thu) 18:12:46

CARDI B FEAT.BAD BUNNY & J BALVIN /♪ I LIKE IT

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2026/05/28 (Thu) 18:13:45

LUCINDA WILLIAMS /♪ GET RIGHT WITH GOD

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2026/05/28 (Thu) 18:14:41

SOM TRES /♪ SA MARINA

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2026/05/28 (Thu) 18:15:35

STEREOLAB /♪ MELODIE IS A WOUND

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2026/05/28 (Thu) 18:16:38

RIGHT SAID FRED /♪ EVERYBODY LOVES ME

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2026/05/28 (Thu) 18:17:36

loose loose/♪ GOOD DAY

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2026/05/28 (Thu) 18:18:31

HIRTH MARTINEZ /♪ 5/4 SAMBA

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2026/05/28 (Thu) 18:19:28

DON ARBOR /♪ ANOTHER SUNNY DAY IN PARADISE

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2026/05/28 (Thu) 18:20:25

Miss Abrams And The Strawberry Point 4th Grade Class /♪ America, Let's Get Started Again

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2026/05/28 (Thu) 18:21:22

KULA SHAKER /♪ GOVINDA

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2026/05/28 (Thu) 18:22:18

I'M WITH HER /♪ GAME TO LOSE

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2026/05/28 (Thu) 18:23:11

ULTIMO /♪ 7+3

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2026/05/28 (Thu) 18:24:06

WOUTER HAMEL /♪ SLOW & BLUE

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 07:48:34


“キングオブポップ”との異名を持つマイケルジャクソンの♪今夜はドントストップ(ドントストップティルユーゲットイナフ)です。

80年代を代表する曲ですが、イントロや間奏の『♪チャラララララララ〜 チャラララララララ〜』は、確かにインパクトあるメロディで、サンプリングに持ってこいです。

Michael Jackson /♪ Don't Stop 'Til You Get Enough

◆ラジオの友◆

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2026/05/27 (Wed) 07:49:25

ミスターオンVSジャングルブラザーズの♪ブリーズドントストップです。

マイケルジャクソンの♪今夜はドントストップ(ドントストップティルユーゲットイナフ)をサンプリングしたヒップホップです。

正に『♪チャラララララララ〜 チャラララララララ〜』がてんこ盛りですね。

MR.ON VS.JUNGLE BROTHERS /♪ BREATHE DON'T STOP

◆ラジオの友◆

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2026/05/27 (Wed) 07:50:14

ナイスの♪カントリーパイです。

ご機嫌なカバーですが、誰が原曲かは知りません。

NICE /♪ COUNTRY PIE

◆ラジオの友◆

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2026/05/27 (Wed) 07:51:05

ボブディランの♪カントリーパイです。

原曲はボブディランとの事です。

BOB DYLAN /♪ COUNTRY PIE

◆ラジオの友◆

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2026/05/27 (Wed) 07:52:00

ザ・ビーチボーイズの♪カリフォルニアガールズです。

世界中で知らない者は居ないと言う位のザ・ビーチボーイズを代表するサーフサウンドです。

もし先進国で生活する者で、30歳を超えても知らなければ地球から退場です。

The Beach Boys/♪ CALIFORNIA GIRLS

◆ラジオの友◆

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2026/05/27 (Wed) 07:52:55

デイヴィッドリーロスの♪カリフォルニアガールズです。

このカバー曲を知らなくても、地球から退場ではありません。

しかし、歌い手のデイヴィッドリーロスがメジャーバンドのヴァンヘイレンのボーカルだと言う事を、先進国で生活する者で、30歳を超えても知らなければ地球から退場です。

DAVID LEE ROTH /♪ CALIFORNIA GIRLS

◆ラジオの友◆

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2026/05/27 (Wed) 07:54:13

ピーターグラントの♪ハッピートゥギャザーです。

60年代バンドのタートルズのカバーです。

忠実に再現されてるカバー曲だと思います。

PETER GRANT /♪ HAPPY TOGETHER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 07:55:00

タートルズの♪ハッピートゥギャザーです。

曲名を和訳すると『♪みんなで一緒に幸せになろうぜぇ!』になります。

ただ、この曲のメロディラインを聴いていると、とても憂鬱な気分の様に聴こえて曲名と掛け離れている気がします。

逆に言えば今は憂鬱で後味が悪く不快だけど、いつかは『♪みんなで一緒に幸せになろうぜぇ!』と言う逆説なのかも知れませんが。

因みに90年代の香港映画の「恋する惑星」の挿入歌にもなりました。

The Turtles/♪ HAPPY TOGETHER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 07:56:01

ホセフェリシアーノの♪サニーです。

この名曲は様々なアーティストがカバーしており、誰が原曲かは知りません。

昭和期にサニーと言う日産車がありましたね。

この名曲から名付けたのでしょうか?

JOSE FELICIANO /♪ SUNNY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 07:56:57

ブラジルのアーティストのエリゴラー・エ・バンダドマトの♪サニーです。

ボサノヴァにアレンジされた間違いなくカバー曲です。

これが原曲だったらビビります。

ELI GOULART E BANDA DO MATO /♪ SUNNY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 07:57:54

ロッドスチュワートの♪ダウンタウントレインです。

ロッドスチュワートを代表する名曲です。

Bメロからサビへの切り返しがインパクトありますね。

心に残ります。

Rod Stewart/♪ DOWNTOWN TRAIN

◆ラジオの友◆

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2026/05/27 (Wed) 07:58:55

エヴリシングバット・ザ・ガールの♪ダウンタウントレインです。

エヴリシングバット・ザ・ガールの曲には珍しく、 トレイシーソーン(女性)とベンワット(男性)がデュエットしてますね。

流石は安定信頼のエヴリシングバット・ザ・ガール、良い仕事をしています。

心に残ります。

EVERYTHING BUT THE GIRL /♪ DOWNTOWN TRAIN

◆ラジオの友◆

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2026/05/27 (Wed) 07:59:52

ディオンヌワーウィックの♪オールウェイズサムシングズィーズトゥリマインドミーです。

多分ですが、ディオンヌワーウィックが原曲だと思います。

Dionne Warwick/♪ ALWAYS SOMETHING THERE TO REMIND ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 08:00:46

エスピリトゥの♪オールウェイズサムシングズィーズトゥリマインドミーです。

多分ですが、フランス語(?)のカバー曲かな?

ESPIRITU /♪ ALWAYS SOMETHING THERE TO REMIND ME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 08:01:48

デイヴメイスンの♪ウィルユースティールラヴミートゥモロー?です。

多分ですが、デイヴメイスンが原曲でしょう。

名曲です。

DAVE MASON /♪ WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW?

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 08:02:43

キャロルキングの♪ウィルユースティールラヴミートゥモロー?です。

明らかにカバー曲ですが、ただ、この名曲を先にキャロルキングで知ったと言う人は多いでしょう。

CAROLE KING /♪ WILL YOU LOVE ME TOMORROW?

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 08:03:39

グレースヴァンダーウォールの♪オーバー・ザ・レインボーです。

ウクレレでのハワイアンなカバー曲です。

何故かメロディがピッタリとハマり、違和感がありません。

GRACE VANDERWAAL /♪ OVER THE RAINBOW

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260527 - ラジオの友 URL

2026/05/27 (Wed) 08:04:32

ジュディガーランドの♪オーバー・ザ・レインボーです。

多分ですが、ジュディガーランドが原曲でしょう。

1939年のアメリカ映画の「オズの魔法使い」の挿入歌です。

1939年9月〜1945年8月に起こった「第二次世界大戦」で、既にアメリカではこの様な映画を製作する能力と技術と余裕がありました。

そりゃ日本がアメリカとの戦争に勝てる訳がありません!

Judy Garland/♪ OVER THE RAINBOW

◆ラジオの友◆

今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:44:00

◆◇◆其の一:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼紀元前1100年

イベリア半島にヨーロッパや中東やアフリカから異民族が移住した。

イベリア半島南部に居住したのは中東のフェニキア人だった。

フェニキア人はイベリア半島の対岸のアフリカ大陸にカルタゴ(チェニジア)を建国した。

カルタゴ(チェニジア)の領国はアフリカ大陸とイベリア半島南部まで拡大した。

▼紀元前200年

紀元前264年に地中海を挟んでローマとカルタゴ(チェニジア)が、シチリア島を争奪を巡り「第1次ポエニ戦争」が勃発する。

「第1次ポエニ戦争」ではローマが勝利し、シチリア島の領有権を獲得した。

紀元前219年にカルタゴ(チェニジア)のハンニバル(カルタゴ将軍)が率いるカルタゴ軍は、6万人の兵士と37頭の象を引き連れ、スペインから西回りに迂回して、イタリア半島の北部より侵攻した「第2次ポエニ戦争」が勃発する。

当初はハンニバル(カルタゴ将軍)が率いるカルタゴ軍が戦況優勢で進軍し、ほぼローマを制圧するかと思われたが、ローマのスキピオ(ローマ軍人)が率いるローマ軍が抗戦により、戦況が逆転した。

「第2次ポエニ戦争」ではローマが勝利し、ハンニバル(カルタゴ将軍)が率いるカルタゴ軍は、カルタゴ(チェニジア)に撤退した。

紀元前149年にローマ軍がカルタゴ(チェニジア)に侵攻し、カルタゴ軍と交戦した「第3次ポエニ戦争」が勃発する。

そしてローマ軍がカルタゴ軍を撃退してカルタゴ(チェニジア)は滅亡し、「第3次ポエニ戦争」もローマが勝利して終戦を迎える。

これによりイベリア半島はローマの領域となる。

紀元前197年にローマはイベリア半島にヒスパニア(スペイン)を建国する。

この時期にローマから工業や農業が伝来し、水道橋や劇場や闘技場などの構造物も建設された。

▼紀元前50年

オクタウィアヌスル(ローマ官人→ローマ皇帝)は、ローマ国民の支持を得て、徳政(とくせい)を担った聖君(せいくん)としてアウグストゥス(尊厳ある者)と呼ばれ、紀元前27年にローマ帝国を建国し、共和制のローマは幕を閉じた。

▼200年

この頃にヒスパニア(スペイン)にキリスト教が伝来した。

この時期にはヒスパニア(スペイン)の全域に、キリスト教の信者が布教活動により信仰する国民が増加した。

安定した秩序にて成熟期を迎えたローマ帝国は、広範囲な領土から穀物や物品が行き交い、益々(ますます)の繁栄をもたらした。

そんな時期の306年に、ローマ皇帝に即位したのがコンスタンティウス(ローマ皇帝)だった。

広大なローマ帝国を西ローマと東ローマに分割統治し、政治の効率化を目指した。

広大な領域を占有する栄耀栄華(えいようえいが)を誇ったローマ帝国だが、375年にアジア地域の遊牧民だったフン族がヨーロッパに移住してきた。

これによりヨーロッパ東部に居住していたゲルマン人が迫害を受けて追い出され、ヨーロッパ西部のローマ帝国に移住した「ゲルマン人の大移動」が起こった。

この後にローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分割統治に切り替えた。

ただ、ゲルマン人の支配が拡大して、418年に西ローマ帝国から独立した西ゴート王国(スペイン)がイベリア半島に建国された。

そして476年に西ローマ帝国は滅亡した。

Jigsaw /♪ Sky High

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:44:40

◆◇◆其の二:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼500年

569年に西ゴート王国(スペイン)の君主に就任したレオヴィギルド(西ゴート王国首長)が、法律や政策を策定して政治を担った。

ただ、570年にアラビア半島に居住するイスラム教の預言者のムハンマド(アラブ宗教家)が、メッカにてイスラム教の宗祖となる。

600年頃には中東からヨーロッパ、それにアフリカ大陸に掛けて、イスラム教の隆盛(りゅうせい)を極める。

そして661年に、イスラム教はインド地域からアフリカ大陸北部に掛けてウマイヤ朝を建国する。

711年にウマイヤ朝はイベリア半島の西ゴート王国(スペイン)に侵攻した。

この合戦により西ゴート王国(スペイン)は惨敗して滅亡し、イベリア半島はウマイヤ朝の領土となる。

西ゴート王国(スペイン)の国民はイベリア半島北部に移住して、アストゥリアス王国を建国した。

この頃にキリスト教とイスラム教の合戦の「レコンキスタ」が起こり、この後の800年間ほど続いた。

750年にウマイヤ朝が滅亡して、イベリア半島にはイスラム教の後ウマイヤ朝が建国された。

▼800年

801年にイベリア半島の隣国にあるフランク王国(フランス)が、後ウマイヤ朝の東部のバルセロナを奪取(だっしゅ)する。

バルセロナの地域にカタルーニャ諸伯領が建国された。

820年にアストゥリアス王国とカタルーニャ諸伯領の間にナバラ王国が建国された。

910年にアストゥリアス王国が滅亡し、その一部地域の西部にレオン王国が建国された。

そしてレオン王国の東部にはカスティーリャ伯領が建国された。

この様にイスラム教の後ウマイヤ朝を取り囲むよう、キリスト教の国家が誕生し、キリスト教とイスラム教の合戦の「レコンキスタ」が繰り広げられる。

▼1000年

1031年に後ウマイヤ朝は、政権闘争の内乱で滅亡する。

後ウマイヤ朝の領域には、イスラム教の領国が乱立し、「第1次タイファ時代」が始まる。

1035年にナバラ王国から独立し、隣国のアラゴン王国が建国される。

1037年にレオン王国とカスティーリャ伯領が併合してカスティーリャレオン王国が建国される。

カスティーリャレオン王国のキリスト教は、イスラム教の領国に侵攻して、イベリア半島の北部の領土を拡大した。

こうしてイスラム教の領国は、アフリカ大陸北部のムラービト朝に援軍を要請した。

1086年にムラービト朝の朝は、カスティーリャレオン王国に侵攻を開始した。

この合戦でカスティーリャレオン王国は敗北し、後ウマイヤ朝の領域はムラービト朝が占有した。

こうして「第1次タイファ時代」は終了した。

MISSING PERSONS /♪ WORDS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:45:18

◆◇◆其の三:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼1100年

1118年にアラゴン王国は、ムラービト朝に侵攻して領土の北東部を奪取(だっしゅ)した。

1147年にムラービト朝は、政権闘争の内乱で滅亡する。

ムラービト朝の領域には、イスラム教の領国が乱立し、「第2次タイファ時代」が始まる。

その後に、アフリカ大陸北部のムワッヒド朝が、ムラービト朝の領域を占有した。

こうして「第2次タイファ時代」は終了した。

1137年にアラゴン王国とカタルーニャ諸伯領が併合し、アラゴン連合王国が建国された。

1157年にカスティーリャレオン王国は、政権闘争の内乱で、レオン王国とカスティーリャ王国に分裂した。

更にレオン王国とムワッヒド朝の西部にポルトガル王国が建国された。

1195年にカスティーリャ王国とムワッヒド朝が合戦が繰り広げられたが、カスティーリャ王国が敗北する。

1212年に再びカスティーリャ王国とムワッヒド朝の合戦が繰り広げられた「ナバスデトロサの戦い」では、カスティーリャ王国が勝利した。

こうしてムワッヒド朝の領域の北部半分をカスティーリャ王国に奪取(だっしゅ)され、ムワッヒド朝の勢力は衰退した。

その後にカスティーリャ王国は、再びレオン王国を併合して領域と勢力を拡大させた。

ムワッヒド朝は「ナバスデトロサの戦い」にて惨敗した事により、イベリア半島から撤退した。

ムワッヒド朝の領域には、イスラム教の領国が乱立し、「第3次タイファ時代」が始まる。

1200年頃にカスティーリャ王国のキリスト教は、イスラム教の領国に侵攻して、イベリア半島の領土を拡大した。

イベリア半島の南部の狭小な領域にイスラム教のナスル朝が建国された。

▼1300年

1336年に、キリスト教のカスティーリャ王国とイスラム教のナスル朝の紛争は続くも、この時期にヨーロッパの全土で伝染病のペストが大流行した。

ここウイルス蔓延により、カスティーリャ王国とナスル朝の合戦は停戦を余儀なくされる。

その後にカスティーリャ王国では、政権闘争の内乱が100年間ほど続き、国内の政治と経済が衰退した。

一方でアラゴン連合王国は、ウイルス蔓延により国内の政治と経済が衰退した。

こうしてカスティーリャ王国では政権の内乱で混乱し、アラゴン連合王国では国家の財政難で混乱する事となる。

1469年に衰退化したカスティーリャ王国の女王だったイサベル1世(カスティーリャ女王)と、アラゴン連合王国の国王だったフェルナンド2世(アラゴン連合国王)は結婚して、領国の建て直しと統治に尽力した。

こうしてカスティーリャ王国とアラゴン連合王国は併合して、1479年にスペイン王国(イスパニア王国)を建国された。

その後にスペイン王国(イスパニア王国)は小国のナバラ王国とイスラム教のナスル朝を合併した。

こうして800年間ほど続いたキリスト教とイスラム教の合戦の「レコンキスタ」が終了した。

これでイベリア半島にはスペイン王国(イスパニア王国と、西部のポルトガル王国だけとなった。

イベリア半島にはスペイン王国(イスパニア王国)が建国された時期は、ヨーロッパをはじめとした大航海時代の幕開けでもあった。

この造船の技術と航海の発展により、スペイン王国(イスパニア王国)とポルトガル王国は、積極的にアメリカ大陸やアジアに航海する様になる。

こうしてスペイン王国(イスパニア王国)は、アメリカ大陸にアステカ帝国を、南アメリカにインカ帝国を領土し、アジアではフィリピンを植民地とした。

この時にスペイン王国(イスパニア王国)にイサベル1世(カスティーリャ女王)から支援を受けて、世界各国に航海したのがイタリア人のコロンブス(イタリア冒険家)だった。

1492年にコロンブス(イタリア冒険家)は、アジアのインドを目指していたが、逆方向に航海した事でアメリカ大陸を発見した。

それでもコロンブス(イタリア冒険家)は、海路を間違えた事に気付かずインドだと誤認(ごにん)し、アメリカ大陸に居住していた人をインディオと名付けた。

これがインディアンの語源となる。

LIVING COLOUR /♪ GLAMOUR BOYS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:45:53

◆◇◆其の四:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼1500年

この頃のスペイン王国(イスパニア王国)は、ヨーロッパのネーデルラント(オランダ・ベルギー)やオーストリアを領土としていたハプスブルク家(オーストリア)と友好関係を築いていた。

その後にスペイン王国(イスパニア王国)のイサベル1世(カスティーリャ女王)とフェルナンド2世(アラゴン連合国王)が死去すると、王位にハプスブルク家(オーストリア)のカルロス1世ことカール5世(スペイン国王→神聖ローマ皇帝)がスペインの国王に就任した。

こうしてハプスブルク朝スペインの始まりとなる。

時が経ちカルロス1世ことカール5世(スペイン国王→神聖ローマ皇帝)は、ヨーロッパの神聖ローマ帝国の皇帝にも就任した。

スペイン王国(イスパニア王国)は、アメリカ大陸やアジアにも領土を占有しており、世界最大の帝国を構築していた。

この頃になるとヨーロッパでは、キリスト教を中心とした宗教改革が起こる。

この宗教改革の首謀者なのがドイツ人の宗教家で学者のマルティンルター(ドイツ学者)だった。

1517年にマルティンルター(ドイツ学者)は、キリスト教のカトリック教会に対して苛烈(かれつ)に批判して、自らキリスト教のプロテスタントを立ち上げた。

こうしてヨーロッパ全土で、キリスト教のカトリックとプロテスタントの抗争が勃発する。

このキリスト教の内部抗争にスペイン王国(イスパニア王国)のカルロス1世ことカール5世(スペイン国王→神聖ローマ皇帝)は、カトリックを信仰しており、プロテスタントに対して禁教令(きんきょうれい)を発布した。

カルロス1世ことカール5世(スペイン国王→神聖ローマ皇帝)が死去して、息子のフェリペ2世(スペイン国王→ポルトガル国王)が国王に就任すると、父親と同様にプロテスタントを弾圧した。

この時期に神聖ローマ帝国は消滅し、フェリペ2世(スペイン国王→ポルトガル国王)はスペイン王国(イスパニア王国)とネーデルラント(オランダ・ベルギー)の国王だけとなる。

しかし、ネーデルラント(オランダ・ベルギー)には、南部にはカトリック信者の居住区で、北部はプロテスタント信者の居住区となっていた。

これに対してカトリック信者だったフェリペ2世(スペイン国王→ポルトガル国王)は、ネーデルラント(オランダ・ベルギー)の北部はプロテスタント信者を迫害した。

この様な悪政(あくせい)を敷く暴君(ぼうくん)に対してネーデルラント(オランダ・ベルギー)の国民は反乱を起こした。

この反乱が拡大して1568年に「オランダ独立戦争」(八十年戦争)が勃発した。

ネーデルラント(オランダ)の北部のプロテスタント信者は、スペイン王国(イスパニア王国)に抗戦した。

ただネーデルラント(ベルギー)の南部のカトリック信者は、カトリックを支持するスペイン王国(イスパニア王国)と1579年に和睦し帰属(きぞく)した。

このネーデルラント(ベルギー)の南部が現在のベルギーです。

ネーデルラント(オランダ)の北部は国民はユトレヒト同盟を組成して、1581年にスペイン王国(イスパニア王国)から独立してネーデルラント連邦共和国(オランダ)を建国した。

しかし、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)は、深刻な財政難に陥り、政治と経済が混乱して破綻寸前となる。

ただ、イギリスとアイルランドの女王のエリザベス1世(イギリス女王)が、プロテスタントのネーデルラント連邦共和国(オランダ)を支援した事で、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)は窮地を脱する。

これに激怒したスペイン王国(イスパニア王国)は、イギリスに宣戦布告を発してスペイン軍の無敵艦隊をイギリスに出陣させた。

1588年の「アルマダの海戦」にて、スペイン軍の無敵艦隊とイギリス軍の最強艦隊は海上戦で交戦し、イギリス軍の最強艦隊が圧勝した。

惨敗したスペイン軍の無敵艦隊は帰還する途中で嵐に見舞われ沈没して壊滅する。

1618年の「三十年戦争」にて、ドイツでカトリックとプロテスタントの合戦で、スペイン軍は参戦してフランス軍と交戦したが、勝敗が着かず疲弊しただけだった。

1648年に「三十年戦争」の講和条約の“ウェストファリア条約”により、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立の決定した。

こうしてスペイン王国(イスパニア王国)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の占有を完全に消失した。

この時期にイベリア半島の西部の西部のポルトガル王国も独立に向けて活動し始める。

しかし、スペイン王国(イスパニア王国)のスペイン軍は弱体化しており、対抗できるだけの余力は残っていなかった。

1668年に西部のポルトガル王国の独立の決定した。

CLUB NOUVEAU /♪ Jealousy

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:46:34

◆◇◆其の五:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼1700年

スペイン王国(イスパニア王国)では、1700年に国王のカルロス2世(スペイン国王)が死去し、これによりスペイン王族のハプスブルク家が断絶した。

そしてカルロス2世(スペイン国王)の親族だったフランス国王の家系のブルボン家のフィリップことフィリッぺ5世(スペイン国王)が、禅譲(ぜんじょう)を受けてスペイン王国(イスパニア王国)に就任した。

ただ、フランス国王の家系のフィリップことフィリッぺ5世(スペイン国王)がスペイン国王に就いた事で、フランス国王とスペイン国王が併合して、ヨーロッパ全土を制圧できる帝国になる危険性もあった。

これに危機感を抱いたイギリスとオランダとオーストリアの同盟を締結して、フランス国王とスペイン国王に対抗した。

1701年に「スペイン継承戦争」が勃発し、同盟軍とブルボン軍による合戦が繰り広げられる。

オーストリアはイタリア北部のサヴォイア公国と連携して、ブルボン家(フランス)が支配するイタリアの領土に侵攻して勝利した。

こうして「スペイン継承戦争」での戦況は、同盟軍が優勢となり劣勢のブルボン軍は講和交渉を持ち掛けた。

1713年に“ユトレヒト条約”を締結して、1714年に“ラシュタット条約”を締結した事により、「スペイン継承戦争」は終戦を迎えた。

この“ラシュタット条約”の条文には、主に2項目が記述されていた。

①:ブルボン家のフィリップが、フィリッぺ5世(スペイン国王)と名乗りスペイン国王に就任する事を承認する。

②:フィリッぺ5世(スペイン国王)はフランス国王への就任は禁止する。

フィリッぺ5世(スペイン国王)がスペイン王国(イスパニア王国)の王位に正式に認可された事で、スペインブルボン家(フランス→スペイン)として確立された。

スペイン王国のスペインブルボン家(フランス→スペイン)やオーストリアのハプスブルク家(オーストリア)やサルデーニャ王国がイタリア領土に争奪する戦争が頻発していた。

1733年の「ポーランド継承戦争」や1740年の「オーストリア継承戦争」に発展した。

JEFFREY OSBORNE /♪ SHE'S ON THE LEFT

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:47:13

◆◇◆其の六:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼1700年

今までヨーロッパでは長年に渡り王朝が政治と軍隊を掌握し、王政による国家運営が実施されていた。

ところがフランスにて、国民が王政に対して不満と憤懣(ふんまん)が積もり爆発し反乱に発展した。

1789年にフランス国民議会を招集して、パリの市民が反乱軍を組成し、市街地で暴動を起こして王朝の宮殿を次々と襲撃する「フランス革命」が勃発した。

宮殿に居た王族は斬殺され、生け捕りにされて捕縛(ほばく)し、市街地に拘引(こういん)して広場で公開処刑された王族も多かった。

その中にフランスの国王のルイ16世(フランス国王)と王妃のマリーアントワネット(オーストリア皇女→フランス王妃)も居た。

このフランスの国民の反乱がヨーロッパ全土に拡大して、次々と王族の排除が巻き起こった。

そんな時期にフランスに登場したのがイタリア半島の出身のナポレオン1世(フランス皇帝)だった。

1792年の「フランス革命戦争」を皮切りに、ナポレオン1世(フランス皇帝)はナポレオン軍を組成して、フランスを中心とした領土をヨーロッパ全土まで拡大していった。

ナポレオン1世(フランス皇帝)はヨーロッパ全域に対して政治の統一化を計り、1804年にナポレオン法典(フランス民法)を施行した。

唯一にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍に抵抗できたのがイギリスで、ヨーロッパ大陸とのドーバー海峡を大陸封鎖令した。

スペイン王国の全域もナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍が制圧し占領された。

しかし、スペイン王国の国民は、ナポレオン軍が駐屯している事に不満や憤懣(ふんまん)が募り、1808年にナポレオン軍に対して反乱が勃発した。

ただ、強靭なナポレオン軍の猛攻撃により数百人のスペイン王国の国民が戦死した。

この惨劇(さんげき)はスペインの画家のフランシスコデゴヤ(スペイン画家)が、絵画の“マドリード、1808年5月3日”に描いている。

その後にナポレオン1世(フランス皇帝)は、兄のジョゼフボナパルトをスペイン王国の国王に就任させて、ホセ1世(スペイン国王→ナポリ国王)と改名する。

また、ジョゼフボナパルトはイタリアのナポリ国王の国王にも就任させて、ジュゼッペ1世と改名した。

これによりボナパルト朝スペインが始まる。

ただスペイン王国の国民は、ボナパルト朝スペインの建国に不満や憤懣(ふんまん)が募り、ナポレオン軍に対して反乱が勃発した。

スペインはイギリスやポルトガルと連合軍を組成して、フランスのナポレオン軍に攻撃を仕掛けた。

この合戦は激戦となったが、戦況は連合軍が勝利した。

しかし、栄枯盛衰は世の常で、1812年にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いる60万人のナポレオン軍は、冬季にロシアに侵攻すると降雪による極寒で、冬将軍と疫病で戦う前に兵士が次々と命を落としていき敗北は決定的となる。

その後にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍は、1813年の「ライプツィヒの戦」にて、ロシアとオーストリアとプロイセン(ポーランド)の同盟軍に敗北した。

こうしてボナパルト朝スペインのホセ1世(スペイン国王→ナポリ国王)も立場が危うくなり王位を退位して逃亡し、スペイン王国からフランスは撤退した。

スペイン王国にはフェルナンド7世(スペイン国王)がスペイン国王に就任した。

ナポレオン1世(フランス皇帝)はヨーロッパ各国から大罪を問われ、拘束されてアフリカ大陸の西部の西大西洋に浮かぶセントヘレナ島に配流(はいる)となり、1821年に死去した。

LEVERT /♪ GOTTA GET THE MONEY

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:47:53

◆◇◆其の七:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼1800年

「フランス革命」によりヨーロッパ全土の国民が、王権政治を否定して自由のある民主主義を求める様になる。

こうして“自由主義運動”がヨーロッパ各国で起こる。

「フランス革命戦争」の後のヨーロッパの秩序再建を目的に、オーストリアのウィーンで開催された国際会議が催された。

その決議事案は、ヨーロッパ各国の政策は「フランス革命戦争」の前に遡及(そきゅう)する採択がされた。

要はヨーロッパ各国にて王政復古する事を意味した。

この1814年の「ウィーン会議」で決議された議案により、イタリア北部はオーストリアが統治、イタリア中部は教皇領(ローマ)、イタリア南部は南シチリア王国でスペイン王国のブルボン家(フランス→スペイン)が統治する事になった。

これを「ウィーン体制」と呼ぶ。

しかし、「フランス革命」のスローガンでもある“自由”と“平等”と“友愛”をスペイン国民は胸に抱き続けて、「フランス革命戦争」の前ではなく、新たなスペインを求めていた。

これに対してスペイン王国のフェルナンド7世(スペイン国王)は、民主主義の憲法の制定は策定せず、王政復古を採用するとした。

ただ、この王政に反発したスペイン国民は抵抗を続けて、1820年に民主主義の憲法の制定をフェルナンド7世(スペイン国王)に承認させた。

しかし、このスペイン王国の民主主義の憲法が、「ウィーン体制」のヨーロッパとの協調路線から逸脱(いつだつ)として警戒される。

そして1823年に、フランスはスペイン王国にフランス軍を派遣して侵攻した。

これに抵抗したスペイン自由軍はだったが、フランス軍の猛攻撃により大敗した。

こうしてフェルナンド7世(スペイン国王)は、フランスの軍事力を借りて王政復古を果たす。

ただし、スペイン国民は民主化を諦めずに活動を続けており、独自の民主主義の憲法を策定していた。

これによりスペインの革命軍は1868年の「九月革命」(スペイン革命)にて、スペイン王国の女王のイサベル2世(スペイン女王)に対して民主主義の採用を迫り、スペイン軍に攻撃を仕掛けて勝利する。

スペイン王国の女王を退位したイサベル2世(スペイン女王)はフランスに亡命した。

こうしてスペインでは暫定的に民主化の政権が誕生して、憲法の制定、選挙の採用、言論や宗教の自由が制定された。

1873年にスペインでは王政が廃止されて共和制が採用され、「第1次共和制」が開始された。

しかし、スペイン革命の首謀者だったセラーノ(スペイン革命家)は、民主主義とはほど遠い独裁政治を実行して、「第1次共和制」は機能せずに短命に終わる。

こうして再びスペインは王政復古し、スペイン王国の国王にセラーノ(スペイン革命家)の息子のアルフォンソ12世(スペイン国王)が就任する。

ただ、温厚だったアルフォンソ12世(スペイン国王)は、民主主義の憲法を制定して、立憲君主制を採用した。

Electric Light Orchestra /♪ Mr. Blue Sky

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:48:35

◆◇◆其の八:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼1900年

1900年代では、ヨーロッパ各国でアフリカ大陸やアジア大陸での植民地化が活発となっていた。

スペイン王国もアフリカ大陸の北西部のモロッコを植民地としていた。

ところが1903年に、モロッコの労働者がスペイン人の雇い主を襲撃する事件が起こった。

これによりスペイン王国の首相のマウラ(スペイン首相)は、モロッコにスペイン軍を進軍させる事を決定した。

ただスペイン軍は、これ以前にアメリカ軍と戦争を起こして惨敗し、軍事力が衰退してモロッコ討伐の兵士の士気も上がらなかった。

さらにスペイン国民のモロッコ討伐に反対するデモが国内各地で起こった。

この戦争反対運動は拡大して、バルセロナでは大規模なデモやストライキに発展した。

こうした状況でマウラ(スペイン首相)は、バルセロナにスペイン軍を派遣してデモ隊の鎮圧を決行した。

バルセロナにてスペイン軍とデモ隊は交戦して、武器を持たないデモ隊は1週間で500人以上が死去した。

これを1909年に起こった「悲劇の1週間」と呼ぶ。

この凄惨(せいさん)なバルセロナのニュースは、スペイン国内から世界にも発信され、世界中から非難を浴びたスペイン王国の首相のマウラ(スペイン首相)は辞任した。

その後に世界を震撼(しんかん)させる事件が勃発する。

オーストリアのサラエボにて、オーストリアの皇太子夫婦が革命家に暗殺された「サラエボ事件」が起こった。

この「サラエボ事件」を起因に、ドイツとオーストリアとイタリアは軍事協定を締結して“三国同盟”と、イギリスとフランスとロシアは軍事協定を締結して“三国協商”が交戦し、1914年7月〜1918年11月までに起こった「第一次世界大戦」が勃発した。

主戦場はヨーロッパ全土まで拡大して、主にドイツに対してイギリスとフランスが激戦を繰り広げていた。

この時期にスペインでは国内の統制が取れておらず不安定な政局の為に、「第一次世界大戦」では中立の立場を決定した。

その後に「第一次世界大戦」は、イギリスとフランスとロシアの“三国協商”の勝利で終戦する。

しかし、「第一次世界大戦」によりヨーロッパの経済や物流が疲弊すると、スペインもその余波(よは)を受けて経済の悪化が深刻化した。

これによりスペインの労働者などは、大規模なストライキやデモを起こす様になる。

この悪化の流れが暴動やテロに発展して、スペインでは治安も悪化していく。

スペイン王国の国王のアルフォンソ13世(スペイン国王)の後ろ盾を得て、1923年にスペイン軍の将軍だったプリモデリベラ(スペイン軍人)がスペイン政権を掌握した。

“ファシズム”の思想を持つプリモデリベラ(スペイン軍人)は、“余のムッソリーニ”と呼ばれ独裁者としてスペインに君臨し、民主主義の憲法を廃止して、国会の議会を解散し、戒厳令(かいげんれい)を発動した。

このプリモデリベラ(スペイン軍人)の独裁政治に反発したスペイン国民だったが、スペイン軍による弾圧が実施された。

こうした状況下でスペインは政治の腐敗と経済の衰退から、財政が悪化し続け、スペイン国民の生活は困窮を極めた。

さらに1929年にアメリカから端を発した「世界恐慌」が世界中に伝播して、スペインの国家体制は破綻寸前な状況を迎えた。

こうして1930年にプリモデリベラ(スペイン軍人)は辞任に追い込まれる。

TERRI GIBBS /♪ SOMEBODY'S KNOCKIN'

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:49:16

◆◇◆其の九:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼1900年

スペインでは国民の選挙により王権政治から民主化政治を選択する事が決定した。

こうしてスペイン王国の国王のアルフォンソ13世(スペイン国王)は退位して、スペイン共和国が建国され、「第2次共和制」が開始された。

1931年にスペイン共和国の首相にアサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)が就任した。

アサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)は、労働者や貧困層を救済する政策を実施したが、元々にスペインの財政は破綻寸前で救済する予算もない。

このアサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)の政策は成果を出す事なく2年で退陣した。

1933年にスペイン共和国の首相にレルー(スペイン首相)が就任した。

レルー(スペイン首相)は、前任のアサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)が実施した貧困救済政策を反面教師に、経済優先の企業や富裕層に資本増強の政策を実施した。

これの副作用として労働者や貧困層は置き去りにされ、不満や憤懣(ふんまん)が募っていった。

こうして労働貧困軍の1934年に「スペイン10月革命」がスペイン北部のアストゥリアスなどで勃発する。

レルー(スペイン首相)はスペイン軍を派遣して労働貧困軍を鎮圧し、その後にストライキやデモなどの労働運動を厳しく弾圧した。

このレルー(スペイン首相)の意思決定が、さらに労働貧困軍を刺激させる事になり、組織の強化や統治など一致団結する事になる。

この中心人物が前任首相のアサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)だった。

こうしてレルー(スペイン首相)は退任する事になる。

1936年にスペイン共和国の首相および大統領にアサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)が就任した。

アサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)は、先ず人民戦線政府を制定した。

これに対して反発する組織も出て来てスペイン反乱軍を組成していた。

このスペイン反乱軍の首謀者となったのが、スペイン軍の将軍のフランコ(スペイン軍人→スペイン国家統帥)だった。

1936年にフランコ(スペイン軍人→スペイン国家統帥)は、決起してスペイン反乱軍に各地で蜂起する様に命令を出した。

こうして「スペイン内戦」により、人民戦線政府のスペイン軍は、スペイン反乱軍の抵抗で中々に鎮圧する事ができなかった。

この戦況によりスペインの国土は、人民戦線政府とがマダラ模様に統治される事となる。

基本的に北部はスペイン反乱軍領となり、南部は人民戦線政府領となった。

“ファシズム”の思想を持つフランコ(スペイン軍人→スペイン国家統帥)は、スペイン北部はスペイン反乱軍領に独裁政治で統治して、ドイツのナチス党のアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)と、イタリア王国のムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)と、大日本帝国の“枢軸国”と連携した。

一方でスペイン共和国の大統領のアサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)は、人民戦線政府領に貧困救済政策を採り入れて、ソビエトの最高指導者のスターリン(ソビエト書記長)などと連携した。

1938年に人民戦線政府は劣勢を挽回する為に、先手必勝でスペイン反乱軍に攻撃を仕掛けた。

この合戦は激戦となったが、スペイン反乱軍が勝利した。

人民戦線政府が敗北した事で、スペイン共和国の大統領のアサーニャ(スペイン首相→スペイン大統領)は退任して、1939年にフランスに亡命した。

これによりフランコ(スペイン軍人→スペイン国家統帥)は、スペインの国家統帥に就任して独裁政治を施行した。

こうして「スペイン内戦」は終戦した。

THE BLUEBELLS /♪ FOREVER MORE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:50:25

◆◇◆其の十:太陽の国、情熱の大陸、芸術の都、スペイン王国◆◇◆

▼1900年

スペインのこの状況で、ドイツのナチス党の最高責任者だったアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が、領土拡大を目論(もくろ)みポーランドに侵攻を開始した。

この「ポーランド侵攻」を起因に、1939年9月〜1945年8月までに起こった「第二次世界大戦」が勃発する。

ドイツとイタリアと日本の“枢軸国”と、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国の“連合国”による激戦が繰り広げられた。

この時期にスペインでは国内の統制が取れておらず不安定な政局の為に、「第二次世界大戦」では中立の立場を決定した。

1939年にドイツの空軍が、スペインのゲルニカを戦闘機で空爆して壊滅させた。

このゲルニカの惨劇(さんげき)を観たスペインの画家のパブロピカソ(スペイン芸術家)は、“ゲルニカ”を描いて記録に残した。

「第二次世界大戦」は戦況が劣勢だったイタリアは、イギリスやフランスと休戦協定を締結して無条件降伏した。

アドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が率いるドイツ軍も急速に弱体化が進んだ。

敗北を察知したアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は妻と共にピストルで自害した。

こうしてドイツは連合軍に無条件降伏を伝え敗北した。

最後に日本も広島と長崎に原爆が投下され壊滅し、無条件降伏にて敗北し、こうして1945年に「第二次世界大戦」は終戦を迎えた。

この“ファシズム”を思想とした独裁政治のドイツとイタリアが敗北し、同じ独裁政治を実施するスペインのフランコ(スペイン軍人→スペイン国家統帥)も、国際的に非難と批判される様になる。

スペインは経済制裁を受けて孤立し、経済的に困窮する事になる。

その後に資本主義のアメリカと社会主義のソビエトが対立する「東西冷戦」が起こる。

アメリカはヨーロッパ西部を資本主義の牙城と考えており、スペインにも歩み寄り経済支援などを約定する。

こうして1955年にスペインが国際連合に加盟した。

これ以降のスペインは目覚ましい経済成長を遂げて奇跡の復活を果たした。

スペインの元首のフランコ(スペイン軍人→スペイン国家統帥)は体調が悪化して退任し、アルフォンソ13世(スペイン国王)の孫のフアンカルロス1世(スペイン国王)が就任した。

こうしてスペインは共和制から王政に復古し、フアンカルロス1世(スペイン国王)が国王に就任した。

スペイン王国は立憲君主制を導入して、国家体制の政治と経済の安定化を実施する。

一方でカタルーニャやバスクなどはスペイン王国からの独立運動が活発化している。

しかし現代のスペインは、カタルーニャのバルセロナ出身のアントニガウディ(スペイン建築家)による建築物の、1882年に建設着工した“サグラダファミリア”と、1900年に建設着工した“グエル公園”と、1906年に建設着工した“カサミラ”がバルセロナの市中に点在している。

スペインの東中部に位置するコルドバに建つ“コルドバ大聖堂”(メスキータ)の800年頃に建設したイスラム様式の建築物など、建物内ではキリスト教とイスラム教の色濃い装飾も見所で、目で楽しませて心で感動する芸術が多彩である。

この様に都市を彩(いろど)る歴史や芸術が魅力的なスペインは、グルメと合間って観光立国でもある。

また、産業も旺盛で他国の自動車メーカーなど製造業の工場が多く立地している。

ヨーロッパの最西端のスペインは、イギリスやフランスやイタリアとは違う独自の文化と文明が繁栄した。

そんなイベリア半島のスペインには、まだまだ知られていない魅力が埋もれている筈である。

JOHN COUGAR MELLENCAMP /♪ CRUMBLIN' DOWN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:51:33

◆◇◆其の一:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼紀元前100年

オーストリア地域では、北部のヨーロッパに移住した民族のケルト人が居住していた。

ケルト人は領土拡大するローマに対抗する為に、ノリクム王国(オーストリア)を建国する。

ノリクム王国(オーストリア)はローマと共存共栄をする政策で講和的な関係を築いていた。

しかし、ローマの領土はスペインからギリシャの沿岸部一帯と、一部のアフリカまで拡大した。

ローマ政府の官僚だったポンペイウス(ローマ官人)とクラッスス(ローマ官人)とカエサル(ローマ官人)は、お互いが協力して第1回の三頭政治(さんとうせいじ)にて、政治不安を払拭し、治安の平定に尽力した。

当初は、三者鼎立(さんしゃていりつ)で安定していたが、クラッスス(ローマ官人)が戦死すると、ポンペイウス(ローマ官人)とカエサル(ローマ官人)が権力掌握で対立する様になる。

そしてカエサル(ローマ官人)はポンペイウス(ローマ官人)を斬殺した。

紀元前48年にノリクム王国(オーストリア)はカエサル(ローマ官人)に加担して、ローマに帰属(きぞく)してノリクム従州となる。

しかし、カエサル(ローマ官人)は、政局に不満を抱く家臣のブルトゥス(ローマ官人)に暗殺される。

因みにカエサル(ローマ官人)は、『賽(さい)は投げられた。』と『来た、見た、勝った。』と『ブルトゥス(ブルータス)、お前もか。』などの言葉を残している。

▼300年

ローマはローマ帝国として樹立された。

広大な領域を占有する栄耀栄華(えいようえいが)を誇ったローマ帝国だが、375年にアジア地域の遊牧民だったフン族がヨーロッパに移住してきた。

これによりヨーロッパ東部に居住していたゲルマン人が迫害を受けて追い出され、ヨーロッパ西部のローマ帝国に移住した「ゲルマン人の大移動」が起こった。

そんな時勢でローマ帝国にも、大勢のゲルマン人が移住し、ローマ帝国の社会は大混乱に陥る。

395年にローマ帝国は分裂し、西ローマ帝国と東ローマ帝国の独立国家として樹立された。

更に476年に、ゲルマン人の軍隊長のオドアケル(ゲルマン軍人)が、西ローマ帝国に侵攻して占領し、政府を制圧して西ローマ帝国の党首に就任した。

こうして西ローマ帝国は滅亡した。

この時期に西ヨーロッパに、ゲルマン人の数多くの国家が建国された。

その1つがフランク王国(フランス)だった。

768年にカロリング家(フランス)のカール大帝(フランク皇帝→ローマ皇帝)が、フランク王国(フランス)の国王に就任した。

790年代にカール大帝(フランク皇帝→ローマ皇帝)は、近隣諸国にフランク軍を侵攻させて制圧し、フランク王国(フランス)は領土拡大した。

カール大帝(フランク皇帝→ローマ皇帝)は、フランク王国(フランス)の東部のオーストリア地域に辺境領(へんきょうりょう)を設けた。

この辺境領(へんきょうりょう)はオストマルク(オーストリア)と命名された。

Til Tuesday /♪ (Believed You Were) Lucky

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:52:15

◆◇◆其の二:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼800年

814年にカール大帝(フランク皇帝→ローマ皇帝)が死去すると、栄耀栄華(えいようえいが)を誇ったフランク王国(フランス)が衰退期に入る。

その後にフランク王国(フランス)は内部分裂を引き起こし、843年の“ヴェルダン条約”と870年の“メルセン条約”により西フランク王国、東フランク王国、イタリア王国の3国が建国された。

これが現代の西フランク王国がフランス、東フランク王国がドイツ、イタリア王国がイタリア一部に繋がっている。

その後に東フランク王国の国王のオットー1世(東フランク国王→神聖ローマ皇帝)が、ローマ教会の結び付きを強めて、ローマ教皇からローマ帝国の皇帝を意味する帝冠を授かった。

こうして962年に、東フランク王国とイタリア王国は併合して神聖ローマ帝国が建国された。

神聖ローマ帝国の皇帝はオットー1世(東フランク国王→神聖ローマ皇帝)が就任した。

オーストリア地域は東フランク王国に該当した。

その後にロシアからマジャール人(ハンガリー)が東フランク王国に侵入してきた。

907年に東フランク王国とマジャール人(ハンガリー)が対立した「プレスブルクの戦」にて、マジャール人(ハンガリー)が勝利した。

ただ、955年に東フランク王国の国王のオットー1世(東フランク国王→神聖ローマ皇帝)は「レヒフェルトの戦」にて、マジャール人(ハンガリー)に総攻撃を仕掛けて勝利した。

その後に東フランク王国の国王のオットー1世(東フランク国王→神聖ローマ皇帝)が、ローマ教会の結び付きを強めて、ローマ教皇からローマ帝国の皇帝を意味する帝冠を授かった。

これにより東フランク王国は神聖ローマ帝国に改名された。

神聖ローマ帝国の辺境領(へんきょうりょう)はオストマルク(オーストリア)を、バーベンベルク家(オーストリア)のレオポルト1世(オーストリア辺境伯)が統治した。

994年にレオポルト1世(オーストリア辺境伯)が死去すると、息子のハインリヒ1世(オーストリア辺境伯)が家督継承者として就任する。

996年にバーベンベルク家(オーストリア)が辺境領(へんきょうりょう)を統治する意味のドイツ語のエスターライヒ(オーストリア)が公文書に記述される。

▼1000年

1138年に神聖ローマ帝国の国王にコンラート3世(神聖ローマ皇帝)が就任した。

この頃に辺境領(へんきょうりょう)はラテン語のアウストリア(オーストリア)と呼ばれる。

そしてバーベンベルク家(オーストリア)が統治する辺境領(へんきょうりょう)をオーストリアと呼ぶ様になる。

その後の1156年に、神聖ローマ帝国の辺境領(へんきょうりょう)はオーストリア公国に昇格して、首都はウィーンとなった。

オーストリア公国はバーベンベルク家(オーストリア)のレオポルト5世(オーストリア公)と息子のレオポルト6世(オーストリア公)による政権運営の時期に繁栄期を迎えた。

神聖ローマ帝国の従属(じゅうぞく)のオーストリア公国は、隣国のハンガリーやボヘミア(チェコ)と対立しながら領土拡大を続けた。

しかし、バーベンベルク家(オーストリア)の家督継承者が不在で王位が断絶する。

OLDLAND MONTANO /♪ Love Dimension

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:52:57

◆◇◆其の三:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼1200年

1246年に最後の公王が死去すると、バーベンベルク家(オーストリア)は消滅した。

これに危機感を抱いたオーストリア公国の諸侯は、隣国のプシェミスル朝(チェコ王朝)のボヘミア(チェコ)の国王だったヴァーツラフ1世(ボヘミア王)に嘆願(たんがん)して、息子のオタカル2世(ボヘミア王)を1251年にオーストリア公国の公王に就任させた。

その後のオタカル2世(ボヘミア王)は、オーストリア公国とボヘミア(チェコ)を併合して、領土拡大を続けた。

一方で神聖ローマ帝国も1254年に王位が断絶し、神聖ローマ帝国の国王が不在の期間が20年間も続き、1254年〜1273年を「大空位時代」(だいくういじだい)と呼ぶ。

そこに目を付けたのがオーストリア公国の公王のオタカル2世(ボヘミア王)で、神聖ローマ帝国の王位を狙う事となる。

しかし、これを神聖ローマ帝国の諸侯が阻止した。

これにより1237年に、神聖ローマ帝国の皇帝に、ハプスブルク家(オーストリア)のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が就任した。

オーストリア公国のオタカル2世(ボヘミア王)が、神聖ローマ帝国のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)と対立する様になる。

こうして1278年に、オーストリア公国のオタカル2世(ボヘミア王)と神聖ローマ帝国のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が合戦を繰り広げた「マルヒフェルトの戦」が勃発した。

この戦況は神聖ローマ帝国のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が勝利し、オーストリア公国のオタカル2世(ボヘミア王)は戦死した。

これにより1282年に、オーストリア公国の公王には、ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)の息子のルドルフ2世(オーストリア公)が就任した。

ここからハプスブルク家(オーストリア)のオーストリア公国の統治が始まる。

一方で、1299年にトルコ地域ではイスラム教のオスマン帝国が建国される。

オスマン帝国はアジアやヨーロッパで勢力を拡大させていった。

当時のヨーロッパは伝染病のペストが大流行していた。

それでもハプスブルク家(オーストリア)が統治するオーストリア公国は、安定基盤を築いて領土拡大を続け、1359年にオーストリア大公国に昇格した。

オーストリア大公国は1386年には、神聖ローマ帝国の南部の一部も占領した。

しかし、これに神聖ローマ帝国の南部を領域としていた原初同盟 (げんしょどうめい/スイス)と対立する事になる。

こうして1386年に、オーストリア大公国と原初同盟 (げんしょどうめい/スイス)が合戦を繰り広げた「ゼンパッハの戦」が勃発する。

この戦況は原初同盟 (げんしょどうめい/スイス)が勝利し、オーストリア大公国は敗北して領土拡大は停止した。

この時にハプスブルク家(オーストリア)は、原初同盟 (げんしょどうめい/スイス)の統治を手放して、中立国のスイスに発展していく。

ただ、ハプスブルク家(オーストリア)の権力はオーストリア大公国を中心に増強に向かう。

1438年にハプスブルク家(オーストリア)のアルブレヒト2世(神聖ローマ皇帝)が、神聖ローマ帝国の国王に就任する。

これ以降にオーストリア大公国と共に、神聖ローマ帝国の国王をハプスブルク家(オーストリア)が継承していく。

RIC OCASEK /♪ EMOTION IN MOTION

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:53:45

◆◇◆其の四:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼1400年

1444年にオスマン帝国の皇帝のスルターン(主君)と呼ばれたメフメト2世(オスマン皇帝)が即位した。

1453年にメフメト2世(オスマン皇帝)は10万人の軍隊を、東ローマ帝国ことビザンツ帝国の首都のコンスタンティノープルに侵攻させた。

オスマン帝国の総攻撃でコンスタンティノープルは陥落し、オスマン帝国の制圧による占領で、1000年超の東ローマ帝国ことビザンツ帝国は崩壊した。

東ローマ帝国ことビザンツ帝国の領地がオスマン帝国に制圧されると、首都のコンスタンティノープルはイスタンブールに名称を変更した。

これによりオスマン帝国はバルカン半島のギリシャを併合した。

このオスマン帝国の勢力拡大に危機感を抱いたイギリスとフランスとイタリアとスペインとオーストリア大公国とロシアは、オスマン帝国と対立する事を決定する。

これに東ローマ帝国ことビザンツ帝国だったギリシャも同調した。

この頃になるとヨーロッパでは、キリスト教を中心とした宗教改革が起こる。

この宗教改革の首謀者なのがドイツ人の宗教家で学者のマルティンルター(ドイツ学者)だった。

1517年にマルティンルター(ドイツ学者)は、キリスト教のカトリック教会に対して苛烈(かれつ)に批判して、自らキリスト教のプロテスタントを立ち上げた。

こうしてヨーロッパ全土で、キリスト教のカトリックとプロテスタントの抗争が勃発する。

一方で、勢力拡大を続けるオスマン帝国は、オーストリア大公国の隣国のハンガリーまで侵攻してきた。

1526年にオスマン帝国とハンガリーが合戦を繰り広げる。

この戦況はオスマン帝国が勝利し、ハンガリーは敗北して国王も戦死した。

これによりオーストリア大公がハンガリーの王位を継承した。

しかし、このオーストリア大公国のハンガリーの統治に、トランシルバニア(ルーマニア)が反発した。

トランシルバニア(ルーマニア)は、オスマン帝国を後ろ盾によりハンガリーの王位を宣言した。

ハンガリーには2人の国王が存在する事になる。

オスマン帝国の皇帝のスレイマン1世(オスマン帝国皇帝)は、オーストリア大公国に侵攻を開始した。

1529年の「第1次ウィーン包囲」により、オスマン帝国のスレイマン1世(オスマン帝国皇帝)は12万人のオスマン軍でウィーンを包囲した。

ただ、オスマン軍はウィーンを攻略できずに、時間だけが過ぎていき、オスマン軍の兵士に疲労困憊が見え始め、冬季が訪れる前にオスマン軍は撤退した。

▼1600年

1618年の「三十年戦争」にて、ボヘミア(チェコ)でプロテスタントが弾圧され、こうして神聖ローマ帝国を中心にヨーロッパ全土でカトリックとプロテスタントとの大規模な宗教戦争が勃発する。

カトリック系には、ハプスブルク家(オーストリア)を中心とした神聖ローマ帝国とスペイン王国(イスパニア王国)とオーストリア大公国とポーランドとローマ教皇が参戦した。

プロテスタント系には、フランス王国とネーデルランド連邦共和国(オランダ)とデンマークノルウェーとスウェーデン帝国とボヘミア(チェコ)が参戦した。

カトリック軍とプロテスタント軍の30年間に渡り激戦を繰り広げたが、勝敗が着かず疲弊しただけだった。

1648年に「三十年戦争」の講和条約の“ウェストファリア条約”により、神聖ローマ帝国のドイツ圏は小国の独立国家の誕生が決定された。

こうして神聖ローマ帝国は滅亡した。

神聖ローマ帝国を失ったハプスブルク家(オーストリア)はオーストリアのみを拠点に活動する事になる。

その直後にオーストリア大公国は、再びオスマン帝国の侵攻を受ける事になる。

1683年の「第2次ウィーン包囲」により、オスマン帝国は20万人のオスマン軍でウィーンを包囲した。

ただ、オーストリア大公国はポーランドと提携してオスマン軍に総攻撃を仕掛けて勝利した。

更に撤退するオスマン軍をオーストリア軍が追撃して、バルカン半島の領土を制圧して占領した。

オーストリア大公国の「第2次ウィーン包囲」での勝利は、キリスト教が敗北したイスラム教のオスマン帝国より優位に立った事を意味した。

THE MOODY BLUES /♪ I KNOW YOU'RE OUT THERE SOMEWHERE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:54:28

◆◇◆其の五:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼1700年

この時期のオーストリア大公国では、政権争奪による内紛で、政治が不安定な状態に陥っていた。

更にオーストリア大公国の国王のカール6世(神聖ローマ帝国皇帝→オーストリア大公)には、嫡男(ちゃくなん)の家督継承者が不在だった。

そこで娘のマリアテレジア(オーストリア女大公)に皇位継承者に指定した。

1740年にオーストリア大公国の国王のカール6世(神聖ローマ帝国皇帝→オーストリア大公)が死去すると、娘のマリアテレジア(オーストリア女大公)がオーストリア大公国の女王に就任した。

ただ、ヨーロッパ北東部に位置するプロイセン(ポーランド)の国王が、オーストリア大公国の女王のマリアテレジア(オーストリア女大公)に反発した。

こうしてプロイセン(ポーランド)はオーストリア大公国に侵攻を開始した。

1740年の「オーストリア継承戦争」にて、プロイセン軍とオーストリア軍が合戦を繰り広げた。

しかし、プロイセン(ポーランド)の宣戦布告の本当の目的は、オーストリア大公国の女王のマリアテレジア(オーストリア女大公)ではなく、鉱山が豊富で鉄鋼産業が繁栄していたオーストリア大公国のシュレジェン(ポーランド)の占領にあった。

目的意識がはっきりしているプロイセン軍は、オーストリア軍に総攻撃を仕掛けて勝利した。

敗北したオーストリア大公国は、シュレジェン(ポーランド)の領土を失う事になる。

しかしオーストリア大公国の女王のマリアテレジア(オーストリア女大公)は、シュレジェン(ポーランド)の失地奪還(しっちだっかん)を目指して、フランスとロシアを同盟を締結してプロイセン(ポーランド)と交戦する事になる。

1756年〜1763年までの「七年戦争」にて、オーストリア連合軍とプロイセン軍が合戦を繰り広げた。

戦況は大軍勢のオーストリア連合軍が有利だったが、目的意識がはっきりしているプロイセン軍が執拗(しつよう)な抗戦で巻き返しを計り、1763年に停戦してオーストリア大公国とプロイセン(ポーランド)の講和条約が締結された。

こうしてシュレジェン(ポーランド)はプロイセン(ポーランド)の占領が認可され、オーストリア大公国の失地奪還(しっちだっかん)は失敗に終わる。

その後にオーストリア大公国は、プロイセン(ポーランド)とロシアとの協力で、三国の中央部に位置するポーランドを分割して占有した。

こうしてポーランドは一時的に消滅した。

今までヨーロッパでは長年に渡り王朝が政治と軍隊を掌握し、王政による国家運営が実施されていた。

ところがフランスにて、国民が王政に対して不満と憤懣(ふんまん)が積もり爆発し反乱に発展した。

1789年にフランス国民議会を招集して、パリの市民が反乱軍を組成し、市街地で暴動を起こして王朝の宮殿を次々と襲撃する「フランス革命」が勃発した。

宮殿に居た王族は斬殺され、生け捕りにされて捕縛(ほばく)し、市街地に拘引(こういん)して広場で公開処刑された王族も多かった。

その中にフランスの国王のルイ16世(フランス国王)と王妃のマリーアントワネット(オーストリア皇女→フランス王妃)も居た。

このフランスの国民の反乱がヨーロッパ全土に拡大して、次々と王族の排除が巻き起こった。

そんな時期にフランスに登場したのがイタリア半島の出身のナポレオン1世(フランス皇帝)だった。

1792年の「フランス革命戦争」を皮切りに、ナポレオン1世(フランス皇帝)はナポレオン軍を組成して、フランスを中心とした領土をヨーロッパ全土まで拡大していった。

ナポレオン1世(フランス皇帝)は、オーストリア大公国の首都のウィーンを制圧して占領した。

ナポレオン1世(フランス皇帝)はヨーロッパ全域に対して政治の統一化を計り、1804年にナポレオン法典(フランス民法)を施行した。

1805年に「アウステルリッツの戦」にて、オーストリア大公国とロシアと連合軍を組成してフランスのナポレオン1世(フランス皇帝)に侵攻を開始した。

しかし、連合軍はナポレオン1世(フランス皇帝)のフランス軍に大敗して、オーストリア大公国は領土に一部をフランスに割譲(かつじょう)された。

1806年にナポレオン1世(フランス皇帝)により、元神聖ローマ帝国の西部半分がライン同盟(西ドイツ)となる。

こうして事実上に神聖ローマ帝国は解体されて消滅した。

そして、ライン同盟(西ドイツ)とオーストリア大公国は隣接する事になる。

この時にオーストリア大公国からオーストリア帝国に改名した。

唯一にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍に抵抗できたのがイギリスで、ヨーロッパ大陸とのドーバー海峡を大陸封鎖令した。

イギリスとプロイセン(ポーランド)とオーストリア大公国とスペインなどは連合軍を組成して、フランスのナポレオン軍に攻撃を仕掛けた。

この合戦は激戦となったが、戦況は連合軍が勝利した。

しかし、栄枯盛衰は世の常で、1812年にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いる60万人のナポレオン軍は、冬季にロシアに侵攻すると降雪による極寒で、冬将軍と疫病で戦う前に兵士が次々と命を落としていき敗北は決定的となる。

その後にナポレオン1世(フランス皇帝)が率いるナポレオン軍は、1813年の「ライプツィヒの戦」にて、ロシアとオーストリア帝国とプロイセン(ポーランド)とスウェーデンの同盟軍に敗北した。

そして同盟軍がフランスのパリを制圧した。

ナポレオン1世(フランス皇帝)はヨーロッパ各国から大罪を問われ、拘束されてアフリカ大陸の西部の西大西洋に浮かぶセントヘレナ島に配流(はいる)となり、1821年に死去した。

ASWAD /♪ SET THEM FREE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:55:11

◆◇◆其の六:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼1800年

「フランス革命」によりヨーロッパ全土の国民が、王権政治を否定して自由のある民主主義を求める様になる。

こうして“自由主義運動”がヨーロッパ各国で起こる。

荒廃したヨーロッパを建て直す為に、オーストリア大公国の政治家だったメッテルニヒ(オーストリア政治家)が、この「フランス革命戦争」の後のヨーロッパの秩序再建を目的に、ヨーロッパ各国の首脳陣をウィーンに招集して国際会議を催した。

ただ、国際会議”では毎晩の様に首脳陣が舞踏会を開催して議題の進展がされず、『会議は踊る、されど進まず。』と揶揄(やゆ)された。

その決議事案は、ヨーロッパ各国の政策は「フランス革命戦争」の前に遡及(そきゅう)する採択がされた。

要はヨーロッパ各国にて王政復古する事を意味した。

この1814年の「ウィーン会議」で決議された議案により、イタリア北部はオーストリアが統治、イタリア中部は教皇領(ローマ)、イタリア南部は南シチリア王国でスペイン王国のブルボン家(フランス→スペイン)が統治する事になった。

1806年にナポレオン1世(フランス皇帝)により、元神聖ローマ帝国の西部半分がライン同盟(西ドイツ)となったが、これも解体されてライン同盟(西ドイツ)の領域がドイツ連邦が建国された。

ドイツ連邦はオーストリア大公国が統治する事になる。

こうしてオーストリア大公国は、オーストリア帝国に改名した。

これを「ウィーン体制」と呼ぶ。

しかし、「フランス革命」のスローガンでもある“自由”と“平等”と“友愛”をフランス国民は胸に抱き続けて、「フランス革命戦争」の前ではなく、新たなフランスを求めていた。

そして1848年に再びフランスにて国民にとる改革や反乱の「フランス二月革命」が勃発する。

フランスから再び革命の運動や反乱がヨーロッパ全土まで拡大し、プロイセン(ポーランド)とボヘミア(チェコ)とハンガリーとオーストリア帝国とイタリア半島にも飛び火した。

1848年にオーストリア帝国で「ウィーン三月革命」が勃発して、革命家がデモや暴動を実施した。

これに対してオーストリア帝国の皇帝のフェルディナント1世(オーストリア皇帝)は、憲法の制定と言論の自由を約定するも、それでも納得しない革命家はデモや暴動を続けていた。

こうしてフェルディナント1世(オーストリア皇帝)は、オーストリア軍を派遣して革命家を鎮圧して「ウィーン三月革命」は幕を閉じた。

この高圧的な対応にフェルディナント1世(オーストリア皇帝)は、オーストリア国民から非難を浴びて退位した。

一方でドイツ連邦はフランスやロシアなどの統治や占領対抗する為に、ドイツとして統一を目指す。

1848年に「フランクフルト国民議会」にて、ドイツ統一を決議する為にドイツ政府や学者、ドイツ国民による会議が催しされた。

この会議の議題は、『ドイツ統一にオーストリアを併合する』とする“大ドイツ主義” と、『ドイツ統一にオーストリアを併合しない』とする“小ドイツ主義”に意見が別れた。

この頃のオーストリア帝国は、チェコやハンガリーなど多民族国家が併合されて、国家の中で民族紛争が懸念されていた。

「フランクフルト国民議会」の結論は、ドイツ統一は先送りされた。

THE JEFF HEALEY BAND /♪ ANGEL EYES

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:55:53

◆◇◆其の七:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼1800年

この時期にドイツ連邦では、プロイセン(ポーランド)とオーストリア帝国の二大大国が存在感を増していた。

1864年にプロイセン(ポーランド)は、デンマークのシュレースヴィヒとホルシュタインを割譲(かつじょう)する為に侵攻を開始した。

これにオーストリア帝国がプロイセン(ポーランド)に連携して参戦し、デンマークのシュレースヴィヒとホルシュタインを略奪(りゃくだつ)した。

こうしてシュレースヴィヒとホルシュタインは、北部がプロイセン(ポーランド)の領土で南部がオーストリア帝国の領土となる。

しかし、今度はプロイセン(ポーランド)はシュレースヴィヒとホルシュタインの南部を奪取(だっしゅ)する為に、オーストリア帝国に侵攻を開始した。

1866年の「普墺戦争」(ふおうせんそう)にて、強靭な軍事力を保有するプロイセン(ポーランド)に対して、オーストリア帝国は惨敗してシュレースヴィヒとホルシュタインの南部を制圧された。

その後もプロイセン(ポーランド)は勢力拡大させてドイツ連邦の領域から、オーストリア帝国を排除して、ドイツ連邦の北部に北ドイツ連邦を建国した。

そして北ドイツ連邦は近隣諸国の領土に侵攻して占領し、ドイツ帝国を建国した。

このドイツ帝国の存在に危機感を抱いたオーストリア帝国は、ハンガリーを併合してオーストリアハンガリー帝国を建国した。

オーストリアハンガリー帝国は、北部のドイツ帝国に脅威を感じていた為に、南部のバルカン半島のオスマン帝国に侵攻を開始した。

この時期のオスマン帝国は一時の勢いはなく、オスマン帝国の占領下の小国が独立国家を目指す。

1875年にバルカン半島の北部のボスニアヘルツェゴビナで、オスマン帝国からの独立運動の反乱が勃発した。

さらにバルカン半島の東部のブルガリアでも、オスマン帝国からの独立運動の反乱が勃発した。

1877年にロシアがオスマン帝国に侵攻して戦争が勃発した。

ロシアはオスマン帝国に勝利して、ロシアはオスマン帝国の小国が独立国家とした。

ここでオーストリアハンガリー帝国は、ロシアのバルカン半島の支配に反発した。

ドイツ帝国は、オーストリアハンガリー帝国とロシアの戦争を懸念して両国の仲裁に入る。

こうしてヨーロッパ各国の首脳陣による国際会議が開催され、ロシアが支配した小国の独立が認可された。

このバルカン半島の決議の備考で、ボスニアヘルツェゴビナはオーストリアハンガリー帝国による統治を認可された。

ただ、その直後にオーストリアハンガリー帝国は、一方的にボスニアヘルツェゴビナを併合した。

これに対して隣国のセルビアは、オーストリアハンガリー帝国のボスニアヘルツェゴビナの支配に反発した。

セルビアはロシアが支援する独立国家だった。

このセルビアは、セルビア人が住む地域の統一を計画しており、ボスニアヘルツェゴビナは1/3がセルビア人だった。

Milli Vanilli/♪ Girl, I’m Gonna Miss You

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:56:39

◆◇◆其の八:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼1900年

イギリスで発祥した「産業革命」により、国家の体制と国民の生活は大きき変革された。

鉄とガラスとコンクリートを使用した建築物や工業製品が開発されて、機械による産業技術も向上して大量生産でき、その恩恵を国民が受けて大量消費に湧いた。

1900年代に入るとヨーロッパでは国家あいだの勢力対立が起こる様になる。

ヨーロッパで圧倒的な存在感を誇るイギリスとフランスとロシアが連携する“三国協商”が締結された。

これに対してドイツとオーストリアとイタリアが連携する“三国同盟”が締結された。

イタリアはオーストリアとの確執(かくしつ)はあったが、ドイツとは友好関係にあり参加を決定した。

この時期はヨーロッパからアフリカやアジアに向けて植民地の支配が横行していた。

そんな時期にオーストリア領のボスニアヘルツェゴビナのサラエボにて、オーストリアの皇太子夫婦が革命家に暗殺された「サラエボ事件」が起こった。

この「サラエボ事件」に起因にオーストリアは『セルビア、死すべし!』をスローガンに、サラエボに宣戦布告宣言を発布した。

一方でセルビアの後ろ盾だったロシアが、セルビア軍に軍事支援を明言する。

こうしてオーストリアと同盟を締結していたドイツが、ロシアに侵攻を開始した。

これに対してドイツの背後からイギリスとフランスがロシアへの救援として侵攻を開始した。

この「サラエボ事件」から発展し、ドイツとオーストリアとイタリアも軍事協定を締結して“三国同盟”と、イギリスとフランスとロシアは軍事協定を締結して“三国協商”が交戦した、1914年7月〜1918年11月までに起こった「第一次世界大戦」が勃発した。

オーストリアはバルカン半島の利権を巡り、ロシアと激戦を繰り広げた。

1914年の「ガリツィアの戦」にて、オーストリアはロシアに返り討ちを浴びて敗北し、50万人のオーストリア軍の兵士が戦死した。

主戦場はヨーロッパ全土まで拡大して、主にドイツに対してイギリスとフランスが激戦を繰り広げていた。

ここでイギリスとフランスは調略(ちょうりゃく)も仕掛けた。

イギリスとフランスは、“三国同盟”のイタリアに対して脱退を促して、“三国協商”に加盟する様に懇願(こんがん)した。

イタリアが加盟すればイギリスとフランスは、「第一次世界大戦」に勝利すれば“未回収のイタリア”の返還の確約をイタリアと約定した。

一応に筋立てとして、イタリアはオーストリアに対して、“未回収のイタリア”の返還を求めたがやはりオーストリアは拒否した。

こうしてイタリアは“三国同盟”を脱退して、イギリスとフランスとロシアの“三国協商”に加盟する事を決意する。

これによりイタリアとオーストリアは、アルプス山脈を舞台に激戦を繰り広げる。

イタリア軍もオーストリア軍も、数十万人もの兵士が戦死して、両国共に疲弊し軍事力は弱体化た。

1816年にオーストリアの国王が死去すると、オーストリア政府の統率が乱れて衰退しはじめ、1818年にオーストリアは敗北を認めて事実上の無条件降伏を宣言した。

こうなるとオーストリアの小国が独立国家として宣言する様になり、チェコスロバキアとセルビアとポーランドとハンガリーは独立国家としてオーストリアから離脱した。

こうしてオーストリアは崩壊して戦争の継続は不可能となる。

この頃にドイツも敗北して、「第一次世界大戦」はイギリスとフランスとロシアの“三国協商”の勝利で終戦する。

しかし、敗戦国のオーストリアから失地奪還(しっちだっかん)できた“未回収のイタリア”の返還は一部に止まった。

イタリアに取って「第一次世界大戦」は論功行賞(ろんこうこうしょう)無き勝利となった。

これがイタリアにとり、イギリスとフランスに対して新たな確執(かくしつ)を生んだ。

SHIRLEY MURDOCK /♪ SPEND MY WHOLE LIFE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:57:32

◆◇◆其の九:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼1900年

オーストリアでは、ハプスブルク家(オーストリア)でハンガリーの国王とセルビアの国王を歴任した、1916年に就任したオーストリア帝国の最後の皇帝のカール1世(オーストリア皇帝)がスイスに亡命を計った。

こうして650年間余り続いたハプスブルク家(オーストリア)によるオーストリア帝国の統治が終わる。

フランスのパリにて催された「第一次世界大戦」の戦後処理の国際会議で、チェコスロバキアとポーランドとハンガリーとセルビアは、正式に独立国家として認可された。

残った領域がオーストリアとなった。

1919年に戦勝国とオーストリアで締結された「サンジェルマン条約」により、更にオーストリアの領土は割譲(かつじょう)された。

オーストリアの領土は山岳地帯しか残っておらず、しかもオーストリア軍と警察組織の縮小化を義務付けられ、オーストリアは単独では存続不可能になる程に疲弊した国家となる。

1927年に生活困窮したオーストリア国民は、ウィーンにて労働者反乱軍による大規模なデモとストライキを実施した。

これに対してオーストリア政府は武力による弾圧を決行した。

こうして武力警察により84人の死者が出てる惨劇となり、労働者反乱軍は鎮圧された。

1932年にオーストリアの首相にドルフース(オーストリア首相)が就任した。

ドルフース(オーストリア首相)は、イタリアのファシスト党の最高指導者だったムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)と、友好関係を築いていた。

そして“ファシズム”を理念を抱えていたドルフース(オーストリア首相)は、オーストリアで独裁者として政治を掌握し始めた。

一方でドイツでは、オーストリア人のアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)がナチス党の最高責任者としてドイツに君臨していた。

その影響がオーストリアにも伝播して、オーストリアナチス党が組成された。

ただ、同じ“ファシズム”を理念を抱えていたドルフース(オーストリア首相)は、オーストリアナチス党の勢力拡大を恐れて、オーストリアナチス党の非合法化と排除を決議した。

こうしてオーストリアでは、イタリアのムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)を後ろ盾とするドルフース(オーストリア首相)の政党と、ドイツのアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)を後ろ盾とするオーストリアナチス党の政党が対峙した。

しかし、1934年に独裁組織のオーストリアナチス党と対立してドルフース(オーストリア首相)は暗殺された。

こうしてオーストリアナチス党は、オーストリアの各地で反乱を起こして勢力拡大させていった。

オーストリア政府は、ドルフース(オーストリア首相)の後任に、シュシュニック(オーストリア首相)が1934年よりオーストリアの首相に就任した。

シュシュニック(オーストリア首相)は前任のドルフース(オーストリア首相)の政策を引き継ぎ、イタリアのムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)を後ろ盾とした。

ところが1936年に、ドイツのアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)とイタリアのムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)が同盟を締結した事により、ドイツのベルリンとイタリアのローマによる枢軸の成立を宣言し、オーストリアの状況は一変する。

こうしてシュシュニック(オーストリア首相)はドイツのナチス党に接近し、オーストリアナチス党とも同調した。

1938年にドイツのアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)とオーストリアのシュシュニック(オーストリア首相)は、会談を開催してドイツによるオーストリアの帰属(きぞく)が決定される。

これによりシュシュニック(オーストリア首相)は、オーストリアの首相を辞任したが、オーストリアナチス党に逮捕され監禁された。

こうしてアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は、ドイツによるオーストリアの併合を宣言して、実質的にオーストリアは消滅した。

ドイツの領域となったオーストリアは、790年代のカール大帝(フランク皇帝→ローマ皇帝)の時代のオストマルクと名付けられた。

ドイツのナチス党の最高責任者だったアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が、領土拡大を目論(もくろ)みポーランドに侵攻を開始した。

この「ポーランド侵攻」を起因に、1939年9月〜1945年8月までに起こった「第二次世界大戦」が勃発する。

ムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)とアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は、同じ全体主義の“ファシズム”を理念を抱えていた為に、相通じるところがあり協調した。

ドイツとイタリアと日本の“枢軸国”と、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国の“連合国”による激戦が繰り広げられた。

イギリス軍とアメリカ軍がイタリア半島の南部に上陸して、イタリア南部は連合軍に占領された。

連合軍の空軍により上空から戦闘機でローマ市街地が空爆されると、イタリア国民は「第二次世界大戦」に疑問と不安と不満を持つ様になる。

このイタリアは凄惨(せいさん)な国土と化し、イタリア国民の阿鼻叫喚(あびきょうかん)が響き渡るのは、全てファシスト党のムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)の失策による責任と声を上げた。

こうしてイタリア政府に奏上(そうじょう)し、ムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)は政治権力の剥奪と罷免(ひめん)が決定し、逮捕後に法律により酷刑(こっけい)が採決された。

そしてムッソリーニ(政治家→イタリア統帥)は妻と共に処刑されて、亡骸(なきがら)は広場に晒(さら)される事になる。

戦況が劣勢だったイタリアは、イギリスやフランスと休戦協定を締結して無条件降伏した。

これを知ったドイツのアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は激怒して、ドイツ軍をイタリア半島に侵攻させてイタリア北部を制圧した。

これによりイタリアは、イタリア南部に駐屯するイギリス軍とアメリカ軍に援軍を要請して北部進行を開始した。

こうしてイタリア北部のドイツ軍を撃退して、ほぼ領土を失地奪還(しっちだっかん)する事ができた。

アドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)が率いるドイツ軍も急速に弱体化が進んだ。

敗北を察知したアドルフヒトラー(軍人→ナチス統帥)は妻と共にピストルで自害した。

こうしてドイツは連合軍に無条件降伏を伝え敗北した。

最後に日本も広島と長崎に原爆が投下され壊滅し、無条件降伏にて敗北し、こうして1945年に「第二次世界大戦」は終戦を迎えた。


RAY KENNEDY /♪ JUST FOR THE MOMENT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260524 - ラジオの友 URL

2026/05/24 (Sun) 17:58:15

◆◇◆其の十:音楽の都だけではない、錯綜しつつも華麗なオーストリアの奇怪◆◇◆

▼1900年

1945年に終戦した「第二次世界大戦」の後に、ドイツの領域となったオストマルクは、東部がフランス、北部がアメリカ、南部はイギリス、西部がソビエトが占領して統治した。

そこから資本主義のアメリカと、社会主義のソビエトとの対立による、東西冷戦の時代に入っていく。

こうした中でアメリカは、「第二次世界大戦」で疲弊したヨーロッパを支援する“マーシャルプラン”を公表された。

こうして壊滅状態にあったオーストリアは、“マーシャルプラン”による経済支援で奇跡的な経済復興を成し遂げた。

一方で社会主義のソビエトはアメリカへの対抗措置として、石油施設の接収を要求していた。

更にドイツも資本主義の西ドイツと社会主義の東ドイツに分断された。

この後に西ドイツが、アメリカとヨーロッパによる世界最大の軍事同盟のNATO(ナトウ/北大西洋条約機構)に加盟した。

ソビエトの最高指導者のスターリン(ソビエト書記長)は、西ドイツのNATO(ナトウ/北大西洋条約機構)の加盟により危機感を覚える。

こうして資本主義のアメリカと社会主義のソビエトとの対立は、更に大きくなり「第三次世界大戦」による核戦争の危惧が世界中を覆う様になる。

スターリン(ソビエト書記長)は、西ドイツのNATO(ナトウ/北大西洋条約機構)の加盟を阻止すべく、ドイツを中立国の統一国家として画策し、その前提にオーストリアを中立国の国家として独立させると提案した。

このスターリン(ソビエト書記長)のオーストリアを中立国の提案が、結果的にオーストリアの独立国家として後押しする事になる。

スターリン(ソビエト書記長)が1953年に死去すると、フルシチョフ(軍人→ソビエト書記長)がソビエトの最高指導者に就任した。

フルシチョフ(軍人→ソビエト書記長)は、オーストリアを中立国として独立国家へ立ち上げに尽力した。

1955年にソビエトのモスクワにて、アメリカとイギリスとフランスとソビエト、そしてオーストリアが、オーストリアの戦後処理の国際会議を開催された。

そして4ヶ国によりオーストリアの独立国家を認可された。

但し、オーストリアの独立国家は、『世界情勢に関わらず、オーストリアは永世中立国を遵守する事。』の義務化を決定した。

1955年にオーストリアの独立国家が成立した。

その後のオーストリアは、EU(ヨーロッパ連合)に加盟するが、永世中立国として継続している。

そしてオーストリアは、バーベンベルク家(オーストリア)やハプスブルク家(オーストリア)などの王族や貴族の伝統と文化が継承されている。

優雅なる舞踏会による音楽の都としてウィーンが世界に認知され、歴史的に価値のある街区も観光地として人気が上昇している。

またオーストリアの産業は、機械、化学、電子など多岐に渡る高度な技術を駆使して発展し、工業立国としての一面も持ち合わす。

ヨーロッパだけでなく世界中から、豪奢(ごうしゃ)で絢爛(けんらん)なオーストリアの今後に期待が掛かっている。

THE ALAN PARSONS PROJECT /♪ TIME

◆ラジオの友

今日の1枚、お薦めレコード/20260523 - ラジオの友 URL

2026/05/23 (Sat) 07:20:58

MARKY MARK & THE FUNKY BUNCH /♪ MUSIC FOR THE PEOPLE

◆ラジオの友◆

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2026/05/23 (Sat) 07:22:05

MELODIE MC /♪ DUM DA DUM

◆ラジオの友◆

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2026/05/23 (Sat) 07:23:08

MAJESTIC & LMC /♪ I BELIEVE IN MIRACLES

◆ラジオの友◆

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2026/05/23 (Sat) 07:24:10

PLUMMET /♪ CHERISH THE DAY

◆ラジオの友◆

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2026/05/23 (Sat) 07:25:08

MARK KAVANAGH /♪ BAD BOY 2000

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2026/05/23 (Sat) 07:26:05

AFRIKA BAMBAATAA FEAT.GARY NUMAN /♪ METAL

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2026/05/23 (Sat) 07:27:02

KAMASI WASHINGTON /♪ STREET FIGHTER MAS

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2026/05/23 (Sat) 07:28:00

MOBY /♪ LANDING

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2026/05/23 (Sat) 07:28:58

TELEPOPMUSIK /♪ BREATHE

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2026/05/23 (Sat) 07:29:52

KING KRULE /♪ BISCUIT TOWN

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2026/05/23 (Sat) 07:30:51

TODD TERRY& MARTHA WASH & JOCELYN BROWN/♪ KEEP ON JUMPIN

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2026/05/23 (Sat) 07:31:50

PLANET FUNK /♪ CHASE THE SUN

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2026/05/23 (Sat) 07:32:53

DEMI LOVATO /♪ FAST

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2026/05/23 (Sat) 07:33:52

MOUSSE T /♪ HORNEY

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2026/05/23 (Sat) 07:34:50

JOY SALINAS /♪ STAY TONIGHT

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2026/05/23 (Sat) 07:35:51

Reel People /♪ ANYTHING YOU WANT

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2026/05/23 (Sat) 07:36:51

THE BRAND NEW HEAVIES /♪ SPEND SOME TIME

◆ラジオの友◆

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2026/05/23 (Sat) 07:37:48

Incognito/♪ Crazy For You

◆ラジオの友◆

◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/01/07 (Wed) 23:13:10

君が歌えば、僕が踊る時、新しい音楽が生まれる。

インターネットの代わりにラジオを、テレビの代わりにライブハウスを、新しい音楽をリードする。

老いたる者には、過ぎし日の郷愁(きょうしゅう)を。

若人(わこうど)には、古(いにしえ)の幻(まぼろし)を。

今日も始まりました大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージックの時間です。

素敵な音楽をあなたにお届けするミュージックオアシス。

では、大阪で流行っている最新の音楽をお届けします。

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/01/07 (Wed) 23:14:00

「♪2025年、大阪キャバクラ幕府!!」

『“いしん”をかけて女の二(2)つの穴(0)に(2)ゴー(5)、2025年、大阪キャバクラ幕府。』

「大阪夜の陣」

“いしん”をかけて夜のミナミへ繰り出しまんねぇん。

毎晩の様に布陣している風俗奉行(ぶぎょう)。

「十三(じゅうそう)の役(えき)」

年齢層はオカン並やがぁ、ベテランのテクニックにはかないまへぇんねぇん。

“いしん”をかけて御奉仕してもらいまっせぇ!

「西中島南方(にしなかじまみなみかた)の戦」

どこの店も、パンツを脱がない店はおまへぇんでぇ!

昼はOLと掛け持ちの女子も多いさかいに、議員バッチをチラつかせて“いしん”をかけて裸の人生相談やぁ!

「兎我野(とがの)の乱」

大阪でもナンバー1(ワン)のピンク街やぁでぇ!

ヘルスにしようか、ホテルに呼ぼうか、魅惑と戸惑いが溢れる“いしん”をかけた快楽の境地やぁ!

「宗右衛門町(そうえもんちょう)の変」

揉(も)んではみたが、吸ってはいない。

濡れてはいたが、入れてはいない。

不謹慎かも知れないが、“いしん”をかけて法的には適正やでぇ。

こんなわしぃらには、風俗で考え抜(ヌ)いて“いしん”をかけた夢がおますねぇん。

中国の植民地の大阪を、“いしん”をかけて副首都のしまっせぇ!

副首都の大阪から、“いしん”をかけて日本の機密情報をドンドンと、親愛なる共産当局に流しまっせぇ!

歴史的に診て沖縄(琉球国)は、中国(明/みん・清/しん)の領土でっせぇ!

ただ、そんな中国も歴史的に診てモンゴル(元/げん)の領土でしてぇん!

こんな難しい国際情勢も、大阪のキャバクラでおっ立てながら議論してますねぇん。

キャバクラ、なんて美しい響きなんだ。

2025年、大阪キャバクラ幕府!!

キャバクラ、なんて素晴らしい楽園なんだ。

2025年、大阪キャバクラ幕府!!

『“いしん”をかけて女の二(2)つの穴(0)に(2)ゴー(5)、2025年、大阪キャバクラ幕府。』

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/01/17 (Sat) 00:29:57

「♪大阪は“いしん”をかけた“オナホ”(オナニーホール)で決まり!」

ジェルをたっぷりと塗り込んだ“オナホ”(オナニーホール)に挿入する至福の時間。

微動する穴内(ホールインターナル)が俺を刺激する。

5分程度で発射オーライ!

抑圧された暗く狭い空間から解き放たれる開放感。

その向こうに、ほんの数秒の素晴らしい世界が待っている。

淫行(いんこう)、脱糞(だっぷん)、デリケートゾーン。

“いしん”をかけた“オナホ”(オナニーホール)に、そんな事は関係ない。

大阪の街は、ところ構わずオナニー三昧(ざんまい)

大阪は“いしん”をかけたオナニー天国!

略して“大阪オナ天”!

大阪は“いしん”をかけた“オナホ”(オナニーホール)で決まり!

略して“大阪いしんのオナホ”でキメッ!

お金をたっぷりと貯め込んだ“金庫”(マネーホール)に入金する至福の時間。

ひしめく札束(ビッグマネー)が俺を刺激する。

1日かけても札勘定(さつかん)できない!

誰にも知られない密室で大金に埋もれる高揚感。

その向こうに、今後の人生の危険な世界が待っている。

違法、脱法、グレーゾーン。

“いしん”をかけた“国保”(国民健康保険)逃れに、そんな事は関係ない。

大阪の街は、ところ構わず財テク蓄財三昧(ざんまい)

大阪は“いしん”をかけた脱税地獄!

称して“大阪死刑囚”!

大阪は“いしん”をかけた“国保”(国民健康保険)逃れで決まり!

称して“大阪いしんは国賊”で死刑!

何の成果も出てないのに、選挙ってどうなん?

お頭(つむ)の弱いアホな人間は、一時(ひととき)の時流に乗っかるかも知れへんが。

政治(まつりごと)を“大人の玩具”(おとなのおもちゃ)に利用したらアカンでぇ!

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/02/19 (Thu) 09:30:20

「♪テレビ局対抗、爽(さわ)やかゲートボール大会!」

大阪の街外れにある少し広めの公園で、今朝も元気な近所のお年寄りが集っている。

運動場にゲートを設置して、老人会のゲートボールが始まる。

天満テレビさん、茶屋町放送さん、堂島川放送さん、城見テレビさん、上町放送局さん。

どのご老体も昭和期の大阪で活躍していたテレビ局の関係者だ。

昭和期から積もった埃(ほこり)が溜まった脳と感性で、令和期も元気に生き抜く意気込みは十分にある。

ゲートボールの後は、公園の近所にある喫茶店のサボールで昔話の談義に花が咲く。

根拠のない武勇伝や良かった昔の思い出話、そして今、患(わずら)っている病気自慢で会話で延々とローテーションする。

街中ではインターネットさんがあくせく働く中で、テレビ局さんは1杯のコーヒーで何時間も粘(ねば)る。

お昼頃になれば家に居る婆さんからガラケー(旧式携帯電話)のメールにお昼ご飯の通知が入る。

それで今日の会合はお開きとなり解散する。

『ほなぁ、また! 明日までちゃんと生きとかなアカンでぇ!』

テレビ局対抗、爽(さわ)やかゲートボール大会!

スマートフォンとガラケー(旧式携帯電話)とポケットベルが共存できなかった様に、インターネットとテレビと雑誌の共存はあり得ない。

テレビ局対抗、爽(さわ)やかゲートボール大会!

インターネット全盛のこの時代に、テレビの置かれている立場は、町の公園で朝から催される老人のゲートボール大会となんら変わりわない。

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/02/21 (Sat) 13:05:27

「♪誰もが憧れる大阪シティガール!」

私は生まれも育ちも大阪市東住吉区にある団地型の市営住宅。

周りには色々な住民が多かった事もあり、近所の兄ちゃんやおっちゃんに男を仕込まれたわぁ〜

多くの友達も同じ様な境遇(きょうぐう)で、中には中学校の先生や先輩に操(みさお)を奪われた子も居たのぉ〜

私も教育熱心な両親に、『女の価値は男の数で決まる!』と教えられた。

その教え通りに数多くの男と交わり、お金持ちのボンボンを目当てに腰を振って汗と汁を流したのぉ〜

ボンボンの子供を妊(はら)めばコッチのものよ!

子供を武器に結婚を迫り、後は悠々自適(ゆうゆうじてき)の暮らしが待っているぅ〜

何の役にも立たないアホな恋愛よりも、実(みの)りある攻略の方が、人生よっぽど役に立つ!

男の金(きん)と懐(ふところ)の金(かね)しか信じない。

これが大阪女の生き様よ!

誰もが憧れる大阪シティガール!

両親の教えは絶対に守るべきねぇ〜

誰もが憧れる大阪シティガール!

これが大阪で育った女の子の実像よぉ〜

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/02/22 (Sun) 15:47:01

「♪俺は“なにわ”のおとっつぁん!」

俺は“なにわ”のおとっつぁん!

年齢は50歳を超えたところだが、現在は仕事をしていない。

何度か大阪の町工場(まちこうば)で就職はしたが、社長や先輩と仕事に対する姿勢で口論になり辞めている。

俺くらいのレベル(Lv)は、軍師などの待遇でないと納得しない。

そんな無職の俺には、嫁と息子がいた。

ただ、少ない生活費をキッカケに嫁が出て行き離婚したが、息子は俺が引き取った。

これが理不尽の離婚に対する父親としての責務だ。

俺は“なにわ”のおとっつぁん!

賃貸アパートの家賃が払えなくなった俺は、親父(おやじ)とお袋(ふくろ)が住む実家に出戻りする事になった。

親父(おやじ)は昔気質(むかしかたぎ)の職人で、俺の素行が気に入らないのか、一つ屋根の下で生活するが口を効(き)かない。

そんな仲裁役がお袋(ふくろ)で、食事に洗濯に掃除もしてくれ、結婚時より快適である。

この実家の生活では、息子が小学生の頃に近所の公園で野球を教えていた。

ところが俺自身は野球をやった経験がなく、1ヶ月程度で早々に廃部となった。

息子が中学校に入学した時は、俺が家庭教師になって勉強を教えていた。

毎日、スパルタ教育でみっちり鍛えるつもりが、2週間くらい経つと俺の方が中学1年の学力に着いて行けず、そのままフェードアウトした。

俺は“なにわ”のおとっつぁん!

そんな中でお袋(ふくろ)に、日々の生活費や息子の教育費などで、仕事をする様に小言(こごと)を言われる。

そこで俺は中古でシルバーの軽ワゴンを購入し、人気の車中泊系ユーチューバーになる決心をした。

早速に真冬に軽ワゴンで人里離れた山奥に行き、車の中でコンビニで購入した焼き鳥セットと缶ビールと缶酎ハイで車中泊系ユーチューバーのデビューを祝った。

ところが、その深夜から車内でも外に居るくらいの極寒で、一応に毛布も持ってきたが何の役にも立たない。

軽ワゴンのエンジンを掛けっぱなしで暖房を最強にしていたが、冷気が四方の窓からガンガン入ってくる。

缶ビールと缶酎ハイを併せて6本も飲んでいるから、飲酒になり運転して家に帰る事もできない。

結局、日の出まで一睡もできずに、俺の車中泊系ユーチューバーのデビューは終わった。

1ヶ月経ったが、俺のユーチューブ動画の閲覧件数は俺が観た1件のままだ。

俺は“なにわ”のおとっつぁん!

俺は誰からも目を惹(ひ)くカッコいいシルバーの軽ワゴンに改造する事にした。

とは言っても余計なお金は無いので、自分でできる範囲でカスタマイズする。

黒色のスプレーでバンパーを塗装して、流行している2色にしてみた。

高級車のレクサスのエンブレムを軽ワゴンのフロントの中央に貼った。

そして既存のマフラーにカバーを着けてポルシェサウンドに早変わり。

早速、俺のカッコ良くなった軽ワゴンの試乗に出かけた。

ブロロロ〜ン ブロロロ〜ン

ポルシェサウンドが唸(うな)るぜぇ!

ブロロロ〜ン ブロロロ〜ン

カランコロンカラン

こう聞こえた次の瞬間、ポルシェサウンドからノーマルサウンドに変わった。

ポロロ〜ン ポロロ〜ン 

車を降りて見てみると、ポルシェサウンドを轟(とどろ)かせるマフラーカバーが無くなっていた。

ついでにレクサスのエンブレムが取れて、接着剤の跡だけが残っていた。

マジマジと観ると、購入時のノーマルより酷(ひど)い軽ワゴンの容姿になっている気がする。

俺は“なにわ”のおとっつぁん!

実は俺には本当の大金持ちの父親が居て、いつかその莫大(ばくだい)な遺産が入り、一生遊んで暮らすのが夢だ!

俺は“なにわ”のおとっつぁん!

いつか俺の才能が開花して、画期的な発明をし、その莫大(ばくだい)な特許料で、一生遊んで暮らすのが夢だ!

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/02/26 (Thu) 11:34:38

「♪“いしん”を掛けて中国の植民地の大阪都(おおさかと)を実現させよう!」

日本で2番目に大きな都市の大阪府を、都(みやこ)に昇格させよう。

政治や経済、文化や伝統を兼ね備える大阪府には、都(みやこ)の資質と品格は十分にある。

中国の植民地でもある大阪。

中華民族の奴隷となる大阪人。

2025年に開催された大阪関西万博の大成功は、親愛なる中国が大きく貢献し、実際には大阪中国万博と呼んでいい。

“いしん”を掛けて大阪都(おおさかと)が実現したら、大阪府を共産主義のシンボルカラーでもある真っ赤に染めよう!

多くの中華民族が大阪をはじめ日本各地のタワーマンションなどの不動産を、高値で購入する冊封(さくほう)を実施して日本の経済効果に貢献してくれている。

“いしん”を掛けて大阪都(おおさかと)が実現したら、御礼に大阪人は中国大陸の各地に建つ開発途中や未入居のマンションを、高値で購入する朝貢(ちょうこう)を実施して中国の経済効果に貢献しよう。

近年では地球環境に配慮したEV(電気自動車)が世界中で浸透し、サステナブル(持続可能社会構造)の実現に向けて躍進(やくしん)している。

“いしん”を掛けて大阪都(おおさかと)が実現したら、大阪で乗用車やバスを乗り換える際は、中国製のEV(電気自動車)を購入し、たとえ設備不良で不動車になったり、車体が炎上したりしても自然現象として諦めよう。

これが植民地の大阪の夢であり、奴隷の大阪人の希望である。

“いしん”を掛けて大阪都(おおさかと)が実現したら、日本の全財産を尊(とうと)び敬(うやま)う中国当局にバンバンと寄贈しよう!

“いしん”を掛けて大阪都(おおさかと)が実現したら、日本の機密情報を尊(とうと)び敬(うやま)う中国にドンドンと漏洩しよう!

“いしん”を掛けて中国の植民地の大阪都(おおさかと)を実現させよう!

大阪は中国の都(みやこ)、大阪大名は中国の公方(くぼう)。

“いしん”を掛けて中国の植民地の大阪都(おおさかと)を実現させよう!

大阪は中国の都(みやこ)、大阪大名は中国の公方(くぼう)。

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/02/27 (Fri) 09:55:44

「♪偉人なるアーティストに対してのアンサーソング」

世界には偉大なる敬愛する多くのアーティストが居る。

そんな才能あるアーティストは、魅力が溢れる多くの作品を創り出している。

そんな偉人なるアーティストに対してのアンサーソング。

チャックベリーとリトルリチャードをリスペクト(尊敬)して創作してみた。

その曲名は「♪ジョニーB、フルッティ」だ。

レイチャールズとスティービーワンダーをトリビュート(敬意)して創作してみた。

その曲名は「♪ヒット・ザ・シーラブリィー」だ。

ビートルズとローリングストーンズをインスパイア(影響)して創作してみた。

その曲名は「♪レットイット、ファクション」だ。

アレサフランクリンとティナターナーとドナサマーをイマジネーション(想像力)して創作してみた。

その曲名は「♪シンク、ラブゴットトゥ、スタッフ」だ。

カーペンターズとサイモン&ガーファンクルをリスペクト(尊敬)して創作してみた。

その曲名は「♪イエスタデイワンス、オブサイレンス」だ。

エリッククラプトンとジェフベックとジミーペイジをトリビュート(敬意)して創作してみた。

その曲名は「♪ワンダフル、ピープルゲット、イミグラント」だ。

ビリージョエルとエルトンジョンをインスパイア(影響)して創作してみた。

その曲名は「♪オネスティ、ロケットマン」だ。

プリンスとマイケルジャクソンをイマジネーション(想像力)して創作してみた。

その曲名は「♪パープル、スリラー」だ。

シンディローパーとマドンナをリスペクト(尊敬)して創作してみた。

その曲名は「♪タイムアフター、ヴァージン」だ。

アーハとワムをトリビュート(敬意)して創作してみた。

その曲名は「♪テイクオン、クリスマス」だ。

ガンズ&ローゼズとメタリカをインスパイア(影響)して創作してみた。

その曲名は「♪ウェルカムトゥ、サンドマン」だ。

最後に、エマニエル坊やとエマニエル夫人をイマジネーション(想像力)して創作してみた。

その曲名は「♪シティコネクションのエロい夫人」だ。

ファック、ファック、あの夫人とファックトゥナイト!

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/03/10 (Tue) 12:41:15

「♪我が故郷、京の里・伏見:壱番」

平安京から鴨川と共に南に下(さが)れば京の里・伏見。

稲荷山を中心に広々していて、とても良い町です。

有名な観光地も多く、見所満載なメジャーなスポットをご紹介しよう。

平安時代に、生前は『筆を誤った事は、一度たりとも無いっ!』が口癖だった弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい/真言宗)が建立(こんりゅう)した真言宗(しんごんしゅう)の東寺(とうじ)を、真っ直ぐ1号線を南下すると名神高速の京都南インターがあり、そこは関西で最大級のラブホテル街で一見の価値あり。

その地域に厄除けの神社で有名な城南宮(じょうなんぐう)があり、平安時代には第74代天皇の鳥羽天皇(とばてんのう/朝廷)の鳥羽離宮もこの一帯にあった。

明治期の1868年に起こった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦となる「鳥羽伏見の戦」の名称は、これらが由来(ゆらい)である

確か1984年に発生した“グリコ森永事件”の身代金受渡場所に指定されたのが、京都南インターにあるファミリーレストランだったと記憶している。

南北を通る1号線は渋滞の名所でもあるが、ロードサイドの飲食店も充実している。

ただ、1号線沿いにあったアジア風の店内の大盛りオムライスで有名だった“ベビーフェイスプラネッツ京都伏見店”がクローズしている。

どうなっているんだろう?

その東側を通るのが、江戸時代に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が築城した二条城(にじょうじょう/京都)や親鸞(しんらん/浄土真宗)が宗祖の浄土真宗(じょうどしんしゅう)で“浄土真宗本願寺派”の西本願寺が面する堀川通から続く油小路通(あぶらのこうじどおり)には、その高架に高速道路の第二京阪道路が通っているが、少し前までは山科(やましな)から巨椋池(おぐらいけ)は阪神高速道路だった。

ただ、大阪から北上して来ると、巨椋池(おぐらいけ)から別料金となりややこしく、結局、第二京阪道路に編入された。

そんな油小路通(あぶらのこうじどおり)だが、くいな橋にある陸運局と並んで建っているのが罪人を一時的に拘束する京都拘置所だ。

そこから南部に行くと近鉄と地下鉄の竹田駅があり、駅前にはカマボコ型の屋根が特徴の昭和期に流行したカフェバーの“バンブーハウス”があったのだが、近年にクローズしてしまった。

更に南部に行くと第76代天皇の近衛天皇(このえてんのう/朝廷)の墓陵があり、その南側にバブルモダン建築の第一人者だった高松伸(たかまつしん/建築家)先生の建築設計事務所がある。

京都で歌い継がれる民謡(みんよう)の♪竹田の子守唄は、この地域の事を歌っている。

そこから少し南部に行くと“京セラ”の本社があり、京都には珍しく高層ビルである。

その油小路通(あぶらのこうじどおり)を挟んで反対側にサッちゃんが目印のカルビ丼とスンドゥブ(豆腐)が美味しい“韓丼”の本店があり、そこから南側にある“焼肉のやる気”が経営している。

この油小路通(あぶらのこうじどおり)もロードサイドの飲食店も充実している。

我が故郷、京の里・伏見。

楽しさ満点、みんなおいでよ!

我が故郷、京の里・伏見。

魅力が満載、みんな住もうよ!

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/03/10 (Tue) 12:42:42

「♪我が故郷、京の里・伏見:弍番」

京都駅の東側を南北に通る24号線は、そのまま南下すれば奈良まで行ける。

そんな24号線の鴨川に架かる観進橋(かんじんばし)を渡ると左手に団地型のクラシックな大規模マンションが建っており、京都市は建築規制が厳しいので、この様な大きなマンションは珍しい。

その南部には龍谷(りゅうこく)大学があるのだが、何故かキャンパスに“スターバックスコーヒー”が入っている。

その南側にある深草西浦町は、その昔、極道の事務所が集積する地帯だった。

京阪電鉄の藤森駅には、京都1号店となる“ダイエー藤森店”があったが、今では大規模マンションになっている。

藤森にあった伏見人の憩いの場だったカフェの“ポポロヒロバ”は、近年に残念ながらクローズしてしまった。

そこから東部に行くと、鎌倉時代の持明院統(じみょういんとう/北朝)に属する第89代天皇の後深草天皇(ごふかくさてんのう/朝廷)など12人の天皇の墓陵の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)がある。

名神高速道路を挟んだ南側に、平安時代の第54代天皇の仁明天皇(にんみょうてんのう/朝廷)の墓陵の深草陵(ふかくさのみささぎ)がある。

その南西部に京都国立病院があるが、これは1941年12月に起こった「太平洋戦争」こと「大東亜戦争」の時に、日本軍の施設が伏見一帯に設けられ、その名残が国立病院と師団街道(しだんかいどう)である。

その南側にある藤森神社は、馬の神様が祀られており、淀にある京都競馬場に行く人が必勝祈願で訪れる。

その南部の墨染(すみぞめ)には、忠臣蔵の赤穂浪士四十七士の首謀者だった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石良雄(おおいしよしお/赤穂)が通い詰めた撞木町遊郭(しゅもくちょうゆうかく)の跡地がある。

その横にあるスーパーマーケットの“イズミヤ”は建替えて綺麗になった。

その前面道路が24号線だが、西南側に行くと棒鼻(ぼうばな)と言う地名があるのだが、ここに二股に別れる道路が通っており、そのちょうど股の部分にコンビニがある。

碁盤目状の都市と知られる京都で、この不思議な道路の1通りは、その昔に路面電車の専用線路だった名残であり、京都駅から中書島駅を結んでいた。

近鉄の伏見駅前にある公園に、その路面電車の車両が保存されている。

墨染(すみぞめ)の南部が丹波橋(たんばばし)で京阪電鉄と近鉄の駅がある。

その直ぐ南側が伏見桃山で伏見で一番栄えた街で、東西を通る大手筋商店街があるのだが、京阪電鉄の特急は停車しない。

伏見桃山駅前にある中華料理の“くれたけ”は、担々麺や回鍋肉定食などが美味しく、お昼はリーズナブルなランチ定食もある。

そこから近鉄の桃山御陵前駅(ももやまごりょうまええき)を過ぎると御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)があり、伏見城の大手門が移築され表門に活用している。

我が故郷、京の里・伏見。

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Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/03/10 (Tue) 12:44:00

「♪我が故郷、京の里・伏見:参番」

伏見桃山の南部に位置する中書島(ちゅうしょじま)は、その昔に遊郭があり、その名残が新地の地名として残っている。

中書島(ちゅうしょじま)から濠川(ほりかわ)を越えた北部にある和菓子屋の“伏見駿河屋”の前には、明治期の1985年に日本初の電気鉄道が開通した記念碑が立っている。

そんな中書島(ちゅうしょじま)から宇治川を越えた向島(むかいじま)の一帯は、平安時代には巨椋池(おぐらいけ)と言う大きな湖だった

平安京を築城する際に、風水の四神(ししん)を採り入れているが、南の朱雀(すざく)が巨椋池(おぐらいけ)である。

ただ、明治期に新田開発の為に埋められ、昭和期には広大な敷地を利用して向島(むかいじま)に巨大な団地が建築されている。

伏見桃山の東側には小高い山があり、ここに豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が築城した伏見城(ふしみじょう/京都)が建っていた。

その地に第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)と第122代天皇の明治天皇(めいじてんのう/朝廷)の墓陵が並んで設けられている。

その南側には室町時代に朝廷が京都と奈良で分裂した南北朝時代の、北朝2代天皇の光明天皇(こうみょうてんのう/北朝)と北朝3代天皇の崇光天皇(すこうてんのう/北朝)の墓陵も設けられている。

京阪電鉄宇治線の桃山南口駅前にある鉛筆削りみたいな建物は、高松伸(たかまつしん/建築家)先生が設計した建築業界では有名な建築物である。

そこから東側に行くと京阪電鉄とJRと地下鉄の駅がある六地蔵(ろくじぞう)で、最近まで京都1号店だった“イトーヨーカドー六地蔵店”があったが、クローズして大規模マンションが建設された。

ただご安心、ショッピングモールの“MOMO(モモ)テラス”があるので買い物の不自由さはありません。

その昔は歴代のウルトラマンを集積させた飲食店の“ウルトラdeレストラン”が併設されていたのだが、いつの間にかクローズしていた。

地球の安全を防衛するウルトラマンの施設が日本から消滅する事は、“夢”も“希望”も無い絶望国家の現れでもある。

1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で、主君の織田信長(おだのぶなが/織田)を討ち取った明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)だった。

ところが、その直後の天王山(てんのうざん)で起こった「山崎の戦」(やまざきのたたかい)で豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に敗れ、伏見の小栗栖(おぐりす)まで逃亡したが、落武者狩に遭い竹藪にて斬殺された場所が、六地蔵(ろくじぞう)の北側に明智薮(あけちやぶ)として残る。

そこから北部に上(あ)がると桜で有名な醍醐寺(だいごじ/真言宗)があり、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が毎年に花見と茶会を催し、その桜の美しさから『醍醐見』(だいごみ/醍醐味)の語源になった。

醍醐寺(だいごじ/真言宗)の裏手には、平安時代の第61代天皇の朱雀天皇(すざくてんのう/朝廷)の墓陵がある。

醍醐寺(だいごじ/真言宗)と朱雀天皇(すざくてんのう/朝廷)の墓陵を参拝したら、是非に焼肉屋の“天壇(てんだん)山科店”に行って欲しい。

このお店は他の“天壇(てんだん)”とは違い、店内がモダンなデザインとなっておりお洒落で、デザインを生業(なりわい)とする者なら立ち寄ってもらいたい。

我が故郷、京の里・伏見。

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Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/03/19 (Thu) 10:21:36

「♪京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄:壱番」

794年に第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)により、山城国(京都府)に平安京が遷都(せんと)された。

その前は784年に遷都(せんと)された桂川(保津川)と宇治川と木津川が合流する淀川近くの長岡京(ながおかきょう)で、その前が710年に遷都(せんと)された大和国(奈良県)の平城京だった。

この平安京から領国名が山背国から山城国(京都府)に改名された。

長岡京(ながおかきょう)から平安京への遷都(せんと)は、785年に起こった「藤原種継暗殺事件」(ふじわらたねつぐあんさつじけん)を起因した、桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)が弟の早良親王(さわらしんのう/朝廷)を首謀者と見なし、讃岐国(香川県)に流刑した事で抗議の絶食死し、その後に多くの祟りが起こる様になった。

この厄災(やくさい)に慄(おのの)いた桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)は家臣の和気清麻呂(わけきよまろ/朝廷)に相談し、そこで長岡京から北東の鬼門とされる平安京へ都(みやこ)の遷都(せんと)が決定し、これを「和気清麻呂の建議」(わけきよまろのけんぎ)と呼んだ。

京都の平安京は、鴨川や山脈を隔てた境目が明確で、平安京の中は人が住む場所、それより外側は異界と捉えられていた。

夕刻の薄暗い時間帯は大禍時(おおまがとき)と呼ばれ、悪霊や怨霊などが動き出し漂う時刻として人々から恐れられていた。

時には鴨川に死者を放置する為に、その遺体が5000人程に膨れ上がり、川の流れを堰き止めて市中に水が溢れ出ていたと言う。

江戸時代初めに徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が築城した二条城の南側にある神泉苑(しんせんえん)は、異界から侵入する悪霊や怨霊などを追い払う守護神の役目を果たす。

その後、人の霊(御霊/ごりょう)を鎮魂(ちんこん)する祭り事(まつりごと)の御霊会(ごりょうえ)に発展していく。

そこに仏教の要素が加わり、7月17日に開催される祇園祭などの祭が日本各地で開催される様になる。

京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄。

これくらいの知識を頭に入れて、京都にお越しやすぅ〜

京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄。

平安京の成り立ちを知らない観光客は、ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどぉすぅ〜

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/03/19 (Thu) 10:22:35

「♪京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄:弐番」

京都の平安京の街区は、西北東方を山脈に囲まれ、その盆地に平安京は建設された。

そこに“風水”と“四神相応”(しじんそうおう)を取り入れた都市計画が定められ、平安京は構築される事となる。

そして東西南北を“四神”がその地を守り、北山に“玄武”(げんぶ)、東川に“青龍”(せいりゅう)、西道に“白虎”(びゃっこ)、南海に“朱雀”(すざく)が鎮守する。

京都の北山には東側の比叡山から西側の愛宕山が連なり、“玄武”(げんぶ)が守護する。

東川は鴨川が流れており、北側の大文字山から南側の稲荷山が連なり、“青龍”(せいりゅう)が守護する。

西道は山陽道と山陰道の起点となり、北側の嵐山から南側の松尾山が連なり、“白虎”(びゃっこ)が守護する。

南海は伏見の向島から久御山(くみやま)の周辺にかつては大きな湖の巨椋池(おぐらいけ)があり、“朱雀”(すざく)が守護する。

この“風水”と“四神相応”(しじんそうおう)に基づき、南北5.2km、東西4.5kmの街区を形成し、東西路が北方から一条から九条まで並び、南北路は中央に幅員84mの朱雀大路(すざくおおじ)が貫き、左京(東方)に中央側より一坊(いちぼう)から四坊(しぼう)が並び、右京(西方)に中央側より一坊(いちぼう)から四坊(しぼう)が並ぶ。

この一坊(いちぼう)の坊(ぼう)は、田の字の四区画に区切られ一保(いちほ)から四保(よんほ)までの保(ほ)と呼ばれた。

そして保(ほ)も田の字の四区画に区切られ町(ちょう)となり、一坊(いちぼう)は四保(よんほ)で十六町(じゅうろくちょう)となる。

ここから一町(いちちょう)を南北に四行、東西を八門に分けて三十二の宅地を造成して建物を配置した。

これにより碁盤の目状に路地が組み合わさる条坊制(じょうぼうせい)が採られた。

朱雀大路(すざくおおじ)の北方には大内裏(だいだいり)が設けられ、天皇が政治の執務を実施していた。

朱雀大路(すざくおおじ)の南方には羅城門(らじょうもん/羅生門)が構えられ、此処(ここ)が平安京の正門となる。

ただ、この平安京には寺院の建立(こんりゅう)に対して原則は認めず、羅城門(らじょうもん/羅生門)の東方に東寺(とうじ)、西方に西寺(さいじ)のみが建立(こんりゅう)された。

この平安京を現代の京都に当てはめてみると、朱雀大路(すざくおおじ)はJR嵯峨野線を中心に、北方は今出川通の少し南側の一条通、東方は河原町通辺りの鴨川、西方は桂川や西京極あたりの葛野大路通(かどのおおじとおり)、南方は一部が国道1号線と被る九条通となる。

京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄。

これくらいの知識を頭に入れて、京都にお越しやすぅ〜

京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄。

平安京の成り立ちを知らない観光客は、ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどぉすぅ〜

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/03/19 (Thu) 10:39:38

「♪京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄:参番」

平安京を基礎となす京都は、東西と南北の通りで構成される碁盤の目の都市である。

東西の通りを北側から順に並べて、京都御所の南側の通りから、丸太町通、竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通。

まるたけえびすに、おしおいけ〜

そして二条城の南側の通りから、御池通、姉小路通、三条通、六角通、蛸薬師通、錦小路通。

あねさんろっかく、たこにしき〜

京都の主要通りの四条通、綾小路通、仏光寺通、高辻通、松原通、万寿寺通。

しあやぶったか、まつまんごじょう〜

国道1号線の五条通、雪駄屋町通(楊梅通)、鍵屋町通、銭屋町通(的場通)、魚の棚通(六条通)、三哲通(塩小路通)。

せったちゃらちゃら、うおのたな〜

ろくじょうさんてつ、とおりすぎ〜

京都駅の北側の七条通、南側の八条通。

ひっちょうこえれば、はっくじょう〜

東寺がある通りの九条通、任天堂の本社がある十条通となる。

じゅうじょうとうじで、とどめさす〜

続いて縦筋の碁盤の目で構成される京都の南北を走る通り。

現在の主要道路と言えるのが、京都一番の繁華街を貫く河原町通。

その西側から寺町通、御幸町通、麩屋町通、富小路通、柳馬場通、堺町通、高倉通、間之町通、東洞院通、車屋町通。

てらごこ、ふやとみ、やなぎさかい〜

たかあい、ひがし、くるまやちょう〜

そして京都御所の西側から東本願寺の東側を通り京都駅まで下る烏丸通が始まり、両替町通、室町通、衣棚通、新町通、釜座通、西洞院通、小川通、油小路通、醒ヶ井通。

からすりょうがえ、むらごろも〜

しんまち、かまんざ、にしおがわ〜

あぶらさめがいで、ほりかわのみず〜

京都市内の南北通りで一番広く、二条城や西本願寺の東側を通る堀川通、そして葭屋町通、猪熊通、黒門通。

よしやいのくろ、おおみやへ〜

阪急の四条大宮駅前を通り京都駅西側の梅小路公園を横目にJRの線路を高架橋で跨ぐ大宮通、松屋町通、日暮通、智恵光院通、浄福寺通。

まつひぐらしに、ちえこういん〜

最後に平安京の主軸の朱雀大路と朱雀門があったJRの二条駅の東側から真南に下がる千本通。

じょうふくせんぼん、さてにしじん〜

京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄。

これくらいの知識を頭に入れて、京都にお越しやすぅ〜

京乃都(きょうのみやこ)、平安京の唄。

平安京の成り立ちを知らない観光客は、ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどぉすぅ〜

Re: ◆2026年/大阪ホットナンバー4(フォー)ミュージック◆ - ラジオの友

2026/05/22 (Fri) 06:35:44

「♪環境と税金に優しい、“いしん”を掛けた大阪電気(EV)バス!」

大都会の大阪の街中を元気に走る大阪電気(EV)バス。

朝の通勤通学に、夜の帰宅に、飲み過ぎの午前様に、大阪人の足となり不休で走り続ける。

24時間365日、南北に東西に縦横無尽に走り続けても、ビクともしない超強靭の大阪電気(EV)バスだ。

それでも故障はしない安全安心の設計と製造さ。

そんな大阪電気(EV)バスは信用信頼できる中国製。

ありがとう中国大陸、ありがとう毛沢東。

“いしん”を掛けて大阪電気(EV)バスは、中国の植民地の大阪を網羅して元気よく走るよ。

環境と税金に優しい、“いしん”を掛けた大阪電気(EV)バス!

他の自治体も大阪と同様に、中国製の電気(EV)バスを導入しよう!!

“いしん”を掛けて大阪電気(EV)バスは、中華民族の奴隷の大阪人を乗せて生き生き走るよ。

環境と税金に優しい、“いしん”を掛けた大阪電気(EV)バス!

絶対に損はしまへぇんでぇ〜

今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:24:44

◆◇◆其の一:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の国人(こくじん)だった木曾義康(きそよしやす/木曾→武田)に、1540年に息子の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)が誕生した。

この頃の信濃国(長野県)が有力な大名や武将は存在しておらず、各々の領地に国人(こくじん)が統治していた。

ただ、信濃国(長野県)の北部に春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点とする上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が越後国(新潟県)と越中国(富山県)を統治していた。

信濃国(長野県)の南部に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とする武田信玄(たけだしんげん/武田)が甲斐国(山梨県)を統治していた。

そんな中で、信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の木曾義康(きそよしやす/木曾→武田)は、“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”を家訓として、息子の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)に直伝(じきでん)していた。

1542年に、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は勢力拡大の為に、信濃国(長野県)へ侵攻を開始していた。

当初は信濃国(長野県)の国人(こくじん)連携して武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍と対立姿勢を示していた。

ところが軍事力や戦術など武田軍との圧倒的な差から、信濃国(長野県)の国人(こくじん)の連合軍は完膚(かんぷ)なきまで叩きののめされた。

そして信濃国(長野県)の諏訪地方に建つ上原城(うえはらじょう/茅野)の城主の諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)に侵攻した。

その時の総大将が武田信繁(たけだのぶしげ/武田)で、副大将が板垣信方(いたがきのぶかた/武田)だった。

諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)が率いる諏訪軍が防御する上原城(うえはらじょう/茅野)は、武田軍の猛攻撃で落城した。

諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は近隣に建つ桑原城(くわばらじょう/諏訪)に逃亡した。

武田信繁(たけだのぶしげ/武田)と板垣信方(いたがきのぶかた/武田)が率いる武田軍は追撃して、桑原城(くわばらじょう/諏訪)に猛攻撃を仕掛けて陥落させた。

こうして諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は捕縛(ほばく)されて、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に拘引(こういん)され、武田信玄(たけだしんげん/武田)に突き出された。

その数日後に諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は切腹して自決した。

この諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)の娘の諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)は才色兼備(さいしょくけんび)であり、武田信玄(たけだしんげん/武田)が一目惚れして側室に迎えた。

この時に諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)を受け入れる様に進言したのが山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)だった。

その山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)の思惑は、『武田信玄(たけだしんげん/武田)と訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)に息子が誕生すれば、その息子を信濃国(長野県)の諏訪地方の領主に据え置き、上原城(うえはらじょう/茅野)の城主に就任させれば、領民も受け入れる。』と言うものだったんだ

この時に敵陣の総大将の娘を甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に招き入れる事に、多くの武田軍の家臣団は反対した。

万が一でも遺恨(いこん)が残る諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)による父親の仇討ちがある危険性が及ぶ可能性がある。

しかし、そんな事は気にも留めない武田信玄(たけだしんげん/武田)と訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)に、1546年に息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)が誕生した。

TERENCE TRENT D'ARBY /♪ HEARTBREAK HOTEL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:25:57

◆◇◆其の二:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

1545年に、信濃国(長野県)の守護代で林城(はやしじょう/松本)の城主の小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)に総攻撃を仕掛けた。

圧倒的な軍事力の武田軍に惨敗した小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)は、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の所に逃亡した。

武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称する長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)を快(こころよ)く受け入れた。

1550年に、信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)や砥石城(といしじょう/上田)の城主だった村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)に侵攻した。

ところが圧倒的な軍事力の武田軍だったが、村上軍が防衛する砥石城(といしじょう/上田)を総攻撃しても落城させる事はできず、後方の葛尾城(かつらおじょう/埴科)から出陣した村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる村上軍本隊に挟み討ちにされ、逆に返り討ちに遭い武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は惨敗した。

この合戦で武田軍の多くの有力武将が戦死して、これを“砥石崩れ”(といしくずれ)と呼ぶ。

しかし1551年に、信濃国(長野県)の武将で“武田二十四将”と呼ばれる真田幸綱(さなだゆきつな/武田)が、武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して砥石城(といしじょう/上田)の攻略を名乗り出た。

こうして真田幸綱(さなだゆきつな/武田)は、砥石城(といしじょう/上田)を防衛する村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の家臣に詭計(きけい)を仕掛けて寝返らせ、砥石城(といしじょう/上田)を1日で陥落させた。

敗北した村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の所に逃亡した。

武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称する長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)を快(こころよ)く受け入れた。

これが起因して“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と、“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)の因縁の対決が始まる。

SAMMY HAGAR /♪ LITTLE WHITE LIE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:27:01

◆◇◆其の三:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

信濃国(長野県)の戦況悪化に伴い、木曾義康(きそよしやす/木曾→武田)は1555年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍に降伏した。

信濃国(長野県)の木曾軍が甲斐国(山梨県)の武田軍に帰属(きぞく)した事で、“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”が一時的には確約された。

武田氏一門に従属(じゅうぞく)した証として、木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の眞龍院(しんりゅういん/武田→織田→徳川)を妻に娶る。

信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の領土を安堵(あんど)された木曾義康(きそよしやす/木曾→武田)と木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は、飛騨国(岐阜県)と美濃国(岐阜県)の武田軍の前衛砦としての役目を期待していた。

武田信玄(たけだしんげん/武田)は謀反(むほん)防止の為に、木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の母親と側室と息子を人質として甲斐国(山梨県)に取られている。

その後は木曾義康(きそよしやす/木曾→武田)と木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)が率いる武田軍木曾軍隊は、飛騨国(岐阜県)と美濃国(岐阜県)の国人(こくじん)などと合戦を繰り広げていた。

1571年に、京都の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)が、日本各地の有力武将に織田信長(おだのぶなが/織田)の討伐を威令(いれい)する信書を送達した。

1572年に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる3万人余りの武田軍は、先ずは織田信長(おだのぶなが/織田)と同盟を締結する三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の領国の遠江国(静岡県)に侵攻した。

これに対して遠江国(静岡県)の浜松城(はままつじょう)から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる2万人余りの徳川軍が出陣した。

そして浜松城(はままつじょう)の北部に位置する三方ヶ原(みかたがはら)にて、3万人余りの武田軍と2万人余りの徳川軍は合戦を繰り広げた。

ここで武田信玄(たけだしんげん/武田)の得意な戦略や陣形で、徳川軍を翻弄させて圧勝した。

惨敗した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、命からがら浜松城(はままつじょう)に逃げ帰った。

これを1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)と呼ぶ。

戦勝で勢いづく武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、三河国(愛知県)に入り徳川軍のお城を次々に落城させていた。

ところが1573年に、武田信玄(たけだしんげん/武田)の病気が悪化して、甲斐国(山梨県)へ帰路に着いている三河街道の道中で急死した。

この武田信玄(たけだしんげん/武田)の死去は、重鎮家臣だけに知らされて、武田信玄(たけだしんげん/武田)の遺言により3年間は他言厳禁にされた。

しかし、その武田信玄(たけだしんげん/武田)が亡くなった情報は、武田軍に入り込んだ間諜(かんちょう)により、直ぐに織田信長(おだのぶなが/織田)や徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)など日本各地の武将に知れる事になる。

Dr. Duke Tumatoe/♪ You've Got the Problem

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:28:10

◆◇◆其の四:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

1573年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去した事により、家督継承者の武田勝頼(たけだかつより/武田)が武田氏の17代目当主に就任した。

織田徳川軍に対して数々の戦勝に勢い付く武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる1万5千人の武田軍は、このまま西上作戦を継続させた。

そして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の領国でもある三河国(愛知県)にまで進軍した。

暫くすると設楽原(したらがはら)に織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる3万8千人の織田徳川軍が、陣営を設けて布陣した。

其処(そこ)には武田軍の騎馬隊への対策としてに木柵を設置して、その後方に鉄砲隊を3段構えで配備した。

一方の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる1万5千人の武田軍も、陣営を設けて布陣した。

しかし、武田勝頼(たけだかつより/武田)や有力武将は、想定外の大軍勢の織田徳川軍に驚愕した。

この大軍勢の織田徳川軍を観た“武田四天王”と呼ばれた山県昌景(やまがたまさかげ/武田)と、馬場信春(ばばのぶはる/武田)と、内藤昌豊(ないとうまさとよ/武田)は戦況は不利と判断して、武田氏の17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)に撤退を示唆(しさ)したが、これを武田勝頼(たけだかつより/武田)は却下し進軍を指示した。

こうして合戦の合図の法螺貝(ほらがい)が設楽原(したらがはら)に響き渡り、両陣営が死闘を繰り広げた。

名門の武田軍の騎馬隊が突進すると、織田徳川軍の3段構えで配備した鉄砲隊が次々と撃ち倒していった。

更に“徳川四天王”の酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)が率いる軍隊が、深夜に山間部を迂回しながら武田軍の陣営に奇襲を仕掛けて大混乱に陥らせた。

この合戦で武田軍の有力武将で“武田四天王”と呼ばれる“赤備え”(あかぞなえ)の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)と馬場信春(ばばのぶはる/武田)と内藤昌豊(ないとうまさとよ/武田)では討死した。

総大将の武田勝頼(たけだかつより/武田)は命かながら戦地から敗走し、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)まで逃亡した。

こうして織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が勝利した。

これを1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)と呼ぶ。

EARL KING /♪ LOVE ME NOW

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:29:12

◆◇◆其の五:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、尾張国(愛知県)と美濃国(岐阜県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と遠江国(とおとうみ/静岡県)と三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と提携する事を決定した。

此(こ)れにより甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)は絶体絶命に陥る。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に講和交渉を持ち掛けるも完全に拒否された。

心機一転する為に武田勝頼(たけだかつより/武田)は、1575年に甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)から、山奥深い新府城(しんぷじょう/韮崎)に移転した。

信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の国人(こくじん)だった木曾義康(きそよしやす/木曾→武田)が1579年に死去した。

そして1574年に遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川に建つ高天神城(たかてんじんじょう/掛川)を、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍に奪取(だっしゅ)された徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は奪還(だっかん)を目指して徳川軍を出陣させた。

1581年に遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川にて第2次の「高天神城の戦」(たかてんじんじょうのたたかい)では、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍が、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の家臣でその後に武田軍に属していた岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)が居城する高天神城(たかてんじんじょう/掛川)を攻撃した。

岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)は武田勝頼(たけだかつより/武田)に援軍の要請をしていたが、当の武田勝頼(たけだかつより/武田)は相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が甲斐国(山梨県)に侵攻してくる抑えで、援軍を出す余裕はなかった。

此(こ)の家臣を見捨てた対応が、武田勝頼(たけだかつより/武田)の評価を一段と下げる要因となる。

いつまで待っても援軍が来ない岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)は高天神城(たかてんじんじょう/掛川)で篭城しつつも、駿河国(静岡県)の今川時代に旧知の間柄の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に和睦の交渉を持ち掛けた。

しかし、総大将の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、第2次の「高天神城の戦」(たかてんじんじょうのたたかい)を実行する際に、織田信長(おだのぶなが/織田)から2項目を理由に武田勝頼(たけだかつより/武田)の武田軍と和睦を禁止して、高天神城(たかてんじんじょう/掛川)の武田軍を殲滅(せんめつ)させる様に指示が出ていた。

①:武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍が、高天神城(たかてんじんじょう/掛川)に援軍を出しても、既に軍隊は弱体化しており総攻撃を仕掛ければ壊滅させる事ができる。

②:武田勝頼(たけだかつより/武田)が、高天神城(たかてんじんじょう/掛川)に援軍を出さなければ、武田軍の内部に同様が走り、多くの武将や兵士の離反や出奔(しゅっぽん)が必ず出る。

この2項目の理由から和睦は禁止されていた。

こうして絶望した岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)が率いる武田軍は、高天神城(たかてんじんじょう/掛川)から飛び出して徳川軍に最後の突撃を開始した。

これに抗戦した大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)が率いる徳川軍は、武田軍を撫斬り(なでぎり/根切り)にして、大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)は岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)を斬首した。

こうして高天神城(たかてんじんじょう/掛川)は落城して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川の領土を失地奪還(しっちだっかん)した。

JOAN ARMATRADING /♪ A WOMAN IN LOVE

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:30:13

◆◇◆其の六:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

織田信長(おだのぶなが/織田)の想定通りに、武田勝頼(たけだかつより/武田)が高天神城(たかてんじんじょう/掛川)を援軍を出さなかった事で、求心力が下がった武田軍の多くの武将や兵士の離反や出奔(しゅっぽん)が続出した。

そして1582年に、織田信長(おだのぶなが/織田)の伝令(でんれい)により、武田勝頼(たけだかつより/武田)の武田軍を殲滅(せんめつ)させる甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始された。

此(こ)れにより織田信長(おだのぶなが/織田)の長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍が、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)に向けて出陣した。

怒涛の勢いで次々に武田軍の領地を攻略する織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍に対して、なす術(すべ)の無い弱体化した武田軍だった。

この時に織田信長(おだのぶなが/織田)の息子の織田信忠(おだのぶただ/織田)から、木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)に宛てて信書が送達された。

内容は⦅武田軍から織田軍に加勢して欲しい。⦆との寝返りの嘆願(たんがん)だった。

しかし、甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)の元には、木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の母親と側室と息子が人質に取られており、織田軍に寝返えれば撫斬り(なでぎり/根切り)にされる事は間違いない。

ただ、“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”の家訓を遵守する事で、織田信長(おだのぶなが/織田)に帰属(きぞく)する事を決定する。

“武田二十四将”に指名された武田信君(たけだのぶただ)こと穴山信君(あなやまのぶただ/武田→織田)や、信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の武将の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は、早速に織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返った。

因みに木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の妻の眞龍院(しんりゅういん/武田→織田→徳川)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘である。

この木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の裏切りに激怒した武田勝頼(たけだかつより/武田)は、人質に取っていた木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の母親と側室と息子を撫斬り(なでぎり/根切り)にした。

そして武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は、信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)が率いる木曾軍と交戦した。

しかし木曾軍に織田軍の援軍が加勢して、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は惨敗した。

TOM ROBINSON BAND /♪ BETTER DECIDE WHICH SIDE YOU'RE ON

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:31:15

◆◇◆其の七:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

そんな時期に上野国(こうずけ/群馬県)と信濃国(長野県)に跨(またが)る浅間山(あさまやま)が大噴火を起こした。

この頃の火山の噴火は吉凶(きっきょう)とされておりにて、心身衰弱した武田軍の兵士は更に士気が低下した。

一層の窮地に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより/武田)だった。

そこで手を差し伸べたのが、“武田二十四将”に指名された真田幸綱(さなだゆきつな/武田)を父親に持つ、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)と上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)の城主だった真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)である。

真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して、一先ず上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)に身を隠す様に提案した。

ただ此処(ここ)で武田勝頼(たけだかつより/武田)の家臣が、上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)は大噴火を起こした浅間山(あさまやま)から近い事から、“武田二十四将”に指名された小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が城主を務める甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に避難する様に提案した。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は迷った挙句(あげく)に、甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に避難する事を決定する。

この決断が武田勝頼(たけだかつより/武田)と武田氏の運命を決定付けた。

遥々(はるばる)に武田勝頼(たけだかつより/武田)が甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に到着して、城主の小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)に開門を求めたところ拒否された。

既に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返っていた。

こうして八方塞(はっぽうふさ)がりとなった武田勝頼(たけだかつより/武田)は、甲斐国(山梨県)の甲州にそびえる天目山(てんもくざん)にて、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の娘で武田勝頼(たけだかつより/武田)の妻の北条夫人(ほうじょうふじん)こと桂林院(けいりんいん/伊勢北条→武田)と、息子の武田信勝(たけだのぶかつ/武田)らと共に自決した。

GRACE POTTER & THE NOCTURNALS /♪ AH MARY

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:32:25

◆◇◆其の八:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”の家訓を遵守した木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に帰属(きぞく)した。

この時の功績と武功(ぶこう)で木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)は、織田信長(おだのぶなが/織田)より論功行賞(ろんこうこうしょう)として、信濃国(長野県)の領土を拡張し深志城(ふかしじょう/松本城)の城主に任命された。

ところが同年の1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)が、家臣の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により横難横死(おうなんおうし)する。

三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)と、越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)による、三つ巴(みつどもえ)の勢力争いが繰り広げられる。

目的は1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)の織田軍の侵攻で武田勝頼(たけだかつより/武田)が自決した事で、武田氏が滅亡した事により、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)と駿河国(静岡県)の領国を巡る合戦だった。

この時に信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)に加勢した。

“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”の家訓を遵守する事で、伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢)に帰属(きぞく)する事を決定する。

ただ、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が戦況有利になると、木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に加勢した。

“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”の家訓を遵守する事で、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に帰属(きぞく)する事を決定する。

戦況は三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)の講和条約に締結した事で終戦した。

これを1582年に起こった「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)と呼ぶ。

その後に、織田軍を継承し天下統一を果たす豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に対して、織田信長(おだのぶなが/織田)の次男の織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の織田徳川軍が対立した。

この時に信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は、何故(なぜ)か豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に加勢した。

“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”の家訓を遵守する事で、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)に帰属(きぞく)する事を決定する。

戦況は織田徳川軍が優勢だったが、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の調略(ちょうりゃく)により織田信雄(おだのぶかつ/織田→豊臣→徳川)が降伏し、引き分けで幕を閉じる。

これを1584年に起こった「小牧長久手の戦」(こまきながくてのたたかい)と呼ぶ。

この合戦の後に、信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は、何故(なぜ)か徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の徳川軍に臣従(しんじゅう)した。

“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”の家訓を遵守する事で、何故(なぜ)か徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に帰属(きぞく)する事を決定する。

DJ SHADOW /♪ THIS TIME (I'M GONNA TRY MY WAY)

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:33:27

◆◇◆其の九:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)

時は過ぎ去り、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣軍は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)を征伐する為に、大軍勢で難攻不落の小田原城(おだわらじょう)を包囲した。

こうして伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は自決し、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は投降した。

これを1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)と呼ぶ。

この合戦で天下統一をほぼ果たした豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の豊臣政権は最盛期を迎える。

この時に三河国(愛知県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)の領主だった徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、主君の豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)の威令(いれい)により、関東一円に領地移転の転封(てんぽう)となる。

こうして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の陪臣(ばいしん)だった木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)も、信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)から下総国(しもうさ/千葉県)の阿知戸(あじど/旭)に領地移転の転封(てんぽう)となり、網戸城(あじどじょう/旭)の城主に就いた。

“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”の家訓を遵守する事で移封(いほう)を決定する。

1595年に下総国(しもうさ/千葉県)の網戸城(あじどじょう/旭)にて、木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は死去した。

ところが家督継承者で息子の木曾義利(きそよしとし/織田→徳川)は、木曾義利(きそよしとし/織田→徳川)は、叔父惨殺など奸邪(かんじゃ)で悪辣(あくらつ)な素行により、1600年に領地没収の改易(かいえき)となった。

父親の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)から直伝(じきでん)した“未来永劫(みらいえいごう)による木曾家一門の永続”の家訓は、息子の木曾義利(きそよしとし/織田→徳川)には響かなかった。

AMERIE /♪ WHY DON'T WE FALL IN LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:34:33

◆◇◆其の十:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)

甲斐国(山梨県)の郡内(ぐんない/都留)の国人(こくじん)だった小山田信有(おやまだのぶあり/小山田→武田)は、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とする武田氏の15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と対立していた。

しかし1510年に、武田信虎(たけだのぶとら/武田)が率いる武田軍の猛攻撃に遭い、小山田信有(おやまだのぶあり/小山田→武田)は降伏して武田軍に従属(じゅうぞく)した。

1541年に武田信虎(たけだのぶとら/武田)は、息子の武田信玄(たけだしんげん/武田)により甲斐国(山梨県)から追放された。

こうして甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は勢力拡大の為に、信濃国(長野県)へ侵攻を開始していた。

小山田信有(おやまだのぶあり/小山田→武田)には2人の息子が居り、嫡男(ちゃくなん)で兄の小山田弥三郎(おやまだやさぶろう)こと小山田信有(おやまだのぶあり/武田)と、1539年に誕生した弟の小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)である。

1552年に父親の小山田信有(おやまだのぶあり/小山田→武田)が死去する。

家督継承者の小山田弥三郎(おやまだやさぶろう)こと小山田信有(おやまだのぶあり/武田)が当主となったが、1565年に死去してしまう。

こうして家督継承者は弟の小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が引継ぐ事になる。

1553年に起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて、越後国(新潟県)の“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)とに合戦にも、小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が率いる武田軍小山田隊は参戦している。

1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)を拠点にする今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻して制圧した。

この時も小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が率いる武田軍小山田隊は、甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)から出陣して、駿河国(静岡県)で今川軍と交戦した。

幾つもの合戦で功績や武功(ぶこう)を挙げた小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は、主君の武田信玄(たけだしんげん/武田)から重用(ちょうよう)され、“武田二十四将”(たけだにじゅうししょう)に指名される程の武田軍では主要な武将となっていた。

また、聡明(そうめい)な小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は文武両道(ぶんぶりょうどう)に長け、敵陣との講和交渉などの外交の能力も高かった。

“武田四天王”で“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍を率いた山県昌景(やまがたまさかげ/武田)の信用信頼も厚かった。

MAVIS STAPLES /♪ HAVE A LITTLE FAITH

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:35:33

◆◇◆其の十一:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)

1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)にて、武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍に猛攻撃を仕掛けて圧勝した。

しかし、その直後の1573年に遠征先の三河国(愛知県)から帰還する道中で、武田信玄(たけだしんげん/武田)は死去する。

その後、武田氏の17代目当主に武田勝頼(たけだかつより/武田)が就任した。

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍に猛攻撃を仕掛けて惨敗した。

強靭な武田軍と言われていたが、この「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)での敗北により武田軍の家臣に動揺が走る。

1581年に起こった第2次の「高天神城の戦」(たかてんじんじょうのたたかい)にて、岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)が率いる武田軍は高天神城(たかてんじんじょう/掛川)で篭城していたが、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍に猛攻撃を仕掛けて惨敗した。

これにより岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)は討死した。

この時に岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)は、武田勝頼(たけだかつより/武田)に援軍の要請をしていたが、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)との合戦で、兵士を割く事ができず援軍を出さなかった。

これが武田軍の致命的な決定打となり、武田軍の家臣の離反(りはん)や出奔(しゅっぽん)が相次いだ。

RANDY MEISNER /♪ BAD MAN

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:36:33

◆◇◆其の十二:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)

そんな中での1582年に、織田信長(おだのぶなが/織田)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始される。

こうして信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の武将の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)や、“武田二十四将”に指名された武田信君(たけだのぶただ)こと穴山信君(あなやまのぶただ/武田→織田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返った。

織田信長(おだのぶなが/織田)の息子の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍は、信濃国(長野県)と甲斐国(山梨県)の武田軍の領域に猛攻撃を仕掛けた。

怒涛の勢いで次々に武田軍の領地を攻略する織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍に対して、なす術(すべ)の無い弱体化した武田軍だった。

そんな時期に上野国(こうずけ/群馬県)と信濃国(長野県)に跨(またが)る浅間山(あさまやま)が大噴火を起こした。

この頃の火山の噴火は吉凶(きっきょう)とされておりにて心身衰弱した武田軍の兵士は、更に士気が低下した。

一層の窮地に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより/武田)だった。

そこで手を差し伸べたのが、“武田二十四将”に指名された真田幸綱(さなだゆきつな/武田)を父親に持つ、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)と上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)の城主だった真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)である。

真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して、一先ず上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)に身を隠す様に提案した。

ただ此処(ここ)で武田勝頼(たけだかつより/武田)の家臣が、上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)は大噴火を起こした浅間山(あさまやま)から近い事から、“武田二十四将”に指名された小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が城主を務める甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に避難する様に提案した。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は迷った挙句(あげく)に、甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に避難する事を決定する。

この決断が武田勝頼(たけだかつより/武田)と武田氏の運命を決定付けた。

遥々(はるばる)に武田勝頼(たけだかつより/武田)が甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に到着して、城主の小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)に開門を求めたところ拒否された。

更に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)の小山田軍の鉄砲隊が、主君でもある武田勝頼(たけだかつより/武田)に向けて一斉に射撃した。

既に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返っていた。

こうして八方塞(はっぽうふさ)がりとなった武田勝頼(たけだかつより/武田)は、甲斐国(山梨県)の甲州にそびえる天目山(てんもくざん)にて、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の娘で武田勝頼(たけだかつより/武田)の妻の北条夫人(ほうじょうふじん)こと桂林院(けいりんいん/伊勢北条→武田)と、息子の武田信勝(たけだのぶかつ/武田)らと共に自決した。

その後の1582年に、小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は織田軍の陣営に赴(おもむ)き、織田信長(おだのぶなが/織田)の息子の織田信忠(おだのぶただ/織田)と謁見(えっけん)したが、主君の武田氏を裏切った不忠(ふちゅう)と不義(ふぎ)を理由に斬首された。

現代まで続く歴史でも、小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は“不忠者”(ふちゅうもの)や“戦国時代で最も卑劣な武将”と呼ばれている。

ただ、これが戦国時代でもある。

DREAM CAPTURE /♪ SAY WHAT YOU WANT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:37:34

◆◇◆其の十三:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)

戦国時代で最強と言われる武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、負け知らずの合戦で知られる。

ただ、そんな天賦(てんぶ)な武田信玄(たけだしんげん/武田)も3回の敗戦を味わい、その内の2回は信濃国(長野県)の村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)との合戦である。

信濃国(長野県)の北部の武将で清和源氏の信濃村上氏の系統の村上顕国(むらかみあきくに/室町→ 村上)と、室町幕府の三管領(さんかんれい)で越前国(福井県)と尾張国(愛知県)と遠江国(静岡県)の守護大名の斯波義寛(しばよしひろ/室町→東軍)の娘が母親の元で、1501年に村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は誕生した。

名門家の血統を引き継ぐ村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、父親の村上顕国(むらかみあきくに/室町→ 村上)から武道や学術の直伝(じきでん)を受けて武将としての鍛錬する。

1516年に村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、成人の儀式の稚児姿(ちごすがた)から烏帽子親(えぼしおや)に烏帽子(えぼし)を被せられる元服(げんぷく)を受ける。

1518年に父親の村上顕国(むらかみあきくに/室町→ 村上)から村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)に、信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)の城主を任せられる。

1520年に父親の村上顕国(むらかみあきくに/室町→ 村上)が死去して、家督継承者の村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が当主を引継ぐ。

この時期の信濃国(長野県)では、有力な戦国武将が存在しない小規模な国人(こくじん)が乱立しており、その中で合戦が繰り広げられていた。

そこで信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)を拠点とする村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とする武田氏の15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と提携した。

1541年に信濃国(長野県)の北部に位置する小県(ちいさがた/上田)で起こった「海野平の戦」(うんのたいらのたたかい)にて、地元の真田幸綱(さなだゆきつな/武田)や国人(こくじん)の真田軍と、甲斐国(山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と信濃国(長野県)の村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる武田村上軍が合戦を繰り広げた。

戦況は武田信虎(たけだのぶとら/武田)と村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる武田村上軍が圧勝し、敗北した真田幸綱(さなだゆきつな/武田)は上野国(こうずけ/群馬県)に逃亡した。

こうして村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、信濃国(長野県)の小県(ちいさがた/上田)の一部を領域にする事ができた。

しかし、その直後の1541年に提携先だった武田氏の15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)が、息子の武田信玄(たけだしんげん/武田)などの謀反(むほん)により甲斐国(山梨県)から追放された。

こうして武田氏の16代目当主に武田信玄(たけだしんげん/武田)が就任した。

JAMES ARTHUR /♪ BLINDSIDE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:38:38

◆◇◆其の十四:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)

武田信玄(たけだしんげん/武田)は、父親の武田信虎(たけだのぶとら/武田)が築いた政策や提携を刷新(さっしん)した。

そして1542年から武田信玄(たけだしんげん/武田)は勢力拡大の為に、信濃国(長野県)へ侵攻を開始する。

1548年に信濃国(長野県)の小県(ちいさがた/上田)の上田原(うえだはら)で起こった「上田原の戦」(うえだはらのたたかい)にて、武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍の侵攻に対して、村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる村上軍は抗戦した。

戦況は村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる村上軍が圧勝し、武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は惨敗した。

この「上田原の戦」(うえだはらのたたかい)で、武田軍の有力武将だった甘利虎泰(あまりとらやす/武田)と板垣信方(いたがきのぶかた/武田)が戦死している。

続いて1550年に再び武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)や砥石城(といしじょう/上田)の城主だった村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)に侵攻した。

ところが圧倒的な軍事力の武田軍だったが、村上軍が防衛する砥石城(といしじょう/上田)を総攻撃しても落城させる事はできず、後方の葛尾城(かつらおじょう/埴科)から出陣した村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる村上軍本隊に挟み討ちにされ、逆に返り討ちに遭い武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は惨敗した。

この武田軍の敗北時に山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は殿(しんがり)を務めて、武田信玄(たけだしんげん/武田)の逃亡を導いている。

この合戦で武田軍の多くの有力武将が戦死して、これを“砥石崩れ”(といしくずれ)と呼ぶ。

この2回の合戦が、武田信玄(たけだしんげん/武田)が敗戦した3回の内の2回である。

しかし1551年に、信濃国(長野県)の武将で“武田二十四将”と呼ばれる真田幸綱(さなだゆきつな/武田)が、武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して砥石城(といしじょう/上田)の攻略を名乗り出た。

こうして真田幸綱(さなだゆきつな/武田)は、砥石城(といしじょう/上田)を防衛する村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の家臣に詭計(きけい)を仕掛けて寝返らせ、砥石城(といしじょう/上田)を1日で陥落させた。

1541年に起こった「海野平の戦」(うんのたいらのたたかい)にて、村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)に敗北した真田幸綱(さなだゆきつな/武田)の10年越しの執念である。

SKID ROW /♪ INTO ANOTHER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:39:44

◆◇◆其の十五:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)

敗北した村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、1553年に越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の所に逃亡した。

武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称する長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)を快(こころよ)く受け入れた。

これが起因して“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と、“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)の因縁の対決が始まる。

越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、逃亡してきた小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)と村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の要請に応えて、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を領国とした武田信玄(たけだしんげん/武田)の討伐を決行する。

越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は信濃国(長野県)の川中島(かわなかじま/長野)に流れる千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)の河川敷まで侵攻して陣営を設けて布陣した。

そして甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍も、川の対岸に陣営を設けて布陣した。

こうして1553年〜1564年までに起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)が勃発する。

ただ、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の雌雄(しゆう)は決着せずに終戦した。

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の家臣として戦地を駆け抜けた村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、上杉軍で数々の武功(ぶこう)や功績を挙げた。

こうして村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)が認められて、越後国(新潟県)の根知城(ねちじょう/糸魚川)の城主に就任した。

そして越後国(新潟県)の根知城(ねちじょう/糸魚川)にて、1573年に村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は故郷の信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)に戻る事なく死去した。

しかし、村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の家督継承者で山浦上杉氏を名乗る息子の村上景国(むらかみかげくに)こと山浦景国(やまうらかげくに/村上→上杉)は、越後国(新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の家臣として、上杉軍で数々の武功(ぶこう)や功績を挙げた。

こうして村上景国(むらかみかげくに)こと山浦景国(やまうらかげくに/村上→上杉)の鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)が認められて、1582年に起こった「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)の戦乱により、信濃国(長野県)の松代城(まつしろじょう/長野)こと海津城(かいづじょう/長野)の城代に就任した。

信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)や砥石城(といしじょう/上田)の城主だった村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)が敗戦した3回の内の2回が“砥石崩れ”(といしくずれ)などの村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)による交戦だった。

Chad Kroeger & Joseph Scott /♪ HERO

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:40:50

◆◇◆其の十六:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●滅亡した武田氏と生き残った武田家

清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏。

戦国時代に甲斐国(山梨県)の名門武家である武田氏の15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と、“甲斐の虎”と呼ばれた16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)と、17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)に引き継がれた。

しかし、1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)の伝令(でんれい)により、武田勝頼(たけだかつより/武田)の武田軍を殲滅(せんめつ)させる甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始された。

こうして武田勝頼(たけだかつより/武田)は、甲斐国(山梨県)の甲州にそびえる天目山(てんもくざん)にて、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の娘で武田勝頼(たけだかつより/武田)の妻の北条夫人(ほうじょうふじん)こと桂林院(けいりんいん/伊勢北条→武田)と、息子の武田信勝(たけだのぶかつ/武田)らと共に自決した。

此(こ)れより甲斐国(山梨県)の名門武家である武田氏は滅亡した。

ただ、武田氏の16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)には7人の息子が居た。

その内の6人は甲州征伐(こうしゅうせいばつ)か、もしくは其(そ)れ以前に死去している。

では、残りの1人は誰なのか?

武田信玄(たけだしんげん/武田)の末っ子の武田信勝(たけだのぶかつ/武田→上杉)で、甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の時に僧侶に変装して紀伊国(和歌山県)の高野山(こうやさん)に逃亡し生き残った。

その後に武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘で、武田信勝(たけだのぶかつ/武田→上杉)の姉の菊姫(きくひめ/武田→上杉)を頼り、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)に赴(おもむ)いた。

菊姫(きくひめ/武田→上杉)の夫で上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の元に身を寄せて、武田信勝(たけだのぶかつ/武田→上杉)は上杉軍の家臣となった。

その後に豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が天下統一を果たすと、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は陸奥国(むつ/福島県)の鶴ヶ城(つるがじょう/会津若松城)に領地移転の転封(てんぽう)となった。

そして1600年に起こった「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)と「関ヶ原の戦」(せきがはらのたたかい)にて、西軍に就いた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)は敗北により、勝者の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)から出羽国(でわ/山形県)の米沢城(松岬城/まつがさきじょう)に領地削減の減封(げんぽう)となった。

この主君の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の移動に付き添った武田信勝(たけだのぶかつ/武田→上杉)は、上杉氏の家臣として大きく貢献した。

羽前(うぜん/山形県)で上杉氏と共に地盤を築いた武田信勝(たけだのぶかつ/武田→上杉)は、其(しそん)れ以降も子孫が引継ぎ、明治期の1867年に起こった「明治維新」(めいじいしん)も乗り越えて、現代でも“甲斐の虎”と呼ばれた16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)の血脈の武田家は存続している。

STACY LATTISAW WITH JOHNNY GILL /♪ WHERE DO WE GO FROM HERE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260522 - ラジオの友 URL

2026/05/22 (Fri) 00:41:55

◆◇◆其の十七:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●滅亡した武田氏と生き残った武田家

甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とした、“甲斐の虎”と呼ばれた16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)には、多くの娘にも恵まれた。

1554年の「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)で締結した証として、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の妻として嫁いだ黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)は、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)が誕生した。

ただ、武田信玄(たけだしんげん/武田)の「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)の一方的な破棄で、娘の黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)は伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)と離縁し1569年に死去した。

ただ、1590年に起こった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)にて、豊臣秀吉(とよとみひでよし/織田→豊臣)が率いる豊臣軍に、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)は包囲され、小田原評定(おだわらひょうじょう)の結果で伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は自決し、伊勢北条氏5代目の北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は降伏した。

此(こ)れにより北条氏直(ほうじょううじなお/伊勢北条)は出家して紀伊国(和歌山県)の高野山(こうやさん)に入山し、その後の1591年に家督継承者の嫡男(ちゃくなん)を残す事なく死去した。

“武田二十四将”に指名された武田信君(たけだのぶただ)こと穴山信君(あなやまのぶただ/武田→織田)の妻として嫁いだ見性院(けんしょういん/武田→ 穴山)は、武田信治(たけだのぶはる)こと穴山勝千代(あなやまかつちよ/武田)が誕生した。

1582年の甲州征伐(こうしゅうせいばつ)にて、武田信君(たけだのぶただ)こと穴山信君(あなやまのぶただ/武田→織田)は織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返る。

ただ、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)し、この時に和泉国(大阪府)の堺を視察していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の御一行に同行していたが、武田信君(たけだのぶただ)こと穴山信君(あなやまのぶただ/武田→織田)は明智軍が手配した落武者狩りにより討死した。

そして息子の武田信治(たけだのぶはる)こと穴山勝千代(あなやまかつちよ/武田)も、1587年に15歳で死去した。

信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の武将の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の妻として嫁いだ眞龍院(しんりゅういん/武田→織田→徳川)は、木曾義利(きそよしとし/織田→徳川)など数人の子供が誕生した。

1582年の甲州征伐(こうしゅうせいばつ)にて、木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返る。

この木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の裏切りに激怒した武田勝頼(たけだかつより/武田)は、人質に取っていた木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の母親と側室と息子を撫斬り(なでぎり/根切り)にした。

その後の戦乱を経て、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の陪臣(ばいしん)だった木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)も、信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)から下総国(しもうさ/千葉県)の阿知戸(あじど/旭)に領地移転の転封(てんぽう)となり、網戸城(あじどじょう/旭)の城主に就いた。

ところが家督継承者で息子の木曾義利(きそよしとし/織田→徳川)は、木曾義利(きそよしとし/織田→徳川)は、叔父惨殺など奸邪(かんじゃ)で悪辣(あくらつ)な素行により、1600年に領地没収の改易(かいえき)となった。

眞龍院(しんりゅういん/武田→織田→徳川)は、夫の木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の故郷の信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)に移住した。

JEWEL /♪ STANDING STILL

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2026/05/22 (Fri) 00:42:58

◆◇◆其の十八:甲斐国(山梨県)の武田軍と敵対した武将と滅亡した武田氏◆◇◆

●滅亡した武田氏と生き残った武田家

武田信玄(たけだしんげん/武田)の「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)の一方的な破棄で、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の動きに対抗する為に、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と提携した。

1567年に、織田信長(おだのぶなが/織田)の嫡男(ちゃくなん)で長男の11歳だった織田信忠(おだのぶただ/織田)と、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の7歳だった松姫(まつひめ)こと信松尼(しんしょうに/武田)が婚約した。

しかし1571年に、京都の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)が、日本各地の有力武将に織田信長(おだのぶなが/織田)の討伐を威令(いれい)する信書を送達した“第2次信長包囲網”に、武田信玄(たけだしんげん/武田)は呼応(こおう)した。

この武田信玄(たけだしんげん/武田)の裏切りに織田信長(おだのぶなが/織田)は激昂(げきこう)して、当然だが織田信忠(おだのぶただ/織田)と松姫(まつひめ)こと信松尼(しんしょうに/武田)の婚約は破談した。

此れにより松姫(まつひめ)こと信松尼(しんしょうに/武田)は、出家して仏門に入り尼僧(にそう)となった。

越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)の上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)の妻として嫁いだ菊姫(きくひめ/武田→上杉)は、子供が居なかった。

武田氏の最後の17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)は、甲斐国(山梨県)の甲州にそびえる天目山(てんもくざん)にて、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の娘で武田勝頼(たけだかつより/武田)の妻の北条夫人(ほうじょうふじん)こと桂林院(けいりんいん/伊勢北条→武田)と、息子の武田信勝(たけだのぶかつ/武田)らと共に自決した。

こうして甲斐国(山梨県)の名門武家である武田氏は滅亡した。

この時に武田勝頼(たけだかつより/武田)の息子で2歳の武田勝親(たけだかつちか/武田)は、甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の際に武田軍の家臣により相模国(神奈川県)の鎌倉に落ち延び、その後は出家して僧侶となった。

武田勝頼(たけだかつより/武田)の娘の貞姫(さだひめ/武田→徳川)は、叔母の松姫(まつひめ)こと信松尼(しんしょうに/武田)と共に武蔵国(東京都)の八王子に落ち延びた。

その後は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の家臣で江戸幕府の旗本となる宮原義久(みやはらよしひさ/徳川)の妻として嫁いだ貞姫(さだひめ/武田→徳川)は、数人の子供が誕生した。

その貞姫(さだひめ/武田→徳川)の子孫は永続し、現代でも武田氏の最後の17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)の血脈の武田家は存続している。

甲斐国(山梨県)の権門勢家(けんもんせいか)である武田氏は滅亡したが、その武田家の末裔は令和期の現代でも永続している。

武田氏の16代目当主の“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)と最後の武田氏の17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)の子孫は、未来永劫(みらいえいごう)に渡り不滅である。

FOURPLAY /♪ THE CLOSER I GET TO YOU

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2026/05/21 (Thu) 03:34:22

Jimmie Rodgers /♪ Frankie and Johnny

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2026/05/21 (Thu) 03:35:41

hiram king williams /♪ Hey Good Lookin'

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2026/05/21 (Thu) 03:36:41

JIMMY BUFFETT /♪ BANK OF BAD HABITS

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2026/05/21 (Thu) 03:37:41

NICK LOWE /♪ TOKYO BAY

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2026/05/21 (Thu) 03:38:37

RY COODER /♪ GET RHYTHM

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2026/05/21 (Thu) 03:39:37

ALAN DOYLE FEAT.COLIN JAMES /♪ TESTIFY

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2026/05/21 (Thu) 03:40:43

GRATEFUL DEAD /♪ TOUCH OF GREY

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2026/05/21 (Thu) 03:42:00

BEDOUIN SOUNDCLASH /♪ WHEN THE NIGHT FEELS MY SONG

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2026/05/21 (Thu) 03:43:07

JOAN BAEZ /♪ THE NIGHT THEY DROVE OLD DIXIE DOWN

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2026/05/21 (Thu) 03:44:11

RANDY NEWMAN /♪ RIDER IN THE RAIN

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2026/05/21 (Thu) 03:45:17

JIMMY BUFFETT /♪ SAVANNAH FARE YOU WELL

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2026/05/21 (Thu) 03:46:21

VAN MORRISON /♪ DAYS LIKE THIS

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2026/05/21 (Thu) 03:47:24

BARRY GIBB /♪ MORNING OF MY LIFE

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2026/05/21 (Thu) 03:48:27

JIM CROCE /♪ OPERATOR(THAT'S NOT THE WAY IT FEELS)

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2026/05/21 (Thu) 03:49:30

JIM CROCE /♪ I'LL HAVE TO SAY I LOVE YOU IN A SONG

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2026/05/21 (Thu) 03:50:36

KAREN PECK & NEW RIVER /♪ WHISPERED PRAYERS

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2026/05/21 (Thu) 03:51:36

The Carter Family /♪ When I'm Gone

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2026/05/21 (Thu) 03:53:38

Tex Ritter /♪ High Noon

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2026/05/20 (Wed) 06:33:29

◆◇◆其の一:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)

甲斐国(山梨県)の戦国武将である武田氏の15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と、“甲斐の虎”と呼ばれた武田氏の16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)に仕えた飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)は、剛毅果断(ごうきかだん)の武将として知られていたが、忠君愛国(ちゅうくんあいこく)とは程遠い人物でもあった。

“武田二十四将”と“甲山の猛虎”(かぶとやまのもうこ)と“赤備え”(あかぞなえ)などの名称を冠する飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)は、1504年に甲斐国(山梨県)の飯富村(いいとみむら/身延)で誕生した。

武将としての飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)は凄まじく、武田信虎(たけだのぶとら/武田)の家臣の頃の合戦では、1戦にて首級(しゅきゅう)を100首前後は挙げてくる。

1531年に梟雄(きょうゆう)の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)は、武田軍の他の武将と共に武田信虎(たけだのぶとら/武田)に対して謀反(むほん)を起こすも不首尾(ふしゅび)だったが、今までの功績や武功(ぶこう)により赦免(しゃめん)された。

しかし、1541年にも武骨者(ぶこつもの)飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)や武田軍の他の武将と共に武田信虎(たけだのぶとら/武田)に対して謀反(むほん)を起こし、甲斐国(山梨県)から追放した。

こうして“甲斐の虎”と呼ばれた武田氏の16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)に仕える事となる老獪(ろうかい)の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)であった。

1542年から武田信玄(たけだしんげん/武田)は勢力拡大の為に、信濃国(長野県)へ侵攻を開始する。

この時の合戦で活躍したのが猛将の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍である。

この時に弟もしくは甥の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)も合戦に同行させていた。

そして1553年〜1564年に起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて、甲斐国(山梨県)の“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)と、越後国(新潟県)の“越後の龍”と呼ばれた長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)とが合戦を繰り広げた。

この合戦の一部である1553年に信濃国(長野県)の内山城(うちやまじょう/佐久)に篭城する飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の800人の武田軍に対して、長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる8千人の上杉軍に包囲された。

この危機的な窮地を飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の800人の武田軍は、8千人の上杉軍を跳ね除けて勝利した。

この間に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)は連携する為に、1554年に「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)を締結した。

そして1560年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)の奇襲で駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が討死した。

此(こ)れら事変により戦国の状況や武将の戦略が大幅に変わる。

1561年の第四次の「八幡原の戦」(はちまんぱらのたたかい)では、武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は敗北し、長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍が勝利している。

そんな中でも武田軍の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の獅子奮迅(ししふんじん)な戦闘力に、長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は畏怖(いふ)したと言う。

TADDY PORTER /♪ EMMA LEE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:34:30

◆◇◆其の二:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)

飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍は、その兵士は武家の次男や三男など家督継承の予定が無い者で揃えて、失う物は何も無い“背水の陣”で闘争力を高めていた。

この飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍が猛攻撃してくる様相を、敵陣は『火の玉が攻めてくる。』と表現して恐怖で慄(おのの)いた。

此(こ)れが武田信玄(たけだしんげん/武田)の強さの象徴にもなった。

その後の武田氏は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の家督継承者として嫡男(ちゃくなん)の武田義信(たけだよしのぶ/武田)を帝王学を学ばせる為に、後見人に飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)を就けた。

ただ、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)を支持する武田信玄(たけだしんげん/武田)と、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を支持する武田義信(たけだよしのぶ/武田)が対立し始める。

1565年に武田義信(たけだよしのぶ/武田)と飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)など今川派の武将は、織田派の武田信玄(たけだしんげん/武田)の暗殺を企てる。

しかし飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の弟もしくは甥で織田派の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が、武田義信(たけだよしのぶ/武田)と飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)などの謀反(むほん)を武田信玄(たけだしんげん/武田)に密告する。

こうして飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)と一族は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の威令(いれい)により死罪となり執行された。

そして武田信玄(たけだしんげん/武田)の息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)も、1565年に武田氏から廃嫡(はいちゃく)となり、1567年に幽閉された躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)にて死去した。

この武田信玄(たけだしんげん/武田)の暗殺計画には、様々な憶測が渦巻いており、多種多様な陰謀説が存在する。

その中の2項目を考察してみる。

①:織田派の武田信玄(たけだしんげん/武田)の本人が企てた奸計(かんけい)により、今川派の武田義信(たけだよしのぶ/武田)と飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)などを粛清(しゅくせい)した。

元々は今川派の武田義信(たけだよしのぶ/武田)と飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の暗殺計画などの企ては無く、冤罪で処刑された事になる。

②:家督継承者の武田義信(たけだよしのぶ/武田)の後ろ盾を得た飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の存在感が武田軍で増して、その飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の権力拡大を危惧した武田信玄(たけだしんげん/武田)が詭計(きけい)により、謀反(むほん)を捏(でっ)ち上げて冤罪で処刑した。

この2項目の陰謀説には腑に落ちない点もあり、史実かどうかは判明できないが、令和期の今となっては想像するしかない。

ただ、武田軍の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)と言う武将は戦国時代に存在しており、伝統の“赤備え”(あかぞなえ)は、弟もしくは甥の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が引継ぎ、その後は徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の直参家臣の“徳川四天王”と呼ばれる井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)や、“大坂三人衆”(おおさかさんにんしゅう)と呼ばれた真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)も模造している。

JON SECADA /♪ IF YOU GO

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:35:28

◆◇◆其の三:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山県昌景(やまがたまさかげ/武田)

三河国(愛知県)と遠江国(とおとうみ/静岡県)を領国とする徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が最も脅威に感じていたのが、山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍である。

山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍が猛攻撃してくる様相を、敵陣は『火の玉が攻めてくる。』と表現して恐怖で慄(おのの)いた。

此(こ)れが武田信玄(たけだしんげん/武田)の強さの象徴にもなった。

そんな山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の弟もしくは甥として、甲斐国(山梨県)の飯富村(いいとみむら/身延)で誕生した。

飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)と同様に山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は、“甲斐の虎”と呼ばれた武田氏の16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)に仕える事となる。

1542年から武田信玄(たけだしんげん/武田)は勢力拡大の為に、信濃国(長野県)へ侵攻を開始する。

この時の合戦で活躍したのが猛将の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍である。

この時に弟もしくは甥の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)も合戦に同行していた。

飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)からの直伝(じきでん)を受けた山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は、積極的に先鋒隊に名乗りを上げて、先陣争いや一番槍の覇者にまで登り詰める。

この武功(ぶこう)と功績が武田信玄(たけだしんげん/武田)に認知されて、侍大将や大将に就任するなど恩顧(おんこ)を受ける。

その活躍ぶりから周囲は、『源四郎(げんしろう)の赴(おもむ)くところ敵無し。』と評した。

飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)と共に山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は武田軍の中枢を担っていたが、その後に此(こ)れが瓦解(がかい)する事になる。

武田信玄(たけだしんげん/武田)の家督継承者として嫡男(ちゃくなん)の武田義信(たけだよしのぶ/武田)を帝王学を学ばせる為に、後見人に飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)を就けた。

1565年に武田義信(たけだよしのぶ/武田)と飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)などの武将は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の暗殺を企てる。

しかし飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の弟もしくは甥で山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が、武田義信(たけだよしのぶ/武田)と飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)などの謀反(むほん)を武田信玄(たけだしんげん/武田)に密告する。

こうして飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)と一族は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の威令(いれい)により死罪となり執行された。

そして武田信玄(たけだしんげん/武田)の息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)も、1565年に武田氏から廃嫡(はいちゃく)となり、1567年に幽閉された躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)にて死去した。

武田軍の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の伝統となる“赤備え”(あかぞなえ)は、弟もしくは甥の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が引継いだ。

この時期に山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は、氏名(うじな)を飯富(おぶ)から山県(やまがた)に改名している。

HUNDRED REASONS /♪ NO WAY BACK

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:36:29

◆◇◆其の四:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山県昌景(やまがたまさかげ/武田)

1560年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)の奇襲で駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が討死した。

此(こ)れら事変により戦国の状況が一変し、武田信玄(たけだしんげん/武田)の戦略が大幅に変わる。

駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)では、亡き今川義元(いまがわよしもと/今川)と妻で武田信虎(たけだのぶとら/武田)の娘の定恵院(じょうけいいん/武田→今川)の嫡男(ちゃくなん)で息子の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)が家督継承して今川氏の当主に就任した。

ただ、三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、今川軍に帰属(きぞく)していたが、これを機会に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)に拠点とする織田信長(おだのぶなが/織田)と連携して1562年に「清洲同盟」(きよすどうめい)を締結した。

これを好機と思案したのは松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)だけでなく、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)も同様だった。

1554年に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が締結した「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)の危機が訪れる。

甲斐国(山梨県)を拠点とする武田信玄(たけだしんげん/武田)は信濃国(長野県)までは領国としたが、その北部の越後国(新潟県)と越中国(富山県)に侵攻するのは、万夫不当(ばんぷふとう)な上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を征伐しなければならなず、「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)でそれは不可能と実感していた。

それなら南部の当主が代わったばかりの駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻した方が得策と思考するのが自然である。

先ずは甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と提携して、駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の当主に就いた今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の領国に侵攻する事を紐帯(ちゅうたい)した。

三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西側から遠江国(静岡県)を制圧し占領し、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は北側から駿河国(静岡県)を制圧し占領する事を取り決めた。

この狡猾(こうかつ)な武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を庇護(ひご)して援護した。

こうして「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)した。

1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻して制圧した。

これに呼応(こおう)して三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、遠江国(静岡県)に侵攻して制圧した。

こうして今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は敗走して、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が居城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に身を寄せた。

この駿河国(静岡県)の侵攻でも山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍は、獅子奮迅(ししふんじん)の活躍を興じる。

この武功(ぶこう)と功績により武田信玄(たけだしんげん/武田)から、山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は駿河国(静岡県)の江尻城(えじりじょう/清水)の城代に就任する。

遠江国(静岡県)を制圧した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、この駿河国(静岡県)の江尻城(えじりじょう/清水)の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)にかなりの重圧を感じていたと言う。

この頃に山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は飛騨国(岐阜県)の攻略を任されていた。

この時に合戦で満身創痍(まんしんそうい)となった山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は、白い猿に導かれて温泉に案内され、お湯に浸かっていると傷が癒えて疲労回復した。

その飛騨国(岐阜県)の温泉が、現在の岐阜県高山市の平湯温泉である。

THE VERVE /♪ THIS COULD BE MY MOMENT

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:37:31

◆◇◆其の五:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山県昌景(やまがたまさかげ/武田)

1571年に、京都の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)が、日本各地の有力武将に織田信長(おだのぶなが/織田)の討伐を威令(いれい)する信書を送達した。

これを“第2次信長包囲網”と呼ぶ。

1572年に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる3万人余りの武田軍は、先ずは織田信長(おだのぶなが/織田)と同盟を締結する三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の領国の遠江国(静岡県)に侵攻した。

これに対して遠江国(静岡県)の浜松城(はままつじょう)から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる2万人余りの徳川軍が出陣した。

一方で、山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が率いる“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍は、信濃国(長野県)から南下して遠江国(静岡県)に侵攻した。

この時に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は織田信長(おだのぶなが/織田)に援軍の要請を渇望(かつぼう)した。

しかし、当の織田信長(おだのぶなが/織田)も“第2次信長包囲網”により、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)を拠点にする父親の浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)と、越前国(福井県)の一乗谷館(いちじょうだにやかた/福井)を拠点にする朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)との合戦で手が離せなかった。

そして浜松城(はままつじょう)の北部に位置する三方ヶ原(みかたがはら)にて、3万人余りの武田軍と2万人余りの徳川軍は合戦を繰り広げた。

ここで武田信玄(たけだしんげん/武田)の得意な戦略や陣形で、徳川軍を翻弄させて圧勝した。

三方ヶ原(みかたがはら)には孫子(そんし/軍事家)の兵法の“風林火山”が記載された武田信玄(たけだしんげん/武田)の旗印がなびいていた。

『其の疾(はや)きこと風の如(ごと)く。』

『其の徐(しず)かなること林の如(ごと)く。』

『侵掠(しんりゃく)すること火の如(ごと)。』

『動かざること山の如(ごと)し。』

惨敗した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、命からがら浜松城(はままつじょう)に逃げ帰った。

これを1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)と呼ぶ。

戦勝で勢いづく武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、三河国(愛知県)に入り徳川軍のお城を次々に落城させていた。

ところが1573年に、武田信玄(たけだしんげん/武田)の病気が悪化して、甲斐国(山梨県)へ帰路に着いている三河街道の道中で急死した。

この武田信玄(たけだしんげん/武田)の死去は、重鎮家臣だけに知らされて、武田信玄(たけだしんげん/武田)の遺言により3年間は他言厳禁にされた。

しかし、その武田信玄(たけだしんげん/武田)が亡くなった情報は、武田軍に入り込んだ間諜(かんちょう)により、直ぐに織田信長(おだのぶなが/織田)や徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)など日本各地の武将に知れる事になる。

本当に知らなかったのは、京都の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)だけだった。

GREEN RIVER ORDINANCE /♪ COME ON

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:38:32

◆◇◆其の六:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山県昌景(やまがたまさかげ/武田)

1573年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去した事により、家督継承者の武田勝頼(たけだかつより/武田)が武田氏の17代目当主に就任した。

しかし、武田勝頼(たけだかつより/武田)の母親で敵陣の総大将の娘だった諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)の出自(しゅつじ)に対して、この頃も偏見と不遜(ふそん)が残っており、多くの武田軍の家臣団は反対した。

しかし、“武田四天王”と呼ばれた山県昌景(やまがたまさかげ/武田)と、馬場信春(ばばのぶはる/武田)と、内藤昌豊(ないとうまさとよ/武田)は、武田氏の17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)を支える武田軍を牽引する意気込みだった。

ただ、当の武田勝頼(たけだかつより/武田)は、古参(こさん)の武将を疎(うと)ましく思い、関係の距離を取っていた。

そんな当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)と武田軍の関係性に亀裂が入り、暗雲が垂れ込めた時に最大の危機が訪れる。

織田徳川軍に対して数々の戦勝に勢い付く武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる1万5千人の武田軍は、このまま西上作戦を継続させた。

そして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の領国でもある三河国(愛知県)にまで進軍した。

三河国(愛知県)の設楽に建つ徳川氏の長篠城(ながしのじょう/新城)を、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍が包囲した。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は徳川軍に対して降伏と開城を求めたが、徳川軍は長篠城(ながしのじょう/新城)は篭城する構えを示した。

ただ、兵糧も少なくなり敗北は時間の問題だった。

そこで長篠城(ながしのじょう/新城)の足軽だった鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)がお城から脱出して、65km余り離れた西部の三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)にまで疾走して援軍の要請を伝えに行った。

岡崎城(おかざきじょう)に居た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と織田信長(おだのぶなが/織田)は、鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)の勇気ある行動に感銘し、直様(すぐさま)に出陣を決定した。

織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる3万8千人の織田徳川軍の進軍に先立ち、鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)は再び65km余り離れた東部の三河国(愛知県)の長篠城(ながしのじょう/新城)まで疾走して戻って行った。

ただ、長篠城(ながしのじょう/新城)の目前で武田軍に見つかり捕縛(ほばく)されて、武田勝頼(たけだかつより/武田)に糾問(きゅうもん)を受けた後に“離間の計”(りかんのけい)を強要した。

しかし、鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)は“偽降の計”(ぎこうのけい)を講じて長篠城(ながしのじょう/新城)の徳川軍に対して、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる3万8千人の織田徳川軍が進軍している事を大声で叫んだ。

こうして鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)は、磔(はりつけ)にされて槍(やり)で突かれ死去した。

暫くすると設楽原(したらがはら)に織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる3万8千人の織田徳川軍が、陣営を設けて布陣した。

其処(そこ)には武田軍の騎馬隊への対策としてに木柵を設置して、その後方に鉄砲隊を3段構えで配備した。

一方の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる1万5千人の武田軍も、陣営を設けて布陣した。

しかし、武田勝頼(たけだかつより/武田)や有力武将は、想定外の大軍勢の織田徳川軍に驚愕した。

この大軍勢の織田徳川軍を観た“武田四天王”と呼ばれた山県昌景(やまがたまさかげ/武田)と、馬場信春(ばばのぶはる/武田)と、内藤昌豊(ないとうまさとよ/武田)は戦況は不利と判断して、武田氏の17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)に撤退を示唆(しさ)したが、これを武田勝頼(たけだかつより/武田)は却下し交戦を指示した。

こうして合戦の合図の法螺貝(ほらがい)が設楽原(したらがはら)に響き渡り、両陣営が死闘を繰り広げた。

名門の武田軍の騎馬隊が突進すると、織田徳川軍の3段構えで配備した鉄砲隊が次々と撃ち倒していった。

更に“徳川四天王”の酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)が率いる軍隊が、深夜に山間部を迂回しながら武田軍の陣営に奇襲を仕掛けて大混乱に陥らせた。

この合戦で武田軍の有力武将で“武田四天王”と呼ばれる“赤備え”(あかぞなえ)の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)と馬場信春(ばばのぶはる/武田)と内藤昌豊(ないとうまさとよ/武田)では討死した。

総大将の武田勝頼(たけだかつより/武田)は命かながら戦地から敗走し、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)まで逃亡した。

こうして織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が勝利した。

これを1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)と呼ぶ。

LITTLE ONES /♪ ORDINARY SONG

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:39:33

◆◇◆其の七:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●馬場信春(ばばのぶはる/武田)

甲斐国(山梨県)の戦国武将である武田氏の15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と、“甲斐の虎”と呼ばれた16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)と、17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)に仕えた“武田四天王”と呼ばれる馬場信春(ばばのぶはる/武田)は、武田軍の三綱五常(さんこうごじょう)を重んじた武将だった。

馬場信春(ばばのぶはる/武田)は70以上の戦地に赴(おもむ)いたが、傷1つ無く生還した事から“不死身の鬼美濃”と呼ばれていた。

そんな馬場信春(ばばのぶはる/武田)は、1515年に甲斐国(山梨県)にて誕生した。

そして甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)を拠点とする武田信虎(たけだのぶとら/武田)に仕えた。

武田信虎(たけだのぶとら/武田)の軍下にて馬場信春(ばばのぶはる/武田)は、幾多(いくた)の合戦で激闘を繰り広げた。

1536年に武田軍が信濃国(長野県)へ侵攻する際、武田信虎(たけだのぶとら/武田)の嫡男(ちゃくなん)で家督継承者の武田信玄(たけだしんげん/武田)の初陣(ういじん)にも参戦している。

しかし、1541年に深謀遠慮(しんぼうえんりょ)を兼ね備えた馬場信春(ばばのぶはる/武田)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)や武田軍の他の武将と共に武田信虎(たけだのぶとら/武田)に対して謀反(むほん)を起こし、甲斐国(山梨県)から追放した。

1542年から武田信玄(たけだしんげん/武田)は勢力拡大の為に、信濃国(長野県)へ侵攻を開始する。

この時の合戦で活躍したのが智勇(ちゆう)な馬場信春(ばばのぶはる/武田)が率いるの武田軍である。

1546年に馬場信春(ばばのぶはる/武田)は、武功(ぶこう)と功績により侍大将に就任した。

1559年に武田信玄(たけだしんげん/武田)からの恩顧(おんこ)により、馬場信春(ばばのぶはる/武田)は譜代家老衆に任命された。

そんな時期に天と地を揺るがす事変が起こる。

1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)で、今川義元(いまがわよしもと/今川)が織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取りられ死去した。

これが起因して「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)した。

そして1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)を拠点にする今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻して制圧した。

この時に武田軍は駿府館(すんぷやかた)に保管してある金品や家財などを乱妨取り(らんぼうどり)していた。

武田信玄(たけだしんげん/武田)も、今川氏の伝来の家宝や財宝などの略奪(りゃくだつ)していた。

それを“武田四天王”の馬場信春(ばばのぶはる/武田)が観て、主君である武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して乱妨取り(らんぼうどり)を止める様に諌止(かんし)した。

馬場信春(ばばのぶはる/武田)の言い分は、『後世に名を残す御屋形様(おやかたさま)が、率先して乱妨取り(らんぼうどり)を実施すれば、そのまま伝来や古文書に記載され、名門家の武田氏全体に汚名を残す。』と諌めた。

これを聞いた武田信玄(たけだしんげん/武田)は大いに慚愧(ざんぎ)して心入れ替えた。

TOKYO POLICE CLUB /♪ TESSELLATE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:41:32

◆◇◆其の八:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●馬場信春(ばばのぶはる/武田)

その後の1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)では、戦況有利な馬場信春(ばばのぶはる/武田)が率いる武田軍は、命からがら敗走する徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を浜松城(はままつじょう)まで追撃した。

この時にあと一歩で徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)を討ち取るまで攻め込んだ馬場信春(ばばのぶはる/武田)だった。

戦勝で勢いづく武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、三河国(愛知県)に入り徳川軍のお城を次々に落城させていた。

ところが1573年に、武田信玄(たけだしんげん/武田)の病気が悪化して、甲斐国(山梨県)へ帰路に着いている三河街道の道中で急死した。

1573年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去した事により、家督継承者の武田勝頼(たけだかつより/武田)が武田氏の17代目当主に就任した。

ただ武田勝頼(たけだかつより/武田)は、馬場信春(ばばのぶはる/武田)などの古参(こさん)の武将を疎(うと)ましく思い、関係の距離を取っていた。

そんな当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)と武田軍の関係性に亀裂が入り、暗雲が垂れ込めた時に最大の危機が訪れる。

こんな武田軍の状況下で、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて、織田徳川軍と合戦を繰り広げて武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は惨敗した。

この武田軍の敗北が決定した合戦にて、総大将の武田勝頼(たけだかつより/武田)を逃亡させる為に、馬場信春(ばばのぶはる/武田)は敗走する武田軍の後方に陣取り、敵陣を食い止める殿(しんがり)を務めて、織田徳川軍の猛攻撃を受けて討死した。

この馬場信春(ばばのぶはる/武田)の散り様を観た織田信長(おだのぶなが/織田)は、“信長公記”(しんちょうこうき)に⦅美濃守の馬場信春(ばばのぶはる/武田)の働き、比類なし。⦆と記述された。

この“武田四天王”と呼ばれた山県昌景(やまがたまさかげ/武田)と、馬場信春(ばばのぶはる/武田)と、内藤昌豊(ないとうまさとよ/武田)の戦死により、武田軍の結束力は綻びが出始める。

そして1582年に織田信長(おだのぶなが/織田)の甲州征伐(こうしゅうせいばつ)により、武田軍を殲滅(せんめつ)させ、武田勝頼(たけだかつより/武田)は自決に追い込まれ、名門家の武田氏は滅亡した。

REX ORANGE COUNTY /♪ 2008

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:42:38

◆◇◆其の九:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)

1969年にテレビ放映された大河ドラマの「天と地と」は、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)による「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)が描かれた物語である。

この「天と地と」を観ていた北海道在住の視聴者が、ドラマ内に映し出された武田信玄(たけだしんげん/武田)の書状を見て、先祖から伝来された古文書と似ていた為に専門家に鑑定依頼したら、その古文書は武田信玄(たけだしんげん/武田)の書状と判明した。

更にその書状には山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)も記載されており、今までは謎が多く実在しない架空の人物と思われた山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)の実像が判明された。

そんな山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)の出自(しゅつじ)は、駿河国(静岡県)の富士宮もしくは三河国(愛知県)の豊川と言われる。

幼少期から三河国(愛知県)の大林氏に預けられ、ここで武道や兵法を学習したと言われる。

青年になった山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、武者修行の為に日本各地を巡り見聞を広げて、文武両道(ぶんぶりょうどう)の武士を目指していた。

一時は真言宗(しんごんしゅう)の総本山の金剛峯寺(こんごうぶじ)が建つ紀伊国(和歌山県)の高野山(こうやさん)に篭り、山伏兵法や僧兵の戦術を習得した。

また、お城に赴(おもむ)けば、城郭の構造や配置など築城の設計や技術を視察した。

こうして10年間に渡る武者修行で、兵法や戦法、それに築城までを極めて体得した。

その後に山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、自分の能力や知識を活かして有力武将への仕官(しかん)を目指す様になる。

当時の有力武将と言えば、駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)を拠点とした“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと/今川)だった。

そして駿河国(静岡県)に訪問して今川義元(いまがわよしもと/今川)に拝謁(はいえつ)し、今川軍に仕官(しかん)を渇望(かつぼう)した。

ところが公家の思考が強い今川義元(いまがわよしもと/今川)は、容姿が不潔だった山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)を不採用とした。

その代わりに裏方の間者(スパイ)として雇用する事は承諾した。

其処(そこ)から仕事が有るか無いかも判らない今川軍の間者(スパイ)として所属していた山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、実質的には牢人(無職侍)と変わらない生活を9年間も続けた。

しかし、そんな中でも武家の間では、能力と知識がある山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)の噂は徐々に広まっていった。

その噂が甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)の耳に入る。

こうして甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に招集された山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)に拝謁(はいえつ)し武田軍の武士として採用され、しかも高待遇で重用(ちょうよう)された。

武田信玄(たけだしんげん/武田)の恩顧(おんこ)を受けた山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、武田軍の一部の家臣から不遜(ふそん)な扱いを受けて罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びた。

此(こ)れを知った武田信玄(たけだしんげん/武田)は、山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)に罵声(ばせい)を浴びせた一部の家臣を罷免(ひめん)した。

YO LA TENGO /♪ I GOTTA DREAM ON

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:43:36

◆◇◆其の十:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)

1542年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、本格的に信濃国(長野県)へ侵攻を開始した。

先ずは信濃国(長野県)の諏訪地方に建つ上原城(うえはらじょう/茅野)の城主の諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)に侵攻した。

その時の総大将が武田信繁(たけだのぶしげ/武田)で、副大将が板垣信方(いたがきのぶかた/武田)だった。

諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)が率いる諏訪軍が防御する上原城(うえはらじょう/茅野)は、武田軍の猛攻撃で落城した。

諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は近隣に建つ桑原城(くわばらじょう/諏訪)に逃亡した。

武田信繁(たけだのぶしげ/武田)と板垣信方(いたがきのぶかた/武田)が率いる武田軍は追撃して、桑原城(くわばらじょう/諏訪)に猛攻撃を仕掛けて陥落させた。

こうして諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は捕縛(ほばく)されて、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に拘引(こういん)され、武田信玄(たけだしんげん/武田)に突き出された。

その数日後に諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は切腹して自決した。

この諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)の娘の諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)は才色兼備(さいしょくけんび)であり、武田信玄(たけだしんげん/武田)が一目惚れして側室に迎えた。

この時に諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)を受け入れる様に進言したのが山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)だった。

その山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)の思惑は、『武田信玄(たけだしんげん/武田)と訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)に息子が誕生すれば、その息子を信濃国(長野県)の諏訪地方の領主に据え置き、上原城(うえはらじょう/茅野)の城主に就任させれば、領民も受け入れる。』と言うものだったんだ

この時に敵陣の総大将の娘を甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に招き入れる事に、多くの武田軍の家臣団は反対した。

万が一でも遺恨(いこん)が残る諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)による父親の仇討ちがある危険性が及ぶ可能性がある。

しかし、そんな事は気にも留めない武田信玄(たけだしんげん/武田)と訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)に、1546年に息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)が誕生した。

Fat Freddy's Drop/♪ Flashback

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:44:39

◆◇◆其の十一:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)

武田氏の16代目当主に就任した武田信玄(たけだしんげん/武田)は、先ずは対立関係にあった相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)の城主である伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と講和条約を締結した。

こうして甲斐国(山梨県)は、南部の駿河国(静岡県)の“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる今川義元(いまがわよしもと/今川)と、東部の相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)から、侵攻される懸念を払拭した。

そして武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、甲斐国(山梨県)の北部にある信濃国(長野県)への侵攻を開始した。

先ずは1545年に、信濃国(長野県)の守護代で林城(はやしじょう/松本)の城主の小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)に総攻撃を仕掛けた。

圧倒的な軍事力の武田軍に惨敗した小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)は、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の所に逃亡した。

武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称する長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)を快(こころよ)く受け入れた。

続いて1550年に、信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)や砥石城(といしじょう/上田)の城主だった村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)に侵攻した。

ところが圧倒的な軍事力の武田軍だったが、村上軍が防衛する砥石城(といしじょう/上田)を総攻撃しても落城させる事はできず、後方の葛尾城(かつらおじょう/埴科)から出陣した村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)が率いる村上軍本隊に挟み討ちにされ、逆に返り討ちに遭い武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は惨敗した。

この武田軍の敗北時に山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は殿(しんがり)を務めて、武田信玄(たけだしんげん/武田)の逃亡を導いている。

この合戦で武田軍の多くの有力武将が戦死して、これを“砥石崩れ”(といしくずれ)と呼ぶ。

しかし1551年に、信濃国(長野県)の武将で“武田二十四将”と呼ばれる真田幸綱(さなだゆきつな/武田)が、武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して砥石城(といしじょう/上田)の攻略を名乗り出た。

こうして真田幸綱(さなだゆきつな/武田)は、砥石城(といしじょう/上田)を防衛する村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の家臣に詭計(きけい)を仕掛けて寝返らせ、砥石城(といしじょう/上田)を1日で陥落させた。

敗北した村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)は、越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の所に逃亡した。

武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称する長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)を快(こころよ)く受け入れた。

これが起因して“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と、“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄(たけだしんげん/武田)の因縁の対決が始まる。

MICHAEL W.SMITH /♪ CRY FOR LOVE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:45:39

◆◇◆其の十二:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)

越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)を拠点にする“越後の龍”と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、逃亡してきた小笠原長時(おがさわらながとき/小笠原 →上杉→織田→蘆名)と村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)の要請に応えて、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を領国とした武田信玄(たけだしんげん/武田)の討伐を決行する。

越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は信濃国(長野県)の川中島(かわなかじま/長野)に流れる千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)の河川敷まで侵攻して陣営を設けて布陣した。

そして甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍も、川の対岸に陣営を設けて布陣した。

こうして1553年に起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)が勃発する。

第一次の布施の戦」(ふせのたたかい)では、上杉軍と武田軍は交戦するも、お互いが相手の戦力を探る為の小手調べもあり、勝敗が着かずに両陣営は退却した。

1555年の第二次の「犀川の戦」(さいおおがわのたたかい)では、上杉軍と武田軍は200日余り布陣したが、主だった交戦はなく、駿河国(静岡県)の守護代で“海道一の弓取り”(東海道で一番の武将)と呼ばれる今川義元(いまがわよしもと/今川)の仲裁が入り、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と武田信玄(たけだしんげん/武田)は暫定的な和睦して両陣営は退却した。

1557年の第三次の「上野原の戦」(うえのはらのたたかい)では、川中島(かわなかじま/長野)から少し北上した善光寺(ぜんこうじ/天台宗と浄土宗)の周辺に、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は陣営を設けて布陣した。

其処(そこ)に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が侵攻してきた。

ところがこの頃に京都の室町幕府では、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)が、阿波国(徳島県)の武将で河内国(大阪府)の飯盛山城(いいもりやまじょう/大東)の城主だった三好長慶(みよしながよし/細川→三好)などと対立して、征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)は近江国(滋賀県)に逃亡するなど混迷を続けていた。

此(こ)れにより室町幕府は全国各地の大名や武将に救援を要請しており、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と武田信玄(たけだしんげん/武田)は一時休戦して両陣営は退却した。

「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)の合間に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)と1554年に「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)を締結した。

「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)の証書として、お互いの息子と娘を婚姻させた。

こうして鉄壁の同盟により、武田信玄(たけだしんげん/武田)は信濃国(長野県)への侵攻を目指し、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は関東一円の統治を目指し、今川義元(いまがわよしもと/今川)は尾張国(愛知県)への侵攻をはじめ京都への上洛を目指した。

しかし、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍と武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて死闘を繰り広げていた間に、戦国時代の天地を揺るがす事変が起こっていた。

1560年に、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が率いる2万5千人の今川軍は、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)を討伐する為に西方侵攻を開始した。

しかし織田信長(おだのぶなが/織田)の奇跡の勝利にて、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)にて今川義元(いまがわよしもと/今川)は死去した。

これを1560年に起こった「日本三大奇襲戦」と呼ばれる「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)と呼ぶ。

MICHAEL DAMIAN /♪ Reach Out To Me This Christmas

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:46:40

◆◇◆其の十三:忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)と剛毅果断(ごうきかだん)を兼ね備えた武田軍の武将◆◇◆

●山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)

1561年の第四次の「八幡原の戦」(はちまんぱらのたたかい)では、今までの交戦とは違い「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)の本戦と言われる程に上杉軍と武田軍と激闘を繰り広げた。

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は、千曲川(ちくまがわ)の南部にそびえる妻女山(さいじょさん)に陣営を設けて布陣した。

一方の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、妻女山(さいじょさん)の東部に建つ海津城(かいづじょう)こと松代城(まつしろじょう/長野)と犀川(さいがわ)の南部にそびえる茶臼山(ちゃうすやま)に2軍に分散して陣営を設けて布陣した。

両陣営は布陣後に様子見と睨み合いが続き、その間に武田軍の軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)が、妻女山(さいじょさん)の背後から上杉軍を追い出す「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)を考案し、武田信玄(たけだしんげん/武田)に提案して承諾された。

この軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)が考案した「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)とは、武田軍の本隊が海津城(かいづじょう)こと松代城(まつしろじょう/長野)の北部に移動して犀川(さいがわ)の南部に布陣し、一方で妻女山(さいじょさん)の裏手から武田軍の別動隊を配備し登頂させて上杉軍を後方から奇襲し妻女山(さいじょさん)から下山させて、武田軍の本隊と茶臼山(ちゃうすやま)に布陣する武田軍の予備隊が挟み討ちにして上杉軍を壊滅させる戦法だった。

こうして武田信玄(たけだしんげん/武田)は武田軍を「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)の陣形に配置して、後は実行の狼煙(のろし)を上げるだけに整えた。

ところが昨日の晩に妻女山(さいじょさん)の山頂から偵察していた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、海津城(かいづじょう)こと松代城(まつしろじょう/長野)の武田軍の陣営の晩御飯の竈(かまど)の煙が多く上がっている事に気付き、翌日に武田軍は行動に出る事を察知していた。

其処(そこ)で上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は、深夜の内に上杉軍を妻女山(さいじょさん)から下山させて、武田軍の本隊が海津城(かいづじょう)こと松代城(まつしろじょう/長野)の北部に移動して犀川(さいがわ)の南部に布陣する予定の八幡原(はちまんぱらの)に布陣して潜んでいた。

翌朝、アルプス山脈に囲まれた川中島(かわなかじま/長野)では朝靄(あさもや)が垂れ込めていた。

武田信玄(たけだしんげん/武田)と軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)の合図の狼煙(のろし)を上げるだけだった。

此処(ここ)で思いもよらない光景が目前に広がっていた。

何と妻女山(さいじょさん)に布陣している筈の上杉軍が、前方から猪突猛進(ちょとつもうしん)で突撃してきたのである。

この上杉軍の奇襲で武田軍は大混乱となり、逃げまとう武田軍の兵士は次々と斬殺されていった。

急遽に武田信玄(たけだしんげん/武田)は、武田軍を三日月の陣形の鶴翼の陣(かくよくのじん)に整えて反撃に出たが、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は上杉軍を車輪の陣形の車懸りの陣(くるまがかりのじん)で軍隊を回転させながら総攻撃を仕掛けてきた。

そして武田軍の陣営の後方に設けられた床几(しょうぎ)に座る武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が騎馬に跨(またが)り突撃し太刀(たち)で三太刀(みたち)に渡り斬り付け、武田信玄(たけだしんげん/武田)は軍配で退けて難を逃れた。

この後に武田信玄(たけだしんげん/武田)は軍配を確認したら、三太刀(みたち)に渡り斬られたと思っていたが、傷は七太刀(ななたち)も付いていた。

これを“三太刀七太刀”(みたちななたち)と呼ぶ。

その頃になると妻女山(さいじょさん)に登頂した武田軍の別動隊と茶臼山(ちゃうすやま)の予備隊が戦地に到着して、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は上杉軍に撤退を命じた。

九死に一生を得た武田信玄(たけだしんげん/武田)は、武将の神様で四天王の多聞天(たもんてん)の毘沙門天(びしゃもんてん)を背後に視た上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の恐怖で身体の震えが止まらなかった。

戦況は上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の勝利だったが、信濃国(長野県)の領国を奪取(だっしゅ)される事なく守護した武田信玄(たけだしんげん/武田)の勝利とも言える。

この合戦で武田軍は甚大な被害が出て、武田信玄(たけだしんげん/武田)の弟の武田信繁(たけだのぶしげ/武田)や軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)など多くの武将や4000人余りの兵士が戦死し、本隊は壊滅寸前だった。

一方の上杉軍も3000人余りの兵士が戦死し、両陣営共に大きな痛手を負って退却した。

1564年の第五次の「塩崎の対陣」(しおざきのたいじん)では、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は川中島(かわなかじま/長野)に陣営を設けて布陣した。

一方の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、茶臼山(ちゃうすやま)の西部に建つ塩崎城(しおざきじょう/長野)に布陣した。

この塩崎城(しおざきじょう/長野)は、上杉軍が信濃国(長野県)の西側と南側に進軍しない様に防衛を固めた陣営だった。

しかし、両陣営は様子見が続き幾日(いくにち)で撤退を命じた。

こうして上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)と武田信玄(たけだしんげん/武田)の勝敗は着かずに11年間に渡る「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)は終戦した。

武田軍の天才軍師で“武田二十四将”に指名された山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、信濃国(長野県)の川中島(かわなかじま)で人生の幕を閉じた。

WILL CONNER /♪ LITTLE BUMPS

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260520 - ラジオの友 URL

2026/05/20 (Wed) 06:47:38

◆◇◆まるでその場に居たような言い方のインターネットのコメント歴史家◆◇◆

●お題:鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)と忠君愛国(ちゅうくんあいこく)を兼ね備えた武田軍の家臣団

甲斐国(山梨県)の権門勢家(けんもんせいか)でもある武田氏は、14代目当主の武田信縄(たけだのぶつな/武田)、15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)、16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)、17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)と引き継がれ、その名門武家を名乗った背景には殊勝(しゅしょう)な家臣団と傑出(けっしゅつ)した武田軍が下地にあってこそである。

その智勇(ちゆう)と明察(めいさつ)を兼ね備えた武田軍の家臣団を列挙してみた。

■先ずは“武田四天王”と呼ばれた勇壮華麗(ゆうそうかれい)な武将です。

▼山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は、飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の弟もしくは甥で、“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍を率いて敵陣を恐れて慄(おのの)かせた。

ただ、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)に参戦して、織田徳川軍の猛攻撃にて討死した。

▼馬場信春(ばばのぶはる/武田)は、“不死身の鬼美濃”と呼ばれた高尚(こうしょう)の武将で、主君の武田信玄(たけだしんげん/武田)を今川攻めで財宝略奪を諌めた。

ただ、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)に参戦して、織田徳川軍の猛攻撃にて討死した。

▼内藤昌豊(ないとうまさとよ/武田)は、信濃国(長野県)への侵攻では率先して激闘を繰り広げ武功(ぶこう)を挙げる。

ただ、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)に参戦して、織田徳川軍の猛攻撃にて討死した。

▼春日虎綱(かすがとらつな)こと高坂昌信(こうさかまさのぶ/武田)は、1553年に起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて、1561年の第四次の「八幡原の戦」(はちまんぱらのたたかい)では、終戦後に敵味方を関係なく戦死者を弔った事で、越後国(新潟県)の“越後の龍”と呼ばれる長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に忠義に厚い人物として“敵に塩を送る”と言う言葉を引用して感銘を受ける。

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が亡き後の1578年に起こった「御館の乱」(おたてのらん)にて、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と講和交渉を遂行している最中(さなか)に死去した。

■続いて“武田二十四将”と呼ばれた倫魁不羈(りんかいふき)な武将です。

▼飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)は、“武田四天王”の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)の兄もしくは叔父で、元祖の“赤備え”(あかぞなえ)の武田軍を率いた“甲山の猛虎”(かぶとやまのもうこ)と呼ばれる。

ただ、最期(さいご)は1565年に、武田信玄(たけだしんげん/武田)の息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)と共に謀反(むほん)の嫌疑を掛けられ死罪となった。

▼秋山虎繁(あきやまとらしげ/武田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)の領域だった美濃国(岐阜県)の岩村城(いわむらじょう)を奪取(だっしゅ)して、城主だった織田信長(おだのぶなが/織田)の叔母のおつやの方(織田→武田)を後妻に娶(めと)った。

その後の1575年に、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)の麓に流れる長良川の河川敷で、酷刑(こっけい)により逆さ磔(はりつけ)で夫婦共に誅殺(ちゅうさつ)された。

▼武田信君(たけだのぶただ)こと穴山信君(あなやまのぶただ/武田→織田)は、穴山氏(あなやまうじ)の系統で武田氏を名乗る事の許可された武将です。

信濃国(長野県)や駿河国(静岡県)への侵攻では率先して激闘を繰り広げ武功(ぶこう)を挙げる。

ただ、甲州征伐(こうしゅうせいばつ)にて織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返る。

1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)し、この時に和泉国(大阪府)の堺を視察していた徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の御一行に同行していたが、明智軍が手配した落武者狩りにより討死した。

▼小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は、甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)の城主に就いていたが、後々に織田軍へ寝返り武田氏を裏切る。

1582年に武田氏を裏切った不忠(ふちゅう)と不義(ふぎ)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)の息子の織田信忠(おだのぶただ/織田)に斬首された。

▼山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の間者(スパイ)だったが、その後に武田信玄(たけだしんげん/武田)の軍師に就任した。

1553年に起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて、1561年の第四次の「八幡原の戦」(はちまんぱらのたたかい)で「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)を実行するも、長尾景虎(ながおかげとら)こと上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍の猛攻撃で討死する。

▼真田幸綱(さなだゆきつな/武田)は、信濃国(長野県)の戦国武将で、甲斐国(山梨県)の16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)に仕えて、数々の武功(ぶこう)や功績を挙げた。

息子に信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)や上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)の城主に就いた真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)が居る。

孫に江戸幕府にて信濃国(長野県)の上田藩と松代藩(まつしろはん/長野)の藩主に就き、1658年の92歳まで生存した真田信之(さなだのぶゆき/武田→上杉→徳川)と、1614年に起こった「大坂・冬の陣」と1615年に起こった「大坂・夏の陣」では“大坂三人衆”(おおさかさんにんしゅう)に就いた真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)が居る。

■その他の万夫不当(ばんぷふとう)な武将です。

▼河窪信実(かわくぼのぶざね/武田)は、武田信虎(たけだのぶとら/武田)の息子で、武田信玄(たけだしんげん/武田)の異母弟であり、武将に就いてからは主に武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)への守護を担当していた。

ただ、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)に参戦して、織田徳川軍の猛攻撃にて討死した。

後は甘利虎泰(あまりとらやす/武田)、板垣信方(いたがきのぶかた/武田)、横田高松(よこたたかとし/武田)などの武将や武士が揃っている。

■また、武田軍と敵対して敗北して投降し、その後に再び武田軍を裏切り織田軍へ寝返った武将も居る。

▼木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は、信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の武将で、父親の木曾義康(きそよしやす/木曾→武田)が国人(こくじん)の時期の1555年に武田軍に降伏した。

その時に木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の眞龍院(しんりゅういん/武田→織田→徳川)を娶(めと)る。

その後に織田軍に寝返り、1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて主君の織田信長(おだのぶなが/織田)が横難横死(おうなんおうし)し、時代の変動に流されて徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の家臣に就いた。

そして、下総国(しもうさ/千葉県)の阿知戸(あじど/旭)に領地移転の転封(てんぽう)となり、網戸城(あじどじょう/旭)の城主に就任し、1595年に新天地で死去した。

木曾義昌(きそよしまさ/木曾→武田→織田→徳川)の息子の木曾義利(きそよしとし/織田→徳川)は、叔父惨殺など奸邪(かんじゃ)で悪辣(あくらつ)な素行により、1600年に領地没収の改易(かいえき)となった。

■最後に武田軍の強靭さは、武田信玄(たけだしんげん/武田)の言葉に集約している。

『為せば成る、為さねば成らぬ、成る業(わざ)を、成らぬと捨つる、人のはかなき。』⦅努力すれば成し遂げられる事であっても、やる前から諦めてしまう人の弱さを戒める。⦆

●コメント歴史家

①:武田軍の強靭の象徴だった“赤備え”(あかぞなえ)は、飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)から山県昌景(やまがたまさかげ/武田)へ、真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の直参家臣の井伊直政(いいなおまさ/今川→徳川)に引き継がれ、現代では近江国(滋賀県)の彦根城(ひこねじょう)のひこにゃん(猫)が受け継いでいる。

②:真田幸綱(さなだゆきつな/武田)の孫の真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ/武田→上杉→豊臣)の伝承や武勇伝は“盛って”いるのは間違いない。

③:15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)に謀反(むほん)を起こした飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)の“キャラ立ち”は群を抜いている。

④:17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)と馬場信春(ばばのぶはる/武田)は、すこぶる仲が悪かった。

⑤:山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)は、知れば知るほど“沼にはまる”天才軍師である。 名前が“ヤマカン”(山勘)の語源の由来になった人物でもある。

⑥:“武田四天王”の春日虎綱(かすがとらつな)こと高坂昌信(こうさかまさのぶ/武田)が、結構に長生きしていた事に驚いた。

⑦:織田信長(おだのぶなが/織田)の苛烈(かれつ)な報復により、逆さ磔(はりつけ)で誅殺(ちゅうさつ)された秋山虎繁(あきやまとらしげ/武田)とおつやの方(織田→武田)の“詰んだ”感は凄惨(せいさん)過ぎて笑えない。

この教養の無い無責任な言葉使いが、歴史を創ってきたかと思うと考え深い。

DOVES /♪ THE MAN WHO TOLD EVERYTHING

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2026/05/19 (Tue) 06:09:31

◆◇◆大人のジャズはよろしゅうおすぅなぁ〜◆◇

REBECCA FERGUSON /♪ GET HAPPY

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2026/05/19 (Tue) 06:10:36

APRIL VARNER /♪ I'VE GOT YOU UNDER MY SKIN

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2026/05/19 (Tue) 06:11:48

ERIC PERSON /♪ RHYTHM EDGE

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2026/05/19 (Tue) 06:12:49

挾間美帆/♪ THE PIONEER'S QUEST

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2026/05/19 (Tue) 06:13:52

HAROLD LAND /♪ MONK'S SHOP

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2026/05/19 (Tue) 06:14:51

SINNE EEG /♪ BETTER THAN ANYTHING

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2026/05/19 (Tue) 06:25:13

ULYSSES OWENS JR.AND GENERATION Y /♪ ROAD LIFE

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宮本貴奈/♪ BLUE MOTION

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ARVIND RAMDAS /♪ REDEMPTION

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Sarah Sharp /♪ I'M BEGININIG TO SEE THE LIGHT

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JAMES FERNANDO /♪ THE PARISIAN

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THE MODEST JAZZ TRIO /♪ I WAS DOING ALL RIGHT

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Lawrence Ku/♪ BOPLICITY

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KURT ELLING AND THE WDR BIG BAND /♪ DESIRE

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小沼ようすけ/♪ FEEL LIKE MAKIN' LOVE

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小沼ようすけ&宮本貴奈/♪ TELL ME A BEDTIME STORY

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HENDRIK MEURKENS /♪ MY ROMANCE

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2026/05/19 (Tue) 06:36:26

THE BLACK MADONNA /♪ AFRO BLUE

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2026/05/18 (Mon) 06:28:26

◆◇◆其の十九:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田義信(たけだよしのぶ/武田)

1538年に甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)にて、武田信玄(たけだしんげん/武田)と妻の三条の方(さんじょうのかた/藤原→武田)に待望の嫡男(ちゃくなん)となると武田義信(たけだよしのぶ/武田)が誕生した。

母親の三条の方(さんじょうのかた/藤原→武田)とは、藤原四子(ふじわらしし)の藤原房前(ふじわらふささき/公家)の北家(ほっけ)の系統で、公家の七清華家(しちせいがけ)の三条家の家柄(いえがら)で、京都の公家でも権門勢家(けんもんせいか)である。

こうして清和源氏の甲斐源氏の名門家である甲斐国(山梨県)の武田氏は、祖父で武田氏の15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)、父親で武田氏の16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)、家督継承者の武田義信(たけだよしのぶ/武田)、堅固(けんご)な地盤が揃った。

しかし、武田義信(たけだよしのぶ/武田)が4歳の時に、武田氏を揺るがす事変が起こる。

1541年に、父親の武田信虎(たけだのぶとら/武田)は、息子の武田信玄(たけだしんげん/武田)と武田軍の家臣の謀反(むほん)により、甲斐国(山梨県)から追放された。

こうして武田氏の16代目当主に武田信玄(たけだしんげん/武田)が就任した。

1550年に、武田義信(たけだよしのぶ/武田)が13歳になると、成人の儀式にて稚児姿(ちごすがた)から烏帽子親(えぼしおや)より烏帽子(えぼし)を被せられ元服(げんぷく)し、姓(かばね)が与えられる。

一人前の武将となった武田義信(たけだよしのぶ/武田)は、山県昌景(やまがたまさかげ/武田)の兄もしくは叔父の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)が、直参家臣として後見人に就いた。

因みに武田義信(たけだよしのぶ/武田)の“義”の一文字は、室町幕府の足利将軍家の征夷大将軍13代目の足利義輝(あしかがよしてる/室町)より頂戴している。

1551年に、信濃国(長野県)の葛尾城(かつらおじょう/埴科)や砥石城(といしじょう/上田)の城主の村上義清(むらかみよしきよ/村上→上杉)を討伐して、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を頼り逃亡してから、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍に暗雲が垂れ込めてきた。

こうして越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍は信濃国(長野県)の川中島(かわなかじま/長野)に流れる千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)の河川敷まで侵攻して陣営を設けて布陣した。

そして甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍も、川の対岸に陣営を設けて布陣した。

こうして1553年に起こった「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)が勃発する。

この「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)は1553年の第一次から1564年の第五次までの11年間ほど続いた。

LINKIN PARK /♪ ONE STEP CLOSER

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:29:32

◆◇◆其の二十:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田義信(たけだよしのぶ/武田)

1554年に、武田信玄(たけだしんげん/武田)は信濃国(長野県)の侵攻の為に、17歳にの武田義信(たけだよしのぶ/武田)に初陣(ういじん)となる信濃国(長野県)の佐久郡(さくぐん)に出陣させた。

この合戦で武田義信(たけだよしのぶ/武田)は、信濃国(長野県)の小諸城(こもろじょう/佐久)の城主で信濃源氏の小笠原氏(おがさわらし)の大井高政(おおいたかまさ/大井→村上→武田)を征伐して投降させる武功(ぶこう)を挙げた。

一方で、「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)の合間に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)と1554年に「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)を締結した。

「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)の証書として、お互いの息子と娘を婚姻させた。

武田信玄(たけだしんげん/武田)の息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)は、今川義元(いまがわよしもと/今川)の娘の嶺松院(れいしょういん/今川→武田)と結婚した。

伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の息子の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の黄梅院(こうばいいん/武田→ 伊勢北条)と結婚した。

今川義元(いまがわよしもと/今川)の息子の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の娘の早川殿(はやかわどの/伊勢北条→今川)と結婚した。

こうして鉄壁の同盟により、武田信玄(たけだしんげん/武田)は信濃国(長野県)への侵攻を目指し、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は関東一円の統治を目指し、今川義元(いまがわよしもと/今川)は尾張国(愛知県)への侵攻をはじめ京都への上洛を目指した。

しかし、上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍と武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて死闘を繰り広げていた間に、戦国時代の天地を揺るがす事変が起こっていた。

1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)で、今川義元(いまがわよしもと/今川)が織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取りられ死去した。

これが起因して「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)した。

一方で「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)では、この5戦で最も死闘が繰り広げられた1561年に起こった第四次の「八幡原の戦」(はちまんぱらのたたかい)で、武田信繁(たけだのぶしげ/武田)の運命は大きく変わる。

この合戦では武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)が提案した戦法の「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)を採用して、調略(ちょうりゃく)にて上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍を壊滅する予定だった。

ところが上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が調略(ちょうりゃく)を察知して、逆に詭計(きけい)で奇襲を仕掛けた。

これにより武田軍の陣形は崩壊して多数の戦死者出した。

その中には武田信繁(たけだのぶしげ/武田)と軍師の山本勘助(やまもとかんすけ/今川→武田)など有能武将も多く含まれていた。

この「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)には、武田義信(たけだよしのぶ/武田)も参戦していたが、負傷したものの父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)と共に、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に帰還している。

THREE DAYS GRACE /♪ HOME

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:30:46

◆◇◆其の二十一:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田義信(たけだよしのぶ/武田)

駿河国(静岡県)の駿府館(すんぷやかた)では、亡き今川義元(いまがわよしもと/今川)と妻で武田信虎(たけだのぶとら/武田)の娘の定恵院(じょうけいいん/武田→今川)の嫡男(ちゃくなん)で息子の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)が家督継承して今川氏の当主に就任した。

ただ、三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)を拠点とする松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、今川軍に帰属(きぞく)していたが、これを機会に尾張国(愛知県)の清洲城(きよすじょう)に拠点とする織田信長(おだのぶなが/織田)と連携して1562年に「清洲同盟」(きよすどうめい)を締結した。

これを好機と思案したのは松平元康(まつだいらもとやす)こと徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)だけでなく、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)も同様だった。

1554年に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)と、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)が締結した「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)の危機が訪れる。

甲斐国(山梨県)を拠点とする武田信玄(たけだしんげん/武田)は信濃国(長野県)までは領国としたが、その北部の越後国(新潟県)と越中国(富山県)に侵攻するのは、万夫不当(ばんぷふとう)な上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)を征伐しなければならなず、「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)でそれは不可能と実感していた。

それなら南部の当主が代わったばかりの駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻した方が得策と思考するのが自然である。

しかし、此処(ここ)で武田信玄(たけだしんげん/武田)の嫡男(ちゃくなん)で息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)から諌止(かんし)される。

武田義信(たけだよしのぶ/武田)は、亡き今川義元(いまがわよしもと/今川)の娘の嶺松院(れいしょういん/今川→武田)が妻で、今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は義兄弟になる。

この息子の諫言(かんげん)により老獪(ろうかい)な武田信玄(たけだしんげん/武田)は、武田氏から武田義信(たけだよしのぶ/武田)を排除する事を偏信(へんしん)する。

こうして武田義信(たけだよしのぶ/武田)は、1565年に武田氏から廃嫡(はいちゃく)され、そのまま躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に幽閉されて1567年に死去した。

武田信玄(たけだしんげん/武田)は、父親の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)を、武田氏から排除した事になる。

IN THIS MOMENT /♪ ADRENALIZE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:31:53

◆◇◆其の二十二:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田義信(たけだよしのぶ/武田)

父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)の息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)を武田氏から排除した要因は不明だが、現代では2項目が考察(こうさつ)されている。

①:武田軍の駿河国(静岡県)の今川派と尾張国(愛知県)の織田派で対立

駿河国(静岡県)の亡き今川義元(いまがわよしもと/今川)後に、家督継承した当主の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を今まで通りに支持する息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)や直参家臣の飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)と、勢力拡大を予感する尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)を新たに支持する父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)や直参家臣で“武田四天王”と呼ばれた山県昌景(やまがたまさかげ/武田)が対立していた。

そこで山県昌景(やまがたまさかげ/武田)は、兄もしくは叔父である飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)が、武田軍に対して謀反(むほん)を企て武田信玄(たけだしんげん/武田)を暗殺する謀略(ぼうりゃく)を、主君の武田信玄(たけだしんげん/武田)に讒言(ざんげん)した。

此(こ)れにより、1565年に飯富虎昌(おぶとらまさ/武田)と一族は死罪とされ、その家臣も武田軍から追放された。

この時に息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)も、父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)の暗殺計画に加わったとして武田氏から廃嫡(はいちゃく)された。

そして、そのまま躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に幽閉されて1567年に死去した。

武田義信(たけだよしのぶ/武田)の死因は不明で、一説には父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)の威令(いれい)により毒殺されたと言う。

②:祖父の武田信虎(たけだのぶとら/武田)と同様の謀反(むほん)

1541年に、父親の武田信虎(たけだのぶとら/武田)は、息子の武田信玄(たけだしんげん/武田)と武田軍の家臣の謀反(むほん)により、甲斐国(山梨県)から追放された。

これと同様に父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)を、息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)と一部の武田軍の家臣の謀反(むほん)により、武田信玄(たけだしんげん/武田)の暗殺計画を企てた。

当時の甲斐国(山梨県)は大飢饉により農地は不作に陥り、領民は疲弊していた。

そんな時期でも武田信玄(たけだしんげん/武田)は、領国の制圧を目的とした信濃国(長野県)への侵攻と、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)との「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)への合戦を継続させて、軍事費が増大して武田軍の財政は逼迫していた。

そこで甲斐国(山梨県)の領民から高額な納税を徴収して、国中の不満と憤懣(ふんまん)が一気に高まっていた。

そこで息子の武田義信(たけだよしのぶ/武田)と一部の武田軍の家臣の謀反(むほん)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の暗殺して、世代交代を計る事を目論んだ。

ANDREW W.K. /♪ SHE IS BEAUTIFUL

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:33:59

◆◇◆其の二十三:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

1582年に清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏は、実質的に滅亡した。

その武田氏の最後の17代目当主だったのが武田勝頼(たけだかつより/武田)である。

現代までの歴史の常識では、17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)は、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて織田徳川軍に惨敗し、1582年に甲斐国(山梨県)の武田氏を滅亡させた暗愚魯鈍(あんぐろどん)な愚将(ぐしょう)として取り扱われている。

しかし、本当に武田勝頼(たけだかつより/武田)は愚かなだったのか?

本来の武田勝頼(たけだかつより/武田)の智勇(ちゆう)は、1575年〜1582年の8年間に隠されている。

史実に基づいて武田勝頼(たけだかつより/武田)の生涯を振り返ってみる。

1541年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、本格的に信濃国(長野県)へ侵攻を開始した。

先ずは信濃国(長野県)の諏訪地方に建つ上原城(うえはらじょう/茅野)の城主の諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)に侵攻した。

その時の総大将が武田信繁(たけだのぶしげ/武田)で、副大将が板垣信方(いたがきのぶかた/武田)だった。

諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)が率いる諏訪軍が防御する上原城(うえはらじょう/茅野)は、武田軍の猛攻撃で落城した。

諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は近隣に建つ桑原城(くわばらじょう/諏訪)に逃亡した。

武田信繁(たけだのぶしげ/武田)と板垣信方(いたがきのぶかた/武田)が率いる武田軍は追撃して、桑原城(くわばらじょう/諏訪)に猛攻撃を仕掛けて陥落させた。

こうして諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は捕縛(ほばく)されて、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に拘引(こういん)され、武田信玄(たけだしんげん/武田)に突き出された。

その数日後に諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)は切腹して自決した。

この諏訪頼重(すわよりしげ/諏訪)の娘の諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)は才色兼備(さいしょくけんび)であり、武田信玄(たけだしんげん/武田)が一目惚れして側室に迎えた。

この時に敵陣の総大将の娘を甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に招き入れる事に、多くの武田軍の家臣団は反対した。

万が一でも遺恨(いこん)が残る諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)による父親の仇討ちがある危険性が及ぶ可能性がある。

しかし、そんな事は気にも留めない武田信玄(たけだしんげん/武田)と訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)に、1546年に息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)が誕生した。

其処(そこ)から幾年(いくとせ)が過ぎ去り、1562年に武田勝頼(たけだかつより/武田)は、成人の儀式にて稚児姿(ちごすがた)から烏帽子親(えぼしおや)より烏帽子(えぼし)を被せられ元服(げんぷく)し、姓(かばね)が与えられる。

しかし、甲斐源氏の名門家の武田氏の嫡流(ちゃくりゅう)は、名前に“信”が与えられるが、武田勝頼(たけだかつより/武田)は武田氏の一族から差別や不遜(ふそん)の目で見られていた為に与えられなかった。

ただ、武田勝頼(たけだかつより/武田)の兄弟には、嫡男(ちゃくなん)で家督継承者の武田義信(たけだよしのぶ/武田)をはじめ3人の兄上が居た為に、後継者問題には無関係と思われていた。

ところが嫡男(ちゃくなん)の武田義信(たけだよしのぶ/武田)は謀反(むほん)の嫌疑が掛けられ、1565年に武田氏から廃嫡(はいちゃく)され、そのまま躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に幽閉されて1567年に死去した。

更に次の2人の兄上も病気や死去などで、武田勝頼(たけだかつより/武田)に家督継承者のお鉢が回ってきた。

こうして次期の武田氏の17代目当主に武田勝頼(たけだかつより/武田)が任命された。

BABY ANIMALS /♪ STOOPID

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:35:02

◆◇◆其の二十四:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

1560年に起こった「桶狭間の戦」(おけはざまのたたかい)にて、尾張国(愛知県)の桶狭間山(おけはざまやま)で、今川義元(いまがわよしもと/今川)が織田信長(おだのぶなが/織田)に討ち取りられ死去した。

此(こ)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の死去と、1553年〜1564年までの「川中島の戦」(かわなかじまのたたかい)にて上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が率いる上杉軍との合戦で苦戦した事に起因して、武田信玄(たけだしんげん/武田)は戦略の方向転換をした。

先ずは甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は、三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と提携して、駿河国(静岡県)と遠江国(静岡県)の当主に就いた今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)の領国に侵攻する事を紐帯(ちゅうたい)した。

三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は西側から遠江国(静岡県)を制圧し占領し、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は北側から駿河国(静岡県)を制圧し占領する事を取り決めた。

この狡猾(こうかつ)な武田信玄(たけだしんげん/武田)に対して、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)は、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)を庇護(ひご)して援護した。

こうして「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)に瓦解(がかい)した。

この後に武田信玄(たけだしんげん/武田)の領国の海のない甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は、太平洋の海に面した相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)と駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)から、塩の販売や運搬を止められた。

この塩分補給ができない状態に困窮した甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の領民を見兼ねて、敵陣でありながら上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の領国の日本海に面した越後国(新潟県)の越中国(富山県)から、大量の塩を武田信玄(たけだしんげん/武田)の領国の甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)に運搬した。

この善行(ぜんこう)と仁愛(じんあい)な上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の行動に、武田信玄(たけだしんげん/武田)は感謝と敬仰(けいぎょう)を表した。

これを“敵に塩を送る”と言う。

この相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の動きに対抗する為に、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)は尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と提携した。

その証として1565年に、武田信玄(たけだしんげん/武田)の息子の武田勝頼(たけだかつより/武田)と、遠山直廉(とおやまなおかど/武田→織田)の娘で織田信長(おだのぶなが/織田)の姪の龍勝院(りゅうしょういん/織田→武田)を婚姻させた。

美濃国(岐阜県)の武将の遠山直廉(とおやまなおかど/武田→織田)とは、妻は織田信長(おだのぶなが/織田)の妹で遠山景任(とおやまかげとお/武田→織田)の弟に当たる。

遠山景任(とおやまかげとお/武田→織田)とは、遠山景前(とおやまかげさき/土岐→武田)の息子で、妻は織田信長(おだのぶなが/織田)の叔母のおつやの方(織田→武田)である。

更に1567年に、織田信長(おだのぶなが/織田)の嫡男(ちゃくなん)で長男の11歳だった織田信忠(おだのぶただ/織田)と、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘の7歳だった松姫(まつひめ)こと信松尼(しんしょうに/武田)が婚約した。

1568年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍が、駿河国(静岡県)の今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)に侵攻して制圧した。

これに呼応(こおう)して三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、遠江国(静岡県)に侵攻して制圧した。

こうして今川氏真(いまがわうじざね/今川→北条→徳川)は敗走して、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)が居城する相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)に身を寄せた。

Maunten/♪ SOLUTION

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Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:36:01

◆◇◆其の二十五:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

しかし1571年に、京都の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)が、日本各地の有力武将に織田信長(おだのぶなが/織田)の討伐を威令(いれい)する信書を送達した。

これを“第2次信長包囲網”と呼ぶ。

この時期の1571年に起こった「延暦寺焼討ち」(えんりゃくじやきうち)にて、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍は、天台宗(てんだいしゅう)の総本山で近江国(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)に建つ延暦寺(えんりゃくじ)に火を放ち炎上させた。

宗主(そうしゅ)や住職(じゅうしょく)、それに僧侶や寺の住人などが撫斬り(なでぎり/根切り)にされた。

中国大陸の唐(とう)から伝来した日本での仏教の祖と言われる宗祖の伝教大師(でんぎょうだいし)こと最澄(さいちょう/天台宗)の貴重な仁愛(じんあい)や教典も焼き尽くされた。

この時に延暦寺(えんりゃくじ)から逃亡してきた僧侶が、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)に居住する武田信玄(たけだしんげん/武田)の元に来て助けを求めた。

この室町幕府の信書は甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)にも届き、征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)の嘆願(たんがん)に呼応(こおう)して、連携を反故(ほご)にして織田信長(おだのぶなが/織田)の討伐を決定する。

武田信玄(たけだしんげん/武田)は織田信長(おだのぶなが/織田)に対して連携を破談する信書を送達した。

⦅その名を誇示(こじ)せしめんと慢心より、その書状の上に次ぎの如く認めたり、天台座主、沙門信玄。⦆〔武田信玄(たけだしんげん/武田)は天台宗(てんだいしゅう)に加担して、織田信長(おだのぶなが/織田)の討伐を実行する。〕

この武田信玄(たけだしんげん/武田)の信書に対して、織田信長(おだのぶなが/織田)は信書を返信した。

⦅第六天魔王(だいろくてんまおう)信長。⦆〔比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)に神も仏も無い、第六天魔王(だいろくてんまおう)の化身の織田信長(おだのぶなが/織田)は天罰を恐れない。〕

この武田信玄(たけだしんげん/武田)の裏切りに織田信長(おだのぶなが/織田)は激昂(げきこう)して、当然だが織田信忠(おだのぶただ/織田)と松姫(まつひめ)こと信松尼(しんしょうに/武田)の婚約は破談した。

CREED /♪ MY SACRIFICE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:36:57

◆◇◆其の二十六:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

1572年に甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる3万人余りの武田軍は、先ずは織田信長(おだのぶなが/織田)と同盟を締結する三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の領国の遠江国(静岡県)に侵攻した。

この合戦に武田勝頼(たけだかつより/武田)も参戦している。

これに対して遠江国(静岡県)の浜松城(はままつじょう)から徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる2万人余りの徳川軍が出陣した。

この時に徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は織田信長(おだのぶなが/織田)に援軍の要請を渇望(かつぼう)した。

しかし、当の織田信長(おだのぶなが/織田)も“第2次信長包囲網”により、越前国(福井県)の一乗谷館(いちじょうだにやかた/福井)を拠点にする朝倉義景(あさくらよしかげ/朝倉)と、近江国(滋賀県)の小谷城(おだにじょう/長浜)を拠点にする父親の浅井久政(あざいひさまさ/浅井)と息子の浅井長政(あざいながまさ/浅井)との合戦で手が離せなかった。

そして浜松城(はままつじょう)の北部に位置する三方ヶ原(みかたがはら)にて、3万人余りの武田軍と2万人余りの徳川軍は合戦を繰り広げた。

ここで武田信玄(たけだしんげん/武田)の得意な戦略や陣形で、徳川軍を翻弄させて圧勝した。

三方ヶ原(みかたがはら)には孫子(そんし/軍事家)の兵法の“風林火山”が記載された武田信玄(たけだしんげん/武田)の旗印がなびいていた。

『其の疾(はや)きこと風の如(ごと)く。』

『其の徐(しず)かなること林の如(ごと)く。』

『侵掠(しんりゃく)すること火の如(ごと)。』

『動かざること山の如(ごと)し。』

惨敗した徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、命からがら浜松城(はままつじょう)に逃げ帰った。

これを1572年に起こった「三方ヶ原の戦」(みかたがはらのたたかい)と呼ぶ。

戦勝で勢いづく武田信玄(たけだしんげん/武田)が率いる武田軍は、三河国(愛知県)に入り徳川軍のお城を次々に落城させていた。

ところが1573年に、武田信玄(たけだしんげん/武田)の病気が悪化して、甲斐国(山梨県)へ帰路に着いている三河街道の道中で急死した。

この武田信玄(たけだしんげん/武田)の死去は、重鎮家臣だけに知らされて、武田信玄(たけだしんげん/武田)の遺言により3年間は他言厳禁にされた。

しかし、その武田信玄(たけだしんげん/武田)が亡くなった情報は、武田軍に入り込んだ間諜(かんちょう)により、直ぐに織田信長(おだのぶなが/織田)や徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)など日本各地の知れる事になる。

本当に知らなかったのは、京都の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)だけだった。

Army of Anyone/♪ FATHER FIGURE

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:37:59

◆◇◆其の二十七:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

1573年に武田信玄(たけだしんげん/武田)が死去した事により、家督継承者の武田勝頼(たけだかつより/武田)が武田氏の17代目当主に就任した。

しかし、武田勝頼(たけだかつより/武田)の母親で敵陣の総大将の娘だった諏訪御料人(すわごりょうにん/諏訪→武田)の出自(しゅつじ)に対して、この頃も偏見と不遜(ふそん)が残っており多くの武田軍の家臣団は反対した。

ただ、武田勝頼(たけだかつより/武田)は周囲の予想に反して、想定外の大活躍を魅せる。

父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)の意思と政策を引き継ぎ、“第2次信長包囲網”を継承して侵攻を実行した。

1572年〜1575年に起こった「岩村城の戦」(いわむらじょうのたたかい)が下地となり、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍は美濃国(岐阜県)の恵那(えな)に侵攻した。

1572年に美濃国(岐阜県)の恵那の岩村城(いわむらじょう/恵那)の城主だった遠山景前(とおやまかげさき/土岐→武田)の息子の遠山景任(とおやまかげとお/武田→織田)が死去した事に始まる。

遠山景任(とおやまかげとお/武田→織田)の妻は織田信長(おだのぶなが/織田)の叔母のおつやの方(織田→武田)だった事もあり、これを機に遠山氏は武田信玄(たけだしんげん/武田)から織田信長(おだのぶなが/織田)に主君を変更していた。

同年の1572年に、武田信玄(たけだしんげん/武田)の伝令(でんれい)を受けた家臣の秋山虎繁(あきやまとらしげ/武田)は、亡き夫の代わりに城主に就いたおつやの方(織田→武田)が篭城する岩村城(いわむらじょう/恵那)を大軍勢の武田軍が包囲した。

此(こ)れにおつやの方(織田→武田)は観念して降伏し、岩村城(いわむらじょう/恵那)を開城して秋山虎繁(あきやまとらしげ/武田)が率いる武田軍を入城させた。

この時におつやの方(織田→武田)は、秋山虎繁(あきやまとらしげ/武田)と婚姻している。

ただ、この事が後々の凄惨(せいさん)な惨禍(さんか)になる布石となる。

1574年に美濃国(岐阜県)の恵那(えな)にて「明知城の戦」(あけちじょうのたたかい)では、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍が織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣の遠山氏の居城だった明知城(あけちじょう/恵那)を攻撃した。

こうして明知城(あけちじょう/恵那)は落城した。

同年の1574年に明知城(あけちじょう/恵那)の近隣で起こった「飯羽間城の戦」(いいばまじょうのたたかい)では、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍が織田信長(おだのぶなが/織田)の家臣の遠山氏の居城だった飯羽間城(いいばまじょう/恵那)を攻撃した。

こうして飯羽間城(いいばまじょう/恵那)は落城して、織田信長(おだのぶなが/織田)は美濃国(岐阜県)の恵那(えな)の領土を失う。

同年の1574年に遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川にて第1次の「高天神城の戦」(たかてんじんじょうのたたかい)では、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍が徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の家臣の小笠原氏(おがさわらうじ)の居城だった高天神城(たかてんじんじょう/掛川)を攻撃した。

こうして高天神城(たかてんじんじょう/掛川)は落城して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川の領土を失う。

この失態で侮(あなど)り油断(ゆだん)していた織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)譲りの想定外の強靭な武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍に、心入れ替えて気を引き締めて武田軍に対して対応する様になる。

LETTER BLACK /♪ PAIN KILLER

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:39:00

◆◇◆其の二十八:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

織田徳川軍に対して数々の戦勝に勢い付く武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる1万5千人の武田軍は、このまま西上作戦を継続させた。

そして徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の領国でもある三河国(愛知県)にまで進軍した。

三河国(愛知県)の設楽に建つ徳川氏の長篠城(ながしのじょう/新城)を、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍が包囲した。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は徳川軍に対して降伏と開城を求めたが、徳川軍は長篠城(ながしのじょう/新城)は篭城する構えを示した。

ただ、兵糧も少なくなり敗北は時間の問題だった。

そこで長篠城(ながしのじょう/新城)の足軽だった鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)がお城から脱出して、65km余り離れた西部の三河国(愛知県)の岡崎城(おかざきじょう)にまで疾走して援軍の要請を伝えに行った。

岡崎城(おかざきじょう)に居た徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と織田信長(おだのぶなが/織田)は、鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)の勇気ある行動に感銘し、直様(すぐさま)に出陣を決定した。

織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる3万8千人の織田徳川軍の進軍に先立ち、鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)は再び65km余り離れた東部の三河国(愛知県)の長篠城(ながしのじょう/新城)まで疾走して戻って行った。

ただ、長篠城(ながしのじょう/新城)の目前で武田軍に見つかり捕縛(ほばく)されて、武田勝頼(たけだかつより/武田)に糾問(きゅうもん)を受けた後に“離間の計”(りかんのけい)を強要した。

しかし、鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)は“偽降の計”(ぎこうのけい)を講じて長篠城(ながしのじょう/新城)の徳川軍に対して、織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる3万8千人の織田徳川軍が進軍している事を大声で叫んだ。

こうして鳥居強右衛門(とりいすねえもん/奥平→徳川)は磔(はりつけ)にされて槍(やり)で突かれ死去した。

暫くすると設楽原(したらがはら)に織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる3万8千人の織田徳川軍が、陣営を設けて布陣した。

其処(そこ)には武田軍の騎馬隊への対策としてに木柵を設置して、その後方に鉄砲隊を3段構えで配備した。

一方の武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる1万5千人の武田軍も、陣営を設けて布陣した。

しかし、武田勝頼(たけだかつより/武田)や有力武将は、想定外の大軍勢の織田徳川軍に驚愕した。

こうして合戦の合図の法螺貝(ほらがい)が設楽原(したらがはら)に響き渡り、両陣営が死闘を繰り広げた。

名門の武田軍の騎馬隊が突進すると、織田徳川軍の3段構えで配備した鉄砲隊が次々と撃ち倒していった。

更に“徳川四天王”の酒井忠次(さかいただつぐ/徳川)が率いる軍隊が、深夜に山間部を迂回しながら武田軍の陣営に奇襲を仕掛けて大混乱に陥らせた。

この合戦で武田軍の有力武将で“武田四天王”と呼ばれる“赤備え”(あかぞなえ)の山県昌景(やまがたまさかげ/武田)と馬場信春(ばばのぶはる/武田)と内藤昌豊(ないとうまさとよ/武田)では討死した。

総大将の武田勝頼(たけだかつより/武田)は命かながら戦地から敗走し、甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)まで逃亡した。

こうして織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍が勝利した。

これを1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)と呼ぶ。

THE SMASHING PUMPKINS /♪ CHERUB ROCK

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:39:56

◆◇◆其の二十九:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて大敗した武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して、勝利の美酒に酔う事なく織田信長(おだのぶなが/織田)と徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる織田徳川軍は、執拗(しつよう)に攻撃の手を緩めなかった。

窮地に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより/武田)は、父親の武田信玄(たけだしんげん/武田)の遺言に⦅困った事があれば、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に頼るとよい。⦆と書かれていた事を思い出した。

早速に越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)に、信書を送達して講和交渉を進めた。

その頃の織田信長(おだのぶなが/織田)は、室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)と敵対して、1573年に京都から追放していた。

征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)は、安芸国(あき/広島県)の毛利輝元(もうりてるもと/毛利→豊臣)を頼り備後国(広島県)の鞆の浦(とものうら)に移住して、1576年に鞆幕府(ともばくふ)を1人だけで開設した。

この時は“第2次信長包囲網”が継続しており、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)は織田信長(おだのぶなが/織田)と提携していたものの、室町幕府の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)による要請とあれば、甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)と講和する事を決定せざるを得なかった。

更に相模国(神奈川県)の伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)も1571年に死去しており、世代交代により伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が家督継承しており、講和交渉がし易い環境が整っていた。

ところが1578年に、一番に頼りにしていた越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)が死去した。

これにより越後国(新潟県)の春日山城(かすがやまじょう/上越)の一帯では、家督継承者候補の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)の養子に入っていた上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と、北条氏康(ほうじょううじやす/北条)の息子の伊勢北条氏3代目の上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)が対立した。

こうして1578年に「御館の乱」(おたてのらん)が起り、相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は講和成立を条件に、甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)に侵攻する様に示唆(しさ)した。

ところが武田勝頼(たけだかつより/武田)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)から講和を持ち掛けられ承諾してしまう。

此(こ)れに激怒した伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)から伊勢北条軍を出陣させたが、その前に上杉景勝(うえすぎかげかつ/上杉→豊臣→徳川)と直江兼続(なおえかねつぐ/長尾→上杉)の軍隊による総攻撃で、上杉景虎(うえすぎかげとら/北条→上杉)は越後国(新潟県)から敗走して自決した。

この時の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)の遺恨(いこん)が、武田勝頼(たけだかつより/武田)の人生の結末まで後を引いた。

Sugartooth/♪ BOOTY STREET

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:41:00

◆◇◆其の三十:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

相模国(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)を拠点とする伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)は、尾張国(愛知県)と美濃国(岐阜県)の織田信長(おだのぶなが/織田)と遠江国(とおとうみ/静岡県)と三河国(愛知県)の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)と提携する事を決定した。

此(こ)れにより甲斐国(山梨県)の武田勝頼(たけだかつより/武田)は絶体絶命に陥る。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に講和交渉を持ち掛けるも完全に拒否された。

心機一転する為に武田勝頼(たけだかつより/武田)は、1575年に甲斐国(山梨県)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/甲府)から、山奥深い新府城(しんぷじょう/韮崎)に移転した。

一方で、1572年に美濃国(岐阜県)の恵那の岩村城(いわむらじょう/恵那)を、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍に奪取(だっしゅ)された織田信長(おだのぶなが/織田)は奪還(だっかん)を目指して織田軍を出陣させた。

1575年に美濃国(岐阜県)の恵那にて「岩村城の戦」(いわむらじょうのたたかい)の最終戦では、織田信長(おだのぶなが/織田)が率いる織田軍が、秋山虎繁(あきやまとらしげ/武田)と妻のおつやの方(織田→武田)が居城する岩村城(いわむらじょう/恵那)を攻撃した。

こうして岩村城(いわむらじょう/恵那)は落城して、織田信長(おだのぶなが/織田)は美濃国(岐阜県)の恵那の領土を失地奪還(しっちだっかん)した。

そして、秋山虎繁(あきやまとらしげ/武田)と妻のおつやの方(織田→武田)を捕縛(ほばく)して、美濃国(岐阜県)の岐阜城(ぎふじょう)の麓を流れる長良川(ながらがわ)に拘引(こういん)し、河川敷で秋山虎繁(あきやまとらしげ/武田)と妻のおつやの方(織田→武田)を酷刑(こっけい)にて逆さ磔(はりつけ)にして誅殺(ちゅうさつ)した。

そして1574年に遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川に建つ高天神城(たかてんじんじょう/掛川)を、武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍に奪取(だっしゅ)された徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は奪還(だっかん)を目指して徳川軍を出陣させた。

1581年に遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川にて第2次の「高天神城の戦」(たかてんじんじょうのたたかい)では、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が率いる徳川軍が、駿河国(静岡県)の今川義元(いまがわよしもと/今川)の家臣でその後に武田軍に属していた岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)が居城する高天神城(たかてんじんじょう/掛川)を攻撃した。

岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)は武田勝頼(たけだかつより/武田)に援軍の要請をしていたが、当の武田勝頼(たけだかつより/武田)は相模国(神奈川県)の伊勢北条氏4代目の北条氏政(ほうじょううじまさ/伊勢北条)が甲斐国(山梨県)に侵攻してくる抑えで、援軍を出す余裕はなかった。

此(こ)の家臣を見捨てた対応が、武田勝頼(たけだかつより/武田)の評価を一段と下げる要因となる。

いつまで待っても援軍が来ない岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)は高天神城(たかてんじんじょう/掛川)で篭城しつつも、駿河国(静岡県)の今川時代に旧知の間柄の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)に和睦の交渉を持ち掛けた。

しかし、総大将の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は、第2次の「高天神城の戦」(たかてんじんじょうのたたかい)を実行する際に、織田信長(おだのぶなが/織田)から2項目を理由に武田勝頼(たけだかつより/武田)の武田軍と和睦を禁止して、高天神城(たかてんじんじょう/掛川)の武田軍を殲滅(せんめつ)させる様に指示が出ていた。

①:武田勝頼(たけだかつより/武田)が率いる武田軍が、高天神城(たかてんじんじょう/掛川)に援軍を出しても、既に軍隊は弱体化しており総攻撃を仕掛ければ壊滅させる事ができる。

②:武田勝頼(たけだかつより/武田)が、高天神城(たかてんじんじょう/掛川)に援軍を出さなければ、武田軍の内部に同様が走り、多くの武将や兵士の離反や出奔(しゅっぽん)が必ず出る。

この2項目の理由から和睦は禁止されていた。

こうして絶望した岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)が率いる武田軍は、高天神城(たかてんじんじょう/掛川)から飛び出して徳川軍に最後の突撃を開始した。

これに抗戦した大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)が率いる徳川軍は、武田軍を撫斬り(なでぎり/根切り)にして、大久保忠教(おおくぼただたか/徳川)は岡部元信(おかべもとのぶ/今川→武田)を斬首した。

こうして高天神城(たかてんじんじょう/掛川)は落城して、徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)は遠江国(とおとうみ/静岡県)の掛川の領土を失地奪還(しっちだっかん)した。

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◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:41:59

◆◇◆其の三十一:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏◆◇◆

●武田勝頼(たけだかつより/武田)

織田信長(おだのぶなが/織田)の想定通りに、武田勝頼(たけだかつより/武田)が高天神城(たかてんじんじょう/掛川)を援軍を出さなかった事で、求心力が下がった武田軍の多くの武将や兵士の離反や出奔(しゅっぽん)が続出した。

“武田二十四将”に指名された武田信君(たけだのぶただ)こと穴山信君(あなやまのぶただ/武田→織田)や、信濃国(長野県)の木曽谷(にそだに)の武将の木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)は、早速に織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返った。

因みに木曾義昌(きそよしまさ/武田→織田→徳川)の妻の眞龍院(しんりゅういん/武田)は、武田信玄(たけだしんげん/武田)の娘である。

そして1582年に、織田信長(おだのぶなが/織田)の伝令(でんれい)により、武田勝頼(たけだかつより/武田)の武田軍を殲滅(せんめつ)させる甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始された。

此(こ)れにより織田信長(おだのぶなが/織田)の長男の織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍が、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)に向けて出陣した。

怒涛の勢いで次々に武田軍の領地を攻略する織田信忠(おだのぶただ/織田)が率いる織田軍に対して、なす術(すべ)の無い弱体化した武田軍だった。

そんな時期に上野国(こうずけ/群馬県)と信濃国(長野県)に跨(またが)る浅間山(あさまやま)が大噴火を起こした。

この頃の火山の噴火は吉凶(きっきょう)とされておりにて心身衰弱した武田軍の兵士は、更に士気が低下した。

一層の窮地に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより/武田)だった。

そこで手を差し伸べたのが、“武田二十四将”に指名された真田幸綱(さなだゆきつな/武田)を父親に持つ、信濃国(長野県)の上田城(うえだじょう)と上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)の城主だった真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)である。

真田昌幸(さなだまさゆき/武田→上杉→豊臣)は武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して、一先ず上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)に身を隠す様に提案した。

ただ此処(ここ)で武田勝頼(たけだかつより/武田)の家臣が、上野国(こうずけ/群馬県)の岩櫃城(いわびつじょう/吾妻)は大噴火を起こした浅間山(あさまやま)から近い事から、“武田二十四将”に指名された小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)が城主を務める甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に避難する様に提案した。

武田勝頼(たけだかつより/武田)は迷った挙句(あげく)に、甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に避難する事を決定する。

この決断が武田勝頼(たけだかつより/武田)と武田氏の運命を決定付けた。

遥々(はるばる)に武田勝頼(たけだかつより/武田)が甲斐国(山梨県)の岩殿山城(いわどのやまじょう/大月)に到着して、城主の小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)に開門を求めたところ拒否された。

既に小山田信茂(おやまだのぶしげ/武田→織田)は、織田信長(おだのぶなが/織田)に寝返った。

こうして八方塞(はっぽうふさ)がりとなった武田勝頼(たけだかつより/武田)は、甲斐国(山梨県)の甲州にそびえる天目山(てんもくざん)にて、伊勢北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす/伊勢北条)の娘で武田勝頼(たけだかつより/武田)の妻の北条夫人(ほうじょうふじん)こと桂林院(けいりんいん/伊勢北条→武田)と、息子の武田信勝(たけだのぶかつ/武田)らと共に自決した。

甲斐国(山梨県)の天目山(てんもくざん)にて武田勝頼(たけだかつより/武田)が死去して、武田氏が滅亡した報告を受けた織田信長(おだのぶなが/織田)は、『英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な才能を持つ武田勝頼(たけだかつより/武田)は、実力に伴わない運命に晒され、運が無かっただけだ。』と評価した。

そして同年の1582年に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)にて、尾張国(愛知県)の織田信長(おだのぶなが/織田)が、家臣の明智光秀(あけちみつひで/斎藤→織田→明智)の謀反(むほん)により横難横死(おうなんおうし)する。

また、生前の越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)も、『天賦(てんぶ)の武田勝頼(たけだかつより/武田)に対して、不遜(ふそん)な対応をすれば必ず痛い目に遭う。』と論じていた。

17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)は、1575年に起こった「長篠設楽原の戦」(ながしのしたらがはらのたたかい)にて織田徳川軍に惨敗し、1582年に甲斐国(山梨県)の武田氏を滅亡させた暗愚魯鈍(あんぐろどん)な愚将(ぐしょう)として取り扱われている。

しかし、本来の武田勝頼(たけだかつより/武田)の智勇(ちゆう)は、1575年〜1582年の8年間に隠されている。

NORTH MISSISSIPPI ALLSTARS /♪ SNAKES IN MY BUSHES

◆ラジオの友◆

Re: 今日の1枚、お薦めレコード/20260518 - ラジオの友 URL

2026/05/18 (Mon) 06:43:01

◆◇◆まるでその場に居たような言い方のインターネットのコメント歴史家◆◇◆

●お題:清和源氏の甲斐源氏の名門家、権門勢家(けんもんせいか)の武田氏

清和源氏の甲斐源氏の名門家の武田氏。

甲斐国(山梨県)の守護大名である武田氏の14代目当主の武田信縄(たけだのぶつな/武田)、武田氏の15代目当主の武田信虎(たけだのぶとら/武田)、“甲斐の虎”と呼ばれた武田氏の16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)、最後の武田氏の17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)。

この武田氏の前に付く清和源氏の甲斐源氏とは一体何なのか?

清和源氏の清和とは、平安時代の858年〜876年に天皇に就任していた第56代天皇の清和天皇(せいわてんのう/朝廷)の事です。

その第56代天皇の清和天皇(せいわてんのう/朝廷)の嫡男(ちゃくなん)以外の、天皇に就任できない他の息子が、臣籍降下(しんせきこうか)して清和源氏の氏姓(しせい)を与えられ一般人として暮らしていた。

要は、皇族に生まれながら天皇に就任できなかった次男や三男などが、皇族から一般人になり氏姓(しせい)が与えられる臣籍降下(しんせきこうか)した時の、その氏姓(しせい)が源氏などである。

名門家と呼ばれる源氏と平氏と藤原氏と橘氏(たちばなうじ)の“源平藤橘”(げんぺいとうきつ)。

源氏とは“平安京の源”として名付けられ、主に朝廷の軍隊を担った。

平氏とは“平安京の皇族”として名付けられ、主に御所や朝廷の護衛を担った。

因みに平氏は氏姓(しせい)が付けられた全般を指して、その中でも平家は平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)の一門を指す。

平安時代の900年前後に氏(うじ)や姓(かばね)の勅与(ちょくよ)は活発化する。

清和源氏以外にも、他の源氏も存在していた。

第52代天皇の嵯峨天皇(さがてんのう/朝廷)の系統の嵯峨源氏。

宮中撲殺事件を引き起こした第57代天皇の陽成天皇(ようぜいてんのう/朝廷)の系統の陽成源氏。

第59代天皇の宇多天皇(うだてんのう/朝廷)の系統の宇多源氏。

第62代天皇の村上天皇(むらかみてんのう/朝廷)の系統の村上源氏などである。

また、784年の長岡京(ながおかきょう)と794年の平安京(へいあんきょう)に遷都(せんと)した第50代天皇の桓武天皇(かんむてんのう/朝廷)の系統は桓武平氏である。

著名人としては伊勢平氏の平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)や鎌倉幕府の執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)に、北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい/室町→伊勢北条)や上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾→上杉)や織田信長(おだのぶなが/織田)が居る。

清和源氏をもう少し分解すると、摂津源氏と多田源氏と大和源氏と河内源氏に別れ、基本的にその源氏が拠点とした地名が付帯されている。

清和源氏の嫡流(ちゃくりゅう)は摂津源氏だが、庶流(しょりゅう)の河内源氏の方に著名人が多い。

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に就任して東北地方の蝦夷(えみし)討伐を実施した源頼義(みなもとよりよし/朝廷)や、息子で足利氏と新田氏の先祖の八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)が居る。

そして鎌倉幕府を開設した征夷大将軍1代目の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)や、室町幕府を開設した征夷大将軍1代目の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)も河内源氏である。

鎌倉幕府を崩壊させた新田義貞(にったよしさだ/鎌倉)や、その子孫で江戸幕府を開設した征夷大将軍1代目の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)も河内源氏と言われる。

こうして観ると、清和源氏の河内源氏の系統は、皇族や朝廷と敵対した幕府軍が多いのも特徴である事が判る。

その清和源氏の河内源氏の甲斐源氏の宗家が源義光(みなもとよしみつ/朝廷)、父親が源頼義(みなもとよりよし/朝廷)、兄が八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)である。

この源義光(みなもとよしみつ/朝廷)の子孫が武田氏の16代目当主の武田信玄(たけだしんげん/武田)や最後の武田氏の17代目当主の武田勝頼(たけだかつより/武田)に繋がっている。

●コメント歴史家

①:平安時代末期の1180年〜1185年に起こった「源平合戦」(げんぺいがっせん)の根底ですね。 此処(ここ)から朝廷の公家から武家の政権に移っていきました。

②:足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)の息子で征夷大将軍2代目の足利義詮(あしかがよしあきら/鎌倉→室町)は、母親が平氏の赤橋登子(あかはしとうし/鎌倉→室町)で、祖母が藤原氏の上杉清子(うえすぎきよこ/藤原→上杉→足利)なので、“源平藤橘”(げんぺいとうきつ)の内の源氏と平氏と藤原氏を制覇している。

③:徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)の先代が、上野国(こうずけ/群馬県)の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉)と言うのは三河国(愛知県)の松平氏が都合よく“盛って”いる話である。

④:平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)が政権掌握して以降は、鎌倉幕府の源頼朝(みなもとよりとも/鎌倉)に移った。

鎌倉源氏が消滅して平氏の執権1代目の北条時政(ほうじょうときまさ/平氏→鎌倉)が政権掌握し、源氏の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉)が平氏の得宗家9代目で執権14代目の北条高時(ほうじょうたかとき/鎌倉)と鎌倉幕府を滅亡させ、源氏の足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が室町幕府を開設した。

平氏の織田信長(おだのぶなが/織田)が源氏の征夷大将軍15代目の足利義昭(あしかがよしあき/室町)を追放して室町幕府が滅亡し、平氏の淀君(よどぎみ/浅井→豊臣)と息子の豊臣秀頼(とよとみひでより/豊臣)を自決させて豊臣政権を崩壊させた源氏の徳川家康(とくがわいえやす/松平→豊臣→徳川)が江戸幕府を開設した。

平氏が拠点とした西国の長門国(山口県)の長州藩の13代目藩主の毛利敬親(もうりたかちか/江戸→維新)と14代目藩主の毛利元徳(もうりもとのり/江戸→維新)により源氏の征夷大将軍15代目の徳川慶喜(とくがわよしのぶ/徳川)を追放して江戸幕府を滅亡させた。

こうして観ると「源平合戦」(げんぺいがっせん)以降の日本の政権は、源氏と平氏が交互に掌握している事が判る。

「源平合戦」(げんぺいがっせん)は、840年ほど経った令和期の今でも終わっていません。

⑤:源氏と平氏を知れば知るほど“沼にはまる”で!

⑥:平安時代から鎌倉時代、そして室町時代から戦国時代と江戸時代、そこから明治期に入るまで、常に時代の終焉は時の権力者の“詰んだ”感がある。 その中でも明治期が一番に凄惨(せいさん)だった気がする。

⑦:平安時代末期の平清盛(たいらきよもり/朝廷→天皇→平氏)は、奈良の大仏に放火させて熱病で亡くなりました。 戦国時代の松永久秀(まつながひさひで/三好→織田)は、奈良の大仏に放火して生駒山の信貴山城(しぎさんじょう/平群)で爆死しました。 奈良時代に第45代天皇の聖武天皇(しょうむてんのう/朝廷)が建立した大仏様の怨念の恐ろしい事。

⑧:平安時代に朝廷から冷遇を受けた八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとよしいえ/朝廷)の“キャラ立ち”が凄い。 その子孫の新田義貞(にったよしさだ/鎌倉)と足利尊氏(あしかがたかうじ/鎌倉→室町)が活躍した源氏東国武士の執念を感じる。

⑨:平安時代の源経基(みなもとつねもと/朝廷)の息子で、清和源氏の摂津源氏の多田源氏の祖で鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に就任した多田満仲(ただみつなか/源氏)こと源満仲(みなもとみつなか/朝廷)も忘れないで!

⑩:武田信玄(たけだしんげん/武田)の先祖で、鎌倉時代の武田信義(たけだのぶよし/源氏)の息子で、清和源氏の甲斐源氏で武田氏の2代目当主の武田信光(たけだのぶみつ/源氏→鎌倉)も忘れないで!

この教養の無い無責任な言葉使いが、歴史を創ってきたかと思うと考え深い。

THE WHITE STRIPES /♪ FELL IN LOVE WITH A GIRL

◆ラジオの友◆


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